明日彼女は死にます。(1)
第1話
今日は会社の最終面接があった。かなりいい会社で、給料もかなりいい。だから1年ほど前から就職のための勉強を始めた。正直人生で一番頑張ったと思う。コンビニでバイトしながらする勉強はかなり疲れる。何回も疲労で倒れ、倒れるたびに母親が東京にわざわざ来て家事などしてくれるが、実は母親はあまり体の調子が良くない。俺が子供の時から母親は病弱で、よく入院していた。そんな母親ももう51歳で、ますます体は弱くなる。だから俺は少し迷惑そうに言ったんだ。もちろん母親のために。だけど、なぜか喧嘩になって、其れっきり会っていない。
もうちょっとちゃんとした言い方があったのかもしれない。
結局最終面接は落ちた。本当に頑張ったんだ、多分一番頑張ったと言い切れるくらいに。最後俺が会場を出て行くとき面接官は俺に、君の目からは自信が感じられない、希望が見当たらない、未来が見えないと言った。
お前は俺がどんだけ頑張ったか知ってんのかと、殴りそうになったが思いっきり横目で睨むだけにしてやった。
もうなんにもやる気が感じない、生きる目的がわからない。
生きる目的って何だろう。
将来の夢とか趣味なんてものはなく、何も考えずに子供の頃から生きてきた俺には全くわからない。そういえば時間てこんなに早く進むものなのだろうか。
もう27歳、無職、独身、ボロアパートで暮らしてから5年は経っているかもしれない。
俺は下を向いてコンクリートに書かれた四角形の枠を踏みながら歩いていると、襟足が長く伸び、髪を金色に染め、厳ついサングラスをかけた男とぶつかった。
「すみません」
「痛ってーな!ちゃんと前見て歩けよ」
よく見れば男の腕には虎に巻きついた竜の刺青がしてある。
「ほんとうに…すみま…せん」
か細い声の語尾はほとんど消えていた。
「それで謝ってるつもりか?金よこせ!慰謝料だ」
男は俺の胸倉を強く掴み、ゆっくりと道角に寄せる。電灯が消えかけていたのでとても暗く、歩行者は気にかけない。多分この男はよくこんなことをしているんだろう。
「いや……でも…当たった…だけ…ですよ」
「はあ?お前、殺されたいの?」
いっそ殺してほしい。楽になりたい。少しそう思う。
「…いや」
俺の声はもう消えそうだ。
「だったら早くしろよ!」
と男は右手を出す。
めんどくさいな…。
俺はポケットから財布を出し、中身を確認した。運が悪くかなり沢山入っており、俺は渋顏になるが、男は早くしろよと言わんばかりに手を振ってくるのでまあいいや。と中にあった三万五千円を渡す。
「分かればいいんだ、これからは気をつけろ」
男はそう言い去ると俺は重い溜息をつき言った。
「…何だこれ、笑える」
ゆっくりと上を向きイルミネーションを眺めていると、その遠景は段々と掠れていき、瞳から暗涙が滴り落ちる。
「…あれ?何だよ…これぇ…」
俺は首にかけてあったマフラーで涙を拭うが、暗涙は滝のように流れて止まらない。
「頑張ったのに…俺…あんなに頑張ったのにぃ…何がいけなかったんだよ……おれはぁ、がんばったんだぁ、母さん…なんでかなぁ、何がいけなかったのかなぁ…」
泣き崩れてやけになって吠えているのはまるで赤ちゃんみたいだ。
すると、面接官に言われた言葉を思い出した。
ー君の目からは自信が感じられない、希望が見えない、未来が見えないー
「あの面接官め!失格だ!やめちまえ」
泣きながら吠える俺を待ち行く人は、哀れ目で見ている。
どんなに吠えても怒りと悲しみは収まらない。
「…俺の人生」
馬鹿馬鹿しくなってきた、今の自分に。だからもう笑うしかない。どうだっていいから…笑いたい。
鼻水を一気に数と、口角を緩め泣き声で叫ぶ。
「泥沼だぁぁぁぁぁ~~!!」
声は地面に反射して空に舞い上がる、丁度一番大きく見えるあの星にまで届くのではないか、というほどに。
俺は笑う。酒は入ってないが顔を赤くして、大笑いする。
歩行者は完全に俺を避け始めた。だけどそんなこと気にしない。
どうでもいいから。人生棒に振ってしまってもいいじゃないか。
まだ笑いは収まる気配がないが、笑えば笑うほど悲しく、空しく感じてくるのは一体何故だろう。
腹が痛い、耳が痛い、腰が痛い足が痛い。
心が痛い。こんな自分を殴ってやりたい。俺は俺が嫌いで、ほんとうに俺自身が具現化されたなら、ボコボコにするだろう。それはもう、人格が変わるほどに。
誰か埋めてくれないだろうか、俺の心にぽっかり空いた溝を、何もない俺に水を与えてくれないだろうか。
ーーーーそんな誰かがいるといいーーーー
瞬間、コンクリートの上を歩く足音が近づいてくる。若干不規則のその音は、異様に大きく聞こえ、音色を奏でているかのように、美しい。
俺は上げた顔をストンと落とした。首が少し痛い。
いつの間にか涙は止まっており、辺りは花を啜る音と、ハイヒールがコンクリートを叩く音しか聞こえない。コツン、コツン、と音色を鳴らし、それは段々とメゾフォルテになってゆくのを耳で感じる。
俺は目を閉じ、まるでクラシックコンサートに来たみたいに耳だけに意識を集中させ、荘厳な音色を聴く。これはもう演奏だ。
少しだけ肌寒くなってきたが、今はジャンパーを羽織る暇などなく、この演奏を1秒たりとも聞き逃さないよう清聴する。演奏は終盤に入ると、テンポが遅くなって、フォルテッシモに、スタッカートになっていく。そして最後はデクレッシェンドで、だんだん弱くなり静止する。まるで拍手が聞こえてきそうだ。
俺はゆっくり目を開けると、蒼白としたハイヒールを履いた女性の足が映った。
驚いて顔を振り上げると、背の高い華奢な女性が立っており、彼女の表情は柔らかく笑っているかの様に見える。白いワンピースがよく似合っており、風など吹いていないのにたなびいているかの様に見え、街角の暗い中泣きじゃくれ、顔が荒くなっている俺とはミスマッチだ。
彼女は華奢な口を重たそうに開けるが、やはり笑みは残っている。
「どうしたんですか?」
彼女は優しく問いかける。声はまるでガラスの様に透明で透き通っており、最も簡単に俺の心の溝にピースが一つ埋まった気がした。
「何かありましたか?こんなところにいては風邪引きますよ?」
さっきまで見えていたイルミネーションや星はもう見えない、彼女が最も美しい星であたかも流星群が降り注ぐ様に。嫌なこと全部忘れてしまいそうなほどに、生きる意味をもう一度探してみようと思える様になれるくらいに。彼女は美しく映る。
「大丈夫ですよ…」
俺の瞳から枯れたはずの涙が一つ、また一つ流れ落ちる。もしかしたら彼女が水をくれたのかもしれない。
「俺はぁ!頑張ったんですよぉ!」
「…はい」
「…でも全然ダメで、もう生きていくのがめんどくさくなったんですぅ」
「…はい、分かります…その気持ち……わかります」
何故だろう、彼女の語尾が少し悲しげに聞こえた。
「たった一人の家族にも見捨てられて、この先どうすればいいのかわからなくて、もう…俺の道には暗いトンネルしかないみたいだ」
辛かった、散々頑張ってきたのに、お金もない、家族もいない、仕事もない、俺の中にも何もない、お先真っ暗だ。
「今も、関係ない人に当たって、俺の自分勝手な不満をぶつけて……そうやって誰かに手を差し伸べてもらって言い訳を作り、また殻に閉じこもって、自分の卑劣な自尊心を保とうとしてるんだ…」
ヤドカリみたいに。
「もう…俺は……どうすればいいのかわからない…もう…」
俺の声はもう覇気を失っているのだ。
たった1年かもしれない、だけどそれは俺の今まで生きてきた人生よりも長い一年だった。
俺は疲れ果てた声で朽ちる。
「…誰もいない」
俺一人だ。ひとりぼっち。
俺が肩を下ろし、鼻をすすっていると、彼女は腰を低くし、少し顔を赤らめ恥ずかしそうに口を開いた。
「…私じゃダメかな?」
俺は目を見開いた。
「頼りないけど、私はあなたの一人になりたい」
俺は驚愕した顔で彼女を見る。
「私も…」
彼女はゆっくり言うと息を吐く。
「あなたと同じだから」
今はうまくしゃべれそうにない、なんでだろうか。
「ひとりぼっちはさみしいから、私と…二人ぼっちに…」
彼女は目を赤くして笑う。今にもなみだがこぼれそうだ。
「…頼りたい。頼ってほしい」
俺は大きく息を吸い、咳払いをすると、枯れた声で言う。
「俺も…君と……いたい…」
言った後、俺は顔を赤らめた。本当は違うことを言おうとしたはずなのに。
言葉が勝手に溢れる。まるで泡の様に。
俺は一呼吸置いて続ける。
「君が俺を頼ってくれるのなら、俺も君を頼りたい」
孤独は辛いから、今は一人で歩けそうにないから、だから手を握ってほしい。
俺も握り返すから。
「暗いトンネルでも…歩ける様に…」
俺は少し興奮し、彼女の目を見る。彼女の目は茶色でなんとも美しく、とてもずっと目を合わせ続けることは出来そうもない。だけど、彼女の目のもっと奥には深い底なし沼の様なものが映るのは何故だろうか。
額から汗が流れ落ち、俺はまた続ける。
「俺を支えてほしい!」
その雄叫びはまた星に届きそうだ。
「俺も一人は孤独だから…だから…」
君が声をかけてくれたから。
「一緒にいてほしい!!」
君といれば、辛くても、悲しくても、なんとかなりそうな気がする。まっすぐ歩ける様な気がする。
だけど初対面なのに何故こんなに思われるんだろう。
それはきっと星が綺麗なせいだ。
彼女はまた、捨てられた犬に餌を与えるかの様に俺に話しかける。
「君がため…惜しかりざりし…命さへ」
彼女は何故か寂しそうに言う。
「長くもがなと…思ひけるかな…」
言い終えると、口角を緩め笑う。俺はキョトンとして目を開けている。
「…え?」
「あなたに会えるなら、命さえ惜しくない、でもこうやってあなたに会うとずっと一緒にいたいと思う様になる。藤原義孝の和歌です。知ってますか?」
俺はゆっくり首を横に振る。
すると彼女はまた笑い優しい声で続ける。
「私もあなたといたい…かもしれません。初対面なのに何故でしょうね?」
本当に不思議だ。俺は君と追うのは初めてのはずなのに
初対面なのにそう思うのは何故だろうか。でもそれはきっと。
「何故でしょうね」
と俺は下を向いて笑う。また瞳から涙が溢れてくる。彼女は水をやり過ぎだ。あまり水をあげるのは良くないのに。
「でも…」
彼女の声トーンが急に変わる。俺はそれに驚き、また顔を上げる。
「私は…」
彼女の瞳から覇気が失っている様な気がする。茶色かった瞳は、いつの間にか漆黒としている。
「あまり…あなたといられないかもしれない」
彼女は下を向き、かすかに見える瞳にはもうは気がなくなっていることに気づいた。
ああ…そうか、俺が君に惹きつけられたのは、多分、きっと。
君と同じだからだ。
その瞬間漆黒の雨が降り注ぐ。まるで墨の様に黒い雨は、綺麗なイルミネーションを一瞬にして破壊させる。
そして静寂に包まれる。
雨の中に彼女と二人。
俺たちしかいないみたいに、静かで。
不気味な演奏だ。
明日彼女は死にます。(1)