さるすべり
親愛なるハナコヘ
お久しぶりです。ごきげんいかがかしら? あなたのフラワーのように美しい笑顔が懐かしいです。いつか教えてくれましたね、ハナコのハナは、フラワーという意味だと。そのときも言いましたけれど、あなたにお似合いの名前ですね。
さて、さっそくですが本題に入らせていただきます。この切り出しを書いているだけでも、胸が痛みます。吉報ではありません。残念ながら、訃報をお伝えしなければなりません。
エフィルが亡くなりました。つい、先日です。私もその悲報を知って間もないのですが、真っ先に親友であるあなたに手紙で知らせることを思いつき、今、こうしてしたためています。
私たち三人を引き裂いた原因にもなった戦争が、エフィルの命を奪いました。日に日に戦況が悪化していく中、敗戦の色が濃くなりつつあった我が国は、空襲の脅威にさらされていました。警報が鳴るたび、シェルターに逃げ込むことが日課となっていたのです。――そんな地獄のような日々の折、エフィルは逃げ遅れて、殺されてしまいました。
私は、そのとき一緒にいられたら、という強い後悔の念を抱いています。そうしたら、彼女の手を取って逃げ切れたかもしれないのに、あるいは、一緒に死ねたのに――あなたは、きっと悲しむでしょうけど――考えてもどうにもならないことを、くよくよと考えています。
ごめんなさい、これ以上書くのは、精神的に不可能です。伝えるべきことを伝えられただけでよしとし、筆を置かせていただきます。
また落ち着いたら、必ず手紙を書きます。そのときまで、ごきげんよう。
あなたの親友クレアより
* *
私は手紙を置いて、ため息をついた。そんな、エフィルが死んだなんて……。絶望は、いつでも傍らにいるものだ。平素は、気付かない振りをしているだけ。絶対の普遍性などないのだから。しかし、分かっているつもりでいても、寂しさはきちんとやってくる。
私がクレア、エフィルと同じ大学に通っていたのは、かれこれ二年前になる。私は優良な成績を高等学校で収めたために、政府の費用援助を得て、その大学に留学生として入学した。学校に通っている女子がそもそも少ない昨今では、国費留学が許されることは、非常に珍しいことだった。
はじめ、日本人ということで、周りも私をどこか軽んじている向きがあった。少し前まで各国との交わりを絶っていた、言ってみれば遅れている国の留学生だったから、仕方のないことだった。
そんな中でも、私と親しくしてくれた人が、二人いた。それが、クレアとエフィルだった。彼女らはとても優しく、美しかった。背が高く、栗色の髪の毛が豊かだった。
以来、大学での時間を三人で共有するようになった。
それを引き裂いたのは、手紙にもあったように戦争だった。そこにどんな陰謀が渦巻いているか分からぬまま、突如として始まった戦争により、私は日本政府から帰国を命じられた。勧告ではなかった、それは命令だった。
命令だった以上、従うしかなかった。私は、クレアとエフィルに涙ながらに別れを告げ、いつの日か再会することを誓った。――結果として、叶わなかったわけだが。
エフィルが死んだ。クレアは、思っている以上に悲しみに明け暮れているだろう。私は彼女に会いに行かなければならない。
この戦争が終わったら、会いに行こう。そう決めた。
* *
親愛なるハナコヘ
再びこうして、手紙を書きしたためています。この行動を後押ししているのは、他でもない、自責の念です。
何を言いたいのか、疑問に思っているかもしれません。お許しください、結論を急ぎがちな私を。湧き上がる衝動を抑えて、必死に意味の通る文章にしようとしています。
この間の手紙で、私は嘘をつきました。それは、エフィルが死んだことではありません。――そうであったなら、どんなに喜ばしいことでしょう。
エフィルを殺したのは、戦争ではありません。親友である私です。私が殺したのです。
動機は、恋です。ハナコ、あなたの知らない恋があったのです。それが、仲のよかった私とエフィルを隔てる唯一のものでした。
あなたも確か一度、お目にかかったことがあるかもしれません。靴屋の息子、レオン。彼に私は恋をしました。二歳年上の彼はとてもスマートで、ユーモラスでした。私は適当な口実を作って、よく、彼の靴屋を訪れました。一人だと恥ずかしいので、エフィルを連れて。――あなたには、何故だか打ち明けられませんでした。それはエフィルの懐の深さのなせる業で、決して、あなたに心を許していないわけではありません。悪しからず。
ところが、そんなエフィルの魅力に、よりにもよってレオンが気付いてしまいました。次第に、レオンは私よりも、エフィルを見ていることが多くなりました。
彼の澄んだ青い瞳にエフィルが映っていると気付いたとき、私は激しいジェラシーを感じました。どうして私じゃないの? どうしてエフィルなの?
そして、戦争が始まりました。レオンはたまたま右足を骨折していて、戦争には駆り出されませんでした。ただ、その足では逃げ遅れることは必至なので、山奥にある親戚の家に一時、避難しました。
残された私とエフィルは、いつも一緒にいました。そう、一緒にいたのです。
あの日は、暑い日でした。庭先の百日紅(さるすべり)が眩しかったのを覚えています。
昼下がりになって、空襲を知らせる警報が鳴り響きました。私とエフィルは、手を取り合って逃げました。そう、私たちは、しっかりと手を取り合っていたのです。
角を一つ曲がったらシェルターに辿り着く、という所で、悪魔が私に囁きました。それは、本当に突然でした。突然、降ってきたのです。
エフィルが死んだら、レオンはお前のものになるのではないか?
私はぴたりと、足を止めました。当然、エフィルは戸惑っていました。何か言っていたかもしれませんが、覚えていません。だって、そのとき頭の中を埋め尽くしていたのは、レオンを手に入れることだけでしたから。
護身用の刀の柄で、彼女の頭部を殴って気絶させ、通りの真ん中に寝かせました。それらをいつになく手際よくこなし、私は何食わぬ顔でシェルターに逃げ込みました。
それで、彼女は死にました。死なない可能性もあったけど、彼女はそれで死んだのです。
戦争に殺させました。さすがに、自分の手を汚すことはできませんでした。でも、自分で殺したのと同然です。それくらい、分かっています。
このことは、誰にも話していません。あなたに打ち明けるのが最初です。もしかしたら、最後にもなるかもしれませんが。
どうか、私を軽蔑してください。
あなたの親友クレア
* *
今にも駆け出したい衝動を抑えて、最後までその手紙を読みきった。内容把握にせわしげな頭を真っ白にして、大事なことだけをそこに残した。
要は、クレアがエフィルを殺した、という告白だ。大事なことはそれだけだ。私の親友が若い命を落とし、私の親友がこの世で最も重い罪の一つを負っただけ。
私は当初の予定を変更することにした。戦争の終結宣言を待つことはない。というよりも、待てない。手紙が行き来するくらいだ、戦争は終わりに向かっている。第三国の女ひとりが入国するのも、おそらく可能だろう。
最低限の着替えやら持ち物を短時間で用意して、私は家を飛び出した。念のため、「しばし日本を離れます。ひと月以内には帰ります」と、殴り書きのメモを残しておいた。
脇目も振らずに急いだ。
船が目的地へ辿り着いたとき、季節は秋の入り口に差し掛かっていた。
こんな時期に戦地に赴く人は稀で、私以外は数えるほどしかいなかった。船客が男ばかりだったので、航行中は部屋に籠もっていた。
――どうか、私を軽蔑してください
部屋の中で手紙を何度か読み直した。次第に文字を目でなぞることで、そこに特別な意味はないように思えてきた。それでも、心が落ち着いたときを見計らって、真実が嫌でも降りかかってくる。心の外に追いやっても、やがて内に戻ってくるという処理が、白いしぶきを上げる波みたいに、一定のリズムで繰り返された。
二年ぶりだというのに、意外と細かな道まで覚えていた。日本と違い、統制の取れた街ゆえの覚えやすさもあったけど、とにかく、自分の記憶からこの街が遠いものになっていないことに安堵する。
迷うことなく、スムーズに赤レンガの家まで来た。ここは、クレアの家だ。かつての思い出が蘇える。
呼び鈴に手をかけようとして、自分の手がじっとりと湿っていることに気付いた。緊張しているのだ。本当のことを知ってしまうのを、私は無自覚的に恐れている。
それでも、ちゃんと明らかにしなければならない。私は、少なくともクレアの話を聞いておかなくては、という義務感に駆られていた。
その義務感が、呼び鈴の糸を引かせる。ちりん、と高い音が響いた。
「――まあ、いらっしゃい。わざわざ、よく来てくれたわね。疲れてるでしょう? 好きなところに腰掛けなさい。紅茶くらいならご馳走するわよ」
クレアは、予想と大きく反して、明るい表情で私を迎えた。私は戸惑いを隠せないまま、大人しく申し出に従った。背の低い椅子に座って、ぼんやりと辺りを見渡す。家の中は、かつてに比べると寂しくなったような気がするだけで、特段の変化は窺えない。でも、窓の外に目をやると、更地になったあちこちが、戦禍の程を教えてくれた。現実に、ここで行われたものだということを、改めて実感する。
ティーカップを二つ載せたお盆を手に、クレアがキッチンから戻ってきた。相変わらず、歓迎色の表情を浮かべている。
「どうぞ。お砂糖もお好きなようになさって」
「ありがとう。いただくわ」
話を切り出すタイミングを思考しながら、味わうように熱い紅茶をすすった。
「あの手紙、読んだのよね?」
だが、こちらが切り出すまでもなく、向こうから話題を提示してくれた。私はカップを置いて、頷いた。
「ええ、読んだわ。あれは――」
「あれ、冗談よ」
しばらく、何も返せなかった。予期せぬ返答に、私の口はどんな言葉をも紡ぐことがなかった。
「エフィルは、元気にしているわ。――でもちょっと、反省してる。いくら親友のあなたに会いたかったからって、彼女の死なんて不謹慎なことをダシに使ってしまった」
クレアは、滔々と話す。私の目を、まっすぐに捉えて。
「だけど、許して欲しい。――それだけ、あなたに会いたい気持ちが募っていたのよ」
栗色の髪をかき分けて、私に向かってにっこりと微笑む。あの頃と何ら変わらない、素敵な笑顔。
「エフィルにも会いに行くでしょう? 会いに行ってあげてね。きっと、喜ぶわよ」
潮風の良い匂いが鼻を抜けていく。風にもてあそばれている髪をそのままにして、デッキから広がる藍色の風景をただ、見る。特別な感情は寄せられなかった。
行きと違って、今の私の心を埋め尽くすものは何もなかった。ぽっかりと、穴が開いてしまったようだ。
クレアから、いつかまた手紙が届くだろうか。そのとき、彼女は何を書き記しているだろうか。見え透いた嘘に逃げたことを、詫びるのかな。
エフィルに会いには行かなかった。クレアと再会した後、私はすぐに帰ることを決断した。もう、分かっていた。あれが冗談なわけがない。エフィルに会うことを勧めていたけど、どうしてクレアは「一緒に」と言わなかったのだ。それに、私は二通目の手紙を読む前から、クレアがレオンに盲目的な恋心を抱いていることを知っていた。クレアが、エフィルに嫉妬しかねない状況にあったことも……。
白い花の百日紅が脳裏に浮かぶ。クレア、エフィル、私の三人が共通して愛していた花。――百日紅の花言葉は、「雄弁」。
あの連綿と書き連ねられた手紙が、彼女の不可解な言動が、何よりも真実を雄弁に物語っていた。揺るがすことのできない、真実を。
さるすべり