ドッジボール (上)

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

# 1

 迷惑メールに困ってるからアドレス変えます、なんてどんな被害妄想かと思っていたけれど、いざ自分の身に降りかかってみると、それはそれは困ったものだった。メールを開くと、入金報告やら、不在着信やら"Facedook"の通知やら、何を信じていいのか分からなくなるようなメールで画面が埋め尽くされる。
 近いうちにアドレスを変えようと思いながら、つい先延ばしにしてしまっていたが、何も予定のない休日、ようやくゆっくり時間を取ることができた。
 アドレス変更自体は簡単だった。あとは、誰にメールを送るかだ。
 電話帳のアイコンはどこだっけ。スマホの小さい画面のなかを探してしまうくらい使う機会のないアイコンを開き、画面をスクロールする。
 中学のときの友だち。高校の部活の同級生。大学の必修科目のクラスメイト。2年前まで勤めていた保険会社の同期。元カレその1。元カレその2。
 ……は、送らなくていいだろう。
 もっとも、今はLINEもFacebookもあるから、連絡を取ろうとすれば手段はある。
 いや、アドレス変更を機に、たまにはメールをしてみたい気もする。でも、私なんかからメールが来たところで、相手も引くだろう。ずっと連絡も取っていないのに。それに、何通かメーラーデーモンから返事が来るだろうと予想がつく。
 まずは職場のオーナーと店長たち、そしてバイトのみんなにメールを送る。
 あとは、家族と、大学のゼミで関わりの深かった数人に送って、それで充分かな。
 電話帳をざっとスクロールして、大事な人が抜けていないか一応確認する。そのなかに、懐かしい人の名前を見つけたような気がして、あわてて画面を上に遡る。
 志波瑞穂(しばみずほ)
 そういえば、そんな可愛い名前だってこと、忘れていた。みんなも私も、いつも「志波ちゃん」と呼んでいたから。「し」じゃなくて「ば」の方にアクセントがある呼び方。
 志波ちゃんは、大学の演劇サークルのなかでいちばんよく話す人だった。普段の稽古以外にも、一緒に舞台を観に行くこともあった。
 とは言っても、志波ちゃんにとっていちばん仲のいい人が私だという意味ではない。志波ちゃんは明るくて誰に対しても分け隔てなく接してくれる人だ。だから私でも安心して接することができたのだ。
 サークルの人たちは、今でもLINEのグループがあるし、あえてメールしなくても大丈夫だと思っていた。けど、志波ちゃんにだけは、メールを送っておこう。
 メールを送ってしまうと、することもなくベッドに突っ伏した。部屋の掃除は終わってしまったし、夕飯まで何も用事がない。
 いや、本当は通信教育のテキストが机に積み重なっているが、いまは何となく開く気がおきない。何をするともなくTwitterを開き、横になったままタイムラインをぼんやりと遡る。
 暫く静かにしていたエアコンが、音を立てて動き始めた。室内に広がるひんやりした空気。
 私は思わずくしゃみをした。
 暑がりでない方だとはいえ、連日の猛暑に、昼間のエアコンは必須だった、筈なのに。
 エアコンを消して、窓を開ける。
 庭でツクツクボウシが鳴いている。
 風に乗って、列車の汽笛が聞こえてきた。近所にある遊園地のアトラクションだ。残り少ない夏休み、今日も遊園地は賑わっていることだろう。
 夏が来てからは、朝は浮き輪やらプールバッグやらを持った子どもたちと、帰りは夜まで遊び倒した若者たちと、反対方向に向かい通勤する毎日だった。そんな彼らを見る度、私も今年こそは夏らしいことをしようと心に決めるのだった。
 けれども、休みになる度、毎日の決心を忘れてしまう。昼前に目覚め、昼食を食べて、最低限の家事を終えると、クーラーの効いた部屋で寝転び、スマホの画面をぼんやりと見つめ、まどろんでいるうちに夕方になっている……。
 そんなことをしているうちに、気付けば何もしないまま、夏を消費してしまっていたようだ。

 その夜。居間で夕食を食べ終えて部屋に戻ると、メールの通知が入っていた。

「了解しました!
皐月ちゃんお久しぶり!
突然だけど、皐月ちゃん楠アキラ好き…」

 志波ちゃんからだ。皐月ちゃんという呼び方が懐かしい。職場ではいつも「中村さん」か「中村」としか呼ばれないから。
 予想外の返信に、少しわくわくしながらメールを開く。

「…楠アキラ好きだったよね??
ちょうど今度の土曜の17:00から下北沢で公演があるんだけど、一緒に行く人が行けなくなっちゃって、もしよかったら皐月ちゃんも一緒にどうかなって思って」

 わくわくが増すのを感じた。
 楠アキラというのは、志波ちゃんがファンだった舞台俳優だ。
 志波ちゃんに誘われて、演劇サークルの何人かで、彼が主役の舞台を観に行ったら、私まで彼の端正な顔立ちと演技力に惚れ込んでしまった。
 それ以来、志波ちゃんは彼が出る舞台を観に行くとき、毎回私に声を掛けてくれるようになった。といっても、なかなか予定が合わなかったり、せっかく予定が合っても体調を悪くしてしまったりして、その後2人で行けたのは、たった1回だけ。けれど、私がそんな調子でも、志波ちゃんは卒業前まで当たり前のようにお誘いメールをくれたのだった。
 さすがに卒業後となると、そんなお誘いが来ることもなく、私もそんな俳優さんのことなんて忘れていた。「一緒に行く人が」っていうのを見ると、志波ちゃんもいまはもう、他に誘ってる人がいるんだろう。
 それなのに、卒業してから3年以上経っても、志波ちゃんがあの頃のように声を掛けてくれたことが嬉しかった。私なんかのことを覚えていてくれたんだ。
 すぐさま鞄からシフト表を取り出す。
 その日はちょうど、13:00までのシフトだ。大丈夫。1、2時間残業しても、余裕で行ける時間だ。
 さっそくOKの返信をして、志波ちゃんからの返信を待った。
 ただ、久しぶりすぎて、どうして突然私にメールをくれたのか疑問も残る。
 卒業後も集まっているメンバーはいるみたいだけど、私は卒業した年に一度顔を出したきりで、もうしばらく顔を合わせていない。たまたまアドレス変更メールを見て、思い出してくれただけ、かな?
 志波ちゃんに限ってそんなことはない。そう思いながら、次の選挙はまだ先だよね、とか考えてしまった。

# 2

 タイムカードを押して、制服を脱ぐ。
 鞄から財布だけ出して、バックヤードを出る。
 確か、石塚SVイチオシの新商品が、廃棄時間間近だったはず。あ、SVって、スーパーバイザーの略ね。
 弁当売り場を見ると、案の定、新商品のシールのついた、脂っこそうなスタミナ弁当が積み重なっていた。遊びに行く前だし、あっさりした麺類とかが食べたいな、と迷ったけど、スタミナ弁当に手を伸ばす。
 さっきまで隣に並んでいた幕の内は、いつの間にか売り切れている。自分の分の弁当は片手に持ったまま、幕の内のあったスペースを使って、新商品の売り場を2列に広げる。そして、廃棄間近の商品をその2列にまたがるように、ピラミッド状に陳列した。
 そこまでやってから、しまったと思った。自分でやらないで、バイトにこれくらいやらせなきゃいけなかったのに。
 仕方ない。次から気をつけよう。そう言い聞かせながらレジへ向かう。
「お疲れさまです」
 入って2ヶ月目の学生の男の子は、それだけ言うと、黙々と会計を済ませた。
 会計を終えると、アイスの売り場をチェックしているもう1人に「じゃ、何かあったら呼んでね」と声を掛けて、バックヤードに戻った。
 そして、弁当を頬張りながら、発注用の端末を起動する。

 就職活動で、周りが金融の一般職やらエリア職やらを受けるのを見て、それじゃ何か負けているような気がした。それなりの大学にいるのに、というプライドもあった。とは言っても、自分が本当に何をしたいか、なんて本気で考え込むと、心を病んでしまいそうだった。
 とりあえず、小さいころから身体が弱くてお世話になることが多く、将来性も感じられた、医療の分野を中心に就職活動を始めた。でも、車を乗り回して営業に駆け回るのは嫌だった。どこまでも中途半端だったのだ。
 そんな姿勢で就職が上手く行くわけもなかった。現実に返って、身の丈にあった職場を選ぼうとした頃には、毛嫌いしていた一般職の採用はあらかた終わっていた。
 飲食やサービス業やシステム関係ばかりが並ぶ就活サイトのなかで、唯一興味を持てたのが、生命保険の営業だった。興味を持っていた医療分野に近いものを感じたのだ。一般にイメージされている生保レディとも違って、新卒採用は法人を中心とした営業で、制度もしっかりしているようだった。試しに受けてみると、それまでの苦難が嘘のように、とんとん拍子で最終面接を通過した。
 おしゃれなホテルでの内定者懇親会で、フロアいっぱいの同期たちを目にしたときは、この先果たして何人が残るのだろうと考えた。それでも、同じテーブルになった、頭の良くなさそうな女子大生や短大生たちと話してみて、このなかでなら生き残れる、という謎の自信を感じた。
 営業なんてあんたには無理だと親には反対されたが、普通の営業職とは違うから、と就職活動生向けのきれいな資料を見せて、なんとか丸めこんだ。
 3年間バイトしていたコンビニのオーナーにも、保険業界のブラックな話を聞かされ、うちで社員として働かないかというお誘いもあった。責任のある仕事を任され、何度か昇給もしてもらうくらい自分を評価してくれたバイト先に、ほんの少しだけ心を魅かれるところもあった。
 それでも、「まずは、新卒として、やれるところまでやってみたい」と答えた。もしクビになったらよろしくお願いします、とつけ加えて。

 それから2年余りして、その言葉が現実のものになった。
 実際にクビになった訳ではない。けれども、居るに耐えなかったのだ。
 担当している法人での成績が振るわなければ、皆知り合いをかき集めてノルマを目指す。けれど、友だちが少ない私は、さらに友だちを失うようなことなんてできなかった。
 成績が振るわないと、私なんかがこの会社に居ていいのかという不安に駆られるようになった。
 大丈夫、あの子よりは取れている。大丈夫、あの子は失敗して叱られたけど、私は失敗していない。そうやって、安心できる比較対象を探して、自分を保っていた。
 けれども、2年目の夏、私よりずっとずっと成績のいい、チームで1、2を争うような成績の同期が急に辞めたとき、自分も辞めようと決意した。彼女が辞めたのに、私なんかがここにいちゃいけないと。
 だが支店長に引き止められた。この会社は、入社2年間は育成期間と見なしている。成績は気にしないで、のびのびやりなさい。そう支店長は言った。
 そうなれば、あと半年は、上手くいかなくても、引き止めた側の責任だと考え、開き直ることができた。すると自然と気が楽になり、不思議と成績も向上していった。
 それでも、前から考えていた、2年で辞めるという考えは変わらなかった。
 2年目の冬には、営業に着ていくようなスーツを着て、元バイト先へ、オーナーに会いに行った。
 辞める前、再び支店長に呼びだされたが、今度は譲らなかった。

 あの冬から、1年半。
 今では、正社員として、ネイバーマート天沼(あまぬま)駅前店で、店長に次ぐマネージャーを務めている。
 ここの仕事だって、相当ブラックだと分かってはいるけれど、自分を必要としてくれるのが分かるから、私はこれでいいと思っている。
 発注業務を終え、端末の電源を落とした。あとは日報を入れるだけ。志波ちゃんとの約束の時間に間には、余裕で間に合うだろう。
「おはようございます」
 盛田(もりた)くんが、ペコリと会釈して入ってきた。半年前に入った、お笑い芸人志望の男の子だ。ちょっと太めで背が低く、お客様に対してやけに腰の低い話し方をする人だ。相方はきっと、長身で細身のハイテンションな奴なんだろうと勝手に想像している。
 彼が一人前になってきたお陰で、この店はだいぶ助かっている。何より私の土日のシフトが楽になった。彼がいなかったら、今日だって私が夕方まで入らないといけなかっただろう。
「あ、中村さん、もう帰っちゃいますか?」
「んー? もうちょっとだけ居るけど、どうしたの?」
「いや実はですね、僕、今度の納涼会の幹事なんですけどね、店長さんマネージャーさん方にまつわるクイズ出そうと思ってて、そのアンケートお願いしようかと思って。あ、回答は今度でいいんですけどね」
「あ、いいよ。いま書いてっちゃうね」
「どうも、すいません」
 そう言って盛田くんは、小さめのコピー用紙を差し出した。
 納涼会というには少し遅い気もするが、オーナーが経営する3店舗合同の大きな飲み会が予定されている。早速幹事を任されるとは、盛田くんも大変だ。彼なりに、いろいろ準備しているんだろう。
 アンケートの項目は、趣味、最近はまってること、最近笑ったことの3つだった。趣味と最近はまってることが両方あるとは。この2つって、だいたい一緒じゃないの? 普通の人は、そんなに多趣味なんだろうか。
 いつもは、趣味は読書とでも書いて凌いでいるのだが、楽しい場でのネタだ。趣味は演劇鑑賞にしておいた。
 実際、今日演劇鑑賞に行くんだから、趣味と言っておいてもいいだろう。いや、そろそろ仕事も慣れてきたし、何かひとつくらい、胸を張って趣味と言えるものがほしい。今日の舞台が楽しかったら、これからは劇場巡りを趣味にしてみてもいいかもしれない。
「アンケート、机の上置いといたよ。じゃあ、あとよろしくね」
 日報を入れ終え、ワンピースに着替えると、店の前を掃除している彼にそう声を掛け、店を後にした。

# 3

「皐月ちゃん、久しぶりー!」
 志波ちゃんは、改札を抜けるなり、笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。
 舞台映えしそうな、ぱっちりとした目や、外人さんみたいな鼻は変わらない。鼻の横の大きなホクロも。
 髪はあの頃より短くなって、肩にかからないくらいの長さで、内側にきれいにウェーブがかかっている。
「皐月ちゃん、ちゃんと生きてたー。飲み会とか全然来ないから、心配してたんだよー」
「あはは、どーしても仕事が忙しくてね」
「そっかー。営業、大変?」
 そっか。志波ちゃんには、というかサークルの人たちには、まだ言ってなかったっけ。
「いや、今はコンビニのマネージャーなんだ」
「えーそうなんだ! あ、場所は小劇場の方ね」
 お互いの近況を話しながら、劇場へ向かう。志波ちゃんは、変わらず銀行の窓口業務を務めているとのこと。裏方に異動したいと言っても希望は通らないという。そりゃそうだ。志波ちゃんがいれば、窓口も映えるだろう。

 入り口の丸っこい文字のネオンサインや、飲み屋やスナックが入るビルの猥雑な雰囲気は相変わらずだ。
 ここは2回来たことがある。一度はサークルの先輩方の誘いで、一度は当時付き合っていた彼氏と。志波ちゃんと来るのは初めてだ。
 前を進む志波ちゃんは、慣れた様子で受付を済ます。私も後に続き、しーんとした劇場内に入る。
 いちばんよさそうな席は、玄人っぽい人たちがすでに埋めていたので、空いているなかでよく見えそうな席を選んで、2人で座った。
 開演のベルが鳴る。
 初めは主役の独白のシーンだった。そこへ楠アキラが現れると、2人してそちらに目を奪われた。彼と主役とのリズミカルな掛け合い、役柄を表すような軽快な歩き方、見せ場でのハッとさせるような叫び声に心を奪われていく。
 そして、決して広くない小劇場の舞台の巧みな使い方や、予想のつかない話の流れに引き込まれる……

 現実に戻るように舞台が明るくなる。カーテンコールが終わって、主役が一礼して舞台袖に戻っても、まだ余韻に浸っていたかった。
 すごかったな。
 舞台はいいな。
 私も、そんな風に、舞台に立っていたんだな。
 プロが乗るようなものと一緒にするのも厚かましいが、舞台に向けて打ち込んだ日々が甦ってきた。
 ボロボロの台本。
 舞台袖での緊張感。
 公演終了後の解放感。
 数年の時が、嘘のように巻き戻った。

 醒めやらぬ興奮を語り合うために、志波ちゃんと夕食を一緒に食べることにした。こういう流れを予想して、親には元々、夕飯はいらないと言ってあった。
「何食べよっか」
「うーん、志波ちゃんは何食べたい?」
 志波ちゃんからの質問に、質問で返した。こういうお店選びはあまり得意ではないので、センスのありそうな志波ちゃんにお任せしたい。食べる物には特にこだわらないし。
 結局、駅までの道を少しふらふらした結果、駅前の小さなイタリアンに入った。
 店内の食べ物の匂いを嗅いでから、そういえば昼食が重たかったことを思い出した。昼夜としつこいものを食べたら胃にくるかもしれない。まあ、リゾットや何やらがあるだろう。
 と思ったが、メニューを隅までさがしても、リゾットはなかった。代わりにドリアを頼んだが、思いのほかクリームが重たい。明日の胃腸が心配だ。
 けれども、アキラくんの動きがカッコいいとか、ラストのどんでん返しがよかったとか、マニアックな会話を続けているうちに、そんな心配もどこかへ忘れてしまった。
 職場の人とは普段できない会話だった。変な人だと思われる心配なく、好きなものについて語り合うことができる、まるでオアシスみたいな時間だった。
 それにしてもやっぱり志波ちゃんはすごい。私が気付かなかったような細かな演出や伏線を見逃さなかったり、この脚本は誰々らしさが出てるとか、ちょっとついていけなくなるくらい。
 志波ちゃんが先にパスタを食べ終え、私もリゾットを食べ終えると、会話がプツっととぎれた。もう切り上げる頃合かな。それとももう少し話を続けて大丈夫かな。
 そんなことを考えていたら、志波ちゃんが口を開いた。
「今日は、皐月ちゃん誘ってよかった。たまたま友だちが来られなくなって、チケット勿体ないなーって思ってるところに、アドレス変更のメール来て、声掛けさせてもらったんだけど、ほんと、学生のときに戻ったみたい」
 そうなんだ。やっぱり本当にタイミング良かったんだな。それでも、社交辞令だとしても、そこまで言ってもらえてよかった。
「私も来て良かったよ。誘ってくれてありがとね」
「話してて思ったけど、やっぱ皐月ちゃんって芝居が好きなんだね」
 ちょっと語りすぎちゃったかな? 私はこう答える。
「普段仕事ばっかりだったから、久しぶりにこういう話できて、嬉しくて。最近は全然芝居とか観てないし、こんなに語ってもいなかったんだよ」
「よかった。たまには息抜きしないと」
「たまには趣味の時間も持たないとなって思ったわ」
 そうだよね。志波ちゃんはひとり言のように呟いた後、こう続けた。
「実は私、劇団ゆーとぴあに入ってるんだ」
 劇団ゆーとぴあとは、所属していたサークルのOBが中心になったアマチュア劇団だ。学生の頃には、たまに交流もあった。志波ちゃんが参加してるとは、知らなかった。
「いま11月の公演に向けて、稽古中なんだ」
「そうなんだ! すごいね」
 やっぱり志波ちゃんは違うなあ。観る側として好き勝手語るだけじゃなくて、いまでも舞台に立っているんだ。
「でも、最近になって女子が3人も辞めちゃってさ、困ってるんだよね。配役も決まってたのに。とりあえず、ちょっとした役は、裏方に応援してもらうことになったけど」
「へえ、女子が3人も。また色恋沙汰か何かかな」
「え? ああ、そうなんだよ」
「原因作った男の方は、まだ残ってるの?」
「いや、男の方も、別の劇団が忙しいとか言って来なくなっちゃった。もともと11月の公演は出ない予定だったんだけどね」
「私の知ってる人?」
「稲垣さんって知ってる? 直接関わりない代なんだけど」
「知らないやー」
 それ以上話を膨らませられないでいると、志波ちゃんは
「でさ、話戻るんだけど」と続けた。
 話をそらしたのは、嫌な予感がしたからだった。
「ひとつ、割と重要な役が空いちゃって、いまみんなして役者探してるんだ」
 ああ。この流れは。
「やっぱり大事な役は、役者経験ある人で固めたいんだよね。頼むにしても、OBの方が、お互い気も知れてるし、スキルもあるし」
 話の先が読めてしまい、苦笑いで口元が歪む。
「いろいろ話してて、皐月ちゃん、いまでも芝居好きなんだってのが伝わってきて、思ったの。皐月ちゃんなら、一緒にやれるって」
 私の目を見て、志波ちゃんは続けた。
「11月の公演、出てくれないかな」

# 4

 やっぱり、そういうお誘いだったか。何年も会ってないのに、急に芝居見に行こうなんて、おかしいと思った。
 私は久しぶりの演劇トークで盛り上がっていたのに、志波ちゃんはずっと、この話を切り出すタイミングを伺っていたのか。
 でも、なんで私なんだろ。ほかに上手い人いっぱいいたはずなのに。
「皐月ちゃん、普段は落ち着いた感じだけど、舞台に立つと堂々としてるし、皐月ちゃんがやってくれるなら、安泰だと思うんだ」
 本当に? そんな風に見てくれてたなんて。
「団長の後藤さんって、覚えてる? 確か2、3回会ったことあるよね。30代前半くらいの人。あの人も、卒業公演のときの社長夫人役、印象に残ってるって言ってくれてたし」
 後藤さん。名前と、ゆーとぴあの団長だということは知っているけど、どの人だか結びつかない。そんな方が印象に残ってると言ってくださるなんて。
 単純だが、悪い気はしなかった。卒業公演は、それまでの公演のなかで、いちばん力を入れていた。「社長夫人」のステレオタイプを凝縮したような、自分とは真逆の役柄を演じるために、いろんな小説やドラマを見て、世間の「社長夫人」のイメージを体現しようとした。その甲斐あって、我ながら上手く演じきれたと思っている。それを見てくれた人がいるなら、率直に嬉しい。
 でも、それ何年前の話さ。
「けど、あれ以来、舞台になんて立ってないし、学生のときと違って、お金取るやつでしょ?」
「大丈夫、大丈夫。3年ちょっとのブランクなんて、気にならないよ。それに、実は、重要な役の割に、台詞少ないの」
 そう言って志波ちゃんは、鞄から台本を取り出した。
「今日も稽古だったんだ。はい」
 言われるままに、私は台本を受け取る。
 ページをパラパラとめくるだけで、「魔女」や「呪い」といった単語が目に付く。30代のメンバーもいるはずなのに、いまだにファンタジー調の芝居をやっているのかと思うと面白い。
「途中から出てくる、マーシャって役だよ」
 “マーシャ”の出てくる行を探すが、ト書きばかりで、台詞が見つからない。台本をざっと追っていると、途中に「マーシャは心に深い傷を負って、声を失ってしまったんだ」という台詞を見つけた。続けてしばらくページをめくると、ようやく台詞があるシーンを見つけた。どうやら、主人公がマーシャの心を開いたという流れらしい。
 もしかして、この役って、ヒロイン?
 でも、最後のページを見ると、主人公と、アンナという女の子が、愛を誓うシーンがあった。
「どうかな。皐月ちゃんのイメージに合う役だと思うんだ」
 うん。よく分かんないけど、確かにそんな気がする。
「でも、重要な役っていうなら、私みたいな部外者が演るより、団員が演ったほうがいいんじゃない? 台詞がないってのは、逆に難しいと思うし。志波ちゃんは演らないの?」
 志波ちゃんはニヤリと笑って答えた。
「私は魔女役。私以外に誰がそんな役演るっての」
 なるほど。
「女子は他に、声優さんやってる人がいるけど、喋らない役は嫌だってさ」
 声優さんもいるのか。確かに、声優さんに喋らない役は勿体ない。
「だから、皐月ちゃんが頼みの綱なんだ。もちろん強制はしないし、ここですぐに返事しろとは言わないけど、考えてくれないかな?」
 正直、気持ちは揺れていた。上手くできる自信はないけど、必要としてくれるなら……と、首を縦に振りたかった。けれど、さっきから引っかかっていたことがあった。
「でもさ、稽古って、土日でしょ?」
「うん。そうだね」
 ああ。そりゃそうだよね。
「私いま、コンビニの仕事だからさ」
「ああ、そうだったね……。土日も働いてるの?」
 そりゃそうだ。
「うん。曜日関係ないから。それに、私がみんなのシフトのわがまま聞く側だから、休み合わせるの難しいと思う」
「そっか……大変なんだね。でも、大丈夫だよ。他のメンバーも仕事とかしながらだし、みんなが毎回来られる訳じゃないし」
 志波ちゃんはめげない。
「それに、お願いしてる立場だし、無理は言わないよ。何とかするから」
 何とかするって。何とかなるのか?
 私がシフト調整でどんだけ苦労してるか、知らないでしょ。店長も、ベテランの主婦の人も、土日は来ないのに。学生だけじゃほとんど頼りにならないから、私が回してるっていうのに。まあ、月~金勤務の銀行員には、分からないか。
 やってみたい気持ちはある。でも、どうしても日程のことがネックだ。ここは、すぐに返事しろとは言わないという言葉に、甘えさせてもらうとするか。
 ただ、もうひとつだけ、気になったことがある。
「私以外に、声掛けてる人いるの?」
 志波ちゃんは首を横に振った。
「いないよ。皐月ちゃんだけ」
 私は考えるそぶりをして、そして答えた。
「ちょっとだけ考えさせて」

# 5

 次の日。
 仕事帰りの電車の待ち時間に、本屋へ入った。何を買うともなしに立ち寄っただけなのに、自然と足が、芸能雑誌のコーナーに向かった。
 1冊だけ在庫が置いてある演劇雑誌を手に取った。舞台俳優さんのインタビューや、舞台の告知が、大きなものから小さなものまで載っている。
「アキラさんが雑誌に載ったんだよ!」いつだったか、そう言って志波ちゃんが見せてくれたっけ。
 思い出に浸りながらページをパラパラとめくり、買おうか迷っているうちに、電車の時刻が近づいていた。
 私は慌ててレジに向かった。

 フワフワしている。
 最初は「そういうお誘いだったか」とガッカリしたのに。自分でも単純だなあと思う。
 確かに、純粋に再会を喜ぶだけの時間でなかったことは、少し残念だった。
 それでも、自分を必要としてもらえるのは、嬉しいものだった。
 趣味もない、仕事だけの日々だったのに。コンビニでの毎日や、保険会社での地獄の日々を飛び越えて、芝居に打ち込んでいた学生時代に戻ったようだった。
 自分でも、どうして芝居だったのか分からない。人前に出たり、目立つようなことをしたりするタイプではなかった。大きな声で喋るのも苦手で、いつもボソボソと喋っていた。高校では友だちもほとんどいない、教室の端でひっそりとしているような存在だった。
 このままじゃいけないと思い、大学入学をきっかけに変わろうとした。メガネをコンタクトに変え、メイクや服装に気を配るようにした。
 そして、外見を変えるだけでなく、何か新しいことを始めてみようと思った。そのときに、たまたま誘われたのが演劇サークルだったのだ。
 大学生活そのものは、蓋を開けてみれば、お洒落をしたからといって、急に自分が変われる訳もなく、周りにどう見られているか、いつみんなから見捨てられるか気にしてばかりだった。
 けれども、舞台の上では堂々としていられた。殆どのお客さんは、私が普段はこんな奴だってことも知らないんだ。そう思うと、演じるのが楽しかった。
 その経験は、保険の営業でも、いまの仕事でも役立っている。「保険のお姉さん」「コンビニの店員さん」を演じることで、普段の頼りない、ボソボソ喋る自分を忘れ、自信を持って仕事ができるようになった。
 ネックは、これか。
 志波ちゃんから転送してもらった、稽古日程のメールを見る。
 いま決まっている日程だけでも、半分は仕事と被っている。
 志波ちゃんは、何とかすると言っていたが、何とかなるものなのか。
 正直、本番当日の休みを確保するだけでも申し訳なく思ってしまう。立場上、バイトのみんなの都合を優先せざるを得ないし、職場にわがままを言うのも気が引ける。
 果たしてそんな調子で務まるのか。しかも3年半舞台に乗っていない自分が。
 ゆーとぴあには、志波ちゃんみたいに卒業後も趣味としてずっと芝居を続けている人だけでなく、劇場運営の仕事をやっていたり、役者を目指したりしている人もいる。声優さんもいるって言ってたっけ。そんな人たちと、同じ場所に立つなんて。でも、志波ちゃんや後藤さんが、私に期待してくれるなら、それに応えたい。
 いや、待てよ。
 志波ちゃんも、本当にたまたまメールを見ただけで、別に私じゃなくてもよかったのかも。
 もしかしたら、本当に舞台観に行く人がいなくて誘っただけで、話の流れで思い出して言っただけなのかも。
 実は、後藤さんは後藤さんで別の人を誘う予定だったりして。
 それで「こいつ本気にしてるよ」とか思われていたらどうしよう。
 ああ、こんなとき、誰かに気軽に相談できればいいのに。
 親に知れたら「あんたに務まる訳がないし、仕事を優先させなさい」とか言うに決まっている。
 LINEを開いても、暫く参加していないグループLINEの未読が溜まっているだけ。
 何ヶ月か前に、仕事の相談をした元彼には、もう頼りたくない。
 こういうときに親身に話を聞いてくれそうなのが、志波ちゃんくらいしか思いつかない。それじゃ意味がない。
「たまには趣味の時間も持たないと」と言ったときは、ほんの現実逃避の趣味のつもりだったのに、こんなに本格的な事になってしまうとは。
 ぼんやりとスマホの画面を見つめていると、メールの通知が入った。
 バイトの学生さんからだった。

「井上です。お疲れさまです。面接が入ってしまって、次の日曜日15:00〜18:00が出勤できなくなってしまい、代わりをお願いすることはできないでしょうか。バイトのみんなへも聞いてみたのですが、代わってもらえなくて…」

 私は溜息をついた。メール画面を閉じて、稽古日程を確認する。その時間はまるまる稽古に被っていた。

「ちゃんと、他の店の人にも聞いた?」

 念の為、そう返した。
 返事はすぐに来た。皆都合が悪いという。きっと本当なんだろう。シフトに穴を開けないために、みんなには3店舗の従業員全員の連絡先を送っている。
 店長は、気軽に代わってやるなと言うが、仕方ない。就活生にシフトに入ってもらわないと回せない状態がおかしいのだ。

「わかりました。代わります。店長へは自分で報告してね」

 そう返すと、スマホを机に伏せた。
 やっぱり、無理だな。
 また、スマホを手に取った。
 暫く文章を考えてから、志波ちゃんに、断りのメールを送った。

# 6

「今日は読み合わせをしました」
「稽古後の飲み会!」

 ゆーとぴあのホームページを見つけた。これまでの稽古の様子がブログ式に公開されている。
 やっぱ、楽しそうだな。
 別に未練がある訳じゃないけど、ついつい過去の記事までスクロールしてしまう。

 断りのメールへの、志波ちゃんからの返事は、あっさりしていた。

「そっかー、分かった。急にごめんね。
でも考えてくれただけでも、ありがとう!
また遊ぼうね!」

 最後はどうせ、社交辞令だ。当分、志波ちゃんと会うことはないんだろうな。


 店長の挨拶で、皆がグラスを鳴らす。
 納涼会は、人数も集まって、賑やかだ。
 まあ、コンビニだから、その時間も働いている人や、途中参加の人もいるんだけど。
 私の左には、昨年開店した天沼豊田(あまぬまとよだ)店の河合(かわい)店長、右には石塚SV。石塚SVの右にはオーナー。オーナーの向かい側には、杏台(あんずだい)駅前店のマネージャーの蛭田(ひるた)くん。
 蛭田くんは、オーナーにお酌をしながら、ご機嫌を取っているようだ。私がバイトをしている頃にフリーターとして入ってきた蛭田くんは、私が出戻ってきたら社員に昇格していた。だから、昨年、新店舗ができると聞いたときには、てっきり蛭田くんが店長になるものだと思っていた。けれども予想外なことに、売上の低い杏台駅前店に異動になった。だからご機嫌取りに必死なのか。いや、考えすぎか。
 位置的に、私がSVにお酌するしかないだろう。あーあ、バイト時代のSVは、もっと若くてイケメンだったのに。
「中村さん、いつも頑張ってるよね。河合さんに続いて、女性店長目指してる感じ?」タバコ臭い息を吐きかけながら、SVが訊いてくる。
「いやいや、私なんて、まだまだですよ」私は答える。
「中村さん、店長目指すなら、先に彼氏作っときな。私みたいに婚期逃すよー」と河合店長。
「あれ、河合さん、いくつだっけ」躊躇いもなく、SVは尋ねる。
「今度32になりまーす」
「そうなんだー。じゃあ、谷店長とか歳近いじゃん。どうなのー」
 谷店長というのは、うちの店の店長。確か、35とかそこらだ。
「えー、谷さんですかぁー?」
 どうでもいいけど、私を挟んで、盛り上がらないでくれ。
 私もいずれ、河合店長のようになるのだろうか。この仕事に就いたときは、とにかく前職を辞めたい一心だったが、店舗拡大を目指すオーナーの元で、このまま社員として働いていけば、いずれ店長を任されるのは目に見えている。
 河合店長みたいに、プライベートを犠牲にしてまで仕事に打ち込んだり、蛭田くんみたいに出世を目指したりなんて、私には真似できない。私はとても、人の上に立つような人間じゃない。
 成り行きに任せて、いつか訪れるそのときに覚悟を決めるか、また違う道に進むかはそのとき次第だ。
 いつでも抜け出せるように、スキルは付けている。仕事の後や、休みの日に少しずつ時間を見つけて、医療事務のテキストを開いている。冬までには試験を受けられるようにしたい。
「ではではみなさん、お待ちかねのクイズのお時間でーす」
 盛田くんが立ち上がって呼びかける。みんな、適度にお酒も入って、拍手で盛り上げる。
「今回は、店長さん、マネージャーさん方にご協力いただきました! このクイズで、みなさんのプライベートを覗いちゃいましょう!」
 あ、これ、プライベートを覗くってテーマだったのか。最近はまってることも、最近笑ったことも、仕事関連のこと書いちゃったよ。じゃあクイズにされるのは、あれか。
「では、第1問! 天沼駅前店の中村マネージャーについてのクイズでーす」
 私からかよ。まあ、偉くない順にやるとそうなるか。
「中村マネージャーの趣味は何でしょーかっ」
 そう言って、盛田くんは、画用紙を掲げた。中村マネージャーの趣味は何でしょうか。①アニメ鑑賞②演劇鑑賞③人間観察、と書いてある。その横には、私の似顔絵なのか、女の人の絵がある。
 どこから突っ込めばいいんだ。
 1番だな、と石塚SV。違うし。確かにオタクっぽいけど、アニメなんて詳しくない。
「1番だと思う人ー?」盛田くんの声に合わせて、SVをはじめ、半分以上が手を挙げる。やっぱ私って、そんなイメージなのか。
「2番だと思う人ー?」オーナーや谷店長、蛭田くん、と私の学生時代を知っている人たちが手を挙げた。
「3番だと思う人ー?」残りの数人が手を挙げる。お酒が入って、すでにできあがっている人たちだ。
「正解は……2番でーす」えー! という声が上がる。えーって何さ。
「演劇好きなんだー」とSV。
「そうなんですー」と私は答える。
「お休みの日とか、よく観に行くの?」
「えーっと、そうですね。この間も、大学の友だちと観に行って……」
 話しながら、これはやっぱり書かなければよかったと思った。まさか今頃こんなことになっているとは、予想もしていなかった。
この間は確かに楽しかったけど、いまや、暫く芝居は観たくない。きっと、観に行く度に、自分もやればよかったという思いに駆られるんだろう。
 その後のクイズが全部終わると、SVは谷店長の隣に移った。やっと解放されたねーと、河合店長が話し掛けてくれた。でも、河合店長と、向かい側にいる女子たちが繰り広げる、話題のドラマや、好きな芸能人や、テーマパークのアトラクションの話にはうまくついていけず、にこにこしながら相槌を打つだけになってしまった。
 もしかすると、SVの機嫌を取っていた方がよかったかもしれない。

 私のテンションとは裏腹に、納涼会は大盛況で終わった。2次会にも付き合って、結局終電だ。
 といっても、私の家の最寄り駅の常葉園(ときわえん)駅は、えらく終電が早い。本線から一駅だけ飛び出た支線の駅だからだ。常葉園という遊園地に向かうためだけにあるような路線で、本数も少なくて不便きわまりないのだ。
 家に帰り着くと、母親は溜息交じりに言った。
「明日も仕事でしょ。身体大丈夫なの?」
「大丈夫だって」私は答える。
「明日になって、気持ち悪いとか言っても知らないよ」
「大丈夫だって!」

 翌朝。
 洗面所に向かい、悔しながらに呟いた。
「気持ち悪っ」

# 7

 何もない休日。
 机に向かい、医療事務のテキストを読み進め、集中力が切れる度にTwitterを開き、タイムラインを遡り切るとテキストに戻り、というのを繰り返していた。
 ずっと勉強を続けていると、段々と集中力の切れるスパンが短くなってきて、ついつい新しいツイートがないか、タイムラインばかり見てしまう。けれども、平日の日中だ。そう頻繁に眺めても、次々に新しいツイートが流れてくる時間でもない。
 そういえば。
 代役は、無事に決まったのだろうか。
 私はゆーとぴあのホームページを開いた。
 日曜日の稽古風景が、ブログに追加されていた。はじめは行こうかと迷ったが、シフトを代わって、行かなくなったあの日だ。
 さらにスクロールすると、【団員募集】の文字が目に入った。

「11月公演に向けて団員募集中!
 いまからでも大丈夫!
 私たちと一緒に舞台に乗りませんか?
 実は女性の役者さんが足りておりません(泣)
 11月公演のみの参加も大歓迎です!
 男性も我こそは! と思う方は応相談(笑)
 スタッフも同時募集中です」

 その下に、後藤さんのアドレスと携帯の番号が載っている。
 そうか。私が断ってしまったから、まだ役者を探しているのか。
 意外だった。私以外でも、他のOBにでも声を掛ければ、すぐに決まると思っていたのに。私以外にもっと相応しい人がいるんだと思っていたのに。
 そんなことを考えていると、メールの通知が入った。志波ちゃんからだ。私はびくっと身体を強張らせた。
 ありえないとは分かっていつつも、いままさにこのページを見ていたことが、見透かされているのではという気持ちになった。
 私はメールを開いた。

「この間はありがとうね!
突然だけど、この間、迷惑メールに困ってるって言ってたけど、こんな感じのメール来たことある?
何回も来て怖いんだけど…」

 メールの文面のスクリーンショットが添付されてくる。
 “タカ”という、芸能人らしき人からの、間違いメールを装ったメール。
 なんだ。そんな話か。私は安堵した。
 このメールは見覚えがある。何通も届くもんだから、本当に間違いメールだったらどうしようと思ってGoogleで調べてしまったことがある。志波ちゃんのところにも来ていたのか。

「大丈夫。私のところにも来たことあるし、有名な迷惑メールらしいよ。
何通か続けて来るけど、無視してれば止まるよー」

 返信すると、すぐに「ありがとう」と返事が来た。
「いえいえー」とだけ打って送信を押そうとした。けれど、やっぱり手を止めた。これで会話を終わらせてもよかった。でも、折角だから、気になっていたことを訊いてみた。

「ところで、あの後、代役決まった?」

 返信のないまま、数分が過ぎた。
 触れてはいけないことだったのか。断っておいて今更そんなことを訊くなんて、と思われたのか。
 いや、今日は平日だ。昼休み中にメールをくれて、いまは仕事に戻ったのだろう。
 でも、私は、このことを志波ちゃんに訊いて、何がしたかったんだろう。代役が決まっていないという答えは、さっき知ったばかりなのに。
 厚かましくも、まだ必要とされることを期待しているのだろうか。
 勉強は、それ以上進まなかった。

 日が傾き、夜になった。
 まとめサイトを見ていると、志波ちゃんからメールが来た。

「遅くなってごめんねー。いま仕事終わりました!
代役、まだ決まってないんだよねー(泣)
もしかして、来てくれる気になった?」

 どうしよう。落ち着かない気持ちで、メールの文章を考えあぐねる。
 1文字も打てないでいるうちに、立て続けにメールが来た。

「実は、あの後、急に誘っちゃって悪かったなー、って後悔してさ。
すぐ決めてほしいとは言わないから、見学だけでも来てみない?
見学してみて、違うなーって思ったら無理しなくていいから」

 今度は迷わずに、すぐに返事を書きはじめていた。
 このチャンスを逃したら、もう声は掛からないと思った。

~ドッジボール(中)に続く~

ドッジボール (上)

2016.12.31 表記の揺れ、矛盾点等を一部修正しました。
2017.4.16 表記の揺れを訂正、一部加筆訂正しました。

ドッジボール (上)

居るに堪えなくて、自分から仕事を辞める。 遊びに出かける人たちが羨ましいのに、休みになると面倒臭い。 アドレスを変えても、引かれるのが怖くてメールが送れない。 でも、あの人へなら、送ってもいいかもしれない。 そんな私の物語が、一通のメールから動き出す。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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