魔王様の仰せのままに(後)
静寂
花だって紛れもなく生きている
それは朝夕も宵も彼らを観察していれば、確かに思い知らされる真実だった。
花は咲けば枯れるまで同じ姿をしているわけではない。薄暗い日には花弁を閉じて力を蓄え、太陽の輝きが眩しくなるその下で初めて彼らは自らの色を力の限り広げる。明るい黄や無垢な白、冴えた青や深い紫を照り映えさせる。
また彼らは来る災難に蹂躙されるだけでなく毒と刺でその身を守った。肉食の虫を呼び寄せて護衛にするものもあり、だけど病には勝てずしばしば枯れ果てていく。
そうした足下にある生き様を眺めるのが、ずっとあの柩のような装置で眠っていたノゾミが目覚めてから最初に見つけた楽しみだった。自分以外にも生けるものを見つめて、初めて彼らと同じものが自分の中でも脈打っているのだと感じられた。
だからノゾミは今日も今日とて花壇に水を注ぎ、葉や花弁に滴を乗せた花を見て孤独を慰める。これまでと違うのは、膝に手をつき白い花を眺めていたら、後ろで手伝えることはないかとそわそわしているオニワカの存在だ。
「ノゾミ。困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね?」
「オニワカ。いつも言っているが、花の世話なら何とかなるからお前は休んでいろ」
「ですが、傍にいないとノゾミの怪我を防げませんから」
園芸の手伝い、という名目でついてきてはいるが、オニワカの主眼は結局そこにあるのだった。
「全く、今までだって大した怪我なんかしなかったのに……」
過保護なのはいつものこと。だけど、この頃は彼が側にいても、どうしても拭い去れない孤独を感じる。
オニワカはノゾミを見ると顔に笑みを張り付ける癖があった。そうやって本心を隠しているのだ。もの悲しくはあったがいずれ心を許してくれるだろうと思って、これまでは静観してきた。そんな諦めは、しかし明けかけた夜空の下でオニワカを見つけたあの日から許されなくなってしまう。
オニワカが援軍を求めに下山して以来、ノゾミは彼が待ち遠しくて眠る間も惜しみ、頻りに町の中を歩き回った。オニワカから外に出ないようにと言い渡されていたことも思い出してからも、玉座から彼の姿を求め続けた。
だからオニワカが明け方に帰還してもすぐさま気づいて、彼を迎えに行けた。通りの端で立ち尽くすオニワカを見つけたときは安堵のあまり胸の中が温かくとろけてしまいそうだった。
なのに、再会してからのオニワカはどこか様子がおかしい。
下手な作り笑いの下に押し隠しているものがあることは目にした途端に気づけた。だというのに、オニワカはそれを語ろうとしない。しかもそれ以来、これまでは何となしに察せた彼の内面が何一つ伝わってこなくなってしまった。
堪らなく寂しい。
表向きは明るい表情ばかりを装っているけど、それでは感情がないのと変わらなかった。心に触れられず、オニワカが本当にそこにいるのか、不安で仕方ない。
そんなとき、ノゾミの胸中には一人でいたときと同じ心地が――或いはそれよりもずっと重くて切ない気持ちが――満ちた。
今の彼と一緒にいるのはどうしようもなくうら寂しいけど、離れるわけにはいかない。この頃のオニワカは危うくて、薄っぺらでも彼の願いに応えないとその芯にある大事なものが折れてしまう。そんな予感がして、抗いようもなく胸を支配して止まなかった。
だから。
「本当に怪我はないのですよね? おかしな虫に刺されたりはしていませんよね?」
こんなオニワカの、今にも崩れそうな笑顔で語られる問い掛けにノゾミはできる限り微笑んでで応じるしかない。
「何ともない。ほら、この通りだ!」
そうしてノゾミがひけらかす泥だらけの手の平を、オニワカは眩しそうに細めた目で見つめていた。
――たくないっ! 離れたくないっ!!
酷い頭痛に頭を揺れ動かされて、無理矢理意識が引きずり出される。襲い来る吐き気に眠ろうとすることさえ許されず、オニワカは埃っぽい寝所の上で目を覚ました。
まだ夜は開けておらず、室内に光源はない。ただ壁や床を形作る石材の滑らかな表面が丸い月の形を白く照り返して、目を凝らせば活動できる程度に明るかった。
オニワカは布団から上体を引き剥がして、分厚い硝子の填められた窓から外を見下ろす。
魔物たちは連日町の外に集まって無謀な突撃を敢行していた。
オニワカも彼らが集結する前に刈り尽くしてはいたが、到底油断できる状況ではない。万が一風の防壁が突破される事態に備えて町の境目にほど近い民家の三階に陣取っていたのだった。
その晩も監視を続けていたオニワカは、町の境界付近に動くものがないか確かめようとして、固まる。
積み上げられた魔物たち死骸の山近くに身動ぎする影があった。不気味に思うよりは警戒心が先立ち、オニワカは窓から家の外へと飛び降りる。
彼は音も立てずに着地し,建物の輪郭さえあやふやな夜の町を駆けた。町の端に辿り着いて遮蔽物がなくなると、姿勢を低く保ちながら一息に影の傍まで駆け寄る。
だが、月明かりを浴びて仄かな白光を帯びた長髪が向かい風に大きく広がった後ろ姿にオニワカは足を止めていた。彼の気配に気づいて彼女は背後に一瞥くれる。
その白い面立ちに煌めく赤い眼差しが、オニワカと目が合った途端に見開かれた。
「……どうしたんだ、オニワカ? こんな時間に」
ノゾミは風に舞う長髪を体にまとわりつかせながら振り返る。頬にかかる白い髪だけは耳元に撫でつけてオニワカを見上げてきた。
その瞬間だけ髪と瞳が黒く、面差しは大人びて見えてしまい彼は固く目を瞑る。頭の中を攪拌してくる痛みがまた戻ってきて、顔を顰めてしまうのを止められなかった。何とかうずくまることだけは堪えていると、頬と額に、歩み寄ってきた少女の華奢な指が添えられる。その冷たさと柔らかさに戸惑って薄目を開いたら、ノゾミがその双眸を細めて心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。
「風邪なのか? だけど、熱はなさそうだし……」
その風貌にまだあどけなさが残ることを、目の前にいる少女が誰であるかを、オニワカはじっと見返して確かめる。何度見直しても変わりはなかった。
「少し目眩がしただけですから、俺は平気です。心配をかけてすみません、ノゾミ」
オニワカが笑顔を取り繕ってそう言っても、ノゾミは中々納得しない。鮮やかな真紅の血が透けた瞳を凝らして彼を見ていた。
「本当に?」
だなんて訊ねて、やがて瞳が不安そうに揺れ出す始末だ。仕方ないからとオニワカはノゾミの腰と膝の裏に腕を回して、彼女を肩の高さまで抱え上げる
「信じてもらえないのなら、こうやって証明するしかありませんよね」
早くもオニワカの頭に縋り付くノゾミに構わず、オニワカは神殿に振り返った。
「ま、またあれをやるのか……!?」
察しのついてしまった彼女は竦み上がりながら訊ねる。まだ出会ったばかりの頃にもこんなことがあった。こんな危険極まりない笑みを浮かべている彼の顔を目にした。
しかしオニワカは本心から楽しそうにしていてノゾミはじたばたと足掻くも躊躇いを拭えない。恐れと嬉しさが綯い交ぜになって彼女は拒絶もし切れずにせめてもの抵抗もとい懇願に打って出た。
「せ、せめて! ちゃんと抱きつける姿勢にして!!」
今にも走りだそうとしていたオニワカは、涙すら伴いそうなノゾミの声に足を止める。それから涙目で請う彼女を見上げて、それもそうかと頷いた。
「確かに、ノゾミは前回この格好で神殿から下りて泣ぶっ!」
こんな場面でばかり達者になるオニワカの口をびんたで塞ぎ、「良いから!」とノゾミは行動だけを促す。彼はと言えば気を悪くした様子も見せずに彼女を宙へと放り投げ――
「――えっ?」
唐突過ぎる浮遊感と落下に怯えてノゾミは瞼も閉じられない。そのまま硬直していたノゾミをオニワカは両腕で受け止めて抱え直した。
「なっ、なっ……!?」
背中と膝裏から持ち上げられて、オニワカの腕の中で猫のように丸くなったノゾミが唇を戦慄かせている。
「これなら平気ですよね?」
オニワカに質問を投げかけられても潤んだ視線を寄越すだけで、彼を責める気力さえノゾミにはなかった。
さすがに悪かっただろうかと、反省するオニワカだが、彼の自省は行動に活かされない。
「それじゃあ、行きますよ」
ただそれだけの前置きを以てして、オニワカは情け容赦のない疾走を始めた。相変わらず唐突過ぎるその動きに放心していたノゾミも意識を引き戻されてオニワカの首に腕を回す。それから彼の胸に顔を押しつけて流れいく景色から目を逸らした。
オニワカはそんなノゾミの姿をちらと視界の隅に納めながら、前回と同じ要領で幾つかの建物を経由し速度と高さを稼ぐ。家の屋根を割り砕かんばかりに強烈な足音を何度か轟かせ、あらん限りの力で夜空に身を踊らせた。
「わぁ……」
いつの間にやらオニワカの胸から顔を離していたノゾミが、彼と同じ眺めを目にする。澄んだ瞳に星光を溜めて輝かせ、見取れていた。
短い滞空時間が終わって重力に捕まる。落下が始まり背筋の裏でぞわぞわと恐怖が弾けるけれど、ノゾミは不思議と落ち着いていられた。だから着地の僅かな衝撃に怯むまでもう目も瞑らない。
「はい。到着です」
オニワカに抱かれたままノゾミは小さく身じろぎして頷いた。
それから、遮るもののない夜空に意識を飛ばす。
見渡す限りに夜を埋め尽くすほどの星が煌めき、淀みない闇の中で個を主張し続けていた。その輝きは目を離せば見失ってしまうものから、薄い雲でさえ覆い隠せないものまで様々に赤や白の明かりを散らしている。
そうした星々を引き連れた楕円の月が、西の空から仄白く地上を照らしていた。
「寒くはありませんか?
もぞもぞ首を横に振って,ノゾミは答える。
「これを着ていれば、寒さはほとんど気にならないんだ」
言いながら彼女は自身の、白いフリルがあしらわれた紫のローブの生地を摘んだ。
豪奢な見た目は機能性など皆無に見えたが、実際には違う。オニワカは、これも町の石材と同様に特異な技術の結晶なのだろうと、と一人で得心して頷いていた。
しかし、そこでふとまた疑問が湧いて訊ねる。
「そういえば、マントは着ていなくてもよろしいのですか?」
近頃は暑くなってきたからか脱いでいることが多いものの、どう見ても丈の余るそれをノゾミは愛用している。何かしらの必要に迫られているからだろう、と考えてはいたのだが、今の彼女はマントを羽織っていなかった。
「何か事情があるのでしょうか?」
しかし、この質問にもノゾミはかぶりを振るばかりである。
「できるだけいつも身につけているようにと教えられてはいるけれど、今まで役に立ったことはない。だから気が向かなければ脱いでいる」
そうノゾミに言われても、ならそれで良いかと納得できないのがオニワカの立場である。煙たがられるかもしれないことは承知で、彼はこう進言するしかなかった。
「お節介だとは思いますが、どうか着ていらしてください。もしかしたら、それがあなたの命を救うことになるかもしれない」
そして、ノゾミに生き続けてもらうことこそがオニワカの何よりの願いなのだ。
そんな彼の心情を読み取って、ノゾミはやや複雑そうな表情をした。それでもオニワカの思いは十分に知っているつもりだったから、頷くしかない。
「分かった。今度からはいつも着ておく」
ノゾミに言われてオニワカは息をつき少し表情を緩めて、それから暗闇が覆う森に目をくれた。そこに灯る、微かな炎の煌きに思いを馳せる。
「……オニワカ?」
彼の目が向けられた先にノゾミも目を凝らした。ノゾミの視力ではオニワカの見つめる篝火を見つけ出せなかったが、記憶が目の前の景色に重なる。
初めてオニワカにここまで連れてこられたときのことだ。オニワカが見つめる方角には、村落から立ち上る煙が棚引いていた。
最寄りの村がそこにあるのだと感づき、ノゾミは表情を曇らせる。
恐らくはそこへと応援を頼みに行ったオニワカは、帰ってきてから一言もその話題に触れようとしなかった。何かあったのだとノゾミも察してはいたが、彼はその件になると話を逸らして取り合おうともしない。
結局、今に至るまで後回しにしてきてしまったが、もう放置することもしたくなかった。彼を苦しめるものがあるなら少しでも取り払いたくて、ノゾミは口にする。
せめて同じ世界を見つめられるようにと願いながら。
「なぁオニワカ。わたしは外の世界から、どう思われているんだ?」
「――っ!」
澄んだ炎の色の瞳に見上げられてオニワカは狼狽える。ノゾミにはだけは明かしたくなかった事実に手を伸ばされて、反射的に拒絶してしまう。
「そんなことはっ、俺がどうにかしますから! ノゾミが知る必要は……!!」
言い訳にもなっていないことぐらい彼自身も自覚していた。それでも話し出す気になれずにいたのに、真っ直ぐな少女の眼差しは逃してくれない。
「わたしが聞かないわけにはいかないことだろう?」
――その通りだった。
ノゾミに傷ついて欲しくないなんて全く個人的な感情だけで押し隠そうとしていた。けれども話さなければ、いつか彼女は自ら危険に飛び込む羽目になる。敵の正体さえ明かさないのは彼女に目隠しをしているに等しかった。
だとしてもやはり語ることには抵抗がある。それでも頼まれたのならオニワカが断れないことを見越した上でノゾミは問いかけてくるのだ。
「教えてくれないか? わたしが世界からどう見られているのか」
答えない、という選択肢がないのなら、オニワカは観念するしかない。自身の不甲斐なさに嘆息しながら、せめてもの悪足掻きとして口にする言葉を選んだ。
尤もどれだけ言い回しを工夫したところで、立ちはだかる現実の重みはそうそう隠せそうにはないのだが。
「外にいる化け物が魔物と呼ばれている、という話は以前しましたね?」
「あぁ」
口元を苦渋にひきつらせるノゾミを見て、やはりオニワカは話すべきではないのだろうかと逡巡してしまう。分かっていた、それは彼自身の願望であり弱さだ。
「その魔物たちを統べるもの、『魔王』。魔物たちが集う地を引き継ぐものはそう呼ばれているそうです」
そしてそれは恐らくあなたのことだ、とオニワカはノゾミに語りかける。彼女は意外にも動揺せずに黙したまま凪いだ面差しでその事実を反芻していた。
ノゾミからすればそれは予想できていた話だったから。
「オニワカが以前に町からの応援が呼べなかったのは、わたしがそのマオウとかいう奴だからか?」
「いいえ! それは……」
などと咄嗟に打ち消してしまったが、間違いだとも言い切れない。
「どうなんだ?」
またノゾミの目に覗き込まれると、オニワカは今度こそ否定の言葉を吐き出せなくなる。
「俺が『魔王』の手下として疑われました。それが直接的な要因です。他にも、魔物たちの襲撃が増えたことが関係しているようでした」
オニワカから事実を吐露されたノゾミは目を伏せて考え込みだしてしまった。その心中では導き出された仮説が何度も吟味され、それでも揺らがずに彼女の口から語られる。
「わたしたちを陥れようとしている奴がいるな。もしかしたらそいつが魔物を操っているのかもしれない」
「もう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか?」
オニワカの質問にノゾミは首肯して彼を見据え、迷うことのない口調で語り出す。
「わたしはここに閉じ込められている。魔物がいるから、出たくても出られない。そんなわたしを『魔王』とやらに仕立て上げるのは難しいことではないだろう。これが一つ目の根拠だ」
常の幼さが抜けた口ぶりは理知的で、オニワカには別の誰かを彷彿とさせる。どこでそんな人物と会っただろうかと考える傍ら、彼はノゾミの語りに耳を傾けた。
「それに魔物の襲撃が増えた時期も出来過ぎている。オニワカの不在を狙ってその村が襲われたのはオニワカに対する疑いを強めるためだ。そしてそこでオニワカが足止めを食らっている間にこの町を襲わせたのだろう」
その推論に、考え出した当人のノゾミは無表情のままでいたがオニワカは違う。誤魔化せない怒りを抱き、それを押し殺そうとしても呟かずにはいられなかった。
「だったら、俺がそいつを……ノゾミに降り懸かる苦難は、それで消え去るんですよね?」
まだ居場所も正体も分からぬ相手だが、形のあるものならばオニワカに壊せないものなどない。眼球の奥で散る火花のような感情に彼は歯を軋ませた。
その強ばった頬が、繊細な指に摘まれる。
「むぐ?」
固まった筋肉は動かず、皮膚だけが引き伸ばされる。
「ぐ……あの、ノゾミ?」
不意を突かれたオニワカが目線を下ろしていくと、少女の不機嫌顔に睨まれた。
「オニワカはそういうことを一人で抱えようとし過ぎている」
「だけどそのために俺はここにいますし」
すかさず飛び出すお決まりの文句にノゾミは口答えしようしたが、素振りだけに留めて顔は背ける。うんざりとした気持ちは溜め息に乗せてできるだけ吐き出してしまい、それからもう一度オニワカに視線を戻した。
小さな少女の上目遣いが、そのときだけは力強い。
「ずっと気になっていた。オニワカはどうしてわたしの傍にいるんだ? お前は何者なんだ?」
いずれは明かさねばならない、だけどお互いに先延ばしにしてしまった質問だった。その惰性をノゾミの方から打ち崩されて、オニワカは言葉を失う。
だってオニワカ自身もその答えを見失っていたから。
「少なくとも人間ではありません。人を模して作られた何かのようです」
「何か、とは?」
透明な赤い双眸に見つめられてオニワカは言葉に詰まる。まさか殺人鬼だなんて言い出せるはずもなく。
「記憶がないんです。自分が人間でないということも以前知ったばかりで。だから、結局自分が作られた目的も誰が作ったのかも分かっていない」
やむを得ずに告白すると、ノゾミは目を僅かに大きく開いて驚いた。それから余計に聞けずにはいられなくなって自分の胸に手を当てる。
「それなら、なぜわたしなんかの傍にいる?」
自分の正体さえ掴めていないのに人に構っている余裕があるのかと、ノゾミはそう訊ねていた。紡がれる言葉は離別を恐れて震え、それでも彼女は問いかけることを止めない。
「オニワカのその力は、本当はもっと別のことのためにあるのかもしれないんだろう!?」
「ノゾミ……」
その瞳に宿るものが今は誰よりも自分に向けられていて、歯噛みする。
「俺なんかに優しくしても仕方ないのに……」
それでも求めてしまう。あまりにも温か過ぎて。
「一つだけ、はっきり誓えることがあります。あなたを、ノゾミを見たときから確信していることがあります」
赤い瞳の中で輝く白銀の月を見つめてオニワカは心の中の真実に向き合う。
「俺が生み出されたのは、あなたを守るためです。そうしなければならないと、どうしてか心の底から思えるのです」
改めてなされた告白は、これまでにしてきた宣言と大差ない。そのはずなのに、ノゾミは口を開いては閉じることを繰り返すだけで何も言い返せなかった。心がざわめいていた。
やがて冷えた夜気に紛れそうなほど冴えた声で彼女は沈黙を破る。
「だったら……一つだけ、教えて欲しい。オニワカは誰かの命令に従うだけの、わたしに従うだけの人形じゃあないんだよ……な?」
悩みの果てに吐露した疑念は中々言葉に出せなくて語尾は露と消え行く。
腕に収まったノゾミがいじらしくて、オニワカは嫌でも思い知らされた。
守りたい。
ローブ越しにも感じられる温もりや柔らかさが今更ながらに実感して思う。
失いたくない。
「俺は、俺の意志で動いています。断じて思い通りになるだけの人形じゃない」
何の根拠がなくたって、もはやそう思わずにはいられないものが胸の内にあったから。
迷わない。
「人間ではないかもしれません、それでも! 確かに俺の抱いている気持ちは本物なんです!!」
吐き出して、その言葉の熱にオニワカはしばらく浮かされていた。じわじわと冷めていって我に返り、自らの言動を振り返ったときには謝罪の言葉さえ思いつかない。
「……そっか」
居たたまれなくて夜空を仰ごうとしたら、やや掠れた少女の声に引き留められた。
「そうなんだ、オニワカは」
せり上がってきた彼の本音にノゾミは目を丸くしていたのだが、すぐに目元が綻ぶ。その無邪気さに気の抜けたオニワカは、ノゾミの顔を間近から見つめて不意を突かれた。
「えへっ」
と漏れた笑い声にノゾミは慌てて口元を押さえるけれども、こみ上げる気持ちが収まらない。表情が自然と弛んで、くすぐったそうに微笑みながら小さく声を漏らした。優しげな目つきの端に浮かんだものを拭って、大切なものをしまい込むように自らの胸を抱える。
「傍にいてくれるんだ……」
究明
その日も、町の整備はノゾミに任せてオニワカは外の魔物の掃討に出ていた。日々、間断なく集まり続ける魔物たちではあったが、オニワカの手応えとしては確実に数が減ってきている。無限に思えた彼らも鬼と化したオニワカの猛攻を受け続けていては軍勢を維持できなくなったのだ。
しかしそのおかげで今現在は、風の壁から外に出ると地獄絵図としか呼びようのない血みどろの世界が広がっている。幸いなことにその臭気が町に入り込んでくることこそなかったものの、返り血を全身に浴びるオニワカに限っては事情が別である。
腕や頬についた血は乾いてぬるぬるとした感触は消えたが、不快感は誤魔化せない。好い加減に服から落とし切れなくなりつつある鉄臭さにも辟易しつつ、だからこそ、今日頼まれていた土産を運ぶのに躊躇いは抱かなかった。
二つに分かれたその一方は肩に担ぎ、もう一方は腕に抱えている。内心で本当にノゾミに見せて良いものだろうかとむしろそのことに逡巡しながらも神殿の扉を肩で押した。
「えっ? あれ!?」
僅かに開けた隙間からそんな声が聞こえてくる。オニワカはほぼ反射的に荷物を放り投げて弾ける七色の光に飛び込んでいった。そこで、無数に表示された結晶板に目を右往左往させているノゾミの許に着地する。
「どどうかしましたか!?」
玉座から慌てふためきながら頭上を見上げていたノゾミはようやくオニワカの到着に気がついて視線を下ろした。その表情に安堵するような色が浮かび上がって、それから苦々しく微笑んで見せた。
「すまない、オニワカ。大したことじゃない。手で合図していないのに画面が出てきたから、少し驚いてしまっただけで」
始めは何のことだか思い当たらないオニワカだったが、そういえば、と思い出す。
ノゾミが町の様子を確かめるために使う結晶の板は、握った拳を振り上げ、振り下ろす動作に従い出現していた。
「今まで一度も、こんなことなかった」
「何か心当たりはあるんですか?」
問われてノゾミは俯き、目を細めて「うぅん」と唸る。やがておずおずと決めかねた表情をして曖昧に呟いた。
「口で、出てきてって言ったから……?」
「だけど、それが原因ならもっと早くから気づいていなければおかしいのでは?」
やや冷ややかなオニワカの口振りにノゾミは唇を尖らせて言い返す。
「わたしだってまだ確かめたわけじゃない!」
そんな少女の不機嫌に気圧された、とは認めたくないが、オニワカはすごすごと引き下がる。振り回されている感覚をなぜだか懐かしさを思いながらノゾミに賛同した。
「そうですね。では少し検証してみましょう。今度は玉座から立ち上がって命令をしてみたらどうですか?」
ノゾミの手振りによる指示も、玉座に座った状態でしか聞き届けられない。ならば言葉による指示も同じなのではないかと、そう推測したのだ。
「分かった」
聞き届けたノゾミは躓かないようにマントの裾を手繰り寄せつつ立ち上がる。
そしてどこまでだって染み通っていきそうなその声で、命じた。
「閉じて」
ノゾミの声に合わせて、無数に表示されていた結晶板は直ちに砕け散り欠片さえ残さずに消滅する。そこには当然身振り手振りも加わっておらず、彼女は常の無表情から少しだけ目を見開いてその光景を見上げていた。
「……違う、ようですね」
「そうみたいだな」
ノゾミはひとまずその変化に興味を失って、肩にかかっているマントを羽織直しまた玉座に腰を下ろす。そこで目を瞑り窄めた唇から細く息を吐き出して気を取り直した。
再び瞼を開いたとき、彼女の両目に宿った深みのある紅玉がオニワカを見据える。
「この件はあとでもう少し詳しく調べる。それよりもオニワカ、頼んでいたものは持ってきてくれたのか?」
「あっ」
と漏らしたのは用件を忘れていたからではなく、今し方の騒動ですっかり失念していたからだった。確保はしてきていて、その証拠に扉の前に伸びる赤い絨毯の色をなお垂れ流す液体で塗り重ねるものが二つ転がっている。
尤も、元々は一つの物体だったのだが。
「えぇと、あちらに転がっているのが頼まれていた物品です」
オニワカが手で指し示す先にあるものを見ても、ノゾミはほとんど表情を変えなかった。むしろそのことにオニワカの方が戸惑いさえする。
だって転がされているのは、歪な人型の魔物の、分断された頭と胴体なのだから。
それなのに彼女はただ一言、注文をつけるだけだった。
「できるだけ傷は少ない方が良いと伝えておいたはずだが……あれは、大丈夫なのか?」
肌は黒々としていて若干背骨が折れ曲がったそいつの、体格の割に小さな頭部は見事に胴から切り離されている。赤い肉を晒す断面は今も血が垂れ出している最中だった。
「安心してください、ノゾミ。奪った斧で首を切り落としただけです。他の臓器も部位も傷一つつけていません」
そしてそれが、万に一つもノゾミを危険に晒したくないオニワカにできる最大限の譲歩なのだ。これ以上は死に切っていない可能性も考慮すると彼には対応しかねた。
そんなオニワカの、本人には自覚のない苦渋の表情を目にしてノゾミもそれ以上の要求をする気は失せてしまう。
「そうか。ありがとう。それなら少し、待っていてくれ」
それだけを言うとノゾミは玉座の後ろから通じる扉に駆け込んでいった。
「ノゾミ。念のために聞いて置きますが、まさか魔物を食べようと言うわけではないのですよね?」
冗談めかして言うオニワカの眼前には,通りの石畳に投げ出された魔物の死体、それから。
「当たり前だ。食品ならば台所の上で捌く」
いつも料理に使っている包丁を携えたノゾミの姿があった。
さすがに今はマントを外していて、道の端に畳んである。身軽になった彼女は気難しそうにして二つの魔物の遺骸を見比べていた。
「台所って……そこがノゾミにとっては重要なんですね……」
オニワカの反論にノゾミはむむっと顔を上げる。
「なぜだ? 清潔にしておくのは大事だろう。自分の口に入るものだし」
「いや、確かにそうですけどね」
不毛な会話にしかならないと気づいたオニワカは早々に切り上げて笑顔で頷き出した。
「あぁ、全くその通りだ。ノゾミの言う通りだと思います」
露骨な彼の態度の変化にノゾミはまだ何か言ってやりたくなるのだが収拾がつきそうにないから押し込める。それよりも興味はやはり、魔物の死体の方にあった。
「こいつらの体を調べれば、魔物のことについて分かることがあるかもしれない」
しゃがみ込んで膝をつき、ノゾミはやや危なっかしい手つきで包丁を握り直す。オニワカはそれを心の中では戦々恐々として見守りながらも彼女の隣に膝をついた。
「ノゾミは動物の体の仕組みに詳しいんですか?」
彼女はこくりと頷いて言う。
「この頃になって、そういったことに関しても眠っている間に学べるようになった」
「なるほど。あの装置にはまだそんなことが隠されていたんですね……」
ノゾミの身辺に起きる変化にはどんなものであれ敏感に反応しているオニワカだが、今回に限っては大した問題に発展するとも考え難い。オニワカと出会うずっと前からノゾミを抱いてきた揺り籠のことを信じて、今は目の前に意識を向けようと思った。
「では解剖するのですよね? どちらから手をつけますか?」
それぞれ頭と胴体を指さしながら言うと、ノゾミの決断は意外にも早い。
「頭だ。脳の作りが見たい。もし操れるように細工するなら、そこ以外にはあり得ない」
言いながら首の中ほどで切り落とされた頭部ににじり寄った。体毛のない黒い頭は人と言うより猿に近い骨格をしていて、その割に大きな目が虚ろに空を見上げている。
ノゾミは頭の位置を調整して、それからどのようにして切るべきかと刃を当てて考え始めた。
「……さすがにどこも硬そうだな」
「ノゾミ。力仕事なら俺がやりますよ。包丁を貸してください」
本音を言えばノゾミの手つきが見ていられなくなったからなのだが、口にすると角が立つ。言葉に気をつけながらオニワカが提案すると彼女は彼を一瞥し、僅かに逡巡してから浅く頷いた。
「分かった。けれども、慎重に切ってくれ。脳の中に何があるから分からない」
「もちろんですよ」
強く言い切って包丁を受け取り、オニワカも頭に近寄る。それから片手で押さえつけて、頭頂に刃をかざした。
「行きますよ」
ノゾミか、はたまた自分自身にそう言い聞かせてゆっくりと刃を押し当てる。そして力を加えながら引き裂き、刃の端を黒い表皮とその奥の頭蓋骨に埋めていった。その途端にじわりと血が滲み出して、それが尽きると今度は骨の滓が刃に付着し出す。
構わず押し込んでいき、包丁が脳に達しても手を止めることはなかった。ノゾミからの制止の声もないためにオニワカも手早く切り刻んでいき――
「ん?」
微かに弾力ある固さの骨や容易く刃を受け入れる脳とは明らかに違う硬質な感触が刃を叩いた。それが柄を握る手に伝わってきて、オニワカは包丁を止める。
「何かあったのか?」
真剣な顔で尋ねてくるノゾミに頷き、オニワカは異質な感触を避けてその周りと骨だけを断ち切った。支えるものが左右から包み込むオニワカの指だけとなり、彼が手を離せば頭蓋は二つに別れる。今すぐにでも取りかかれば良いのだが確認を取りたくてノゾミを見た。
「頭を開きますがよろしいですね?」
「分かった。そうしてくれ」
それだけを告げるとノゾミはオニワカの手元を見つめて、じっと黒い頭皮に滲む血の赤を注意深く観察し始める。
ならば遠慮することはなかった。
オニワカは切り口には親指を差し入れ、ゆっくりと裂け目を広げていく。まだ繋がっていた脳梁はノゾミが手伝って切り離し、その中身を大気に晒した。
「……できましたね」
「これは……?」
脳の中心にあった白い物体を見て、ノゾミは袖が血で汚れるのにも構わず手を伸ばす。
掴み上げたそれは表面が赤と透明な体液に濡れていて、作り物めいた光沢を纏っていた。形は脳の下垂体そのものだが、材質が明らかに生体の組織ではない。
つるりとしたその表面を一通り観察してから、ノゾミはそれをオニワカに手渡した。
「わたしの知らない物質だ。調べれば分かるだろうが、知識にはない。オニワカはどうだ?」
どうだ? と言われたってオニワカも学者ではない。気まずく思う気持ちを飲み込んで受け取ったところ、その小さな物体は金属に近い重さで彼の手に沈み込んだ。
「俺だって知らないと思いますけど……」
それを矯めつ眇めつしてやはり見覚えがないことを確かめ、オニワカは提案する。
「ノゾミ。これも分解してみてはいかがですが?」
問われても彼女はしばしオニワカの手の中の物体を眺めていたが、このままだと彼の提案が一番手早いことに気づく。
「そうだな。それの分解も頼んで良いか?」
「お安いご用です」
例え頼まれなくとも、包丁の刃が通るかも分からないものをノゾミに切らせるつもりはなかった。ちょっとした力の加減で手元が狂えば、彼女が怪我してしまいかねない。その点、自分ならすぐに怪我を治るからとオニワカは安心して自身の体を酷使してしまえる。
「えぇと、刃毀れすると破片が散って危ないですから、念のため離れていてください」
「分かった、けれどもオニワカも気をつけて」
そう言ってノゾミが真剣に心配そうな顔をするので、余計なことを言っただろうかとオニワカは戸惑う。しかし言わないわけにもいかないことだったし、気を取り直して笑顔を取り繕った。
「俺なら平気ですよ。ノゾミは危ないから離れていて欲しいだけです」
ノゾミ『は』の下りが気に入らなかった彼女の眉が吊り上がる。そんな不機嫌を隠すようにして顔を背けてしまったノゾミに苦笑してオニワカは作業に戻った。両足の間に白い下垂体を置いて包丁を構える。
何だかんだと言ってもノゾミが指示に従って離れるのを待ち、オニワカは包丁を白磁のごとき表面に当ててみた。少し力を加えたくらいだと傷つきもせずにのっぺりとした曲面が昼の光を照り返している。
「やっぱり少々手間取りそうですね」
なんて呟きを漏らしながらもオニワカは包丁の柄を握り直し、力の向きを整えて斜めに押し込み始めた。耳障りな金切り音が甲高さを増し、鼓膜にじわじわと痛みを染み込ませる。
その耳の痛さに隣でノゾミが飛び上がった。
「……あの、すみません」
他に言い方が思いつかずに、オニワカはそう謝罪しながらノゾミの方を向く。ぎゅっと閉じられていた瞼が開かれて、こちらを覗いてくるノゾミと目が合った。今にも泣き出しそうな顔をしていたノゾミは慌てて耳を押さえていた手を放す。
「平気だっ! 平気だから、構わず続けてくれ!」
躍起になって首を振るノゾミの口調は懇願するようでさえある。見え透いた強がりで、そんなに自分は信用ならないだろうかと不安に思う反面、ノゾミの真意にも薄々気づいていたから苦々しく思う他ない。
彼女はオニワカに迷惑をかけまいとしている、その負担を減らそうとしている。ただそれだけなのだった。
「そうかもしれません。でも、これからはもっとうるさくなりますから、耳は塞いで置いてください」
それだけを指示すると、ノゾミの方はもう見ようともしない。それと悟られたら必ず強がられるのが目に見えていたから。
気配と物音から準備ができたことを察して、オニワカは再び作業に取りかかる。
逡巡する間を挟んだが、手早く終わらせる方が負担も少なかろうと考えて加減はせずに力を加えていった。繰り返し何度も刃を引き抜き、けれども募っていくのは成果ではない。
ただの徒労感だった。
おかしい、感じた頃には磨耗し切った包丁の刃が鉄の粉を纏って鈍色にくすんでいる。
額の汗を拭い一端刃を隣に置くと、変わらぬ光沢を保った白い表面にほんの一筋の傷が走っていた。それだけがオニワカに残せた結果である。
「……ははは。さすがに参りましたね、これは」
最悪力任せに切り口を削り取るくらいのつもりでいた。それが表面に溝とも呼べない傷跡を抉ったのみ、となればさすがに脱力もする
「申し訳ありません、ノゾミ。どうにも力任せに分解するのは難しいようだ」
「そうか」
端からオニワカの作業を見守っていたノゾミは、彼の成果にそれ以上の注文をつけるようなことはしなかった。ひとときだけの優しい微笑でオニワカを称え、そしてまた味気なく色を失った表情で立ち上がる。
「オニワカにできないのならここにいても仕方ない。わたしについてきてくれ」
言いながら伸びをして子猫が首の絞められたような声を漏らし、眠気を吐き出した。気分が晴れると魔物の死骸は放ったまま神殿の方へと歩き出してしまう。
オニワカもノゾミを追って立ち上がったものの気掛かりで、捨て置かれた魔物の胴と、それから二つに割れた魔物の頭に振り返った。
脳に混じっていたあの白い物体の正体はまだ掴めていないけれど、自然物だとは思い難かった。やはりノゾミが話していた通りに魔物は明確な意図を持つ何者かの道具なのだ。
けれども、その何者かが魔物を使い潰してまでノゾミを狙う理由がどこにある?
目を逸らしてはならない問いに思えたけれども、この場で答えは見つかりそうになかった。疑問を忘れないようにと胸の内に抱えたまま、オニワカはその場を後にする。
ノゾミは神殿の扉に手を翳すところだった。常と同様に波紋が広がっていく様を眺めながら彼女に訊ねる。
「神殿には、これを切断できる設備が備わっているのですか?」
ノゾミは前を向いたまま振り返らない。
「切断できるかは分からないけれど、他にも手の打ちようはある。ここなら、切断せずに中身を覗ける設備だって……」
まだ扉が開き切らぬ内にノゾミはその奥へと体を滑り込ませいった。オニワカも彼女に続いて中に入る。
「あれ?」
玉座に腰掛けて結晶を表示させたノゾミの第一声がそれだった。赤い目を細めて画面に見入るが、彼女の表情に映り込んだ困惑は深まっていく。
「誰か、来ている。町の近くに誰かいる」
「人間が、ですか?」
そんなはずはないと思いながらも、オニワカはノゾミに訊ねずにはいられなかった。この町の付近には、数多の魔物が集って町への侵攻を企てている。人間を見境なく襲う彼らがいる限り町から出て行くこともそこに近づくこともできなくなっていた。
だから町の外には人間などいるはずもないのだが。
「人間だ。この町に入ってこようとしている」
血よりも赤く燃え立つノゾミの瞳は真っ直ぐに事実を見据え、それをオニワカに伝えてくる。
口の中に広がりつつある思いを彼は持て余していた。ノゾミが、『魔王』と呼ばれる存在が人間からどのように見られているのか、オニワカはよく知っている。
けれども、それはノゾミだって一緒だった。
「もしかしてこの人間は、わたしを――」
「きっとそんなことないですよ! きっと!!」
虚しい言い分だとは自覚していても、そう口にする他なかった。
だって、もしノゾミを狙う人間だとしたら、オニワカはそいつを――
迷っても埒の明かないことだ。立ち止まれば、オニワカの一番大切な人が失われてしまう。
「ノゾミは、ここで待っていてください」
「でもっ!!」
「何があっても、絶対に俺が開けるまでは扉を開かないでください!!」
荒ぶる語気を整えもせずに言い切った。強く、抗議しようとして激情を燃やす少女の瞳に彼は言葉を重ねて訴える。
「もし戦いが起きたとき、あなたを守りながらだと戦い抜けないかもしれないんです。だからどうか、俺のためを思うなら今はここに残っていてください」
それだけを言い残してオニワカは神殿の扉に向かった。背中に突き刺さる恨めしげな視線を意識から切り離して。
再会
神殿を出た時点で、オニワカには通りの先にいる人影が見えてしまっていた。彼の目は引き絞られて焦点を遠く伸ばし、相手の顔さえも判別してしまう。
「……落ち着け、まだ」
敵になったと決まったわけじゃない。
そんなふうに自分に言い聞かせ、オニワカは昼下がりの町並みを駆け抜けていった。
相手はオニワカの接近を感知して町に踏み入ることはしない。風の壁を抜けたところの草原に立ち、オニワカの到着を待っていた。
オニワカは止めてしまいそうになる足を、何もかも忘れようとして我武者羅に振り乱した。半ば滑空するように彼は石畳の末端まで駆け抜ける。辿り着いたそこで砂煙を上げながら地に足をつき、踏ん張って前進する勢いを殺した。何度か跳ねて草むらに降り立つ。
いよいよ間近にまで迫ってきた相手と、オニワカは二本足で立ち対峙することになった。
「……こんにちは」
つまらなくて惨めで無愛想でも、他にかけるべき言葉が思いつかない。
からからに乾いた喉と心から絞り出された一言は放られて相手の足元に落ちた。
それでも、オニワカと対峙する彼はにこやかに穏やかに挨拶を返してくるし。
「こんにちは、オニワカくん。久しぶりだね」
彼の優しげな目つきが今はただ辛かった。
「そうですね。もうあなたとは随分と顔を合わせていなかった」
幾らか頭髪に白髪の散った、壮年の男性へと呼びかける。
「久しぶりです、フソウ」
「全くだ」
フソウはこれまでに見せてくれたのと同じ和やかな雰囲気のまま、けれど服装だけは違っていた。
「修道服……? なんでフソウが?」
「あぁ、これのことかい?」
フソウは肩を竦めて、白を基調とした布地の多い服の襟を摘む。
「いつかも話した通り私は代々旅をしてきた一族なんだ。そして今でこそ行商で生きる糧を手に入れているけど、その昔は救世主の教えを広めながら遊行していたんだ」
「なるほど、だからあのときフソウは……」
オニワカはまだ出逢ったばかりの頃、フソウが宿屋の前で祈りを捧げていたことを思い出す。行商として食い扶持を稼ぐようになりながらも、フソウは未だにその血に刻まれた信仰を受け継いでいるのだ。
「現在はもう天にいる『神』の存在を信じないものはいなくなった。僧としての私の役目はとうに終わっているんだよ。だから、まさかこの服をまた引っ張り出すことになるとは思っても見なかったのだが……」
もう少なくない皺の重ねられた顔が草臥れた嘲笑を浮かべる。他でもない、フソウ自身に向けて。
彼は目を伏せ、沈んだ面持ちのまま訊ねてきた。
「君は自警団長を殺めたそうだね……本当かい?」
フソウにだってその答えは知らないわけではないだろうに。
それでも信じたくないから質問してきているのだとと気づいて、オニワカは口ごもってしまう、寸前で息を吐き出した。喉で振るわせ声にして、自分を叱咤する。
流した血から目を逸らすな、と。
「その通りですよ。俺がイブキを、殺しました」
やむを得ない状況ではあった。それでも手に掛けたという事実は消えない。
「……ごめんなさい」
あの瞬間から紛れもなくオニワカは人々の敵へと成り下がってしまったから。
閉じてしまいたくなる瞼に力を込めてフソウを見やる。彼は手の平をすり抜けてしまった大切なものを掴もうとでもするように、意味もなく虚空を握っては離していた。その目尻は今にも崩れ落ちそうで、一回り老け込んだ佇まいは頼りない。
「本当なんだね。そうか……君があの自警団長を……」
分かり切っていたはずの事実でも、命の恩人から殺人鬼になったと告白されるフソウの心情は推し量るには複雑過ぎた。だからフソウがまた顔を上げるとオニワカは無意識に身構えてしまう。
「オニワカくん。私はね、『魔王』の手下である君と交渉をしに来たんだ」
「交渉?」
いかにも商人らしくありながらもフソウにはまるで似つかわしくない単語だった。溜まらず聞き返すと、フソウは頷いて続ける。
「君は……まぁ、自覚はあるだろうが我々がどれだけ束になっても敵わない相手だ。君一人の存在が、我々の越えられない障害になっている」
「俺だって神様とやらが肉体を強化した軍勢に囲まれればどうなるか分かりませんよ?」
村で目にしたイブキの姿をオニワカは思い浮かべる。赤い閃光を浴びたイブキは全身の筋肉が隆起して血管も浮き上がり、オニワカの反応速度さえ振り切った。
だがフソウはこれに首を傾げて、それから何かを思い出したように笑って曖昧な表情で誤魔化す。
「一般的な『魔術』にそこまでの効力はないよ。人間の体には限界があるからね、そこを越えるような力を『神』は与えない。当然、君の実力に届くこともないはずだ」
「そう、ですか……」
明らかな認識の食い違いを感じながらも何とか表情は変えずに切り抜ける。
あの血の色の光は祈りに応じ降り注いできた。そしてイブキが得た力は再生するとはいえ彼自身の肉体をも破壊している。
だが、考えてみればそもそもの前提がおかしい。イブキは言っていたはずだ。実戦で頼りにできるような『魔術』は自分には使えないと。
おまけにイブキは光から得た力を、初めて振るった様子だった。
オニワカと出くわした、そのときに。
彼を殺す、そのためだけに。
「フソウ。『神』というのは俺を殺すためだけに誰かを駒にするような輩なのですか?」
「駒、とは随分な言い方をするね? 御使いに命じられたというだけだよ。私たちは神託に従うだけだし、必要ならばそのための力も与えられる」
その言い方にやはりすれ違いを感じて、オニワカは歯噛みする。フソウとは、というよりこの世界に住まう人々とはその辺りの価値観が全く食い違っていた。信仰を前提に説明されても、オニワカには納得できないのだ。
「イブキは俺に向けて自分の拳が砕けるほどの力をぶつけてきましたよ。その度に治ってはいましたけれどもっ、イブキの体なんて道具としか見ていない! あいつが振るっていたのはそういう類の力でした」
だからオニワカでさえ逃げ出すこともできずに殺し合うしかなくなった。
「フソウの信じる神様ってのは、本当に信用できる奴なんですか!? そいつの言ったことのためになら傷つくことだって厭わなくなるような、そんな価値のある奴なんですか!?」
息が荒れたのは、語気が予想外に強まったから。
衝動に任せて言い切ってしまい、オニワカは我に返って酷く後悔する。
信じるものを否定された人間は酷く攻撃的になることがある。ここでそうなられたらノゾミにまで危害が及びかねない。
そのとき、オニワカに眠る『鬼』は果たして目の前の男を見逃すだろうか――
そんなふうに考えたら吐き気さえ催す悪寒に見舞われて、オニワカは恐る恐るフソウの顔を覗いた。しかしフソウは驚いたことに和やかな微笑を微かに曇らせることしかしない。
「オニワカくん。一つだけ言わせてもらいたい。君が思っている以上に我々の救世主は人々に安寧と希望をもたらしてくれた。理由もなく『神』と崇め奉られ、尊敬を集めているわけじゃないんだ」
そこからは俯いて、オニワカと目を合わせないようにしながらも続きを語る。
「ただ、私の命を救ってくれたのはオニワカくん、君だよ。『神』ではなくてね。君がいなければ私はいつかの街道で私は孤独に死に晒していただろう」
それが小さくとも言い逃れのできない反逆なのだと、気づいたときにはオニワカはフソウの顔をまじまじと見つめていた。彼は言い辛そうにしながらも必死の言葉を紡いでいく。
「幸いにもここは、『神』の威力が及ばないようなんだ。『魔術』も何一つ発動しなかった。だから私は隠し立てするつもりはない」
そう宣言したフソウは浮かび上がった陰りを瞬きとともに打ち消し、オニワカを見据えた。その目が、普段は優しさに満ちていた眼差しが、今はオニワカを立ち退くことさえ許さない威圧感で彼を縛り付けてくる。
「いいかい? 私は君を、ここから連れ出せと命じられてきた。その後の生活と安全は保証する、という条件の下でだ。できるなら私はこれに従ってもらいたい」
語りかけてくるフソウの態度は切実そのもので、冗談や嘘の類でないことはいやが応でも伝わってくる。けれどもフソウが明かすと宣言していたのは、こんな表だった事情ではないようだった。
「そしてね、もし君が私に従ってくれなかった場合は、外に待ち構える連合軍が攻め込んでくる手はずになっている。これは私が帰らなかった場合も同様だ。そして……」
そこで区切ったのは息が続かなかった以上にフソウ自身がまだ、口に出すのを躊躇っているからだった。
それでも彼は唾を飲み下して喉を湿らせ、無理矢理に言葉を引きずり出す。
「全員が、これを体に植え付けられている」
そういってフソウは顎をもたげて、自分の喉の指で示した。
「――っ!?」
咄嗟に声が出なかった。フソウの喉にあるものを目にして、オニワカは信じられずにただ凝視する。
喉の付け根近くに白く陶磁器のような器官が浮き出ていた。
逆さに留まった蝉の羽のような形状ではあるものの、その光沢ある無機的な質感には紛れもなく見覚えがあってしまう。
「魔物の脳から出てきた……」
白い下垂体。
「あれと同じ……? だけど、どうして!?」
警戒心など忘れてオニワカはフソウに詰め寄ってしまう。そして喉元へ指を伸ばしてくる彼にフソウは目を丸くしていたが、それでも構わずにオニワカは見入った。
「やっぱり、同じだ……」
手で撫でた感触は魔物の下垂体と変わらず、曖昧だったオニワカの世界観に決定的な亀裂が走る。その軋みまでが聞こえてしまう。
「フソウ。これは一体何なんですか?」
オニワカの睨みと大差ない鋭過ぎる眼光を受けて、フソウはやや仰け反る。けれども自分の喉に触れて笑みを薄めると語り出した。
「生き物が体にこれをつけると、『神』の加護が得られるのだそうだ。何でも集団になっていれば、『神』の威光が届かないところでさえ『魔術』が使えるようになるらしい」
フソウがかなり噛み砕いた説明を試みているのはオニワカにも感じ取れたが、まだ意味が把握し切れない。
仮にフソウの言う通りだったとして、魔物の頭に入っていたあれの説明が付かなかった。それに『神』の威光が届くようになるとは一体どういう――
「……あ」
気づいてしまう。フソウが明かした事実の重たさに。
その確認のため、というよりは否定の言葉が欲しくてフソウに問いをぶつける。
「つまり、それをつけた連合軍が攻め入ってきたら……?」
「ここは『神』の勢力圏になる。今は私が祈っても光の一つだって見えやしないが、百人単位の軍隊が攻めてくれば雷や火柱だって生み出せるようになるだろう」
「だったら俺たちはもう追い詰められて……っ!!」
フソウが問題なく入って来られたのだから、風の防壁に人の軍隊の侵攻を止められるとは思えない。そうなればオニワカは『魔術』の生み出す雷や炎をかいくぐって、強化された兵士を相手にすることになる。
そして皮肉なことに、オニワカは彼らを倒せないわけではないのだ。ただ間違いなく手加減はできなくなる。
それは、つまり。
「俺は……何人を、何人を殺して……」
例の白い器官は宿主が死ねば停止する。そうなれば『神』の加護だって打ち消せてしまえるのだから。
その相手が誰であっても。
「フソウのそれはもう働いているのか?」
オニワカはフソウの目を見ながら訊ねる勇気が湧かず、前髪の影に俯いた眼差しを隠して問いかける。フソウは自失としているオニワカの肩を叩こうとしたけれど、やめた。
下手に慰めれば、オニワカのフソウへの情が深まるから。
それではこれから、彼が取らねばならない選択肢に差し支えた。
だから自身の心を殺してフソウは淡々と答える。
「あぁ、機能しているよ」
分かり切っていたはずの真実にオニワカは叩きのめされた。それでもフソウは言葉を止めない。語ることでしかフソウは恩を返せないから。
「ここに来る直前に天から光が降り注いで、気がついたら喉に植えつけられていた。その頃は何ともなかったが、今は血を抜かれているような脱力感がある」
言い換えれば、たった今着実にフソウの周囲から『神』の勢力圏が広がりつつある。
「私一人でも生きたままここに居座っていれば一通りの『魔術』が発動できるようになるだろう。そして働き出したこれをつけて町の外に出ようとしたら、身体が弾けるのだそうだ」
その光景を想像してオニワカはすぐに思い至った。フソウの首にあるのと同じものを頭に埋め込まれた魔物たちは、町を覆う風の障壁に触れた途端身体が破裂していた。同様の事態が今のフソウにも起こり得るのだ。
だからフソウはもう生きたままこの町から出ていけない。
それでもこの町を『神』の勢力圏に入れたくなければ、取れる選択はただ一つで。
「でも! だからってフソウを……だなんて」
思い当たってしまったその選択肢をオニワカは躍起になって否定しようとする。しかし、彼の胸の奥底にくすぶるものが逃避を許してくれなかった。
町から追い出すにも白い器官を停止させるにも、フソウを殺すしか方法はない。
それがノゾミを守るための最善手だったから。
「……っ、どうして……!?」
脂汗を滲ませながら葛藤に勝利しようとオニワカは決死の思いで正気を振りかざすが、勝てない。心が紅に浸食されていく。
「すまないね、オニワカくん」
フソウが謝ったのは、彼がここにいることがどうあっても『魔王』の不利にしか働かないからだ。この町にいてしまうだけで、フソウはノゾミを追いつめてしまう。
そしてそれが何を指し示しているのか、よく熟知していたからこそ謝る他なかったのだ。
「本当にすまない。私はここに来るまで君が正気を失ったものだと思っていた。けれども本当に譲れないものができたんだね?」
「やめ……ろ、フソウ……っ」
敬語なんて使う余裕はなかった。オニワカは後ずさりながら胸を掻き毟って熱を堪えようとする。目覚めかける鬼を御しようと歯を食いしばり、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて人の心を繋ぎ留める。
オニワカの肉体は繰り返し真紅に明滅した。
それでも後一歩のところで境界線に踏み留まる。生物だったなら本能と呼ばれているはずの根幹に植え付けられた衝動を噛み殺した。
「俺は……『鬼』なんかじゃ、ないんだ!」
自身に宿った、その証明の温もりを確かめていく。
「俺は、人間だ……!!」
その証拠が、確かな人の心の証が、幾らでも記憶に納められている。
フソウと交わした言葉は? 感情は?
たった今、こうしてオニワカの心を繋ぎ止めていた。
ノゾミと過ごした時間は? 与えたもの、授かったものは?
忘れられなくて、考えただけでも胸が切なくなった。
そうして築き上げてきた全てが、彼の奥底には眠っている。心を作る一つ一つが思い出として積み重なっている。
それを思い出せと自身に命じて。
オニワカは記憶の深淵へと意識の根を伸ばしていった。
回想
「そんな時化た顔してないで、早くついてきてよ!」
煌びやかに彩られた衣類の海へと、艶やかに黒く透き通った少女の長髪が軌跡を描き潜り込んでいく。彼女の黒い瞳は光を溜め込んで眩しそうに細められ、当時のオニワカには何よりもその笑顔が輝いて見えた。
「何度も聞きますけどセイカ、あなたはご自分の立場を分かってるんですよね?」
なんて諫めるオニワカも笑みを抑えられないのだから全く締まらない。
そこは、その国ではすっかり珍しくなってしまった若い女性向けの洋服点だった。名前をセイカという彼女はアパレルショップだと言っていたがオニワカには違いがいまいち分からない。
「いっつもそればっかり言ってないで少しは楽しめば良いじゃない!」
外出の許可を中々得られない彼女は、偶に外に出ると今のようにスカートの裾をはためかせてよく駆け回った。その華奢な背中を追いかけてオニワカも並ぶ衣服の中を掻き分けていく。その折りに張られた値札を見てしまい、オニワカは内心苦笑を禁じ得なかった。彼からすれば大差ない品物がもっと、ずっと安く売っている店なんてそこいらにある。
だというのに、なぜここで買うのか?
原則として黒いスーツしか着用しないオニワカには中々理解し難い価値判断だった。服装のことなどそこで思考停止しているのだ。
自分の格好を見下ろしながらそんなことを思っていたら、セイカの溜め息混じりの声が聞こえてきた。
「気になるなら、他の服も買えば良いのに」
腰に手を当てながら振り返る彼女に、オニワカはただ肩を竦める。彼の素っ気ない態度にセイカは唇を尖らせて不満をぶつけてきた。
「わけ分かんない。わたしが買って上げるって言っても全然聞かないし。素材は悪くないのに、ムサシだって」
その最後の呼びかけがオニワカを強く引きつける。
誰のことだ、なんて疑問に思いはしなかった。だって自分の記憶なのだから。そしてムサシはかつてのオニワカの呼び名なのだから。
由来はいつだかフソウが語ったのと同じ伝説的な武者だった。
輪郭が浮かび上がってくる過去の自身は、辺りを注意深く見渡す。その背がセイカの脇を通り抜けるのと女の呻きが上がるのがほぼ同時だった。
店員の格好をしていた女の腕をオニワカは捻り上げていた。その肘から先は半ばほどから機械化されており、義手の部品が外れて顕わになった金属部が紫電を纏っている。
瞬間的に赤くなっていたオニワカの全身は既に人肌の色に戻っていた。女の顎を打って昏倒させながらセイカに振り返る。
「お怪我はありませんか?」
「ううん。ないよ、ないけど……」
怯えた彼女の顔は青ざめている。その震える唇が堅く引き結ばれているのを苦々しく思いながらもオニワカは無理に笑顔を形作った。
「申し訳ありません。少し油断していました。けれども、俺がいる限りはセイカに傷一つ付けさせませんからご安心ください」
言いながらオニワカは念のために冬の夜の海のようなセイカの瞳を覗き込む。その瞳孔の形や光の加減を精査して彼女がセイカ本人であることを確かめた。
そうして、間違いなく護衛対象であることも確かめる。
セイカは技術者を父に持つ少女だった。
彼らがいる東の果ての列島は生まれ故郷を荒廃させても飽きたらずに繰り返される大戦の最前線であり、そのための兵器開発が絶えず続けられている。しかし当時の技術は人の手に収まる限度を突破して開発者の才覚も偏向を極め、その身柄には時に小国の国家予算級にも比する価値が付与された。
そうした父親から生まれたセイカの立場は極めて危うく、人質としても次代の技術者としても捨て置けば必ず誰からも狙われる。その襲いかかってくるあらゆる思惑からセイカを守り抜くべく開発されたのが、『紅之鬼若』と銘打たれた人型自律式機械なのだった。
それは冬の日の帰り道での出来事だった。
「登録名は『紅之鬼若』。所有者は春野星花です」
オニワカは防弾硝子越しに手帳型の証明書を見せながら、息を白くして言う。警備員の男はそれをじっと眺めて、ぽつりと呟いた。
「ははぁ、あの春野博士のねぇ……良いよ、通って」
言うと、鈍色の表面を剥き出しにした無骨な門扉が軋みながら開く。その奥の通りは夕方でも薄暗くて街灯が明かりを落とし、押し迫る建物の壁と壁とを照らし出していた。
黒髪と対照的な白いダッフルコートを羽織ったセイカは一人先にその中へと歩き出してしまう。オニワカは背後に振り返って警備員にちらと会釈し、彼女を追った。
人工知性は国際組織によって厳密に管理されている。理由は単純なもので、その大半が武装すればどんな銃火器でも太刀打ちできない兵器になり得てしまうからだ。
現代戦は人工知能に頼った戦術の読み合いから始まり、どこにどんな無人機を配置するかで勝敗が確定する。人間の兵士の大隊が自律式機械の小隊に壊滅させられることなど珍しくもなく、軍人など一部の諜報機関や金のない国の部隊に残るのみだった。
だから一般向けの人工知性には徹底的に殺人を忌避させることが義務づけられ、その確認がとれない限りは人間で言うところの人権さえ与えられない。例外は各国の行政と司法に裁かれ、それらの大半が廃棄処分となっていた。
オニワカもこの例に漏れず、無害な人工知性として登録されることで初めて社会から存在が許されている。平時の彼に殺人を強要しても決して従わず、それどころか機体の損傷も省みずに人を守るように先天的に倫理観が植え付けられていた。
それでも性能の高さから行動は制限され、窮屈さは否めない。致し方ないとは言え溜め息を漏らしつつ、オニワカはセイカの隣に並んだ。
「セイカ。何度言っても分かってくれませんけど、あまり俺から離れないでください」
主人に向けてなのに微かな苛立ちを声に表してしまうのは、気安い二人の関係の表れだった。セイカは掲げた手をひらひらと振って小馬鹿にしたように笑う。
「へーきへーき! だってどんなことがあっても、ムサシが守ってくれるじゃない!」
妙に自信満々に言う彼女の瞳は爛々と輝いていて、これまでに繰り返された襲撃のことなどまるで気にかけていない。その無鉄砲なまでに明るいセイカの性分にオニワカは振り回されてきたのだが、それに救われている部分があることも否めなかった。
オニワカの自我はその設計の故に絶えず揺るがされていたから。
なんて余念は、刹那に掻き消えた。
彼の姿は隣にいたセイカごと飛び去り、生まれた虚空に闇を切り裂く鋼の礫が殺到する。地面に突き刺さったそれらは人を気絶させるために蓄えていた雷をまき散らして沈黙した。
オニワカはその一帯に立ち並んだ廃工場の一角に飛び込むと息を静め、耳を澄ます。二人分の息遣いと心音しか聞こえないことを確かめて腕に抱えていたセイカを下ろした。
「また襲撃のようですね。どうにもこの頃は頻度が増している」
どこかでまた大きな戦争が起きようとしているのかもしれない。その情報も収拾したかったが今は目の前の課題に対処しようとして、入るときに割った窓枠に手を掛けた。
「ちょっと片づけてきます。セイカはここで隠れていてください」
「待っ――」
咄嗟にオニワカを呼び止めようとした彼女は、しかし喉を震わせて口を噤む。
彼の全身が真紅に発光していたから。
「ごめんなさい、何でもない」
なんてセイカの言葉も待たずにオニワカは分厚い雲が立ちこめた空の下に躍り出ていた。
既に射角から敵の位置は特定できている。彼は向かい合った工場の壁を蹴飛ばした。打ち捨てられたとは言え工場の壁面は塗装も剥げておらず、オニワカの蹴りを受け止めて彼を中空に押し返していく。
屋根の上に飛び出すとオニワカはじっと空の暗黒の一点を睨み、その闇に浮く熱源を見出した。既に単なる跳躍では届かない高さに、一機のヘリが旋回している。民間用の小さなものだったが、それでもこの時代のそれはかつてのジェット機にさえ迫る速度を有していた。通報などしていたらその間に手が出せなくなる。
だからオニワカは手近にあった煙突の一本を掴み取り、根本からへし折った。それを構えて助走をつけ、両足で工場の屋根を蹴りつける。
限定解除された彼の脚力は暴力的なまでの衝撃で空気を破裂させ、屋根の一面を大きく歪めた。それによって生まれた反動は強靱な骨格の弾性で増幅され、オニワカを空へと押し上げる。その頂点で携えていた自身の背丈ほどもある煙突を振りかぶり、腰を折って足を振り乱しながら全力で大空に投擲した。
オニワカの体重と推力を乗せた煙突はその先端をじわじわと熱で溶かしながら夜を散り散りに裂き、飛翔する。ヘリとの距離を瞬く間に詰めてその尾をへし折るとその先の闇に消えていった。
ヘリは姿勢の維持が利かなくなって緩く回転しながら傾き、急速に失墜し始める。
徐々に大きくなるその機影の落下地点を予測し終えたオニワカは屋根から屋根へと飛び移って夜の空を駆けた。やがてヘリが目前に迫ると移動してきた速度を利用して再びの跳躍、緩い弧を描いてヘリに張りつく。そのままの勢いで扉を蹴破り、機内に滑り込んだ。
突然飛び込んできた小さな人影に傾いたヘリの中を転げ回っていた男たちが喚き立て、或いは目玉をぐるりと巡らす。彼らはそれぞれ防弾ベストとアサルトスーツを身につけ、ナイフや小銃で武装しているけれどもこの場では粉微塵ほども役に立たないことぐらい当人らにだって分かっているはずだった。生身の人間が機械とやり合って勝てる時代など一世紀も前には終わっている。
それでもこうして彼らが派遣されてきたのは、これまで技術者たちとその血族の襲撃に挑んだ人工知能が尽く返り討ちに合っていたからだった。オニワカもその詳細を知らされてはいないものの、技術者たちは絶大な影響力を行使して人工知性に働く特異的な防衛措置を用意している。
ここいにいる生身の人間たちは、そんなオニワカですら真相の分からない障壁を迂回するためにここまで駆り出されてきたのだ。そして今は原始的な武装をお守り代わりにして、人など雑草も同然に薙ぎ払う鬼の前に放り出されている。
初めから無数に使い潰されるための捨て駒でしかなかった。
向けられる恐怖に沈んだ視線を一身に受けて気にも掛けず、真紅の人の形は浅黒い男の、ヘルメットを被った頭を小突く。その拳に内蔵された装置は男の脳に合わせた振動数の音波を伝えて、一気に脳の振幅を高めた。柔らかい頭蓋の中身はほどなく限界に達して弾ける。押し出された目玉が眼孔からだらりと垂れ下がった。
それがオニワカに搭載された武装の一つだ。
時間さえかければ鋼鉄の装甲だって破壊してしまえる。刃物を伝わせれば人の臓器を一度に破壊することも可能な代物だった。
礼服を血で濡らしながら、オニワカは一人だけを残してその他全員に同様の攻撃を行う。生き残りが立ち上がるよりも早く処理された人数分の鮮血が飛び散って窓ガラスを汚した。
最後に目の前の事態を飲み込みきれない生き残りの後頭部を殴りつけて意識を奪い、襟首を掴み上げる。入ってきた扉の向かいに大きな風穴を空けると機外に飛び出た。機体を蹴りつけ、距離を取り荒れ地の一角に着地する。
噴煙を上げるヘリは離れた工場の屋根の縁に衝突して火花を撒き散らし、その壁伝いに建物の影へと転がり落ちていった。機体の各部がへし折れる音もそれから膨れ上がる熱量までが空気越しに伝わってくる。
その直後、炎が光のない空を焼き尽くして辺りを黄色く染め上げた。
派手に爆発を起こしてしまい、音も光もあからさまに事件の発生を知らしめていたが、いちいち気には留めない。もはや珍しい事態ではなくなっていたし、その地域の行政を牛耳っているのは科学者だった。襲撃者が殺されていても不問に処される。自衛のための設備も資金も自前で確保できるのだから、そうすることが暗黙の了解となっていた。
そもそもオニワカだってそんな情勢のために生み出された機体で、無害な建前の裏に殺人を厭わない本性を隠している。愛想が良く優しい平時とは対照的な、感情を停止させて殺傷も含む対処にリソースを費やす冷酷極まりない一面を。
その姿になるとオニワカは機能の制限が解除され、基本性能の底上げに留まらず各種の兵装も解放された。そして限界まで稼働する機体を冷却するために全身の血管が浮かび上がる。
かくして真紅に染まった姿こそ『紅之鬼若』が秘めたる本質なのだった。
その性分に従ってオニワカは淡々と唯一連れ出した男の装備を改め始める。依頼人に繋がる手がかりをあらかた漁り終えたのなら、今度は本人の口を割らせなければならない。
そのためには不可欠となる拷問を嘆くことさえ、今の彼には叶わなかった。
途切れ目
どこかに争いを始めたがる国が出てきて、そのための武力を求めている。すると当然ながらそんな国に恐れをなして周囲の国も武装し始める。
歴史よりもずっと根深い営みであり、オニワカは常にその動向を注視してきた。火種が一つだって見あたらない時期はなく、一見穏やかそうに見える裏で次の争いの準備は進められていた。
それら全てがセイカに迫り得る脅威であり、事実数え切れないだけの危機からオニワカは彼女を守り通してきた。例えその日々に終わりが見えなくとも。
それでも、だというのに彼は、争う人々を恨む気持ちにもなれない。
だって彼らは幸せになりたいだけなのだから。そのために起こした行動がただ戦いだったというだけだから。
仮初めでも彼の心は、人を愛するように、と願われて作り上げられた。だから生きとし生けるものとして当たり前の欲求を振りかざす人々を恨むことなんてできない。
しかし自ら引き起こした争いの落とし前はつけてもらうことになる。
「ムサシっ、何してるの!? 早く逃げよ!!」
セイカの擦り切れた、悲鳴じみた声にオニワカは我に返った。自身が手に掛けた、まだ年若い男女の兵士の亡骸を見下ろして不覚にも自失していたのだ。
「申し訳ありません。少し気が抜けていました」
言いながらオニワカも絨毯を引かれた洋館の廊下を駆け出す。
そこはセイカの父が所有する別荘だった。度重なる奇襲に街中での生活が限界を迎え、元いた地域から僅かに離れた海岸近くのここに移り住んだのだ。
転居の目的がそんなものだったから、その館だって小さな要塞クラスの設備が整えられている。特に屋敷全体を包み込む電磁波の嵐に惑わされない人工知能は稀で、設計段階から外部による干渉に対策を施されたオニワカでなければ高度な機械類は機能しない。特殊部隊並みに訓練された守衛も数多雇われていて、陥落されることなどまずあり得ない。
そう断言できるだけの防備が整えられていた、はずなのだ。
けれどもオニワカは見誤っていた。
外部から通信を遮断されていたそこに、正体不明の人工知能がクラッキングを仕掛けてきたのだ。それだけでも十分にオニワカの想定を逸していたが、そんなものは始まりに過ぎない。特に強固に設計されていた屋敷のセキュリティまでもが突破されて瓦解。電磁防御が解除されると大量の自律式機械が投入されて外の守りは壊滅し、館内にも敵の手が及んだ。
オニワカは相手が仲間に連絡するよりも早くその命を奪い去っていたが、危うい綱渡りだった。この館はもう陥落しているのだから。
セイカの走りに不足を感じたオニワカは彼女を抱え上げた。
「や、やだ! 放してよ!!」
「こんなときに我が儘言わないでくださいっ!」
手足を振り乱して抵抗するセイカに思わずオニワカは怒鳴りつけてしまう。しかし、この程度で引っ込むセイカではなく、不機嫌を隠そうともしないでオニワカを睨めつけてきた。じとりとしたその視線からできる限り目を逸らしつつ、彼は廊下を駆け抜けていく。
ろくでもなくて下らない遣り取りだけど、これがオニワカの精神を支えていた。
隠蔽の用途しかないはずなのにオニワカの心は巧妙に再現され過ぎている。それがあまりにも本性とかけ離れていたから、鬼と化した自身の手が赤く染まる度に彼は自我を脅かされてきた。二つの性質はどこまでも対立し、決して相容れないからだ。
なのに、隣にいる彼女は温か過ぎた。
我が儘で寂しがりやで、時折奇妙に強がるのにそのことに気づけないと機嫌を悪くする。そんな少女の笑顔が、不安定なオニワカの機軸になっていたのだ。
「ねぇ……ムサシ。あんたはわたしの雑用がかりなんだからね?」
なんて憎まれ口の奥に、彼女の本音はある。
「分かっていますよ。俺は万年あなたの下僕ですから。そうですよね?」
訊ね返したらセイカの小さな拳がオニワカの胸を叩いた。
「余裕そうな顔してる。むかつく」
なんて言うのならせめて緩んだ口元を隠せば良いのにと、胸中でのみ呟くオニワカである。
幾らか気の和んだ彼は一気に加速して一階の奥にある部屋の前まで駆け抜けた。
何の変哲もない扉の前に立つと左右の廊下に人気がないことを確認してドアノブに手をかける。
しばらく握っているとそこから指紋に加えて脈拍や肉付きまで照合された。ここから先のネットワークは屋敷全体からも切り離されているために別個の暗証が必要となるのだ。
体のことを探られる居心地の悪さは一瞬で尽き、扉が自ら微かに開いた。オニワカは迷わず生まれた隙間の中にセイカごと体を滑り込ませ、素早く扉を叩きつける。
室内には端から見ればがらくたにしか見えない希少な物品が並べられていた。壁を覆う棚だけでなく床にまで寄せ集められているのは笑うしかない。
それが意味もなく押し込まれていたのならば。
オニワカは部屋の片隅にある、天馬の彫刻を施されたマンホールの蓋を見つけて歩いていく。そこで「こうなったら一生背負って……」だの何だのとのたまうセイカを下ろした。
自分の足で立った彼女はその直後にだけふらついてオニワカにしがみついた。彼の全力疾走に付き合わされて酷く疲弊していたのだ。
その華奢な痩躯を支えながら、オニワカが訊ねる。
「ごめんなさい、セイカ。どうにも気が回らなくて」
そんな彼の気遣いをセイカは若干、いや、相当に苛立たしそうな顔をしてふりほどくとオニワカを睨めつけた。
「それどころじゃないでしょう?」
怖かった、とは間違っても言えない彼女を微笑ましく思いつつ、オニワカは脇に退いた。
反対に進み出たセイカが告げる。
「ここからはわたしの出番」
言いながらマンホールの傍で屈み込んで蓋の両端に手をついた。彼女がじっと見つめると、天馬の図柄の目に赤い光が点滅する。その色がやがて緑になりロックが外れて、セイカは蓋を脇にずらした。
「開いた。ムサシ! 早く中に!!」
「先に入っていてください」
手招きするセイカにオニワカは言いつける。彼の聴覚は廊下を走る複数の足音に気づいていた。そして運の悪いことにそれらはこの部屋の前で止まる。
とはいえ本来なら屋敷が落とされても、切り離されたこの部屋のセキュリティまでは届かない。だからここに侵入できるはずはなかったのだ。
なのに、シリンダーが回って金属の擦れる音がしてくる。
開かれた隙間から向けられる銃口も厭わずに紅の鬼は舞っていた。
手始めに扉をこじ開けたその奥にいる若い男の隊員の頭を打ち砕く。そこから最寄りにいた壮年の男の腕を引っ張って軸にし、壁に叩きつけながら廊下に飛び出た。
その勢いを殺さずに壁を蹴った力を利用して一人、その反動で浮き上がった拳でまた一人と敵を片づけていく。加減しない彼の一撃は腹や頭を抉りながら臓物を破壊していった。
武装した男ら六人中五人を血祭りに上げ、オニワカは最後の一人に取りかかる。けれどもその男は人間らしからぬ素早さで二度後ろに跳び距離を取ってきた。違和感を抱きながらも容赦なく間合いを詰めにかかったら、想定外の異変が起きて足を止める。
膨れ上がったのだ、男の身体が。
全身に密着する黒いアサルトスーツの上からでも筋肉の膨張が見て取れた。よく観察するとその表面には縦横無尽に行き交う血管まで走っていて、変貌した男の目が血走る。
さらに男の右手が転げ落ち収納されていた刃が展開された。その根本から輝きが走って振動を始め、不穏に低い音を鳴らす。
その刃をオニワカの顔面に突き出しながら男は突進してきた。ほとんどの弾丸のような勢いである。
目では捉え切れない。
そう分かっていたから刃の軌道を予測してそこから外れるように背後へと体を傾ける。頬を切りつけていく刃を眺めながら左手を相手の手首に、右手を肘近くに添えて左足を軸に据え、身を翻しつつ右足で相手の身体を浮かせた。
利用した相手の体重と加速度に全身の骨が軋み、オニワカの肌も擦り切れてしまいそうになるけれども、踏み締めて溜め込んだ力を解放する。自らの回転に男を巻き込み掴んだ相手の両腕を振り回して目下の床に叩きつけた。
受け身も取れなかった男の背面は湿った音を立てて潰れ、人だったものの証として血が飛び散る。
思いがけず荒れた息を整えながら仰向けに血溜まりに沈む死体を見下ろした。
「……なんだ、今の?」
純粋な身体能力で、オニワカに敵う人間はいない。かと言って目の前の男は身体の一部を機械化されていても、自律式機械ではないようだった。しかしそうだとしたら、オニワカの目が追いつけない動きができてしまう説明がつかないのだ。
「どうにもきな臭いが……まぁ、今は良い」
滾っていた赤の余韻を残しながら、オニワカはセイカの許に急いだ。
トイレの個室よりも一回りほど大きな箱の中。お世辞にも広いとは呼べない空間でオニワカとセイカは肩を触れ合わせていた。
「ムサシ。狭い」
「そうは言われましても……」
彼らがいるのはマンホールの孔から通ずるエレベーターの中だった。白い電灯はかなり頼りなくて今にも薄闇に押し潰されそう、おまけに行き先のボタンは地上と地下の二つのみ。十分近くの間一度動き出したら止まらずに、さしものオニワカも少々堪える。
彼は気を紛らわせようとして、傍らにいる、自身の胸ほどしか背丈のない少女に目をやった。喧嘩を売ったつもりはないのだが、彼女は文句があるのかとばかりに見返してくる。
正直なところ、一緒にいるのがセイカで良かった、というのが偽らざるオニワカの本音である。
彼女の父にここまで連れてこられた際は狭く息苦しい空間に決して小柄ではない男と二人きりで、何を話しかけても最低限の返事しか寄越してくれなかった。息苦しさは今の比ではない。
その点、セイカならば思い通りにならないと途端に我が儘になる欠点はあっても、黙り込んで気まずくなることはなかった。
「セイカは将来、なりたいものは決まっているんですか?」
「何よ、突然……」
やや戸惑ったような素振りは見せたが、セイカは腕を組んで細い顎を上げ、天井を仰ぎながら答える。
「特になりたいってわけじゃないけど……たぶん、科学者になるんでしょうね。パ……お父さんから見たらその才能があるらしいし、そのための勉強もさせられてきたし」
「確かにセイカはよく本を読まされていましたからね……」
昔のことを思い出して呟く。
彼女の背丈がまだ半分しかなかった頃から、オニワカはその傍に仕えていた。
セイカの父は個人が背負えるのかも怪しい期待と仕事を背負っていたし、母親は亡くなって久しい。聞き及んだ話では人質として拉致され、そして殺されたらしかった。そんな母親と入れ替わりにオニワカはセイカの前に現れ、その頃から誰よりも長い時間を彼女と共に過ごしてきている。
だからこそ勘づくところがあった。
「だけど、それだけではありませんよね? あなたが本当に憧れているのは……」
「やめて」
底が覗けない夜の海色の瞳がオニワカを映している。ここで止まることだってできたはずなのに、それでもオニワカは敢えてこう言わずにはいられなかった。
「平気ですよ、家族を作っても。全員、俺が守り抜きますから」
だから怯える必要はないのだと、そう伝えたかった。
そのつもりだったのだが、どうにもセイカの様子がおかしい。淡い色の柔肌に、鮮やかな赤が染み通っていく。
紅潮が耳にまで達するのと同時にべそをかいた涙目がオニワカを睨んだ。
「分かってるわよ! 分かってるわよッ! あんたが、ムサシがどういうつもりで言ったのかくらい……!!」
しかしその態度の意味がオニワカには分からない。
「は、はぁ……それなら、良かった? ですけど……」
今の発言に赤面する要素が見つからない。例によって強がっているだけなのだろうかとも推測するが、ならばもう少し湿っぽい雰囲気になっても良さそうなものである。今のは本当に苛立っていて、なおかつ恥じらっていた。
「やはり、女性の気持ちは解し難い……」
結局自身が男性型だから、というところに結論を落とし込むムサシことオニワカの背中を小さな手が叩いた。
「違うわバカぁ!!」
そんなやり取りが続く内に、籠が揺れて扉が開いた。
たどり着いたそこは自動車なら二台入るだけの広さが確保された地下室で、エレベーターの扉が開くと到着を感知して自動で明かりが灯される。照らし出された室内の中心にはコンテナほどの鋼鉄の箱が据え置かれ、幾つものケーブルに繋がれていた。
箱の正面にはエレベーターにあるのと同じような扉が設けられていて、その脇には装置を制御するためのコンソールが備え付けられている。
「……これが、パパの隠していた装置?」
「そうですけど、だから勝手に一人で先走らないでくださいって!」
例によってオニワカよりも先に歩き出してしまうセイカに追いつきながら彼は答えた。
「えぁと、重力を加えて空間をねじ曲げ、遠く離れた別々の地点を繋げる装置なのだそうです」
そう説明しながら部屋全体を見回し、不備がないか目視で確かめる。
セイカの父は希代の研究者の一人であり、そうした人々は秘密裏に組織を作り情報を共有していた。様々な勢力から自分たちの安全を確保するには一人の技術や情報網は頼りなさ過ぎたからだ。
そして今目の前にある装置もそうした人々同士が秘密裏に情報を交換して作り上げた技術の粋なのである。開発された経緯からその用途は極めて単純で故に確固としていた。
すなわち。
「これを使えば、同じ装置のある限りどこにでも行けてしまえるのだそうです」
たった一つの部屋に収まっているこれは、現在世間で流布している常識から大きくかけ離れた代物なのだ。勉学を積んできたセイカなら尚更に、目の当たりにしてもこんなものの存在は信じられないはずだった。
「ねぇムサシ。それでわたしはどうしたらいいの?」
平常とは打って変わってしおらしいセイカに内心苦笑しつつもオニワカは指示を飛ばす。
「しばらくここで待っていてください。起動してもしばらくは各種演算に時間がかかるらしいです」
「私たちが立ち去った後はこの装置、どうするの?」
「この館ごと自爆する仕組みになっています。追跡を振り切る必要がありますし、世間に公表できる事実でもない」
自分で話していても酷い仕様だとは思うが、これは技術者や科学者たちにとっての命綱なのだ。まだ広めてしまうわけには行かない。
言うとセイカが切実な目で見上げてきた。
「ムサシも来るんだよね?」
「もちろんですよ。セイカと俺が通ったのを確認した時点でこの装置は自爆に入ります。当然じゃないですか、俺はあなたの護衛なんだから」
「そっか。……なら良かった」
なんて言って相好を崩すセイカを目にしてしまい、オニワカは密かな罪悪感を飲み下す。実のところセイカの通過こそが最低条件であり、オニワカが居残っていても装置が損壊すればこの館は火と爆風で溢れ返る。しかし彼女を不安に落とし込むのも躊躇われて、とても自分からは言い出せなかった。
「さて、早くこんなところは立ち去ってしまいましょう」
コンソールのディスプレイは装置の窪みに埋め込まれていてその手前にキーボードが設置されている。けれども基本的な操作方法自体はコンピューターと変わりなかった。
電源を入れると画面に仄白い光が灯り、オニワカの顔を照らし出す。表示されたウィンドウに行き先を意味する暗号を打ち込むと画面上部のカメラから赤い光が照射された。光はオニワカの顔をなぞってその輪郭や皺、瞳孔の形を確かめていく。
認証が終わると実行の許可を要請する『Yes』か『No』かの問いかけが表示された。当然ながら了承すると、命令を承認した旨が彼の顔を照らし出す。
オニワカがそれに反応を示すより早く画面から光が失われ、停止する寸前にコンソールは最初で最後の指示を送り込んだ。これで以降は如何なる外部からの干渉が受けてもも、装置は止まらない。
「これからどこへ行くの?」
オニワカが振り返ると、足を丸めて座っていたセイカはこちらを見上げてきた。
「この装置は遠い辺境の山に建てられたシェルターに通じているのだそうです。しばらくはそこで情勢を伺うことになります」
「そっか」
と呟いたセイカは立ち上がって両腕を頭上に掲げ、大きく伸びをする。どことなく猫を連想させるその仕草を終えると欠伸を一つ吐き出してオニワカに近づいてきた。
「その間はどうするの?」
「食料がありませんからね。セイカには、しばらくコールドスリープしていただこうかと」
そのための設備が避難先にあるのだとセイカの父から聞かされていた。
装置の中にいれば機械の側が栄養状態を管理してくれるため、食料の心配は要らない。オニワカのような護衛役の存在も想定されていて、人を模した自律式機械ならば問題なく共用できる。
「しばらくすればセイカのお父様、いえパパも――」
「わたしはパパのことパパなんて読んでないっ!」
「おっと失礼しました」
激昂するセイカに睨まれて大人しく引き下がり、オニワカは肩を竦めた。それから装置の扉に目を向ける。
「さて、もうそろそろでしょうかね」
いよいよ移動が迫ってきたためか、セイカがさらにもう一歩オニワカに寄り添ってきた。
「怖い……かも」
「平気ですよ。異変があれば、俺がどうにかしますし」
オニワカがセイカの肩を抱きながら言うと、彼女の指の先でつついてくる。
「どこから出てくるのよ、その自信は」
「俺だからです」
自惚れていたではなく本当にそう思っているからこそ、オニワカは気負わずに宣言できた。いつもと変わらぬ彼の様子にセイカは思わず頬を綻ばせ、気の抜けた笑みのまま「何それ」と肩を揺らす。
「念のため、俺に捕まって置いてください」
「分かった」
隣から腰に手を回してくるセイカの痩躯をオニワカはしっかりと抱える。万が一、誤作動が起きたら彼女を引き連れて退避しなければならない。
「早く開いてくれると良いんですけど……」
暢気に呟きながら装置の分厚そうな扉を眺めていた。
そちらしか見ていなかったから、オニワカは気づくのが遅れる。
「ねぇムサシ。あれって大丈夫なの?」
肩を叩かれてセイカの指さす方向に目をくれて。
そして目にする。
「コンソールが、起動している……?」
つい今し方機能を喪失したはずのそれが画面に光を灯している。外部からのあらゆる命令は聞き届けられないはずなのだが、確かに画面に光がより集まってこう表示していた。
「ムサシ。これ、『Error』って」
「確かにそう表示されていますね」
幾多にも重なったウィンドウはどれにも、失敗を表す英単語が並べられている。オニワカは腕の中のセイカと顔を見合わせ、けれども互いに首を横に振るしかなかった。彼も彼女も、この装置の細かな説明はほとんど受けられず終いなのだ。
「仕方ない、こうなったらわたしが……」
言いながら彼女は懐から彼女の手にも握れるほどの棒状の端末を取り出した。何かと思ってオニワカも目をやると、それは小型のマイクロフォンである。
「セイカ、それが一体……?」
「良いからムサシは黙って見てて」
そう指示されると彼は逆らえない。オニワカが見守る中セイカはマイクに息を吹きかけようして、しかし地下室を揺さぶらんばかりの大音声に遮られた。
「ひっ……爆発!? だけど、どうして」
鼓膜を突き破る破裂音の残響が火薬の残り香と共に広がっていく。抱えたセイカごとオニワカが振り返ると、扉の塞いでいた空間を朦々と包む白煙の奥に二対の煌めきが見て取れた。
そこから音よりも速く風を貫いて接近してきた鉛玉四つをオニワカは顔の前で受け止める。焼き焦げ、擦り切れた手の平からそれらを放り投げるとじっと煙が晴れていくのを待った。
相手も攻撃が読まれているのを実感したために、それ以上の銃撃は加えてこない。
やがて薄らぐ煙に二つの影が浮かび上がった。最初は曖昧な靄のようだったそれらは人の形を取り、さらに粉塵が消えると正体を表す。
成人男性ほどの体格は艶消しされた黒い装甲に包まれて大口径の自動拳銃を構えていた。オニワカのように武装を隠す必要さえない、本来ならば戦場に立つべき機体である。
「うわっ、と、止まれ!」
なんて上擦った声でセイカが叫んでも、彼らが止まるはずがない。二機は歪んだ扉を踏み倒して進み、エレベーターの縦穴から部屋に入ってきた。その後ろに何人かの、こちらは人間が例の如く武装してロープを伝い降下してくる。
その到着を待ってすぐさま二機は散開し、左右からオニワカたちを挟み撃ちしにかかってきた。そして正面では三人一組の小隊が抜かりなく小銃を構え、オニワカを牽制しにかかる。
絶体絶命。
そう呼んでも差し支えないこの状況で、しかし彼に抱えられたままだったセイカが耳打ちしてきた。
「――――」
ごく短い指示にオニワカは戸惑ってセイカの顔を見下ろす。だが、少しだけ悲しそうに目を伏せながらも彼女は本気の目をしていて、彼は逆らえなかった。
「分かりました。御武運をお祈りします」
それだけを告げてオニワカはセイカを下ろし、一人銃を構えた人間の舞台に突撃する。その主人を見捨てたかのような選択に当然一瞬困惑が広がり、それはオニワカが突破するのに十分過ぎる間隙だった。
瞬く間にその場で待機していた全員を物言わぬ死体へと変え、すぐさま背後に振り返る。ともかく今はセイカが心配だった。この隙に接近していた二機がセイカを捕らえているはずなのだから。
しかしそれは杞憂に終わる。
「止まれ」
彼女が先ほども取り出していたマイクにそう声を吹き込む。
戦いはそれで終わった。否、戦闘にさえならなかった。
セイカに接近していた二機がそれで停止してしまう。銃弾と爆風の中でも戦い抜ける屈強な人造人間が、セイカの一言に従ってしまう。
「どういう……ことですか?」
訊ねてしまったのは不信からではない。ただ今までオニワカにも知らされていなかった事情で、言葉のどこかに険が篭もっていることは否めなかった。
だから言い辛そうにしながら、それでも疑念を抑えることはできない。
「今のは一体……」
間違いなく、セイカの言葉によって彼女に襲いかかろうとうしていた機体は停止した。そこでようやく固まっていた頭が回り出してもう少し具体的な質問が口からこぼれる。
「そのマイクに秘密があるんですか?」
そう問いを口にしたらセイカははにかむように苦々しさを噛み潰してどうにか笑った。
「違う。これはただの入力機。さっきの奴らは音が聞こえないように作られていたみたいだから、これを使って伝えただけ」
何のことだと疑問が湧いて、しかしすぐにセイカの行動を思い出す。彼女は二機の姿が明らかになった時点で既に一度「止まれ」と命令していた。慌てていただけに思えたあの行動が、最初の『入力』なのだとしたら?
いいや、それ以前に疑問に思うべき箇所がある。
「セイカは機械を言葉で自由に操れるんですか?」
我知らず問いつめる口調になるのを抑えることもできずに、オニワカは詰め寄ろうとして足を止める。背後のエレベーターの縦穴から次々と増援の足音が甲高く鳴り出したからだ。
「く……っ、セイカ! どこか物陰に隠れていてください!!」
止むを得ずオニワカが全身を赤色に発光させ、縦穴に集結する部隊の中に飛び込んでいく。
「少しで良い、保たせて!」
切羽詰まった声で言うセイカに中空で振り返ると真っ直ぐな海の底から見上げてくる濡れた瞳が何かを訴えかけていた。
互いに頷きあって心を交わすと彼女はマイクにまた何か命令を吹き込む。その途端にコンソールのディスプレイから『Error』のメッセージが一掃されて座標と重力の演算が再開された。未だにその行為がどんな理屈で成り立っているのかは理解できず終いだったが都合が良ければ何でも良い。
縦穴から整然と溢れ出してきた黒ずくめの戦闘員たちが並び終える前に床をひしゃげさせながら踏み込んだ。爆音を鳴って足の裏から膝に衝撃が伝わり、力のままにそれを蹴ると爆発的な加速度が生まれる。その勢いのままに腰を屈めた姿勢から突貫、脇に抱えるようにして構えた拳で戦闘にいた一人の顎をすくい上げた。はね飛ばされた床に頭を叩きつけられて不格好に首がへし折れる。その死体が落ちてくる前に殴りつけた反動を使いその隣にいた男のこめかみを被っていたヘルメットごと打ち砕き、返す刀で震った裏拳を脇腹をに叩きつけた。振動を伝わせて共鳴により心臓を破砕させる。
次々と敵を屠っていくオニワカの背後で分厚いの鉄鋼の扉が開かれる音を聞いた。振り返ると機動した装置の扉の奥に見通せない闇が広がっていて、その手前でセイカが手招きしている。
「ムサシ! できたから早く来て!!」
「言われるまでもありません! 今いる敵を――」
ずしりと、明らかに体を内側から溶かされていくような脱力感が彼を襲った。酷い吐き気がこみ上げて眩暈がし、這い上がってきた悪寒に膝をつきそうになる。
目の前の敵を片づけたら自分も追いつく、とそう伝えかけていたオニワカは判断を切り替えた。
「セイカ! あなただけでも先に逃げていてください!! 少し時間が掛かりそうなんです!!」
数多の敵を散らす傍らで訴えかけるオニワカと見つめ合ったセイカの表情に悲哀が広がる。
「待って! ムサシ大丈夫なの!?」
「っ……ははは……」
不調を瞬時に見抜かれてなぜか笑みがこぼれた。喜んではいけない事態のはずなのに、不思議とこみ上げてくるのは温かな安らぎだ。
だからこそ、オニワカはそれを守り抜かなければならない。
纏うスーツが焦げ付くまでオニワカは自身を発熱させた。それに応じて跳ね上がった性能の限りに駆け巡って衝撃波さえ伴う拳を瞬く間に撃ち込んでいく。
しかしそれでも耐えることのない増援が送り込まれ、このまま時間稼ぎを続けられたら戦闘用の自律式機械の部隊が送り込まれることは必至だった。
そうなれば勝ち目がなくなる自覚もあったオニワカは一瞬の隙をつき思い切って離脱する。長い跳躍の末セイカの許に降り立つと彼女の笑顔が綻んだ。
「ムサシ、早く一緒に!」
残念ながら二人が装置の向こうの闇を駆け抜けていたら、その間にまた装置の制御を奪い取られかねない。先刻からどういった理屈なのか、通信が遮断されているはずの館の設備が次々と乗っ取られているのだから。
「ごめんなさい、セイカ」
細い彼女の腰を抱え上げるとオニワカは装置に向けて踏み込み加速をつけた。そんな彼の顔を見上げたセイカは朧気に表情を移ろわせて、不意に涙ぐむ。
「やだ! さっきからムサシおかしい! どうするつもりなの!?」
答える余裕も、それに相応しい言葉もなかった。どんな顔を向けたら良いのかも分からなくて、しかし嘘もつけずにただ一言こう告げる。
「またいつか」
逢いに行きます、とは言い切れずにしがみつくセイカを引きはがした。必死にすがりついてくる瞳からは目を逸らし開かれた装置の扉の向こうに彼女を放り出す。
「待って、離れたくないっ! 離れたく――」
伸ばされたセイカの手は虚空を掴んだ。黒髪が翻り、暗闇に沈んでいく彼女の眼差しが大きく揺らいで溢れた光の滴が飛び散る。
「さよなら、セイカ」
その姿が見えなくなるのと同時に装置のコンソールのディスプレイを殴りつけた。その奥にある数々の電線を引きちぎると警報が鳴り響いて耳をつんざき、緊急停止した装置の扉が閉まる。
直後、館の壁と装置のそれぞれに亀裂が走り、閃光が辺りを包み込んだ。溢れかえった炎が部屋中を焼き尽くして地上にも漏れ出し、爆風が全てを吹き飛ばす。
その中でただ一つ形を保っていた人型が煙を上げながら空へと投げ出された。近くの海面で高らかに水しぶきが一つ昇っていく。
離別
「――ワカ! オニワカ!!」
肩に置かれた小さな手に身体を揺さぶられる。その度に固い感触の上で頭が転がってごりごりと削られるようで、痛みと不快感に意識を呼び起こされた。
「……っ。ここは……?」
どこかまだ微睡んだ心地がして、まばらな感覚を繋ぎ合わせながら目を開く。瞼の隙間から染み込んできた陽光が眩しくて、初めは目の前が真っ白にしか見えなかった。
けれどもやがて、白い昼の光の中に長い髪を垂らした少女の影が浮かび上がる。
「セイカ……?」
オニワカは微睡んだまま、彼女の繊細な曲線を描く頬に手を伸ばした。大粒の瞳がじっと見返してきて、彼にこう語りかけてくる。
「オニワカ。……どこで、その名前を?」
やがて色彩を取り戻してきた双眸は目の覚める赤色で、オニワカは現実に引き戻された。
「ノゾミ?」
問いかけると彼女は白無垢の長髪を揺らして頷く。その毛先がオニワカの頬をくすぐって、微かに甘い匂いが広がった。
そこから徐々にいろいろが現実味を取り戻し、近くの民家の軒下に寝かされていた彼は呻きながら身体を起こす。少しずれて後ろの壁に寄りかかり、背を預けたら町の様子がよく見て取れた。
昼下がりの通りは石畳が日の光を弾き返して煌びやかに照り映えている。最後に目にしたときからほとんど変化はなく、気を失っている間に誰かが攻め込んできた様子もなかった。
オニワカはひとまず息をつき、それからふと思い至る。
「ノゾミ。フソウは……中年で僧服を着た人の良さそうな男性を、見かけませんでしたか?」
最初は誰のことを言われたか分からず、ノゾミは怪訝そうな目つきしたが一瞬のことだった。直後にその眉がぴくりと震えて、やり切れない表情になりながら目を伏せてしまう。
どういうことだ?
胸の内に浮かび上がったその問いを声にするよりも早く、ノゾミは暗い面もちのまま手を持ち上げた。その滑らかな指先が、民家の裏を指している。
「たぶん、あっちに」
いる人だと思う、と続きを述べるより早くオニワカは立ち上がっていた。立ち眩みが片時だけ彼を煩わせたが、オニワカは立ち止まらない。重たくなった心を引きずるように覚束ない足取りながらも、ノゾミが指さした民家の裏へと一歩ずつ歩いていった。
二棟の民家に挟まれたオニワカの肩幅しかない細い路地。日照りが届かずに湿った、淡い闇の中へと彼の歩みは続いていく。
その路地の中程まで進み膝を突いて、崩れ落ちた。
「フソウ……? 眠っているだけ、なんですよね?」
呼びかけられた壮年の行商人は頭を垂れたまま、じっと佇んでいる。その純白だった修道服は赤い色と鉄臭さに汚れていた。
そんな彼の瞼が、重たく閉じられたまま開こうとしないからオニワカは焦る。
「フソウ? ねぇ、しっかりしてくださいよ。なんで、どうして返事してくれないんですか!?」
思わず両肩を掴み、揺さぶってしまった。
そのとき足元の石畳が甲高くか細い音を鳴らして、オニワカは目を落ろす。
そこにはだらりと開かれたフソウの手から転がり出たらしい、血に刃先を濡らしたナイフが横たわっていた。それを掴み上げて、震える手で握ったそれを睨み付けて、どこかに信じられない現実を否定してくれる材料を探す。
でもやはりそれはどこから見ても、フソウの首もとを真っ赤に染め上げた刃でしかない。彼が自らの手で切り開いた喉元の裂傷の作り手でしかない。
「なんで、自ら命を絶ったんですか? どうして……!?」
分かり切っていたからこそ、オニワカは容易に受け入れられなかった。
「こんなことをされても俺は喜びませんよ。ねぇどうしてこんなことしたんですか!?」
彼の願いのためにはフソウが死するしかない状況であり、しかし間違ってもオニワカにはフソウが殺せない。そのことをフソウ本人が見かねた結果であることは自明なのだ。
だからこそ、オニワカは目を逸らしたくて仕方ない。自身のためにフソウが自刃したのだと理解できてしまっても受容できない。
「嫌だ……嫌ですよ、フソウ! 俺はあなたを殺したくなくて必死に自分に抗ったのに! その結末が、こんなだなんて……」
これでは却ってフソウを苦しめてしまっただけだった。
自ら命を絶つ恐怖に苛まれるのは、どんな心地だったろう? 望んでもいない死の痛みはどれだけ凄惨に彼を痛めつけたのだろう?
そんなことを考えるだけでオニワカの方まで気が狂いそうになる。自分が手を下していれば痛みも恐怖も感じさせずに終わらせられたのだと考えると頭痛がして脳をぐちゃぐちゃに攪拌され、込み上げる嫌悪に何度もえずいた。
「……どうすれば……良かったんだ? 俺は! 殺せば良かったのか!?」
極端な思考は、だけど否定材料も見つからなくてオニワカの心を黒く塗り潰す。他に方法があったのなら、フソウだって自らの命を断ち切る選択は取らなかった。今目の前にある亡骸が、全ての答えなのだから。
「フソウ……俺は、俺は……!!」
路地の入り口にノゾミが立っても、オニワカは嗚咽を止められなかった。こぼれた滴が、石畳を黒く濡らしていく。
やがて立ち上がったオニワカはノゾミを無言で押し退けて路地から出てきた。そのやつれ果てた雰囲気に気圧されて、ノゾミは何と声をかけたら良いのかも分からないまま脇に退く。
そして、とぼとぼと町の外に歩いていこうとするオニワカを追いかけた。
「待て! オニワカ、これからとこに向かうつもりだ? 一体、何があったんだ!?」
ノゾミは比較的直前まで、オニワカの言いつけを守り神殿に閉じこもっていた。それでも魔物から出てきた白い下垂体を調べ、その組成や仕組みを解き明かしていく内にそれがこの町を滅ぼしたそれそのものだと気づき飛び出してきたのだ。
「オニワカ……?」
幽鬼だと呼ばれていても納得できそうな頼りない背中。そこかしこの糸がほつれた解れた礼服は傷だらけの彼をよく象徴している。摩擦で生地が溶け、そのまま固まってしまった箇所や戦いの中で破けて補修されなかった傷が無数に散見された。強がろうとしても隠し切れなくなるくらいに損傷が重なり、限界が訪れようとしている。
今、彼を行かせるわけにはいかない。
「待って! だから、待ってってば!!」
ノゾミはオニワカの前に回り込んで、彼の進路に立ちはだかった。さすがにこうまですれば応じてくれると考えていた彼女は、けれども即座に自身の浅慮を嘆くことになる。
「ごめんなさい、ノゾミ」
それだけの無価値な謝罪がオニワカの口からこぼれ、次の瞬間に彼女の足は地面を見失っていた。景色が駆け巡って、加速についていけない四肢と頭が慣性に引きずられる。ノゾミは咄嗟に手短にあったものに手を伸ばし、握り締めて額を寄せ、縋りついた。
浮遊感は一時のこと。しかしそれが過ぎ去って足の裏に地面の感触を確かめても、彼女は腕を離す決心がつかない。やがてその腕を下ろしてもオニワカの胸に額を擦り付けたままでいた。
「……ノゾミ。俺はそろそろ行きますから」
離してください、と暗に意図を込められて彼は彼女を見下ろしてくる。精悍そうな目鼻立ちに幼さの欠片が見え隠れするオニワカの面差しはまた下手な作り笑いを浮かべようとしていた。
だけど、不意にその表情が脆く砕けて強がろうとしていた彼は力なく崩れ落ちそうになる。泣き腫らした痕を色濃く目元に残しながら虚勢など晴れるはずがないのだ。
「無理をするな、オニワカ。少しでも良いから休んで――」
「そんな時間はないんですッ! もう行きますから、離れてください!!」
怒鳴り散らす彼の顔を見てノゾミは力を失う。泣きながらせがんでくる彼に抗えず、両肩を掴まれて引き剥がされる。
「なんで……!?」
もう好い加減にその心がひび割れかけていたのは明らかで、少しでも何とか言って説得せずにはいられなかった。絶対に彼が聞いてくれないと知っていても、中にいれば良いと訴えたかった。神殿ならば早々容易に攻略されることはないのだ、と。
もちろん、全ては虚しい気休めである。ノゾミはデータベースを漁り、かつてここに流れ着いたものたちがどのようにして滅んでいったのか、その詳細までが書き記されている文書を見つけた。
そこに記されているのは、『神』と呼ばれる得体の知れない存在と町の住人との戦いの歴史だ。
絶大な力を持つ『神』は直に手を下すことはせず、数々の尖兵を操って繰り返し襲撃を行わせていた。町の住人たちも極めて強大な武力を持つ従者を従えていたものの、圧倒的な単騎たる従者らも彼らは防衛に向かず多勢に無勢で追い詰められていく。
住人たちだって全くの無力というわけではなく、『神』の意志を歪めて天を操る力を秘めていた。しかし、その力も振るわれる度に光を失った粒子が降り注いで無効化される。状況を打開できるほどの効力は持たず、従者が数を減らすと戦場で使う余裕さえなくなった。
やがてこの町から逃げようと言う提案がなされるようになる。実際に町の包囲網を突破できたものあって、しかし彼らの多くは厳しい現実に出迎えられた。
『魔王』とその一族にあたる魔族。
魔物を操っているとされた彼らは弁解する暇も与えられずに見つかった途端に虐殺される。魔物から人からも、この世界の憎悪を一身に受ける彼らに居場所などなかった。
結局、住人らはこの町に居残るが少しずつ人員が欠け落ち、町の領域も狭まっていった。その課程でどうにか『神』からの干渉を凌く風の障壁を形成したものの、もはや町には存続していけるだけの余力が残されてはいない。
そうして滅び去っていった彼らのただ一つの希望たる遺児がノゾミなのだった。
その滅びの過程で、魔物を相手取ってもなお無双とされた従者でさえ最後には尽く討ち滅ぼされたという。平時でも厳しい戦いの中で、不安定な精神状態のオニワカ一人に戦況を覆せるとは思えない。
このまま彼を行かせて、喪いたくはなかったから。
「お願いだから今は休ん――」
衝撃が首筋から広がっていって意識がまばらに滲む。ぼやけて拡散していくものを掻き集めようとはするけれども力が入らなくて、腕からも頭からも抜けていってしまう。
「なん……で……オ……」
朧気な視界の中で必死に手繰り寄せたのは、懸命に名を呼ぼうとするけれど叶わない少年の袖だった。
決戦
過去を思い出して、自分の存在を確かめようとした。積み重ねてきた経験が心を作っているのだと信じたかった。だから記憶の中を覗いて、けれども現実は非情に願望を打ち砕いてくる。
心だと思っていたのは『鬼』が人の世に馴染むための仮面でしかなかった。
ノゾミを守ろうという決意もフソウを死なせまいとする抵抗も機械として植えつけられた使命に従っていただけ。
本物の人間らしさなんてどこにもない。
だけど今はそれで良かったのだと思えた。
吹き荒れる風の障壁を抜けながら、そんなことを考えている。
開けた視界に広がるのは、転がる魔物の死骸を飛び交う蠅が囲む、腐臭の立ち込めた荒野。血を吸い込んだ大地はそれでも干からびて、ひび割れている。
数知れぬの死屍の陰からちらほらと身動ぎする人影が覗き、オニワカとの戦いに備えていた。
あからさまに過ぎる殺意まで向けられ、オニワカはどう動いたものかと思い悩む。しかし彼が立ち尽くしている内に腐り掛けの黒い巨体の物陰から一人の青年が這い出てきた。
「あなたは……」
少々頼りない風体で、腰には二本の短剣をぶら下げている。見覚えがあったから記憶を探ればすぐに思い当たった。
「俺が平原で助けた方、ですよね?」
付け加えるのなら、村でオニワカを助けようとした青年でもある。
「あんなことになってしまったけど、村では助けていただきありがとうございました」
しかし話しかけても俯いたままで、青年は返事も寄越そうとしない。聞く耳は持たない、という意味なのだろうかと想像して、その後味の悪さに辟易した。
村ではオニワカに警告してくれた相手だから、もしかしたら今度も。
そんな期待が知らず知らずの内にあって、願わくは争わずに済ませたいと思っていたのだ。けれどもここは戦場で、相手は敵陣を背にオニワカと対峙している。
あくまでも敵なのだという前提の下で改めて語りかけた。
「その……あなたも、『魔王』を討伐しに来た、ということでよろしいのですか?」
これにもやはり返事はなく、前髪に隠されて表情を窺うこともできない。どうしたものかと迷いながらも、話を続けていくしかないのがオニワカの立場だった。
「聞いてください。あなたの首もとに植え付けられているそれは、魔物の頭の中にも植え付けられているものなのです。あなた方は、それを与えた存在に利用されて――」
反応は意外なところからあった。それも迫り来る矢の数々として。
オニワカは腰を低く屈めて、片足を軸に重心を下げて頭上に黒々と浮かぶ殺意の塊を睨み付ける。
「邪魔、しないでください!!」
第一波を回転しながらの裏拳で、第二波はそのままの勢いの回し蹴りで打ち落とした。その体勢から跳び上がって軸足を移し替え、後ろ回し蹴りで残りも弾き飛ばす。
攻勢が一端収まると今度は怒号が響いてきた。
「バカにしてんじゃねぇぞ! 『魔王』の手先の言葉になんか惑わされるかよ!!」
彼らの言わんとしていることは理解できたが、それでもオニワカは黙り込むわけにはいかない。
「はっきり言わせてもらいましょう! あなた方は『神』の道具にされようとしている。魔物と呼ばれる生物兵器と同じように!!」
直後に天から注いだ無数の氷の剣はオニワカの機動性を以てしても回避し難いものだった。まだ殺しを始めたくない彼は人々を巻き込まないように、頭上を追尾してくる無数の刃から逃げ回る。ありったけの演算能力を費やして立ち回ったものの、それでも掠った刃に衣服ごと皮膚を切り裂かれた。
攻撃が止むと思わず膝をつき荒い息をついた彼は、周囲を見回して唖然とする。
オニワカが助けた青年も含む計四人が彼を取り囲んでいた。その全員が一様に虚ろな表情でオニワカを見据え、その隙を狙ってきている。その目に人間らしさが感じられず、不気味に思って相手を警戒し、五感を研ぎ澄ましたオニワカは外野の動きに気づいた。
彼が包囲されているのを良いことに、潜伏していた連合軍が一斉にオニワカを迂回して進攻し始めたのだ。
当然ながら向かう先は、神殿のある石の町。
フソウの言っていた通りだった。
相手はオニワカとの正面対決など望んではいないのだ。
「……くそっ」
ぼそりと呟いて、全身を赤熱させながら彼は思い知る。
最初から迷う余地などなかった。
戦うと決めた時点で相手を殺しにいくしかないのだ、と。
そうして決意が定まると同時に彼は砂煙をまき散らし、立ち去った後に風のうねりを残してその場から駆け出す。空気の壁さえも突き破って突進し、その威力を上乗せした拳を手近にいた年輩の男の頭に叩き込んだ。速度に任せた打撃は頭から衝撃を伝えて男の上半身を消し飛ばし、彼の前に文字通りの血路を開かせる。男の体を薙ぎ払いながら前に進み、すぐさま町に向かおうとした。
しかし彼の歩みはそこで止められる。
突破したと思った先に、例のオニワカが助けた青年が立ちはだかっていたのだ。それどころか、その先にもさらに等間隔に人員が並べられていた。
そこでオニワカはようやくこれが彼を絡め捕るために作り出された包囲網なのだと知る。
ならば力づくで打ち破るのみだ。
殺人のための音を蓄えた拳を構え、オニワカは青年に肉薄する。
相手はやはり無表情なまま腕を掲げて胴体を守ろうとするが、関係ない。オニワカの拳に備わった装置が発する振動は体を伝わせても内臓まで十分に致命的な損傷を与えられる。
「ッはァああああ」
腕さえへし折らんばかりの勢いで放たれた拳は衝撃が轟音を生み出しながら迫り。
――吸収された。
忽然として青年の腕に現れた白い盾に。
「――!?」
青年は砲弾級の威力をいなしきれずに吹っ飛ばされた。転がっていた魔物の巨体に背中を打ち付けて止まる。しかし、打撃の勢いが過ぎ去ると何食わぬ顔をして立ち上がった。
『鬼』と化したオニワカに感情などありはしないが、それでも予想外のことが起きれば判断を迷いはする。
なぜ動ける?
触れただけでも内臓は確実に破壊できるだけの振動を発していたはずなのに。
それが通っていない。
原因など考えるまでもなく、青年の腕に張りついているのっぺりとした外観の白い盾より他にはなかった。オニワカの拳を受け止めたそこに音が吸収されたことは確実である。
そして、その盾の材質は連合軍の首や魔物の脳に植え付けられていたあの白い物質と同じものに見えた。その作り手が、オニワカの武装を無力化できてしまう構造にしたのだ。
辺りを見回せば、オニワカを囲う全員の腕に光の粒が天から降り注ぎ、白い盾が形作られているところだった。直接オニワカを包囲する四人はそれだけでなく、全身を覆う甲冑さえ纏っていく。
彼は苦々しくその光景を見つめながら放った姿勢のままでいた拳を引いた。そしてそのまま視界が白けて倒れ込みそうになる。
慌ててかき集めた力で踏み留まるが、血の抜けていくような感覚は消えなかった。全身を紅に染めて冷却しなければならないほど廃熱を発しているはずなのに、寒気がオニワカを包んでいく。
これとよく似た感覚を、セイカと共に装置で逃げようとしたときにも味わった。
なぜ? 誰が、どうやって?
分かり切っていたからオニワカは空をきつく睨みつける。けれども白い雲の立ちこめた茫漠たる天空は白々しく日差しを浴びせかけてくるだけだ。
「なんなんだ、神様って……」
目に見えない。けれども存在している。恐らくはこの世界が滅ぶ前、文明がまだ高い基準を保っていた頃から。
つまり皮肉なことにオニワカにとっての『神』は、同じ時代を生きた唯一の同胞というわけである。そしてそんな彼だからこそ、姿の見えないそいつに費やされた技術の底知れなさまでが理解できてしまう。
「ノゾミ……」
紅に塗り潰された心の片隅で、最後に気に掛かるのはあの少女のことだった。
本来の護衛対象のセイカですらない彼女。それでも守ろうとしてしまう理由には薄々気づいていたが、そのためだけにここまで必死になれる自分は理解し難い。
ただ彼にそうさせる全てを捨てる気にはなれなくてオニワカは息をついた。内側から体を溶かされる悪寒に抗いながら眼前の敵を見据える。
「――待っていてくださいね」
真紅の『鬼』は体が保つ臨界まで性能を引き出し、その身を炎熱で焦がしながら死闘に挑みかかっていく。
魔王様の仰せのままに
七色の光を弾いて、白く長い睫毛が揺れた。それに彩られた瞼の奥から眠たげな赤い瞳が覗く。
「――っ。ここは……?」
背もたれに乗せていた頭を持ち上げ、ノゾミは自分がいる空間を眺めた。
一点を除けば、変わったところなど何もない。目覚めたときから静かなままだった神殿の中、その天井から虹の色の明かりが降り注ぐ玉座の上である。
そこにしどけなく腰掛けていたノゾミは腰を上げて座り直し、まだ寝ぼけた眼を擦った。そうしている内に微睡みから覚めて、調べていたこととその結論が脳裏に蘇る。
玉座の前の床から磨き抜かれた灰色の石の台座がせり出ていた。その上にノゾミの手にも収まる小さな白い物体が安置されている。
人の脳にある内分泌器官を模したその内部には本来の役割通り製造されホルモンの他にも高度に精細な構造を持つ小さな物体が残留していた。ノゾミはオニワカが来訪者を出迎えている間に神殿のデータベースを漁り、その物体に関する情報を探していたのだ。
結果として見つけ出せたのはかつてのこの神殿の主が遺した調査内容だった。
そこに記されていた事実を思い出した途端にノゾミは玉座を蹴り飛ばし立ち上がっている。こんなところで独り寝込んでいるわけにはいかなかったから。
「オニワカ……」
彼はノゾミを昏倒させてここに匿い、自らは『神』の軍勢と戦いに出向いてしまった。彼女の話など何も聞かずに、取り乱したまま一人で突っ走って。
進もうとしていた彼女の足取りは、胸中に渦巻いた焦りと悲しみに苛まれて鈍る。
全て自分を思ってしてくれたことなのだと分かってはいた。けれどだからこそ、何一つ相談してくれない彼の態度が物寂しく感じてしまう。
自分だってもう守られているだけの存在じゃないのに。
独りよがりなオニワカの振る舞いを思い出していたら、徐々にこれまでとは違ったものが芽生え始める。
「オニワカの……、オニワカのっ、大バカ!!」
叫んでしまえばそれが偽れない本心になった。
何をしたいのか、されたくないのかはっきりと自覚して彼女は再び歩き出す。これまでよりも力強く頑なに、扉へと向かいながら一言命じた。
「開けて」
その彼女の澄んだ声がどこかで受理され、重たく頑丈な純白の門扉が外へと広げられていった。色のない光が入り込もうとしてきて虹色の輝きに押し留められる。そうして目の前に明かされる町の景観は血肉に赤く汚されていた。火炎と稲妻に蹂躙されたあとが生々しく焦げていて漂う硝煙は清純だった町の空気を黒く濁している。
白い甲冑から肉と血管の腫れ上がった死体がそこら中に散乱していた。動いているものは唯一人、その惨状を作り上げた少年のみだ。
彼は通りの真ん中で矢が三本突き刺さった背中をこちらに向けて独り佇んでいた。
その左半身は礼服が黒く焦げて肌にはりつき、右の上半身は着ていたものが布切れになるまで切り刻まれている。その腕は肩から先が徐々に削れていき肘にもたどり着けないまま上腕骨が剥き出しになっていた。朽ちた先端にまで乾いた模擬血液がこびりついている。
その痛ましい姿を声も掛けることもできずに見つめていたノゾミの視線に彼が気づいた。ゆっくりとこちらに振り返ってくる。
「ノゾミ……?」
その顔に彼女は思わず肩を震わせて竦み上がりそうになった。
「……っ……オニワカ……!」
彼の左目が瞼ごと融解して焦げ付き、遠目からだと穴が空いているように見えたからだ。
「何してるんですか? 早く、逃げて――」
そう言って表情を歪めながら地を蹴り飛ばす。ノゾミと彼との間にあった距離を瞬く間に詰め、黒煙を掻き分けて彼はノゾミの前に現れた。
目と鼻の先から彼女の首へと手を伸ばしてくる彼を見据えて、ノゾミはマントをはためかせながら命じる。
「――止まって」
オニワカに向けて――ではない。彼にこの命令は通じないから。
その身に侵入した『神』に対して、ノゾミは命じたのだ。
「……あ!」
空中でオニワカは目を見開き、ノゾミへと覆い被さるような格好になりながら抱きすくめられる。しかしながら小柄なノゾミにオニワカを受け止め切れるはずもなく、痩躯は背後に傾いで床に叩きつけられそうになった。しかし彼女の体が衝撃に見回れる寸前にオニワカがノゾミの脇の下から頭へと左腕を回す。さらに彼女の体を跨いで突き出した両膝から着地し、ノゾミの肩越しに床へと頭突きして衝撃を殺した。
痛みと痺れがオニワカの体を通っていく。その幾分かがノゾミにも伝わって彼の背中を抱く彼女の腕に力が篭もった。小さなノゾミにしては強い、オニワカでも少しきつく感じる抱擁だった。
やがてオニワカから顔を上げ、ノゾミを抱き抱えたまま体を起こす。神殿の床に這っていた白い長髪が埃をつけたまま持ち上がったから、中腰になりながらそれを払った。
ノゾミはオニワカから僅かに体を離し、それでも決して彼を解放しようとはしないまま見上げてくる。その赤い瞳に魅入られながらもオニワカは質問しないではいられなかった。
「今のは? ノゾミは今、何をしたのですか?」
無心で戦いに明け暮れていた。そのことだけは覚えている。
けれども途中から意識に何者かが入り込んできて、ワクチンプログラムを作り出す暇もなく乗っ取られた。何とか抑え込もうとはしたがノゾミを目にした瞬間に衝動が弾ける。気がついたときには体が勝手に動いて、彼女の首を捻切ろうと飛びかかっていた。
抗うことさえ叶わなかったのだ。
それをノゾミはたったの一言でねじ伏せてしまった。さも圧倒的な上位者であるように。
オニワカが戸惑っているとノゾミの幾分が和らいだ眼差しが宥めるように彼を見つめ、オニワカが落ち着くのを待つと薄い唇が開かれる。
「よく聞け、オニワカ。わたしたちが抗っている『神』とは目に見えない微細な機械の群れなんだ。一粒だと何の能力もない塵でしかないが、集まれば巨大なネットワークを形成して、一個の人工知能として機能する」
いつの間にかここまで知識をため込んでいただろうと、オニワカが見上げたノゾミの面差しは陽光に照らし出されていた。その輪郭は柔らかさを残していたけれどもどこか大人びていて鋭い。
その迷いない眼光が遙かに遠い空を射抜いた。
「彼らはこの世界を満たしている。この町は機械が蓄えたエネルギーを解放させる磁場とそいつらを寄せつけない暴風に包まれていた。けれども他はどんな僻地にも行き渡って人の生活に介入しているはずだ」
教えられても規格外過ぎてオニワカにはあまり想像ができない。気の遠くなる思いをしていたら、ノゾミが突然抱きつくようにオニワカの腰へと両腕を回してきた。
「少し痛むぞ」
「え、あの、ノゾミ? いきなり何を……」
その質問の答えを聞く前に背中から熱が噴き上がって激痛が走り、脂汗が滲む。続けて二度、脳の回路を激痛に焼かれてオニワカは溜まらず呻き声を漏らした。
やがてノゾミが体を離し、背中を床に横たえる。油断し切っていた彼は忽ち怒りを爆発させて怒鳴りつけようとしたのだが、彼女の手に握られたものを見つけて口を噤んだ。
「すまなかったな。けれどもこれだけは先に取り除いておきたかった」
そう言ってノゾミが放り投げてしまったのはオニワカの背に突き立てられていた三本の矢だった。その先端の血でぬらりと濡れた鏃は白い。
「魔物の脳にもあったあの白い物質。あれは機能停止した『神』の塊だ。体に埋め込めば生体電気を蓄えて新しい『神』を作り出す。そいつらはそうやって体に入り込んで、魔物や人を操ったり、さもなくばその体を強化したりしていた」
「なるほど。それで俺の体も……」
戦いが始まった間もなくオニワカの体は『神』に侵入されて酷い倦怠感に苛まれた。そして刺さった鏃からさらに大量の流入を許し、操られるに至ったのだった。
しかし、それでもまだ納得できていないことがあった。というより一切の説明がなされていない。
一体、どうやってノゾミはオニワカの体内にある『神』を停止させたのか?
たった一言、『止まって』と命じるだけで停止するなど、聞いたことも――
「もしかして」
一度だけ、オニワカは似通った場面に出くわしていた。あのときのことを思い出して、彼は訊ねる。
「ノゾミは機械を言葉で自由に操れるんですか?」
この質問をするのは、これが二度目のことだった。かつてその対象になった少女と同じく長い髪を持ちながらもその色は白無垢のノゾミが頷く。
「そうだ。わたしの祖父は自分たちの作り上げた知性の悪用に備えてその血を継ぐものに、言葉による管理者権限を与えた。わたしはこの時代の誰よりも濃くその血を受け継いでいて、だからどんな人工知能も屈伏させられる権限がある」
ノゾミは忌々しげに、或いは酷くもの悲しげにそう呟いた。その長い睫毛が憂鬱そうに伏せられて、彼女は吐露する。
「『神』というのは人工物……わたしたちの力が通じてしまう相手なんだ。けれど彼らはかつて起きた大戦で激減した人類を保護しようとしていたから、その思惑を狂わせてしまえるわたしたちは危険分子だった」
故に、『魔王』。
人類の救世主たる『神』に唯一仇なせる存在。
「だからわたしの両親は敢えてわたしに言葉を教えなかった。この町が滅ぼされかけたときも、言語を覚えてしまっている自分たちだけがこの町を離れていった」
そして瞬く間に『神』の操る魔物たちの餌食となった。
その結果独り町に取り残された少女を『神』は次代の『魔王』に仕立て上げたが、もはや攻撃の標的とはしなかった。
そこにオニワカが現れるまでは。
「じゃ、じゃあ俺があなたに言葉を教えたから……っ!」
再び『神』に目をつけられた。
思い至ったその事実に喉がつっかえながらもオニワカは目を逸らせない。だっていつかイブキは話していたから。
『お前のせいで、『魔王』が力を取り戻しつつある』と。
正しくその通りの事実がこうしてノゾミに危機を招いた。そして、そこから今まで連なる戦いをも引き起こしてしまったのだ。
「っ、くそ! 俺のせいなのかよ……!!」
ノゾミの前であることも忘れて毒づく。それでも自身の呪わしさは全く削れずにただやり切れなさばかりが増した。
自分が全ての引き金を引かなければ、誰も死なずに済んだ。外で無数に積み上げられた死体もイブキもフソウも、皆みんなが彼のせいで死んだ。
のしかかってくる咎の重たさに押し潰されそうだった。今までは誰を殺しても何人傷つけても、何とか自分に言い訳をして堪えてきたのだ。そうするしかないのだと言い聞かせてきたのだ。
けれど、これはもう駄目だ。
一人を殺しても償い切れないのに、彼は自分が殺した人数さえ把握できていない。
「……うそ……だ……っ……」
絞り出した声は色褪せて、力無く嗄れていく。
腰が落ちて片側しかない腕をつき、オニワカは崩れ落ちた。胸元まで垂れてきた彼の頭をノゾミは躊躇いがちに掻き抱く。それからさめざめと泣く少年に冷たく言い放った。
「自惚れるな。皆、自分の判断でオニワカに剣を向けて、それから朽ちていったんだ。誰にだって、もちろんオニワカにも自分で自分を自由にできる心があったはずだ」
そうノゾミが口にした単語の一つに、オニワカの顔が跳ね上げられる。
「心ですって!? バカなこと言わないでください!! 俺にそんなものが宿っていたら、今頃こんなことには――」
吐き出そうとしていた続きは、目まぐるしく反転した視界に遮られた。腹の上に柔らかい重みを感じて、胸の上につく二つの小さな手を感じて、何よりも頭上から世界を覆う白い繻子に注意を奪われてオニワカは押し黙る。血の色さえ隠せないノゾミの双眸がじっと彼を見下ろしていて、垂れた長髪が他に目をやることを許さなかった。
「なら、わたしを守ろうとしたのはどうしてだ?」
真剣な目つきで見つめられ、けれどもオニワカはその答えを知っている。
「あなたがセイカの……本来の俺の護衛対象だった女性の娘だからですよ」
神殿に来てから始めの頃、オニワカは映像としてノゾミの母親を見た。それから思い出した記憶の中でも再び、セイカのことを目にした。
そして何より、ノゾミ自身のセイカの面影を重ねて見ていた。
「あなたは母親と瓜二つなんですよ。だから俺も誤認して、ここまで守ってきた。俺があなたを守ってきたのは、俺に組み込まれた命令のせいなんです!」
出逢った瞬間に湧き上がった使命感もそのせいだった。単なる機械として、与えられた命令に従ったに過ぎない。
「所詮、俺は機械仕掛けの! 心のない人形でしかないんですよッ!!」
きつく、誰かに言い聞かせるかのように、そうであってくれと懇願するようにオニワカは言い捨てる。ノゾミはその様を無表情にほんの一握りの驚きと、それから苛立ちを混ぜた。
ずっと言わないようにしようと心がけてきている。指摘すればオニワカは立ち上がれなくなる気がして、黙っているしかなかったから。
それでも、もうノゾミは訊ねないではいられない。
「だからオニワカは……苦しそうにする度に、これはわたしを守るためなんだって自分に言い聞かせてきたのか?」
静かな声音で何かを否定するわけでもなく、身構えていたオニワカは拍子抜けしながらも頷いた。
「そう……ですけど」
それがどうしたのだと、訊きたくてオニワカは顔を上げる。ノゾミは胸の内で毒虫がのたうち回っているように苦しげな面もちをしていて、オニワカが案じようとしたらきつく睨まれた。
「オニワカのバカ! バカじゃないのか!?」
両頬が可憐な手に包まれて、そのまま向き合わされた先のノゾミとオニワカは瞳の中を覗き合う。
「本当に命令をされただけの機械が、そんなふうに何度も自分を誤魔化さなきゃ動けないと思ってるのか!? そんなふうに苦しみ抜かなきゃ動けないのに、それでも自分が人間じゃないって、本当にそう思ってるのか!?」
呆気にとられるオニワカに、目一杯の感情が溢れた瞳が追い縋ってくる。
「聞いて、オニワカ。オニワカにはわたしの命令する言葉が通じない。人を殺せてしまうオニワカにだからこそ、誰にも染まらない、それでも良いのかと判断する心が与えられた!」
「そんなものが……」
果たしてあるものかと反論しかけて、でもオニワカは思い出してしまう。結局、オニワカはフソウを殺さなかった。というよりも、殺せなかった。
そう選択できる力がオニワカには備わっているから。
「お前の本質は命令に従うだけじゃない。自分で選んで、その心に従っていく力だ。だからそれを殺さないでくれ! もしオニワカがそれに耐えきれないのならわたしが一緒に背負うから……っ……!!」
泣き出しそうな顔でそう言われてしまって、オニワカはもう何も言い返せなくなる。苦しくなんかないと、そう強がれば良かったのに、それすらも言えないままノゾミの薄い胸に額を預けてしまう。
ローブの生地から人の温かさが滲んできて、離れられなくなった。規則正しい鼓動が伝わってきて、初めてノゾミを生ける一人の少女なのだと思い知らされる。
震える彼女の腕に包まれて、オニワカはより深く彼女の胸に顔を押し当てられた。微かに甘い香りと布生地に五感を塞がれて、ここならばノゾミの他には誰にも伝わらない。
そう思った途端に瞼から力が抜けた。熱をはらんだそこにこみ上げるものを抑え切れなくて溢れさせる。一度決壊すればもう止まらなかった。知らぬ内に口が開いて、震えた嗚咽が繰り返し喉を鳴らす。その度に肩を上下させて、オニワカは何度もため込んできたものを流した。湿ったノゾミのローブの胸元から温もりが染みた。
エピローグ
開け放たれた扉の前で四角く切り取られた白い光の中ノゾミは語る。その隣に並び立っていたオニワカは町の彼方の晴天が明る過ぎて目を細めていた。
ノゾミが睨みつける方角も同じだが、その意味は大きく異なる。
「お母さんたちにも命令する能力はあった。けれども、相手は細かな機械の集合体だから、命令された部分だけを切り離して対処された」
「それならば、今ノゾミが赴いても結果は変わらないのでは?」
彼女はオニワカに一瞥をくれ、それから羽織っているマントの裾を摘んで見せた。
「これが私の命令を伝えてくれるから。『神』が切り離せないくらいに広域に。それよりも」
ノゾミが言い出し辛そうに唇を噛み、目を伏せる。
「お母さんたちがこれを作り上げたときには一人も護衛がいなかった。だから町の外に出ても命令する間もなく殺されるしかなかった。……わたしだって独りなら結果は同じだ」
そこでノゾミは顔を上げてローブをぎゅっと握り締め、死刑宣告でも言い渡すようにしながら訊ねてくる。
「一緒に……来て、くれないか?」
たった一言の、その業の深さがノゾミの胸を締め付ける。
だって、なぜなら。
「わたしを守ろうとすれば、きっとまたオニワカは誰かを傷つける。そうするしかなくなる。だから、嫌なら断って欲しいけれども」
尻すぼみになりそうになる台詞をノゾミはどうにか言い終える。酷く居たたまれなさそうにしていて、それなのにどうしてか彼女は赤い双眸を見開いて彼を見つめていた。
その意味合いに薄々感づくところがあってオニワカは問いかける。
「それは、俺自身の選択でついてきてもらいたいってことですか?」
「そうだ」
その意味するところが重た過ぎて、オニワカは言葉を失いそうになる。これから起こすかもしれない殺人の責任さえ自分で背負えと、そう言っているのだから。
けれども、考えてみればそれは当たり前のことで。
オニワカは瞼を震わすノゾミの強がった視線を真正面から受けて、その上で自身に問いかける。
答えは、気づかぬ間に彼の胸に宿っていた。
「俺って途中から、ノゾミが本来の護衛対象じゃないって自分で気づいてたんですよね」
そう語りかけると、仄白い昼の明かりを浴びていたノゾミは眩しそうに片目を細めながら首を傾げる。その拍子
に肩に掛かっていた長髪が流れ落ち、溢れる日の光を照り返した。
「自分の使命なんかじゃないって気づいていたはずなのに、それでもあなたの傍から離れようとは思えなかったんです」
見上げてくる瞳の中の真紅は不安そうに揺れていて、その目を安堵に和らげたくなる。守りたいから、だなんて言い訳じゃない。もっと心の奥底か湧いて、彼を突き動かす気持ち。
「あなたの傍にいさせてください、ノゾミ」
本心から口にしたその台詞に「あ……」とノゾミは驚き、頬から鼻の付け根にかけて鮮やかな朱色に染まっていく。
やがてその目元が綻び、目尻に光る滴を溜めて。
「ありがとう」
花が開いた。
そうとしか形容できないほどに、柔らかな微笑がいじらしく咲き誇った。
「それでは、行きましょうか」
オニワカが手を差し伸べて、ノゾミはそこから恥ずかしそうに顔を背けつつも手を重ねて応える。そしてどちらからともなく指を絡めて握り合った。
「オニワカ。町を出たらしばらくは離れられないからな」
「本当ですか。それは好都合ですね」
なんて言い合って二人して肩を揺らす。一頻り笑ったらお互いの手を引き合い、もつれ合うようにして外の世界に踏み出していった。
『魔王』の行軍はここに始まる。
魔王様の仰せのままに(後)