あの日、僕は
一 この日、若槻亜衣は涙した
あまりに突然のことだった。
朝の東京駅は混雑している。案内板の前で渕上風花はぽつねんと、一人佇んでいた。さっきから目の前をたくさんの人が行き交って、肩身が狭い。待ち合わせ相手が早く来ないだろうかと思った。
風花はどうにもぼんやりしてしまう。これから電車に揺られ向かう先ですることがなんだったか、うっかりすると忘れる。それくらい、信じられない事実が舞い込んできたのだ。
「ふうちゃん」
聞き馴染みのある声がして意識がはっきりした。すぐ傍に大学の同期、澁谷小絵が来ていた。軽く手を振って、風花に寄り添う。周囲の喧騒から逃れるように。
「すごい人だね。毎日、こんななのかな」
「うん、きっと。オフィス街だから、平日はとても混むんだろうね」
「人の波に流されそうだった。ふうちゃんをちゃんと見つけられてよかった」
小絵は縁のない眼鏡の奥の瞳を細める。
風花は背が低い。小絵も特別高いわけではないけれど、女子の中では平均的だ。人混みの中から自分を見出すのは骨が折れたろう、と風花は当たり前のことみたいに思った。
「じゃあ、行こうか」
互いの全身黒の服装に目を留めて、声を落とした。力なく頷く。この服装では、嫌でも今日の目的を思い出してしまう。
人の死に触れて、喪に服すための色を身に纏っている。この世に生を受けてから二十一年、人並み以上の不幸を背負い込んでいる人生ではないけど、これまでに知っている誰かの訃報が舞い込んできた経験はある。しかし、それは親戚とか、とにかく、かなりお歳を召された方々で、悲しいは悲しくても、立派に生き抜いたのではないかな、と思えるものだった。
だけれど、今回は異なる。身近な、さらに言えば自分とそう年齢の変わらない存在を失ったのだ。最初にその連絡を受けたとき、肩を落とす、というよりも、思考が停止し、そして抑えが利かなくなってしまったみたいにしてぽろぽろと涙がこぼれた。止まらなかった。頬を拭っても、拭っても、水は引かなかった。
亡くなったのは風花の大学の一年先輩、桜井達也という男だった。平素は物静かで、話し方も穏やかな人だ。同じ学部、同じ中国文学をゆるく研究しているサークルに所属していることもあって、それなりに話す機会も多く、それなりに仲のいい関係を築けていたのではないかな、と風花は感じていた。
でも、違った。
その思いを覆されたのは、達也がなんの前触れもなしに、突然命を絶ったからだ。自らの手で。と、聞いている。詳しい経緯はまだ分からない。それなりに彼のことを知っているつもりでいたというのに、ちっとも分かっていなかった。それとも、誰かが自ら命を絶つときなんて、得てしてそんなものなのだろうか。
風花と小絵は京葉線に乗り込んだ。空いていた席に並んで座り、関係のないことをぽつぽつと話した。当たり障りのない内容を、思いつくままに。窓越しに見える風景は次々に流れた。無感動に、その情景を捉える。喋りながらも、互いの胸にはたくさんの「どうして」が渦巻いていた。どうして。どうして。どうして。
笑いは起きないけど、黙り込むことはなかった。沈黙は訪れたら、その空気に堪えられない、そんな予感がしたから。
ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。電車は県境を越えて、千葉県に入った。電車が目的地に到着すると、風花と小絵はホームに降り立った。都内だとどこの駅も似通っているきらいがあるけど、ここは広告も駅の寂れ具合も言ってみれば異世界のものだ。見慣れない光景に目をしばたたく。
達也さんはこんなところから大学に通っていたのか。風花は思った。時間ももちろんかかるけれど、それ以上に空気感の違いが顕著だ。行ったり来たりを繰り返すことで、自分がそのときにいる場所を強く意識していたのかもしれない。
達也の柔和な笑い顔を思い出す。彼はいつも穏やかに微笑んでいた。この静かな町を見据えると、彼があの性格をしていたのも理解できる。
そんなことを考えても、本人に確かめる術はもうない。達也さんはもう――。ほんとうに、今をもってしても信じられないのだけれど。
駅から斎場までとぼとぼと歩く。時間に余裕を持たせてきたから、焦らなくても大丈夫。二人は作法などを確かめながら、通りを一歩ずつ踏みしめていく。時折吹く風はまだひんやりしていた。三月も後半、冬は終わりを迎えつつあるけど、春の頭は涼しげ。
斎場の雰囲気はいかがなものだろう。不慮の事故でも突発的な病でもない死、それをどう受け入れているのだろう。人は最終的に死ぬのだし、どんな死に方を迎えるのであれ、命の価値はすべて等しかったというのに、死に方についてはあれこれ言われる。達也は特にあれこれ言われやすい方法で――いや、故人の評を下すのは控えよう。風花は首をふりふりと振って、思考を停止させた。
斎場が見えてきた。電信柱に立て掛ける形で、
桜井家斎場 こちら↓
という看板が出ていた。その矢印が指し示す先には、意外にも近代的な造りの建物があった。最近のお葬式は案外、システマチックなのかもしれない。
自動ドアから中へ入り、案内に従って階段を上がる。上がった先に受付があって、そこで記帳を済まし、香典を納めた。
よく、人が死ぬドラマや映画なんかで見る光景が目の前に現れた。整然と並んでいる参列者たち、その向こうには悲しみに暮れるご遺族、そして花に囲まれた故人の遺影。柔らかく微笑んでいるのは、ほかの誰でもない、達也。風花は胸が詰まる思いがした。ああ、あなたはほんとうに……。
ご愁傷様です。
付き合いが続けば、いつか遺族にこの言葉を告げる日が来たかもしれない。それでも、こんなに早いとはちっとも考えなかった。
遺影をまっすぐに見つめる。何度見ても、桜井達也だ。また、どうして、が去来する。
――危機的状況に立ったとき、絶対に助けてくれると言い切れる存在って、誰も持ち合わせていないのではないかな。
飲食店の片隅、食後の紅茶を口に運びながら、彼が言っていた言葉を思い起こす。焼き付けられたその表情とともに。
あの日、達也がほんとうに語りたかったこと。伝えたかったこと。
(私は、なんらかのサインに気づけなかったのかもしれない。達也さんが発していたサインに)
こんなことを胸の内で密かに考えてしまうほど、風花が最後に達也と会っていた日は、達也の死ぬ直前だった。でも今はまだ、そのことを誰にも、隣にいる小絵にも話せずにいる。風花は思う。今日、ここに来たのは、彼が伝えたかった言葉を確認するためだったのかも。もう、語る口を持たないというのに。
焼香を済まし、整然と並べられた椅子たちの後方に腰を下ろす。その間も御経の読まれる声が続いていて、すでに座っている人たちは数珠を持った手を合わせていた。目を瞑り、前方に意識を向ける。
焼香の際に間近で見られた達也の遺族は三人。父親と母親、それに妹がいた。風花は三人とも初対面だった。妹がいることは、本人からたまに聞いていた。似てない、と照れ臭そうにかぶりを振っていたけれど、ほんとうに似ていなかった。でも、人となりというか、雰囲気は、なぜかやっぱり兄妹なのだな、と思わせるものがあった。なぜか。
御経は途切れることなく読まれる。しめやかな空気の中で達也の遺影を見つめていた風花の頬を、一筋の涙が伝った。
出棺の直前になって、達也にお別れの言葉を告げることになった。参列者が順番に棺の中を覗いて、小さな声で言葉をかけていく。風花と小絵はやはり、その最後尾に連なった。待っている間に気づいたが、大学で何度か見た憶えのある人が何人か来ていた。見憶えがあるだけで、名前は出てこない。達也と生前親しかったのだろう。
渡された花を一輪、棺の中に入れる。それから、達也の顔を覗き込んだ。その顔は化粧が施されて、とても綺麗だった。こういうお別れの言葉の機会を設けるくらいだから、綺麗なまま亡くなったのかもしれない、とは考えていた。だけど、実際は予想以上に綺麗で、でも生気がまるでなかった。どんなに表面が装われても、生きているかどうかは見た瞬間にはっきりと分かってしまうのだ。
風花と小絵は両手を合わせながら、囁きかけた。
達也さん。
二人とも、名前を呼んだだけで、それ以外になにを言ったらいいのか分からなくなってしまった。伝えたいことも、確かめたいこともたくさんあったと思っていたのに。
さようなら。
別れの言葉だけ棺の中に落として、ついと視線を逸らした。少し離れたところでこちらの様子を窺っていた遺族に頭を下げ、お棺から立ち去った。
それが二人にとって桜井達也の姿を見た最後になった。
外は晴天に恵まれていた。少し風が冷たい。風花と小絵は案内に従って、ほかの参列者と一緒に屋外に出ていた。
甲高い音を響かせながら霊柩車が走り出す。達也はあっという間に遠ざかっていく。また、涙が瞼からこぼれた。静かに合わせていた両の掌に覚えず力が入る。
霊柩車が見えなくなると、告別式がこれまでであることをアナウンスされた。風花と小絵は目を合わせ、軽く頷いた。互いに、目が赤く腫れていると感じた。最寄り駅まで歩き出す。
無意識のうちに行程の半分程度まで進んでから、今自分は幽霊みたいな足取りをしているのだろうか、と風花は考えた。きっと、そうだろう。ふわふわしていて、地に足がついていない感覚。今までの積み重ねから、機械的に両足を交互に出すだけ。
「ふうちゃん」
小絵が風花に話しかける。前を向いたままで、その横顔は無色透明な表情を浮かべていた。
「うん」
「この後、どうする?」
「うん……帰ろうかな」
拘束されていた時間は短かったのに、なんだか疲れていた。
「そうだよね」
小絵も帰ることにしたようだ。大学は春休み期間で授業はない。ただ、二人は就活生だから暇ではない。それでも、今日はなにもする気が起きなかった。
駅が見えてくるまでこの街の印象を話した。式に来ていた見憶えのある人たちの話もした。その胸中では、どうしてこんなことに、が幾度も行き交っていたというのに、二人とも口にはしなかった。
経験したことないことを経験したときって、結局は普段している行動を同じようになぞることしかできない。そんなことを思い、風花は遥か先まで見晴るかせる空を眺めた。ひどく透明だった。
眠っていたらしい。意識を取り戻し、目を開くと、もうすぐ降りなければならない駅だった。隣の座席に目をやると、こちらも眠っていた小絵がもたれかかってきていた。危うく、二人揃って寝過ごすところだった。安心の息を漏らしてから、風花は小絵を揺り起こした。
お昼どきの車内は空いていた。車窓から射し込む温かい光が眠気を誘う。時間がのんびりと流れる、長閑な空気感。
「もう、着く?」
小絵が尋ね、風花は頷き返した。ずり落ちている眼鏡を指の腹で持ち上げて、お腹空いたね、と小絵は呟いた。小絵にそう言われ、風花も空腹であることを意識した。
「お昼ごはん、どこかで食べる?」
「うん、そうしようか。どこにしよう?」
行き先が決まる前に電車は東京駅に達してしまう。二人は慌てて降り、周囲に急かされるようにしてホームを歩き、改札へと向かった。ほんとうは行きと同様、ここで乗り換えないといけないのだけれど、暗黙の裡にこの駅で食べよう、という考えを共有した。
東京駅周辺はオフィスビルが建ち並んでいる。数時間前の光景に思いを馳せ、都会に帰ってきたのだと実感する。通りの向こうには皇居が薄っすらと見て取れる。
歩きながらよさそうなお店を探した。優柔不断のきらいがある女子二人、なかなか決まらなくて有楽町駅近くまでたどり着いてしまった。そこで見つけた中華料理のお店に惹かれ、二人は入ることにした。
店内は混んでいた。店員さんに二名だと伝えると、少し待つように言われた。空席があるようだが、予約席なのだろうか。
やがて、席に案内された。数分待たされただけだった。木製の椅子に腰かけ、渡されたメニューを広げた。風花はワンタン麺を、小絵は海鮮チャーハンを、それと小籠包を注文した。冷たい水を口に含むと人心地ついた。
「ちょっと、疲れたね」
思わず、といった感じで風花が漏らした。
「うん。独特な張りつめているものがあった」
誰かが亡くなったときの、あのどうしようもない気持ち、きっといつまでも慣れないのだろうな、小絵はそんな風に言葉にした。
「ほんとうに、突然だったね」
「連絡が来たときは、目を疑った」
達也の死は、彼の家族からサークルの代表に伝えられ、その人は達也と特に親しかった人物すべてに、個別に連絡をした。その中に風花と小絵が含まれていて、通夜と告別式の日程を教えてもらった。連絡を受けたほとんどが前日にあった通夜に参列したそうだ。どうしても都合がつかなかった風花と小絵だけは、今日の告別式に参列した。という、次第だった。
「どうして」風花は初めて実際に口にした。どうして、を。「どうして、自ら……。これから社会人になる、というときに」
小絵は眉根を寄せた。「詳しい情報がないから、勝手な憶測はできないね」
できないのは可能・不可能の問題でもあり、倫理的に差し控えたいという意味合いも孕む。
「小絵ちゃんが最後に達也さんに会ったのは、いつ?」
小絵は顎に手を当てて、「二月の終わり、茅穂が最後」
茅穂は神奈川県の中都市で、港町である。
「それなら、私と一緒だ」
茅穂で仲のいい何人かで集まり、ぶらりと街を巡った。その際に小絵だけでなく、風花もいた。
「あの日、特に達也さんの様子がおかしかった、なんてことはなかった、気がする。分からないけど」
「ううん。小絵ちゃんの言うとおり、私もいつもどおりだと感じてた。就職先の話もちらっとしてたし」
達也は都内の公立図書館で働くことが決まっていた。
「そこから一か月、私は会ってないし、メールのやりとりもしていなかった。勉強が忙しかったこともあるけど」
小絵は就職活動を一応しているが、第一希望としては現在通っている大学の院に進みたいと望んでいる。
話している二人の元に、先に小籠包が運ばれてきた。湯気の中に八色の小籠包がかわいらしく置かれていた。すべて味が異なるらしく、風花と小絵はそれを順番に選んでいった。
「私も」
就職活動中は企業などから山のようにメールが届く。説明会や選考の案内で、それを日々消化していくのに紛れて、プライベートな連絡を取ることが少なくなっていた。
「一か月の間になにかあったのか、それともそれ以前から決定的ななにかが動いていたのか。……いずれにしても、やっぱり憶測はできないね」
小籠包の味はどれも個性的で、とてもおいしかった。悲しみに暮れていても、おいしいものを食べるとおいしいとちゃんと感じられるのは、生きているからだ。
「茅穂で焼き小籠包を食べたね。外側がカリッとしていて、あれもおいしかった」
「ふうちゃん」小絵は微笑んだ。「私も同じことを思い出してた」
つまり達也も、あの日は焼き小籠包に舌鼓を打っていたのだ。
互いに注文したものが運ばれてきた。しばらく食べることに集中し、過去を振り返るのは止めにした。黙々と咀嚼する。
年が明けて、風花が達也と会った日は何度もあった。そのほとんどが大学のキャンパスで、それ以外となると三回だけ。風花はそう記憶している。一回はさっきも話題に出た茅穂でのことで、結果的にこれが達也に会った最後になった。その二週間前、二月の半ばに、雉町で食事をともにした。これも仲のいいメンバー六人くらいで、小絵もやはり一緒だった。
そしてもう一回は一月の初め頃、大学の冬休みが明けてすぐのことだった。このときも雉町で食事した。ただ、この日は風花と達也の二人きりだった。達也が風花を誘い、場所も指定した。ちなみに、雉町は風花の家の最寄り駅だ。
三回とも、達也はいつもの彼だったはず。しかし、なにもなくて人は自分から死を選ばない。なにかあったはずなのだ。どうにも、もどかしかった。
「そういえば勇くんは」食べ終わったタイミングで小絵が訊いた。「このこと、まだ知らないのかな?」
風花は小首をかしげる。どうなのだろう。連絡の届かない場所ではないが。
長島勇はフィンランドにいた。
勇、という名前が示すように、アクティブな性格で、勇んであちこちへ出向くのが信条だ。名は体を表す。高校時代は陸上部に所属していたため体力もあり、体格もしっかりしている。頼りがいがある見た目だ。
勇は以前から興味を持っていたフィンランドにこの春休み、一人で旅行に行っていた。飛行機に乗っている時間を合わせて一週間に満たない旅程だったが、そのために桜井達也の訃報を受け取れなかった。彼もまた、達也と親しくしていた一人だった。
中国文学研究会、という名のサークルに所属している。名は厳めしいけれど、内容は中国文学に引っかけて自由に話し合う、そんなゆるい団体だ。ゆるいと、たくさんの人を抱き込める。まじめな人からなんとなく大学生活を送っている人まで、さまざまな人が一堂に会す。そうすると、次第にそれぞれの性格によってグループができてくるもので、達也や風花、小絵、勇などは日頃からよく時間をともにしていた。
ちなみに勇は二年生である。
勇が達也の死を知ったのは告別式のあった日から三日後、春雨が降りしきる深夜だった。飛行機が日本に到着し、勇は空港から自宅へ帰った。埼玉県に住んでいるため、長い時間電車に揺られながら、母国へ帰ってきたことを噛みしめていた。
家に着き、家族に帰りを告げた。お土産を渡し、旅のあれこれを語り、それから自室へ引き取るまで小一時間かかった。パソコンの電源を入れ、眠る前に、溜め込んでいるだろう連絡をチェックしておくことにした。案の定、メールボックスには未だかつて目にしたことのない数字が記載されていて、勇は不在だった期間を思い知った。
大切な連絡だけ返答しておこう、そう思って件名を流し読みしていると、ふと、違和感を覚えた。一つだけ、どうにもただならぬ雰囲気を漂わせる件名があった。「訃報」
訃報? 差出人は勇が所属しているサークルの代表。去年の冬に代替わりがあったから、彼と同じ二年生だ。
(誰かが亡くなったのか……?)
胸騒ぎがして、その件名をそっとクリックしてみた。いつにない代表の硬い文章を読んで、勇は瞳を限界まで見開いた。
達也さん、が。
信じられなかった。勇は長いことパソコンの前で硬直した。自分が日本を離れていた間に、とんでもない事態が舞い込んでいたらしい。ようやく意識を取り戻すと、勇はスマートフォンを手にし、確認のために電話をすることにした。
旅の疲れなどどこかへ吹っ飛んでいた。夜は深まるばかりだが、勇の神経は研ぎ澄まされていく。
穴井悠には予感があった。
桜井達也の死は驚くべきものだったし、とても悲しかったけれど、その事実に直面してから、だがしかし、その死への予感みたいなものは確かにあった、悠は密かにそう思っていた。
悠は達也と同級生だ。大学で出会った関係だが、同期の中では一番親しかった。もしひっぱたけるのなら、達也の頬を思い切りひっぱたきたかった。自殺するなんて最低だ、と吐き捨てて。どんなに絶望しても、自ら死を選ぶなんて許せない。そこまで思いつめる前に、どうして自分に相談してくれなかったのか。悠の胸にはさまざまな感情が去来していた。
涙は流していない。それでも、絶えず達也のことを考えている。達也のことだけを考えている。生前の些細な言動を思い起こしては、自宅の自室で静かに窓の外を見つめていた。
そんな日々が今日も終わろうとしていたときに、勇から電話がかかってきた。
「悠さん!」
勢いよく声が飛び込んでくる。しかし、すぐには言葉を繋げられなかったらしい、逡巡している気配が伝わってくる。
「おかえり」
まずは、フィンランドに行っていた彼にそう言った。
「あ、ただいまです」
「達也のことか?」助け舟を出してやると、勇はまた黙考した。その応じ方を肯定と認める。
「……ほんとなんですか?」
「俺だって受け入れられていない。だが、どうやらほんとのことらしい」
「達也さんがどうして、そんな……」
この件を知らされた誰もが口にしているだろう。どうして、と。どういうことなのかはっきりさせたいのだ。なまじっか、自死という形では。
「俺に訊かれても困る」
「――ですよね」
「達也とはたまに会っていた。今のところ思い当たるものはなにもないけど、話し合ったらなにか分かるかもしれない。今度、話そう」
「はい。――それなら、風花さんや小絵さんも一緒がいいですかね」
悠は一学年下の二人の顔を思い浮かべた。「そうだな」
電話を切った。家はすっかり静まり返っている。悠もそろそろ眠ることにした。
死んだら人はどこを居場所に選ぶのだろう、そんなことを思ってから。
食べ物を咀嚼しているとき。大学の科目登録をしているとき。そろそろ衣替えかと、春物をタンスの奥から引っ張り出してくるとき。化粧品を買い足しているとき。友達と待ち合わせの連絡を交わしているとき。
生きていることを確認できる瞬間はそこここに潜んでいる。明日、あるいはそれ以降の自分のために施す作業は、これからも生活を続けることを前提に行う。
澁谷小絵はため息を漏らした。それに現在は、大学卒業後の生活のために就職活動に励んでいる。人は本来、死がすぐ訪れるなんて露ほども考えていないものだ。
死ぬ気になればなんだってできる、と言うけれど、死を意識してしまったらなにも手につかなくなる。今後に生きてこないと分かっている経験を自分の方へ引き寄せようとするほど、人は健気ではない。
小絵は大学院へ進みたいと考えていて、それが第一志望だ。だが、希望どおり進めるとは限らないのはもちろんのこと、就職活動をまったくしないのも不安になるため、業界を絞って活動している。もしかしたら、院よりも魅力的な場所が待っているかもしれない。なにごとも経験だと言い聞かせ、毎日のようにスーツで出かけていく。
大学生は私服がほとんどだったのに、急に当たり前の顔をしてスーツで出歩くようになる。不思議だと思う間もなく、次々とあちこちへ飛び込んでいく。そして気づいたら大人になっている。やっぱり、最近はややこしいことに思いを巡らしてばかりだ。
小絵は都内随一のオフィス街・黄樹であった会社説明会から抜け出し、久しぶりに外の空気を味わった。知らず、肩を圧迫していた見えないプレッシャーから放たれる。
空はすっかり夕暮れの色。家にまっすぐ帰ろうか、書店にでも寄っていこうかと悩んでいる矢先、電源をつけたスマートフォンがメールを受信した。差出人は後輩の勇。
『こんにちは。お忙しいところ、すみません。勇です。
今日の夜、空いてますか? もしお時間よろしければ、みんなで集まりたいと思っているのですが。連絡お待ちしてます!』
メールだけじゃなく、着信通知もある。直接都合を確かめたかったらしい。
みんな、というのは風花とか悠、歩美、亜衣あたりだろうと察した。集まる理由に触れられていないが、今話したいことがあるとすればおそらく達也についてか。
同じ大学の仲間たち。性別も学年も異なるがなんとなく一緒にいてしまう誰か。それがほんとに頼りになる存在なのかもしれない。だけど、達也のことがあって身に沁みた。なんとなく一緒にいる関係ではその誰かを奥底まで理解することはできない。悩みも苦しみも、掬い取ってやれると請け合ったらそれは驕りだ。
なにも知らない。関係性の適度な距離なんて分からないからしょうがない、と当事者は割り切ることもできるけれど、周りはそうは感じない。察する部分があったのではないか、相談されていたのではないかと勘繰られる。分かってあげたかった。でも、分からなかった。それがすべて。
小絵が最も日頃よく会っているのは勇だ。風花も同級生の中では特に仲好しな方だけれど、勇はどうも馬が合うようで。
勇は変わっている。人の懐に入り込んでくるのが上手いのに、根っこの部分にドライな要素がある。近すぎなくて、かといって遠すぎもしない。明るい性格なのに理想をはなから諦めている向きもある。
小絵たちが自然と集まる関係になれたのは、たぶん勇のおかげだ。ほかの人はどちらかと言うと消極的な性格の人間が多いから。
電話をかけると勇はすぐに出た。
「澁谷です。今、黄樹にいるのだけど」
勇の行動力の賜物で、予想していたよりも早くみんなで集まる機会が訪れた。悠は改めて、後輩の実行力を認識した。
半田という大学の最寄り駅前で待ち合わせをした。勇、悠、風花が揃い、そのタイミングで小絵から電話が入った。半田から二駅と近い黄樹にいる、ということだったので、こちらまで来てもらった。
突発的な集合でも四人揃った。それ以外は用事があってだめだったらしい。
「じゃあ、行きましょうか」
四人の中で一番若い勇が先導して、適当な定食屋に向かった。大学生なのにすぐお酒とならないのは、このメンバーに酒好きが少ないためだ。悠は炭酸系の飲み物が苦手で、ビールが飲めない。
達也の顔が自然と浮かぶ。彼はお酒に強かった。どんなに飲んでも悪い酔い方をしなかった。コンパなどで彼が残っているお酒を処理したり、酔いつぶれた人を介抱していたりする姿はよく見られた。
四人掛けの席に通された。悠と勇が並び、その向かいに風花と小絵が並んだ。周りの席はサラリーマンやOLばかりで、一見して大学生と分かるのは自分たちだけ。女子高生のグループが飲みものと甘いもので粘っている風なのも見受けられた。
「さて、と」それぞれが注文を済ませた頃合い、悠は話を切り出した。「どこから話したものかな」
「いきなり本題に入るんですか?」
勇はそう言いながらも、本気で戸惑っているようには窺えない。悠が言わなかったら、自分が代わりに切り出しただろう。
「でも、こうして集合した時点で話すことは明らかな気が」
と、風花。
「嫌でも、話さなければならないこと――かも」
と、小絵。
空気は軽くない。けっしてどんよりと重たくないけど。悠は達也に文句をたれたい思いだった。お前のせいで、ずいぶん苦しんでいる。
「どうしてなのか」悠は慎重に言葉を選んだ。「俺たちは誰よりもその理由を知りたいと思っている。もしかしたら、悲しみよりも先に分からなさが立っているのかもしれない」
「そのときの詳しい情報がないから、会っていたときの様子から推察するしかありませんけどね」
勇が言う「そのとき」とは、達也が自殺をした瞬間のことだ。それまでなにをしていたのか。どんな手段を用いたのか。第一発見者だと聞く家族はどのような対応を取ったのか。いくら俺たちが達也と仲が好かったとしても、それらを知り得るのは骨だ。
達也を失った喪失感は大きい。涸れていてもおかしくないくらいの時間、涙を流してきた。すでに次の段階に入っている。
「最後に会った日は、あの日なんですよね」
風花がおずおずと顔ぶれを見やる。
「告別式の日に私とふうちゃんは話したんですけど、最後は茅穂で集まった日でした」
小絵の言に、勇も頷く。「僕もそうです」
三人の視線が悠に集中する。茅穂へ遊びに出かけたメンバーは五人いたが、その中に悠は含まれていなかった。ちょうどその頃、サークルの卒業旅行で中国に行っていたからだ。中国文学の研究が旗印のサークルだけに、卒業旅行で中国へ渡るのはお約束になっている。
達也が四年生でありながら茅穂へ行けたのは、卒業旅行を断ったからだ。悠は記憶を遡ってみる。達也はなにか外せない用事があるみたいで断ったが、具体的な理由はそういえば聞いていなかった。茅穂に行きたかったから、ではないとは分かるけれど。
悠が最後に達也と顔を合わせたのは、卒業旅行の直前。一人暮らしをしている悠の宅にふらりと達也が現れ、少しゆっくりし、一冊の文庫本を借りて帰っていった。――あの本、まだ返してもらっていないけど、取りに行けないかな。
「俺は卒業旅行の直前に会ってる。俺の家に達也が来た」
特段、変わった様子は見受けられなかったが、と付け加えた。
でも、よくよく思い出してみれば、あの日はずいぶん達也は大人しかった気がする。いつも大騒ぎする性質ではないけれど、なんというか、必要最低限の発言しかしていなかった気がする。そのときはなんとも思わなかった、思い出したらそう感じる程度ではあるが。
「薄ぼんやりと、ずっと死を選ぶタイミングを見定めていたのか。なにかがあって、突発的にことを起こしてしまったのか」小絵が、死を選ぶ、と口にした瞬間、悠は不覚にもびくりと反応してしまった。
「ほんとうに、誰にも相談とかしていなかったんですかね」
勇が寂しげに呟く。言い換えるなら、自分たちにはせめて相談してほしかった。人生を終わらせるくらいなら。
結局、集まったところで有力な証言は得られなかった。この後、話し合いは自然終了を迎える。なぜなら、風花がぽろぽろと涙を流し始めたからだ。
誰が悪いのでもない。それでも、風花は少なからず責任を感じないではいられなかった。
年明けすぐ、達也と二人で会ったとき。なにか察知していれば。なにか問い質していれば。最悪の選択へと至る前のストッパーになれればよかった。風花は自室でベッドに横たわり、枕に顔を埋めた。後悔の念がさらに涙を滲ませる。
それまでにも達也と二人で会う機会がないわけではなかった。映画を観に行ったり、美術館へ行ったり、庭園を巡ったり、いろんなところへ出向いていた。
風花と達也は仲が好かった。だけど、友達同士でしかなかった。お互いに、それ以上の関係へと踏み込むつもりはなかったらしい。少なくとも、風花はそうだった。
でも、今となっては確かめられないけど、達也が心の奥底でどう思っていたかは分からない。もしかしたら――ということはある。
風花は枕から顔を上げ、ふう、とため息をついた。そうだったとして、どうすればよかったのかしら。
渕上風花のこれまでを振り返ると、大学生活はかなり落ち着いた生活ができている、と言える。父親の仕事の関係によりイギリスで生まれ、いったん日本に帰ってきていたが、小学校の終わり頃から中学校にかけてインドで暮らした。その土地に慣れるのにあくせくしている間に日常は流れていき、浮かれたことにかまけている余裕ははっきり言ってなかった。高校は私立の高校へ進学し、別の理由でまた大変だった。
大学へ進学し、初めて自分の落ち着ける場所を見出せた心地がした。そんな折に出会ったのが達也であり、小絵であり、勇や悠であった。
こんな日々がいつまでも続いたらいい、そう感じていた。達也や悠がもうすぐ卒業して、社会の海へ漕ぎ出すときは近づいていたけれど、そんな気がまったくしていなかった。ところが、それよりも早く、もっと力強い形でその日はやってきた。
窓から夜空を見つめる。何億光年向こうで瞬く星たち。ここから見える星も、実際は消滅している可能性もあるという。人の心はそれくらい遠い。遠かった。
大学のキャンパスは人もまばら。新学期が始まればお祭り騒ぎのようになることだろうが、今は鳴りを潜めている。静かな敷地内をてくてくと歩いていく。
勇は大学に来ていた。新歓に向けての話し合いがあるためだった。去年の秋から冬へ移ろう頃、現三年生から二年生へと引き継ぎが行われた。サークルの幹部代と呼ばれる一年がスタートした。新三年生になれば、これからのサークルを支える新一年生を勧誘し、迎えないといけない。
高校までと違い、大学はあまりにスケールが大きく、誰か一人の死でその流れが滞らないことを知った。達也の死はサークル内に大きな衝撃を与えたけれど、それでも新歓期に向けて勇たちは動こうとしている。申し訳ないと思う反面、ではどうしているのが正しいのか分からなかった。
サークルの部室がある学生会館へと足を踏み入れる。ふと、見慣れた後ろ姿を見かけ、呼ばわった。
「亜衣ちゃん」
ほかの大学生はいろいろだろうが、勇たちは男女問わずファーストネームで呼び合うことがほとんどだった。
声に反応して、若槻亜衣がゆっくりと振り返る。勇と目が合ってもにこりともしない、聡明さを窺わせる瞳。縁のない眼鏡の奥で柔らかく瞬いている。
亜衣は整った顔立ちをしている。しかし、そのクールな性格から、異性から敬遠されてしまうことも多い。勇はいつも、もう少しだけでも愛想を好くすればいいのに、と心配していた。当人からしたら、余計なお世話だろうが。
「勇」
亜衣も勇と同じ二年生。四月から三年生になる。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
大学生の春休みは長い。会わない人にはとことん会わなくなる。
「うん、まあ」亜衣は気のない返事をよこす。「フィンランドに行っていたんだっけ? どうだった?」
「楽しかったよ。お酒もおいしかったし」
「それはなにより。無事に帰ってきてくれて――」
よかった、と続けようとして、亜衣は口を噤んだ。脳裏に達也がよぎったのかもしれない。もう二度と返らない人が身近にいる。
二人で所属しているサークルの部室まで歩いた。学生会館内はキャンパスの静けさがうそみたいに騒がしかった。みな、来る新学期に向けて、サークルごとに準備しているのだろう。
「驚いた」
エレベーターに乗り込むと、亜衣が再び言葉を紡いだ。館内が騒がしいのに驚いたのではないだろう。
「俺も」
だから、勇は同調した。
「私、人に見せられないくらい泣いちゃった」
勇は頷く。感情をなかなか表に出さない亜衣が泣き崩れるほど、それはセンセーショナルな出来事だったのだ。
「どうしてなんだろう、って話してみたけど分からなかった」
「誰と話したの?」
「悠さんとか、小絵さんとか、風花さん」
「だろうと思った」エレベーターの箱から吐き出されると、亜衣は部室へは向かわず、そのフロアの奥まったところへ勇を誘った。
日があまり差さない曲がり角の向こう。心なしか、亜衣と向かい合うことにどぎまぎする。ほら、いつもそれくらいしおらしくしていればいいのに。口に出して言わないけれど。
「どうしてこんなことが起こっちゃったんだろう」
「みんな、それを知りたいよ」
「……風花さんじゃないのかな」
勇は返答をためらった。なぜ、ここで風花の名前が挙げられるのか。
「どういう意味?」
勇が訊いても、亜衣は言ってしまったことを後悔したかのように眉を寄せ、顔を背けた。
「風花さんと達也さんの間になにかあったの?」
「勇」亜衣は唇の前に指を当てた。「無責任な噂を元にした推測だから、ほかの人には絶対に言わないでね」
勇は真剣な眼差しで首を縦に振った。
楽しそうなはしゃぎ声が遠くでしている。ずっと遠くで。形のよい唇が次にどのような言葉を紡いでいくのか、勇は注視した。
「達也さんは風花さんのことが――好き、だったんじゃないかな」
達也と風花の仲睦まじい光景が思い浮かんだ。あながち、まったく無責任な話でもないと思う。ただ、それが達也の死に関わってくるかどうかは……。
「分かってる」亜衣は勇の考えを読んだかのように遮った。「私は、達也さんが風花さんのことを好きで、それで想いを伝えて、でも振られてしまったんじゃないかと思ったの」
報われないと知った瞬間に死を選ぶほどに誰かを恋うことなんてあるのだろうか。あったとしても、達也が果たしてそうだったのか。
もし、ほんとうだったとしたら、風花が背負うものは途方もなく重いだろうな、と勇は考えた。そして、この話はけっして外に出してはいけないな、とも、また。
季節は春に入った。コートがなくても屋外で生活できるようになり、あちこちでは桜の花が咲き乱れている。
強い風。通りを歩いていた風花は、春一番かな、と胸の内で確かめるように呟いた。
今日も今日とて就職活動があり、選考に直結する説明会に参加し、エントリーシートが通過した人が次回の面接に呼ばれる運びとなった。だんだんと就活のシステムが分かってきたが、どの企業も会社への誠意を試すような真似をする。大人にならなければ。風花はここ最近、そんなことを思う。
日が暮れかけていた。そろそろ家路につこうかと駅に向かいかけたところで、不意に誰かに肩を叩かれた。そっと振り向くと、よく見知った顔がそこにあった。きらきらと目を輝かせている。太陽みたいな少女――生田歩美だ。
「歩美ちゃん」
「ふうちゃん。ご無沙汰!」
風花はおしなべて、ふうちゃんと呼ばれることが多い。
歩美は風花と同学年で、先の秋までサークルの代表、幹事長を務めていた。明るく、前向きで、いかにもみんなのまとめ役といった存在だった。
「歩美ちゃんも、そこの説明会に来てたの?」
歩美もスーツ姿だった。フットワークの軽さを表すかのようなパンツスーツ。一方、風花はシックなスカート。
「うん、そう。ちょっと興味あったから」
偶然だね、と二人は手を取り合って喜んだ。就職活動中はそれまでいつも顔を合わせていた人たちと会えなくなってしまう。たまに知り合いの顔を見つけると安心感を覚える。
「歩美ちゃん、この後の予定ある?」風花は提案した。「もしよかったら、ごはん、どう?」
「行きたい!」
積もる話もあるだろうしね。
話はまとまった。二人は駅の方まで歩いていくと、駅前のおしゃれなイタリアンのお店に入った。
夕飯どきには少しばかり早い。店内は空いていた。通りに面した明るい席へ案内される。
おいしそうなメニューの品々に嬌声を上げ、ここのところの就活についてひとしきり話すと、ふいと沈黙が下りた。互いに、互いの胸の内を窺っているような間。
「あの……」
二人の声が重なった。ふっと小さく笑うと、しかしすぐに真剣な表情に変わった。歩美は豊かな胸を張るようにして身を乗り出してくる。
「達也さんのこと、なんだけど」声を潜める。「ほんとに、残念だったね」
残念でならない。悔やんでも悔やみきれない。
「うん……」
「私、茅穂のとき以来会っていなかったから、まさか、って思いだった」
「私も。告別式の日に小絵ちゃんとも話したんだけど、小絵ちゃんも私も茅穂で会ったのが最後だった、って」
茅穂へ出向いたのは二月の終わり。冬の寒さは依然として去らず、そのくせ花粉症が存在感を強めていた頃。よく晴れていた。国内有数の中華街を練り歩き、いい思い出になった。まさか、達也との最後に過ごした時間となるとは思いもしないで――。
「詳しいことはなにも聞いてない?」
「うん、なんにも」
実際のところ、どうなのだろう。遺書、とまではいかなくても、達也の決意を暗に示すようなものが見つかっていないのだろうか。
遺族はサークルの代表に訃報を伝えてきたけれど、これが数か月前のことだったら、受け取っていたのは歩美だった。歩美ほど思い入れが強かったら、今回みたいな冷静な対応はできなかったかもしれない。風花はそう思うのだ。
「なにに悩んでいたんだろう」
消え入りそうな声で呟く。いつも元気な歩美の俯きがちな顔は、あまり見たくない。
「就職、とか。たとえばだけど」
それまで考えてもいなかったのに、ふと、風花の脳裏によぎった。就活をしているだけでも感じる、将来への期待と同時に抱く不安。
「就職――でも、達也さんは希望したところに就職できた、って話してたから」
「うん、私もそう記憶してる。やっぱり、違うことなのかな」
そうなると、すぐに袋小路だ。真相にはどうがんばってもたどり着きそうにない。
ぼんやりとした不安によって死を選んでしまった作家もいるくらいだ。死人はその死の真相を余すところなく語ることなんて絶対にない。
達也の声が聞きたかった。抱えているものをすべて教えてほしい。話してほしい。もう二度と叶わない願いであればこそ、強く。
「ふうちゃん」歩美がまっすぐ視線を向けてきていた。重要な打ち明け話をするときみたいに、真摯な双眸に捉えられ、風花は身を固くした。「達也さんのこと、好きだった?」
男勝りなさっぱりとした髪型をしている歩美は、ときに少年のような表情を浮かべる瞬間がある。風花は、彼女にはいつまでもこのままでいてほしい、そんな思いを抱いた。
ベッドの上で単行本を読んでいた。でも、さっきからいろんな感情が目の前を通り過ぎて、まるで内容に集中できていない。頭に入ってくるのは上滑りした文字ばかり。舞台の情景も人物たちの表情も見えてこない。
諦めて、本を閉じることにした。モスグリーンのカーテンの向こうは朝の気配。ふて寝を決め込むはずが、こういう日に限って目が醒めてしまうあたり、皮肉なものだ。
来客を知らせるベルが鳴った。足音を立てまいと静かに玄関へ向かい、ドアアイからそっと覗き込んだ。彼もこちらの気配を感じようとしていたらしく、その顔が至近距離にあって悠は苦笑した。
「悠さん。ドアの近くまで来てますよね? 開けてください」
勇が声を大にする。朝っぱらから、ご苦労なことだ。勇は埼玉に住んでいるというのに。後輩の殊勝な働きによって、悠はあっさり抵抗をやめた。ドアを開け放ち、勇を招いた。
「おはよう」
「おはようございます」
ずいずいと入ってくる。悠は肩を竦めた。
「朝ごはんを食べに来たのかな?」
悠は料理上手だ。いい主夫になれる、と専らの評価である。
「もう食べてきました」
「家、近くないよね。かなり早起きして来た?」
勇は首を横に振る。「たまたま、この近くに住んでいる学部の友達の家に泊めてもらっていたので」
たまたま、かね。
「悠さん」勇は表情を険しくする。「卒業式行かないつもりなんでしょ?」
どうして分かった、と訊こうとしてやめ、代わりに「行かせるために来たのか」と返した。
「そうです」
ほんとうによくできた後輩だと、悠はしみじみと実感した。普通、他人のためにそこまでできない。勇は人の懐へ躊躇せず飛び込んでいける性格で、それを理解しているつもりだったけれど、たまにこうしてそれを思い起こさせる。
「――達也が行けない卒業式に参加してもしょうがない」
「達也さんが行けないからこそ、悠さんは行くべきです」
代わりにその光景を目に映してこいとか、そんな言葉は続けなかった。理屈ではなく、ただ、悠は行くべきだという思いに突き動かされて、勇はここまで来た。
「さあ、行きますよ」
もちろん、誰も迎えに来なければ家にいるつもりだった。だけれど、そこまで頑として出ないつもりもなかった。悠は諦めたように笑い、「とりあえず、着替えさせてくれる?」と言った。
誰かの視線を感じて、風花はパッと振り向いた。大勢の人で賑わう大学キャンパス、その賑わいの一隅から強い眼差しが注がれている気がした。しかし、そうと思った方には誰の影もない。
気のせいだっただろうか。風花は首を傾げて、再び歩き始めた。
春休み中でありながら、キャンパスにたくさんの人がいる理由は、今日、卒業式だからだ。そして、風花がここにいるのもまた、卒業式に出る先輩たちに会うためだった。お別れを告げるのと、女性陣の袴姿を見るのと。
桜はまだ咲き出したばかりで、それでも春の訪れを実感するには十分だった。桜並木に挟まれた道をてくてくと歩く。
卒業式が行われる講堂の近くで悠と勇を発見した。勇はラフな格好で悠になにか話しかけている。一方の悠はスーツ姿。
(あの隣に達也さんもいたのかもしれない)
風花の胸の内に、自然とそんな考えが湧いた。
近寄っていくと、向こうもこちらに気づいた。勇は大げさに手を振り、悠は照れ臭そうに笑った。
「お二人とも、こんなところでなにしてるんですか?」
「部室に行ったらほかのみなさんもいらっしゃるのに、悠さんが頑なに行こうとしないんですよ」
サークルの四年生は式の前に部室に集まる約束をしている。
「それで、勇くんは悠さんがちゃんと式に出るか見張っているわけだ」
「まあ、そんなところです」
悠はふてくされた顔を浮かべる。「さすがにここまで来たら出るよ」
今日、もしかしたら悠が来ないかもしれないと風花は思っていた。だけど、勇が予想以上のお節介だった。彼がいたから、悠は今ここにいる。
「悠さん、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
――達也さんのこと、好きだった?
どうして、このタイミングで思い出すのかしら。
――好きって、ただの好きじゃなく? 特別な意味?
こくりと、歩美は頷いた。唇を真一文字に引き結んで。
ちゃんと答えなければいけない、と風花は感じた。でも、どう答えたら正しいのかほんとに分からなかった。
――分かんない。
分からないよ。きっと、いつまでも。
桜、早く咲いて通りを埋め尽くして。内側にわだかまるもやもやしたものをすべて取り払ってくれるくらい、鮮やかであれ。
やっぱり話しかけられない。どんな顔をして、どんな言葉を掲げて、とにかく、どう近づいたらいいのか分からない。
その姿を見た瞬間、間違いないと思った。背が低く、色が白く、肩にかかるくらいの黒髪が風に揺れていた。写真でよく見ていたのとまったく同じ。彼女がフチガミ・フウカ。風に花と書いて、風花。
視線を感じ取ったのか、くるりとこちらの方を振り返る。咄嗟に隠れたときは、息が止まる思いがした。よくよく考えてみれば、彼女はこちらを把握していないはずなのに――いや、一度だけ会っている。話してはいないけれど、彼女は告別式に参列していた。友達らしき人と一緒に来ていた。
しばらくじっとしゃがみ込んでいた。もういいかな、というタイミングでそっと立ち上がる。彼女は少し進んだ位置にいて、男の人二人と談笑していた。一人は卒業生らしいと格好を見て判じられる。――あの二人も写真に映っていたし、それに、お通夜でも見かけた。卒業生の方は達也と同級生か。
一人でいるときならまだ話しかけやすかったかもしれない。諦めて帰ろうかとしたが、わざわざ東京まで出てきたのに、と思うと諦めきれなかった。もう少し、様子を見てみよう。チャンスが訪れるのを期待して。
笑みを浮かべている彼女の横顔の美しさに、ちょっとだけ胸が痛んだ。
大きな欠伸をして目に涙をにじませていたら、それを向かいに座る亜衣に見咎められた。眼鏡の奥の瞳を冷たく、静かに瞬かせる。
勇は悠をちゃんと卒業式に送り届けてから、自分は保護者でもないので見に行くわけにもいかず、学生会館の部室に来た。すると、なにやら用事があったという亜衣がいた。具体的にどんな用事なのか勇が訊いても話さなかったが、ノートを広げているあたり勉強だろうか。
部室は雑然としていて、最大で十人が着席できるかどうか、くらいの広さしかない。ただ、ここは暇な人しか寄らないので、数十人いる勇たちのサークルでもなんとかなる。
「そういえば、あなたはなにをしに今日来たの?」
勇が姿を見せたとき、勇は亜衣になにをしているのか尋ねたが答えが得られず、また、亜衣は勇に訊き返さなかったため、互いに無言で向かい合っていた。それぞれの作業に没頭し、たまに向かいの存在を意識した。
「卒業式」
「おめでとう。大変お世話になりました」
「待って。俺はまだ卒業しない」
「先輩たちに会いに? 袴姿が見たかったの?」
「あ、まだ見てなかったな。でも、それが目的じゃなくて、悠さんを起こして、卒業式に連れて行ってきたところ」
亜衣は怪訝な表情を浮かべた。「わざわざ?」
「そう、わざわざ。困ったもんだ」
「それ、別にあなたがどうこうする問題じゃなかったのでは?」
「というと」
「大方、悠さんが卒業式に行きたがらなかったんでしょ。……達也さんのことがあったから」
「うん」勇は頷いた。「だけど、俺は行くべきだって思った」
「どうして?」
「分からない。使命感?」
亜衣は首を傾げた。さっきから一度も笑っていない。
「勇って」亜衣は少しだけ唇を笑みの形にした、ように見えた。「思っていたより、お節介な人だったのかもね」
「いやあ、それほどでも」
褒めてないわよ、と亜衣はおもしろくなさそうに呟く。「そこまでする必要はなかったと思うけど、でも、私も悠さんは卒業式に行くべきだったって思う」
「でしょう?」
「なんとなく、だけど」
亜衣は達也を思った。不幸が彼に舞い込んだのならまだしも、自ら人生に終止符を打ったのでは、卒業式に参加できないことが悲劇とは言えない。いや、その決断に追い込まれた時点で、もしかしたら不幸だったのかもしれない。
誰かが部室のドアをノックする音が響いた。開いてますよ、と勇が返すと、ゆっくり時間をかけて開いた。
「あれ、四年が誰もいない」
悠が一人で戻ってきた。
「悠さん。お早いお戻りで」
「亜衣ちゃん、お久しぶり」
勇を半ば無視して、悠は亜衣に声をかけた。
「どうもです」
「ほかの四年生方はいろんな友達と別れを惜しんでるんじゃないですか? 悠さん、友達少ないんですか?」
「ほっとけ」
「そうだ、悠さん。ご卒業おめでとうございます」
亜衣がぺこりと頭を下げると、「ありがとう」、悠も丁寧にお辞儀をした。
また、誰かのノックする音。今度は部屋から返答をせずとも、さっと開いて入ってきた。風花だった。
「あら、亜衣ちゃんも」
風花はさっき悠と勇に会っている。
「こんにちは、風花さん」
風花に対しては自然な笑顔を見せる亜衣に、勇はいつも越えられない性別の壁を感じる。
「あのね」風花がすっと、陰りのある表情に変わった。「今、キャンパスで達也さんの妹さんに会ったの」
部室の中がしんと静まり返った。水を打ったように、誰かの息を吸い込んだ音がするまでに。
お通夜で、あるいは告別式で、沈痛な面持ちで背筋を伸ばしていた少女。達也によく似ているとまではいかなくとも、温和な印象は相通じる部分がある、そんな気がした。
風花の小ぶりな唇が次の言葉を発するまでの数秒間は、いつになく長く感じられるそれだった。
涼しい風に吹かれて前髪が視界でちらちら揺れる。
早歩きで大学に向かいながら、最近もこうして勇たちに呼び出された憶えがある、と小絵は思った。今日が卒業式であることは認識していたけれど、大学に行くつもりはあんまりなかった。就職活動より優先させることはできない。
ところが、勇からメールとかではなく電話で呼び出された。来てくれませんか、と。なにやら緊急事態らしい。その勢いに押されて、大急ぎで就活を切り上げて来た。広い会場での合同会社説明会で、消化試合の時間帯に入っていた。今から勇たちの元へ駆けつけるのはやぶさかではない。
急な呼び出し、おそらくは達也に関わることだろう。しかし、死人に口なし。なにか新情報が入ってくる余地があるのかしら。それとも、誰かが思い出したことがある、とかかな。
あれこれと考えを巡らせながら、小絵はとにかく急いだ。
歩美には連絡がつかなかった。忙しいのだろう、と結論付け、勇はこれ以上呼ぶのは諦めた。
この場にいる悠、亜衣、風花。それから、あと一時間ほどで到着するという小絵。このメンバーがいれば、充分だ。
サークルの部室からは離れていた。ほかの四年生はじめ、誰が入ってくるか分からない。学生会館の空いている部屋に移って、小絵が来るのを静かに待った。
白塗りの壁、味気ない造り。無機質な机と椅子が並べられていて、ホワイトボードもある。まるで、これから会議が始まるようで、この部屋の用途も本来はそれなのだろう。思い思いの席に着いているけれど、自然と風花を中心に置くような形になる。
悠も亜衣も、そして風花も無表情だ。小絵が来るまでとりあえず待つのがいいと暗黙の裡に了解している。ちょっとだけ重たい、と勇は空気を捉えた。風花はまだ明らかなことをなに一つ話していないというのに、話の方向性がある程度決まっているのが不思議だ。
ノックの音。沈黙を貫いていたそれぞれが、ドアを振り仰ぐ。ところが、そのドアは開かれない。隣の部屋でドアの開く気配がする。壁が薄いから、音が反響しただけだったらしい。拍子抜けを食ったように、勇たちは肩を竦める。
「妹さんは」焦れたように、悠が話し出した。「元気そうだった?」
達也の死の直後、打ち沈んでいるときの彼女しか見ていない。あれから、少しでも気持ちの面で回復したのだろうか。
「うん……どうでしょう」風花は考え込む。「でも、前見たときよりは元気そうだった気がします」
「それなら」
悠は安心したように頷いた。
「勇の行動力には呆れたけれど、妹さんにも感嘆しますね」
と、亜衣。
桜井家は千葉にある。埼玉から悠を起こしに来た勇も勇だけれど、千葉から約束も取り付けないで大学キャンパスに足を伸ばした達也の妹も妹だ。
「確か、達也の一つ下だったから、ふうちゃんや小絵ちゃんと同い年か」
「そういえば、歩美ちゃんは呼ばなくていいの?」
「連絡がつきません。さすがに、急に来てもらうのは難しいです」
「小絵さんが捕まっただけでも幸い、といったところでしょうか」
そして、待ち望んだ人が現れた。
小絵は息を切らしていた。かなり急いでくれたのが見て取れる。
「おまたせ、みんな」
風花はずっと考えていた。あの日からずっと。明白なこともはっきりしなかったことも、自分の身に降りかかったすべてを。
(もしかしたら、と思わずにはいられなかった。達也さんを思いとどまらせることができたのは、もしかしたら、私だけだったのかもしれない、と。あの日、と限定せずとも。私はたぶん、この中の誰よりも達也さんと親密な関係だったと言える。誰よりも達也さんの言葉を聞いていたはず。
だけど、実際にはどうすることもできなくて。達也さんは死を選んでしまって、私たちはその途方もなさに苦しんでいる。誰が悪かったわけじゃない、なんてどうして言えただろう。悪いのは私だ。
救えなかった私の罪だ)
こんな風に言葉にしてしまうと、風花はすべてが偽善めいていて、内側に抱えているものをちゃんと吐き出せていないと感じる。だけど、これ以上にどうとも言い繕い様もなく、言葉にしない方がほんとうは偽善なのだということを知っている。
苦しんだ振りはもう終わりにしなければ。
「遺書が見つかったんだって」
みな、風花を注視している。
「達也さんの。ただし、手書きの正式なものではなくて、パソコン内に残っていた文書ファイルで……」
それは「かざはな」と題され、ドキュメントに保存されていたという。死後、家族が達也の遺品を探り、なんとか自殺した理由を確かめようとした途上で、妹の手によって見つかった。
妹はそれを読み始め、ここに達也の本音が詰まっているとすぐに分かったが、両親には黙っていた。これは、誰にも言えない。言えるとしたら――。
文書内でたびたび登場する「風花」という名の少女。途中から、ふうか、と読むのだと気づいた。書き手の、彼女への想いがひしひしと伝わってきた。
写真もたくさん残っていた。達也は几帳面な性格で、自分のものをきちんと整理整頓していたから。その写真を見ていても、妹には分かる。やけに多く見受けられる女性が一人。きっと、この人が「風花」なのだろうと当たりをつけた。
誰にも言えないまま、でも発見してしまった以上、持て余したそれを誰かに共有せずにはいられない。妹はふらふらと東京に出てきて、達也が通っていた大学のキャンパスを訪れた。すると、今日はどうやら卒業式らしい。賑わいが伝わってくる。ここなら達也の同級生が見つかるかもしれない。たとえば――妹の中では顔と名前が一致していなかったけど――悠とか。それには人が多すぎるきらいがあるけれど、妙に確信めいた思いの灯りが点っていた。そして、その火は揺らぐことのない炎だった。
写真でよく見かけていた女性。かざはな。彼女だ。注意深く観察した後で、これまた見憶えのある二人の男性と話したことで符合する。風花、その人だと。
どうしても風花に読んでほしいものがある、そう切り出した。風花は静かな心でそれを受け取った。読み始めてから、胸に嵐が舞い込むことも知らないで――。
「私は、達也さんと二人きりでよく会っていた。映画とか、お買い物とか、お花見とか、美術館とか……そんな、ありふれたことをして、とにかく、いろいろなところに。なんとなく、その関係を誰にも言えなくて。でも、それは付き合っていたからじゃなくて、むしろ、付き合っていなかったからこそ、だと思う。私たちはいつまでもはっきりさせてこなかったから、誰にもなにも伝えられなかった。きっと、達也さんも同じだった気がする。
――ううん、違う。同じだったら、こんなことにはならなかった。結果的に根っこの部分で私たちは気持ちがすれ違っていたのかもしれない。
今年の一月、雉町で会って、夕食をともにして、なんてことのない話をした。いつもみたいに、達也さんは穏やかな笑みを浮かべていた憶えがある。それから、夜もだいぶ更けていたのに、近くの大きな公園に行ってお散歩して。やっぱり、いつもどおりだとどこかで安心していた。達也さんと二人でいるときは、心がとても落ち着いたの。
でも、それは好きだとか愛しているだとかそういうのとは少し違くって。私は、少なくともそう感じていて――だけど、今ならこうも考えられる。あの一月の寒い夜、なんでもない一日の終わりに、達也さんは私になにか伝えたい言葉があったのかも。そして、私の空気を敏感に察して、それを飲み込んだのかも。すべてはやはり推測にすぎないのだけれど。
それから、二人で会う機会はなんとなく絶えていた。もともと、頻繁に会う関係ではなかったし、大学やサークルなんかで、ほかの人たちも含めて会っていたから、別に不思議なことはなかった。だから、最後に会ったのは勇くんや小絵ちゃん、それと歩美ちゃんと一緒で、茅穂へお出かけしたとき。これはほんとう。
なにも分からなかった。私は気づけなかった。悪いのは――」
私、と結びつけようとしたのだろうか。それを遮るように、「それじゃあ」と乾いた声がした。発したのは亜衣。
「亜衣ちゃん?」
「それじゃあ、最後の最後に会ったのは、私か……」
誰もが目を瞠った。そんなの初耳だ。
二月の終わりに四年生の卒業旅行があった。達也はそれに行かなかったが、その出発前日、悠の家を訪れていた。そして、卒業旅行中、達也は後輩たちに誘われて茅穂に行った。そのときのメンバーが、ここにいる風花、小絵、勇、もう一人が歩美。誘われたのはずっと前だった。
それぞれが語っていた、最後の日のこと。亜衣は茅穂に行かなかった。二月の半ば頃、雉町で集まってごはんを食べに行った日にはいたから、それが最後だと思われていた。その日には歩美以外のメンバー、つまり今ここにいる全員が揃っていた。
「私、二月に雉町でみんなと会った日、集合場所に早めに着いてしまったの。そうしたら、すぐに達也さんも現れて。『早すぎたね』って笑い合った。
二人でみんなを待っていた。――そのとき、私は神様っているのかもしれないと柄にもなく信じた。渡せないで鞄の中に忍ばせたままで終わっていたはずの、チョコレート、が、このとき手渡せたから」
その日はバレンタインデーだった。好きです、そう亜衣は告げた。答えはすぐにもらえなくていいから。
その日は楽しく過ごし、きっと返事はもらえないだろうと諦めかけていたら、ちょうど一か月後、今度はホワイトデー。達也から突然連絡がきた。『今夜、会えないか』
「私は嬉しかった。かなり舞い上がっていたと思う。達也さんはもうすぐ卒業してしまうから、これが最後のチャンスだという気がしたから。
二人で会って、ごはんを食べて、お酒も少し飲んで、いい気分だった。こんな風にこれからは会えるのかしら、なんて夢想してた。でも、帰り際に、お返しのチョコと一緒に返事をもらった」
ごめん。気持ちは嬉しいけど、俺にはずっと好きだった人がいるから。
亜衣は、それが風花だろうと決めつけた。そうじゃなきゃ、かえって嫌だった。
――達也さんは風花さんのことが――好き、だったんじゃないかな。
勇は亜衣の真剣な表情で語った言葉を想起した。無責任な噂などではなく、そういう経緯あってこそついた見当だったのだ。
「あの日も、いつもの優しい達也さんだった。その翌週、この世からいなくなるなんてどうしたって思えなかった。
悪いのは私です。私も気づけなかった。死を止められなかった。自分の想いに囚われて、達也さんのためになにもしてあげられなかった私が悪いんです……」
それは違う、とは誰も言えなかった。部屋がやけに広く感じた。周りの喧騒が遠のくくらいの静寂に包まれたこの空間に、ついには全員の嗚咽する気配だけが漂う。しんしんと降り積もる雪のように。
この日、若槻亜衣は涙した。
二 その日、桜井達也は打ち明けられない心の弱さに打ちのめされそうだった
人通りの少ない住宅街を抜けていく。前を歩く同年代の女性が半身を翻らせ、目が合ってしまったような気がする。穴井悠はストーカーだと勘違いされたら嫌だな、といらない心配を覚えて、なるべくその女性を目で追わないように気をつける。代わりに視線をもっと上方にやると、どんよりとした灰色の空が見えた。雲の動きがどきりとするくらいに早い。今にも雨が降り出しそうな模様。
やがて、角を曲がる頃、大学のキャンパスが姿を現し、前方にいた女性はどこにも見えなくなる。なぜか安堵し、そのままキャンパス内へと吸い込まれた。
先週、入学式が恙なく執り行われ、悠は大学生になった。高校生の時分は大学生って大人なのだろうと感じていたけれど、それは中学生の時分に高校生に対して覚えていた印象と重なる。結局、変わったり変わらなかったりするのは身分によってではなくて、自分自身に降りかかるものによるのだと、それらしい解釈でまとめる。まとめられたことに満足する。
悠は文学部だ。文学と歴史を修めたくて、一般教養だとか語学は課せられる範囲で勘弁してもらいたいと思っている。今後考え方を改めるかもしれないとこのときは考えていたが、結果的に悠はずっとこの方針を貫く。
サークルに入るつもりはなかった。しかし、大学は高校までの部活以上に勧誘が執拗で、みな、調子のいいことしか言わないから悠の心は最近揺らぎ始めている。このままではふらふらと興味のないサークルに入って、そこで無為な大学生活を送りそうだ。それもいいだろう、とそんな感想も抱くのだけれど。
今日はスタートしたばかり。一日はぼんやりと過ぎるのを待っているにはあまりに長く、やらなければならないことを消化していくにはあまりに短い。
活動内容を紹介する説明が感情ばかり先走って論理的でないところとか、安易に愛想笑いを浮かべずこちらの様子を注意深く窺っているところとか、とにかく、ほかと比べてまろやかな感じが気に入ったから、かな。
桜井達也は同期の悠にこのサークルに入った理由を訊かれ、頭の中で以上のような言葉を並べてみたけれど、実際には「なんとなく、居心地が好さそうだったから」と答えた。悠は納得がいかないような表情を一瞬浮かべた後、「おれもそう」と同調した。達也は意識して納得がいった表情を彼に向ける。
中国文学研究会、というサークル名はずいぶん硬派な印象を与えるが、内実は『三国志』やら『水滸伝』などといった有名な作品に傾倒している程度で、ゆるく集まり、ゆるく議論する。そのサークルに達也は入った。
穴井悠はそこで出会った同期生で、学部も同じだったから自然、一緒にいるようになった。必修以外の講義を並んで受けたり――悠は遅刻が多かったが――学食で向かい合ったりして、次第に互いを知っていった。
達也が悠に対して覚えた第一印象は、どこにでもいそうな男子大学生、だった。細身でまあまあ背が高く、眼鏡をかけていて、いい感じのジャケットをいつも羽織っている。そんな男子は文学部のキャンパスでたくさん歩いていた。聞くと、悠は男子校出身で、さもありなんと達也は胸中で呟く。
かく言う達也も悠から眼鏡をなくしたらだいたい一緒で、しかも授業中は眼鏡をかけているから、ほぼ一致する。つまり、典型的な男子学生である。
それでも、内側に抱えているものは当たり前だけど異なっていて。悠は文字通り「がんばって」周囲に入っていこうと果敢に挑んでは、自分のコミュニケーション能力のなさを嘆くのだけれど、一方の達也はいつでも消極的で、それを気に病む素振りを一切見せない。
そんな二人でも行き着く港は同じになる船であり、やがてはサークルという波の穏やかな海に安住するようになるのだから、それもそのはず。大学生になって見えないなにかに急かされるような生き方をしていたのに、やがて自分らしさを取り戻し、落ち着く。
その頃、悠はまだ埼玉の実家から通っていた。やがて東京で一人暮らしを始めて、そこがサークル員のたまり場になることをまだ知らない。達也は千葉の西方で両親、妹とともに暮らしていた。ちなみに、達也の妹は西荻窪にある女子大学に、兄から一年遅れて入学する。
サークルの慣習に倣うまでもなく、気の置けない間柄になっていた達也と悠は、それぞれを名前で呼ぶようになっていた。悠は同期や先輩女子たちも親しげに名前で呼んでいたのに対し、達也はなかなかそれに慣れなくて、そんな達也を女子たちは「かわいい」と囃した。
なんとなく二人の立ち位置が定まりつつあった頃、幹部代――サークルを中心になって切り盛りしていく学年――が二つ上から一つ上に引き継がれ、ゆっくり瞬きしている刹那に、今度は四年生が卒業していった。すべてはあっという間で、酒に飲み込まれている間に見た夢みたいだったが現実で、達也と悠は二年生になった。
そして、新入生の勧誘にそれほどタッチしていなかったのに、わらわらと新しいサークル員は増え、その中に渕上風花と生田歩美がいた。
大学図書館は広い。蔵書量を売りの一つとしてアピールしているだけあって、その眺めは壮観だ。棚から棚へ、風花は足取り軽やかに渡っていく。本の匂いが好きだ。静かなこの空間が好きだ。なんとも言えない居心地の好さと雰囲気に包まれ、大学生になったことを改めて実感する。
階段を下り、地下へ向かう。そこは研究書庫になっていて、貴重な本が数多く収蔵されている。そこは人もまばらだからもっと閑寂としていて、もっと本の匂いが強い気がする。
まただ、と風花は思う。また、あの少女の姿をここで捉える。書棚を見つめる真剣な横顔に、覚えず惹かれてしまう。視線を感じたのか、さりげないしぐさでこちらに目を向けてくる。風花はバツが悪い思いがして、咄嗟に目を逸らした。なんでもないように、自分も書棚を目で追う。
しばらくして、また彼女のいた方を気にすると、すでにその姿は消え失せていた。また会えるだろう、とある種確信めいたものが胸に去来する。
風花は全国的に有名な私立大学の文学部に入学した。入学式でその人の多さに圧倒された。
続けて、サークルの勧誘に飲み込まれた。やたらとビラを配られ、やたらと話を聞いていかないかと手招かれた。なにもかもが怖く見えて、風花はどこにも立ち寄ることができなかった。興味の持てるサークルがあったら入るつもりだったのに、これでは選択のしようもない。
そんな折、やがて四年間い続けることになる中国文学研究会へと導かれたのは、同期の生田歩美の誘いがあったからだった。
歩美は必修の語学が同じクラスで、必修は週に何度かあるため、比較的すぐ仲好くなった。歩美はいつも明るくて、前向きで、声の大きな少女だった。自然と彼女を中心に輪ができるようになり、根が大人しい風花はそんな歩美に憧れた。
サークルの話になり、まだどこにも所属していないと打ち明けると、歩美は自分が最近入ったサークルの名を挙げた。文学系のサークルだけれど、それほどハードなものではないという。
人間関係がまろやかで、居心地がいいらしい。風花は入学式の日の降り注いできた声と、自信に満ちた表情と、差し伸べられた色とりどりのビラを思い出す。そんなサークルがあるなんて、俄かには信じられなかった。もし、ほんとうに歩美の言うとおりなら、入ってみてもいいかもしれない。
それくらいの軽い気持ちだった。
実際に足を運んでみた風花の感想は、歩美が言うほど、ハードじゃない場を個性にしているわけではなくて、けっこうまじめに議論している、というのと。それから、確かに人間関係はまろやかそうだけど、なにもせずそこに溶け込めるわけじゃない、ということ。立ち返って考えてみれば当たり前の結論だが、風花は溶け込もうと努める場をそこに求めることに決めた。
歩美とはさらに仲好くなった。
達也から見た風花のファースト・インプレッションは、運命を感じさせるような目映い光に包まれていた、なんてことはなく、あまり印象に残らなかった。背が低くて、かわいらしい見た目だが、話し方はしっかりしている、そう思ったくらい。
一方の歩美は最初から圧倒されるものがあった。元気で、太陽みたいだった。彼女がいるだけで場の空気感がまるで違った。生まれついてのムードメーカーなのだと、自分がそれとは正反対の性格であるからこそ、尊敬の念を込めて彼女を捉えた。
正反対のわりに、歩美は達也を敬っていた。人は持っていないものを有している存在に惹かれる。歩美は達也の物静かな性格や、物腰の柔らかさを愛した。ただ、歩美は誰とでもすぐに親しくなれる代わりに、男女の深い関係にはなかなか発展しなかった。彼女のキャラクターがなせる技で、ときにそれによって損をしていたのかもしれない。
だんだんと、サークル内で互いの個性を把握すると、見えない囲いで区切られたグループができ始める。とはいえ、それは流動的で、ともすれば季節の変化などによってころころ変わった。達也と悠は相変わらず仲が好かったけれど、そこにすぐ風花や歩美が入ってくることはなかった。彼らを強く結びつけるには、もう一年待たなければならない。
ところが、達也は大学二年の年明けすぐ、風花を食事に誘った。二人はそれなりに言葉を交わす関係になっていたものの、風花はちょっと驚いた。それでも、特別な間柄ではないからこそ、食事に行ってより親睦を深めるのはいいかもしれない、と風花は前向きな回答をした。
今にも雪が降りそうな、とても寒い夜だった。その日は大学がまだ冬休み期間中で、二人は大学の最寄り駅半田で待ち合わせた。
最初に会ったら、寒いね、と確かめ合うのだろう。それから続けて、今日は誘いに応じてくれてありがとう、と感謝するのだろう。
電車に揺られながら、達也はとりとめのないことを考えた。いつもなら読書をしたり、音楽を聴いたりして過ごす車内、今はどの作業も集中できる気がまるでしない。高鳴る心臓をどうにかするのにあくせく。
風花に対してまだ特別な感情は寄せていない。でも、誘ってみたくらいだから、彼女を魅力的だと感じているのは確からしい。達也の内情はふわふわしていた。言葉を尽くして、綱渡りをするように言葉を紡ぎ出して、誘った憶えはある。しかし、なにがきっかけで急に食事などと言い出したのか、自分でも明白としない部分が存在していた。
それだけに、風花が快諾してくれたのには驚いたし、嬉しかった。思っている以上に素直で、いい娘なのだと知る。
半田駅に待ち合わせの数分前に到着する。もう少し早く来るつもりだったのに、乗り換えに失敗した。遅れなくてよかった。
改札の向こうに目を凝らす。柱にもたれかかるようにして、所在無げに俯いている黒髪の少女がいた。空気が凍てついているからだろうか、それともこういう状況がもたらす精神作用だろうか、彼女の顔は白く輝いて見えた。平素よりも女であることを意識させられる。彼女は女なのだ。
改札をくぐり抜けようとして、ふと足が止まってしまう。緊張で進めなくなった。情けない話だけれど、達也の経験のなさは哀れなほどだった。駆け寄っていくことができず、代わりに「もう着いてる?」とメールを送って、様子を窺う。ぼんやりとしていた風花が携帯電話を手に取って、画面を覗き込む。返信を打ち込む。過たず、達也のところへ返信が舞い込む。「はい、着いています」
間違いなく、彼女は達也を待っていて、これから二人は会うのだ。達也はこうなったらすべてを受け入れるしかないらしいと心を決め、ようやっと重い一歩を踏み出した。
達也が風花の名を呼びかけたとき、時間は待ち合わせのそれちょうどに差しかかっていた。
心が浮き立つようだった。こんなにいつもと違う感情を内側から呼び起させるものなのか。
「おまたせ」
「いえ、私もついさっき着いたばかりです」
「寒いね、今日は」
「寒いですね、かなり」
「早くお店に入ろうか」
そうして、並んで歩き出す。そうすることが当たり前なのだけれど、夜の街を風花と並んで歩いたことはかつてなかったことだった。歩調を合わせるのは大変なのかと思ったら、意外となんとかなる。今にも触れそうなほど互いの手は近づいているが、けっしてそれは触れなくて。吐く息は白く、手はかじかんでいた。
早くお店に入ろうと言っていたくせに、目的のお店はすぐに見つからなかった。達也が行ったことのないところで、人から男女二人で飲むのに適していると紹介してもらった。インターネットで事前に調べていたものの、地図を見るのが下手なのか、見出せない。あらかじめ自分の足で確かめておくべきだったと後悔したけど、風花の表情は明るかった。この状況をともすれば楽しんでいるよう。
風花は自分でもお店の場所を調べ、そうしたらあっさりと見つかった。情けない、と達也が詫びると、歩いていたら温まりましたね、と風花は前向き。
汚名返上ではないけれど、お店はほんとうにいいところだった。少し薄暗く、雰囲気があって、落ち着いている。日本酒が売りらしいが、ほかの甘いお酒なんかも充実していた。
風花は見た目のとおり、あんまりお酒に強くなかったが、弱くもなかった。心地好く酔えるくらいに杯を重ね、料理に舌鼓を打った。
話はサークルの人間の話から、大学の授業のこと、これまでの暮らしのこと、将来のこと、などなど、なんてことはないよくある内容に終始した。内容はありふれたものでも、居酒屋で向かい合って話しているだけでどこか特別な感じがしてくる。はにかむように笑う目尻が、唇を拭うときの指先が、笑うときに微かに揺れる肩が目に焼き付いてしまって離れない。
和やかなうちに別れた。達也が大胆な行動に踏み切らなかったのは、「また行きましょう」と風花が柔らかい眼差しを添えて言ってくれたから。その言葉を、口先だけじゃないって信じていたから。
達也が三年生、風花が二年生になる直前の二か月あまり、二人が出かけたのは三度ばかり。最初は映画で、誘ったのは達也。観たいものを挙げたのもまた。内容は人気小説が原作の静かな恋愛ものだったが、風花は気に入ってくれたようで、終わった後の食事では感想をつらつらと述べ合った。次の日には美術館、場所は上野。その頃には大学は春休みに入っていて、平日に行けたため、空いている中で落ち着いて観覧できた。ぽつりぽつりと思ったところをこぼしながら見て回るのはいいものなのだと、達也は思った。一人でも来られる場所だけど、誰かと確かめ合うようにして過ごせる。そして年度が替わる直前の初春、庭園の桜を眺めに出かけた。詰まるところ花見だ。まだ蕾は寒さに身を小さくしていて、それほど鮮やかな光景ではなかったものの、そのおかげで園内は混んでいなかった。吐く息に溶け込む感情の色に、今、自分たちは二人きりなのだと強く意識した。それでも、達也はやはり一定のラインから踏み込めないと感じていた。風花が実際どう思っているのか、まだ判然としない部分が残っていたから。
達也と風花の仲の好さは、一見して分かるものではなかった。でも、些細な言葉のやり取りや笑みの交わし方から、近しい人たちは嗅ぎ取れたかもしれない。
たとえば、悠であり、たとえば歩美であった。
とはいえ、恋愛沙汰があまり騒がれないサークル内では、それを確かめようとする人間もなく、達也と風花の関係性は動かないままだった。
達也は風花を好いていたのだろう。これだけ誘っているのだから、きっと間違った指摘ではない。だけど、彼は恋愛を知らなかった。幸か不幸か、知らないことで風花とのなんとなく会う関係を続けられた。
では、風花は。彼女は達也を想っていたのか。風花も恋愛の妙手ではない。でも、どちらかというと彼女の方が大人で、現実的だったかもしれない。達也に恋い焦がれるようにはならずとも、受け入れる準備はあったのかも。あるいは、はね返すそれが待っていたのかも。
そうして、彼らは無事に一学年進級した。サークルの中心学年になった達也と悠は忙しく過ごした。二人とも、特にサークル内で役割を担ったわけじゃないが。
風花と歩美も二年生に。風花は密かに、サークルに引き込みたいと目をつけていた少女がいた。
澁谷小絵は不思議な魅力を内側に有していた。見た目は地味で、おしゃれに気を遣うこともないので、淡々とした印象を持たれがちだった。しかし、その内側は熱く、好奇心旺盛で、興味を抱いたあらゆるものごとにきらきらさせた瞳を向けていた。
研究書庫で、そんな小絵の姿に風花は気づいた。文学をこよなく愛し、研究に没頭しているのが伝わってきた。なにより、ときに見せるその笑顔から、その作業を楽しんでいることが分かった。
だから。
風花は小絵と近しい仲になりたいと純粋に思った。達也と向かい合っているときには、寄り添って歩いているときには湧いてこなかった正直な衝動が、彼女に対してだけはちゃんと存在した。
新学期が始まり、少人数の演習を一つ取った。二年生以上の、同じ専門分野の学生たちだけの集まり。そのときは『源氏物語』の研究をしていた。その面々の一人に「研究書庫の少女」はいた。
風花は胸の奥にそういった願望を抱えていながら、否、抱えてしまったからこそ、小絵に素直に近づけなかった。片や、たんに人数が少ない中、同性同士仲好くしようと小絵は話しかけてきた。それなりに会話を楽しめたけれど、友達になれたかというと微妙なところだった。
そんな関係が続いて数か月が経った。その間にサークルには新一年生が加入し、定着しつつあった。勇や亜衣がそうであった。勇は歩美を彷彿とさせるほど男女分け隔てなく積極的に絡んで、馴染むのは早かった。特に、達也や悠とは妙に馬が合った。一方の亜衣も、クールな性格が異性から敬遠されてしまう要因になっていたが、次第に彼女のそっけなさに周りも慣れ、彼女は彼女で馴染んだ。
前期がもうすぐ終わろうかという頃合い、風花たちの演習で課題が出された。都内で行われる『源氏物語』研究の講演を聴講しに出向き、そこで抱いた意見をレポートにまとめろ、というものだった。
ただ、絶対にしなければならない課題ではなく、興味のある人だけでいい、という程度の条件で。その頃、前期はテスト期間に差しかかっていたために働いた、教授の配慮だった。そのレポートを出した人は成績にプラスにはなるけど、出さなかったからといってマイナスになることはない、と言い添えて。
ほかの受講者は迷っていた。レポートを出せばいい評価に結び付くのかもしれないが、今はテスト期間。それ以外をおざなりにして、一つに精を出すのはどうだろう。
そんな空気が蔓延し、どうやら講演に行こうとする人はいないらしかった。
風花は迷っている振りをしながら、ほんとうは一人でも行くつもりだった。講演内容に興味を持ったのと、自分ならそのレポートとテストの両立を図れるだろう、という自信から。
ふと、沈黙を守っている小絵が気になった。彼女は先ほど配られた講演のチラシを凝視し、焼き付けるようにして目に映していた。
もしかしたら、と風花は感じ取る。もしかしたら、彼女も一人でも行くつもりなのかもしれない。
授業を終えてから、みなが次の予定へと動き出す中、風花はそっと小絵に近寄り、まるで周囲を気にするかのように小声で問いかけた。
「それ、行くの?」
小絵は目を瞬かせた。どうしてそんなことを訊くの、と咎めるみたいな色。
「うん。行かないの?」
「私も、行こうと思う」
ほかの人たちは行かないみたいね、そう言う代わりに、周囲の人間を見回した。
それを察したのか、小絵は苦笑を浮かべる。「よかったら、一緒に行かない?」
願ってもない話だった。風花は一も二もなく頷く。「うん、一緒に」
あまりに即座に返事をしてしまったため、すぐ我に返って顔を赤らめる思いだった。そんな風花の様子にも小絵は敏感に気づく。音符を浮かべるようにして笑って、風花の瞳を見つめた。
初めてこんなに彼女を近くに感じられた。仲好くなれる予感はもうすぐそこに。
長島勇は男子校出身で、そのノリを引きずっているきらいが容易に見受けられた。少なくとも、悠には。同類は同類を嗅ぎ分ける。その点が共学出身の達也とは異なる。
勇は中学、高校と陸上部に所属し、それも投擲をやっていたため体格がかなりよかった。強そう、なのだが、人間関係では下手に出ているときが最も生き生きしていた。たぶん、上下関係に厳しい環境で育つうちに、自然と身につけた処世術なのだろう。
同期はほかにもたくさんいると言うのに、上辺だけの関係で留める。代わりに、勇や悠と絡むようになり、彼らにおもねる後輩、を自らの定位置として選んだ。あくまでも、無自覚的に。そして彼が次に親交を深めようと標的を定めたのは、風花と歩美と、その頃サークルに加わった小絵だった。
小絵との初対面はあまり思い出したくない種類のそれだった。達也はそう振り返る。
風花が連れてきたことと、その見た目からして、小絵の人となりを少し誤解した。きっと素直で純真な少女なのだろうと思い込んだのだ。だから、先輩という自分の立場も手伝って、達也は積極的に小絵に話しかけた。いつも言葉を慎重に選択する彼らしからぬ、軽い言葉を持って。
小絵もまた達也を誤解した。風花から理想郷のように聞かされていた場所が、なんてことはない、どこにでもある空間と同じではないかと一瞬思いさえした。
風花の友達という前提に少し酔っていたために、また、聞かされる情報からそこの絵図を思い描いていたために、すれ違いからのスタートだった。
そんなのは最初だけで、次第に春に残っていた雪がすべて溶けきるように、二人はまっさらな関係からやり直せた。達也が自分の間違いに気づいたことで、また、小絵に彼の好さを伝える存在がいたことで――それは風花ではなく歩美だった――やり直せた。
彼らはやがて結びつきを強めていくに至るが、それまでの紆余曲折はさまざまで、しかし、あらかじめ一つところに達する経緯を踏まえれば、すべては些細なものだったと笑い飛ばすことも可能になる。
夏の日差しが降り注いでいた。日なたは汗ばむ陽気だったけれど、日陰は幾分過ごしやすい。涼を求めて新潟まで来た甲斐があったというものだ。
大学の長い夏休みの半ば、サークルの合宿が行われた。三泊四日の日程で、半日だけ活動の延長線上のようなことをやり、残りは観光とお酒で占められていた。ようは、避暑地に遊びにきただけだ。
サークルへの参加がすべて任意で、みな、興味のあるテーマのときだけ足を運ぶので、日頃は全員が揃うことは稀だった。それが、この合宿の数日間はほぼほぼ全員が顔を揃える。
この機会をもってして、ようやく達也、悠、風花、歩美、勇、亜衣、小絵が一堂に会した。それぞれ、個別に面識はあったけれど、みんながみんないることはなかった。特に、ほかは文学部だが、亜衣のみ商学部に所属しているため、キャンパスで会う機会も限られていた。
三日目の夜、コンパが催され、日常の鬱憤をここぞとばかりに晴らすみたいにして、騒がしく酒を飲み交わしていた。基本的に好き勝手な場所で飲んで、最初の数十分は目まぐるしく人が動く。それが、だんだんといくつかのグループに分かれ、話すメンバーが固まっていく。
達也はのんびりとその光景を眺めながら、水族館みたいでおもしろい、と思った。さっきまでうろちょろ歩き回って、いろんな場所で泳いでいた魚が、やがて動かなくなってもっと大きな魚になる。『スイミー』のようだ。
達也は酒が好きだが、悪酔いしないためにいつまでもマイペース。酔っている人に絡まれても、平素と変わらぬ調子で応じる。
気づいたら積極的に動こうとしない達也は、コンパ会場で一人になっていた。それでも、焦らない。誰かしらどうせ戻ってくる。
「ふう、疲れた」
悠が隣に座った。どこかのグループで話してきたらしい。少し声が枯れている。
「おう。日本酒?」
達也は悠の手にしているものを示して尋ねた。
「ああ。せっかく米ところに来たんだから、日本酒を堪能しなければ、という気分になってさ」
その日本酒はたぶん合宿前に東京で買って持ってきたものだろうが、そんな無粋な発言はしない。水を差すだけだ。
そんな二人の元に、勇が寄ってきた。いつも笑顔を絶やさないが、いつもより不気味な感があった。もしかしたら酔っているのかもしれない。
「達也さん、おすすめはありますか?」
口調はしっかりしている、どうやら杞憂だったようだ。
「そうだな、スミノフとかどうだろう。おいしいよ」
「スミノフ! 飲み方は?」
「俺はストレートで飲んでるけど」
じゃあ、僕もそうします、と言い残して、勇はお酒を取りに行く。杞憂だと思ったけれど、足元はおぼつかないようで、ふらふらと向かう。
勇はスミノフと一緒に女性を数人連れてきた。風花と小絵、そして亜衣だった。彼女らだけで女子トークを楽しんでいたところを、勇がこちらに来ないかと誘ったらしい。
勇がいない間に、歩美が顔を出していた。ミュージカル好きな彼女から、達也と悠は現在公演中のものに関する評価を聞いていた。いつも以上に明るい表情で語る歩美を見ていると、どの内容もおもしろそうに思えてくる。
さっきまで一人でぽつねんと佇んでいたのに、あっという間に輪ができた。でも、それは別に達也自身の魅力が引き寄せたわけではなく、コンパとは往々にしてそんなものなのだ。
「勇くん、少し顔赤い気がする。大丈夫?」
「大丈夫です。まだ、小絵さんが二人に見えるだけです」
「それってだいぶやばいと思う」
「小絵さんがもう一人いる、と思ったら、風花さんじゃないですか。お二人、似てらっしゃいますね」
「確かに、外見は多少」
「中身はぜんぜん違う、ってことですか?」
「うん、まあ、どうだろう」
「悠、はっきりしないな」
「達也さん、スミノフのストレート、死ぬほどきついんですけど!」
「あれ、そう? 俺にはちょうど好かったけれど」
「割ります! 僕にはむりです」
「割ります! ってなんだかおもしろいね」
「割ります! ふふふ、なんでだろう」
「ね、ふふふ」
「先輩方もちょっと酔ってるのでは」
夜は更けていく。空が白んでくるまでこうしていたい、そう、達也は潜在的に感じていた。
雉町に住んでいると羨ましがられることが多い。乗り換えが便利であちこちに出られ、それでいて街は落ち着いていて華やかでもある。暮らすもよし、遊びにいくもよし、という評価を与えられる。
そうなのかもしれない、と風花は思う一方、でも隣の芝は青く見えるもので、自分ではそこまでいいと言い切れない。もう改めてどんな街か確かめられないくらい、ここにいることが当たり前になってしまった。
達也はやたらと雉町で会いたがった。飲食店は充実しているし、ここなら大学の知り合いに見つかる可能性も低いからいいのだが。
達也とは二人きりでよく会う。不思議な関係、と思うこともない。
(私には、男女の関係がかくあるべき、と言えるような経験はまるでないから……)
イギリスで生まれ、数年間日本で暮らした後、インドに越した。高校はまた日本に移って、私立の高校に通った。自分の故郷がここだと一つだけを挙げられない不安定な生活を繰り返してきて、みんながそれぞれ経験しているものを風花は経験しなかった。それが幸か不幸かはいつまでもきっと分からない。
達也と一緒にいるのは落ち着く。どこか男性らしさが薄くて、女性よりも女性らしい向きがある。もしかしたら、人によってはそれが物足りないと感じるのかもしれない。でも、風花にはなによりの居心地の好さだった。
向かい合って食事を摂りながら、達也は「もうすぐ就活が始まるから」と口を開いた。季節はもう秋から冬へと移行しようとしていた。
「そうですね」
あらかじめ考えていたように短く返答したけれど、風花は当惑していた。出会ったばかりだと思っていたのに、もう社会人になるために動き出すのか。それは、自分に後輩ができたくらいなのだから、当然の話なのだけれど。
「しばらく、今みたいに会えなくなるかも」
「そう、ですね」
頷きながら、そうなのだろうかと思った。そんなに就職活動とは日々の生活を制限されてしまうものなのだろうか。それとも、活動に集中するための覚悟を抱かせる心が言わしめる言葉なのかしら。
「それで……」
なにか言いかけて、「いや、なんでもない」と首を横に振った。おそらく、なんでもなくはないのだろう。だけど、どう聞き出せばいいのかいつも分からない。
「ふうちゃんも、来年の今頃は就活しているの?」
サークルの同輩以上の人が呼ぶように、達也もまた、風花を「ふうちゃん」と呼ぶ。
「たぶん、してるんだと思います」
現時点ではほかの道は考えていない。大学院に進むとか、いろいろ道はあるけれど。小絵や歩美がどういうつもりなのか気にかかった。
「今日は、せっかくだからふうちゃんを家まで送らせてよ」
風花は愉快がるように笑った。「なにがせっかくなんですか?」
「だめなの?」
風花が雉町に住んでいるため、ここで会うと達也は駅まで送られる形になる。男として、家まで送り届けるべきは自分だと、達也は思っているらしい。
「家族に見られて、変に思われるのも嫌ですし」
こういう、関係性をはっきりさせかねない言葉が投げかけられても、二人は変わらなかった。物語は動かなかった。これまでずっと。
「ふうちゃんの家、行ってみたいな」
達也らの周囲では実家暮らしが多かった。勇と小絵、悠は埼玉から通っているし、歩美は神奈川から、亜衣と風花は都内住み。達也は千葉だ。ただ、この中で悠は翌年の春から都内で一人暮らしを始める。
食事を終え、なにげない話をたくさんした後で、いつもと同じく風花が達也を駅まで送った。気分が高揚していたためか、二人は清少納言の『枕草子』を暗誦して歩いた。どちらかが憶えていれば、先へ先へと進む。始めてみると意外と分かるもので、思ったよりも記憶は頼りになるのかもしれないと認識を新たにした。
ついに分からなくなったとき、明るい光を放つ駅が姿を現した。風花は最後に、「夜をこめて」から始まる清少納言の短歌を口にした。改札で手を振り合って別れて、小さくなっていく背中を見送ってから、もう一度その歌を唱えてみた。
あっという間に夜の空気に溶け込んでしまって、風花はなんだか心細い感情に囚われる。空を見上げても紺色の帳がかかるばかりで、星がよく見えない夜だった。
本格的に寒い季節に突入し、達也や悠ら三年生が就職活動の関係でサークルに顔を出さなくなった。それと前後するように幹部学年が二年生に引き継がれ、歩美に至ってはサークルの代表である幹事長になった。
歩美は迷っていたらしい。天真爛漫な彼女でも、いくら周りの推挙があっても即断はできなかったようで。学生団体の長と一口に言っても意外と難しい立場なのだ。それでも、歩美は最終的に引き受けることにした。このサークルが好きで、そこで出会った人たちが好きだから。その好きな人たちに頼られたら応えたい、そう思った。
小絵は会計担当になった。途中で加入した彼女のまじめさはすっかりみなに認められていた。特別な責務を負わなかった風花は、二人をできる限り支えると約束した。
そしてまた季節は巡って、春がやってきた。それぞれ学年が上がり、達也と悠は最終学年に。相変わらず就活が忙しいのか、学生会館はおろか、キャンパスでもあまり見かけない。
と思っていたら、五月、六月とときが過ぎていくとともに、四年生がふらりと顔を出すようになってきた。その中には達也と悠もいて、具体的に就職先がどうなったのか聞かないが、どうやら落ち着き先を見定めたみたい。
よかったと安心したが、ぼんやりしていると次の代の番になってしまうし、四年生も卒業を控えている。勇はなんとか、今のうちに会えるだけ会っておきたいと考え始めた。いつまでもこうしていられるわけではない。
勇の念頭には去年の夏合宿の光景が浮かんでいる。達也、悠、風花、小絵、歩美、亜衣、そして自分を含めた顔ぶれを気に入っていた。なぜだか分からないけど、強く惹かれる関係。理由の判然としない引力とか絆というものがこの世界には存在する。
勇はその発想を実現しようと踏み出した。
六月は結婚の多い頃。あるいは梅雨時、晴れ間の容易に窺えない頃。ジメジメとした空気の中で、春に抱いた明るい気持ちは次第に鬱屈としていく。
そんな感情の低気圧をどこかへやるように、勇のニコニコ顔はよく張りついていた。前向きなだけかもしれないが、それを裏打ちする出来事がこの頃に舞い込んでいた。
勇は小絵と男女の仲になっていた。人知れず二人で会う機会が増え、親密度が増すとともに、自然とより関係を深めた。有り体に言ってしまえば、ようはやることをやったというわけだ。
二人とも誰にも喋らなかった。それぞれに言いふらしたり、見せつけたりするつもりが微塵もなかったことと、それから、サークル内の雰囲気がなんとなく歓迎しないだろうと読めたから。
そうなっても、勇はみんなで集まりたかった。小絵にもその望みを幾度となく伝えていた。
サークルにはいくつかのグループができている。積極的に誰にでも絡んでいける歩美と勇は特定のどこそこに所属する必要はなさそうなものだが、心のうちはまた違う。一方、風花と小絵はすっかり仲好しになって、二人で行動することがほとんど。亜衣は同期の女子と一緒にいることが多いけれど、少し距離を置いてしまうきらいがある。達也と悠に関してはいざ知らず。
特に、勇が躍起になって彼らを結びつけなくても、それぞれの居場所で心安らかに生きていた。だけど、小絵も勇の考えには賛成だった。いつも一緒にいられるなん人か、それはきっと長い目で見ても、大切な結びつきをもたらす可能性を有している。なにより、風花がいるのなら。
六月の終わり、夏が待ちきれずにその半身を覗かせていた。暑くて気分が開放的になるのを利用するみたいにして、勇はついに声をかけた。就職活動の動向がはっきりしていなかった達也と悠、それに幹事長の仕事にそれなりに追われていた歩美には遠慮して、小絵、風花、亜衣を誘って集まった。
場所は風花の住まう街、雉町。
新幹線であっという間に静岡駅に到着する。達也はホームに降り立ち、遠くに目を凝らした。雨が降っていた。灰色の空。それでも、日本で一番大きな山がぼんやりと見える。
達也は自分が雨男であると認識していた。どこかへ行こうと思い立つとき、必ずと言っていいほど雨が降る。雨の多い季節とはいえ、今日もちゃんと視界を濁らせた。
雨は好きだ。地面に打ち付ける音が、部外者の訪れをそっと許容してくれているような心地がする。傘を傾ければ、容易に自分の表情を隠すことができる。そんな考え方だから雨を引き寄せてしまうのかもしれない。
私鉄に乗り換えて、揺られる。突発的に、それも一人で静岡に来ようと思ったのは、たんに気分転換がしたかったからだ、と己に言い聞かせている。就職活動の疲れから、精神面でのリフレッシュを求めた。
就職活動は芳しくなかった。出版社に勤めたいと大学入学当時から願っていたため、その望みに従って活動に励んでいたものの、やはりそこは狭き門。いいところまで行っても、内定まで至っていなかった。
でも、狭き門だとか、入学当時からの夢だとか、それらすべては後付けの理由だ。ほかの企業を受けられないのも、出版社への就職をバシッと決められないのも、それが実力であり、努力が足りないからだ。分かっている。分かっていても、現実はどうにもならない。これではいつまで経ってもサークルに顔を出せないし、それはつまり、風花と向き合うかつての日常が相変わらず遠ざかるということだ。
(ふうちゃん――)
久しく会っていない。彼女に思いを馳せてしまったら、改めて馴染みのない土地で孤独に佇んでいる状況を思い知らされた。振り払うように首を振って、強い歩調で歩き出す。
悠は就職を決めたらしい。彼は達也と違って、いろんな人に就活に関する愚痴を漏らして、早く終わらせたいと嘆いていたそうだ。試験や面接を重ねるうちに、彼は雇ってくれる会社を見出した。
達也にはそういう部分もなかった。誰かに相談できない。今まではそれでもなんとかやってこられたのかもしれないが、こと就職についてはそれではだめなのだ。そのことも頭では分かっている。だけど、やっぱり誰にも話せない。勝手に焦燥感に駆られて、こんなところまで足を伸ばしてしまった。
雨は止まない。むしろ、強まるばかり。
小さな駅を降り立ってから気の向くままに歩いていた。予定は立てずに来た。そんなに遠くないところで、旅行気分を味わいたくてここを選んだ。看板の表示で、この先に県立の美術館があるらしいことが判明する。美術館なら一人でも行きやすいだろう。達也はそこを最初の目的地として定めた。
緩やかな坂を上っていく。横断歩道が少なくて、車が行き交う中、反対側の歩道へ渡るのに難儀する。近くに小学校があるのだろうか、生徒たちが列をなしている。課外活動かしら。みな元気で、声高にしょうもないことを叫んでいる。あの頃はあの頃でそれなりに大変だったつもりだけど、やっぱり子どもは気楽なものだな、と達也は感じた。
県立の大学の駐車場に迷い込む。しかし、地図を確認するとそのすぐ隣に美術館はあるらしい。大学のキャンパスは広大で、都内の私立大学とはスケールが違うと思い知らされた。ここに通っていた人生もあった。でも、今は今を生きている。
美術館があった。チケットを買えば常設展と特別展どちらも見られるようだ。それに大学生は一般料金よりやや安値。存分にその恩恵にあずかった。
しばらくして、満たされた気分のままに出てきた達也を迎えたのは、雨の気配が少しだけ残るまっさらな青空だった。手を伸ばしたら届きそうな空だ、なぜかそんな風に思った。
メールを送ったのにしばらく返信はなかった。悠は真っ黒なスマートフォンの画面に映る自分の顔を捉え、その顔が首を傾げた。勇は比較的――たとえば達也や風花と違って――返信の早い方で、こんなに待っても来ないのは不思議だった。
悠は無事就職活動を終え、残りの大学生活を満喫するだけ。しておきたいこと、行っておきたい場所を思い浮かべ、自然と胸が弾む。
まずはと、愚痴を聞いてもらっていた後輩に報告し、あわよくば遊びの約束も取り付けようと考えていた。
夜遅くになってからようやく勇のメールを受け取る。なんでも、サークルの何人かとごはんを食べに行っていたらしい。そのメンバーは風花、小絵、亜衣を含めた四人で、違和感ないようでいて、少し意外な気がした。
勇は男子校出身のわりに、というと変な言い方になるが、あまり異性に対してがつがつしたところが薄く、むしろさっぱりとしていた。そういう態度が滲み出ているからか、普段から親しくしている異性は少なくない。四人で食事と聞いても楽しそうだと羨むけれど、妬むことはないわけで。
だけど、楽しそうは楽しそうだ。混ざりたい。
次はその会合に呼んでくれよと文面を返すと、今度は即座に答えが来る。案外にも前向きな言葉をもらえた。そのつもりです、今回もお声がけするかどうか迷っていました、とかなんとか。
悠は嬉しさを覚えるというよりも、ちょっとだけ戸惑った。勇にはなにかが見えている? 彼はなにかを作ろうとしているのではないかな。今はまだ見当もつかないけれど。
静岡を去ってくれたと思った雨雲は東に流れたようで、東京に戻ってきたらまた降られた。どうしようもない雨男だと、達也は諦めるように苦笑した。
それでも電車に乗ってしまえば傘をさす必要もない、窓の向こうを流れるたくさんの線を恍惚とした思いで眺める。
外の光景をぼんやりと見つめていると、思い出すことが一つあった。大学のキャンパス内を移動しているとき、やはり雨に降られて、達也は傘を携帯していなかったため、仕方なく濡れた。
そんなときに、誰かが傘を差し掛けてくれた。親切な者がいたものだと持ち主を確かめたら、小絵だった。柔らかく笑んで、こちらを捉えている。入りますか? そう問われたから、情けなくもただ頷いた。そして、いつかこんな風に女性を自分の傘に入れてあげられる男になりたいと願った。
小絵はかわいげのないビニール傘で、語弊があるかもしれないが彼女らしいと感じた。小絵にはそういうところがある。見た目のままの内面ではなく、「自分」をしっかりと持ち、その意志に則って生きている。そして、誰にでも愛想笑いを浮かべる軽薄な部分がまるでなく、それでも心を許した人にはこうして優しさを施せる。
親しくなればなるほど、その魅力に気づいていく不思議な存在。風花が仲好くなりたいと望んだ胸中も理解できるというものだ。
蛍光灯を換え忘れたことを悔やんだ。部屋を明るくしようとスイッチに触れても、室内は暗いまま。外はすっかり夜の空気を纏っている。亜衣は細く息を吐いて、目が慣れてくるまで立ち竦んだ。
ぼんやりとベッドが見えてきた。若草色の掛布団に座り、再び頭の中を空っぽにした。さっきからなにも手につかない。
戸惑ってしまうくらい、持て余すくらい、誰かを好きになる瞬間があると聞く。そんなの物語の世界だけの話で、そうじゃなかったとしても自分には縁のない話だと亜衣は思っていた。でも、どうやら違ったらしい。
なにがきっかけだったかもう一つ思い出せない。亜衣は商学部で、キャンパスが分かれている関係で――とはいえ、徒歩数分の距離だけれど――文学部の彼にはめったに会えない。サークルの部室に立ち寄ったとき、あるいは活動のある日、出くわして話せる日もあれば、遠くから姿を確認して終わる日もあった。どちらかといえば後者の方が圧倒的に多かった。
だけど、その少ない関わりの中で、亜衣は静かに惹かれていった。穏やかな喋り口に、こちらを安心させる笑顔に、確かに。
勇に誘われて、なんの考えもなしに雉町に出向いたら、風花、小絵を含めた四人で夕食をともにした。勇がどんなつもりでその会を設けたのか掴めないけど、ただそれが舞い込んできた僥倖だと感じたのは、次回、悠と歩美――それから達也も呼ぼうという話になったから。
そして、つい先ほど。意外な人物から連絡がきて、亜衣は瞳を瞬いた。指を震わせるようにして返答を送り、それからこんな調子だ。
次の集まりを企画したのは達也だった。他者に対しては遠慮しがちな彼にしては珍しい限りだが、それだけにこんなことは二度とないだろう。亜衣ははやる気持ちを抑えるみたいに時間差をつけて了承の旨を伝えた。
当日、果たしてどうなるのかしら。今から想像が膨らんでしまってしょうがない。どんな服を着ていこう、どんな言葉を交わそう、ちゃんと笑えるかな。
(クールじゃないぞ、亜衣……)
それはきっと想うゆえに――。
完全にけしかけられた形になったが、不本意ではなかった。
普段消極的な達也が企画し、誘ったことで、それぞれの反応はよかった。小絵、悠、勇、亜衣に声をかけ、全員から快諾を得られた。まあ、小絵と勇は達也をけしかけた当人なのだけれど。
勇がやけにグループを作りたがり、その中に達也を入れたがった。みな、気の置けない人たちだから嬉しいのだが、しかし、無理に集まろうとしなくてもいいのでは、と思わなくはない。
それでも、大学生活最後の一年も半分を経過した。このまま無理のない日々を送っていては、もしかしたら後悔の念が残ってしまうかもしれない。たまには、自分らしくないことをしてみるのも一興かな、それくらいの気分だった。
そう考えていたら、小絵にキャンパスで会った。小絵はほんとにいいタイミングで現れる。まるで狙いすましていたかのように。いくつか言葉を交わし、勇と似たようなことを言われて、これは自分が動くしかなさそうだと、勝手に自らを追い詰めた。
風花は誘わなかった。意図的に、と言えばそうだが、なんとなくとも言えた。たぶん、次になにか企画が立ったときには誘うだろうし、達也が誘わずとも別の誰かが誘うはず。
歩美も誘わなかった。それは、風花よりも意識して誘わないように気をつけた。達也はまだ就職先が決まっていない。まだ絶望するには早すぎるけれど、しかし、前のめりの性格の彼女なら、おそらく根掘り葉掘り尋ねてくるだろう。訊かれたら素直に答えるつもりだが、そもそも訊かれるのを避けたかった。
相変わらず就活は上手くいっているとは言えない。今も、面接を受けるために某メーカーの本社に向かっている。これで何度目の面接か。だんだん数えられなくなってきた。それだけいろいろな種類のものを経験してきた、だが、どれもこれも内定には結びつかなかった。
どうせ、今回も――そんな風に思い始めている自分がいて、少し危惧する。
諦め気味だった達也の読みとおり、その面接もまた上手くいかなかった。はじめは受け答えにしっかり答えていたのだが、途中から声が出なくなってしまった。目を見開いて、無様に口をパクパクさせる。
息を吸っても吐いても、胸に掌を当てても、脳裏に言葉を浮かべてみても、どんな抵抗も達也を喋らせてはくれなかった。周囲の人間が心配そうに取り囲むが、意識は遠のくばかりだった。どうしてここにいるのか分からなくなってくる。どうして知らない学生と隣り合って、知らないおじさんたちと向き合わないといけないのか分からなくなってくる。なにも、なに一つとして分からない。
達也が唯一予感として抱けるものがあったとすれば、きっと二度と面接という形で誰かと向かい合うことはできないのだろう、それだけだった。
夏に入った。外を歩くのを極力避けたくなるような日差しが街に降り注いでいる。眉根を寄せながら、悠は周囲をまた見回す。約束の時間よりかなり早い。遅刻の多い悠にとって、ちょうどよい時間に到着することがなにより苦手なのだ。早く来てしまった場合、長い時間待たされる。
達也に誘われて、深く考えずに快諾した。慎重な達也らしく、その企画は予定日よりずいぶん前に立ち上げられ、忘れそうになっていた頃になって当日が訪れた。
不思議なメンバーだ。でも、居心地は好さそうだ。どんな話が中心になるのか分からないが、とにかく、たくさんとりとめのない話をしよう。
把握しているメンバーは五人。ほかに勇、小絵、それに亜衣。この中で唯一苦手かもしれない人を挙げるとすれば亜衣かな、と思った。クールな性格にはだいぶ慣れたけれど、それでも、まだ親しくなったという感じはない。以前からもっと仲好くなりたいと願っていたから、今回は一つのいい機会だろう。
「え、悠」
突然呼びかけられて顔を上げると、笑みを浮かべた達也が立っていた。その目に驚きの色が差している。
「久しぶり」
会うのは数か月ぶりだった。連絡はたまに取り合っていたけど、就活のせいでずいぶん没交渉気味になっていた。
「お前がこんなに早く来てるなんて。雪が降るんじゃないか」
「真夏に雪が降ってたまるか」
しかし、そう言われてしまうことが日頃の遅刻の多さを物語っている。悠はちょっとだけ申し訳ない気持ちを覚えた。
「さて、二人はまだかな」
待ち合わせ場所は都内有数の繁華街・黄樹、駅前の喧騒に包まれて立っているのは落ち着かない。全員そろったら即離れたいところだ。
「二人? あと三人いるんじゃないのか?」
「いや」達也は首を横に振る。「勇と小絵ちゃんだけだ。亜衣ちゃんは、急用ができたそうで、来られなくなった」
そうなのか。悠は落胆した。せっかくお近づきになるチャンスだったのに。
「キャンセル料とかは大丈夫?」
「ああ、お店は決まってるけど、この人数だから予約はしなかった」
「そうか」
しばらく並んで待ちわびていた。ぽつりぽつりと互いの近況報告をするが、どちらも就職については話題にしなかった。どうやら達也は触れられたくないらしいと察し、悠も敢えて口にしないことにした。
それから、どのくらい佇んでいただろう。待ち合わせ時間ちょうどに勇と小絵が揃って現れた。――二人一緒に来たことを不思議に思ったけれど、それもまた敢えて口にしないでおく。
大学からの最寄り駅である半田駅の高架下に、それほど大きくない公園がある。大きくはないけれど半分が金網フェンスで囲われていて、球技ができるようになっている。
勇は左手にはめたグローブで野球ボールを受け取ると、ボールを右手に持ち替え、相手に向かって投げ返した。球の勢いを伝えるみたいに小気味いい音がして満足する。
「勇、いいボール投げるな」
達也が声を上げる。こちらを褒めてくるわりに、そのキャッチングには余裕がある。野球経験者同士のキャッチボールは思いの外楽しい。
ボールが行ったり来たりを繰り返す合間に電車が音を立てて通過していく。その音に会話が中断されたり、少し影がよぎったりはしたけど、人の少ないここは最適な環境だ。
先日、黄樹で集まって、気づいたら達也と野球の話をしていた。二人とも高校は陸上部に所属していたのだが、勇は小学校から中学の終わりまで、達也も同じ頃から中学の途中まで野球チームに入っていた。文化系のサークルの人たちではなかなかスポーツをする機会もない。同志を見つけた嬉しさで、すぐにでも野球がしたくなった。
そして、今日に至る。
「少し休むか」
秋は遠い。二人とも汗だくになっていたが、動いているうちはそんなに厭わしくなかった。近くのベンチに腰掛け、あらかじめ買っておいた清涼飲料水を喉に流し込む。いつもよりもおいしく感じる魔法。
「結局、真夏の雪は降りませんでしたねえ」
黄樹の日のことを話しているのだろう。「そりゃそうだ」
「悠さん、あの日に限って早く来てましたよね」
「そんなに言ってやるなよ」
四人での会合は恙なく終わった。話はそれなりに弾んだというか、よく一緒にいる顔ぶれだから特別なものはなにもない。料理もお酒も、界隈に詳しくない達也が選んだにしてはよかった。
最後まで勇の意図は分からなかった。もしかしたら、ほんとは意図なんて存在しないのかもしれない。なんとなくでも彼なら動き出せそうだ。
「でも、小絵ちゃん、女子一人だけにしてしまったな。次回はバランスも考えたいところかも」
「いや、小絵さんはそんなの気にしませんよ。すごく楽しそうだったじゃないですか」
確かに、彼女が一番笑っていたように思う。明るい娘なのだと改めて感じた。
女性で誰か誘うとしたら、急用で来られなかった亜衣、雉町のときには参加していた風花、あるいは歩美とか、かな。
足下に咲いた花を見つけた。風に揺れる花は強い――いや、勁い。その日、桜井達也は打ち明けられない心の弱さに打ちのめされそうだった。
いつまでも胸に去来するいくつかの思い、耳元で囁かれる言葉。
どこへ向かおうとしても光明は見出せないと思い込むのは容易で、だけど、簡単だからこそそこから抜けられなくなってしまうのだ。
達也は告白するつもりだった。すべてを失っても、言わずに後悔するのだけは嫌だった。自分の情けない状況を誰にも打ち明けられないくせに、想いを伝えることには拘泥を試みた。
好きだった。たぶん、愛していた。
「悠さん、手料理をごちそうしてくれたんですよね。料理、好きそうですもんね」
向かいの席に座る風花は、心なしか普段より色づいて見えた。笑みの形になった唇を見つめると、胸がきゅっと締めつけられるようだった。その瞳を、その唇を、その体を、すべて自分の中に閉じ込めたい。叶うならば。
「そうそう、小絵ちゃんとかが手伝おうとしたんだけど、『台所が狭いから』って関与させなくてさ。最終的にデザートまで含めて、全部一人でやってくれた」
あっという間に季節は秋を越し、冬に入った。新年が明けてすぐ、達也は久しぶりに風花を食事に誘った。卒業まで残り数か月。あと、何度こうして誘えるのかも分からない。風花の方でも、そういった感情があったのかもしれない。
秋の終わり頃、勇主導の会合は三回目の集まりを迎えた。メンバーは第二回とまったく同じで、ただ、安上がりでいいからと、悠の一人暮らしの家に集った。悠はあと半年で卒業という微妙なタイミングで、突如家族からの独立を敢行した。敢行して間もなく、そこはほぼサークル員のたまり場となり、悠は迷惑そうでありながら、どこか楽しげでもあった。
四回目は果たしてどうなるのか。達也はもう自分が企画することはないだろうと思っているけど、こればかりは読めないところもある。
「性格的に凝りそうですもんね、悠さん。一人暮らしして正解だったかもしれませんね」
「掃除もきっちりしてるから、ほんと、いい主夫になれるよ。夫の方のね」
「ふふふ」鈴を転がしたような笑い声。「悠さん、第一印象からは、そんな女性的な面があるなんて思いませんでした」
「第一印象って、初めて会ったときの?」
「はい。……もう、いつだったかかなり曖昧ですけど。ぎこちない感じで話しかけてきて、でも、私の緊張をほぐそうとしてくれているんだなって分かりました」
「ぎこちない、だなんて言われちゃったら、先輩は形無しだけどね」
「そうですね――でも、ほんとにいい先輩だって思いましたよ。達也さんも」
「俺の第一印象はどうだった?」
束の間、考える素振りを見せる。やがて照れ笑いを浮かべて、「静かな人だな、って思いました。それは今もほとんど変わりませんけど、なんというか、最初は冷めた人なのかも、ってちょっと不安でした」と言葉をつないだ。慎重に喋っているようでいて、本音に近い部分を晒している気がした。
「ふうちゃんは、どうだったかな――」問われる前から、言おうとしてみた。「背が低い、だったか」
「それだけですか?」頬を膨らませる。
「うん、いや、幼げに見えて、でも話し方とか思考とかしっかりしてて、ちゃんと自分を持っている人なんだとしばらく経ってから気づいた。……あれ、これじゃあ、第一印象にならないか」
俺、今では――。
そのまま一気に言葉にしようとした達也が、ふと、沈黙する。軽く俯くと、テーブルの上に置かれた風花の両手が目に映った。小さくて、真っ白な手だった。
どうしたんですか? 達也の様子を訝しんだ風花が尋ねる。
「俺、今では――」
何日か前に夢を見た。
「こんな風にふうちゃんと向かい合っているけれど、当時はちっとも想像していなかった」
見慣れた駅のホームで電車を待っていたら、すっと隣に誰かが並んで、横目で確かめるとそれは風花だった。
「ほんと、人間関係って不思議というか、どうなるか分かんないもんだね」
名前を呼ぼうとしても、なぜか声が出なかった。ずっと視線を向けていても、彼女はただ正面を見据えていた。その横顔に諭されたように、彼女に倣って正面を見た。ありふれた広告の向こうに、林立する建物と、水色の空があった。
「でも、もうすぐ卒業か。関係性も変わるだろうし、寂しいな」
やがて来た電車に、一緒に乗り込み、空いている席に座った。互いの肌が触れそうで触れない距離を保って。着座してからも、彼女は正面だけを捉えていた。
「まあ、また新しい出会いがあると思うけど」
揺られ、窓の外の風景が流れる。いくつかの駅を通過した後で、ふいに切迫した感情に囚われる。次の駅で降りなければ。一度囚われると、どうしようもないほどその意志を動かせなかった。傍らの風花に瞳を向ける。その静かな佇まいから、まるで降りるつもりがないことが察しられる。彼女の降りる駅は次ではないのだ。では、どうしたら。強引に腕を引っ張ればいいのか、意志に逆らって座り続ければいいのか、電車が中途で停まるように願えばいいのか、どうしたらいいのだろうか。
「ふうちゃんと、勇とか、悠とか、小絵ちゃんとか、亜衣ちゃんとか、歩美ちゃんとかとは、社会人になってからも会いたいな。定期的に、近況報告も兼ねて」
駅が近づく。鼓動の音が鳴り止まなかった。とくんとくん、とくんとくん、とくんとくん……。
夢の中で達也は、一人、電車を降りてしまった。
亜衣はずっと後悔していた。半年前、黄樹で楽しい時間を過ごせていたはずなのに、体調を崩してしまって行けなかった。せっかく達也が誘ってくれたというのに。風邪を引いて動くのも気怠かったが、当日に「体調不良で」なんて告げたら、嘘っぽい気がして、「急用が入った」ということにした。だけど、その方がかえって嘘っぽかったのではないかと、次の集まりに呼ばれなかったときに思った。
でも、寒さに震える二月の夜、亜衣はリベンジを果たせた。今度は雉町で、集まったのは六人。亜衣、達也、勇、小絵、悠、風花。その頃にはもう亜衣らの一つ上の代の人たちが就活を始めていて、大学院進学を目指している小絵は私服だったが、風花はスーツ姿だった。絶妙に似合わない気がした。
その集まりに、亜衣は少しだけ早く向かった。事前に達也を呼び出しておいて。
「これ、もしよかったら」
自分のかわいげのなさは自覚している。でも、人と接するときにあれこれ考えてしまって、結果的に己の言動を悔いるケースが多い。そうならないように、一歩引いた態度を取って予防線を張った。そのせいで損をするとは思わなかった。
その日はバレンタインデーの前日で、亜衣は手作りのチョコを手渡した。相手の気を引く台詞は吐けなくても、料理にはそれなりに自信があった。
「本命なんで」よくそんな大胆な告白があったものだと、自分で自分に驚いた。「すぐじゃなくていいんで、返事ください」
待っています、と言葉をつないだ。いつまでも、と心の中でまたつないだ。
「――うん、ありがとう」
達也はかなり戸惑っている風だったけれど、嫌がっている素振りはまるで見せなかった。だが、即座に答えを出すことはなかった。
その日、亜衣は頭の中がほとんど真っ白で、どんなことを喋ったのかあんまり憶えていなかった。ただ、なにも考えずに座ったら達也と隣同士になって――人数を考えたら大した確率ではないのだけど――一緒にメニューを覗き込んだ瞬間に、手放しで喜びたくなっている自分がいて気恥ずかしくなった。それだけは心当たりがあった。
ホワイトデーに達也から返事をもらえるまでの一か月間は、途方もなく長く、一方で瞬く間に過ぎていった感覚がした。
海の匂いがする。建物に遮られてその青は見えないけれど、確かに存在を教えてくれる匂いに心の芯まで満たされた。
自分の住んでいる街に特別な感情を寄せるのはもしかしたら稀なのかもしれない。だけど、と思う。
(私はこの街がやっぱり好きなんだ……)
歩美は神奈川県の中心部に程近い茅穂の駅前で一人、みんなが来るのを待っている。国内有数の規模である中華街が茅穂にはあって、特に今は旧正月なのでとても賑わっていた。
なにやら最近あちらこちらで仲睦まじげにしているらしい面々から声をかけられ、そこで、歩美は地元を案内したいと買って出た。今日は勇、風花、小絵、それに卒業を間近に控えた達也が来る。亜衣は勇が誘ったがにべもなく断られてしまったそうだ。「いつにも増して冷たかった」と勇は嘆き節だった。悠は現在卒業旅行中で、中国にいる。達也はその期間中予定があって国内に残ったのだが、今日だけは空いていたのだ。
もう、プランニングは立てている。楽しみが高じて、あまりに早く待ち合わせ場所に着いてしまった。でも、待たせるよりは待つ方が遥かにいい。
冬の寒さが厳しくなってから、歩美たちの代の就職活動が始まった。大学生活という一度しかない時間を削って――それもかなりたくさん――しなければならない活動に、歩美は辟易していた。そう思いながらも、現実的に考えればそんなのは甘え。みんなは腹になにか抱えていても、ちゃんとやることをやっているのだ。だから、歩美も前向きに取り組んでいる。
しばしば、彼女を指してポジティブだとか、元気だとか、前向きだとか言われる。それは間違った認識ではないけれど、彼女も人並みに沈むときもあるし、物思いに耽ってどこへも進めなくなってしまうときもある。ようは、本能的に表に出すべき感情を弁えられるだけだ。そうは言っても、作っているわけではない。
「歩美ちゃん」
さっきから、こちらへ歩み寄ってくる姿に気づいていた。目の前まで来て、達也は微笑みながら歩美の名を呼んだ。出会った頃から、その穏やかな印象は変わらない。これから社会人になるとは到底思えない。
海が突然姿を現したとき、達也は思わず息を飲んだ。さっきから匂いはする気がしていたけれど、こんなに近かったとは思わなかった。海の濃い青と、空の薄い青のコントラストがなんとも美しい。
海を背にして記念写真を撮った。風花と達也を中央に据えて、小絵と勇が左右それぞれに。撮影者は歩美。――この写真をどのように振り返るのだろう、と達也はぼんやりと考えた。
次いで、達也が撮影者になって、歩美も映してあげた。
歩美が街の案内をして、勇が相槌を打って、風花が感心して、小絵が笑い声を上げて、達也が質問をして、それなりに話していた集団が、一列になって海を眺めはじめた途端、しんと静まり返った。まるで、それぞれが考えに没頭しだしてしまったかのように。視線は一心に前方に注がれ、その先では波が白い飛沫を上げていた。
客船がいくつも並んでいる。その甲板に無数のカモメが下りたって、また飛び立つのを繰り返していた。あなたはひとりでいきられるのね、達也は心の中で有名な歌の一節を唱えてみた。
一人で生きられるだろうか。仲間たちと別れ、好きな人を失い、それでも生きていられるのだろうか、自分は。
ちらりと横を向くと、風花の真剣な横顔が目に飛び込んできた。笑顔も魅力的だけど、真摯な眼差しも心を捕えるものがある。
偶然の出会いがあった。必然の想いがあった。これまでの光景が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。そして、「これから」はきっとないのだ。達也は悲しいくらいにすべてを了解し、ほんとうに、心は乱れて張り裂けそうだった。だけど、同時に自分をひどく安心させた。かつて用意されていた幾重もの道はいずれも塞がり、最後に残された一縷の光もやがて消える。
強く生きたかった。偉大な大海原のように、片隅で咲く花のように。
風に吹かれる髪を抑える小ぶりの手が、まっすぐな黒い瞳が、きゅっと結ばれた赤い唇が、誰よりも彼女が、なによりも美しいものだと思った。
三 あの日、僕はどうすればよかったのかな
「かざはな」
風花、という言葉を知っていますか。ふうか、ではなく、かざはな。
初冬の風が立って雪または雨のちらちらと降ること。
もしくは、晴天にちらつく雪。
そういった現象を示す言葉らしい。
だから、冬の言葉なんだよね。寒くなってきたかな、と思う頃に生まれた君にはぴったりだね。
それに引き換え、僕の名前はなんて個性がないんだか。達也、だなんて日本中探したらいくらでも見つかる。桜井もそこまで珍しいものではない。ありふれた名前だとつい思ってしまう。
だけど、君に呼ばれると、そのありふれた印象に色がつく感覚がするんだ。
さて、これはもしかしたら遺書になるかもしれない。そのつもりはあったようで、なかったようで、自分でも明らかにできないのだけれど、とにかく死を目前に控えて書いている。
別に、余命宣告されているわけじゃないから、死を目前に控えている、という言い方は誤りだ。正しくは、僕は死を目前に見据えている。
死のうと思った瞬間は挙げようとすれば挙げられるのだが、しかし、一つに絞るのは興がない。どうしても思い込みが混ざってしまう。
死のうと恒常的に考えていた。だから、時間をかけてその考えを確かなものにしていっただけ。
でも、なあ。
やっぱり、みんなで茅穂に行って、海を見た瞬間がそれと言えるのかしらん。
あのときの君は、いつにも増して美しく輝いていた。だからこそ、この世への未練がなくなったのかもしれない。
考えていることはどのくらい外から読めるのだろうか。
四年生のみんなが卒業旅行で中国に行く、という前日、僕は悠の家を訪ねた。彼は突然の来訪に戸惑いながらも、僕のためにミルクティーを用意してくれた。ミルクティーを常備している彼の女子力に敬礼。
そのとき、特に目論見はなかった。行って、なにがしたかったのでも、なにが話したかったのでもなかった。ただ、虫の知らせで、彼に会うべきだと心が望んだ。
テレビゲームを少しした。
本や漫画を読んで、それについての感想を話し合った。
テレビ番組を一緒に眺めた。
彼の作った料理を食べた。
食後のデザートまで出してくれた。
そして、僕が買ってきたお酒を飲み始めた。そうだ、一つだけ、お酒は飲みたいと目論んでいた。
だんだん、話の方向が右往左往し始め、互いになにを話しているんだか曖昧な感じに。それでも、とにかく喋った。喋りたいことがアルコールのせいで泉のように湧いてきた。
寝そべりながら、喋った。相変わらず酒量は減らない。悠は僕と違ってお酒に弱かった。顔が赤くなっていて、おもしろかった。
とはいえ、その日ばかりは僕も前後不覚で、人のことを笑えなかった。
もう眠りの世界へ彷徨しそうになる寸前、僕は彼の言葉を聞きつけた。夢の中じゃなく、確かに現実でかけられた言葉。
――達也。
悠は僕を見ていなかった。仰向けになって、天井をただ見つめていた。
――生きろよ。
僕は涙を流しそうになった。でも、それはしちゃだめだって、どうしてか思ったんだ。我慢して、ついでに彼に背中を向けた。眠ったふりをすることに決めた。
――死ぬなよ。
彼は、僕の背中を突き刺したその言葉を憶えているだろうか。訊いても、忘れたと返されそうな気がするけど。
なにも答えなかった。人が眠りに就く生き物でほんとによかった。
積み重ねてきた嘘と、それと同じくらい積み重ねた真実。
咄嗟に問われると、相手を心配させたくないからつい嘘が口をついて出る。あるいは、自分を守るいらない矜持がありのままを語ることを邪魔する。
自分で選び、自分で招いた状況なのだから、すべてをあけすけに告げたってよかったのに。
実際はそれができず、しかも、一度ついた嘘をさらに守るために嘘をつき、縛られて動けなくなる。
ここ最近はずっとそんな感じだった。
誰と話していても罪悪感に苛まれ、心から笑えない日々が続いた。これからどうなるのだろう、という不安は消えなかった。自棄になって不規則的な生活を繰り返した。
そんなときに、ふうちゃん、君の顔をよく思い浮かべた。今どんな表情をして、なにをしているだろう。
叶うならば、いつでも会いたかった。でも、そんなことできないって知っている。圧倒的に僕の責任により。
悲しみを胸に抱き、深く涙することすら許されない。だって、選んだのは僕だろう?
分かれ道でしてはならない選択を犯したわけでなく。
嘆かわしい不幸に行く手を妨げられたわけでなく。
誰にも相談せず。
現状打破のための具体的な魂胆もなく。
ただ、頭の中で忙しく考えているだけで、現実ではなにも変えられない。
それが僕だ。
――ここまで書いてきて、気づくことがある。
僕は、これを誰かに読まれることを想定して書いていない。もしかしたら、書き出す前はそのつもりがあったのかもしれないけれど。
でも、だんだん誰を意識することもなくなり、次第に自分との対話を試みている感が強くなってきた。
だって、タイトルは「かざはな」
ふうちゃんが読んでくれたら、なんて夢想するけど、PCに残されたドキュメントを誰が見つけると言うの。
タイトルが「遺書」ならまだしも。
妹の性格からしたら、僕が突然命を絶ったら、原因を探ろうといろいろ漁る可能性も捨てきれないが。
それでも、これは「かざはな」
儚く季節の移り変わりの狭間に取り残されてしまえばいい。
どうせなら。
誰にも読まれない僕の自己満足なら。
大学で出会った人たちに向けた別れの言葉をつらつらと綴ろうかな。
それも、ごくごく限った人たちに向けて。
僕はこの性格だから、人間関係は広く浅くという感じなのだけれど、それでも深い絆で結ばれたケースもあった。
だから、ここからは、そのような形で。
――穴井悠。
彼の第一印象はすごく好かった。というより、印象はずっといいままだし、周囲の人間も彼に対して悪い感情は持たないだろう。
いつも適度な「がんばっている感」があって、いい。
自分のことを人見知りだと公言して憚らないところがあるけれど、そう言い聞かせることによって積極的であろうとする努力ができるのかも。
裏表がないのだ。
いつでもまっすぐ。いつでも正直。
ただし、欠点もある。一つは遅刻癖。時間が守れない。
あるいは、こだわりが強い。料理を始めたら自分の手で完結させないと済まないし、部屋のものの配置もこだわる。
つまり、マイペースなのだろう。だけど、分かりやすい性格をしているから、誰かに嫌われにくい。
羨ましいと感じる。本人にそんなこと言えないが。
僕は彼といる時間が長かった。ふうちゃんともよく一緒にいたけれど、同学年というのは大きい。
彼がいなかったら、僕はどうなっていたのだろう。
今のサークルにい続けたかどうか。
もっと、一人でなにもかも抱え込んでしまう時間が増えたはず。
だけど、すべては結果論。僕と悠が出会ったこと、結びつきを強めたこと、それが結果だ。
悠には申し訳ないと思っている。せっかく、諌める言葉をもらったのに。
僕はやっぱり最悪の選択をしようとしている。
――長島勇。
出会ったときから、こんな自分を慕ってくれるいい後輩だとは漠然と感じていた。
勇は人に好かれやすい、と言い切ることはできないのだが(アクが強いから)、自然と懐に入る柔軟性がある。
コミュニケーション能力の高さは、人間関係の構築において欠かせない武器。
ただし、あまりに受け入れられやすい存在だと、損をしてしまうきらいもあるから、勇もそうならないか勝手に危惧していた。
その点は歩美ちゃんと重なった。
歩美ちゃんは間違いなく損をしている、とこれまた勝手に思っている。
だけど、一方で勇は、よくよく観察するとどうやらそうではないらしいと分かる。
良好な関係性を周囲と築きながらも、自分の欲望に従順な側面もあって、それが不思議と両立できているのだから呆れる。
気づいたら、小絵ちゃんと深い仲に変わっていた。
勇は高校までずっと体育会系で、上下関係を大切にする半面、異性を身近に侍らせたい自己中心的な考えもあって。
これだけ挙げていると勇に対して悪い感情を寄せているように思われてしまうかもしれないけれども、そんなことはなくって。
僕は彼を信頼しているし、幸せになってほしいと素直に願っている。
僕がいなくなってもそのスタンスを揺らがせないで貫いてくれと、ここに書き残しておく。
一緒にやったキャッチボールは楽しかった。結局、一回きりで終わってしまったけど。
また、やりたかった。唯一の未練。
――澁谷小絵。
華やかな見た目ではないけど、不思議と引き込まれる魅力がある。内側から他者を惹きつける光を放っている、そんな印象。
加えて、一筋縄ではいかない部分も有している。大人しいと思われがちだけれど、実際は積極的で大胆で、ときに策士だ。
ふうちゃんや歩美ちゃんと同期だけど、入ってきたタイミングからすると勇や亜衣ちゃんと同じか、それより遅いくらいだから、知らないところも多い。
前に、君には話したかもしれないが、不意の雨に降られたときに折よく傘を差し掛けてくれる、そんな存在なんだ、彼女は。まあ、現実にそういう場面があったからそんなたとえを用いるのだけれど。
勉強熱心だと思う。図書館で黙々と資料を読み耽っている姿をしばしば見受ける。
そういえば、彼女は図書館がよく似合う。
就職せずに大学院へ進学したいらしいね。ぜひ、彼女の希望どおりにことが運んでほしいものだ。
もう少し早く出会っていたかったかも、いや、今くらいの距離感がちょうどいいのかも。
彼女と勇はいいコンビではないかな、どうだろう。
――生田歩美。
歩美ちゃんはいつでも明るくて、ほんとうに、太陽みたいな人という形容がよく似合う。
声も大きくて、歌うことが大好きで。
それにしても、歌唱ってストレス発散、そして気分転換の最高峰ではないだろうかと密かに思っている。
僕はけっして上手い方ではないけれど、気分が晴れないときに歌うと心地いい。
サークルのクリスマス会かなんかの合唱で、小絵ちゃんが歌っているのを見たことがある。彼女も意外にも上手いよね。
勇も上手だった憶えが。
悠の歌はおもしろい。がんばって高音を出そうとしているときが特に。
ふうちゃんとカラオケに行ったことがなかった気がする。一度くらい、歌声を聴いてみたかったかもしれない。
歩美ちゃんの話に戻そう。
彼女がサークルの幹事長になったのはそんなに驚かなかった。能力的には彼女しか適任はいないだろうと感じていたから。
ただ、不安もあった。どんなこともまっすぐに取り組む性格だから、そういう役割を与えられたら潰れてしまわないかな、と。
でも、僕が危惧していたってなにも変わらない。
それに、歩美ちゃんは僕を慕ってくれるけど、僕なんかよりもずっと優秀な人間だから、強い気持ちで波を乗りこなしていける、とも同時に考えていた。
歩美ちゃんは太陽だけれど、実は絶対的なものではなく不安定な存在だ。
それでも、彼女は彼女なりにあらゆる困難に立ち向かっていく。
これからもその色合いを異ならせながら鮮やかに咲く花となるだろう。
――若槻亜衣。
二つも年が離れているはずなのに、ときどきその落ち着きぶりから同い年かそれ以上に感じる瞬間がある。
とにかく、クール。冷静沈着で、状況判断に長けている印象。
しかし、クールと言われる所以はもう一つ、辛辣な口ぶりや態度にあるのではないかな。
目上の人に対してはそんな失礼なことはしないけれど。
あと、あまり笑わないかも。もちろん、暗い子ではけっしてないのだが。
そのキャラクターを知ると、いつまでもその生き方を貫いてほしいと願ってしまう。彼女にしかない魅力だから。
ところで。
つい先頃、亜衣ちゃんから告白された。
あの、雉町でみんなと集まった寒い日に。
意外だった。亜衣ちゃんにそんな風に言ってもらえるなんて予想すらしていなかった。
嬉しかったけど、その想いに応えてやることはできなかった。
僕には好きな人がいるし。
それよりも、僕などを好きになるのは間違っていると思った。
当然、そんな返答はできなかったけれども。
亜衣ちゃんが僕のどこを認めてくれたのか、いいと感じてくれたのか、詳しい経緯は分からないが、それはきっと一時の気の迷いだろうし、もっと素敵な誰かを見出せるはずだから。
なんて、ちょっと偉そうだろうか。書いていて寒気がする。
でも、嬉しかったのはほんとう。
そして、報いてやれないのもまた事実。
これから彼女が誰に惹かれ、どんな顛末へと導かれていくのか興味深い。
ただし、確かめる術はない。
もし、亜衣ちゃんに変な誤解を与えているようだったら、おこがましいけれど、僕の代わりにここに書いていることを伝えてほしい。
最後まで誰かになにかを施してやれない、してもらってばかりの男だ。受け取った人が顔をほころばせるような花束みたいな存在を夢見ていた。
遠く、果てしない夢だった。
――渕上風花。
今年が明けてすぐ、君を誘って雉町で食事したね。
ほんとにすぐだったから、家族に次いで今年初めて顔を合わせた人になった。
あの日もいつもみたいな話をして、いつもみたいな満たされた気持ちを感じて、君の笑顔だけを見つめ、君が紡ぐ言葉だけに耳を傾けていた。
僕はどんな表情でどんなことを語っていただろうか。それもまた、いつもみたいだったのかもしれない、きっと。
でも、僕の胸中はちょっとだけ、いや、かなりいつもとは違った。
まるで落ち着いていなかった。
さまざまな感情や言葉が溢れ、その氾濫に飲み込まれそうだった。
だけど必死で堪えたのは最善の策だったのか、それとも最悪の選択だったのか。
結果論でも語れない。
だって、過去として振り返れるほど前の話ではないのだから。
あの日、君に想いを打ち明けるつもりだった。
もう互いに分かりきっている事実かもしれないのに。
分かりきった上で今の関係を保っているのかもしれないのに。
どんな説明を試みても言い訳にしかならないって知っている。
だが、あの日、君と薄暗い店内で見つめ合っていたら、その愛おしさに身動きが取れなくなってしまった。
それを、その愛おしさをすべて失う可能性のある発言を、臆病な僕ができるわけがなかった。
もう、僕はいなくなる身。
ここでなにを後悔しても君にとって迷惑にしかならないけど。
それだけは判然としていても言わずにはおれない心を推し量ってもらえると幸いだ。
言葉が足りない。
この世に存在する言葉ではこの想いのすべてを打ち明けられない絶望。
あの日、僕はどうすればよかったのかな。
――桜井達也。
僕が僕であること。
僕が僕であるために。
人はなんのために生まれ、いかにして人生の指標を見つけ、満足する死を迎えられるのだろう。
周りのみんなが眩しくってしょうがない。
みんな、なにかのために生きている。
誰かのために動いている。
羨ましくて恋い焦がれた夢。
保育園の頃。人に上手く馴染めない性格だったから、友達はできず、一人で黙々と作業に熱中していた。妹は活発な娘だったから、そんなふがいない兄をこき下ろすことなく、園児たちの輪に連れて行ってくれた。
妹によってやっと周囲がどんな状況だか見られた。
どんな人に囲まれ生活していたか理解した。
小学校に入って。
大きくは変わらなかったけれど、一つだけ、ようやっと自分の意志を持ち出し、それをなんとか相手に伝えようと努めた。
しかし、同い年の子どもらがもっと幼いうちに拙い表現で喋ろうとしていた時期に喋らなかった僕は、ひどく苦労し、また周囲から稚いものとして扱われた。
それでも、友達はできた。
変わった子を多く引き寄せたかもしれないが、おそらく僕が特徴のない平平凡凡な少年だったから、かな。たぶん。
そして、次第に異性に興味を持った。
それまでは性別が異なることに特別な考えを抱いた瞬間が皆無だったため、それはある種の価値観の転換だった。
同性との関わり合いの作り方と異性とのそれはまったく違うのかと、目を見開いた。
僕は異性にかわいがられた。いじめられた、という意味ではなく。
愛玩動物と言うと言い過ぎなのだが、まあ概ねそんな感じ。
それぞれがそれぞれに想い人がいて、その結果僕のことを「二番目に好きな人」と位置づけた。そして、それを公言して憚らないのだ。
今思えば、本来なら少年の心は揺れ動いただろう。この状況は幸せなのか、はたまた不幸なのか、と。
だけど、僕は逡巡しなかった。
一番に愛されなくても、三番以下ではなくて、二番目に愛されている。
それだけで充分嬉しかった。その頃は。
ほかにもいろいろなことが舞い込み、六年間は過ぎていって。
中学校に入学する。
それとタイミングを同じくして我が家は引っ越した。同区内だったから住む箱が変わっただけと言えばそうなのだけれど、しかしおかげで小学校時代の同級生とは別の中学校へ入った。
妹は卒業を目前に控えていたし、不便だが通えない距離ではなかったため、転校しなかったのにも関わらず。
せっかく不器用なりに他者との関係性を築けたのに、また一からやり直さなければならなくなった。
そこで自分を理解して、これまでのように地道に積み上げていく作業に努めればよかったのだけど、僕は一から十、または百を目指そうとしてしまった。
積み木だろうと砂遊びだろうといきなり城をそこに現すことはできない。
錬金術師じゃあるまいし。
人はいつでも必要とされる過程を経て結果にたどり着く。
中学校で環境が大きく変わった僕は城を作りたくなってしまった。
でも、あらゆる面で無理があった。身のほどを知れと今なら言ってあげられる。
無理をしようとした挙句、調子に乗っているやつというレッテルを張られ、詰まるところ周囲から敬遠される存在となった。
それは寂しい現実だったけれど、ふがいない僕はこの世の理不尽に襲われた思いだった。
中学校の三年間は当初の暴落を必死で回復しようともがく、そんな時間だけが流れていった。
その期間があったからこそ、高校では無理をせず臨めた、そう言うこともできる。
高校生の頃。
都内の私立高校に進学した。
みな、自分のことで精一杯という感じで、周囲をしきりに気にすることはなかった。
大学受験、部活、生徒会、恋愛。
それぞれに一日のなすべきことをこなしているうちにその日が終わる、そんな様子だった。
だから、いじめは見受けられなかったし、みんな、なんだか忙しそうだった。
大人になったら嫌でも忙しさの中に放り込まれるのに、どうして、と僕は捉えていたのだが、そう思いながらも僕もその時間の移ろいに身を任せた。
そうすることが最も楽であるのに気づいたから。
最低限の勉強をし、なんとなく志望大学を考え、部活は陸上部に入り、自分にとっての当たり前の日常を選び取った。
繰り返しの日々は退屈ではなかった。
むしろ、決まった路線から脱線しそうになると不安に苛まれた。
地道にコツコツと生きていく、それに見合う人柄になる。
次第に、僕という個性を獲得し始めた。
とてもつまらなくて、唾棄すべき個性だけれど、僕にしたら大きな進歩だった。
高校生活に光が射し込む。
ここでなら輝けるかもしれない。
二年生に進級し、陸上部の部長を任された頃、僕は初めて恋をした。
恋をしてみたかったのかもしれない。
あのときの感情作用はどこまでほんとうだっただろう。
同じ部活に所属している同級生で、比較的物静かな女子だった。
といって、暗いわけではなく、話しかければ明るく応じてくれる。
聡い印象を与えるその双眸も含め、とても大人びて見えたし、きっとそこに惹かれた。
一度意識しだすとその想いはあっという間に己の内側で育っていく。水を与えなくても勝手に背を高くしていく花。
気づいたらいつでも彼女のことを目で追っていた。
ちょっと話して笑顔を交わせただけでも、その手に触れられただけでも、僕の心は舞い上がった。
若かったというよりも圧倒的に幼かった。
そして、勘違いをむくむくと大きくさせたまま、修学旅行の最終日に告白した。
具体的な文言はすっかり忘れてしまったけれど、好きですとか、愛していますとか、どこにでも転がっているような言葉を伝えただろうことは容易に想像がつく。
あの日を思い出すと悲しい思いで満たされる。
彼女はひどく疲れたような顔をして、「ありがとう」と言った。続けて、いつもみたいな柔らかい笑みを添えて、「でも、ごめんなさい」と言ったのだった。
頭が真っ白になった。
受け入れがたい現実を突きつけられた気がした。
だけど、しばらくぼんやりとした日常を送って、次第に自分の幼さを自覚した。
当たり前だ。勝手に育てて一方的な自信を抱いた花を押しつけても、そこに受け取り手への配慮はない。
だけど、悲しかった。
悲しかったから、前を向く努力をした。
これからも僕の日常は続く。
また誰かを好きになったときに、その誰かのためになにかを施せる人になれますように。
いつの日か。
そう願った。
彼女とは友達としてのつながりを保て、しかし、卒業してからは一度も会っていない。
大学へ進学した。
大学受験は思っていた以上に上手くいった。
サイコロの目が連続で六が出るように、随所で幸運に恵まれ、私立の一流大学へ入れた。
それは嬉しかった。
気分がよかった。
そこでどんな人たちに出会うのかとにかくわくわくしていた。
悠に出会い。
歩美ちゃんに出会い。
そして、君に出会い。
勇に出会い。
小絵ちゃんに出会い。
亜衣ちゃんに出会った。
もう充分なのかもしれない。
充分生きた気がする。
誰かと笑い合える日々に絶望し、研究に没頭できる時間に絶望し、いろんな場所に赴けたことに絶望し、誰にも打ち明けられない心の弱さに絶望し、涙を流した夜に絶望し、海辺で見た君の美しい横顔に絶望した。
もしかしたら、これには続きがあるのかもしれない。
これからも僕は苦しみながらいろんな経験をすることができるのかもしれない。
今度は誰かに打ち明けられるのかもしれない。
そうしたら、こんな読まれることを意識していない駄文は、恥ずかしくなってすぐに破り捨ててしまうだろう。
だけど、けっしてそうはならない。
決めたから。
さようなら。
また会えたら。
追伸。
この文章はいったい誰のために?
いつの日か、僕以外の誰かのために。
四 どの日、私以外の誰かのために?
ゴミばっかりだからポリ袋に詰め込んで、まとめてゴミ収集車に放り込みたい。真っ黒な携帯の画面で前髪を整えながら、そんなことを考えた。それは衝動だった。この胸の内にわだかまるいらいらをどうにかしたくてしょうがない。
現代国語の先生が俯きがちに教科書を読み上げている。ぼそぼそとした声だが、その声がかき消されることはないくらい教室は静まり返っている。大半は机に突っ伏していて、あとは内職していたり、漫画を読んだりしている。まじめに先生の話を聞いているのは、ごく少数。
私は机の上に携帯だけ出して――教科書も筆記用具も持ってきていない――頬杖をついて、決して手元の教科書から顔を上げないおばさんの先生を睨みつけている。あんなでよく先生になれたものだし、あの歳まで先生を続けられているものだ。あれだったら、まだ私の方がまともに教えられるだろう。いらいらする。
でも、あのおばさんが不甲斐ないことがいらいらの直接の原因ではない。それは、突っ伏している人がいることでも、こそこそと雑誌を回し読みしている人たちがいることでもない。これといって明らかな理由もなく、私はただいらいらしている。
目の前の席を思いっきり蹴っ飛ばしたい。蹴っ飛ばしたら、きっとすっきりするだろう。そのときには、さすがにあのおばさんも顔を上げるのかな。上げたとしても、なにも言えないとは思うけれど。
終業を知らせるチャイムが鳴った。先生が終わりを告げるまでもなく、ガタガタとあちこちから音がして、勝手に席を立っていく。今まで大人しく聞いてやってたんだから、もういいでしょ、と言うかのように「自然終了」を演出する。おばさんの先生は形だけでもちゃんとしようと一礼して、そそくさと教壇から下りていく。もはやお決まりになった一連の光景を眺めてから、私は「死ね」と呟く。誰にともなく。
弁当箱と焼きそばパンの入った袋を片手に、屋上へ向かった。向かう途中でいつものように足を止め、箱を袋から出し、蓋を開けた。蓋の開いたそれを心持ち上げて、ゴミ箱の中を見つめた。ためらうことなく、中身をゴミ箱へと投げ入れる。たまご焼きとかウィンナーとか、白いご飯が見えた。鼻を突くのはいい匂いではなくて、なんとも形容の難しいいろんなものが混同した匂いで、ただただ、不快感を覚える。
屋上に辿り着くと、すでに美波がフェンスにもたれかかって、煙草をふかしていた。「よっす」軽く片手を上げて、私を手招きする。
「早くない? 授業さぼってた?」私が笑いながら近づくと、美波は頷いた。「なんか朝からだるくてさ。フウカ、よくじっとしてられるよね、あんな空気よどんでる中で」
「私は席から動くのがもはやだるくて」美波の隣に腰掛け、焼きそばパンを手に取った。私の、お昼ご飯。
「弁当、また中身捨てたの?」赤と白のチェック柄の布袋を指差して、美波はけたけたと笑う。
「捨てたよ。どうせこんなに食べれないし、おいしくないし」私はぶっきらぼうに答える。
「だからって、捨てなくてもいいのにさ。そのまま持って帰ればいいじゃん。私はそうしてるよ」
私は四分の一くらいかじった焼きそばパンを袋に戻す。もう、食べる気がしなかった。代わりにポケットから煙草を取り出す。「なんか、持って帰って親と言い争いになるのも面倒くさいんだよね」
自分が正しいと信じてやまない、腐った女。思い浮かべただけで吐き気がする。できるだけ、あの女とは言葉を交わしたくない、っていう私のスタンス。
「フウカってほんと面倒くさがりだよね」美波は煙を吹き出す。「いつも気だるそう」
「省エネの時代だからね」
私たちはつまらなさそうに笑い声をあげる。二人の笑い声が屋上の唯一の声として浮かび、それは目に見えるような乾いた感触を与える。
空は誰のためでもなく澄んでいた。その青さはここにいる誰の心を満たすこともできずに、薄く、平べったく広がる。
午後の授業は睡眠時間に充てた。都合、四回目のチャイムを聞いてから、私は目を覚ました。両手を掲げて伸びをすると、体が軽くなっているような感じがした。トイレに行こうと立ち上がったが、立ちくらみがしてまた椅子に戻る。もう大丈夫だろうと再び立って、トイレに向かう。教室を出るタイミングで担任の先生が入ってきたけど、知らん振りをした。
トイレの壁はピンク色のタイルで、この学校の内情とは裏腹に、綺麗に磨かれていた。私は一番奥の個室に入って、便器に向かってしゃがみ込む。なにかを吐き出したくてしょうがなかったけど、朝も昼もまともなものを受け取っていない胃からはなにも逆流してきそうにない。それで、目に見えるなにかを吐き出したいわけではないことに思い至る。だが、分かったところでなんの解決にもならない。
便器の中の水に私の顔が薄く、ぼんやりと映っていた。どんな表情をしているのか鮮明に映してくれないけれど、鮮明でないだけに、絶望的にも楽観的にも見えた。
大きく息を吐いて、いいかげん立ち上がった。――つと、また立ちくらみがする。目の前が滲んで、壁に倒れかかる。したたかに打った肩がじんわりと痛んだ。
私は立ちくらみの感覚が嫌いではない。どうしようもないくらい私を無抵抗にして、いろいろなしがらみみたいなものから解き放ってくれる気がする。
教室に戻ると、ホームルームがすでに終わっていた。室内の雰囲気は部活へと向かっている。これから始まる、自分の好きなことができる時間。私は机に引っ掛けてある鞄を取って、そんな雰囲気に唾を吐きかけたいと思いながら、それを肩にかける。すぐに教室を出た。
許せない。許せない、なにかを。なにかは分からない。
プールの水面に無数の水滴が落ちてくる。いつの間にかどんよりと曇ってしまった空から、それらは絶えることなく落ちてくる。雨だ。
私は雨が好きだ。雨が降るとそれまでの世界が一変する。まるで夜の底へ沈みこませていくように、それは私を心地よくしてくれる。
なんとなく、雨の気配に身を委ねたくなって、更衣室に行くことにした。たぶん、置きっ放しにしているスクール水着がまだあるはず。
時間をずらして行ったから、更衣室には誰一人としていなかった。奥のロッカーを探ると、記憶の通りの位置にプールバックが残っていた。中から、水着を取り出す。制服を脱いで、たたみもしないでロッカーに放り込み、急いで着替えた。気持ちは高揚していた。なにもかもがもどかしかった。着替えると、校舎裏のプールへ向かった。肩に、雨のしずくが寄り添うように降りつける。
プールの縁に立つと、水泳部だった頃を思い出した。いや、辞めたつもりはないから、正しくはまじめに通っていた頃を。といって、感傷に浸っているわけではない。たんに、記憶の作用としてあの頃を思い浮かべ、今の自分と重ねる。
片足から水の中へ身を沈めていき、全身を浸からせると、冷たいと感じた。雨だから気温が下がっているのだろうか。でも、水の中の世界はなんていうか最高だった。今の私を一番満足させてくれるのは、この世界じゃないかな。その世界の空を見上げると、無数の水滴が打ちつけられていて、その規則正しい音に私は包まれる。
しばらく泳いだ。泳ぐのは久しぶりだったけど、体はそう簡単に泳ぎ方を忘れるものではないと実感した。ただ、体力の衰えも否定できなかった。だからといって、生活を改善しようとか野暮な意志はどこからもやってこない。
ふと、水面から顔だけ出していると、校舎の渡り廊下に佇む男の姿を見つけた。誰かと待ち合わせているのか、携帯をいじりながら、たまに周囲を見回している。――ウチの学年だったかな。名前が出てこないけど、ちょっと興味を持った。
水面から音を立てないように出て(雨でかき消されるから、そうする必要はなかったけれど)、もう少しだけ近づいてみようと思った。プールサイドに上がって、四つん這いの格好で徐々に近寄った。彼は気づく様子はない。あと数歩のところまでたどり着いてしまい、私は声をかけるために立ち上がろうとした。
そのとき、またあの立ちくらみに襲われた。このときは厄介だった。濡れていて足元が不安定だったし、内心の焦りからか、無駄な抵抗を試みようとしてしまった。
意識がはっきりしたときには、私は彼に後ろから抱きつく格好になっていた。当然、彼の制服はびっしょり濡れてしまった。
「わ、誰? なに?」
彼は突然の水着女の出現に、度肝を抜かれたようだった。その顔を抱きついたまま観察すると、目鼻立ちがすっきりしていて、あ、これはタイプだ、と一瞬で思った。
「私と付き合って」
「ええ?」
もちろん、今の「ええ?」は名前も知らない彼が発したものだけど、私も「ええ?」って叫びたくなった。自分の言葉に自分で驚いていた。どうしてこのタイミングで、付き合って欲しいだなんて言うのだろう。
だけど、現実に言葉にするとほんとうの気持ちのように思えた。私はほんとうに、この腕の中にいる彼を愛しているような気がした。なにより、私のタイプだし。
「お願い、私と付き合って」
雨にかき消されないように、それでも、あまりうるさく響かないように、私はもう一度「付き合って」と口にした。
最近、屋上に美波が来なくなった。まあ、同じ学校にいるからどこかで出くわして、なんの問題もなく話してはいる。でも、美波は変わった、ような気がする。
まず、煙草を吸わなくなった。煙草がないと私以上にいらいらしたのに、見る限りではまったく吸わなくなってしまった。私が目の前で吸っても、美波はポケットに手を伸ばさない。
おかしい。
それに、髪型を気にするようになった。いつも無造作におろしているだけだったのに、ヘアゴムで結わえるようになった。そういえば、化粧も少し薄くなった。
休み時間、教室の窓から校庭を見下ろしていると、「フウカ」と、隣に美波が現れた。髪をきちんと結わえている美波は、まるで別人みたいだった。
「いい天気だね」
なんとも、能天気なことを言う。私はいい天気だからか、気分がすぐれなかった。雨が降って欲しい。すべてを遮断する音の世界に、身を置きたいのに。それでも、「そうだね」と、適当に相槌を打っておいた。
私は晴れ渡った空なんか見ていなかった。校庭を無邪気に走り回る、寺内を目で追っていた。寺内は、この前私が濡れた体で抱きついた、彼だ。寺内はやはり同級生で、バレー部に所属していた。確かに、背が高かった。見ている限り、足も速そうだ。サッカーボールを追いかけて、校庭内を右に左に駆け抜ける。
――お願い、私と付き合って。
私の突然の告白を受けて、寺内はまず「と、とりあえず放してくれる?」と言った。寺内から腕を外すと、彼は立って、私たちは向かい合った。そのとき、思ったよりも背が高いことを知った。
「あ、確か、フチガミさんだよね……?」
向こうは私を知っていた。私が無言で頷くと、「その、あんまりにも突然だから、気持ちの整理もつかないし……」
ごたごた言わないで付き合え、と思った。気持ちの整理なんかつけなくていい、今すぐ私と付き合うと言え。
「少し、考える時間をくれないかな。ちゃんとした回答をするから」
先延ばしにされ、私の心は人並みに傷ついた。
それでも、素直に頷いておいた。「分かった、待ってる」
ちゃんとした回答とやらをしてくれたのは、それから一週間も経ってからだった。てっきり、もう無回答でやり過ごされるのかと思っていたから、呼び出されたときは意外に感じたし、本気で付き合ってくれるのかと期待した。
校舎裏の、プールからは少し離れているその場所に行くと、寺内が立っていた。顔は改めて見てもタイプだし、背が高いのも男らしくて申し分ない。私は正面に立って、彼の口からどんな言葉が出てくるのか期待して待った。
「その、突然で、最初はなにがなんだかよく分からなかったけど、嬉しかったです」
一気に、私の期待が冷めていくのが手に取るようにわかった。寺内は私と付き合うつもりなんかないのが、声の調子から窺える。だいいち、「嬉しい」なんてわざわざ言うときには、「ごめん」が続くのが定石だ。
「ごめん」予想したとおり、その三文字が紡ぎだされる。「でも、お付き合いはできません。おれに――」
「もういい」私は片手で、彼の言葉を遮った。「もういいよ」
寺内は口を半ば開いて悩んでいるようだったが、やがて首をゆっくりと縦に動かして、もう一度「ごめん」と告げた。また、ごめん、か。目の前の男の股間を蹴ってやろうかと思ったけど、我慢した。頬をはたこうかと思ったけど、こらえた。
ごめん、を最後に残して、彼は背中を向けて、私から遠ざかっていった。その後ろ姿は、まだ私になにかを思わせるのに充分なたくましさを備えていた。
きっと今、自分の表情はそうとうふてくされているのだろう。無性にむかついた。彼にでもなく、かといって、自分にでもなく。心が、じわじわと悪性のものに侵食され、荒んでいく感触がした。
――フウカ。
美波の呼ぶ声で我に返る。眼下では、相変わらず寺内たち男子が走り回っている。
「ミナミ」この際だから、訊いてみることにした。「最近、なんかあった?」
美波は一瞬、顔を引きつらせた後、「なんで?」と問い返してきた。
「いや、なんとなく」
「うん――」美波の表情から笑みが消えてしまった。なにかに怯えているように、頬を硬く、引きつらせている。「私、さ」
「なに?」
「たぶん、好きな人ができた」
いきなり打ち明けられる驚きは、こういうものなのだろう。私は息を飲んでしまい、上手く呼吸ができなくなり、一回、咳をした。一回だけでこらえたのは、せめてもの意地。でも、私の意地ってなんだろう。私はなにをがんばる必要があるのか。
私、お金なくて、バイトしてんだけど、コンビニで。そこの先輩が、特別かっこいいわけじゃないんだけど、なんかいい人で、一緒にいると安心して。でも、先輩はもっとかわいい女の子というか、純粋な女の子がいいみたい。だから、私、ちょっと変わろうかなと思って。とりあえず、煙草やめたんだ。気付いてた? はは、バカみたいでしょ。笑えるよね。でも、好きなんだよね。
それまで絶え間なく喋っていた美波が黙り込んだ。――私が、近くにあった机を思い切り蹴り飛ばしたからだ。けたたましい音とともに、机が視界の隅で倒れた。教室が一気に静まり返る。
「うるさい」腹が煮えくり返りそうだった。すべて吐き出したい。なにもかもぶち壊したい。「うるさい、うるさい」
美波はこうなることを予想していたかのように、無表情で私をじっと見ていた。それがまた、憎たらしかった。
「うるせえんだよ、ごちゃごちゃと。それがなんだって言うの? どうでもいいことをべらべらと、くだらねえ」
死ねよ、と言っていた。誰よりも理解し合えた美波に向かって。「死ねよ、むかつくから」
ふざけんな、と絶叫して、私は別の机を蹴り飛ばした。さらに別の机を、両手でなぎ倒した。
それでも、美波はなにも言わずに私を見ていた。
その視線に耐えられなくなって、私はその場から走り出した。教室を出て、廊下を曲がるところで誰かとぶつかったけど、気にしなかった。私はとにかく走った。
どこにいけばいいのだろう。私の居場所は、いったいどこだろう。屋上か、プールか、トイレの個室か。どこだったらいいのだろう。
こんなあたしが向かうべき場所は、どこ?
あの日、僕は