夏に溺れる深海魚
中学生、僕らはまだ、自分の感情さえも曖昧だった。
冷泉紫苑と雛見郁人。恋はしないけれどキスはする、愛し合ったりしないけれど傍にいる。僕と君の関係に、名前を付けるとするならば、それは。
※BL表現があります
雨宿りの憂鬱
そいつが湿ったく笑う時、僕は、何だか違うな、という、酷く自分勝手な空想に囚われて、そうして、そいつの顔に思いきり泥水をぶっかけてやりたくなる。何だかな、と思った。
夏は夕立の季節だった。嫌悪とか退屈とか気概とか、そういうものを唐突に押し流して去っていく横暴な雨が、僕は別段好きでもなかったけれど、特別嫌ってもいなかった。生憎僕は通りすがりの雨を叙情的に飾り立てる繊細な脳味噌なんて持ち合わせていなかったから、代わりに、降雨のサイクルを考えた。雨水が川を流れ、ろ過され、飲料水となり、飲料水を飲んだ人間の汗や尿が、また上空へと戻り、雲を形成する。その辺りまで思考して、何だか知りたくなかった事実に辿り着きそうな気がしたので、止めた。地球上の水分の量は変わらない。すなわち、今、僕の手のひらで無邪気に飛び跳ねるペットホテルのミネラルウォーターは、六十億年前の水分と同じ成分である。僕は、何だか、手のひらに歴史の教科書でも乗せているみたいな気分になって、プラスチック越しに、透明な液体を見つめる。六十億年の質量は意外に大層な事はない。
散漫な思考を抱えつつ、軒下に佇み、雨どいから線を描くように落ちていく水滴を見ているとき、僕は、何だか奇妙なまでに静かな心地になって、視線を地面に落とす。そうしたら、水たまりの中の僕が、ゆらゆらと泳ぎながらこちらを見つめていて、また僕は視線を逸らす。あんまりに雨が降り続くから、校舎の中に水が浸水して、沈んでしまったかのようにさえ錯覚する。そう新しいわけでもない校舎が、水圧で軋む音を、頭の中で聞く。深海魚が一匹、泳いでいた。そいつは、僕と同じ顔をして、硝子張りの水面から顔を覗かせて、こちらへ躍り出る機会を伺っているのだ。僕の中の一部は、いつだって深い深海に沈んで、水面に顔を出そうとしない。そのくせ時折、こうしてこちら側を伺うように、僕の前に現れる。夏だなぁ、と思った。僕の顔をした深海魚は、この、夏特有の、湿った雨音が大好きなのだ。
雨音は次第に霞んでいく。今日の雨は、どうやら大層機嫌が悪いらしく、空気を碌に洗浄する前に、次の街へと旅立っていくつもりらしい。ゆっくりと戻ってきた喧騒が空気を震わすのを感じながら、僕はゆっくりと吐息を吐き出して、僕の周りの空気だけを濡らした。埃っぽい空気を洗い流す気がないのならば、せめて、この喧騒も一緒に連れ去ってくれればいいのに。雲間から暑い日差しが除き、水たまりに反射したとき、もうそこに深海魚はいなかった。僕はもう水たまりには視線を向けず、乾いていく世界の中へと足を踏み出す。深海魚はまた、僕の中の深海へと帰ってしまった。
惜しいなあ、と思うのだ。たった今までびしょ濡れだった世界が、まるで追い立てられるかのようにさっさと水分を蒸発させていく忙しなさは、艶やかな絵画が色褪せていくのに似ている。蒸発してしまった瑞々しい色彩を吸い込むように、大きく息を吸った。目も眩むような日差しに、長い間照らされていたら、何だか僕までからからに渇いてしまう気がして、濡れた花や草木の上に座り込む水滴を横目に、足早に校舎へと戻った。ぴちゃん。深海魚が跳ねる。何だか背後にうすら寒いものを感じて、僕は振り向かなかった。雨上がりには様々なものが潜んでいる。そうして、それらは総じて、僕の顔をしているのだ。
雨のない夜が好きではない。じっとりと肌を蝕む湿度が不愉快で、冷房を付ける気にもならず、僕はただ寝返りを打つ。頬を滑る自分の髪が、くすぐったくて、指先で払った。夏は、夕暮れが沈むのが遅い。ゆっくり夜に呑み込まれる太陽は、夜中にまでその影を落として、一日中、僕を完全な夜に沈み込ませてくれない。雨というのが、どこからか流れてくる騒めきを抑えてくれるということを僕は知っていたから、雨の夜は、静かに眠りにつくことが出来た。車の排気音、甲高い女の笑い声、犬の吐息、アスファルトを踏む音。様々の雑音の中、雨音は聞こえない。僕はゆっくりと眠りにつく。
目覚めると、雨が降っていた。枕元の携帯を手に取り、指先で画面をタップすれば、見慣れた画面が開く。眠気に萎んだ瞳が瞬く。始業時間は、とうに過ぎていた。硝子越しの雨を見て、僕は、早々に、学校に行くのを諦めた。窓際を深海魚が泳いでいく。僕はゆっくりと時間をかけ、身体を起こし、制服を身に着けた。学校指定の青いネクタイを手にしたとき、僕は、何だか違うなという心地に襲われて、クローゼットを開けた。いつ買ったのかも覚えていない、赤いリボンタイを見つけて、引っ張り出せば、それが自然であるように、自分の首元に巻き付ける。鏡に映る僕は無感情に僕を見つめている。そいつは深海魚に似ていて、そいつが僕に似た笑い方をする前に、僕はそっと視線を逸らす。傘も差さずに家を出た。水滴を含んだシャツがあっという間に肌に張り付いて、気持ち悪い。何処へ行こうという気もない。財布も、携帯も、僕は、僕の活動に必要な物を、一切合財置いてきてしまった。雨の日中は人通りもなく、時間限りの閑散が漂っている。それは春の空気に似ていた。眠ったように、時間の感覚を狂わせる、心地よくも性質の悪い、微笑みに似た空気だ。
冷泉、と、眠った空気を、硬質な声が引き裂く。振り返ると、隣のクラスの雛見がいた。足音は、地面を叩く雨音が掻き消していく。雛見は、学校指定の制服に、鞄と傘を持ち、ぼんやりと雨の中に佇んでいる。彼は、びしょ濡れになった僕を見て、目元を細めて小さく笑った。それが何だか湿ったくて、僕は、何だか違うな、という、酷く自分勝手な空想に囚われて、雛見の顔に思いきり泥水をぶっかけてやりたくなる。何だかな、と思った。雛見がこういう笑い方をするときに、いつも、決まって感じる理不尽である。学校に行こうとしていたらしい雛見は、どうやら登校をさっさと放棄したらしく、相変わらずの仏頂面で、僕の隣に並んだ。傘を半分、僕に傾けない辺りが、いかにも彼らしい。雨はやみそうになかった。水没したように、服がさらに水分を吸っていく感触に、耐えられなくなり、僕は彼の方に振り返らず、道なりに歩き出す。雛見は、それが当たり前のように、僕の後を追った。
お昼前の神社には人の姿などない。雨で少しばかり湿気た、木製の雨どいの下で、僕と雛見は並んで座った。びしょ濡れになった身体が水分に熱を奪われ、急激に体温が落ちる。寒いな、と思ったけれど、どうということは無かった。鼓膜を叩く雨音に引き摺られるように、僕は瞼を落とす。僕の髪から落ちた滴が、コンクリートの地面にいくつもの染みを作った。背後の木を軋ませ、雛見が、後ろの扉へと凭れかかる。雨の匂いに混じって、女物の香水の香りが、鼻腔を擽った。僕は幼い好奇心のままに、彼は流されるままに、とうに女と寝る経験を済ませてしまっていたから、きっとその類だと思った。雛見から滲む甘い香水の香りは、彼の服でなく、その下から漏れてきていたからだ。湿った雨の匂いに、女物の香水の香りは、何だか酷くミスマッチで、僕は、閉じていた瞼を押し上げた。
学校から、チャイムの音が響く。三時間目が終わった。神社から学校までは、走れば四時間目には間に合う距離だったけれども、僕は、何となく、そうする気力がどうしても湧かなかった。そもそも、びしょ濡れで、鞄も教科書も、筆記用具も無いこの状態で、学校に向かったって然程の意味もない。授業なんて、受けられたものではないだろう。傘も差さず、ただ雨の中で突っ立っているような、そんな異質な行動を取っていた僕に、雛見が何かを問いかける気配はない。それどころか、まるで僕に興味なんてなさそうに、鞄から文庫本を引っ張り出して、雨音を背景に読み始める始末である。僕は、何だか身体の力が抜けたようになって、ゆっくりと息を吐き出した。彼の呼んでいる本には、見覚えがある。外国人の作家が書いた、有名な推理小説だ。昔の話だから、タイトルはよく見かけるけれども、実際に、内容は、と聞かれると、余り答えられない、という、そんな系統のものである。現代にまで受け継がれているだけあって、中々に読み応えのある、いい本だった。もう読み終わったとはいえ、別段、彼にネタばらしをして楽しむという趣味を持っている訳ではなく、黙って視線を逸らした。軒先から滴る雨粒が、地面に落ちて、小さな水溜りを作る。雨に打たれて、近くの木々から落ちてきたのか、青々とした葉っぱが、水溜りに波紋を作る。揺れる夏の匂いが、こちらにまで漂って、眠たくなるくらいに、そこは心地よかった。
濡れた夕暮れ
雨上がりの夕暮れは、世界が洗い流された後に初めて空が描くキャンパスで、いっとう美しいなあと僕は思う。時々、雨上がりは湿った静寂と、遠のいた喧騒が入れ替わる前に、僕らの気まぐれを押し流す。キスしなければならないな、と思った。僕は、それが当たり前のように、雛見に唇を押し付けた。喧騒は未だ帰らず、雨の雫が落ちる音は鮮明で、陽射しは僕らの口付けの終わりを待っていた。雛見は拒まなかった。僕は、すぐに、この行為が馬鹿らしいと思った。唇と唇を重ねて、一体何があるというのだろう。数秒で互いの距離は戻され、最初から精神は近づいてさえもいなかった。僕らの間で、口付けはさほどの意味も持たなかった。雨上がりの匂いがする。遠のいていた蝉の声が校舎に戻り、僕らは最初のように、黙って隣に並んだ。僕と雛見郁人の関係は、これから先、一度も変わることはないだろう。それは、根拠のない確信だった。夕暮れが濡れていた。廊下を走り抜ける誰かの足音が聞こえた時、僕は、雛見の瞳に視線を合わせた。日本人特有の、黒く、光が当たれば鳶色にも見える、何の変哲もない色をしていた。その瞳には何の感情の色も見えず、また、僕も何の感情も望まず、何事もなかったかのように、再び、絡んだ視線はほどけた。時計の針が規則正しく進んでいく。僕と雛見は、どちらともなく、鞄を肩にかけて、そうして、共に帰路についた。
それから僕らは、時々思い出したように、唇を重ねた。世界に忘れ去られたように、ぽっかりと空いた喧騒の隙間で、ただ黙って口付けを交わす。それを、誰かは不実だと言うだろうし、はたまた誰かは純愛と呼び、また誰かは爛れた戯れだとも言う。唇と唇を触れ合わせるだけの行為は、それを第三者が認めることにより、途端に恋愛の色をなすり付けられるのだ。僕らの事実など置き去りに、人は感情に名前を付けたがる。事実など無関係に、そこに情愛を押し付けて、それは異常だと、マイノリティだと騒ぎたがる。どうも人は、僕が思う以上に平坦で、退屈を持て余しているらしい。僅かでも、普通と定義付けられた枠組みから抜け出したものを全身で探し、それを誰かと糾弾するとき、人は自分と他者の統一性を確信し、安堵する。僕らは、それの踏み台に過ぎなかったのだ。
「冷泉、お前、ホモなんだろ」
にやにやとした、意地汚い、そんな笑みを浮かべたクラスメイトが、僕を嘲笑う。多分、どこかの誰かが、僕らのキスを盗み見て、それを友人にでも、触れ回ったに違いない。彼の表情から、僕らの事実を知っているという、そんな確信さは見受けられなかった。噂程度で他者を揶揄し、嘲笑うだけの、取るに足りない騒音だった。
「キスも、セックスも知らないような男に、そんなことを言われてもね」
僕は、別段、自分の経験を鼻にかけて、他者を見下すことを、得意にしていたわけではないけれど、誰かを嘲笑うときに、相手が最も苦に思うだろうことを、わざわざ避けてやるほどに、出来た人間ではなかった。口の端を歪め、侮蔑を含んで笑い返してやれば、彼はあっさりと、浮かべていた笑みを引っ込める。僕は、彼の言葉に、肯定も否定も、返してはいない。全く関係のないことを、わざと皮肉たっぷりに吐き出せば、彼は、自分の自尊心を守るために、自分が投げかけた言葉を後回しに、僕の言葉に食いつく。わざと話を逸らしたことに気付くような人間であったなら、そこで一歩、僕より上手に回れるだろうに、彼はそれをしない。否、それを、出来ない。僕はホモではない、とは、きっと言い切れない。僕は、僕のセックスアピールが、向かう先を知らない。僕は確かに女とセックスが出来るけれど、男とセックスが出来ないとは限らないからだ。出来ないことが当たり前であるという、そんな感覚は、僕の中にない。もし、雛見とセックスをすることになったとしても、出来る、出来ないは二の次に、きっと、嫌悪感を抱くことはないのだろう。それは、僕と雛見の関係が、この先ずっと、変わることはないのだろうという予感によく似た、根拠のない確信だった。僕はそれを、異常だとは、マイノリティだとは、思わない。
愛でも恋でも親愛でも戯れでもないこの行為に、僕らの口付けに、一体何と名前を付ければよかったのだろう。僕は未だに解らない。僕らは一体、あの行為に何を求めていたのだろうか。何も求めていなかった、強いて言うなら、行為こそを求めていた。付随する感情は何もなく、ただキスがしたかった。そう言うしかない、あの静けさに濡れた感触を、一体どうして、ざらついた言葉なんかで汚せるだろう。
苛立ち紛れに教室を後にし、階段の踊り場に差し掛かったとき、何故か無性に、胸のうちが騒めいた。僕は性差に価値を認めない。そのことで、僕は、僕を、マイノリティだとは、異端だとは思わない。僕が僕をそう思わないのに、勝手に他者から降りかけられる、伺うような視線が、嘲るような笑みが、そうして何より、親切の面を被った同情が、煩わしくて、大嫌いで、堪らなかったのだ。僕を害するだけの普遍は、悪だと思った。僕を気遣うふりをして、本当は、自分がそうならなかったことに安堵し、自分の優越感を満たすだけの偽善者が、僕は大嫌いだった。殺してしまいたいとさえ、僕は思った。その、一瞬でしかない殺意が、しかしその実、一瞬であるからこそ、それは本物だった。僕は、曖昧な所でバランスを保っている。そのバランスが僕を、本当の意味で異常には仕立てあげてくれないのだ。
「冷泉は、普通じゃないと思う」
いつの間にか、階段の上部に佇み、僕を見下ろしていた雛見が、ぽつりと呟いた。それは、雨音以外に、何の騒音もない踊り場に、存外によく響き、僕の鼓膜を大袈裟に揺らす。雛見の瞳は暗く淀んでいて、その硝子玉に、何の景色も映ってはいなかった。雛見も、世に蔓延る普遍というやつに、こっぴどく痛めつけられたのだと、僕は思った。
「冷泉は、普通じゃない。普通じゃないのに、普通の皮を、被ろうとしている。俺には、その皮が、外からじゃなくて、内から、食い破られそうに見えて、堪らない。」
「僕が、異常だと、君はそう言いたいの」
「違う。お前は、異常じゃなくて、歪だ。普通の皮を被ろうとするくせ、普通を、これ以上ないって程、見下している。お前は、傲慢で、自分本位で、そうだからこそ、俺は、お前とキスがしたいと思った」
その瞬間、目の前が眩んだ。僕は、僕の中に、深海魚を飼っている。そいつは僕と同じ顔をして、僕と同じ笑い方をして、こちら側に来る機会を、今か今かと待ち構えているのだ。僕の硝子の軋みに気付いた雛見が、僕は唐突に恐ろしくなった。彼は僕を通して、僕の中の深海魚を見ている。雛見の視線に気づいて、そいつがにたりと笑った。多分、大多数がそうであるように、僕は、僕の理解できないものは、悪だと思った。何も、正義論の話を持ち出したいわけではない。僕は、高尚ぶった子供だったのだ。一定数の普遍を見下し、さも己が高尚であるかのように振る舞うとき、僕はそこに、一種の快楽を見出す。彼が見つけたのは、深海魚の姿をして笑う、そんな本音だ。僕は、それを雛見に見抜かれて、ばつが悪かったに違いない。誰だって、自分を否定するものからは、抜け出したい。それが、泥のように、不快に絡みついてくるものなら、尚更だ。僕を見抜いて、それを肯定する雛見は、その瞬間、確かに僕の正義だった。僕は中途半端に凡人で、中途半端に異端であったから、余計に始末が悪かった。雛見の言う通り、僕は、何処か歪んで生まれてきたに違いない。歪んだ何かを、無理矢理に真っ直ぐに打ち直したから、僕の中の何かが、元に戻りたがって、時折顔を覗かせるのだ。僕は確かに深海魚を飼っている。そいつは僕の顔をして、薄っぺらい硝子が砕け散る瞬間を、今か今かと待ち伏せているのだ。僕の硝子は既に軋んでいる。
雛見の視線が、僕をすり抜け、僕の中のそいつを見ていたから、何故だか苛立って、相手のシャツの襟を乱暴に掴み、彼を引き寄せて、口付けた。お互いに、閉じもしない瞳がぶつかって、硬質な感情が見え隠れする。僕は確かに、衝動的に雛見に口付けをしたし、雛見は僕に、僕とキスがしたいと言ったけれど、その言葉と動作の隙間に、恋情は無い。恋愛をするには、僕と雛見は、互いを必要としなさすぎた。触れ合った舌先が遊ぶように絡んで、そして呆気なく離れる。咥内に残る、自分のものでない唾液の感覚が、何だか妙に心地悪かった。
「雛見、僕は、僕を害する人間を、いっそ殺してしまいたいと思うことがあるのだけれど、君はどうだろうね」
「俺は、冷泉とは違う。俺は、そこまで、自分に頓着がないんだよ」
「そう。ところで、僕は、そういう点に置いて、異常かな」
「安心するといい、お前は歪だよ、冷泉。その衝動故に、誰かを排しても、後悔しなさそうな辺りがね」
雛見は口角を上げて、吐息だけで笑った。憎たらしいその笑みに、しかし不快感を感じることはなく、僕は指先で、雛見の額を弾いた。痛い、と、笑う雛見の髪を掴んで、二度目の口付けを強いる。薄い下唇を噛んで、舌先に鉄の味が滲んだところで、また乱暴に引き剥がした。血潮の滲む唇を舌先で舐め取り、雛見が僕を呆れたように見つめる。
「……お前、加虐趣味なの」
「この程度で、加虐?随分、可愛らしい評価だね」
「嗚呼、そう。お前、やっぱり、いい性格してるよ」
鉄臭い血の味は、嫌いではない。雛見が、僕のネクタイを引っ掴み、先程より乱暴に唇を重ねたけれど、それを拒む選択肢は、僕にはなかった。赤く染まった互いの唇に、小さく笑う。指先で血を拭って、それを舐め取れば、形ばかりの憂鬱は、既になりを潜めている。傷ついた下唇に唾液が染み、鈍痛に表情を歪める雛見を置いて、僕は再び階段を降りた。追いかける足音も気にかけず、先程の教室へと踵を返す。室内には、もう誰の気配も残ってはいなかった。
嘘つきの孤独
駆け落ちしようか、と、雛見が言った。唐突に零されたその文句に、思わずプリントに走らせていた手が止まる。何、と聞き返す事も忘れて、そのまま机の木目を見つめた。何の脈絡もない彼の言葉は、特に意味など無かった様に、雛見が続きを話し出す事はない。不意に落ちてきた沈黙に、窓の外で鳴く蝉の声が、一層強まる。そうだね、と、何となく頷いて、再びボールペンを動かした。前の席に座る雛見は、僕の肯定に、特別何か反応するでも無く、手に持ったペットボトルを手持ち無沙汰に回している。何処に行こうか、と、今度は僕から、口を開いた。手元のプリントから目を離さぬ儘、頭の殆どを、そこに書くべき数式に費やしながら、相手の顔も見ずに問いかける。うん、とか、嗚呼、とか、しばらく意味をなさない言葉を繰り返していたけれど、ふと、飲みきったペットボトルを握り潰しながら、雛見が立ち上がる。そうかと思えば、僕の手からボールペンを奪って、そして、いつもの淡々とした表情で、少しだけ、笑った。
「……お前が、ペンとか握らない場所」
「……は、」
「何もしない場所に、行こう」
行こう、と、言った癖に、雛見は動かない。取り上げたボールペンを机に置いて、そのまま動作を止めた雛見に、溜息を吐いて立ち上がる。区切りの悪い、解きかけの数式に、もうこの続きは書かないのだろうな、と、ぼんやりと思った。半分程が埋まったプリントを、乱雑に机に押し込んで、上着を羽織り、鞄を肩に掛けて、僕らは教室を飛び出した。
平日の昼間でも、存外人通りは少なくない。吸い込まれる様に改札を抜ける人々に紛れて、終点までの切符を買った。駅の売店で、ジュースとジャンクフードを二人分買う。どこへ行きたいのかも、解らなかった。一番最初に来た電車に乗ろう、と言って、行き先も見ずに足を踏み出す。車内放送で、漸くこの電車が、田舎方面に向けた、普通列車と知った。がたん、ごとん、と、揺れる車内で、二人並んでボックス席に座る。乗客は少なかった。電車の中ではよくある事だが、車内において、適切な空調が保たれているなんて滅多に無い事で、雨上がりの所為か、冷房が余り強く無いらしい。夏特有の、蒸し暑い空気が、充満する。雛見は暑そうに、先程買ったジュースを開けていた。走り抜ける車窓の先に、名前も知らない学校が見える。もう五時間目は、始まってしまっただろうか。授業は、必然的にサボることになってしまったけれども、それに対して、特に何かを思うでもなく、夕方までに帰れるだろうか、という、意味も無い問いが浮かぶ。駆け落ちをしよう、と、言って出てきた癖に、おかしなものだ。滅多に口にすることの無かったジャンクフードを、まるで食べ慣れた様に口に運ぶ。少しうとうととして、目が覚めたら、終点と夕暮れが近かった。
田舎、と言われれば、大抵の人が思い浮かべるであろう風景を切り取って、それを額縁に入れた様な駅だった。古ぼけた屋根は小さく、雨が降ったら雨漏りの心配をしなければならないだろうな、と、何となく思う。一本しかない線路を、壊れかけのブリキの様な音を立てて、僕らの乗ってきた電車が引き返していく。誰かが、僕らと入れ替わりに、電車に乗っていったのを、横目に知る。静かになった駅には、風の音しかしなかった。誰もいない駅の改札を、切符を運賃箱に入れて通り過ぎる。草の匂いがした。僕と雛見は、お互い、何も言わずに歩き出す。遠くにしか、建物らしい建物は、確認できなくて、見渡す限り、田んぼ以外何もない。駅から伸びる一本道を、少し歩くと、小川に小さな橋が架かっていた。道の端を、小さなカエルが跳ねて、せせらぎに飛び込む。僕らが、気が付かないだけで、この小川には、もっとたくさんの生き物がいるのかもしれない。それも、見たこともないような、けれど、ありふれた生き物が。夕陽になりかけの太陽は、遮るものが何もない道では、容赦なく僕らの頭上を照らし出していたけれど、不思議と、何も気にならなかった。暑い、けれど、これでいい。クーラーの人工的な涼しさを、数時間前まで好んでいた筈なのに、今は、それがとても、味気ないもののように思えてしまったのだ。僕らの街と違って、風を遮るものが何もない所為かもしれない。
「ねぇ、もうすぐ日が暮れるね」
「……そうだね」
「今晩、どうしようか」
「お腹が空いたな」
「うん、俺も、空いた。でも、此処には、ファーストフードなんて、ありそうにないね」
「まぁ、いいんじゃない、偶には。その辺りで、店が無いか、探そう」
世界が、オレンジ色に染まったみたいだった。辺り一面、見渡す限りオレンジで、遠くの方に小さな一番星が光る。余分な音の一切は切り取られ、吹き抜ける風は、僕らの訪れを待っていた。車の排気音も、誰かの話し声も、何も聞こえないから、代わりに蝉が、僕らの周りを震わせる。僕らは、その時確かに、世界に二人ぼっちだったのだ。ぽつぽつと民家の見え始める通りに差し掛かった頃、空はオレンジと青が混ざり合って、控えめな三日月が浮かんでいた。畑帰りなのか、自転車の後ろに、土くれで汚れた段ボールを括り付けたお年寄りと、数度、すれ違う。彼らは決まって、僕らに「おかえり」と言った。そのたびに、何と返したらいいのかわからなくて、僕は、隣を歩く雛見を見つめる。少しだけ、困ったような、照れ臭そうな顔して、彼は笑った。多分、僕も、似たような顔をしていただろう。
「ただいま、って、言うべきなのかな」
「僕達、ここの子供じゃ、ないのにね」
「でも、何だろう。ただいま、って、言いたい気がするなぁ」
雛見の言葉は、わかるようで、わからなかった。ただいま、と、そう言うことが、自然であると思えるのに、そう言ったところで、僕らの帰る場所は、此処ではない。帰り道どころか、帰るべき場所さえ見失った、迷い子の気分だった。夜になれば、僕らは皆、家へと帰る。それが当然で、そうであることが、まるで自然であるというように、毎日毎日、同じことを繰り返すのだ。だけれども、今日は、僕にも雛見にも、帰る場所は無い。ならば、僕らは一体、何処へ行けばいいのだろう。初めて見る筈なのに、懐かしい、と言いたくなるような、そんな食堂が見えてくるまで、僕らはずっと無言だった。
年老いた老夫婦が営む、古びた食堂は、暖色のライトが室内を柔らかく照らし出し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。扉のベルを鳴らして、そっと立ち入った僕らに、ちょうど先客にカレーを運んでいた老婦人が、いらっしゃい、と微笑んだ。僕は、何だか擽ったい気持ちになって、視線を逸らして扉を閉める。
「二人ですね、どうぞ、こっちに」
僕の態度にも、彼女は笑みを崩さず、真ん中辺りの机に向かい、椅子を引いて僕らを呼んだ。頷いてそちらへと向かい、引かれた椅子に腰かければ、隣からそっと、手書きのメニューを渡される。お水はちょっと待ってね、そう言って、厨房へとのんびり歩いていく。受け取ったメニューを木の机に開いて、正面に座った雛見にも、見えるようにと差し出す。家庭的な料理が、ずらりと、そこに並んでいる。ファミレスにも引けを取らない、良心的な価格だった。和食が多いな、と、内心で考えつつ、極自然に、雛見の表情を伺う。何を頼もうかと、真剣に考えている彼が、僕の視線に気付く様子はない。夕焼けと同じ、オレンジのライトは決して眩しくはなくて、俯いた雛見の顔に、濃い陰影を作る。雛見は、学校で見るより、大人びて見えた。
「決まった?」
「うん、天ぷら、食べたい。お前は?」
「……僕は刺身食べたい」
「じゃあ、これでいいか。すみませーん」
はい、はい、と、相変わらず柔らかな調子で、注文を取りに来た老婦人に、雛見が手短に伝え、彼女は水を置いて去っていく。そういえば、喉が渇いていたなぁと今更ながらに思い出して、冷えたグラスに口を付ける。からん、と、氷が鳴いた。
「ねぇ、冷泉、今日、如何するの」
「宿?」
「そう、こんなところに、あるかな、ホテルなんて」
「……ホテルっていうより、民宿の方が、似合いそうだね、此処には」
「違いない、旅館でもいいかもな」
「ここの店の人にでも、聞いてみる?」
「……家出だと思われたりして」
「嗚呼、あり得るな」
思われる、も、何も。駆け落ちだなんて、小説のような単語を用いてみたところで、僕らのしていることは、列記とした、家出だ。色々と疑われて、警察にでも連絡されたらどうしよう、だなんて、妙な不安も過ぎったが、今は考えないでおく。大して待つこともなく、運ばれてきた料理を前に、箸を割って、両手を合わせた。丁寧に盛り付けられた刺身を一枚取って、わさびを少し乗せ、醤油に浸して、口元に運ぶ。適度に冷やされた赤身は、勿論高級食材でも何でもないのだけれど、何故だかとても、美味しかった。美味しい、と、どちらからともなく、そう呟いた。隣のテーブルの皿を下げに来た老婆が、通りすがりにひっそり、嬉し気に笑う。値段の割に量のあった定食を食べ終え、腹を満たせば、頭に浮かぶのはやはり、今夜の寝床のことだ。やはり、もう手っ取り手早く、店主に尋ねてしまおうか。雛見のところはともかく、父親と二人暮らしの僕に、捜索願なんて、出されているとも思い難い。何せ、父親自体、帰ってきたり来なかったりと、てんでばらばらだ。本当に、あんな適当な男が、自分の肉親なのかと、改めて思えば、呆れることこの上ない。けれど、今日ばかりは、あの人の適当さに救われた。
「……ねぇ、貴方」
「はい、はい、どうしました?」
一度、雛見の方に視線を流し、それに気付いた彼が、訝し気な視線を返したところで、小さく笑い、皿を引き取りにきた老婦人に、視線を移す。
「食事をありがとう、一つ、聞きたいんだけど、いいかな」
「勿論ですよ、どうぞ」
「僕と、彼、今年卒業なんだ。卒業旅行に、無計画旅行って奴をやってみたんだけど、どうにも考えが甘かったね、宿が見つからないんだ。この近くに、どこか、泊まれる場所はない?」
嘘八百。正面の雛見が、老婦人に見えない位置で、よくそんな咄嗟に嘘が思いつくな、とでも言いたげな、呆れたような表情をする。質問を投げかけられた老婦人は、僕の嘘を見抜いたのか、それとも単に大らかなのか、あらあら大変ねぇ、と変わらない調子で返答を返す。
「そうね、確か、この先の川を越えたところに、小さな旅館があったんじゃあないかしら…お隣の町の神社が、すこうし有名でしてね、お訪ねになる方が時々、泊まっていかれるのよ」
「へぇ……その旅館、飛び込みでも、泊まらせてくれる?」
「ええ、この時期は、まだお客さんも少ないから、きっと大丈夫でしょうね。良かったら私の方から、男の子が二人行きますよって、お電話しておきましょうか」
「……助かるよ、ありがとう。お代は此処でいいかな。行くよ、雛見」
「え、ちょっ、ええ?」
善は急げ、とやらだ。ありがとうございました、と、笑う彼女に、背を向けたまま手を振って、鞄を担いで出口に向かう。溜息を吐いた雛見も、同じようにお代を渡して、僕を追いかけた。扉を開けた先の空は、入ってきた時とうって変わり、いまだ明るさを残しながらも、完全に夕暮れの色は塗り潰されてしまった様だった。蝉に代わって、虫の音が辺りを取り囲む。蒸し暑い夜だった。ぽつぽつとしか灯らない町の灯りは、酷く頼りなくて、頭上に広がる青の夜空に散らばった星々が、余りに眩い。僕も、雛見も、何も言わなかった。灯りの付いた、古民家風の旅館が、僕らを待っている。扉を開け、奥から響く、女将の足音を聞きながら、僕と雛見は、当たり前のように、聞こえないような小さな声で、ただいま、と言った。
色のない絶望
無機質な目覚ましの音で目を覚ます。それは、何の変わり映えもしない日々の象徴で、それでいて、煩わしさには、何か一歩足りず、中途半端な不快感だけを僕に与えて、そして、何事も無かったかのように、冷たい沈黙に口を閉ざすのだ。今日、しなければいけない事は、一体なんだっけ。そこまで考えて、ぼやけた視界に映る景色が、僕の自室でないことに気が付き、ぱちりと目を瞬く。嗚呼、そうか、そうだった。昨日、僕は、雛見と、駆け落ちだなんてふざけたことをやらかして、どことも知れない、こんな田舎に来てしまったのだったか。そして、夕飯を食べた食堂で、紹介された旅館を訪れ、風呂に入って、早々に眠ったのだった。どうやら、普段と同じだと思った、目覚め際のあの光景は、寝惚けた頭が夢うつつで見た、夢なのだろう。隣の布団では、雛見がまだ眠っていた。障子越しに差し込む朝日が眩しい。今日も、うんざりするくらいに、空は快晴のようだった。一度覚醒してしまった頭は、もう二度寝を出来そうになく、仕方なく布団から這い出て、付けっぱなしだったクーラーを切る。少しだけ寝乱れた浴衣を整えて、狭い洗面所に向かい、顔を洗って、軽く歯を磨いた。冷たく心地いい水に、ほとんどない眠気を削ぎ落とされながら、朝食を食べてから、まず最初にすべきことは、着替えを買うことだろうな、と嘆息した。とりあえずと、浴衣を脱いで、昨日の制服に袖を通す。スラックスは兎も角、シャツと、下着と、靴下が欲しい。とりあえず、下着は我慢して、素足の儘で、ローファーに足を突っ込むことにする。いつも通り、ネクタイを締めたところで、寝返りをうった雛見を蹴飛ばして、強制的に覚醒を促す。
「いった!……あれ、冷泉?」
「お早う、雛見、まだ寝惚けてるなら、もう一発あげようか」
「いや……いやいや、いい、いい、思い出した……」
「それは何より。とりあえず、朝食に、行くよ」
「嗚呼……食べたら、服、買わないとな」
「僕も同じことを思ってた」
くあ、と、大きな欠伸を一つ零し、緩慢な動作で、雛見が身を起こす。お互い、男同士で、特に何か思うでもなく、堂々と目の前で着替え始める雛見を横目に、僕は、端に寄せられた机に置かれた、部屋の鍵を拾い上げる。適当に布団を整えている間に、さっさと着替え終えたらしい雛見が、少し前の僕と同じように、洗面所に向かって、身支度を整えているのであろう水音がする。数分経って、姿を見せた彼は、眠そうに、お待たせ、と言った。旅館の食堂には、僕らと、何かの雑誌の取材で来たらしい、中年の男が一人と、合計三人で、閑散としたものだった。席について、そう間を空けずに運ばれてくる朝食を眺めながら、僕は、壁にかけられている今時珍しい振り子時計を眺めていた。後ろから、付けっぱなしのテレビが、先日の殺人事件のニュースを流している。
食べ終わって、僕らは行き先も無くふらりと外に出た。途中で、こじんまりとした服屋に寄り、おばあさんが一人で経営しているような小さな店に寄って、アイスを買い、堤防沿いに宛ても無く歩く。昨夜は気付かなかったが、この町は、駅と反対側に海が広がっているらしい。潮の匂いは飾り気がなくて、それは僕らを安心させた。手にしたアイスが太陽に温められて、容赦なく溶解する。沖合に向かう漁船を見つめて、雛見がふと立ち止まった。つられるように、二歩ほど遅れて、僕も止まる。
「なぁ、冷泉」
「何、雛見」
「人を殺すのは、いけないこと?」
「……多分」
「それが、自分の大切な人を殺した様な、極悪殺人鬼でも?」
僕は一秒程、黙った。雛見の瞳は僕を通り抜けて、その先にある、橙と青の入り混じった空を見つめている。
「……少なくとも、テレビのコメンテーターは、そう言うだろうね」
「人を殺してはいけません、って?」
「そう、人を殺してはいけません、復讐に憑りつかれてはいけません、死んだ人は浮かばれません、ってね」
「馬鹿みたいだ」
「うん、それが僕らの世界だ」
雑音の中で、僕らは生きてきた。見たくも無いゴシップ記事や、勝手な道徳を押し付けるだけのワイドショーが、連日僕らの鼓膜を耳障りに引っ掻く。どうして、自分の価値観が絶対的だと考えられるのだろう、どうして、道徳に、盲目なのだろう。道徳を守る事が、何よりも大事だとは、僕には到底、思えない。正義とか、愛とか、道徳とか、そんなものが絶対的だとは、どうしても思えないのだ。だってそれらは、向き合う対象によって、ころころと変わってしまう。そんな曖昧で、不確実なものを、僕は僕の指針にしたくはない。
「僕はね、雛見。君とキスが出来る」
「うん、俺もだ」
「でも、それって、異常なんだってね。男は女を、女は男を好きにならなきゃいけないみたいだ。男が男を好きになるのは、おかしいって。……そこがそもそも、おかしいよね、僕は別に君を好きじゃないし、付き合いたい訳じゃない。でも、キスを出来るっていうのが、好きって感情とイコールなんだって。キスとか、セックスとか、それはただの行為なのに、そこには何かしらの感情を付けないと、気が済まないみたいだ。キスがしたいから、セックスがしたいから、そんな単純な動機が、それこそが僕らの理由なのに」
べちゃり、粘着いた音がして、僕の手から溶け切ったアイスが地面に落ちる。黙って聞いていた雛見は、食べ切った自分の分のアイス棒を持ったまま、ぼんやりと海を見つめている。不意に、僕の視界が翳る。気付いた時には、僕と雛見の唇が、重なっていた。
「冷泉、俺は別に、お前が好きじゃない」
「知ってる」
「でも、キスはしたいと思う。偶に、だけど。付き合いたいとか、セックスしたいとか、そんな動機は全然無い。それに、煩く文句付けてくる奴らは、正直隕石にでも当たらないかなって思うし、お前に気持ち悪いって言ったあいつも、交通事故にでも遭って、下半身不随にならないかなって、三秒くらい呪った」
「……」
「気持ち悪いよね、皆が皆、同じ価値観を持っていると思ってる。そうじゃない人間は、おかしいと思ってる。そして、そういう奴を、排除する。これが、教師の言う連帯感で、コミュニケーションで、助け合いで、思いやりで、仲間だっていうなら、そんなのクソくらえだ。道徳って何だ?正義って何だ?全部全部、気持ち悪い偽善の押し売りにしか見えない。さも聖母のように、講釈垂れてくる奴らに、片っ端から問いたいよ。でも、きっとどこかで聞いたことのあるような、二番煎じの回答だろうね。俺の中で、この質問に、自分の言葉で応えてくれるのが、お前だけなんだよ、冷泉。だから俺は、お前が好きだ。この感情が、全部くだらない色恋で片付けられるだなんて、狂ってる」
僕は、何も言わなかった。雛見の瞳に映る自分が、僕を見つめる。息苦しい、と思った。何処にいても、僕らは息苦しい。大人になるって、どういうことだろう。僕らを取り巻く雑音を、無いものとして扱えたら、大人なのだろうか。もしかしたら、これは一種の絶望なのかもしれない。他人に理解されない絶望、他人と違う絶望、きっと、そんな事柄に、絶望を抱く人間はいるだろう。けれど、僕は思うのだ。どうして、僕を否定するような人間に、僕が傷つけられねばならない。どうして、そんな、思考の脆弱な奴らに、僕らを異常だなんて場所に振り分けられねばならない。僕を満たす機微が溢れんばかりに波打って、いつだって新緑に似た匂いをさせていたから、絶望するには、今一つ何かが足りていないと思った。そして、僕は、絶望するには、世間というやつに期待しなさすぎた。何もかも、所詮雑音で、それ以上でもそれ以下でもない。僕に足りなかったのは、世の中には、僕の予想を超える程、狭い世界でしか生きていけない人間が、確かに存在するのだという知識と、向き合う余裕だった。近しい位置に佇む雛見の腕を掴み、軽く引き寄せる。抵抗もなく近づく唇に、自分のそれを重ねて、べたべたになった手にようやくと意識を向ける。
「……手、洗いたいんだけど」
「海、あるけど。入る?」
「馬鹿、着替え、如何するの」
「……あ、そっか」
せっかく、海があるのに、入れないだなんて、勿体無い。そんなことを考える日がくるとは、夢にも思わなかった。誰が使うのか、何のために使うのか、よく解らない位置に付けられた水道を借りて、アイスの滴った手を洗う。謎のバケツに水を汲むお爺さんとすれ違って、また、僕らは、行き先も無く歩く。海の青と、草木の緑が眩しくて、夏の匂いが、心地よい日だった。
夢みる深海魚
僕らの転機は、揃って雨が運んできた。雨の降った三日目の朝、朝ご飯を食べながら、雛見はふと、食堂で、相変わらず付けっぱなしになっていたテレビのニュース番組を眺めながら、口元に運んでいた箸を止めた。彼が何を言いたいのか、僕にはもうとっくに、わかっていたのだ。
「……冷泉」
「何、雛見」
「……帰ろうか、もう、お金も無いし」
元から、何も考えずに、駆け落ちという名の家出なんて、無茶な話だったのだ。僕らは、どう足掻いても学生で、むしろ、三日も寝泊り出来た事が、奇跡に近い。僕が、所謂いい家柄という奴の生まれで、雛見が、本屋に寄るつもりで、少しばかり多く、お金を持参していたからこそ、起こり得た幸運である。だけどもう、それも、限界だ。僕らの軽い鞄に入った財布に残るお金は、帰りの電車賃があるか無いかで、それは僕らの逃亡劇の、終幕の合図だった。三日前と同じ、駅から住宅地へと延びる、舗装されていない道は、雨で少しぬかるんでいる。靴底を泥で汚しながら、僕らはまた、行きと同じ、普通列車に乗る。一時間に一本出ていれば頻繁と言えるような、そんな時刻表の割りに、数十分ほど待った頃合に、電車は来た。ほとんど人のいない、静かな車内だった。帰り道の間にも、僕らの間に、会話は無い。眠るような気分でも無く、妙に長いような、いっそ短いような、そんな列車の旅の果てに、見慣れた風景が視界に映る。雨に濡れたその景色は、間違いなく僕らの街だった。
「……怒られるかな」
「さぁ、どうだろう。失踪届、出されてないと、いいね」
今更だけれども、勝手に行方不明になっていたことについて、上手い言い訳が見つからない。それに、何を言っても、あの父親を、騙せる気はしない。もう、いっそ、開き直ってしまおうか。そんなことを考えつつ、いつもの放課後のように、分かれ道まで一緒に歩いて、そうして、別れた。久し振りに見上げた我が家は、妙に大きく、陰鬱に見えて、僕は人知れず溜息を吐く。
「おかえり、楽しかったかい」
門を潜り、妙に長い庭先を越えて、玄関を開けると、ゆるり、と、父が人好きのする、というより、女好きのする笑みを浮かべて、僕を出迎える。まるで、僕がこの日、この時間帯に帰ってくると、予測していたように、彼は、今まさに出てきました、という風体だった。敵わない、と、漠然と思う。記憶している限り、僕は彼の、怒った表情を見たことがない。何も言わず、三日間も家出してしまったから、もしかしたら、今度こそ彼は、僕を怒るんじゃないか、なんて、そんなあり得ない事を、帰り際に考えたりもしたけれど、結果はやはり、いつもと同じで、美術品のような彼の顔は、いつだって微笑み以外を纏わない。仕返しのように、「ただいま、楽しかったよ」なんて、皮肉交じりに呟いた。仮にも、彼に保護されている学生の身でありながら、勝手を働いた事に対して、謝る気は、不思議と起きない。あの三日間は、多分、誰が何と言おうと、僕には必要なものだったのだ。
「……そう。それは、何よりだね」
「何も、言わないの」
「何を?」
「三日。僕は、貴方に、何も、言わなかった」
「嗚呼、そうだね、うん。……心配したよ?」
「……嘘吐きだね、貴方」
本当は、きっと、彼は僕を、心配なんてしていない。好きに生きて、好きに死ねばいいと、そう思っている。そして、仮にも肉親である父親の中で、そんな淡白な存在である自分が、僕は少しも、嫌いではないのだ。
「心配、されたかったの、君は」
「そんな訳が無いって、貴方が一番、知っている筈でしょ」
「……飛び出したかったんでしょう」
「……何?」
「自分を取り巻く全てが、窮屈で、仕方ない。全てが不満で、全てが苦しくて、時々、それらが酷く、煩わしい。何もかも、全て、一切合財、放り捨てて、誰も自分を知らない土地に、行きたい。でも、いざ飛び出したって、胸の中に燻った何かが、消えてくれる訳じゃない。自分を苛む世間とやらが、無くなる訳じゃない。だって、窮屈で息苦しいのは、自分のこころと、まるで噛み合ってくれない自分自身の殻なんだから。それに気付いたから、君は戻ってきた。殻を脱ぎ捨てるのに、必要なものが揃っているのは、見知らぬ土地じゃなくて、君が生きてきた、此処なんだから」
僕は、何て、子供だったのだろう。瞳を伏せて、柔らかく続ける彼の言葉が、すとんと胸に落ちる。僕は、弱かった。自分を傷つけるだけの何かに、躍起になるばかりで、そんな簡単なことに気付くのに、三日も費やしただなんて、余りに幼すぎる。そんな幼さを、彼が、責めたてもせずに、認めるから、僕はまだ、大人になれないのだ。
「……何て。まぁ、経験論、だけどね。僕だって世間一般とやらから、大分ずれていたから、色んな中傷を食らったものだよ。遊び倒すのに忙しくて、そんな雑音は一蹴してやったけど」
「……今も、昔も。貴方は、やんちゃなんだね」
「あはは、今は、は余計だよ、紫苑。僕はこれでも、落ち着いたつもりなんだから」
彼の言葉が、いつものような軽口に戻ったところで、踵を返して、自室へと向かう。人の少ない屋敷は、一切の音を削ぎ落としたかのように、ただ静寂に満ちているけれども、それは、彼と三日間過ごした、あの田舎の静けさとは、全く違う気がして、否応なしにしっくりくる。結局、僕の生きる場所は此処で、此処以外のどこにも、冷泉紫苑という存在があるべき場所は無いのだ。そんな当たり前の事実を再確認して、無意識に笑みが零れる。たった三日で、何かが変わった訳でもない。けれど、見えない何かは、確実に変わっていく。それを思い返して、人は過去を、経験と呼ぶのかもしれない。
逃避行のことは、僕の父親が、何やら上手く纏めたらしく、大したお咎めも無くて、逆に拍子抜けした、と彼が次の日に話してくれた。その日から暫く、僕と雛見が碌に話さなくなって数ヵ月経った頃、僕は一つ街を挟んだ先にある公立高校に、進学を決めた。会話が無かったのは、別段、仲違いをしたとか、そういう訳ではなくて、単純に、所謂、受験期というものに差し掛かった時期で、僕は兎も角、雛見は色々と、忙しそうにしていたのが、一番の理由だ。僕と雛見はクラスが違ったから、校内ですれ違うこと自体、少なくなっていたと思う。ちらほらと、進学先の決まってきた生徒達が校内に現れてきた頃、雛見は僕に言った。
「引っ越し、するんだ、俺」
その日の正確な日付や、何の授業の合間だったか、何てことを、僕は余り覚えていない。ただ、雛見の表情は、いつも通りで、そしてやっぱり、窓の外は雨が降っていたことだけを、何となく記憶している。そう、と、普通に返した僕に、雛見は特別何かの感情も滲ませず、うん、と、呟く。何処に行くのか、とか、いつ行くのか、とか、僕は何も聞かなかったし、雛見も何も言わなかった。僕はただ、何となく、彼とは同じ高校に行かないのだろうな、と思った。そしてそれは、別段、大層なことでもなかった。もう少ししたら、学校は自由登校になる。そうしたら、別段、登校しなくても、出席日数は足りるだろう。引っ越しという事情があるなら、卒業式に出なくても、問題は無いだろうから、焦ることもない筈だ。雛見は、多分、別れの挨拶をせずに、どこか遠くに行くのだろうと、何となく思った。そしてそれは、とても魅力的な別れに思えたのだ。
思い返してみて、多分、最後だったといえる僕らの会話に、特別変わったところはない。いつも通りに、下らない話をして、外が暗くなるまで、誰もいない教室に、残っていた。もしかしたら、その日も雨だったかもしれない。冬の空気に似合わない湿気を帯びた降雨は、何故か夏の日を思い起こさせた。行き先も決めずに、飛び乗った電車の、線路が軋む音、宛ても無く彷徨い歩いた海辺の、少しだけ涼しい潮風、風だけが走り抜ける、田んぼ道。そんな全てが、あの日に重なる。いつだって、重ねた雛見の唇には、少し温度が足りなくて、生温い。けれど、だからこそ、僕は、彼といるときだけ、どこまでも透明になれた。今更だと思う。それでも、どうして雛見が、僕に行き先も告げず、別れも告げず、去っていったのか、少しだけ解るような気がした。僕らは互いに必要とはせず、愛し合ったりもしなかったけれど、互いの存在を感じながら、別々の世界を行けるほどに、温い関係ではなかったのだ。
雛見と僕が、恋人だったらよかったのかもしれない。そうしたら、僕は、或いは彼は、傍にいたい、とか、一生一緒にいたい、とか、そんな睦言を、誰にも憚らず、口に出来ただろう。けれども現実として、僕らは恋人なんてものでは決してなく、ただ何となく傍にあるだけの、名前の付けられない関係だった。本当は解っている、きっと恋人だったなら、もっと容易く関係が崩れてしまっていただろう。そうではないから、僕らは一緒にいたし、そこに理由はいらなかった。恋人になるために必要な一切が、僕らにはまるで揃っていなかったのだ。僕の視界は常にクリアだった。だから僕は、雛見を愛していないのだと悟った。愛は、僕らを殺すには、少しばかり役不足だった。だって僕らの間に、それは存在しない。
彼は、僕を、冷泉と呼ぶ。何の温度も宿さぬその声が紡ぐ僕の名は、別段、僕の心を揺らしたりしなかったけれど、かといって、忌むほどに印象に残るわけでもなかった。現に、僕は、平凡そのもので、これといった特徴すらなかった彼の声を、既に忘れかけている。雛見は、一体どんな声で、僕を呼んだのだったか。不思議なものだ、彼の呼ぶ、冷泉というイントネーションは、こんなにも鮮明に思い出せるというのに、肝心の、声の記憶がぶれているとは。こうして、いつか、僕は、雛見の声を忘れ、顔を忘れ、感触を忘れ、いずれ香りさえ忘れ果てるのだろう。そうなった時、僕の記憶にある雛見郁人という男は、一体何者なのだろう。或いは、それら全てを、忘れてもなお、存在が刻みついて消えないものを、特別と呼ぶのだろうか。僕には解らない。さめざめとした夕立がやってくる。僕の視界は、クリアなままだった。雛見が最後に言った言葉すら、既に霞みかけている僕の脳味噌は、どうやら随分と薄情で淡白らしい。普段と何も変わらぬ調子で、交わしたあの会話に、どれだけの価値があるのかと問われてしまえば、僕はきっと、答えられない。これでいいのだと、僕は思った。僕らに湿ったい別れは似合わない。何の意味もないままに始まった僕らの関係は、何の感動もないままに終わるのが相応しい。
僕等は結局、愛し合ってなどいなかったし、好き合ってさえもいなかった。敢えて言うなら、僕等は、ただ何と無くそこにいた。互いを失っても変わりなく日常を過ごし、やがて思い出の一欠片に風化していくだけの存在なのだろう。ただ、それでも敢えて、何かの変化を上げるとするならば、君のいない世界は、少しだけ色褪せて見えた。それだけだ。今更だ、と、声もなく呟く。僕の本音や、叫びや、無意識の声を食べて肥え太った深海魚は、確かに僕の一部だった。僕の中の硝子が砕ける。生温い風が吹いて、夏も終わるな、と思った。蝉の声が煩い。漸くと顔を出した深海魚に、少しだけ笑って、遅すぎるよ、と呟いた。
夏に溺れる深海魚
「君なんていなくても僕は幸せになれるよ」というひとが好きです。
恋人でも、親友でも、友達ですらない。ただの知り合い以上、でも、誰より相手の懐に入っている。そんな少年たちに夢を詰め込みました。