オリンピックで思ったこと

 クーベルタン男爵が「勝つことでなく参加する事に意義がある」と呼びかけ、スポーツマンシップ、ヒューマニズムをもって世界が繋がり平和になることを願ったオリンピック大会は終わった。
一生懸命頑張ってきた競技者の感極まった涙に感動した人は沢山いただろう。反対に、金メダルを取れなくて悔しいと泣いたり、取ったと言って喜んだ選手に、それほど感激しない人もいたと思う。十人十色というから不思議ではない。   
私は、競技者がお互いに相手の健闘を褒め称え、勝っても負けても「楽しかった、君は強かった」、「なんの、君こそ強かった」と明るい笑顔で握手し、肩をたたき合うような情景を期待した。この様な選手たちの競技を見た後は爽やかな気持ちになれる。次回に同じ組み合わせがあったら両方に声援を送るだろう。
 しかし、今回の大会で、ドーピング問題で参加できなかった選手や、試合後の握手を拒否する選手がいたことは残念だった。さらに私の気持を曇らす事は他にもあった。私が購読している新聞では「戦う」「倒す」「死んでも」「突撃」「宿敵」「逆襲」等の言葉が使われ、同じような表現を競技者自信からも聞いたり、テレビでも言っていたからだ。クーベルタンは、古代ローマのコロッセオで行われていたように死闘をやれ、と言っただろうか。私は、「戦う」は「競技する」に、「死んでも」は「最善を尽くして」にでも言い換えて、連帯と友好を表している五輪のイメージをなるべく損ねないように気を配れないものかと思った。私は時流についていけない古い人間だから時代錯誤かもしれないが、つい終わったばかりの戦争がトラウマになって思い出され、気がめいる。まさか、「戦う」、「死んでも」の言葉で闘争心を呼び覚まし、国を挙げてのプロパガンダ、マインドコントロールが再び始まったわけではあるまいが・・・。国境紛争、赤字財政、秘密保護法、憲法改正、選挙無関心、それに、何でもありの政治姿勢、扇がれると熱しやすい国民性、などを思うと不安になる。大きな流れができてしまえば方向を変えることは難しい。言論の自由を叫んでも、反戦運動は力で押さえ込まれる恐ろしい世の中になる。マスコミは大きな影響力をもつから特に慎重であってほしい。「戦う」、「死んでも」などの言葉が「みんなで」、「国のために」と関連して日常的に学校、職場、町内会などで使われることのないように祈りたい。いまわしい戦争への道を一歩でも踏み出してはならない。他国の挑発に乗って本当に巻き込まれてしまったら大変だ。それよりも平和憲法、非核三原則、友好、信頼を堅持したほうが世界に向けて説得力もあるし賢明のような気がする。     
 ところで、他の国ではスポーツの場でどんな言葉が使われ、どのように報道されたのか気になる。今回も紛争地域から参加してオリンピックの原点を示そうとした選手たちがいた。私は、そのような選手も含め、入賞できなかった選手にもスポットをあて、人々に大きな勇気と感動を与えるべく、その奮励努力ぶりを褒め称えた報道が欲しい。オリンピックという折角の機会をとらえて、人々に「戦う」という勇気でなく、「平和のために立ち上がる」という勇気こそ尊いのだ、と説いてもらいたい。そういうことが大事なのではないかと思っていた私には、メダルの数だけにこだわって一喜一憂している国や報道があったのは残念だった。
クーベルタンの思いを今一度みんなで考えてみる必要があるのではないだろうか。      2016年9月2日

オリンピックで思ったこと

オリンピックで思ったこと

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-17

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