マッチ売りとメランコリック
「マッチを」
北欧の夜は、格別に冷える。
時折横を通るフォードのヘッドライトと傍らにある風に撓んだ街灯のみが彼女を照らす僅かな光であった。吹雪いてホワイトアウトした視界の中をわざわざ歩いていこうという無謀な者も居ない。彼女は孤独だった。
「マッチ、を、マッチを買ってくれませんか……」
どこに居るともわからない道行き人に、必死に呼び掛ける。その睫には霜が降り足にもはや感覚は無かったが、それでも彼女はそう言わずには居られない。視界に映る白銀の刃から目を背けるように、外套の第二ボタンをしっかりと握りしめる。
暫くして、カラカラ、カラカラと微かに台車を引く音が彼女の耳に届いた。雲耀の如く顔を跳ね上げた彼女はしかし、すぐに表情を暗転させた。
「なんじゃガキ、そこを退かんか」
熊のように大きな外套の中から、不機嫌さを滲ませた男のしわがれ声がした。
少女は何となく気を腐らせられたような気分になって、言い返した。
「私はマッチを売っているだけよ。ここに居たって悪いこと無いわ」
痩せぎすの薪が数本残った台車は素人目に見てもお世辞にも大きいとは言えないものであり、少女は反感も相まって道を頑として譲らなかった。頬は相変わらず紅潮していたが、心に微かな火種が燻るのを感じて食って掛かる。
年増男はというと、躊躇いもなく振りかぶり唸りをつけて少女を殴り付けた。
目の辺りに激しい痛みを感じて、彼女は呻く。相変わらず伸ばした手のひらすら見えないような真っ白な視界の中。彼女が自分が白い雪の世界に埋もれ始めていると気づいた頃には、既にあの耳障りなカラカラという音は殆どしなくなっていた。いや、していないのだろうか。その判断ももう、彼女には下せなかった。
殴られた方の目を開こうとするが、針で貫かれたような痛みが走る。
彼女は諦めて、ひとまず背にのし掛かる雪を押し退ける事を優先した。袖口から入り込んだみぞれ雪を滴らせながら雪を払う。
「そうだ、マッチが!」
売り物を濡らしてしまっては帰りようもない。彼女はさっと顔を青くして、雪どけで凍むのも構わず手探りで籠を捜した。
籠はすぐに手に触れたが、生憎もう手にも感覚は殆ど無い。濡れているのか否か、それすら検討もできない。
「……さむい」
彼女が籠をズズと引き寄せようとすると、何かに引っ掛かって籠の持ち手が張られた。
這いずるように近寄ると、そこには火の消えた炭暖炉が現れていた。
「暖炉、暖炉があるのね」
ともかく、芯まで冷えきって視界に幕を下ろしかけた少女にとってそれは晴天の霹靂だった。急いで、マッチに灯をともす。
ボウッと明るむそれは、朝日のように眩しい。
……いや、実際にそれは世界の朝日だったのかもしれない。少女がマッチの灯火から顔を上げると、もうそこに白銀の通りは存在していなかった。
暖かな風が吹き、青々と草原は波打つ。所々に咲く小さな名も無き花が、優しく少女に手を振った。その光景は彼女を包み込み、また涙を流させた。
「きれい……」
しかしそれもつかの間、空の端にインクを垂らしたように黒が混じった。
慌てて少女がマッチを見ると、いつの間にか半身ばかりになったマッチの日は今にも消えんばかりに丸く縮こまっている。
少女は後ずさろうとして、靴にぶつかったその存在を思い出した。
「そうよ、暖炉があるじゃない」
少女はしゃがみこむと、暖炉に積もった灰を手で払った。それでも灰ばかりなので、彼女は灰に手を差し入れて炭を掘り出さなくてはならなかった。
その炭はささくれていたしポロポロ剥がれて彼女の手を煤けさせたけれど、彼女自身は全く気にしなかった。
そしてようやく、マッチを炭に近づける。だが、火は一向に炭に移る気配がない。
「ッ!?」
じわり、とまた視界の端っこが滲む。咄嗟に振り向いた彼女の目に写るのは、もう殆ど黒く染まった空と津波のように消え行く草花だった。
胸が警鐘を打ち、心音までもが彼女を飲み込まんと大口を開けている。
しかし、またもや彼女に幸運が降り注いだ。降る、という表現は正しくないかもしれないが、今の彼女にとってそれは一番必要な物に違いなかった。
「……まだ燃せるもの、あるじゃない」
彼女は躊躇うことなく、その籠を暖炉に放り込んだ。籠は悲鳴を上げたが、彼女はさらにそれを火に押し付けた。薄い木で編まれた籠は手の中でよく燃え、それは彼女を笑顔にした。
「少し可哀想じゃないかい、お嬢さん」
暖炉が言う。
「そうかしら?」
籠が飲み込んでいたマッチの箱に火がつくと、火は一際大きくなった。
「そうとも、あんなに苦しんでいたじゃないか」
暖炉は少し咳き込んだ。
その咳が少し嗄れていたので、彼女はなぜだか途端に腹が立ってきた。よくよく考えれば、炭が燃えてくれているだけで彼は何もしていないじゃないか。
「随分と冷たいのね」
彼女がそう言うと、暖炉そのものに火がついた。石積の囲いを舐めるように火が回っていく。
「助けてくれ、助けてくれ!」
そんなおかしな姿に、彼女はクスクスと笑っていた。ほら、結局暖炉だって私に優しくしてくれた。人の役に立つことは、決して可哀想な事なんかじゃないわ。
何も聞こえなくなっても、彼女は笑い続けていた。それはそれは、幸せそうな笑顔──
「……これは、酷いな」
僕は思わず、一度目を背けた。それほどに凄惨な光景がそこには広がっていた。
朝の町、一面雪化粧をしたこの風景画の一部分には家だったらしき残骸が遺されていた。
燃え尽きたその家の壁は崩れ、木組みの太い柱は無惨に黒焦げて地面に横たわっていた。もうそこに、人の痕跡を見てとることさえできない。
カメラのシャッターを切る。なんとしても今日の夕刊には間に合わせなければ。
家の外周をぐるりとしている最中、一際大きな人の塊を見つけた。そこでは人々が泣き崩れたり、顔を引きつらせたり、様々な反応をしていた。
何かあるのかとその野次馬に飛び込んだのだが、次の瞬間にはそれを後悔した。
「い……ぁ……」
黒焦げた中に、少しだけ蛆が蠢くのが見えた。これは、人だ。人だったものだ。
腕や脚を丸めたような体制で横たわるそれは、二人。片方は小さくて、片方は大きい。もはや男だったのか女だったのかも分からないほどに黒焦げていた。
震える手でひとまずシャッターを切るが、本当に撮れているのかは分からない。今まで見たどんな光景よりも、乾いたヤニのように脳裏にこびりついて離れない。それほどの惨たらしさがこの死体にはあった。
「あなた、記者の人かしら?」
「ええ、まぁ……」
話しかけてきたのは、老齢のお婆さんだった。泣き腫らしたのか、その目は赤い。
「私の爺さんがね、薪売りの帰りにこの子を見たらしいんだ」
「夜に、子供を?」
お婆さんは腫れた目を子供の方の焦げた体に向けた。
「父親が酷い父親でねぇ。子供に働かせて、自分だけに暖かな外套を持っていた。よく子供に暴力を振るうし、いつもかんしゃくを起こして怒鳴り散らすから声は常に嗄れていたよ」
「……と、言いますと」
「この子はあの吹雪の中、マッチを売っていたんだよ。この籠の中のマッチが無くなるまで帰ってきてはいけないよ、と言われてねぇ」
お婆さんは悲しげだったし、実際に悲しんでいた。だが、どこかで他人行儀だった。
僕はそれ以上何も言えなくなって、他の人がしているように十字を切った。それから、他の人がしているように涙を流した。それは自然に溢れてきて、止まりを知らなかった。
一瞬だけ、子供の亡骸が嗤っているように見えた。
マッチ売りとメランコリック