多子化 【第二巻】
第四十三章 噂の顛末
美寿江は昌代を厚木に呼び出した。久しぶりに会った美寿江はすっかりやつれ少し痩せてしまったようにも見えた。美寿江は会社を退職せざるを得なくなった経緯をぽつりぽつりと昌代に打ち明けた。
「あたし、鷺沼さんと昌代に謝りたいの」
「なんであなたが謝るのよ」
「実は鷺沼さんのストーカー事件、あれはあたしが仕組んだの」
「まさか」
「あたしね、鷺沼さんを昌代が捕まえたのを許せなかったんだ。あたしも鷺沼さんを好きだったから」
「もうダメよ。正式にわたしのフィアンセだから」
「悔しいけど仕方ないわね。それよりあなたの悪い噂、誰が流してたと思う?」
「美寿江の仕業じゃないかって何となく思ってたけど」
「失礼ね。仲良しだった昌代にそこまではしないわよ」
「犯人が分かったの?」
「星野係長よ」
「どうして分かったの?」
「鷺沼さんをストーカーだと通報したのは星野係長だったのよ。あたしが星野に通報してくれって頼んだの。彼は鷺沼さんが警察でストーカーではなかったと証明されて鷺沼さんが解放されてから、鷺沼をストーカーだと通報した者は自分だと突き止められるのが怖かったみたいなの。それで昌代を退職に追い込もうと悪い噂を流したんですって」
「どうして彼だと断言できるの」
「本人に白状させたのよ」
「へぇーっ、よく白状したわね」
「あたし、星野を脅したのよ」
館林美寿江の上司星野係長は鈴木昌代がストーカーに付きまとわれていると美寿江から警察へ通報して欲しいと頼まれた時はその話を信じていたし可愛い部下の鈴木を守ってやろうと言う正義感もあった。だがその後こっそりと警察に聞いた結果、ストーカーだと通報があって捕まえた男は鈴木の恋人でストーカーではなかったことが分かった。星野は何故館林がそんな行動に出たのか不思議に思って調べてみるとどうやら館林が通報した男は館林も好きだった男で鈴木に嫉妬して腹いせに館林が大嘘をついて意地悪をしたことが分かった。
星野はそんなことに巻き込まれて万一鈴木の恋人が訴えでも起こせば会社に内緒で通報した自分の立場が危なくなると思った。それで色々思案した後、鈴木がストーカーにレイプされて妊娠までしたなどと勝手なストーリーを考えて社内のお喋りで有名な数名の女性のアドレスにネットカフェから匿名のメールを送り付けた。噂は思った通り社内中を駆け回り結局鈴木を退職に追い込んだ。だが、もう一人館林の始末が残っていた。
鈴木のことが上手く行ったので星野は次のターゲットの館林を狙い、鈴木の時と同様の手口でネットカフェから館林はとんでもない尻軽女で、社内の数名の男性と不倫を重ねていると噂を流した。数名の男性は社内の既婚男性で彼らの部署とイニシャルを書き込んであたかも実際にある話のように仄めかした。
案の定館林に関わる噂話はたちまち社内を駆け巡ったが、どうしたことか館林はそんな噂には踊らせられなかった。
美寿江は昌代が退職に追い込まれた原因の悪い噂を聞いて知っていた。噂ではストーカーにレイプされて懐妊、昌代が密かに堕胎したと言う内容だ。美寿江は昌代と仲良しで昌代が妊娠、堕胎したなんてウソだと分かっていた。自分に対する噂も含めて悪質な噂を流した奴は誰だろうと考えているうちに、ふとストーカーと言う言葉に気付いた。あのストーカー騒ぎで昌代がストーカーに付きまとわれていると言う話は自分以外に星野係長しか知らないはずだ。それで噂を流した張本人は星野だと確信して星野に近付いた。
「係長、たまにはご飯おごって下さいよ」
「何で僕が君に飯をご馳走しなきゃならないんだ」
美寿江は意味ありげに色っぽく迫った。星野は美寿江の意味ありげな誘いが怖くなり美寿江の誘いに折れて、美寿江を厚木にあるレストランに誘った。星野は悪い噂に屈しない館林を不気味に思ったが、館林と身体の関係を持ってしまえば館林を自分が思っているように操れると思うと同時に退職に追い込む前に美寿江の身体をいただいてしまえと思っていた。
食事が終わって雑談になった。
「係長はお子さんは?」
「子供? 子供はいるよ。でもさぁ、そんな話題を持ち出すなよ。せっかく可愛い館林さんといい雰囲気で食事したのにさぁ、気分が壊れちゃうよ」
「ごめん。係長は女の子が好きでしょ」
「男ならみぃーんな女の子が好きだよ。今夜の館林は色っぽいね」
「あたしを狙ってもダメよ。あたしは係長にその気はないですよ」
「そんなこと言わずにさぁ……ちょっとだけ飲まないか」
「さっきお食事の前にビール飲んだでしょ」
「そんなんじゃなくてさぁ、分かってるくせに。そこのパラッツォロッソに寄って行かないか?」
パラッツォロッソは駅のそばにあるワインバーだ。
「じゃ、あたしの質問に答えてくれたら付き合ってあげるわ」
「難しい質問か?」
「簡単よ」
「じゃ答えるよ」
「あたしの仲良しの鈴木さんの悪い噂を流したの係長でしょ」
星野はドキッとしたが平然とした顔で聞き返した。
「なんで僕なんだよ。僕はそんなことしてないよ」
「鈴木さんのストーカー事件、あれって知ってるのは係長とあたしだけよ。そうでしょ」
「ま、そうだけど」
「あの噂、鈴木さんがストーカーにレイプされたってことですよね」
「ああ」
星野は美寿江の問いにどう答えたものか頭の中が乱れだした。
「作り話にストーカーが絡まってるなんて出来過ぎじゃないですか? 白状しなさいよ」
「参ったなぁ。ちゃんと答えたら付き合ってくれるんだろ」
「もちろんよ。お約束ですから」
星野は迷っている様子だが目の前の美寿江の色っぽい目差しに負けたようだ。
「僕がやった。けどさぁ、秘密にしてくれよ、絶対に」
美寿江は答えなかった。
「係長、何であんな噂を流したんですか?」
「兎に角場所を変えてゆっくり話をしようよ」
レストランを出ると星野は美寿江をワインバーに連れて行った。
第四十四章 誤算
パラッツォロッソは思ったより混雑していたが運良く二人分の席を確保できた。
「ロッソ・ディ・モンテプルチアーノ置いてます?」
星野は店員に聞いた。
「はい。サルケートの十一年物でよろしければ」
「それでいいよ」
美寿江は星野がワインを注文しようとしていることは分かったが意味が良く分からなかった。店員がワインを取りに去ると、星野は美寿江の顔を見た。
「この店はイタリアのワイン、わりと沢山置いているんだ。今注文したのはトスカーナ産のやつでサルケートは作っている所の名前だよ」
と説明した。女の子を堕とす時にいつも使う星野の手だ。大抵の女の子は横文字を並べて説明するとそれだけでハートを星野に鷲掴みされてしまうのだ。美寿江も想像してなかった星野の一面を見せられてこのままじゃヤバイと思った。
間もなく店員がボトルとグラス、それにチーズフォンデュを持って来た。星野はローストビーフとピザを追加で注文した。
「館林さんの魅力に乾杯」
星野は美寿江の瞳を覗き込むようにグラスを持ち上げた。美寿江も合わせて、
「乾杯」
とグラスを持ち上げた。
ボトルを二本空けたとき美寿江は急に酔いが回ってきた。
「出ようか」
星野はふらつく美寿江を抱きかかえるようにしてバールを出て、近くのホテルに連れ込んだ。
「大分酔ったね。少し休んでから帰りなさい」
ホテルの部屋に入ると星野は美寿江を抱き上げてベッドに寝かせた。美寿江の意識は朦朧としていたが、星野がブラウスのボタンを外しかかっているのは分かっていた。
「ダメよぉ、エッチは嫌よ」
「いいじゃないか。優しくするからさぁ」
「いや、いや、あたし不倫は絶対に嫌だから」
星野はブラウスのボタンを外し終わるとスカートのファスナーを下げた。美寿江が抗うとスカートの裾から手を入れてきた。
「ちょっとぉ、おトイレ」
美寿江はハンドバッグを掴むとトイレに駆け込んで携帯を取り出した。
「もしもし、あたしレイプされそうです。助けて下さい」
一一〇の電話の向こうで場所を聞いている。
「プラザホテル厚木八階の×××号室です。助けて下さい。お願い」
トイレを出ると星野は上半身裸でベッドの上に座っていた。美寿江が乱れた服を整え始めると腕を取られて抱き上げられまたベッドの上に寝かされた。
「星野係長、ダメですよ。奥様に言いつけますから」
星野は怯む様子はなく、
「女房に電話してもいいよ」
と言うではないか。そういいながらもまた星野にブラウスを脱がされブラも外されてしまった。美寿江の力では星野に敵わない。揉み合っているうちにスカートまで脱がされてしまった。星野は手を緩めず、美寿江のショーツに手を掛けた。
その時、ドアーの鍵を開ける音がして、ホテルのマネージャーと思われる男に続いて警官が二人踏み込んできた。
「おいっ、痴漢の現行犯で逮捕する」
警官は二人して上半身裸の星野を押さえつけ手錠をかけた。呆然とする星野を美寿江は冷たい目で睨んだ。
予想外の展開に星野の頭の中は混乱していた。今まで何人もの女の子を手玉に取ってきたがこんなことは初めてだ。警官は星野の肩にに洋服を掛けるとホテルの前のパトカーに星野を押し込んだ。美寿江も一緒にパトカーに乗った。
事情聴取が終わると、
「館林さん、星野を告訴されますか? 星野は反省して二度とこんなことはしないと言ってますが」
と美寿江の気持ちを聞いた。
「告訴しないとどうなるんですか?」
「話を聞いたところでは星野はあなたの上司でこんな行為は初めてのようだから充分に注意してから帰ってもらうことになります。最後まで行ってなかったようなのであなたが許してあげるなら職場での今後のことを考えると穏便に済まされるのが良いかと思います」
警官の勧めに応じて今回は星野を許すことにした。
「館林さん、済まなかった。許してくれ。魔が射したと言うかとんでもないことをしてしまった。ごめん」
星野は縮こまって美寿江に頭を下げた。美寿江が告訴をしないと言うと星野は釈放された。深々と頭を下げる星野を見ながら美寿江はタクシーを拾って家に帰った。
翌日早速星野が小箱を持って美寿江に挨拶に来た。美寿江を会議室に連れ込むと、
「大変なことをしてしまって済まなかった。こんな物で許してはもらえないと思うけど受け取ってくれ」
小箱はリボンをかけたブランド物の箱だった。
「係長、あたしは告訴を取り下げましたけど許してはいませんよ。どうしても許して欲しかったら現金で百万円。それならゆるしてあげますよ」
「百万? そんなには出せないよ。十万にしてくれないかなぁ」
「出せないならいいですよ。あたし、部長にセクハラと言うかパワハラされたと言いますから」
星野は参った。膝を折って、
「頼む、許してくれよ」
と謝ったが美寿江は許さなかった。
星野は反撃に出た。
第四十五章 反撃
午後星野は休暇を取っていつも使っているネットカフェに出かけた。パソコンを開くと鈴木に悪い噂を流した時と同じ手口で館林を実名で誹謗するメールを数人のお喋り女のアドに送り付けた。
[総務課の館林美寿江はとんでもない女だ。社内の数名の既婚男性と不倫、不倫の事実を奥さんに知られたくなかったら多額の金を払えと脅す。こんな女が会社にいたら大変なことになるぞ。真面目な男性社員の敵だ]
こんな内容で館林を退社に追い込もうとした。
悪い噂はあっと言う間に社内中駆け巡り当然のこと美寿江の耳にも届いた。美寿江は腹が立った。噂を流している奴は星野係長だと確信していた。
会社には社員の色々な情報を吸い上げ、情報を共有化して相互のコミュニケーションを良くするためにツイッター式で書き込みができる仕組みが出来上がっていた。当然のこと、発信者は実名で部署も明らかである。このシステムに平常時は一日二百~三百通の書き込みがあり社長秘書も毎日チェックしており、重要な情報は社長にも報告している。
美寿江はこの書き込みサイトに堂々と書き込みをした。
[総務課の星野係長は先日私に不倫を強要、警察に通報したところ逮捕されました。私が告訴を取り下げたために公にはなっていませんが事実です。しかしその事が原因で係長は私を退社させようと悪い噂を流しています。私が社内の既婚男性に不倫を強要して脅していると言う事実は全くなく、事実無根の中傷です。私は一旦セクハラの告訴を取り下げましたがこのような事態が発生して残念でなりません。そこで警察と相談してこの際星野係長と会社を相手取ってセクハラとパワハラの損害賠償の訴訟手続きを弁護士に相談しています。星野係長は過去にも数人の女性社員と不倫をしたと自ら豪語していますので皆様お気を付けて下さい]
すると直ぐに星野が実名で書き込みをした。
[私の部下である館林美寿江はとんでもない言いがかりをつけて何も知らない私を誹謗しています。皆様気が狂ったとしか思えない彼女の戯れ言に惑わされないで下さい。これって逆パワハラですよね]
通常一日当たり二~三百件の書き込みがその日は千件、二千件と膨らみ一万件を越えてまさに炎上してしまった。書き込みの中には過去に星野から辱めを受けた女性から美寿江に応援する内容のものもあった。
この事態を知った情報管理部は大急ぎで書き込みの一時停止処置をした。社長秘書も驚いて概要を社長に報告した。慌てたのは総務部長と課長だ。直ぐに星野と館林を呼んで事情を聞いた。
「課長、前に同僚の鈴木さんが悪い噂が出たのが原因で退職されましたよね。あの噂は星野係長が流したんですよ。あたしは星野係長ご本人の口から直接聞きましたので間違いないです。もしも鈴木さんが訴えれば確実にパワハラ事件になって会社も大損害になりますよ」
こんな場合部長も課長もどう対処すれば良いのか分からず二人とも顔を真っ赤にしていきり立っていた。
数日後星野係長は懲戒免職となり、美寿江も依願退職に追い込まれてしまったが、美寿江は星野と会社を相手取って一千五百万円の慰謝料(損害賠償)を請求した。厚木警察署も美寿江に協力してくれたが、警察の方は会社のトップからの依頼があって、美寿江が和解に応ずるように勧め、結局一千万円の和解金を会社が支払うことで美寿江も合意した。
会社を辞めさせられてボロボロになった美寿江は山田に会って欲しいと電話をした。何も知らない山田は、今日こそ美寿江を自分の女にしてやろうと張り切ってやってきた。
「その時あたしは自分を心から慰めてくれる人なら誰でも良かったのよ。それで手っ取り早くと言うか電話をすれば直ぐに飛んできてくれる山田さんを呼んだのよ」
美寿江は自分が退職をせざるを得なかった経緯を正直に昌代に話した。昌代は自分を退職に追い込んだのは美寿江が流した噂のせいだと薄々感じていたが、事実は全く違っていて美寿江にはすまないと思った。それに今までは山田山田と小馬鹿にしたように呼び捨てしていた美寿江が今日は山田さんと言ったので違和感を覚えた。
「山田さんに、あたし壁ドンされちゃった。壁ドンなんてさ、あたし他人ごとだなんて思ってたけどさぁ、あれは魔術だわね」
「かべどんって何?」
「あら知らないの? 男の人が女に迫るとき使う手よ。片手を壁にドンとついてさ、女を口説くときに使うあれよ」
「それを山田さんが美寿江にやったの?」
「ん。絶妙なタイミングでさぁ、彼って壁ドンで迫ってきてさ、あたしの顎を片手で摘まんであたし唇を奪われちゃった。あたし落ち込んでたから彼にそんなことをされたら力が抜けちゃって、やられたなぁ」
美寿江はその時の光景を思い出すように目がうっとりしていた。
「あたし今まで何人かの男性と付き合ってきたけど、山田さんにキスされた時はなんか身体が震えちゃってさ、固まるって言うか……あんな感覚は初めてだったな。彼に初めて逢った時はお遊び気分でこっちから彼の唇を奪ってやったのに、壁ドンされて彼に奪われた時はあたしハートまで掴まれちゃったみたいだったわよ」
「美寿江変わったわね」
「それで彼に飲みに誘われて、あたしすっかり酔っちゃって気が付いた時はラブホで彼に抱かれてた」
「これからどうするの?」
「山田さんと付き合うつもりよ」
「将来も考えて?」
「先のことはわからないけど、これからも身体を許してあげてもいいかななんて思ってる」
「じゃ、決まりじゃない? 山田さんはあなたが思っている軽い方じゃないわよ。わたし次郎さんから彼のことを聞いているけど信頼できる良い方よ。結ばれるといいわね」
「実質的にはもう結ばれちゃったわ」
と初めて美寿江は笑った。
第四十六章 結婚指輪
年をとってから振り返ると人生で二年間なんて光陰矢のごとしと言われる通りだ。
昌代はその後も次郎と仲睦まじく同棲生活を続けていたが、次郎は約束を守ってまだ一度も昌代の身体を求めたことはなかつた。次郎は同棲を始めてから一年後に係長に昇格して部下も十名になった。昌代は工業団地の小さな会社で頑張り、今では社長の片腕として会社になくてはならない存在となり、顧客回りや集金の仕事まで任されていた。二人は多忙だったが休日昌代の実家の農作業だけは欠かさずに続けていた。
美寿江は山田とデートを重ね、この秋にめでたく結婚、相模原にマンションの一室を借りて新婚生活をスタートさせていた。結婚式に次郎も昌代も招待された。昌代は美寿江の幸せそうな笑顔を見て安心した。色々あったけれどこれからも仲良くして行けそうに思えたからだ。その後美寿江のお腹には山田の子供がすくすくと成長していた。美寿江は主婦として平凡な生活に慣れて、星野係長との事件はもう過ぎ去った昔の話として美寿江の心の中では次第に薄れていた。
その星野は有名な工作機械メーカーを追い出され、妻とも離婚して館林に支払った慰謝料で無一文になり生活に行き詰まって結局生まれ育った地元福島に舞い戻り地元の建設会社の下請け会社で土木作業員として日雇いの土方作業に明け暮れる淋しい日々を送っていた。人が転落する時は一瞬だ。星野は普通のサラリーマンだったが、ふとした出来事であっという間に転落してしまった。
年が明けて三月吉日に次郎と昌代の結婚式を挙げる予定になった。
「結婚式は昌代の一生の思い出になるようにしてあげたい気持ちはあるんだけど、僕の貯金はかき集めても二百万円しかないから盛大にってわけには行かないな」
「わたしも、今まで妹や弟の学資の一部を応援してきたから手元には百五十万円位しか貯金がないのよ。二人合わせれば世間の平均的な挙式はできそうだけど、式が終わった後、わたしたちすっからかんだわね」
「他に結婚指輪とか色々出費があるから式を挙げるのは大変だなぁ。僕は次男だから実家に出してくれとは言いにくいしなぁ」
次郎も昌代も結婚費用で実家をあてにすることは難しいと思っていた。昌代はしばらく考えてから、
「あなた、いっそのこと形式張った結婚式は諦めて両家の家族と親しいお友達をお招きして食事会をしてその時にわたしたちの結婚を報告させて頂くようにしたらどうかしら。結婚後出産とか子育てとか一間のアパートじゃ狭すぎるから住むところも考えなくちゃならないし、結婚式にお金を使う余裕は全然ないわね」
「昌代がそれでいいならその方向で考えようか」
「それと結婚指輪ですけど、無しにしちゃだめ? わたし以前本で読んだことがあります。西洋じゃ結婚指輪を付ける風習は古代ローマ時代から延々と続いているそうですけど、日本に伝わったのは江戸時代末期で最初の頃はオランダ人の真似をして遊女たちが指輪を付けたんですって。ですから昔から日本で伝わっている風習じゃないからわたしは無しでも構わないと思うの。日本で結婚指輪交換の風習が定着したのは五十年前頃からですって。なので歴史も浅いのよ」
「ふーん? そんなこと知らなかったな。芸者が好んで付けたのが始まりだなんて真面目に考えたら笑っちゃうね」
「世間並みに結婚式を挙げると指輪の交換なんてプログラムに入ってるものですから指輪を用意してないとなんだか先に進まないって感じになってますよね」
「未婚の女性と既婚の女性の区別が付かないから、昌代が付けてないと僕以外の男から口説かれたりしないかなぁ」
「あなたそんなご心配されてるの? もし本当に心配なさってるならわたし失望しちゃうな。だって、わたしが信用されてない浮気女ってことになりますもの。わたしは一生次郎さんだけよ。結婚指輪を生涯の信頼の証として大切に思っていらっしゃる方は多いわね。わたしはそれを否定する気持ちは全然ないですけど、毎年二十五万組以上の方々が結婚指輪を捨てて離婚なさっているのも現実ですもの。わたしは指輪を頂けなくても一生涯信頼し合って行けたらこれって究極の夫婦愛じゃないかしらなんて、指輪のないのはむしろ素敵じゃないなんちゃって」
と昌代は笑った。次郎は拙いことを言ってしまったと後悔した。軽い気持ちで冗談半分に言ったつもりが昌代を傷つけてしまった。慌てて次郎は話を元に戻した。
「昼食で一人二万円位の予算だったら相当のご馳走を腹一杯食べられるよね。五十人招待しても百万。今まで結婚式には何回も呼ばれたけど食事が美味しいと思ったことはなかったな。僕たちの場合はとにかくみんなの思い出になるくらい美味しい物にしようよ」
「そうね。わたしはお祝儀を一切お受けしないようにして引き出物の代わりのお土産代も含めて二万でいいと思いますよ」
「ケーキカットなんてやらずに美味しいケーキをお土産に持ち帰ってもらうのもいいね。ところでウェディングドレスは一度は着せてみたいけどどうかなぁ」
「そうね、写真は欠かせないですからお食事の途中に着替えさせて頂いたらどうかしら」
「お色直しみたいに。レンタルの費用、調べておくよ」
「わたしたちのは結婚ご報告会ってことになるのかしら。予算は全部合わせて百五十以内で決まりね」
三月十六日の日曜日は大安だ。この日次郎と昌代の結婚報告会兼披露宴を行う予定で町田駅から数分歩いた所にある梅の花と言う和食店を十時に訪ねた。
「こんにちは」
店から店員が出て来た。
「恐れ入ります。当店は午前十一時からの営業でございます」
店員はまだ準備中だと申し訳なさそうな顔をした。次郎はそれを制して、
「はい。分かってます。実は五十名弱の人数でここで会席させて頂きたく、ご相談に参りました。予約のご担当の方はいらっしやいますか?」
「でしたら私が承ります。奥へどうぞ」
昌代と同年代と思われる女性は二人を奥の小部屋に案内した。
「来月三月十六日の日曜日に家族と親戚、友人に集まってもらって僕ら二人の結婚の報告会をここで会席の形でやらせてもらいたいと思っています。僕らはお金がないので普通の結婚式はやらないで結婚をしましたと報告するだけなのでセレモニーは特にありません。僕らの気持ちとしてこちらで美味しい料理を腹一杯食べてもらって集合写真を撮影するだけです。だめですか?」
「失礼ですが、ご予算はどれ位のご予定ですか?」
「一人一万五千円、お土産としてこちらの料理とお赤飯、それとショートケーキ二個をセットで五千円、五十名弱ですから一人二万円として合計百万円以内で抑えたいと思っています。やって頂けますか?」
「そのご予算でしたらお受けできると思います。少々お待ち下さい」
店員は店の事務室の方に引っ込んで間もなく年配の女性を連れて戻ってきた。戻る途中小さな声で話をしているのが次郎に聞こえた。
「ママ、精一杯協力してあげて頂戴。なんかあたし感激しちゃって」
何に感激したのは分からないがひそひそ話でママと言ったので多分連れてきた女性は母親らしかった。年配の女性は和服姿で貫禄があった。
「店の者から概要は伺いました。もう少し詳しくご計画を聞かせて頂けませんか?」
すると先ほどから何も言わなかった昌代が話し出した。
「今まで披露宴のお料理でとても美味しいと感じたことは一度もないんです。それで私共の披露宴では皆様に本当に美味しかったと言う思い出を差し上げたいと思っています。それも腹一杯召し上がって頂いて。そうするとお料理が沢山残りますよね。それをお赤飯に添えてお持ち帰り頂くようにお弁当のようにパックして頂きたいのです。出来ますでしょうか?」
「うちはお弁当もやってますからお安いご用です」
「よかったぁ。普通披露宴では来賓の祝辞がながながと続きますけれど、私共はそんなことは止めて皆様にご歓談頂ける時間をたっぷりとってお食事を楽しんで頂きたいのです。ご招待する方々は私共両家の家族と親しい友人たちだけですのでできるだけ和気藹々楽しい一時を過ごして頂ければそれで満足です。結婚式と披露宴に何百万も大金を使うのが当たり前の世の中ですけど、とてもそんなことは出来ません。ですが、私共はご招待しました方々からは一切お祝儀を頂戴しないつもりですので少ない予算ですが心温まる会席にできれば嬉しいです」
「あなた、お若いのに思い切りがよろしいのね。あなたのおっしゃる通り無駄なお金を使わず節約なさるのは私も大賛成ですわ。ご希望はよく分かりました。素敵な披露宴にして差し上げますからご安心なさって下さいな」
年配の女性の目は愛娘を見つめるような暖かさがあった。次郎も昌代も良いお店を選んで良かったと思った。
「お写真の撮影ですが、うちは約千坪のお庭がありますから、お天気がよろしければお庭にお集まり頂くとよろしいですわね。カメラマンはもうお決まりですか?」
「まだ決めていません」
と次郎が答えた。
「よろしかったら私共が存じております方をご紹介しましょうか? ご予算の中で済むように実費でやってくれるように頼めますのよ」
「ではそうして下さい。写真撮影の費用は食事の予算とは別にして食事の方を手厚くして頂けませんか?」
「分かりました。では三月十六日十一時から三時までの四時間、駅までの送迎はうちでマイクロバスを出しますから使って下さいね。送迎の費用は要りません」
「何から何まで希望を聞いて頂いてありがとうございました。ではよろしくお願い致します。ここに五十万円あります。内金として納めて下さい。残りは当日にお払い致します」
「内金はよろしいのよ。当日精算して下さいな」
次郎と昌代は応対してくれた店員にお礼を言ってからぶらぶらと町田駅まで歩いた。店で車を出すと言ったが断った。
第四十七章 披露宴
次郎は町田のウェディングドレス専門店を訪れてレンタルの予算を聞いてみた。思ったより安くウェディングドレスと自分用のタキシードを合わせて八万円弱、アクセサリーや披露宴を行う店に宅急便で届けてもらう送料とスタジオでの前撮り費用を全部合わせても十万円あればお釣りが来る程度だと分かりほっとした。行く前は二十万~三十万円を覚悟していたからだ。
「ドレスは当店で扱っているもので千点以上あります。どれをお選びになられても料金は変わりません。お選びになる日にちをご予約されますか?」
次郎は昌代に電話をして聞いて見た。
「今週の土曜日でもいいですか?」
店員は予約表を確かめて、
「大丈夫です。十時から夕方七時までやっておりますからご希望の時間を教えて下さい」
「では十時からでお願いします」
当日は義母の千代と昌代が来る予定であったが妹の真美がくっついてきた。ドレスを試着した昌代はとても綺麗だった。試着する時に着脱する場合の留意点を千代がメモをとりしっかりと聞いていた。披露宴で着替える時に千代が手伝う予定だったからだ。次郎はデザインの好みについて聞かれたが聞かれても困るので真美にお姉さんのアドバイスをしっかりやってくれと頼んだ。
次郎がタキシードを着てから店のスタジオに入ってデジカメで写真を撮ってもらった。
「あたしも入れて」
真美が姉と一緒に撮ってから四人揃ったところを店員に頼んでシャッターを押してもらった。次郎のタキシード姿を見て、
「次郎兄さん、すごく格好いいよぉ」
と真美が感嘆した。全てが決まったところで発送してもらう場所を店に知らせて専門店を出た。
「お義母さん、皆で昼食をしませんか? できれば僕らが披露宴をする店で」
と言うと昌代も真美も賛成した。千代は店に入って雰囲気が思ったより良かったと思った。次郎たちは三千円のランチメニューを頼んだ。
「あら、美味しいわね」
一口食べて千代が呟いた。次郎も昌代もこの店にして良かったと思った。食事が終わる頃先日応対してくれた年配の女性がやってきて、千代に丁寧に挨拶をしてから、
「料理の方はいかがでした?」
と千代と昌代に聞いた。
「とても美味しかったわ。披露宴の日が楽しみになりましたわ」
店員は千代の返事を聞いて満足そうに微笑んだ。
「確か、当日は中学生以上の大人が四十二名、子供さんが六名でしたわね」
「はい。その通りです」
「当日はお子様のお口に合うメニューを考えておりますがご希望はありますか?」
「どんな料理ですか?」
「和牛のすき煮、お野菜の天ぷら、ハンバーグ、卵焼きや茶碗蒸しなど少し多めにお作りしようと思っております。最近子供たちの中には和食に馴染みがない子が増えてますが、この際当店の本格的な和食を食べさせて美味しい和食の味わいを経験させるのも良いと思いますわ。デザートはアイスクリームやイチゴのスイーツなどを考えております」
「それくらいあれば子供たちも楽しめると思います。ご配慮下さりありがとうございます」
店を出ると次郎も一緒に昌代の家に行った。今夜は昌代の家で啓介と一緒に寝て明日は家族全員で畑仕事だ。
披露宴の当日はお天気が良かった。次郎と昌代は早めに支度して町田に向かった。普通の結婚式、披露宴と違って食事会だから気が楽だ。服装は次郎は通勤に着ている背広、昌代は明るめの柄のワンピースにした。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
先日会った年配の女性がにこやかに応対してくれた。
「今日はあなた方は何もお気になさらずに全部私共にお任せ下さいね」
婦人はなんだか母親のような感じがした。
十時になると招待した親戚の者や友人たちがぞくぞくとマイクロバスで到着した。次郎の父健司と昌代の父世之介は予め話し合ったらしく全員揃った所で先ず健司が話し始めた。司会は次郎の部下の山田に頼んであったがどうやら事前に何も話がなく山田は戸惑った顔をしていた。次郎の方の来客の中には上司の課長と係長の他昌代がお世話になっている工業団地の会社の社長夫妻の顔も見えた。健司と世之介が改まった顔をして皆の前に立った。
「食事を始める前に、普通は結婚式の前に両家の親族紹介をさせてもらうものだが、息子たちの披露宴は変わった形でいきなり披露宴とあいなりました。そこでこの場を借りて両家の親族紹介をさせてもらいます。本来は親族だけお集まり頂き紹介をするものだが、聞いたところ今日は息子夫婦と親しい方々ばかりの集まりのようですので、ご来賓の方々もご一緒に私共の家族同然の方々と考えまして両家の者を紹介させて頂きます」
健司は鷺沼家の者を順に紹介した後世之介にバトンタッチした。
「鷺沼さんがおっしゃった通り、私どもも家族を大事にしとります。ここにお出で頂いた方々は皆様私どもの家族と思うとりますが、今日初めてお目にかかる方もおられますので私が知っとる範囲でご紹介させて頂きます」
世之介も健司と同様に家族を一通り紹介したが、昌代の友人たちも昌代の親友だと紹介した。
考えてみれば結婚は縁がなかった家族と家族を新しく結びつけるものだから義理ではない親しい者たちが集いお互いに知り合い理解を深めるのであればこんな形の紹介は間違ってはいないと思われた。
親族紹介の時に次郎と昌代のことも紹介されたので食事を始めるに当たって特別な祝辞は省略され、次郎たちが世話になった店の婦人の挨拶で幕が開いた。
「本日は鷺沼次郎様、鈴木昌代様のご結婚おめでとうございます。それと鷺沼家と鈴木家およびご列席の皆様の益々のご繁栄をお祝いして私共から菰樽をプレゼントさせて頂きます。司会の方こちらへどうぞ」
山田が小走りに婦人に近付くと婦人は小声で山田に何かを伝えた。それを聞いて山田は次郎と昌代を手招きして呼んだ。
「ただ今より鏡開きをいたします」
と紅白のリボンを巻いた木槌を次郎と昌代に渡した。山田は次郎と昌代に木槌を叩く場所を指差してから、
「それではどうぞっ」
とかけ声をかけた。次郎と昌代は言われたとおり四斗の菰樽の鏡の部分を軽く叩いた。樽が空くと山田の拍手につられて全員が拍手をした。店員が数名近付いて次々と升に清酒を注ぎ皆に配った。子供たちは升にオレンジジュースが注がれた。と、先ほどの婦人がマイクを取って、
「お若い方々は鏡開きをしたのが初めての方もいらっしゃると思いますが、お正月にお供えする鏡餅も樽の蓋も丸いので鏡と言いまして、昔から鏡は神様が宿る大切なもので割ると言わず開くと言っております。お酒は栄える水が語源だそうでございまして、それが転じて酒と言われるようになったそうで幸運を呼び栄える酒を皆様で分け合う鏡開きは喜びをお祝いする時に欠かせないものです。どうぞそんなお気持ちで今日のお酒を召し上がって下さい。では山田様よろしく」
山田は来賓の次郎の上司の課長に乾杯の合図を頼んだ。
「次郎君、昌代さんのさらなる幸せを祝して乾杯っ」
そこに次々と美味しそうな料理が運ばれてきた。
「今日は鷺沼先輩のお蔭で美味しい物を食べて美味しい酒が飲めて僕も幸せですよ」
いつもの調子で山田が言うと何人かが、
「そうだそうだ」
と場を盛り上げた。
食事中から料理が美味しいと言う声が次郎の耳に届いていた。出された料理は食べきれないほどテーブル狭しとどっさり出されたが皆が満腹になったと思われる頃山田が声をかけた。
「皆様まだまだご歓談が尽きないようですが、このあたりでお開きにして写真撮影をしますので庭に出て下さい」
と皆を庭に誘導した。酔っ払って足下がおぼつかない者もいて、昌代は写真撮影を最初にすれば良かったと後悔したがどうしようもない。それでカメラマンにお願いして撮影まで少し間を置いてもらった。
お天気が良く、庭には咲き始めた沢山の三葉躑躅が春の日差しの中で昌代たちを祝福してくれているように思えた。
「綺麗っ」
真美がパープルピンク色の躑躅の花を見て感嘆した。
カメラマンは親切なやつで酔った者を丁寧にポーズを取らせて何枚も撮ってくれた。次郎と昌代が二人で写真を撮りおわると昌代は持っていたブーケを空高く放り上げた。空から舞い落ちてきたブーケは昌代のクラスメイトだった絹江の前に、絹江はそれをしっかりと受け止めた。絹江はまだ独身だ。皆に冷やかされて顔を赤く染めていた。
写真撮影が終わって皆が席に戻ると大きな袋にお赤飯と残った料理を箱詰めにしたお土産がテーブルに置いてあった。山田が締めくくりの挨拶を健司に頼んだ。
次郎の父健司のお礼の挨拶が済むと散会となった。帰りがけに皆は口々に、
「いい披露宴だった」
と言ってくれて昌代はとても嬉しかった。皆が帰った後で次郎と昌代は店の婦人に挨拶をして費用の精算をした。
「あれっ? 計算間違ってませんか?」
「これで大丈夫ですよ。あなた方はお金の使い方がとても上手で私も参考になりましたわ。結婚式に多額のお金が使われていますけれど、身の丈に合ったあなた方がお考えになられた披露宴に今日いらしたお客様は皆様とても良い思い出を胸にお帰りになられたと思いますよ」
「樽酒までサービスして下さって赤字じゃありません?」
「こちらも商売ですからご心配は要りませんよ」
請求された費用は予定より十一万円安く、八十九万円、それにカメラマンの方は五万円でいいと言ってくれて合計九十四万円、ドレスのレンタル費用を入れても百万円を少し越えた予算で足りた。
第四十八章 初夜の思い出
「新婚旅行はどこに行きたい?」
次郎も昌代も披露宴の先のことを考えてなかった。
「まだ考えてない。今日はこれから引っ越し先探しでしょ? いい家が見付かったら、今夜はホテルで一泊しない? 新婚旅行は五月の連休でいいわよ」
「ほんとうにそれで構わないのか?」
「それでいいわ」
二人は夕方不動産屋を回った。
「ここから少し遠いが森野にいい物件が一つありますが」
「森野だと町田市?」
「そうです。一応東京都民になります」
「実物を見てから決めたいので案内してもらえませんか?」
不動産屋は相模原開発と言うロゴが入った車で二人を案内した。
「最寄りの駅は横浜線の古淵駅で駅から約一キロほど離れてますがそれでもいいですか?
住所は町田市森野六丁目です」
「構いません。相模原までは二つ目、橋本までは三つ目なので通勤も大丈夫です」
不動産屋が案内した物件は旧い一戸建ての空屋だった。小さいが庭もあり感じは良かった。平屋で間取りは六畳と四畳半に六畳程度のキッチン、風呂場とトイレが別にあった。陽当たりは良い感じだ。
「お家賃はどれ位ですか?」
「礼金一、敷金一、家賃は月額五万二千円になります」
「じゃ、ここに決めます。明日から入居できますか?」
不動産屋は家主の農家に案内してくれた。家主は、
「あんたらのような新婚さんに決まるといいと思ってたよ。明日午前中に掃除をして水道ガス電気が使えるようにしておくから明日の午後に引っ越して下さい」
と快諾してくれた。次郎は十五万六千円を支払って契約を済ませた。
「これから熱海に行こうか?」
「箱根の方が近くない?」
「少し近いかな? じゃ、箱根にしようか」
「はい」
小田急線で箱根湯本に着いた時は夜の八時近くになっていた。適当なホテルを探すにも駅前の箱根町総合観光案内所はとっくに閉まっていた。
「困ったな」
「この時間になると人通りも減ってなんだか心細いわね」
そこにタクシーの運転手らしき男が近付いて来た。
「お客さん、今夜泊まる所はお決まりですか?」
昌代はなんだか胡散臭そうな男を見て、
「決まってますよ」
と言った。男はしつこく纏わり付いてきた。
「いい旅館を知ってるんですがねぇ。案内しますよ」
そう言って次郎の腕を引いた。次郎はこんな所でまごまごしていても仕方ないと思って昌代を促してタクシーに乗り込んだ。
タクシーが連れて行った旅館は何だか薄汚れた小さな温泉旅館だった。
「腹が空いたなぁ。昌代何か食べないか?」
「わたしも、お腹ペコペコ」
次郎は旅館の女将に腹が空いたので何でもいいから何か食べる物はないかと聞いた。
「お客様、済みませんが八時でオーダーストップですのでお出しできるものは何もありません」
「宿泊客でもですか?」
「はい。もう板前が帰ってしまいまして」
「ところで、ここは一泊いくらですか?」
「お客様は先ほどタクシーの運転手が良い部屋にと言ってましたので一泊お一人様三万五千円です。お二人ですと消費税、サービス料を入れて八万二千六百円になります」
「高すぎませんか? 夕食が用意できないとなると朝食付きでそんな値段じゃ一流のホテルに泊まってもお釣りがきますよ」
「お客様、夕食のお時間に遅れたのはお客様のご都合ですから」
「女将さん、何言ってんの? 予約もしてないのに時間に遅れたなんて可笑しいですよ」
次郎はかっとなった。
「昌代、出よう。こんな旅館には泊まりたくないよ。女将さん、悪いけど他所を当たってみます」
「ちょっとぉ、待って下さいよ。お泊まりにならないならキャンセル料を百%頂きます」
「冗談もほどほどにしてくれよ。まだ泊まりますとは一言も言ってないからキャンセルもなしだよ」
次郎は手荷物を持つと昌代を引っ張って旅館を出た。
「ひでぇぼったくり旅館だな」
勢いで旅館を飛び出したものの、夜も九時近くであたりには旅館もなく通りに出ても空車のタクシーも来ない。もちろんバスも終バスが行ってしまった後だ。
「昌代、済まない。結婚して初めての一泊旅行がこんなになっちゃって」
「気になさらないでもいいわよ。これも後になれば笑って話せる思い出になりますわよ」
と昌代は笑った。昌代の笑い声に次郎は少し救われた。仕方なく二人はとぼとぼと暗い夜道を歩いた。二十分ほど歩くと小さな飲み屋がまだ開いていた。
「済みません。まだ大丈夫ですか?」
「お二人様ね。どうぞ」
女将は鍋焼饂飩ならできると言うので二つ注文してどうにか空腹を満たした。
「女将さん、変なことをお聞きしますが、僕ら今夜泊まる所が決まってないんですよ。どこか適当な所知りませんか?」
「そうねぇ、時間が時間ですから今から泊めてくれる所あるかしら」
そう言いながら女将さんは電話をかけた。三軒目にかけた所でどうやら話が付いたらしい。
「ここからですと少し遠いですが、強羅の季の湯と言う旅館で泊めてくれるそうですよ。今からですと朝食しか支度できないそうですのでお二人で三万六千円でいいそうです。行ってみます?」
「タクシー、まだ呼べますか?」
「呼べますけど、良かったらうちの車で旦那に送らせますよ」
女将さんは親切そうな人だった。次郎たちは勧められるままに旦那に送ってもらった。
「ありがとうございました。助かりました」
礼を言うと旦那は恐縮しているような様子で立ち去った。紹介された旅館は思ったよりゆとりがありとても良い感じだった。部屋はツインベッドで広々としていた。
「大浴場は一時までですから早めに済ませて下さい。貸し切り風呂をお使いになられますか? 無料ですが、今ならご予約が取れます」
「ではお願いします」
一服してから、
「昌代、いいだろ? 貸し切りで」
と次郎が言うと、
「わたし恥ずかしいな。大浴場じゃダメ?」
と顔を赤らめている。
「分かった。今度にしよう」
風呂から上がるとまたお腹が空いた。フロントに電話をしてみると、
「おにぎりでよろしければ」
との返事に二人分を頼んだ。おにぎりが届いたところで冷蔵庫からビールを出して乾杯した。
ようやく二人がベッドに潜り込めた時は一時半を過ぎていた。次郎は明かりを暗くして、
「昌代来ないか?」
と誘った。昌代は素直に次郎のベッドに潜り込んで次郎に抱きついてきた。二年間も同棲生活を続けてきたが、次郎は約束を守って今まで一度も昌代にセックスを望まなかったから恐らく今夜は二人とも我慢の堰が切れてしまったのだろう。次郎は昌代を抱きしめると激しく愛撫し始めた。昌代も次郎を求めて燃えた。
「わたし、男の人にこうしてもらったのは初めてなの」
昌代の囁きに次郎は昌代と結婚出来て良かったと思った。
翌朝次郎が目を覚ますと、昌代は部屋に付属している露天風呂に入って外の景色を見ていた。昨夜はなんだか転がり込んだみたいだったが、この旅館は部屋ごとに露天風呂が付属していてかなり高級な旅館だと思われた。
「恥ずかしいから来ないでっ」
次郎が露天風呂に近付くと昌代が振り返って困った顔をした。
第四十九章 新生活
箱根から戻ると次郎と昌代は早速引っ越しの準備を始めた。二人とも荷物が少なかったから簡単に整理が終わり、引っ越し業者に頼んで森野の新居に移った。大きな引っ越し荷物と言えば自転車二台くらいだ。だから二トントラックで余裕があった。新居と行っても古い貸家だが二人にとっては新しい門出に相応しい快適な我が家だ。昌代は荷物の整理を次郎に頼んで自転車で約六百メートル先の町田市役所に移転手続きと同時に婚姻手続きを済ませた。市役所から戻ると既に荷物の整理は終わっていた。
「駅前のスーパーに行ってみないか?」
次郎の提案で二人は自転車で古淵駅の近くにある大型スーパーに向かった。スーパーで日用品や食料を買い集めると、駅前の月極駐輪場を探した。運良く駅から徒歩二分程度の所で二台分駐輪できる場所を確保できた。自転車駐車場整備センターが運営しているそうで契約先は相模原市役所だった。森野は町田市だが古淵駅は相模原市だ。月極で一ヶ月一台千八百円、合わせて月々三千六百円は二人にとって大金だが仕方がない。
生鮮食料品があったので二人は一旦森野の新居に戻った。昌代は、
「次郎さん、冷蔵庫が欲しいわ。今まで冷蔵庫なしで我慢してきましたけど、お肉とか傷みやすいものがありますから……」
「なるべく家財は増やしたくないけど、冷蔵庫はないと困るよね。たしかここから数百メートルの所に大型の電機店があったよ。行って見よう」
また二人は自転車を漕いだ。行って見て驚いた。平均の価格が二十万円もするのだ。だが良く調べてみると十万円以下のものもあった。冷蔵庫売り場をうろうろしていると、店員が近付いて来た。
「ご予算はどれくらいですか?」
「そうねぇ、十万円だと無理ですか?」
店員は少し考えてから、
「色や仕様にこだわらなければ台数限定の特売品があります。わたしとしてはお勧めですが」
「見せて下さいます?」
店員が案内した先にブラウン系の大手家電メーカー製の大きな冷蔵庫があった。
「これはかなりお買い得です。6ドアーで517リットルもありますが、これなら税込み十万でお売りできます」
「次郎さん、先々子供たちが成長することを考えたら冷蔵庫はこれくらいあった方がいいかしらね」
「ん。デカ過ぎる気もするけど予算を考えてこれにしようか」
「これにするわ。わたし決めたわよ。店員さん、今日中に届けられます?」
「場所はどこですか?」
「森野六丁目です」
「近いですね。では十八時でもいいですか?」
「はい」
設置は店側でやってくれるらしい。契約を済ますと二人はまた自転車を漕いで相模原市役所に向かった。駐輪場の契約を済ませて家に戻ると五時になっていた。昼食を済ませる時間がなかったから次郎は腹ペコだ。昌代がお米を研いでから味噌汁とポークソテーを作った。三十分ほど経ってから炊飯鍋に火を点けご飯が炊き上がると六時になってしまった。
「××電気です」
大型電機店の店員は要領よく冷蔵庫を設置すると一通り使い方の説明をしてから去った。昌代は生鮮食料品を冷蔵庫にしまうと、
「ご飯、遅くなってごめんなさいね。さぁ、ご飯にしましょう」
次郎が床にセットした卓袱台で二人は黙々とご飯を食べた。
「なんだか一日があっと言う間に終わったね」
「さすがわたしもくたくたよ」
と昌代は笑った。
「お休みはあと二日でしょ」
「ん。明日は昌代の実家、明後日は僕の実家に挨拶に行こうか」
「次郎さんのご実家が先よ」
「ま、どっちでもいいか。じゃ明日は小美玉、明後日は半原に行こう」
風呂から出ると昌代は四畳半の部屋に布団を敷いて次郎のパジャマを出したところだった。
「わたしもお風呂、次郎さんはテレビでも見ていて下さいな」
次郎は明日実家に持っていく手土産を何にしようか考えていた。
昌代がお風呂を済ませて部屋に入ってくると二人は明かりを消して布団に潜り込んだ。
「わたし、赤ちゃん三人くらい欲しいな。いいでしょ?」
「ん。僕も三人か四人は子供が欲しいよ。大変だけど頑張って育てようよ」
昌代は次郎の元気な子供を授けて下さいと思いながらその夜も次郎に抱かれた。
「新居はもう落ち着いたのかね?」
「一応一段落しました。お義母さま、色々ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。お時間がありましたら森野の方に是非いらして下さい」
昌代は次郎と一緒に小美玉の次郎の実家を訪れた。二人は早朝に家を出て古淵から町田に出てその後は新宿から山手線で上野に行き上野から常磐線に乗った。石岡駅からバスで小美玉に着いた時にはお昼になっていた。昼食は次郎の実家で家族揃って食べた。
次郎が結婚して初めて訪ねてきたので父親の健司も母親の百合子も上機嫌で兄の太郎と義姉の佳織も歓迎してくれた。昼食が済んでしばらく歓談した後、家が遠く遅くなるからと二人は帰途についた。
「明日は半原よね。自転車で行くでしょ」
「もちろんだよ。自転車が金もかからず一番いいよ」
新宿で乗り換えのとき一旦下車して半原に持って行くお土産を買おうと遠慮する昌代を次郎が説得してデパートに寄った。あれこれ迷った末、ユーハイムの大きな箱詰めになっているケーニヒスバウムを買った。
「ありきたりだけど、お祝いの贈答品だから」
昌代は自分に言い聞かせるように呟いた。こんな時でもなければ高価な買い物をしたことがない。
次の日は朝からどんよりと曇り雨粒が落ちてきそうな天候だったが、予定通り二人で自転車に乗ってでかけた。バウムの箱は大きくて昌代の買い物かごには入らないから次郎の自転車の荷台にくくりつけた。案の定相模川の橋を渡ったあたりから雨粒が落ちてきて次第に強くなった。二人はコンビニの軒下で雨合羽を着てまた走った。三月半ば過ぎだがあまり寒くはなかった。雨は中津川に沿った道路の所で本降りになった。バウムの箱をビニールの風呂敷で包んできて良かったと思った。二人は頑張ってペダルを漕ぎ、十時過ぎに半原の実家に着いた。母の千代は雨の中二人が挨拶にやってきたのを見て目に涙を溜めて昌代を抱きしめた。
「お母さん、ありがとう」
昌代は母の気持ちを察してそれしか声にできなかった。昌代は長女で小学校の高学年の頃から千代のお手伝いをして家事の一端を担ってきた。会社に勤め始めてからは妹と弟の学資を応援して贅沢はしなかった。千代はそんな昌代が苦労と我慢を乗り越えて次郎と言う良き伴侶に出会いこうして会いに来てくれたのがとても嬉しかった。母に久しぶりに抱きしめられて昌代も感情が高ぶり母と一緒に嗚咽した。
「ただいまぁっ」
雨の中を二つの傘が庭に入ってきた。真美と啓介だ。
「今日来るって言うから真美とお祝いの物を買ってきた」
啓介はそう言うと次郎に挨拶した。
「今日から兄さんって呼んでもいいよね」
「ああ、あんたはオレの可愛い弟だ」
真美は啓介と一緒に買ってきたお祝いの包装を開けて父母と姉夫婦に見せた。
「あら、素敵じゃない」
昌代は喜んだ。
「お姉ちゃんは猫好きだから」
真美と啓介が買ってきた贈り物は猫の群れと名付けられた振り子式壁掛時計のシベニックだった。文字や振り子に猫のシルエットがあしらわれ振り子は猫がぶら下がってるようなデザインになっていた。
「真美、ありがとう。大切にするから」
鷺沼家と鈴木家、両家の挨拶を済ませて、翌週から次郎と太郎は新しい生活をスタートさせた。毎朝二人は揃って森野の家を出ると自転車で古淵駅前の月極駐輪場に自転車を停めて電車に乗り次郎は相模原で、昌代は一つ先の橋本駅で降りて会社に通った。
結婚してから次郎は今まで以上に仕事に精を出した。いずれ昌代が懐妊したら会社を辞めさせて家事に専念させるつもりだったから、二人とも勤めている間に出来るだけ節約してお金を貯める必要があると思っていたからだ。昌代も次郎と同じ気持ちで頑張った。
「明後日金曜日、オレの会社のやつを連れてきたいけどいいか?」
「構わないけど何人?」
「十人くらい」
「そんなにぃ?」
「ああ、昌代も知ってる河野とか田辺たちだよ」
「土曜日じゃダメなの?」
「土日はいつも半原だろ。それで金曜日に来てもらうよう約束してしまった」
「何とかするわ。連れていらっしゃいよ」
昌代はそんなに大勢ならもう少し早く言ってもらいたかったが我慢した。次郎が部下を大切にしていることはずっと前から分かっていたしそんな性格に惚れたのも事実だ。だからと言って人の都合も聞かずにいきなりじゃ困ってしまう。
「社長、明日の金曜日ですが、三時頃帰らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「困ったなぁ。その日は森エンジニアリングの森社長と夕方会食を予定しているんだ。鈴木君、いや鷺沼君に変わったんだな、君にも同席してもらいたかったんだ。なんでも森社長は君を気に入っててさぁ。なんか特別の用でもあるのかね」
森エンジニアリングは会社にとって大口の顧客だ。何もなければ社長に同行しなくちゃならない。昌代は困った。
「正直に言います。主人が夕方会社の方々十名ほど連れて来る予定なんです。申し訳ございません」
「十名も呼んだら君も大変だなぁ。鷺沼君の予定じゃ仕方がないか」
結局無理を聞いてもらって昌代は金曜日は三時頃早退することになった。
金曜日、昌代は三時に会社を出ると古淵駅前の大型スーパーで食料品を買い集めて自転車の荷物篭に何とか押し込んで森野の自宅に戻った。戻ってからは戦争みたいだ。一人で十二名分の夕食の準備をした。ビール、日本酒にチューハイは次郎に買って来るように頼んでおいた。小さなご飯鍋では一回では無理で二回炊いた。二人世帯なので大きな鍋はないし、食器の数も揃わない。それで大家さんの家に行って食器を借りてきた。
第五十章 ホームパーティ
ようやく十二名分の夕食の支度が終わった時、玄関から賑やかな声が聞こえてきて河野や山田、田辺などが入って来た。
「お邪魔します」
みな口々に昌代に挨拶をした。
「お久しぶりです」
美寿江だった。
「主人にくっついてあたしも来ちゃった」
美寿江は結婚してから少し太った感じだ。
その日の夕食は賑やかだった。二人の時はいつも床に卓袱台を拡げて食事をしていたが、十名以上じゃ卓袱台ってわけにも行かず、床に大きめのレジャーシートを拡げてその上に料理を並べた。言って見ればピクニックで皆が集まって食事をするような感じだ。ものは考えようでこうして皆がシートの回りに座り込んで歓談している風景はかえって親近感が増して悪いものではなかった。次郎は相変わらず親分風を吹かしていつも会話の中心に居た。ホームパーティが終わると皆引き上げて行ったが山田はすっかり酔っ払って動けず結局その場に布団を延べて寝かせ、明朝帰ってもらうことにした。
「昌代、悪いわね」
美寿江は旦那を置き去りするわけにも行かず、山田の隣で寝ることにした。
「昌代、ごめんなさいね。彼、こんなに酔っ払ったの初めてよ。昌代は直ぐ寝ちゃうの?」
「わたしは後片付けあるから」
「じゃ、あたしも手伝う」
次郎も相当に酒を飲んで珍しく先に寝てしまった。
「久美子ちゃんどうしたの?」
「彼女は母に預けてきた」
美寿江は結婚して山田の子供を産んだ。もう一歳になる女の子だ。
「可愛いでしょ?」
「そりゃ、可愛いわよ」
「山田君、その後どう? 優しくして下さるの?」
「彼、とても優しいよ。あたし次郎さんに片思いしてたけど今なら山田で良かったと言えるよ」
「そう、本当に良かったわね。あなたの顔に幸せいっぱいですって書いてあるわよ」
「女はやっぱ自分を好きだ好きだと言ってくれる男と結ばれるのが一番いいみたいね」
「それでセックスの方は?」
「山田君、すごく強いのよ。一晩に二回もいかされることあるよ。あたしの方がくたくたにされちゃうくらい」
「毎晩?」
「まさか。週二か週三。それ以上したらあたしの方が持たないわよ」
と美寿江は顔を赤くした。
「あたしばかり攻めないで、あなたはどうなの?」
「わたしは大体週一ってとこかな? 平均より多い方かしらね?」
「他人のことは分からないけど、昌代は大体平均くらいじゃないかしら? それで彼の方は上手なの?」
「わたし、そんなこと分からないよ。男は彼しか知らないから」
後片付けは二人でやると早い。片付けが終わると美寿江と二人で色々なことを話しているうちに時計は午前一時半を回っていた。
突然山田が目を覚まして、
「美寿江、ここはどこだ?」
と聞く。
「もう酔っ払いは嫌ねぇ、大変だったのよ。ここは鷺沼さんのお宅よ」
山田は周囲を見渡して、
「やべぇ、先輩の家に泊めてもらったんだ」
「明日の朝までゆっくり眠って下さいな」
と昌代が言うと、
「済みません。オレはドジだなぁ。美寿江申し訳ない」
山田は手を摺り合わせて美寿江を拝んだ。
「山田さん、美寿江に頭が上がんないんだ」
と昌代が笑った。
「美寿江は奥さんになってくれてからも怖いよ」
山田は照れ笑いしている。
「女と男はね、先に好きになった方が弱いのよ。久雄があたしを追い回したから今となっちゃ一生久雄はあたしに頭が上がらないよ」
と美寿江は山田をからかった。
その後次郎は忘れた頃に部下を大勢家に連れて来た。最初昌代は困惑したが自分たちの生活を良く見せようなんて気張らずに最初の時のようにありのままで接すれば疲れないことも分かった。貧乏人は貧乏人らしくなんて言われるがその通りだと思った。
その年の五月の連休はずっと好天が続くだろうと予報が出ていた。次郎は昌代と結婚以来新婚旅行らしきこともせず遠い所に旅行に連れて行ったこともなかったので連休にどこかへ連れて行こうと思っていた。
「昌代、連休だけどどこか行きたい所あるか?」
「別にないわよ。どこかへ連れて行って下さるの?」
「ああ。海外は無理だけど国内で」
「じゃ、わたし京都に行きたいな」
「分かった。じゃ、京都にしよう」
五月三日、次郎と昌代は新横浜から新幹線に乗って京都を目指した。五日まで二泊三日の旅だ。連休は混雑すると思って、次郎は相模原にある旅行代理店で新幹線、ホテル、京都定期観光バスなど全て事前に予約をしておいた。それが良かった。思った通り新幹線もホテルも定期観光バスも全て一週間前から予約で埋まっていた。
昌代はしばらくぶりに新幹線に乗れて小学生のようにわくわくしていた。七時半過ぎに新横浜を出て十時前には京都駅に滑り込んだ。次郎は三日と四日二泊でウェスティン都ホテル京都に予約をしていたから、駅を降りるとホテルのシャトルバスに乗り込んだ。
「素敵なホテルだわね。高いんでしょ?」
ホテルに到着したら昌代は宿泊費を心配している。
「一年で一番混む季節だからさ仕方ないよ。二人で一泊三万円位だよ」
フロントでチェックインを済ますと定期観光バスの案内を聞いた。
「明朝九時丁度に当ホテルのエントランス脇に来ますからお乗り下さい。ご予約はこちらでもできますが」
「予約は取ってあります」
次郎は予約表を見せた。
「それでしたらバスが到着しましたらお乗り下さい」
このホテルはチェックイン後部屋に入れるのは十五時以降なので手荷物をフロントに預けて、次郎はホテルを出るとタクシーに乗らず昌代と二人でぶらぶらと街の方に向かって散歩した。新緑の季節でとても気持ちがいい。ホテルは東山南禅寺の西側で京阪電車の三条駅まで一キロほどだ。
「わたし京都は初めてなの」
「高校の頃も来なかったの?」
「家が貧乏だったからとてもそんな余裕はなかったわよ。真美と啓介はわたしが行かせてあげたわ」
「実はオレも初めてなんだ。話は聞いていたがやっぱこうして見ると歴史がある街だなぁ」
「わたしたち新婚旅行してるのよね」
「オレはそのつもりだけど」
「なんだか新婚旅行だと思うと大切な旅行に思えてくるなぁ」
次郎は昌代に恋人つなぎをしてくれた。昌代はそれだけでも何だかうきうきした。ぶらぶら歩いていると直ぐに三条駅前に着いた。二人は鴨川に沿って四条の方に下った。
「実際の鴨川、思ったより細いわね。相模川よりも細いみたい」
「アハハ、オレも同じこと考えてた」
お昼になった。
「何か食べない? わたし湯葉とか食べたいな」
次郎は最近買え換えたスマホで調べて、祇園四条近くの天の川と言う店に入った。メニーを見て千七百円のランチを頼んだ。六の膳デザートまでのコース料理で高いとは思わなかった。天の川は歴史のある豆腐屋らしく豆腐料理を中心にした京料理で昌代は満足した。
午後は四条河原町界隈を散歩してホテルに戻った。部屋で少し休んでから早めの夕食をホテルのレストランで済ませた。一万円札がどんどん飛んでいく感じがして昌代は気が気じゃなかったが、次郎は一生に一度の旅行だから気にするなよと言って笑った。
その夜次郎はいつものように抱いてくれた。ふかふかの枕に顔を埋めて次郎に抱かれ昌代は燃えた。
次郎は今まで一度だって自分を愛していると言ってくれていない。だが言葉で言われなくてもこうして抱かれていると昌代は次郎に本当に愛されていると感じることができた。
翌朝ホテルのレストランで朝食を済ませてから観光バスを待った。昼食付きのワンデーツアーで定番コースの清水寺・三十三間堂・嵐山散策・金閣寺などが入っている。バスツアーは大きな観光バスで名所を回ってくれ思ったより料金が安く、自分たちのように初めて京都を訪れた者にはとても良いと思った。
翌日はホテルをチェックアウトして観光バスで京都御所、大徳寺本坊から大仙院で精進料理を食べ、泉涌寺仏殿・御座所、青蓮院門跡と回って夕刻京都駅で降ろしてもらいそのまま新幹線で新横浜に帰ってきた。盛り沢山なスケジュールだったが昌代は疲れを忘れて旅を楽しんだ。
夜森野の自宅に戻ると昌代は、
「あなた、ありがとう。とても楽しい旅だったわ」
と京都の街を思い出すかのように次郎に抱きついた。次郎は旅に連れて行って良かったと思った。
会社の社長や同僚にと買ってきたお土産を整理していると、昌代は急に胃がむかついて気分が悪くなった。昌代は旅の疲れが出たのだと思ってその夜は整理を途中で止めて寝床に入った。翌朝になってもむかむか感が取れず、会社の出がけに母に電話をした。電話の向こうで母はしばらく考えているようだったが、
「昌代、もしかして赤ちゃんが出来たのかもしれないわね。今日産婦人科に診てもらいなさい」
と言った。言われてみれば昌代は心当たりがあった。
「お母さん、どうして分かったの?」
「昌代を授かったときわたしもそんな感じだったわよ。今日診てもらいなさいよ」
こんな時は何でも相談できる母親がいてくれて良かったと思った。
第五十一章 妊娠
昌代は会社に少し遅れますと連絡を入れてから、工業団地に近い長谷川レディースクリニックと言う産婦人科を訪ねた。診察を受けると思った通り妊娠していて六週目だと言われた。その日は昼前から会社の仕事をした。社長に旅行の土産を届けがてら妊娠したと報告した。
「そうか、それは良かった。おめでとう」
社長はとても喜んでくれた。普通社員から妊娠したと報告を受ければ仕事への影響を真っ先に考えるものだが、昌代が勤める会社の社長は社員を大切にする人で昌代に仕事の話はまったくしなかった。良く考えてみると仕事に影響が出ると言ってみても、それで配転したり辞めさせたりすることができなければ無意味なことで不用意なプレッシャーをかけるだけに終わってしまう。社長はそのことを分かっていたから敢えて何も言わなかったのかも知れない。
その夜昌代は懐妊したことを次郎に報告した。次郎は昌代が思っていた以上に喜んでくれてまだお腹が出ているわけでもないのに腹に手を当てて元気に生まれて来いよなどと言った。次郎は以前清美からひどい仕打ちを受けた時のことをふと思い出した。もしあの子が無事に生まれ育っていたらと思うと淋しくなった。
「仕事が辛くなったら会社を辞めてくれよ」
「はい」
「兎に角無事に元気な子供を産むことを最優先してくれよ」
「はい」
黙って次郎の子供を堕ろしてしまったことが次郎をひどく傷つけ次郎は磯崎清美のもとを去って今は旧姓鈴木昌代と言う女性と結婚したことを清美は次郎の部下河野と付き合っている平林香麻里から聞かされてショックを受けた。次郎と別れて大分経つが清美の中では次郎のことが忘れられなかった。仕事に疲れて夜遅くマンションに帰って来ると最近無性に次郎が恋しくなりついスマホの上を指が滑るのだ。画面に出た次郎のアドをちょんと指先で叩くだけで次郎の携帯につながるのだが、なかなか勇気が出ない。
その日は午後のレッスンで生徒に絡まれて悪態をつかれ我慢の連続を強いられてマンションに戻った時は身も心も疲れ切っていた。身体は一晩眠れば回復するのだが、心の疲れはそうは行かない。それでつい次郎のアドの上を指先でちょんと叩いてしまった。耳に当てると呼び出し音が鳴っている。清美の心臓はドキドキしてきた。何度か呼び出し音が鳴ったところで相手が出た。
「もしもし」
「もしもしどちら様ですか?」
先方はどちら様かと尋ねている。女性の声だった。次郎が出るものとばかり思っていたのに予想が外れて清美は思わず接続を切ってしまった。
次郎が風呂に入っている時、次郎の携帯が鳴った。昌代は携帯を取り上げて風呂場に持って行くつもりだったが、その日に限って昌代が電話を取った。携帯を耳に当てると、もしもしと女性の甘ったるい声が聞こえてきた。昌代は驚いてどちら様と尋ねたものの次に話をどうつなぐかすっかり動揺してしまった。だが電話は一方的に切れてしまった。
「こんな夜中に誰からだろう?」
次郎が風呂から上がってきたところで昌代は次郎に女性から電話があったと伝えた。次郎は携帯の着信記録を見て、
「ああ、電話は以前話をしたことがあるが昌代の前に少しだけ付き合ってた磯崎清美さんと言う女性からだったよ。昌代と付き合い始めてから一度も電話をしていないのに何だろう?」
次郎は昌代に隠す必要はないから正直に説明した。
「そうだったの? なんだかあなたと話がしたい雰囲気だったわよ」
たった一言もしもしだけだったのに女性の勘は鋭い。次郎はかけ直しをしなかった。
「やはり無視かぁ。次郎さん覚えていらっしゃい」
清美は益々次郎が恋しくなった。それで翌日次郎の会社に電話を入れたが出てもらえなかった。次郎は仕事中マナーモードにしておく習慣でその日も後で清美から着信があったのを確認したが電話をしなかった。清美は平林香麻里に頼んで河野を通して次郎に電話を欲しいと伝えてもらった。
「磯崎さんとは縁がなかったからよぉ、電話をかけてこないでくれと平林さんに伝えてくれと頼んでおいてくれよ」
河野は素直に鷺沼係長の話を平林に磯崎さんに伝えてくれと頼んだ。
逢いたいと思ってもなかなか逢えないとかえって逢いたい気持ちが強くなる。清美の次郎への恋心は日増しに膨らんでいた。ふとしたきっかけで月に一度か二度清美が勤めているクラブのエステの客に馬場寛子と言う東西プレス工業の製造部長夫人が通ってくるのを知った。清美は同僚に頼んで馬場をフィットネスに誘ってもらった。何か次郎を攻略する糸口が掴めないかと清美は必死だった。一人の男にこんなに執着している自分に驚くくらいだ。
「奥様、初めまして。私磯崎と申します。ご年配になられますとどうしても体型が崩れてまいりますが、フィットネスを続けられれば半年もすると鏡をご覧になるのが楽しみになるくらい体型が引き締まって張りが出てまいります」
「本当にそんなに変われるの?」
「はい。半年程度頑張れば必ず良い結果が出ます」
「お若い男性から見て魅力がある身体になれるかしら」
「奥様、もちろんですとも。お気持ちも若返りますわ」
夫人は好色だと言う噂で夫に内緒で時々不倫をしているが最近若い男性に攻められると途中で息切れしてしまって男の身体の動きについていけないことがあるなんてことが清美の耳にも入っていた。
夫人が清美の個人指導でフィットネスを始めてからもう二月も過ぎた。最初の内はきつくてしばしば悲鳴を上げたりひどいときには目に涙を溜めて頑張っていたがその甲斐あって最近は身体が柔らかくなり動きに切れが出てとても良い方向に向かっていた。清美と夫人はすっかり仲良しになり、時々食事に誘われたりする。
「あなたのようなお仕事をなさっていると素敵な男性のお友達、多いんでしょ?」
夫人の質問は意味深だ。清美は夫人が何を考えているのか分かっていた。
「はい。今度ご紹介しましょうか?」
「悪いわね。わたしみたいなお婆ちゃんでも気になさらない方がいいわね」
清美はそれも分かっていた。それで次週金曜日の夜改めて食事を共にし、その時男性を二人連れてきますと約束した。金曜日の夜にしたのは次郎の都合を考えてのことだった。
その夜、清美は次郎に宛てて一通の手紙を書いた。可愛らしい花柄の便せんに、
鷺沼次郎様
長い間ご無沙汰しております。お変わりはありませんか? わたくし清美は次郎様とお別れしてから後悔の毎日です。なぜあの時次郎様にお縋りしてもお引き留めしなかったのか、考えれば考えるほど自分の愚かさにあきれています。風の便りにご結婚なさったと聞いた時は脚の力が抜けて目の前が真っ暗になりその場に倒れ込んでしまいました。次郎様を今でも心からお慕いしておりますが、ご結婚なされた次郎様の立場を考えますと過去に恋人としてわたくしを愛して下さいました思い出を胸の奥にしまい込んでせめてお友達として接して欲しいとお願いするのはご無理でしょうか?
さて、わたくし清美の気持ちとは関係のないお話ですが、最近次郎様が勤めておられます東西プレス工業の製造部長様のご夫人とフィットネスの関係でお親しくお付き合いさせて頂いております。奥様に伺った話では奥様は東西プレス工業会長のご息女だそうで、できれば次郎様をご紹介させて欲しいと思っております。直接的ではありませんが、次郎様のお仕事に将来なんらかの形でプラスになれば清美は嬉しいです。
そんな訳で、この次の金曜日の夜七時に奥様と会食のお約束をしておりますので次郎様に是非ご同席頂きたいと思います。わたくしを避けるお気持ちは理解できますが、奥様とのお食事はわたくしの純粋な気持ちで次郎様とよりを戻そうなんて厚かましいことは考えておりません。どうかわたくしの好意と受け取って頂きご出席下さいますようお願い致します。
日時 二〇××年 六月××日 午後七時~
場所 小田急センチュリー 十階 つつじの茶屋で お待ちしております。
磯崎清美
小田急センチュリーは相模大野駅が近いが相模原から遠くはなかった。清美はこの封書を平林香麻里に託した。
「香麻里、お願い。河野さんに頼んで絶対に鷺沼さんに手渡してもらってよ」
「清美お姉さんの命令だから仕方ないっか」
香麻里はお茶目な仕草で封書を受け取りバッグに大切そうにしまい込んでから清美の顔を見てちょっと舌を出した。
「先輩をからかったら許さないわよっ」
清美はもう一人馬場夫人のお相手役として以前付き合っていた松尾篤志を誘った。松尾は昔清美と付き合っていたが今は別れて飲み友達として続いている。横浜の商社勤めで海外出張が多く、いつも付き合ってる女の子に香水などを土産に買って来るわりとまめだが遊び人で次郎より三つも年上なのに未だに独身だ。清美は馬場夫人の夜の相手をしてくれないかと事前に言い含めていた。松尾は夫人の年を聞いて、
「おいっ、清美、マジかよぉ」
と退いたが夫人は金持ちだし若い男には優しいからと説得した。
当日清美は松尾を伴って少し早めにレストランに入って馬場夫人を待っていた。次郎は来ると約束はしてくれなかったが、清美は来る方に自分の運をかけた。
はたして馬場夫人が到着してテーブルには前菜が並んだが次郎の姿は見えなかった。
「もう一人お誘いしておりますが、まだのようですので始めましょうか?」
店員に飲み物を頼んで食事を始めようとした。その時、
「済みません。遅れまして」
と次郎が店員に案内されてやってきた。
「遅いじゃないっ」
と清美は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「お忙しいところをご無理にお誘いして済みません」
清美はそんなふうに次郎に声をかけると、自分の隣の席に手招きした。つまり馬場夫人の横は松尾で二人ずつ向かい合って座った形になる。馬場夫人の前は次郎だ。次郎は中腰で馬場夫人に挨拶した。
「東西プレス工業の生産技術部におります鷺沼と申します。よろしくお願いします」
「あらぁ、生産技術でしたの。わたしはてっきり主人のところかと思ってましたのよ」
「奥様のことは磯崎さんから概ね伺っております。馬場製造部長の奥様だそうですね」
「そうよ。でも今夜はそんなことをお忘れになってお互いに楽しい夕食会にしましょう」
清美は松尾を夫人と次郎に紹介した。
馬場夫人は沢山面白い話をして松尾も次郎も笑いこけた。楽しい夫人だ。清美はしきりに次郎に優しく接してきたが次郎は無視してもっぱら夫人の相手をした。食事が終わると、
「これから飲み直しにもう一軒いかがかしら?」
と夫人が皆を誘ったが次郎は、
「大変失礼ですが、僕はこれから小用がありますのでこれで失礼させて頂きます」
と清美に会費ではないが二万円札を握らせると席を立った。
「次郎さん、もう帰っちゃうの?」
清美の恨めしそうな顔を尻目に見て次郎はさっさと店を出た。清美は仕方なく夫人と松尾を相手に駅近くのダイニングバーで飲んだ。そこそこ飲んだところで、
「奥様お楽しみの最中にすみません。わたしちょっと用を思い出しまして、お先に失礼します。松尾さん、奥様をよろしくね」
清美は松尾に目で合図して店を出て相模原のマンションに戻った。部屋に入るとどっと疲れが出た。トートバッグをベッドに投げつけるとそのままベッドに倒れ込んだが次郎に肩すかしされたのが悔しくてなかなか眠れなかった。
第五十二章 再び
馬場夫人は清美に松尾とのことを言わなかった。清美は松尾からバーの続きのことを聞いていたが黙っていた。男女の関わりに首を突っ込むと後がややこしくなる場合が多いことを清美は経験していたからだ。馬場夫人は松尾のことには触れず鷺沼のことに強い興味を示したので清美は穏やかでなかった。夫人に鷺沼を取られてしまったら自分が苦労して進めた計画が台無しになってしまう。
「もう一度鷺沼さんをお誘いして三人でお食事でもいかが?」
「実は彼は忙しい人で誘ってもなかなか応じてくれないんですよ」
清美は逃げた。だが夫人はどうやら鷺沼にご執心の様子だ。
「いいわ。主人に話をして一度拙宅にご招待しましょう。主人からのお誘いなら彼も断らないでしょ?」
清美は不安になった。鷺沼に自分との過去の関係をバラされたらもっと困る。清美は先日鷺沼を夫人に引き合わせたことを後悔した。危険なおばさんだってことを見落としていた。
「寛子がうちの社員に関心を持つなんて珍しいね。何かあったのか?」
「いえね、先日フィットネスのトレーナーが連れて来た子ですけど、会ってみるととてもいい青年なのよ。なんでも会社の生産技術部にいるそうよ」
夫人は旦那に鷺沼のことを話した。旦那の馬場は妻の意図を知らずに、
「分かったよ。会社で一度会ってみよう」
「わたしはね、条件が合えば朱美にどうかと思って」
夫人には娘が二人いた。長女の寛美は既に恋人が居て将来結婚したら彼と一緒にニューヨークで暮らしたいなどと言っている。息子は居ないから次女の朱美が結婚したら婿養子にして同居してもらいたいと思っていた。
数日後馬場部長は生産技術部長に鷺沼のことを聞いた。
「ああ、鷺沼係長のことですな。彼はなかなか優秀ですよ。特に部下の統率力がずば抜けて優秀で将来幹部に抜擢してもいいと思っているくらいですよ。馬場さん、そっちが引っこ抜いたら承知しませんよ」
生産技術部長は釘を刺した。なんたって馬場は会長と姻戚関係で下手をすると会長を動かして持ってかれてしまうから警戒した。
「引っこ抜かない条件は呑みましょう。呼んでもらえませんか?」
生産技術部長は渋々課長に電話を入れて鷺沼君と一緒に部長室に来いと指示した。
間もなく課長と一緒に鷺沼がやってきた。
「鷺沼です。何かご用でしょうか?」
「ご挨拶だな。用がなけりゃ呼ぶなってことかね」
「いえ、そう言う意味ではありませんが忙しいもので」
突然の馬場部長の言い方に次郎は戸惑った。馬場は生産技術部長と課長に席を外してくれと目で合図した。生産技術部長は馬場が何を話すのか気がかりだったが課長と共に退出した。
「実は家内が君を一度家に招待したいと言っとるのだよ。家内とは先日会ったそうだね」
「はい。夕食に呼ばれまして」
「そうか、じゃ初対面じゃないんだな」
「はい」
「ではこうしよう。家内から君に直接連絡させるから拙宅に来なさい」
「分かりました」
「用件は以上だ。ところで、会社の仕事はどうかね?」
「仕事は計画通り進捗しており問題はありません。製造部の方々に大変ご協力を頂き感謝しております」
「そうか。製造部で何か問題があれば遠慮なく僕に直接報告してくれ」
「分かりました。万一の場合はそうさせて頂きます。では仕事がありますのでこれで失礼させて頂きます」
次郎は馬場に深々と頭を下げて出て行った。次郎が出てくると待ち構えていたかのように課長に捕まえられた。
「何の話しだった?」
「個人的な話しでした」
「鷺沼、それじゃ困るんだよ。話の内容を教えてくれないか」
次郎は課長がピリピリしているのが分かったので正直に話の内容を説明した。
「へぇーっ? 君は隅に置けないなぁ」
次郎は課長の言葉の裏側に警戒心とやっかみがあることは分かっていたが気にしても仕方がないと次郎は割り切った。
その後馬場夫人から会社に電話があって、次郎は馬場家に招待された。理由はお世話になったので手料理だがご馳走したいと言う。次郎は馬場と一度飯を食っただけでお世話になったなどとは大げさでいい加減な言い種だと思ったが、部長から話があったことだし素直に応じた。
馬場の家は小田急沿線の成城学園にあった。行って見ると大きな邸宅だったので驚いた。東西プレス工業の部長宅にしては贅沢過ぎる佇まいだった。チャイムの押しボタンを押すと、
「どうぞ。お待ちしてました」
と若い女性の声がして門が解錠された。次郎は門を通って玄関に近付くと先ほど返事をした女性だろうか二十代前半と思われる女の子が玄関から出て来た。人懐っこい感じでちょっと可愛らしい。
リビングに通されると既に食事の支度が調っていた。
「いらっしゃい。待ってたわよ」
馬場夫人はにっこり笑うと隣の女の子に目を移した。
「こちら次女の朱美です。よろしく」
朱美はちょこんと頭を下げてから次郎の顔を見るとちょっと舌を出し夫人の後ろに隠れるように後じさった。まるで小中学生の女の子みたいだ。
「朱美、恥ずかしがっちゃだめですよ。この方はねお母さんのお気に入りの方なのよ。鷺沼さんわたしの手料理、美味しくないかも知れませんがどうぞご遠慮なく召し上がって下さいな。主人は今夜は遅くなるようなので先に頂きましょう」
食事はとても美味しかった。夫人と娘と三人だけでなんだか居心地が悪かったが折角ご馳走をしてくれたのだからと沢山食べた。夫人は次郎の年齢、親兄弟のことや趣味などを質問したが結婚しているのかは聞かなかったから次郎は何も言わなかった。
「この子は銀座の××堂にお勤めしてますの。今日はあなたがいらっしゃるので私のお手伝いのため早めに帰って参りましたのよ」
「どちらの学校を出られたんですか?」
「青山の英文科ですの」
次郎が招待の礼を言って去ろうとすると、
「今度ご都合のよろしい時にこの子をデートに誘って下さいな。それと私ともたまにはお食事に付き合って下さいね」
と夫人が囁いた。次郎は驚いたが、
「機会がありましたら」
と遠慮がちに答えた。
次郎が清美からの直接の電話やメールを無視するのでいつの間にか次郎への連絡は香麻里~河野~次郎の経路が定着してしまった。
「先輩、また磯崎さんからです」
「面倒なら平林さんに磯崎のメッセンジャーを断ってくれと言ってくれよ」
「先輩、そんなことできっこないですよ。香麻里は磯崎さんに嫌われたら困るみたいですから」
次郎は清美の執拗な誘いにうんざりした。自分の子供を堕ろしてしまったような女とは口もききたくなかったのだ。
清美からの手紙には、
また馬場夫人に誘われています。今度は是非次郎さんを連れてきて欲しいと言われてまして、絶対に来て下さい。
そんな内容だった。次郎は気が進まなかったが先日自宅に招待された手前行かざるを得ないと腹を括った。
「今夜製造部長の奥さんに呼ばれてさ、気が進まないけど晩飯に付き合うことになった。なので今夜の夕食は要らないな」
「奥様に呼ばれるなんてちょっと変ね。部長さんに呼ばれたなら納得できるけど。奥様ってお若い方?」
「普通の主婦だよ。四十半ばくらいかな?」
「綺麗な方?」
「ん。そこそこ綺麗だよ」
昌代は次郎が先日部長宅に招待されたことを聞いていたが女の勘と言うか何となく違和感を覚えた。
「分かったわ。じゃ今夜は遅くなるのね」
次郎は少し膨らみ始めた昌代のお腹を撫でて、
「行ってくるよ」
と会社に向かった。
馬場夫人に招かれた場所は横浜スカイビルの最上階にあるローストビーフ専門で有名な鎌倉山と言うレストランだ。清美からの連絡で午後八時の待ち合わせとなっていた。次郎は地理には疎いがスカイビルは知っていた。会社を定時に退けると電車で横浜駅まで行って、高島屋と反対側のそごう側に降りて地下道を歩いた。スカイビルは地下道に直結している。七時半を回っていたが約束時間には少し余裕がある。店に入ると予約席に案内された。思ったより広くゆったりしていて静かなレストランだった。こんな高級レストランには次郎の少ない小遣いではとても入れない。次郎は財布の中身が気になった。
しばらくすると、清美と馬場夫人が店員に案内されてテーブルに近付いてきた。
「お待たせしたかしら?」
「いえ、さっき着いたばかりです」
馬場夫人は席に座ると次郎の懐を見透かすように、
「今夜は全部私のおごりよ。お値段を気になさらないでゆっくり美味しいお肉を頂きましょう」
と次郎の顔を見て微笑んだ。清美は夫人にご馳走になるのが当然のような顔をしてメニューを見ている。
「わたし、コースⅡにしようかしら」
「磯崎さん、今夜はご遠慮はなしよ。コースⅢでどうかしら?」
夫人は全員コースⅢにすると店員に注文した。他にワインを頼んだ。
「美味しいお肉を頂ける幸せに乾杯」
夫人の合図で乾杯を済ますとオードブルを楽しみながら談笑した。
「そう? 鷺沼さんはご結婚なさってたのね」
夫人は次郎が既婚だと聞いて朱美の婿にと考えていたことがダメになり内心がっかりしたが、この男と遊ぶにはかえって良いかと考え直した。相変わらず夫人は話題が豊富で次郎はもっぱら聞き役をした。伊勢海老のブイヤベースに続いてメインのローストビーフを食べ終わった時には夫人はすっかり酔いが回っている様子だ。
急に夫人の口数が少なくなったと思っていると、
「あら、困ったわね。わたくし何だか酔ってしまったわ」
と夫人は呟き冷や汗をかいている。次郎は、
「奥様大丈夫ですか?」
と夫人の顔を伺った。デザートを途中で止めて夫人は立ち上がり、
「お化粧室へ」
と言った。清美が立ち上がり夫人に手を貸して化粧室に向かった。次郎は少し不安になった。なんたって会社の製造部長夫人で会長の息女だ。万一のことがあればただじゃ済まない。間もなく夫人と清美が化粧室の方から出て来た。
「次郎さん、お支払いは奥様からカードをお預かりしましたからわたしがレジを済ませてきます。奥様をよろしく」
「これから成城まで帰られて大丈夫ですか」
と聞くと夫人は、
「全然大丈夫じゃないわ。鷺沼さん近くのホテルにお部屋をとって少し休ませて下さらない?」
「分かりました」
清美が来たところで、次郎はスカイビルから数十メートル先の横浜プラザホテルに電話をして少し広めのシングルルームを予約した。歩いて行けなくもないが、タクシーを呼んで夫人を押し込んだ。
「あとをよろしく」
どうやら清美は一緒に来ないらしい。
「すまんが一緒に来てくれないか」
清美はしぶしぶタクシーに乗った。直ぐにホテルに着くとチェックを済ませ部屋まで夫人を連れて行った。清美は一階のロビーから一緒に来てくれなかった。
部屋に入るとベッドの毛布をはがして次郎は夫人を抱き上げるとベッドに寝かせた。靴を脱がせて毛布をかけてやると、突然夫人が次郎の首に腕を巻き付けて次郎は唇を吸われてしまった。ほんのりとしたフレグランスの良い香りが次郎の鼻孔を刺激した。一瞬の出来事に次郎は戸惑った。
「鷺沼さん、行かないで。今夜はずっとここに居て下さいな」
次郎は困った。ホテルの一室で男女が二人きりで一夜を過ごしたら後で夫人から淫らな行為があったと言われてしまえばどんな言い訳も通らなくなってしまう。咄嗟に次郎は清美に電話でSOSを発した。
「ダメよ。次郎さんが責任を取りなさいよ」
「清美、すまん。助けてくれよ」
問答の末、清美が部屋にやってきた。清美は備え付けのメモ用紙に一筆残すと、次郎を促してそっと部屋を出た。
「次郎さん、助けてあげたお礼に今夜はわたしに付き合いなさいよ」
「ダメだ。オレは帰るよ」
「今夜は帰れなくなったって可愛い奥様に電話をしなさいよ」
清美は後には退かない様子だ。
第五十三章 過ち
昌代と付き合う前まで肌を重ね合った恋人だった清美に迫られて、次郎は抗いきれなかった。仕方なく、
「一時間か二時間だけなら付き合うよ」
と言ってしまった。言ってしまってから次郎は後悔した。本当の気持ちは一分たりとも一緒に居たくなかったのだ。
「相模原のあたしのマンションでお茶でも飲んで帰ってよ」
次郎は多分お茶だけじゃ済まないと思った。だが約束した以上行くしかない。夜の電車は思ったより空いていた。横浜線に乗ると、清美は次郎の横にぴったり寄り添いやがて転た寝を始めた。
「相模原だよ」
「えっ、もう着いたの?」
「ああ」
駅を降りても清美は次郎を離さない。
「オレ電車がなくなるから帰るよ」
「ダメよぉっ、タクシー代あたしが持つから」
結局清美のマンションに連れ込まれてしまった。清美は手際よく紅茶を淹れて出してくれた。
「酔い醒まし」
「オレ、もう酔ってないよ」
「意地悪。素直に飲みなさいよ」
次郎が紅茶をすすっている間に清美はシャワーを使った。風呂場から清美が出て来た時、次郎は異変に気付いた。清美の姿がボケて見えて次第に強烈な睡魔に襲われふらふらとベッドに近付き倒れ込んだ。
「ふふふっ、思ったより効いたみたいだわ。今夜は次郎はあたしのものよ」
夜中の三時過ぎ、次郎ははっと目覚めた。隣に清美が寝ている。
「しまった。清美のやつ睡眠薬を飲ませたな」
次郎がベッドから降りようとすると、清美に抱きつかれた。
「いやっ、今夜はあたしと寝て」
「ダメだ。オレはまだあんたを許してないからな」
清美は泣きだした。
「あたし、後悔して反省したから」
「オレの子供を殺しておいてよくそんなことが言えるな」
「次郎さんごめんなさい。許して。あたし次郎さんの子供を二人でも三人でも産むから」
「ウソつけ。本心はセックスしたいだけだろ? 第一もう遅いよ。オレは結婚してるんだ」
清美は次郎に抱きついて離れない。次郎は乱暴する気がなかったが、どうやら清美に読まれているらしい。結局セックスは絶対にしない約束で清美を抱きしめて寝てやるはめになってしまった。
早朝次郎はマンションを出て始発電車に乗って森野の自宅に向かった。頭の中は昌代にどう言い訳をするかそればかりが回り回っているが良い言い訳が思いつかない。昌代は身重だ。そんな時に余計な心配はかけたくなかったが、正直に打ち明けることにした。一度ウソをつくとウソを隠すためにまたウソを重ねる。次郎はそんなことをすれば一番大切な昌代の信頼を失うだろう。
「ただいま。こんな時間ですまん」
「どこにお泊まりになったの?」
「磯崎と言う以前付き合ったことがある女性の所」
「この前携帯に電話が来た方?」
「そうだよ。でもさ、誓ってやましいことはしてないよ」
「本当に? 信じてもいいのよね」
「ん。ウソは嫌だからさ、正直に話をしている」
「分かったわ。その方たしか相模原でしたわね」
「ん。駅まで送って、上りの電車に乗ろうとしたんだけどづうしても離してくれなくて」
「そんなで何もなかったの?」
「こんな話は昌代がオレを信じてくれるか信じないかそれっかないよね。オレは昌代に信じてもらいたい。もう一度言うけどやましいことは何もしなかった。彼女はオレとセックスしたそうだったけどオレは昌代がいるからそんなことはしたくなかった。その代わりに抱きしめて寝るだけにした」
「わたし以外の女性を抱きしめて寝ておいてやましいことはないなんて可笑しくない?」
「厳密に言えば可笑しいさ。でも心は昌代の所から絶対に離れてないよ」
「変なの。でも今回は許してあげる。朝ご飯はまだでしょ? 出勤の時間まで少しあるからゆっくり朝食を済ませて出かけて下さいね」
朝食を済ますと昌代と揃って自転車で家を出た。妊娠しているから自転車はどうかと思ったが婦人科の医者は充分注意して乗るなら良いと言った。
いつものように次郎は相模原、昌代は橋本だ。
昼休みに馬場夫人から次郎の携帯に電話が入った。次郎は緊張した。
「磯崎さんのメモ、見たわよ。わたしすっかり酔ってしまって、何か失礼なことしましたでしょ」
「いいえ。直ぐに休まれたのでそっと抜け出して自宅に戻りました。美味しい料理をご馳走様でした。あんな高級な所には僕はとても行けませんので貴重な体験をさせて頂きありがとうございました」
「そう? そんなに感謝されたらまたお誘いしなくちゃね」
次郎はこれ以上夫人と話をしたくなかった。それで、
「失礼ですが、勤務中ですので」
と言って電話を切った。
馬場は昨夜ホテルで次郎の唇を吸ったのを覚えていたが次郎はそのことに一切触れなかったから馬場も何も言わなかった。
馬場には時々身体を重ねるセフレがいた。製鉄会社の本社に勤めている芝山太郎と言う男で先日会った鷺沼より少し年上のはずだ。長女の寛美が学生の頃クラスメイトに芝山真由美と言う女の子が居た。真由美が家に遊びに来た時帰りが遅くなって兄の太郎に電話をしたらしい。それで太郎が車で迎えに来た。母親の寛子は太郎に上がって茶でも飲んで行ってくれと強く勧め、それが縁で太郎と言う男を知った。太郎の勤め先は丸の内だと聞いていた。男っぷりがなかなか良い青年だったので、寛子が銀座に出たついでに会社に電話をして夜呼び出し夕食をご馳走した。何度かそんなことをしている内に寛子が誘い彼とホテルで一夜を過ごした。思った通り芝山は愛撫が上手でそれ以後寛子は芝山を手放せなくなっていた。だが最近どうしたことか芝山は以前のような情熱が薄れ面白くなくなってきた。そんな時鷺沼と言う青年に出会い、寛子はそろそろ別の男に乗り換えようと思っていたのだ。
だが鷺沼は芝山と違って誘っても乗ってこない。あのホテルでの出来事の後も何度か誘いをかけてみたが毎回するりと抜け出されて上手く行かない。仕方なく寛子は鷺沼を諦めた。磯崎が紹介してくれた松尾と言う青年は女との交わりに慣れていて新鮮みがなく面白くないので一回きりで諦めた。だから不満は残るが今でもたまに芝山とセックスを続けている。
次郎はその後何度か清美を通して馬場夫人に誘われたが会ってもお茶くらいにして決して夕食を共にすることはなかった。最初で懲りたので清美とも馬場夫人とも距離を置いて仕方なくお相手をする程度に留めた。
懐妊してから四ヶ月ほど過ぎて昌代のつわりは収まり良く食べるようになった。医師には初産なので流産しないように充分気を付けろと注意を受けていたが会社勤めは続けても良いとお許しをもらっていた。最近ではお腹が大きくなり不格好だが勤め先は小さな会社で工員とも仲が良かったので誰も陰口をきく者はいなかった。社長は、
「生まれてくる少し前までは仕事を続けてくれよ。あんたみたいな出来る子は代わりがおらんで」
と出産まで仕事を続けて欲しいとしばしば念を押した。
早いもので臨月になった。休日見ていると、昌代は日常の動作もつらそうだ。
「そろそろだな」
「はい。この頃しょっちゅうお腹を蹴るのよ。男の子みたい」
「医者はどっちだと教えてくれたんだろ?」
「それがはっきり言ってくれないのよ。多分女の子だろうなんて曖昧なお返事で」
「オレはどっちでも歓迎だよ。五体満足に生まれてくれればいいよ」
第五十四章 出産
出産の予定日が近付くに連れて昌代の顔が冴えない。
「昌代、体調悪いのか?」
「……」
「黙ってちゃ分からないじゃないか」
「あたし、怖いの」
「お友達がね、死ぬかと思うほど痛かったって」
「何が?」
「陣痛」
次郎はどう答えていいのか分からない。陣痛は痛いと聞いてはいるが男には分からないことだ。困って義母の千代に電話した。
「昌代が陣痛が怖くて悩んでるみたいなんですが」
「オホホ、男性にはこればかりは分からないわね。あたしは安産の体質でね、昌代を産んだ時を思い出すと他の方より軽かったみたいだわ。大丈夫、昌代もわたしに似た体質だから安産だわよ。次郎さんの心配、分かったわ。明日の夜からそちらにお泊まりで行くから昌代に伝えておいて下さいな」
次郎は義母がいて良かったと思った。世の中には早くに母親を亡くしてしまった女性が少なくない。彼女たちは初産の時どんな心境だったのだろうと思うとこんな時、母親が健在な女性は恵まれていると思った。予定日が近付いて昌代は産休をもらって一日中一人で家に居るから余計色々考えてしまうのだろう。会社に出ている間は仕事に気を取られてそんなことを考えている余裕がなかったのかも知れない。
翌日次郎が帰宅すると義母がにこにこした顔を出した。
「お帰り。早かったわね」
「ん。ここのとこなるべく早く帰宅するようにしてます」
「優しい旦那で良かったわ。昌代は幸せよ」
昌代の顔を見ると今夜は明るい。きっと義母が適切にアドバイスをしてくれたのだろう。
その夜から義母は次郎の家に泊まってくれた。万一自分が会社に出ている時に産気づいたらどうしようなどと考えていたがもう安心だ。最近は親と同居をしない者が増えているが可能ならどちらかの親と同居するのが良いと次郎は常々思っていた。家族が増えれば家が狭く遠慮し合って生きていかなければならないが、同居家族が多いことの不便と夫婦と子供たちだけの生活の不便を天秤にかけてみれば恐らく親と同居している方が良いに決まっていると思っていた。テレビなどの報道では年をとって子供の世話になりたくない等と言う年寄りが増えているそうだが、次郎はそれは間違っていると思っていた。親が高齢になり身体が不自由になると、介護が大変だと言って老人ホームに入れたり、介護会社のデイケアを頼んだりするのが世の中の普通になってきた。けれど自分たちを産んで育ててくれた親をそんな風に他人任せにしてもいいものかとも思う。認知症の親をかかえている者から聞かされた話だが、昼間家族が不在の時にしばしば親が独りで外に出て迷子になり役所や警察のお世話になることが増えて参っているそうだ。でも何かが間違っていると次郎は思うのだ。何が間違っているのか今はちゃんと説明できない。だがお爺ちゃんたちが生きていた昔は今のように老人ホームやデイケアサービスなんてものはなかった。それなのにそれぞれが何とか乗り越えていたではないか。
「あなたを考えごとしていらしたの?」
突然昌代に声をかけられて次郎ははっとした。
「お茶をどうぞ。良かったら母とご一緒なさったら?」
「そうだな。そっちに行くよ」
義母はテレビのバラエティー番組を見てケラケラと笑っていた。
昌代は工業団地の会社に近い長谷川レディースクリニックで最初診察を受けたが、その後森野の家から近い柴山医院に通っていた。
「お母さん、何かあったらわたしが通っている病院はここよ。覚えておいて」
昌代は柴山医院の住所、電話番号、略図とタクシー会社の電話番号を書いたメモを母に渡した。母は忘れるといけないからと柱にセロテープでメモ用紙を貼り付けた。
夕方珍しく妹の真美と弟の啓介がやってきた。
「何だか半原から引っ越して来たみたいだわよ」
狭い家に三人も増えて賑やかになった。
「今夜は僕らも兄貴のとこに泊まってくから」
啓介は明日予定があって早く家を出るから森野に泊まった方が都合が良いらしい。次郎が戻ると家族五人で夕食となった。真美は大学を昨春卒業して四月から会社勤めだ。それから数ヶ月、最近は会社勤めに慣れてきたらしい。啓介は医学部なのであと一年間は大学で卒業後も大学病院に残るつもりらしい。その夜は兄弟揃ったところで学校のことや友達のことなどが話題になった。
小さな部屋に千代と昌代と真美が押し合って寝た。次郎と啓介は居間に布団を敷いて二人で寝た。家は小さいがこうして皆が集まると温かい。
次郎が会社に出ている時義母から電話が来た。
「生まれたわよ。女の子。あなたが出勤されてから急に様子がおかしくなって、柴山医院に入院させたの。そうしたら直ぐに生まれちゃって」
「昌代も元気なんでしょ?」
「もちろんよ。言ったでしょ、あの子は安産の体質だって」
「はい」
「普通の方より楽だったみたいよ」
「済みません。夕方病院に行きます」
こうして次郎の長女が誕生した。次郎は昌代が大好きなイチゴを買って会社の帰りに柴山医院に寄った。母子ともに元気で安心した。昌代は眠っていたが次郎がやってきた話し声を聞いて目を覚ました。
「頑張ったね。ありがとう。身体の方は大丈夫か」
「はい。お医者様も安産でとても良かったですって」
「昌代に似て可愛い女の子に育って欲しいね」
「あら、女の子は父親に似るんですってよ」
昌代は思った以上に元気そうだった。
昌代が退院して落ち着いたところで次郎は義母とも相談して長女を菜未と名付けた。未は未来を連想するが、次郎が調べたところ未の元々の意味は木の枝が幾本も出て茂っている様子を表しているそうで、菜の花のように明るく清楚で子宝に恵まれますようにと願いを込めてこの名前に決めた。
名前が決まったところで、次郎は役所に行って出生届を出した。
「母さん、孫が出来たよ」
「えっ、もう生まれたの」
「ああ、名前は菜未、菜の花の菜に未来の未。女の子だよ」
「そう。今度の日曜日そっちに行くわよ」
次郎は実家の母、百合子に菜未の誕生を伝えた。
日曜日、親父の健司が百合子と兄の太郎、兄嫁の佳織と四人で小美玉からやってきた。
「可愛らしいわね」
佳織は我が子のような顔で菜未を抱き上げた。佳織は結婚して三年を過ぎているがまだ子供が出来ないので、百合子にとっては初孫だ。
外で車の音がして義父の世之介と義母の千代も半原からやってきた。妹の真美も一緒にくっついてきた。菜未は生まれたばかりでまだ外出は無理だ。それで次郎の家で夕食を皆で食べることになった。昌代は無理して起きてきたが母と義母にダメだと言われて義母と佳織が夕食の支度をした。
相変わらず狭苦しい家だが、皆で集まって談笑した。その様子を見て昌代は次郎と結婚して菜未が生まれてとても幸せだと思った。
第五十五章 次郎の気持ち
昌代は出産前に病院で出産にかかる費用を調べていた。会社勤めをして健康保険に加入していたから、保険から出産育児一時金三十九万円が支払われ(二〇一五年以降は四十二万円)、万一手術が必要になった時は健康保険が適用されるが三割は自己負担になる。入院前に検診費用などを病院に支払ってきたが毎月の給料の中から余裕で支払いができた。
入院費は柴山医院で聞いたところ、普通の出産なら出産育児一時金の範囲で賄える場合が多いと教えてくれた。人により個室を使ったり贅沢な病院食を希望したりするそうだが、昌代は出来るだけ贅沢をしない条件で教えてもらった。
「出産育児一時金の受け取りは直接支払制度をご利用なさった方が精算が楽ですよ」
応対してくれた看護士はそう説明してくれた。
「直接支払制度ですと病院側で手続きをして下さるのですか?」
「はい。あなたの方で申請書に当医院をご指定下されば一時金をお役所から直接病院が受け取り差額だけあなたに請求させて頂くことになります」
産休中は会社から給料がもらえない。だが調べてみると今受け取っている給料の標準報酬日額の2/3が健康保険からもらえることも分かった。
結果論になるが、昌代は贅沢をせずお産が軽かったので病院には出産費用を何も支払わずに済んだ。何も知らない時、友達から百万円くらいかかったと聞いていたから最初はそれくらいの出費を覚悟していたが貯金を減らさずに済んでほっとした。
ようやく落ち着いた夜次郎がひそひそ声で、
「ちょっといいかな?」
と真面目な顔で昌代に聞いた。次郎は義母の様子を窺って眠っているのを確かめた。
「なによ、改まって」
「これから先勤めをどうするんだ?」
「菜未をお母さんに見てもらって今まで通り続けるつもりよ」
「それでいいのか?」
「どう言うこと? 乳児保育ってかゼロ歳児保育をしてくれる所に預けろって言う意味?」
「そうじゃなくてさ、会社、辞められないのか?」
「わたしのお給料が〇になってもあなたのお給料で遣り繰りできますけど、社長さんがどうしても辞めないでくれって言うのよ。今までお世話になったし、突然辞められないわ」
「社長の気持ちに関係なく昌代はずっと仕事を続けたいのか?」
狭い家の中だ。次郎と昌代の会話を義母の千代は寝ているふりをして黙って聞いていた。
「わたしは拘りはないわ。次郎さんがそうしろっておっしゃるならそうします」
「オレは子育てに拘りたいんだ。今は乳児保育園や保育園に子供を預けて仕事に出る女性が普通だよな。でもさ、自分の子供を小さい頃から他人の手で育ててもらってもいいのかなぁと疑問を持っているんだ。やはり自分たちの子供は幼稚園までは一日中と言ったらオーバーだけどさ、殆ど一日中母親の胸に抱かれて過ごすのが子供にとってとても大切だと思ってるんだ。目には見えないけど、三つ子の魂百までって昔から言われてる通り四歳から五歳くらいまでの間に性格が作られて行くんじゃないかと思うんだ。オレは生活のために仕事を辞められないけどオレの代わりに昌代にそうして欲しいんだ。お義母さんに全部預けないで昌代が足りない部分と言うかどうしても見てて欲しい時だけ預かってもらうようにしてもらいたいんだ。言っとくけどお義母さんと同居するのはありがたいよ。子供が育つ時にさ、いつもお爺ちゃんやお婆ちゃんと一緒が当たり前って言うのも子供に家族のありがたさを教えるのにすごくいいと思うんだ」
「あなたの言いたいことは分かったわ。明日社長さんと相談して会社を辞めるわ」
「オレの気持ちを押しつけて悪いな」
「家計の遣り繰りは任せといて。あなたのお給料でやっていけるようにわたし頑張るから」
「ありがとう。もう寝ようよ」
翌日昌代は社長に辞めたいと申し出た。
「鷺沼君の考え方にはわしも賛成だな。最近わしらと家族に対する常識が違っとる若者が多いが、これは幼児の頃母親や家族と関係がない赤の他人に育てられる時間が長いちゅうことだ。これでは我が子が親が知らない他人の性格に染まってしまうと言う、考えてみれば怖ろしいことが起こっておるんだな。若い母親の中には金さえ支払えばいいやと自分の都合を優先してベビーシッターとか言うお手伝いさんに留守中乳飲み子を任せるが、子供からすればちよくちょく継母に育てられるのと同じだな。同じシッターさんなら少しはましだがね、とっかえひっかえ違う人に預けていたら、まるで離婚結婚を繰り返して何人もの継母に育てられたなんてことと同じことが起こっとるんだ。そんなことを感じない母親にも問題があるとわしは思っとるんだ。最近家族の絆が薄れて来とると言われるが人の性格形成で一番大切な期間を実の父母はもちろん兄弟姉妹、お爺ちゃんお婆ちゃん、おじさんおばさんと過ごすことが少なくて保母さん、保育士さんみたいな赤の他人と過ごしている時間が長いことが原因じゃないかとわしは思うとるのだよ。しかもだな、家族全員はもちろんご近所の方々が協力して年寄りの面倒を見るべきところを今まで会ったこともない赤の他人の介護士さんに年取った親の面倒を任せてしまってるから子供たちはそれが当たり前だと思って成長するんだな。これも社会にとっちゃ怖いことだよ。人は年を取るとだな家族やご近所の方々との思い出を大事にして生きて行きたいと思うものだが、老人ホームなんかに入れちゃえば家族と疎遠になるばかりかお年寄りの心が年中寒いんじゃないかと思うんだ。わしがそろそろ年寄りの仲間入りするから言うわけじゃないが、お役人さんや代議士先生の頭が可笑しくなっとるんじゃないかと勘ぐりたくなるねぇ。鷺沼さんは会社にとって大切な人だがね、わしは会社より鷺沼君の子育てに取り組むお気持ちを優先してだな、あんたの退社を許したる」
昌代は社長の話を聞いて改めて夫の考え方を理解できたが何か胸にこみ上げてくるものがあっていつの間にか涙が出た。
「社長さん、ありがとうございます。わたし頑張ります」
「そうだ。子供をちゃんと育てることよりも大事なことは世の中にそう沢山はないからな、頑張りなさい」
社長はあたかも昌代が自分の愛娘かのように昌代の頭を撫で、油まみれのごつい腕で昌代を抱きしめた。そこに社長の奥さんが入って来て、
「あなたっ、女子社員になにしてるのよぉっ」
と叫んだ。社長はびっくりして昌代から離れたが、昌代は泣きはらした目で社長の奥さんにいましがた社長から話してもらった話の内容や自分は子育てのために辞めざるを得なくなったが今まで大切にしてもらったご恩は忘れませんと説明した。
「そうだったの? うちの助平オヤジがあんたに手を出したかと思ってさ、あたしはビックリしたわよ。脅かしてごめんなさいね。そう言うことならあたしも応援してあげるわ。困ったことがあったら遠慮せずに訪ねていらっしゃいよ」
こうして昌代は通い慣れた会社を円満退職した。社長は特別だと言って退職金五十万円を払ってくれた。
翌日から昌代は菜未の首が据わるまでは家事の間に菜未を抱いた。昌代はその時赤ん坊の首すわりをどう見るのか分からなかった。
「お母さん、菜未の首すわりだけど、二月くらいですわってくるのかしら」
昌代は母の千代に聞いた。あれからずっと千代が同居してくれているので昌代は何かと心強かった。
「ばかねぇ、早い子でも三ヶ月はかかるわよ。ほら、こうして菜未の目の前で物を動かすと目で追うでしょ」
千代は昌代にやってみせた。
「目が追うようになったわね」
「今は目で追うだけでしょ。その内にだんだん物の方に目だけでなくて首も回すようになるのよ。それが出来るようになるとね、今度は自分の力で少し頭を持ち上げることができるようになりますよ。そうなったら菜未の両手を持って起こして見るの。そっとやるのよ。その時首も頭も身体に合わせて動くようになりますよ。これが出来るようになったら抱いて菜未の身体を傾けて見るのよ。菜未の頭がだらんとしないでしっかり首で支えられているようになったら首が据わったなって判断するのよ。もう二、三ヶ月、そうねぇ、生まれて四ヶ月か五ヶ月目には今説明したような状態になるわよ。それまでは無理させちゃダメよ」
「そうなんだ。なんだか壊れ物に触るみたい」
そう言って親子で笑った。
第五十六章 柴山太郎と馬場夫人
「もしもし、馬場様の奥様はいらっしやいますか?」
「わたくしですが、そちらはどなた?」
「申し遅れましたが柴山です。ご無沙汰してます」
「あらぁ、太郎君から電話を寄越すなんて珍しいわね」
太郎は付き合ってた垂井萠と彼女の友達の丘淑恵と三角関係になってしまって、妹の真由美が予想した通りあっと言う間に恋人を二人共なくしてしまった。そうなると心の中にぽっかりと穴ができてしばらくすると人肌が恋しくなった。馬場夫人とはセフレの関係が続いていたが萌と淑恵に付き合っていた頃は気持ち的に余裕がなく馬場夫人に逢っても今ひとつ気が乗らなかったためここのとこ疎遠になっていた。馬場夫人は四十半ばで太郎とは一回り以上も年の差があったが、エステやフィットネスでケアしている寛子の身体は若くて魅力的だった。金持ちらしく太郎が財布の中身を心配する必要もなかったから良い遊び相手だった。
「近い内に食事でもしませんか?」
「いいわよ。太郎君のご都合は?」
「夕方ならいつでも大丈夫です」
「そう? じゃ明日の夕方どうかしら」
「場所はいつもの所でいいですか?」
「ええ。HALE海’S(ハレカイズ)に七時、西麻布の方の店で」
HALE海’Sはシーフードを中心とする無国籍料理店でメニューが豊富だ。西麻布の店は繁華街から少し離れた住宅街の中にあり人目に付きにくい場所だ。食事の後はもちろんホテルに直行だが、ホテルは東急ステイ青山プレミアと決めていた。アメニティや設備は整っていてサッパリ系で泊まり心地が良く、二人で三万円と少しの宿泊料はこの界隈では割安だ。レストランから一キロメートルほど離れているが酔い覚ましをしながらぶらぶらと歩くには丁度良い距離だ。第一に目立たない所にあるのがいい。二人は暗黙に約束をしていた。一つは寛子は娘のことには触れず話題にしないこと、太郎は妹のことに触れず話題にしないこと、もう一つはレストランを出る時は別々で寛子が先にホテルの部屋に入って太郎を待つこと、帰りは寛子が先に出てチェックアウトをしてそのまま帰宅し寛子が帰った後に太郎が別々にホテルを出てそのまま帰宅することだった。万一知り合いとばったり会っても言い訳が必要ないことだ。
七時少し前に太郎がHALE海’Sに行くと寛子は既に待っていた。
「料理、適当に頼んだわよ」
「ん。ワインは?」
「今夜はビールにしたわよ。いけない?」
「ビールでOK」
と太郎は親指を立てた。食事が終わると、寛子は化粧室へ行く感じで席を外しそのまま店を出て行った。まるでスパイ映画の密会シーンのような感じだ。次郎が残った料理を摘まんでいると携帯がバイブした。
「1103よ」
電話はそれだけで切れた。もちろん部屋番号だ。太郎は店のレジを済ますとホテルまで歩いた。寛子とこのホテルに泊まるのは何回目になるだろう、随分通ったなぁなどと思い出している内にホテルに着いた。教えられた部屋の前でチャイムのボタンを押すと、バスローブを羽織った寛子がそっと部屋に入れてくれた。寛子は待ってたよと言う表情で太郎の首に腕を回して太郎の唇を吸った。
「シャワーを使ってくるよ」
太郎が浴室から出てくると寛子は裸でベッドに寝そべっていた。太郎は何も言わずに寛子の身体に重なった。
久しぶりに太郎も寛子も燃えた。寛子は以前の太郎が戻ってきて嬉しかった。一頃気が乗らない様子のこともあったが今夜は寛子を登り詰めさせてくて満足した。
「太郎君、最近何かあったでしょ」
「ん。急に寛子さんが欲しくなったよ」
「だからどうしてって聞いているのよ」
「付き合ってた女の子に振られた。それも同時に二人の女の子に」
「へぇーっ、あなたでも振られることがあるんだ」
「ん。初めての経験」
「どうして二人なの?」
「三角関係」
そう言って太郎は苦笑いをした。
「バカねぇ。ま、私としては太郎君が私の元に戻ってきてくれたんだからいいわよ」
寛子も笑った。
「また時々逢ってくれるんだろ?」
「私はいつでも歓迎よ。今夜は良かったよ。すごく気持ちが良かったわ」
「僕も」
しばらく二人は抱き合って過ごした。
「そろそろ帰りましょう」
寛子は身支度を調えて先に出ていった。太郎も身支度を調えてホテルを出て周囲を見たが、寛子の姿はなかった。
垂井萠が仕事を終わって帰宅すると、DMに混じって一通の封書が届いていた。
「誰かしら」
萠が差出人を見ると、台湾からで鄭淑恵と書かれていた。
「丘さんじゃないし、誰かしら」
封書を開くと仲良しの丘淑恵からだった。写真が二枚同封されていて、一枚はウェディングドレスを来た淑恵と新郎とペアで撮ったもの、もう一枚は新郎と淑恵と真ん中に赤ちゃん、三人で撮った写真で裏に[可愛い長男が誕生しました]と書かれていた。
「へーぇ、彼女早々と結婚しちゃったんだ」
写真と一緒に同封されていた手紙には、あれから台湾人の鄭建国と言う青年と見合いをして結婚、今は台湾に住んでいる。建国は結婚後伯父の系列会社の社長に就任し裕福な暮らしで、長男が生まれてとても幸せだ。当分日本に行く機会はないが萠さんに逢いたいと思っている。前にお付き合い下さった柴山様は子供のこと以外では申し分のない素敵な方なので、まだご結婚されていないなら萠さんと結婚されればあたしは嬉しい。
とそんなことが書かれていた。太郎の話が出て、萠は太郎のことを思い出した。あの時は淑恵に気遣って太郎と別れてしまったが、淑恵に気遣いをする必要がなくなった今、チャンスがあれば太郎ともう一度出会いたいと思った。
偶然なのか必然なのか分からないが、会社の同僚二人と三人で以前太郎と時々入った横浜のレストランで食事をしていると、太郎が若い女の子と店に入って来るのが見えた。萠は驚いたと言うか太郎が一人じゃなかったので気持ちが動揺した。
「萌、、どうかしたの?」
そんな気持ちの垂井の様子を同僚は見逃さなかった。
「ちょっとね、知り合いの男性を見たような気がしたのよ」
「どれ、どこにいる方?」
「うぅん、見間違えだったみたい」
萠は誤魔化した。見ると萌たちの席から離れた隅の方に太郎と連れの女の子は座った。親しい間柄の様子でお互いに冗談を言って笑い合っている様子だ。
「こら萌、やっぱ可笑しいよ。さっきからあっちの方ばかり気にしてる」
「本当に人違いだってばぁ」
「むきになるところがやっぱ可笑しいぞ」
同僚の二人にからかわれて萠は太郎の方を見るのを止めた。
食事が終わって萠たちの方が先に店を出た。女の子と談笑している太郎をちらっと見て萠の気持ちは複雑だった。家に戻ってからも萠はまだ太郎のことを引きずっていた。
「彼女がいるんじゃ諦めるしかないか」
そう呟くと萠は太郎との思い出にまた封印した。
第五十七章 萠の焦り
女は三十歳に近付くと未婚の友達が一人減りまた一人減って次第に話し相手が少なくなる。仲良しだった友達も結婚するとお茶する回数が減り、話が合わないことが多くなる。実家に帰ると早く嫁に行けとプレッシャーがかかるので特別の用でもなければ帰らなくなる。親は何かと用を作って帰って来いと言うがそれが重なるとうるさいと思うようになる。
垂井萠は最近母がうるさくなったと感じていた。だからここのとこ姫路の実家に足を運んでいなかった。実家が遠いから帰りにくいなどと勝手に自分で言い訳を作っていた。
横浜駅前の旅行社に勤めている萠は今ではベテランで国内旅行グループ長に昇進していた。アシスタントの女性が二人、若い男の子が一人、毎日四人で手分けして楽しく仕事を進めていて萠は結婚をしないでこのまま仕事を続けようかと迷っていた。そんなだから、実家に帰って父や母から結婚を話題にされるとついほっといてと怒鳴りたくなるのだ。
「垂井グループ長、所長が呼んでます。急ぎじゃないようですよ」
萠が出先から戻ってデスクにつくと、部下の斉藤時子が所長の話を伝えた。グループ長になったからと言って普段は所長から直々に声がかかることはない。
「何だろう?」
萠は外回りの仕事の後始末を終えると所長の部屋に向かった。
「垂井ですが、お呼びだと聞きまして」
「おお、来たか。そこに座ってくれ」
とソファーを勧めた。所長は電話中だったが萠の顔を見て座って待ってろと指示した。
電話を終わると、萠の前にやってきた。
「最近仕事の方はどうかね?」
「昨年より案件が増えております。お陰さまで忙しいです」
「そうかい。世の中少しずつ上向いて来たからなぁ。ところで、垂井君が今抱えている仕事を誰かに任せられないか?」
「斉藤さんなら任せられると思います」
所長は少し考えている様子だ。しばらくして、
「じゃ、来週から斉藤さんにあなたの仕事を引き継いでくれ」
「と言いますと、わたくしは今の仕事から外れるのですか?」
「そうだ。後任の国内のグループ長は斉藤さんにやってもらう」
萠は突然の話で不安になった。
「もしかしてリストラ?」
と心の中で呟いた。所長と言う呼び名は元営業所だった頃の名残で今でも店のトップを皆が所長と呼んでいるが組織が大きくなり今は支店に格上げされたから正式には支店長だ。萠が勤めている旅行社は本社が東京でその下に大都市だけ支店を置いている。支店は東京、横浜、名古屋、大阪、広島、福岡の他仙台と札幌にあり全部で八支店あり、それ以外は今でも営業所を都道府県に置いている。
「実は垂井君は本社に移ってもらうつもりだ。急ぐから明日からでも引き継ぎをやってくれ」
萠は突然の話しに戸惑った。
「差し支えございませんでしたらもう少し詳しくお話して頂けませんか?」
「嫌なら断ってもいいが、断るなら今ここで言ってくれ。時間がないんだ」
「わたくし、お断りするなんて言ってません」
「そうか、じゃ行ってくれるんだな」
「はい」
「なら、会社の計画を詳しく話してやろう。だがこの話はまだ公表前だから誰にも話さないでくれ。万一テレビ、新聞関係に漏れたら僕は責任を取れないから約束を守ってくれ。守れるかね?」
「はい。大丈夫です」
「分かった。社内じゃ壁に耳ありってこともあるから晩飯に付き合ってくれ」
「分かりました」
「僕の社用車を裏に回しておくように指示しておくから君は先に行って乗っててくれ」
「はい」
萠は席に戻ると斉藤に急用ができたからと断って私服に着替えて会社を出て建物の裏側に出た。支店長の黒塗りの社用車は既に停まっていた。
萠が近付くと運転手が萠の顔を見て直ぐに車を降りて後部座席の扉を開いて乗れと促した。萠は周囲に誰もいないのを確かめてすっと車に乗り込んだ。支店長の車に乗るのは初めてだ。総革張りのシートでグレードの高いドイツ車だ。
間もなく支店長が出て来て萠の隣に乗り込んだ。萠は緊張した。支店長は運転手に行く先を耳打ちした。運転手は頷くと車を出した。車は直ぐに横浜駅西口ランプから首都高に乗るとそのまま進んで第三京浜国道に乗り入れた。支店長は目を閉じて瞑想している様子だから声をかけようにもかけられず、萠も黙って車窓から外の景色を見ていた。
車は第三京浜国道の港北ICで降りると一般道を進んでいた。周囲は目印の少ない住宅街だ。五キロほど走った所で車は停まった。運転手が先に降りて支店長と萠を降ろしてくれた。
「二時間ほどかかるが、ここで待ってるかね?」
「はい。ここで待たせていただきます」
支店長の質問に運転手は丁寧に答えた。
「垂井さん、入ろうか?」
そこは竹林で囲まれたやや大きめの個人住宅のような佇まいで、高台にあり、階段の上の方に[むくの実亭]と書かれた小さな看板があった。
店に入るとこぢんまりした感じで店の者と思われる婦人が挨拶に出て来た。
「お待ちしておりました。奥のお席にどうぞ」
二人は奥まった個室に通された。メニューを見て萠は驚いた。
「高いっ」
と萠は心の中で叫んでいた。この店はランチもディナーも一日数組しか客を取らないらしい。フレンチが基本で色々な料理がありメニューは豊富だ。世の中に隠れ家などと言われている店があるが、この店はまさに隠れ家だ。
「魚と肉とどっちがいいかね?」
萠は少し考えてから、
「両方食べてみたいです」
と答えた。支店長は笑って、
「そうするか」
と言って店員に両方出してくれと頼んでくれた。萠はこんなお店でどんな料理を出してくるのか興味が湧いて思わず言ってしまったのだが、どうやら支店長も両方食べてみたい様子だ。
料理はどれも美味しかった。特に真鯛のポアレはとても美味しかった。食事が終わってコーヒーを飲みながら支店長は、
「腹が膨れたところで仕事の話をしよう」
と言ったが支店長の顔色を窺うと悪い話ではないようだ。
「国の政策として海外からの観光客誘致に力を入れていく話は知ってるね」
「はい」
「そこでだ、我が社としても海外から来られたお客様を我が社が扱う国内旅行のルートに円滑に誘導する仕組みを強化する必要があるんだ。分かるだろ?」
「はい」
「それで現在東南アジアを始め欧米の営業所と代理店網を強化して海外の観光客を日本に誘致するため本社に海外営業所を統括する部署をあらたに設置することが決まったんだ。まだ細かいところが何も決まってないので外部への公表は少し先にすることになっているんだ。先日の役員会に僕も同席するように指示があってまとめ役で誰か適任者がいないか聞かれてね」
支店長はちょっと間を置いてコーヒーを啜った。萠はその先の話を聞きたくなった。まだ秘密の話だと言われて益々聞きたくなっていた。
「僕はね、垂井君を推薦したんだ。東京支店からも一名推薦があったが垂井君が中国語を少し話せることが決め手になってだ、最終的に垂井君を来週本社に移すことになった」
「わたくしがですか?」
「そうだ。新設部署は海外営業統括室、だから垂井君は室長に就任する予定だ。室長は課長待遇だから栄転だな。君にとって悪い話しどころかこれから飛躍する大切なポストだから頑張ってくれ」
「分かりました。わたくし頑張ります」
萠は自分に白羽の矢を立てられて内心興奮した。なんだかドキドキして身体中の血の流れが速くなっているように感じた。
「話は以上だ。これからは僕が垂井君の後ろ盾になるから困った時悩みごとがある時は何でも相談してくれ」
支店長は萠の父親より少し若い年代だがこの時の支店長の目は愛娘を思いやる父親のような感じがした。
「支店長、ありがとうございます。わたくし支店長をがっかりさせないようにいたします」
「ところで、垂井君は結婚しないのか?」
「今悩んでいるところです。このまま結婚しないでお仕事一途で行くのか結婚して家庭を持つか」
「恋人はいるのかい?」
「好きな人はいますが、まだはっきりしなくて……」
「なら結婚しなさい。直ぐとは言わないが、一般論としてビジネスの世界では独身でいるより世帯を持っている方が社会的な信用があると思われているんだよ。そりゃ個人の能力や才能でそれなりの信用を勝ち得ている者もいるがね、欧米では夫婦同伴の社交パーティーは多いし、東南アジアの財閥も家族を大事にしているから結婚していて夫婦でお付き合いをすれば重要な顧客と良い関係を築きやすいんだな。子供を産んで子育てに励むかどうかは個人の問題だから口出しはせんが垂井さんもいい年だから結婚を急ぎなさい。仲人が必要なら僕が引き受けてあげるよ」
話が終わってレストランを出ると、会社の車で萠のマンションに向かった。往きと同様に後部座席に支店長と一緒に乗った。車がカーブにさしかかった時、支店長の手が萠の太ももの上に置かれた。萠は今夜もしかして支店長に抱かれるかもしれないと思ったが、覚悟はできていた。
第五十八章 太郎との再会
支店長は自分の手が垂井の太ももに置かれているのに気付いてさっと引っ込めて、
「いやすまん。カーブで揺さぶられて失敬なことをしてしまった。淫らな気持ちはこれっぽっちもないから気にせんでくれ」
と萠に謝った。
「支店長、気にしておりませんから。お疲れでしたらわたくしにもたれかかって下さっても構いませんよ」
萠が微笑むと支店長は申し訳なさそうな顔をした。萠は内心、
「あら、支店長はなかなかの紳士だわ」
と思った。これで今夜支店長に抱かれるかも知れないと言う憶測は消えた。車が萠のマンションの前で停車すると運転手が降りてきてドアーを開けてくれた。
「今夜はご苦労。来週早々には辞令が出ると思うがよろしく頼むよ」
支店長は萠に念を押すと片手を挙げてバイバイの仕草をした。萠は深々とお辞儀して支店長の車を見送った。
翌日会社に出ると直ぐに萠は部下の斉藤時子を会議室に呼んだ。
「時子、話があるんだ」
「朝から何の話ですか? ちょっと怖いな」
「そう。怖い話だから良く聴いてちょうだい」
そう言われて時子は緊張している様子だ。
「単刀直入に言うよ。今日からわたしの仕事を引き継いでちょうだい。この話は他の人には言わないで」
「はい。引き継ぐってことはグループ長のお仕事を引き継ぐんですか?」
「わたしの仕事はそれっかないじゃない」
「じゃ垂井さんはどうなさるんですか?」
「わたしのことは心配しなくてもいいわよ。わたしが抜けると一人減るからお仕事はキツいわね。なのでなるべく早く人員の補充を考えておくわ」
「分かりました」
「あなた、本当に分かってるの? 普段のお仕事が人員減で厳しくなる上に引き継ぎのお仕事がプラスされますから今までの調子じゃ乗り越えられないわよ」
時子は軽く考えていたが萠の話を聞いて簡単に引き受けられるか不安になった。萠は時子の表情を見逃さなかった。
「思った通りね。時子、この際だから腹を括って頑張りなさいよ」
「先輩、困った時は助けてくれますよね」
「助けて下さいますよね……でしょ? わたしは助けてあげないから自分で何とかなさいよ」
時子は今までの元気がふっ飛んでしまって泣きそうな顔だ。
「時子の顔、晴れ後雨だよ。あのね、助けてくれってわたしに頼んじゃダメよ。部下に助けてくれって頭を下げるのよ。これが部下の心を掴むコツだからさ、良く覚えておくことね。上司が困って部下の人全員に頭を下げたら部下の人から見ると何とか応援してあげなくちゃと思うでしょ。そんな気持ちで応援してもらって何とか乗り切れた時全員集めて慰労会をするのよ。時子はねその時頑張って良かったってさ、幸せ気分になれるわよ。来週早々に辞令が出るそうだから新グループ長斉藤時子さん、頼んだわよ」
時子と別れて帰宅すると、どっと疲れが出て萠はベッドに倒れ込んだ。目が覚めると午前四時だ。それからは支店長に言われた秘密の話が頭の中を駆け巡り眠れなくなり、簡単に朝食を済ますといつもよりお化粧にたっぷり時間をかけて早めに新横浜のマンションを出た。新横浜でJR横浜線に乗ると横浜駅は四ツ目だ。駅と駅の間隔が短いので新横浜から十二、三分しかかからない。電車は相変わらず通勤ラッシュで超満員だ。痴漢に尻を触られるなんてしょっちゅうあり、もう慣れて気にならなくなっていた。萠は電車に乗るともしかして偶然柴山太郎が乗り合わせていないかなんて思いつつ周囲をキョロキョロ見回した。
「あたし、何やってんだろ」
思わず苦笑した時には電車は横浜駅に滑り込んでいた。
翌週萠は東京本社勤務に異動を言い渡された。グループ長の業務は斉藤時子にきっちり引き継ぎが終わっていたから、月曜日に支店内の挨拶を済ますと火曜日から本店に移った。海外営業統括室は小部屋が用意されてそこに垂井室長以下十名が揃い、社長を交えてささやかな発足式が行われた。横浜支店長も発足式に顔を出していた。
発足式が終わると萠は部下十名を集めて自己紹介に続いて業務計画を説明した。計画は既に萠が立案して支店長経由役員会に諮ってもらい予算案と共に承認を得ていた。
「そう言う訳で皆様には今まで実績を積み重ねられた国内営業関係の人脈と代理店網を整理していただき、私に一週間以内に報告をお願いします。情報は室内で共有しますが、くれぐれも室外に漏れないように情報管理を徹底して下さい。万一情報を漏らした者がいれば私は厳しく罰するつもりですからそのつもりで気持ちを引き締めて仕事に当たって下さい。私は明日から東南アジアの海外営業拠点へ行き挨拶回りをして海外営業統括室設立の趣旨を説明し協力を要請するつもりです。その際皆様の中から交代で二名ずつ私と同行していただきますので全員パスポートの有効期限を点検しておいて下さい。明日は中国の上海営業所に飛びます。一泊二日の予定です。奈良さんと坂本さん、明日から二日間私に同行して下さい」
奈良は四十少し過ぎの男性で坂本は二十半ばの女性だ。
「室長、二日間も海外ですから、報告を一週間プラス二日にずらせてもらってもいいですね」
と奈良が整理した結果の報告期限の延長を確かめた。
「ダメです。出張が入っても特別の急用が入っても期日内に整理を終わらせて報告をして下さい。それから現地時間で夜間は直接連絡が可能ですのでスカイプ(無料のテレビ電話)を使ったりメールを使ったりして質問事項、連絡事項があれば直接私に連絡をして下さい」
奈良は自分より遙かに若い小娘にぴしゃっと言われて少しむっとした。今までは係長として自分がやりたいように仕事をしてきたからまだ萠のやり方に馴染めない様子だ。萠は規律は最初が肝心だと思って譲らなかった。
説明会を解散してから先ほどの坂本が萠の所にやってきた。
「室長、明日から何を着て行けばいいですか? あたし海外出張は初めてですので」
萠は開いた口が塞がらない。学生ではあるまいし出張に何を着て行けばいいかなんて質問する部下がいることに驚いた。
「パンツスーツはお持ち?」
「はい。一着だけですけど」
「そう? じゃそれを着ていらっしゃい」
「下着の替えとかは必要ですか?」
「あなたね、修学旅行じゃないのよ。女性のたしなみとして軽い物を二揃え持って行ったら? 身の回りの物はなるべく少なくね。どうしても現地で必要になった時は現地で買えばいいのよ。あちらの方が安いことが多いですからね」
「お土産はどうすればいいですか?」
「あなた個人のもの?」
「職場とか家族とかお友達とか」
「バカねぇっ、観光旅行じゃないのよ。お仕事ですから何も買わないことね」
萠は思わず声を荒げた。周囲の者は坂本との会話を聞いている。萠が気付いて周囲に目をやると皆聞こえてないふりをした。萠は先方への手土産は考えていたがそれとてたいした物は考えていなかった。十年ほど前までは中国に入国するには全てビザが必要で取得に一週間から十日程度かかったので事前に手配をしておく必要があったが現在は十五日間以内の商用であればビザなしで入国できる。羽田を九時十五分の直行便で発てば十二時前には上海に着ける。萠は奈良に三人分の往復航空券の手配を頼んだ。旅行社だし奈良にすれば朝飯前の仕事だ。坂本には会社案内を十部と事業計画プレゼン用USBメモリーの中のファイルのコピーを頼んだ。手土産はその夜萠が手配する予定だ。
翌朝早めに出社して三人揃って羽田に向かった。坂本は初めての海外出張なので落ち着かずそわそわしていた。出がけに、
「USBの中身、確認するわよ」
「はい」
坂本が差し出したUSBメモリーをパソコンに差し込んでファイルを確かめると何も入ってない]
「おかしいな」
坂本は顔を真っ赤にしてパソコンの画面を見ている。
「ちゃんと昨日コピーしたの?」
「はい」
「わたしが渡したオリジナルは?」
「これです」
坂本が差し出したメモリーを開くと何も入っていない。
「あなたがコピーした時ファイルがあったでしょ?」
「はい。確かにありました」
もたもたしていると飛行機に遅れてしまう。萠は自分用のUSBメモリーを取り出して中身を確かめてからそれを自分のバッグにしまった。大事なファイルだからバックアップを取っておいて良かった。
「時間がないわ。直ぐ出ましょう」
上海便が羽田を飛び立つとどっと疲れが出て萠は居眠りを始めた。太郎が淑恵と結婚して楽しそうに銀座通りを並んで歩いている夢を見ていた。その時肩を揺すられた。
「室長、着きましたよ」
奈良だった。
「あら、もう上海? 近いわね」
奈良は微笑んでいた。飛行機を降りて入国ゲートへ三人揃って歩いていると、後ろから萠の肩をポンと叩く者がいた。萠が驚いて振り返ると太郎が三人の後を追って歩いていた。
「しばらくだな」
第五十九章 激情の再燃
上海虹橋空港で突然太郎に肩を叩かれた時、萠は驚きと共に再会の歓びで息が詰まるほどだったが、連れてきた部下がいる手前感情丸出しにはできず、
「お久しぶりです。あのう、携帯のアドは変わりませんか?」
と聞いた。これだけ聞いていれば十分だ。
「ああ、メールのアドも変えてない」
「ありがとうございます。夜にでも改めてご連絡を差し上げます」
それだけ言うと萠は太郎と別れて部下と共に先を急いだ。先ずは手荷物をホテルに置いてから営業所に向かうつもりで、予約しておいた上海城市酒店(シティホテル上海)に向かった。上海には浦東国際空港と虹橋空港があるが、浦東国際空港は市街から約三十キロほど離れているので萠は虹橋空港着の便を選んだ。虹橋空港は市街地に近く便利だ。空港からタクシーに乗り、延安高架道を通って十五分ほどでホテルに着いた。上海城市酒店は日本で言えばちょっとハイクラスのビジネスホテルで室料は安い。
ホテルでチェックインを済ますと直ぐに上海営業所に向かった。営業所はシャンヤン公園(Xiangyang Park)のそばにありホテルから車で五分位だ。事前に連絡を入れておいたので、所長以下数名の社員が出迎えてくれた。
営業所で挨拶を済ますと、萠は会議室で新しい組織の概要と事業戦略についてプレゼンを行った。上海営業所では中国国内の百八十の旅行代理店と契約しており上海営業所を拠点にして中国全土から日本向けの観光客を募り目的地別に日本国内の支店、営業と直結させて中国の顧客を円滑に日本に誘導して日本観光を満喫してもらう狙いだ。そのため、用意してきた日本観光旅行のパンフレットの下書きの内容を説明して中国人向けに合うように修正を加えて早急に印刷し送り返すようにした。
「印刷が完了してこちらに頂けるのはいつ頃になりますか?」
「明日帰国して直ぐに手配をしますので、一週間後に発送します」
「思ったよりかなり早いですね。大丈夫ですか?」
「予定通り進めます」
萠は胸を張って答えた。脇で聞いていた奈良は驚いた。従来なら一ヶ月は欲しいと答えたはずだ。だが、垂井は平然と一週間後には発送すると答えたからだ。会議が終わって営業所長は、
「夕方食事をご一緒にと考えておりますが」
と萠の都合を聞いた。
「はい。会って親睦を深めるチャンスがなかなかないと思いますので是非ご一緒させて下さい。経費はこちらの予算から支出しますが、贅沢ではない範囲でお願いします」
と同意した。
夕食は公園に近い新斗記と言う広東料理店に案内された。奈良も坂本も喜んだ。営業所からは営業所長以下中国人のスタッフが八名参加して賑やかな宴となった。萠は以前淑恵に教えてもらった台湾なまりの中国語で中国人スタッフと話をしたが、萠が母国語で応対してくれるので驚いた様子だった。坂本は営業所長にぴったり寄り添って中国人スタッフとの会話の通訳を所長にしてもらっていた。中国では宴会を行うと大勢が参加するのが当たり前のようだが、萠はそんな習慣を知っていたから多少の予算オーバーは仕方がないと割り切っていた。八時を回った所で、萠はまだ仕事が残っているからと所長に断って先にレストランを出た。奈良と坂本は所長と三人で二次会に行く様子だった。
ホテルに戻ると萠は太郎に電話を入れてみた。だが通じなかった。それでメールを送った。
[上海城市酒店に投宿しております。今夜是非逢いたいです。お返事をお待ちしております]
送信してから萠は会議中に出た懸案事項を整理して本社の上司である部長と横浜支店長にメールで報告した。
太郎は出先から疲れて戻りシャワーを済ませてから仕事中電源をOFFにしていた携帯の電源を入れて冷蔵庫からビールを出してチビチビやっていると携帯が鳴った。
「萠です。逢いたかったぁ。今どこにお泊まりですか?」
太郎はオークラ ガーデン ホテル に泊まっていると言った。
「へぇーっ、超高級ホテルじゃない。そこならここから近いから今から訪ねて行ってもいい? あっ、ダメだなんておっしゃらないで」
太郎はOKだと答えた。萠は早速身支度を調えて太郎が投宿しているホテルに向かった。オークラ ガーデン ホテルは上海で第一級の五つ星ホテルだ。萠が投宿したホテルより遙かに贅沢な感じだった。萠は教えられた部屋番号を探してドアにたどり着くとチャイムボタンを押した。ドアが開くとバスローブ姿の太郎が顔を出した。
「お一人ですか?」
「ああ」
太郎が独りでいるなら何も遠慮はない。萠は後ろ手にドアを閉めると太郎に抱きついた。
「逢いたかったぁ。あたし、もう限界。太郎さんと一緒でなきゃ生きて行けない」
萠は太郎の口を吸った。太郎のバスローブの間から腕を入れて抱きついて離れない。
「ちょっと待てよ。座って話をしないか?」
太郎は萠をひょいと抱き上げるとソファーに座らせた。
「一緒でなきゃ生きて行けないなんて大げさだな。オレに結婚してくれって言う意味か?」
「ずっと一緒に暮らしたい。ダメ? あたし太郎さんとお別れしてからずっと後悔していたよ。今でも後悔してる」
「そんなにオレが好きなのか?」
「ん。大好き。今夜抱いてぇ、あたし太郎さんと一つになりたい」
「あのなぁ、オレと結婚して子供を産んで幸せになりたいなんて言うのか?」
「子供? あたし子供は欲しくない。今のお仕事をずっと続けたいから子育ては無理よ」
太郎は予想外の萠の答えを疑った。
「子供を欲しくないと言いながら結婚したら子供が欲しいなんて言うんじゃないのか」
「それは絶対にないよと言いたいけど気持ちとしてはウソ。太郎さんの子供が欲しいと思うよ。でも子供と仕事とどちらかを選べって言われたら、あたし仕事を取る」
「オレも子供は面倒くさいから欲しくないよ。将来気が変わるか分からないけど、兎に角今は子供はいない方がいいね」
萠は話をしているうちに気持ちが高ぶってきて太郎を求めた。太郎も久しぶりに萠を抱きたいと思った。二人はベッドに潜り込むとお互いに激しく求め合った。
何時間過ぎただろう、萠が目を覚ました時、時計は午前三時を過ぎていた。萠が起き上がって身支度を調えていると、
「もう行くのか?」
と太郎の声がした。
「ごめん。今日もお仕事。その後は日本に帰る。帰ったらまた電話する。いいでしょ?」
「ああ、そうしてくれ」
そっとホテルを出ると萠は自分が泊まっているホテルに戻った。同室の坂本の顔をそっと覗くとすやすやと眠っていた。
その日は前日に続いて営業所で打ち合わせを行った。打ち合わせは午前中で打ち切り、奈良と坂本に、
「一旦ホテルに戻ります。帰りの出発時刻は二時半ですから、昼食が済んだら空港に向かいます。忘れ物がないか身の回りの点検をしておいて下さい」
と言いつけた。一時半には空港に着かなければならないので殆ど休む暇はなかった。
虹橋空港でチェックを済ますと、
「坂本さん、ご自宅へお土産買って帰りたいんでしょ?」
「できれば」
「じゃ三十分以内に戻っていらっしゃい」
と坂本を免税店に押し出してやった。坂本は小走りに免税店に行って買い物を済ますと戻ってきた。その時乗客は次々とボーディング・ブリッジに吸い込まれていた。萌たち一行も皆に続いて機内に乗り込んだ。萠は坂本がどんな土産を買ったのかなんてことに全く興味がなかったが坂本は免税店で買った品物がちゃんと届いているのか心配している様子だ。それに気付いて奈良が、
「大丈夫、降りる時までに手元に届くよ」
と教えている。
十六時半、予定通り航空機は無事に羽田空港に着陸した。たったの三時間で上海から戻ってきた。
「お疲れ様。明日からのお仕事よろしくね。わたしは明後日シンガポールに飛びます。奈良さん、今回の出張報告のまとめを明朝提出して下さい」
新横浜のマンションに戻ると萠は太郎にメールを入れた。
第六十章 仕事は恋人
萠が部下の福井と武田を呼んだ。
「どう? 宿題は大体まとまってるでしょ?」
呼ばれた福井も武田も思った通りの質問に二人揃って、
「はい。大体は出来てます」
と答えた。
「じゃ、明日からシンガポール、二人とも一緒に来て下さい」
「えっ? シンガポールですか?」
「そうよ。あなた方お二人共パスポートの有効期限に余裕はありますか?」
「余裕と言うと三ヶ月以上あればいいですよね」
と福井が答えた。福井知子は入社後十年のベテランだ。
「あなたにしちゃ珍しいわね。シンガポールに入国する時のビザ、ご存じよね」
「はい。シンガポールはビザは要らないはずですけど」
「そうよ。日本人と言うか日本国籍の者は要らないわね。但しパスポートの有効期限は六ヶ月以上残ってないとダメですよ」
「えっ? じゃわたしはダメです」
「何ヶ月残ってるの?」
「四ヶ月」
福井は泣きそうな顔をしている。どうやらシンガポールに一度は行ってみたかった様子だ。
「仕方ないわね。必ず即時更新しておいて下さいな。えぇっと、佐伯さん、あなたのパスポートはあとどれ位残ってます?」
突然名指しされた佐伯香奈は引き出しからパスポートを取り出して見た。
「二年と少し残ってます」
「じゃ突然ですまないけど福井さんと交代して明日からシンガポール、いいわね」
「室長、そう言うお話は事前に言って下さらないと困ります」
「何かご都合が悪いことあるの?」
「はい。母の通院日で明日午前中お休みを頂くよう既に休暇の申請をしてあります」
萠ははっと気付いて書類箱の中の申請書の控えを見た。
「佐伯さん、済まなかったわね。ご自宅の方を優先して下さい。どなたかパスポートの残りが半年以上ある方で明日シンガポールに発てる方挙手っ」
萠が部下を見渡すと、恐る恐る二人の手が上がった。鈴木と渡部だ。萠は同行予定の武田が男性なので渡部由佳を連れて行くことにして、
「じゃ、すまないけど渡部さん、明日わたしと一緒にシンガポールに飛んで下さい。いいわね」
と渡部の顔を見た。渡部は確か二十九のはずだが控えめで目立たない感じの女性だ。
「はい。私でよろしければお供します」
「じゃ、今回のシンガポール行きは武田君と渡部さんのお二人で決まりね」
萠は二人を呼んで持って行く物、プレゼンの内容などを説明して武田に航空券三枚の手配を頼んだ。
「シンガポールは羽田から片道七時間半はかかりますから、一泊じゃ無理ね。二泊の予定で往きは羽田八時五十分、帰りはシンガポール・チャンギ十時五十五分で取って下さい」
武田は席に戻ると直ぐに航空券の手配をした。
「室長、往復共に希望の時間で押さえました」
「ありがとう。明日は早いから遅れないようにお願いよ」
航空機は少なくとも出発時刻の一時間前、出来れば一時間半前には搭乗手続きが必要なことは皆心得ていた。
武田が手配した航空券は往復ともシンガポール航空だったので萠は翌日七時半にチェックインカウンター前で武田と渡部を待った。昨夜は上海に発送する予定のパンフレットの印刷手配をしていて帰宅が遅くなったが太郎とのメール交換ができて気分は良かった。太郎は今日羽田に戻る予定だと知らせてきたのでお互いにすれ違いになってしまうが気持ちは充実していた。
定刻にボーイング777は羽田を離陸した。生憎の小雨模様だったが離陸後高度が上がると視界が開けて右下に紀伊半島、四国、少し先に九州が見えてきた。萠は行く先のシンガポール営業所が受け持つテリトリーについて頭の中を整理した。シンガポール営業所ではマレーシア、ミヤンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムをカバーさせる予定だが広域なのではたして先方で同意してくれるだろうかと少し心配があった。萠はパンフレットは一つでは無理で二つに分けて作るようになるかも知れないとも思った。内容は同じでも説明文の言語が英語、マレー語、ビルマ語、中国(北京)語、タイ語、ラーオ語、クメール語、ベトナム語と各国の公用語がバラバラなのだ。
そんな問題に頭を悩ませていると、機内食の昼食が配られてきた。飛行機はもう台湾に近い上空を飛んでいる様子だ。
シンガポール航空の機内食は予想以上に美味しかった。美味しさは個人差があって一概には言えないが、萠は色々な航空便に乗った経験から公平に見て美味いと感じた。
食事が済むと急に睡魔が襲ってきて萠はいつのまにか夢路を辿っていた。太郎を追いかけて捕まえられそうになるとするっと抜けて遠くでおいでおいでと手を振っている。萠は逃すまいと必死に追いかけるが追い付かない。太郎さん待ってよと大声を出そうとするのに声が出ない。もがいていると突然誰かが自分を揺すった。
「垂井室長っ」
耳元で武田の声がして目が覚めた。
「着きましたよ。あっ、室長よだれを垂らしてますよ」
それで萠はすっかり目が覚めた。慌てて口の周りを手で探るがよだれを垂らした形跡がない。武田を見ると、舌をちょっと出して笑っている。
「もうっ、武田君わたしをからかったら許さないからぁ」
入国手続きを済ませて三人はタクシーでホテルに向かった。ホテルはイーストビレッジ バイ ファーイーストホスピタリティと言う長ったらしい名前のビジネスホテルだ。チャンギ国際空港から十キロほど西に走った海岸沿いの景色が良い場所にある。明日訪問するシンガポール営業所はダウタウンのアンソンロード沿いなので少し離れているが料金が安いので武田と渡部が相談して決めたらしい。着いてみると部屋は広く割安で快適だ。
翌日営業所に行くと所長が出迎えてくれた。上海と違って大勢出迎えてくる様子はない。簡単に挨拶を済ますと、担当者三名を交えて早速会議となった。萠は上海同様新しい組織の狙いと事業戦略を説明してから質疑応答に切り替えた。
「当営業所でご希望の地域を統括するのは従来からやっておりますのでご心配は要りません。パンフレットに色々な言語の説明文を並記する案も問題はありません。少し煩雑に見えますが、そんな形のパンフレットは特別珍しくはありませんから顧客側から見ても問題はないでしょう」
なかなか好意的なレスポンスに萠の心配は解消した。
「ご存じの通りイスラム教徒の比率が多い地域ですので、日本に行った時にハラール認定食品がどこに行けば手に入るのか、宿泊施設や街中のレストランでハラール対応している所がどこかなど詳しく分かるようにして頂きたい。これを丁寧に説明してあれば他社との差別にもなりありがたいです」
思った通りイスラム文化圏の顧客を取り込むには先ずは安心して食べられる食事が充実していることが商売の決め手になるようだ。最近日本でもハラール認定の意義が定着してきてはいるが、地方に行くと十分な対応ができておらず、萠は内心これからが大変だなと感じた。
「夕食には少し早いですが」
会議が終わると所長がそう行って皆をチャイナタウンの中にある京華小吃と言う中華料理店に案内してくれた。メニューが豊富なので沢山の品数を注文して皆でシェアして食べた。どれも美味しく、萠も満足させられた。ホテルに戻ると、
「あのぅ室長、シンガポールは初めてなので明日少し観光に出歩いてもいいですか?」
と渡部が遠慮がちに萠に聞いた。
「武田君、明日の飛行機は何時?」
「十時五十五分です」
「そう? 次の便は?」
「十四時五分です」
「シンガポール航空に電話して一つ後の便に変更出来ないか聞いて下さらない」
武田は急いで連絡を入れた。
「室長変更できるそうです」
「分かったわ。じゃ全員変更手続きをして下さいな」
武田の返事を待って萠は渡部に、
「午前中遊んでいらっしゃい。でもね、女性一人じゃ心配ですから武田君、付き合ってあげて下さい」
と半日観光を許した。渡部は嬉しそうな顔で武田に頭を下げている。武田もまんざらじゃない表情だ。萠は半日ホテルでゆっくりしようと思った。
萠はホテルに独り残って打ち合わせ結果を整理してから部長と横浜支店長に宛ててメールで報告した。一番の問題点は日本の地方の宿泊施設でハラール食品の対応が十分でないことを指摘、この問題は今後全社で取り組むべき大きな課題で海外営業統括室が推進役となって取り組みたいと提案した。一通り整理が終わると水着に着替えてホテルのプールで汗を流した後エステサロンで旅の疲れを取った。
すっきりした気分でホテルの部屋に戻ると、持ち物のパッキングを済ませてから太郎にメールを書いた。遠く離れたシンガポールに居ても太郎の肌の温もりを思い出すと明日への希望が湧いてきて充実した気持ちになれると書いた。太郎が今の自分の気持ちをどんな風に受け止めてくれるか分からないが、萠はメールを送信すると目を閉じて音楽を聴いた。
二時過ぎに飛ぶとするとホテルを遅くても十二時半には出なければならない。萠が帰り支度を整えて待っていても二人は戻って来ない。十二時四十五分を過ぎて萠は苛ついてきた。武田に電話を入れると、
「遅くなってすみません。渡部さんがお土産を探している内にすっかり時間が過ぎてしまって。これから大急ぎでホテルに向かいます」
と返事が来た。いらいらして待っていると一時少し前に二人は息を切らしてホテルの部屋に飛び込んできた。
「室長、ごめんなさい」
渡部は汗でびっしょり濡れた背中を見せて大急ぎで荷物をとりまとめている。
「忘れ物がないかちゃんと点検して下さいね」
「はい。分かってます」
武田と渡部がパッキングを終えると大急ぎでチェックアウトを済ませ空港に急いだ。
バタバタしたわりには二人共疲れた顔をせず、無事に帰りの飛行機に搭乗したら直ぐに離陸した。二人がどこに行ってどんな土産を買ったなんて萠は興味がなかったので、離陸後直ぐに眠りに就いた。
羽田までは六時間半だ。夜の九時少し前に無事に羽田空港にランディングした。入国手続きを済ますと十時近くになっていたが萠はその日の内に新横浜のマンションに戻った。マンションに着くとドアーの前に男が立っていた。太郎だった。
「時間、正確だね。お帰り、お疲れ様」
太郎には帰国の時刻を知らせておいたが、まさかマンションに来てくれるなんて予想をしていなかったから萠は嬉しくて思わず太郎に抱きついた。
第六十一章 萠の結婚
「忙しそうだな。今日はたまたま横浜に出張だったからさ、迷わず萠のとこに来たよ」
「そうなんだ。あたしは最近忙しいよ。来週はシドニーに飛ぶ予定」
「海外、多いのか?」
「一通り海外営業所を回るまでは」
「へぇーっ? 横浜の営業所時代と随分変わったな」
「ええ、今は芝浦の本社に異動になったけど、落ち着いたら今の部署の海外営業統括室を横浜支店に移してもらう予定よ」
「室長は誰だ?」
「一応あたしが室長。責任者よ」
「偉くなったんだ」
「あたし偉いのかなぁ」
と萠は笑った。
「太郎さんは?」
「変わらないね」
「まだ係長さんやってるの?」
「オレも一応課長になった」
「二人共管理職なんて少し変?」
「女性が活躍するようになって最近オレたちみたいなカップル、増えてるんじゃないかなぁ」
「今夜泊まって行けるんでしょ?」
「ん。久しぶりに萌としたいな」
「正直な人。いいわよ。優しくしてね」
太郎も萠も以前付き合っていた頃にお互いに馴染んだ身体を求め合った。萠は太郎ととても相性がいいと感じながら登り詰めた。
「萠、オレと結婚しないか? お互いに子供は欲しくないけどやっぱ好きな女性と暮らしたいと思っているんだ」
萠にとっては太郎のプロポーズはサプライズではなかった。萠もこの際太郎と結婚して落ち着きたいと思っていた。
「いいわよ。あたし一生太郎さんと仲良く暮らす覚悟できてるから」
「住む場所だけど、ここにオレが引っ越して来ちゃダメか?」
「二人で住むならこのマンションで広さも家賃もまあまあだしあたしは引っ越ししなくて済むからいいかも」
「今家賃はいくらだ?」
「十二万五千円。公益費と積立金を合わせて二万五千円ですから月々十五万ね」
「思ったより安いなぁ」
「太郎君の品川のマンション、いくら払ってるの?」
「ワンルームだけど少し広いから月々十四万」
「じゃ、結婚してからもここに住むってことで決まりね」
「結婚式は来月に挙げられるか?」
「式場が取れれば挙げられるわね」
萠は早速休日に太郎と式場を探して歩いた。二人共横浜で挙式することには異論がなかったからその日の内に決めた。たまたま希望の日にラグナスイート新横浜が取れたのでそこに決めた。萠の両親は神戸から来るし、太郎の両親は野田市だからいずれも新幹線が停まる新横浜が都合が良かった。費用は八十名で二百四十万円の見積もりが出たが即決でOKした。一人三万円の単価になる。高いのか安いのか分からないが迷っている余裕がないので決めた。両家の両親に報告するとどちらも快諾してくれてこんなに簡単に事が運んで良いものかと思うほど全く問題がなかった。その上、萠の両親から百万、太郎の両親から三十万の援助があったから費用を折半することにしても太郎と萠の貯金で余裕があった。
「新婚旅行は希望があるのか?」
「特にないけど二人共お仕事が忙しいからニュージーランドあたりに三泊位でどうかしら」
「ああ。いいね。じゃニュージーランドで決まりだな。萠は旅行社だから任せるよ」
一月先の結婚式を控えて萠は精力的に仕事をこなした。シドニーの営業所に行くと、連れてきた船橋雅美と福井知子は季節が日本と逆転していることに驚いていた。今年三十六歳になる船橋雅美は元国内営業の係長だった女性でベテランだがまだ一度も南半球を旅行した経験がないらしい。
営業所で毎回同じように新設組織を設置した意義と事業戦略について説明した後質疑応答となった。
「こちらでは季節が日本と逆転していますが、例えば夏は寒い北海道へ、冬は暑い沖縄や九州にと季節毎にパンフレットを分けて季節の逆転を上手く利用した考え方に効果があると思いますか?」
萠が質問すると、営業所長は既にそんな試みで毎年営業を展開していると答えたが、現地採用の営業員全員が、
「今まで季節に合わせてパンフレットを作るとか、こちらが真夏の時に北海道を積極的に勧めるような活動はしていませんでしたから効果は今までよりずっとあると思います」
と萠の意見に賛成した。それで季節感を全面的に出して顧客に日本の四季の良さをアピールする新たなパンフレットを用意することが決まった。船橋も福井も、特に船橋は積極的に賛成してくれた。
シドニーに続いてフィリピンのマニラ営業所、韓国のソウル営業所を回って皆から集めた国内営業に関する報告書を整理している間に結婚式が次の日曜日に迫っていた。萠は既に横浜支店長と上司の部長に招待状を送っていたから関係者は萠が結婚することを知っていた。招待者は萠側は両親と妹の他親戚と友人、会社関係を逢わせて三十五名、太郎の方が四十五名を招待した。予定通り合わせてて八十名となった。
結婚式は順調に終わって、太郎と萠はニュージーランドに新婚旅行に行った。二人共海外は旅慣れているので軽装ででかけた。荷物と言えば帰りにどっさり買って来るお土産くらいのものだ。
僅か三泊しかしないので、ニュージーランド観光の定番コースである中部のクライストチャーチと言う町から北上してカイコウラと言う町までの約180kmをレンタカーでドライブするコースを選んだ。往きは美しい海岸線に沿って走り、最後のカイコウラはクジラやオットセイの生息地で海産物の美味しい料理にもありつける。帰りは天然温泉地で有名なハンマースプリングスに寄り陸側のコースでクライストチャーチに戻る。クライストチャーチは古い英国調の家並みが美しい街で、宿泊施設はどこも素敵だ。萠は100年以上の歴史があるオタフナ・ロッジに往きと帰りで二泊する予定を組んだ。ロッジには広大な庭園があり大きな花園の中にある素敵な邸宅に泊まる感じだ。太郎は国際免許証を持っていると言っていたから問題ない。
その日太郎と萠は成田からオーストラリア航空の直行便でオークランドに向かっていた。時差は殆どないが約十一時間の飛行だ。オークランドから国内線に乗り換えて更に一時間半ほど飛ぶとクライストチャーチに着く。昨日の夕刻に成田を出て、昼前にクライストチャーチに着いた。話しに聞いていた通り美しい街で、予約しておいたロッジのスウィートルームは想像以上に素敵だった。二人共英語が達者だから快適な旅をスタートできた。
萠は太郎と婚前に何度も身体を重ねてきたが、やはりニュージーランドの素敵な宿で迎えた初夜は萠にとって忘れ得ない思い出となった。子供を持たない約束だったからその夜から太郎は真面目に避妊具を付けてしてくれたのが萠の安心につながって溶かされると言う表現通りに萠は幸福感に満たされた。
二人は翌日の午後レンタカーでカイコウラに向かった。ニュージーランドでは時速100kmで走れる道路は珍しくない。だからクライストチャーチからおよそ二時間と少しでカイコウラの町に入った。沿線の海岸線は景観がすばらしく雄大だ。日本と違って広々とした感じがした。
三日後にクライストチャーチを飛び立つと太郎と萠の短い新婚旅行は終わった。太郎の荷物は既に新横浜の萠のマンションに運び込んであったから何不自由なく二人は新婚生活をスタートさせた。変わったことと言えば二人の起床時間が結婚前より一時間ほど早くなっただけだ。
通勤は快適だ。二人は新横浜から太郎は東京まで萠は品川まで新幹線で通勤している。フレックス定期券は三ヶ月定期で萠は毎月四万三千円程度、太郎は四万五千円程度だ。太郎は会社で全額出してくれるし、萠は月々三万円の補助が出るから出費としては気にならない程度だ。なんたって乗車時間が新横浜から東京まで僅か十八分程度しかかからないしマンションから駅までは五分とかからずラッシュアワーの混雑も然程でないので通勤極楽と言って良い。だから二人は新婚早々から優雅なサラリーマン生活を始めたと言える。帰りは時間が合えば東京で落ち合って丸の内のレストラン街で優雅なディナーを楽しむのも恒例化してきた。休日は二人でスポーツジムに通い適度な運動をした。月額二人で二万円程度だがフィットネスで汗を流してからスパやエステを利用する。たまにはスカッシュを楽しんだりバッティングセンターでストレスを発散する。年に四回か五回は友人を誘ってゴルフにも行く。二人共会社の管理職だから仕事はきついが懐には余裕がある。
萠は将来庭付き一戸建ての住宅に住む夢を持っていた。だから結婚後余裕の資金をこつこつと貯め始めた。
第六十二章 二人目の懐妊
工業団地の会社を辞めてから、昌代は娘菜未の育児に専念した。仕事を持つ女性は子供を保育園に預けるのが普通だが昌代は菜未が三歳になるまでは自分の手で育てようと決心していた。児童福祉法では保育園は保育所と言う名称で定められていて、保護者の保育に欠ける児童を預かり保育する目的と定義されている。つまり母親が何等かの理由で自分の子供を保育できない場合に保育所に預けるのだ。昌代は保育所は教育が目的の学校ではなくて厚生労働省児童家庭局が管轄する児童福祉の一環として設けられた施設だと理解していた。昌代は家庭の事情で大学へは進めなかったが勉強して保育士の国家資格取得用の参考書をよく読んできた。だから菜未の子育ては自分でしっかりできると自負していた。
以前は高卒ならば無条件で保育士資格取得の国家試験受験資格があったが、今は高校で保育科を卒業したかあるいは二年以上保育園などで保育の経験を積み重ねていなければ受験資格はない。二年以上と言っても単に在籍していただけではダメで一日平均四時間から五時間働いた実績がなければならないから相当に厳しい。昌代の年齢では高校卒業年度の規定によって受験資格はなかった。短大や四年生大学卒業者は学校での専攻科目に関係なく全ての者に受験資格が与えられている。昌代はそれを知った時に世の中の不公平な取り扱いに腹が立った。年齢が一定以上に達していて保育の知識や経験が十分であれば誰でも保育士の資格を取れるようにすべきだと思ったのだ。自分は高校しか卒業していないが、妹の真美や弟の啓介が赤ちゃんの時から子守をさせられて赤ちゃんの扱い方や授乳、離乳食の与え方、泣き声などを聞いて身体の調子を推測することまで経験していた。赤ちゃんの首がすわるとはどう判断するかまではその頃意識をしていなかったから忘れていたが大抵のことは子守の経験から知っていた。女性ならたとえ中学しか卒業していなかったとしても、自分が産んだ子供を育てられるが大学を卒業していたからと言って自分が産んだ子供を中卒より上手に育てられるなんてことは一概に言えないと昌代は思った。なのに中卒者の場合は卒業後保育施設などで五年以上経験を積まなければ保育士の受験資格が与えられないのだ。中学を卒業してから二十歳を過ぎて成人に達していて自分の弟や妹が赤ん坊の時に家事を手伝いながら子守をした実績があれば保育士の受験資格が与えられたっていいじゃないかと思った。祖母や祖母の母親が若かった時代には女の子は大抵自分の妹や弟が赤ちゃんの時から子守をさせられた。中には男の子だって妹をおんぶして家事の手伝いをさせられていた者だっていたそうだ。赤ちゃんの子守をしながら自然に子育てが身について行くのだ。今はどうだろう、若い母親の多くは子供を産むと直ぐに自分の子供を保育園に預けて仕事にでかけてしまう。兄弟がいても兄が自分の弟や妹をおんぶして世話をすることは殆どなく、保育園で別々に育てられていく。だから赤ちゃんの世話や子育ての経験をする機会がなく家族とは関係がない赤の他人の保育士に一方的に育てられる世の中だ。昌代は最近の社会は人が育っていく過程で大切な何かが失われて行くような気がしていた。スキンシップという言葉がある。弟や妹は赤ちゃんの時に姉や兄の背中におんぶされて育ち一緒に遊んでもらって育つ間に兄弟姉妹の家族としての良き関係が醸成されるべきだと思うのだが赤ん坊の時から兄弟姉妹別々に赤の他人に育てられ、家で遊ぶときもゲームやテレビ観賞を個別にやっていて母親や父親は夜だけ一緒じゃ昔の家族関係とは随分違ってしまってきたと昌代は思うのだ。
母の千代と同居していたから母に菜未の世話を頼めばパートタイマーなどで働くことはできたが、次郎の希望で仕事には出ずに家事と子育てに自分の時間を費やした。千代も子供は幼児の間は母親が自分の手で育てるのが当たり前だと思っていて自分も子供たちが小学校に上がるまではきちっと面倒を見た。生活は経済的に楽ではなかったが経済的なゆとりを求めるよりも子育てを優先すべきだと思って昌代には苦労をかけたが下の二人は大学まで進めさせることができたし、家族の結びつきは今でもとてもよいと感じていた。
昌代は菜未が一歳を過ぎてから図書館で絵本を借りてきて就寝前に読んで聞かせた。町田市には八つも公立の図書館がある。その中でさるびあ図書館と木曽山崎図書館が近いので菜未を連れて自転車で通った。町田市の中央図書館は立派なもので四階と五階に沢山の蔵書があったから菜未が小学校に上がったら連れて行こうと決めていた。この頃の子供たちは本を読まないでテレビやスマホに多くの時間を使っているが昌代はそれは母親の幼児教育の進め方に原因があるのではないかと思っていた。最近菜未と一緒に見ている本は、[おやおや、おやさい][くだもの][たまごのあかちゃん][もりのおふろ]など色々だ。
「あら、今日は早く寝ちゃったわね」
昌代が絵本を読んで聞かせているうちにいつのまにか菜未はかすかな寝息をたてて眠ってしまっていた。生まれてから数ヶ月の間は授乳をしながら添い寝している内に自分も寝てしまってうっかり菜未を押しつぶしそうになってはっとしたことが何回かあったが最近はそんなこともなくなった。次郎はここのとこ多忙らしくいつも帰りが遅い。だから次郎は帰って来ると菜未の寝顔を見るだけの日々が続いていた。昌代が働いていないので次郎は土日も出勤することが多いがお蔭で残業代が多く僅かだが貯蓄に回すゆとりもあった。
「ただいまっ」
いつものように次郎が疲れた顔をして帰ってきた。
「夕飯、まだでしょ」
「ああ」
「お風呂が先?」
「先に風呂に入る」
ここのとこ毎晩同じパターンだが昌代は必ず飯が先か風呂が先かと聞いた。それは昌代なりの夫に対する思い遣りだった。
菜未が一歳になった時、昌代は次郎に相談した。
「わたし大学の勉強をしたいの」
「どこかの大学に通いたいのか?」
「菜未がいるから通うのは無理よ」
「どうするんだ?」
「放送大学」
「それはいいかも。ちゃんと続けられるのか?」
「続けるつもり。それでね、少し投資をして欲しいの」
「何に投資するんだ?」
「今は地デジしか受信してませんけど、BSを受信するようにして欲しいの。月々受信料が千円くらい今までより増えますけどいいかしら」
「今家にあるテレビはBSも受信できるからアンテナを付ければいいんだな」
「はい。お願いします」
次郎は突然昌代の希望を聞いて菜未の子育てはちゃんとできるのかと一瞬余計なことが脳裏を過ぎったが、考えてみればビデオレコーダーを買って録画をしておけば時間を気にせずに無理なく受講できそうだと思いついて、
「分かった。じゃ明日の日曜日に早速BSのアンテナとビデオレコーダーを買いに行こう」
と前向きに賛成した。
「入学手続きが必要なんだろ?」
「はい。四月と十月の入学がありますけど、今なら四月入学願書を出すのに間に合いますから、四月からにします」
「学費がかかるんだろ?」
「はい。わたしは四年生大学卒の修士課程にしたいので四年間で七十万円かかるそうです」
「へぇーっ、随分安いなぁ」
「あら、わたしは高いと思ってましたけど」
「国立大でも入学金を入れると四年間で二百五十万位かかるし、私立なら四百万、啓介君のように医学部だと六年間で二千三百万はかかってるだろ? それに比べたらすごく安いよ。昌代が頑張って勉強してくれるならオレは応援するよ。交通費とか余計な金はかからないし。放送大学の入学金はどれくらいだ?」
「入学金は二万四千円ですって。十年間以内で卒業すればいいそうよ」
「そうだな、そんなお金で卒業できるなら頑張れよ。お義母さんにもよく説明して協力してもらうといいよ」
次郎は翌日家電量販店に菜未を連れて昌代とアンテナとレコーダを買いにでかけた。義母の千代に話したところ喜んで賛成してくれた。
「わたしはこの子だけ大学まで出してあげられなかったのを今でも後悔してるのよ。下二人と不公平だし昌代は勉強が好きな子ですから。次郎君応援してあげて下さいな」
通信教育は始めて見ると思ったよりも大変だったが時間に制約されないので毎日続けることができた。
結婚以来次郎は仕事に精を出し多忙であったが、夫婦として次郎と昌代の間に暗黙の了解事項があった。それは夫婦としての愛の営みの約束だ。概ね月に二回か三回、母の千代と菜未が寝静まってから二人はこっそりと申し合わせたかのように家を出て自転車で相模原や上溝にある大きめのビジネスホテルで休憩した。投宿はせずいつも二時間か三時間ダブルベッドで抱き合い愛し合った。相模原や町田周辺にはカップルズホテルは数多くあるが、二人はそうしたホテルを使わずに普通のビジネスホテルを使った。夫婦だからやましいことは何もないのだが、なぜかそうした。料金は一人三千円から四千円かかり安くはなかったが、昌代の体調が良い時に二人で出かけた。母の千代は薄々二人のことが分かっていたが敢えて口には出さずに二人が出かけた時は黙って菜未の様子を見てあげていた。
その日は次郎がいつもより早く帰宅した。なんでも仕事の区切りが付いて早めに仕事を切り上げて帰ってきたと言った。
「今夜、お出かけする?」
「ああ、いいね。オレもなんとなくしたい気分だな」
それで昌代は菜未を寝かし付けると支度をしてそっと外に出た。次郎も一緒に出て来た。夜遅いからあたりは静かで人影もなかった。二人は自転車を引っ張り出すと揃って相模原方面にサイクリングした。なるべく車の往来が少ない住宅地の小道をふたりで楽しげに走った。日曜日次郎が休みを取れた日は今でも昌代の実家に二人で自転車を漕いで出かけて父親の畑仕事の手伝いをしていたから珍しいことではなかった。何回も通ったビジネスホテルに着くとチェックインを済ませて部屋に入った。
「今夜菜未の妹か弟を授けて下さらない?」
「そうだな。そろそろ二人目が欲しいね。オレとしては菜未のような可愛い女の子がいいな」
その夜は昌代は次郎に二人目の子供を下さいと思いながら燃えた。次郎は結婚してからいつも優しく昌代を愛撫して昌代が、
「もうダメぇ、来てぇっ」
喘ぎながら次郎を求めるまで愛撫を続けた。次郎は昌代の奥深くに射精を終わるとしばらく昌代を抱きしめて眠った。昌代はその時間が一番幸せを感じた。
あれから二月後に昌代は二人目を懐妊しているのに気付いた。菜未の時と違って二人目になると何となく安心して産婦人科を訪ねることができた。
「おめでとうございます。丁度八週目ですね」
そんな女医の言葉に昌代は嬉しさがこみ上げてきた。次郎と母に報告すると二人共喜んでくれた。
「いよいよ菜未はお姉ちゃんになるのね」
まだ菜未はお婆ちゃんの言葉を理解できないが、母の千代はとても嬉しそうな顔をして菜未の頭を撫でた。
第六十三章 菜未の成長
菜未が生後六ヶ月くらいから昌代は絵本を読んで聞かせ始めた。最初は絵を目で追う程度だったが、一歳を過ぎると少し意味が分かるようになってきた。絵本の[くだもの]は食卓に上る色々な果物がリアルに描かれていて今では絵を指差して、
「これリンゴだよ」
と言うようになった。スーパーに行くと果物売り場では目を輝かせて、
「ももだよ」
とか
「これスイカでちゅね」
などといつの間にか果物の名前を覚えてしまった。菜未が大好きな絵本は[たまごのあかちゃん]だ。たまごの赤ちゃんなんておかしな題名だが、卵からへびやカメが生まれてくるところがお気に入りらしい。
絵本は買って与えるのが良いのだが家計を切り詰めているのでとても買えない。それで図書館で借りてきた絵本を読んで聞かせていた。いつも通っている市立さるびあ図書館では一回に十冊まで二週間も借りられるから月に二回か三回通えば良いので時間的な負担にならない。借りた本はどんな人の手に触られたのか分からないから昌代は借りてくるとアルコール消毒スプレーで頁毎に丁寧に消毒してぼろ切れで拭い、一時間ほど日光に当てて綺麗になった本を菜未に見せていた。手間がかかるように思えるが実際にやってみると大した時間はかからない。
子供は一歳を過ぎると片言だが話ができるようになり、親が言うことはある程度理解できるようだ。だから毎日絵本を読んだり散歩をしながら話しかけるのがとても楽しい。親は子供に癒されると言うが昌代はその通りだと思った。世の中では子供を虐めたり邪険に扱う親がいると言うが昌代にはそんなことは考えられない。
菜未が着る物は下着は買ってきた物を着せているがスカートやパンツ、コート、ブラウスなどは母と手分けして母の物や自分の物で古くなった物を解いてリメイクして着せたからあまりお金をかけずに済んでいた。最近では母が使っていた古い家庭用ミシンがフル回転している。
妹の真美と弟の啓介は時々泊まりで遊びに立ち寄ってくれる。真美も啓介もすっかり菜未と仲良しになり可愛がってくれるのを昌代はとても嬉しいと思った。
次郎は係長に昇進してから部下も仕事も増えて毎日とても忙しいらしいが、朝出がけに菜未を抱き上げると手を握らせたりチューさせたりしてなかなか菜未と離れない。
「あなた、会社遅刻しますよっ」
昌代はいつまでも菜未をあやしている次郎を菜未から引き離すのに一苦労だ。
子供が居る家庭では多くは自家用車を持っているが、次郎は昌代と相談して車は当分持たないで暮らして行くと決めていた。車を持てばガソリン代、駐車料、税金、保険料、車検料、タイヤやオイルの交換など次郎たちの家計では相当重い維持費が嵩む。それで二人は車を持たずに相変わらず自転車、電車、バスを交通手段にしていた。雨の日や冬の寒い日には厳しいことがあるが何事も慣れで、慣れてしまえば我慢できた。その代わりに昌代は苦しい家計を遣り繰りして毎月五万円、次郎のボーナスの中から夏冬二十万円、一年間で百万円を貯蓄に回していた。年に一度か二度家族で小旅行に出かける時はレンタルで軽自動車を借りた。軽自動車だと二十四時間借りても税込みで七千三百円弱だから菜未と五人で出かけて燃費を入れても一日一万円程度で済む。伊豆や箱根に日帰りで温泉に入って来てもそれほど大きな負担にはならなかった。
銀行の定期預金金利は多い銀行でも百万円で年率〇.二%、少ない銀行はは〇.〇八%以下の所もある。だから仮に年率〇.二%とすると一年間で受け取り利息は税込みで二千円、手取りだと二千円以下だ。それで昌代は上場不動産投資信託J-REIT(Jリート) [Japan Real Estate Investment Trust]の中で利回りが良くて値下がりリスクが少ないと思われる野村不動産オフィスファンド投資法人のリートを最初一口五十万円で二口をネット証券を通して購入した。これだと好きなときに売却したり購入したりできるから経済環境が悪くなりそうな気配を感じたら売却して現金で持てばリスクを回避できる。リートを選んだ理由は最近都心のオフィスの空室率が下がって賃料が上昇トレンドを示していたからだ。利回りは四%を超える銘柄は多いが昌代は利回りを欲張らずに三~三.五%程度で信用できそうな銘柄を検討して決めた。今では四口まで買い増していたから配当金は年間五万円と少しの手取りがある。税金は二十%に加えて大規模災害復興支援金の〇.三一五%も取られるから年間で一万三千~四千円程度税金を支払った残りが手取りだ。昌代はリートの配当金を家族旅行に充てたから家計を心配せずに温泉に浸かってから美味しい物を食べたりできた。
菜未が満二歳になる少し前に昌代は二人目の赤ちゃんを出産した。女の子だった。名前は菜桜にしようと生まれる前から決めていたので菜桜で届けを出した。
菜桜が生まれて昌代が退院してくると、小美玉から次郎の両親と兄夫婦がやってきて狭い家が一杯になった。そこに昌代の父世之介と真美と啓介も加わったので小さなボロ家の床が抜けてしまうかと心配する始末だ。しかし昌代は家族が全員集まってわいわいがやがやしているのが好きで千代と一緒に料理を出したりお茶を出したり忙しく動き回った。菜未の時は産後の回復が遅かったが二人目になると慣れも手伝って回復が早い。その日は次郎は休日出勤を早めに切り上げて昼過ぎに帰ってきた。
「次郎君は良く働いているそうだな」
世之介は最近多忙な次郎の様子を千代から聞いていた。
「オレには仕事しかないっすから」
次郎は照れた。
「次郎さんの稼ぎだけでよくやっておられますわ」
と兄嫁の佳織が褒めると、
「昌代の遣り繰りのお蔭ですよ」
と昌代を持ち上げた。菜未は大勢大人が集まった中で一人で人気者になっていた。女の子は二歳になるととても可愛らしくなる。
「あたしもこんな可愛らしい娘が欲しいな」
と佳織が呟くと、
「佳織さんはまだお若いから頑張れば赤ちゃんができますよ」
と千代が励ましている。
大勢の客が引き上げて行くと、真美と啓介はお泊まりすると言った。
母の千代と昌代がお片付けを済ませて夕食の支度をしている間、真美は菜未と畳の上にごろんと寝転んでお喋りを始めた。真美がふと本棚を見ると、自分が子供の頃馴染んだ本があった。どうやら姉が実家から持って来たらしい。
本はメーテルリンクの青い鳥だ。まだ幼かった頃母が姉の昌代と一緒に寝る前に読んで聞かせてくれた本だ。何度も何度も読んで聞かせてもらったから今でも物語の内容をよく覚えている。真美は立ち上がってその本を取り出すと菜未に読んで聞かせた。
「このご本、ママがよく読んでくれるよ」
「そう? どこが面白い?」
「うーんと、あのね、大きな森のところ」
「こんばんわってご挨拶をすると、森の樹がざわざわとゆすってご挨拶してくれるんだよね」
「ん。森の樹も菜未ちゃんのご挨拶が分かるんでしょ」
「そうよ」
その次の月夜の墓地の話しになると、菜未は怖いと言った。まだ二歳なのに墓地が怖い場所だと分かっているんだろうかと真美は訝った。
青い鳥を読んでいる間に、真美は母が、
「幸せの青い鳥はね、どこか遠くにいると思って探したけれど見付からなかったのよね。結局自分のお家の中に居たのよ。幸せはね、どこかにあるんじゃなくて、自分たちが毎日暮らしいてるこのお家の中にあるのよ。だから他人の生活を見て幸せそうに見えてもそれを羨ましがってはいけませんよ。わたしたちのお家は狭くて貧乏だけど、このお家の中に幸せが一杯詰まっているのよ。なんにもなくても楽しい我が家って言うでしょ」
と繰り返し話してくれたのを思い出していた。横を見ると菜未はいつの間にかすやすやと眠っていた。真美は押し入れから掛け布団を出してそっと菜未に掛けてやってから台所に行った。夕食の支度は殆ど終わっていて美味しそうな匂いが漂っていた。真美はこれが本当の幸せなんだなと改めて思った。部屋の隅のベビーベッドを覗くと産まれたばかりの菜桜が目を開けて天上を見つめていた。あまり泣かない良い子のようだ。
第六十四章 啓介の行方Ⅰ
世の中で医者は金持ちだと思っている者は多いが医者は必ずしも金持ちばかりではなく殆ど無給で厳しい医療に当たっている医員は多いのだ。苦労して多大な学資をかけて六年間も大学で勉強して医師免許を取得しても安定した職場に就いて高額な収入を得るのは難しいのだ。医学部を卒業した者の多くは家業が病院経営だったり資産家の子弟で元々金持ちだったりするから医者は金持ちとだと思われているが、啓介のように家が貧乏で両親や姉の助けで何とか卒業し医師免許を取得しても良い職場に就職できなければ殆ど無給で過酷な労働を強いられるはめになってしまうのだ。
啓介は医学部に在学中先輩たちからそうした医療現場の悲哀を聞かされてきたから卒業間際に国家試験を受験して運良く医師免許を取得しても決して安易な気持ちにはなれなかった。
啓介は大学を卒業すると大学病院に残れるように在学時から笹川教授にお願いをしていた。真面目に勉強する啓介を笹川教授は可愛がり啓介は運良く研修医として大学病院に残してもらった。大抵の大学病院には医局と称する組織があって医局長の教授を頂点としてピラミッド形の組織が出来上がっている。教授は大きな力を持っていて医局全体を掌握しているから教授に認められたら将来の昇進も約束される。しかし、ドロドロとした内面もあり油断をしていると足を掬われて転落してしまうこともあるのだ。
そんな時、研修医の啓介に嬉しい幸運が舞い降りてきた。ある日普段から尊敬している笹川教授に、
「君、海外留学を考えたことはないかね?」
と聞かれた。
「留学をして海外の医療現場を経験してみたい気持ちはありますが、チャンスがなくて」
「そうかい。君が行く気があるなら、僕の友人で資産家の米村沙希と言う夫人がね一名適当な人を紹介して欲しいと言うんだよ。学費と滞在費、それに生活に必要な費用は全部負担してくれるそうだから金の心配は要らんのだよ。どうだ、チャレンジしてみるかね?」
「留学先は決まっているのですか?」
「先方の希望はフィラデルフィアのペンシルバニア大学だ。米国では名門だね」
「是非行かせて下さい」
「簡単に決めていいのかね」
「はい。迷いはありません」
「じゃ、一度米村夫人に会ってみて先方が了解ならこの話を進めよう」
「お願いします」
数日後啓介は教授のお供で築地の田村と言う日本料理屋に出向いた。啓介にとっては敷居が高く入りにくい店だ。教授と共に奥の部屋に行くと、綺麗な年配の婦人が待っていた。
「お待たせしたかな」
「いえ、私も今来たばかりですよ」
「その後米村さんはお元気ですか?」
「元気にしております。電気自動車のリコール問題も峠を越しましたが今は後始末で多忙のようです」
「息子さんの希世彦君が社長になられて少しは楽になられたでしょう」
「そうですわね。お陰さまで希世彦は社長業に慣れてきたようです。ところで、先日お願いしました留学生の候補はこの方ですか?」
「はい。彼は学生時代から可愛がってきたやつで真面目なところが取り柄ですな」
「お名前はなんとおっしゃるの?」
「鈴木啓介と申します」
「ご両親は健在でいらっしゃいますの?」
「はい。二人共元気です」
「お父様のお仕事は?」
「母と一緒に神奈川県の厚木市の奥、半原と言う所で小さな農園を営んでいます」
「じゃ、南里大学の医学部じゃ学費が大変だったでしょ?」
「はい。両親とそれに姉が大学の進学を諦めて学費の応援をしてくれましたので何とか卒業させてもらいました」
「そう? お姉さまは偉いわね。今はどうなさってるの?」
「結婚して子育てをしながら放送大学で勉強を始めたみたいです」
「偉いわね。ご兄弟はお姉さんとあなたとお二人?」
「いえ、真ん中に姉がもう一人いますので三人です」
「留学の話はご両親にはお話されたの?」
「はい。報告しましたらとても良い機会だから行きなさいと申しておりました」
「医学は専攻のご希望がありますの?」
「外科を志望する友人は多いですが、僕は内科と小児科医になりたいと思っています」
「どうしてそう思うの?」
「家族の健康は幸せの原点だと思いますし、子供は国の宝物だと思いますのでそんな考え方で世の中に貢献したいと思っております」
「お医者さんになってお金持ちになりたいと思っていらしゃるの?」
「いいえ。子供の頃から貧乏でしたが、母から貧乏でも家族が楽しく過ごしていれば幸せは家の中にあると教えられましたからお金儲けをして贅沢を夢見たことは一度もありません。それよりも質素に生活をして医療で世の中に貢献して少しでも幸せな方々が増えるといいと思っています」
「あらそうなの? そんなお気持ちをずっと持っていれば立派なお医者様になれるわね。分かったわ。私があなたを応援してさしあげましょう。アメリカに渡って立派なお医者様になって帰っていらっしゃい。私が推薦するペンシルバニア大学のペレルマン医学大学院はね、アメリカの小児科ではトップクラスのフィラデルフィア小児病院と関係が深いのよ。あなたのご希望にぴったりだわね」
「はい。よろしくお願いします」
「米村さん、これでいいのかね?」
「あなた弟子を見る目は確かね。私はこの青年、気に入ったわよ。先生もしっかりと応援なさって下さいまし」
こうして啓介の留学は決まった。世之介と千代に報告すると大層喜んでくれた。
その年の七月暑い日に、啓介は家族に見送られて羽田からエアーカナダ航空で米国フィラデルフィアに向けて飛び立った。途中カナダのトロントで乗り継ぎだ。米村夫人と教授も見送りに来てくれた。
「頑張りなさい」
米村夫人がかけてくれた優しい見送りの言葉を啓介は一生忘れないだろうと思った。
生まれて初めて米国に渡った啓介はフィラデルフィア国際空港に降り立ち入国手続きを済ますと米村夫人に言われたとおりタクシーの運転手にメモを渡してキャンパスから少し西に行ったクラークパークに近いDr. Tom Collins宅に直行してMs.Yonemuraの紹介で来ましたと告げた。コリンズ教授は事前に連絡を受けていた様子で直ぐに部屋に通してくれて奥さんのマリーさん共々歓迎してくれた。
「よく来たな。ここが直ぐに分かったのかい?」
「タクシーの運転手にメモを渡して案内してもらいました」
啓介は英会話は得意ではなかったが長年英文の論文、医学書を沢山読んでいたからボキャブラリーは豊富に覚えていたから何とか意志の疎通はできた。医科学の場合専門用語を並べると相手と意志の疎通はしやすい。ビジネスの世界でも同じだ。
「今夜から宿泊する場所だが、この近くに僕の友人がいて君に部屋を貸してくれるそうだ。お茶が終わったら案内するよ」
「ありがとうございます」
コリンズ邸から数百メートル歩いた所にコリンズ博士の友人のDr. Thomas Andersonの邸宅があった。既に話が通っていた様子で奥さんのジュリアさんがこれから暮らす部屋に案内してくれた。こざっぱりとした部屋でベッドやシーツなど全て揃っていた。
「東京のMs. Yonemura から十分な費用を既に受け取っておりますからあなたは何も心配なさらずに私たちの家族として大学院をご卒業なさるまでここで暮らして下さいね」
と啓介を抱きしめてくれた。お茶が終わるとコリンズ夫妻は引き上げて行った。話ではキャンパスまで約一キロメートルくらいしかないので徒歩で通えるそうだ。後で聞いた話ではスキュールキル川を渡って直ぐのリッテンハウススクゥェア周辺はスーパーや専門店が多く買い物が便利で多くの学生がこの周辺に住んでいるそうだった。ここには日本のユニクロも出店している。奥さんのジュリアさんは、
「今夜からお食事は私たちとご一緒にしましょう。お昼は大学の食堂で召し上がるといいわね。朝食は私たちとご一緒に食べましょう」
そう言うとシャワールームやトイレ、洗面所などを案内してくれた。
「歯ブラシはこれをお使いなさい。これからはあなたのことをケイスケと呼ぶわよ。いいでしょ?」
「はい。奥様。ケイスケで結構です」
こうして啓介のアメリカでの生活が始まった。アンダーソン夫妻は啓介を息子のように可愛がってくれたから、夢のような留学生活だ。深夜になると早速啓介はスカイプで昌代と真美に話をした。スカイプは映像がリアルタイムで相手に伝わるので自分の部屋の中の様子が昌代たちに分かり、お世話になっているアンダーソン夫妻との会話もできた。
最初の一年間は学校の授業や実習に付いていくのが精一杯で余計なことに神経が回らなかったが一年を過ぎるとようやく周囲のことが見えるようになってきた。
そんな時、学生食堂で以前からよく顔を合わす女性と知り合いになった。彼女は神奈川県の相模大野からこちらのメディカルスクールに留学中で木下亜希子だと自己紹介した。大学を卒業後直ぐにこちらに来たそうで啓介よりも二年前に留学してきたそうだ。啓介は早生まれだから彼女より一年先輩だが同じ年だったので話が良く合った。彼女の実家は地元で木下産婦人科医院を開業しているそうで、彼女も婦人科の医師を目指して勉強していると言った。
第六十五章 啓介の行方Ⅱ
「あなたどこに住んでいらっしゃるの?」
その日も啓介は亜希子と並んで学食で昼食を食べていた。
「実家のこと?」
「そうじゃなくて、今住んでいらっしゃる所」
「ああ。僕はアンダーソン教授の家でお世話になってるんだ」
「アンダーソン先生って心臓外科で有名な方?」
「そうだよ」
「あなたは内科と小児科でしょ? あなたは外科を目指さないの?」
「ああ、専攻は違うけれどいろいろためになる話をしてくれるよ」
「どんなお話?」
「例えば……東洋医学の話とか」
「東洋医学?」
「ん。先生は手術が成功しても病気が治らないケースを何例も経験されているんだって。今は医療機器か発達して患部を見ながら手術ができるようになったから、機器を使って目で見て完全に治したつもりなのに術後痛みが取れないとか理論では考えられない麻痺が残ったりすることがあるんだって。その理由が分からなくて最近東洋医学を研究してるんだって。人の身体は複雑だからまだ解明されていないことが沢山あって、長い歴史を持つ東洋医学に何か参考になることがあるんじゃないかと考えておられるそうだよ。例えば鍼なんか西洋医学にはない施術法にはとても興味があるんだって。あるとき麻痺が残ってどうしても直らない患者を鍼灸師に頼んで鍼を打ってもらったらウソみたいに麻痺が取れた例も経験されたそうだよ」
「ふーん? 不思議だね」
「僕は内科と小児科の専門医を目指しているんだけど、患者を触診する時、病気の原因を判断する場合に東洋医学を勉強して参考にするといいとか教えてくれたよ」
「今度あなたの所を訪ねてもいい?」
「亜希子さんならいつでも歓迎するよ」
翌週亜希子が啓介を訪ねてきた。
「あらぁ、お部屋広くて素敵ねぇ。あたしのとこなんか狭くてあまり綺麗でなくて」
「他所を見たことがないから分からないなぁ」
亜希子は啓介を羨ましがった。
「あなたはケイスケが連れて来た最初のガールフレンドよ」
そう言ってアンダーソン夫人は亜希子をもてなしてくれた。亜希子は最初のガールフレンドだと言われてとても嬉しかった。思った通り啓介は女性関係が清潔のようだ。
「卒業するまでにアメリカの色々な所に旅行してみたいなんて考えたことない?」
「ありますけど、一人じゃ怖くてお出かけできませんから」
「今度二人でお出かけしてみない?」
「学校の研究に支障はないの?」
「ん。夏休みとかなら時間が取れるよ」
「じゃ、具体的に計画してみましょうか」
啓介と亜希子は休日に小旅行をする約束をした。
「旅行の計画、できた?」
「あたしの提案ですけど、観光だけでなくて大学病院を回ってみません?」
「そうだね。テーマがあると有意義な旅行ができるね」
「それで最初の目的地ですけど、ペンシルベニア州の西の方のピッツバーグはいかがかしら?」
「僕もピッツバーグがいいと思っていたよ」
「じゃ、決まりね」
この話をコリンズ博士にしたところ、
「君たち、とても良い計画を持ってるね。ピッツバーグのメディカルセンターに友人がいるから紹介状を書いてあげよう」
と早速紹介状を書いてくれた。
啓介と亜希子は大学生活最後の夏休みに、最初はピッツバーグ、続いてボストンのBrigham and Women’s Hospital 、 Massachusetts General Hospital 、ニューヨークにあるNew York-Presbyterian University Hospital of Columbia and Cornell 、ワシントンDCに近いメリーランド州のダーラムにあるJohns Hopkins Hospital 、ノースカロライナの Duke University Medical Center 、それからシカゴに飛んでNorthwestern Memorial Hospital 、最後に西海岸サンフランシスコのUCSF Medical CenterとロサンジェルスにあるRonald Reagan UCLA Medical Centerを回る計画を立てた。約一ヶ月の旅だ。大学病院はいずれも米国でランキングが上位の有名な病院ばかりだ。大学はどこも夏休みだが行く先は病院だから休みの心配はなかった。
啓介は東京の米村夫人に旅行の趣旨を説明して旅費を応援してもらった。米村夫人は快く引き受けてくれた。
夏休みに入ると、啓介はレンタカーを借りて最初にフィラデルフィアからピッツバーグを目指して走った。ピッツバーグまではハイウェイ76号線一本で行けるから分かりやすい。距離は400キロを越えるので東京から名古屋の先まで走る感じだ。
ピッツバーグのメディカルセンターは行ってみて規模の大きさに驚かされた。コリンズ博士が友人だと言う外科部長のデイビス博士を訪ねて紹介状を見せると、
「遠路よく来てくれた。センターを一通り案内しよう」
そう言って二人を案内してくれた。
「ここはね、職員が五五、〇〇〇人も働いているんだ。あなた方が通っている大学病院よりでかいだろ?」
と自慢気に説明してくれた。このメディカルセンターは予防医学と家庭医の育成に力をいれていて二人共すごく参考になった。
「日本の福岡の飯塚病院を知ってるかね?」
「名前だけしか知りません」
と亜希子が答えた。正直なところ、啓介は知らなかった。
「飯塚病院はとても良い病院だから帰国されたら是非一度訪ねてみるといいよ。あの病院とこちらのメディカルセンターはアライアンス(alliance)契約を結んでいてね、こちらで研修医の受け入れもしてるんだよ。そうだ、僕が飯塚病院の医院長宛に紹介状を書いてあげよう」
どうやらデイビス博士は就職口を世話してやろうと言う感じで紹介状を書いてくれたらしい。
メディカルセンターの見学は丸一日使ってもとても足りないくらいだったが、一日で切り上げて夜はダウンタウンのオムニ ウィリアム ペン ホテルに投宿した。
「二部屋取る?」
「ルームチャージが三万弱もするからもったいないから一部屋でいいわよ」
「亜希子さんが気になさらないなら助かるね」
「あたし、啓介さんを信じていますから」
それで一部屋を取った。部屋は広くてゆったりしており古いアメリカ文化を伝えるしっとりとした良い感じのホテルだった。約二十階建ての大きなホテルだ。疲れたせいか亜希子は早めにベッドに潜り込んですやすやと寝てしまった。そっと寝顔を覗くとまだ少女の面影を残していて可愛らしい。
翌日はピッツバーグからハイウェイ79号線に乗って一時間ほど離れたフレンドシップヒルと呼ばれている観光名所に立ち寄った。この地はフィラデルフィアの西南端にあり、スイスの貴族だったアルバートギャラティンと言う人が1,700年代末に広大な農園を買い取り別名ニュージュネーブと名付けた場所で古き良き時代のアメリカの農村風景を今に伝えている所だ。
「アメリカのカントリーってこんな感じなのね」
亜希子は初めて見るアメリカの農村風景に感銘していた。
フィラデルフィアのアンダーソン邸に戻ると、夜二人で旅の感想を夫妻に報告した。
「明日からボストンに出かけるんだろ? 気を付けて行って来なさい。ここにブリガム婦人科病院とマサチューセッツ総合病院、それにニューヨークのコロンビア大学病院の友人に宛てて紹介状を書いておいたから訪ねてみるといいよ」
啓介は医療の世界は人のつながりが大切だと聞いていたがアンダーソン博士やコリンズ博士も友人が多くつながりが深いことに感心した。同時に、自分もこれから医療の世界で生きて行く上でいくつもの病院で知り合えた先生方とのつながりを帰国後も大切にしていこうと思った。亜希子も同じことを考えている様子で、アンダーソン博士の話をメモに取っていた。
ボストンはフィラデルフィアからピッツバーグに行く距離とあまり変わらないからレンタカーで行くことにした。ボストンからニューヨークに戻りニューヨークからフィラデルフィアに戻ってくる予定だ。
ボストンのブリガム婦人科病院はハーバード大学病院で特に婦人科に特化して設立された病院でハーバード大学メディカルセンターとの人的交流があると説明を受けた。亜希子は実家が産婦人科病院なので案内してくれた博士の話を興味深く聞いていた。
ボストンで二番目に訪ねた病院、マサチューセッツ総合病院はハーバード大学メディカルスクールの関連機関で言ってみればハーバード大学病院とも言える大きな病院だった。
一日に二つの大病院を回ることは無理なので、二人は二日間ボストンに滞在した。ボストンやニューヨークはホテル代が高い。それで啓介は贅沢をせずにネットで室料が安いホテルを探して予約した。安いと言っても亜希子と一緒だからみすぼらしいホテルは避けてそこそこ良いホテルにした。ボストンではレバレット池を囲む公園に隣接したenVision Hotel Bostonに投宿した。室料は有名ホテルの三分の一くらいで安かったが部屋は悪くはなかった。
啓介はちょくちょく東京の米村夫人に宛ててメールを送っていた。二日目の夜も亜希子が眠ったのを確かめてから写真を添えて旅行の様子を伝えた。
[写真は前にお伝えしたフィラデルフィア大学病院で知り合った木下亜希子さんです。夏休みはずっと彼女と一緒に各地の病院を訪ね歩いています。昨日はボストンのブリガム婦人科病院を訪ねました。アンダーソン博士の紹介で病院の婦長ヘルナンデス女史に案内して頂きました。ハーバードのメディカルスクールに密接した婦人科に特化した病院でとても良い病院でした。今日はハーバード大学に密接したマサチューセッツ総合病院を見学しました。アンダーソン博士の紹介でトンプソン博士が丁寧に案内してくれました。写真のような大病院で高度医療用設備が整っていて素晴らしい病院でした。このような機会を下さいました米村様にとても感謝しております。米村様は僕の母親ではありませんが、息子にして頂いたつもりでしっかり勉強して帰国後できれば亜希子さんと結婚して亜希子さんの実家の病院で頑張ってみたいと思っています。彼女の実家の病院は産婦人科ですが、将来僕の専門の内科と小児科を加えて良い病院に発展させることが出来ないかと考えています。今日はそんな気持ちで病院の見学をしてきました。帰国後お目にかかれることを楽しみにしております。おやすみなさい]
米村沙希は啓介からのメールを読み終わると、息子の希世彦と今は嫁になっている美玲がハーバード大学で知り合った時のことを重ね合わせて啓介を亜希子さんとか言う娘と結婚できるように後押しをしてやりたいと思った。
第六十六章 啓介の行方Ⅲ
翌日はニューヨークに移動してコロンビア大学病院を訪問した。紹介状を書いてもらったモリス博士は手術中で一時間ほど待たされた。コロンビア大学はマンハッタン島のモーニングパークに隣接した所にあるが、メディカルセンターはワシントンハイツにあるから二人はメディカルセンターの方を訪ねた。モリス博士は心臓外科の権威で多忙の様子なので一時間ほど案内してもらってから別れた。
「今夜はニューヨークに泊まろうよ」
「はい。適当なホテル、部屋が取れるかしら」
啓介はセントラルパークに近いニューヨーク ウェリントンホテルに決めてフロントで空室を確かめた。
「お客様はハッピーです。丁度今キャンセルが入りましたのでお泊めできます」
ウソか本当かなんて空室があればどうでも良かった。ニューヨークは予想以上にホテルの空室が少ないことを啓介は知っていたから運が良いと思った。ルームチャージは思ったより安く二万七千円だった。チェックインを済ませてバッグを部屋に置いて二人は外出した。ニューヨークの街を車で一通り走って見てからセントラルパークを散歩した。亜希子はすっかり啓介の恋人になった様子で腕を絡めてきた。夕食を公園近くのレストランで済ますと夜は早めに寝た。ダブルベッドで寝たが啓介は亜希子に手を出さなかった。亜希子も啓介の行儀の良さにすっかり安心しきっている様子だ。
アンダーソン邸に戻るとボストンとニューヨークの病院の感想を夫妻に報告した。
「レンタカーを返しがてらに送っていくよ」
「いいの。ご無理なさらないで」
亜希子が住んでいるフラット(アパート)は二階の角部屋だが狭かった。それで自分が下宿しているアンダーソン邸の部屋を見て広いと言った意味が分かった。狭いが小綺麗に片付いているところに好感が持てた。
「ティーを一杯いかが?」
「疲れているのに済まないね。ご馳走になるよ」
香りの良いティーをご馳走になってから立ち上がると亜希子が後ろから抱きついてきた。啓介が驚いて振り向くとそこに亜希子の顔があった。上目遣いに啓介の目を見つめている。啓介は亜希子に向き合ってそっとおでこに唇を押しつけた。
「啓介さん、好きよ」
付き合い始めてから初めて亜希子の気持ちが聞けた。
「僕も好きだよ」
啓介が亜希子を抱きしめると亜希子は小刻みに震えていた。
「明日は一日お休みを取って、明後日ワシントンDCに行こうね」
「はい。よろしくお願いします」
亜希子は顔を赤らめていた。
「おやすみ」
「お気を付けて帰って下さいね」
亜希子のフラットを出てからもしばらく亜希子の身体の温もりが啓介の肌に残っているように思えた。
「明日はジョンポプキンスの予定だったね。また紹介状を書いておいたよ」
そう言って博士は二通の紹介状を渡してくれた。一通はノースカロライナのディユーク大学病院の医師宛だ。
翌日またレンタカーを借りると亜希子を迎えに行ってそのままハイウェイ95号線に乗ってメリーランド州のボルチモアに向かった。フィラデルフィア近郊を流れるデラウェア河は国立公園に指定されている部分もあり景色が良い所だが、95号線に乗るとしばらくデラウェア河に沿って走る。ボルチモアはワシントンDCから約百キロメートル北側で周辺に大きな墓地が点在する街だ。Johns Hopkins Hospital は市の中心部のやや北側にあるウィマンパークの中にあった。
啓介は紹介状を書いてもらったクーパー博士を訪ねた。男性だとばかり思っていたが綺麗な女性だったので驚いた。クーパー博士は亜希子に優しく色々細かい説明をしてくれた。
「この大学は中国と韓国の留学生が多くてね、約二割も勉強されているのよ。あなた方は日本人ね。日本からも大勢留学にいらしてますが、日本人は中国や韓国に比べて少ないわね」
研究棟を案内してもらったが、世界のトップクラスだけあって先進医療用設備が整っていたのが印象に残った。見て回る所が多く夕方までかかってしまった。
「夕食、ご一緒にいかが?」
クーパー博士のお誘いで夕食をご馳走してもらうことになった。亜希子はすっかり親しくなって個人的なことまで話をしていた。
「素敵な彼だわね」
と博士が亜希子に言ったが啓介は聞こえなかったふりをした。ボルチモアは海岸に近くシーフードが美味しいと港のシーフードレストランに案内してくれた。蟹がいっぱい出て来て亜希子は面食らっている様子だ。アメリカ料理はボリュームが大きく味はいまいちのところが多いが、案内された店の料理は美味しかった。
港に近いヘンダーソンズ ワーフと言うあまり大きくないホテルに投宿したが、中庭が綺麗で室内の調度品はクラシックなとても良い感じで啓介は大当たりだと思った。夜ベッドに入ると初めて亜希子が抱きついてきた。啓介は亜希子を抱きしめて初めて唇にキスをした。女性とキスをするのは初めてで恐る恐るだったが亜希子はちゃんと応えてくれた。啓介はHなことはしなかったが亜希子が自分の恋人になってくれたとその夜実感した。
翌日はノースカロライナのダーラムに行く予定だがボルチモアから約四百キロメートルも離れているから一日移動に充てた。アメリカは広いから地図上で近くに見えても実際にハイウェイを走ると疲れる。二人は朝ボルチモアを出ると95号線に乗りワシントンDCを通り抜けてひた走りバージニア州のリッチモンドの街で休憩した。牛のマークの小さなカフェに入って見ると味は良かった。見知らぬ土地に行けば行き当たりばったりの店に入るしかないから当たり外れは仕方がないが、今までのところ期待を裏切られたことはなかった。
リッチモンドで一服したところでまたハイウェイに乗って走った。啓介は地図を見て、リッチモンドから少し先のピーターズバーグと言う町でハイウェイ85号線に折れた。ここから目的地のダーラムまで百六十キロもある。ノースカロライナに入ると湖沼が点在していて景色が良い。
「亜希子さん、疲れただろ?」
「はい。少し」
「ディューク大学は遠いね」
周囲の景色を見ながら走っているうちにダーラムの市街に入った。ダーラムは田舎町でホテルはあまり高くないから少し大きめのDurham Marriott にチェックインした。街中を明るい内に一周してディューク大学病院の場所を確かめた。市街の中心からやや西に大学があり病院は大学より少し北にあった。
翌日アンダーソン博士の紹介状を持ってメディカルセンターのジャクソン博士を訪ねた。博士は紹介状に目を通すと、
「ではわたしがご案内しましょう」
と二人を案内した。背が高く大きな男で歩くのが速いから亜希子は小走りでついてきた。
「あなたたちは勿論ノースモーカーだよね」
博士はくだけた話し方をした。
「はい。二人共タバコは吸いません」
「実はこの大学はね、昔タバコとコットンで大儲けをしたジェームス・ブキャナン・ディュークと言う人が私財を投じて建てたんだよ。ノースカロライナは今でもタバコの産地でね、ウィンストン・セーラムなんて銘柄のタバコは有名だね」
デューク大学のキャンパスはボストンやニューヨークの大学キャンパスに比べて広大でびっくりするほど広い。周囲の風景は南北戦争後の良き時代のアメリカを象徴するような所だ。
「この大学の自慢は図書館だよ。蔵書は五百万冊以上でね、アメリカの図書館の中で十本の指に入るほど有名なんだ。あなた方がこの先どうしても調べたい文献があったらここに来れば良いよ」
ジャクソン博士の親切な案内に礼を述べて病院を出るともう夕方になっていた。
同じホテルで二泊して、翌朝ダーラムの街を後にしてハイウェイをひた走りフィラデルフィアを目指した。啓介は昨夜ホテルから米村夫人に宛てて写真を添付して長いメールを送信した。
フィラデルフィアに戻ると必要な物をパッキングして航空機でシカゴからサンフランシスコに飛んだ。二人共西海岸は初めてなのでレンタカーを借りて観光旅行もした。亜希子はすっかり啓介の彼女になってくれて青春の楽しいデートを続けた。
シカゴとサンフランシスコとロサンジェルスの大学病院もアンダーソン博士の紹介状があったので親切に案内してもらえた。
約一ヶ月の長い夏休みは終わった。啓介と亜希子は学業に忙しくデートをしている暇はなかった。年が明けて五月下旬、二人は無事に卒業した。亜希子は大学を、啓介は大学院を卒業したのだ。
「帰国はご一緒でもいいですか?」
亜希子は遠慮がちに啓介に尋ねた。
「ん。一緒に帰ろう」
啓介はコリンズ教授邸に挨拶に行ってからアンダーソン夫妻に長い間世話をして頂いたお礼を述べた。
「今夜お別れパーティーをやろう。コリンズ夫妻と君の彼女も招待しよう」
アンダーソン夫妻は心から卒業を喜んでくれた。アンダーソン邸でのパーティーは賑やかで心温まるものだった。亜希子はアンダーソン夫人と抱き合って泣いていた。やはりお別れは辛いものだ。その夜啓介は米村夫人に無事に卒業したことと亜希子と一緒に帰国する予定だと報告した。アンダーソン邸でのお別れパーティーの写真も添付した。
米村夫人から留学を勧めてくれた笹川教授と一緒に空港に迎えに行くからと返信がきた。
久しぶりの羽田空港で入国手続きを済ますと啓介は亜希子と一緒にゲートを出た。到着ゲートを出ると、米村夫人、笹川教授、次郎と昌代、大きくなった菜未とまだ歩けない菜桜、それに真美も出迎えてくれた。昌代のお腹には三人目の赤ちゃんが育っていた。
亜希子の方は両親の木下夫妻が出迎えに来ていた。啓介は米村夫人に挨拶をしてから笹川教授に元気に勉強をしてきましたと報告した。
「こんな所で恐れ入りますが、ご紹介させて下さい」
啓介はそう言うと亜希子と亜希子の両親を手招きした。
「こんな所ではなんですから、静かな所に移ってはいかがかしら?」
米村夫人が助け船を出してくれた。それで皆は米村夫人に従ってロイヤルパークホテルのレストランに落ち着いた。米村夫人は、
「こちらは啓介君を可愛がって下さっている南里大学病院の笹川教授でいらっしゃいます。こちらのお若い方々は啓介君のご兄弟、ですわね」
と啓介の顔を見た。啓介は、
「はい。兄の次郎、姉の昌代、それからこちらは妹の真美です」
と紹介した。
「亜希子さんでしたかしら、あなたのことは啓介君から聞いていますのよ。お写真より可愛らしくて素敵な方ね。お迎えはご両親?」
「はい。私は木下亜希子と申します。米村様のことは啓介さんから詳しく聞いております。こちらは私の父で相模大野で木下産婦人科病院の院長をしております。隣は母です。よろしくお願い致します」
そこに注文した料理が運ばれてきた。
「今夜はお近づきのしるしに私がご馳走させていただきますわ。よろしいでしょ?」
と米村夫人が笹川の顔を見た。
「皆様ご馳走になりましょう。申し遅れましたがこちらの米村夫人はわたしの旧友でして、米村工機の会長夫人でもあります。啓介君の留学費用は彼女が全面的に応援してくれました」
すると、亜希子の父親が、
「米村工機と言うとあの世界的な大会社の……?」
と聞いた。すると笹川が答えた。
「そうです。ご察しの通りです」
食事が終わると米村夫人、笹川教授、それに亜希子と別れ啓介は次郎たちと半原の自宅に戻った。啓介の元気そうな顔を見ると世之介は、
「頑張ったな。また病院に戻るんだろ?」
と聞いた。啓介はどうしようか迷った末、
「実は大学で知り合った木下亜希子さんと言う女性と将来結婚して亜希子さんの父親がやっている病院を手伝いたいと思ってるんだ」
と白状した。
「そうか。突然な話だな。まあいい。お前が好きな道に進めばいいよ」
と一応了解してくれた。
亜希子は両親に、
「あたし、今日会った鈴木啓介さんと結婚してお父さんの病院を引き継ぎたいの」
と啓介のことを話した。すると父親の木下は、
「ダメだ。亜希子は近々三輪産婦人科病院長の次男坊と見合いをしなさい」
と珍しく厳しい口調で言った。亜希子は突然の話しに母親に助け船を求めたが母も、
「うちの病院は財政が厳しいのよ。お父さんの言うことを聞いて三輪との縁談を進めますよ。あちらでは親戚になれば何かと応援を惜しまないと言って下さってるのよ」
亜希子は悲しくなった。それでベッドに潜り込んで夜通し泣き続けた。
第六十七章 三人目は男
菜未が二歳を過ぎると次郎が自転車の子供乗せ台を買ってきて自転車のフロント側に取り付けてくれた。それで菜桜を背中におぶって前の乗せ台に菜未を乗せると買い物が楽になった。少し傾斜がある坂道は安全のためにギアを落として楽に走れるようにして気を付けて走った。喜んだのは菜未だ。次郎は昌代と菜未の自転車用ヘルメットも乗せ台と一緒に買ってきた。大人用が千九百八十円、幼児用が二千九百八十円、幼児用の方が高かった。
「万一のことがあるとヤバイから乗る時は必ず菜未と昌代と二人共ヘルメットを被ってくれよ」
「はい。必ず被るようにします」
その日もピンクの可愛らしいヘルメットを菜未に被せると菜未は喜んだ。背中の菜桜には毛糸で編んだ厚めの帽子を被せた。
「ママ、スピード出してよ」
「ダメよ。転んだら菜未ちゃんは死んじゃうわよ」
菜未は最近妹の菜桜ができてお姉ちゃんになったことを自覚してるらしくしっかりしてきた。菜桜はまだ生後半年と少しで気を付けてないと菜未が手を引っ張ったりして危ない。だから昌代は毎日緊張の連続だが疲れはなかった。
次郎は相変わらず残業、休日出勤をして稼ぐのに多忙だが母の千代と娘二人、四人で過ごす昼間の時間は幸せだった。父の世之介は畑仕事で忙しいそうだが、掃除洗濯、食事の用意は妹の真美がやってくれており母が自分たちと同居していても大丈夫なようだ。それでも母は旦那が気になるらしく、電話をかけて様子を聞いたりたまには電車、バスで半原に帰ることもある。
昌代は放送大学の勉強をサボらず毎日子供たちを寝かせてから次郎が帰宅するまでの間机にかじりついて頑張った。次郎がビデオレコーダーを買ってくれたお蔭で時間を気にせずに勉強ができるので助かっていた。分からない部分があると何度もリプレイできるところがいい。大学で生の講義を受けるよりずっと充実した勉強ができるように思えた。残念なことは友達ができないことだ。今は二年生の勉強をしている。
最近一番の楽しみは米国に留学している啓介と深夜会話ができることだ。スカイプで話し始めると千代も次郎も覗きに来て家族で話ができたしあちらのアンダーソン夫妻とも片言の英語で話ができた。啓介はとても良い環境で留学生活が送れて幸せそうに見えた。
次郎は殆ど毎日会社と家の往復の繰り返しで、昌代は二人の子育てと放送大学の聴講の繰り返しで単調な日々が続いていた。変わったことと言えば最近妹の真美に彼ができたらしく昌代の所を訪ねてくる頻度が少なくなったことだ。恋する女は綺麗になると言うが、最近の真美は綺麗になってきた。
次郎が出かける時、見送りに出た昌代が珍しく、
「今夜お出かけできるかしら?」
と小さな声で聞いた。他人には分からない夫婦の会話だ。千代は何を言ったか分かっていたが知らん顔をしていた。
「ああ、いいよ」
抱いた菜未を昌代に預けると、次郎はいつもの通り会社に出かけた。
夜次郎が帰宅して菜未と菜桜を寝かし付けると、昌代はヘルメットを被って次郎と一緒に自転車ででかけた。寝たふりをしていた千代はそっと起きて子供たちの寝顔を確かめるとまた布団に潜り込んだ。
「今夜は暖かだね」
「はい。夜のツーリングって気持ちがいいわね」
「いつもの所にするか?」
「そうね、たまにはクラウンヒルズにしましょうか?」
「分かった」
二人は相模原駅のそばのホテルの駐輪場に自転車を停めた。フロントに行くと空き室はあった。セミダブルルームは二人で一泊八千円だ。このホテルはアメニティが整っていて清潔な感じの室内だと二人共分かっていた。
次郎がシャワーを済まして出てくると無料サービスのコーヒーがテーブルの上にあった。
「わたし、少し時間がかかるけどいいかしら」
「いいよ。ゆっくりしてこいよ」
昌代が出て来て髪を乾かしている間、次郎は備え付けの新聞を読んだ。昌代が髪を乾かし終わると二人はベッドに入った。今夜の昌代は身体を包んだバスタオルの下に何も着けていなかった。
「そろそろ三人目が欲しいな」
「二人共小さいから大変だろ?」
「二人も三人も同じだから、若い内にまとめて育ててしまった方が楽かも」
次郎は昌代の気持ちを察してその夜は避妊具を着けずに昌代を抱いた。女が男の子供を授けて欲しいと思いながら抱き合う時は避妊を気遣ってする時よりもずっと心地よいセックスができると昌代は思った。だからその夜は昌代は燃えるように次郎を求めた。
「こんども女の子かなぁ」
帰り際に次郎はエレベーターの中でぼそっと呟いた。昌代はどっちでもいいが出来れば男の子が欲しいと思った。
帰りはいつものように車が少ない住宅街の中をゆっくりと走った。こうして大好きな次郎と夜道を走るのがとても幸せだと昌代は思っていた。
夜道の交差点は車が接近すればカーブミラーやヘッドライトで分かる。だから二人共注意深く交差点を渡り車が接近している時は必ず一時停車した。急ぐことは何もないので安全を優先していた。だが突然やってくる不幸と言うが、昌代が次郎の前を走って交差点に入ると突然ヘッドライトを点灯した車が昌代が通り越そうとしている交差点に突っ込んできた。交差点に入る前はヘッドライトの明かりはなかったから突然点灯したらしい。それは次郎もカーブミラーで見ていた。
車は昌代の自転車に気付いて急ブレーキをかけ大きなスリップ音を発したが間に合わずに昌代の後輪にぶち当たり昌代は路上に転倒した。車を運転していた男は驚いた様子で転倒した昌代と自転車を避けて走り去ろうとした。咄嗟の出来事だが次郎の動きが速く車の前に自転車を乗り入れて制止した。運転手は驚いてまた急ブレーキを踏んで停まった。
次郎は自転車を車の前に立てかけて運転席のガラス窓をコツコツと叩き窓を開けろと仕草で伝えた。窓はするすると開いた。
「ひき逃げはまずいんじゃないですか?」
運転している男は気が動転しているらしく口をパクパクしているが何を言っているのか分からない。次郎は手を突っ込んでドアーロックを外して扉を開けるや男を引きずり降ろした。次郎は大きな体格だ。男は次郎とやりあっても勝ち目がないと思ったらしく刃向かっては来なかったが、
「オレの方は悪くない。この女の方が急に飛び出したからよぉ」
と言った。
「分かったよ。あんたの話はあとでゆっくり聞くよ」
次郎は携帯で110に通報して、怪我人がいるので救急車もお願いしますと頼んだ。立ち去ろうとする男に、
「あなた、ご自分が轢き逃げしようとしたことを分かってないようですね。轢き逃げは罰が重いですよ」
と牽制した。
間もなくサイレンの音と共にパトカーと救急車が到着した。次郎は警官に交差点の手前で突然ヘッドライトを点灯して急発進して交差点に進入したことや男が轢き逃げしようとしたことを警官に告げてから救急車に乗り込んだ。
「警察には後ほど伺います」
次郎は心配をかけると思って千代に電話した。
「お義母さん、遅くなって済みません。明け方には帰れると思います」
電話を受けた千代は分かってるわよと言う感じで、
「子供たちならあたしが見てますから心配しないでゆっくりしてらっしゃい」
と言った。
昌代は頭を打っていたらしいがヘルメットを着用していたお蔭で大事にはならない様子だ。
「詳しくは精密検査をしてから判断します。明日もう一度こちらに来て下さい」
当直の医師は丁寧に応対してくれた。腕や脚にできた打撲やすり傷の治療が終わると二人は医師に礼を言って病院を後にしてタクシーを呼んで警察署に向かった。
「お待ちしてました。あれから加害者の方があなた方の言い分を全面的に認めましたのであなた方は被害者として損害賠償を請求できます。加害者からアルコールが検出されましてね、飲酒運転に轢き逃げ未遂ですからこのまま帰すわけにはいきませんが、あなた方には落ち度がないので帰って頂いて結構です。後日加害者が加入している保険会社の者が訪ねると思いますので治療費、自転車の修理代、慰謝料など話し合って解決して下さい。ご苦労様でした」
応対した警官は丁寧だった。
「あのう、飲酒運転されていたのに保険は適用されるのですか?」
次郎が質問すると、
「加害者には何も支払われませんが、保険は被害者保護の観点から被害者には対人対物共に適用されるのですよ。任意の他に自賠責も同じです」
次郎と昌代は飲酒運転だと被害者にも適用されないとばかり思っていたが警官の説明を聞いて安心した。病院の治療費は交通事故には健康保険が適用されないの多額の費用を自分たちで持たなければならず、相手に訴訟を起こすのも気が進まなかったからだ。
精密検査の結果昌代の頭部には何も異常はなく、腕と脚の怪我は二週間程度で完治するだろうと言われてほっとした。二日後に保険会社の担当者が家を訪ねてきて交通事故に遭ったことを母親に知られてしまった。結局治療費全額と自転車の修理代、それにヘルメットは新しい物を買い換えた実費、通院は五日間だったので入通院慰謝料二万一千円、自転車で通院できないのでタクシーを使った運賃は領収書合算分などを全額支払ってもらった。問題は後遺症の不安だが医師は心配には及ばないと言ったので請求しなかった。
あれから二ヶ月近くが過ぎて、昌代は三人目を懐妊したのに気付いた。事故の後遺症と思われる体調の異常は何も起こらなかった。
三ヶ月も過ぎて事故のことを忘れかかっていたある日、加害者の青年が菓子折を持って謝罪にきた。昌代は、
「もう忘れて頂いて結構ですから」
と青年を帰した。それを次郎に報告すると、
「そうだね。昌代のしたことが正しいと思うよ。オレたちだって何かの弾みに加害者になってしまうことだってあるんだから世の中はお互い様って考え方で相手を許すのがいいんじゃないかと思うよ」
と言った。
啓介が帰国した時に昌代のお腹にいた三人目の子供を昌代は無事に出産した。男の子だった。日時は過ぎてしまうと早いものだ。三人目だから昌代は出産に慣れて殆ど心配をせずに産むことができた。三人目は男の子が欲しいと言う昌代の気持ちが叶って昌代は幸せ一杯だった。
「名前は翔太にしよう。翔は高く飛び上がるって意味だから元気で活発な性格に育って欲しいね」
名前は次郎の実家の父母健司と百合子、昌代の父世之介も快く受け入れてくれた。次郎は自分の分身が出来たと喜んだ。
第六十八章 垂井萠の新居
品川と横浜の間はそれほど長距離ではないが、本拠地を品川の本社から横浜支店に移すのは容易なことではない。海外営業統括室を預かっている垂井萠はかねて横浜支店の中に本拠地を移したいと思っていたが、実現するにはいくつかの難題をクリヤしなければならなかった。最初に萠は自分の部下が横浜に移っても通勤に差し支えないか一人一人聞いて見た。
「横浜ですかぁ。困ったな。わたし越谷なので今本社まで一時間少しかけて通ってますけど、横浜ですと一時間半くらいかかります。引っ越して単身赴任できたらいいんですけど、母が病弱なので無理です」
と船橋雅美は答えた。船橋は以前は埼玉の浦和営業所勤めだったので通勤時間は四十分くらいで済んだと説明した。
「そう。毎日一時間半の通勤時間じゃ無理だわね」
他の八名は大丈夫だと返事した。福井知子は住んでいる所が戸塚なので今は通勤に四十分程度かかっているが横浜だと十分と少しなのですごく楽になると答えた。最後に一番年長の奈良一樹に聞くと、
「家は千葉なんですよ。建てて五年しか経ってないので横浜に引っ越すのはつらいなぁ。本社までだと一時間と少しだが横浜ねぇ……横浜だと一時間半は見ておかないと。辛いなぁ」
つまり無理だと言うことだ。奈良は元千葉営業所勤務だったのだ。
萠は二名については別の者と人事異動を検討せざるを得ないと思った。だが相手側の部署の都合があるからそう簡単には行かない。
横浜に本拠を移す理由は萌の古巣で仕事がし易いことが第一だがそれを前面に出せないので、本社には営業部隊がなく国内の代理店網のパイプを太くし難いこと、横浜支店には強力な国内営業部隊があり既に代理店網とのパイプが太いので海外営業部隊との連携の強化に適していることなどを表向きの理由として提案した。
考えた末、問題の部下二名は元の営業所に戻してやり、当面八名プラス自分の九名体制で乗り切ると提案、人員の効率的活用も図ると主張した。
横浜支店長に折り入って相談すると、
「君の案でいいだろう。今度の役員会の俎上に乗るように手続きをしておくよ」
と一応認めてもらった。支店長は海外営業統括室が自分の傘下に入ると、最近垂井の努力により東南アジアからの観光客が増加しているので横浜支店の営業成績が近々倍増し、自分の役員への昇格の足固めに利すると考えて萌の提案はウイン・ウインの関係があり提案を押すだけの充分な価値があると判断していた。
月末の役員会で萌の提案は可決されいよいよ横浜支店に本拠地を移せる目処がついた。
「あなた、あたしね、来月から横浜に移れそうよ」
萠は夫の太郎にそう報告した。
「そうか。じゃ通勤が楽になるな。この際持ち家を考えようか」
部下の中で男子二名、女子二名は独身なので横浜に勤め先が変わるなら引っ越すと報告を受けていた。住まいの賃貸マンションの家賃は東京と神奈川では神奈川の方が少し安くなりそうなので抵抗なく移れる様子でほっとした。他の四名は現在住んでいる所から通うと決めているらしい。
「引っ越し業者への支払い実費は会社で持ちますからちやんとした業者に頼んで下さいね」
と萠が言ったことが部下との信頼関係を厚くするのに役立ったようだ。
その年の十月一日、会社から正式に海外営業統括室の移転命令が出て、萌の部隊は萠を入れて九名が横浜に移り、二名は元の営業所への異動命令が出た。二人共通勤時間が短くなり喜んだ。本社から地方の営業所に転勤となると普通は都落ちだと揶揄されがちだが、二人はプライドよりも実利を選んだのだ。
萠が横浜支店に本拠を移すのに成功してから一年が過ぎて通勤も楽になった。仕事の方は円安の追い風があって海外からの観光客が増加して順調に業績を伸ばしていた。太郎と結婚してもう四年近くになるが子供は持たないことにしたので余暇は夫婦だけで楽しく過ごしていた。少し前に太郎が持ち家を考えようと言い出したので萠も引っ越すならどこがいいか考えていた。
「あなた、家を建てるならあたしは相模原辺りがいいと思うけどどうかしらねぇ」
「相模原かぁ。萠は横浜線一本だからいいけど、僕は新横で新幹線に乗り換えだな」
太郎はスマホで調べてから、
「新幹線を使って丁度一時間ってとこだな。家が相模原駅から遠くなければ相模原でもいいか」
太郎は最近出張が多く、月の半分は外回りなので交通の便さえ良ければ問題はないようだった。
休日太郎と一緒に相模原駅から近い場所に少し広めの土地を探してくれと大手不動産会社を訪ねて頼んでおいたところ、適当な土地が見付かったからと連絡があり現地を見て決めた。土地の売買契約を済ますと早速自分たちの家の建築に取りかかってもらい、先日完成して引っ越した。家の造りは萠の希望を充分に入れたので萠は満足していた。周囲の家に比べて大分贅沢をしたので少し目立っていたが二人は気にしなかった。自分たちが住んでみて良ければ他人がどう思おうが関係ないと思っていた。新しい土地に一戸建ての家を建てて引っ越して来れば隣近所に挨拶回りをするのが普通だが二人共マンション暮らしが長く近隣との面倒な付き合いを好まなかった。マンション住まいをしていれば隣人とばったり出会えば目礼程度はするが敢えて親密になろうとする者は少ない。まして階上や階下の人間とは殆ど付き合いがないのが普通だ。子供が居て幼稚園や学校で友達関係になれば親同士もお付き合いをすることはあるがそんなことでもなければ親しくなることはない。田舎じゃ考えられないことでも都会のマンション暮らしをしている者にとっては近所付き合いがないのが普通なのだ。隣の旦那がどこに勤めていようがそんなことは自分たちには関係ない。そんな常識を持って田舎町に家を建てて移り住んだら真っ先に近所付き合いの煩わしさにうんざりさせられる。だから萌たちも近所への引っ越しの挨拶は敢えてしなかった。
萠が引っ越した時には隣は空屋で住んでいる人がいなかったから良かったものの、最近更地になって建売住宅の建築が始まった。せっかく自分たちが立派な家を建てたのに隣家がみすぼらしい安普請の家じゃ迷惑だとも思った。隣人と付き合いをする気はなかったが、隣がみすぼらしいと自分たちの家の値打ちが下がってしまうようにも思えた。
萌たちが引っ越してきてからしばらくしてドイツ製の高級車が届いた。太郎は事前に細かい相談してくれなかったが車を買い換えてもいいと約束した手前文句は言えなかった。メーカーでは中クラスだと太郎が説明していたがかなり大きい。初めて家を見た時駐車場がやけに広いと感じていたがカーポートに入れてみると丁度良かった。今までマンション暮らしで車は殆ど必要がなかったが、新横浜の萠のマンションに太郎が引っ越してきた時太郎の田舎の兄から古い車を安く譲り受けて持ってきて近くの駐車場を借りて置いてあった。それを下取りに出して新車を買った。持ち家ができたからこれからは二人でドライブにでかけたりするのに車は必要だし、見た目高級車だと友人の集まりに出かけても胸を張れる。旦那も自分も既に管理職で将来は幹部社員に昇進することを目指していたからセレブの仲間入りをするには多少の無理は必要だと思ったから萠は太郎の選択に納得した。
休日や早めに帰宅できたときに健康維持を考えて萠は市内のフィットネスクラブを探して入会した。場所は相模原の隣の橋本駅近くで大手のゲーム会社が運営していて設備がしっかりしている。家から三キロほど離れているが、一般的なトレーニング器具の他にプールやテニスコート、スカッシュ用コートなどが揃っていて太郎と一緒に遊ぶのに丁度良かった。週に一回か二回程度しか通えないが利用頻度により月々の会費が決められている点が気に入った。二人合わせて月会費は一万五千円強だが、太郎と萠の収入を合算すると毎月手取りで百万近くあったからこれくらいの支出はどうってことはなかった。駐車場の他駐輪場も完備していたので萠は太郎に相談して電動アシスト自転車を二台買った。萠はヤマハのパス・アミ、太郎はパナソニックがお気に入りでジエッターにした。雨の日は車で出かけたが、雨が降らない時は自転車の方が運動になり良いと思って二人一緒に自転車で出かけた。
第六十九章 鷺沼昌代の新居
翔太が生まれて次郎も昌代も家が手狭だと感じることが多くなった。母の千代も同じように感じているらしい。四畳半と六畳間と八畳程度のダイニングキッチンしかない家で親子五人に母を入れて六人で暮らすにはどう見ても狭い。贅沢を言えばきりがないが、昌代は一戸建ての家を買いたい気持ちが強くなっていた。
休日、次郎と昌代は相模原の不動産屋を訪ねた。
「小さくてもいいですが、一戸建ての家を探しているんですが」
「それだったら今売り出したばかりのいい物件がありますよ」
「案内してもらってもいいですか?」
「じゃ、これから出ましょう。駅に近いですよ。すぐそこです」
不動産屋の旦那に案内されて行くと、[新築四十七坪土地付き三千二百万円]と書いた立て札が立ててあった。旦那の話では売り出したばかりなのに今日は次郎たちを入れて三人の買い手が来たと言う。それで次郎は手付金五万円で勘弁してもらって物件を押さえ、銀行に相談してフラット35のローンを組んでもらって無理して買ってしまった。
南向きの角地で駅に近く悪い物件ではないが、昌代がコツコツと貯めた貯金とリートの売却代金を合わせて三百五十万円を頭金にしたので手元のお金は殆ど残っていなかった。
新しい家は一階は八畳間と十畳程度のダイニングキッチン、二階は八畳間が二部屋だから次郎たちにとっては贅沢過ぎるほどだ。不動産屋は引き渡し後直ぐに住めると言うので会社の部下の田辺と河野、妹の真美、医者の弟と弟の彼女木下亜希子が手伝いに来てくれたので引っ越しは楽に終わった。
直ぐ隣は新築の大きな家で土地は不動産屋が八十坪以上だと言った通り庭も広かったが次郎も昌代も羨ましいとは思わなかった。駐車場にはドイツ製の高級車が停められていたので多分金持ちなのだろうと思った。
隣近所の挨拶回りを終えると次郎たちの新しい家での生活が始まった。自家用車を持てるような経済状態ではなかったから簡単な屋根付きの駐車場は森野から持って来た自転車二台の駐輪場にした。
引っ越して来て次の週の休日に次郎は昌代の自転車の後輪の上に取り付ける子供用の台を買ってきて取り付けた。これで後ろに菜未、前に菜桜を乗せて買い物や幼稚園の送り迎えができるようになった。だが、いままでのスタンドでは子供を乗せたり降ろしたりする時に安定が悪い。それを次郎に言ってみた。すると次郎は幅広スタンドを買ってきて取り替えてくれた。昌代は平成二十一年に道交法が改正されて六歳未満の幼児なら二人乗せて三人乗りをしてもいいことになったことを知っていたが次郎が改造してくれた自転車は自転車協会が認定したBAAマークがないので少し不安だった。
「あなた、これに菜未と菜桜を乗せて走っていて警察に捕まることはないかしら?」
「見た目はBAAマーク付きの自転車と変わらないから警察でそこまで厳しくは取り締まらないと思うよ。自転車屋で部品を買う時に聞いてみたら、ちゃんとした子供乗せ台を着けずに荷台や簡単な乗せ台をハンドルに着けて子供を乗せて走ったら指導されるそうだけど、警察では当分の間罰則を適用しないで注意をする程度にしてるんだって」
「そうね。心配したらきりがないわね。お金に余裕があれば誰だってBAAマーク付きの自転車に乗りたいわよ。でも、あたしたちのようにギリギリで生活している人にはこれで精一杯努力していると見て頂けないと困るわね」
昌代は子供を乗せずに試乗をしてみた。次郎が技術者でメカに詳しいから部品の取り付けがしっかりしていて特に問題がなかった。昌代は警察では自転車の構造の安全基準を厳しくして三人乗りを認めたようだけれど、そんなことより自転車が安全に走れるような道路の整備の方がもっと大切だと感じていた。自転車に乗る女性なら誰でも経験していることだけれど、自転車は車道を走らなければならなくなって車道の左側の路側帯を走ることが多いが、これがとても危険なのだ。アスファルトが凸凹だったり、側溝の所々に鉄の蓋があるが周囲に段差があることが多いし、雑草が茂っていたり、水溜まりがあったり、ひどい時は大きなゴミが捨ててあったり、それに怖いのは駐車をしている車を避けて通る時に車道の真ん中に出ないと通れないことなど挙げればきりがないほどある。歩道を走ってもいい場合でも道路が交差する所には必ず段差があるし、お店の看板などがはみ出していて歩道の幅が狭くなっていたり、前を歩いていた人が急に立ち止まったり方向を変えたり、兎に角自転車にのっている人にとっては危険が一杯でBAAマーク以前の問題が山ほどある。昌代はなるべく車の交通が少ない住宅地の中の道路を走っているが、住宅地の中の道路は殆ど歩道がない道路で歩行者用に路側帯が設けられている。だが狭い路側帯を人が通りその脇を自転車で通り過ぎる時は歩いている人をひっかけてしまわないかいつもはらはらしながら走っている。
引っ越して来た相模原の近くに東京外環道の国道16号線が通っている。この道路の相模原付近は最近国土交通省関東地方整備局相武国道事務所が主体となって自転車道の整備が進んでいる。時々次郎と一緒に走ってみるがとても快適に走れる。ここは歩道と車道の間に自転車専用道路が設けられていて、自転車は歩行者と自動車と街路樹を植え込んだ安全地帯で完全に分離されていて自転車が楽に二台併走できるくらいの道路幅がありとても走りやすい。安全地帯があるために四輪車が自転車専用道路に入ってくることがないのだ。昌代は道路がこんな風に自転車に優しくなればいいのにといつも思う。
菜未は満三歳を過ぎてから森野の近くの幼稚園に通わせていた。相模原に移って、当然のこと編入手続きをしなければならない。それでご近所の人に聞いて見た。
「相模原は合併後広くなって市内の幼稚園は私立が五十ヶ所、公立が三ヶ所ありますけど、このあたりには近くになくて、皆さん橋本の方か矢部の方に通っていらっしゃいますのよ」
向かい側の滝田と言う家の隣になる藤村さんの若奥さんにに聞くと、
「うちは矢部の近くの弥生幼稚園に通わせていますのよ。市立の富士見小学校のそばです。おたくの菜未ちゃんは編入でしょ? 大丈夫かどうか聞いてあげましょうか」
「お願いします」
藤村の若奥さんは丁寧に応対してくれた。彼女は早速幼稚園に問い合わせてくれた。
「満三歳児でしたら随時受け入れてくれるそうですよ」
昌代は礼を言って戻ると早速手続きにでかけた。お向かいの娘と同じ幼稚園だとお友達ができて良いと思った。出がけに場所を調べてみると国道16号に近い。それで、自転車での通園は楽に走れる国道の自転車専用道を使えるので昌代にとってもありがたいと思った。
昌代たちの家は相模原市中央区清新と言う街にある。引っ越してから一週間ほど過ぎて自治会の役員さんが訪ねて来た。
「恐れ入りますが、自治会入会届けと会費をお願いします」
昌代は半原の実家でも森野の借家でも自治会に加入していたから何の抵抗もなく鷺沼次郎の名前を書いて捺印、年度変わりまでの会費を全額支払った。そうすると、翌日から回覧板が回ってきた。役員さんは、
「お隣の柴山さんですが、まだ入会されていません。済みませんがお宅からこの用紙を渡して頂いて記入して頂いたらこちらに戻してもらえませんか?」
ともう一枚入会届け用紙を出した。昌代は、
「それは困ります。お隣とはお話する機会がありませんし、会った時こちらからご挨拶をしても無視されますのでお引き受けするのは無理です」
と答えた。
「やっぱり」
役員さんは既に入会を勧誘したのに断られたらしく、それで昌代に押しつけようとしたらしい。昌代にしてみれば自分たちは後から引っ越して来た者で既に住んでいる家に自治会に入って下さいなんて言うのは筋違いだと思ったのだ。
「じゃ、こちらで何とかします」
役員さんは渋々帰って行った。
相模原市清新の一丁目から四丁目は毎週月水金が一般ゴミ、火曜日が資源ゴミ、木曜日がプラスチックゴミ、水曜日は乾電池等とゴミの収集日が決まっている。昌代は引っ越して来た時にお向かいの藤村さんに教えてもらい収集場所にゴミ出しをしていた。最近は日本中どこでもゴミの分別収集制度が徹底していて、市によっては一般ゴミを可燃ゴミと不燃ゴミに分別して収集しているところもある。
翌週月曜日ゴミ出しに行くと近所の主婦が五人集まってなにやら話をしていた。
「おはようございます」
と昌代が挨拶すると年配の婦人が、
「あなたのお隣さん、柴山さんよね?」
「はい。そうですが、何か……」
「先週土曜日、ゴミの収集日でもないのに生ゴミをここに出されて、防鳥ネットをかけてないものだからカラスがつつき回してこのあたり一面にゴミが散らかっててお掃除が大変だったのよ。お顔を見たらあなたから一言注意をして下さらない?」
「私に言われても困ります。そう言うことは役員さんの方からお話して下さい」
昌代は自治会の入会の件やゴミの件など隣だからと何でも自分に言ってくるのは可笑しいと思った。
「柴山さんは自治会にも入られないし、困ったわねぇ。これじゃ真面目にやってるあたしたちはたまらないわよ」
すると他の四人もそうだそうだと昌代の顔を見て相槌を打った。昌代は困った。
この話は町内会の寄り合いでも取り上げられて班長(組長)が柴山宅に出向いて協力をお願いすることになり班長は渋々引き受けた。所が太郎も萠も早朝に行くと出勤で時間がないと断られ、休みの日に行っても留守で会えない。仕方なく夜中に明かりが点いたのを確かめて柴山の家に行った。
「あら、そんなことがありましたの? いちいち防鳥ネットをかけるなんて面倒だわね。越してくる前は新横浜のマンションに住んでましたけど、ゴミは毎日いつでも出せましたしちゃんと蓋がある収集箱がありましたからそんな面倒なことはなかったわよ。あなたがたも収集箱を常設する方向でご検討なさったらいかがかしら」
萠の言葉に班長は、
「この前そちらさんが出された生ゴミの中に容器包装プラスチックも入ってましたよ。プラスチックゴミはちゃんと分別して頂かないと困ります。出す日も決まってますから」
「そうなの? 面倒だわね。前の所は回収業者さんがそんなことは全部やってくれましたよ」
「業者さんって、市から委託された業者さんですよね」
「そんなこと、わたしに聞かれても分からないわよ。マンションの管理会社がちゃんとやってましたよ。わたしたちは管理費を月々ちゃんと払ってましたから」
班長はマンションが自主的に民間のゴミ処理業者と契約してゴミの回収をしている場合があることを知らなかった。
「ゴミ処理は市の方でちゃんと指導がありますから従って頂かないと……」
「高い地方税を取ってるのですから市で分別までやって頂かないと困ります。あなたがたに文句を言われては迷惑ですよ。わたしたちは夫婦共働きですからあなたがたよりもずっと多額の地方税を納めていますのよ。二人分のゴミだけで外食が多いですから出すゴミの量はご家族が多いお隣の鷺沼さんよりずっと少ないのに税金はずっと多いなんて不公平だと思いませんか?」
班長はこれ以上話をしても埒が明かないと思い、
「一応お願いしましたからね。これからはちゃんとルールに従って下さい」
と言い置いて柴山の家から立ち去った。最近は自分たちの街にもワンルームマンションが増えてゴミの収集ルールが守られなくて困っているのだが、隣近所で文句を言い合っても犬の遠吠えみたいな感じでなかなか個々に徹底できないでいた。
第七十章 菜未の通園
菜未は編入なので最初に入園面接があった。母子で面接を受ける。願書は既に提出したが願書代として千円請求され驚いた。検定の事務処理費なのだろう。
翌日弥生幼稚園から入園許可の通知書が届いたので必要な費用を支払った。三年保育で入園料は八万三千円、制服代一万三千円は後で良いと言われたがまとめて支払った。最初に教育素材費と暖房費を合わせて一年分一万二千五百円、保育料は月々二万五千七百五十円なので最初の月の分を納めた。世間一般に比べて安いのか高いのか知らなかったが森野に住んでいた時より安いのでプリントに印刷されている通りの金額を支払った。十万円以上になるが転出転入でダブルになり二度も支払うことになった。昌代の家の家計では相当の負担だ。私立幼稚園就園奨励補助金制度があり相模原市では全員に年額二万二千円が出るそうで手続きをした。昌代にとっては助かるが子供一人幼稚園に通わせるのにこんなに負担があるので自分たちより収入が少ない家庭では大変だなぁと思った。
「月々三千円のご負担になりますが幼稚園送迎バスのお申し込みなさいますか? 皆様ご利用されてますが」
と受付の女性が送迎バスの申し込みについて尋ねた。昌代は、
「自分で送り迎えしますから結構です。この先必要になりましたら改めて申し込みさせて頂きます」
と答えた。森野の時も送迎は自分でやっていた。僅かな金額でも毎月出費をするのはきつい。それと、菜未を自転車に乗せて送り迎えするのが楽しいこともあった。菜未とお喋りしながら走るのも悪くはない。森野の時も雨の日は合羽を着せて走った。
菜未の通園が始まった。幼稚園で買った皆とお揃いの制服制帽を着せると菜未は喜んで跳ね回った。千代が捕まえてハンカチなど身の回りのものをチェックしてくれた。菜桜はまだお姉ちゃんの事がよく分からずに制服姿の菜未に抱きつかれて喜んでいた。
菜桜と翔太を母の千代にお願いして、昌代は自転車の前側に菜未を乗せて出発した。
「ママ、今度はなおちゃんはいないのよね」
「菜未の仲良しだったけど、なおちゃんは元の幼稚園だからこれからは会えないわよ」
「あたし、新しいお友達できるかなぁ」
やはり転園するとお友達がいなくて不安らしい。
「新しいお友達は直ぐにできるわよ。心配しなくて大丈夫だから」
幼稚園に着くと保母さんに、
「この子、よろしくお願いします」
と引き渡した。
「菜未ちゃん、可愛らしいわね。お姉さんと楽しく遊びましょうね」
そう言って保母さんが菜未の手を引いて奥の方に行こうとすると、菜未は突然涙をポロポロ流して、
「ママぁ、行っちゃイヤ」
と泣きだした。昌代は何とか菜未を宥めると後ろを振り返らないようにして急いで門を出た。ちゃんと皆に溶け込んでやっていけるだろうか心配だったが心配しても始まらないと思い直して家路を急いだ。
三時に終わるので三時少し前に幼稚園に行くと、菜未は昌代の顔を見付けて嬉しそうに走ってきた。昌代は菜未を抱きしめると何故か目が潤んだ。菜未にしっかりと抱きつかれた時、昌代はとても幸せを感じた。
一週間もすると、菜未は新しい幼稚園に慣れて、朝見送って行くと素直に奥の方に行けるようになった。つぐみちゃんと言う女の子と仲良しになったらしく、お迎えに行くと二人で手をつないで出て来た。
昌代は菜未の幼稚園の入園費用のことを次郎と千代に報告した。
「随分かかるもんだなぁ。昌代、遣り繰り出来るのか? ボーナスが出るまで後三ヶ月近くあるよな。大丈夫か?」
「何とかしますから心配なさらないで」
正直なところ、家計は苦しかったが昌代は頑張った。森野にいた頃は菜未の入園料が十万円だったがその頃は家を買う前で家計に余裕があったから次郎には報告してなかったので今回報告を受けて次郎は驚いたようだ。旦那は家の中のことに何も知らないと不満を持っている主婦がいるが、この時昌代は案外旦那とのコミュニケーション不足が原因なのだと反省した。
幼稚園に通うようになって、菜未はお姉ちゃんだと自覚するようになって、妹の菜桜と弟の翔太の面倒をよく見るようになった。それで昌代は少しだけれど時間的な余裕が出て放送大学の予習と復習がきっちり出来るようになった。
萠はその朝はいつもと違ってカラスの鳴き声が五月蠅いので出がけに庭を覗くと十羽くらいのカラスが庭の花壇に群がってさかんに何かをつついていた。良く見るとカラスがつついているのは一昨日ゴミ置き場に捨ててきた生ゴミだった。カラスが咥えて運んで来るには袋が重い。いったいどうしたことか。それで出勤が遅くなると上司に電話をしてから庭に設置してある防犯カメラの映像をプレイバックして見た。すると昨日の夕方誰かが家の前に来て何かを投げ込んでいる。その部分の映像を拡大してみると犯人が分かった。そこにははっきりと向かいの藤村の婆さんの姿があった。顔ははっきり映像に映っているので間違いない。
萠はビデオ映像をUSBメモリーにコピーするとカラスが群がる映像もビデオで撮影して国道16号線沿いにある相模原警察署の生活安全課を訪ねた。萠は防犯カメラとビデオの映像を保存してあるメモリーカードを差し出して、
「こんな嫌がらせをする方を厳しく罰して下さい」
と訴えた。応対した警官は早速ビデオの映像を確かめて、
「これだけ鮮明な証拠があれば犯人は明らかですね。直ぐに呼びますから」
警官は柴山家の向かいの藤村の奥さんに連絡を入れて直ぐに出頭するように伝えた。警察から突然電話が入り藤村涼子は急いで警察に出向いた。藤村涼子は何で警察に呼ばれたのか分からなかったが生活安全課を訪ねるとそこに憎い柴山萠がいた。
「ちくったのはあんただね。ご近所の迷惑も考えずにこんなことをするなんて許さないわよ」
警官は藤村涼子がいきなり喚いたので驚いた。萠も負けていなかった。
「いくらわたしが憎いたって捨てた生ゴミをわざわざ持って来て庭に投げ込むなんて嫌がらせ以外のなにものでもないわよ。ひどいわよ」
「まぁまぁ、お二人とも冷静になって、事情をお聞かせ願えませんか?」
警官はとんでもない事案に巻き込まれて迷惑顔だ。
藤村涼子は、電話を貸してくれと頼んでどこぞに電話を入れた。すると間もなく四人の年輩の婦人が警察署に駆けつけて来た。
「藤村さん、とんでもない言いがかりを付けられて大変でしたわねぇ」
後から来た婦人たちは口々に藤村が迷惑なことに巻き込まれたのを慰めた。
「そうなのよ。お向かいの柴山さん、ご自分のことを反省するどころかあたしがゴミをお返ししたのを根に持って警察にちくったりして」
警官は出頭を命じた藤村が仲間を四人も呼び寄せて口々に柴山の悪口を言い出したので一体どっちが加害者なのか分からなくなった。
萠も負けてなるものかと頑張った。
「ゴミをお返ししたなんてウソよ。お巡りさん、防犯カメラの映像をご覧になりましたよね。他人の家の庭に汚物を投げ込んでおいてお返ししたなんてとんでもない話しですよ」
すると、もう一人の婦人が、
「あなたねぇ、いつも自分勝手だわね。普段あなたがなさってることでご近所の真面目にやってる方々は随分迷惑をかけられているんですよ。それを反省なさったらこんなことで警察まで巻き込むことはないでしょ」
「冗談も休み休みにして下さい。藤村さんがなさったことは立派な犯罪ですよ。ご近所関係で最近モラルハラスメントが増えてますけど、今回も典型的なモラルハラスメントです。そうでしょ、お巡りさん」
警官は自分の方に話を振られて益々困った顔をした。モラルハラスメントだと言われてやってきた婦人たちは反論に困った。最近は近所の者が会っても挨拶もせずに無視したと訴えてくるケースもあるのだが、警察では村八分のように虐めがある場合を除いて単にお互いに無視しているだけでは事案として取り上げない方針にしているらしい。昔と違って色々な考え方の人が増えていて集団の意志も大事だか個人の意志を尊重することも大切だと考え方が変わってきているのだ。
それで警官は両者の意見を聞いてみた。
「わたしは今回だけでなく何回もゴミの問題でご近所から自分たちのやり方に合わせろと文句を言われて困っています。以前住んでいました新横浜のマンションではゴミ出しは簡単でしたよ。生ゴミや不燃ゴミは曜日に関わらず毎日勝手な時間に出せましたし、粗大ゴミだって駐車場脇の指定場所に出しておけば綺麗に片付けてくれましたよ。誰にも文句は言われません。今の街は旧態然としていて住民にいちいち分別しろとか収集曜日を勝手に決めておいてそれに従えとか、これじゃわたしたち仕事に多忙な者にとってはやっていけません。住民税はご存じですよね。県民税と市民税を合わせた税金です。あなた方は年間お幾ら納めていらっしゃいますか? せいぜい年間二十万円とか三十万円? 収入が少ない方々はせいぜい年に十万円位かしら。わたしの家では共働き、子供がいませんから二人だけでゴミも大した量は出してません。それなのに住民税は年間百万円以上納めてますのよ。こんなに税金を納めているのですから少しは便宜を図って頂いて当然だと思っています。町中の皆様が全員頑張って稼いでわたしたちのように沢山住民税を納めればゴミ出しの問題なんて民間の業者さんに委託してちゃんと処理できますわね。あなた方は文句をおっしやらずにわたしたちのようにもっと税金をいっぱい納めて下さいな」
「聞いていると、あなた随分勝手な言い種だわね。お金持ちだからって威張ってないで少しはあたしたちのような貧乏人に協力なさったら。皆で協力すれば税金の節約ができることくらいは分かるでしょ?」
集まった婦人たちは金の話を持ち出されて劣勢に立たされた。警官はこれ以上警察署で議論されても結論は出ないと思って、
「皆さんの言い分は分かりました。この問題は持ち帰って皆様方の間で解決して下さい。それから藤村さんはいくら腹が立ってもゴミを他人の家に投げ入れるなんて実力行使は絶対にしないで下さい。もし今度同じ事をしたら逮捕しますよ」
と藤村を脅かした。脅しと言うか逮捕と聞いて皆大人しくなり、
「柴山さんも少しは協力して下さいよ」
と投げ台詞を残して先に警察署を出て行った。
萠は警察から帰る道すがら何とも解せない気持ちで苛ついていた。今は自分たちのように夫婦共働きで沢山住民税を納めている者が増えている。大抵子供がいないかいても一人の世帯が多い。それに比べて収入が少ないのに家族が大勢いる世帯もある。住民へのサービスが貧乏な世帯に合わせて悪いならそれは不公平で問題だ。住民税は今は所得割が十%で均等割は微々たる金額で所得が多い者ほど多大な額を納めている。これを所得割でなくて人数割りにして扶養家族も含めて一人一人に課税して税収を今より増やせばゴミ出しの問題なんて解消するのではないかと思った。
警察に行った主婦たちが翌日早速集まって井戸端会議を始めた。藤村も婦人会会長の桜井浜子も加わっていた。萠が年間百万以上住民税を納めていることが当然の話題だ。
「あれから良く考えてみると柴山さんの言うこと、分かるような気がしたわよ。マンションに住んでる若い方々って共働きが多いしお子さんがいない人が増えてるわね」
「あんたのとこは住民税いくら納めてるの?」
「うちは旦那の稼ぎが悪いから十万と少しだわね」
「あたしのとこは旦那が結構稼いでいますけど夕べ旦那にいくらって聞いたら三十万弱だと言ってたわ。何でって聞いたら家族が多いしお婆ちゃん、お爺ちゃんが同居だから控除が多いからですって。家族が居なければ百万くらいにはなるそうよ」
「へぇっ? それじゃ共働きで稼いで扶養家族がいない柴山さんは文句の一つも言いたくなるわね。ゴミって家族が多くなれば量も増えますもの」
「でもさぁ、柴山さんが言ってらした人数割りで住民税を取られたらやってけないお宅は多いんじゃないかしら」
「そうね、多分大騒ぎになるかも。世の中って理屈通りには行かないものよ」
「それはそうと、鷺沼さんの弟さん優秀ですってね。アメリカの何とか言う有名な医大に留学されて今は南里の医師ですけど将来大野の婦人科病院を引き継ぐそうよ」
「そんな話しどこから聞かれたの?」
「うちの次男が鷺沼さんの奥さんの妹さん、真美さんって言ったかしら、親しいのよ」
「へぇーっ」
多子化 【第二巻】