Father side of the world
19時頃に出張先の得意先周りを終えて宿泊先のビジネスホテルに到着したクタクタの僕は、早くホテルのベッドに潜り込みたくて仕方が無かったのだけれど、ホテルの前でウロウロしていた青年に声を掛けられた。
「あの…引っ手繰りに荷物を盗られてしまって…旅行中で…この辺りに交番はありますか」
不審な青年にそう言われて僕は戸惑ったけれど、無視する程僕は不親切な人間ではない。地元の人間ではないので交番が何処にあるか分からないので目の前のビジネスホテルのフロントに聞くのが良いのではないかと僕がその青年に言うと、そうですね、そうします、と青年は答えたのでその青年と一緒にビジネスホテルに足を踏み入れた。
僕がフロントで宿泊の手続きをしていると、その青年は交番が何処にあるか教えて欲しいとコンシェルジェに尋ねていた。
「まさか旅行中に引っ手繰りにあうなんて、驚いています。この辺りは治安が悪いんですか?だとしたら…不審火とかに絶対に気を付けた方が良いと思います」
心配して真面目にコンシェルジェにそう言っている青年を見て、何だか吹き出しそうになった。
「君、何歳?」
「21歳です」
青年は不安気にそう言って哀しそうに笑った。
「大丈夫?…良かったら交番に一緒に行ってあげようか?」
何故そんな優しい言葉を掛けたのか今の僕でも理解出来ないけれど、捨てられた仔犬の様な青年の哀しそうな笑顔が妻に似ていたからかもしれない。僕の申し出に彼は快く応じ、僕はフカフカのベッドの誘惑を跳ね除けて青年とビジネスホテルの近くの交番に向かった。交番で引っ手繰りの届け出をしている青年が記入している名前を見ると、僕と同じ苗字で益々青年に親近感が湧いた。
「引っ手繰りがいるなんてこの付近は危ないです。犯人がビジネスホテルの近くにまだいるかもしれません。放火したりする可能性もあるので交番からビジネスホテルに注意する様に電話してあげて下さい」
交番の警察官にもそう訴える青年を見て余程正義感に溢れている青年なのだと僕は感心した。或いは心配性なのか…初老の警察官も仕方がないといった調子で頭をポリポリかいて分かったよ気を付ける様に連絡しておくよ、と苦笑いした。引っ手繰りの届け出が終わると青年は僕をお礼に食事に誘ってくれたので、二人で交番の近くの居酒屋に入った。青年はズボンのポケットに現金十万円を入れていたらしい。
「付き添ってくれてありがとうごさいました」レモンサワーを飲みながら青年が礼を言う。
「旅行先だと不安だよね。僕も出張中だからさ、気持ち分かるよ。荷物は戻ってこないかもしれないけど、現金をズボンのポケットに入れていて良かったね」生ビールをグビグビ飲み干す僕の左手の薬指の結婚指輪に青年の視線を感じた。
「結婚してるんですね」
「ああ、もうすぐ子供も産まれる」
「楽しみですね」青年は何故かまた哀しそうに笑った。その横顔はやっぱり妻に似ている。
「奥さんの身体も気を付けてあげて下さい」心配性の青年が言った。
「そうだね、妻は看護師なんだけど、人の心配をするのは得意だけれど自分の心配は後回しにする癖がらあるからなぁ」
「一年に一度は癌検診に行くべきです。旦那さんからも勧めてあげて下さい。20年後にはタイムスリップが可能になる位科学は発展しますが、癌治療はまたまだ発展していないはずですから」
「ニュースでもやってるよね、近い将来タイムスリップが可能になるって。でもすごくお金がかかるんだよね、一般人にはとても無理だね」
僕と青年はそれから色々な事を語り合い朝まで飲み明かした。青年は母子家庭で看護師の母親が癌で亡くなってしまった事も。
「母子家庭で辛いのは子供では無くて、母親だと思います。母親は本当に大変だったと思います。本当に」
だから君はそんなにも心配性なんだね…朝になって僕が宿泊する予定だったビジネスホテルに二人で戻ると、青年は何故かとても安堵している様だった。一緒にモーニングコーヒーでもどうかと振り向くと、青年はもうそこには居なかった。
あれから二十年。僕の子供は無事に産まれてスクスクと育ち今では看護師を目指す立派な看護学生だ。妻はあの青年が心配してくれていた通りに去年癌検診で膵臓癌発覚した。幸いなことに初期の発覚だったので手術で全摘出が出来た。これから先の事はまだ分からない。一年生存率、三年生存率、神のみぞ知る、だ。あの青年が言った通りに二十年後の現在、金さえ払えばタイムスリップが可能な時代になった。今思えばあの青年はタイムスリップをして現れた僕の子供だったのかもしれないと思えるのだけれど、僕の子供は女の子だ。それにタイムスリップする金なんか僕にはとても用意出来ないよな、と寂しくなる。彼が誰だったのかは分からないけれどいつかまた何処かで出逢える、そんな気がしていた。
Father side of the world