きずあと
彼の傷痕が好きだった。
彼の傷痕が好きだった。褐色の背中に、痛々しく残った傷痕が。それはまるで、ボロボロに傷んだ天使の羽根のように見えたし、蝶の死骸が、皮膚の下に埋め込まれているようにも見えた。
その傷痕について、私は彼と共にホームで過ごした十二年間の中で、一度も話を聞くことはなかった。ホーム(ここ)にいる子供達は、皆何かしら秘密を抱えている。彼のように傷痕として目に見えるものの場合もあるし、目に見えない場合のものもある。私の場合は、どちらかというと後者だ。私はずっと彼のことが好きだった。私がホーム(孤児院)を出てからも、その気持ちは変わることはなかった。多分、これからもずっと、その気持ちが変わることはないだろう。
あれは幾つの時だったか、正確には覚えていない。ある日私は、嫌がる彼のことを無視して、強引にその背中の傷痕をポラロイドカメラで撮った。角度を変えて、三枚の写真を撮った。私はその中の一枚を、自分の部屋に飾ってもいいかと彼に尋ねた。すると彼は、露骨に嫌な顔をして、やめてくれ、と言った。
けれど私は聞こえないふりをして、部屋のベッドの横の壁に、写真を飾った。自分の気に入る位置がなかなか見付からなくて、壁に何カ所もの穴を開けてしまった。
残りの二枚の写真のうちの一枚は、私が自分の手帳にしまった。この写真はお守り代わりだよ、といったら、彼は、うんざりしたような顔をして、気持ち悪い(あんまりだ)と言い放った。最後の一枚は、私が、彼に自分で持っていて欲しいと頼んだ。
「自分の裸の、しかも傷付いた写真を持ってる奴なんかいないだろう」「もらってやってもいいけど、すぐ燃やすぞ」
彼にそう言われたので、私はふて腐れたように、わかったよ、と言った。
「燃やすんだったら、私が燃やす。写真を撮ったのは私だからね。ちゃんと自分で処分するよ」
私がそう言うと、しばらくして、彼は納得したように頷いた。
私は初めから、写真を燃やす気なんてなかった。もしかしたら彼は、そのことに気付いていたのかもしれない。
「ありがとう。写真を撮らせてくれて」そう言うと彼は小さく笑った。その笑みを追いかけるように、私も笑った。
私が彼の写真を撮ったのは、それが最初で最後だった。現在(いま)私の元にある彼の写真は、一枚だけだ。私が、自分で処分するからと言った写真は、結局燃やさずに、部屋の鏡台の引き出しにしまった。しかし、それは、私が部屋を移る時に片付けを手伝ってくれた彼と喧嘩をして、そのはらいせに、どしゃぶりの雨の中、掘った穴の中に埋めてしまった。
手帳の中にしまった写真は、私が孤児院(ホーム)を出て数年後に、手帳ごと燃やした。
最後まで残った写真は、ベッドの横の壁に飾った写真だった。この一枚の写真だけは、如何しても捨てることが出来なかった。
今、その写真は、引っ越したアパ―トの、やはり、自分の部屋のベッドの横の壁に貼ってある。写真は所々傷付いていたり、よれていたりするけれど、何か不思議なオーラを纏っているように感じられた。写真に写った彼の傷痕を見る度に、いとおしさがこみ上げてくる。それはどことなく切なくて、朝の陽射しみたいに優しくてあたたかい。彼はもう、そばにはいないけれど。もう二度と、触れることも、声を聞くことも出来ないのだろう。
それでも、写真を見れば、私は彼を近くに感じられる。写真の中に写った傷痕はまるで標本のようだ。その傷をゆっくりと指でなぞる。そういえば、本物には一度も触れたことがなかった。時々、傷に触れた時の感触を想像してみる。きっとそこは、テーブルに零れた砂糖を指でなぞった時のような感触に似ていた。背中の傷痕をなぞったその指で、彼の背骨を下へ下へと辿っていく。彼は見かけよりずっと痩せていたから、背骨がこんなにも出ているのだと驚く。皮膚は薄いけれど、骨は太くて男らしさを感じた。彼の褐色の肌と、私の青白い肌がコントラストを作っていた。背骨を挟むようにして、人差し指と中指をうなじまで移動させる。彼の長めの髪が指先にかかる。セピア色の髪は、生まれつきゆるいパーマがかかっていた。彼の髪は、今でもセピア色のままだろうか。そうでいてほしい。彼はセピア色の髪がとてもよく似合っていた。肩に置いた指をすべらせて、鎖骨をなぞる。やっぱり、背骨のように太くて丈夫そうな骨だった。彼は私の指を冷たいという。そのまま彼を後ろから抱き締めた。首筋に顔を埋めると、微かに石鹸の匂いがした。彼は何も言わなかった。このまま時間が止まってしまえばいいのに。ずっとそばで生きていきたい。
目頭が熱くなる。生温い涙が流れた。頬を伝って、彼の肩に落ちていく。私の涙が、彼の皮膚に浸みる。きっとその涙は、私の一部だった。彼の鼓動が聞こえる。それは穏やかで優しかった。彼は確かに生きている。そのことが、私の生きる意味だった。彼が私の手首をやさしく包み込むような手つきで握った。微かに触れ合う肌の感触がこそばゆい。彼の指が揺れた部分が、一気に熱を帯びて行く。彼は私の手をひらいて、自分の手のひらを重ねた。重ねた手の隙間には、熱い空気が籠っている。彼の手は私よりもずっと大きくて、指も長かった。彼はもう小さな子どもではなかった。彼はもう少しで、孤児院(ここ)を出て、外の世界(未知の世界)で生きて行く。そうして、彼は、大人になる。
「ふるえているの」
私はそう彼に問う。彼の鼓動が、少しだけ速くなる。
「だいじょうぶ。さみしくなったら、ホームを思い出して。そうすればきっと、さみしくないよ」
私にとって、ホーム(ここ)がやさしい場所だから、彼にとっても、そうであってほしいと願う。そしていつかはきっと、その思い出を思い出さなくなる時が来ればいい。食事の時のお祈りも、毎週金曜日の礼拝も、クリスマス会も、深夜のチェックも、すべて懐かしい思い出となって、いつか記憶の底に沈むだろう。建物や人、庭に咲いている花の色も、時間とともに色褪せて、やがて輪郭さえ思い出せなくなって、記憶から消えていく。ホーム(ここ)での思い出を忘れられるくらい、幸せになって欲しい。
モノクロに写った背中の傷痕を見る度に、私は、明日もまた、生きていけると思える。
きずあと