フェル・アルム刻記 第一部 “遠雷”
第一部 “遠雷” 主要登場人物
ルード…………………フェル・アルム北部スティン高原に住む少年
ライカ…………………銀髪を持つ謎の少女
ハーン…………………飄々とした性格のタール弾き。剣の達人
ケルン…………………ルードの親友。スティン在住
〈帳〉《とばり》……“遙けき野”に住む大賢人
マルディリーン…… イャオエコの図書館、司書長
序章
一. 対峙する者
大樹は千年近くにわたって地に根を下ろし、世界の有り様を見続けてきた。ごつごつとした枝々には常に緑の葉が茂っている。そして周囲の木々を暗がりに隠すのだ。
畏怖。
人は大樹に畏れの心を強く抱くことだろう。
内側は大きなほらが出来ている。命ある樹木ということを否定するように、無機質な石造りの家がそこにあった。
先ほどから、二人は対峙していた。語りあう言葉はなく、ただ静寂が存在するのみ。
一人は安楽椅子に深く腰掛け、腕組みをしている大柄な男。
そしてもう一人は、ローブに身を包んだ若者。彼の着るびろうどのようなローブは奇麗な臙脂色をしていた。鮮やかな紅ではなく落ち着いた、しかし存在感のある色。若者の雰囲気そのものを象徴しているかのようだ。
ややあって。
言葉を切り出したのは、若者のほうだった。
「この世界はいよいよ秩序を失おうとしている、と私は察する。……今回の事件、貴公はどう考えている?」
「事件だと? あれごときは些細なことよ。我が予期せぬ出来事というのは確かに過去にも存在した。だが、全ては我の力のうちに収まっている」
低い声を発した男は、鼻で笑う。傲慢な自信に満ちた声が、若者の感情を害したようだ。臙脂のフードに隠れて、表情は見えないが。
「力のうちに収まっている――それは増長というものだ。世界に歪みが生じたのは明らかだ。いずれそれはこの虚構の秩序を崩し、“太古の力”を――」
男は右手を差し出し、若者の言葉を制した。
「勘繰り過ぎだ、〈帳〉よ。事態は収拾し、全ては消え失せた。この世界は――フェル・アルムは不変だ。永久にな」
この二人は、お互いの放つ強大な威圧に向き合っている。それはある意味、静かな戦いとも言えた。
「……結局のところ、貴公は変わらず、か……」
〈帳〉と呼ばれた若者は哀しげに言った。
「だが、なぜなのか? かくも大きな出来事が起きたというのに、なぜそうも平然としていられる?!」
「我を取り巻く大いなる流れは、恒久に変わらぬゆえに、だ」
「その流れが、たとえ抗うことがあっても?」
「そのようなことなどありえぬな。全ては我のもと、掌中に収まっている」
「……どうやら、これ以上話していても無駄のようだな。いつかまた来るとしよう……」
言うなり若者は踵を返す。
「その時もお前の話は変わらぬだろう、そして我の答えも。――今までと同じだ、昔そう言ったようにな……」
その言葉を背中に聞きながら、若者は家を後にした。再び静寂が周囲を支配する。
大樹の外へと出た若者は、巨大な樹を仰ぎ見てつぶやく。
「貴公の言うように、何も変わらないかもしれない。だがあれこそが変動の兆しを示したもの、と私は感じるのだ。悲しいかな、力を失った私ひとりではどうにもならぬか……」
そう言って彼は大樹から立ち去った。
この対談が森で交わされたことは誰も知らない。そして彼らの存在すらも。
それから年月は十三年経つこととなる。
表向き、平穏のうちに。
二. 始まり
春。
スティンの山々から溶け出した雪が冬の間枯れていたクレン・ウールン河に流れ込み、その流域を潤して海へと至る。ウェスティンの地に眠る戦士達も、新たな生命を育んでいくその水によって慰められるだろう。
――あれから十三年の歳月が流れようとしている。中枢都市アヴィザノの暴動から始まった一連の騒動は、反逆組織“ニーヴル”を生み出すに至った。
ニーヴルという言葉は『否定』を意味するとされる。十三年前、帝都アヴィザノで暴動が勃発し、ニーヴルは国家に対して反旗を翻した。ニーヴルを鎮圧するために中枢の騎士達が動き、各地の人々もそれに呼応した。ウェスティンの地で両軍の総力を結集した戦いが繰り広げられ、そして決着がついた。
ニーヴルは滅亡し、フェル・アルムに平和が戻ったのだ。
だが、『痛手』というものはたやすく癒されるものではない。ウェスティンの決戦で双方あわせて何千、いや何万に至るかもしれない戦士が命を落としている。そして付近に点在していた村や集落も、戦いに巻き込まれて潰されていった。
大地も、人々も、その記憶をはっきりと刻み込んでいる。
春。
それはスティンに住む羊飼い達にとって、一年の始まりを意味する。冬の間、平野部で過ごしていた彼らが、羊達とともにスティン高原へと戻る季節。
高原へ戻った日、羊飼い達は宴を催すのが例年の習わしだ。これからの生活をお互いに励ますため、そして高原から遥か、ウェスティンの地を見て悲しみを分かち、死者を慰めるため。
この春は特に、世界各地で盛大に祭りが行われる。フェル・アルムが建国千年を迎えるからだ。
今から千年も昔、大地は混乱のきわみにあった。世界に秩序をもたらし、統治した人物こそユクツェルノイレである。
この世界――ただ一つの王国――は“フェル・アルム”、上古の言葉で言うところの〈永遠の千年〉と名づけられ、ユクツェルノイレは神君として世を統べた。
それから千年のながきを経た今も、帝都アヴィザノ北方にあるユクツェルノイレ湖の偉帝廟から、神君はフェル・アルムを見守っていると言われている。
建国千年を祝うこととなった羊飼い達の宴は、今までになく大規模である。彼らは近隣の村人や手のあいている警備兵にも声をかけて回った。今日は祭りのはじまり。日が暮れるにしたがい、宴はより盛大になっていった。火を囲んで歓談する大人達。弦楽器やフィドル、笛で音を奏でる者、それにあわせて踊りに、歌に興じる男と女。
その集まりから離れたところでは――切り立った場所から遠くを流れるクレン・ウールン河の流れを見下ろす少年がいた。そして、彼にふらふらと近づいていく少年。
[おーい、ルード!]
浅黒い肌をした少年が、ひざを抱えて座っている少年のところへ近づき話しかける。
[……んん?]
ルードは彼のほうを向かないまま、気のない返事をする。近づいてきた友人――ケルンも、ルードの呆けた返事を気にすることはない。座り込んでいるルードと、立ったままのケルン。彼らは姿勢を崩さないまま、輝く河の流れを、そして遙か彼方の赤い空を見やるのだった。
光を吸い込むルードの濃紺と、跳ね返すようなケルンの金髪。各々の髪は夕日を受け一層際立つ。
[ルードよお、お前もさぁ、酒飲んだかあ?]
陽気な口調でケルンは話しかけてくる。
[うん、ちょっとは、なぁ……]
髪留めでまとめられた後ろ髪を指で愛撫しながら、ちらとルードは親友の顔を見る。
[おいケルン、お前……相当飲んでないか?]
ケルンの顔は夕日に負けず、真っ赤だ。
[はっ、酒ってのはいいもんだなぁ! 景色だっていつもと違ってみえる。うーん、夕日ってのがこんなに奇麗なもんだったなんて初めて知ったぜ!]
[まあなぁ……]
ケルンのほうは見ず、膝を抱えたままの姿勢で、ルードは曖昧な返事をした。
[いやあ、なんでこんなに赤いんだろうなぁ?]
[さあ、なぜって訊かれても……なぁ]
さっきからやけに饒舌なケルンに対して、ルードは冷静そのものだった。物思いに耽っていたところを邪魔された、というせいかもしれない。
そんなこととはつゆ知らず、ケルンはルードの真後ろにどっかりと座り込み、話しはじめる。
[つれないなぁ。夕日が赤いって本当か? 昔からそうだったのか? 赤じゃなくて、ほかの色でもいいじゃないか。……何が言いたいかっていうとだ、例えばこの空が、別の色に突然変わっても不思議じゃないってことだよ]
[はあ?]
ケルンの謎めいた言葉にルードはついていけず、訝しげな表情を浮かべた。
[俺の言ってること、間違ってるか? お前なら……『見えないものが見える』とか言ってたお前なら、こんなことを話しても分かってもらえると思ったのによ]
[そんな昔の言葉を引っぱりだしてくるなよ……]
[でもさ、お前しかいないんだよ。俺の話を分かってくれそうなやつがさぁ……]
ケルンは大げさに落ち込む仕草をみせる。
[ああもう、分かったから! 話を聞いてやるよ]
その言葉を聞き、ケルンは目を輝かせた。酒が効いているのだろう、普段にもまして彼の表情は豊かだ。ケルンは嬉々としてしゃべり始めた。
[じゃあ聞いてくれよ! ええと、空の色の話だったよな? そう――神様ってのがいたとしてだ、その人が気まぐれで空の色を変えるかもしれないだろ? だから別に空が突然黄色になっても、俺はそんなもんかって感じでさ、驚かねえと思うぜ]
[うーん……取り止めもない話だなあ。それで、哲学者様は何が言いたいんだ?]
[だからぁ、今日までの常識ってやつが明日も通用するとは誰も分かんないってことよ!]
酒に酔った勢いに任せ、ケルンの説教はさらに続く。
[フェル・アルムが世界唯一の大地だって? 海の向こうに陸があったり、“果ての大地”をずーっと行ったところに国がある……ってのは、確かに言い伝えにはあるけどよ、誰も信じちゃいねえ。でもある時突然、そんな不思議なもんがひょっこり出てきたりすることだってあると思わねえか? 世間の大人達はなんで今の常識がずーっと続くなんて考えるかね? 俺達は世界の全部を見知ってるわけじゃないってのに。そういうとこでニーヴルの連中の考えも、ちょっとは同感出来るんだよなぁ]
ぞくり、と背筋が凍る。ケルンの言葉にルードは過敏に反応した。ニーヴルを肯定することは決して許されないのだ。こんなことを大人達に聞かれたら――!
ルードはケルンのまとまりない説教を止めさせよう、と思って後ろを振り返った。
――当のケルンは膝を抱えるようにして寝ていた。興奮気味にまくしたてて、酒が一気に体にまわったのだろう。
騒ぐだけ騒いでおいて勝手に寝るなよ。ルードはそんな表情でケルンを見る。
[まったく……]ひとりごちるルード。ケルンの今し方の言葉を、かつての自分自身に照らし合わせながら。
(『見えないものが見える』か。確かに俺は言ったさ。でも、そんなものは見えないんだ。……いつからか、見えないようになってしまったんだ)
ふとルードは、赤い陽光を横から浴びているスティンの山々を見た。まだ残雪があるものの、徐々に山は本来あった姿へ戻りつつある。あと半月もすれば山への立ち入りが許可される。山は狩りの場であり、少年達の小さな冒険の場でもあるのだ。
ルードは、自分の身にいずれ起きる事態を知らない。
ルード・テルタージ。高原の麓ラスカソ村に住む十七歳の少年である。北方人――ライキフびとの典型として肌の色は白いほうで、青みがかった黒い髪を持っている。
彼は子供の頃、クレン・ウールン河流域の小さな村に住んでおり、両親と三人でつつましく暮らしていた。
しかし、十三年前のフェル・アルムとニーヴルとの戦いに村は巻き込まれ、戦場と化した。父親のヤールは村の男達とともに村を守るため槍を持って家を後にし、そして再びルード達のもとに帰ることはなかった。
数週間が過ぎ、悲しみのなか母親のリレエは決断をする。スティン高原で羊飼いをしている彼女の弟のもとに身を寄せよう、と。実際、村は酷い有り様で、もはやそこに再び居を構えようなどと考えている者は無いに等しかった。それほどまでに彼らの心は打ちのめされたのだ。
数百年のながきにわたり平穏であったフェル・アルム。それが破られた衝撃と、自らが戦争の被害者となってしまったという酷な事実を癒すには時間に頼るしかない。いかに住み慣れた土地とはいえ、目の当たりにする現実に立ち向かえるほど、彼らは強くなかった。
リレエの弟、ディドル・ナッシュはヤールの死を悼み、そして快く彼ら母子を迎え入れてくれた。悲しむべきことにリレエはそれから半年後、風邪をこじらせて逝去するが、ナッシュ一家は残されたルードをそれまで以上に可愛がるようになる――まるで自分達の本当の息子のように。
ディドルには妻のニノと娘のミューティースがいる。いついかなる時も彼らはルードを支えてくれた。今、こうして自分がいるのも彼らナッシュの人々が自分の家族となってくれたからだ、とルードは素直に思っている。
ルードが他人に見えないものを感じるようになったのは、八歳くらいからであった。自分の立っている地面の遙か下で何かがうごめくような感覚を覚えたり、風もなく周囲に何もないはずなのに音が聞こえたり――そんなことが年に数回あった。だが、それを信じてくれる人はいなかった。みな一笑に付して『そんなことはない』と言うばかり。真面目に聞いてくれるのは従姉のミューティースやケルンくらいだった。
とは言え、多くの人は否定したため、ルードもその不思議な体験を人に話さなくなった。そして彼しか感じなかったものも、何年か前からぷっつりと途絶えた。
[なんだぁ? ケルンのやつ、こんなとこで寝てんのかよ]
聞き覚えのある野太い声がしたのでルードはふと我に返り、右に首を向けた。
コプス村のシャンピオだ。普段スティンの村々とサラムレの間で旅商をしている彼は、ルードとはひとまわりほど年が離れているものの、よき友人である。彼はまだ所帯を持つ気ではないらしい。奔放な彼のことだ、女性に対して自由でいたいのだろう。彼自身もそのようなことをほのめかしていた。
シャンピオの隣には、彼と同じくらいの年齢の若者が、両手でタールを抱えて立っていた。乳白色をしたゆったりめの上衣とそれに溶け込むような肌。ぴっちりとした、それでいて動きやすさを第一に考えているような白いズボン。癖がありながらも奇麗な黄金の髪は多少長めであり、彼の服装から醸し出される雰囲気に調和していた。
[シャンピオ! 帰ってきてたんだ。……そうだ、ケルンを一緒に運んでくれないか? 酒がまわってこの有り様だよ]
見たことのない青年を気にしながらも、ルードは久しぶりに会う友人に声をかけた。
[おお、ここから突き落としゃ、びっくりしてこいつの酔いも覚めるだろうよ]
シャンピオも浮かれている。仕事から解放され、久しぶりに故郷に帰れたのが嬉しいのだろう。
[あのなぁ]
[はっはっは、冗談だって。まあ、こいつも相当飲んでたからなあ。……俺達もこいつに飲ませ過ぎたかな? ……それじゃあケルンの家まで運ぶとするか]
結局、シャンピオ一人でケルンをおぶっていくことになった。そのほうが運びやすい、とシャンピオが言ったからだ。
ケルンもまた戦災孤児で、昔はスティン高原から東南にあたるセル周辺に住んでいたが、やはり十三年前、スティンに住む親戚を頼ることになったのだ。
祭りの輪から遠ざかっていく。周囲はところどころに岩のあるような草原だ。そこから少し丘を下ったところに一軒の家がある。スティン杉で出来たその家が、ケルンの育った家だ。ルードの家もそこからほど遠くないところにある。ケルンの家に連れて行く途中、シャンピオはルードに話しかけた。
[……こいつも重くなったなぁ、ちょっと前まではちびだったのになあ。お前も、ケルンも]
[はははっ……なんかさ、シャンピオって、会うたびにそんなこと言ってるよな]
シャンピオの右隣にいるルードは笑って答えた。
[そうかあ?]シャンピオが言う。
[俺達、いつまでも子供じゃないんだぜ?]とルード。
[うん。でもなあ、やっぱり昔の時の印象っていうのがあるからなあ。どうも驚いちまうんだよ、こいつがこんなにでかくなりやがって、ってな!]
シャンピオが明るく話してくれるおかげで、先ほどまでいささか気が沈んでいたルードも、彼本来の元気を取り戻した。
[でも、やんちゃぶりは相変わらずなようだな?]
そう言ってシャンピオは笑った。
[やんちゃだって? そんな無茶ないたずらは、ここ最近してないぜ?]
少しすねた口調で、ルードは冗談交じりに反論する。
[……なあ、この半年見かけなかったけど、どこに行ってたんだよ?]ルードはシャンピオに尋ねた。
[この冬はアヴィザノとカラファーの間で交易をしていたな。カラファーの毛皮が今年は特にいい出来でな。さらにカラファー銅も積み込んで……ずいぶんと儲けさせてもらったぜ]
シャンピオが答えた。
[へえ、でもアヴィザノからカラファーまでか。また結構な長旅なんだなあ?]
[そうだな……移動だけで片道一週間はゆうにかかっちまう。セルの山も越えなきゃならんしな。でも、それだけの苦労があるからこそ、たんまり儲けられるってわけよ]
[それをたったひとりでやってたのか?]
[まさか。行商の場合、数人の商人が隊を組んで、さらに護衛を雇っていくのが普通さ。野盗なんぞに襲われでもしたらたまらないからな。……おお、それで今回の俺達を助けてくれたのが――彼さ]
そう言ってシャンピオは、彼の後ろを歩きながらタールの弦をつま弾いている人物を紹介した。
[えっ、あなた……戦士だったんですか?]
ルードは感嘆の声をあげた。彼は細身で、しかもタールを弾いているものだから、吟遊詩人とばかり思っていたのだ。
ルードは戦士というものに対し、あまり良い印象をもっていない。今でも時として自分が剣を握ることを恐れるふしがある。村と父親を失った幼い日の記憶が、未だ奥底に残っているのだ。
[うーん……、やっぱりそうは見えないかな?]
青年は碧眼でルードを見ると、奇麗な声を発した。優雅さを持ちながらも、シャンピオと同じような優しさを感じさせる――青年の声色は日溜まりを想起させた。
[まあ、そう見えてもしかたないか。僕は護衛を主とする戦士だよ。……あ、もちろんこんな楽器を持ってるわけだから、タール弾きも生業としているんだけどねえ]
どちらかというとゆっくりめに言葉を紡ぐ彼。一見、とても戦士とは思えないが、人は見かけによらないということか。
[すっすみません! ……あ、俺はルード……ルード・テルタージ、って言います]
[ああ、べつにいいよ、そんなに気を遣わなくてさ。時々自分でもどっちが本職なのか分かんなくなるからね。……ルード君、だよね。僕はティアー・ハーンというんだ]
[ええと、……ティアーさん?]
[ハーン、でいいよ。そっちのほうが名前なんだよ]
[それってさ、本名なの?]
[姓が後につくなんて変わってる、ってよく言われるんだよ……実際めったにいないだろうしね]
奇妙な名前を持つ若者は悠長に答えると、またタールを弾きはじめた。ハーンの指はタールの弦の上を滑らかに動く。楽器自体もよく見かけるものに比べると弦の数が多く、大きい。何より、細長い板のような奇妙な形をしている。本来それは座して演奏するものなのだろう。素人目でも使いこなすには相当の修練が必要なものだと分かる。
そしてタールから奏でられるゆったりとした美しい旋律は、ルード達を魅了した。音色に惹きつけられたルードとシャンピオは話すことも無く、音の波の中に身を委ねるのだった。
ケルンの家に着き、彼をベッドに寝かせた後、三人は祭りの中に戻ることにした。
ルードはシャンピオの旅の話を、そして不思議な感じを抱かせるハーンの話をもっと聞きたい、と彼らに告げた。もちろんシャンピオ達はそれを喜んだ。
[おお、俺もお前と話がしたいと思ってたとこなんだ。……しかしだなぁ、俺らと話していたら、朝までかかっちまうかもしれない。そんな長い話を何もなしじゃあもったいない。……だからお前も……]
[俺も?]とルード。
[酒を飲め!]シャンピオはにいっと笑ってルードを見る。
[……ちぇ、しようがないなあ……分かったよ!]
ルードが言うと、シャンピオはぽん、と彼の背中を叩く。そして三人は火を囲む羊飼い達の輪に入っていくのだった。
ミューティースら若者の演奏するフィドルや笛にあわせて、ハーンはタールでさまざまな和音を重ねていく。その横で杯を持ちながら語りあうルードとシャンピオ。音楽や喧騒は夜になってさらに大きいものになっていく。
春の祭り。
それは一年の始まりの祭典。
羊飼い達はそれから何を感じるのか。ルードはシャンピオやハーンの話から何を得るのか。
赤々と彼らの顔を照らし出す炎は、自らの火の粉を星空に放り上げるだけだった。
第一章 銀髪の少女
(落ちていく……)
(ちょっと無茶したよね……)
(「風」も助けを聞き入れてくれなかった)
(わたしの力だけじゃあ……もう……)
(……飛ぶのは……生きてかえるのは……)
(無理……よね……)
(……でも、絶対に……死にたくなんかない!)
少女は気付いた。
誰かが自分の体に触れる感じ。
膨大な量の何かが頭の中へと流れ込んでくる感じ。
そして見た。
まばゆい光の球が彼女の身体を中心に、外へ外へと膨らんでいくのを。
運命は廻りはじめる。
誰が意図することなく、自然に。
一.
三日三晩続いた祭りから一ヶ月が過ぎようとしていた。
高原で生活するのは羊飼い達とその家族で、あとの者は麓の村々で暮らす。麓までは徒歩で不便を感じない距離なのだ。
ルードやケルンは羊飼いとしての暮らしを再開している。シャンピオはというと、数日前にコプス村とベケット村の物産を馬に積んでサラムレへと出かけていった。
水の街サラムレは、北方と南部の中枢域とを結ぶフェル・アルム中部の街だ。そして年に一回行われる武術会があることでも知られている。
ルードはハーンにまた驚かされた。
なんと彼は、武術会で三回も準決勝まで勝ち進んだというのだ。まさかハーンがそんなに強い人だったとは、細身の外見からは想像が出来なかった。まだ優勝したことがないのをハーンはしきりに残念がっていた。
そのハーンも今はもう村にはいない。祭りが終わったあとも二日ほど滞在し、タールの調べを近隣の村々で披露していたらしいが、その後クロンの宿りへとひとり旅立ったのだ。
北の町、クロンの宿りは、サラムレとダシュニーを結ぶルシェン街道沿いにある。便の良さゆえに二百年ほど前から人々が集まりだし、数十年前からは小さな町を形成するに至っている。
[クロンの宿りには僕の家みたいなもんがあってさ。しばらくはそこにいるよ。もちろん、隊商の護衛の仕事が入ったならそっちへ行っちゃうけどね]
そう言って眠そうな目をこすり、宿酔の頭を抱えながら馬の鞍にまたぎ、村をあとにしたハーンを、ルードはよく覚えている。そんななりを見て、不思議な人だ、という印象を強くしたのだった。普段は戦士の雰囲気をまったく感じさせないが、戦いの場となれば秘めた力を露わにする、そんな性格なのだろう。
それから一ヶ月。ルードは再び緩慢ともいえるほどの平穏さの中に身を置いていた。
“その日”が来るまでは。
* * *
[でえい、くそぉっ!]
ルードは顔をしかめ、短剣で自分の行く手を遮る草を苛立たしげに薙ぎ払った。あたりは高い木に囲まれ、自分がどこにいるのか見当もつかない。
その日ルードは友人達と、スティンの山々の一つ、ムニケスへとやって来ていた。高原から最も近いこの山は、昔から少年達の遊び場だ。狩りという実益も兼ねており、年上の者の忠告を聞いていればまず安全な場所だ。迷った時のみんなへの報告の方法、獲物を見つけた時の対処の方法、木になっている果実のうちどれが食べられるか――年下の者達は年上の者達に色々と教えてもらっていた。
この日の冒険も、いつもどおり終わるはずだった。だが帰る途中でルードがウサギを見つけ、ケルンの制止も聞かずに追いかけ回したのがいけなかったのだ。結果、彼はひとり道に迷ってしまった。子供の頃から何回もムニケスに来ているのだから自分はひとりでも大丈夫だ、という思い上がりが足下をすくい、そして今のにっちもさっちもいかない状況に至っている。
春を迎えたとはいえ山の気候はまだまだ冷涼としている。それなのにルードの顔には汗が流れ、まっすぐな濃紺の髪がはり付く。それは彼のこれまでの苦労を描いているようだった。しかし、どんなに歩いても事態はいっこうに良くなる気配を見せない。
疲れ果てたルードはついに歩くのを止め、近くにあった切り株大の岩にどすんと腰をかけた。二刻はゆうに歩いたはずだが、ルードがさまよっているのは未だに、草木がうっそうと茂った山のなかである。けもの道すら周囲には存在しない。あるのはただ樹木と、草、草、草――。
ルードは大きくため息をはく。
(みんな心配してるんだろうなぁ)
歩いている最中、何度も頭をよぎった思いが今さらながら強くのしかかる。
どこからか吹いてくる木々の匂いを含んだ風が、汗を拭い去る。ルードは岩肌に両手を置き、天を仰ぐような姿勢で呆然としていた。しばらくそうやっていた彼だが、やおら立ち上がり、地面に横たえていた短剣を腰の鞘に戻す。
[ええい、行くぞルード!]
大声で喝を入れ、再び歩きはじめる。誰かが今の声を聞いていてくれないか、そんな期待もどこかに持っていたが、そううまく運ぶはずもなかった。
それから茂みの中を一刻ほど歩いただろうか。ルードは日が完全に傾いているのを感じていた。じき夕暮れを迎える。それまでに何としても自分の知っている所に着かなければ――!
ルードは夜の山を知らない。大人の羊飼いや木こり、猟師達すらも夜にはめったに近づこうとはしない。どんな獰猛な動物が徘徊しているのか分かったものではないし、暗がりの中では足下もおぼつかない。足場が崩れるような危険な所にいつ入り込んでしまうか知れない。
そういう現実的な怖さと、そしてルードが小さい時に聞かされた、現実ではあり得ないような怖い話。その二つが交互にルードの胸に去来し、彼は自然と足を速めるのだった。
ふと、彼の耳にそれまでとは違う音が入り込んできた。囁くような、そして透明感のある音。
(これは……水の音? ……川のせせらぎか?)
やがてその囁きは、ぶつかるような激しい音へと変貌した。
(滝だ!)
ルードは疲れを忘れたように走り出した。自分が知っている滝の場所からなら、失った方向感覚もよみがえるだろう。川の流れを辿って、ムニケスを降りられればなおよい。木々の隙間からは、ちらちらと小川の流れが見える。そしてルードはついに、開けた場所へと出た。
いくつもの大岩に囲まれた開けた場所。岩の頂からはごうごうと音を立てて滝が流れ落ちている。そこから水がしぶき飛び、周囲を冷やす。そして川の向こう岸は、ルードにとって憶えのある情景だった。
[よかった。ここは“大岩の滝”だ!]
ルードは安堵した。ここは五年前はじめて、シャンピオと来た所だ。ルードにとって最初の冒険だったため、この場所は印象深い。森という閉鎖された空間から解放される場所だ。それからたびたび足を運ぶようになっている。ここからなら半刻もあれば村に帰れる。彼は陰々滅々とした気分から、ようやく解放された。
冷涼な風が滝壷のほうからそよいできている。ルードはその心地の良い風を肌に感じながら、川岸のほうへと歩を進めた。せせらぎに手を浸すと、雪解けの水はやはり冷たい。ルードは水をすくって、汗まみれとなった顔を洗い、清水を飲んだ。十分過ぎるほど川の水を飲んだルードは靴の紐をゆるめ、分厚く大きい靴を脱いだ。
[ひゃあ!]
両足を川に浸したルードはその冷たさに思わず声をあげた。ルードは疲れが癒されていくのを感じた。
しばらく裸足のままで川岸に座っていたが、やがて彼はのろのろと靴を履き、おもむろに立ち上がった。軽い足取りで岩をまたいで川を越えて、馴染みの路を歩き出した。このまましばらく行けば開けた野原に出る。
(そこでちょっと休んで……帰ろうっと!)
ルードは手近にあった木の枝を三本折り、道の真ん中に突き立てると、その周りを小石で囲んだ。年上から教わった『迷ったけれども無事に帰っている』という合図だ。ケルン達もこれで安心するだろう。この路を通って降りてくるのは間違いないのだから。
[ふうっ……]とため息一つ。
[……ずいぶんと迷惑かけちゃった、だろうなぁ]
合図をつくり終えた彼はつぶやき、再び歩き出した。
* * *
野原には、高原の春をつかさどるさまざまな種類の花が咲きこぼれていた。休息を取る場所としては格好だ。夕方まで少し時間がある。ここで待っていればケルン達に会えて、その場で謝れる。
そう思い、座りこもうとした時――彼は今まで感じたことのない、まったく奇妙な感覚にとらわれた。
[な、何なんだ?]
不安と期待と恐怖と暖かさとが混在した、何とも言えない感覚だった。彼は周囲を見る。そう離れていない所に、人が仰向けに倒れているのが見えた。彼の足は自然とそちらに向いた。
それは、少女だ。
だがルードには、彼女がただ単に倒れている、というようには見えなかった。不自然なことに、彼女の衣服と髪の毛は上に向かってなびいている。その違和感に惹かれるように、ルードはふらふらと近づいていく。
(髪の毛が銀色だ……)
ルードは少女のすぐ側までやってきた。そこで彼は気付いた。少女の周囲の空間が、尋常ならざるものだということに。
『空』。
――全く何もないもの。その空間は、まさにそれだった。あたりの風景をいびつに歪めて存在する『虚空』。
そして、全ての風景は変貌した!
(な……に!?)
とっさ、状況が飲み込めなかった。周囲の景色が野原から一変し、別の場所となっていたのだ。次にルードは、自分の足が地面と接していないのを知った。落下しているのだ!
激流のように上へ上へと流れていくのは岩の壁。遥か下に広がるのは漆黒の闇。何も見えない。こんな場所はルードの記憶にはない。唯一確かなことは、奈落の底へ向けて落ちていっている、ということ。その先にあるのは――死。
[おわぁっ!]
状況を現実のものと飲み込んだ時、ルードはようやく悲鳴をあげた。死の恐怖が彼を包みこむ。それと相反するように、自分が生きているという証拠――全身をものすごい勢いで流れる血潮を感じた。
(もう……だめだ!)
そう思った刹那、流れゆくあらゆるものが、緩慢に見てとれるようになった。
ルードの真横には、あの少女がいた。わずかに紫がかった銀色の髪。気を失っているのだろうか、両の目は閉じられているが、ややあどけなさの残る端正な顔をしていた。服は清楚な感じのする淡い空色の上衣と、その下に着ている赤紫色の服。袖と皮ベルトの部分は、深く奇麗な赤紫をしている。そしてすらりと伸びた肢体。肌はルードより白い。
ルードは詳細に彼女の容姿を見てとった。
(きれいだ……な)
彼の右手が彼女の腕をとらえようと伸びる。意識が薄れていくのを感じながらも、彼の右手は少女の腕をつかんだ。
瞬間!
太陽を百も集め、一点に凝縮したかのような閃光がはじけ、二人を包んでなお膨らんでいく。ルードの身体に、さまざまなものが洪水のごとく襲い掛かってきた。――彼の見た情景。彼の知らない情景。存在しうるあらゆる種類の音。五感全てを洗い流そうかとする、膨大な情報の波――。光の玉に包まれたルードは、忘却の世界の彼方へと赴いていくのだった。
* * *
ルードは夢を見ていた。四肢の感覚が無く、意識が薄れている中にありながらも、これは夢だと自覚した。
[ルード!]
親しい声が彼を呼んだので、ルードはそのほうを振り向いた。森に囲まれた野原の入り口でケルンが待っていた。
[ほら、あれを見てみな]
ケルンの指差す先は崖となっており、そこからクレン・ウールン河の流れゆくさまと、その先の海、一日の寿命を終わらせようとしている真っ赤な太陽が見て取れた。赤い陽は彼らのいる草原まで朱に染めている。ルードはこの風景を眼前に収めようと、崖のほうまで近づいていった。いつのまにか周囲の森は消え失せた。
[どうだ、やっぱり奇麗なもんだろ、夕日ってのはよ!]
ケルンは今度は崖の前に立っていた。ルードの従姉のミューティースがケルンの横にいた。
[ほんと、どうしてこんな見事に赤いんだろうな!]
ルードも素直に感想を洩らす。
[もし夕日が赤くなかったら、どう思う?]
[そうだな。例えば夕日が、緑色になったりしたら気味が悪いよな。……でもさ。本当に夕日の色が緑色になったとしても、俺は不思議だとは思わないぜ。だって常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も絶対に通用するなんて、誰も分かんないさ]
ルードはケルン達に答えた。
その途端、視界一面に濃い霧がかかったかのように、ケルン達の輪郭がぼやけて来た。やがて全ての様相は交じり合い、一つの色をなす。それは混じり気無しの白。その白い世界の中、やがてルードはひとりいるのに気付いた。
ぷつりと、ルードの夢は途切れた。彼の身体は白一色の世界の中を飛んでいく。廻りはじめた運命とともに。
二.
ルードはゆっくりと目を開けた。そこは先刻の野原でも、崖でもなかった。
彼は荒野に横たわっていた。顔を少し動かすと山の連なりが霞んで見えた。首を戻すと、太陽が真上に見えている。そしてルードは、先ほどのケルン達との会話が夢であったのを知った。
ルードはゆっくりと身を起こした。右手が何かをつかんでいるようだ。見てみると、彼の手はあの少女の華奢な腕をつかんでいたのだった。ルードがゆっくりと彼女から手を放す。と、ぼんやりしていた意識がようやく目覚めた。
(ここはどこなんだ? なんで俺、こんなところにいるんだ? 生きているのか? 崖から落ちていたはずなのに? 大体、なんであんなことになったんだ? それに、この娘は一体?)
その時ふと、彼の頭の中に抽象的なイメージが閃いた。それは次第に形を成し、やがて言葉となる。それは夢の中でルード自身が語った一節だ。
『……常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も通用するなんて、誰も分かんないさ……』
それからルードは、今までのことをゆっくりと考え直した。
――突然、野原に異質な空間が出現し、自分はその中に入り込んでしまった。そして、その空間にいた少女に触れたことで、さらにそこから転移した――
そう納得するほかなかった。おとぎ話のようなことだが、今までの体験は紛れもなく現実に起きたことだ。自分はまったく違う場所にいるし、謎めいた少女は隣に倒れている。
(そうだ、この娘は……)ルードは銀髪の少女を見た。
(どこの地方の人なんだろうか? いや、見たこと無いよな。こんな髪の色は……)
銀髪。それはフェル・アルムではありえない髪の色なのだ。
フェル・アルム人の髪の色は二種類に分けられる。ルードのような北方の民の青みがかった黒と、ケルンのような南方の民の金。年を取り髪が白くなれば、人によっては銀色に見えることはある。
だが、この少女は違う。淡く紫がかった、繊細で奇麗な銀色をしているのだ。肩甲骨のあたりまで伸びた彼女の髪は、正午の光と穏やかな風を受けて時折きらきらと輝いた。
[ねえ、おい、ちょっと……ってば]
ルードは彼女の横でひざまずき、目を閉じたままの彼女の顔に向かってそっと声をかける。
(まさか、死んじまってるのかな……)
ルードは、少女の両肩に恐る恐る手をまわした。彼女のふわっとした暖かい肌の感触と穏やかな息遣いとをルードは感じた。彼女の身体を軽く揺さぶりながら、もう一度話しかけてみた。
彼女は小さくうめき、ゆっくりと目を開けた。
ルードは、彼女の瞳に吸い寄せられるような感じを覚えた。底知れない奥深さを感じさせるその色は、翡翠。ルードの顔がその瞳に映っているのが分かるほど奇麗だった。
(可愛い女、だな……)ルードは素直に感じた。 当の少女は、ぼうっとした虚ろな表情でルードを見ていたが――。彼女の顔に意志がよみがえるやいなや、途端に表情を変え、怪訝そうな顔で彼を見やる。
そして彼女は立ち上がり、大声で叫んだ!
[わわっ?!]
ルードはびっくりし、尻込みした。少女のほうもよほど驚いたのか、口から発するものが言葉になっていないようだ。
[大丈夫だって! 俺は何もしやしないよ!]
ルードは立ち上がると両腕を横に広げ、半ば錯乱していると思われる少女に語りかけた。
ルードの言葉を聞いた彼女は叫ぶのを止め、次にきょとんとした顔でルードをじっと見る。構えた姿勢をやや戻して。
[大丈夫]ルードは優しく言った。少女のほうは、多少警戒を解いたようだが、なおも不思議そうな顔をしている。
[いやね、君が驚くのも分かるよ。けどさ、俺だってわけ分かんないうちに、こんな所に来ちゃったんだ]
緑色の少女の目を見ながら、ルードは笑みをつくって話しかける。少女は一切の言葉を口に出さない。まいったな、と思いつつも軽く苦笑してルードは言葉を続けた。
[俺はルード。ルード・テルタージっていうんだ。スティン高原で羊飼いをやってる。まだ一人前じゃないけどね。……君はなんていうんだい?]
そう言うルードの脳裏に、ある状況が浮かび上がる。それは、怯える羊をなだめようとするルードだった。
(まさにそれだよな、……今の俺って)
しかし、いっこうに少女はしゃべろうとしない。ルードは不安になってきた。この少女は一体何者なのだろう?
そんな折、ようやく彼女の口が開いた。
……あ……う……
ルードが聞き取れたのはそれだけだった。ルードに訴えかけるような、そんな切実な表情をしている。再び、彼女は何か声を出そうとしたが、口を閉ざし、表情を曇らせた。
(もしやしゃべることが出来ないのか、この娘は。それとも、さっきのショックで言葉を失ったのか)
ルードはそう思い、半ばひとり言のように話しはじめる。彼女に対する笑みは崩さないが。
[さあて、っと! ここはどこなんだろうな? あそこの山がスティン山地だとすると……太陽の位置からして、今はその北の平野にいるのかな? ということは、だ。どこかにクロンの宿りとダシュニーを結ぶ街道があるはずだよな]
ルードはゆっくりと歩き出し、振り返って少女に自分の歩く方向を指し示す。
[とりあえず歩こう! な、街道に出れば何とかなるさ!]
少女に対してもう一度意思を込めて身振りを示し、ルードは歩き出した。少女は彼の数歩あとからついてきた。
それからしばらく経った。お互い無言のまま、ただ歩く。
ルードにとってその沈黙は耐え難いものだった。連れているのは、謎めいた銀髪の少女。ますます不安感が募ってくる。だが、この少女を放っておくなど出来なかった。彼女を怪しむ気持ちと同時に、彼女に惹かれる気持ちも存在したからだ。
先ほどルードが口にしたように、ここがスティン北の平野なのかさえ、実は彼自身怪しかった。少なくとも、彼女と接触する前――野原にいた頃とは違う時間に彼らはいるということだけは確かだ。だが、あとはまったく分からない。どことも知れない場所で、ただうろつきまわっているに過ぎない。だが、この荒野に突っ立っていた所でどうしようもない。よりよい方向にことを運ぶには歩くしかなかった。
歩き疲れた頃、二人は人の手によって整備された街道に出た。道端には杉板に書かれた道標が立っており、分岐後このまま一メグフィーレほど道なりに進めば、クロンの宿りに到着することが書かれていた。
ルードはまず、ここが自分の知っている大地であることにほっとした。もし本当に異次元の世界だったら、彼にはなすすべもなかっただろう。ここがスティン北の平野と分かった今、早いところ高原へ戻らなければならない。
[まずはクロンの宿りに行こう。俺はこの後、スティンの村に戻るけど、君はどうする?]
ルードは少女に話しかけるが、やはり彼女からの言葉は返ってこない。少女は道標の前に立ち、それを凝視したままだった。彼女は嘆息を吐き、ゆっくりとルードのほうへ首を向ける。その表情は心なしか寂しさを感じさせるものだった。
ルードは自分が進む方向を指差しながら言った。
[とにかく、こっちへ行こう。一緒に高原へ戻るかい? 君と会ったのがムニケスの麓だったから、村に行けば君がどこの誰なのか、分かるかもしれないしね]
果たして身元が分かるとは思えないが、一言もしゃべらないこの少女を放っておくわけにもいかなかった。
三.
クロンの宿りの入り口には、石造りの監視塔が立てられており、不審者の侵入を防いでいる。ここにルード達が辿り着いたのは、太陽が少し西に傾き始めた頃だった。
相変わらず彼らは一言も言葉を交わさなかったが、二人はようやく安堵の表情を浮かべ、お互いを見て少し笑いあった。だが同時に彼らはへとへとに疲れ果てていた。少女はすでに息切れしている状態だったし、ルードはムニケス登山からずっと歩きっぱなしであったため、すこしでも気を許すと倒れてしまいそうだった。
そんな二人の様子を見ていた塔の衛兵は、ルード達が塔の前に着くなり歩み寄って来た。
[なあおい、大丈夫か?! 随分と長いこと歩いて来たように見受けられるが……]
中背で鬚面の衛兵がルードに話しかける。
[……え、……ああ、そうなんですよぉ……]
気がゆるんだルードはふっと意識を無くし、倒れかけた。衛兵は慌てて彼を受け止めると、ルードの肩を担いで塔の中へと誘導した。
* * *
(……)
(……ここはどこなんだろう。わたしが知らない場所……)
(なんでこんなところにいるの? 確かに崖から――)
(それに、この人は……誰?)
聞こえてくる声は夢の中の声か。夢うつつにそう思いながら、ルードは目を覚ました。彼は衛兵に運ばれ、控え室のベッドに寝かされていた。長いこと眠っていたようにも感じられたが、実際にはそうではなく、石造りの窓から差し込む陽光から察するところまだ夕方前であった。 ふと横を見ると、あの少女がルードと同じようにベッドに横になっていた。今し方目を覚ましたところなのだろう、彼女は少々眠そうな目でルードの顔を見返した。
(この人……どんな人なんだろう? わたしを助けてくれた……とりあえず悪い人じゃあなさそうね)
ルードは確かにそう聞いた。だがそれは言葉としてではなく、頭の中に直接響いてきたのだ。今し方、夢を見ていた彼に聞こえて来た声と同じ、澄んだ可憐な少女の声。ルードはむくりと上半身を起こすと恐る恐る少女に声をかける。
[今……君が言ったのか?]
少女は横になったまま、目をしばたかせると不思議そうな表情を浮かべ、ルードを見つめる。
(まさか、この人に聞こえたの?! ……でも、この人は何を言ってるの? 言葉が全然分からないなんて……)
ルードの頭の中に再び〈声〉が響いてきた。
[俺が何を言っているのかが分からない、ってことかい?]
ルードは再び尋ね返す。だが、いくら待っても〈内なる声〉は聞こえてこなかった。
[俺はルード、ルード・テルタージっていうんだ]
ルードは右の掌で自分の胸を何回か軽く叩き、自らを彼女に訴えた。
少女は身を起こし、ルードのほうを向いてベッドに腰掛けた。そしてゆっくり人差し指を彼に向け、小さな唇を開いた。
……ルード?
その言葉を聞き、ルードは微笑み、[そう、俺はルードだ]と答えた。[君は? 何ていうのかな?]
ルードは彼女に指を向けた。それを見た少女は掌で胸をそっと押さえ、それからルードに聞き返すような表情をした。何を意味するのかが分かったルードは、小さくうなずいた。
[そう。君の名だよ]
……ライカ……。ライカ・シートゥレイ……
少女はやや小さな声でルードに名乗った。
[……ライカ……か]
ライカと名乗った少女は、小さく首を縦に振った。
[ねえライカ、俺の言ってることは、やっぱり分からないか?]
そう言っても、ライカはきょとんとした顔でルードを見ているだけだ。小さく息をつくとルードはベッドから起き上がり、背伸びをしてベッドに腰掛けた。
[……そっか。まあ、いいや。さっきみたいに何かの拍子に話しが出来るかもしれないしな!]
[おっ、二人とも、目が覚めたか!]
ルードが振り向くと、若い兵士が扉の縁に立っていた。
* * *
部屋を出た後、ルード達は彼らを最初に介抱した中年の衛兵にいくつか質問された。ルードは自分達の身に起きた不思議な出来事は伏せつつ、衛兵に答えた。彼ら衛兵が警戒しているのは野盗や密売人といった類の連中である。だが衛兵にとってルード達はとてもそんなふうには見えなかった。
ベクトと名乗った若い衛兵が、ルード達の寝ていた一室を今晩の宿として提供してもよい、と言ってくれたので、ルードはその申し出に感謝し、一晩ここで泊まることにした。ベクトから聞くところ、ルードがムニケスに登ってからすでに一日が経過している、ということも分かった。
ルードとライカは塔を後にし、宿と商店が建ち並ぶ町の中へ入っていった。夕方ということもあり人の往来が多く、町はこみごみとした様相を呈している。
ルードは、祭りの時スティンの村に滞在していたタール弾きの戦士、ティアー・ハーンを探すことを思いついた。すでに見知っているハーンになら、彼は全てを話せると思った。それにひょっとしたらハーンは自分達を助けてくれるかもしれない、と期待したのだ。
塔にいた若い衛兵がハーンの名を知っており、もし彼がクロンの宿りに戻っているなら、夕方頃は町の西のほうの広場でタールを弾いているはずだ、と教えてくれた。
ハーンがここにまだ滞在していることを祈りつつも、ルード達は広場へと向かった。町のあちこちから夕方の喧騒が聞こえてくる。そんな中、タールの確かな旋律がルードの耳に入ってきた。音色は、藤の蔓が絡んだアーチの向こう側、煉瓦造りの小ぢんまりとした建物から聞こえてくるようだった。
そこは赤い煉瓦に相反するように〈緑の浜〉という看板の掲げられた小さな宿屋だ。ルードは分厚い木の扉を開けた。
玄関は休憩所を兼ねていた。落ち着いた趣のあるその空間にはソファーが二つ置かれている。庶民的でありながらも品がよく、居心地のよさそうな宿だ。
そしてソファーに深く腰掛けてタールを弾いている、長身の青年の姿があった。ティアー・ハーンである。ハーンはうつむき、例の大きなタールを見つめながらつま弾いていたので、ルード達に最初は気付かなかった。しかし演奏に一段落がつくとおもむろに顔を上げ、ルードの姿を認めて笑みを浮かべた。彼はタールをソファーに置いて立ち上がった。
[あれ? ……えーと、君は確か……ルードかい?]
[久しぶり、ハーン!]
ルードは安堵の笑みを隠せなかった。ルードはハーンとの再会を祝って握手を交わした。そしてハーンは、扉のところでたたずんでいる少女に気付いたようだ。
[ここまで来るなんてどうしたのさ? スティンからかなりあるのに……まさか、あの娘と駆け落ち、とか?]
ハーンは小声で揶揄した。
[ちっ、違うってば! ……と、とにかく! あなたがいてくれてよかったよ]
少々動揺するルードを見てハーンは微笑すると、彼らにソファーに座るよう促した。ライカもルードの手振りで招かれ、ルードの隣に、ハーンから隠れるように座った。
[大丈夫だって、ハーンは信じてもいい人だよ]
ルードは落ち着いて話し、ライカの警戒心を解こうとした。ライカに意思が通じたのか、ハーンに軽くお辞儀をする。
[ああ、どうもこんにちは。僕はこのとおり――]
ハーンは右腕で抱えているタールを鳴らしてみせる。
[ハーン。タール弾きのティアー・ハーンだよ]
……ハーン……
確かめるような口調でライカが声を出す。
[へえ。可愛い子だねえ、ルード以外にはちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな、君の恋人は]
喉でくっくっと笑い、ルードを再度揶揄するハーン。
[……だからそうじゃないっての……。ああ、それであなたはずっとここにいたのかい?]
[……あらら、話題を切り換えされちゃったなぁ、まあいいや。ええとね、そうでもないんだ。ダシュニーとカラファーの間で隊商の護衛の仕事が二回入って、三週間ばかり留守にしていてね。やっと昨日帰って来たばかりなんだよ]
[そうか、いや、よかったよ、帰って来てくれててさ]
ルードが言う。
[……で、僕に何か話があるのかい? わざわざこんな遠くまで来るほどの――]
その時、奥の扉が開き、口髭をたくわえ、がっしりとした体格の中年の男性が顔を見せた。
ハーンはにっこり笑うとその男性に声をかけた。
[やあ親父さん。こちらは僕の友達だよ。わざわざスティンの高原から来てくれたんだ。夕飯でも作ってあげてよ。何か食べたかい?]
[え、いや。何も……]
[そう。……じゃあ親父さん、この二人にしっかりとしたものを食べさせてあげてよ!]
ハーンが宿の主人にそう頼むと、主人はルードをじっと見て言った。
[ハーンの友達か。しかもわざわざ遠いところからなあ。よりをかけてたっぷりとご馳走してあげらあ。心配するこたないよ、どうせ金はやつ持ちなんだからな!]
主人は豪快に笑い、再び奥へ消えていった。
[……この町にいる時はさ、ここが家代わりみたいなもんでねえ。三年くらい住み込んでるんだ。あの人はここの主人で、ナスタデンっていうんだ。戦士みたいにいかつい身体をしてるけど、根は優しくていい人さ]
[……食事、いいのかい? 悪いねぇ]
ルードは少しばつが悪そうに言う。
[いいっていいって、久しぶりに会えたんだし。……で、僕に何か言いたいことがあるのかい?]
[う、うん。そうだなあ]
ルードは言葉を切ると白塗りの天井を仰ぎ、考えをまとめようとする。出来事の何もかも突拍子がないので、どうやって話したらいいか迷うのだ。ルードはとりあえず、ライカを紹介することにした。
[ライカ、ね……。はじめまして、ライカ]
ハーンがそう挨拶すると、ライカは会釈した。
[……ふむぅ。まあ、駆け落ちっていうのは冗談としてもだよ、やっぱり何かわけありなんだね? ルード君]
[そう。俺自身がまだ信じられないし、ハーンにも分かってもらえるかどうか分かんないけどね。……彼女と――ライカと出会った時のことから話すよ]
ルードは今までのことをハーンに語った。ハーンはそれに聞き入り、時々うなずいた。
出会った時のこと、なぜか北の平野にいたこと、謎に包まれたライカ自身のことなど、ルードの体験を余すところなく明らかにした。
話の途中、鴨の入ったシチュー、ボイルされた鴨や野菜、パンなどが出来たというので、小さな食堂に移動したルード達は、それらに舌鼓を打ちながらも話を続けた。ルードの正面に座ったハーンは、それに真剣に聞き入っていた。話が終わる頃には、日がとっぷりと暮れてしまっていた。
[……そうかあ……]
全てを聞いたハーンはひとりうなずいた。
[……分かってくれるかな? 信じられないかもしれないけど、でもそうして俺とライカは今、ここにいるんだ]
ルードは訴えるような目でハーンを見る。ハーンはルードを見ているようで実は見ていないようだ。何かに思いを馳せるように、遠い目つきをしているのが分かった。
[……ああ、そうだね、確かに普通に考えたらこんなこと、にわかに信じがたいけど、そんな不思議なことがあってもおかしくはないかもしれない。……いや、ともかく君達がここにいるのはまぎれもない事実なんだから、事実を事実として受け止めなくっちゃいけないんだよなあ……]
ハーンの言葉は途中からひとり言のようになった。ハーンは少しの間、考えに耽っていたようだが、やがていつもの口調でルードに話しかけた。
[そうだね、まず、ルードとライカは高原に戻んなきゃあね。それに、ひょっとしたら――剣が必要な状況にすらなるかもしれない。だから僕もついて行こう]
[本当に!? ありがとう、そいつは助かる!]
破顔するルード。
[何が起こるか、これは本当に分からないぞ。……あの時のように――]
そこまで言ってハーンは言葉を切る。
ルードは訝しがった。ハーンは今、何を言わんとしたのだろうか?
[今晩はここに泊まっていきなさい。明日出発しよう!]
ハーンは話を打ち切ろうと威勢のいい声を出す。
[え? でも、見張りの塔の衛兵さんが、控え室に泊まっていいって……それにハーンに悪いんじゃあないか?]
[構うことないってば。詰め所より、こっちのほうが過ごしやすいよ。それにルードの服も汚れてるようだから、洗って僕のを着るといい。暖炉に置いておけば一夜で乾くさ]
[そう……何から何までありがとう。でも宿泊代は……]
[ああ、僕が払っとくよ]
ハーンはさらりと言ってのける。
[じゃあ、村に着いたら返すから……]
[いいよ、いいよ、興味深い話を聞かせてくれたお礼とでも思ってちょうだいな]
ハーンはあくまで自分を訪ねてくれたルードを歓迎する意向らしい。ルードはハーンの心遣いに感謝した。さらに塔の衛兵のほうにはナスタデンが連絡をつけてくれたそうで、なおのこと感謝の念を深くした。
ナスタデン夫人がルードとライカ、それぞれの部屋に案内した。ルードが通された部屋は小さかったが、奇麗に整頓されていて、木で作られた調度品は部屋に調和していた。彼はしばらくの間、心地の良いふかふかするベッドで横になっていたが、まだ眠くも無く、さりとて特別何かをするということも無いので、そのうち退屈になってきた。
そんな時、タールの音色がルードの耳に届いてきた。ルードは起き上がり、入り口の広間のほうへ行こうと部屋の扉を開けた。向かいはライカの部屋だ。ルードが廊下に出た時、ライカも扉の隙間からちょこんと顔を見せた。
[ライカも退屈かい? ハーンがタールを弾いてるみたいだから聴きに行かないか?]
と身振りを交えてライカを誘った。ライカに意図が伝わったらしく、彼女はルードについてきた。
ハーンはルードが宿に入ってきた時と同様、ソファーに座ってタールを鳴らしており、二人の客人が音に耳を傾けていた。扉を開けて入ってきたルード達の姿を確認するとハーンはにこりと笑い、またタールの弦を見つめた。一つの楽器から鳴っているとは思えないほど、彼のタールは深い音を出す。ハーンの演奏は穏やかに流れ、それが激しいものに転調し、時には暖かく、また寂しい音を奏でる。それは一大叙事詩のごとくであり、広間にいる人々はその旋律に身を委ねた。
ルードとライカは、ハーンとは別のソファーに腰を下ろし、一刻後、ハーンが演奏を止めるまでタールの調べに聞き惚れるのだった。
四.
同じ頃。
その男は、ちろちろと儚げに点るろうそくの火以外明かりのない、漆黒に覆われた部屋の中で、身じろぎ一つせずに長いこと立ち尽くしていた。
聞こえるのは、その者の発する静かな息遣いのみ。男の両の眼はしっかりと開かれていたが、それは己が周りの暗黒を見据えているのではない。遠いところにある別のものを見ている、もしくは意識を遥か遠くに飛ばし、思念に耽っている様子だった。
ややあって、彼は深く息をつき、ひとりごちた。
「何なのだ、今感じた異質な感覚は? ……干渉だというのか? だとすれば、由々しき問題だ。野放しにしてはおれぬな……」
男のいる空間に徐々に明るみがさしてくる。
「〈帳〉よ。あの時、お前が我に語った言葉が、まさか真実となろうとはな。うかつだった。だがな、世界の流れを変えるわけにはいかないのだ。いかな手を用いてもな――!!」
第二章 帰路にて
一.
翌日、ルードは扉をノックする音で目を覚ました。
[ルード君ー。食事だよー。来なさーい!]
明朗に、まるで歌うような感じで扉の向こうから声をかけたのは、ハーン。
[……んぁ……分かったぁ……]
眠そうな声を発したルードは上半身を起こし、目をこする。
天気は昨日と同様、すがすがしく晴れ渡っているようだ。カーテンを開けたルードは片方の窓を開け、朝の空気を身に浴びると背伸びして起き上がった。
[ふぁあ……。いい天気……]
ルードは眠そうにぼりぼりと頭を掻いた後、寝間着から着替えて部屋から出た。
小さな食堂ではハーンがすでに席についてお茶を口に運んでいた。ルードはハーンに朝の挨拶をし、彼の正面に座った。
[おはよう。よく眠れたかい?]
お茶を運んできたナスタデン婦人が、にこっと笑ってルードに聞いてくる。
[ああ、おかげさんで……]
あくびを一つ、ルードは答えた。
[そりゃあよかった。あんた達は今日出るんだろ?]
[そう、スティン高原にね]
癖のある金髪を掻き揚げハーンがそれに答える。
[気を付けなさいよ!]
夫人は元気にそう言うと、食事を取りに厨房へ戻った。同時に、廊下からライカが出てきて彼らに会釈した。
[あ、ライカ。おはよう]
ルードが声をかける。ライカはにこりと笑うとルードの隣に座った。
三人が〈緑の浜〉を後にしたのは、朝食がすんで半刻ほど経ったあとだった。
二頭の馬のうち、一頭にはルードとライカが乗り、もう一頭にはハーンが騎乗し、荷物を鞍の両側に提げた。ハーンの身なりは、まるで当分は冒険を続けるようにもみえる。旅に必要なさまざまな装備のほか、愛用していると思われる長剣が一振り、短剣が一本、そのほか盾などもぶら下げている。もちろんタールも忘れてはいなかったが。
[クロンの宿りから君の村までは普通に行くと……そう、大体三日ってところだね]
ハーンが隣の馬に乗っているルードに話しかけた。
[んー、やっぱりそれくらいはかかっちまうかぁ]
ルードは渋い顔を見せる。
[寝る間も惜しんで無茶苦茶に馬を駆れば一日で着けなくもないんだけどさ、それはきついと思ってね!]
[でも、なるたけ早く着きたいんだよな……]
と、ルードが言う。
[そうだねえ。じゃあ、一日に動く時間を長くしよう。そうすると二日目の昼過ぎくらいかな……ちょっと強行だけど……大丈夫かなあ]
[うん、それでいこう]ルードが強く推す。
[よおし! なら、今日は日が暮れるまで移動だ!]
午後に入って、それまで平坦だった街道の路面は徐々に荒れ、石が目立つようになってきた。眼前にそびえるのはスティンの山々だ。その向こうに、ルードの故郷がある。
ルード達は山に入る前に食事を取るため半刻ほど休息を取り、スティンの山を登っていった。道は徐々にその傾斜を強くしていく。街道は山腹をくり貫く感じで通っており、山越えという言葉から連想されるようなきついものではないにせよ、いかんせん山道の距離が長いのだ。
ハーンは折りあるごとに、ルードとライカを元気づけるように音楽を奏でた。ルードも『疲れた』というような態度をおくびにも出さず、夕方まで馬の手綱を頑張って握り締めていた。
日が暮れようとする頃に、ルード達は開けた平坦な場所を見つけ、そこにテントを張った。そうして彼らの旅の一日目は暮れていったのだ。何事も無く、平穏のうちに。
二.
その夜。ルードは浅い夢からふと目が覚めた後、まったく寝付けないでいた。大きな何かが自分の周りをぐるぐると回り、自分を見つめているような感覚に陥っていたからである。ルードがまだ小さい頃、人には見えないものを見た時の不思議な感覚によく似ていた。
ハーンの寝床は空いていた。彼は確かに寝入っていたはずなのに、いつのまにか目を覚まして外に行ってしまったようだ。ルードは起き上がって、テントから出ることにした。
あたりは木々に覆われている。ルード達のテントが張られている周囲だけがぽっかりとひらけていた。それは夕方、ここに着いた時と変わるはずのない情景だが、今は夜の闇にどっぷりと暗く包み込まれている。音は何も聞こえない。ただ風にゆれる木の葉の音のみ。それが夜の山をより一層恐ろしく、神秘的に見せている。
テントから出たルードは、近くに人の影を見つけた。おそらくハーンであろう。だがルードには、それが本当にハーンなのか怪しかった。昔のように、超常的な存在がふと自分の前に姿を見せたのかもしれない。ルードはしばらくテントの外で立ち尽くしていた。するとその影が近寄り、声を発した。
[ルード? ……目が覚めちゃったのかい?]
白い服を着たハーンは、いくらか小声で話しかけてきた。ルードはハーンのいたところまで行くと少し身震いをした。
[寒いな……]
[夜はまだまだ冷え込むからね、それにここは山の中だしさ]
ハーンはテントに戻ると、中から毛皮の上着を持って来てルードに渡した。
[ああ、ありがとう……]
ルードはそれを着ると、ふと空を見た。高くそびえる木々のせいで視界は狭いものの、満天の星空が見てとれる。スティンの高原からも、これと同じくらい星がよく見えるものだが、周りの情景が違うせいか、まったく異質なもののようにルードには感じられた。
[今はこの周りを見張っていたんだ。でも、まったくもって異常は無いね]
ルードはその言葉にただうなずくだけ。
しばし、沈黙が周囲を覆う。
[……あのさ、ハーン……]
小声で話しかけたのはルードだった。
[……うん?]
[なんでこんなことに……なっちゃたんだろうか]
ハーンは前を見据えたまま、黙っている。
[すごく不安なんだ……俺……]
[それで目が覚めちゃったのかい?]
[いや、俺にまとわりつく雰囲気がなんというか……すごく大きなものに覆われているような、そんな気がして寝付けなくなっちゃったんだ。こんな感じがしたのは久しぶりでさ。物陰で何かが動いているのを見たり、暗闇に小さな光が飛んでいくのを見たり……小さい頃はそんなものを見たんだ]
ルードの真横に立っているハーンは、静かに聞いている。
風が吹き、草原を囁かせ、木々をざわざわと鳴らす。それが止むと、周囲の静けさはいや増す。
[でもさ。そんなこと誰も信じてくれなかった。俺もそれがまやかしであると思い込んで、いつの頃からか見えなくなっていた、はずなのに――]
[それが今はまた感じられる……というのかい?]
ルードはうなずいた。
[そう。……僕はね、時々そういう気配を感じている。風の中を何かが流れていく感じ――大地の持つ確かな力――そういうある種、日常から超越していると思われるものをね]
ハーンにしては珍しく、真摯な口調で語る。
[へぇ、いたんだ。俺以外にもそういう人が……]
[超常的な何かを感じ取る力。いつの間にか人々は忘れてしまったんだろうけどね。でも、それを覚醒させた人は、ほかの人には使えない力、記憶の断片に存在している内なる意識を開放させることが出来る]
[俺は、そういう人間だと……?]
ルードは身を乗り出して訊いた。
[ひょっとしたらだけど、そうかもね。ライカと遇ったことで、封じられていた何かが開かれて、ルードが生来持っていた力を顕在化させるようになったんじゃないかなぁ?]
[ライカ……。あの娘って、一体何なんだろう……]
[それが不安なのかい?]
[あの子自身もそうだけれど――あの出来事全体が、俺なんかにはとうてい分かんないような、とてつもなく大きな何かによって起こされた事件で……世界の全てを変えてしまうんじゃないかって……]
[……言葉を知らない……。ライカ……銀髪の……娘……か]
ハーンは眉をひそめ、ひとりごちた。
[何か、心当たりあるのか?]ルードはハーンに訊き返す。
[いやよくは分からない。だけど、あの人なら――]
[え? 誰?]と、ルード。
[うん。“遥けき野”に大賢人というべき人がいてね。僕も昔会ったことがある、というより、結構なお世話になったんだよ。彼なら分かる、と思うんだ。僕も彼から色々と貴重なことを教わったところがあるしね。だからライカのことも、そして奇妙な出来事が、どういう意味を持つのかってことも分かると思う。……多分だけどね]ハーンは言った。
[へえ……そんな人がいるのか。俺も会ってみたいな]
[……でね、僕は高原まで君らを送り届けたらさ、行ってみようと思ったんだ。彼のところにね]
ルードは顎に手をやり、しばしの間考えた。
[俺も、行きたい!]
押し殺した声で、しかし強い意志を込めてルードは言った。
[そんな……無理して行かなくていいよ。……君の家を空けるわけにも行かないだろうし、道中安全とは言えないんだよ? 僕がスティンの村にまた来た時、彼から聞いたこと全部を話すからさ]
[でも、もやもやしたままじゃあ嫌なんだ! 俺も行くよ!]
ルードは決意した。自分の身に起きた一連の事件を自分の手で解明することと、密かに自分が好意を持ちつつある銀髪の少女、ライカの身元を明らかにすることを。それが自分にとって、いやひょっとしたら世界にとってもあまりに重大なことのような予感がしたのだ。
理解の枠から逸脱した出来事。言葉の通じない銀髪の少女の出現。これらは世界の常識では考えも及ばないことである。
[しっ……! ライカが起きちゃうかもしれない]
再び小声になってハーンが諭す。
[分かったよ、ルード。でも村に戻ってみんなの心配を解くこと。まずはそれだよ。今の話はその後で考えよう]
[ああ……]多少不満ながら、ルードは同意する。
今まで雲に隠れていたのだろう、半円型の月がその姿を現し、淡い光で野原を包む。
ハーンは大きなあくびをした。
[……さすがに僕も眠くなったかな。ふぁ……おやすみぃ]
彼は言うと、ひとり歩き出した。
[なあハーン、見張りは? やらなくていいのかい?]
ルードがハーンの背中に声をかける。
[……ああ、もう今日は大丈夫だよ、問題無し!]
にこやかにそう言って、ハーンはテントへと戻っていった。
しばらく後、ルードも寝床についた。が、奇妙な不安感に苛まれている彼は、なかなか寝付けなかった。
ライカは何者なのだろうか? ハーンの言うように、自分は覚醒しようとしているのか? だとすればその行き着く先は何なのだろう? そして――自分を取り巻く、あまりに大きな流れとは果たして――?
三.
旅程の二日目。
何か大きな音がしたために、ルードは目を覚ました。一体なんだというのだろう? 半ば寝ぼけた面持ちで顔を横に向けると、何か固いものが頭に当たった。
[痛てて! ……ん?]
顔に当たったものはタールの端だった。それを抱えているのは、なんとライカ。彼女は一瞬驚いたふうにみえたが、小悪魔的に微笑むと、再び無造作にタールの弦をかき鳴らした。慈悲のない音圧がルードの耳に響く。
[わ、分かったよ、起きるからさ!]
これ以上やられたらたまらない。ルードが急いで起き上がると、ライカはタールを立てかけ、くすりと笑ってテントの外に出ていってしまった。
やれやれ、とルードはテントの外に這い出す。朝の森の匂いが嗅覚を刺激する。あたりは多少霧が出ているようだが、やがて晴れるだろう。ようやく今日の夕方には村に帰れる。
ルードは笑みを浮かべた。ライカがあんなふうに自分の世話をやいてくれるなんて。彼女の心が徐々に開かれつつあるのが分かり、それがルードにとってたまらなく嬉しかった。
スティン高原への旅は、今日も順調である。森を抜けた後しばらく、高原の花咲く草原が続いていたので、ルード達はその風景を楽しみながら馬を進めた。太陽の注ぐ正午の森は昨晩とは違った穏やかな雰囲気を見せ、一行を和ませていた。ハーンの口調はいつもどおり。昨晩のような真摯な口調はまったくみせない。
やがて街道は再び深い森の中へと入り込む。前を行くハーンは両手で手綱をぎゅっと握り締める。それまでの平坦な道から転じて、勾配のきつい下りとなったからだ。もう一頭の馬の手綱を握るルードに、ライカがしがみついてくる。
道が再び緩やかな下りになり、大きく右に曲がる時、前方の視界が開けた。
[ああ、見えるよ、ほら! 君の知ってる場所だ!]
ハーンが、前方を指差す。
[おお!]
ルードは間髪入れずに感嘆の声をあげた。右斜め前にはムニケスなどルードの知っているスティンの山がある。そして山々の裾野をつうっと伝っていくと、見慣れている開けた土地が見える。
早く村に帰りたい、そんな気持ちで満たされたルードは馬を急がせた――。
そんな矢先のことだった。異変が起きたのは。
* * *
(な……なんだ、あれ?!)
二十ラクほど先の空間が一部、渦を描くようにぐにゃりと歪んだのだ。目の前に真っ直ぐ伸びているはずの道が、円状に渦を巻いているように見える。ルードは手綱を引き、馬を止めた。
[どうしたの、ルード? ……ふむう……]
ハーンが異変に気付き、馬を下りて駆け寄ってきた。彼の左手には円盾が、右手には剣が握られている。長い刃の中心部は柄の部分から刃先まで、宝飾品のごとく奇麗な意匠がなされており、儀仗用のものにすら見える。太陽が当たってもいないのに、その刀身は銀色に鈍く光って見えるようだった。
奇妙な円状の空間はそして、歪んだ風景を一切写さなくなった。暗黒の宇宙をそこだけ円形に切り抜いたかのような、漆黒の空間と化したのだ。
かちゃり、という金属の音。ハーンが彼の剣を両の手でしっかりと握り直したのだ。ハーンは戦士の表情に変わり、じっと円を見つめている。
ひゅっ!
円の中から音がしたかと思うと、何かがうち放たれた。それに驚いたルードの馬が嘶く。
[ルード、下がっていて!]
ハーンの指示にルードは従い、少し後ろに下がる。ルードは馬から下りると、鞍に備えてある自らの短剣を持ってハーンの斜め後ろまで来た。
しゅるる……、というおぞましい息遣いが漆黒の向こうから聞こえてきた。
[ルード君はライカを守ってやってくれないか?]
ハーンが円を見据えたまま、ルードに囁く。落ち着いたその声は、戦いを前にした戦士の声だった。
ルードは二、三歩下がり、ライカを見る。彼女も馬を下り、目の前の異常な光景に怪訝そうな表情をしている。
再び、ひゅっ、という音がすると、側にあった木にそれが巻き付いた。
長く、人の腕ほどの太さを持つ紫色をした触手。吸盤のない蛸の足のようなそれは、どくんどくんと脈打っていた。触手に巻き付かれた幹は、みしみしと音を立てる。円の中の『もの』が外に這いだそうとしているのだ。しゅるる、という不快な息遣いが次第に近くなってきている。
[ば、化け物……]ルードは顔をしかめた。
機を見つけ、ハーンが動いた!
盾を構え、足下の土を軽やかに蹴り、走る。そして剣を振りかざすとすぐさま、紫の触手にむけて振り下ろした。風を切る唸りとともに、銀色の光が曲線を描く。ハーンは剣を叩き付けて触手を一刀両断にした。触手の切り口から体液のようなものがほとばしる。触手の先端は幹に巻き付いたままだが、残りは暗黒の空間の中へと消え、中から悲鳴のような声が聞こえた。貪欲な獣のような咆哮だ。
ハーンは勝利を確信したように黒い円を見る。が、黒い円の中から紅に光る二つの瞳らしきものを見た時、ハーンの表情は変わった。
[まだか。この魔物め……何てこったい!]
悪態をつきながらハーンは円のほうへ、得体の知れない何かのほうへ駆けていく。
その時、ルードは自分の背後に風を感じた。後ろを振り返ると同時に、風は空気を切り裂く音とともにルードの横を通り過ぎ、まっすぐ標的――瞳を爛々と輝かせる黒い円――へと正確に走っていった。時を同じくして、強烈な風圧がルードを通り抜けていった。
そう。彼の背後から、化け物めがけて。
(これは――かまいたちか?)
ルードはなびく髪を手で押さえつつ、後ろを振り向いた。構えた姿勢で両腕をまっすぐ前に突き出し、両の手を開いているライカの姿があった。風を受けた彼女の長い銀髪は乱れ、後ろへなびいている。
(まさか、ライカがやったのか?)
ハーンは化け物に斬りかからんとしていた。しかし、円の中からひゅっ、という音が聞こえてきた。ハーンが気付いた時には遅かった。伸びてきたもう一本の触手をかわせず、胴体に巻き付かれてしまったのだ。
[……っ!!]
ハーンは声にならない悲鳴をあげた。怪力で締め上げられているハーンは体勢を崩し、剣を離してしまった。
ちょうどその時、かまいたちが標的に命中した。剣で何回も切り付けるような音がする。円の中の化け物は、忌々しい叫び声をあげ、もがき苦しんだ。
ハーンの身体は触手から解放されたが、ハーンの意識は朦朧としており、立ち上がることすら叶わなかった。ハーンは二、三歩ふらついて、ばたりと地面に倒れ込んだ。
[ハーン!!]
ルードはハーンのもとへ走った。触手が再びハーンを捕捉しようとしている。ルードは自分の短剣で構えると、伸びてくる触手を薙ぎ払った。しかし、ルードの思いとは裏腹に、傷を負わせたという手応えは感じられなかった。所詮は刃こぼれした短剣だったのだ。触手は一瞬引っ込んだが、今度はルードのほうへ照準を絞ったようだった。ルードは敵の威圧にのまれて引き下がった。こつんと、何か固いものが彼のかかとに当たった。
ルード!!
ライカの声がしたかと思うと、次の瞬間にはまたしても暴風がルードの横を通り過ぎ、強烈な圧力でもって敵を切り裂いた。触手がずたずたに分断され、黒円の中の相手は悲鳴をあげた。
それを見て、ルードは意を決した。異質な円の中にいる敵本体を叩こうと決めたのだ。ルードはなまくらな短剣を放り、足下にあったものを――ハーンが落としてしまったハーンの剣をつかんだ。ルードは長い柄を両手で握り締め、敵に向かって構えた。きらりと、銀の刃が輝く。ルードの予想に反して、その剣は意外なまでに軽かった。
[ハーン! 悪いけど、こいつを借りるよ!]
ルードは横たわっているハーンに呼びかけた。それを聞いて、ハーンが声を振り絞るようにうめいた。
[……! ルード、……それだけは……駄目だ!!]
ハーンのうめく声の意味がルードには分からなかった。剣を構え、恐怖を払拭するために雄叫びをあげる。そして黒い円に向かって斬りかかった――!
それは剣を振り下ろすまでの、きわめて短い時間だった。
ルードは瞬間、知った。剣はルードに圧倒的なものを与えようとしている。超常の“力”は剣を握る両腕から伝播し、ついには彼の脳髄へと達していた。同様に、彼の両足からは大地の力の流れが、血管を伝って流れ込んできた。
これらは人間ひとりの身に余るほど、絶大な“力”だった。
(あの時と一緒だ――ライカと“遭遇”して、光の玉が俺を包んだ時――いや、それ以上だ!! この押しつぶされるような感じ――俺ひとりが抱え込むには大き過ぎる力だ!)
身体と精神に、洪水のごとく洗い流さんと渾然一体となって襲いかかる“力”。ルードは必死で抗うものの、ルードの精神は悲鳴を上げ、ほどなくして彼は気を失った。黒い円に確かな手応えで剣を振り下ろしたと同時に。
そして――
ルードの中の、何かが弾けとんだ。
彼の奥底にある扉が一つ、確実に開いた。
* * *
ルードは夢を見ていた。模糊とした情景が頭の片隅へと消え去ると、ルードはゆっくりと目を覚ました。
そこは森の中だった。先ほど意識を失った場所で、彼は横になっていたのだ。ライカがそばで付き添っていたが、ハーンもルードの目覚めに気付いたようだ。
[やあ、気分のほうはどう?]
ハーンが気遣う。ルードは先ほどの戦いの様子を徐々に思い出した。
[……大丈夫……でも……あの……化け物……は?]
[ああ、やっつけたよ。とどめを刺したのは僕だけど、致命傷を与えたのはなんと、君だよ!]
ハーンは喜々としてルードの手柄を褒めた。彼自身、触手に巻き付かれたために怪我を負っているというのに。
[そうか……]
ルードは再び意識が遠のくのを感じた。
[もう少し横になってたら?]ハーンが気遣う。
[……あ、いや。……行こう。今日中に着きたいんだ]
ルードはのろのろと立ち上がると、ふらついた足取りで馬に乗った。続いてライカも彼の後ろに座す。
ルードが手綱を握り締めたところで、再び疲労感に襲われ、くたりと、馬の首にもたれた。
[ルード!]
ハーンの声が聞こえた。
「ハーン、いいよ、このまま行こう……。ライカ、すまないが手綱をよろしく……って言っても分かんないかな……俺の言ってる言葉が……」
ルードには、発した“音”が今までの言葉と異質なものであると気付くはずもなかった。
「もう……馬を操るのなんて久しぶりなのに――」
ライカの意味の無いはずのつぶやきが、そのように言っているように聞こえた。
四.
次にルードが目覚めた時、そこは部屋の中だった。視点の定まらない寝ぼけまなこで周囲を一瞥した。
[俺の……家だ……]そう言ってほくそ笑む。
いつもの景色。いつもの匂い。四歳の時からずっと暮らしてきたナッシュの家にいるのだと、すぐに分かった。もう夕刻だろう。部屋は薄暗くなってきている。
ルードはしばらく、ベッドの上でぼうっとしていたが、家族に早く会いたいという想いが沸き上がってきて、起き上がった。旅の疲労のためか、身体の節々が痛む。が、それを気にしてもいられなかった。
居間にはナッシュ一家――叔父のディドル、叔母のニノ、従姉のミューティース――とハーン、そしてライカがいた。ルードが恐縮して入ってくると、一同の視線は彼に集まった。それはルードを非難するようなものではなく、暖かいものだった。
[おお、ルード、大丈夫か?]ディドルがまず声をかける。
[大体の話はティアーさんからうかがったよ]
[すまない、叔父さん。俺は――]
ルードは窓側の椅子に腰掛ける。
[なあに、お前が無事だってんなら、それでいいのだよ]
ディドルは言葉を切り、茶をすする。
[村のみんなにも本当に迷惑をかけてしまっただろうね……]
ルードはうつむいて謝罪する。ニノとミューティースも無言でうつむく。
[……そうだ、みんなは?]
しばらくあって、ルードが訊いた。
[ケルン達のこと? 夕べ遅くに君が戻った、っていうからちょっと前まで家に来ていたのよ。村のみんなも気になって集まってきたんだけど、君が眠っているから帰っていったわ]
[そうか……ふう……]ルードは溜息を洩らした。
[まあさ、明日にしようや。お前が帰って来たのが昨日、それからお前はずっと眠っていたわけだけども、それでも疲れているだろうから、休んでおくのがいいだろうて、なあ?]
ディドルの言葉にルードはうなずいた。
(……まる一日も眠ってたんだ……)
ルードが再び自分の部屋に戻ろうとしたその時、記憶が鮮烈によみがえってきた。
――禍々しい化け物。かまいたち。そして圧倒的な“力”がハーンの剣を介してルードを襲ったこと――。
あれらは一体何だったのだろうか?
[……なあ、ハーン]
扉の取っ手に手をかけ、振り向いてルードは言った。
[何だい?]
[部屋まで来てくれるかな? 訊きたいことがあるんだ]
[……ああ、分かったよ]
ハーンは席を立った。一緒にライカもついてきた。彼らはナッシュ家の人々に会釈して、ルードの部屋へ向かった。
[ええと、俺の家まで馬の手綱を預けていたのはライカだったよね?]
部屋に入り、ルードはハーンに訊いた。ハーンはうなずく。
「すまない、ありがとう、ライカ」
ルードはいつものとおり、意思表示の身振りとともに、ライカに礼を言った。
言った?
(これは……言葉なのか?)
ルードは唖然とした。ルードが今、口にしたのは、彼の知らない『音』にほかならない。しかしそれが無意味に羅列されたものではなく、[ありがとう]という感謝の意味を持つ『言葉』であることも分かった。ルードはハーンを、そしてライカを見る。やはり二人とも驚いている。
そして、ライカがゆっくりと口を開く。
「分かるの?」
ライカは言った。明確な言葉を伴って。
ルードが知らないはずの『音』の列はまったく自然に聞こえた。何気ない会話をしている時のように。
「あ、ああ。何だ、これは……一体何なんだよ?」
言ってルードは呆然と立ち尽くした。地面がぐるぐる廻っているようだ。
「俺……疲れてるのかな? いや、これもまだ夢なのか?」
発する音はやはり、意味が分かる『言葉』だ。
「ううん、夢じゃない。やっと……やっと話せるようになったのね!」
ライカは破顔し、本当に嬉しそうな面持ちをしてルードの両の手首をぎゅっと握り締めた。少し照れくさくもなったルードはちらとハーンを見た。彼は笑っている。
ぽとり、と何かがルードの手の甲に落ちた。それはライカの涙だった。
「ライカ……?」
「わたし、不安でしようが無かった……。“あそこ”から落ちて……気付いてみたら自分のまったく知らないところにいて……言葉も通じなかった……」
鳴咽をこらえ、ライカは言う。安心感からくる涙は、しかし止まらない。
「ねえ、ここは一体どこなの? あなた達の言葉って、ユードフェンリルの古い言葉に似てるけど……」
涙をぬぐい、ライカが訊いてくる。
「どこって……スティン高原だよ。ユードフェンリルって……? いったい何のことだ?」
「……そうだね。僕達が話しているこの言葉は、僕らがすでに失って久しい言葉さ……。そういう伝承があるんだよ」
そこではじめて、ハーンが口を挟んだ。
「ハーン!?」
ルードとライカは再び驚いた。ハーンもまた、それまでとは別の『言葉』を話したのだから。
「あなたまで……どうして?」ライカがぽつりと言う。
ハーンは一呼吸おいてからまた話し始めた。
「ルード、さっき訊きたいことがあるって言ったよね?」
「そう。そうだよ、ハーン。あなたは今までの一連の事件――それに、今起きたばかりの出来事についてどう思う? いや……、何か知っているんじゃないか?」
ルードはじっとハーンを見据える。ハーンは黙ったままルードの、そしてライカの顔を見た。それからしばらくが経ち、ハーンは口を開いた。
「さあて、と。どうしたもんでしょう。まさか、こういう事態にまでなるとは予想してなかったなあ。これはどうやら本当に、とんでもないことが起きつつあるのかもしれないな」
ルードはハーンの次の言葉を待ちながら、ゆっくりとライカの手を離し、ベッドに腰掛けた。
そして、ハーンが口を開いた。
「あの触手の化け物……あれはこの世界、つまりフェル・アルムのものじゃあない。そしてライカ。君は、違う世界から迷い込んだんだと思う。おそらくは、ね」
「フェル・アルム? それが今、わたしのいるところなの?」
ルードとハーン、両者が首を縦に振る。
「フェル・アルム……“永遠の千年”よね? 古いエシアルルの言葉では」
(永遠の千年とはよく言ったもんだ)
ルードは思った。千年を経た今、世界はどこへ向かうのだろうか? 今までどおりの平穏か、それとも――。
「君の住んでたところが“果ての大地”の向こう側にあるのか、海を越えたところにあるのか、あるいは――。まあ、僕の知識じゃあ見当もつかないけれども、どちらにしてもライカにとってここは、まったく知らない場所なわけなんだよね」
ハーンが言う。
「でもハーン。なんで俺やあなたが、ライカの言葉を分かるようになったんだ?」ルードは尋ねた。
「昨日の夜、君に話したように、覚醒したことによるんだと思う。記憶の断片が甦り、力を発揮出来るようになると、ね。実のところは、僕はもっと以前にライカの言葉を話せるようになっていたんだけどさ」
「俺が子供の時に体験した不思議な感覚っていうのは、ハーンの言ったように、ライカと出会ってから急によみがえったかのようだよ。でもさ、俺がこうしてしゃべっているこの言葉は何なんだ? 今までまったく知らなかったのに、さも当たり前のようにこうやって話せてる……」
ルードが狼狽しながら言う。
「この言葉――アズニール語は、わたしの世界では最も広く使われているのよ」
「アズニール……?」
ライカの説明を反芻するルード。先ほどから“エシアルル”とか“ユードフェンリル”など、何やら知らない事柄が出てくる。ライカの世界ではごく当たり前に使われているのだろうが、ルードにはつかめるものではない。
ハーンは腕を組み、唸りながら考えていたようだったが、不意に顔を上げた。
「ルードがアズニール語をしゃべれるようになった今回の件。鍵になっているのは多分、剣だよ」
「剣? ……それって、ハーンの持ってた、あの……」
とのルードの言葉に、ハーンはうなずいた。
「そうだよ! それについても訊きたかったんだ。化け物を倒そうとあの剣を握った時、物凄い“力”が身体の中に入ってきて、ひきちぎられるかと思ったんだ」
身振りを交え、ルードが言う。
「そう。あの剣はずっと前に“果ての大地”で見つけたものでね……たしかに尋常ならざる剣だよ。人間では創りようのない凄まじい“力”が込められている。だけど、その反動も恐ろしいものなんだ。人の魂を消し去ってしまいかねないほどにね。でもルードにとっては、剣の与えた衝撃のおかげで、封印のようなものがさらに解けたんだろうね」
ハーンが答えた。
「フェル・アルム人が失っていた言葉を、俺達は取り戻した、っていうこと?」
「でもなあ。あの剣を手にして大丈夫だったなんて、一体どういうことなんだろうか?」訝るハーン。
「うん? 何が?」ルードが訊き返す。
「さっき言ったように、普通の人間じゃあ耐えられないよ、あの反動には。下手をすれば衝撃で死んでしまうかもしれないからね。だからあの時――化け物を前にして君が剣を握った時、僕は警告したんだけども……」
「じゃあハーンは、あの剣を持っていて平気だったのか?」
と、ルード。
ハーンは一瞬言葉に詰まり、返答に躊躇したようだった。
「ふっふっふ。きっと、僕とは相性が悪いんだろうねえ。なんならルード君にあげようか?」
ハーンは冗談めいて言葉を返した。それを聞いてルードはかぶりを振る。身体が八つ裂きになる体験はもうこりごりだ。
「そうかあ、あの化け物を一刀両断にするくらいだから、よっぽど僕より使いこなせるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど……」
冗談交じりなのだろう、ハーンはさも残念がってみせた。
ライカはハーンのほうへ向き直る。
「でもハーン、あなたは前からアズニールをしゃべれたんでしょ? なら、どうしてわたしと話してくれなかったのよ?」
少しすねたようにライカが言った。
「いや……ごめん。でもライカだって僕に会ってからは今まで一言もしゃべってないでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「まあとにかく」ルードが二人に割って入った。
「お互い不安を抱いていたんだから、しようの無いことじゃないのか? 俺もライカのことを不安に思っていたし、ライカもそうだと思う。でもさ、今はこうやって話し合い、お互い分かるようになったんだ。それでいいじゃないか。それよりさ……」
と、いったん言葉を切った。
「それよりハーンはなんでこの言葉を――アズニールだっけ? ――しゃべれるんだ?」
「僕も覚醒した身だからさ。奥深い封印が解けたっていうこと。まあ僕の場合は、今回のルード君とはまた違った状況だったんだけどね」
「ふうん……」ルードは唸る。
「それで、ルード、ライカ」
滅多に聞けない、力強い真摯なハーンの声に二人は顔を彼のほうに向けた。
「知りたいかい? 一連の出来事の真実を……」
「もちろん!」
ルードとライカは異口同音に言う。強い意志を込めて。
ハーンはそんな二人の心を読むかのような目でじっと見た。
「――じゃあ、行こうか! 遥けき野の賢者のところへ」
「それは、誰?」とライカが聞き返した。
「ああ、ライカには話してなかったよね。このスティン高原の遙か西には“遥けき野”と呼ばれる荒野があるんだ。人が住むような場所じゃないんだけども、そこに賢者とも呼べる人がたったひとりで住んでる。彼にことの顛末を話せば真実のいくらかは――いや、全て明らかになるかもしれないな。そして僕達がその後どうすべきなのか。彼なら分かると思う」
「しかしさあハーン、昨晩も言ったけれども、あのへんぴな荒野にそんな大人物がいるなんて知らなかったぜ? あなたはなんで知ってるんだい?」
ハーンは少し考えるようなそぶりをして答えた。
「……ずうっと昔、大怪我をして死にそうだった僕を助けてくれたのがその人だったんだ。僕が……自分の“力”を知りえたのはその頃で、そのことについても色々教えてくれたんだ。……まあ、いずれにしてもややこしい話はそこに着いてからにしない? 今日も色々あり過ぎたし、ね!」
彼はいつもの口調で締めくくったが、そこにはルード達の問いかけを拒絶する雰囲気があった。
「そうね、わたしも疲れたし、あなた達はそれ以上でしょ? もう、夜だし……」
ライカは窓のほうへ歩いていく。涼しくなった高原の風を受け、彼女の銀色の髪がなびく。ライカは窓の手すりに両手をついた。
「夜、か……。知らない場所といっても、こういう自然や人の生活っていうのは、どこでも変わんないものなのね……」
その言葉は淋しげだった。そうでなくともライカの背中がそう語っていた。
それを聞いたルードは彼女を温かく迎えいれ、そして彼女のためにも真相を明らかにせねば、とあらためて決意するのだった。そしていずれ彼女をもとの世界に戻す手立てを見つけねばならないだろう。
「そうだ、ハーン」と、ルード。
「その賢者は何ていう名前なんだい?」
「名前、ねえ……」ハーンは一瞬天井を見やる。
「その人は名前を呼ばれるのを嫌がっていて……そう、もっぱら〈帳〉と名乗っていたよ」
帳――カーテン。そして、空間を隔てるもの――。その人物がそう名乗るのに、どんな意味があるのだろうか?
「僕は確信している。真実は〈帳〉のもとにある、とね」
第三章 予期せぬ旅立ち
一.
それから二日が過ぎた。
帰ってきた初日、ルードとライカは旅慣れていないためか、熱を出して床に伏した。一つの不安からの解放、それとともに生じた新たな不安がそうさせたのかもしれない。まる一日休養した彼らも翌日には回復し、ルードはケルンの家へ遊びに行くのだった。
ライカはナッシュの家で世話になっている。彼女の銀髪は相当に目立つようで、その一風変わった風貌と、『しゃべれない』ためか、ナッシュの人達もどう扱っていいのか困っているようだ。ルードの見たところ、暖かく接してはいるのだが、双方ともにぎくしゃくしているのは仕方のないところか。
「ともかく早く帰ってくるからさ」
ライカが使っている部屋の中、出掛けにルードはライカに言った。
「迷惑かけちゃった人達のところにはお詫びに行かなくちゃいけないだろうし」
「うん、分かったわ」とライカ。
「ルードの家の人達もよくしてくれるんだけど、肝心の言葉が分からないと困るのよねぇ……」
「二刻しないうちには戻る、と思うから」ルードが言う。
「二こく?」ライカは驚いた様子だ。
「ああ、分かんないかな。〈刻〉ってのは時間を表すものなんだけども――」
「ううん、わたし達の世界でも〈刻〉っていう単位を使ってるの。……どういうことなのかしら? ここってわたしのいたところとそう違和感が無いのよねえ。……ひょっとしたら、わたし達の知らないところで交流があったのかもね」
最後はにっこり笑って返す。ルードに厚い信頼を置いているのがひしひしと伝わってくる、そんな表情。自分もそれに応えていかなくてはならない。
「そういえばさ、ハーンはどこに行ったんだろうか?」
「それが分からないのよ。昨日は確かにいたじゃない。看病までしてくれてたし。でも今日はどこかに行ってるみたい」
ライカも困った顔をする。
「……まさか、俺達をさしおいて出かけちまったんじゃあ?」
「それは大丈夫だと思うけど……荷物はあるのよ」
「……ってことは、どこかに日銭を稼ぎに行ったのかな」
ルードは落ち着きを取り戻し、ライカに挨拶をすると、家を後にした。
昼前。普段は羊達の姿がそこかしこで見られるものだが、今日に限ってはあまり見かけない。小屋に閉じこもっているのだろうか。
空気がどことなく湿っている。ルードは西の空を見た。
「こいつは降りそうかな……」
と、一言残して、彼は歩き出した。
二.
約二刻後。
雨は篠突くように降っている。西からやって来た重苦しい鉛色の雲は、ついに上空をすっぽりと覆い隠してしまった。音を立てて地面を叩く雨は、今日中には止みそうにない。
ベケット村。
スティン山地の麓、ルード達のいる高原から南東に一メグフィーレほど移動したところにある大きめの村だ。羊織物の小さな工房が集まっており、ここで仕上がった毛織物が特産品として各地へと出荷される。
ハーンは今、ベケット村にいた。ルードが想像したとおり〈日銭を稼ぎに〉タール片手にここに赴いたわけなのだが、雨が降り出してからは酒場も兼ねている工房で休んでいた。この中は話し声が絶えず、明るい雰囲気である。ほかにも何人か、そこで昼食をとって休んでいたのだが、その中の一人がハーンに声をかけてきた。
[やあ。あんたって、ティアーさんだよな?]
年の頃はルードと同じくらいと思われる、がっしりとした体格の少年だった。
[ええと、うん。そうだけどね]少年はにんまりとする。
[俺さ、ストウって言って、ルードの友達なんだ。ティアーさんがルードのやつを連れて来てくれた、ってケルンから聞いたんでね。ちょうどよかった。お礼を言わせてよ]
ストウはそう言ってハーンの横に座り、ハーンのために酒を注文した。
[いやあ、そんな言われるほどのこと、僕はしてないんだよ。ああ、僕のことは、ハーン、と呼んでくれて構わないよ」
と言って、ハーンはストウの酒を口に含んだ。
その様子を満足そうに見ていたストウは、あの日の体験を――ルードがライカと遭遇した時の――早口にまくしたてた。大体の内容は、ルードから聞いたものと同一であった。ルードの友人達はちょうど下山途中で、ルードが光に包まれる光景をほんの少しだけ見たというのだ。
ストウの少々自慢げな口調に嫌な顔をすることなく、ハーンは酒をすすりながら時折相づちを打った。
[神隠しってのは本当にあったんだな! 俺も実際に目の当たりにするまで信じられなかったけれどもさぁ]
ひとりで感嘆するストウ。ストウにしてみれば、自分が体験した不思議な出来事を、誰でもいいからしゃべりたくてたまらない、そんな心境なのだろう。
ハーンは酒を飲み干すと、タールを抱えた。
[ご馳走さん。……そうだねぇ、君の言うように常識っていうやつは、時々嘘をつくのかもしれないね]
ハーンは確かめるように、ぽんぽんと弦を一つ一つ鳴らす。
[へぇ。そういう言い方、俺は好きだな。まあどうあれ、ルードが帰って来てよかったよ。かなり騒がれてたんだぜ?]
[ふふふ、では僕がルード君の帰還と、そして今のお酒のために一曲……]
と、ハーンがタールをかき鳴らした。が、それはいつものような重厚で美しい和音を作らなかった。びん、という嫌な音とともに、弦が一つ切れてしまったのだ。
[うわあ、みっともないね、こりゃあ]
ハーンは苦笑し、照れ隠しに頭を掻きながら、ポケットにある替えの弦を取り出そうとした。
その時、酒場にいた別の人物がストウに声をかけてきた。
[悪いと思ったけど、今の話が興味深くてね、途中からだけどちょっと聞かせてもらったよ]
と言って彼はストウの横に腰掛けた。旅商のようだ。年の頃はハーンやシャンピオと同じくらいだろうか。中背で無精髭をはやした気さくそうな男だ。ストウを含め、周囲の人達もそのように思ったろう。しかしハーンは――。
[神隠しにあった人がいて、それが無事に帰ってくる。奇跡っていうのはあるんだなぁ、うん]
男はひとりで納得したようにうなずく。
[それで、その人はここら辺にいるのかな? 差し支えなければ直接話がしたいんだ]と、旅商はストウに話しかけた。
[へへっ……結構土産話としては面白いだろ?]と、ストウも気さくに答えた。[ねえ、ハーンさん?]
軽い口調でケルンはハーンに同意を求める。しかし――。
ハーンは旅商を凝視していた。それまでとはハーンの目が違う。それは、複雑な感情をしまいこんだようなものだった。だが、それも一瞬。すぐにいつもどおりのハーンに戻った。
[そうだねぇ。……ねえストウ君、ちょっとこいつの――]
と言って弦が一本切れたタールを見せる。
[弦を張り替えるのを手伝ってくれないかい? こいつが厄介なものでさ、ひとりじゃあ、ちょっと無理なんだよね]
そう言ってハーンは足早に工房のほうへと向かおうとする。
[あ……じゃあ、お兄さん、ちょっと待っててくれな]
予期せぬハーンの言動にストウは戸惑ったが、旅商の男に言い残すとハーンの後についていった。
ハーンは酒場と工房を隔てている廊下の端に立っていた。酒場内の話し声は聞こえなくなり、雨音のみが聞こえる。
[で、こいつぁどうやって直すんだい?]
ストウは中腰になってハーンのタールを見つめる。
ハーンはタールの表面を撫で、少し考えているようだったが、嘆息を一つついて、タールを抱えあげた。そして長い指で弦を弄る。
[まずいね。こいつはやっかいなことだな]
ハーンの目は一見タールの切れた弦を見つめているようで、実はそうではなかった。『やっかい』とは切れた弦のことか、それとも――。
[あの旅商……そう、あの人とはこれ以上話さないでほしい]
ハーンは言った。ストウに言い聞かせるような、強い意志が込められていた。
[ええ?どうしてだよ?]屈託無く、ストウが問い掛ける。
[うーん、……どうしても、だよ。おしゃべりはだめ!]
ハーンの強い意志を込めた言葉にストウは飲まれる。そして、ただうなずいた。
ハーンは弦を直すでもなく、タールを腕に抱え込んだ。
[さて、と。……僕は、高原に戻るからさ、ストウ君も帰んなさいな]
そう言って、廊下の突き当たりにある裏口――工房職人用の扉から外に出ようとした。
[ち、ちょっと待ちなよ、こんなどしゃ降りの中だよ、もうちょっとここにいても――]
ハーンは振り返り、右手を挙げてストウの言葉を制止する。
[いや、急がないといけないんだ。……とにかく、ルードの話はなんであっても、しゃべっちゃ駄目だよ!]
扉が閉まる。ストウはひとり、廊下に残される格好になった。雨はあいも変わらず、激しい。
[ちぇっ、なんなんだよう……]
ストウは悪態をついた。
ハーンはまだ、裏口の軒下にいた。
そしてやおら、右腕で大きく円を描くような動作をする。 ふっと、周囲の空気がゆれ、停滞した空気が円を象る。
「間違い無い。“疾風”――中枢の刺客だ。あの時の……ニーヴルの二の舞には絶対にしないよ!」
ハーンはそう言うと、篠突く雨の中、タールを小脇に抱えて全力で駆け出した。渦中の人物――ルードとライカのもとへと。
裏口の扉が少し開き、ストウが顔を出す。
[……あれ? もういない。足が速いなぁ、あの人]
そう言ってストウは周囲を見回した。
[やれやれ、ハーンさんの言うとおり、あの兄さんと関わり合いになるのはよそうっと。どれ、帰るか!]
言うなりストウは軒先から飛び出し、ばしゃばしゃと泥をはねながら自分の家へ向かって駆け出した。
三.
それからさらに一刻ほど後、場所はスティン高原。
ルードはケルン宅で談笑していた。ミダイ夫妻――ケルンの親代わりを務める彼の親戚――はベケット村に出かけており、ケルンがこの家の留守番をしていた。ルードもケルンの家にこんなに長いこと留まるつもりではなかったのだが、降りしきる雨のせいで帰るに帰れずにいた。ナッシュの家にいるライカは不安がっているだろう。
ケルンの話では、あの時ルードが光とともに消えてしまった後、村中大騒ぎになったようだ。神隠しだなんだと騒がれたのはもちろんのこと、村人総出でまる三日間ムニケスの山を探しまわったそうだ。三日目の夕刻に、ハーン達が昏睡しているルードを連れて帰ってきたことで、捜索は打ち切りになったが、もし一週間捜して見つからないようであったならば、ルードの葬儀が行われる予定だったようだ。三日間、ニノとミューティースは泣きはらしていたようで、ルードはあらためて、申しわけない気持ちになった。
ケルンは変わらず、時々憎まれ口を叩きながらルードと話していたが、再び親友と出会えた喜びは隠し通せなかった。
[……さてと、俺、そろそろ帰ろうかな]
一段落ついたところで、頃合いを見計らいルードが言う。
[でも、この雨だからよ、もう少しうちにいろよ? な?]
と、ケルン。
[でもライカが寂しがっているかもしれないしなぁ……]
ルードは、もっとも親しいケルンだけには、ことの顛末を語っていた。ケルンもそのあまりの不可思議さに呆然とするのみだったが、やがて『ルードの言うことなら』と納得してくれた。
[ライカ、か。あの銀髪の可愛い子だろ? でも彼女、口が利けないっていうじゃないかよ、かわいそうだよな]
[いや、それが違うんだ。俺はライカと話せるんだ。……俺達の言葉とは違う言葉でね。彼女が話せるのは、俺達が失った言葉らしい]
ルードの言葉にケルンは、腕を組んで唸る。
[しかしさ、今度ばかりはまさに事件だよなぁ、ルードの話全部が突拍子も無くて……俺の脳みそじゃ、正直ついていけねえんだわ]ケルンが言う。
[ははっ、俺だって同じさ。実際のところ、誰かにしゃべっておかないと不安に潰されて狂っちまいそうになるんだぜ?]
ルードは正直に胸のうちを語った。自分はまだ、こうしてざっくばらんに話せる人間がいてよかった、と思う。ライカはどうだろうか? 彼女にとって、不安のはけ口となる人間は、自分しかいないのではないか?
彼女とは今まで、本当の意味でうち解けあってるとは言えなかった。意思を疎通する手段が無かったのだから。彼女がルードを頼ってくるようになったのは、『話すことの出来る仲間』という意識からだろう。昨晩、はじめて会話した時から、ライカとの間に信頼関係が確立したようにルードには思えた。
その時から、ルードはもう一つの苦悩、今まで深層に隠れていた葛藤を認識した。
(なんで、俺がこんな目にあわなきゃならないんだ?)
自分の身に起こってきた半ば宿命がかった出来事をうらむような、そんな思い。
ライカと遭遇したのが自分ではなく、例えばケルンだったとしたら、どうなっていたのだろう? 今まで自分が体験してきたものと、同じような出来事が、ケルンの場合でも起こり得たのだろうか?
でも、それはあくまで仮定だ。どうあがいても、分かるわけがないし、今さら変えられるわけでもない。現実は今も、状況が流れているのだ。――河のように。
[……やっぱり常識っていうのは脆いもんだなぁ、昨日まで真実だと思っていたことが今日も通用するとは限らない……今度ばかりはそう思うぜ]
ケルンがそう言って天井に目を泳がせる。
[何言ってんだか。ひと月前の祭りの日に俺にそうやって熱弁したのは、ほかでもないケルンだろうに?]
ルードは笑ってみせた。
[へえ、よく覚えてるなぁ、あの時のことなんて忘れちゃったぜ、俺なんか。なんせ、酒をシャンピオ達と飲んでてさ、気付いたら――]と言って床を指差す。
[ここにいるんだからよ、……ルードとしゃべったってのは、まったく酒の上の出来事ってやつさ!]
そう言って豪快に笑うケルン。つられてルードも苦笑する。
その時。表の扉を何度も強く叩く音が彼らに聞こえた。
[あれ、帰ってきたのかな?]と、ルード。
[いや、この雨だぜ? こいつが止むまで親父さん達が帰って来れるとは思えないんだがよ……]
ケルンはそう言って立ち上がると、玄関まで歩いていった。
[あ、あれえ?! どうしたの?]
ケルンの驚いたような声が聞こえたので、ルードも玄関へと向かった。
降りしきる雨の中、ハーンとライカがいた。クロンの宿りからの道中と同じように、馬二頭を引き連れて。よく見ると、ハーンの、そしてルードのものと思われる荷物もしっかり乗せてあるではないか。
開口一番、ハーンは言った。
[やあルード、出発するよ!]
[へ?]思わず声が裏返る。
[……まさか、今から行くのか? 遙けき野に?]
ルードはまったく事態がつかめない、といったふうにハーンに問い掛けた。
[うん、そういうことだよ。さささ、乗った乗った! もう荷物も積んでるしね]
ハーンはルードを急かすように、手招きする。
[あ、あのう……本当……にか?]
ルードは、再度ハーンに尋ねた。
[うん、本当だよ。さすがにちょっと予想外だったかな?]
ハーンは即座にきっぱりと返答した。
(なんで、こんなに突然なんだよ!)
ルードは心の中でハーンに悪態をついた。
[ルード?]
事態がつかめないのはケルンも同じ。ハーンに導かれて表に出たルードを目を丸くするように見ていた。
[……あのさ。俺達、ちょっと遠くまで行ってくるから……]
ルードが振り返り、ケルンに言う。半ば困惑した表情で。
[そういうことでね。そうだなあ……二、三週間ほど留守にするよ。すごく迷惑なことだとは分かってるんだけどさ、やむにやまれぬ事情というのがあるんだよ]
申しわけなさそうにハーンが言う。
[行ってくるって? 大体さあ、見ろよ、こんな天気だぜ?]
ケルンの言葉でルードはふと気付いた。
(ハーンのまわり……雨が降ってない。……っていうより雨がよけてるような?)
馬に乗っているライカを見ると、彼女もまったく濡れていない。こんな不思議な現象が起こっているというのにも関わらず、ライカは平然としていて、不思議がる様子もない。
(何なんだよ? これは……)
ルードが馬に近づくと、その場所が雨を完全に遮断しているのが分かった。ルードは小首をかしげた。
「これはね、“術”よ」ライカが小声で話しかけてきた。
「じゅつ?」ルードはまるで分からない、といったふうに素っ頓狂な声を出した。
「あれ? ひょっとして知らない? 魔法ともいわれるんだけど……本当に、まったく、知らないの?」
ライカは意外そうな表情をした。魔法など、おとぎ話の産物ではないのか?
「そう……。この世界ではその存在を知られてないのしら。とにかく乗っちゃいなさいな。ほら!」
ライカは身をずらし、ルードに手綱を預けた。ルードは鞍にまたがると、ケルンと話しこんでいるハーンを見た。ハーンは、ルードの視線に気付いたのか、ケルンに軽く挨拶をすると騎乗した。
[ケルン!]ルードは軒先のケルンに呼びかけた。
[ごめん! みんなによろしく! 帰ってきたら、その時また色々話すから!]
[まったく、いきなりだよなあ……]
ケルンがぼやいた。
[とにかく、ごめんな、こんなに急なことになって。……俺も驚いてるよ]
事態の急変に戸惑いながらも、馬上、手綱を握るルードがケルンに謝る。ハーンがケルンに挨拶をし、馬を進め始めたのを見て、ルードもそれに続いた。あまりの急な旅立ちに実感が湧かないルードとケルンだったが、とりあえず手を振り合って別れた。
ルード一行は丘に沿って道を登っていく。そのうち、大岩に隠れて、親友の姿は見えなくなった。
第四章 真実の断片
一.
空は一面どんよりとした鉛色をしており、山々のほうからは、うすぼんやりとした霧さえ降りてきていた。雨が止むようなきざしは見うけられない。旅人となったルード一行は、ぬかるんだ地面に注意しながら馬を歩めていた。不思議なことに、一行の周囲には透明の幕が覆っているかのように雨が避けているようだった。
「酷いぜ、ハーン!」
ケルンの家が見えなくなってしばらくは無言を通していたルードだが、そのうち我慢出来なくなって不満の声をあげた。
「……ああ、やっぱり怒っている? ルード君」
ルードとならぶようにして馬を進めていたハーンは、申し分けなさそうにルードの顔を窺った。
「当たり前だろうに。突然過ぎるぜ、出発するにしても!」
ルードは憮然と言い放つ。後ろに乗っているライカは、黙って成り行きを見守っているようだった。
「せめて、叔父さん達に挨拶してかなきゃさあ……」
ルードはぼやいた。
「ううん……。そういうふうに突かれると僕もつらいところだなあ……」
ハーンは、ふくれっ面をしているルードの顔色をちらりと見る。人の気配が無いことを確かめてから彼は話し始めた。
「こういう状況じゃあないんなら、行楽もかねてゆっくりと旅をしてさ、〈帳〉のところに着いてから彼を中心にじっくりと話すつもりだったんだけどね。こうなってしまったんじゃあ、今すぐ話さないと君も納得してくれないだろうね」
ハーンは言葉を続けた。
「ごめんなさい。でもね、君達を取り巻く事態が、僕の予想以上に急迫してきたことが分かったんだ。一刻も早く旅立つ必要が出てきたと言うわけなんだよ。君や、君のご家族、それに友達にはかなり気分を害することになっただろうけれどもね……。取り急ぎ、君の家族――ナッシュの人々に対しては、どうして僕らが旅立つのか、という内容の手紙を置いてきたよ。もちろんあの人達にしてみれば、僕の行動が勝手で不可解だと思って当然だろう。今後、僕はこの村に出入りするのすら疎んじられるかもしれない。だけれども、僕自身にとって不利益なことがおころうと、それは些細なことだ。このまま君が村に残っていたんじゃあ、もっと大きな事件……いや、惨事が起こるかもしれないから」
ルードはそれを聞いて、ハーンが何の考えも無く飛び出したのではないことにとりあえず憤慨を押さえ、幾分やわらかな口調で彼に訊いた。
「でもさ、俺が家族に挨拶する間も惜しいほど、急ぐ必要があったっていうのはどういうことなんだよ?」
それを聞いたハーンは眉をひそめた。
「村に留まっていることが非常に危険だったからさ。ともかく早く出る必要があったんだ。出てしまえば危険は少なくなる。村のみんなにとってね。……一刻ほど前のことだ――」
そう言ってハーンはいったん言葉を切った。そしてルードのほうへ馬を寄せ、幾分小声で語った。
「これから言うことは、本当に肝に銘じて欲しいんだ。ルードだけじゃない。ライカもそうだよ」
ハーンは、ルード、ライカ双方の顔を見る。二人はうなずいた。ハーンは、再び言葉を続けた。彼は一刻前、ベケット村で体験したことを語り、ハーンが酒場を後にするところで終わらせた。
「なぜ僕がストウに、『あの旅商の男とはしゃべるな』って言ったか。それこそが、礼を反してまで急いでる理由なんだよ。……ま、どうあれそのうちあの男には分かってしまうだろうけど、とにかくその旅商には、普通の人間には無いような雰囲気があった。もちろん当の本人は、それを抑えているわけなんだろうが、一瞬、あまりに強い殺気――目的を達成しようとする執念――が感じられた。その時僕には分かった。彼は旅商を装った刺客だ、とね」
「刺客!?」
ライカが突然大声を出したので、背中でそれを聞いたルードはびくっとした。ハーンは静かに、と指で合図した。
「なんでそんな人が出てくるのよ? ……わたし達が狙われている、とでもいうの? なぜ!?」
幾分声を小さくしてライカが言う。
「察しがいいね、ライカ。恐ろしいけどそういうことさ。あの連中が出てくるなんて本当に歴史上まれだけども」
と、ハーン。
「ちょっと待ってよ、俺にはなんだかさっぱり分からないんだけど……『しかく』っていうのは何なんだ?」
ルードだけではない、おそらくほとんどのフェル・アルムの民は、闇に潜むようなことを生業とする人間を知らない。数百年にわたって、表向き平和に過ごしてきたのだから。十三年前のあの忌まわしい戦いを除いては。だから、ルードの反応はごく当たり前の反応だった。
「刺客ってのはね、暗殺者――くだいて言うと、目標とした人間を誰にも分からないように殺してしまうことを仕事にしている人間のことさ」
「えっ?!」ルードにはその言葉はあまりに衝撃的だった。だがハーンは続けて言う。
「ライカの言うとおり、その刺客は確実に君達を狙ってきている。帝都アヴィザノ――フェル・アルム中枢が指示を出したんだ。“疾風”と呼ばれている彼ら中枢の刺客は、歴史の中で暗躍していた、と〈帳〉から聞いている。世界の平穏を保つのに、『常識』からかけ離れた存在は危険だ、と考えたんだろうね。〈帳〉が言うには、君達が体験したような、不可思議な出来事を知っている人間は今までの歴史の中で存在していたし、彼らの中にはそれを人々に伝えよう、と試みた人もいるらしいんだ。けれども、歴史の表にはまったくといっていいほど出ない。なぜなら、そのたびに刺客が、邪魔な彼らを消していったからさ……」
ハーンの言葉を聞いたルードは、全身に鳥肌が立つのを感じた。あまりの衝撃のために卒倒しそうだ。
「……なんてこと……」
ライカはただそれだけ、感情を込めずぽつりと言った。
「連中の働きもあって、フェル・アルムは数百年にわたって、これといって大きな事件もないようにみえたし、人々も平穏無事に過ごしてきた」
ハーンはそう言うとふと悲しそうな翳りをみせ、遠い目でどこともなく、遥か前方を見やった。雨は先ほどに比べると収まってはいたが、スティン山地から降りてくる霧は、その濃さを増している。
「でもね、一つだけとてつもない悲劇が起こってね。それは全ての人の知るところとなった」
「それって、あれかい? 十三年前の……」
ルードの言葉を聞いたハーンはうなずいた。
「あの……」ライカがおずおずと尋ねる。
「わたしはフェル・アルムのことがよく分からないから、出来れば教えてほしいんだけど……その事件は何?」
「そうだなあ……」
ルードが後ろのライカを見るように、首を向けて語りはじめた。十三年前のあの悲劇を――“ニーヴル”の反乱――を語ったのだった。幼い日の自分の体験も交えて。ライカはじっとそれを聞いていた。ルードの語りが終わると、彼女は口を開いた。
「ご、ごめんなさい。思い出すのもつらいのに話してくれて」
ライカは恐縮して言った。
「いや、謝ることなんてないさ。こんな時にくよくよしてもいられないしな」と、ルードが逆に慰めるように言う。
「うん……ありがとう……」
「さて、と……僕が話してもいいのかな? 確かにニーヴルの事件は終わった。戦争という最悪のかたちでね。事件が起こった原因を知っている人は、まずいないだろう。これもきわめて不思議な出来事だったのだから。端的に言ってしまえば原因は――これさ」
ハーンはそう言うと、指を振って周囲を指し示した。
「そう、そうだよ! さっきから訊こう訊こうと思ってたんだけど、これだってとんでもなく不思議じゃないか!」
ルードが声をあげた。
「こんなに雨がざんざか降ってるのに、なんで俺達の周りでは避けるようになってるのさ?」
「これって“術”なんでしょ、ハーン?」ライカが言う。
それを聞いたハーンは少し意外そうな顔をしてみせる。
「へええ、ライカは知っていたのか。これは……そうだなあ、何て言えばいいのかな、うーん」
ハーンは紡ぐべき言葉をしばらく考えていた。
「言い伝えに出てくる“魔法”だよ。精神統一をして体内に宿る気力を外に出して、なんかをきっかけに発動させる――」
そんなハーンの言葉をルードは今一つ理解しかねた。
「まあ、色々な力を顕現出来るというわけさ。分かんないのは無理もないよ。この力はニーヴルの元となった事件ではじめて露わになって、そして歴史の闇に葬られたのだから、知っているほうがおかしいかもね」
「でもさ、ライカは知っていたんだよな。それに、かまいたち。あれも術とやらなのか?」ルードが言う。
「ううん、わたしのは正しくはそうじゃないの。術は人に宿る“色”そのものを力の根源にしているんだけど、わたしのは自然の力を借りることによって現しているから。わたし達アイバーフィンにとってみれば『風』の事象界の“色”を用いてるのだけど」
ライカの言葉にまたもルードは唸る。
「世界にはこういう不思議な力があるんだ、というくらいに知っていてくれればいいよ」混乱したルードの思考を救うようにハーンが言った。そして声色を落とす。
「――さてと。ここからはしゃべるのがちょっとつらいな……ルード君もそうだったろうけれどさ。十三年前のアヴィザノでの暴動の実態を話そうか。
「まず、何がしかのきっかけで術の力を覚醒させた人々が、自らの力を暴走させてアヴィザノの街を破壊してしまった。その時に何人かは疾風の手にかかって殺されてしまったけれど、多くは逃げおおせた。また、時を同じくして、ほかの地域でも同じように覚醒した人々がいた。彼らはセル山地、ルミーンの丘で集結して疾風達とあたることとなった。疾風も、術を使う者達を脅威と感じて、剣を交えて戦うのに躊躇した。そしてしばらくは休戦状態となったんだ。
「しかし術使い達はその間、自分達を追いやった旧態依然とした中枢に対し敵意を強め、いずれは打倒する――そんな負の感情を強めていったんだ。そして覚醒はしていなくても、この世界のあり方に何らかの不満を持つ人々を説き伏せ、次第に大きな勢力にしていった。
「機が熟すとみるや、彼らは中枢を打倒する集団“ニーヴル”として兵を挙げて一路、アヴィザノを目指して進軍を始めた。それに対して中枢も挙兵する。アヴィザノ郊外で戦いが始まるわけだけれどもニーヴルは善戦し、“烈火”と呼ばれるフェル・アルム最強の軍団をもアヴィザノまで後退させた。
「でも、アヴィザノは幾重にもわたって塀が囲んでいて非常に強固で、そう簡単にはニーヴルも攻め入ることが出来ない。中枢はなるべく戦いを長引かせようとした。そしてその間に各地に呼びかけて反逆者を倒す人間を集めようと画策した。策は効を奏し、烈火を主軸に置いたフェル・アルム軍はついに、クレン・ウールン河流域のウェスティンの地までニーヴルを追いやった。ニーヴル側も、アヴィザノから内通させようとするなど、色々手を打ったが、そのような点では中枢のほうが数段上で、結局は打破されたんだ。
「ついにウェスティンで決戦の火蓋が切られた。……そして、長い長い戦いの後、ニーヴルはフェル・アルム軍によって全滅した。でも勝ったとはいっても、フェル・アルム側にも多くの死者が出た。それに、この戦いに巻き込まれた近隣の町や村も壊滅してしまった。多大な犠牲を払って、フェル・アルムの今日がある、というわけだよ。そして事実は、勝った側の都合の良いようにねじまげられてしまった……」
いかに明朗なハーンとはいえ、真相を話すのは非常につらそうで、終始沈んだ調子だった。
重く立ち込めた鉛色の空。三人の胸中はまさにそれだった。
しばらく彼らはうつむいて馬を進めていた。とぼとぼと。
「そして、僕もニーヴルのひとりだった……!」
意を決したような強い声に、ルードとライカはハーンのほうを向く。
「僕はあの時、東部の街カラファーに住んでいたんだけれど、ある時突然、人には使えない力を持っていることに気付いた。――つまり術の力だね。そして僕と同じ力を持っているというニーヴルの存在を知って、ルミーンの丘に赴いた。その頃すでに、ニーヴルは軍隊に変貌していたんだけども、あの時の僕は何も状況を理解していなかったんだろうね。その一員となって、中枢と戦った。そうしてウェスティンの決戦に終止符が打たれた時、かろうじて息のあった僕を〈帳〉が助けてくれた。そして、彼のもとで僕は多くを学び……今こうしてここにいる」
「あなたが、ニーヴルだったなんて……」
ルードは、ハーンの説明の『術に覚醒した者が決起した』というくだりから、なんとなくそのことを予感していた。しかし、現実に聞かされるとやはり衝撃は大きかった。だからといって、ハーンを憎む気持ちは全く無かった。ニーヴルを語るのが禁忌とされているから、ということのみならず、たとえ、ウェスティンの決戦が自分の人生に大いなる翳りを落としている、その現実を踏まえたとしても。
「確かにあれは悲し過ぎる出来事だった……ルードにはどう謝っても足りないくらいだよね?」
やりきれない。そんな口調でハーンが語る。
「……そんなことないよ……」
ルードはほかに言葉を発しようとしたが、紡ぎ出すことは叶わなかった。思いはあまたに及んだが、言葉はただそれだけ。ハーンは「ありがとう」とだけ答えた。二人の言葉はまったく短いものだったが、それによって彼らの絆は強固なものになった、とルードは感じた。
「……話を戻すと、君達の事件――君達がまばゆい光に包まれて山から消え失せた、という神隠しのことは、すぐさま中枢の知るところとなってしまった。なぜかというのは僕ごときが分かるものではないけどね。ともあれ、ルードが覚醒してアズニール語を話すようになり、さらには世界の住人ではないライカがここにいる――この事実は世界の平穏と常識やらを揺さぶるには十分過ぎるだろうね。不穏な動きは消されなければならない。……そして今、使命を帯びた疾風が、当事者を捜しに……いや、抹消するためにこの村の近くにまですでに来ている。もし君達が村に残っていたら、疾風はその場で襲ってくる。何も知らない村の人は、君を守ろうと必死に抵抗するだろう。そうすると事件はさらに大きくなって、村の人全員が不穏分子であるように捉えられてしまうかもしれない。膨れ上がる疑惑が行き着く先は、悲劇さ。それこそニーヴルの二の舞……惨劇のみが結果として残るだろう。
「でも、そんなことはあってはいけないんだ。あの悲劇はまた起こしちゃあ、だめだ! だから今、こんなふうに雨が降っているなかをおしてまで急いでいる――〈帳〉のもとにさえ行けば、彼の“護り”があるために、実質危険はなくなるし、村の人達にも危険は及ばない」
やわらかな表情で、碧眼はルードを見る。
「急ぎの旅立ちのわけを、分かってくれたかな?」
ルードはうなずく。
「確かに僕のことを得体の知れないやつって思われても仕方ないかもしれないけども……僕は君達の味方なんだ。同じ覚醒者の立場として放ってはおけない。信じてくれるかい?」
「もちろんさ!」ルードがきっぱりと言った。
「わたしもルードと同じよ。むしろわたし達に同行してくれるなんて、本当にありがたいと思わなきゃ、ね!」
三人は顔を見合わせて、お互いを納得しあったようだった。
そしてそこで会話は途切れた。
雨足は再び強まり、幾多の白く鋭い線が草原を叩く。
ルードの予想以上にハーンの過去は波乱に満ちていた。ほかにもまだ自分に隠していることがあるのではないか、とルードは時々訝るのだが、そんなことは関係無い。ハーンは大切な友人なのだから。
道は緩い下りとなり、多少曲がりくねりながら、ルシェン街道との合流点に出た。北に行けば数日前彼らが歩んできた道、つまり山道を越えてクロンの宿りへ通じる。対して、南に行けばスティンの丘陵を下り、クレン・ウールン河に沿うかたちでなだらかな道のまま中部の都市、サラムレに至る。
「……これからどうする?」ルードがおもむろに口を開いた。
「じゃあさ、ルードはどう思うかな?」
いつもの調子でハーンが言った。
「そうだなぁ、さっきのハーンの話からすると、どうもアヴィザノに近い南の道を取るのはまずいんじゃないかな。大体その刺客とやらがベケットにいたんだったら、なおさら南には行けないだろうし、と俺は思うんだけど?」
ルードもハーンの調子に合わせ、普段どおりにしゃべった。
「うん、そうだね。道のりは険しいけども、いったんクロンの宿りに出て、そこから北回りの街道を使って、途中から道をそれてしまえば……遥けき野だよ。そこまで行けばもう安心さ! 〈帳〉の存在を知る人はおそらく、僕以外いないだろうし、彼の館は巧妙に隠されてある」
「じゃあ、行きましょう?」ライカが催促した。
「さあさあ!」ハーンが言った。
「気を落としていたんじゃあ、つらいままだよ。もちろん危険のことは考えてなきゃいけないけれど、努めて笑っていこうよ。雨が降っていたって、旅を楽しんで行こう。そう、これは旅なんだから!」
それは本当に、ハーンらしい言葉だった。ルードはそれを聞いて、今の空のような重い心が癒される感じがした。
一行は北の方角へ道を選んだ。篠突く雨の中、しかし馬の足取りは今までより軽く。西のほうでは雨も収まっており、夕方の陽がいつのまにか顔を出していた。垂れ込めた雲は、その光を受けて空を赤く染める。ルードは太陽のほうへ首を向けた。
(あっちに、俺達が目指すところがあるのか。俺が驚くようなことっていうのは、やっぱりこれからも起こるんだろうな。その一つ一つに思い悩んだり、自分の境遇をうらんだりっていうのは、馬鹿馬鹿しいかもしれない。どうやら俺達を待っているのは、もっと大きな何かなんだろうから……)
二.
『親愛なる ディドル様、ナッシュ家の皆様
この突然の旅立ちをお許しください。
私ことティアー・ハーンのみならず、あなたがたのご子息ともいえる存在のルード君を連れて行くことをお許しください。
あまりに勝手な行動であることは重々承知しておりますが、いずれは私達は旅立つつもりでいたのです。数日前起きた、例の神隠し事件に始まる一連の出来事の謎を解き明かすために。
旅立つということは、以前にルード君とともに決断していました。ルード君の強い願望だったのです。
ではなぜ、このように唐突に旅立たねばならなかったというと、あの事件の謎を付け狙う人間がいる、ということにほかなりません。ことはあまりにも大きかったのです。
それがために、あの事件の核となっている人物、つまりルード君とライカさんの所在を知られないようにしておかねばならない、それも急がなければと思い、別れを告げずに立ち去らざるをえないかたちとなったのです。
その人物はもうすでに近くまで来ています。
まことに勝手きわまりなく、またあまりに説明が足りないとは思いますが、ルード君とともに旅立ちます。
皆様の健康を祈って
ティアー・ハーン
追伸 まもなく、この高原に旅商の身なりをした男がやってくるでしょう。中背で無精髭をはやした、気さくそうな人物です。しかし、ルード君のことを訊かれても、何も答えないでください。どうかお願いいたします。』
[勝手なことを!]
と憤慨している父親からハーンの手紙を受け取って、ミューティースは自分の部屋でそれを繰り返し読んでいた。ぱさり、と手紙を机の上に置き、ひとりごちた。
「あたしは信じてみるよ、ルード……。君って、昔からどこか不思議な感じのする子だったから。それに、君自身が災難を起こしたのとは違うってこともね。行かなきゃならないところがあるのが分かったから出かけたんだって……信じてる。でも……ちゃんと帰ってきてよ……」
ルードにとって姉のような存在であるミューティースは、ルードの考えに任せることにしてみた。
ルードは彼自身の道を歩もうとしているのだ。
三.
夕日を受けて一面を赤く染めた空に、雲が次第に覆い被さっていく。そして夜のとばりが下り、やがて周囲を漆黒に染める。雲の切れ間の所々からは星が姿を覗かせており、あの激しい雨は止んでいた。
ルード達は馬を進め、スティンの山々の入り口に差し掛かるところまで来た。彼らの左手には全ての発端となった山――ムニケスがあった。
彼らはこの日の移動を打ち切った。そして、街道から少し道を外れたところにある、目立たないが実は大きなほらを今晩の休息地にすることにしたのだった。ここは高原の少年達の秘密の隠れ家で、村人すら知らないような、へんぴで意外な場所にあった。一行が安全に休むのにはまさにかっこうの場所だった。
用意周到なハーンは天幕やら食料などもきちんと用意していた。おかげで彼らはほらの中で快く過ごせた。
翌朝。朝の刻を告げる鐘も鳴らないうちに彼らは起きた。昨日の雨のせいで空気はじっとりとしているが、ルード達の気持ちは軽やかなものになっていた。
朝食をとりおえる頃には天候は回復し、朝の日差しがほらの中にまで差し込んできた。さすがに今日一日かけてもスティン越えは無理だ。おそらく、下りの道の中腹で今日の旅を終えることになるだろう、とハーンは言った。
「……ねえ、確かさ、この辺だったのよね?」
太陽も高く上がり、山道が大きく左に曲がるところでライカが尋ねてきた。彼女は布を頭に巻いて、特異な自分の銀髪を隠している。豊かな後ろ髪はまとめあげて、調和させるように布で覆っている。また、服もそれに合わせるように、ゆったりとしたもので、スカートではなくズボンをはいていた。これらは、ライカがミューティースから貰い受けたものだった。その姿はライカに結構似合っているのだが、彼女は髪をまっすぐ下ろしていないときまりが悪いようで、しょっちゅう気にしていた。
「そういえばそうだよなあ、あれは……」
彼らは間違い無くこの場所で、化け物と遭遇したのだ。
「あんなのを見たのって初めてよ。ああ! 思い出すだけでもあいつ、気色悪いわ!」
今では、あの熾烈な戦いが嘘だったかのように、森は静まり返っている。
「俺だって、もうあんな目には遭いたくないよ。でもさ、あれは何だったんだろうなあ?」
「……もう、戦うことなんかないわよね?」
自分達を安心させるためか、ライカが身を乗り出すようにして訊いてくる。
「うん、あんな魔物が出てきたら大変だよ。でもね……ひょっとしたら、戦うことになるかもね」ハーンが言った。
「え?!」不安に駆られたルードとライカは口を揃えた。
「化け物と、じゃないよ。疾風と、だよ。君達にいちおう武器は渡してあるけど……」
ハーンは出発の前に、ルードには短剣を、ライカには鋭利な短刀をそれぞれ渡していた。
「殺しの達人とそれで渡り合えるなんて思っちゃいけない! 君達の武器は、いざって時の護身用でしかないよ」
「じゃあ、どうすればいいのさ?」ルードが言う。
「お互い離れないようにすることだね。ルードは剣を使ったことはあるかい?」
「うーん、少し習ったことはあるけれど……せいぜい、草を払う時になたや斧がわりに使うくらいかな?」
「わたしだって、全然心得は無いわよ。『風』を護りに使えるけど、いつもそれがうまくいくとは限らないし」
「単独行動は危険だよ。いつも一緒にいなければならないとは言わないけどさ、お互いが分かる場所にいるようにしよう。そして、万が一疾風に見つかったら僕が相手をする。君達は手を出しちゃだめだよ! 相手が手練れだってことをお忘れなく! もちろん、見つからずに〈帳〉のところに着けることを祈っているけど……用心はしないとね」
ハーンが念を押すように言った。
(そう言えば、ハーンには剣と術の力が、ライカにも風を操るような力があるのに、俺は何も持ってないじゃないか)
ルードはふと、新たな葛藤に気が付くのだった。
事件の不思議さやライカのことを不安に思ったり、運命に巻き込まれていくような自分の境遇を呪ったり――そんなことは自分の中で解決したつもりだったのに。
(俺に、何が出来るんだろうか?)
ルードはその想いを、自分のうちにそっと隠す。そして、前を行くハーンの背中を見る。彼は華奢で、ルードのほうがよっぽど体格がしっかりしていた。しかしハーンは、その風体と口調からは想像出来ないような強さと知識を持っている。底無しの、得体の知れない“力”を秘めているのではないかとすら、時として感じさせるほどに。
だからといって、ルードには、(ルード達を破滅させようと)ハーンが謀っているようには思えなかったし、ハーンその人に恐れおののくこともなかった。ルードがハーンに抱いているのはひたすらに、敬意と、そして友情だった。
(ライカをもとの世界に戻す手助けをする、そうしたいんだけど……俺も強さを持ちたい! どんな時であっても、ライカを守るのは、俺でいたいんだ!)
ライカへのほのかな想いは、いつのまにか恋慕へと昇華していた。ライカは自分のことをどう思っているのだろうか。自分に信頼をおいていることはよく分かっているが、もうそれだけでは満足出来なくなっていた。
「あーっ!」
ハーンがいきなり驚いたように声を出したので、ルードはびっくりした。
「どうしたんだよ。……! まさか、疾風がいる、とでも?!」
ルードはハーンのほうに馬を静かに寄せ、やっと聞き取れるくらいの声で訊いた。
「あ、いやね、そんなとんでもないことじゃないんだけどさ」
珍しくうろたえたようにハーンが言う。
「だけど?」
「そのう、僕って、みんなが使える大きな水筒を持ってたでしょ? ……でもさあ、寝ていた場所に、水筒を置いてきちゃったみたいなんだなあ」
「……」
「……」
「……」
沈黙。
「もう! 水は大切にしなきゃ、とか言ってたその人が、どうして忘れるのよ!」
沈黙を破ったのはライカだった。
「うう……ごめんなさい」
ハーンがその剣幕に押される。
「ねえ、少し休んでいかないか? さすがに疲れちゃったよ」
頭を左右に振り、首の骨を軽く鳴らしてルードが言う。
「そうだね、そろそろ休みをとろうか。……ねえライカ?」
調子良くハーンが言った。
「私を持ち上げても、なくなった水筒は戻ってこないわ。それともハーン、今から取りに戻る? 危ないだろうけど」
「うう……ごめんなさい」
ライカはひたすらに冷たかった。
四.
「よおし、これで生き返ったぜ!」
背伸びをしたルードが言う。
幸いにも近くに小川が流れていた。うさぎぐらいの大きさの丸い石がごろごろしているそのほとりで、三人は休憩をとった。雪のように冷たい清水が心地よい。少し早めの昼食が終わる頃にはライカの機嫌もすっかり良くなっていた。
「さあて、もう行くのかな?」
ルードは、すっかり一行の導き手となったハーンに尋ねる。
「ええ? もうちょっと休んでいこうよぉ」
馬に食事を与えていたハーンは、のんきな口調で反論した。疾風に追われているかもしれない、という緊張感をみじんにも感じさせない。ただ、さすがなのはいついかなる時でも剣を――あの“力”を持った剣だ――手放してはいない、ということと、何げないふりを装いつつも実は周囲の気配に探りを入れている、ということだった。
ルードはちょうどいい大きさの丸い石の上に腰掛け、後ろ髪をまとめていた髪留めを外した。濃紺の髪を手で梳いていると、ちょうどライカが近づいてきて、彼のそばに座った。頭を覆っていた布を取り去っていて、淡い紫色を帯びた銀髪が光る。
「へえ、意外と長いのね、ルードの髪って」
ライカは膝を抱えた姿勢で、ルードを見あげる。
「ははは……ライカの髪だって奇麗だと思うぜ?」
ルードは再び髪をまとめあげると、そう言った。
「本当?」
「ああ、隠すのが惜しいぐらいだ」
「あははっ、ありがとう。でも、やっぱりわたしだけ髪の色が違うっていうのはすごく目立つみたいね。ナッシュの人達も気になってたみたいだし。みんな黒髪か金髪なんだもん」
「……ねえ、ライカ」おもむろにルードが言った。
「何?」
「俺は、俺の住んでいるところに一度帰った。そして今度は真実を知るために旅をしている――こんな……村を追われるようにして旅が始まっちまうとは思わなかったけどさ、そりゃあしようがないとして――でも、ライカはこれでいいのか? ライカだって自分の住んでたところに戻りたいだろ? だのに、こうして見知らぬ場所で旅をしているのがやりきれないんじゃないかって思って」
「そうねえ……」ライカは両腕で膝を抱え込む。
「もちろん戻りたいわ。でもね、やりきれないってふうには考えないようにしてるの。この冒険が終わる頃には多分帰る手段が見つかる、と思ってる。……わたしってね、昔から旅やら冒険なんかに憧れていたから、嬉しくもあるのよ。わたしの住んでる村を離れる機会もあんまり無かったしね。そりゃあ、本当に命を狙われているのは怖いし、正直に言えば色々と不安よ。見知らぬ世界にいきなり来てしまったんだもの。今はこうしてルードと話せるけど、最初は泣きたいくらいだったわ。アズニール語が通じないのは本当に意外だったわね。……でも、アリューザ・ガルドに帰ることが出来ないんだったら……ちょっとつらいかしら……まあ、そうなったらここの言葉を覚えるようにしなくちゃね……あははっ」
淋しそうに笑うライカ。彼女は明らかにルードよりつらい状況にいる。ここは本来自分がいるべき場所ではなく、フェル・アルムの言葉を話すことが出来ない。さらに、もといた所に戻れるかどうかすら怪しい。茶目っ気を振りまくようにしてそれを感じさせないように気を配るあたり、彼女は強い、と思える。
「いや、大丈夫さ」ルードが言う。
「俺が探すから……一緒に、元の世界に戻る方法を探してみようよ……見つかるまでね」
自然と口をついてぽろりと出てしまった言葉。それは、ルードの想いが込められた言葉。ルードはすぐ、自分が言った言葉を理解し、思わず口にしてしまったことに顔から火が出る思いだった。ライカの顔を直視することが出来ず、ルードはただ、せせらぎを見るほかなかった。
「うん……ありがとう……」
ルードはぽりぽりと頭を掻きながら、ちょっとだけライカのほうへ目を向けた。ライカの翡翠の瞳は潤んでいるような感じだ。こんな所をハーンに見つかったら、間違いなくからかわれるだろうが、当のハーンはまだ馬に食事を与えている。
しばし、水のさらさらと流れる涼しげな音が周囲を覆う。
「おーい!」ハーンが遠くから、二人に呼びかけてきた。
「そろそろ行くことにしようよ! 水もばっちり確保したし、出発だ!」
そうして三人は再び馬に乗り、森に囲まれた山の路を登りにかかった。
空は晴れ渡り、木々の隙間から日の光が差し込む。どうやら今日は良い天気のままで終わりそうだ。右手の遥か下に時折見える巨大なシトゥルーヌ湖は、変わらず青くたたずんでいる。
山々の高いところを街道が通っている、世界の全景が見渡せてしまうようなところで、ルード達は赤い夕暮れの太陽が遥か西の海に沈むのを見た。ここからは南西のサラムレの街とクレン・ウールン河が見える。ルード達の身体が夕焼けと同色に染まる。
光を全て受け止める濃紺。跳ね返すような金。
ルードとハーンおのおのの髪は、夕日を受けて一層際立つ。ライカが頭の布を取り去ったら、月を連想させるような銀もそれに加わっていただろう。
ルード達は再び馬を進める。朱が空から次第に消えていくのを感じながら。
そして、スティン山地は夜に入る。春も半ばとはいえ、寒いものだ。路が下りに入り、森を抜けそうなところで彼らは眠りにつくことにした。路から外れた岩場の、平坦なところにテントを張る。それが終わると、ハーンは周囲の探索に出かけてしまった。テントの中にルードとライカは残される。
「あの、ライカ?」
「はい?」
馬上でも会話はしていたが、ハーンが抜けて二人きりになると、昼間の会話があらためて思い起こされて、必要以上にお互いを意識してしまうようだった。
「その、そうだなあ……よかったら教えてくれないか。ライカの住んでいたところのことなんかをさ……」
ルードがライカを見る。
「いや、なんていうのかな。お互いの境遇というか、そういうことって今まで訊いたことが無かったからさ」
「ええ……」笑みを浮かべるライカ。
「うん、いいわよ。じゃあ話してあげる。でも、これはやっぱりハーンにも聞いてもらったほうがいいかしらね?」
やがて三人を囲んで話が始まった。銀髪の少女の話が。
五.
天幕の中、ライカの澄んだ声が話の始まりを告げる。
「フェル・アルムの人が術の存在を知らないというんなら、わたしの話も雲をつかむようかもね」
ライカはそう前置きを入れて、語り始めた。
ライカ・シートゥレイ。
彼女は“エヴェルク”という大地の、北方に位置するアリエス地方に住んでいる、という。そこは山と森と湖に囲まれた非常に美しいところらしい。気候は冷涼で、そういう点ではスティンの高原と似通っている。だが一地方とはいえ、どうやらフェル・アルム全土を包み込んでしまうほど大きいという。その大地を含む世界の名が“アリューザ・ガルド”。
ライカは、峰々が連なる山間のウィーレルという小さな村に、祖父である村長ケネスとともに住んでいた。ライカは父親の顔を知らない。父、アヌエンはライカが生まれてすぐに『試練』がもとで亡くなったらしい。母親のミルも、二年前に山で行方を絶っている。しかしライカは母がまだ生きていると信じている。根拠はない。ただ、母親までも失いたくない、そんな真摯な願い。
ライカははっきりと覚えている。子供の頃、アリエスを離れて四年間ほど、エヴェルク大陸中部の大都市カルバミアンで母親とともに暮らしたことを。そこでの生活はいい刺激となって、彼女の気質をつくりあげた。
アイバーフィン。それが彼女の部族の名前。銀色の髪はアイバーフィン特有の色なのだ。“翼の民”という意味を持つアイバーフィン達は山間に居を構えることが多い。天高くそびえる山は、彼らを象徴するものだから。空、風――彼らはそういうものを司り、また自らの力としている。アイバーフィンは風の力を操ることが出来るのだ。さきの化け物との戦いで、ライカがかまいたちを起こせたのもそのためである。
しかし、ライカはまだそれほどの力を持っているわけではない。翼を持っていないのだ。
彼らアイバーフィンが“翼の民”と名乗る何よりの理由は、空を舞うことが出来るためだ。“ラル”という風の世界に赴き、試練を受けることで彼らは背中に翼を得るのだ。翼を手に入れるための試練も非常に厳しいものである。ライカの父もそれがために命を落としているのだ。彼らの翼は精神的なもので、物質世界であるアリューザ・ガルドでは、本人が意識的に見せようと念じる以外、なかなか見ることは出来ない。ただ、飛ぶ際に時折現れる二枚の翼は光り輝き、天からの使いかと人々に思わせるほどだ。
その日。ライカは彼女の家からそう遠くない所にあるレテス谷へ出かけていった。そこは、いつもなら冒険と称して友達と出かけるところだ。活発な彼女は、男の友達と一緒になって野山で遊ぶことも多かった。
しかし、その日に限って彼女はひとりで出かけた。なぜか、そんな気分だったのだ。レテス谷は危険な場所ではないが、そこに住む風の精霊が時々悪戯をおこすとも言われている。ひとりで行くのは避けたほうが良い、そう思いながらもライカは谷に向かった。
谷の小径を降りていく途中、ライカは目を疑った。いつもどおりの径。しかし岩肌の向こう側にちらりと、見慣れない光景を見たのだ。それは山の花が咲きこぼれる野原だった。
(ふうん、こんなにきれいなところがあったなんて。今までは遊ぶのに夢中で、見落としてたのかな?)
ライカの足は自然とそちらに向いた。野原への道のりはなかなか困難で、大岩を無理矢理に登ったりしてやっとのことで辿り着いた。だが彼女が野原に足を踏み入れようとした途端、いきなりその情景は消え失せたのだ!
(これはまさか、風の精のまやかし? ……え!?)
ライカの片足は地面を捉えていない。彼女は眼下に広がる景色におののいた。
切り立った谷間。足下には奈落の裂け目。彼女の身体は今、崖から一歩踏み出していたのだ! もはや体勢を戻すことは叶わない。ライカは崖から落ちていった。耳元で風が切る。彼女の体は奈落の底へと向かっていく。
(……わたしはおしまいなの? こんなにあっけなく……)
絶望の中、ライカは最後の望みに託した。風の力に頼ることだ。彼女には翼が無いとはいえ、死を目前とした時には何かの力が生まれ出るかもしれない。とにかくそれしか考えられなかった。彼女を包んでいるのは、死への恐怖。
しかしついに、風は彼女の救いにはならなかった。
意識が忘却の彼方へ赴こうとするなか、彼女は思った。
(落ちていく……)
(ちょっと無茶したよね……)
(「風」も助けを聞き入れてくれなかった)
(わたしの力だけじゃあ……もう……)
(……飛ぶのは……生きてかえるのは……)
(無理……よね……)
(……でも、絶対に……死にたくなんかない!)
その時。ライカは気付いた。
誰かが自分の体に触れる感じ。膨大な量の何かが頭の中に流れ込む感じ。
そして見た。
まばゆいばかりの光の球が彼女のからだを中心に、外へ外へと膨らんでいくのを――。
「……俺も同じ感じを覚えたよ。俺はライカが野原で倒れているのを見て近づいてみた。ただ倒れているんじゃない、って分かったんだ。ライカの周りは何も無くて……そう、空が覆っていた。そして俺がライカの側に辿り着いた途端に、景色ががらっと変わって……俺はライカとともに奈落の底へ向かって落ちていった。あの時は何がなんだか分かんなかったよ。俺がライカの腕をつかんだ瞬間に俺の体は光に包まれて、気を失って……気付いたら俺達はクロンの宿りのそばにいたんだよな」
ライカの話を聞いていたルードは言った。
「レテスの谷でわたしが見た野原の幻像……あれはきっと、スティン高原の野原だったのね。そしてそこにルードがいた、というわけね。あの瞬間、フェル・アルムとアリューザ・ガルド、お互いの世界が繋がったんだわ。そのあとわたしは幻像の野原でなく、現実の崖から落ちていってしまった。ルードもその一瞬だけ、わたしの世界に来てしまったのよ。でもそれからなぜかわたしがこっちに来ちゃって、今に至ってるんだけどね……」
ライカが一言一句確かめるように言う。
「なるほどねえ……」とハーン。
「どうして二つの世界が繋がったのかは分からないけれど、人間には想像も付かないほどの大きな“力”が働いたんだろうね。ルードは覚醒し、ライカは異世界に連れてこられた。君達が転移させられたのはクロンの宿りの付近で……そこには偶然にも前日戻ってきた僕がいた。既に覚醒を経験した僕が、ね……」
「大きな力かあ……」
ルードは後ろ手で頭を抱え込むとつぶやいた。
「それって、俺達三人の“運命”ってやつなのかなあ?」
「そう。運命と言ってもいいだろうね。今の僕達に吹いている一陣の突風が、このまま何事も無く過ぎ行くものなのか、もっと大きな、嵐を呼ぶものなのか。……僕は後者のような気がするけれど」ハーンが言う。
「ふん……」ルードが鼻を鳴らした。
「まあ、あまり深く考えないで、突き進んでやるさ、俺は!」
そう言ってこぶしをぎゅっと握り締めた。
「へえ、ずいぶんと強気ねえ」ライカが言った。
「ああ! なんで俺がこんな事件に巻き込まれなきゃいけないんだ、なんてふうにくよくよと運命をうらむのはやめたよ。そしたらさ、頭ん中が妙にすっきりしたんだよ。だから、こうなったら俺の運命とやらの行き着く先を見てやるのさ!」
それを聞いて、ハーンが笑みを浮かべた。
「ふふふ、ルードも強くなったもんだねえ、うん、これからはいちいち悩んでいられないかもしれないからね。〈帳〉だって突拍子もないことを言うかもしれないし」
(強くなった、か。でも、運命を見きわめるための、そしてライカを守るための強さが、俺にはないんだよ……)
ルードは心の中でそっとつぶやいた。
しばらくして彼らは床に就いた。ルードもすぐに寝ついた。
今や三人は“運命”の渦に入り込んだのだ。
第五章 ルードの決意
一.
重厚でありながら透明感あふれる音がいくつも重なり合い、明かりのともった煉瓦造りの部屋に響き渡る。確かな運指でタールをつま弾くのは、ハーン。
ルード達は何事も無かったかのように、クロンの宿りの旅籠〈緑の浜〉にいた。ハーンはソファーに深く腰掛け、思慮めいた、それでいて楽しそうな表情を浮かべながら演奏をし、ルードとライカは入り口付近で、彼の演奏に聴き入っている。
ハーンの左の指先がタールの弦を強くかき鳴らし、曲が終わることを告げると、ルード達は拍手をした。ハーンは、そんなルード達のほうを見てにんまりと笑った。
「そして僕達は結局、ここに戻ってきたってわけだよ……」
タールを右腕で抱え込み、感慨深げにハーンが言った。
クロンの宿りに着くまでの道中では疾風と出くわさずにすんだ。一行は、クロンの宿りで一日ゆっくりと休んでから旅立つことにした。急ぎの山越えは、馬に乗っていてもかなりつらいものだった。旅慣れたハーンや、毎日の羊との生活で鍛えられたルード、山間に暮らすライカ。そんな彼らであってもだ。
カウンターの木戸が開き、宿の主であるナスタデンが部屋に入ってきた。
[ハーンよ、あんた達の部屋の準備は整ったよ。ほら、あんた達も疲れてんだろう? ゆっくり休みな!]
そう言うと彼は、一行についてくるように、と促し、体を揺さぶるようにして部屋へと案内した。まず部屋に通されたのはライカだった。フェル・アルムの言葉を解さない彼女は何も言わず、主人にお辞儀をして部屋に入っていった。
ルードは自分の部屋に通されると主人に言った。
[ありがとう、ナスタデンさん!]
[うん。旅ってのはな。それまで知らなかったような、いろんなものを見つけられるもんだ。そこから何かしかを学べば、ひと回り人間が大きくなる、と俺は思ってるんだ。あんたにはそういうことを期待しておくよ!]
ナスタデンはそうルードを激励すると、扉を閉めた。
ルードは大きく伸びをし、ベッドにどさりと倒れ込んだ。
すると急に睡魔が襲いかかってきて、ルードの頭は考えることを拒否しはじめた。
「疲れた……」
言うなり彼の両のまぶたはごく自然に閉じていき、眠りに落ちていった。
* * *
ルードが目を覚ました時、すでに昼近くになっていた。旅の疲れは完全にとれたとは言えない。全身にだるさを感じながら、ルードはしばらくベッドの上で何をするでもなく、ごろごろとしていた。
(俺達、追われてる身なんだよな……なんか実感が湧かないよなあ。こんなゆっくりしていて大丈夫なのかねえ?)
そう考えて大きなあくびを一つ。
その時、扉がノックされた。
「ルード、起きてるかい?」と、ハーンの声。
「ああ……」
ベッドにうつ伏せたまま、ルードは眠そうに返事をする。
「入るよ!」
言うなりハーンは部屋に入ってきた。ルードも、もそりと起き上がる。
「疾風がこの町に来てしまったみたいだ!」
「ええっ!?」
突然のハーンの言葉に、ルードも眠さなどどこかへ吹き飛んでしまい、自分が置かれている現況を急に実感した。
「そんな、本当に?」
「うん、こいつは冗談抜きだよ。さっきナスタデンの奥さんが買い物をしている最中に、君達のことを訊いて回っている人に出会った、って言うんだ。名前や、風体までこと細かにね。そんなことを訊く人なんてふつういないだろう? すぐに出発しないと! それでも、一戦交える覚悟はしておいたほうがいいよ! もしかしたら、町の中で出くわす、なんてこともあり得るしね! ……やつが、こんなに早く来てしまうなんて……ちょっと甘く考えていたよ」
ハーンは額に掌を押し当て、自分を呪うようにそうつぶやくと、部屋を出ていった。
ルードは急いで飛び起きて着替えると、荷物を持って玄関に急いだ。ハーンとライカはすでに玄関で待っていた。ライカはこれまで同様、自分の髪を隠す格好をしている。
「なあ、ハーン」
「何だい?」
「俺達の名前や、格好までばれちゃったってことは……スティンの人達、大丈夫かな……」
「……ああ、大丈夫さ。奴らは無関係な人に危害を与えたりはしないよ。目標はただ一つ。当事者――僕らだけさ」
ルードはうなずくと、玄関の扉をぎいっと開けた。
用意のいいナスタデンは、一行の馬を表に連れてきていた。
[ありがとう!]
ハーンは荷物をくくり付けると、さっそうと馬にまたがり、ナスタデンに礼を言った。
[何やら……ひどく大変なようなにおいがするがよ、十分気を付けて行けよな!]と、ナスタデン。
一行は主人に別れの挨拶をすると、馬を急ぎ足で歩かせた。
通りの雰囲気はいつもと変わらない。町ゆく人々も普段と変わらぬ生活を、何の気なしに送っている。だがルード達は違う。周囲の和やかさとはかけ離れた、緊迫した空気が集まっていた。
どくん、どくん、と。ルードは自分の心臓の確かな鼓動を感じていた。手綱を握る手にも、力がこめられる。彼の前を行くハーンも、どこかしら焦っているように見えた。
疾風らしい人物に出くわすことなく、ようやく彼らは町から出る石造りの門をくぐった。そこに辿り着くまで途方もなく長い時間を費やしたようにルードには感じられた。三人が三人とも焦燥の念に駆られているようで、そんな空気がお互いに伝わりあい、より一層どつぼにはまっていく。
クロンの宿りを出て少し行くと、人々が暮らしている環境から離れ、あたりは急に閑散とした風景になる。南には青々としたスティンの山々が、また遙か北にはごつごつとした岩地が広がっている。
前方はただまっすぐに石畳の街道が続いているが、その彼方では、荒涼とした大地がかげろうで揺れている。それが遥けき野。鍵を握るとされる人物、〈帳〉が住んでいる地域だ。
遙けき野に着くまで、少なくとも二日はかかるだろう。その間、敵に襲われずにすむ、という保証はどこにもない。今までは幸運が続いていただけなのだ。ルードは自分の背筋が寒くならずにはいられなかった。
そして、その時はやってきた。
二.
「ハーン……」
最初に小さく声を出したのはライカだった。
「うん」
ハーンは彼女の言わんとすることを理解したのか、前を向いたまま、小声で返した。
ルードは彼らの雰囲気から状況を察した。
(疾風が来たのか……。でも、やっぱりライカは俺よりハーンを頼ってるんだよなぁ……)
緊迫した状況の中ではあるが、ルードは一瞬、ハーンに嫉妬するのだった。
ライカがルードの肩をたたき、彼は我に返った。その途端、嫉妬めいた感情は消え失せ、代わって恐ろしいまでの緊迫感に支配されてしまう。
「異様な風の流れが伝わってくるのよ……」
「そう、すさまじい殺気を感じるんだ」
「疾風……なのか?」
ルードがその言葉を口にした時、心臓が飛び出るような恐怖を感じた。“常識”から超越した現実、本来は遠くにあるはずの死という概念を肌に感じたからだ。
「そうだよ。奴だ」
ハーンは前を見つめたまま語りかける。
「殺気はどんどん近づいて来ている。かなりの勢いでね。……今さら馬を走らせても、追いつかれるのは……こりゃあ時間の問題だろうねぇ……」
ハーンはそう言いつつ、左手で馬の鞍を探る。そして彼の手は、探しているものを握りしめる。あの圧倒的な“力”を持つ銀色の剣だ。
ルードは戦いだけは避けたかったが、そうせざるを得ない状況になっているのだ。ハーンはルードのほうを振り向いた。
「なぁに、君達が戦うことなんてないさ。僕が……ひとりでかたをつけるよ! ……奴と戦う。こういうことを言っちゃうのはいけないんだろうけど、どこかで期待していたんだよ。かの“疾風”と剣を交えるってことに、さ」
この切迫した場でありながら、ハーンにはどこか余裕のようなものがあるように感じられた。彼も先ほどまで焦燥に駆られていたのだが、一度腹をくくってしまうと度胸が据わるのだろう。幾多の修羅場をくぐり抜け、なおまた戦慄を求める戦士としての彼がそうさせているのか。
ハーンが馬を止めた。ルード達はハーンの一挙一動にすらどきりとした。ハーンは彼らのほうへ馬を寄せ、いつもの日溜まりのような声で言うのだった。
「さあ、君達は何もしなくていい。僕に任せてくれればいい。そう、見ているだけで。――!」
「あっ!」
ハーンとライカが、ほとんど同じく声をあげた。
とっさにライカは低く小さな声で言葉を紡ぐ。それが終わるとともに、突然強い突風が渦を巻き、彼らの周囲を包んだ。ほぼ時を同じくして、ルード達を狙ってきた数本の矢が風によって力を失い、何ラクか手前にぽとり、と落ちたのだった。
風がやむ。
ハーンは馬の向きを変え、前方を――矢の飛んできた方向を見据える。ルードもそれにならい、恐る恐るではあるが向きをただし、ハーンの後ろに馬をつけた。ルードは心臓が張り裂けそうではあったが、きっと前を見据えた。そして彼は見た。ものすごい勢いで自分達に近づきつつある黒い人影を。
ルードはあらためて自分の身体を巡る血潮を強く感じ、手綱を握りしめた。ライカも、ぎゅっと彼にしがみついてくる。
「ありがとうライカ。今、風を起こしてくれたよね?」
ハーンが言った。
「そう。私にはこれくらいしか出来ないから」
「あとは僕に任せてちょうだいな」
「でも、あんな遠くから矢をとばせるような腕だぜ? ハーンも気を付けてよ」
今までならばライカの言葉を受けて『じゃあ俺には何が出来る?』と悩むルードだったが、そんな余裕は持てなかった。
やがて男の顔がはっきりと見て取れるようになった。薄汚れたマントに身を包んだ、中背の男が馬を駆っている。あからさまに発散させているその殺気にルードは押され、男を凝視したまま動きを奪われた。
ハーンはただ静かに男を見ていたが、「下がって」と、ルード達に言い残し、男のほうへと近づいていった。
[……どうしましたかぁ?]
男はハーンのそばに落ちた矢を見つめている。
[やはり、お前か! ベケットの酒場に居合わせていただろう。あの時から妙な感じを抱いていたのだ、俺は]
威嚇のこもった、低い声で男は言った。
[えーっと、何でしたっけ?]
ハーンはとぼけてみせたが、耳を傾けることなく男は言う。
[お前は普通の人間と何か違う、とその時ですら思っていたがな、確証した。今、俺の矢が不自然にそれたな?!]
そう言って男は馬から下りた。
[起こるはずのない風が突然起きた。人為的な、奇っ怪な風がな。それがどういうことか分かるか?]
ハーンは動じない。うすら笑みを浮かべながら馬を下りる。
ルード達も馬を下り、ハーンから遠ざかった。男はルード達を一瞥すると、ハーンを睨みつけた。
[そのようなことが出来るのは、俺の知識の上では限られた人間だけなのだ!]
殺気がハーンに叩きつけられるが、ハーンは平然としている。へえ、などと、とぼけた感嘆をする始末だ。
男は冷たい声で続けた。
[貴様……ニーヴルか? 奇怪な技を使う……。だとしたら、神隠しなどという事件も納得出来る]
[やれやれ、勘違いしてませんか? 僕はただ旅をして――]
[答えろ! 貴様がニーヴルの残党か、否か!]
有無を言わせない威圧的な口調で男が言った。ぴりぴりとした緊張感が周囲を覆う。
ハーンはあごに手を置き、考えるふうをみせていたが――おもむろに口を開いた。
[……もし僕が、そうですよ、なぁんて言ったら?]
[お前を殺す! 確実にな!]
言い終わらないうちに男は瞬間的に間合いを詰め、隠し持っていた剣をハーンに突き立てた!
ハーンも、即座に馬から剣をとり、応戦する。
がいん……という鈍い音。
必殺の一撃を失敗した疾風は、間合いを取り剣を構え直す。そしてまばたきする間もなく、再度ハーンに攻撃をしかけた。
ハーンは鞘を抜き剣身をさらす。きらりと鈍く銀が光り、ハーンは疾風に立ち向かう。そのまま、神業的な速さで剣を振り下ろした。
刺客は攻撃を諦め、さらに間合いを取る。そこにハーンの攻撃が炸裂した! まばゆい閃光がハーンの身体を覆い、次には白い弾が放たれ、疾風に命中した。
[うぐはっ……]
男は声にならない悲鳴を上げつつも、懐に忍ばせていた短刀を投げつける。ハーンは避けきれず、胴をかする。ハーンは、白い服に血がにじんでいくのを気にかける様子もなく、二撃目の光弾を刺客に投げつけた。
[ぐわぁっ!!]
最初のものよりさらに大きな光球が疾風を直撃し、数ラクも吹き飛ばした。
[さすがは疾風。……でもさ、僕もこんなとこで君なんかにやられちゃうわけにはいかないんでねぇ。だから手加減はまったくしないよ!]
傷を受けた胴をさすりながらそう言って、ハーンは剣を構え走り寄る。
[ニーブルめ! 反逆者があ! 殺してやる!!]
疾風は血を吐き捨てると即座に起き上がり、素早く攻撃の態勢に移った。
[はぁぁっ!]
気迫のこもった疾風の声。今回の競り合いは疾風に分があった。彼はハーンの剣の鋭い一撃を受け止めると、ハーンに体当たりをかました。鈍い音がする。
「うわっっ!」
衝撃はすさまじく、ハーンは十ラク以上も吹き飛ばされた。ハーンはうつ伏せになったまま動けず、呻き声を漏らす。
疾風は急に、ルードとライカのほうを向いた。その眼光は鷹のような鋭さを持っていた。
「……!!」
空気が、止まる。
ルードの心臓が一度、大きな音を立てた。
疾風が大声で言い放つ。
[小僧ども! このニーヴルの男を処分したあと、すぐ貴様らも消してくれる。こいつのことを人心を惑わすニーヴルと知って旅を続けているのなら、なおさらな!]
[そんなこと、させやしない!]
ハーンが立ち上がり、駆け寄る。疾風に向けて剣をなぎ払った。刃が銀色の帯とともに、唸る。疾風はそれを軽くよけると、再びハーンのほうに向き直り、剣を構えた。
そして、剣の応酬が始まった。
幾度も剣を超人的な速さで合わせ、そのたびに火花が散った。かと思えば、お互い牽制しあい、相手の隙を誘う。力技のみで戦う場面、冷静かつ理論的に攻撃を組み立てていく場面、意表を突いて足払いなどの体技を仕掛ける場面など、彼らの戦いは刻々と変化していった。
ルードは自分の立場すらも忘れ、この戦いに見入っていた。彼にとって実戦を見るのが初めてである上、この戦いは剣の達人同士の死闘なのだ。お互い躊躇することなく相手を倒すことだけを考えている。この情景を目の当たりにして、ほかのことが考えられるわけがなかった。
渦巻く殺気を常にぶつける疾風。
対するハーンはそれを受け流すがごとく、落ち着いた表情をしている。笑みをみせてもおかしくないほど、余裕のていであった。ハーンのほうが相手より一枚上手のようにみえる。疾風の動きをほぼ読み、追いつめられるそぶりも無い彼は、剣技大会で毎回優勝していてもおかしくない。細身の身体から繰り出される技は、それはとても信じがたいものであった。
「ハーン、勝つわよね?」
ルードの後ろでライカが話しかけてきた。そして不安げに、彼女の指がルードの握りしめた拳に触れる。
「え? ああ。……うん、そうだな、……大丈夫、勝つさ」
我に返ったルードはそう言ってライカの手を握る。ルードとライカはお互いを感じることで、不安を少しでも取り除こうとしたのだ。
しかし――ルードは見逃していなかった。ハーンの服に滲む血の朱が、徐々にではあるが大きくなっていくのを。先ほどの刺客の体当たりで、傷口が大きく開いてしまったのだろう。加えて、村に戻る時に遭遇した化け物との戦いで、ハーンは胴を痛めているはずだ。
(長引くと……まずいぜ……ハーン!)
言葉には出さなかった。ライカを不安にさせるわけにはいかなかったから。しかしルード自身、恐怖の念に襲われ、彼はせめて、ライカの手を強く握りしめた。
疾風は分かっているのだろう、勝機が見えてきたことを。
ハーンの攻撃がいっそう激しさを増す。何回か疾風を追いつめるものの、そのたびに疾風も窮地をくぐり抜けていた。ハーンの顔からは以前のようなゆとりが消え失せている。
対する疾風は、疲れの表情などまるで見せない。術の直撃を受け、さらに剣の傷を何カ所もつくっているというのにも関わらず。彼は痛みを感じないのだろうか、いや、死すら恐れていないのかも知れない。
「ああっ!!」
ルードと、ライカは一斉に驚きの声をあげた。
ハーンの剣が弾かれてしまったのだ。剣はハーンの手の届かない場所にまで飛ばされた。ハーンは一瞬戸惑ったが、術を行使しようとした。彼の右手が白く光ったその刹那、ハーンは疾風の体当たりをくらい、吹き飛ばされた。
[勝機!]
「ラ、ライカ!?」
「ハーン!」
三人の声が奇妙に重なる。
疾風はハーンにとどめを刺さんと駆け寄る。
ライカは――彼女の行動は予想外だった。彼女はルードの前に躍り出て何やらつぶやくと、両手を前にかざしたのだ。
「ライカ!!」
ルードは知っていた。彼女の姿勢が何を意味するのかを。
次の瞬間突風が起き――
[うおおっ!!]
標的に命中した!
ライカの起こしたかまいたちが疾風を切り刻む。彼には避けようがなかった。鋭利な空気の刃は、ひゅんひゅんという鋭い音とともに彼に襲いかかり、そのたびに細い血の筋が、舞い上がった。
風がおさまった。
ゆらりと立ち上がった疾風の目には、もはやハーンは映っていなかった。彼はぎろりと、鋭い目でライカを睨みつけた。
ライカは殺気に飲まれ、動けなくなった。怯えているのがルードに伝わってくる。
[小娘がぁっ!]
疾風が吠える。
「あ……わたし……」
刺客の言葉は分からなくとも、ライカは震えあがった。
疾風は即座に懐に手をやると、ライカに向かって何かを投げつけた!
(短刀だ!)
短刀はきらりと光り、まっすぐライカを狙っている。当のライカは――やはり動けない!
ルードの想いが、一瞬にして一つにまとまった。
(俺に何が出来る?)
先ほど心の奥にうごめいていた、彼の純粋な想い。
それが今、もぞりと音を立て、心の表層に躍りでた。
(何が出来る……今!)
(……これしかない!)
ルードは何のためらいもなく、想いのままに行動した。
ざぐり――
それは瞬く間もないほど短い間の出来事だった。
ライカは知った。自分の前にルードが立ちはだかるのを。次に彼女は、 ルードの身体に当たる、鋭い音を聞いた。
ルードはしばらくそこに立っていたが、声もあげずに地面へと倒れ伏した。彼の胸に刺さっているのは――短刀だ!
「ル……、ルード!!」
我に返ったライカは悲痛な声で叫んだ。
ルードは身を呈してライカを凶刃から守った。それこそが、ルードに“出来ること”だったのだ――!
「ルード、ルード!」
ライカはルードの前にかがみ込む。
ルードは朦朧とした意識の中、胸に突き刺さった短刀を何とか自力で抜いていたが、あとはどうしようもなかった。暖かい血がどくどくと湧き出て、服を汚していくのが分かる。目の前には今にも泣きそうな面もちのライカの顔があった。
「ルード、ねえルード! しっかりしてよぉ!」
ライカはルードの頭を抱き抱え、涙をこぼしはじめた。ルードは自分もまた泣いているのに気がついた。
(そうか……俺、もうすぐ死んじまうんだ……)
死が、鮮明に感じられた。だが恐れはない。
(今、ライカを守れなかったら、それこそ後悔するだろう……)
(そうだ、これでいいんだよ……)
(これでよかったんだ……)
三.
しばらくして、ルードの意識は急に明瞭になった。目をゆっくりとあける。
光しか感じられないぼんやりとした情景から次第に焦点が合い、ハーンと、ライカの顔が視界に飛び込んできた。身体が動かない。ハーンが手当をしてくれたのだろうか、胸の痛みは薄れているが、湧き出す血は止まらない。すでに、手足の感覚がなくなってしまっていた。
あたりは静まり返り、何も聞こえない。
それは――緩慢過ぎるほどの平穏さだった。
「ハ……ハーン」
本当に自分の声かと訝るくらい、それは弱々しい声だった。ハーンは、その声を聞いて安堵の顔を見せる。彼自身、まだ胴から血を滲ませているというのに。
「奴……は……?」
「大丈夫」
そう言ってハーンは、ルードの手をしっかりと握りしめる。
「君とライカのおかげで、まちがいなく倒したよ。どうやら彼は、ルードとライカが事件の中心だというふうには思ってなかったみたいだね。僕こそが危険なな存在だと、勘違いしてたみたいだった」
ハーンは血糊がべったりとついた剣を見せた。ハーンが疾風を屠った事実から、幼い頃の戦争の記憶がルードの頭をよぎった。が、そんな嫌悪感は、自分の胸からあふれる血によって押し流されてしまった。
「わたし……でも!」
ライカがしゃくりあげながら声を出した。
「でも、ルードがこんなことになっちゃって……」
彼女は顔を涙でくしゃくしゃにして、ごめんなさい、と何度も何度も謝った。そんなライカを見て、ルードは両手をゆるゆると伸ばし、ライカの頬にそっと触れた。ライカはルードを見つめ、両の手でぎゅっとルードの手を握りしめた。
「ルードぉ……うう……」
「ちょっと俺も……しくっちまったよね……」
死が自分をいざなっているのを知りながら、ルードは落ち着いた、優しい声でライカに語りかけた。
「でもさ、後悔なんかしてないよ? ……だって俺は、ああいうふうにすべきだったんだからさ……」
そこまで言って、ルードは激しく咳き込んだ。なま暖かいものが口の回りに流れる。
「ルード!!」
異口同音に二人が言う。
「……ごめん。ここまでみたいだ……ライカ……頑張って、ことを最後まで見届けてくれ……」
「いやよ……ルード……一緒に行くって、私を帰してくれるって約束したでしょ?」
ライカはルードの手をもっと強く握りしめた。彼女のいじらしい言葉を聞き、ルードは目頭が熱くなるのを感じた。
「ライカ、分かってくれ……悪いと思ってる。……ハーン……」
「……なんだい?」
「ライカを守ってほしい……それと……」
「うん?」
「ハーンの持ってる剣を、もう一回握らせてくれないか?」
ハーンは、横に置いてあった銀色の剣を持ち出すと、疾風の血糊をふき取った。そしてルードの両腕を胸の上で十字に組ませると、剣をルードの両手に握らせた。剣は陽の光を受けたためか、一瞬まばゆく光った。
「ルードだったら、この剣を使いこなせるさ」
ハーンはにっこりと笑って、優しく語った。
「ありがとう……」
ハーンの言葉のせいか、剣を握った手から何かが流れ込んでくるような気さえした。だが、もはやルードは、意識を保つことすらつらかった。
目を閉じてしまえ! という心の声がだんだんと大きくなってくる。
(……そうだな……)
(それも……いいかもな……)
(ライカ……ごめん……)
(帰る方法を見つけるって……約束したのにな……)
そして――
ルードはゆっくりと目を閉じ――
意識が無に帰すのを感じながら――
死に向かって行った――
第六章 意識の彼方にて
一.
広大な大地があった。それがどこまで続いているのか定かではない。周囲を覆うものは何一つなく、ただうすぼんやりと霧が立ちこめているのみ。空には太陽と呼べるものはなかったが、やけに明るかった。曇り空の向こうがわに陽の光がある、そんな曖昧な感じだ。
不思議なことに、空は特定の色を持たず、七色に常に移ろい、大地にほのかにその色を映し出していた。時として、極光のように妖しく揺らめいたりもする。そんな空から時折舞い降りる小石ほどの透明な水晶は、透明感のある音をたてて空中で砕ける。砂粒ほどの大きさの水晶は、煌めきながら大地にゆっくりと落下していった。
大地そのものも、実のところ一定ではなかった。今まで山があったところに、今度は森が出現し、次には大河が流れる、といった具合で、世界の様相というのは決して留まることなく、常に変化していた。
〈幻想的〉という言葉は、この空間を説明するためにあるのかもしれないと思わせるほど、現世とはかけ離れていた。
もしかすると、時や、場所という明確な概念が存在しないがために、このような不自然な形態を持ち得ているのかもしれない。だが、この世界に住人が存在するというのなら、彼らにとってこの〈不自然〉こそが〈当然〉なのだろう。
* * *
その〈意識〉は、今まで聞いたこともないような大地にひとりたたずんでいることを認識した。また〈意識〉そのものが、ルード・テルタージ――今までと変わり無い自分のものである、ということも。
ルードには、ここがフェル・アルムのどこかでも、ライカの住む“アリューザ・ガルド”でもないことが、何となく分かっていた。
ルードは自分の身体を触って確かめた。姿かたちこそ旅を続けていた時と同じだが、肌の感触はどこか異質であった。
(ここは……死後の世界? 伝承とかに出てくる、“幽想の界”とか言われるところなのか?)
次にルードは、自分の最期を思い起こした。自分の負った傷のことより、なるべくルードを安心させようと努めていたハーン。ライカは――自分の軽率な行動を泣きながら悔いていた。しかしライカの働きがなければ、ハーンはまちがいなく疾風にとどめを刺されていたろうし、そのあとで自分達も殺されていた、ということは想像に難くない。
(後悔の気持ちはないさ。だって、ライカを守れたんだから……けど、もう一度彼女に会いたい!)
ひとりぼっち。ライカや、ハーンはもちろん、ケルンやシャンピオ達友人、村の人々も。この空間に人がいるという気配がまったく無い。
「どうしようかなぁ……」
ルードがそんなふうに弱気にひとりごちた時。
「……誰?」
「え!?」
艶のある、大人びた女性の声が背後から聞こえた。ルードは、はっとなって振り向いた。ルードのいるところから十ラクほど離れたところにその女は腰掛けていた。
(ライカ?)
彼女の銀色の髪は、一瞬ライカを連想させた。むろんライカがいるはずもない。よく見れば、腰掛けている彼女の髪は白銀に輝いている。ライカの髪は紫銀だった。何より、あどけなさの残るライカとは違い、大人の女性の顔立ちをしていた。美女、という形容が似合う。
落ち着いた茶色の服を着た彼女は腰掛けていた。
しかし、どこに?
椅子のようなものは座している位置には見あたらないのだ。ルードが訝しがると、突如、周囲の様相はめまぐるしく移り変わりはじめた。
山、森、海――空間は音もなく瞬時に転移し、多様に変化する。やがて変化はゆっくりとある方向性をとりはじめた。
二.
ルードがふと気がつくと、そこは薄明かりの射す、大きな閉ざされた空間となっていた。ルードと、その女性の体勢は変わっていない。ルードは立ち尽くし、女性は――意匠の凝った大きな木の机の向こう側に座していた。聡明そうな彼女の青い双眼がきらりと光る。彼女はルードを興味深そうに値踏みするかのように眺め、言うのだった。
「ようこそ。あなたはここに何をお求め?」
「あ、あなたは一体? ここは……どこなんだ?」
「それを私に問うというのなら、まずはあなた自身のことを先に話すのが順序ではなくて? “バイラル”の子よ。――いえ……不思議ね、あなたは。察するに偶然に迷い込んでしまった様子だけれど。これはどういうこと?」
思慮深さを連想させるような声色で彼女は語った。
「お……俺はルード・テルタージ。それから俺はバイラルとかいう人の子じゃない。親父はヤール、お袋はリレエっていうんだ。もうずっと前に死んじゃってるけどね……」
ルードは彼女の持つ、不思議でありながらどこか心地よい雰囲気に戸惑いながらも答えた。
女性は、くっくっと喉で笑うと穏やかに告げた。
「そういう意味で申したのではありません。バイラルとは、人の種の中で最も多い……そう、あなた達の言うところの人間を指す言葉。当然知ってているかと思っていたのに」
「いや、俺は知らなかったよ。少なくとも、俺の住んでいるフェル・アルムでは使われていない言葉だから。――そうだ! 俺の連れに――ここにはいないけど――ライカって娘がいて、彼女のもといた世界なら、ひょっとしたら知られているのかも」
ルードの言葉を聞いて、女性の顔色が変わった。
「なんと? フェル・アルムと言ったかしら、今?」
ルードはうなずく。
「そんな、ありえないことが……。私達でさえあそこには干渉出来なかったというのに――」
ルードは、彼の最初の質問を訊き返した。
「それより、ここがどこなんだか教えてほしいんだ。ここは、死後の世界なのかい? それと、あなたは誰?」
「いいえ、“幽想の界”ではないわ」
顔をあげて彼女が言う。
「ここは“次元の狭間”。私はこの“イャオエコの図書館”の司書長を務める、マルディリーンといいます」
図書館、と聞いて、ルードはあたりを見回した。なるほど、窓からこぼれる明かりを遮るように、重々しい本棚がずらりと林立している。だが、書架がどこまで続いているのか、皆目見当がつかない。それほどこの図書館は大きいのだ。ひょっとすると、限りなど存在しないのかもしれない。
「ここには、世界のありとあらゆる本が置いてあるわ。それはそれは、私でさえ把握しきれないくらいにね。こうしてあなたと語らっている今ですら蔵書は増えているし、書き足されている書が幾つもある。
「今までも、真実を探求する者達がここを訪れたわ。しかしながら、数々の試練を乗り越えてきた人ですら、必ずしも図書館に辿り着けるとは限らない。
「ルード、と言ったわね。あなたのように、偶然に迷い込んできたバイラル、というのは永い年月を経てもはじめてね。それも、あの空間からの来訪者とは……何か運命の導きというものかしら?」
その時、本棚の並ぶ奥の影のほうから子どもが歩いてきた。従姉のミューティースの幼い頃を何となく連想させる彼女は、一冊の本を抱え込んでいた。少女はルードの前を通り過ぎると、マルディリーンの机の前にとことこ歩いていく。マルディリーンは机の前にでて、少女の目線にしゃがみこむと、本を受け取った。マルディリーンが笑って少女の頭を撫でてやると、彼女ははにかんだ笑いをみせ、どこかへ走り去ってしまった。マルディリーンとルードは、その様子を目で追う。
「あの子は、ここの司書をしている一人なのだけれど」
「え? あんな小さな子が?」
ルードが驚いている間に、マルディリーンはもとの場所に戻り、ゆったりした椅子に腰掛けた。
「さすが、と言いたいわね。どうやらあなたのことが載っている書を見つけてきたみたいだわ」
ルードは唖然とした。
「俺のことが、本に書いてあるだって!?」
にわかに驚くルードを、マルディリーンは制止した。
「大声を立てないで。司書の中には騒音を嫌う者もいるわ。それに、本達も静けさを好むもの。……これは、現在進行中の歴史を記している書物。そう驚く必要は無いわ。あなた方流に言うのならば、なんでもあり、の世界なのよ、ここはね」
そう言って彼女は本をめくっていく。ルードは、釈然としない感覚を強く抱きながら、それでもこの異次元の感覚に納得せざるを得なかった。
「ふうん……そう……」
すばやく読み終え、彼女は本をぱさりと閉じた。そして、その蒼眼でルードを見つめる。
「ルード」
「は、はい?」
「あなたとは……またいずれお目にかかることになると思うわ。今はまだその時ではない。だから、今はお帰りなさいな」
「でも、帰れって言われても、帰るところなんてないんだ」
「あら、何故?」
ルードは肩を落として言った。
「なぜって、俺は死んでしまっているんでしょう? だからさ、もとの世界には戻れないわけで……行くとするなら死者の世界だと思うんだけど?」
マルディリーンは目を閉じ、かぶりを振った。
「あなたは死んでいないわ。確かに最初に見た時にはあなたの活力は根こそぎ失われていた――そう、まるで死者のごとくにね。でも、死んでいるというのなら、あなたがはじめて立った地、“慧眼のディッセの野”に来るわけがない。罪無き死者の魂は等しく、果ての山々を越えて月に向かい、そして“幽想の界”の門に赴くのよ。それに、あなたはその後、活力をいや増している。私にも信じられないくらい、今では生命力に満ち満ちているわ」
「俺は……死んでいない、というの?」
ルードは嬉々として言った。確かに、今まで感じたことのないほど、自分が生きている、というのが分かる。生命の力が充実している。
マルディリーンは言った。
「……どうやら急を告げる事態が起きようとしている。そして、あなたはその鍵を握っているらしいわ」
「俺が、なぜ?」
「分からないわ。私は今から、この歴史書を解読してみます。私が本の中身を把握し、そして、私のほうからフェル・アルムへ干渉出来るようになったら――その時こそこれから起こること、あなたが為すべきことを語りましょう。今の私達の出会いは、まったくの偶発で一時的なもの。私には予期出来なかったこと。だから、あなたの姿もここから消え失せようとしている――」
美女はそっと微笑んだ。
と同時にルードの身体が、すっと透き通っていく。それとともに、今までいた情景が消え失せ、白一色になった。多くの本も、マルディリーンも、もはや見えない。
ルードは、今までどおりの自分の感覚――肉体の感覚が徐々に強まっていくのをその純白のなかで知った。
「では。おそらく近いうちにまた会いましょう」
マルディリーンの声だけが、反響して聞こえる。
「ちょっと待って! 最後に一つ、訊きたいんだ! あなたはなぜそんなに、俺の考えもしないことを知っているんだ? あなたは――なんなんだ?」
マルディリーンが、微かに笑ったような気がした。
「そうね……おそらくあなたが考えているとおりの存在なのよ。伝承の中にしかいないと考えていた、そんな存在が本当にいる、ということに混乱するでしょうけどね。――フェル・アルムに戻って、あなたが再び目覚めた時、ここでの出来事は夢であったかのように漠然としているでしょう。頭の中に抽象的なイメージがわいても、それを口から語れない。全てが鮮明になるのは、私との接点が明確になってから。……そう、次に会う時にね――」
ルードは純白の中、手を伸ばした。マルディリーンをつかまえようとするかのように。それが無駄であると分かっていながら。
すでに彼の躰は消え失せ、精神のみがそこにあった。だがそれもまた、この神秘的な世界から消え失せようとしている。
――そして、空虚。
三.
視界に広がる蒼。それは空。
爽やかなものは、かすかに吹く乾いた風。
どっしりとしたもの。大地と、肌をくすぐる草の感触。
ルードは気が付くと、両の眼を見開き空を見つめていた。次に感じたのは身体の感覚。肉体の重みを確かに感じる。
(生きてる……。なんでだ?)
両手はハーンの剣を握ったままだ。手を剣から離すと、短刀が刺さった胸をさすった。胸には止血のための包帯が巻かれており、血痕がどろりと手に付くものの、傷を負った感じや、痛みが全く感じられない。
ふと脳裏に、巨大な薄暗い空間と、神秘的な女性の姿が一瞬浮かんだ。だが、今のルードにはそれが何なのか分からなかった。夢での出来事を思い出そうとしても思い出せない、でも閃きのような何かは感じる、という感覚に似ていた。
ルードは首を横に動かしてみた。
ライカがいる。彼女は力無く座って顔を伏せたまま、嗚咽をあげている。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。ハーンは? ここからでは彼がどこにいるのか分からない。自分の見えない場所で、やはり悲しんでいるのだろうか?
(でも、俺は生きてる……!)
突如、ルードは生きていることの喜びに溢れた。充足感、幸福。どんな言葉でも足りないくらい、彼は生きていることを精一杯に感じ取っているのだ。自然と笑みがこぼれる。そうだ、俺が生きていることをライカに知らせなくちゃ。早く彼女の悲しみを取り除いてやらなきゃ!
「ライカ!」
「……え?」
ライカは涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。そして、ルードと目があった。
ライカは目をしばたたき、呆然としている。
「俺は――ルードは生きてるよ。だからもう泣かないでくれ」
「ル……ルード? ルード?」
彼女の中では今、驚きと喜びとが混ざっているようだ。
ルードはやおら、立ち上がった。やはり痛みはまるで感じない。むしろ爽快な感すらあった。
「ほら、このとおり大丈夫だ!」
ハーンの剣を地面に置くと、その手でどん、と胸を叩いた。
「ルードぉ!」
ライカはそう叫ぶと、また泣き出してしまった。ルードはひざまずき、右手で彼女の手を握り、左手を肩にぽんと置くと、優しく語りかけた。
「なぜ、泣くのさ?」
「だって、だって、……驚いたのと……うれしい! ……うん、嬉しいんだもの……!」
ライカはしばらく泣いていたが、それが収まると、ルードのほうへ顔を上げた。目は真っ赤に腫れているが、真摯な顔で彼を見つめる。
「……本当に、ルードなのよね? 幽霊じゃないわよねえ?」
「ああ、俺は生き返ったんだ。どうしてだか分かんないけど、でも、今までのことだって分からないことだらけだからさ、こういうことがあってもいいんじゃないか?」
「よかった!」
そう言うなり、彼女は抱きついてきた。ルードは少し狼狽したが、それでも彼女をいとおしく受け止めた。ライカの暖かさを全身に感じる。
「よかった……」
「……うん……」
二人はそれだけ言うと、黙ってしまった。何も言わずとも、二人は十分過ぎるほど、喜びを分かち合ったのだから。
しばらくして、駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。ルードはそちらのほうへ顔をやる。ハーンだった。ライカは涙を拭いながら、それでもルードから離れようとはしなかった。
今まで、ハーンは泣き崩れるライカの様子に見かねて彼女から見えないところにいたのだ。そして上衣を脱ぎ捨て、ハーン自身が先ほどの戦闘で負った傷の手当をしていた。胴体に巻かれた包帯が未だ痛々しい。
「……はあ……」
ハーンが最初にあげた声は、拍子抜けしたものだった。
「ハーン!」ルードは相対するように、快活な声を出した。
「そんな……そんなことが起こるなんて……」
ハーンは座り込むと、さも考え込んでいるように、指でこめかみを押さえてみせた。
「ほら、俺は無事なんだよ。傷もなくなったみたいで……。まるで快調なんだ」
どん、と胸を叩いてルードは笑う。だが、ハーンは生返事をしながら、ルードの脇に横たえてある剣を拾い上げた。
「……とにかく、何事もなかったかようで、よかったよねえ」
ハーンはそう言って笑ったが、すぐまた思い詰めた表情になって、剣をじっと見つめた。
ルードには、ハーンの今の感情をくみ取れなかった。いつもどおりのハーンなら、間違いなく大喜びするはずなのに。
ハーンは、半ば放心しながら剣を見つめていたようだが、ややあってしんみりと言った。
「本当によかったよ。……でもごめん。……君らを守り抜けなかった。そりゃあ、こうしてルードが生きてて、……万事がいい方向に収まったからよかったものの、僕にとっては取り返しのつかない失敗だったから……本当にごめん、僕自身、自分に奢っていたのかもしれない。自分の力にね。
「今日は早いけど、ここで休もう。色々あって疲れたよ……。ルードが生きていてくれたっていうのが何より嬉しいよ」
「短剣が刺さった時のことを思い起こすとぞっとするさ。でも今は傷一つないし、かえって快調なんだぜ?」
「え? 傷一つないだって?!」
形相を変えてハーンが問いただす。
「ちょっと見せてごらん……ふぅん、本当だ……」
ルードが胸の包帯を解くと、ハーンとライカは、傷があっただろう箇所をまじまじと見つめた。
「傷が……ないなんて……」
ライカはそう言うと、無造作に置いてあった件の短刀をかざしてみた。刃先には血痕がこびりついたままとなっている。ハーンは今し方取り去った包帯をじっと見つめていた。彼の手は、包帯から滲むねっとりとした血で汚されてしまった。
ルード自身もおかしいと思った。あれだけ血を吹き出していた胸元は、傷一つないのだから。まるで剣を胸に受けていなかったか、もしくは傷が完全に塞がってしまったかのような――。
「どうしたのさ?」
訝っているハーンに、ルードは尋ねた。
「……ううん、……そう、そうなのか?」
ハーンの返事は的を射たものではなかった。彼は立ち上がると再び剣に目をやった。思い詰めた表情で剣を見る、そんなハーンの仕草がルードには印象的に感じられた。
ルード達が、いつもどおりの彼らになるのにはしばらく時間がかかった。だが、野営するに相応しい場所を見つけだし、キャンプの準備のためにせわしなく体を動かしているうちに、徐々に普段の彼らに戻ってきて、天幕を張り終える夕刻頃には、変わらない笑い声が聞こえるようになった。
四.
夜も更けた頃。ルードはふと、目が覚めてしまった。
彼の身体は長旅の疲れすら忘れているかのようにすこぶる快調で、みじんの気だるさもない。
右隣で寝ているライカの寝息が静かに、正確に聞こえてきた。眠る支度が整った時、最初に眠気を訴えたのは彼女だった。ライカは床につくと、まもなく眠ってしまった。泣き疲れたのと、追われる身という立場ではなくなった開放感。それに、癒やしきれない長旅の疲れが加わったのだ。無理もない。
ハーンは二人を守るという立場上、ルードより先に寝るわけにはいかなかったものの、彼も起きているのがつらそうだった。ルードはそれを察し、疲れてもいないのにさっさと横になった。案の定、ハーンはしばらくしてから床について、眠りに入ってしまった。
完全に目が冴えてしまったルードは、上半身だけ起こして目の前の闇を見つめていた。次第に目が慣れていくのを感じながら、彼は考えていた。
(やっぱり変だ。ハーンが不思議がるのも無理ないよな。確かに俺は短刀を胸に受けて倒れたんだから。……こうして生きているのさえ大したもんなのにさ、傷一つない上に、こんなに身体の調子がいいなんて……)
一瞬、彼の脳裏に薄暗い空間と、女性の姿が浮かび上がるが、ルードが認識する前に消え失せてしまった。
「っ……!」
ルードに背中を向けて寝ていたハーンが、言葉にならない声を漏らした。傷跡が痛むのだろう。ハーンは仰向けに姿勢を変えると、目を開いた。
「あ、起きちゃったのか? ハーン」
すうすうと寝息をたてて眠っているライカを確認すると、ルードは小さな声でハーンに話しかけた。
「実を言うとさっきから眠ってたわけじゃないんだ。まあ、疲れにまかせて一刻ほど寝ちゃったけどねえ」
寝たままの姿勢で、小声でハーンが返す。
「天幕を張っている時は、いつも周囲に“護りの術”をかけてるんで外敵から襲われることはないんだけど……それでは対処出来ないこともあるだろうから、起きていたのさ」
「ふうん」
「それもあるんだけど……さすがにちょっと……その、痛くてねえ……」
ハーンは決まりの悪そうな顔をする。
「大丈夫なのか?」
「ま、所詮は人間の身体だからねぇ……」
そう言ってハーンは、深く溜息をついた。しかしルードには、ハーンの何気ない一言が妙に気にかかった。
「人間の……身体か……。なあ、ハーン、俺はどこか変わっちゃったのかな?」
きわめて真剣に、ハーンに問いかけた。
「考えてもみてくれよ。あれだけ死にかけてた俺が、こんなにぴんぴんしてるんだぜ? 俺は一体……人間なのか?」
ルードは感極まって胸の奥がつかえそうになりながら、それでも何とか自分の思うところを口にした。
「あ、今僕の言ったこと? 『所詮は人間の身体だ』って。そんな意味で言ったんじゃないさ」
「でも!」
大声を出したルードは、ちらとライカの寝顔を確かめた。
ハーンはむくりと上半身を起こす。そしてライカが静かに眠っているのを確認するとルードのほうに向き直った。そして肩をすくめる。
「……やれやれ、こんなことになるなんて、考えも及ばなかったなぁ」
「どういう意味だよ?」
ハーンはやや間をおくと、真摯な口調で語りはじめた。
「……君の家で言ったように、僕の剣は今や、君に属するものなのかもしれない。僕が“果ての大地”で見つけたあの剣――ガザ・ルイアートというのだけども――のことを、『尋常ならざる剣だ』って言ったのを覚えているかな。君は先の化け物との戦いであれを握り、剣の持つ圧倒的な“力”に耐えぬいた。その結果、心の奥底の封印が解け、ライカと言葉を交わせるようになったんだよね。多分、剣がルードを認めたから、本来の言葉を取り戻したんだろうね。
「今の僕達は、これまでとは全く違う、考えもつかない事象の中にいる。ガザ・ルイアートも、それを感じていたんだろうね。だからこそ、一連の流れのなかで核たるべき、ルードの覚醒に力を貸したんだよ」
「ちょっと待ってくれよ、ハーンの剣は……その、心を持ってるってこと?」
「うーん……〈心〉って言えるほどじゃあないんだろうけど。さすがに対話なんか出来ないからね。とてつもない“力”を秘めている物っていうのは往々にして、その所有者に強大な力を与える反面、大いなる災いとなることもあるんだ。あの剣はルードを選んだ。そして今日、君が命を落としかけた時、あれはまた発動したんだ。“主人”を救うためにね。
「ガザ・ルイアートっていうのは、遠い昔の言葉で“土の神の腕”って意味を持つらしい。大地を司どる名のとおり、あの剣はルードの身体に大地から吸い上げた精気を流入させ、君を救ったわけだよ」
「それじゃあ俺は、これからどうすりゃいいんだろう? あの剣を持って――」
「そうだね。あの剣は君のものだ。だから、持ち主として恥ずかしくないくらいの剣の腕前は必要なんじゃないのかな?」
「え?」
思わず大声を上げてしまったルードは、ちらりとライカを見やる。すうすうと寝入っており、起きてはいない。
「俺が剣を握って……って、つまり戦士になれってことか?」
ルードは、刀身にべったりと付いた疾風の朱を思い出していた。ハーンが刺客を倒した。正しくは屠ったのだ。
次にルードの脳裏によみがえったのは、十三年前の記憶。村を壊滅に追いやった、壮絶な戦いの記憶だった。忘れることの出来ない精神の傷跡を間近に感じてしまったルードは、膝を抱え込んでうつむいた。
ライカの正確な寝息だけが確かに聞こえる。ルードとハーンは、お互いそのままの姿勢を崩さず、しばし沈黙していた。
「ハーン。無理だよ。俺は、人を殺――傷つけることなんて、出来ないよ」
ルードは思い出した忌まわしい記憶を、何とかしまい込もうとした。しかし悲しみは隠し通せず、その声は震えていた。
「……ルード君」ハーンはやんわりと声を出した。
「君が剣を握るのをためらう気持ちはもちろん分かる。……でもね、これからのことを考えると、そうも言ってられないのは分かるだろう?」
ルードはうなずいた。
「現にルードは、これまで二回、戦いに参加しているんだ。これからもそういう事態がないとは言えない。いいや、むしろ増える一方だろうね。そんな時でも、僕に頼ることなく、君が君自身を、そして、ライカを守り通せるなら、進むべき方向はより明るくなる、と思うんだ」
「守る……ライカを……」
「そう、何も正面切って戦え、とまでは言わない。もちろん、僕みたいに、多くの血の匂いを身体につけろ、ともね。守るんだよ。君と、君が守るべきライカを。ガザ・ルイアートの力と、君自身の力でね! それに、戦う相手は人間とは限らないよ。ルシェン街道で戦った、化け物を覚えてるだろう? ああいった異形の魔物とまた遭遇することだって十分考えられるんだ」
ハーンの言葉を聞いて、ルードは決意をもってうなずいた。
「そう。『運命の行き着く先を見てやる』って、俺は言ったもんな。ライカを守るために俺は……あの剣を握るよ……!」
「よく言ってくれたね、ルード」ハーンはにんまりと笑う。
「僕にとっちゃあ、〈帳〉のところに着いて、やることが増えたわけだ。〈帳〉の話を聞くことと、君に剣技を教えることとね!」
お互い目が慣れた暗闇の中、ルードも笑い返す。先ほどまでの負の感情は消え失せ、晴れやかな気持ちで満たされた。と同時に、睡魔が襲ってきた。
「俺の怪我が剣の力で治ったって言うんなら、ハーンの怪我だって治るはずじゃあないのか?」
眠気を押さえて、ルードが訊いた。
「僕は『すばらしい切れ味をみせる剣』としかあれを使いこなせないんだよ。相性が悪いせいか、ね。剣自身は僕に何の影響も及ぼさないんだ。災いも、そして助けも」
どこかしら寂しそうにして、ハーンは答えた。そして今度はハーンが、傷の痛みに顔をしかめながら立ち上がった。
「どうしたのさ?」
毛布をかぶったルードはいかにも眠そうに言った。
「ああ、寝てていいよ。ちょっと外を見回ってくるからさ。愛するライカと仲良くお休み!」
「な……馬鹿言うなよな!」
ハーンは痛む脇腹を手で押さえながらも、軽く揶揄すと、予備の短剣を手に外へと出ていった。ルードは、さきのハーンの言葉を反芻しつつ、ライカの寝顔を見つめていた。
(剣を握る……。そう、守ってみせるよ。そして……ライカ、君との約束も果たすから……)
ルードは迫りくる睡魔に勝てず、重いまぶたを閉じた。
* * *
「うん。“護り”も万全なようだし、周囲も大丈夫だね」
ハーンはしばらく、見張りをかねてあたりを散策していたが、それに飽きたのか、寝場所に引き込むことに決めた。
「……あの剣はやっぱりガザ・ルイアートだったんだなあ。どおりで僕が持ってたらはなにも応答しないわけだよ。聖剣とはよく言ったもんだ。このこと、〈帳〉はなんて思うのかね!」
軽い口調でそうひとりごちると、ハーンは空を見上げた。
そしてすぐ。
彼の表情は全く真摯なものに変貌した。
ルード達の前では、滅多にみせることのない表情。
「星が……ない……」
雲一つない天上の世界は、何も映し出していなかった。空を覆うべき星達は存在せず、あるのはただ、空虚な暗黒のみ。
狂おしいまでの漆黒のもと、ハーンはただ立ちつくすしかなかった。
虚ろな空を映し出していたのはその晩のみ。翌日からは何ごともなかったかのように、空は満天に星の姿を映した。
ハーンがその星空の下で思いに耽る姿をルードは目撃するが、浮かない顔をした彼が、何に思いを馳せているのか、ルードには知るすべがなかったのである。
第七章 〈帳〉
一.
ルード達はルシェン街道からはずれ、とうとう“遙けき野”と呼ばれる広大な大地に足を踏み入れた。
街道周辺で寝泊まりを繰り返すうちに、ハーンの身体も次第に癒え、再び軽口を叩きながら一行を先導出来るまでになった。ハーンの負担をなるべく減らすべく、ルードとライカが協力したことがハーンの回復に繋がった。ハーンに任せっきりだった夜の見張りなども、二人が代わって行うようになった。また、ルードもこういうことの積み重ねによって、ライカとより親しく接するようになり、嬉しく思うのだった。
ライカもこの世界に慣れたのか、はたまたルードを想い、目一杯の信頼を置くようになったためか、彼女本来の気性を現してきた。それはお転婆とも言える快活なものだったが、時折みせる神妙さと相まって、ルードはますます彼女に惹かれていくのだった。
傷の癒えたハーンは、あからさまにお互いを意識しあう二人に対し、冗談を交えて冷やかすのだった。二人が夜の見張りをしている時にこっそりと起きだして、茶化したこともあったが、さすがにこの時ばかりは二人から怒られた。
道なき荒野をさまようのは、彼らの肉体的にはさほど苦痛でもなかった。方角は太陽や、夜の星々が示してくれた。
問題となったのは食料だった。何せ、クロンの宿りを大急ぎで飛び出してきたものだから、ろくな蓄えがなかったのだ。ただ幸運なことに、痩せこけた大地と言われていた“遙けき野”においても、緑に生い茂った地は存在し、一行はそこで丸一日を過ごして食料と水を補充したのだった。
そうこうしている間に広野の中でまるまる七日が過ぎ、彼らにも疲れがみえてきた。ルードも手綱を握りながらうとうととすることがたびたびあり、ライカに代わってもらうことも多くなった。旅慣れたハーンですら眠気に耐えようとしている。しかし食糧の問題から、休み休み旅を行うことも出来なかった。
日を経るに従い、倦怠感に包まれた彼らは次第に無口になっていった。赤い土で覆われた荒野。乾燥し、痩せこけた荒涼とした大地。緑に囲まれながら日々の暮らしを送ってきたルードとライカにとってそれは、あまりにも見慣れないものであった。彼らは時折、背後に小さく映るスティン山地を、懐かしむ目で見るのだった。
そして八日目。
ハーンはそろそろ到着してもいい頃だ、と言う。だが、周囲に広がるのは一面の荒野のみ。建物と呼べるようなものなど見あたらない。ハーンは疲れながらも術を行使し、視覚を遠くまでとばしたりしたものの、彼がかつて過ごした家、館とまで言えるような大きな建造物はついぞ見つからなかった。そんな時、ハーンは肩をすくめるようにしておどけてみせた。とにかく進むしかない。
「……あら?」
変化に気付いたのはライカだった。彼女は馬を止めると目を閉じ、意識を集中させた。それにならうように、ハーンも馬の歩みを止めた。
「……どうしたのさ?」
ライカの背中ごしにルードが言った。
「……ごめん。ちょっと黙ってて。風が――」
振り返らずライカは言う。ルードはハーンのほうを見た。ハーンは何も感じていないようだ。
「そう。風の様子が変。今まで常に流れていた風の力が、ここでは止まっているのよ。それも、かなり長いこと……」
「ふうん。どういうことだい?」と、ハーン。
「風の流れが異質なのよ。まるでこの場所では時間が流れてないような、そんな感じで。アイバーフィンとしての知識で言えば、これは自然じゃないわ。いくらフェル・アルムがアリューザ・ガルドと異なる世界だとしても、今までは全て自然の理どおりだったもの。この感じは……そう! 誰かが意図的に作り上げたとしか思えないわ!」
ライカは目を閉じたまま、答える。
「……てことはさ、大賢人の家はここら辺にあるのか?」
ルードの顔がにわかに明るくなった。
ハーンは周囲を見渡し、“遠見の術”を再び使う。
「うーん。結界かな? 外見ではなんにもないけど、〈帳〉の家はここにあるのかあ……」
彼の言うように、周囲にはまるでそれらしいものはない。ルードは馬から下りた。
その途端、ルードの足下から、何か異質なものが理解不可能な言葉で囁いてくるような、妙な錯覚にとらわれた。ルードははっとして足下を見たが、そこにはただ赤茶けた土があるのみ。今までと変わらないようにみえたのだが――。
(なんだこれ……変だ。……でも、よく分からない……)
ルードは不可思議な感覚に戸惑った。
「確かに……どこか違う気もする……」
「どうかしたの、ルード?」
集中を解いたライカが、ルードを後ろから見つめる。
「ああ。なんて言うか……感じが変なんだ。地面に立って気付いたんだけど、何かが……うまく言えないけれども、ここは違うんだよ」
「ルードもそう感じるのか。悔しいけど僕にはよく分からないなぁ。でも、おそらく〈帳〉がこのあたりにいて、目をくらますために結界を張っているんじゃないかっていうのは確かかもね。そういえば十三年前、〈帳〉の家を後にした時も、彼は目をつぶるように言ってたっけ。あれが結界だったのか」
ハーンはそう言うと馬からひらりと下りた。ライカもそれに続く。
「しかし、たいしたもんだね、ルードも。ガザ・ルイアートから土の力を得るなんてさぁ」
「なんだよ、それは?」
「つまりさ、君に大地の意思が伝わるようになったってことさ。ルードの力は目覚めたばっかりだから、大地が何を語らんとしているのか、君には分からないみたいだけど、ライカが風の力に敏感なように、そのうち君もくみ取れるようになるんじゃないかな?」
「まあいいや。それより、ここが〈帳〉のいるところだとして、どうするんだ?」
ルードは顔を上げた。
「ハーンだったら術で結界を解けるんじゃないかしら?」
ライカは言うが、ハーンは首を横に振った。
「いやあ、無理無理。ライカとルードがいなけりゃあ、結界が張られていること自体分からなかったもの。ただでさえ結界を解くのは非常に難しいのに、こんな高位の結界じゃあ、僕の力では無理だよ。さすがは〈帳〉。“礎の操者”、“最も聡き呪紋使い”と呼ばれただけのことはあるね」
「はあ。しかし、どうするさ? ここまで来て『結界で通れませんでした』って引き返すわけにだっていかないだろうに?」
ルードは岩の上に腰掛け、一息ついた。
「大賢人様は、結界の内側からこっちがわの様子が分からないものかしらねぇ?」
ライカもルードの隣に座り込み、疲れを癒やすかのように大きくのびをした。
ハーンはぐるりと辺りを見回し、やがて意を決したかのように大きく息を吸い込み、
「大賢人様ぁー! 〈帳〉さあーん! 私はティアー・ハーンです! 館に入れてもらえないものでしょうかー!」
と、ハーンは張りのある大声を出し、岩に腰掛けた。
「……ふう。これでなんかしらの応答がありゃあいいんだけどね。ま、気長に待つとしようよ。僕らの目的地はここなんだから、後は〈帳〉のほうが門を開けてくれるのを待つとしないか?」
ルードはごろりと仰向けになった。青い空には雲がゆっくりと流れている。南中に近い日の光は優しくルードを包み、ルードの肌をくすぐるように吹いてくる風も――ライカは風の異変を訴えたが――心地の良いものであった。先ほどまで頭の中に入ってきた奇妙なざわめきも、今では聞こえなくなっていた。
「そういやここ一週間、動きっぱなしだったんだな。とりあえず目的地には着けたし、よかったとするかぁ……」
あくびを一つ、ルードは呑気に言った。
誰のものでもなく、溜息が出る。一行は姿勢を崩さず、しばし岩と化した。
「なんと。古い友人が尋ねてくるとは……」
雲の移りゆくさまを眺めていたルードは、聞き慣れない声に、はっとして起き上がった。うたた寝をしていたライカと顔を合わせるが、彼女も怪訝そうな顔をするのみだった。
「〈帳〉だ」
ハーンは立ち上がるとあたりをぐるりと見渡した。そのハーンの行動に応えるかのように声が言う。
「実に久しいな、ティアー・ハーン。まこと短き命しか持ち合わせないバイラルにあって、稀有にも君は姿を留めているかのようだな。……まあ、それはいい。十年ぶりかな?」
(この声が〈帳〉。大賢人か)
真実を知る、と聞かされてきた人物と、ついに対面が叶うのを知ったルードは胸が高まった。〈帳〉の声は、鐘の鳴るような美声ではあるが、感情を抑えたもののようにルードには思えた。
「十三年ぶりとなりますね。お久しぶりです、大賢人様」
恭しくハーンが答えた。
「なに、〈帳〉で構わない。ハーンと……そこの二人も何かわけありのようだな。一体どのようなおもむきだ?」
〈帳〉の声はどこからともなく聞こえてくる。
「では〈帳〉……とりあえず僕達をあなたの館に招いてくださいませんか? 結界が張られていては、僕にはどうしようもないんですよ」
一瞬、〈帳〉が苦笑したような気がした。
「それはしかり。失礼をしたな。では結界を解こう。客人達よ。しばし目を閉じていてくれないか。君達が視覚に頼っている以上は、結界内には入れないのでね」
ルード達はおのおの目を閉じた。途端に、ルードは自分の体が宙に浮くかのごとく軽くなっていく感覚を覚え、次には今までざわめいていた地面が、次第に自然そのものに還るような感覚を知った。帯剣しているガザ・ルイアートからも、人のぬくもりに似た暖かさがルードの頭の中に伝わってきた。
「目を開けてくれ、客人よ」
声を今まで以上に近くに感じ、ルードは目を開けた。
* * *
大きさがとりどりの石を巧妙に重ね合わせて造られた城が――〈帳〉の館が眼前にあった。館は、まるで千年も前からその場所にあったかのようなたたずまいをみせていた。周囲を囲むのは緑。結界の中とはいえ、荒涼とした遙けき野にあるとは思えないほど、地面に潤いが感じられた。
ルードは横を見る。ハーンとそう変わらない年かさに見える長身の若者が、ハーンと対峙するかのように立っていた。臙脂の服がやけに映えて見える。
(彼が……〈帳〉なのか……)
ルードは〈帳〉の持つ雰囲気に、少々臆した。大賢人と称されるゆえの気品なのか。
彼の顔はほっそりとしていて、ほりの深いものだった。切れ長の目と相まって、端正な顔は、町を歩けば必ずと言っていいほど振り向かれるほどの美しさと、神秘さ、そして翳りを併せ持っていた。
しかし瑠璃色の瞳には、若さの煌めきというものが全く感じられない。永い年月を生きてきたかのような哀しさと、悟りきった色をたたえている。また、黒い右目は光を失っているのか、動くことがない。まるで雪のような細く癖のない白髪はライカと同じように肩甲骨のあたりまで伸ばしていた。
彼の両の目尻から頬に至るまでは、細いくちばし型の中で反復する、精細な幾何学模様の刺青も臙脂に彩られており、彼の風貌をより奇異に映しだしていた。
「ようこそ、〈帳〉の館へ」
〈帳〉はルード達を一瞥し、落ち着き払った口調で言った。
ハーンが手をさしのべ、握手を求めると、〈帳〉はそれに応え、かすかに笑った。
「さあ、入るがいい。私も野良仕事を終えて、畑から戻ろうとしていたのだ。そうしたら君達がいるのを知ってね。そうだ、結界の外にいる君達の馬も、後で呼び寄せよう」
〈帳〉はそう言って、訪問者達を館に招き入れた。
「あ、それじゃあ失礼します」
〈帳〉はその言葉を言ったライカをじっと見つめる。彼の緑の瞳がきらりと煌めく。
《フローミタ アー ラステーズ コムト、アルナース!》
「え?」
〈帳〉の言った『言葉』にライカはびっくりしたようだった。彼女も答えた。
《……メクタ ラソ ディナークァー ダン アルナシオン メッサノ……》
〈帳〉はそれを聞いて満足そうにうなずいた。
「なるほど、確かにわけありのお客様だ。これは重大だな。ニーヴルの時以来か。いや、外からの干渉という意味合いを考えれば、あの時の比ではないな」
「なぜ、わたし達の、アイバーフィンの言葉を知ってらっしゃるの? ……〈帳〉さん」
「外の世界からやって来た風の民の娘よ。エシアルルを存じているだろう?」
「は、はい。わたしのいたところでは“森の護り”といわれる長寿の種族です。“慧眼のディッセの野”と現世とを行き交うことによって、不死に近い命を得ているとか。大賢人様はエシアルルでいらっしゃるのですか?」
「〈帳〉と呼んでくれていい。……さよう、私はエシアルルだ。いや、かつてはそうだったと言えるな。額に水晶こそあるものの、白髪のエシアルルなどいはしないだろう(エシアルルは皆、深緑の髪だからな)」
ライカは、驚きと、喜びが入り交じったような複雑な表情をかいま見せた。
「じ、じゃあ、〈帳〉さんも、この世界に入り込んだんですか。わたしのように……」
「そうだな。……そう、入り込んだのだ。広い意味ではね」
〈帳〉はライカの後ろにたたずんでいるルードを確認した。
「……そこの少年には我々のことが分かっていないようだな。無理もないか、歴史は全て隠されてきたのだから。ハーンよ、それを彼らに聞かせるためにここに招いたのか? かつて、私が君に教えたように」
ハーンはうなずいた。
「ならば話さねばならないか、フェル・アルムとアリューザ・ガルドの関わりについて。そして我らが起こした罪について。……この“大賢人”がな!」
最後はまるで自嘲するかのように言い捨てた。
「あなたのおっしゃるとおりです、〈帳〉。彼らにフェル・アルムの隠された真実を話してほしい、というのが、ここに来た理由です」ハーンが凛々しい口調で話した。
「それともう一つ。ここに来るまで、僕達はきわめて不思議な体験を重ねてきました。“ニーヴル”の時以上に奇妙な出来事をね。僕達のほうからはそのことについてお話しします。そして、この少年少女の不思議な出会いを契機に起こり始めたあらゆる“変化”について、助言をいただきたいのです。あなたがどう思われるのか、僕らがこれからどうすべきなのか――ことは十三年前以上の惨劇を生みかねませんから」
「君も相変わらず切れ者だな。とぼけた雰囲気から想像出来ないほどだよ、ハーン。確かにことは重大だ」
〈帳〉は、ハーンに対するからかいと敬意の念を一緒くたにし、わずかに笑みをみせた。
「……さて、我が家に入りなさい。まずは汚れを落とし、寝てしまうのがよかろう。つもる話はその後だ」
ルード達は〈帳〉に案内されて、それぞれの望む部屋に落ち着いた。〈帳〉の館は、彼ひとりが住むにはあまりにも広い。使われていない部屋も多くあったが、いくつかの部屋は客人用に家具が用意されていた。もっとも、それが使われたことなど無いのだが。
部屋の両端からはがたがたと、何やら掃除をしているような音が聞こえる。三人は隣り合わせの部屋を選んだ。ルードも両隣がやっているように、部屋のほこりを払うことにした。
それがひととおり終わると、ルードはベッドに横になった。毛布などは用意されていない。〈帳〉も客の来訪を考えていなかったからだ。〈帳〉は今、客人のもてなしに大わらわであった。湯を沸かし、食事の支度もしている。
左の部屋から、タールの音色がこぼれてきた。しかしそれもじきに止み、静寂があたりを包んだ。窓から射し込む日の光は、ルードを眠りの世界に誘うのに十分なほど心地よかった。彼はいつしか眠ってしまう。全てのわだかまりを忘れ、ルードは平穏な夢の世界へと赴くのだった。
二.
ルード、ライカ、そしてハーンが円卓を囲んで〈帳〉の話を聞くことになったのは、結局翌日の昼過ぎだった。
今までたまった疲れのために皆見事に眠ってしまったようで、〈帳〉がもてなす予定だった夕食会はふいになってしまった。しかし〈帳〉も言及するつもりはなかった。旅人達の疲労と緊張がいかに大きいものか、理解していたからだ。
「気付いたら朝だったんだ」とは、ルードの弁だ。ライカは明け方前に起きたらしいが、ハーンはつい先ほどまで熟睡していた。ハーンは眠そうな顔をし、あくびを必死でこらえている。対照的にルードとライカは風呂に入り、晴れ晴れとした表情をしている。いや、“していた”というほうが適切かもしれない。なぜならいよいよ〈帳〉を中心に話し合いが行われようとしているために、二人は非常な緊張感を味わっているからだ。何が真実なのか、これから何が起こるのか――そして自分達の運命の行く先は――
「さてと」〈帳〉が話を切りだした。
「ではまず、君達がいかなる経験をしてきたのか、聞いてみたい。ハーンの言う、“奇妙な出来事”を。君は、ええ……」
「ライカです」
「俺は、ルードと言います」
「ではライカ。君がこの地、つまりフェル・アルムにどうやって来たのか、そしてルードからは、ライカと会った後どう行動してきたのかを聞かなくてはならない」
〈帳〉は言った。
ルード達は今までの数々の体験を包み隠さず〈帳〉に語った。さすがの〈帳〉も驚きを隠せない様子であったものの、それでも彼らの語ることにうなずきつつ、記録を取っていた。
最初の遭遇と転移、高原へ戻る途中の化け物との戦い、眠りから起こされた言語“アズニール”、動き出した中枢と、疾風との死闘、そして剣を握ったルードの変調――。全ての出来事が語られるのに、一刻半ほど要したろうか。日はすでに傾きかけ、色を橙に変えようとしていた。
ライカは、アリューザ・ガルドにおける自らの生い立ちからはじまり、精霊に惑わされてレテス谷から落下するに至るまでを話した。
ハーンはニーヴルの事件の後、〈帳〉に世話になり、別れた後のことから、ガザ・ルイアートを手に入れた経緯、そして千年祭の日にルードと会うまでかいつまんで話しだし、ガザ・ルイアートのことも、そして唯一彼のみ見た“星なき暗黒”についても明らかにした。
ルードも、自分の身に起きた出来事について自分なりの意見を交えて、途中つかえながらも話すことが出来た、そのつもりだった。彼には未だ一つの記憶が戻っていなかったのだ。イャオエコの図書館と、神秘的な女性の存在について、ルードは全く失念していたのだ。
「そうか……」
筆を置いた〈帳〉は、やや疲れた口調で答えた。
「君達が遭遇した出来事について、私は驚くしかないが……それについては最後に話すとしよう。次は私が、この世界について、語ろうと思う。が……」
そう言って皆を見回す。疲れているさまが一目で分かる。ルードが大きく口を開けて生あくびをするのを見たライカは、肘でこづいてたしなめた。その様子をハーンはにやついて見ている。
「少々休憩をとるとするか。皆疲れたようだし、かくいう私もそうだ。聞くだけでも体力を使ったよ、今日は」
ライカが厨房に入り、手際よくお茶が運ばれてきた。一同は緊張からしばし解かれ、香りのいいお茶を口に運んだ。
「これは賑やかになりそうだ。……なあハーンよ」
和やかとなった雰囲気の中、〈帳〉が言う。
「我々がこれからどうするにせよ、時の利を得ないことには動きようがないのだ。もとから私のもとに滞在するつもりで来たのだろう?」
「ええ、そうですね。ルードに剣の扱いを教えるつもりでもありましたし、あなたもこの二人に伝えておくことが多そうですからねぇ。それに中枢の目をやり過ごすためにも、ひと月ぐらいはお世話になろうかと思うんですよ」
「ひと月だって?!」
まさかルードは、そんなに長くとどまろうとは思っていなかった。〈帳〉の館で世話になることはハーンから聞いてはいたのだが、それも一週間ばかりかと思っていたのだ。
「叔父さん達、心配しないかな。半ば家出も同然で飛び出してきたんだぜ?」
「ああ、それならまかせてよ。僕が頃合いを見て高原に行って来るから」ハーンが言った。
「とにかく」と〈帳〉。「我が家は自給自足が出来る。館の主としては君達のお世話をしたいところなのだが、それは勘弁してもらって――君達の手を借りたいのだが、いいかな?」
一同はうなずく。家事を分担して行うということだ。
「ならば申しわけないが、すぐ行動を起こしてもらいたい。気がつけば、もう一刻もすれば夕方になってしまうところではないか。ルードは馬舎へ、ライカは鶏小屋へ行って餌付けをしてほしい。どちらも館をぐるっと回った裏手にある。ハーンは穀物倉へ行ってくれ。……出来るかな?」
「まかせてくださいよ。馬の世話だったら俺、手慣れたもんですから」
ルードは一番に部屋を出ていった。
「あ……ルード! 餌付けってどうすればいいの?」
ライカもあとに続く。
「なんだ、しようがないな。教えてやるからついてきなよ」
「あれ? どっちに行くの? 玄関はこっちよ?」
「部屋だよ。作業がしやすい格好にならないと……なんにも知らないんだなぁ」
「何よ、その言い方? 馬鹿にしてるの?」
そんな悪態をつきあいながら彼らの声は遠ざかっていった。
〈帳〉とハーンは後に残された。
「どうです? 彼らは?」
自分も行動に移ろうとハーンは立ち上がった。
「……酷なものだな。彼らには何も知らず平和に生活を送ってもらいたかったものだが。事実をかいま見てしまった今、彼らの幸福は濁流の向こう側にしかないのだ」
〈帳〉は目を伏せた。
「……だが、彼らの純真さは、私の塞ぎの虫を追い出し、罪の意識を一瞬でも消し去ってくれるものかもしれぬ」
そう言って〈帳〉はハーンと顔を合わせた。ハーンはしばし、〈帳〉の瞳に悲しみを見たが、「〈帳〉、あなたも考え過ぎですよ」と切り返した。
「しかし、かの聖剣がまことに存在していたとは信じがたい。だが、ルードは所持を認められることによって、古の土の民、セルアンディルの力を手にしたのだから、あの剣こそ冥王討伐以降、失われて久しい聖剣だと考えるほか無い」
「……そうですね」
「しかしハーンよ。君はどうしてあの剣がガザ・ルイアートだと知ったのだ? いや、そもそも何ゆえ聖剣の存在を知ったのだ? 聖剣について、私は君には教えていないはずだ」
ハーンは答えなかった。
「答えたくなければ別にいいのだが……まあいい。さて、私も食事の準備をしよう」
「じゃあ僕も失礼して、夕食の支度に取りかかるとしますか! 昨晩はもてなしを受けられませんでしたからねぇ!」
ハーンは言い残し、颯爽と部屋を出ていった。
ひとり残された〈帳〉はひとりごちる。
「ガザ・ルイアート。あれが我らの運命を切り開いてくれるのか。“太古の力”とすら渡り合えるかも知れぬ……」
三.
少々早めの夕食には昨晩〈帳〉がもてなし損ねたものに加え、ライカもまた腕を振るった。その間、ただ待つだけとなってしまったルードは部屋で安穏と寝ていたが、ハーンの告げ口でライカによってたたき起こされる結果となり、あわれ井戸までの水くみや、そのほか雑務全てをハーンの代わりにこなすことになってしまった。
そんなハーンはひとり、食堂にてタールを弾いていた。ルードがそんなハーンに悪態をつき、ハーンは素知らぬ顔でやり過ごす。それを厨房で聞きながら、ライカと〈帳〉は笑っていた。
食事が終わる頃には日もすっかり沈み、多少薄暗くなった部屋に明かりがともされた。
いよいよ話し合いのはじまりだ。
「では話すとするか」
〈帳〉は切り出した。三人は〈帳〉のほうへと向き直る。とくにルードとライカは、いかな事実があろうとも、おののくことなどしない、という強い姿勢で臨んでおり、それぞれの瞳には真摯な光が宿っていた。
〈帳〉は一同を見渡すと咳払いを一つ、そして静かに語り始めた。
「まず、はっきりとさせておかねばならないのは、フェル・アルムという世界――“永遠の千年”とも称されるこの閉鎖された世界は、もともとはアリューザ・ガルドに存在した、ということだ」
〈帳〉の言葉に、ルードとライカは思わず顔を見合わせる。
「信じがたいかもしれぬが……これは紛れもない事実なのだ」
そんな二人を一瞥し、〈帳〉は話を続けた。
「六百年も昔のことだ。私はアリューザ・ガルドで生活を送っていた。その頃、アリューザ・ガルドはひとつの国によって統一されていた。その王国をアズニールという。王国では魔導の研究が盛んに進められていたのだ」
「あの、話の途中で悪いんですけど」ルードが口を挟んだ。
「“まどう”っていうのは何なんですか?」
「魔導とは、……そうだな。簡単に言い切ってしまえば、ハーンが持つような“術”をさらに発展させ、強力にしたものだ。発動させるためには、膨大な魔力と数多くの知識、それに世界の理を知らねばならぬのだが、ここでは言及しないことにしよう。本筋からは逸れてしまうからな」
〈帳〉は言った。
「魔導……そう。その力をさらに強力にすべく、私を含む当時の魔導師達は研究を重ねていったものだ」
「でもルード。今のアリューザ・ガルドには、もう魔導は無いのよ。恐ろしい、“力”の暴走があって、魔導は封印されたっておじいさまから聞いたことがあるわ」
ライカが言った。
「そんな大事件があったなんて……どういう世界なんだ、アリューザ・ガルドっていうのは?」とルード。
「なに、フェル・アルムと大差ない世界だ。ただ、フェル・アルムの民にとっては摩訶不思議に感じられることが多々あるだろうがな」
〈帳〉が言った。
「話を続けさせてもらってよろしいかな?」
「あっ……すいません、勝手にべらべらとしゃべっちゃって」
ルードとライカはあたふたと頭を下げた。
しかし、〈帳〉にしてみれば、そんな動作すら微笑ましく思えたのだ。〈帳〉は口元で微かに笑うと、話を続けた。
「魔導師達はいつしか魔法の本質を忘れ、魔力の増幅に力を注ぎ込みはじめた。やがて膨れあがった強大な“力”は魔導師の手では制御しきれなくなった。膨大な魔力が堰を切ったように氾濫を起こしたのだ。恐るべき“魔導の暴走”――あれはアズニール歴四二五年のことだったか……」
帳はそう言って立ち上がると、部屋の中をゆっくりと歩きながら言葉を紡いだ。
「私は暴走する魔力を止めようと、師であり友人でもあるユクツェルノイレとともに対策を講じることにした。私達はアズニール王宮の預幻師、クシュンラーナを迎え入れた。だが彼女の幻視をもってしても解決の糸口は見あたらず、我々は絶望の淵に立たされた。あまたの魔導師達もなすすべがなく、そうこうしている間に暴走したかたち無き“力”は世界中に波及し、各地に壊滅的な打撃を与えたのだ。
「だが、思いもしないところから救いの手が伸ばされた。状況に憂えたディトゥアの神、“宵闇の公子”レオズスが暴走せし魔力を消滅させたのだ。もっとも我々は当初、魔力が自然消滅したのだと考えており、レオズスの介入を知ったのはもう少し後なのだが」
「神だって!?」
ルードが素っ頓狂な声をあげたので、一同は彼を注視した。
「あ、いや……ごめんなさい、何度も……」
またも話を中断させてしまったルードは、三人の視線に萎縮するほか無かった。
「ルードよ。君が唸るのも理解出来る。が、事実として捉えて欲しい。本論はむしろ、ここから始まるのだからな」
一息入れて〈帳〉は再び語りはじめた。
「かくてレオズスは、彼が遙か昔、冥王ザビュール降臨時に為したことに続き、再びアリューザ・ガルドを救った。だが強大な魔力に対してはレオズスをしても太刀打ち出来るものではなかった。苦肉の策としてレオズスが用いた“力”は――“太古の大いなる力”、禍々しい“混沌”の力だった!
「そして、レオズス自身が望んだのか、それとも“混沌”がそうさせたのか……“混沌”に魅せられたレオズスは、人間にとって恐怖と化したのだ。皮肉なことに、強大な“力”を消滅せしえたのは、さらに強大な“力”であった。我々人間は、レオズスに隷従することを余儀なくされてしまったのだ。さながら冥王降臨の暗黒時代のごとくに……。
「私は奴隷戦士として地下で名を馳せていた、デルネアという人物を知った。彼は魔導の力こそ持たないものの、たいそうな切れ者で、我ら三人に策をもたらした。『かたちを持たない魔導の暴走より、現在世界を覆っている“混沌”のほうが、崩すに易い』と彼は言うのだ。元凶であるレオズスさえ倒してしまえば、彼の用いる“混沌”はその帰すべきところに戻る、ということなのだ。
「とはいえ、人間が神を倒すなど果たして出来ようか? ユクツェルノイレと私は、宵闇の公子を倒すすべを探すため、文献をあさった。“聖剣ガザ・ルイアート”。文献にあったのはこの著名な剣のみであった。かの剣は黒き神――冥王ザビュールを倒した剣として知られているが、冥王が倒された後、その所在は全く知れない。
「我ら四人は途方に暮れた。人はレオズスに屈するほかないのか? だがある日、クシュンラーナの夢による幻視によって、一つの剣の所在が明らかになった。その剣はアリューザ・ガルドには存在せず、“閉塞されし澱み”という閉じた次元にあることが分かった。ユクツェルノイレとデルネアが、そのあてどない旅に、絶望へと向かう旅に赴いていった。彼らにとってみればまさに決死であったが、剣を入手することこそ、我々がレオズスを倒す唯一の手段だったのだ。
「三年後、デルネアは剣を手に帰還した。しかし、ユクツェルノイレは帰ってこなかった。『“力”に魅入られた』と、デルネアはそれだけ語った。それから我ら三人は、ついにレオズスと対峙したのだ。彼の発する“混沌”の気は、常人にはとても耐えられないものだった。しかし、“名もなき剣”は、かの聖剣に勝るとも劣らない“力”を発揮し、ついに我々はレオズスを――“混沌”の元凶たる神を倒したのだ。
「こうして、忌々しき“力”は消え去り、アリューザ・ガルドから脅威はなくなった。だが、長年の隷従によってアズニール王朝は弱体化し、ついには崩壊してしまうのだった。アズニールが崩壊したことで、各地の諸候はお互いを牽制しつつ、新たな国を興した。だが、やがてそれは戦争という新たな悲劇を生み、“混沌”の脅威の爪痕が未だ残る中で、数多くの命が失われていった。それを見て、私はさらなる悲しみに包まれた。
「そんな折り、デルネアが驚くべきことを私に告げた。たった一つの王国を創り出そう、とな。私はアリューザ・ガルドという広大な土地を、一国が統べることの恐ろしさを十分知っていたから反対した。そうするとデルネアはこう言ったのだ。『ならば、我らの手のみで完璧に制御出来る、小さな世界を創ってしまえばよいのだ。我らを統括する神も、生活を脅かす異形の生物も、魔導すらも存在しない一つの世界を創り、その変化のない永遠の平穏の中で人が営む――これこそが理想郷だ』とな。“閉塞されし澱み”で、デルネアは大地を切り離すすべを知ったらしい。『多大な悲劇を、痛みを知っている我々だからこそ、そんな世界が創れるのだ』デルネアはそうも語った。
「私も、クシュンラーナも、もはやこれ以上の悲劇は見たくはなかった。私達は、デルネアの言う理想郷に全てを賭けてみることにした。ある空間をアリューザ・ガルドから隔離し、閉じた世界を作り上げて統治する、ということ。それが、アリューザ・ガルドの現状から逃避する、ということを意味するのも知りつつ」
〈帳〉はそこまで語ると、再び自分の席に腰掛け、大きく息を吐いた。
「はあ……」
〈帳〉の、そしてルードとライカのため息が、薄暗い部屋にやけに大きく聞こえるようだった。うつむいている三人を後目に、ハーンはぱちり、と指を鳴らし、術による光球を天井に掲げた。暗くなった室内にぼうっと明かりがともる。
「そうすると、このフェル・アルムを創ったのは……あなた達だっていうんですか?」
最初に顔をおこしたルードは、どう反応していいのか分からない、と言ったふうに戸惑いながらも〈帳〉に訊いた。
「左様。歴史に謳われているように、“神君”ユクツェルノイレが生み出した王国ではないのだよ。あれは我々……いやデルネアが、統治する際に作りだした幻想でしかない。友人に敬意を表してな」
「え?! じゃあ、嘘なんですか!?」
「そう、嘘だ」
間髪入れずに〈帳〉が答えた。
「覚えておくがいい。フェル・アルムには“真実”と呼ばれる“嘘”がそこいら中に転がっていることを。唯一の神、大地神クォリューエルは存在しない。アリューザ・ガルドから隔離させ、新天地フェル・アルムを創り出したのは、神君ではない。我ら三人だった……」
〈帳〉はひとり目を細め、天井に浮かぶ光球をしばし見つめた。その瞳は哀しげであると同時に厳しく、自分の過去を咎めているようにすら思えた。
「西方大陸の最西端――そこは“魔導の暴走”と戦乱のため、難民が多数住み着いた広大な大地だ。我々は、理想郷を築く地をここに決めた。デルネアは自分達の計画を難民に伝えた。難民達も救いを求めて、我らの行いに賛同した。
「それから数年が経過し、我々の理想郷――“永遠の千年”世界の構築の準備も整い、いよいよ実行に移す時がきた。これまでにない大がかりな術の儀式が執り行われる。術が完成したその時こそ、フェル・アルムは新たな一つの世界として存在するようになるのだ。幾人かの魔導師達が、野外に設置された魔法陣を取り囲み、その中心に私とクシュンラーナが座し、儀式は始まった」
そこまで言った時、帳は顔をしかめ、少々のためらいをみせた後に言葉を続けた。
「……私とクシュンラーナは、苦しみをともに味わううちに、いつしか惹かれあい、愛し合うようになっていた。フェル・アルムが創造されたその時は、権限をデルネアに任せ、私達は夫婦となって慎ましやかに暮らしていこう、と誓い合っていたのだ。……しかし――。
「しかし、私達のその夢はフェル・アルム創造の瞬間に、残酷にも消え去ってしまった。儀式が完成し、私が呪紋を空に描き終わった時。ついに空間が隔離し、転移の術は発動したのだ。だがそれと同時に、予期せぬ強大な反動力が働いた。かたちを持たぬ“力”が我々に襲いかかり、幾多の者が衝撃のため吹き飛ばされて空間の狭間の餌食になり、“力”に直撃された者は跡形もなく消え失せてしまった。……そしてクシュンラーナも同様……。術の行使に力を使い果たした私にはなすすべなく、目の前の悲劇を見続けるほか無かった。それはかつての悲劇――魔導の暴走を思い起こさずに入られないものであった。
「かくして多くの犠牲のもと『理想郷』フェル・アルムは完成した。だが、愛するクシュンラーナを失った私にとって、もはや理想郷などなんの意味も持たなかった。私は彼女を失った悲しみにくれるあまり、何も考えられなかった。全ては絶望のみ」
〈帳〉は、一同を見渡す。〈帳〉の背負う、あまりにも大きな過去の悲劇。ルードとライカには、語る言葉がなかった。
「幾日かが経って、私は自分の身体に起きた変化に気付いた。失ったものは片目の視力と、それまでの私を魔導師たらしめていた膨大な魔力。得たものは……けして老いることのない身体。創造者として、術の発動者として、この身体が朽ちるまで永久に世界を見続けること。それが今なお私の使命であり、与えられた罰なのだ。
「次に私は、人々の変容に気付いた。何万に及ぶ民全てが、それまでの彼らではなかったのだ。地べたに力無く座り込み、だらしなく口を開け、時折うめき声を上げている。天を仰ぐその目は虚ろでなんの感情も表さない。なんと恐ろしいことだろう! 異様な光景を目の当たりにした私は、自分の為したことの恐ろしさをひしひしと感じたのだ。だが、魔力を失った私には、彼らに対してなすすべがなかった。私は彼らのもとから逃げ出した。
「それからどれくらいの時が経ったのか、私には見当がつかない。狂人と紙一重となった私は、薄汚れた古城の前にたたずんでいるのに気付いた。私はこの場所を安住の地とし、疲れ果てた心身を癒すこととした。広野の中に人知れず在る古城――それこそがここ、〈帳〉の館なのだ。
「さて……話が長くなってすまないと思っている。これまでの話は、過去の歴史の説明に過ぎぬ――真実の姿ではあるがな。だが、ここからが重要なのだ。空虚な世界がどう変容したか、そして……今後、私達がどうすべきか」
〈帳〉は言葉を切った。
「なんか……話が大き過ぎて……はっきりとつかめないんですけど……今までのだって……」
ルードが困惑気味に言った。
「なに、今ここで全てを理解するのは無理だろう。だが、我々には時間がある。〈帳〉の館の中で、ゆっくりと分かっていけばそれでいいと思う。自らの中で反芻しつつ思慮を深めていけば、あとは時を経るにしたがって分かってくるだろう」
「そうそう、今無理に詰め込むことはないって。僕は歴史の流れをつかんでいるからさ、分かんなけりゃ答えてあげるよ」
〈帳〉の言葉を受け、ハーンが朗らかに言った。
「さて――」
〈帳〉は話を再開した。
「古城の中で長い年月を重ね、私は自分自身を取り戻しつつあった。私はとりあえず、この城を変えていった。ひとりで十分生きていけるように。中では掃除をし、埃を払った。外では種を植え、農作物や草木を育てていった。そして、外界から自分の小さな世界を守るよう、結界を施した。
「次に、自分のいるところ以外の場所に興味が湧いてきた。私が逃げ出してから世界は、人々はどうなったのか。すでに現実を見つめる覚悟は出来ていた。私は忌まわしい儀式の行われたあの場所に赴いていった。そして目を疑ったのだ!
「あの虚ろな目をした人々はどこへ行ってしまったのか? 集落が点在し、人々の喧騒が聞こえてくるではないか。彼らは惨劇を何もかも忘れていた。それどころかアリューザ・ガルドの存在すら覚えていないのだ。むろん、私のことなど覚えているはずもない。人々の無垢な瞳の輝きに、私は喜んでいいのか悲しむべきなのか、途方に暮れた。
「私は一人の人間の存在を思い出した。デルネアだ。彼なら何かを知っているに違いない。私はデルネアの行方を追った。彼の名前もまた、人々の記憶からは消え去っていたため、捜索は困難をきわめた。幾星霜、ようやく彼の所在が判明した。
「その地、アヴィザノにはすでに城が建設されつつあった。警備の目をかいくぐって、私はデルネアと対峙した。デルネアもまた、私と同じく不老の身体となっていた。しかし、私と決定的に異なるのは、彼は強大な“力”をその身体に有している、ということ。彼の持つ威圧感に、私は恐怖した。
「デルネアは語った。『これこそが我の望んだ世界。すでに人々はアリューザ・ガルドの存在すら覚えていない。この閉ざされた世界において初めて、我らの民は永久の安らぎを得るのだ』と。虚ろな人々に虚偽の知識を吹き込んだのは紛れも無い、デルネアその人だった。彼はこうも言った。『〈帳〉――お前はもはや傍観者であり、この世界の慎ましやかな住人でしかない。が、我は神にすら相当するのだぞ』と。フェル・アルムの人々はデルネアの存在すら知るまいが、彼が世界に与えた影響というものはまさしく神のそれに匹敵する。力を失った私に彼を止めるすべはなかった。
「私はそれからこの館に帰り、永遠にも感じられるほどの年月をひとり送った。デルネアはその間も、影でフェル・アルムを、中枢を操り、捏造された“真実”を広めていった。世界は彼の定めた予定どおり、今まではほぼ治まっていたのだ」
〈帳〉はほうっと息をついた。
「……そして今、ついに虚構の調和が乱れようとしている」
「それは、ライカがこの世界にやってきたこと、ですよね?」
ルードが言った。
「しかり。空間を閉ざしたこの世界に、アリューザ・ガルドからの者が来るなど、およそ考えられるものではなかったからな。デルネアはその動向を即座に感じ取ったのだろう。デルネアは中枢を操り、今頃は元凶となっている者を消そうと躍起になっているだろう」
「でも、私もルードも何も悪いことなんかしてない。被害者としか言いようがないんですよ?」ライカが憮然と言う。
「君達がこの巨大な運命とやらに巻き込まれた被害者であることは認めよう。だが、問題はそうたやすくはないのだ。……世界が崩壊しつつある、と言って理解してくれるだろうか?」
四.
「世界が……ですか」
ルードとライカは怪訝そうに帳の言葉を反復した。
「まさか。そんなに大きなことなんですか?」
ルードはそう言って〈帳〉を見た。当の〈帳〉はまたも遠い目をして天井を仰いでいた。
「なぜなら、君達はあるはずのない“変化”を、この世界にもたらしたからだ。フェル・アルムは、変化というものがない。――いや、許されないのだ。何も変わらない情勢の連続こそが、デルネアの言うところの恒久の平和なのだから。だが、人あるところに必ず変化が生じる。変化が起きれば必ずどこかがほころぶのだ。私は長いことそれを危惧していた」
〈帳〉はそう言うと、一同を見渡した。
「分かるだろうか。予期せぬ変化がこのまま続けば、フェル・アルムを覆う結界が崩れ去り……人の世界に本来あってはならない、強大な“太古の力”を招き寄せかねない。それを呼び寄せてしまったら、フェル・アルムのみならず、存在する世界全ての終末を呼ぶことになるやもしれぬ」
それを聞いたルードは、自分の背筋にぞくりと冷たいものが走るのが分かった。羊飼いとして暮らしてきた今までの自分が、今では遠いところに行ってしまったのを感じていた。世界の終焉など、彼が、そしてライカが考えつくはずもなかった。彼らはただ、平穏な日常に戻ることを切望している。だが、今や彼らにとって平凡な日常は、とてつもなく大きな壁の向こう側にしか存在しないのだ。
「――いずれにせよ」
光を持たない〈帳〉の右目が、皆を見据える。
「君達の話から察するに、ライカがこの世界に来てしまったという“偶発事”。それはこの世界が本来あるべき姿に戻ろうとして起きたことなのかもしれない。それに伴い、閉ざされたフェル・アルム世界の封印が開きつつあるのだ。しかし封印の解除は、空間の歪みを誘発させている。これは魔物の出没や、星無き暗黒の夜空の出現からも明らかだ。このまま手をこまぬいていれば、世界の秩序は本当に遠からず失われてしまうだろう。――今、我々が選べる未来は三つある」
〈帳〉は言った。
「一つ目は、この館で何もせず時を過ごし、秩序の崩壊と世界の終焉を見届けること」
〈帳〉は二人の少年少女を見た。ルードもライカも、魅せられたように〈帳〉を見ている。
「二人とも、どう思うかな? このままここに留まるか?」
「……それって解決になってないな、って思ったんですけど」
ルードが口を開く。
「だってそうでしょう? 俺達はここにいれば安全かもしれない。でも、今の状態を続けていたら世界が崩壊するっていうのなら、意味がないですよ、そんなの」
「うむ。ライカはどうかな?」
「私はともかく、家に帰りたいんです。あの山間の村に……」
「だろうな。ハーンは?」と言って〈帳〉はハーンを見るが、彼はただ首を横に振るだけだった。
「まあ、ハーンにはあらためて訊くまでもないか。では二つ目の未来を話そう。これは現在デルネアが行っていることだ。つまり、事件の根本たる君らの存在を消し去り、変化そのものを遮断し、一連の事件が存在しなかったようにすること。……これについてはどう思うかな、愚問とは思うが」
「……俺達は危険を避けるためにあなたのところに来たんだ。俺達は死ぬわけにはいかない」
と、ルードが即答した。ハーンもうんうんと相づちを打つ。
「……〈帳〉さん。三つの未来を選べると言ってましたけど、あなた自身は決めてるんでしょう? ライカも俺も不安なんです。どうすればいいのか、教えてください!」
ルードは〈帳〉の答えを待った。
「そのとおり。選択肢は三つあれど、実際のところ我らが選べるのは最後の一つしかない。……その道のりは険しく、成就するとは言い切れないものだが、私達が求める未来はそこにしかないのだ」
〈帳〉はそう言うと、彼を見つめる三者をじっと見つめた。
「フェル・アルムを、その全てを、アリューザ・ガルドに還元させる。それしかすべはない」
「はあ……」
驚嘆をもらしたのは、意外にもハーンだった。
「還元、ですか。いや、僕も初めてそんなこと聞いたんで、驚いちゃいましたよ。この世界を、もとあるところに戻すってことですね? そんなの出来るものなんですか?」
ハーンが訊いた。
「私は方法が分からない。残念ながら」
〈帳〉がかぶりを振る。
「じゃあ、デルネアですか? 彼じゃないと分からない、と」
ハーンが言った。
「これは例えだが、魔導師が魔導を行使する際、それと相反する魔導をも知る必要がある。我らが行使した世界創造のすべは魔導に近しいが、全てを知っていたのはデルネアのみ。だから還元するすべも、彼しか知らない。ルード達への監視がゆるんだ頃合いを見計らって、デルネアと再び会わねばなるまい。それが私達の進むべき道だ」
「デルネアは、どこにいるんですか?」ルードが訊いた。
「彼の居場所は二つある。一つは帝都アヴィザノ。中枢の王宮内に、一握りの人間しか知らない場所がある。“天球の宮”と称されるその部屋の中で、デルネアは中枢を影で操っている。もう一つは、フェル・アルム最南端に広がるトゥールマキオの森。彼は、千年の齢を数える大樹の中を憩いの場とし、しばしばそこに赴き、力を蓄えるのだ」
「わたし達、どっちに行けばいいのかしら?」とライカ。
「おそらく帝都アヴィザノであろう。だが常に周囲の様子に注意せねばならぬ。かの地における彼の力は強大な上、王宮の警備とて侮れるものではない。現に、今まで私はアヴィザノで彼と対面するのは避けている……というより会うことが叶わぬのだ。……が、今回ばかりはそう言ってもおれまい」
「ということはアヴィザノへ行く、と……。でもかなり遠いですよね。俺はフェル・アルム南部の都市群のほうなんか、行ったことがないんですよ」ルードが言った。
「確かにな。帝都に着くまでも大変だ。監視がゆるんだころを見計らう、といっても、何らかの危険が伴う可能性は大だ。加えて一週間以上にわたる長旅によって、心身ともに相当きついものになることは見えている。だが、彼と対峙することに比べれば大したことはない。彼自身の“力”は畏怖に値するものであるから、心せねばなるまい。人間離れした強さに加え、人の心をいとも簡単に捕まえる力を持っている。私とて、用心をせねば、彼の力に取り込まれ、デルネアの虜になりかねないのだ」
「でも……」
ライカが言う。
「やるしかないわ。それがうまくいかなきゃわたし達、どうにもならないじゃない?」
「うん。俺達がやれるだけのことはやって、みんな一緒にもとの世界に還るんだ!」とルード。
〈帳〉はほくそ笑む。
「そのとおり。このいびつに形成された閉塞空間は、もう限界が来ている、ということだ。私達はフェル・アルムの土地を、この世界の人々の営みを、もとあった大地に戻さねばならない。大いなる災いの起こる前に――」
終章
一.
〈帳〉の館にルード達が辿り着いて、一ヶ月が過ぎようとしていた。
「ハーン! 起きろぉー!」
ルードは扉に向かって呼びかけた。しかし返事がない。仕方なくルードは扉を強く叩き、もう一度声をあげた。すると扉の向こう側から、いかにも眠たそうな声が帰ってきた。
「ルード君……お願いだからもう少しだけ寝かせてくれよぉ」
「なに言ってんだよ。剣の稽古をつけてくれるんだろ? それが俺達の日課なんだぜ?」
「今日は休んでもいいよ。僕が許すからさぁ……」
ハーンの気のない返事にルードはさすがに頭にきた。彼は無理矢理にでもハーンを起こそうと、大きな音を立てて扉を開け、ハーンの部屋にずかずかと入っていった。
ハーンは毛布にくるまるようにしてベッドで寝ていた。ルードは毛布に手をかけると、力ずくでそれを取り払った。
「ああ……僕の毛布……」
ルードが取り去った毛布を、ハーンは名残惜しそうに見つめていた。
「さあ、もういい加減にして起きろってば! 今日が最後なんだろ?」
「……みんなは? どうしてる?」
ハーンはそれでもベッドに横たわったまま、眠そうに声を出した。
「〈帳〉さんもライカも起きて、朝食の支度をしてるよ」
そう言ってルードは毛布を部屋の隅に片づけてしまった。まだハーンは毛布を未練ありげに見ていたが、むくりと起き上がると大きくのびをした。
扉の向こう側からライカが顔を出す。両手に抱えたかごには今朝とれた鶏の卵が見えている。朝食に使うつもりなのだろう。
「あ、ハーン、今お目覚め?」
彼女はそう言うと、廊下を通り過ぎてしまった。
「ふぅ……昨日の夜、あんなに騒いでいたっていうのに、本当、みんな元気だねぇ」
やれやれ、といった具合でハーンは身を起こす。
「じゃあルード君、外で待っててくれないか。僕もすぐ行くからさ」
「……もう一度、寝るなよな」
ルードが釘を差す。
「大丈夫だって。ちゃんといつもどおり剣を教えるってば」
ルードが部屋を出ていくと、ハーンは大きくのびをして、ぽつりとつぶやいた。
「ライカも……僕がちょっと家を空けるだけなのに、宴会を開かなくてもよかったのにさぁ……」
そう言って大きく口を開け、あくびを一つ。昨夜の宴で一番騒いでいたのはハーン自身だったことを、当の本人は忘れているらしい。
ハーンは窓を開けると、朝の草のにおいを胸一杯に吸い込んだ。今日も晴れ渡った、心地のいい日になりそうだ。
厨房ではライカが鼻歌を歌いながら朝食の準備をしていた。
「あら、〈帳〉さん、おはようございます」
ライカは今入ってきた〈帳〉に、にこやかに挨拶をした。〈帳〉はうなずくと、手に持っているものをライカに差し出した。
今やライカもこのフェル・アルムという異世界に慣れた。フェル・アルムの言葉こそ解さないものの、館の住人達がアズニール語を話せるため、不都合はなかった。
「畑の芋がそろそろ食べ頃なのでね。いくつかとってきた。使うといい」
〈帳〉は落ち着き払った声で言った。
「あ、ちょうどよかったわ。卵をどうやって調理しようか、ちょっと考えていたところだったんですよ。うん、これでまとまった。ありがとうございます!」
ライカは芋を受け取ると、さっそく調理を始めた。
「私も手伝おうか?」
芋の泥を落としているライカを、横目に見ていた〈帳〉が訊いてきた。
「いえ、いいですよ。昨日の宴会でたっぷり手伝ってもらっちゃったし。今日はわたしが全部やります」
「そうか。では私は部屋に戻ることにするよ」
〈帳〉はそう言って厨房を後にしようとして立ち止まった。
「そうだ。ハーンは今どうしている?」
「いつものとおり、朝のお稽古です。ルードにたたき起こされてましたけどね。ふふ……。ハーンったら酔っぱらって『明日が最後なんだから、僕の技を披露してあげるさぁ』なんて自信満々に言ってたのに」
ハーンの口真似を交え、ライカは楽しそうに言った。
「……ハーンらしいな。妙なところでぬけてるのは」
〈帳〉は口の端をつり上げ笑う。今日に始まったことではないが、彼はあまり表情を変えない。
かん……!
模擬戦用の剣どうしがぶつかる音がかすかに聞こえた。厨房の入り口にたたずんでいる〈帳〉は、窓から外の様子を見た。少し離れた草原で、ハーンがルードに剣を教えている。
「あの悪戯坊主も、ずいぶんと剣が上達したようだな」
「いたずらって……またルードがなんかしたんですか?」
「まったく。昨日の宴の後、部屋に戻ろうとしたら扉が開かない。取っ手のところに紙が張ってあって『書斎の机』と書いてあった。そこに行ってみたらまた紙が置いてあって……そんな調子で結局、鍵を見つけるのに半刻も費やしてしまった」
窓の外を見ながら憮然と語る〈帳〉。ライカはそれを聞きながら笑いを漏らしていた。〈帳〉はきまりが悪そうな顔をする。
「ルードか……。最初会った時はもっと物静かな少年か、と思っていたのだが……」
「そうね……私も、もう少しおとなしい人なのかな、って思いました。でも、あれだけ突拍子ないことばかり起きれば誰だって気後れしますよ。ここに辿り着いてやっと落ち着いて、ルードも安心したんでしょう」
〈帳〉はそれを聞いて視線をライカのほうへと戻す。彼女の横顔は幸せそうだった。
「ハーンが揶揄したくなるというのも、分からんでもないか」
「はい?」
「……なんでもない。私は自室に戻っているから、出来あがったら教えてほしい」
〈帳〉はそう言って厨房を後にした。彼は大きな決断を胸に秘めていた。
かん!
大きな音とともに、ハーンの剣が手から落ちた。勝負あった。ルードは剣を構えたまま、にいっと笑った。
「はははっ。どうだハーン!」
得意満面のルードに対し、ハーンは照れ笑いを浮かべる。
「いやぁ……まいったねえ。またやられちゃうとは……」
ハーンは再び剣を構えた、とその時。
「二人ともー、ご飯が出来たわよぉ!」
風を伝ってライカの声が届いた。それを聞き、対峙する両者は剣をおろした。
「じゃあ、今日はちょっと短いけど、これで終わりだね。ご飯にしよう」
ルードとハーンは剣を腰に下げ、並んで館へと歩き出す。
「どうかな、俺の腕前は?」
道すがら、ルードは真面目な表情で、師たるハーンに訊いてきた。以前は生傷が絶えず、そこかしこにあざが出来、ライカに治療をしてもらっていたのだが、世話好きなライカの出番もこのところ減ってきた。
「うん、かなりいいよ。君がここまで伸びるとはさすがに僕も思ってなかったしねぇ。町の警備兵として、すぐに雇ってもらえるぐらいはあると思うよ」
「……そこまで言われると嬉しくなっちゃうな」
流れる汗を手ぬぐいで拭いつつもルードは喜色満面だ。そこには思い悩んでいた一ヶ月前までの姿はない。自身の運命に真剣から対峙する覚悟を決めたからだ。そこからゆとりが生まれ、彼の持つ全てをおもてに出せるようになっていた。
「しばらく“あれ”を――ガザ・ルイアートを握っていなかっただろう? 剣の助けがあれば、ルードだってサラムレの剣技大会で、結構いいところまで行くんじゃあないかな?」
ルードは知っている。剣の“力”が自分の技量を補ってなおあまりあるものだということを。そして、ハーンの実力はおそらく、フェル・アルム屈指のものであることを。剣技大会の優勝くらい、どうということはないはずだ。ハーンは、自分が無名であろうとするために、わざと負けているのではないだろうか? 最近ではルードはそう考えている。
以前ルードは、本気で手合わせしてほしい、とハーンに頼んだことがあった。ハーンは快諾してくれたものの、全く勝負にならなかった。一瞬にして間合いを詰められ、剣をはじかれ、胸元に彼の剣を突きつけられたのだった。
しかし、負けたというのに気分は不思議と爽やかだった。
重い音を立てて、館の玄関の扉を開けた。
「お腹空いたなあ……。おっ、いいにおいだなあ!」
卵が焼ける匂いが玄関まで流れてきたことで、ルードの食欲は増した。いそいそと食堂へ向かう。ハーンはゆっくりとした足取りで、彼の後をついていく。ハーンにとって、帳の館で食事をとるのは、これが最後になるかもしれない。
ハーンはスティン高原へ赴く。
ルード達の境遇を彼の家族に説明し、納得してもらうために、一ヶ月滞在したここ、〈帳〉の館を後にするのだ。その後は各地を巡り、変わったことがないかを調べる。ルード達と再び会えるのは、当分先のこととなるだろう。
二.
朝食はすんだ。今朝の食事は刻んだ芋を卵の中に入れたという、オムレツ風のものであった。昨晩の宴会でお腹を膨らませていた彼らにはうってつけのものであった。もっともルードは、ライカにおかわりをせがんでいたが。
ルードとライカは食事の後片付けをしている。未だ食卓にいるのは〈帳〉とハーンだけだった。
「ハーンよ」
ハーンが奏でるタールの演奏に一区切りついたのを見計らって、〈帳〉が声をかけた。
「ん、どうしました?」
ハーンは顔を上げると、にっこり笑って答える。
「君が旅立つ前になんなのだが、ちょっと話がしたいのだ」
小声でそう言うと、〈帳〉はちらと厨房のほうを窺う。
「ここでは少し話しづらい。ルード達にはまだ話すべきではないからな。……悪いが私の部屋まで来てくれないか?」
それだけ言って〈帳〉は食堂を後にした。
残されたハーンは肩をすくめ、やれやれ、と言った面もちで少し遅れて席を立った。
それからしばらくして、後片付けの終わったルードが厨房から顔を出した。普段ならここでお茶の時間となるので、何を飲みたいか、ハーン達に訊こうとしたのだ。だが彼らはいなかった。
「あれ? どこに行っちゃったんだろう?」
頭を掻きながらルードは、皿を拭き終わったライカを見る。
「ああ……〈帳〉さんとハーンなら、話があるからって、ちょっと前に出てったわよ」
「よく聞こえたなぁ」
「わたし達アイバーフィンはね、風を味方につけてるせいか、あなた方バイラルより耳ざといのよ」
ライカは、くすりと笑った。悪気はない、と言いたげに。
「だったらライカも、早く俺に教えてくれりゃあよかったのになぁ……」
食器を棚に戻しながら、ルードは悪態をついた。
「でもねぇ……『わたし達にはまだ話せない』って〈帳〉さんが言ってたし……」
「そうか」
それだけ言ってルードは厨房を出ていこうとしていた。気付いたライカはルードの裾をむんずとつかんで制止する。
「ちょっと、どこに行くのよ?」
「え……ああ……」
自分の行動を瞬時に止められたルードは、ばつが悪そうにライカを見た。
「だめよ、邪魔しちゃあ。わたし達には関係ないでしょう?」
「いや、邪魔はしないさ。勝手に聞くだけだから」
「……盗み聞き? ……たちが悪いわ、やめておきなさいよ」
ライカは幾分冷たい視線をルードに投げかけた。ルードは少し躊躇したが、顔を少ししかめ、口を開いた。
「なんかさ、“謎”のにおいがするんだよ」
「何よ、それ?」
ライカは、ルードの裾から手を離した。
「あれだけ、フェル・アルムの真実について色々と教えてくれた〈帳〉さんがさ、この期に及んで俺達に内緒にしておくことがあるなんて……きっと何かがあるに決まってる」
「そんなに大げさなことかしらねぇ。他愛のないことかもしれないわよ?」
「そんなことはない! ……多分」
「それに、いつか〈帳〉さんかハーンが説明してくれるでしょう? 『今はまだ話せない』ってことは」
「いや、俺の好奇心はたった今知りたがってるんだ。だから……行って来る! 悪いな!」
「あ……。……もう!」
ライカの悪態を背中で聞きながら、ルードはそそくさと食堂から出ていった。
三.
ルードは、杉板張りの廊下をそろりそろりと忍び歩きをしていた。館は、〈帳〉ひとりで住むにはあまりにも大きく、ルード達が居住している今も、それは変わらない。スティンの麓のベケット村で一番大きいとされる旅籠、〈椋鳥の房〉よりさらに大きいものだろう。
忍び足で階段を上ると、そこには〈帳〉の部屋があった。ルードは重厚な雰囲気を醸し出している鉄の扉まで近づくと、そっと耳を当てた。かすかに二人の会話が聞こえてきた。
「……さすが……分かってましたかぁ……」
この間延びした声は、ハーンだ。
「……“果ての大地”……ガザ・ルイアートの存在を知っている者などいません……」
これは〈帳〉の声だ。
途切れ途切れでしか聞こえず、何を言っているのか分からなかったが、ルードは一つ、気になった。大賢人であり、またそれ以上の存在である〈帳〉が、ハーンにきわめて丁寧な口調で話しているという点だ。
なおもルードが扉に右耳を押し当てていると――不意に反対の耳が引っ張られ、激痛が走った。
「痛ってえ!」
とっさにルードは大声を出してしまい、耳を押さえる。ルードが横目で見ると、そこには両手を腰に当て、半ば呆れた表情を浮かべているライカがいた。
彼女は溜息をもらした。
「情けない格好ね、ルード……」
ルードも言い返せず、ライカを見つめたまま座り込んだ。
ぎいっ……
音を立てて扉が開いた。ルードの表情はまたもひきつる。〈帳〉はそんな彼を見下ろしながらも険しい表情を崩さなかった。ルードは何も言えない。〈帳〉の態度が彼の返答を拒否するかのようだった。
(この人はいつもそうだった……)
〈帳〉は滅多なこと以外では表情すら変えず、またその口調も同様だった。あまりに長い年月が彼の心に壁を作り、孤独にしてしまったのか、あるいは自らの咎ゆえに悩んでいるのか――。それでもルード達が来て騒ぎ出してからは、ずいぶんと人間らしさを持つようになった。奇妙な言い方ではあるが、ルードにはそう思えた。
「……聞いていたのか、ルード」
〈帳〉は重い口調で話した。
「なんだ……ルードかあ」
ハーンは扉の隙間からひょっこり顔を出した。こちらの声は相も変わらず軽快だ。
「ごめんなさい。わたしがルードをちゃんと止めておかなかったから……ほら! ルード!」
ライカは申しわけなさそうに言いつつルードを立たせ、謝ることを促した。
ルードは立ち上がるとおそるおそる〈帳〉の顔を窺った。表情は相変わらず険しい。
三人の緊張状態を打ち破ったのは、ハーンの一言だった。
「別に僕は聞かれてても困らないんだけどなぁ」
「しかし! ……今ここでことをややこしくするのは……」
毅然とした表情を崩さずに振り返り、〈帳〉は反論する。
「ややこしく?」と、ルード。
「あ、いや……」
〈帳〉にしては珍しく、ルードの一言に狼狽した。次の言葉を紡けないほどだ。
「とにかく。わたし達は食堂に戻りますから。……きりのいいところでお茶を飲みに来てくださいね」
ライカは〈帳〉に向けてにっこりと笑うと、ルードの腕をつかみ、去っていった。連れ去られていくルードは〈帳〉の言いかけた言葉が気になっており、今まで怒られていたことすら忘れて、訝るような表情をしていた。
* * *
ルード達が視界から消えると〈帳〉は重い扉を閉め、つぶやいた。
「そう、いずれは彼らにも語らねばなるまい。しかしながら、それほど急を要する事柄でもない……もっとも――」
彼は、すでに腰掛けていたハーンに声を向けた。
「……あなたが、以前と同じ存在である、というのなら、いかに事実が過酷であれ、彼らに……そう、まわりはじめた運命をすでに背負っている彼らに、さらに重い荷を背負わせなくてはならないのですが、どうですか。あなたは――?」
「ひとりのバイラルとして生きるしかない。それが僕の背負った“罪”ですからねぇ……」
外の景色を眺めながら頬杖をつき、ハーンはきわめて普段どおりの口調で話した。
「カラファー生まれ。戦士にしてタール弾き。術の力を覚醒させ、術使いともなった。……それが僕、ティアー・ハーンの本性です。それ以外の何者でもありませんよ、僕は」
「ひとりのバイラル……か」
〈帳〉は椅子に深く腰掛けると、ハーンと対峙した。賢人はハーンの瞳をじっと見つめる。真意を見きわめるために。
「あなたの瞳には一点の曇りもない。分かりました。あなたはもう別の存在なのですね。たとえ記憶を残していても……」
「〈記憶〉は残っていません。〈知識〉として蘇ったんですよ。十三年前、“ニーヴルの事件”によって術が覚醒したと同時にね。……だけどそれは全てじゃない。ただ明確なのは、赤ん坊の時からフェル・アルムに生き、そして、今ここにいるという僕――ティアー・ハーン――の人生だけです」
〈帳〉の眉がぴくりと動いた。
「しかし、覚えておいでなのだろう? “あれ”を。……我々とのあの――」
ハーンは〈帳〉の言わんとしていることを察した。
「ええ、覚えてますよ。ただし先ほど言ったとおり、記憶としてではなく、知識としてね。あなたの犯した過ちについても……理解出来ます」
それを聞いて、〈帳〉は黙したまま頭を垂れた。
「一ヶ月前、あなたは僕達に言いましたよね。事実の隠蔽は、何も生み出さない……かりそめの緩慢な平和を求めるあまり、フェル・アルムは多くを犠牲にしてしまった、と。……そして、こうも言ってましたっけ。おそらくフェル・アルムには遠からず秩序の崩壊が訪れる、とね。無理矢理せき止められた流れは、ほんの些細なきっかけで崩れるかもしれない。小さな一点にしか過ぎなかったひび割れは徐々に大きくなり、気付いた時にはとても人の手には補えるものではなくなってしまう。最後は濁流となって全てを飲み込むのです……」
ハーンは少し考え、付け足した。
「いえ……別の“力”の干渉を招くことも考えねばなりませんよね。〈帳〉、あなたもそれを憂えているのでしょう?」
「触手の化け物と、星なき暗黒の空。それが意味するものは、“混沌”の到来……」
〈帳〉はぽそりと言った。
「アリューザ・ガルドを含め、多くの人々の置かれた状況を混乱させたくはないのですが……最悪の事態だけは避けねばなりません。……私は力を失いました……あなた達だけが頼りなのです。……デルネアを止めねばならない。さもなければ大いなる“力”に飲み込まれてしまう……」
悲しみに満ち満ちた真摯な瞳で〈帳〉はハーンを見つめた。
「……やれやれ……」
ハーンの日溜まりを感じさせる声が〈帳〉の心を癒す。
「力を失ったって言っても、あなたの場合はもともとがあまりに強大でしたからねぇ、大魔導師殿。魔法に関しちゃあ僕は未だにあなたの足下にも及びませんよ。……しかしまあ、こんなご時世に僕の記憶が目覚めて、世界の運命を握る人となってしまったっていうのは……結局のところ僕はかつての僕と同じ役柄を担っているってことなんでしょうかねぇ?」
ハーンはゆっくりと腰を上げると、戸口に歩いていった。
「どうするのです?」
〈帳〉が声をかけた。
「そろそろ戻ってお茶にしませんか? ルード達も怪しんでいるでしょうしね。……それと、僕達の立場は今までどおりでいましょうよ。あなたは大賢人。僕は一介のタール弾きにして戦士。ティアー・ハーン以外の何者でもない、って言ったでしょう?」
「……それもまたしかり、か……。では下に降りようか。ティアー・ハーン、君の旅が無事であることを祈って」
〈帳〉もまた立ち上がり、自分の部屋を後にしようとしたが、ふと躊躇した。
「どうしましたか?」
取っ手に手をかけ、部屋を出ようとしたハーンが振り返る。
「……ハーン、君はここから出たあと、何をしようというのだ、本当のところ?」
それを聞いてハーンはにんまり笑ってみせた。
「やっぱり分かっちゃうんですかねぇ。確かにスティンには行きますよ。その後はそう、街道を南下しつつ異変がないか調査して……最後にはアヴィザノへ赴きます」
「なんと、ひとりでか?!」
「ええ。中枢の情勢を知っておきたいですし……もし今デルネアが中枢にいるのなら、警戒がいかに厳重であれ、会っておきたいですから」
ハーンは大したことがないように、さらりと言ってのけた。
「ハーンよ。ひとりではあまりにも危険だ。やめたほうが賢明と思うが。言っただろう、彼の“力”がどれだけ危険か。それに彼は、人の心に入り込むのに非常に長けている。私でさえ彼に会うのはきわめて慎重にならなくてはならないのだ。まして君は、ニーヴルの残党として認識されることもあり得る。あきらかに君の身が危険にさらされるぞ。やはり、我々と合流したあとのほうがいいのではないか?」
「いえ。こういうことって、ひとりのほうがかえって感知されにくいもんです。それにね、もし彼と会えたとしても、すぐに剣を交えたりはしませんよ。……彼に訊くべきことっていうのがあるでしょう? それに、あらゆる意味で機が熟さねば、たとえ彼を倒したとしても、今回の崩壊はとどまることなく、むしろ進行するでしょうしね。でも、彼と対面叶い、時の利得たりと感じたら、迷うことなく戦うでしょうけど」
「では……あくまで単独で行こうというのだな」
「はい。あなたとルード達は還元の切り札なんです。あなたの知識。ガザ・ルイアートを得たルードの“力”。ライカがこの世界に来たことで生じた、アリューザ・ガルドとの空間の接点。それら全ては取っておかなきゃならないと思うんですよ」
それを聞いた〈帳〉は、厳しい表情を浮かべたが、やがて部屋の奥へ行くと、ひと振りの剣をハーンに差し出した。
「だが君とて大きな切り札には違いないのだ」と〈帳〉。
ハーンは剣を受け取ると、鞘から剣を抜き、刀身をさらした。片刃の剣には意匠がほどこされてはおらず、無骨ともいえたが、その刀身からは確かに活力が感じられた。光から隔絶された闇のように黒い刀身は、全ての光を吸収してしまうかのように、ちらりとも光らない。そのような漆黒の刀身を凝視していたハーンは、やがて鞘に収めた。
「これは……」
「持っていくがいい。聖剣がルードを携帯者と見なした今、君は短剣しか持っていないだろう? これは、漆黒の導師スガルトを倒した魔導師、シング・ディールが鍛えし剣。名を“漆黒の雄飛”――レヒン・ティルルと冠する。君も感じているように、闇の波動に包まれている剣だ。さすがにガザ・ルイアートの強大さと較べたら劣りはするが、持ち主は強大な闇の加護を得る。……以前のあなたとは違う君を――ハーンを信じているから、これを託すのだ。存分に使ってほしい」
「ありがとう。僕を信じてくださって。それを裏切る行為はイシールキアにかけてしません」
「では行こうか。君が出かける前の、最後の休息となるが」
そう言って〈帳〉は重い扉を開いた。
「なあに、またお会いしますよ。アヴィザノから戻ったらね! 言ったでしょう? ちょっと家を空けるだけなんですよ」
ハーンはそう言って〈帳〉の部屋から出ていった。彼の背中を見ながら〈帳〉はそっと笑みを浮かべ、扉を閉じた。
* * *
ルードは食堂に戻ってきてからというもの、渋い顔を崩さなかった。手をあごにやり、肘を突いたまま椅子に腰掛けている。ライカはその隣に座っていた。
「ねえ、大丈夫よ。ハーン達が何か企んでるわけじゃないのは、ルードだって分かるでしょう?」
最初はルードの行為に怒っていたライカも、さすがに彼の悩む姿を心配げに見つめるようになっていた。
「そりゃあ、分かってるさ」ルードは姿勢を崩さない。
「……でもさ、俺の知らない何かを、あの二人は知ってるんじゃないか? 俺が話を聞いていたと分かった途端、雰囲気が変わった。今さら何をごまかす必要があるっていうんだ?」
(ここに辿り着いて一ヶ月。俺達は家族のように暮らしてきた。そんな俺達に話せない事情がなぜあるっていうんだ? 水くさいな。それとも、俺達が知る時期ではない、ということなのか? あの二人の間の……秘密については……)
四.
楽しかったお茶の時間も終わった。四人は板張りの廊下をきしませながら、玄関へと向かった。
玄関の扉を開け放ったライカは、陽の光のまぶしさに思わず目をつぶる。
ライカが玄関から外に出ると、続いてルードと〈帳〉が、最後にハーンが表に出てきた。すでに玄関前には馬が荷物を載せ、待機していた。
ハーンは軽やかに馬に乗ると、
「さあて、と。じゃあ行ってきますね……と、そういえば、“外”には出られるんですか?」と言った。
「待ってくれ、今結界を解く。……三人とも目を閉じてくれ」
〈帳〉はそう言うと、低い声で呪文を唱えだした。何を言っているのか、ルードには分からなかったが、足下の感触が変わってきているのは分かった。
「さあ、いいぞ。目を開けてくれ」
「ああ……」
ルードは思わず感嘆の声をあげた。
――そこは一面の荒野だった。ひと月ぶりに見る、外の世界。ルードは今すぐにでもハーンとともに自分の村に戻りたい衝動に駆られた。だが、今の自分達は危険と隣り合わせなのだ。ハーンが危険の有無を確認するために旅立つというのに、自分までついて行くわけにはいかない。
ルードは望郷の思いを押さえ込み、馬上のハーンを見上げた。涙がこみ上げてくるのを必死にこらえながら。
そんなルードの気持ちを知ってか知らずか、ライカがちらとルードを見る。
「どうしたの?」小首を傾げる動作が可憐である。
「いや、なんでも……。そうだな、ハーンが道すがら食い過ぎて、食料が尽きて荒野のど真ん中でぶっ倒れなきゃいいなあ、なんてね」
「おーい……。それじゃあまるで僕が何にも考えないでいるみたいじゃないか」
拍子抜けした声でハーンが言った。
「だってそうじゃないか。ハーンがこの家であんなにだらしない生活をしてた、と思うと、つい、ね。普段もあんな感じなんじゃあないのかあ?」
「ぐ……」
あまりにも図星のため、次の言葉が出ないハーンだった。
「むむ……。ルード君だって、僕と似たようなものじゃないのかな? この前だってさ……」
互いのずぼらさを罵りあう二人。取り残された二人は、またか、と半ばあきれながら、お互いの顔を見合わせた。
「いつもと変わらないですね。いつまでもこんな感じが続けばいいのに……」ライカが笑う。
「なに。じきにそうなるものだ……」
〈帳〉はそのあと何か言葉を続けようとしたが、和やかな雰囲気を崩すかもしれないと思い、やめた。
「そうですね。わたし達、頑張らなくちゃ! そうしなきゃ、わたしだけじゃない、ルード達、この世界の人々は幸せになれないんですもの。……うん。頑張りましょう!」
ライカが、〈帳〉の言わんとした言葉を代弁する。
「そうだな」〈帳〉は、ただ静かにうなずいた。
ルードとハーンの言い争いは、ライカの一声でぴたりと収まった。
「じゃあハーン。叔父さん達や……ケルンやシャンピオ……村のみんなによろしく。家出同然で飛び出して来ちゃったから、つらくあたられるかもしれないけどさ……。すまないけど」
「なあに、そんなこと気にしなくっていいんだってば。君のせいじゃないんだから。……ま、僕らの状況を嘘いつわりなく話すか、それともちょっとお話を作るか。……それはその時の雰囲気に合わせて考えるさ」
「ハーン、とにかく、無理しないでね」と、ライカ。
「ありがとう! 焦って無理を強いたりはしないさ。旅の途中は出来るだけ気楽にいこうとは思ってるんだよね。じゃあないと心身が参ってしまうよ。でも、だらっと気を抜くのとは意味が別だと思ってる。勘違いはしないよ」
「そうね。わたし達も肝に銘じておくわ。今のハーンの言葉」
ライカはそう言って手を差しのばす。ハーンも馬上から手を伸ばし、二人は固く握手を交わした。
「四人で、デルネアに会いに行きましょう」
ハーンはうなずいた。
ルードもライカも、ハーン単独でデルネアに会わんとしているのを知らない。それは〈帳〉とハーンの間の秘密だった。
「では……!」
ハーンは馬の手綱をつかむ。
「僕、本当に行きますけど。〈帳〉、何かありますか?」
帳はただ首を横に振るのみ。
ハーンは笑みを浮かべ、うなずいた。
「分かりました。あなた方の信頼に感謝します。天土全ての聖霊達にかけて僕は応えましょう。そして、あなた方に祝福のあらんことを!」
三人はしばしハーンと無言のまま対峙した。
「うん。頑張ってくれ、ハーン! あんたからいつ返事が来てもいいように、俺達も準備を怠らないようにするよ」
「ふふふ。心強いねぇ、ルード君。じゃあ、また会おう!」
そう言って、いよいよハーンは馬を歩ませた。
「天土の聖霊ねえ……。ハーンも時々大げさなこと言うわよね。そこがまた面白いけれど」
手を振りながらライカは、横にいるルードに話しかける。
「それがティアー・ハーンさ!」
ハーンは目配せをして答えた。その言葉を最後に、ハーンは三人に背を向けて、馬を早足で進ませ始めた。残された三人は、ハーンの姿が丘の向こうに見えなくなるまで見送っていた。
「行っちゃったわね、ハーン」
「ああ……」
ルードもライカも、目は未だ丘を眺めている。しばらくの間三人は“遙けき野”の乾いた風を身に受けていた。
「さて、では私達は戻るか」
〈帳〉が言った。
「もう少しだけ……ここにいます。いいですか?」
ルードは相変わらず前方を見据えたまま、言葉だけ返した。
「そうか……」
〈帳〉はそう言うと、近くの岩に腰掛けた。
ルードは、スティンの山々が見えないものかと目を凝らしたが、枯れた荒野以外、何も見えない。
「“遙けき野”――本当にここって何にもないんだな……」
「寂しいところよねえ。まるで、世界中にわたし達三人しかいなくなっちゃったみたい……」
ライカの言葉を聞いてルードは思った。もし世界が崩壊してしまったら、こんな情景になってしまうのだろうか。生命は絶え、荒廃した大地のみが永久に残る――。いや、この空の下に大地など無かったかのように、全てが消え失せてしまうのかもしれない。
「さてと」
決意も新たに、ルードは胸の前で拳を握りしめた。
「〈帳〉さん。戻りましょう。ハーンとはまた会える。その時のために、今は館に帰りましょう」
「分かった。目を閉じてくれ」
〈帳〉は立ち上がると、再び呪文を唱え始めた。
ルードは足下の感触が変わっていくのを感じながら、心の中でハーンに呼びかけた。
(ハーン、近いうちに……)
『ルード……おそらく近いうちに、また会いましょう……』
ルードの脳裏を一瞬よぎるのは大人びた女性の声。どこかで聞いたことのあるような声。今回は夢うつつではなく、確かにルードの耳に聞こえてきたような気がした。
運命は廻りはじめる。
誰が意図することなく、自然に。
〈第一部・了〉
フェル・アルム刻記 第一部 “遠雷”