彼女は今日、心を弾く。
昔々ノ君ノコト。
昔、名前も知らない同い年くらいの男の子に絵本を読んでもらったことがある。とあるロボットと旅をする絵描きの話だ。
あるところにロボットがいた。そのロボットはこころを持っていたので、『うれしい』や『かなしい』といった感情があった。しかし、表情を作ることはできず、声を出すこともできなかったために、その感情を上手に伝えることはできなかった。
そんなある日、旅をする絵描きと出会う。彼がベンチに座って絵を描くと、ロボットは黙って隣に座った。晴れの日も、雨の日も。絵描きにうれしいことがあった日も、悲しいことがあった日もそばにいた。そのうち二人は友達になる。友達の証に絵描きは絵の具と筆とスケッチブックをプレゼントした。ロボットは自分の感情を絵にして伝えることができるようになった。
しばらくして、絵描きがロボットと出会った町を旅立つことになった。絵描きは新たな街へ行き、ロボットはこの町に残ることにした。ロボットは絵描きからもらったものを大事に使っていたが、やがて絵具がなくなってしまった。
――そのあと、ロボットがどうやって感情を表現したのかは覚えていない。
4月9日 春の始まりと共に
四月九日
「え?元・何組?そっかぁ、私二組だったんだよね。よろしく。」
「あぁ、高木先生のクラスかー。いいなぁ。今年、担任誰だと思う?」
名残惜しくも春休みは終わり、賀北高校でも新しい一年が始まる。新しい教室に移動し終えた生徒たちは、新たな顔ぶれに少し興奮しつつ、盛んに交流する。いつもは遅刻してくる生徒も、今日は遅刻しない。毎年、そのクラスを担当する先生が、始業式の日のショートホームルーム開始のベルで教室に入ってくる。誰だ誰だと先生当てで盛り上がっていた生徒たちもベルの合図で、次第に着席し始めた。廊下にロッカーを置いているために、教室には廊下側の窓がない。だから、廊下の様子を見るにはドアに取り付けられた小さな小窓から見るしかないのだが、それができるのはドア付近の数名の特権である。
「お?松伊先生か?おぉ…っと、通り過ぎたってことは、一組か二組の担任かぁ。」
「めっちゃ美人の先生歩いてくるぞ!誰?新任?」
廊下の様子を見ている生徒からの実況中継に、皆が耳を傾ける。勢いよく前のドアが開かれると全員が教室前方に釘づけになった。入ってきたのは小柄な女性だ。見たところ、大学を卒業したてといった感じだろうか。
「起立、気をつけ、礼。」
「おねがいしまーす。」
委員長の号令が終わると、女性教師はきれい黒板に「武里 敬子」と大きく書いた。
「はじめまして。今年一年、このクラスを担当する、武里敬子です。今年の春、教育大を卒業してこちらの学校に赴任しました。教科は国語です。どうぞ、よろしく。」
武里先生は一礼すると、教室の中盤に不自然に空いた席のほうへ視線を向けた。
「この春から、私と同じくこの学校に編入した新しい生徒がいます。」
そういいながら、ドアを開けると、先生より少し背の高い少女が入ってきた。端正な顔立ちだが不愛想だ。不機嫌なのだろうか。
「自己紹介しようか、福原さん。」
黙ってうなずくと、先生の名前の隣に自分の名前を書いた。緊張しているのか、一筆目を間違え、すぐに書き直した。
「福原真希です。この春にこの市へ引っ越してきました。どうぞよろしくお願いします。」
転校生のテンプレートのようなあいさつの後、一言付け加える。
「それと、先にお伝えしておきます。私は、感情を表に出すことが苦手です。」
3月9日 過ぎた三年間
三月九日
「十一時二十八分発、名古屋空港行飛行機に搭乗予定の皆様にご連絡申し上げます。」
春休みということもあって、空港は人でごった返していた。人の波をかき分けて、タクシーのロータリーへと向かう。当たり前のことではあるが、看板が日本語表記であるのを見ると、日本に帰ってきたのだと実感する。大体三年ぶりだろうか。タクシーの待ち時間の間に、スマホの電話帳から『自宅』を選択する。
「はい、春川です。」
日本を離れてからメールで数回ほど家族とやりとりしたことはあったが、電話をするのは一度もなかった。電話越しの母に、なぜか少し緊張した。
「母さん?俺、亮介です。空港ついたから、今からそっち向かう。」
「そう、わかった。気を付けてね。今日、何食べたい?」
「んー、味噌煮込みハンバーグ。」
「わかった。じゃあ、またあとでね。」
日本を発つ前の母さんとなんら変わりないことに、少しほっとする。
大型のキャリーバッグ二つをタクシーのトランクに詰め込む。リュックサックはどうしても壊したくないものを入れているから、膝の上で抱えることにした。
「君川町二丁目までお願いします。」
「わかりました。それにしても、お兄さん、すごい荷物だね。」
タクシーはゆっくりと発進する。
「あぁ、留学先の荷物全部引き払ってきたので。」
「そうか!留学してたのか。何年くらいしてたんだい?」
「中学二年生からなので、三年になります。」
窓の外に広がる地元の景色は変わっていない。まぁ、少しは変わっているけれど。中学生のころ仲間とよく集まってたカフェはちゃんと今もあるだろうか。この三年で、背は十センチ伸びた。制服を買い替えるお金はなかったので、先輩に譲ってもらった。
『いいか、三年だ。三年で戻ってこい。』
その言葉をふと思い出す。父さんに言われた言葉だ。その言葉を最後に父さんとは話していない。日本を発つ日の朝だって、いってらっしゃいの一言もなかった。でも、そりゃそうか。期待するだけバカかもしれなかった。
三年前、俺は家族の反対を押し切って、ピアノを学ぶためにウィーンへ旅立った。
4月9日 彼女の本音は
四月九日
「福原さん!」
隣の席の子から声をかけられた。私とは正反対の、愛嬌のある笑顔のかわいらしい女の子だ。
「私、中川沙耶。この学校、迷いやすいし、何か困ったことあったら何でも聞いてよ!」
「中川さん。わかった。ありがとう。」
「中川さんなんて、そんなかしこまらなくていいよー。そうだな、周りからは沙耶って呼ばれてるし、沙耶でいいよ。」
「さ・・・や。」
勢いに押されてきょとんとしていると、沙耶が誰かを呼んだ。背の高いすらりとした女の子がこちらに来る。
「どしたの、さや。」
「ももちゃんのこと、紹介しようと思って。」
「あぁ、そういうことね。。」
差し出された右手を握り返して、握手する。
「あたし、山本百香。沙耶とは中学からの友達。よろしくね、福原さん。」
「そういえば、福原さんのことなんて呼べばいい?」
「真希でいいよ。」
「じゃあ、真希で!あっ、次集会じゃん。一緒に行こう?」
机の横にかけてあった体育館シューズをもって、沙耶たちと並んで歩く。
今まで怖がってなかなか声をかけない人がほとんどだったのに、沙耶や百香は私のこと怖がらないんだろうか。
3月9日 変わらないもの
三月九日
「亮介、おかえり。」
インターホンを鳴らすと、中からエプロンを付けた母さんが出てきた。
「ただいま。…久しぶり。」
「まぁ、そんなとこ突っ立ってないで中入りなさい。」
俺の横においてあったキャリーバッグの一つをもって先にリビングへ向かう。後を追うようにして、リビングへと入った。四角いテーブルの周りには椅子が四つ並べてあった。ちゃんと、俺の分がある。気にしすぎなのかもしれないが、もしなかったらどうしよう、なんて不安もあった。
「亮介、伸長伸びたね。今いくつあるの?」
「えっと、百七十九センチかな。」
「お父さん、追い抜かしちゃったね。」
母さんは中学の入学式の写真をみて、くすっと笑った。そこに移っている俺は、身長が低くて、学ランの袖が余っている。
「万里は?」
「あぁ、万里なら、まだ部活。大会が近いとかで、毎日遅くまで練習してるわ。」
「万里、何部に入ったの?」
「バレー部よ。あの子、二年になって、やっとレギュラーになれたみたい。今すごく張り切ってるわ。」
「バレー部って、あの、めっちゃ厳しい練習で有名な?ついていけてるんだ。」
嫌なことがあると、すぐに、お兄ちゃんって言って泣きついてきたころの万里とは違うのか。万里も万里で、成長したらしい。
「そんで、父さんは?」
「お父さんなら、今日は早く帰ってくるはずよ。」
「そっか。…あのさっ、俺が…帰ってくること、なんか言ってた…?」
「さぁ、一応朝伝えたけど、何もいってなかった。」
「ふうん。」
まだ、何か言われたほうがマシだったかもしれない。無反応が一番怖い。時計の針は五時を指している。多分、帰宅まであと二時間。
「はぁ…。」
ここ数週間で一番重いため息が漏れた。
4月9日 二通の手紙
四月九日
賀北高校は坂の上の学校で、生徒はみんな、毎朝きつい坂道を登ってくる。そのかわり、帰りはずいぶん楽だ。坂道を少し早足になりながら下って、五分も歩けば、この春からの新しい家に着く。
「おばあちゃん、ただいま。」
「真希、おかえりなさい。学校どうだったかい?」
「友達できた。」
「そうかいそうかい、それはよかったねぇ。」
手を洗うと、すぐにお仏壇のところへ行く。奥のキッチンからは晩御飯を作る音が聞こえる。
「ただいま。」
合掌して、そう心の中でつぶやく。これが、この家に来てからの日課だ。
「真希、手紙が来とったよ。机の上に置いておいたからね。」
「手紙?」
制服を着替えがてら自室へ向かう。たしかに、机の上には二通の手紙が置かれてあった。一通目の紺色の光沢のある封筒は、どこからの手紙か送り元を確認するまでもなかった。二通目を手に取る。白い封筒には、丁寧な字で、坂本浩子と書かれていた。
――真希へ
こんにちは。浩子です。突然、転校するから驚いた。
春休みあけて学校行ったらいないんだもん。
何があったかは聞かないけれど、また、何かあったらいつでも話聞く。
浩子より
それだけのシンプルな手紙が浩子らしい。きっと浩子や、前の学校のほかの子たちもいくらか理由は気づいているんだろうけど、何も聞いてこない。それでいい。浩子や友達のことは好きだけど、もうあの学校のことはなかったことにするつもりだ。私は、ゼロから…というより、ゼロのまま生きていくんだ。結局紺色の封筒は中身を見ることもなくゴミ箱に突っ込んだ。
3月9日 決意と挑戦
三月九日
「ただいま。帰ったぞー。」
外がすっかり暗くなったころ、ドアの開く音とともに低い声が聞こえた。父さんだ。
「お…おかえり。」
リビングに入ってきた父さんと目が合う。一瞬たじろぎながら、そういうのが精一杯だった。
「亮介、帰っていたのか。」
「うん、今朝の便で帰ってきた。」
「そうか。」
それだけを言うと、他には何も言わず、ソファに座った。俺のほうからも何も言えない。母さんは、キッチンにいるから、この空気に気づいていない。この感覚には覚えがある。留学に行くと告げて大喧嘩してから、日本を出るまでのあの間の空気だ。
「ただいまー。えっ、お兄ちゃん?お兄ちゃんだ!」
そんな空気を壊したのは、万里だった。あどけなさは残るが、少しお姉さんらしい顔付きになっていた。
「久しぶり。」
「もう、留学終わり?これからは、ずっとこっちにいるの?」
「そうだね。まぁ、しばらくはこっちにいるよ。」
「また、賑やかになるね。ね?お父さん。」
父さんは万里の言葉にも返事をしない。万里は気にせず、部活の荷物を片付けに行った。夕食の時間も俺と父さんは一言も交わすことはなかった。
父さんに突然呼び出されたのは夕食が終わってからだ。
「亮介、ちょっと来い。」
和室に父さんと俺の二人が向かい合って座る。二人を包む静寂に、緊張の糸は張りつめていた。
「三年経ったな。」
「はい。」
「それで、…どうするんだ。」
一度深呼吸して、俯いていた顔を上げる。父さんと俺の目が合った。
「もう一度、東京音楽院を受験します。高等部の編入試験を受けます。」
3年前の1月20日 二人の受験生
三年前の一月二十日
日本一の音楽家育成学校として歴史のある、東京音楽院。中等部から大学院までを備えている。入学試験は実技試験と面接、それと基礎学力テストだ。倍率は三倍から五倍。受験者の中にはコンクール優勝なんて、ざらにいる。四年前の冬の日。俺はその受験者の一人だった。
東京音楽学院中等部、通称・東京音中。基礎学力試験である一次試験は突破していた。二次試験である実技試験と面接を受けるために、全国から集まった受験生で試験会場のロビーはごった返していた。
「うわー、すごい人。こんだけ受けてんだなあ。」
一緒に受験した大親友の村上司も、第一次試験を突破していた。
「お前、ピアノ専攻だろ?俺、弦楽専攻だから、試験会場違うなあ。」
東京音中は入学時に専攻ごとに受験する。俺はピアノ専攻志望で、司は弦楽専攻志望だった。一次試験は会場が一緒だったから心強かったのに、今回は別階での受験になるらしい。
「司、緊張しないの?」
「しないよ。ワクワクする。ここにいるの皆すげえ奴らなんだろ?」
「そうだね。司はすごいなあ。」
「なに、亮介緊張してんの?」
「するよ!そりゃ!」
声が響いて周りの注目を集める。慌てて周りに頭を下げる。
「ははっ、でもそんだけ大きな声出るなら大丈夫だよ。あ、ほら、これやるよ。」
司は肩をポンポンとたたきながら、俺の手に新品のカイロを押し付けた。
「これやるよ!お守り。そんじゃ、また、あとでな!頑張ろうぜ。」
「ありがとう。がんばろうな!」
「おう!」
拳を軽くぶつけたあと、司は手を振りながら階段を昇って行った。司の姿が見えなくなってから、カイロの裏を見るとメッセージが殴り書きされていた。
――春川亮介、村上司、両者合格!
***
実技試験は、その場で渡される課題曲を弾かなければならない。ノーミスで演奏できたことにほっとするのもつかの間、面接会場に移る。父さんや母さん、それにピアノの先生に沢山練習してもらった。きっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせることしかできなかった。
「受験番号一二〇五の方、入室してください。」
「はい!」
入室した先には、初老の男性が二人と中年の女性が一人座っていた。鋭いまなざしに一瞬眩みそうになるも、気をしっかりもって姿勢を正す。
「受験番号、名前、学校名をどうぞ。」
「はい。受験番号一二〇五、春川亮太。在籍小学校は、長沢市立君川小学校です。」
いくつかの質問の最後に、こんな質問をされた。
「最後の質問です。どうして貴方はピアノに打ち込むのですか。」
「幼いころに、とても感情豊かにピアノを演奏する少女に出会いました。その少女の演奏を聴いたとき、涙が止まりませんでした。私には到底達せないレベルでした。それ以来、その少女にあこがれて、少女の背中を追い続けてきました。」
いつしか、どんな質問の返し方より熱く語っていた。名前も知らない少女、もしかしたら、この学校ならば会えるかもしれないと思ったから、ここに来たのだ。勿論、ピアノが好きだからというのもあるけれど。
「わかりました。面接は以上です。ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
深くお辞儀をして、面接教室を後にする。面接教室を出て一階のロビーに行くと、満足げな顔をしている子、すすり泣きをしている子、様々な子がいた。柱にもたれかかって俺を待っていた司は、満足げな顔をしていた。俺は一体どんな顔をしていたんだろう。
――その年の三月、司は合格し、俺は落ちた。
3月9日 3年間の証明
三月九日
「だめだったら、どうするんだ。」
向き合って座る父の声が重く心にのしかかる。
一番考えたくないパターンだが、そんなことはあり得ないとはいえない。
「公立高校の編入試験を受けて、大学に進学します。」
父さんの前に模試の結果を差し出す。留学中も日本の中学・高校でする勉強は続けてきた。特別に遠隔地で受けさせてもらった模試の判定も悪くはない。
「三年前、中一…だったか。受験に落ちてから、ずっと落ち込んでいたお前が急にウィーンに留学したいと言い出した。それは、もう一度挑戦するために力をつけるためだと言っていたな。」
「はい。」
「どうして、東京音高にこだわる。」
「俺の憧れた人を超えるためと、ある人との約束を守るためです。」
「約束?」
「はい。」
「そうか…。昔から約束は守れと言い続けてきた。わかった。受けたいなら受けなさい。」
父さんが棚から紺色の封筒を取り出してきた。右下には東京音楽院高等部と印刷されている。
「願書だ。三年間を証明してみろ。」
「ありがとうございます!」
和室を出ていこうとする父さんの背中に向かって、深く頭を下げた。
3月9日 見つめる先は
三月九日
風呂からあがって、寮の自室に戻ると、携帯に着信が入っていた。登録されていない番号だ。誰だろう。まぁ、用があるなら、かけ直してくるか。そう思って、机に置こうとしたとき、電話がかかってきた。さっきの番号だ。
「もしもし?」
「司?」
「そうで…って、その声、亮太か!」
三年前に日本を発つという連絡を最後に音信不通になっていた大親友からの電話だった。
「うわー、なっつかしいな。日本戻ってきたのかよ。」
「そうそう、今日戻ってきた。」
「そうか。えー、元気にしてんの?彼女できた?」
「元気元気。司は聞くまでもなく元気そうだな。彼女?そんな余裕ねーよ。」
「音楽三昧だったわけね。そんで、どうしたんだよ。」
風呂上りのほてりを覚ますために、窓際へと移動する。少し肌寒いくらいの夜風が涼しい。
「俺、もう一度、東京音楽院に挑戦する。」
「おっ!マジか。…待ってるぞ。」
「おう。それじゃ、夜遅くに悪かったな。まぁ、また近いうちに会おうぜ。おやすみ。」
「おやすみー。」
窓際から見える大きな噴水の広場は、あの日合格発表があった場所だ。
「今度こそ、頑張れよ。亮太。」
そうつぶやいて、窓をしめた。
4月10日 スタートライン
四月十日
「…以上で、東京音楽学院高等部 始業式を閉式いたします。」
拍手の中を、学科ごとにまとまって退場していく。ホームルーム教室に着くと、春休みの話題でにぎわっていた。
唯一他の学校と違うとすれば…聞こえてくる話題が音楽関連のものが多いことぐらいだろうか。
知らない顔ばかりの俺は周りをキョロキョロと見渡していた。
――あの女の子、全日本コンクールの優秀賞とってた子だ。
――あっちは、ウィーン特別奨学生になっていた子。
音楽雑誌などで将来有望とされている顔ぶれが、同じ空間にごろごろ居るのは少し不思議な感じがする。
「なぁ、お兄ちゃん。噂の転校生って君のことやんな?」
突然後ろから肩を掴まれた。驚いた顔で頷くと声の主はニッコリと笑った。
「俺は、内進生の大橋 高登。よろしくなあ。」
「俺は、春川 亮介。分からないことだらけだから、色々教えてくれると助かるよ。よろしく。」
ピアノ専攻科は1クラスで、圧倒的に男子生徒比率が少ない。同じ専攻で男友達が出来るか少し不安だったが杞憂だったようだ。
「まぁ、仲良くやろうや。こわーいお姉さん方がいるもんでなあ。」
女子の群れに目線を移すと、その中の一人が気付いて吠えた。
「ちょっと!高登、変なこと吹き込まないでよ!」
「ホンマのことやんけ。」
女の子は大橋のことを一瞬にらむと、俺に微笑んで手を振ってきた。つられて手を振り返す。
「まぁ、男子は少ないから、肩身狭いかも知れんけど・・・仲良くやろうや。
そういや、春川君はどこから転校して来たんや?」
「俺は、ウィーン第3音楽学校から。」
「お!第3か。先輩が去年留学しとったわ。そうかぁ・・・、エリートやなぁ。」
「そんな、俺はまだまだだよ。」
「そない謙遜せんでも。まぁ、春川君の演奏は近いうちに聞けるやろうし、楽しみにしとくわ。」
チャイムの音で皆席に着く。年老いた先生が入ってきて、ホームルームが始まった。
「皆さん、今年も切磋琢磨し、実力に更なる磨きをかけていってくださいね。」
「さて、今年のスプリングコンチェルトを2週間後に行います。実技クラスの振り分け参考にもなりますので、しっかり練習しておくように。
課題曲はレッスンテキストのNo,45です。」
東京音楽学院では年四回学生による演奏会【concerto】が開催される。
チケットが発売15分で完売になるというこの演奏会は、試験でもある。
学園生活の大半を占める実技レッスンは5つのレベルに分かれており、世界で名を馳せる卒業生達も日々一番上のAランクを狙って精進したという。
机の中に入っていたテキストでNo,45を確認する。難易度は中難度といったところだろうか。いかに魅せるか、練習が必要そうだ。
同級生は、学友であり仲間でもあるが、ライバルであることに代わりはない。
彼らを越えていかねば、きっとあの人には会えないだろう。
俺はやっとスタートラインに立てたのだ。
5月8日 歩む道標
五月八日
「皆さん、ちゃんとプリント持ってますか?」
手元のプリントには大きく”進路希望調査”と書かれてあった。
「提出は2週間後の金曜日です。ちゃんと、保護者の方と話してきめてくださいね。
大事なあなた達の進路なのですから。」
竹本先生が教室を出て行くと、教室のあちこちから進路についての話題が盛り上がる。
「コレ配られるってことは、来月には三者面談ってことだよねー。」
「うーん・・・、憂鬱だあ・・・。」
「何言ってんの、そんなこという沙耶は成績優秀じゃないですか。」
「そんなことないよ。そういや、ももちゃんは美容師さんになりたいんだよね。」
「うん、卒業したら専門学校行くつもりだよ。」
「私は、保育士だから短大かな。」
百香にも、沙耶にも夢がある。夢があればその先どんな道を歩んでいけばいいかもわかりやすいだろう。
「ねぇ、真希ちゃんは何になりたいの?」
突然沙耶に話を振られてハッとする。私は何になりたいんだろう。
「私は・・・まだ決めてないかな。」
「そっか、行きたい大学とかもないの?」
「あんまり詳しくないから、この夏調べようかなとおもってる。」
「真希は、ご兄弟はいないの?居たら聞いてみると参考になるかもよ。」
『ご兄弟』という言葉が胸に刺さる。ふと、嫌な記憶がフラッシュバックした。
だけど、これをここで見せるわけにはいかない。百花に悪気はないのだから。
「残念だけど、居ないんだよね。また、良い情報とかあったら教えてくれるとうれしいな・・・。」
嘘をついた。私には、二つ上の兄が居る。
――正確には、二つ上の兄が居た。
彼女は今日、心を弾く。