つよがり
美崎舞子がマイクを持った。持ってから、ステージの下に向かって笑いかける。言うことに困っているように。でも、私には分かる。彼女はいつも自分の些細な言動に気を配っている。今だって、言うことは決まっているのに、思いつきで喋る振りをしている。
「私にとって、高校三年間は本当にあっという間でした。……」
美崎舞子は、甘ったるい声で話し出す。声を少し震わせて。いつ泣き出してもおかしくないように。
さっきまで、卒業式があった。周りは申し合わせたように神妙な顔を揃えて、式が進行するのを寂しそうに見送っていた。どうせ、腰が痛くなってきたとか、眠くなってきたとか、不満を抱いている人もいただろうに、誰も表に出さなかった。
式が終わり、退場するときに、省吾と目が合った。ほんの一瞬だったが。省吾は表情を変えず、すぐに目を逸らしてしまった。――やっぱり、いつまでも引きずっているのは私の方だけなのか。
卒業式の後には、謝恩会とでも卒業パーティーとでも言える――まあ、どっちでもいいけど――会が行われることになり、ホテルの会場を貸し切りにして始まった。参加は任意だったけれど、先生たちが来ることもあって、一人余さず参加している。だから、私も仕方なく来ている。
食べ放題の食事で始まり、いくつかの丸テーブルに分かれて盛り上がっていた。途中で軽音楽部のバンドが演奏を披露し、さらに会場を盛り上げた。
宴もたけなわ、会は終盤に差し掛かった。そこで、卒業生全員が一言、二言ずつ話して、それで締め括ろう、ということになった。
私はすでに終えている。笑いも取らず、当たり障りのないことで短くまとめた。美崎舞子は私の三人あとで、しかも一番最後を飾る。
私の近くで、女子の何人かが「がんばれー」と声を上げた。
俯いていた顔を上げて、低いステージの上を見据えると、美崎舞子は目元を手で押さえて、泣いていた。言葉にならない言葉を絞り出そうと努めている。白々しい、と思った。
「……人は、一人では生きていけない、ってことを実感しました。……」
話の前後関係が曖昧だったけど、その一言が私の胸に引っ掛かった。真綿に水がしみこむように、嫌なものが胸を浸食していく感覚を味わった。
そんなことはない。人は一人でも生きていける。
でも――。
すると、割れんばかりの拍手に思考を遮られた。私も拍手をして、ステージから下りていく美崎舞子を見るともなしに見送った。
――緋菜は優しいな。優しすぎるくらいだ
優しくなんかない。臆病なだけだ。誰かを傷つけるときに生じる責任を負う強さがないだけだ。自分を守ることが精一杯で、誰かに何も施してやれないだけだ。
本当に優しいのは、省吾の方だ。彼とは、半年間だけ付き合った。彼の放つ光は、暗闇の中でくすぶっていた私を柔らかく照らした。陽光を受けて輝く月のように、光に満ちた自分をそうして初めて目にした。
そして、勘違いを起こした。照らされていたのに、自分が輝いているように思い違いをしてしまった。
――なんか、少し変わったな
省吾の失望のこもった言葉がよみがえる。
純粋な気持ちで始まった二人の恋は、自然消滅の形で終わりを告げた。
真っ直ぐに、ただ彼を愛していた。彼といると安心した。でも、その「安心」が、いつの間にか「驕り」に変わった。彼が私の傍にいることは当たり前だと捉えるようになり、特別な想いを寄せられなくなっていた。愛に見返りを求めてはいけない、とはよく言ったものだ。
後悔している。たくさん、それはもう本当にたくさん。
でも、何もできない。今日でお別れだというのに。
司会役を務めている元生徒会長の言葉で、会の終了が宣された。ぞろぞろと立ち上がり、騒がしく帰路につこうとする。涙を流して抱き合っている人たちがいた。笑顔で再会を約束している人たちもいた。
私は一人でそこにいることに耐え切れなくなって、逃げるように会場から抜け出した。
通路を進んで、トイレの前で立ち止まった。下の階が見下ろせる欄干に寄りかかり、ため息をつく。涙が滲んだ気がして目元に手をやるが、乾いた感触しかない。
いつまでこうしているのだ、と自分に問い掛けた。早く帰ればよかったのに。でも、省吾を思うと帰る気にならない。メトロノームみたいに、私の気持ちは左右に揺れる。どちらも選べず、何もしないでいることにする。
遠くから、近付いてくる足音が聞こえた。私は誰か判断がつく前にトイレの中に隠れた。ドアの前に立って、息を潜めて窺う。
足音がドアの前で止まった。曇りガラスに映るシルエットは、すらっと背が高くて、肩幅も広かった。――省吾かな、と真っ先に連想した。
はたして、注意深くドアを開けて確認すると、本当に省吾の姿がそこにあった。さっきまで私が寄りかかっていた欄干にもたれて、ぼんやりと俯いている。
もしかして、私を探しに来てくれたのかもしれない。甘い幻想だと思った。でも、非現実的なことではないと思った。
心臓の鼓動が速くなる。手を当てなくても分かる。ドクン、ドクンと、私の神経を弱くし、「女の子」にするのに充分な血液を盛んに送る。
ドアを開けて、「省吾」と呼びかけようとした。勢い込んで体重をドアに傾けかけた――そのとき、声が聞こえた。
「省吾、おまたせ」
不快感を催す甘ったるい声――間違えようがない、美崎舞子の声だ。どうして?
「おせぇよ」
省吾が返す。久しぶりに彼の声を聞いた。
「だって、なかなか解放してくれなくてさ」
「まあ、女子はそういうの好きそうだもんな。――そういや、いいこと言ってたな、終わりのやつ」
「ホント? 緊張して、あんまり覚えてないんだよね」
二人は仲睦まじげに話し込んでいる。だが、だんだんと二人の会話の内容が頭に入ってこなくなった。声が、少しずつ遠くなっていく。
省吾と美崎舞子が、いつの間に? しかも、どうしてあの女なの? 信じられない、嘘でしょ……。
無意識のうちに、手でスカートをぎゅっと握り締めていた。力が入りすぎていて痛かった。これは、嫉妬だろうかと思った。いや、思いたかった。
心を埋め尽くしていたのは、嫉妬ではなかった。圧倒的な寂しさだけだった。寂しさを押し殺そうと、せめてつよがってみる。寂しさは、慣れてしまえばいい。そうすることで、心の苦痛と同居できるようになる。
私は膝を抱えてしゃがみこんだ。今の自分ほど、この姿が似合うものはいないだろう。泣きたかったが、涙が出てくる気配はない。相変わらず、目元は乾いている。
人は、一人でも生きていける。
でも、人の心の温かさを知ってしまったら、もう不可能だ。誰かを求めてさまよい、無様な姿をさらすしかない――。
つよがり