Biblioteca 01
自サイトに載せているものです。
自分が一番最初に“物語”を書き始めた人間だったなら。
そうすれば書く話すべてが『斬新』で『ありきたり』じゃなくて『読んだこと』がないものになったんじゃないだろうか。
溢れかえった本の中で、繰り返された文章の中で、何度も何度も考えたことのある他愛ない戯れ言は、決して叶わない。分かりきっていることだった。きっと自分ではその機会を得たとしても、最初の人間にはなれない。
ぱたり。
インクで書いた文字が落ちてきた滴でじわじわと原型をなくす。
気にはしない。いつものことだ。拭こうとしたら余計に酷いことになってしまう。紙のストックはそこまでない。ぱたぱたと落ちていく水を左手で受けとめる。
しかし右手が震えてペン先は意味をなさなかった。今日はここまでにするしかなさそうだった。悔しさはいつも私の消えかかった意志を奮い起たせてくれるのに、今は小さくくすぶり急激に冷えていくばかりだった。
ごめんなさい。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
誰に聞かせているのかもわからない、懺悔するような気持ちでなにかに謝る。すがるように、まじないをかけるように、愛を囁くように。
大丈夫。明日にはまた元に戻れる。震えもおさまる。世界は続く。続けてみせる。誰に望まれてるわけでもない。私が、私の。
頭が痛くなってきた。ペンもろくに握れないくせにごちゃごちゃと文字を浮かべるのは止めよう。外は暗い。すきま風が濡れた顔と手を冷やす。今夜は寒くなりそうだ。いつもより毛布にくるまって目を閉じることに決めた。
Writers 01
石畳を駆けていくすすけたブーツから覗いた長い足が、長いチェック模様のスカートを翻らせるたびにちらつく。
白を基調にしたシャツの胸元にぎゅっと一冊の分厚い本を押さえて、後ろにゆるく編んだみつ編みは足を動かすとひょこひょこと跳びはねた。
暖色系でまとまった穏やかな夕方の町並みを一人の女が足早に走り抜けていく。たまにすれ違う人がなんだなんだと首を傾げても、当人は脇目もふらず前方を見据えていた。
慌てるような、こころ逸らせているような、ずりかけた肩かけ鞄を背負い直すことも忘れたらしいその顔つきは、しかし次の瞬間、ふっと女の眼前をなにかが横切ったことでやにわに途切れる。
止まった反動で勢いのつきすぎた上半身が前に倒れそうになるのをどうにか踏みとどまった横には、建物と建物の間に出来た先の見えない狭く暗い一本道が伸びていた。
その中空で白い翼のうつくしい小鳥が、まるで女を待つように羽を動かして器用に静止していた。
「あら、」
すい、と小鳥が暗がりへ入っていく。
それなのに、小鳥の姿は暗さに順応することなく、その白をたたえたまま小さくなっていった。
見なかったことにしなければ。
駄目だだめだと自制の声を胸中で自分へあびせても女の足は正直で、罠だというのに餌に食いつく腹をすかせた獣のごときどん欲さで小鳥を追いかけて闇にもぐりこんだ。
次に瞬くと取り囲んだのは緑の草花だった。
後ろを向くが後ろも木々が生い茂っているだけで石畳も街角もなにもない。
小鳥のせいだと自分を棚にあげて半分やけになったその人は、すんなり姿を現した小鳥を見つけ、
「いたっ!」と恥じらいもなく叫んだ。
小鳥は気にせずさっさとまた飛んでいく。女が後を追いかける。走る。本を落とさないよう、しっかと抱えて駆ける。
次に鬱蒼とした茂みを抜けきると、今度は建物が視界の先に飛び込んできた。
入り口らしきやけに意匠の凝ったドアの前には、こちらはいかにもとってつけたような――よく言えば素朴な――看板が“OPEN”の文字を掲げて立っている。
小鳥はすでにいない。
諦めたように、女が吐息をもらしてドアを開いた。
「こんにちは」
ドアが閉まりきった後に女に挨拶がかかる。「またお会いしましたね」ボーイソプラノのうつくしい声が言った。
「今日は来る予定ではなかったんだけどね」女が気まずげに肩を竦めた。
角のない円の形になったまるい内観にそってできた本棚が壁を埋めつくしている。天井は高く、山の頂上を覆い隠す雲のように白く霞んでいて先が裸眼で確認できそうになかった。
室内の中央には、これも壁面が本棚になっている小型の塔があった。32フィート(およそ10メートル)はあるだろうその塔の頂きに女が目をやると、先ほど追いかけ回した白い小鳥の飛び回る姿が映った。
「成程」
声が小鳥の飛び回る辺りから降ってくる。「偶然ですか」笑ったのか震えている。小鳥が塔の上に姿を消した。囀りが聞こえた。「新しいお客さまを誘うつもりが、間違えてしまったんだね」女に向けたのではないくだけた口調で声が言った。
「そういう訳だから、帰り道を教えてもらえないかしら」
女がずり落ちていた肩かけ鞄に気付いて、背負い直した。
「今日は大事な用があるの」
しばらくの沈黙を経て、小鳥が塔からまた飛び出てくる。
「その前に」あからさまにほっとした顔を見せた女に、見透かしたような声が返ってきた。
「その手にあるものを拝見してもよろしいですか」
塔から影が落ちてきた。
身投げにもとれる落下にもかかわらず、けたたましい音もなく女の前に影が着地する。
「これは私が書いたものじゃないわよ」
女の正面に降りてきたのはひとりの少年だった。
背は女よりやや低い。シャツにブラウンのウエストコートを羽織り、同色の八分丈のパンツからはハイカットのソックスと手入れの行き届いた革靴を履く細い足が見えた。
天井からの光で波うった白い髪は銀に光り、長い前髪から覗く水色と黄色の色ちがいの目は白い毛並みの子猫を連想させる。
陶磁器と見まがう肌に、真ん中の小さな鼻はつんと高く、小振りの唇は淡いピンク色だった。
「それは残念です」
少年は目を伏せて首を振った。少年の周りを小鳥がくるくる飛んで囀ずっている。
「だから、ね。今日はもう帰りたいの。これを読みたいのよ。待ちに待った新刊なの」
持っていた本をさらに腕に抱き込んで女が言った。
それを聞いて得心したのか、うつ向いていた少年の顔が持ちあがった。
「そうなのですか。
――ではお詫びと言うのもなんですが、ここでお読みになっていかれては?」
「え? いいの?」女が目を丸くする。「本はあげられないけど?」
「構いませんよ」少年は頷いて、少し考えるように黙るとまた口を開いた。
「……ああ、あなたはまだ二度目でしたね。説明が足りず申し訳ありません。
ここでは物語を心置きなく楽しんでいただけるよう、場所を提供しているのですよ。もちろん、ここにある物語も読んで下さって結構です。書き手の方々の憩いの場という訳です」
少年の話を聞いている女の表情がみるみるうちに嬉しげに赤らむ。子供が欲しかったおもちゃを買い与えられて、喜びのあまりすぐに反応できない時のそれと似ていた。
「椅子もお茶もご用意します」
「乗った!」
生徒でもないのに右手を挙手して女がたまらず声をあげる。
小鳥を肩に乗せ、少年が承知したようににっこりと微笑んだ。
Biblioteca 01