相合傘
昨年の梅雨の季節に書いた小説です。
僕は雨が嫌いだった。雨に濡れたコンクリートの匂いも、じめじめとした蒸し暑い空気も、折角直した髪の毛がボサボサに戻ってしまうのも、あぁ、なんて忌々しいのだろう。でも、唯一良いところをあげるならそれは、彼女と秘密の時間を共有できるということだろう。
雨の日には習慣があった。帰り道、誰ももう近寄ることのない倒産した会社の倉庫。名前も顔も知らない少女との秘密の時間。いや本当は知っていた。名前も、顔も。でもここでは一切そのことを口には出さなかった。口に出してしまえば優しい時間は終わってしまうと知っていたから。ガタガタと引き戸を開け、もう何度も来慣れた倉庫の中へと僕は一直線に進む。目指すは彼女の隣だ。ありふれた世間話と、少しの沈黙に支配された閉鎖空間。僕らはここで友達とも恋人とも言えない共犯者のような関係を続けている。
ふと彼女がこちらを見上げる気配を感じた。
「ねぇ、君、出会った時のこと覚えてる?」
突然の問いかけに面食らう。できるだけ平静を保って僕は答えた。
「もちろん、覚えてるさ。僕は部活動にも入ってないし、家に誰もいないから、たまたま見つけたこの倉庫に入ったんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「君がいた。睨まれちゃったけどね」
からかうような声を出す。今でも出会った時のことは鮮明に思い出せる。彼女と出会ったのは、二年も前のことだった。人付き合いが苦手で、また、家にも帰りたくなかった僕は、一人になれて、時間の潰せる場所を探していた。そして運命に導かれるようにこの倉庫へと入っていた。出会った頃は、二人共対角に離れて警戒心を剥き出しにしていたのに、だんだんと素の表情を出せるようになり、いつの間にか肩をぴたりとつけて寂しさを埋めるように触れ合っていた。彼女は外では皆に囲まれ、愛想を振りまく、作り物のようなクラスのマドンナ。しかし、僕は時折、彼女が見せる憂いを帯びた表情と冷たい瞳を知っていた。彼女もまた、一人孤独に耐えていたのだ。暗い倉庫の中、一人で。
そんなことを考えていると、彼女がぐっと言葉を詰まらせる気配を感じた。きっと真っ赤な顔をしているに違いない。彼女が言葉に詰まる時の声色は大概が怒りか羞恥かのどちらかだった。
「だ、だって仕方ないじゃない! 私は自分のテリトリーに入られるのが大ッ嫌いなのよ! それに君、そう言えば私が怒るって知ってて言ってるでしょ」
彼女がそう言い切りフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向く。こうなってしまうと後は僕が謝るまでこのままだ。先に折れるのはいつだって僕の方だった。今日も素直に謝るのが得策だろう。
「からかったのは悪かったよ。でも本当に警戒心剥き出しの猫みたいで可愛かったんだし仕方ないだろ」
彼女はまるで猫だ。暗闇に光る意志の強い大きな瞳も、いつもはそっぽを向いているくせにふとした瞬間に甘えてみせるその思わせぶりな態度も、少し気まぐれなところも。
「猫、猫ねぇ……。可愛いからいいけどさ。なんかマイペース、自由奔放、気まぐれみたいなイメージが飛んできたけどなあ」
穏やかな声色が逆に恐ろしい。
「い、いやぁ。そんなことはないデスヨー」
額に一筋冷や汗が垂れる。彼女は悪意に聡い。
「まぁいいけどさ、別に。でも私が猫なら、君は犬か蛇だね」
「蛇ぃ? 犬はまぁまだわからなくもないけど、なんで蛇なのさ。初めて言われたよ? そんなこと」
「フフッ。そう? でも君、人一倍警戒心が強いじゃない? で、近づいてきた人間に絡みついて締め付けて、甘い毒で殺すの」
「絞めて毒を盛る、なんて君、随分と物騒なことを言うな。僕は温厚で善人な一般市民ですよ」
おどけた様に首を傾げる。彼女はそこらへんに置いてある軽いダンボールをポコンと蹴り上げる。
「嘘をつかないことよ。猫かぶり。いや、蛇かぶり? 猫は私だものね」
コロコロと彼女は笑う。どうやら僕の反応を面白がっているようだ。
「本当、君は嫌味っぽいよ。そうやって人の失言にネチネチと」
「あら。失言だって自覚してたのね。でも君はもっとポジティブにものを考えたらどう? そうやって人の悪意ばかり気にしても楽しくないじゃない」
その言葉に僕は答えなかった。答える必要もないと思った。彼女もわかっていたのだろう。いつもの押し問答だ。返答を待つ様子も見せず、その瞳も、今は鳴りを潜め、静かに雨に耳を傾けている。パタパタとトタンの屋根へ雨水が落ちる音を聞く。僕は沈黙が嫌いだ。居心地が悪くなるから。でも、彼女のそばで感じる沈黙は不思議と嫌いではなかった。
どれほどの時間がたっただろうか。ふと隣で身じろぎの音がする。
「あらら。もうこんな時間ね。帰らなきゃ」
彼女はそう言うと静かに立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。廃倉庫の錆びた扉をガタガタと開ける。まだ雨はやまないままで、外は真っ暗闇だ。彼女はお気に入りだと言っていた空色の傘を広げた。
「つくづく思うけど、君、雨宿りする必要あるの?」
僕の言葉に彼女は呆れたようにため息を吐く。彼女は振り向かない。僕は視線を下げる。
「それはあなたもだと思うけど」
弾かれたように顔をあげる。もうそこには彼女の姿はなかった。ただ錆び付いた冷たい扉が閉じられているだけた。さっきまではあんなに楽しそうに話していたのに。今の言葉は彼女の気に障るものだったのだろうか。たくさんの感情を押しつぶすように吐き捨てられた色のない言葉。理解できないわけではなかった。でも僕は理解できない振りをしたのだ。
あの日から雨は降らないまま、しかし、確実に変わったのは、学校で見る彼女の優等生然とした顔に影が差し始めたこと。そして、だんだんと休みがちになっていった。はじめは体調が悪いのだろうと楽観的に考えていたが、こうも休みが増えていくと流石に心配になる。
やっと雨が降ったのは、もう季節も夏へと変わろうとする頃だった。久しぶりに彼女と話せるかもしれない。そう思い学校へ向かったが、そこで見たのはクラスメイトたちに囲まれ何か話している彼女の姿。周りには何やら泣いている女子や必死の形相で彼女に告白をしようとしている男子もいる。僕はまったく状況が掴めず、蚊帳の外から眺めていた。そんな俺に、仲のいいクラスメイトが大ニュースだと言わんばかりのニヤニヤ顔で近寄ってくる。
「なぁ、雲川くんよ。聞いたか? 高日さん。親御さんの都合で転校するんだってよ。まぁ、お前。あのマドンナと交流なかったし、関係ないかもだけどよ。っておい聞いてんのか? おいって」
「おう。聞こえてるって。ふーん。そうなんだ。大変だね」
なるべく冷静を装った声を出したつもりだが、動揺は悟られていないだろうか。あいつは反応の薄い俺に興ざめしたのか、他のやつの所へと向かっていったようだ。そうだ。俺は彼女とは、一切関係のない一般市民だ。動揺するなんて怪しすぎる。動揺なんてしたら最後、お前淡白な顔して、やっぱ面食いだったんだな、とあの下卑た笑みで冷やかされるに決まっているのだ。大丈夫。大丈夫だ。あの倉庫に行けば彼女はきっといるだろう。何食わぬ顔で、迎えてくれるのだ。僕は、来ないかもしれないという不安を押し殺すように言い聞かせ続けた。
僕は、倉庫の扉へと手をかけ、深呼吸をした。今日でこの関係は終わりを告げるだろう。それでも、僕は前に進みたかった。たとえ彼女に嫌われても、僕は自分の気持ちに嘘を吐きたくなかった。扉を開くと、中にはやっぱり彼女がいた。出会った頃と同じように倉庫の隅で瞳を光らせて。
「あら。いらっしゃい。どうしたの? 入らないの?」
彼女は、はじめいつも通りの声を出していたけれど、僕が扉を閉めず、入ってこないことに少し不安そうな声を出した。
「うん。ここでいい」
中には入らなかった。倉庫の中は優しい空間でなくてはならなかったから。
「そっか。じゃあ、もう知っちゃったのかな」
どこか寂しさの滲んだ声。俯いた彼女の顔は見えない。深く息を吐く。
「転校するんだってな。高日」
振り絞った声は冷たくなかっただろうか。
「そうよ。だからもう、終わりだね」
何が。とは言わなかった。わかっていたから。彼女がゆっくりと立ち上がる。今、言わなくては本当に終わってしまう。こんなところで終わっていいのか。躊躇はいらない。ただ、ただ一言でいい。それだけで後悔だけは残らないのだから。
「僕は高日にまた逢いたい」
だめだ。これじゃあ彼女を止めることは出来ない。彼女が僕の隣を通り過ぎる瞬間。
「もっとはっきり言ってくれなきゃ。私、わかんないよ……」
消え入りそうな声。それだけで覚悟を決めるには十分だった。
「僕は高日が好きだ」
僕は振り返り、彼女の手首を掴み振り向かせ、視線を合わせた。初めて目の前で見る彼女の顔はとても綺麗だった。瞳いっぱいに張られた水の膜。ハの字の眉。無理やり口角をあげた不器用な笑顔。普段の理知的な彼女とは、チグハグなそんな子供っぽい表情がたまらなく愛らしかった。
「うん。私も雲川くんのことが、ずっと好きです」
耳まで真っ赤になって、答えを返してくれる。それだけでふわふわとした幸せな気分だった。不意に小指を彼女に掴まれた。
「私と約束してくれませんか?」
僕の瞳をじっと見たまま問いかける。僕は静かに頷いた。
「雨が止んだら帰ってきます。それまで待っていてください。待つのが嫌になったり、他の誰かを好きになったりしたら。やめても構いません」
僕は絡められた指を離した。それだけで約束は成立だ。彼女は僕の左手にお気に入りだと言っていた傘を握らせた。
「忘れ物。預かってて! 壊したりしたら承知しないんだから」
僕に背を向け走り出す。少しして、くるりと振り返った彼女の顔は、もう晴れ晴れとした朗らかな笑顔で、雨の中、水が反射してキラキラと輝いていた。
「待てなくても待って! また! 空が晴れたら!」
そういって彼女はもう振り返ることなく駆け抜けていった。彼女の姿がないことを確認し僕はその場にへたり込む。『また』か、ふにゃふにゃと緩んだ頬を直せない。ただ倉庫には、僕の気持ち悪い笑い声が響くだけだった。
あれから、数年がたった。今日も雨が降っている。未だに僕はあの倉庫で忠犬よろしく待ち続けていた。僕たちの間の雨は降り止まないままだ。僕から会いに行くことはしなかった。彼女との約束を守りたかったから。
彼女はまた僕に笑いかけてくれるだろうか。僕は彼女にふさわしい一皮むけた男になれただろうか。不安ばかりが募る、弱虫な所も少しは治ったかな。でも彼女の事に関してだけはまだ、ダメだ。きっと彼女がいなかったらこんな自分には死ぬまで気づかなかったかも知れない。彼女がいないと、隣が寂しい……。早く会いたい……。倉庫で一人いつも僕より先に来て待ち続けていた彼女。彼女もこんな気持ちを味わっていたのだろうか。一人、暗闇の中で、寂しい雨の音を聞きながら。
ガラガラガラと唐突に扉が開かれた。眩しい光に目を開けていられない。
「……よかった。まだいてくれて」
落ち着いた聞き取りやすい声。だんだんと光に目が慣れてくる。彼女は、あの頃よりも大人びた雰囲気だったが、告白の時に見た、幼さの残る笑顔はちっとも変わっていない。
「久しぶり。待っていてくれてありがとう。君の雨はもう止みましたか?」
いたずらが成功したような弾んだ声で語りかけてくる。いつの間にか、トタンの屋根に雨が当たる音は止んでいた。
「あぁ。長い雨だったよ」
いつしか雨はその姿を消し。雲の切れ間からは、もう、夏の暖かい太陽が顔を覗かせていた。
相合傘
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