Biblioteca 03
「読みたいと思ってる訳じゃないのに文章を追ってしまうことってよくあるんだよ」
男は言った。
「ああもうこの辺りで止めよう止めようって思うのに、それが三分、十分、三十分って延びてって、結局一冊読み終える」ため息を吐く。「あれも一種、作家の才能なんだなってつくづく実感するよ」
壁面の本棚に寄り添って立て掛けられた26フィート(およそ8メートル)はある梯子上に腰かけ、男は最後にそう締めくくるとまた本の選別作業に戻る。膝の上にはすでに厚さの異なった本が五冊乗っていた。
「そうですね」
広い円形の室内の中央、ぐるりと本棚が取り付けられた塔の頂上から高い声が応えた。「僕はトルストイを読んでそう思いました」
「何を読んだんだい?」男が意外そうな顔をして背中越しに背後の塔を見る。
「『復活』です」
ちょうど塔から一羽の小鳥が飛び立ったところだった。すいすいと下降し、見計らったかのごとく唯一の扉ががちゃりと開くと流れるように小鳥が外へ出ていく。
「トルストイがくれたの?」
「まさか」声が可笑しそうに笑った。「お客さまがくださったんです」
「どうだった?」
「風景の描写が美しいと思いました」
「他には?」
「――すみません」申し訳なさそうに囁く。
「まあ向き不向きがあるからね」
あいまいな慰めの言葉を送り、男が背を向けた。
男がこの店――男の知る店とは異なる形だが、それ以外に表現の仕方が分からないのでこう記す――に来るようになって五年。店主であろう少年は、ひとつも変わることなく出会った頃と同じ姿を保持している。
たまに青年だったり初老の男性が出迎えてくれるが、それはごくまれで、みな容姿は少年を成長させたような見目だ。
店自体が現実ばなれしているので、頭で考えたことはない。
他の客たちとは自分が来るタイミングが合わないのか鉢合わせことがなかった。本を読むほかはいつも決まってあの少年と会話している。
「――才能とおっしゃりましたが」
少年の声がした。
「ん?」整然と並ぶ本を物色しつつ男の促す声が返った。
「その方の技術を才能と錯覚しているだけなのかもしれません」
何の話かしらと考えかけて、さっきの自分の体験談のことかと思い当たる。
「そうかなぁ」
「そうじゃないかもしれませんが」
「あいまいだなぁ」途方にくれた男の呟きがした。
「それくらいがちょうどいいんでしょう」
さっきの男のようにあいまいな応えが返る。
ここでは囁きも怒鳴り声も等しく聞き取れる。
後ろで分厚い本を閉じた音がした。
「どうですか?」
腰かける男を、下で梯子に足を掛けて少年が見上げていた。「これくらいにしとくよ」男が笑う。どれどれ、と少年は梯子を登り男の膝に乗っている本へ顔を寄せた。
「いつもより少ないですね」
すぐに顔を離しそう言った少年の視線は、積み上がった数冊の背表紙をたどっている。
彼は店に訪れるあまたもの客の読み方をひとつずつ記憶しているらしい。
「今日はそういう気分なんだ」頷くと、少年はそうですかと大人しく梯子を降りはじめた。少年にとってはどれも読み終えたものだから、タイトルだけでどんな内容か判るらしかった。
店に置かれている――彼が物語と呼ぶ――本たちは、ほとんどが無名の書き手の作品だった。しかもどの作品もしっかりと製本された状態で、普通に本屋に並んでいてもおかしくない。
男が書き終えた“物語”は、はじめこそ端が少々よれた原稿用紙の束だったが、今では少年によってそれもここに並ぶ立派な“本”に様変わりしている。
見向きもされなかった紙束をまるで生まれたての赤ん坊を抱くようにそっと扱った少年の姿は、男の記憶のなかに残り続けていた。
ここに来た者ならそれはきっと例外ではないのだろう。
「君はさっきまでなにを読んでたんだ?」
降りきった少年が向かい側の本棚に歩いていくのを目で追う。たしかそこには男の書いた物語たちも並んでいるはずだ。
「昨日いらっしゃったご婦人の物語です」
「どうだった?」
「主人公のモノローグがユーモアに溢れていました。サスペンスだったのですが、どこか間の抜けた場面もあって――」
少年が顔も向けずに滔々と感想を述べていく。
男は可笑しそうに少し笑った。
Biblioteca 03