雨に寄り添う


レールがあるところには,屋根がない造りだったんだね。ここ。
地下鉄じゃないなら,だいたいそうじゃないかな。多分。
そして,私は後ろの乗務員さんを見送った。ちょっとしたざわつきと,すっかり空いた線路が織りなす微妙な雰囲気は,ひそひそ話から始めたくなるものだった。でも,時刻はもう一分は過ぎた。アサイさんはもう行ってしまった。ドア越しに見せてくれた表情が,私が見ていて好きな表情だった。だから,話のついで,彼女にもそれを見て欲しいって思った。でも,自分自身の笑う姿なんて,どれだけ本人を幸せにするんだろうか。自分で想像してみて,意識する。変にニセモノにさせないように,やっぱりそこには,誰かいなきゃダメかもしれないなんて,思った。一人でも,多数でも。それに応えてるような,自分とは違うものを。例えば今の私だったら,反対ホームの,あの人。あの人。あの人。
さあ,私も帰れるのかな。傘の一本も持ってないから,雨も降らないで欲しい。
しとしと。ぽつぽつ。
最寄りの駅に降りてから,近いといえない距離を歩いて家に着いた。一度部屋まで上がって,荷物を置いて,着替えを取って,すぐに下りた。姉より先に浴室に入って,シャワーを済ませてから,入れ違いで出た。階段を上った。私の部屋のドアは開けっぱなしだった。
中に入ってから,髪をタオルで拭った。ベッドに被せた可愛い敷布を捲るのもメンドくさくて,その上からベッドに座った。お尻にダイレクトな薄い感触に落ち着いて,スマホで返事を続けた。
「ちょっと間,あけるね。」
タッチしてすぐに,壁とか,天井とかをぼーっと見た。息を吸ったら吐いていて,それを止めたら,とくんとくんとした。足を伸ばして,運動部を自覚した。元に戻って,すぐに再開した。
「どう?水族館。」
キャッチコピーみたいだと褒められて,明日の行き先はあっさり決まった。
地図の上で,下っていけば,一直線で繋がる道がある。ロータリーが見えて,改札がある。切符を買って通り抜け,来たものに乗れば,あとは大人しくする。靴を脱いじゃダメ。もちろん,今どき,そんなことをする子もいないんだろうけど,当時の私には有効な制約だった。降りれば自由。最期も一直線。みんなを置き去りにして,大きな入り口に走って行く。
深海に住む生き物も結構な数と種類で展示されてる,有名なところだ。オットセイが手を叩く。イルカが泳ぐ。クジラがいる。
施設を除いて,園内は野外だ。雨が降れば,ビニール傘がいる。カッパもあるけど,私は使ったことがない。腕を絡めて甘えて歩く。内緒の話はしやすい。半分ずつ。占めて隠す柄が真ん中で,夏の頃なら,地面に跳ね返る雨はまあまあ悪くない。各要所に出来てしまっていた水たまりは,今はないかもしれない。拡張されたコースの歩きやすさも手伝って,足の引っ張り合いも,楽しい一日になればいい。
とんとんとん,と下りていったら,ぶおーっという一定の音が聞こえてきて,予定どおり,出張から帰って来たばかりの姉が,おそらく私を呼んだ。だから,一応私も返事をしたけれど,聞こえたのかどうか。結局,どちらも髪が乾いた後でしか,ゆっくり話せない。姉はブローに集中して,私は片付いてるテーブルにタオルを乗せて,冷蔵庫を開けた
リボンを結んだ箱を収めた,その小さい袋を,手提げの鞄の前に落ち着かせて,放課後を楽しみにしていた二月の朝に,登校して,途中で会えた知り合いと言葉を交わして,知らない人を躱し,階段を上って,上って,廊下をわたる。人がそこそこいる教室,まだ誰も来てない教室,電気が切れていて,引き戸もなぜか半端開き,やる気が感じられない隣のクラス,それに似たり寄ったりの,私のクラス。意中の人がいるクラスは,もう二つ先だった。予定では私以外に,ライバルはいないはずで,当面の不安は気持ちが届くかどうか,という最も単純で乗り越えがたい,その一点だけだった。そしておそらく,アサイさんもそうだった。私がこれからするべきことを終えて,返事を待つアサイさんの,下をうつむいて,じっとしている様子は,寒さの中で輝いていた。日差しが入る,渡り廊下の真ん中だった。
その時のアサイさんの告白が成功したのかは,はっきりとは知らない。アサイさんと,その時の相手を含めて,アサイさんたちのグループはいつも一緒で,外から窺い知ることは出来なかったから。私の思いは成功して,半年は続いた。その後で,アサイさんと私の接点が生まれたりすることは無かった。彼女は郊外に道場を持つ弓道部の一員で,私は体育館でバド部だった。これに加えて,クラスも違えば,会うことも稀。私がアサイさんのことを知っていて,アサイさんも私のことを知っていたのは,ただ家が近所で,お互いの小さい頃を知っているという,ただそれだけだった。それともう一つ。アサイさんと一緒に,プリクラ機の中で泣いていた子を慰めたという出来事がある。他校の子で,当然に私たちの友達でもない。塾の帰り,その子を見つけたアサイさんが困っていたところに,門限のせいで,しぶしぶカラオケを途中退出した私が通りかかって,目が合ってしまった。その二つだけ。私とアサイさんが,少しだけ長い話をした理由として,思い当たるものとして,人に話すことができるのは,それだけだった。
寒暖差の中の気持ちに,整理をつけたら留め金に掛けられるのは,他愛もない話なんだろう。夢のない。現実のお話。
三機目の空の旅が去っていって,全部を食べ終わって,私は,片手で写メを撮った。底に先を当てて空振りしたストローが,ズズって底で鳴った。思い出をその場で捲った。懐かしさが新しい。研修の帰り。
あの日。あの子は,街中で見かけた,「まさか。」の事実にウソみたいに絶望して,ゲームセンターの中の,飛び込んだプリクラ機の箱の中,キラキラな音楽と,お試しモードの説明だけが耳に届いて,泣いてしまった。フレームの位置を知らせる白線の内側で,思ったよりも大声で。弓道部の仲間と一緒に撮り終えたアサイさんは,思わず中を覗いてしまったと言った。弓道部の仲間も加わって,声をかけたけど,私と同じ事情や,あるいは正直にメンドくさがって,アサイさんに帰ろうと言った。アサイさんも,そうしたかっただろうけど,がっちりと手を掴まれたアサイさんは,帰れなかった。店員さんも何事かと心配してくれたけど,事情を把握しても,どうしようもない。それで仕方なく,みんなで店外まで出てきた。先にみんなを帰した。その子の友人に頼ろうともした。けれど,首を振るあの子の意思は固くて,アサイさんを掴んで離さなかった。アサイさんは困り果てていた,と言った。すっかり真っ暗になった時間のビルに,つづく雑踏が,アサイさんには関係のない,他人事という側面を強調していたから。そこを通りかかった私。逃げるように聴こえてきた「そこの,とまりなさい。」が,サイレンのけたたましさと手を組んで,アサイさんの手を伸ばさせた,という。私は,とにかく驚いたということを,アサイさんに言った。アサイさんも,その時を忘れていないと言った。
「リアクションが芸人さんみたいだったよ。」
と言って,すごい顔で後ずさりする。それを再現された私は,「アサイさんだって」と続ける。への字眉を意識して作った私の顔は,
「ひどい。」
の一言で返された。自然に起こった笑いが救いだった。
誰かのスムージーが作られて,蓋をされて,差し出された。赤いストロー。値段の分の小銭がある。触れてない分だけ,それは冷たいんだろうなと,経験から予測した。そして私たちの番が回ってきて,別々の注文をした。必要な数の硬貨が,財布の中から探されて,足されていって,支払われた。駅まで向かった。私の最寄りの駅だった。
途中で,私はアサイさんに訊いた。
「その子がどうなったか,さすがに知らないよね?」
アサイさんは困った顔をした。
「あの後,という意味では,うん。さすがに知らない。けど,あの子,前に見かけたの。私の勤務先のビルの,別会社に勤めてるみたい。素敵な彼氏を連れてたよ。同期の空手家って感じの。」
「同期の空手家?」
私はその部分を訊き返した。ごついってこと?と付け加えた。
「そうそう。」
とアサイさんは突きの仕草をした。妙に似合っていたので,そのことを伝えようとしたけど,止めた。電車が着くから,というより、気持ちの上で躊躇われた。リアクションに困る冗談を言い合えるには,私の中で,時間が無かった。
混雑する日の光景は,肩からぶつかって。肩から離れる。座ってる姿,同じ歳の,違う感じ。到着駅が告げられる。連絡できる路線が教えられる。ねえ,と呼ばれて,答えられる。他にもたくさん。私たち。会えやしないだろうけど,明日の話をした。
雨にも濡れないように。折りたたみ傘がいいのかもね。晴れてもね。
守ってよ?
おまかせあれ。
転勤に伴って,来月入籍するというアサイさんは,私にアドバイスを求めた。再来月に予定のある私は,姉と母のものに加えて,父の愚痴を添えてあげた。電車が来た。
私は,アサイさんに訊いた。
アサイさんは言った。
「じゃあね。」
最後に手を振った。タイミングは悪くなかった。

雨に寄り添う

雨に寄り添う

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-17

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