菫とカステイラ
女学校の前にあったカフェーの名前なんといったかしら?
私は前に座ってカステイラを口に運ぶ 菫に尋ねた。菫は、私をちらりと見てすぐまたカステイラを口 に運びながら、忘れてしまったわ。と言った。それよりも 芙沙子さんこのカステイラ美味しいわ。と続けてまた口に運ぶ動作を繰り返した。ちっとも美味しくなさそうに。
私は、女学校を卒業する前に中退して東京府の叔父の知り合いのもとに嫁いだ。菫は地元の方と女学校を卒業した後に結婚した。菫とはそれきりだった。だから 麹町の帝国劇場の前で菫に後ろから肩を叩かれたときは驚いた。 今日は午後から駅前のカフェーで女学生のころのようにお茶をする約束をしていた。
どうやら彼女は夫を早々に亡くし、その後再婚した夫は満州の外交官で近々自分も満州に行くので日本を発つ前に一週間ほど東京に旅行にきているらしかった。どんな伝手で外交官とお見合いなどできたのか興味が湧くと同時に少女時代の彼女の悪い癖を思い出した。
彼女には虚言の癖があったのだ。話し半分程度に聞いておかねば痛い目にあったりする。
私がまだ女学生だったころの話。
女学校の前にあるカフェーに二人で来てあんみつやシベリアを食べながら談笑することが私と菫の日課になっていた。
その日もカステイラを食べながら話していた。
お慕いしている人がたまたま重なってしまった。よくある話だ。私も菫も自由に恋愛することなどはどこか秘密めいていて、浪漫てぃっくな響きがあって、いけないことのような気がして胸が高鳴った。縁談の話はもうそのころすでにきていたので、私は想っているだけでよかった。有体に言えば恋に恋している。そんな自分に酔っていただけだった。カステイラを食べたその日菫が話を大きくして私の両親に告げ口するまでは。
両親は危惧して私を卒業する前に嫁がせてしまった。当時の私の家はその界隈では有名な地主で、多少なりとも私に優越感がないわけではなかった。対して菫は貧乏とはいかないまでも女学校の中では少し浮いた存在だった。そんな菫にはめられたようなことになったのはあの頃の私の自尊心を傷つけるには十分だった。
今の夫と仲が悪いわけではない。適度に遊ばせてもらっているし、女中もいて不自由なく暮らせている。今の私は幸せだ。それでも嫁いだ直後は、私にとってこれは少女時代のよき思い出と割りきれる ほどの器量は持ち合わせていなかった。しかし二十数年経ってようやく大人になって、すっかり忘れてしまっていた思い出だった。おそらく死んだ後も思い出さなかっただろう。と言えば言い過ぎだろうか。いずれにせよあのいたいけな少女の鬱屈した心を受け止めることに何ら抵抗感を感じなかった。今なら私の一部分として愛おしむことさえできそうだった。
もちろんこの一件だけで菫に虚言癖があると決めつけいるわけではない。ただ鮮明に思い出せるのはこの記憶だけだ。彼女が嫌いなわけではないが、どうしても好きにもなれなかった。それは彼女もそうなのではないかと思わずにはいられなかった。
いつの間にかカステイラを食べ終えた菫は珈琲を飲んでいた。
私は煙草。よろしいかしらと一言断ってから煙草に火をつけた。
お吸いになるのね。菫は意外そうに言った。
少しね。嗜む程度よ。私は肩をすくめて、うすく笑って見せた。
もうあの頃とは違う。容姿だけではない好むものも生きて行く場所さえ違うのだ。そんな当たり前のことに今更気づいたように私は煙草を吸って吐いた煙をただ見つめていた。口から吐き出された煙は白く、その不定形な体を散らせて行った。
たゆむ煙の向こうから少女の頃気づけなかった小さな意地が今克明に浮き彫りとなって、目の前にさらされた気がした。
そのあと少しとりとめのない話をしてからそろそろ行きますね。と、菫はそう言って席を後ろに引いた。
満州でもお元気で。
芙沙子さんも。と菫は笑顔で答えた。
あっそうそう。あのカフェーの名前たしか―
菫はカフェーの名前を口にすると、手を振りながら店を出て行った。
きっと菫とはこれきりだろう。
私はカステイラを一口、口に運んだ。
菫とカステイラ