夜咄奇譚

ちょっと不思議で怖い話、覗いてみませんか。
総勢十人が語り掛ける、日常に潜んだ怪奇譚。忘れかけていた小さな恐怖をもう一度。
貴方の日常にも、きっと、怪異が潜んでいる。
※ホラー、グロ表現があります

呼び込む手 語り部:遠野刹那

 ええっと、何から話せばいいかなぁ。まぁ、時間もあるし、順を追って話そうか。まず、俺は遠野刹那、水無月高校一年生。色々あって、駅から徒歩五分程度のマンションで、一人暮らし中。結構綺麗だし、それなりに広いし、悪くない物件だよ、あそこは。まぁ今回の事で、ちょっと引っ越ししたくなっちまったけどさ。本当にあるんだな、こういう、心霊体験ってさ。嗚呼そう、で、これは、その一人暮らしのマンションの部屋で起こった、ちょっとした、怪談話。
 その日は、別段、何か変わった事も、無かったと思う。普通に、学校行って、授業受けて、友達と遊んで、ファーストフードで飯食って、しばらく駄弁って、で、帰って、風呂入って、寝た。嗚呼、強いて言うなら、普段より、少しだけ早く寝たかな、その日は。その所為かも知れない、何時頃かは解らないけれど、夜中に、ふと目が覚めたんだ。よく意外って言われるけど、俺、割と眠りは浅い性質でさ。物音とかがすると、目は覚めるんだけど、まぁ、その後また、直ぐ寝ちまう。でも、その日は何だか、妙に目が冴えてさ。しばらくそのままで、かち、こち、って、時計の秒針を聞きながら、ちょっとぼうっとしてた。けど、やっぱり、寝れない。不思議だよな、ああいう時って、何でこう、妙に意識がはっきりするんだろう。で、ごろごろしたり、色々、時間持て余してたんだけど、その内、何か思い出したように、あ、喉渇いたな、って思ってさ。まぁ、目も冴えてるもんだから、とりあえず水飲んで、トイレ行って、それから、もっかい寝ようと思ったんだよ。布団から起き上がって、嗚呼、秋だったから、ちょっと寒いな、とか思いながら、リビング行って、水飲んで、それで、もう一回、廊下に出て、トイレ行こうとしたらさ。……ほら、夜って、暗いだろ?特に、室内は、光源が無くて真っ暗で、数メートル先に何があるかも解らない。そんな暗闇の中に、それが出たんだ。
 ううん、見た目は、何て言ったら良いのかな。兎に角、手、だった。肘から下の、真っ白い手。それが、やけにくっきり、暗闇の中に浮かび上がりながら、廊下の先で、ぼんやりと浮いてるんだ。そいつを見た瞬間、流石に俺もビビったね。目が冴えてたとはいえ、何と無くぼんやりしてた感覚が、一気に吹き飛んだよ。どうしたらいいかなんて解らなくてさ、頭回らなくて、思わず固まった。手だぜ、手。夜中の、真っ暗な廊下に、真っ白い手。あり得ないだろ、意味解んないだろ。思わず二度見したよ、目の前の光景を。嘘だと思いたかった、真剣に。しかも、俺が固まってたら、その手が、俺を手招きするんだ。ひらひら、ひらひら、って、ゆっくり手を揺らしてる。あー……んん、その瞬間は、怖い、って感覚は、余り無かったな。それよりも、は?何でこんなとこに手が?みたいな気持ちが強くて、怖さは後から来たと思う。ただ、恐怖感が来たときは、やばかったな。だって、冷静に考えて見てくれよ、夜中、廊下の暗がりに浮かび上がってる手だぜ?怖すぎだろ、普通に怖いよ、そりゃあビビるよ誰だって。しかもそいつ、来い来いって、手招いてるんだ。……招かれる儘、あっちに寄って行ったら、如何なっていたのか。そんなの考えたくもないね。で、しばらく茫然とした後、あ、これやばい奴だって気付いた俺は、電気付けようとした儘固まった手を下ろして、ばっと振り向いて、一目散に自室に駆け戻った。眠気なんて綺麗に吹っ飛んでたけどな、無理矢理、あれは見なかった事にして、布団に潜り込んでさっさと寝た訳だ。後から思えば、電気付けておいた方が良かった様な気がしなくも無かったんだが、布団に入ったとこで安心してな、そこでどっと疲れと恐怖が来たもんだから、其の儘寝ちまった。

 目が覚めると、今度はもう朝だったよ。明るい日差しが、カーテンの隙間から入り込んでた。正直言って、明るい朝でも、あんまり廊下には行きたく無かったんだがな。つっても、廊下を通らないとトイレにも洗面所にも行けねえし、ついでに玄関にも行けない。なんで、取り敢えず着替えて、それから恐る恐る廊下を覗き込んだ。……まぁ、一応、昨日見た場所に、手は無かったよ。もしかしたら夢かも知れないって、一抹の希望も抱いたんだが、残念ながら、俺が昨夜飲んだ水はしっかり減っていたから、夢じゃない。いやほんと、怪奇現象になんて遭遇したのは、あれが初めてだったから、焦ったぜ。もうあの不気味な手はいないなって、取り敢えず一安心したんだが、実は、そうは問屋が卸さなかった。
 俺の部屋は、別に取り立てて変わったマンションじゃない、基本的に、床はフローリングだ。で、そのフローリングってのが、割とテカテカしてるというか、上の電気がぼんやり反射する感じの材質だった。結構新しいマンションだったんで、電気だけじゃなくて、俺の姿も微妙に映るんだわ。映るっていっても、何かいるな、くらいの、ぼやけた感じだがな。で、俺は昨夜不気味な手を見かけた辺りまで、そろそろと歩いて、周り見渡していないのを確かめた後……ふと、下に視線を落とした。フローリングに映ってたのは、勿論、後ろの電気と、ぼやけた俺。……だけじゃなく、俺の後ろに、真っ白な女がいた。あれもビビった、ビビり過ぎて声も出なかった。もうそっからは条件反射だな、何にも考えず、思い切り振り向いたよ。でも、何にもいなかった。こういうのってさぁ、ばーんって出られるのも、勿論怖いけど、一瞬だけ見せておいて、改めて見たら何にもいないってのも、やっぱり怖いよな。ほんと勘弁して欲しいぜ、嗚呼勿論、もう一回見たフローリングには、何にもいなかった。何かもう、こんな体験しちまうと、何もかもが疑心暗鬼になるよな。学校に行く前もさ、玄関開けたら、目の前に女が立ってたりするんじゃないかって、そんな想像しちまって。意味なくドアスコープから外覗き込んだりしてみたけど、真っ白でさ。あーそーいや穴塞いでたわって思い出したのも、しばらく何でだろって唸った後だよ、いやもう二度と体験したくないな、あんなのは。これで、俺の話は終わり。……ううん、実際体験した側からすると、無茶苦茶怖かったんだけど、話してみると、そんなに怖くないな。こういうのって、やっぱり直接見ないと解んないよなぁ。……え?ドアスコープを何で塞いだかって?そりゃ、そこら辺のホームセンターで買ってきた、適当なカバーだよ、プラスチック製の。何色かって、ドアの色に合わせた焦茶色だけど、それがどうかしたか?

赤い女 語り部:斎宮梨花

 そうよ、赤いドレスの女。…いいえ、もっと、カジュアルな、そう、インフォーマルなパーティドレスよ。でも、少し変な赤、まるで、白い布に、絵の具でもぶちまけたみたい。ええ、そう、その女の話。
 確か夏の日の、学校の帰り道だったわ。少し遅くなってね、足早に、帰っていたわ。私の家って、学校から、駅を通り過ぎて、商店街の近くの、住宅街を通って、その先にあるでしょう。そう、其処の住宅街でね、その日は私以外、誰も居なかった。等間隔に並んでいる街灯が、一つ切れかかっていて、ちかちかと点滅していて、不気味だったわ。……いいえ、あの人は、男の人と遊ぶのに夢中よ。私を迎えになんて、来る筈無いわ。……ええ、父親も居ないの。あの人の話では、物心つく前に、亡くなったみたい。でも、何処まで本当かしらね、離婚かも知れないし、もしかしたら、誰の子かも、解らないのかも。確かなのは、私の知るあの人は、時間のある限り、散財しながら、男にかまけているということね。お金なら、顔形だけは綺麗だから、その辺にいる男の人が、幾らでも出してくれるから、一応、何とかなってるわよ。……ええ、それでね、一人で、住宅街を通っていた時のことなのだけれど、静かな夜って、自分の足音でさえも、鮮明に響くじゃない?かつ、かつ、って、私の足音が、規則的に聞こえてた。でもね、途中で、可笑しいって、気付いたの。……足音がね、多いの。私が、足を地面に置いていないときに、足音がきこえるの。可笑しいでしょう?私、ぞっとして、思わず足を止めたわ。……そしたらね、確かに足を止めたのに、かつ、って、一回分、余分に、足音が聞こえたの。その瞬間に理解したわ、何かが、私の足取りに合わせて、着いてきてるんだって。ああいう時って、正常な判断が出来ないのね。よせばいいのに、私、咄嗟に振り返ってしまって、そして。見ちゃったの、それを。
 背は、高くもなく低くもなく、だったと思うわ。黒い髪が、胸元まである、そうね、ホステスのような雰囲気の、一見普通の女なの。髪はストレートじゃなくて、ちょっと癖があって、毛先が跳ねてた。その女はね、白いドレスを着てるのよ、でも、さっきも言ったように、絵の具を撒いたみたいに、真っ赤に染まってた。それから、顔中にね、赤い何かが散ってるの。鏡も見ずに、口紅で塗りたくったみたいな、歪な赤。こんなに異様なのに、よくある怪談話みたいに、目が無いとか、足が無いとか、そんな事は全然無くて、逆に気味が悪かった。その女は、私の後ろ……そうね、確か、二本ほど後ろの、電柱の下にいたわ。女はね、視線を落として、地面を見てた。でも、私が振り返った時、ぴくりと動いてね。そうして、女は、ゆっくり顔を上げて。目が、合ってしまったの。

 気付いたらがむしゃらに駆け出してた、叫ばなかったのが奇跡だと思う。家の電気は消えていて、あの人は居なかった。だから慌てて鍵を取り出して、でも、手が震えて、何度も何度も鍵穴を滑って、どれくらいそうしていたかしらね。私の家は、玄関の先に小さめの門というか、柵があって、其処を開けて、数歩歩くと、玄関に辿り着くのだけれど、鍵を穴に差し込んだ途端、きぃ、って、後ろから、柵が軋む音が聞こえたの。あの女だと思った。怖かったわ、身体が解りやすく震えて、時間が止まった様に感じた。硬直していた時間は、私には長かったけれど、でも、ほんの数秒だと思う。もう一度、今度はさっきより大きく、きぃ、って、柵を開ける様な音が聞こえて、私、思い切りドアを開けて、中に倒れ込む様に入って、鍵を閉めた。
 当たり前だけど、家の中は暗くて、誰の気配も無かった。自分の家を、こんなに不気味だと思ったのは、あの日が初めてだわ。とりあえず電気を付けようと思って、息を整えて、身体を起こした時。今度は、かりかり、って、何かを引っ掻く様な音が、ドアの向こうから聞こえた。耳障りなその音は、そう、定番よね。あの女が、爪で、引っ掻いていたの。直接見たわけじゃ無いけど、この状況であれは猫だなんて言えたら、どんな怪談も全部勘違いで済むわよ。それに、猫にしては、引っ掻く音が小さすぎたわ。まるで、ドアの隙間から、何とか中に入り込もうとしている様な。……ええ、柵も。あの女が来ると怖いから、気休めだけれど、私、きちんと柵も閉めたもの。風でも無いわ、あの日は、殆ど風の無い、穏やかな気候だった。万が一、あの女が生きていたとしても、どう考えても異常よ。……確かに、私、よく恨みを買うわ。彼氏が私に気があるとか、片思いの彼が、私に告白したとか、私の彼氏に、片思いしてたとか。でも、こんな、こんな目に遭うなんて。……ごめんなさい、取り乱して。話を続けましょう。
 あの女が、ドアの向こうで引っ掻いてるって気付いた後、私は直ぐに玄関の電気を付けたわ。見知った家だから、多分、少し余裕が出たのね。それから、考えたのは、絶対にあの女を、家の中に入れないって事。鞄をリビングに放り出して、廊下も、使ってない部屋も、兎に角手当たり次第に電気を付けて、戸締りを確認して、カーテンを閉めた。風呂場やトイレは、特に、換気に小窓を開けている事が多いから、真っ先に向かったわ。全部の部屋の確認を終えて、リビングに戻った後、本当は、まだ女が玄関にいるか確認した方が安心だって思ったのだけれど、如何しても怖くて、気休めに塩をテーブルに置いて、とりあえず音楽とテレビを付けたわ、煩いくらいにね。盛り塩をした方が良いって何処かで聞いたから、ティッシュペーパーを重ねて、四隅に塩を置いてみた。……そうね、結論として、その夜はもう、女を見なかったわ。ただ、閉めた筈の風呂場の扉が、少し、開いていたり、トイレから帰ってきたら、テレビの音量が、少し下がっていたり、幾らでも気の所為で片付けられるけれど、如何しても気の所為だとは思えない事が、幾つかあった。その日は全く眠れなかったわ、眠ろうとも思わなかった。ふと、真っ暗な中で、目が覚めたら、あの女が私を覗き込んでいる、なんて、そんな空想に取り憑かれて、怖くて怖くて堪らなくて、必死に起きていた。まぁ、当然といえば、当然なのだけれど。

 ところで貴方、冷泉恭真さんは知っている?ええ、そう、その人、あのお嬢様学校の、冷泉先生。やっぱり有名なのね、嗚呼、あの人の女癖を知っているのなら、話は早いわ。あのね、私、あの人の女なのだけれど……あら、意外?そうね、確かに、同じ学校に、あの人の息子がいるわ。冷泉紫苑、私の先輩よ。まぁつまり、明け透けに言えば、息子より歳の若い愛人なのだけれど、その辺りの苦言は後で良いかしら、続きを話したいの。そう、ありがとう、貴方聞き上手ね。
 実はね、あの女の行動は、夜だけで終わらなかったのよ。朝になって、辺りが朝日で満ちてきて、電気もいらなくなってきた頃、私、何となしに、リビングの窓を見たの。勿論昨夜に、カーテンを引いてあったから、窓の外なんて見えないわ。でも、もうすっかり朝で、ダイニングのくすみ硝子は、眩しくなっていた。だから、油断したのね、幽霊は夜に出るものだと、安心してしまって、それで、私、そうっと窓に近付いて、カーテンを開けたの。ちょうどその窓から、玄関が見える場所だったのが、ある意味幸いだったわね。……思わず悲鳴を上げたわ。だって、窓の外、昨日引っ掻かれていた玄関の先に、女がいたのよ。まるで爬虫類みたいに、ドアにべったり、へばり付いていた。もし、私が先に、カーテンを開けて確かめずに、玄関を開けていたら、と思うと、背筋が震えたわ。女は私の悲鳴に気付いて、此方に振り向いて、そして、首を、殆ど九十度に傾けて、ふらふら、ぐらぐらって、柵を越えて、何処かへ行ってしまった。閉めた筈の柵は、開いていたわ。怖かった、本当に、腰が抜けて座り込んでしまって、とても学校に行けそうに無かった。それで、私、彼とそういう関係なものだから、とっさにあの人に電話したの。誰でも良いから助けて欲しくて、思い浮かんだのが彼だった。あの人は他人の機微を汲み取る事がとても上手いから、電話に出て直ぐ、私の異変に気付いてくれた。混乱しながらも、とにかく事情を伝えて、そうしたら彼、私の家に来てくれたの。玄関のドアを開けるのが怖くて、でも言えないでいたら、わざわざ柵を越えて、リビングの窓まで来てくれて、それで、お兄さんに、話したの、全部。確か、心霊方面には全く資質が無いと、以前に言っていたのだけれど、とても親身に話を聞いてくれたわ。嘘だって、作り話だって言われても仕方ないのに、最後までずっと聞いてくれて、怖かったね、って、抱きしめてくれた。
 それでね、残念ながら、此処からが本番。女は、赤い何かに濡れた、白のドレスを着ていたと言ったでしょう。女の特徴をね、お兄さんに話した時、何かが引っ掛かっていたみたいだった。髪の色、髪の様子、顔立ち、そして、彼女の様子。彼に聞かれて、改めて思い返して、そうして、気付いたの。……絵の具だと思っていた赤は、違った。嗚呼、如何して気付かなかったのかしらね、そう。あれは、血よ。顔に飛び散っていたのは、多分、頭から出血していたから。白のドレスが、あんなに赤く染まるほど、血を流したのね。お兄さんは、彼女を知っていた。此処からは、彼に聞いた話。

 あの人は、知っての通り、とても美しいでしょう。それから、女の人が好き。あの人の囲う女はね、私だけでは無いの。いつだったか、そう、夏になり切らない、とある梅雨の日。囲っていた女の人から、電話があったんだって。その日はたまたま、友人と飲んでいた帰りだった。時刻は所謂、丑三つ時。非常識な時間でしょう、でも、酔っていたあの人は、特に疑問も抱かず、電話に出た。そしたらね、電話先で、何かぶつぶつと呟いているのが聞こえたらしいの。それから、風の吹き抜ける音と、ノイズ。何を言っているのか解らなかったお兄さんはね、電波が悪いんだと思って、よく聞こえないよって言って、歩きながら、暫く話してた。どの位歩いた頃かしら、女の人がね、突然、しっかりとした声で、其の儘歩いて、って言ったの。其の儘真っ直ぐ、私のマンションの近くまで、って。お兄さんはその時、女の人の住んでるマンションの近くにいたのだけれど、可笑しいでしょう、如何して、女の人は、その時お兄さんが、近くにいるって、解ったのかしらね。それに、真っ直ぐ歩いたら、マンションに着くって、見ていないと解らないわ。夜風に当たって、酔いの冷めてきたお兄さんは、気味が悪いと思いながらも、女の人の意図を確かめたくて、マンションの下に行ったらしいわ。それでね、着いたよって言ったら、電話口から、女の人が。……私、誰より赤が似合うわ。貴方が囲ってる誰よりも、貴方の好きな赤が似合うわ、って、そう言ったんだって。どういう意味、って、お兄さんが聞き返そうとした、その時。どしゃ、って、お兄さんの横で、何かが潰れた。お兄さんの視界に赤が舞って、一瞬遅れて、気付いたの。そう、飛び降りよ。愛してしまったのね、決して愛してくれない、あの人を、愛して、きっと疲れてしまったの。お兄さんが贈ったっていう、白いドレスを着て、女の人は、マンションの屋上から飛び降りた。頭が潰れて、溢れ出た血が、女の人の白いドレスを汚して、そうして、赤いドレスになった。そんな惨状を見て、お兄さんが、彼女に贈った言葉は、ねぇ、信じられる?……確かに、誰より綺麗な赤だね、って。そう言ったんだって。

 あの女が、どうして私に憑いてきたのか、それは解らないわ。でも、きっと、お兄さんの囲いだった私への、嫉妬か何かでしょうね。確かに私、いつの間にか向けられている、理不尽な嫉妬には慣れているけれど、まさか、幽霊からも貰うとは、夢にも思わなかったわ。ついでに言うなら、幽霊もだけれど、自分の所為で、女の人を一人、殺しておきながら、笑ってそれを話すあの人も、正直言って、怖かったのだけれど。だって、目の前で、死んでいるのよ。確実に、自分の為に、自分の贈ったドレスを着て、目の前で、その人が潰れているのに、暢気に綺麗だと言えるその神経も、一種のホラーよね。……え?結局、あの女は、如何なったのかって?如何もこうも無いわ、今でも時々、私の家の玄関を、引っ掻き続けているのよ。さっきも言ったけれど、あの人に、心霊方面の才能はまるで無いから、そもそも女の姿も見えないみたい。皮肉よね、あの女性も。幽霊にまでなったのに、自分を殺した男には、その姿の断片さえも見えないなんて。今はお兄さんのところにお邪魔しているから、いいけれど、いい加減家の掃除もしたいのよね。ねぇ、貴方、あの女、何とかしてくれないかしら。

日本人形 語り部:真宮真白

 えェ、怖い話ィ?そーだなァ、怖いッてぇンなら、こないだの抗争で、吹き飛んだ男の頭が……あ、何、グロは駄目?ええー……つまり、あれ?怪談話?無茶言わないでよォ、俺に霊感なんてねェからァ。ん、ンー……何でも良いッてェ、言われてもォ。んー……あ、そうだ。ホントに何でも良いンなら、あるよォ、イッコ。でも、あンま怖くねェ、かも?うーん、人形の話?いや、肝試しの話?まァ、そンな感じィ。
 えっとねェ、俺、昔ホストやってたンだけどさァ、そン時ね、ホスト仲間と、当時仲良かったキャバ嬢の子達と、五人くらいで飲んでた時、何でか知ンねぇケド、肝試ししよーッて話になって、出るって噂の立ってた、うーん、あれ廃墟ッて言うのかなァ。洋風と、和風の、ミョーに混ざり合った、変なでかい家があってさァ、其処で何か、何人も怖い目に遭ってるらしかッたのよ。なァんか、子供の霊を見たとか、人形が動いたとか、そんな噂がいーッぱいあッたの。でね、まァ、酒の勢いもあって、行こうぜーッなって、夜中の、日付変わったくらいに、其処にいったンよォ。あンまし人の居ねェ辺りだッたから、雰囲気抜群でさァ。ちょー盛り上がってた、女子なンかキャーキャー騒いでさ、俺らも怖いねーとか言いながら、はしゃいでさァ。ンー、其処まで古いッて感じでも無かったかなァ。確かに、人居ねェから、埃とかいっぱい溜まッてたけど、ボロくは無かったよ。掃除さえすりゃァ、まだ住めたンじゃねーの?俺は嫌だけど。でも何か、生活感その儘、つゥか。なァンか、今の今まで、家人が其処に居たみたいな、そんな感じでさ。なのに、埃だけ被ってンの、それが逆に不気味だったンは、よく覚えてる。あンま詳しくねーケド、住んでた社長一家が、夜逃げしたンじゃァ無かったッけ?そー、だから持ち主居ねェの。周りの塀が、一部崩れてたから、そッから入ったよ。勝手口の鍵が壊れてたから、家の中には、そッから入ったの。すげー乱暴な壊し方だッたから、借金取りか、チンピラじゃないかなァ、あれ壊したの。まァ、それにしちゃァ、なーンか奇妙な感じがしたンだけど、そン時は気の所為かなッて、気にしなかった。で、騒ぎながら、俺たちも入って、しばらく部屋ン中とか物色してた。風呂場とかはほら、雰囲気バツグンよね、湿気た感じが良い具合におどろおどろしくて、床に落ちてた髪一つで大騒ぎよ、湯気で曇った硝子に自分たちの姿が映ってさァ、ボヤけんのもコエーの。まァ記念に、ッて感じで、曇った硝子に名前落書きしてみたり、無駄に片付けてみたりさ、風呂場だけで騒ぎ過ぎよね、俺ら。まァ其処には特に、何も無かったンで、そっから出て、色々回ってさァ。そン屋敷、二階建てだったンだけど、一階は特に何も無くて、強いて言うなら、さっきまで料理してた様な、ほったらかしのまな板と包丁が怖かったくらい?で、やっぱり騒ぎながら、次に、二階に行ったの。二階はねェ、なンか凄かったよォ。まず和室なンだけど、二階の面積、殆ど和室だッたンじゃねェかな、あれ。兎に角、広いのなンのッて。三つくらい、襖が開けられンの、で、全部繋げたら馬鹿でかい部屋になって、びっくりよ。広さにゃビビったけど、取り立ててミョーなトコは無かったかなァ。振袖みてェな着物が、多分几帳だと思うんだけど、ほらあの、部屋の仕切りに使う奴、あれに無造作に掛けられてた。振袖はね、赤と白の、綺麗な柄だッたよ。花嫁衣裳にも見えたなァ、でも、赤入ってッから、多分違うよね。これも埃被ってたけど、損傷も無くて、勿体無かった。こンな、金になりそうな着物も、捨てて出てッたンね、社長一家。何でかなァ。此処まで割と、何も無いけど雰囲気ばっちりで、包丁や着物に騒いでたもんだからさ、もう皆満足して、あと一つ、子供部屋みてェなトコ見て帰ろうぜーッてなって、和室の側にあった部屋に入ったンだけど……まァ、その部屋が、不味かったンだよ、ねェ。

 其処はね、一見フツーの、子供部屋だった。さっきの和室と一変して、洋風の部屋でね、くすんじゃいるケド、パステルカラーの、可愛い感じ。二段ベッドがあッたから、子供は二人だったのかな。玩具とか散らかってたけど、きっちりした子供部屋のが少ないよね。部屋自体は、フツー。でもね、その部屋。壁にね、赤いクレヨンで、でっかく楽描きしてあッたの。楽しそうな何人かの人と、景色みたいな何かとが描かれた、よくある絵なんだけどね、でも、その絵が、塗り潰されてるの。ぐちゃぐちゃに塗り潰されて、その上に、何か変な絵が描かれてンの。それで、その横には、やめて、とか、こないで、とか、たすけて、とか。そんな言葉が、描いてあンの。……異様な光景でしょ、最後にちょろッと覗いてくだけのつもりだったのが、こんなの見つけちゃうなンてさ。もう皆パニック、女子は半分泣き出して、流石にやばいから早く帰ろう、ッて、そう言った時。かたん、ッて、後ろから音が聞こえたんだ。しん、と、その場が静まり返ったよ。嘘だろ、冗談やめろよ、って、小さく呟いてたホスト仲間の声が震えてたのを、やけにはっきりと覚えてる。しかも、聞こえたの、後ろじゃん?俺らは壁見てたンだから、つまり、入り口の方なんだ。逃げ道を、塞がれたンだよ。それに気付いた時、俺、咄嗟に振り返ってた。当時も、まァ俺、喧嘩ッ早かったからさァ、一応、武器持ってたンよね、カッターだけど。で、ポケットん中に入ってるカッターに、手をかけながら、俺は入り口ンとこ振り向いたの。……そしたら、何が居たと思う?
 其処にはね、人形がいた。赤と白の着物着た、膝丈くらいまでの、小さな人形。所謂、日本人形ッて言うのかな。長い髪を、だらァんと下げて、そンで、やけに意思の感じられる目で、こっちを見てた。ひゅ、ッて、息を飲んだ音が、誰のものだったかは、解ンない。勿論、入った時、あんな場所に、人形なんて無かった。それにあの、まるで子供が部屋を覗き込むような、人間染みた仕草は、日本人形が、意思持って動いたとしか思えなくて、時間が止まったね。人形の顔は、あの特有の薄ら笑いを浮かべてて、目以外、ほんと無機質で、それがあんまりに異様で、気味が悪かった。あんまり、そーいうンで驚かない俺が呆然としてンだから、他の四人は言うまでも無いよね。もー真っ青でさ、女子は一人、腰抜けてた。そンで、ついに耐え切れなくなったらしいもう一人の女子が、悲鳴上げて一目散に駆け出したのを機に、男も逃げ出した。恐怖ッて、振り切れるとあーなるンだね、人形いンのに側走り抜けて、走りすぎて転んで騒いで、なんか、スゲーみっともなくて笑ッた。……え?俺は逃げなかッたのかッて?ンー、俺もさっさと逃げたかったンが本音だけどォ、一人腰抜かして、立てなくなってたし。別に優しくねェけど、こンなとこ置いてくンも寝覚め悪ィじゃん?それに、結構好みだッたし。だからとりあえず、その子抱えて、カッター引き抜いて、そンで、まだ入り口にへばり付いてる人形蹴飛ばして、廊下に出たの。でもさァ、多分それが悪かったンだろーね。二階の廊下に、横になって転けてた筈の人形がさァ、入ってきた勝手口ンとこ目指して走ってたら、其処に居ンのよ。そう、勝手口の前に。あ、やべ、ッて思ったね、本能的に。でもさ、俺止まれなかったの。車は急には止まれません、ッてあるでしょ?そんな感じで、かーなーり、飛ばしてたからさ、俺が人形に気付いた時には、もう遅くて。……また、蹴っ飛ばしちゃッたの、人形。人形は、勝手口から飛び出して、塀の側の草むらに消えてった。今のうちーッて事で、また塀の穴から抜け出して、で、そンままうちに帰った。あ、女の子も一緒だよ。その子、一人暮らしだッたから、怖いって、じゃあ俺ン家来るー?ッつったら、連れてって、ッて。まァそんな感じで、俺は無事生還して、狙ってた子もゲットして、後で、先に逃げ出した奴らを笑っといた、女の子置いてくなんてやーいヘタレーッて。……うん?その後?だァいじょーぶよ、あれ以来、俺はあの人形を見てねェし。うん、あンだけ蹴っ飛ばしまくったのに、奇跡よね。正直呪われても仕方なかったモン。

 でもね、その後、ちょーッと気になる話を聞いたんだ。それはね、何処ぞの社長さん家が、心霊現象に悩まされてるッて話。ほら、俺そン時、ホストだったからさ。お客に、女社長さんも居たンだよ。で、その女社長さんが、同業に聞いたらしいの。何でも、捨てた筈の人形が、帰って来るンだって。それ聞いてね、思い出したの、なァんか変だなァ、ッて、感じてた原因。あのね、勝手口の鍵、壊れてたッて、言ったじゃん?それがね、可笑しかった理由。……あの鍵は、内側から、壊されてた。可笑しいよね、夜逃げした筈の、家の鍵を、誰が内側から、壊すんだろう?借金取りなら、勿論外からだよ、チンピラだってそうだ。じゃあ誰、ッて考えたとき、ふと、あの人形の顔を思い出したんだ。それでね、俺は、思ったんだ。……もしかしたら、社長一家は、夜逃げじゃ無かったンじゃあ、無いかって。夜逃げじゃない、でも、何もかも捨てて、逃げなきゃいけなかった理由は。夜逃げなら、金になる筈の、高そうな着物を持っていかなかった理由は。あの子供部屋の落描きは、やめて、こないでって言葉の理由は、もしかしたら。……あの人形から、逃げたかったンじゃあ、無いかって。そして、何らかの方法で、人形をあの家に、閉じ込めたんじゃあ、無いかって。鍵を壊しても、出られなかった人形を、俺が蹴飛ばして、出してしまったんじゃあ、無いかって。……勿論、全部、推測だよ。全部全部、もしもの話だ。でも、そう考えたら、辻褄は合うよねェ。俺があれだけ蹴飛ばしたのに、あれ以来何とも無いのも、俺たちが肝試ししてから、心霊現象に合う社長一家も。あの人形は、俺なんか眼中に無く、その社長一家のところに、向かッたのかな。だとしたら、あの人形を、そこまで駆り立てる執念ッて。一体、何だろうね?

急行列車 語り部:皇琥珀

 ええっと、その、あの、あんまり記憶も確かじゃ無いから、ぐちゃぐちゃな話になっちゃうかも知れないんだけど、それでもいいかな?……ありがとう、それじゃあ、話すよ。えっと、確か秋の日の、帰り道の事なんだ。
 その日、っていうか、前日かな。俺はさ、寝る前まで出されてた宿題の存在を忘れてて、思い出したのは殆ど、夜中だったんだ。それで、慌ててやり出したのは良いけど、ほら、俺ってあんまり、頭良く無いからさ。結局終わったのが、三時とか過ぎてて、お蔭でその日は、凄い眠かったんだよね。俺は電車通学なんだけど、朝はほんと、気付いたら寝ちゃってて、寝過ごしかけて、大慌てでさ。一応、授業中にうっかり寝落ちて怒られたりした以外、学校は無事に終わったんだけど……大変だったのは、その帰り道だったんだ。
 何時頃だったかなぁ、四時半くらいまでは、ちゃんと意識あったと思う。でもその後、やっぱり眠気が来て、あと数駅だから、寝ちゃ駄目だっていうのは解ってたんだけど、帰りだからって気抜いちゃって、それで、気付いたら俺、寝てたんだよね。で、はっと気が付いたら、辺りが真っ暗なんだよ。それで、一気に目が覚めた。やばい、寝過ごした!って、パニック寸前で、でも唯一の救いは、まだ電車が走ってたってことかな。これで、倉庫なんかに行っちゃってたら、俺情けないけど、泣いてた自信ある。取り敢えずは助かったんだけど、でも、俺の周りに、他の乗客はいなくてね。とりあえず時間を確認しようと思ったんだけど、運悪く、携帯の電源切れてて、俺はいつも腕時計とか付けないから、時間解らなくて。それならせめて、現在地だけでも知りたいって思って、次の停車駅とか書いてないかなって探したんだけど、残念ながら何処にも無かったんだよね。悪い事は続くなぁ、って思った。まぁでも、回送では無いみたいだったし、その内何処かには着くだろうって、無理矢理自分を落ち着かせてた。

 それから、何分くらい走ったかなぁ。普段以上に、長く走ってたと思う。もしかしたら、回送じゃないって安心したのは、自分の勘違いで、実はもう倉庫に向かってるんじゃあ、って、そんな事を考えるくらいに、とにかく長く走ってた。で、怖くなった俺は、自分以外の乗客を見たくて、違う車両に移動しようと思ったんだ。最悪は、運転士さんに、現在地でも訪ねようと思って、取り敢えず前の方に移動した。一つ前の電車には、確かお爺さんが一人、乗ってたかな。帽子を深く被って、傍に杖を立てかけて、ぐっすり眠ってるみたいだった。どうせなら現在地とか聞きたかったけど、流石に、眠ってるお爺さんを起こすのは忍びないから、そーっと傍を通り抜けて、もう一つ前の車両に行ったんだ。そこには、OLさんみたいな、スーツの女の人が数人と、同じくスーツの男の人、それから、ツナギっていうのかな。土木工事の現場とかで、よく来てる水色のあれ、あんな服を着たガタイのいい男の人が一人、こっちの車両には、妙に若い人が集まってる印象だったなぁ。後ろの車両に、お爺さん一人しかいなかったから、そんな風に感じただけかも知れないけど。それで、俺がその車両に入ってくと、一番近くにいたスーツの女の人が、ふっと顔を上げて、俺を見て、それでまた、俯いちゃった。音に反応して、正体を確かめて、それで興味を失った、って感じかな。時間も遅そうだったし、皆眠かったのかもしれない。人数がいるから、何となく、こっちの車両の方が安心感があって、俺はそのまま、その車両に座ることにしたんだ。これだけ人数がいるなら、回送ってことは無いよねって、安心したのもあるかも。で、一番後ろに座って、外の景色を眺めてた時、何か、ががーってノイズが響いて、車内放送が入った。次はどこどこです、って、よくある放送みたいだったけど、ノイズが酷くて、駅名が聞き取れなかった。でも、俺は完全に寝過ごしてるし、此処で降りなきゃ、また遠くに行っちゃうと思ったから、慌てて座席から立ち上がって、扉の前に立ったんだ。窓の景色の先に、結構明るくて広い、駅らしき建物が見えてきた時にね、俺、ふと車内を見渡したんだ、そしたらさ。……ぞっとした。今の今まで、興味無さげに俯いてた女の人も、スーツの人も、ツナギの人も、皆が皆、俺を凝視してるんだ。じいっと、何処となく生気の無い瞳で、俺をガン見してるの。俺、思わず、ひいって情けない声上げてさ。無意識に後退って、もう一つ後ろの車両に逃げようとしたら、そうしたら。寝てた筈の、お爺さんが、いつの間にか俺の後ろにいた。正直言って、俺ほんと、漏らす寸前だったと思う。訳が解らなくて、怖くて、電車が駅に着いてたのも気づいてなくて、何処か遠いところで、ドアが閉まります、って、機械的な声を聞いてた。それで、ぷしゅ、って機械音がして、電車のドアが閉まりかけたところでね。俺、とんって、後ろから押されたの。その感触は、本当に軽いものだったけど、まるで紙みたいに、俺の身体は宙に浮いて、閉まる寸前のドアから放り出された。俺の身体が、電車から出た瞬間、ドアが閉まって、電車は動き出した。窓に張り付いて、未だに俺をガン見してた女の人や男の人のあの顔が、目に焼き付いて離れなかった。あれが何だったのか、未だによく解らないんだけど、あのまま乗っていたらやばかった、って事だけは、流石の俺にも解るよ。尻もち着いて、発車していく電車を茫然と見てた俺は、反対側のホームに、子供みたいな人影を見つけて、またびくっとした。でも、直ぐにあれって、違和感に気が付いてね。……多分、あの時俺を突き飛ばして、電車から降ろしてくれたのは、あの子だったんじゃないかな、って。何の根拠も無いけど、そう思ったんだよ。その子は、何て言うか、不思議な感じがした。あんまり、いいものじゃないんだろうけど、俺を助けてくれたし、それに、何かしてくる気配も無かったし。その子は、黒い髪が腰まであって、凄く長くてね。でも、あれは男の子じゃないかなぁ。着物を着ていたから、昔の子かもしれない。こっちを見てたその子の顔は、多分幽霊だっていうのが惜しくなるほど、とにかく綺麗で、紫色の瞳が、酷く印象的だった。あんまりはっきりと見えなかったけど、誰かに似てるような気がしたなぁ。それで、その子が踵を返して、向こうに歩いていこうとするものだから、思わず待ってって言って、身体を起こしたところで、凄い大きな音がして、それから眩しいライトが見えて、思わず目を瞑ったら、そしたら。……何と、俺は、最寄り駅のホームで倒れてたんだ。

 居合わせた人の話によると、俺は、突き飛ばされるみたいに、電車の中から出てきて、其の儘気を失って倒れていたから、心配した人達が声をかけてくれて、駅員さんを呼びに行ってくれている間に、目を覚ましたらしい。辺りは普通の駅で、真っ暗でも無くて、状況が解らなくて、本当混乱した。取り敢えず駅長室に連れて行かれて、落ち着くようにって紅茶を貰って、色々と話したんだけど、俺は、あれはもしかしなくとも、夢だったのかも知れないって思って、そうしたら途端に恥ずかしくなってさ。ごめんなさいって謝ったんだけど、かなり高齢で、お爺ちゃんって感じの、その駅長さんがね。俺の話を聞いたら、一瞬難しい顔をして、それから、ぽんって俺の肩を叩いて、良かったねぇ、帰ってこれて、って。そう言ったんだ。何の事か全然解らなかったんだけど、何でも、昔からある都市伝説?の一つでね、死者の魂を運ぶ電車、っていうのが、あるんだって。それは、その日死んだ人達の魂をあの世に運ぶ電車で、偶に、うっかり生きてる人が、迷い込んでしまうこともあるらしい。下手したら、そのまま道連れにされて死んでしまうっていうから、話を聞いた俺はぞっとするよね。もし、あの子が突き飛ばしてくれなかったら、俺は死んでいたかもしれない。……結局、その子供の正体は解らなくて、お爺ちゃんの駅長さんも、そんな子供の話は聞いたことがなかったみたいなんだけど、着物着て、あんな場所にいたってことは、多分、生きてないんだろうね。どんな事情で、どんな理由で、あの子が死んでしまったのか、それは解らないけど、でも。俺を助けてくれたあの子が、無事成仏してくれてたらいいなぁ。

夜泣き 語り部:冷泉紫苑

 終電の過ぎた駅構内で、赤ん坊の泣き声がする、って噂が出回ったのは、確か夏の頃だったよ。その頃も僕は生徒会長だったんだけど、可笑しいよね、何で僕にその報告を持ってくるんだか。被害に遭ったのは、いずれも女性だった。遅くまで遊び過ぎて、終電を逃した学生とか、遅くなった主人を迎えに来た、主婦とか。年齢層や、職業はばらばらだけど全員が女性で、それから、コインロッカーの辺りで泣き声を聞く、というところは一致していた。一応、何らかの事件性も鑑みて、そこの駅員がコインロッカー内を捜索したみたいなんだけどね、中からは何も出なかったみたいだよ。ほら、以前、コインロッカーの中に、生後間もない乳児を遺棄した、嫌な事件があっただろう。あれを思い出したのかもね、ただの噂にしては、真剣に確認はされたみたいだ。けれど、結局、何も物的証拠は見つからない。人はそれなりに動く駅だったけど、利用人数の割には、ロッカーは空いていたからね。ずっと使われてるロッカーも無かったから、噂は噂だろう、という事で、一度は落ち着いたんだけど、残念ながら、そこで解決大団円、とは、いかなかったようだ。駅員が確認したって連絡を受けてから、二週間か三週間くらい経った頃かな。何の用事か忘れたんだけど、僕も見事に、終電を逃したんだよ。出先だったから、噂の立った駅じゃないけど。それで、家に電話しても、珍しく誰も出なくて、かといって、小さな駅だったから、タクシーもいなくてね。仕方ないから、時々使うタクシー会社に連絡して、来て貰うのを待ってた時なんだけど、帰る前にトイレに行こうと思って、一回、駅の構内に戻ったんだ。その駅は比較的古くて、急行も停まらない、小さな駅だった。打ちっぱなしのコンクリートが、どこか寒々しくて、剥がれかけたポスターがちらほらと壁にあるような、そんな場所。最低限のライトしか付いてなくて、時刻表の傍のライトは切れかかって、点滅してた。で、そんな中に入って、用を足して、歩いてたらね、行きは気付かなかったんだけど、通り道に、コインロッカーがあったんだ。数は少なかったな、五段に三列くらいだから、十五個程度しか無かったんじゃないの。そこで僕は、あの噂を思い出した訳なんだけど、一人きりの構内でね、僕は確かに聞いたんだ。がちゃ、って、ロッカーの鍵を閉める音。勿論、周りには誰も居ない。なのに、さっきまで何も無かった位置に、鍵が落ちていた。僕はその時まで、所謂幽霊というものには、全く縁が無くてね。ああいう物って、拾っていいのか解らなくて、でも無視は出来なくて、とりあえず鍵を拾った。番号は忘れたけど、不思議なことに、その駅のロッカーの鍵じゃなかった。駅のロッカーは全部が開いていたし、そもそも、番号は三桁だったからね。駅員も居ないし、落とし物として届ける事も出来ないから、仕方なくポケットに入れて、やってきたタクシーに乗って、その日は家に帰ったよ。
 で、翌日かな。わざわざあの駅に戻るのも面倒だし、最寄り駅、まぁつまり、噂の立ってた駅なんだけど、其処に行ってね、拾った鍵を渡そうと思ったんだけど、ふと僕は思ったんだ。もしかして、この鍵、此処の駅のロッカーのなんじゃあないかって。折角来たんだし、と思って、ロッカーに行って、同じ番号のロッカーを探してみた。それで、鍵を差し込んでみたらね。開いたんだよ、鍵が。何であんな場所に、此処の駅の鍵が落ちていたのかは知らないけど、正規の鍵なら、勝手に開けて中身を見るのも悪いし、もう一度閉めて、駅員にでも渡そうと思ったんだけどね、その時、ふと、ある違和感に気付いた。
 そのロッカーにはね、何も入っていなかった。可笑しいよね、普通、何かをしまうものでしょ、ロッカーって。それなのに、ちらっと見た限り、中身が無くてね、それで、改めて中を覗き込んでみたんだけど、やっぱり空っぽなんだ、其処。誰かの悪戯かと思って、如何するべきか、対処に困ってたらさ、いつの間に来てたのか、後ろで女の人が、何かを探してるんだ。無い、無い、って、困った様子でうろうろしてるから、もしかして、この鍵の持ち主かなって。落とした鍵を、誰かが拾って、開けて、中身を盗んで、嫌がらせに鍵を閉め直して、また放置した、とか、そういうのも無い訳じゃないし、実際、以前一度、そんな事件があったって聞いたから、一応、声をかけたんだよ。貴方、もしかしてロッカーの鍵を探してるの、って。そうしたら、女の人は、ぱっと顔を上げて、嬉しそうに、そうです、鍵が無いんです、拾って下さったんですか、って、そう言うから、ちょっと複雑な気持ちになりながら、鍵を渡してね。それで、残念だけど、中身は盗まれた後みたいだよ、ってそう言ったら、突然女の人が泣き出すんだ。流石に驚いたんだけど、よっぽど大事なものでも入れてたのかと、そう思って、駅員に言った後、警察に盗難届でも出すように言ったんだけど、泣いたまま首を振って、何も答えない。で、また対処に困って、何を入れてたの、何を失くしたのって、そう聞いたらね。女の人が、ぱっと顔を上げて、ぼろぼろぼろぼろ、泣きながらね。私の赤ちゃん、って、そう言ったんだ。一瞬、意味が解らなかったよ。赤ちゃん、って、つまり、乳児だろう。そんなものをコインロッカーに入れるだなんて、どうかしてる。それなのに、女の人は、本当に悲しそうに泣いてるんだ。……女の人の容貌?別に、普通だったよ。白のブラウスに、紺のスカートで、髪は黒くて、肩より下にかかってた。幽霊みたいに、透けても無いし、本当に、普通の人間みたいで。その時僕は、その女の人がどういうものかなんて、まるで気付かなくて、本物の人間だと思ってたものだから、如何して赤ん坊をロッカーに入れたりしたの、って、そう聞いたんだよね。そうしたら、女の人は、泣きながら、私じゃありません、って。私じゃありません、あの人が、私から赤ちゃんを取り上げて、ロッカーに入れたんです、この鍵のロッカーに、あの子がいるんです、此処だと思ったのに、違う、違った、何処なの赤ちゃん、早く迎えに行ってあげないと、赤ちゃんが死んじゃう、って、そう叫ぶんだ。彼女の話を信じるとするなら、どこかで出産した彼女から、赤ん坊を取り上げたあの人とやらが、その赤ん坊をロッカーに遺棄したって事だろう?立派な殺人未遂だから、僕も困って、それなら尚更、警察に通報するべきだって言ったんだけど、警察は、何度話しても聞いてくれないって泣き崩れるものだから、もう、あの給料泥棒共は何してるんだってなるよね。仕方ないから、僕が鍵を持って、取り敢えず電話したんだよね、警察に。それで、事情を話したら、向こうも焦って、直ぐに鍵を持って、その女性を連れて来て下さいって言うから、彼女を連れて行こうとしたんだけど……電話を切って、ふと辺りを見たら、彼女が居なかったんだ。可笑しいな、とは思ったんだけど、電話の内容を聞いてて、焦って飛び出して行った可能性もあるから、取り敢えず僕一人で鍵を持って、警察に行ったんだけど……可笑しな事にね、それ以来女の人は消えて、おまけに、その鍵のロッカーは、見つからなかったんだ。っていうか、さっきあの駅で開いたじゃないって思い出して、もう一度確かめにいったのに、今度は鍵穴にさえも入らなくてね、もう、可笑しな事だらけだよ。愉快犯なんじゃないかって疑われもしたけど、そんな訳が無いじゃない、僕は確かに、あの場で女の人を見たし、普通に話もした。なのに、彼女はいなくて、鍵は開かない。で、困った僕と警察が、鍵を拾った駅に行って、駅長に話をしたら、ちょっと興味深い話が聞けたんだよ。

 曰く、僕の拾ったあの鍵は、立て直す前の、以前のこの駅にあった、コインロッカーのものだった。それで、昔の駅でね、乳児遺棄事件が発生していたらしいんだよ。幸いにも、赤ん坊は死ぬ前に発見されたらしいんだけど、犯人はその赤ん坊の父親だった。その男が、不倫していた相手の女性が、身籠って、産む産まないで喧嘩していたらしくて、自分に黙って出産をしてしまった女性に腹を立てて、喧嘩の最中に誤って殺してしまった。で、傍らに転がっている赤ん坊に恐怖を覚えた男は、車を飛ばして隣県の適当な駅に入り、コインロッカーの中に遺棄して、鍵を捨てた。焦っていたのか、捨てた場所も、同じ駅の構内で、おまけに挙動も不審だったらしく、赤ん坊は無事救助され、男も捕まった。……でもね、救出された赤ん坊は、その後長くは生きずに、結局死んだらしいよ。僕の出会った彼女は、多分、その殺された女性だったんだろうね。死んだと思われた後も、息があったのか、男が自分の赤ん坊を捨てに行くのを見ていて、追いかけてきたんじゃないのかな。母の愛は強いって言うけれど、その愛情は、時として悲しいよね。あの駅で聞こえた赤ん坊の声が、彼女の子だとしたら、その子は、母親を探してるのかな。そして、彼女は今も、赤ん坊を探して、何処かを彷徨ってるんだろうか。今でもあの駅では、時々、赤ん坊の泣き声が、聞こえるらしいよ。

座敷童子 語り部:久瀬那緒

 ……そもそも、俺は、喋るのが苦手、何だが。嗚呼、まぁ、良い。話すには、話すが、余り、期待はしてくれるなよ。納涼は、期待するだけ無駄だろうな。この話は、そうだな、怖い、と、言うよりは、不思議な話だ。まぁ暇潰し程度に、聞いてくれ。
 二年程前の話、だ。俺には、その時、付き合っていた女が、居てな。いや、付き合っていた、というか、まぁ……察して、くれ。説明が、難しい。取り敢えず、不倫で無い事だけは、確かだ。それで、その女が、駅から徒歩五分程度の、割と小洒落たマンションに住んでいて、ある冬の日、雪が降ってたんだが、約束をしていたから、電車を乗り継いで、其処に行ったんだ。しばらく駅から歩いて、マンションのエントランスで、着いた旨を連絡し、オートロックを解除して貰い、入った先のエレベーターに乗っていると、途中で、エレベーターが止まった。俺はてっきり、誰か、別の階の住人が、何かしらの用事で、乗ってくるんだと思ったんだが、扉が開いても、其処には誰も、居なかった。奇妙だな、と、一応、思いはしたんだが、その時は急いでいたこともあって、其の儘、流してな。もう一度、ボタンを押して、扉を閉めて、女の部屋の階まで行って、降りた。その日は、特に、問題無い。翌日、帰る際にも、妙な事は無かったし、エレベーターも、止まらなかった。……まぁ、此処までなら、誰かが間違えて押した、とか、子供の悪戯、とか、幾らでも理由は、思い起こせるんだが、その後、そうも言ってられない事態になったんだ。
 俺はその後、また、一週間後くらいに、同じマンションに向かった。同じように、オートロックを解除して貰い、また、エレベーターに乗ったんだが……その日もまた、同じ階で、エレベーターが止まった。そして、一週間前と同じように、開いた先には、誰も、居なかった。……流石に、二回連続だと、気味が悪いだろう。悪戯だとしても、こんな偶然、ある訳がない。余りに気味が悪くて、其の儘降りて、残りは階段で向かった。後数階だったからな、行けない距離じゃない。全くもって、奇妙な話だ。不安にさせたい訳では無かったが、少し、心配になってな。部屋に行った後、女に、それとなく、聞いてみた。そうしたら、其奴は、貴方も見たの、と。そう言った。最初は意味が解らなかったんだが、何やら知っている様な口振りだったから、問い詰めて見れば、何でも、あのマンションには、座敷童子、が、住み着いているらしい。嗚呼、聞いた時は、耳を疑った。座敷童子、なんて、聞いた事はあるが、まさか実在するとは、思わないだろう?あんなものは都市伝説だ、俺だってそう思っていた。だけど、それが、実際に存在すると言う。十に満たない、子供であるらしい、姿を見た者によればな。その座敷童子は、紺色の着物を着て、丸い頭で、素足で、マンションの至る所を、出歩いているんだと。そして、様々な場所で、遊んだり、歌ったり、小さな悪戯をしたりと、存在の痕跡を残しているらしい。俺が遭遇したのも、その悪戯の、一環だったとか。
 女が最初に、その座敷童子を見たのは、自宅の玄関だったらしいな。朝方、急いで身支度をしながら、ふ、と、何となしに、玄関に視線をやれば、一瞬、子供の様な影が見えて、そして、消えたんだとか。だから最初は、所謂出る部屋、ヤバい物件を引いてしまったんだと思ったらしいんだが、その子供を見て以来、停滞気味だった業績が伸び、新しい顧客も増え、それから、新しい男……まぁ、これは俺なんだが、男も捕まえられて、取り敢えず、いい事尽くめになったんだと。で、これは奇妙だな、と、そう思って、近くで暇をしていた主婦に話を聞くと、このマンション自体に、座敷童子がいると、そう言っていたらしい。マンションに住んでいるからといって、必ずしも出逢える、という訳では無いが、稀に、俺の様に、外から立ち入っただけでも、見えたりする者がいたりと、その存在は、前から住む住人にとっては、比較的、周知の事実だった様だ。座敷童子を見れば幸福になるから、俺も幸せになる、と、女は笑っていたが、結果は微妙なところ、だな。悪くなってはいないのは、確か何だが。一応、俺がその、座敷童子らしきものに出会ったのは、あの二回だけで、他は何も、音沙汰無しだ。別に、座敷童子を見に、マンションに行った訳でも無いし、それは別に良いんだが。
 因みに、その他の幸福談としては、大きいものなら、宝くじが当たった、とか、旦那が出世した、とか、子供が受験に通った、とか、意中の相手を射止めた、とか、そんなところか。嗚呼、比較的、マンション内にいる時間の長い主婦が、主に座敷童子を見ているようだな。偶に、疲れて仕事から帰ってきた独身男性が、階段に座り込む子供を見て驚いたり、も、しているらしい。小さいものなら、それこそ、山とある。百円拾った、好きな子と目が合った、アイスが当たった、階段の上から転けたのに無傷だった、信号に捕まる確率がぐっと下がった、とか、気の所為だろ、と言いたくなる案件も、微笑ましい案件も、いっしょくただ。何処までが座敷童子とやらの仕業で、何処までが偶然何だろうな。……が、座敷童子がいる、と聞けば、たまたま起こった幸運も、そのお陰だと思い込むのも、無理は無いか。これが信仰の起源か、と、妙な感心もした。人間なら、誰だって、偶然の幸運に恵まれる事が、幾度かあるだろう。それを偶然だと見なすか、必然と見るか、はたまた、神の導きと取るか。それこそが、その人間の価値観で、生き様なのだろう。今回の様に、座敷童子のお蔭、と見なすのも、それのいい例だ。大多数が認識する事により、座敷童子という存在は、大きくなる。認識、というのが大事なんだろうな。知られなければ、それは、存在しないのと同じことだ。

 ……そのマンションの現在、か?いや、すまない、良く、解らない。実はあの後、しばらくして、女は海外転勤が決まってな。ずっと、海外で働くのが夢だと言っていたから、これも座敷童子の幸福とやらかもしれないが、とにかく、それで、女は引っ越して行った。マンションは、俺の生活圏内では無かったからな。女がいるから通っていただけで、その女が出て行くというなら、わざわざ出向く用事も無い。最後に見送って以来、マンションには行っていない。女とも、それ切りだ。……付き合っていた、というには、難しい仲だと言っただろう。確かに、女の事は好きだったが、会えない時間までも縛りたがるような、そんな種類の愛じゃ無い。会えないならば、仕方が無い。まぁ、特に潰れたという話も聞かないから、まだあそこに居るんじゃないか、座敷童子。気になるなら、行ってみればいい、ちょうど其処の路線で、右回りに四つほど先だ。駅の北口から出て、真っ直ぐ行ったところに、幾つかマンションが建っている。其処の、一番駅よりの建物だ。見に行くなら、もしまだ居たら、気が向いたらで良い、俺にも教えてくれ。

午前三時 語り部:シードラ=インフェルノ

 怖い話、不思議な話、ねぇ。さぁて、どうしたモンかな。そんなに怖いネタはねぇぞ、伝聞じゃ駄目なんだろ?難しいもんだ、こちとら霊感も碌に無いっつーのに、無茶言うぜ。……嗚呼、そうだな、じゃあ、何年か前の、それなりにビビった話。あんま期待すんなよ。
 あー、確か、確か梅雨の手前、だったかな。忘れたけど、真夏でも真冬でも無い季節で、その日は、まぁ、色々あって、俺は一人で、車走らせてたんだよ、首都高速を。あ、時間帯は夜な。それなりに星の見える、まぁ普通の日だ、雨の降る気配は無かった。何の用事だったかな、その辺は忘れたが、多少急いでたってことは、覚えてる。なんであんなに切羽詰まってたんだか……んん、まぁ良いか。で、首都高速で車飛ばして、目的地に向かってたは良いんだが、まぁ、運の悪い事に、行き先で事故が起こったらしくてな。この先渋滞が何十キロ、と、恐ろしい知らせが電光板に載ってたもんだから、嗚呼これはやばい、と。一応、渋滞に引っかかる前に、気付けたは良いが、もう道中半分以上は来てて、今更引き返す訳にもいかないし、どう考えても目的地の方が近いし、となって、じゃあと高速を降りて、街中通っていくことにしたんだが……いやはや、普段高速しか通らない場所で、しかも夜に、見知らぬ土地を行くのは無謀だったな。そ、迷っちまったんだ、ものの見事にな。どんぐらい彷徨ったかねぇけど、まぁ、少なくとも、日付は変わっちまってた筈だ。……あ?ナビ?嗚呼そういや、そうだな、確か付けてた筈だが……何で使わなかったんだか。ん?俺の車か?確かあの時は、アストンマーチンだった、この後酷い目に遭ったんで、変えたよ、新しいのに。丁度その後、マセラティの新車が出たしな。嗚呼、思い出した。そう、確かそん時、丁度ナビが壊れててなぁ、用事ついでに、ナビも直して貰おうと思ってたもんだから、どうしようも無かったな。位置情報がイカれちまってて、何処走ってんのか解りゃしない。役立たずなんで、更新もせずに、放置してたよ。それに、ナビが必要な場所に、早々行く用事も無かったしな。だからあん時は、仕方ないから、わざわざスマホ開いて道を確認してたんだ。っつっても、スマホのマップだと、一々停まって、そんで確かめねぇと駄目だろ?運転中に、んな地図なんざ見てらんねぇし。つまり、一回停まって、地図見て道を確認して、そんで道を覚えて走んなきゃならない訳だが、何分夜中で、暗いし、道は解らないしで、曲がる交差点をミスって、そっからはもう、ぐちゃぐちゃだ。何をどう間違えたのか、修正が効かずに、変な所に入り込んでな、人気の無い山道みたいなところに、行っちまったんだよ。嗚呼山道っつっても、道が極端に狭いとか、地元の奴しか解らないような、あのややこしい道って訳じゃなく、謂わば旧道って奴でな、目的地には一応、繋がってる。元々行こうとしてた道とは、大分ずれちまったが、それでも僥倖には違いないよな、其の儘行けば、ちょっと時間はかかるけど、ぐちゃぐちゃとややこしい街中を通らなくても、辿り着けるんだからさ。もっかい街中に戻っても、また迷う予感しかしなかったし、街中より二割り増しで暗くて、薄気味悪いってだけで、道もそんなに悪く無いし、そもそも夜中だからな、どの道行っても、暗いのは当然だろ。それに、その時俺は、所謂心霊的なものとは、まるで縁が無くて、不気味だとは思えども、それでビビったり、ってのは全く無かったからな。そんな訳で、俺は其の儘、その道を進む事にしたんだ。道は真っ直ぐで、途中で、幾つか分かれ道はあるんだが、それまでに一つ、山間部に食い込んでる部分があったんだよな。その道のりは、流石に間違えなかったぜ、なんせ、ただの直線だ。それで間違えられたら、俺は晴れて、方向音痴の称号を貰っちまうことになりそうだ。いらねぇよ、そんなの、流石に。不名誉過ぎるだろ。……嗚呼、それでな、旧道ってのは、やっぱり車通りも少なくて、それに準じて、ライトも少なくなるんだよ。歩行者は居なかったんじゃねぇの、あの感じは、車専用っぽかったな。嗚呼、控えめに言って、かなり不気味な道のりだった、道中は。幾つか、電気が切れたまま、放置されていたライトもあったしな。高速でもないから、途中に、サービスエリアも無いし、困ったもんだよ。トイレも自販機も碌にありゃあしない。俺だって、あともう少し、って距離じゃなきゃ、あんな場所通らなかったさ。ってか、そもそも、高速から降りなかった。けど、なぁ、あの日だけ、行っちまったんだよな。俺は思うんだよ、そういうのも、きっと、巡り合わせ、って奴なんじゃあないかって。だから、多分、出遭うべきときに、そういうものとは、出遭うんだろうな。俺がそいつを見ちまったのは、もうすぐ旧道を抜けるってところにある、長いトンネルの中だった。

 後で聞いたんだがな、あのトンネル、碌でもない怪談話の温床だったらしいぜ。都市伝説、っつうんだったか?車と並走して走るババアとか、クラクション鳴らしたら出てくる霊とか、女が後部座席に座ってるだとか、脚を引っ張られるだとか、嗚呼、此処で殺された子供の霊が出る、とかもあったな。ちょっと聞いてみれば、出るわ出るわ、怪談の嵐。確かに、そんな怪談が溢れ出るのも仕方のないくらい、不気味なトンネルではあったよ。まず、距離が長いからな。昼間でも向こう側は見えないらしいし、入り口付近にはなぁんにも無くて、雨でもないのに、心無しか、湿気った様な気配がした。年季入ってるのか、苔に覆われてる上に、草木が周りに覆い茂っててな、結構古ぼけた感じだった。結構暗くて印象的ではあったが、取り立てて目立つものも無かったな。強いて言うなら、距離がとにかく長い、ってくらいの、よくある昔のトンネルそのもの、って感じだった。俺は山道を走りながら、そのトンネルを道の先に見つけて、取り敢えず安心したんだ、ちょっと前に確かめた地図には、トンネルを抜けたら三つだったか四つだったか、とにかく幾つか分岐点を曲がると、あとはしばらく真っ直ぐ行けば、もう目的地の街に着く、みたいなことが載ってたからな。つまり、トンネルを抜ければ、あと少し、って訳だ。それで、俺はそのまま、トンネルの中に入ったんだが……何つうの、あれ、悪寒?そう、中に入った途端、背筋がこう、ゾクっとしてよ。何となく時間を見たら、三時何分、て、所謂丑三つ時を過ぎた頃合だった。で、あー確かこのくらいの時間ってよく怪談の舞台になるよなーみたいな事を考えながら、しばらく走って、ようやく、トンネルの出口が見えてきた頃、何気なく、ふっ、と、バックミラーに視線を移したんだ。俺は、自分の目を疑ったね。信じられるか?バックミラーにはな、俺の後ろに、真っ白い女が映ってんだよ。そいつは、真っ白な着物着て、長ったらしい黒髪を、だらりと垂らしてて、目元は見えなかったな。ただ、血の気の引いたみたいな、血色悪い唇だけが、唯一髪から逃れて、白い顔の中にあった。怖い、っつうか、何つうか。思わずビビって、ハンドル誤ってさ、壁にぶつかりかけたんで、慌ててブレーキ踏んで、取り敢えず、事故も無く停止はしたんだが……衝撃で、バックミラーからは、視線を離すだろ?まぁ、もっかい、あいつがいるかどうか、確かめるなんて、正直やりたくないよな。っつっても、見間違いだなんて言い訳が通じないほど、はっきり見ちまった訳で、俺は、このまま車を走らせるべきか、それとも、すぐ車内から逃げ出すべきか、一瞬考えた。まず車内に入り込まれてるから、もし奴がまだいた場合、このまま中にいたらデッドエンド。が、かといって外に出ても、道も何も解らない中で彷徨ったって、逃げ切れる訳もない。だって、相手はバケモンだぜ、そもそもどうやったら正解なのかも怪しいよな。そりゃ、さっきの一瞬で、脅かしは終わり、っつうなら、万々歳だがよ、そうは問屋が卸さねぇ、ってのが、世の理らしいな。悪寒がずっとしてて、そんな状況で、楽観的にゃなれねぇよなぁ。どうにもこうにも、やばい状態は継続しているらしいって判断した俺は、けどやっぱりバックミラーだけは見たく無かったもんだから、どうするべきかとしばらく悩んで……た、ら。後ろからな、恐ろしく真っ白い二本の腕が、伸びて来たんだ。丁度、運転席を抱き込む様に、後ろから。その腕は、正しく、この世のものじゃ無かった。ぼんやり発光でもしているみたいに、真っ暗な中でも、輪郭が鮮明で、とにかく綺麗なんだ、作り物みてぇにな。そいつの腕が、ゆっくり、ゆっくり、前へと伸びてきて、そうして、奴の肘辺りまで見えてきたところで、ようやく俺は、正気に戻った。やべぇ、って、ゾッとしたね。そうして、焦ったのが悪かったんだろうな。俺は、車を出そうとして、ギアを掴んで、そうして、いつもの癖で、つい、バックミラーに視線を移しちまった。あっ、と思った時には、もう遅い。俺は、バックミラーに映ってた女と、目が合った。ゾッとするほど、虚ろな目だった。いや、むしろ、あれは目だったのか。生気が無くて、けど、黒々とした瞳は、限界まで見開かれて、俺の後ろから、俺を見てた。ヘッドレストの直ぐ後ろにへばりつく様にして、腕を伸ばして、そいつがいるんだ。そいつの腕がさらに伸びて、ミラー越しじゃなくても、視界の端に黒い髪が見えて、もう駄目だと思ったんだ。女の血の気引いた唇が、歪に吊り上がった、その時。突然、クラクションが鳴り響いた。同時に、真ん前から、眩いライトが見えてな。思わず目を瞑って、手で顔を覆った。……クラクションとライトの正体は、何のことは無い。向こうから来た、でかいトラックだったよ。変な体勢で停車してたから、鳴らされたんだろうな。正直言って、あのクラクションが、一番ビビった気がするぜ。しばらく呆然として、はっと気付いた時には、もう女は居なかった。妙な悪寒も無いし、バックミラーにも映ってない。自分で振り向いてもまた然り、ただのいつも通りの、俺の車だ。嗚呼もう、あの時は思い切り、二酸化炭素全部吐き出す勢いで、安堵の溜息を吐いたね。多分、あのままだったら、やばかったんだろうな。俺は、見知らぬトラックに助けられたって訳だ。まぁ助かったと解っても、これ以上長く、こんな薄暗い場所にはいられるかってんだよな。さっさとエンジンかけ直して、また飛ばして、トンネルからは出たよ。そっからの道のりは、特に問題無かったな。段々街中に近づいてくるから、明るく新しくなってくるし、夜明け前には、目的地に着いた。いやはや、長い夜だったよ、本当に。あれから何度か、旧道も山道もトンネルも、使っちゃあいるが、もう二度と、あのトンネルだけは、通りたくは無いな。

迷い小路 語り部:冷泉恭真

 どうしようかなぁ、ううん、僕は霊感が無いんだよねぇ、何にも思い付かないや。よく言われてるような、夜中に何度か起きたら時間が戻ってた、みたいな、そういう話も見事に無いんだよね。あ、僕の話じゃなくて良いなら、梨花ちゃんの話なんだけど……うん?そう、赤いドレス、いや、正確には、血に塗れた白いドレスの女の……嗚呼、なぁんだ、もう彼女が話しちゃってたか。同じ話は芸がないしね、それじゃあ……うん、ずっと前に体験した、怖くは無いけど、不思議な話をしよう。

 僕が学生時代の話だ。確か、高校の時だったかな。僕はその時、まぁ何ていうか、ちょっとやんちゃしてて。その日はね、午後の授業をサボって、遊びに行こうとしてた。こんないい天気なんだから、遊ばないと損、ってね。それで、まぁ、言った通り天気も良いし、何月だったかは忘れたけど、気候もよくてね。温度は適温、風も心地良い、そんなからっと晴れた快晴の日だったから、不健全なお店に行くより、ぶらぶら出歩こうって話をシドとしてて。あ、シドってのは、シードラ=インフェルノ、僕の学生時代からの親友ね。それで、理由は忘れたけど、現地集合って、一回学校で別れたんだ。行く前に、何か買いに行ったんじゃないかな、シドが。だから僕は、その日一人で歩いてた。
 如月学園って知ってるかい?そう、その金持ち名門校、其処が僕の出身校なんだけど、あそこ、ちょっと入り組んだ、奥の方にあるでしょう。あれだけ敷地があったら、街の方には建てられないってのも、頷けるんだけどね。行った事があるなら、話は早いんだけど、如月学園から、商店街とかアーケード通りの辺りに行くなら、一番近い道は、住宅街を通り抜けていくことなんだ。普通の住宅街じゃなくて、所謂金持ちの家が集まる、高級住宅街。その時も、その住宅街を通ってたんだけど、あの日に限って、何だか可笑しかったんだ。まず一つに、人がいない。平日の真昼間だし、出歩いてる人が少ないのは当たり前なんだけど、本当に、人っ子一人いなくてさ。かなり長い時間、いろんな場所を歩き回ってたのに、誰の声も聞こえないし、しん、と静まり返ってた。普段使い慣れた道でも、人がいないってだけで、あんなに不気味になるんだね、まるで別世界みたいだったよ。とは言っても、まぁ人がいないだけなら、一応、あり得ない事でもないよね。それだけなら僕だって、変だなぁ、ってぐらいで、済んでた。でも、そうはいかなかったんだよねぇ、残念ながらさ。次に可笑しいな、って思ったのは、住宅街を歩いてて、しばらく経った頃合だった。あそこの住宅街は結構広くて、普通に歩いてるだけなら、抜けるのに十分から十五分掛かるんだけど、可笑しいんだよね。もうとっくに、十五分位は経ってた筈なのに、まだ住宅街の中にいた。それどころか、どっちに歩いても、どう歩いても、まるで先が見えないんだよね。途中までは、確かに、見慣れた道を通ってた筈なのに、気付いたら道を間違えたみたいで、知らない家の辺りに来てて、それからどう行っても抜けられない。流石にね、これは可笑しいなって、誰でも気付くよ。天気は変わらず快晴だし、風も何も変わらないのにさ、変だよね、本当。
 それから、どれ位歩いたかなぁ。一時間はいってなかったと思う、でも、それに近いくらい、僕は住宅街を彷徨ってた。困ったよね、流石に。誰かに道を聞こうにも、誰もいないし、もうなりふり構ってられなくなって、そこら辺の家のインターホンを押しても、物音一つしないし、五軒くらい訪ねて、返答が無かったところで、諦めたよ、人を探すのは。
 変化があったのは、五軒目のインターホンを押して、誰も出てこないのに、手詰まりになった頃。もう打つ手がなくてさ、誰もいないのをいいことに、その家の塀に寄りかかって、座り込んでたんだよ。座ってぼーっとして、空を見上げて、あー鳥がいるなぁ、ってどうでもいい感想を持ったりしてた時に、不意に思い出した。あ、そういや携帯があるじゃん、って。何で忘れてたんだろうね、電話して迎えに来てもらうか、そうでなくても、この住宅街に来て貰えば、何とかならないかなって、電話しようと思ったんだけど……まぁ、ありがちな展開だよね、うん。携帯は圏外、一応他の機能は生きてたんだけど、電卓だのメモ帳だの、そんなの備えてても、何の役にも立たない訳で。……え?写真?うん、撮ったよ、時間見たら、普通に約束の時間過ぎてたし、故意に遅れたんじゃないって証拠にね。……さぁ、写真はどこにいったかなぁ。だって、もう十何年も前の話だし、携帯変えた時に、其の儘じゃないかな。うん、写真は撮れたよ、ちゃんと、何の支障も無く。十字路に立って、東西南北と撮ってみたけど、全部似たような家が続いてて、やっぱり先は見えなかった。……うーん、どうだろう。言い訳になればいい、ってくらいの動機だったから、一箇所でしか撮ってないなぁ。でも、今思えば、あれだけ同じ道が続いてたんだから、ループしてた可能性もあるかもね、表札も確認して無かったしなぁ。もう詳細な部分は、記憶も薄れかけてるし、惜しいことをしたな。嗚呼、一応ね、その撮った写真のお陰で、僕の無実は証明されたよ。結局は無事帰るんだけど、その後、事情を聞いてくれたシドに写真を見せて、一緒に住宅街に行ってみたけど、全く同じ配置は無かったんだ、不思議だよね。ねぇ、一体、僕は何処に迷い込んだんだろう?
 嗚呼、そうそう、変化ってのはね、携帯が繋がらないって気付いた後なんだけど、風に乗って、鈴みたいな音と、誰かの笑い声が聞こえたような気がしたんだ。でも、これに関しては、正直、記憶は定かじゃない。鈴の音は、風鈴みたいな感じだったかな。夏とかに、窓を開けていると、たまに、何処か遠くから、風鈴の音が、風に乗って聞こえてくる事があるでしょう?それを、もっと小さくしたみたいな、そんな、微かな音だった。それから、何人かの子供か、学生くらいの、笑い声。公園の横を通った時に聞こえるような、僕に向けての笑い声じゃない、楽し気なものだったよ。怖いって感覚は、特に無かったかなぁ。不気味ってより、むしろ、日常の音が帰ってきて、安心さえした。それくらい、自然な音だったんだ。嗚呼、気の所為って可能性も、勿論あるよ、あの時は、正常な精神状態でも無かったしね。まぁ、電話は駄目、一応試しはしたけど、メール諸々も駄目で、ただの電卓、メモ帳、カメラと化した携帯は、一旦鞄に戻して、もう一回歩く事にしたんだ、その音の聞こえた方に。それ以外に、有益な行動も無さそうだったしね。まさか、手頃な家の柵を乗り越えて、硝子を割って、ダイナミックにお邪魔する訳にもいかないだろう?住民もいないのにさ。

 それで、音がしたのは、多分こっちだな、って方に歩き始めて、しばらくして、今までずっと住宅ばかりだったのに、不意に公園が現れたんだ。いや、普通の公園だよ、取り立てて珍しくも、寂れてもいないかな。で、その公園を見て、思い出したんだ。そういえば、この住宅街の端には、小さな公園があったな、って。何分、僕は通らない方向の道の、そのまた先にある公園だったから、見たことも行ったことも無かったんだよね。だからその時まで、公園の存在はすっかり忘れてたし、目の前の公園が、その端の公園だっていうのも、ほとんど憶測だったんだけど、それ以外に可能性も思い付かないし。さっきも言ったけど、その公園があるのは、住宅街の端だったからさ、嗚呼これで、漸く謎空間から抜けられる、って、取り敢えずほっとした。まぁ、公園にも、やっぱり人影は無かったんだけどね。でも、風景が変わるって、やっぱり安心するよ、ずうっと同じような景色ばかり見せられたんだからさ。
 公園に出たら、すぐ住宅街を抜けるって聞いてたから、まぁ取り敢えず、其の儘真っ直ぐ進んでみることにしたんだ。ちょっと歩いたら、直ぐに空気が変わったよ。相変わらず周りには人の気配は無かったけど、生活音、っていうのかな。人の気配とか、話し声とか、足音や、エンジン音が、遠くから聞こえてきて、あ、抜け出せるかも知れない、って思った。
 で、幾つか十字路を越えてさ、適当なとこで角を曲がったら、向こうからきた男とすれ違ったんだ。服装はスーツの様だったけど、サラリーマン、って雰囲気では無かったかなぁ。じゃあ何、って言われたら、答えられないんだけど、その時の僕は、これで抜け出せた、って思って安心してね。ずっと、人っ子一人居なかったし、だから自分以外の人間に会えて、これで大丈夫だ、って。実際、その予感は当たってた。その人と出会ったのを皮切りに、向こうから何人かやって来たんだ、この辺に住んでそうな奥さんとか、学校帰りの子供とか、色々ね。携帯を確かめたら、迷ってた時間分はきっちり経ってて、でも、今度はちゃんと、電波が届いてた。で、晴れて現実世界にご帰還、って訳さ。何だかどっと疲れた道のりだったけど、まぁ、一応ハッピーエンドだよね。特にホラーな現象も、怖い体験も何もなく、ただ道に迷っただけ、みたいな出来事だった訳だし、結局、何もせずに、帰って来れた訳だし。

 まぁ、この話に、何か蛇足を付けるとするなら、実は僕は、この出来事を、つい最近まで忘れてたんだよね。……うん?じゃあ何で、今は思い出してるのかって?あはは、いい質問だね。そう、それが肝なんだ。ところで君は、今の和泉の当主を知っている?そう、あの凛々しい女性。じゃあ、その凛々しい彼女に婿入りした、和泉千里という人を知っているかな。穏やかな人だよね、うん、僕も社交界で挨拶した程度の仲で、全然関わりは無いんだけど、彼の顔を見てさぁ、思い出したんだよね、昔の不思議な迷子を。ね、僕が現実世界に戻る前にさ、スーツの男とすれ違ったって、言ったよね。可笑しいんだ、彼の顔はさ、その和泉千里に、そっくりだったんだよ。ねぇ、僕はあの時、一体何処に迷い込んだんだと思う?十数年後の未来?それとも。……ふふ。ねぇ、和泉千里は、本当に、ただの人、だったのかな。

三〇六号室 語り部:雛見郁人

 なぁ、殺人事件も、自殺も、無念の死も、何にも無かった場所に、幽霊が出るって、あり得ると思う?……違う違う、昔の霊でも無い、現代人の霊。うん、あのさ、俺の、前のアパートの話なんだけど、俺の親って、転勤族で。それで、結構頻繁に、引っ越しを繰り返してたんだよね。いつ頃だったかなぁ、ある時、あんまり長くは住まないからって言って、ちょっと古めの、家賃の安いアパートに引っ越したんだ。三階建てで、一階に、部屋が……幾つだったかな。ちょっと忘れたけど、多分、十は無かったと思う。俺達の部屋は、三〇二号室だった。一階が一〇〇番台、二階が二〇〇番台、三階が三〇〇番台、って感じで、番号が割り振られてて、部屋は、まぁ普通。ぼろいけど、手入れはされてたし、家賃の割には、部屋数はあったかな。大家さんも、優しそうな、っていうか、実際優しいおばあさんで。だから、家族連れとかが、多く住んでたと思う。頻繁に、子供の笑い声とか、大人の窘める声とかが、あっちこっちから聞こえてた。そうだね、その点で言えば、壁が薄いのも難点だったかな。でも、独身はいたけど、夫婦とかカップルは居なかったし、その独身も、誰か連れ込んでた感じも無かったから、妙な声にも悩まずに済んだよ。引っ越してしばらくは、別に、何も変わったことは無かった。だけど、いつだったか、三〇六号室に住んでる三人家族の奥さんがさ、家の中で、妙な物音がする、って話をしてたんだよね。がたん、って、何かを蹴っ飛ばした様な、そんな音。最初は、どこかの部屋で、家具でも動かしてるのかと思ったらしいんだけど、その内、音が聞こえる間隔がどんどく狭くなって、今では毎晩、聞こえるらしいんだ。流石にさ、毎晩っていうと、ちょっと奇妙だよね。それもさ、必ず毎晩、丑三つ時に、聞こえるんだって。そんな話を聞いて、一時期、ちょっと噂になったんだ、奇妙な音の聞こえる部屋、って。……まぁ、だからって、しばらくは如何という事も無かったんだけど。けど、それが一変したのは、奥さんが音の話をしてから、一か月後くらいのこと。突然、夜中に、大きな悲鳴が聞こえたんだ。その日、俺確か宿題してて、遅くまで起きてて、それで、奥さんの悲鳴の後、がたがたって音がしたと思ったら、今度は、旦那さんの叫び声と、子供の泣き叫ぶ声が聞こえて、飛び起きたらしい隣室の旦那さんが、三〇六号室の扉を叩いて、大丈夫ですかって叫んでた。もう、大騒ぎだったよ、結局三階の家族皆起き出して、上でばたばたするもんだから、下の階の人まで起き出してさ。で、しばらくして、部屋から出てきた三人が言うには、またあの奇妙な音で起きた奥さんが、何だろうって視線を動かすと、其処には、天井から、首吊った男の人が、ぶら下がってたらしいんだ。奥さんの悲鳴で、飛び起きた旦那さんも、その男を見て、思わず叫んで、最後に起きた娘さんも、同じものを見て泣いたんだって。三人が三人、同じものを見たってことは、幻覚とか、寝惚けたとか、そんなんじゃないよね。例えば、その奥さんが、首吊りした男がいる、とか何とか言ってたんなら、解るけどさ、そんなんも何も無かったみたいだから。一応、隣の、三〇五号室の旦那さんが、部屋に入ってくまなく調べたけど、そんな男は何処にも居なかった。だからこれは、心霊現象だって、凄い騒ぎでさ。その内、何号室の人だったかな、忘れたけど、一人で住んでた男の人が、震えた声で言ったんだ。……何かを蹴る音って、もしかして。首を吊る為に上った、台の音だったんじゃあ、ないかって。「kick the bucket」って熟語を知ってる?これ、スラング何だけど、バケツを蹴るって書いて、くたばるって意味なんだ。首吊りする時、バケツに乗って、首に縄巻いて、そしてバケツを蹴ったから、こういう使い方するらしいけど、まさにこの状況だよね。それに気付いた時、俺、背筋が凍ったよ。つまり、毎晩毎晩、男は、あの部屋で、自殺してたんだ。自殺する音を、毎晩毎晩、ずっと聞いてたんだよ。
 その夜は、もう誰も寝られなかった。暫くして、その家族は引っ越して行ったんだけどね、実はさ、その後に入ってきた家族も、全く同じものを見たんだ。今度は、夜中に叫ぶような事は無かったけど、翌朝、真っ青な顔してるから、驚いて、如何したのか聞いたら、以前から妙な音を聞いていて、変だなぁと思っていたら、夜中、首吊りする男が出た、って。だから、他のアパートの住人はさ、三〇六号室で、きっと過去に、男が自殺したんだと思ったんだ。でもね、人の良い大家さんは、顔を青くして、自殺どころか、何の事件もありませんでしたよって、そう言うんだ。元々、気質の柔らかくて、嘘なんて付かない人だから、皆、それは信じたんだけど、もしかしたら、おばあさんが大家さんになる前に、何かあったんじゃないかって、疑ってさ。それで、あんまりにも不気味だからって、何人かで不動産屋に行ってみたんだよ。その中の一人が、俺だった、前の三人家族と、それから新しい家族の二組に、近くで話を聞いた一人だったしね。だけど、事情を話したら、その不動産屋も慌てて、そんな筈は無い、あそこは本当に何も無い、今時珍しいくらいの物件です、って。ほら、長く建物が建っていると、住人の移り変わりもあって、何かしらの確執があったりするだろう?でも、今の大家さんとも、その前の大家さんとも親しかった、その不動産屋が言うには、本当に、些細な事件でさえも、何も無かったんだって。例えば、親子仲が悪いとか、住人同士いがみ合ってるとか、問題ばかり起こす奴がいたとか、そんな事も何も無くて、ずっと平和で。……じゃあ、もしかしたら、アパートが建つ前に何かあったんじゃないかって、そういう仮説も立てたんだけど、調べて貰ったらさ、あのアパートが建つ前は、ずっと長いこと駐車場で、その前は、ええっと……あれ、何だっけ。あ、そうだ、田んぼだ。田んぼや駐車場で、首吊りなんて出来ないし、アパートでも何も無いならさ、可笑しいよね、あの男の幽霊は、一体何なのか。不自然だな、と思いながらもさ、暫くは、何の手掛かりも無くて、俺達も手詰まりだったんだけど、ある日、事情を話してた、あの不動産屋がさ、血相変えてアパートに来たんだよね。それでさ、その人が言うにはね、昔、子供達の間で、流行ってた怪談があるんだって。それが、三〇六号室の怪。……そう、御察しの通り、あのアパートに関する怪談だ。内容は、三〇六号室に、夜中になると、首を吊った男の霊が出るっていう、ありきたりなもの。でも、それは創作なんだ。誰が言い始めたのか解らないけど、昔からぼろかったみたいだからね、あのアパート。怪談話にはうってつけで、そんな話を聞かされても、嗚呼あり得るかもしれない、って思う要素が、あり過ぎたんだ。それで、作られた噂は真実味を持って出回り、今でもその噂を覚えている人がいる。だからね、この怪奇現象は、作られたものなんじゃないかって。多くの人が信じて、それを本物だと思ったから、唯の噂は、本物の怪異になった。そういうことなんじゃないかって、俺は思うんだ。そうじゃないなら、あり得ないと思わないか?誰も死んでいない、揉め事さえも起こっていない、そんなアパートに立った虚偽の噂。それが、数十年の時を経て、噂通りの幽霊が、噂通りの部屋に出た。だからさ、あの幽霊は、ある意味では本物なんだよ。唯の噂話が、本物を作る。唯の虚言が、時折、本物を生み出す。なぁ、そうやって生まれた本物って、一体何なんだろうな。そいつの根本って、一体何だ?確固とした主軸を持たないのに、実体を伴って、確かに存在するだなんて。それって、曰くつきで生み出された本物より、余程怖い事だと思わないか。

少女日記 語り部:???

  三月二十八日 火曜日

 目が覚めたら、真っ暗な、よく解らない部屋だった。此処は何処なんだろう。部屋には壁が無くて、代わりに木製の檻があった。一日彷徨っても何も解らないから、鞄にあったノートに日付とメモを残そうと思う。もしも私が帰れなかったら、運良く誰かが拾ってくれるかも知れない。もし、今、これを見ている人がいたら、お願いです。私と友達を探して下さい。そしてどうか、私達の身体を、家族の元に帰して下さい。これは私の身に起こった事の、嘘偽りない証言で、そして、私の遺書です。
 私の名前は南杏果です。みなみきょうか、と読みます。水無月高校の卒業生で、誕生日は一月二十二日です。学校では、美術部でした。一応、私の制服のポケットに、学生証があります。次に事の経緯と、現状を纏めます。読みにくかったらごめんなさい。
 発端は卒業旅行中の、肝試しでした。私と、友人の長谷川彩芽、滝原七海は、高校卒業を機に、三人で旅行に来ていて、鈴仙荘という旅館に泊まってた。この旅館は、冷泉邸という昔のお屋敷の跡地に建てられたらしいです。鈴仙荘に泊まっていた私達は、誰が言い出したのか忘れたけれど、肝試しをしよう、という事になって、そして、旅館の近くの山裾にあった廃屋に向かいました。見た感じ、そんなに広くは無さそうでしたが、その奥に建物の跡があったりして、元は広そうな家だった様に思えました。私達は元々、そんなに怖いものが得意では無かったので、皆ちょっと入って一部屋位見て、すぐ帰るつもりだったと思います。でも、いざ入ったら、室内は思ったよりも広くて、最初に入った部屋が、四方八方ずっと畳続きの部屋で、歩いてるうち、ちょっと目を放した隙に、何故か私は二人とはぐれてしまったんです。慌てて二人を探していると、不意に後ろから足音が聞こえて、驚きました。そこには懐中電灯を持った、黒髪の、もう何だか恐ろしく綺麗な男の人が立っていて、そして私に「やっと見つけた」って言ったんです
 それで、「君がきょうかちゃん?そんなに怯えないで、僕はこの屋敷の相続人だよ。最近、ここで肝試しする子が多くてね、でもここ、崩れかけてて危ないから、時々注意しに来てるんだけど、そしたら二人女の子がいてね。聞いたら、友達とはぐれた、って言うから探しに来たんだ。二人はもう外に出てるよ、出口はこの廊下を右に真っ直ぐ行ったらいいから、早くお帰り」って、そう言うからもう安心して、でもやっぱり怖くて、一緒に来て欲しかったけど、彼は困ったみたいに笑って
「……一緒に行ってあげたいのは山々なんだけど、ごめんね。もう一組いるみたいだから、そっちにも行かないと。大丈夫、まあ迷っても、また探しに来てあげるから」って、そう言うから、私は一人で進みました。けど可笑しいんです、どれだけ歩いても、出口がありません。それどころか、どんどん奥に行ってしまいました。多分、ぎりぎりだったんだと思います。歩いてる途中、ふと、後ろから笑い声が聞こえて、振り向いたら、顔の綺麗な男の子がいて、そこで驚いて、多分気を失いました。目が覚めたら、最初に書いた様に、壁の無い、座敷牢の様なところにいました。幸いにも、鍵は掛かってなかったので、怖いながら辺りを探ったのですが、特に何もありませんでした。もしかしたら、誰かに攫われたのかもしれませんが、それにしては縛られても無いし、部屋の空気が、あの廃屋に似ているので、多分、まだあそこだと思います。何日経ったかはわかりません。三日くらいしか携帯の充電が持たなかったので、そこまでの日付しかわかりません。目が覚めた時には、もう三月二十九日でした。



  三月二十九日 水曜日

 目覚めた時間は朝の八時だったけれど、辺りは暗かった。座敷牢の中には、古びた机と箪笥、それから鞠らしきものが転がっている。格子は木製。かなりしっかりしていて、ちょっとやそっとじゃびくともしない。十畳?くらいの広さ、畳が十枚。箪笥の中身は、二段目に黒い着物が一枚だけ。場所は地下の様で、傷んだ階段が上に続いてる。奥にも部屋はあるけど、扉の立て付けが悪くて開かない。上の部屋は、普通。大きな畳の部屋がずっと続いていて、台所や風呂場みたいな、生活感のある部屋が一つも無い。古いけど、一つ一つの部屋が凄くしっかりしていて、多分、ここはいいところのお家だったんだと思う。そういえば、冷泉邸は、元は名家と言ってたっけ。不思議とお腹は空かなかった。七海と彩芽は何処に行ったんだろう。



  三月三十日 木曜日

 携帯の電池がもう無い。電話もメールもラインも繋がらない。皆どこ、七海、彩芽、会いたいよ。お母さん、お父さん、助けて。怖い。変な音がする。



 みやこって誰。男の人がいる、怖いくらいに綺麗な顔をして、スーツを着てる。私のことをみやこって呼ぶけど、違う、私は杏果。生きてるみたいだったけど、近付いたら駄目な気がする。隠れて息を潜めていたら、向こうに行った。怖い、誰か。



 目が覚めたら檻の向こうに男の子がいた。思わず悲鳴を上げたら、暗闇に溶けるように消えた。怖い、何なの、何なのあれは。上に上がっても畳ばかりで、出口が無い。窓も無い。



 最初に会った男の人が助けに来てくれた。きょうまさん。この屋敷の持ち主で、旅館の跡地だった冷泉って家の、血を引く人。本邸?は何ともなくて、無事旅館に売られていったけど、ここの奥の屋敷は、工事の時に事故が多発して、結局返ってきたみたい。心霊スポットの噂は、本物だったんだって。時々人が行方不明になる、曰く付きの場所。抜け出せるのって聞いたら、解らない、って。でも、絶対連れ帰ってみせるからって、笑ってくれた。紫の目の、不思議な人。



 この屋敷は、昔栄えた名家の屋敷だったんだって。でもその屋敷、変な風習があって、おかしな人ばかり生まれたって。風習は、何だか話したく無いみたい。そういえば、きょうまさんは、その冷泉の血を引くって言っていた。嫌いなのかな、自分の血。気になるけど、聞けない、嫌な顔させたくない。



 彩芽の鞄が落ちていた。中身はそのままで、携帯は充電が切れている。彩芽は見つからない。



 畳の部屋を歩いてたら、突然大きく開けた庭に出た。日本庭園って感じの光景で、真ん中に広い池がある。荒れた様子が全然無い。池の側には、桜の大木が立っていた。ひらひらと花びらが散っていて、後ろに満月が昇っていて、とても綺麗。いつの間にか、廃屋だった屋敷が、綺麗になっている。



 目が覚めたら檻の中にいた。きょうまさんがいない、どこ、いやだ、こわい。ここはどこ。



 わたしをみやことよぶおとこのひとがいる。わたしはつりあげられたちいさなおりにはいっている。おとこのひとがちかづいてくる。



 綺麗な目をした男の人だった。でも怖い、濁ったみたいな紫の目。どことなくきょうまさんに似ている。男の人は、誰かと私を間違えているみたいだ。よくわからない話を一方的にまくしたててくるけど、殺そうとしてくる気配は無い。にこにこ笑って、檻の向こうから私を見てる。ずっとずっと。笑ってるけど、この人は怖い。



 下を七海が走っていった。凄く慌てていて、何かから逃げているみたい。思わず名前を呼んだら、七海が振り向いて、泣きながら私を呼んだ。七海の後ろから、刀を持った男の人が来て、七海はまた悲鳴を上げて逃げていった。怖い、嫌だ、七海が殺される。檻を壊そうとしたけどびくともしない。檻を叩く私を、みやこと呼ぶ男の人が、くすくす笑ってずっと見つめていた。かわいい、みやこ、どうせにげられないのにね、って、そう言う声がとても冷たくて、どこか甘ったるい感じがして、怖い、早くここから逃げなくちゃ。



 きょうまさんがいた。彩芽の手を引っ張って、また下を走っていく。声を出すより先に、扉を開けて向こうに行ってしまった。後ろから女の人が、ゆっくりゆっくり楽しそうに追いかけていった。誰かを探してるみたい。みやこと、あおい。誰だろう、誰でもいいから、やめて、もうここから出して。



 そういえば、ここは中庭の側の小さめの部屋のようだ。屈めばぎりぎり、梅の花の植えられた中庭が見える。でも、結構天井が高い。いつまで私はここにいるんだろう。私をみやこと呼ぶ男の人は、今日も私をただ眺めている。



 うとうとしていたら、突然檻が揺れた。びっくりして飛び起きたら、乱暴に檻が下されて、息を切らせたきょうまさんがいた。大丈夫?って言ってくれるその姿に、思わず涙が出た。きょうまさんに腕を引かれて走る。場所はいつの間にか、渡り廊下になっていた。この屋敷は広すぎる。走っていると、みやこ、と、後ろから声が聞こえた。また逃げるの、悪い子だね、って、笑うその人が怖くて堪らない。暗闇ごと追いかけてくるみたいなその人から逃げるうちに、庭に来た。桜の下に、男の子がいる。最初の頃に見たあの子だ。男の子は私達を見て、幼い顔に似合わない、綺麗な笑みを浮かべて、花びらになって消えていった。池に、男の子だった花びらが散っていく。月がどんどん欠けていく。



 月が欠けたら終わりなんだ。新月が来てしまう。



 廊下に血痕と、彩芽の髪飾りが落ちていた。彩芽、嫌だ彩芽、あやめ。無事でいて、お願い。



 近親相姦。きょうまさんが教えてくれた、冷泉は近親相姦が強要された家系。みんなみんな、近親相姦で生まれてくる。みんなみんな、頭がどこか、おかしくなって。みんな。どこか壊れて。解決策がわからない。助けて。



 七海がいない。
 彩芽が見つからない。
 出口が無い。



 座敷牢に戻った。一度牢の外に出たきょうまさんが、牢に鍵を掛けた。きょうまさんが、わらってる。にごった紫のひとみで、綺麗に綺麗にわらってる。座敷牢は開かない。



 座敷牢は開かない。



 畳を返したら、指輪が出てきた。くすんでるけど、綺麗な指輪。ふっと後ろに気配があった。振り返る間もなく、嗚呼ここにあったんだ、と、あの男の人が嬉しそうに笑った。男の人の指に、同じ指輪が嵌っている。私をみやこと呼んだ、あの人が、私を抱きしめて、左手の薬指に、指輪を嵌めた。ずいぶんと小さかったけれど、いつの間にか私は痩せ衰えていて、指輪は嵌った。男の人が嬉しそうに指輪の嵌った手のひらに頬ずりをしている。この座敷牢にいた人は、もしかして。



 七海がいない。彩芽もいない。檻の外できょうまさんが笑った。知らない人を、信じちゃいけないよ、って。きょうまさんもあちら側だった。いつから私は、私達は、この屋敷に。



 なんだかねむたい。からだが重たい。



 もうだめだ、この日記をいしょにしよう。そういえば、さいしょの日は、記録をつけてなかった。最初から書こう、ちゃんと、どうしてこうなったか。これを見てくれる人がいたなら、きっと、身体だけでも、かえれる。



 一日目を書き直していたら、座敷牢の中に、女の人がいた。酷く細くて、触っただけで折れそうな弱々しさ。女の人は私を見て、泣きそうな顔で、ごめんなさいと言った。地下に続く扉が開く音がすると、女の人は、大袈裟なまでに身体を震わせて、溶けるように消えた。階段から、みやこ、と、最早聞き慣れた声がする。



 いしきがとおい、わたしがわたしじゃないみたい。ふしぎなほど、きょうはだれもこない。あやめにあいたい。ななみにあいたい。おかあさん、おとうさん。かえりたい。



 …………なんで、わたしなの。
 なんで、わたし、だったの。

 これをよむあなたは、いきてるんだね。わたしは、もうすぐ、しんでしまうのに。

 あなた、わたしを、ちゃあんと、つれてかえって、ね。いっしょにかえって、くれないなら。


 いっしょにいきましょう



【ノイズ混じりに響くナレーションと、女性陣の悲鳴でVTRが終わった。実際に起きた行方不明事件の現場で見つかった女子生徒の日記を元に作られた映像らしいが、中々に恐怖を誘うものだった。久しぶりに、この手の番組で面白いと思う。所詮は作り話だろう、という疑念は消えないが、それを差し引いてもよく出来ている。ふと、ベッドに放りっぱなしにしていた携帯が、着信を伝える。切り替わった画面で司会者が何やら話しているのを横目に、携帯を取って耳に当てた。そういえば、件の冷泉邸跡地は、近くにあったか。電話越しに聞こえる、友人からの肝試しの誘いに、頷いて通話を切った。】

【―――続いてのニュースです。三日程前から捜索願の出されていた、――県――市の高校生三人の鞄が、旅館鈴仙荘の近くで発見されたという情報が―――】



 はやく さがしに きてね

夜咄奇譚

日常に潜んだホラー、がテーマでした。友達の友達の友達から聞いたんだけどね、と前置きされそうな、そんな身近な体験談。高名な霊媒師も神社生まれの友人も元凶の祟り神も登場しない、結局のところ、真実もわからない、何で現れたのかもわからない。わりと日常体験談ってそんな感じがします。何であの幽霊は現れたのか、何であの手が自分の家に来たのか、どうしてあの人は自分を追いかけてきたのか。何にもわからないままに終わってしまう、わからない恐怖。ホラーって素敵です。

夜咄奇譚

ちょっと不思議で怖い話、覗いてみませんか。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-17

Copyrighted
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  1. 呼び込む手 語り部:遠野刹那
  2. 赤い女 語り部:斎宮梨花
  3. 日本人形 語り部:真宮真白
  4. 急行列車 語り部:皇琥珀
  5. 夜泣き 語り部:冷泉紫苑
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  7. 午前三時 語り部:シードラ=インフェルノ
  8. 迷い小路 語り部:冷泉恭真
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  10. 少女日記 語り部:???