これじゃ、踊ってもらえない。

コンクールを間近にレッスンの日、俺は慕っている恵子先生の前でやっとこさという感じで一曲を弾き終わる。先生はため息をついた。

「コンクールが近いのにがっかりしたわ。あなた今日まで何してきたの、もうこなくていいから。さようなら。自分の演

奏に満足できたらまた来なさい。」


そこで目が覚める。「はぁ、はぁ。」胸がつかえるようで苦しい。目覚めの悪い早い朝だ。まだ薄暗く、カーテンの下からほのかなわずかばかりの日の光りがもれる。二度寝を試みるが寝られない。今日のライブは大丈夫だろうか。実際のところは、先生の元から自ら小学5年の俺が飛び出したのだ。その教室を飛び出した数日前にあることから先生がクラリネット奏者のミニコンサートでピアノ伴奏をすることを知って、そのコンサートへお小遣いをもらい一人聴きに行ったのだ。

「恵子先生はいい先生よね~。恵子先生のところに行く子供はみんな音楽好きになって帰ってきて、よく練習するようになるって。でも、子供の前で演奏は絶対にしないって。どうやら音大は院までいったらしいけど、下手らしいわよ。」

それを確かめたくて行ってきたのだが、先生の演奏にがっかりして帰ってきた。


「あんな演奏しかできないなんて・・・。そんな先生に習ってコンクールでいい結果なんて残せるはずがない。」

コンクールで弾く曲が完成せず、小学生ながら悩んで苦しんでいた。

「あなたはちゃんと曲作り難しさを感じることができている。そうやって悩んで弾き続けることが音楽の肥やしになるのよ。」

先生は模範演奏という答えを絶対にしてくれなかった。それどころか、ここはもっとこうしたらいいの類もなく、ただしばしば踊りだして「ここからは踊れないわ、先生をもっと気持ちよく躍らせて。」こんなことを言うだけなのだ。バイエルから始まって、ブルックミュラー、ハノン、ツェルニーと進むのが一般的だろが、それらのエチュードを俺は一切先生の元ではやったことがない。全て先生の自作曲ばかりを弾かされてきたのだった。「この曲は風がビュービュー吹いているの。この曲は大好きなあの子とダンスを踊っているのよ。この曲は中世の貴族の部屋を描写しているの・・・。」


楽しかった。先生を踊らせようと精一杯練習した。先生が好きだった。なのに自分の演奏に自信があった俺は、周りのおだてに乗り優勝することばかりを考えた。優勝するか審査員から推薦を受けることで、また一つ上のコンクールへ出場できる。そのことで頭が一杯だった。一人よがりになっていて先生への気持ちを忘れてしまっていた。そして、先の言葉を言い放って教室を飛び出したのだ。コンクールでは入賞を果たした。小学3年からと始めるのが遅かった俺が入賞したのは快挙と行っていいかもしれない。そして、弾き終えて自分でも分かっていたとおりに、どの審査員からも推薦をうけることはなかった。


今、大学生の俺は経済学を学びつつ、ジャズバンドで活動している。パートは勿論ピアノだ。今朝の夢のことをステージにライトが当たるまでに思い出していた。恵子先生のあの夢は時折り現れて何度も寝汗をかかされてきた。ただ、自分の演奏に満足できたら・・・というのは初めての夢の中の先生の台詞だ。

「俺は先生を踊らせることができたんだよな。客を踊らせることができるかな。」そう呟くとステージにライトが灯った。


ライブが終わって楽屋に戻るとサックスのマサトが一番に声を掛けてきた。

「カズキ~、なんだよ今日の演奏、客、踊ってたぞ。」

「あんなんじゃ、先生に踊ってもらえないんだよ。」

実は少し何かを掴んだ気がしていたのが今日の演奏だった。

「先生って誰だよ。」

そこへ向こうからドラムのシンヤが割って入ってきた。

「おい、おい、一皮向けたな。」

下じゃねえぞと思いもしなかったことを呟いて笑い出した。ライブの後は近くの居酒屋でいつも反省会の意味合いもあって軽く打ち上げ。普段、実は音楽にかけても世情にかけても真面目な奴がこのバンドには集まったが、羽目を外すときは羽目を外す。そうだからこいつらに今日まで付いて来た。これからも一緒にやっていくつもりだ。いつも音楽にも世情にも深く考え悩み答えを出そうとしている、特にマサトがいつもの繰り事を囁きにくる。こいつはすぐ酔うくせによく飲みやがる。

「なんでも右にならえの日本でな、特に中学・高校とそんな奴ばかりでつまらなかったろ?えぇ?その日本でどうやったら先端をいくと思う?明治時代から言われている個人主義で行くんだよ。発言するだけでいいんだよ。分からなければ、分からないとでかい声で言えばいいんだよ。それで先端に行く。」

「もう何度も聞いたよ。日本の悪しき社会の構造に組み込まれても、その構造の1つの機能にならなければいいんだろ?」

「そう、よく分かってらっしゃる。日本では沈黙がほっとんどの場合、悪しき構造の自己保存、再生産に繋がる。だから、挨拶しろぉー、声をかけろぉー。分かってるよな、お前は分かってる。サトシは分かってねぇー、あいつは反省をしらねぇ。」

「じゃ、サトシのところに行けよ。」

「酔っぱの相手は嫌だね。」

「だからな・・・。」

俺は酔っ払いの相手を続けながら、先生の教室を飛び出した後を思い出していた。その後、中学1年までは別の先生に付き定番のエチュードを教わった。その後はほぼ独学でツェルニー50番まで終わらせた。独学のせいで俺の部屋は教則本や理論書で一杯になった。満足はいつもなかったが、音楽を続けることの歓びはどこかにいつも感じていた。よくやったものだが、練習を一日でも手を抜くと、決まってあの夢を見た。

「さようなら。」

しかし、今朝の夢は何だったんだろう。

「・・・自分の演奏に満足できたら来なさい。」

先生は夢の中で確かにそう言った。その台詞は初めて聞いた。そして、大学に入るときに一人暮らしに持っていくものをと荷物を整理していたとき、恵子先生作曲のプリントの厚い束を押入れの奥に見つけた。母がそこにしまっておいてくれたのだろう。ほのかに輝いて見えた。しかし、覗くことはせず、少し表紙を眺めて持っていくダンボール箱にしまいこんだ。今の一人暮らしの部屋のやはり押入れ奥にあのダンボールに詰めたまま眠っているはずだ。あれから初めて、改めて先生作曲のプリントの束を見てみたいと思った。


福岡の冬は酔いも手伝って気持ちいい。バンドのみんなとは居酒屋前で別れ、一人逆方向の俺は駅へ歩きホームで電車を待った。俺は恵子先生のことを何も知らない。じっと「知らない」ということの感触を探った。電車の轟音が聞こえ始める。それは始めて知ったかのように小さな驚きを伴った。電車に乗り込み座席に座る。目を閉じると自分でもうたた寝をしながら夢を見ていることに自覚があった。

「待って、待って、・・・。」

教室を飛び出したとき俺の背後から聞こえてきた先生の声だ。その後がどうしても聞こえない。これは実際に先生から発せられた言葉だ。思考が現実味を増し、あのとき先生は何を言ったのか分からない。ただ悲痛な声だった。目が覚める。胸が苦しくなる。下車する駅に着いた。わずかに酔っていたが、立ち上がり扉の外へ出ると電車の中の温かさと冬の冷気の差で一気に酔いが覚めてしまった。改札への階段の方へ向くと後方からコツコツと足音がいやに聞こえる。一歩二歩と歩み進めるとふいに呼び止められた。

「上杉さん。」

振り向くと老けていたが恵子先生は恵子先生だった。なのに先生に苗字で呼ばれた印象が後を追ってきて、先生をくすんだものにした。間が空いた。電車が動き出す。

「実は上杉さんのライブに行くようにチケットをお母様から頂きました。ライブが終わってコーヒー店で手紙を書いたんです。そして、お店を出ると上杉さんを見かけてその時、声を掛けられずでも手渡したくて同じ電車に乗りました。ごめんなさい。この手紙受け取ってもらえませんか。」

周りは静かになっていた。俺は「はぁ。」と声にならない声を出して受け取った。

「急に申し訳ありません。」

そう言って一礼をし先に階段を駆け上って行った。


呆然としばらく立ち尽くし、反対のホームへ電車が入ってくる光が見え始めて我に返り封筒を見ると俺の住所が書かれてある。母親から聞いて知っていたのだろう。なぜ大阪に住んでいたはずの先生が福岡まで・・・。裏を見ると先生の住所はたぶん変わっていない。大阪の住所が書かれてある。「挨拶をしろ、声をかけろ。」マサトの声が意味がやっと分かって聞こえた気がした。ホームからはもう先生は見えなくなっていた。急いで駆け上る。しかし見当たらない。改札を出たのか反対側のホームへか。ホームへと出たと見当をつけた。ホームへ降りる階段の右か左か、分からない右を降りた。見当たらない。もうホームに電車が入ってきている。扉が閉まる。駄目だったかと思い、出て行く電車を眺めていると、ガラス越しに先生を見つけた、驚いた顔をしてこっちを見ている。大阪から福岡まで来てくれたのだ、涙がでそうになる。深く一礼した。


ホームで立ったまま封を開け手紙を読んだ。そこには、俺の演奏に感激したこと、先生は大学で作曲科だったこと、自分には演奏能力が劣っていたことは自覚していたが子供好きで町のピアノ教室を開くしたことにしたこと、だからある程度まで音楽の楽しさを教えたらその児童に合う先生を紹介することにしていたこと、最後に下手にコンクールに出場させて申し訳ありませんと書かれてあった。


うれしかったのは、そして申し訳なかったのは追伸だった。そこにはこう書かれてあった。

「上杉さんには、最後まで先生でありたかったのです。」

俺は恵子先生のことをずっと先生と呼んできた。

これじゃ、踊ってもらえない。

これじゃ、踊ってもらえない。

かつて小学生の頃、ピアノ教室を抜け出した上杉は大学生になってもまだ後悔していた。そんな矢先、ピアノの先生と再会を果たす。わだかまりは涙と変わる。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-17

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