見上げる顔

雪さえも降りそうな夜。
首を包み込んでいる真っ赤なマフラーと妹が私の誕生日にと買ってきてくれた黒色のリボンの着いた可愛らしい手袋がないと、凍えて死んでしまいそうなほど。
夕食を終えて、何気なく夜風に当たりたいなって思った。別にどこかに用事があるわけもなくて、何かを買いに行こうって訳でもない。
ただ、本当に何となく夜の町に繰り出したくなっただけ。

「お姉ちゃん……」

薄い寝間着に着替えた妹が寝ぼけ眼をこすって、ブーツを履いて散歩しようとしている私に声をかけた。
家の中とは言え、玄関にまで暖房の空気は届いていないからとても寒いはずなのに。どうしたの? そう尋ねると、妹はどこか不安そうな表情で私を見た。

「気を付けてね? 夜、危ないから……」

それだけ言って、妹は行ってらっしゃいと手を振ってくれた。私は大丈夫だからね。行ってきます。戸を開いて、妹が凍えないように急いで閉める。
迎春を向かえようとしている冬の風が容赦もなく私の頬を撫でた。

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行き先は別に決まってはいない。適当に足が向く方向に歩くだけ。少し歩いていると、向こうから自転車に乗った若い男性が走ってきた。
真っ白い街灯に照らされて影をが作られていた。モチロン、互いに知っているわけはないからちらりと見ることもなく通り過ぎる。
ちりん、ちりん、と鈴を鳴らす音が背後から聞こえた。

また少し歩くと、今度は歩いている初老の男性とすれ違った。この人も、見たことはない。
ううん、何度か見たことはあるかも知れないんだけれど、私はこの人を知らない。

「こんばんは」

だってのに、声をかけられた。少しビックリして立ち止まり、その初老の男性を見る。気がつけば手にライトを持っていた。恐らくは見回り中なのだろうか。
男性は微笑みが街灯に照らされ、私を見ていた。

「……こんな夜遅く……気を付けなさいよ?」

はい。としか私は言えなかった。このように声をかけられることなんて久しぶりだったし。

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男性と別れてまた少し歩くと、橋の入り口が見えた。街灯が切れかかっていて薄暗い、静かな階段の登り口。
それが見えた瞬間に私の行き先が決定したように思える。この橋の向こう側に行って、帰ってきて、今日は家に帰ろうって。

切れかけの街灯が点滅していた。足元には誰が捨てたかわからないビニールの袋が落ちている。階段の上の方を見るとお星様が見えた。
小さくて、今にも見えなくなりそうなほどのお星様。まるでそれを目指すように、一段目に脚を乗せた。ブーツの底が石の階段を叩き、奇妙に大きな音がした。
もう片足を持ち上げて二段目に脚を乗せる。今度は、それほど大きな音はしなかった。

人が一人ほど通れるか程度の細い階段。もしも上から誰かが降りてきたら大変なことになったかもしれない。なにせ、横に退くような場所はない。
身体を横にすれば二人ぐらいなら通れそうだけれど、そんなのは小っ恥ずかしいし。それでもしょうがないときにはそうするしかないのだけれど。

階段の中腹まできて、一度立ち止まって大きく息を吐いた。真っ白い息は夜空に浮かび、すぐに消え去った。
目指そうとしていた小さなお星様は、いつの間にか見えなくなっていた。少し残念に思ったけれども、それでも登ることはやめない。別にどうでも良かったし。

階段の上に辿り着き、もう一つの大きな息を漏す。周りを見回す。固まってしまった。登り始めたときには、当然誰もいないのだろうと思っていた。
もともとそれほど大きな橋でもないし、昼でも誰かが通ること自体が珍しい橋。落書きさえもなく、かと言って綺麗ってわけでもない。
だから、当然のように私の一人なのだろうって思っていた。けれども、違った。

真っ白いブラウス。膝下ぐらいまでのスカート。黒いカーディガンを着ているけれども、とても温かそうには見えない。
背は私と同じぐらいだろうか、それよりも小さいかも知れない。そんな少女が一人、手すりから身体を乗り出して橋の下を見ていた。
しばらく硬直していたけれど、気がつけば慌ててその少女へと歩み寄っていた。

「こんばんは」

声をかける。ちょうど、さっきの初老の男性にされたみたいに。少女がその声に反応したのか、私の方を見た。とても、イヤな目をしていた。
なんと言えばいいのかわからないような、すごくイヤな目。怒っているでもなくて、かと言って悲しんでいるわけもない。私の口では言いようもないほどの、不穏な表情。その少女が口を開いた。

「……私ね? ここから、飛び降りるの……」

そう言うや否や、彼女は手すりによじ登り川の中へと消えていった。余りにも急すぎて、止めることだなんてできるわけもなかった。
小さく水の跳ねる音がした。それから少し遅れて、川の中を見た。真っ暗闇で、何も見えない。どうしよう、警察に連絡しないと。いいえ、それよりもお母さんに?
じゃなくて、もしかするとあの子を探しに行くのが先かも。なんてあれこれ考えていると、こんばんは、と声がした。さっきの自転車の男性だった。

「……私ね? ここから飛び降りるの……」

勝手に口が開いて、気付けば橋の上にいる男性を見上げていた。いったいなにが起こったかだなんて、わかるわけもない。
ぼちゃん、と水が跳ねる音がしたと思えば何も見えなくなった。

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次の日、昨夜の内に行方不明者が出没したとニュースにあった。その行方不明者の名前のテロップが流れる。その中には妹の名前まで書かれていた。

見上げる顔

見上げる顔

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-23

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