傾聴士 高崎司
傾聴士の高崎です。
(まただ。顔をしかめられて不審者を見るような顔で
見られる。)
人の話を聴く仕事です。
あーそうなの。相談に乗ってくれて解決してくれるのね?
(完全に誤解している……。)
いえ、お話を聴くだけです。運がよければ
話しているうちにご自分でどうすべきかが分ります。
はぁ……。
(やっぱりわかってもらえない。)
5年勤めた会社を辞めて、新しく自分で何かをやろうとして
傾聴士なんてものを選んでしまった。
話すのは苦手だが、聴くのは得意、と言うわけではまったくない。
ただ、簡単そうだからと言う事と、冷たい人間だからだ。
他人がどれだけ泣こうが喚こうが、知ったこっちゃない。
だから余計な感情移入などしないで話しを聴けるし、
それらしい顔をするのは5年間の会社勤めで身に付いたスキル。
なんとなく天職だろうな……と思って始めてみたものの、マイナーな仕事だからゆえ
理解されず、いちいち説明しなければいけないのがつらいところ。
じゃあとりあえず自営業って事でいいのかしら?
そうですね。
ちなみにその……お話を聴くための資格とかあるのかしら?
いえ、特にそのような物はありません。が、大学、大学院で心理学も
勉強していましたので。
あら!?どこの大学?ウチの娘が来年から
(あーまた始まった……その話しを聞くのは3回目だ。
いつになったら解放されるのだろう。せっかく今日は傾聴士の肩書きを名乗ってから
初めてのお客の所に行くのに。)
でね、娘が独り暮らしをしたいって言うものだからお父さんに相談したら猛反対!
娘と喧嘩しちゃって家の中が険悪な雰囲気で
(ありがちな話でつまらん。最初のお客は松岡って言う名前だったっけ。
どんな内容なのだろう。あ、洗濯物干しっぱなしだ。雨が降りそうだから心配だな。)
そうだ!あなたお話しを聴くのが仕事なんでしょ?娘とお父さんの話しを
聴いてやってよ!
はい?
(予想外の展開で声が裏返った。)
料金はちゃんと払うわよ。でもおいくらかしら?高いのは私もパートの仕事だから
払えないけど。
あ、はい。もちろん聴かせていただきます。料金は開店価格なので
20分2000円です。お時間は40分から受けています。
そうなの、意外に高いわね。じゃあ40分でお願いするわ。
まだお客もそんないるわけじゃないわよね?明日でいいかしら?
(おいおい……。確かに3ヶ月目でやっと1人目だけどそうズケズケ言われると
さすがの俺も滅入るな。)
かしこまりました。では明日の何時頃がよろしいですか?
お父さんも娘も帰っている時間だから……20時でどうかしら?
了解いたしました。では明日の20時にお伺いいたします。
あら~ありがとうね、高崎さん。もし解決できたらお夕食くらいご馳走するわよ!
(はいはい、ありがたいことで。)
では、仕事がありますのでこれで失礼します。
(ふぅ。やっと解放された。)
このまま駅に向かって各駅に乗れば座って行けるだろう。
駅が……菊名か。何線だこれ?
携帯で調べながら階段を登り、改札を入る。
初仕事だが、ワクワク感より不安感でいっぱいだ。
仕事への不安ではなく、未来への不安。
正直、この仕事をするにあたり不安はものすごくある。
特にお金。稼げるのか、生活できるのか。
ある程度の貯金はあるが、もって半年だろうな。
営業とか苦手だが、そんな事も言っていられない。
会社を辞めた理由というのが単なる「逃げ」なのは自覚している。
単に仕事と人間関係に嫌気が差したからだ。
いつも何かから逃げているな…。これから先も逃げて行くのだろうな。
それだから結婚にも失敗したのだし、あいつを壊してしまい不幸にした。
自嘲気味に笑ってみる。何も変らない。危険だ。こうなると
負のループに陥ってどんどん気持ちが堕ちて涙が出てくる。
考えるのを止めよう。
ウチの子供、将来は昆虫博士なのよ~私、虫が大嫌いだからもうどうしようかって
電車の中は色々な会話が聞こえてくる。そうか……虫博士になりたいのか。
夢……。夢。夢ってなんだ?夢なんて言葉久しぶりに聞いた気がするな。
大学の頃は夢だけに生きていたなあ。一銭にもならない英文学なぞ
気取って勉強して教授になりたいなんて事をほざいていたっけ。
なんだかそんな自分が恥ずかしい。
夢……。夢ってまた持てるのかな?見られるのかな?
絵に描いたようなおばあちゃんが乗ってきた。誰か席を譲る……わけないよな。
こっちにきたら声をかけよう。
おばあちゃん、座りなよ
あー、いいです、いいです。すぐに降りますから
(人の好意はありがたく受け取れたわけが。)
私もすぐに降りますからどうぞ。
そうですか、そうですか、ありがとうございます。ありがとうございます。
いえいえ。
(二度も言わなくてもわかる。)
ドアの所に寄りかかり外を眺める。
どこかに夢が落ちていないかなあ……。なんてね。あるわけない。
36年も生きていればそれくらいわかる。
ネズミをモチーフにした夢の国にでも行けば夢はたくさん落ちているよな。
ま、そのエリア外だとゴミと呼ばれるものだけど。
意外に早くついた。ここが菊名駅なのか。
携帯で地図を表示させながら最初のお客ー松岡ーの所へ歩く。
まず整理をしよう。必ず聴いているそぶりをする。
アドバイスは絶対にしない。否定しない。肯定しかないと思え。
よし、大丈夫。
洗濯物を取り込んでくればよかった……。
あ、ここのマンションみたいだ。
あーあーあー。よし発声OK!
ピーンポーン……。
随分と間の抜けたインターフォンの音だガチャッ
こんにちは、本日ご予約を頂きました傾聴士の高崎と申します。
……、どうぞ。
はい、ありがとうございます。
暗い声だな。
ドアを開けてくれたのは40代前半の白髪交じりの男性。
少し小太りで身長は165cmくらいか。女性が生理的に苦手そうな
容姿だ。自分が女だったら言葉も交わしたくなくなる。
玄関には高そうな靴が所狭しと整然と並べられている。
傾聴士の高崎と申します。
本日はよろしくお願い致します。
……。あがって。
はい、失礼致します。
明らかに警戒しているよな。
そこにかけて待っていてください。
麦茶でいいですか?
ありがとうございます。
麦茶をお願いします。
2LDK、広さもまずまず。ファミリー向けの分譲マンションだな。
ここに1人で住んでいるのかな?
あの……高崎さん、でしたよね?
はい。
秘密は守ってもらえるのですよね?
もちろんでござます。守秘義務がございますので
松岡様から拝聴したお話しの内容は決して漏れる事はございません。
わかりました。これから話す事は……私の許されない、その、
この年齢で恥ずかしいのですが、あの、
(歯切れ悪いっ!さっさとしゃべれや。)
あ、料金はどうしたらいいですか?
先にいただけますか?延長も可能ですので、お時間が来たときに
またどうするかお決めください。今回は60分なので6000円となります。
はい。
ありがとうございます。こちら、領収書となります。
……。
……。
(沈黙かよ。)
私、恋をしてしまっているのです。
(はぃい?いや、笑顔だ、笑顔)
そうなのですね。お相手の方はどのような方ですか?
それが、その、いつも通勤途中に出逢う学生さんでして、
名前も学校も調べました。遠藤咲さんという方です。
(それ、ストーカー……犯罪。)
遠藤さんとはけっこう親しいのですか?
一度だけ、たった一度だけしゃべった事があるのですが、
たまたま、僕が電車の中に傘を置き忘れてそのまま降りようとしたら
その遠藤さんが忘れ物ですよ!と声をかけてくれて傘を手渡してくれました。
その時の笑顔と軽く触れた手から全身に電流が流れたような感じがして……
そこから僕は毎朝遠藤さんの姿を探すようになりました。
(何かの恋愛シュミレーションゲームと混同してないか、こいつ?)
その、傘を渡されて手が触れた瞬間に恋に落ちたのですね。
はい。僕はそれから定期に描いてある名前を見ようと必死でした。
友達と話していたらその友達が名前を呼ばないかずっと聞き耳を立てて
なんとか名前を知ることができたのです。
(その一所懸命さを他に回せよ)
でも、私はこんな姿だし、相手は高校生だし、叶うはずもない恋なんです!
でも……誰にも話せないしたとえ話したとしても単なる変質者扱いをされるだけです。
(わかっているじゃないか、この変質者)
でも……想いだけが募って誰かに話したくなってそれでお願いをしたのです。
わかりました。先に申し伝えておきますが、私はカウンセラーではありません。
的確なアドバスなどはしません。ただし、お話はいくらでも親身になって聞きます。
はい。でも……高崎さんはこんな私をどう思いますか?
やはり変質者でストーカー予備軍でしょうか?
(自覚あるんだ)
いえ、変質者でもストーカー予備軍でもありません。
恋をした40代の男性、です。恋愛対象の人が少し松岡さんより若いだけです。
そうですか……。そう言ってもらえると嬉しいです。
(黙れロリコン)
はい。それで……その遠藤さんに対して、今ではどうされたいのですか?
僕は……見ているだけでいいのです。毎朝決まった時間に乗ってくる
あの遠藤さんの姿が見られるだけでもう幸せなんです。距離が近くなったら
きっと僕は崩壊します。
でも恋をしているからには触れたいとか、お話しをしたいとか……そんな願望は
ないのですか?
ありません……と言えば嘘になりますが、今のままから壊れるのが怖いんです。
僕が何かをする、または言うことによってこの関係が、この恋が終わってしまうのが
とても怖いのです。もともと形も何もない恋ですから、壊れるものもないと
言ってしまえばそれまでですが、変わるのが怖いのです……。
話してくれてありがとうございます。きっと胸の奥につっかえがある感じのまま
お話しくださったと思います。
僕は……僕はどうしたらいいのでしょう?
(相談事はしないって言ったのに)
私が言えることは、ご自分の中では答えは既に出ているはずです。
もうわかっているけど、それを実行するのが怖い、または
それをする事によって何かを失ってしまうのが怖いのです。
そう……ですよね。そうなんです。僕はわかっているんです。
でもそれをする勇気がない。本当にわからない。僕はどうしたらいいのだろう……。
(どんだけその子は可愛いんだ?聞いてみよう)
その遠藤さんは、松岡さんから見てどのような方なのですか?
天使です。
(ぶっ!天使?天使ときたか?!)
毎日会社で疎まれて女性社員からは嫌いな上司No.1に選ばれるくらの、
こんな私に生きる力を与えてくれた天使です。
そうなのですね。
会社では、僕は女性社員達にはキモイと陰口を叩かれ、同僚や部下には
嫌われて、一番面倒を良く見た後輩の結婚式にすら呼ばれませんでした。
誰もが僕の悪口を言っているのは知っています。でも僕はそれでいいのです。
好かれてから嫌われるより、最初から嫌われていた方がショックが少ないですから……。
いつか……家族をもったら、と思ってこんなファミリー向けのマンションも、
中古ですけど購入をしましたが、無駄ですよね。家族なんて、好きになってくれる人なんて
いるわけないのに。
(まあムリだろ)
そんなどん底の夢も希望もない毎日に、彼女は……咲さんは僕に光をくれた!
だから触れちゃいけないんです。遠くから眺めて、元気な姿を見て、それだけが
僕の生きがいなんです。僕にとって、いつか消えてしまう、そして幻のような
天使なんです……。
松岡さんにとってとても大切な人なのですね。
でも、でも、でも、でももう一度だけ話したい。いや、会話なんて恐れ多い、
単に、お礼を言いたいのです。ありがとう、と一言、貴方のお陰で僕は
生きていられた、と……それはしちゃいけない事だと思いますか?
高崎さん、教えてください。
(あー面倒くさいな…)
別料金となりますが、セッティングをしてみましょうか?
もちろん、成功するかどうかはわかりません。成功した場合のみ
ご料金を頂きますが、よろしいですか?
どういう……ことですか?
つまり、松岡さんと遠藤さんがお話しをする場を私が取り持ってみようと
言う事です。
出来る……のですか、そんな事?
やってみなければわかりませんが、尽力いたします。
本当ですか?
本当です。ただ、何度も言うようですが成功するとは限りませんのでご了承ください。
わかりました!ありがとうございます!!!
(さ~て、いくら吹っかけよう)
これには特別なスキルが必要ですし、多少の時間がかかります。
それだけにご料金も3万円となり、成功したらさらに3万となります。
もちろん、交通費や雑費は別途となります。
……それで咲さんと話せるなら、お願いします。
(カモがネギを背負って来たーっ!)
かしこまりました。それでは松岡さんのご都合が良い日はいつでしょう?
いつでも……いいです。何時でも大丈夫です。どうせ会社に僕がいなくても
、いやむしろいない方がいいのですから簡単に抜け出せます。
(どれだけ嫌われているのよ、こいつ)
では遠藤さんとさっそく接触して話してみます。
まず朝何時にどこで会えるのか、帰りは何時に会えるのか
教えてもらえますか?
はい、あの、朝は菊名駅7時33分発の日比谷線直通の電車の先頭車両にいます。
帰りは一番後ろの車両でだいたい22時頃に菊名に到着する電車です。
(22時?塾か?)
わかりました。その時間帯を狙って調査してみます。
あの……それで高崎さん、その、僕が頼んだということは内緒にしてもらえませんか?
できれば……その高崎さんが、僕の代わりにお礼を言ってもらえませんか?
でも、松岡さんが直接言いたいのではありませんか?
僕は、こんな容姿ですし、怖がらせてもいけないし、何より嫌悪の目を向けられたくない。
僕の中にある咲さんのままで終わらせたいのです。
(カモがネギだけでなくコンロと鍋と味噌も持ってきた!)
わかりました。ではせめて手紙だけでも書いていただけますか?
それと私が変りに話すので代理人料金を頂く事になりますが。
わかりました。手紙は書きます。代理人料金はいくらですか?
内容からして2万円となります。
それならお願いします。
(おいおい金持ちだな)
では、この件に関してはまたご連絡を差し上げます。
それで私は遠藤さんのお顔を知らないのですが
写真か何かお持ちですか?
はい。少し遠めからですが、写メを撮りました
(それって盗撮ってやつ?)
なるほどではこちらを私の携帯の方に送っていただけますか?
高崎さん、その……笑わず話を聞いてくれてありがとうございます。
しかもセッティングまでしてもらえるようで、なんと感謝したらよいのか
いえ、そんなお礼なんて。松岡さんの気持ちが少しでも軽くなれば
それが何よりです。
本当にありがとうござました。
ふー。終わった。
8万の収入が入るのか……ニヤニヤが止まらない。
あ、メールが来た。写メ、どんな子だろうな。
!!意外に可愛いぞ。でも天使……までは言い過ぎだ、いくらなんでも。
どうやって接触しようか……。とりあえずナンパと間違われるのもイヤだしな。
ベタな方法だけど、ハンカチでも拾って落としましたよ!で声をかけるか。
8万の為にハンカチ1枚くらい投資しないとな。
今日はこのまま声かけまでしてしまうか。菊名まで来るの面倒だし。
Prrrr……Prrrrr……
電話?珍しいな。
あ、高崎さん?私よ私!
(誰だあんた?)
ほら、明日来てもらうって話をしたじゃない!
あ、お世話になっております(最初に名乗れや!)
それで急で悪いんだけど今日じゃダメかしら?
もうさっきも娘とお父さんが言い合いをしてて大変なのよ~
(え、忙しいし)
それでね、高崎さんの話しをしたら娘が見方だと思って
すぐに呼んで!!と言う事なのよ。来てもらえるわよね?
(何だその断定的な言い方は…)
わ…かりました。今出先なので21時ごろでもよろしいでしょうか?
構わないわよ!じゃあ夕飯作って待っているから
お父さんと話してあげて!ガチャ
あー、松岡さんの天使に逢いたかったが仕方ない。
また明日の朝に来よう。
……漫画だとその天使と父親と喧嘩している娘が同一人物、なんて事はまずないか。
「あなたは逃げてばかりなのね」
「あぁ、そうだよ」
「受け入れようとか、正面から挑もうとか思わないの?」
「これっぽっちも思わないね。頑張るとか嫌いだもん」
「それで私との結婚や病気からも逃げるんだ……」
「そう。その通り。俺は卑怯なヤツなんだ。クズだと自覚している」
「そうね。そんなクズな人間を好きになった自分が悪い事は自覚している」
「そうだな」
「もう一度聞くわ。別れるのね?」
「そうだ。別れる」
「……。わかった。もう判子は押してあるわ」
「役所に出しておくよ」
「一つ聞いてもいい?」
「どうぞ」
「子供に未練はないの?」
「言ったろ、子供は嫌いだって」
「そうね」
「家族の幸せは少しは感じていたの?」
「質問が二つになっている。まあいいか。多少はね」
「あの幸せな時間に戻ろうとは思わない?」
「皆無」
「あなたの幸せって何なの?」
「なんだろうな。家族や家庭の中にはないよ」
「じゃあどこにあるの?」
「孤独や不幸の中にあるんじゃないかな」
「どういうこと?」
「言葉のまんまだよ」
「不幸であることが幸せなの?」
「自分でもよくわからないよ」
「なんで!なんであなたはそうやって1人で勝手に決めて1人で行っちゃうの?」
「クズなんだから仕方ない」
「何がしたいのよ……何がどうなりたいの?」
「ん~、よくわからない、と言うのが正直な所」
「生活費、使い込んだ分は返してね」
「お金があったらね」
「最低」
「知ってる」
誰も好き好んで離婚したいわけじゃない。
ただ、幸せが怖いだけ。
幸せが精神を蝕んで、壊れてしまいそうだから、自分の保身の為に離婚。
優しくされたり、人のぬくもりに触れても怖くなる。
どうしたらいいのか分らなくなりパニックになる。
そう、精神的に幼くて弱くて脆いだけ。
香織と別れたのもそんな理由。
浮気したのも幸せが怖くて壊したくなっただけ。
なんて稚拙でふざけた理由だと自分でも思うけど
こればっかりはどうしようもない。
幸せが怖いくせに変な幸せを求めている矛盾。
これからどうしよう。
それより香織はどうするのだろう?
シングルマザーになるわけだし。
あ、実家が近いから大丈夫か。
それに前夫からもお金貰っているはず。
慰謝料として二人の貯金は全て持っていかれたのは痛い。
養育費と家のローンは最初は殊勝に払うか……。
3ヶ月目からは支払うのを止めよう。自分が住んでもいない家に、
愛情の欠片もない子供に対して支払うのはバカみたいだ。
これを転機に独立でもしてみるか……。
と言っても特別にスキルがあるわけでもないしな。
とりあえず今の会社を円満に辞めてから考えよう。
退職金……なんてなかったな。
失業保険だっけか?これはもらえるのだろうか。
香織との結婚は付き合って3年後だった。
丁度離婚協議中だったらしく間男になる期間はほんの3ヶ月くらいだった。
出会いのきっかけは何かのサイトを通してだった。
読書のコミュニティがあり、そこで偶然話すようになった。
映画や本の感想、趣味や価値観などを色々と話しているうちに
意気投合したから酒でも飲みながら話そうか、そんな流れで出逢った。
小洒落たイタリアンレストランで食べて、そのまま朝まで飲んでフラフラになりながら帰宅。
何となくまた逢おうという話しになり、メールのやりとりをしていくうちに陳腐だが、恋に落ちたのだろう。
外食すると高くつくからホテルで飲もうという話しになり惣菜と酒をしこたま買って飲んでいるうちに結ばれた。
そこから肉欲的な付き合いが始まった。
お互い、貪るように相手を求めた。終わった後は空っぽだった。
すべてを出し切って空っぽにした空洞に何かが満たされる感覚。
幸せ?だったのだろうか。
香織に子供がいる事は知っていた。
それも含めて一緒になってもいいかな、と思い始め
それとなく、一緒に住む?子供も一緒に。と言ってみた。
泣かれた。
嬉しかったらしい。
離婚がすべて終わった後に三人で住む家を探し、
新しい生活が始まった。
親に絶縁されている身としては、初めて家族っていいな、と思った。
ぬるま湯に浸かっているような感覚で心地よかった。ただ、既に一抹の不安はあった。
幸せが怖い。
それでも、家族の為、と働いた。
生き甲斐は感じられなかった。
ただ、香織の傍にいる事で落ち着いた時間は過ごせた。
「私は男運がないんだろうね」
「そうだね。不幸にする人を選ぶ傾向があると思う」
「今度は失敗しないと思ったんだけどな……」
「残念だったね」
「他人事ね。当事者なのに」
「こちらの性格は知っているだろう?」
「切った人間は他人、未練はない、でしょ?」
「わかっているじゃん」
「私にも子供にも未練もなく、スパっと消せるの?」
「うん。」
「どこまで人でなしなのよ……」
「見たまんま。」
「私への愛情は嘘?」
「面倒臭い質問をするね」
「いいじゃない、どうせ二度と会うこともないんでしょ?」
「それもそうだな。」
「少しは否定してよ……」
「で、答えると嘘ではないよ」
「そう。少しは救いがあったわ」
「嘘はついていない」
「裏切ってはいるけどね」
「嘘と裏切りは同義語?」
「同義ではないけど類義語だと思っている」
「香織らしい意見だ」
「何で浮気したの?しかもバレるような浮気」
「それを今更聞く?」
「あなたらしくないもの」
「どういうこと?」
「私にバレないようにする事くらい出来たはず」
「確かに出来たかもしれないけど、隠し事は下手なんだ」
「違う。隠すつもりがなかった。むしろ見つけられたかった」
「斬新なご意見で」
「どうなの?」
「さあ、どうだか」
「あなたは幸せになる事が不幸なのね」
「その通りかもね」
「不幸になればそれは幸せ」
「いや、不幸は不幸だと思う」
「幸せになりかけている時が幸せ?」
「ま、そうかもな」
「可愛そうな人」
「だね。そろそろ行くよ」
「握手くらいしなさいよ」
「それもそうだ」
「じゃ」
「元気で」
こうして意外とあっけなく結婚生活は終わった。
そういえば、名前をしらないぞ?
娘が大学に受かって独り暮らしを希望。
それを反対する父。どこにでもありそうな内容だな。
勝手に脚色すれば娘には彼氏がいる。
彼氏は……パンクなヤツにしておこう。
それで名前はなんだ?
あ、娘と言えば、この間しらない子にお父さん?って
声をかけられたな。誰だったんだろう?
地図だとこのあたり。これか。
台風と地震がいっぺんにきたら潰れそうな家だな。
表札……には名前も書いてないのか。
ちょっとポストの中を、失敬。
村川さん、ね。把握。
とりあえずチャイムを鳴らすか。
はーい。あら、高崎さんね。入ってちょうだい!
失礼致します。夜分遅くに申し訳ありません。
いいのよ、どうすればいい?
何か楽しそうなことが起きることを期待している目だ。
何も起こさないからな。穏便に何事もなく終わらせるのが信条だ。
とりあえず、ご挨拶をさせていただければと思います。
あら、そう?意外にかたっくるしいのね
(どういう意味だ……)
おとーさーん??拝聴士の高崎さんがお見えよーっ!
(傾聴士だ。誰が拝聴士だ……ったく)
リビングは家の外観と違いモダンでシンプルで綺麗にまとまっていた。
ざっと見回したところ生活感がない。なんだこの違和感は?
初めまして、傾聴士の高崎と申します。
夜分遅くお休み中のところお邪魔して申し訳ありません。
君が高崎さんか。娘を説得してくれるそうじゃないか。
(話しが歪んでいる。説得など誰がするか!冷やかしだ、冷やかし)
説得というよりお話を傾聴しに伺いました。
奥様からは説明はありませんでしたか?
いや、何も聞いていないぞ。何でもカウンセラーの人が
くるから朱里……娘に私の気持ちがわかってもらえると
いうことだったんだが、違うのか?
(ババァ……)
私なりに尽力を致します。ただ、傾聴士でありカウンセラーではありません。
遅くなりましたが、名刺になります。
ふーん。
(何だその残念そうなリアクションは。勝手に期待するな)
では、早速なのですがいくつか確認させてください。
村川様は娘さん、朱里さんですか、が独り暮らしをする事を反対している、
との事ですが、理由をお聞かせください。
娘はまだ未成年だ。まだ早い。それに物騒な世の中空き巣に入られたり
襲われたらどうするつもりだ!
他に、理由はあるのではないですか?
どういう意味だ?
いえ、なんとなくお聞きしただけです。
ではもし朱里さんが20歳になったら独り暮らしを許可するのですか?
20歳でもまだ子供だ!危険だ!
ではいくつになれば、朱里さんの独り暮らしを許可するのですか?
いくつになってもダメだ!
ただ、単に子離れをしていないだけではないですか?
(あ、本音言ってしまった)
ぬぐっ……他人の家の事でとやかく口を挟むなっ!!
(一旦引いた方がいいな)
わかりました。とりあえず朱里さんとお話しさせていただきます。
はぁ……。なんて面倒臭いんだ。
こんなんだったら引き受けなければよかったかな。
朱里ちゃんは部屋か。女の子の部屋を見られる楽しみはいつでもいいものだな。
さて、顔を整えて、ノック。
朱里さん?傾聴士の高崎です。
どーぞー
(なんて気だるい声なんだ)
失礼します。初めまして、傾聴士の高崎です。本日、
いいから、ドア閉めて話しを聞いて。
はい。
(ペース狂うな……)
お父さんとは何を話したの?
主に反対される理由を聞き出そうとしました。
子離れできていなくて幼稚なだけなのよ
(諸手を挙げて賛成するよ)
娘さんの父親だから心配もしているのでしょう。
ねぇ、高崎……さんだっけ?本音を言ってくれない?
と、いいますと?
高崎さん、どちらかと言うと悪い人よね?
(ピンポン!正解)
あ……あの悪い人と言うと?捕まったことないですよ
目がね、怪しい。
(こんな小娘を騙せないほどなのか……ちょっとショック)
……。それではもし素を出してもご両親には内緒にしてくれますか?それと、ショックを受けたりしませんか?
(あとで演技だと先に言っておけば平気だろ。その方が話が早そうだ)
いいわ。約束する。
じゃあ、本音をこれから言うよ。
君の親父が反対している理由、ようするに男だろ。娘がセックス三昧になるのが耐えられないのだろう。彼氏、いるんだろ?
ストレートね……ちょっと引いた。
本音って言ったろ?
そうね。私もそう思う。単に娘を独り占めしたいだけ。
どうせ、あの様子だと小さい頃にあまり遊んでいないだろ?物は買ってはもらえるが一緒に遊んだ記憶がない。さらに、写真には君1人だけ、もしくは友達としか写っていなくて親父やお袋と一緒に写っているものはほとんどない、違うか?
悔しいけどその通り。
破綻しているもんな。君のお袋が夫である君の親父を見る時の目が虫けらを見るような軽蔑した眼差しなんだもん。村川家は崩壊しているってすぐにわかるよ。で、君の彼氏はどんな人だ?ん?
ここまでズケズケと言われるとは思わなかったけど……そう、崩壊している。だから家を出たいの。仮面夫婦を演じている二人を見ているのがとても嫌。私は両親みたくはならない。
あははははは
何がオカシイの?
親のあんな姿しか見ていないし、ちゃんとまっとうに接してもらえていないから自分が子供に対してどうやって接していいかわからないものだ。だから結局親の真似をしてしまう。環境ってかなり影響あるものだぞ。特に反面教師にしようとしても結局は同じ道を歩む。
そんな事ない!
今の彼氏と結婚でも考えているのか?
うん。彼も結婚しようと言ってくれている。
戯言だよ。真に受けるな。傷つくだけだ。
どうしてそんな事言うの?!
本音、だろ?
デリカシーはないの?!
あるように見えるか?それに、彼氏はいくつだ?何をしている?付き合ってどのくらい?
23歳で会社員。付き合って半年くらい。
ふーん。で、その彼は君と付き合う前にどれくらい付き合ったことがある?
知らないわよ!でも1人か2人と友達から聞いたけど……何か関係があるの?
もうエッチはしたんだろ?
なっ……?!
したんだな。上手いか下手か、どっちだ?
そ……そんな事関係ないでしょ?!
下手だったんだな。サル状態になったか?
何よ、サル状態って?
会えば毎回エッチを求められている、違うか?ついでに言うとそれを君は少し嫌がっている。身体だけなのかって思ったりもしているだろ?
……。
図星か。そんな事だろうな。快楽にハマって結婚なんて甘言を口にしてとりあえずヤル口実を作っているだけじゃないのか?君もそれにうすうす気がついているんだろ?バカじゃないんだからさ。だから不安だから適当な理由をつけて最近は彼の求めに応じていない。それが理由かわからんが、何となく二人の間に壁が出来たような気がする、そんなところか?別れるのも時間の問題だな。
……。
あー悪い、言いすぎたか?だから言ったじゃないか。ショックを受けるなよって。これだから本音で何か物を言うのは嫌なんだよ……面倒くさい。
あなたは信用できないけど、そうやって誰も言ってくれないことを言ってくれるからちょっと聞いてみてもいい?
あ?どうぞ。
彼、浮気すると思う?
もうしているんじゃない?
どうして、そう思うの?
やらせてないんだろ?だったら他で発散するだろ。俺ならそうする。
一緒にしないで!
はいはい。でも変った様子に気がついているんだろ?
うん……。香水が変った。前はムスク系なんて付けなかったのに
彼はアホだな。なんて分りやすい……。
あと……仕事帰りに会いに行った時、肩に数本、長い毛がついてた。あと……あと……前までは頻繁に求めてきていたのに最近はまったく求めなくなったのも変。手も繋いでくれない。
うん、別れたら?浮気確定。他にヤラせてくれる人が出来たんだろ。それぐらいで他に乗り換える男なら今のうちに捨てな。
やっぱり……そうかな。
根本的に、君は彼が好きなのかどうなのか?
今はわからない……。
ま、良く考えてみるこった。で、本題に戻すけど独り暮らしはどうしてもしたいのか?家を出るということで何かが変るのか?
家は出る。そこは譲れない。
あー、わかった。君の親父を説得してみるよ。出来るかわからないけど。他人だしね。結局娘からの決意表明をして真っ向からぶつかるのが一番だ。何か条件つけるのがいいぞ。例えば女性だけのマンションに住むとかね。それなら親父も安心だろ?
試してみる。それより、名刺ないの?連絡したくなったらしてもいい?
はぁ?正規の値段取るぞ?こちらも遊びでやっているわけじゃないしな。
いいよ。払う。
最近の学生は金持ちだね。じゃ、仕事として引き受ける。はい、名刺だ。
ありがとう。
(ついでにロリコン親父の天使を知っているかどうか聞いてみよう)
あ、そうだ。この制服どこの高校か知っているか?
有名なお嬢様学校じゃない。誰、この人?
(誰かは知らないか……当然か)
ちょっとした知り合い、になる予定の人。
これも仕事なの?
そ。それじゃあ親父さんの所に行ってくる。
(ふーやっと解放された。またあの親父と話すのか……憂鬱だ)
あ、朱里さんとお話をさせていただきました。
で、どうだったんだ?
独り暮らしをして家を出る決意は固いようです。自分の力で生活をして勉強したいと言っていました。
かなり熱心に情熱をもって大学でどうしたいか、何がやりたいかなどをお話ししてくれました(嘘だけど)。もし、村川様が色恋を心配なさっているのでしたら、杞憂です。朱里さんはもっと目的意識が高く自己練磨の為に独り暮らしをしたいそうなのです。おそらく私が村川様に言っても伝えきれない部分があると思いますので、朱里さんから直接お話を聞いてあげてください。
そうか。
はい。
……。
……。
(沈黙かよ)
はい、ではそれではそろそろお時間ですので、延長料金も含めて1万円になりますが、よろしいでしょうか?
これでいいか?
領収書を今お書きいたします。ありがとうございました。またいつでもお呼びさい。
……。
(無視かよ)
では、ありがとうございました。失礼致します。
あれ?ババアは何処行った?礼くらい言えよ。
まったく……。
あーーっ長い1日だった。
さて、帰るか。
あー疲れた……。
今日は有意義だったの、かな?
Prrrr Prrrr
また電話か……鬱陶しいな、もう。
はい、傾聴士高崎でございます。
あ、高崎さん、娘との会話聞いちゃったわよ!
(やっぱりな……)
でね、高崎さん、私と夫の事も解決してくれない?
離婚の話しを持ちかけているけど中々ハンコを押してくれないのよ。
えーと、ですね。そこから先は傾聴になりますので
後日きちんとお話を聞かせていただけますか?
ご予約日はいつがよろしいでしょうか?
じゃあ明日のお昼!夫もいないし。
かしこまりました。コースは何分をお考えですか?
1時間くらいかしら?
かしこまりました。では明日の12時くらいに
お伺いいたします。
傾聴士 高崎司