箱に願いを

     一


 見えないから、ちゃんと確かめようとしただけなのかもしれない。動機はそれくらい些細な。どんな結果が舞い込むのかなんて、よく考えていなかった。
 すべてのきっかけは、とある雑貨屋でとある箱を見つけたこと。なんてことのない、小さな箱だった。でも、その箱と出会わなければおれたちの日常は、今でもあの頃のままだっただろう。

               *

 寒かった毎日を忘れさせるようなぽかぽか陽気。沿道に咲き誇る鮮やかなピンク。春を迎えると、何かがリセットされて、新しい日々が始まる予感がする。実際に、数週間前まで中学二年生だったおれは、一つ進級した。少し、気分がいいかもしれない。
 桜に左右から見守られながら、おれは一人の女子生徒と一緒に登校している。家が近くて、こうして一緒になることも多い同級生。小学校から知っているから、まあまあ気心の知れた関係。
「真夏くんは、どう?」
 こちらに首を向けるたびに、真っ黒な長髪が柔らかく揺れる。切り揃えられた前髪の下の瞳がまっすぐで、ちょっとだけ目を逸らしてしまう。苦手、ではないのだけど、少なくとも得意ではない。
「冬が行きたいのなら、付き合ってやらんでもないよ」
「そんな言い方して。ほんとうは、わたしとお出かけしたいんじゃないの?」
 唇の前に人差し指を当てて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。そんなわけじゃ、と小声で否定するのがせめてもの抵抗。
 なんでも、神楽坂に輸入雑貨を主に扱うお店が新しくできたらしい。女子の間ではすっかり話題の的で、評判もいいそうだ。だいぶ騒ぎも落ち着いてきたから、冬も行きたいのだとか。それで、おれも誘われた。
 冬は同性の友達がいないに等しい。そうかと言って、異性についても、おれによく絡んでくるだけだが。浮いているわけではないけれど、必要以上の交流をしようとしなくて、それでいて自分を見失わないところがある。そして、なぜかおれには親しげに話しかけてくる。嫌じゃないけど。
「じゃあ、次の日曜日、空けておいてね」
 はいよ、と気だるげな身ぶりで応える。
 線路沿いの道を歩いて、角を曲がると住宅地に入る。学生以外にはあまり人通りもなく、しかも、おれたちは早めに登校しているから、今はどうやら二人きり。学校に着いたら嫌でもたくさんの人の相手をしなければならない、こういう静かな時間があっても悪くないと思う。
 わりと長い付き合いになるけど、おれと冬の距離感はもう一つ分からない。表現の仕方に迷う。
「もう、中学校生活最後の一年なんだな」
 冬の横顔を見るともなしに見て、呟いた。
「どうしたの。真夏くんが、そんな感傷に浸るようなこと言って」
 心底驚いたような表情をして、こちらを覗き込んでくる。
「別に、そんなんじゃない。ただ、冬はこのままでいいのか」
「このままでいいのか、って?」
 きょとん、と睫毛を瞬かせている。
「だから、周りとあんまり関わってないで、いいのか。あっという間に中学終わっちゃうぞ」
「え、心配してくれてるの? 優しいところあるんだね」
「はぐらかすな」
 呆れた風に息を吐く。本気で言っているのに。
「大丈夫だよ」
 ぴょん、と前方へ軽くジャンプした。紺のスカートがふわりと膨らんで、白い足につい目がいってしまう。
「真夏くんがいれば、わたしは大丈夫」
 柔らかい微笑み。どうしてそんなに眩しい表情ができるのに、みんなの前では見せないのだろうか。
 友達、というには照れ臭い。幼馴染は、当てはまるけれど、すべてを包含できるものではない気がする。恋人、ではもちろんない。
 何か、決定的な言葉を待っているのだろうか。とても、そんな感じはしない。中学校生活最後の一年も、上手く表現できない関係性のまま続くのかもしれない。それはそれで、いいことなのだ、きっと。
「ほら、真夏くん」
 すっと、さりげない動作でおれの手を取る。とくん、と心臓の高鳴る気配。女子の手はこんなに小さくて、こんなに柔らかいのだ。
「早く学校行こう」
 そのまま数歩引っ張られる。早めに出てきているのだから、焦る必要は皆無だというのに。でも、なんとなくされるままに任せる。
 人の目を気にして恥ずかしさを覚えるまでは、こうしていてもいいだろう。秘密めいたことを共有しているわけではないけど、おれたちは決して付き合っているのではないから。下手に人の口に上るようなことはしない方がいい。
 手を引かれながら、桜の木の向こうに見える空を捉えた。こうして、冬の傍らで何度青空を見上げてきたかな。
 息を吸い込むと、少しだけ冷たい空気が流れ込んできた。それと、長い髪を揺らす冬の甘い匂いも。

 学校に着くと冬は真っ先に図書室へ行ってしまう。おれもたまにちょっと付き合ってみるものの、性格的に読書が向かないらしく、すごすごと引き返してくる。
 冬がいなくなったので、仕方なく誰かが来るまでぼんやりしていた。見るともなしに見た窓の向こう、綿あめみたいな雲が遅い足取りで、それでも確かに流れていく。見つめていると、長閑すぎて、少し眠たくなる。
 誰もいない教室。黒板に下手くそな絵を描くことも、好きな歌を歌うことも、もしかしたらできるのかもしれない。誰かが入ってきて中断を余儀なくされるまでは。
 足を組み替えて、頬杖をつき、相変わらず外を眺める。やはり、雲は左に移動していた。
 頬杖をついていると歯並びが悪くなる、と教えてくれたのは誰だったか。冬だったか。いや、この話は確か――
「おはよう、真夏」
 春海だ。
 ガラガラと、勢いよくドアを開ける音とともに同級生の広末春海が現れた。その音に、不覚にもびっくりする。
「春海か。おどかすなよ」
「え、普通に入ってきたじゃん。一人でぼうっとしているから、驚いたんでしょ」
 春海はいつだって明るくて、活発な性格だ。冬と異なり、友達も多い。おれは昨年度から同じクラスで仲好くなった。
「真夏、早く来ていること多いよね。せっかくなら勉強とかしていればいいのに」
「おれがそんな殊勝なことすると思うか?」
「思わないけど」
 花が咲くように、笑う。
 一つ、沈黙が落ちた。おれが黙ってまた窓の方に視線を向けると、春海が背後から静かに近寄ってきた。そして、後ろから思ったよりも強く抱きついてくる。胸の柔らかい感触が背中にとろけるように広がる。とくん、動悸がする。
 春海はおれたち二人だけのとき、こうして何も言わずに身を預けてくることがある。はじめは圧倒的に戸惑ったし、どういうつもりなのか分からなかった。だけど、ある噂を耳にしてから、抵抗するのをやめた。黙って、受け入れるだけ。
 春海はそうすることで、伝えられない思いを伝えようとしている。言葉を介するよりも確実だと信じて。
 おれは春海の何もかもを知っている、なんてことはない。むしろ、知らないことがたくさん。だけど、できることがあるならしてやりたい。どこか、優しさを施してやりたくなるもろさを、明るさの裏側に隠しているのが窺えるから。
 やがて、春海が体を離す。でも、おれの両肩に手を置いたまま。そっと首をめぐらすと、ごく近いところで瞳と瞳が合った。春海の目におれの間抜けな顔が映っている。吸い込まれそうだ、とそう思った。
 春海が唇の両端を持ち上げる。応えるようにして、笑いかけた。
 不思議な時間だった。

 電車に揺られ静かに運ばれていく。車内は意外と空いていたが、すぐに降りるからと二人とも立っていた。
 冬はドアに軽く寄りかかるようにして立ち、おれは手すりに掴まって向き合っている。レモンイエローのワンピース姿の彼女は、制服のときよりも大人に見える。唇が艶やかに色づいていた。
「わたしたち、付き合っているみたいだね」
 その唇が動いた。
 そんな台詞、よく平気で言えたものだ。
「もっとかわいげのある彼女の方がいいな」
 平静を装ってそう返したけれど、内心あまり落ち着かなかった。
 くすくす、冬が口の前に手をやって笑っている。
「真夏くん、照れちゃって」
「照れてないやい」
「顔が真っ赤だよ」
「うそ」
 そう言われると、そんな気がしてくる。
「うそだけど」
 偽りだと明かされたわけだけど、もてあそばれたおれは結局やや照れたようになることに。
 普段からこうだ。冬はくるくると表情を変え、おれはそれに付き合ってやる――もとい、付き合わされている。他人には決して見せないこの表情を、ときどき特別なものみたいに感じることもある。でも、同時になぜだろうって考える。どうして、おれには心を許してくれるのかな。
 付き合いがまあまあ長いため、仲好くなったきっかけを思い出すのが難しい。
 小学校から中学校と、着実に大人への階段を上っていく途中。おれの身長はかなり伸びたと思う。クラスの中でもわりと大きい方。
 それ以上に、冬が大人の女になっていくのだと、しばしば感じてしまう。悔しいけれど、それは認めるしかない。顔立ちや胸の膨らみにどきりとさせられる瞬間が増えた。もう小さい頃みたいに、寝転がってじゃれ合うことなんて、できない。
 ほかの誰よりも冬を一番に見てきたから、こんな風に感じるのかしらん。自分でも正体の分からない感情が、ここのところ胸の内の部屋に住まっている。
「真夏くんは」
 束の間の沈黙を破って、冬が呟いた。目線は横を向いている。電車の進む先に目を凝らすかのように。
「ふとした瞬間に、押しつぶされてしまいそうな寂しさに襲われる、みたいなこと、ある?」
 唐突な質問だった。でも、声の調子はいたって落ち着いていて、何気ない問いと変わらない。
「ふとした瞬間に、どうしようもなく誰かに甘えたくなること、ある?」
「どうしたんだよ、冬」
 茶化してはいけない気がしたけれど、おれはつい、おどける。
「答えて、真夏くん」
 おれは気迫に負けて口を噤んだ。心の中で質問を唱え直してみる。押しつぶされてしまいそうな寂しさに襲われる、みたいなこと、ある? どうしようもなく誰かに甘えたくなること、ある?
「一人で家にいる休日に覚える感情は、たぶん、寂しさだと思う。友達に対してはあんまりないけど、家族に甘えちゃうときは、ままある」
 真面目な声のトーンで答えた。
「まともだね」
 冬はなぜか横を向いたままだ。
「冬は、あるのか? 何か悩みでも抱えているのか?」
 もし悩みがあるのなら相談してほしい、言外にそんな気持ちを含めた。冬のために何かしてやれる自信は、そんなに大きくなくても。
 言葉が返ってくるのを待って、冬の横顔をじっと見つめた。知的な眼差しが規則的なリズムで瞬く。すっと通った鼻梁。ほんのり色づく唇。ほんとうのほんとに考えていることは窺えない、その表情。電車内、触れられそうなほど近くにあるその横顔が、迂闊にも綺麗に見えてしまい――
「見惚れちゃった?」
 ぱっと首を戻して、おれに笑いかけてきた。さっきまでの真剣なやり取りを、すべて遠くへやるように。
「わたしの顔、じっと見ちゃって」
「お前な」
 おれは腕を組んだ。
「冬が深刻な感じの質問をするから、なんか言いたいことがあるのかと待っていたんじゃないか」
「ありがとう。真夏くんの優しさで、わたしの胸はいっぱいになったよ」
 冬は自分の胸元に手を当てる。
「それで、あるのか?」
「何が」
「だから」
 おれは一応食い下がる。
「寂しさに襲われること。誰かに甘えたくなること」
 電車が目的地の駅にたどり着いた。神楽坂駅。ドアが開く。
「あんまりないよ」
 スキップするみたいにしてホームへ降り立つ。ワンピースの裾がふわりと踊った。
 真意のほどはやっぱり分からない。

 水色のカーディガンを羽織る冬を、彼女の鞄を持ちながら待った。袖を通して、小さく頷く。
「ありがとう」
 手渡した鞄を片手で受け取る。
「今日、思ったより寒いね。春先ってこんなものだっけ」
 駅から出てすぐ、寒い、と冬はこぼして、鞄からカーディガンを取り出した。毎年、春の気候はこんなものだったと思うが、冬が終わって、暖かくなっていくという期待は確かに強い。
「後で、なんか温かいものでも飲むか。喫茶店とかあるだろうし」
 並んで、神楽坂の街を歩き出す。左右にさまざまな店が展開し、その道がずっと先まで続いている。若い人もいれば、お年寄りもいる。色の異なる文化が自然と溶け合っている、そんな風に見えた。
「真夏くん、友達とよく喫茶店に寄るの?」
 冬はそんな経験、したことないのだろう。
「頻繁に、ってわけじゃないけど。学校帰りとか、休みの日とか」
「学校帰りに寄り道したらいけないんだよ」
「――寄り道したかったら、いつでも付き合ってやるからな」
 きょとん、と冬は目を大きくしている。おれの方をじっと捉え、それからにんまりと笑った。
「なんだか、今日の真夏くんはとっても優しい。そんな言葉、どこで覚えたの?」
 よしよしするように、片手でおれの頭を撫でてくる。すぐに逃げたけれど。これじゃ、ただの子ども扱いだ。
 機嫌が上向いたのか、冬はおれの腕に自分の腕を絡めてくる。これではほんとうに恋人同士みたいだ。でも、そのままにさせてやった。悪い気分ではなかったから。
 数分歩いたところで、冬が歩みを止める。目的地に着いたのだろう。冬の視線の先を見据える。少し古めかしい、どこか懐かしい匂いのする雑貨屋がそこにはあった。
 店内は手狭だ。その限られたスペースを最大限有効活用するように、たくさんのものがひしめき合って並んでいた。陶器、磁器、ガラス製品――どれも品のよさとかわいらしさがあって、なるほど、これなら女子は惹かれるだろう。
 はじめは目を輝かせる冬に、適当に相槌を打って付き添っていたけど、次第に彼女のペースで巡らせることにした。おれは一人、気の引かれるままに見ていく。
 店内にほかのお客さんはいない。店員さんも二人きりで、カウンターの向こうでボソボソと話している。外から切り離された、別世界に迷い込んだみたい。
 ふと、視線を吸い寄せられるものがあった。なんてことはない、木製の小箱。インテリアとして使うのかな。実用性はあまりなさそうだけれど。おれは手を伸ばし、持ち上げてみた。見た目以上に、重い。
 その刹那、一陣の風が店内を駆け抜けていった。風圧に煽られ、尻餅をつきそうになる。じっと耐えていると、気づいたときにはもう風が止んでいた。それどころか、店内の様子に変化は見られない。ちらりと見やっても、冬のワンレングスの髪は乱れていなかった。
 気のせいだったのか。いや、でも確かに、強い風を全身で感じた。
 改めて箱を捉える。金具を外して蓋を開けてみた。中には何も入っていなかった――なのに、見ていたら、すっと紙切れが浮かび上がってきた。魔法みたいに、すっと現れる。
 ひょっとしたら、おれは疲れているのかもしれない。それとも、この箱はそういう特殊なものなのだろうか。値札を確かめると、ワンコインで買えてしまう。とても、特別な箱とは思えない。
 浮かび上がってきた紙切れに、言葉が書かれている。
『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 なかなか、洒落た箱だ。大切なものと引き換えに、願いを叶えてくれる。ほんとうなわけないけど、興味を持った。
 こんなに安いなら、買ってしまおうか。
「真夏くん、それ買うの?」
 いつの間にか、冬が隣に立っていた。おれの手元を覗き込んでくる。
「うん、いい感じだし、安いし。せっかくだから、買おうかな」
「おー、いいね。真夏くんが何か買うなんて」
「冬は? 欲しいものなかったのか」
「今日は、いいかな。よさそうなのはたくさんあったのだけど、決められそうにないから。また来ることにする」
「そっか」
 そういうことなら、もう店を出よう。おれは箱をカウンターまで持っていき、会計してもらった。
 これは、願いを叶えてくれる箱なんですか。店員さんにそう訊いてもよかったけれど、なんとなくしなかった。怪訝な表情をされてしまうのも嫌だし。
 買ったものを持って、店を出た。

 神楽坂の街を当てもなく巡っていると、小さな通りを入ってすぐの位置に、こぢんまりとしたカフェを発見した。町屋風の一軒家で、そこだけ都会の喧騒から隠れているようだった。
「素敵なお店」
 冬が興味を示している。メニューを眺めてみると、抹茶やパフェなど、どれもおいしそう。だけど――
「ちょっと、入りづらくないかな」
 中学生二人では、少し敷居が高いと感じてしまう。
「そうだね。また今度にしようか」
 冬も諦め、元の通りに引き返す。
 またぶらぶらと歩みを重ね、やがて飯田橋に達した。背の高い建物の合間に、幅の広いお堀が伸びる。私立大学もあって、先進的な街なのに、やっぱりどこか落ち着いている。この景色もいいな。
「あそこで、ちょっとゆっくりしようか」
 目についたファーストフード店を指し示すと、冬は首肯した。中学生には、あれくらいがふさわしい。
 飲み物とフライドポテトを注文して、二階席に上がった。店内は賑わっていて、そこまでゆっくりできそうではなかった。でも、ずっと歩きっ放しで、やっと座れることは大きい。
 向かい合って座ると、冬は満面の笑みを作った。
「真夏くん、今日はありがとう。付き合ってくれて」
「別に、おれも楽しかったし」
 袋の中の箱を意識する。購入したのは予想に反しておれだけだったのだ。
「今年は受験生だし、お互い忙しくなるのかな」
「まあ、それなりには、な。――せっかく楽しい思いしてきたのに、嫌なことを思い出させるなよ」
 すると、ごめん、と冬は悪びれもせず謝りの言葉を口にした。
「でも、気づいたら中学校の最高学年になっていたね。時間の経過は、夢を見ているよう」
「夢、か。確かに、ここまでの中学の思い出が実は夢でした、って言われても、受け入れられちゃうかも」
 それほど、感覚としてはあっという間に過ぎた。
「真夏くんは」
 冬がストローに口をつける。潤った唇が、次の言葉を紡ぐ。
「将来の夢とかあるの? やりたいこととか」
 改めてそう訊かれると、即答しかねる。おれは頭を掻いて、どう答えたものかと思案した。
「そうだな――具体的には、まだなんにも。勉強も運動も中途半端だし、何を目指せるのか……」
 でも、と一度言葉を切った。
「でも?」
「学校の先生になりたい、っていうのは、ちょっとある」
 初めて誰かに言った。将来の夢、と強く言い切れる願いではない。だけど、少しの憧れ。おれの父親は小学校の先生なのだ。
「へえ、先生か」
 冬はきらりと、瞳を輝かせた。
「ちょっと、いいかも、って思っているだけだけど」
「真夏くん、先生に向いていると思うよ。勉強をもう少しがんばったら、すぐになれるんじゃない」
「余計なお世話だ」
 冬は楽しそうに笑っている。
「それで、冬は」
「わたし? わたしの、夢?」
「そう。訊くくらいなら、何かあるのか?」
 だが、冬は深く考え込んでしまう。俯いた彼女の面差しは、冷たい、と形容できた。その豹変に、内心、焦りが生じる。
「わたしは」
 話題を変えようか迷っていると、ようやく冬が話し出す。さっきよりも強い光が、その双眸に宿っていた。
「わたしは、とにかくバリバリ働きたい。なんでもいいから、働いて、お金を稼ぎたい。あ、でも、できたら本に関わる仕事がいいかな」
 おれは言葉を失った。漠然としているようで、ちっとも安易な答えではない。
「意外だった?」
 喋らないおれに、冬は顔を近づけてくる。驚いて、少し身を引いた。
「うん。というか、夢って訊いて、そんな返しがくるとは思わなかった」
「ほんと? 真夏くんの意表を突くために、わざと間を空けたから」
 悪戯が成功して喜ぶ子どもみたいに、目を細める。いつものからかいなのだろうか。
 いや、たぶん違う。理由は上手く説明できないけれど、いつもの冬の言動とは、種類が異なる気がした。冬は何を考えているのか、底を見せないところがあって。その見えない部分で、もしかしたらいろんなことを考えているのかもしれない。
 ジュース片手に、冬は首を横に向け、窓の外をぼんやりと見つめている。その柔らかく瞬く睫毛に、透き通るような白い頬に目をやっていたおれは、あまりに真剣すぎる眼差しだっただろう。

 授業中は、教室の様子をじっと眺められる時間だ。席が後方にある、というのも大きい。普段、友達とはしゃいでいるときは、それぞれの顔しか見ていない。それでも、授業中は基本的に前を向いて、静かにしている。
 勉強に臨む姿勢は違うのに、同じであることを求められるのは酷だろうか。でも、そうでもしなければ、数多いる生徒たちに物事を教えることはできない。可能性を与えることはできない。
 黒板に板書された言葉だけじゃなく、先生が何気なく漏らした言葉までノートに写す人たち。受験生と言われる学年になって、真剣に取り組む人は増えた。さっと掲げられる手。投げられる質問。
 大人しくしている振りをして、本や漫画を読んでいる人。授業中は電源をオフにするのがルールなのに、スマートフォンをいじっている人。舟を漕いでいる人。
 おれは先生の話に耳を傾けつつ、周りをそれとなく観察している。おもしろい、というわけではないけれど、ただなんとなく見てしまう。
 冬は最前列に座っている。そうかと言って、質問するでもなく、ただひたすらに板書を写すだけ。勉強はけっこうできる方だった気がするけど、教室の空気に溶け込んでいるためか、優等生、というレッテルはあまり張られていない。
 学校では大人しくしている、というより、喋らなくなる。どうしてなのか、ほんとうの理由は上手く訊き出せない。おれがこうして不思議がるのは、おれに対してだけ、明るい表情を見せるからだ。
 よく分からない。友達は冬を透明人間扱いするけれど、おれには彼女の心の色が見えない。不透明で、鮮やかな赤を宿しているのか、暗く沈んだ青を蔵しているのか。
 ふと、斜め前に座る小嶺秋乃と目が合った。合った瞬間、小嶺は弾かれたように前に視線を戻す。たまに、小嶺がこちらを窺っているときがある。彼女とはそんなに話さないけど、まあまあ親しいかな。言葉遣いが丁寧で、いかにもいいところの娘といった風。
「東くん」
 一つ前の席の女子から、プリントを差し出されていた。小嶺に意識を持っていかれ、前方不注意になっていた。
「ごめん」
 詫びて、授業で使うプリントを受け取る。

 放課後になっても空は明るい。着実に日は伸びている。
 人のいない屋上に上がる。みんなが部活に励んでいる中、一人でのんびりするのが常だった。たまに冬が顔を見せるときもあるけれど、今日はどうだろう。冬にだって都合はある。
 寝そべって流れる雲を眺めると、静かな心を取り戻すことができた。大げさに笑ったり、じゃれ合ったりしていた時間が遠くなっていく。もちろん、それはそれで楽しいけど、同じくらい落ち着ける場所が欲しかった。
 雲は白、背景は青。形はいろいろで、なんだかどれもおいしそう。手を伸ばしたら届きそうな気がした。右手を上げ、伸ばす格好をしてみる。すると、その手を掴む柔らかい感触があった。真白な誰かの腕が目に入る。
 ぎょっとして、その腕の主をあらためると、にこやかに微笑む春海がいた。スカートが短くて、つい見てはいけない方を見てしまいそうになり、おれは慌てて起き上がった。
「春海か」
「ごめんね、驚かせて」
 向き合うと、目線を少し下げた位置に、彼女の二つの目。髪はナチュラルに波打っていて、明るい茶色だから、陽の光が透けてオレンジっぽい色に映った。
「ここ、好きなんだ」
 訊かれる前に言っておいた。
「街の様子が見えて、グラウンドで汗を流しているみんなの姿が見えて。でも、向こうからはたぶんこちらが見えない」
「動物園とか、水族館みたいだね」
「そういう言い方だと、あんまりいい感じがしないかも」
 二人で笑った。
「春海、どうして来たんだ」
「真夏くんが階段を上がっていくのを見かけたから」
 この学校でおれのことを、真夏くん、と呼ぶのは春海と冬だけ。男子は呼び捨てだし、ほかの女子は東くん、と苗字で呼ぶ。
「あのね、真夏くん」
 春海がおれの手を取って、ぎゅっと握った。ほんのり伝わる体温の熱。
「聞いてほしい話があるの」
 じっとおれの目の奥の奥まで覗き込んでくるような、眼差し。ごくり。喉が鳴ってしまう。
 一つの噂があった。だけれど、おれが敢えてそういう言い方をしているだけで、クラスや学校でまことしやかに囁かれている類ではない。冬が情報を持ち込んできて、出どころを確かめたら、噂を耳にしただけだよ、と返されてしまった。
 ――春海ちゃんには、好きな人がいるね。
 どういうシチュエーションだったか、詳しくは思い出せない。学校までの道の途中か、休み時間にお昼ご飯を食べているときか。台詞はありありと思い出せるのに。
 ――珍しいな。
 ――好きな人がいることって、珍しいの?
 ――そうじゃなくて。冬がクラスの人間に興味を示すなんて。
 ただ、春海ちゃん、と中学の同級生をちゃん付けで呼んでいる時点で、かえって隔たりを感じる。
 ――わたし、そんなに冷め切った性格じゃないよ。
 ――冷め切っているとは思ってないよ。なんていうか、話題にしないじゃん、ほかの人のこと。
 ――好きな人、誰だと思う?
 おれの話を遮って、問いかけてくる。
 実際、気になるところだった。自惚れでもなんでもなく、春海が最も親しくしている男子はおれではないかと踏んでいた。しかし、彼女は冬と違って明るく社交的で、学外にも友人が多いかもしれない。そうなると、考えようがない。
 ――真夏くんではないよ。残念。
 おれの思考を読み取ったかのように、冬は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 ――真夏くんとけっこう仲いいものね。あながち、自惚れとかではないと思うよ。だけど真夏くんは、春海ちゃんの恋愛対象にはならない。
 彼女は同性愛者だから。冬がその言葉を慎重に選んだのが分かった。
 ――どうして冬が知っているんだ。
 冬の観察眼は鋭い。見ていて、閃くものがきっとあったのだ。それなのに冬は、
 ――噂を耳にしただけだよ。
 そうはぐらかした。
 改めて、目の前の春海を見据える。深刻そうな表情。何か、重いものを渡されるような気配がした。
「わたし、好きな人がいるの」
 予感的中。
「自分でもどうしたらいいかと持て余してしまうくらい、不思議に大きな想いで。夜な夜な、その人のことを考えていると、胸が誰かの手に押し潰されているみたいに痛くなって、このまま死んでもおかしくない、って思っちゃうの。
 最近は夜だけじゃなくて、学校に来ているときも少し痛むの。もう、一人で抱えているのは限界。誰かに相談したくてしょうがなかった」
 一気に喋って、一つ、息を吐く。
「ごめんね、突然」
「いや」
 おれの喉から情けない声がこぼれる。
「おれでよかったら、なんでも聞くよ。それですっきりするって言うなら、なおさら」
「ありがとう」
 真夏くんは優しいね、春海は照れたように俯く。もう違うって分かったけれど、これだとおれが告白されるみたいだ。
「相手に想いを告げるつもりはないのか?」
「……伝えられたら、どんなにいいか。告白したら、きっともう今までの仲じゃいられない」
「恋愛はそういうものだろう。上手くいく可能性だってあるし、もしかしたら、友情は残るかもしれない。――って、安易に言っちゃだめだよな。当事者は、簡単に割り切れないか」
「ううん」
 春海は力なく首を振る。
「真夏くんの言うとおり。たんに、わたしが臆病なだけ。でも、ほんとに、失うのは怖い。怖くてたまらない」
 分かるような気がしたけど、どうだろう。おれにはここまで誰かを好きになった経験はない。
 冬は。どうしてか冬の顔が浮かんだ。おれにとって、彼女はどんな存在? 大切でもなくて、腐れ縁よりもう少しマシで、やっぱり分からない。おれと冬の関係は形容できない。
「わたし、秋乃が好きなんだ」
 冬の言は正しかった。おれは、小嶺の肩にかかるくらいの黒髪と、あどけない面差しを脳裏に宿す。物静かで、でも女子たちから愛されていて。赤い縁の眼鏡だけが、目につく彼女の自己主張のようだった。
「自分でもよく分からない。異性を恋愛対象として見られない。秋乃が誰よりもかわいく思えて、愛おしい。ほんとうに、想いを伝えられたら、どんなにいいか。だけどね、告白したら、普通に話せる関係ですらなくなってしまうかもしれない。同性に好きだなんて言われたら、絶対に気持ち悪がられる。
 そんなことになったら、わたし、耐えられない」
 言葉が出てこなかった。下手な慰めは逆効果だ。春海の悩みは、構造としてはシンプルで、感情面ではとても複雑。
 頬を熱いものが伝いそうになった。我慢する。おれが涙を流してどうする。掌をぎゅっと握りしめる。
 せっかく相談相手に選んでもらえたのに、おれはただ話を聞いてやっただけだった。解決策の一つも提示できない。
 彼女の願いを叶えてやれたら――。

 布団から容易に出てこられなかった。体が重い。意識がどんなにがんばってもはっきりしない。遅くまで起きていたからだろう。
 横向きになって、床に置かれたままの箱を捉える。神楽坂の雑貨屋で求めた、お洒落な、小さな箱。願いが叶う箱。
 眠り過ぎて頭がズキンズキンと痛む。でも、まだ覚醒しそうにない。喉が渇いたけれど、台所まで行くのが億劫。誰か運んできてくれないかな、と思いながら、仰向けに体勢を変える。
 深い眠りへ、再び誘われた。

 大切なものと引き換えに願いを叶えてくれる、らしい。決して、信じているわけじゃないが、仮に何かお願いするとしたら、何がいいだろう。おれが強く望むようなことなんて、そうそうない。
 それでも、二つの顔は浮かんだ。自分の想いを持て余して、理性と本能の狭間で悶えるようにしている春海。それから、ほんとのところをなかなか見せない冬。
 おれ自身のことで強く望むことはない。だけど、春海は。春海のためにこの箱を使えたらどんなに心安んじるだろう。
 箱にはいくつかルールがあるらしい。疑問を抱きながら、箱の中の紙片を見つめていると、文字が浮かび上がってくる。箱は所有者を選ぶ。願いを叶えるまでは、どんなことがあっても――紛失しても、誰かにあげても――必ず所有者の元に戻ってくる。箱を破壊することはできない。箱に入れる大切なものは、目に見えないものでもいい。たとえば、誰かへの想いや、大切な思い出でもいい。そして、これらを説明してくれた紙片の文字は、所有者以外の人間には見えない。
 そういう仕掛けと割り切るには、あまりにも現実の枠を超えていた。文字が次々に浮かんでは消えていくのを、どう納得したらいい。まるで魔法だ。それに、箱は見た目以上に重たい。
 普通ではなさそうだ。だからって、願いが叶うと信じられるほど、おれは素直なお年頃ではなかった。
 ぐるぐると悩み、考え、行ったり来たり。箱を信じるか信じないか、というよりも、春海のためにできることはないのか、という思いが占めていた。
 信じられないのなら、実際に願ってみればいい。大切なものを仕舞って、一つ、願ってみれば分かる。――この箱が、ほんとに魔法の箱なのかが。

 稚い時分の記憶。まだ身に比して大きいランドセルを背負っていた。楽しげに会話しながら、おれと冬はよく一緒に帰っていた。誰に言われるでもなく。家が近いからそうするのが当たり前だと思っていた。
 冬は気づいたらおれの近いところにいた。物理的な距離でも、気持ちの上での距離でも。
 しかし、小学生も次第に年齢を重ねてくると、男女一緒にいることを冷やかすようになるものだ。学年が上がるにつれ、特に男子から、おれと冬の関係をからかわれた。
 冬はまるで気にしていなかった。昔から他人にどう思われているのか気にしない性格で、寄ってくる蠅を払うように、適当にあしらっていた。
 だけれど、おれは違った。おれは胸中がもやもやした。なんで異性と一緒にいるだけであれこれ言われなければならない。なんだか、不利益を被っているみたいだ。自分が強く望んだ、冬との関係でもないのに。
 それで、ある日のこと。掃除当番があって、少し帰りが遅れたおれを、冬は下駄箱の前で待っていてくれて。素直に嬉しかったから顔を輝かせたが、すぐに曇らせる。冬の背後に数人の男子が立っていた。にやにや笑いを浮かべて。
 ――夫が来たぞ。夫が。
 ――妻をこんなに待たせちゃって。
 ――でも、ちゃんと待っているからエライよな。
 ――アツイ、アツイ。
 そうして、ゲラゲラと笑い転げる。
 何がそんなに楽しいのか。おれと冬はただ家が近所で、一人で帰るよりは、なるべく誰かがいた方が寂しくないからそうしているだけで――。でも、どんなに言葉を尽くして説明したとしても、きっと理解してもらえない。新たなからかいの材料を与えるだけだ。
 別に、無理して一緒に帰る必要はない。そうだ。
 ――うるせえな。おれは、一人で帰るんだぞ。冬は、勝手に待っていただけだ。
 そう言い捨てて、素早く靴を履きかえると、おれは走り出した。追いすがる後ろめたさから逃げるように。一度も、冬の表情を確かめられなかった。
 その日はそのまま家に帰った。翌日からは、ずっと一人で登下校することになるのだろう、と考えていた。
 それでいいと思っていた。からかわれる面倒臭さに比べたら、これくらい、どうってことない。寂しくなんかない。
 どうってことないはずなのに、さっきから胸が締め付けられるような感覚がする。冬の顔が脳裏に浮かんで、容易に離れない。冬がいなくなっても、少しもショックじゃないと思っていた。けれど、今まであった友情が失われてしまうかもしれない。それは、なんでか、嫌だった。
 いくら考えても、もう後戻りはできない。だって、おれは冬を置いて、一人でそそくさと帰ってしまったのだから。きっと、嫌われた。もう相手にしてもらえない。
 その日、布団にうずくまって、静かに涙を流した。自分でもこんな感情になるのが不思議だった。
 翌朝。冬と登校するときは早起きしていたけれど、その日は遅めに起きだした。憂鬱な気分で「いってきます」をすると、そこで驚くべきものを目の当たりにした。家の前でぼんやりと佇んでいるのは、冬だった。待ちくたびれて、疲れたように俯いていた。
 ――冬。
 呼ばわると、パッと顔を上げ、それからはにかんだ。
 ――真夏くん、遅いよ。
 ――だって、冬。
 おれの声は情けないほどに震えていた。
 ――おれ、昨日、冬を置いてきぼりにしたんだよ。
 半分べそをかいているおれに、冬は、ううん、と優しく首を横に振る。
 ――わたし、なんとも思ってないよ。誰がなんと言っても、わたしは真夏くんと一緒がいいから、そうしているだけ。周りは関係ないよ。
 そして、冬は小さな手を差し出す。
 ――さあ、学校に行こう。
 その手を取って、しっかりと握った。昨日の分も取り返そうと、強く。温かくて、柔らかい感触がした。
 その日から、おれは冬と一緒にいることを積極的に選んだ。大きくなるにつれ、だんだんからかう声も少なくなり、やがてあの二人はそういうもの、と認識されるようになった。相変わらず、おれと冬の関係ははっきりしないけど。
 おれは冬が待っていてくれるから、冬と共に行く。ただ、それだけ。特別な何かは存在しない。

 冬とのつながりを確かめてみたかった。おれの中で冬がどれほど大きな存在なのか。詰まるところ、おれにとって冬とはなんなのか。冬にとって、おれとは――。
 その大きさを確かめられて、同時に春海の悩みを解決できるかもしれない方法が一つだけあった。箱がほんとに願いを叶えてくれるものなら、という前提に基づくけれど。
 おれは寝ぼけまなこを必死で開き、放られたままの箱を見据えた。鈍く痛む頭を片手で抑えながら近づき、仰々しくそれを手に取った。相変わらず見た目以上の重さで、掌の上で存在感を示している。
 箱の蓋を持ち上げると、いつもならあった紙切れが見えなかった。いつもなんらかの情報を与えてくれたのに、まるでおれがこれから願いを込めることを分かっているみたいだ。
 箱にはいくつかのルールがあった。大切なものは、目に見えるものでなければならない、ということはない。
「お願いがあります」
 傍から見たら、きっと滑稽だろう。一人の男子が、こんな少女趣味の木箱にお願いしている図なんて。なんでもよかった。本気にならなきゃ、口にしない。
「春海の想いが報われますように。彼女がこれ以上、苦しまなくていいように」
 その代わり、と一度声を落とした。
「その代わりに、おれと冬の思い出を封じ込めます」
 もし、おれと冬のつながりがかけがえのないもので、何よりも大切なのだとしたら、きっと願いは成就する。
 もし、何も起こらなかったら――箱が魔法でもなんでもなかった可能性もあるけど――おれにとって、冬は特別な人ではなかった、ということになる。その場合、春海の願いを叶えてやれないが、そうなったら諦めるしかない。もともと、おれにできることなど限られていた。
 やがて、耐えがたい眠気が襲ってきた。おれは布団に潜り込み、目を閉じた。思考を停止させるように――。

 目覚めたとき、幾分か気分がすっきりしていた。体から鉛を抱えたような感覚がなくなった。
 ちらりと横に目をやって、何もない床の上を束の間見つめてしまう。そこには、目を凝らしても埃くらいしか見出せないのに、なぜか目が離せない。でも、どんなに見つめていても、そこに何が置かれていたか思い出せなかった。


     二


 せっかちな蝉が早くも鳴いていた。窓の向こうに目をやると、じりじりと日が照っている。肌で感じなくても暑いだろうことは読める。だけど、夏は嫌いじゃない。
 上はTシャツ、下は下着一枚だけ。冷房が苦手だから、できる限り身軽になるしかない。乱れた髪を手で梳いて、すたりとベッドから下りる。学校へ行く準備をしなければ。
 部屋にはわたしの身長と同じくらい大きい鏡がある。Tシャツを脱いで上半身裸になったとき、鏡に映るわたしの瞳と目が合った。柔らかく波打った髪、明るい色。
 体育の授業のときとかに、友達からおっぱいが大きいと褒められる。嬉しいような気もするし、どうして大きいのだろう、とふと不思議に感じる瞬間でもある。その場では照れたように笑うだけに留めるけれど。
 おっぱいは女性らしさを表すものの一つだろう。男性はいつまでもまな板のままだから。大きい方が魅力的なのかもしれないし、異性の目を引くのかもしれない。
 わたしは自分が女性としての魅力がある人間なのか分からない。容姿の話ではなく。わたしは昔から男子に特別な想いが抱けない。好きになるのは、いつだって女の子だった。男子に対して特に意識せず接することができるから、友達は男女分け隔てなく多い。
 同性を愛する人は少数だ。大きくなる過程でそれに気づく。気づいても、女の子を好きになってしまうのはどうしようもなかった。何が当たり前か気づくことはできても、その想いを偽れない、今のわたし。子どもではないけど大人でもない、中学生という頃。
 自分が男子だったら、とは考えない。男子だったら遠慮せず女の子への愛を表明できるかもしれないが、それはわたしの愛じゃない。わたしは自分が女として生まれてきたから、女を愛するようになったのだと思う。
 胸が、つきり、と痛んだ。掌を当てて、同時に秋乃の顔を思い浮かべた。そうすることで、痛みは遠ざかる。
 物腰柔らかで、控えめで、あどけなくて。赤い縁の眼鏡の奥の無垢な瞳でこちらを見つめてくる秋乃が、ほかの誰よりもかわいくて、好きだ。
 友達でいられればいいと妥協していた。想いを伝えられないもどかしさを抱えても、失うよりはいいと自分の胸に言い聞かせていた。同性を愛する人が少数だってこと、知っているから。
 しかし、ふとした弾みで彼女に打ち明けてしまった。
 ――好きです。愛しています。わたしと、付き合ってください。
 告白するときに言葉が丁寧になるのはどうしてか。想いが偽りでないと、誠意を示すためか。
 ――ありがとうございます、春海。よろしくお願いします。
 その日が人生最後の日でも、神様に文句を言わなかったろう。眩しい幸せの光に包まれた。
 着替えてから部屋を出た。食卓の方から朝食の匂いがするのは、ありがたいこと。

 これは、理想的な世界なのだろう。
 わたしが好きな人といつでも一緒にいられて、愛し合えて。そして、みんなに認めてもらえていること。きっと、どうにもならない思いを抱えて苦しんでいる人は、たくさんいる。
「秋乃、宿題見せてくれない? どうしても分からないところがあって」
 教室の中。背後からそっと忍び寄って、両腋の下から手を回すようにして軽く抱きしめる。ほっそりした見た目の秋乃は、触れるとちゃんと女の子、柔らかい。
 周囲の視線が少し集まるけれど、眉を顰める人はいない。わたしと秋乃は、公認カップル。
「見せてしまったら、春海のためにならないでしょう。分からないのなら、わたしが教えてあげます」
 秋乃がわたしの手を握って、ふんわりと微笑む。秋乃の口調はいつだって乱れない。
「じゃあ、教えて」
「いいですよ」
 二人で席に腰掛け、教科書とノートを広げる。手を伸ばせば触れられる距離に彼女がいてくれることで、こんなにも安心するなんて。
 存在を主張するように鳴く蝉。その合唱はいつまでも響く夏のBGM。

 あまり使われない階段を上がっていく、真夏くんの後ろ姿を見かけた。その階段は屋上へと通じている。用事があるのかな。
 黙って付いていくことにした。誰かと待ち合わせしているのかもしれないけれど、そうと分かったら踵を返せばいい。でも、なんとなく、真夏くんの足取りは誰かとこれから会うことを感じさせなかった。一人でのんびりしたいのでは。
 真夏くんとはよく話す。彼は特別かっこいいわけでも、クラスの中心人物というわけでもないが、潜在的にたくさんの人を惹きつけている。ひょっとしたら、こう思っているのはわたしだけかもしれないけど。人の話を聞いてくれて、思いやってくれ、優しさが伝わってくる。具体的な解決策を提示してくれなくても、そういう態度で接してくれる中学生男子は稀少だ。
 秋乃を好きになって、想いを打ち明けようかと悩んでいた頃、真夏くんに相談した。ケースがケースだけに、同性には言いたくないし、そうかと言って男子に話を聞いてもらうのも難しい。それでも、真夏くんなら。彼にならいいと思った。
 付き合えたことを感謝していなかった。わざわざ尾行する目的が浮かんだ。
「真夏くん」
 屋上に出るドアの前で、彼は足を止めた。それほど驚かずに、ゆっくりと振り返る。
「春海か。奇遇だな」
 目を細めた。透き通るような茶色の眼差しをしている。
「わたしも一緒にいい?」
 屋上を指差して尋ねると、彼は無言で頷いた。二人並んで、ドアの向こうへ。
 空が広がった。よく晴れていたけど、おかげで蒸していた。少しくらいならいいけれど、長くいるのは遠慮したい。
 ぽつねんと、佇む一つの影を目の端で捉えた。フェンスに片手を当てて斜め下を見据えている整った横顔、会田冬さん。この暑い中なのに、彼女の周りだけ涼やかな風が吹いているようだった。腰まで達する黒髪が、揺れる。
 会田さんは不思議な人だ。話しかければちゃんと受け答えしてくれるのに、基本的には周囲との交流を絶っている。かわいくて、笑えば明るい印象を与えるのに。何を考えているのか分からないところがある。わたしも数えるほどしか言葉を交わしたことがない。
 わたしたちの気配に気がついて、会田さんが首をめぐらせた。目が合うと、何かを了承したように頷いて、黙ってわたしたちの横を通り過ぎていった。そのまま、ドアの向こうへ消えてしまう。
「悪いことしたかな」
 一人を満喫していたところを邪魔しただろうか。
「かもな」
 真夏くんもやや申し訳なさそうな表情をしていた。
「会田さん、屋上に来ることなんてあるんだね」
「うん。でも、おれはここによく来る方だけど、初めて見た。そんなに頻繁でもないのかも」
 よく来るのか。知らなかったことだけれど、そちらに話を広げなかった。
「彼女って、不思議だよね、なんだか」
 さっきまで会田さんが立っていたあたりをちらりと見やった。
「まあ。話したことないからなんとも言えないけど、半透明の膜に覆われているような印象がある」
 わたしと同じで、真夏くんも彼女と中学校から一緒なのだろう。
「いつも一人で、だからといって暗いわけでもなくて。ふわふわと漂っている感じもすれば、深い深淵にどっぷり嵌まっている感じもするし――」
「それより」
 会田さんへの興味は失ったようで、真夏くんは言葉を遮った。
「小嶺に想いを伝えられたんだな。おめでとう」
 そうだ、そのことのお礼を言うつもりだった。
「真夏くんが相談に乗ってくれたおかげだよ」
「そんな、おれは何も」
「ううん」
 まっすぐに彼の双の瞳を見つめた。風に乗せて届けるように、ありがとう、を。
 受け取った真夏くんの照れた顔が仄見えた。

 すべては幸福のうちに進んでいくと思っていた。わたしは日々それを噛み締めていればよかった。秋乃がそばにいれくれること。手を握ったら握り返してくれること。見つめたら微笑み返してくれること。
 一学期の期末試験が終わり、あと数日学校に通ったら夏休みに入る。高校受験が控えているわたしたちにとって、あまり待ち遠しくないかもしれない夏休みだが。志望校を目指し、励まないと。
 そんな頃、教室で寂しく俯く秋乃の姿を捉えた。窓辺に寄って、外の景色を見るともなしに見ている。あまりに虚ろで、その瞳にちゃんと街が映っているのかしら、と。
「秋乃」
 驚かさないよう、そっと呼びかけた。秋乃はわたしに気づいた風だったけれど、こちらを向かなかった。元気がない。物静かな性質とはいえ、ここまで打ち沈んだところは見せたことがない。何か、あったのだろうか。小さい体が、より小さく思えた。
「どうしたの?」
 まだ、わたしを見てくれない。無理に視界に入り込もうとしてもよかったけど、ただ横顔を眺めていた。赤い縁の眼鏡で目の色がちゃんと分からない。
「ねえ、秋乃」
「春海は」
 秋乃がようやく口を開く。誰もいない教室じゃなければ、きっと聞き取れないほど小さく。
「自分の感情に違和感を覚えること、ありませんか?」
 言い終わると、目が合った。切り揃えられた前髪の下の目は微かに揺れていた。
「どういう、意味」
「わたしはあります」
 橙色の日差しが眩しくきらめいた。遠くから、懐かしい音楽が聞こえる。
「わたしは、ときどき、自分の感情の正体に心当たりがなくなります。ほんとうだと思い込もうとしているだけで、ほんとうではないのかもしれない、と。形を確かめようがないから、どう折り合いをつけていけばいいのか分かりません。
 わたしはほんとうに春海が好きなのでしょうか」
 天地が引っくり返るような心地がした。掴めない話をして、ひょっとして、最終的に別れ話を持ち掛けようとしているのか。
「秋乃、どうしてそんな……」
「誰かを好きになる感情はどこからくるのでしょう。どうしたら、揺らがないものだと信じられるのでしょうか。――わたしは春海の恋人だというのに、つい目で追いかけてしまう自分に気がつく。東くんの姿を、ずっと――」
 そこまで喋ってから、秋乃は目を瞠る。口元を手で覆って、慌てて口を噤んだ。
 いつの間にか、懐かしい音楽は止んでいた。

 物置の整理は骨が折れた。軍手で額の汗を拭う。ここが灼熱地獄かと見まがうばかりだ。服はびっしょり、背中に張り付いている。
 夏休みに入ってすぐ、親の休日出勤や自分の塾などで日中に揃わなかった家族の顔ぶれが久しぶりに揃った。それを待っていたかのように、母親は大掃除を敢行しようと言い始めた。うちの家族はみな几帳面だから、家の中はいつも整理整頓されている方だが、とはいえ。綺麗にしようと心がけるのはいいこと。それに、普段気にしていないところをこういうときに気にしなければ。
 それで、わたしは物置に。
 中はぎっしりものが詰まっているのに、一つずつ確かめていくと不必要なものばかり。どうして残していたのだろうと不思議になる。たまに、懐かしさを喚起させる品が出てきて、つい耽ってしまうこともあった。
 体を動かす作業はいい。考えごとをしなくて済む。ちらちらと脳裏によぎる秋乃の顔を、汗と一緒に拭う。
 秋乃のことを深く思ってしまうと胸が痛んだ。息継ぎが上手くできなくなって、膝をつきそうになる。何かの病気に罹ったのかと不安を覚えるほど。
 片想いをしていた頃もよく胸が痛んだ。病は気から、とはよく言うけれど、精神的な影響が働いているとしか考えられない。
 ふと、手を止めた。整理している途中で、見慣れない箱を発見した。両の掌に乗るくらいの、古めかしい木箱。
 思い出の品が出てきて、少しずつそれにまつわるエピソードを思い出していくことが先ほどからあったけど、その箱はいつまで眺めていても何も思い出さなかった。あまりに、見覚えがなさすぎる。
 そっと手に持ってみて、驚いた。見た目以上の重量が手にかかる。揺らしてみても音はしない。空箱のようだけれど、それではこの重さはいったい。
 もしかしたら、お父さんかお母さんの大切なものなのかも。だとしたら、物置にあるのはおかしいか。秘密がある、とか。だんだん、興味が湧いてきた。
 周囲を一応窺ってから、ゆっくりと蓋を開いてみた。古びた印象と違って、蓋の金具は錆びていなかった。中には、やはり何も入っていない。――そう思ったのはほんの一瞬だった。手品みたいに、紙片がぼんやりと浮かび上がってきて、ついにははっきりした輪郭を得る。
 目を瞬いた。何がなんだか分からないまま、その紙片をひょいと持ち上げた。そこには言葉が。『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 願い。今のわたしが願うことは一つしかない。

 文字を追う真摯な眼差し。ページをめくる白い手。窓から差し込む淡い光を背中に受けている。どうして、あんなにも可憐なのだろう。そして、どうしてわたしは、こんなにも恍惚としているのかしら。惹かれたのは、いつから。もう憶えていないくらい以前のこと。
 図書室で一人、本を読んでいる秋乃を棚越しに窺っている。周囲から怪訝に思われかねないし、付き合っている者同士なのだから、近づいて話しかければいいのに。そうは思っていても、なぜか隠れてしまった。この間のことが念頭にあったからかもしれない。
 秋乃とは決別することはなく、今でも関係は続いている。でも、時折降りる沈黙が耐えられなかった。前までは気にもしなかった。それを振り払うように、ひたすら話した。秋乃の笑った顔だけを見ていたくて。
 集中した表情をしている。秋乃は読書が好きだ。本を読んでいるときの彼女はいっそう静けさが増して、神秘的なベールを纏っているよう。
 つと、一心に読み耽っていた秋乃が顔を上げた。そして、少しはにかむ――そんな笑い方もするのね。
 彼女の視線の先には、真夏くんがいた。
 ――わたしは春海の恋人だというのに、つい目で追いかけてしまう自分に気がつく。東くんの姿を、ずっと――。
 偶然、彼も図書室に足を運んだのだろう。顔を見合わせ、二、三、言葉を交わしている。二人ともけっしてはしゃぐことはないけれど、わたしには、秋乃がとてもいい表情をしている風に見えた。
 つきり。また、胸が少し痛くなってきた。このままここにいたら、呼吸困難になって倒れてしまうかも。真夏くんが秋乃から離れたのを見届けて、わたしは図書室を後にした。足を引きずるようにして。
 校舎内に置かれているベンチに腰掛けた。慎重に息を吸って、吐いて、を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。胸元に当てていた手を離し、スカートから露わになっている太ももに落とした。
 秋乃が好き。誰よりも。そして、秋乃もわたしを想ってくれている。
 だけど。
 思い通りにいかない状況を覆す。それが、願いかな。でも、わたしだけの意を貫くことが、果たして正しいのかしら。人の愛情はいつだって偏執のきらいがあるにしたって。
 どんなに自分本位だったとしても願わずにはいられない。好きになるって、つまりはそういうことじゃないだろうか。
 では、大切なものは何。
 物置から見出した箱には、大切なものと引き換えに願いを叶える、とあった。わたしが大切にしているものとは? すぐに思い浮かんでしまうのは、やはり秋乃の顔。かけがえのない存在なのは疑いない。しかし、引き換えとして差し出したら、願いが成就しない。本末転倒だ。
 そこまで考えて、はたと思い至る。今のわたしに、秋乃以外に大切な何かなんて存在しない。
 ベンチから見える、校内の様子。楽しそうな笑い声がした。夏の暑さに負けないくらいのきらめき。
 いったい、どうしたらいいの。

 学校は夏季休業期間に入った。家や図書館に出向いて受験勉強に努める毎日。秋乃とは、会っていない。
 会いたい気持ちはある。顔を見て、話せるだけでいい。だけど、どんな口実を設けて会えと言うのか。今までこんなことで悩まなかった。彼女に伝えらないたくさんの言葉が、胸の中で持て余されている。
 いっそのこと、ほかの人も誘って、数人で集まるのもありかもしれない。そうすれば、少しでも解れるだろうか。でも、誰を。
 真夏くんか。わたしは短く息を漏らした。彼を呼ぶことで何かが明確になってしまうかもしれないけれど、しかし、それで絶たれるようなつながりがこれからも続くとは思えない。
 考え始めると、勉強が手につかなくなった。一度頭の中で想定してしまうと、その考えにとり憑かれたようになった。誘わなければ、この気持ちは鎮まらない。そんなところまで来ていた。
 スマートフォンを手にし、誘いの文面を考える。秋乃に対して、いろんな前置きも含めて文字を打ち込む。読み返すと、狂ったみたいに長くなっていた。何をこんなに長々と書いているのか。無駄な部分を削っていくと、ずいぶんあっさりした内容に変わった。冷たい印象を与えてしまうかもしれないけど、これくらいシンプルな方が快諾してもらいやすい、かな。
 ここまでの作業を繰り返して、すっかり秋乃に連絡を取れなくなっていたことに気づく。以前なら、深く考えずに、自然に言葉を届けられたというのに。距離ができたのか、ひょっとしたら、距離がぐっと縮まる過程で現れた障害なのかも。前向きにも後ろ向きにも、いくらでも思い巡らすことはできた。
 やがて、ぐったりと疲れたようになって秋乃にメールを送った。祈るみたいにして、「送信完了」と表示された画面を見つめる。画面が真っ黒に変わるまで。
 続けて、真夏くんを誘った。文面はちっとも悩まなかった。彼に話しかけるように、気楽で、わたしの言葉だった。
 返信がすぐに来るかもしれないけれど、わたしは電源を切った。どんな種類の返答があったとしても、直面するには心の準備がいる。受け入れるための、覚悟。
 後悔するだろう。前触れもなく誘ってしまったことで。喜びを得るだろう。きっと、三人でお出かけできる。
 気持ちを切り替えて参考書に向き直ろうとすると、また余計な不安が脳内に足を踏み入れてきた。三人だけではまずい気がする。何がどう、というわけではなく、そんな予感がするだけ。三人だけではわたしは絶望を味わう。大いなる絶望を、抱えきれないそれを。
 ほかにも誰か。せめて、もう一人別の人を。わたしたちと深く関わっていない人ほどいい。バランスを保ってくれる第三者。今のままでは、実現したらとても歪な組み合わせだ。理由もなく、そんな思念に囚われた。
 すぐにはふさわしい人が思いつかなかった。

 まるで捗らなかった受験勉強、参考書を鞄に仕舞って、図書館を出る。とぼとぼと、夕焼けの色に染まる道を歩いた。今日一日、どんな風にして過ごしたのか分からない。気づいたらすべてが終わっていた。
 わたしは明るい性格だと人に言われる。いつも笑顔で、元気だって。たぶん、それは間違っていない。わたしの本来の気質。みんなの前で明るく振る舞える。
 だけど、それは自分の奥底にある後ろ向きの性格に裏打ちされた明るさだ。自分の悲観的な部分を知っていて、いつも見つめているから、かえって普段は前を向いて生きていられる。
 同性を好きになったきっかけも、この性格が関係しているのかもしれない。わたしは自分に自信が持てないし、しっかりと軸を据えられない。自分でさえ把握し切れていないのに、異性は遥か彼方の存在で、ぜんぜん全容が掴めない。それより、同性の方が、友情も愛情も抱ける。
 秋乃は大人しくて、消極的な女の子だと思われがち。確かに、控えめで、お淑やかな、女性らしい側面は強いけれど。でも、わたしのようにやわではない。自分を持っているし、積極的に周りと関係を持たないが、悲観的にはけっしてならない。
 女性らしさは表面にすべて現れるわけではない。明るい性格か、大人しいか。おっぱいが大きいか、抱きしめたら折れてしまうほど小さい背か。そられも一つの側面ではあるけど、すべてを推し量れると思ったら驕りだ。
 わたしが秋乃に惹かれたのはいろいろな部分が違ったから。重なる面もある。二人の間にある差異の按配が絶妙で、きっとわたしは秋乃に想いを寄せた。そのはず。
 では、秋乃は――秋乃は、どう感じているのだろう。彼女はわたしの向こうに、どんなものを見ているのかな。
「広末さん」
 唐突に声をかけられ、わたしは固まった。聞き覚えのあまりない声。そちらを向いて確かめると、そこにいたのは会田さんだった。
「こ、こんばんは」
 会田さんは両手を後ろにやっていて、こんばんは、とにっこり微笑んだ。首を傾けたとき、長い髪が肩から流れた。
「図書館で勉強していたの?」
「うん、まあ。小嶺さんは?」
「わたしは家でがんばってたんだけど、今は息抜きの散歩中。まさか広末さんに会うなんて」
 会田さんの声を聞くことは少ない。彼女の声は淀みなくて、すらすらと出てくる。表情も豊かだ。ただ、彼女の本性は分からない。
 一つ、閃くものがあった。わたしたちの間に入って、余計な詮索をしない人。どちらかの立場に寄り過ぎない人――
「あの、会田さん」
 黒目がゆっくりと瞬く。わたしが突拍子もない誘いをかけても、その瞳は見開かれなかった。
 太陽が隠れそうになる頃。

 神保町は秋乃と二人で来たことがあった。言わずと知れた本の街、読書家の秋乃はとても喜んでいた。
 地下鉄の駅から出て、少し歩いた先にある三省堂書店の前で待ち合わせだった。わたしは柄にもなく早めに着いてしまって、しばらく待ちぼうけを食うことになった。通りに立ってのんびり目の前の光景を眺める。
 来るのはあと三人。真っ先に返事をくれた真夏くん。そして、突然の誘いに応じてくれた会田さん。意外な思いはしたけれど、頷いた彼女の笑顔に曇りはなかった。
 もう一人はもちろん秋乃。返信は一番遅く、しかもわたしはすぐにそれを見られなかった。もし断られたらどうしようと、見るのが怖かったのだ。眠りに就くまでついに見られず、明日、起きてから必ず見ようと決意の火を胸に灯した。だけど、かえって内容が気になっていつまでも心は落ち着かない。結局、諦めて返信を読むと、予想に反して――わたしは後ろ向きにも、すげない返答ばかり思い浮かべていた――明るく、快諾の旨を伝える言葉が綴られていた。それで、ようやく安心して眠られた。
 四人で集まってどうなるのか。何より、秋乃とはちゃんと接せるのか――鞄の中に忍ばせた箱に軽く触れる。先日、物置から出てきた小箱を、秋乃にプレゼントしようと考えていた。昔の雰囲気を感じさせるものが好きな秋乃だから、おそらく喜んでくれる。それに、そうすることでわたしの願いが天に通じるかもしれない。大切な人に、願いを叶えてくれるという箱を渡すことで。
「おはよう」
 視界でふわりと黒髪がよぎる。最初に現れたのは会田さんだった。聡い印象を与える瞳に怪訝な色が浮かぶ。
「どうしたの? ぼうっとしていなかった?」
「ううん、大丈夫。わたしにしては珍しく早く着いちゃったから」
 待ち合わせは不思議だ。それまで一人きりだった者たちが当たり前のように集まり、時間を共有し、そしてやがて別れる。わたしたちはこれまで幾度の「待ち合わせ」を経験しただろう。これから、どれだけそれを繰り返すことだろう。
「会田さんは秋乃や真夏くんと面識あるのだっけ」
「さすがに同じクラスだから、顔と名前くらいは一致するよ。ほとんど話したことないけど」
 会田さんは薄く笑った。
「わたしが誘っておいてなんだけど――」
「誘いに応じるとは思わなかった?」
 言おうとしたことを引き取ってくれた。曖昧に頷き返す。
「でも、嬉しい」
「どうして?」
「どうしてって……会田さんはなんとなく、気になる存在だったから」
「ふうん。まあ、わたしって浮いているからね。そこはかとなく」
 思いのほか自然と会話できている。その事実に驚いた。ひらりひらりとかわされているような気もするけれど、彼女の口調には嫌味がなかった。
 接していて確信する。彼女は今の境遇を自ら選んでいる。「浮いている」自分を。
「広末さんは――春海って呼んでもいい?」
「いいよ。わたしも、冬って呼ばして」
「うん。――春海は、小嶺さんと付き合っているのよね」
「そう、だけど」
 声のトーンが落ちてしまわないように気をつけて。
「よかったね」
「何が、よかった?」
「受け入れられる環境があって」
 会田さん――冬の言わんとするところは分かった。秋乃に想いを打ち明ける前、わたしは、どうしてわたしだけみんなと違うのだろうと悩んでいた。悩んでいながらも、その気持ちは覆らなかった。あのまま一人で抱え込み続けていたら、淀み切って沼になっていただろう。
 わたしと秋乃が結ばれたのは幸福なこと。やがて失われるのだとしても。
「みんなが優しいから」
「何より、春海の勇気が賞賛に値すると思う。友達ですらいられなくなるかもしれないのに、一歩踏み出したその勇気が」
 実は、告白した日のことはあまり憶えていない。頭が真っ白になっていたからか。
 わたしには分からないかな、冬がぽつりと呟いた。
 聞き咎めて彼女の表情を確かめていると、ごまかすように微かに笑った。
「ううん。わたしは、誰かを好きになったことがないから。そんな風に誰かに愛を捧げるということが、ちゃんと分からなくて」
 愛を捧げる、なんて大げさだけど。でも、冬はほんとに誰かを好きになったことがないのかしら。どんな人を好きになるのだろう。
 しばらくしてから、集合時間より少し遅れて、秋乃と真夏くんがほぼ同時に姿を見せた。

 わたしの心は歪だ。無様に誰かを求めてさまよい、でも、心の形状が歪だから、誰とも合わない。どんなに笑顔を目の当たりにできても、どんなに肌を触れ合わすことができても、いつまでも満たされないこの容器を抱えたわたしは、どうすればいいのだろう。
 秋乃に箱をプレゼントした。お世辞にもかわいらしいと言えたものではないけれど、秋乃は喜んでくれた。ありがとう、大切にするね、と。そのリアクションの素直さにかえって戸惑った。だけど、嬉しかった。
 東京堂書店の中にあるカフェで、お昼ご飯を食べている。店内は居心地のいい空間が広がっていて、照明の色も落ち着いていた。カフェは本好きだろう大人たちでほとんどの席が埋まっていたが、幸いにも四人で座れる場所が空いていた。大人の仲間入りをできたような気分で向かい合う。
 わたしの心を箱でイメージする。整った形をしていなくて、優しさや愛情を流し込んでもどこからか漏れてしまう。だからいつまでも満たされない。いつまでも渇き、あくまでも憧憬や羨望の眼差しで周囲をじっと見据えている。愛は見返りを求めないもの、と聞いたことがあるけど、知っていたからと言って自分を抑制できるわけじゃない。
 だって、秋乃が好きなのだもの。主観的になっても客観的になっても、冷静になっても感情的になっても、それは変わらない。
「これからどうしようか」
 今日のメンバーで唯一の男子、真夏くんが誰にともなく呟いた。この四人で一緒にいることは不思議で仕方がないのに、だんだんと慣れてきた。
「春海はどうするつもりでした?」
 秋乃の目をまっすぐに見つめ返し、力なく答える。
「秋乃がいるから、本屋巡りがいいかな、って思っていたんだけど。あとは、神保町とか御茶ノ水あたりを歩いてみようかな、って」
「本屋巡りなんて、ほかの二人はいいのでしょうか? 退屈させませんか」
「おれはいいよ」
 真夏くんが頷く。
「本は正直読まないけど、店の雰囲気は好きだし。付き合うのは少しも苦じゃないと思う」
「わたしも、いいよ」
 冬も同調する。
「わたしは本を読むしね。――その代わり、わたしも行きたいところが一つだけあるのだけど」
 三人の視線が冬に集中した。何を言い出すのだろう、と。
 それらの視線を受けても、彼女は澄ました風だった。心持ち、唇の端を吊り上げている。
「聖堂に行ってみない? ここからわりかし近い場所にあるのだけれど」

 信号を渡り、街の中でも一際目立つ明治大学の校舎に沿って進む。そのあまりに美しく、そして圧倒的なスケールに、ほんとうにここで学んでいる人たちがいるのかと、懐疑的にすらなる。
 大きな通りから外れると、とたんに静かな時間がやってきた。話している私たちの声だけがよく響く。休日で、校庭に誰もいない小学校が現れる。雲梯、鉄棒――なんだか懐かしい。そこには石碑があった。夏目漱石の言葉が彫られている。冬はもともと知っていたみたいで、三人に紹介してくれた。秋乃がいたく感銘を受けていた。
 わたしでも、漱石が明治期の作家であることくらい分かっている。教科書で読んだものもある。試験の直前には、作者の意図とやらを探ろうと、繰り返し読んだほどだ。その石碑は、過去に名を馳せた偉人が確かに存在したことを証明し、彼がいた時間と今が地続きだというのを教えてくれる。
 小学校と隣接する場所に、幼稚園があった。その区画内に公園も。普段はきっと、遊び回る子どもたちの声がこだましているのだろう。けれど、今は人影もまばら。大きな木を背にしたブランコが寂しげに佇んでいる。
 坂を上がっていくと、歴史を感じさせるようなホテルがあった。山の上ホテル。聞いた憶えがある。わたしがその名を耳にしたことがあるくらいだから、有名なのかもしれない。その趣深さを前にしたら、自分たちの稚さが自覚できてしまう。嫌でも。
 そこからさらに上がっていくと、目的地はすぐだった。冬が行きたいと告げた、聖堂。なんとなく想像はしていたけど、実際に目の当たりにし、その優美な作りに見惚れてしまった。想像を遥かに超えている。建物をずっと見上げているわたしたちは、傍から見たらさぞかし間抜けな姿を晒していたことだろう。
「入ってみよう」
 冬が返事も聞かず、スタスタと中へ足を踏み入れていく。呆気にとられながらも、彼女に続くしかなかった。気づいたらすっかり彼女のペースに乗せられている。
 こうして接していくと深く理解できる。会田冬という女子は、人付き合いが苦手なわけでも協調性がないわけでもなく、自分の意志がしっかりとしている人なのだ。一見しただけでは分からないもの。それは、同い年からしたら大人なのかもしれないし、でも、大人からしたらかえって子どもっぽい、のかな。
 敷地内には簡単に入れた。止める人もなく、そこの一番綺麗で大きな建物の前にたどり着く。開け放たれた背の高い扉、中から音楽と歌声がこちらへ届く。礼拝の最中だろうか。
「近くで見てみよう」
 すぐには頷きかねて、隣を見やってしまう。同じようにわたしを見てきた秋乃と目が合い、その瞳に迷いの色が浮かんでいるのを察した。
「うん、行ってみよう」
 しかし、真夏くんは快諾した。どこか、今の状況を楽しんでいる節がある。冬を見つめる真夏くんの表情が柔らかい。
 さすがに聖堂内へ進む直前で、声をかけられた。冬が、
「学校で外国の宗教について学んでいるのですが、少し見学させてもらえませんか?」
 と事前に考えてきたかのように、もっともらしいことを告げる。おかげで、後方から見学することを許された。
 入るときに蝋燭を手渡された。
 建物内は薄暗い。大きめのガラス窓から差し込む光と、中央あたりにあるたくさんの蝋燭の火だけが明るさを生み出している。蝋燭の向こうには椅子が並べられていて、そこを埋め尽くすくらいの人がいた。さらにその向こうには歌っている人たちが。
 蝋燭のこちら側で、それらの様子を立ったまま眺めている人もたくさんいる。敬虔な人間がこれだけいるのだと感じた。
 ほかの人らを真似て、蝋燭を差しにいった。火をもらって、銀色の器に置いた。こうして、来た人の分だけ蝋燭は増える。
 後方に下がったところで紙が配られた。歌詞が書かれている。わたしたちも歌え、ということなのかな。でも、歌詞が分かっても音程とかはすぐに掴めない。なんとなく冬に視線を向けると、彼女は唇をぎゅっと引き締めて、前方を見据えていた。その、真摯な眼差し。無垢な光。
 わたしもただ、彼らの姿を捉えていることにした。どんな意味があるのかちゃんと知っていなくても、すべてを肌で感じ取ろうとする心がけが、きっと大事。
 神秘的な、でもとても充実感を覚える時間が過ぎていった。つきり。また、胸が痛んでしまう。嬉しいときでも胸は痛くなるのね。
 わたしは今、とっても嬉しい。心から嬉しい。何より、誰よりも愛おしい秋乃が一緒にいるから。――その彼女が、何度となく真夏くんの様子を窺っていたとしたって。
 神様だけが死後の世界を知っている。わたしが死んだ日、悲しんでくれる人はどれだけいるのかしら。

 歩き疲れ、電車の揺れに少しだけ眠気を催した。一日、あちらこちらを巡り歩いた。楽しくて、あっという間で、この手で確かに触れた実感もなく通り過ぎてしまったかのような。
 巣鴨駅で四人揃って降り、真夏くんと冬の家はその駅からすぐだった。どうやら、二人はけっこうなご近所さんらしい。今まで偶然でも出くわしていなかったのが不思議なくらい。
 わたしと秋乃は山手線に乗り換えて駒込駅まで行ってもよかったのだけれど、その日の気分で、歩いて帰ることにした。たった一駅なのだから、と。
 じりじりとした暑さは夕方になっても変わらない。不快感を覚えながらも、隣に秋乃がいてくれることが、そしてたくさん歩いてかいた汗が、その悪い感情を遠ざける。
 線路沿いの道は空いていた。めったに通らないけど、ここの並木は、春には鮮やかなピンク色に染まるのではないかな。駅から離れるにつれ、住宅ばかりが軒を連ねるようになる。ますます静けさが増した。
 仲好く、手を繋いで歩いた。ここ最近でここまで秋乃と近しくなれたことはなかった。心とろけさせる、至福の瞬間の連続。いつまでも家にたどり着かなければいい。いつまでも日が暮れなければいい。わたしたちがこうしてずっと手をつないでいられますように、悲しくも願う。
 人の夢、と書いて儚いだなんて、よくできている。わたしの願いは、想いは、容易に叶わない。神様の気まぐれで幸せを与えてもらえたり、絶望を味わわされたりする。所詮は掌の上で哀れに踊るだけ。
 分かれ道に達する。いつもならここでさよならをする。今日はそれがこの上もなく寂しくて、胸が引き裂かれる思いだった。でも、日常はこれからも続く。往生際の悪いものを振り切らないと。
「では、また」
 秋乃が片手を掲げる。
「あ、プレゼント、ありがとうございました。大切にしますね」
 鞄からちらりと箱を覗かせる。それを渡したことがずいぶん前のような気がする。
「うん。じゃあ、またね」
「はい、また」
 手を振り合って、別れへ。終わらないでほしい、いつまでもこのままがいい、そう望んだところで、人と人は何度も別れることを繰り返す。何度目のお別れか。分からないけれど、互いにいい気持ちでそれを迎えられるのは、幸福な物語だ。――せめて、そう自分を納得させるしかない。
「待って」
 気づいたら、秋乃の背中に声をかけていた。ゆっくりと振り返る彼女の腕を掴んで、ぐっと近寄せた。
 余計なことをしようとしているのだろうか。この行いは、物語の蛇足だろうか。
 そんな考えが脳裏をよぎっても、抑えがたい衝動だった。――引き寄せて、半ば無理やり、秋乃の唇にキスをした。目を瞑っていたのは、目の前の表情に傷つきたくなかったからか。
 誰にだってどうしようもなく好きになってしまうことはある。でも、わたしはみんなと違って、報われないと諦めていた日々があまりに長かったから。二度とない幸せが舞い込んだと思ったのだ。
 もう、胸を痛める日はいらない。
 唇に甘い感触を残して、笑い方を忘れたかのようにぎこちなく笑みを投げかけた。それから、長い時間をかけて見つめ合っていた気がしたけれど、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。秋乃の瞳に喜びを滲ませた、恥じらいの色が仄見えた。
 今度はわたしから背を向けて別れたのは、感情がおかしくなったみたいに零れた涙を見られたくなかったため。背中の方から、秋乃の「さよなら」が聞こえた。それは夏の空気に溶けて、しばらくわたしの傍に寄り添ってくれた。

 目が醒めると、外はすっかり明るかった。一日が始まっている。わたしは両手を思い切り伸ばして、やがてベッドから滑り降りた。
 寝間着のままリビングに行き、家族に挨拶の言葉をかけた。開け放たれた窓から猫の額の庭に出て、軽く体操をした。それからじょうろを手にし、花に水をやる。濡れて少しうなだれた風になる花がなんだか艶めかしかった。
 ふと、水をやっていたわたしの手が硬直する。あまりにも、信じられないものを見出してしまったので。目線の先には、草むらの上に転がる木製の箱。その侘しい姿に、言い知れぬ絶望を味わった。見憶えがあり過ぎる。わたしが秋乃に贈ったものだ。
 ――こんなもの、いらないです。
 姿なき秋乃の声がした。空から降ってきて、鳴り止まないリフレイン。
 ――あなたの愛は重い。
 箱を庭に投げ込む秋乃の影。気がつかずに、のうのうとその日の喜びに耽っていた哀れなわたし。やっぱり、いつまでも想いはすれ違っていた。真夏くんがどうとかではなく、わたしが秋乃に対して盲目的になっていた。
 つきり。つきり。つきり。
 胸の痛みがどうしようもないほどわたしを襲う。苦しい。呼吸が上手くできなくなって、このまま息絶えてしまうのではないかと思う。――だけど、もう。それでもいい。もうこの世にさよならをしてもいいかもしれない。
 両膝をついた。手からこぼれたじょうろ、溢れる水。箱に手を伸ばし、蓋を開けた。不思議と重さは感じられるのに、中には何も入っていない。その空洞をじっと見つめ、願った。
 ちゃんと秋乃がほんとうに想っている人と結ばれればいい。彼女がほんとうに幸せを手に入れられたらと願う、願ってやまない。
 その代わりにわたしの記憶を失くしてほしい。秋乃との蜜月の日々を、砂糖菓子よりも甘い思い出を。それはとても悲しいことだけれど、記憶が残ってしまう方がきっとつらい。だから、いいのだ。それに、この記憶を大切に温めているのはわたしだけ。
 蓋を閉じた。願いはすぐに叶ってくれるのか。願いの条件はこれでよかったのか。そもそも、この箱はほんとうに誰かの願いを叶えるもの? そうでなかったら今のわたしは滑稽を極めているけど、何かに縋らずにはいられないくらい、胸の痛みがいつまでも消えない。

 わたしはさっきまで何をしていたのだっけ。ふと隣に目をやると、じょうろが転がっていた。水やりの途中で意識を失ってしまったのかな。ずいぶん、疲れているらしい。受験勉強で根を詰めているためか。
 わたしの掌はかけがえのないものを捧げ持つように開かれていた。でも、そこには何も乗っていなかった。


     三


 少しずつ涼しくなってくるこの頃は過ごしやすく、ですが、同時に油断をしやすい頃でもあります。季節の変わり目は体調を崩しがち。暑さによる厭わしさから解放されたと手放しで喜んでいては、やがて訪れる冬の寒さに辛酸を嘗めさせられる契機となりかねません。
 それでも、秋の風の心地好さといったら。わたしは秋生まれだからか、よりこのように感じるのかもしれませんけれど。
 箱が出てきたのはそんな折でした。その日の授業がすべて終わり、帰ろうと、教室の後方に設置された棚を漁っていると、見憶えのない箱が姿を現しました。――これにまつわる記憶は何もないけど、どこか懐かしいような気もする……。手に取って眺めていても、自分の棚にこれを仕舞った憶えはありませんでした。
 開いてみると、中は空――そう思ったのは一瞬。次に意識したときにはぼんやりと紙片が浮かび上がってきて、やがてくっきりと形になりました。あまりの不思議に、わたしは目を瞬かせます。
 紙片を覗くと、言葉が。
『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 今のわたしに願いなどありません。これ以上、何を望めばいいのでしょうか。むしろ、誰かに教えてもらいたいくらいです。
 優しく、肩に置かれる手。振り返ると、はにかんだように笑んだ真夏くんが、わたしをまっすぐに見つめていました。彼の瞳に映るわたしの表情も和らぎます。
「一緒に帰ろう、秋乃」
 大切な人がいること。想いが報われた幸福。これ以上、何も望めないのです。
「はい」
 箱は、行き帰りでよく出会う野良猫に差し上げよう。それほどの扱いに決めて、その箱については深く考えませんでした。

 わたしは幼い頃から口数の少ない娘でした。学校に通うようになってからも性格は活発にならず、むしろ周囲の喧騒に圧倒されるばかりでした。あんな風に笑えない、あんな風にはしゃげない、それらを胸の内で繰り返し唱えながら、遠く眺めています。
 人が怖かったのかもしれません。感情が見えないのは怖いこと。表で健気な向きを装っていても、心がどんな色をしているのか分かりません。そういう構えがあるために、かえって今では誰かと接する際に落ち着いた態度を取れるのでしょう。言葉遣いも研ぎ澄まされていきました。
 そんなわたしが、この人なら信用できると踏めた人。それが、お付き合いをしている真夏くんでした。付き合うまでは東くん、と呼んでいましたが。彼はまっすぐで、自分のためという側面をまったくなしに、ほんとうに人のために優しさを施せる人です。だから、惹かれました。
 それでも、好きにならないように気をつけているつもりでした。わたしに好かれたとしても、それはきっと迷惑なだけでしょうから。たとえ苦しい思いを味わっても、秘めなければならない恋。それが――。
 その日のことは、実は正確には憶えていないのですけど、屋上で真夏くんと二人きりで会い、そして、想いを告げてしまったのです。
 ――東くん。わたしは、あなたのことが好きです。好きになってしまったのです。ほんとうは、伝えずに、胸の奥に仕舞っておこうと思っていたのですけれど、どうしても、抑えきれませんでした。どうか、わたしとお付き合いをしてくださいませんか。
 絶対に戸惑いの方が大きかったでしょう。わたしはいつも真夏くんの姿を目で追っていましたが、積極的に関わろうとしてこなかったのですから。遠い存在だった人に告白されることほど、戸惑いを与えるものはありません。
 それなのに――。
 ――ありがとう。嬉しいよ、小嶺。こちらこそ、よろしくお願いします。
 彼は常と変らぬ笑顔を見せて、頷いてくれたのです。ぎこちなく握手をし合って、「これからよろしく」を重ねました。
 どんなに喜ばしかったことでしょう。自分の感情がこんなに熱くなることもあるのかと、驚いたものです。あれから、わたしは少しずつ変われたような気がします。前向きに。
 人は怖く、醜い。あるいは、見にくい。だけど、みんなきっと弱い。負の面が仄見える瞬間があるとすれば、それは心の弱さゆえに。
 あの恍惚とした告白の日は、神様の見えない手に背中を押されました。そうでなかったら、大人しいわたしがそんな大胆なことができると思いますか?
 家に帰ったら、ベッドの上に信じがたいものを発見しました。ついさっき、野良猫の遊び道具にと、道端に放ってきた小さな箱が、なんとそこに何気ない感じで置かれているではありませんか。――置いてきたのは勘違いで、ほんとうは持って帰ってきた? それにしては、わたしより先に帰っているのは奇妙。瞬間移動をしたと考えるほかありません。
 恐る恐る拾い上げて、蓋を開けました。そこにはやはり紙片がたたまれていましたけれど、文言が先と異なっていました。
『箱は所有者を選ぶ。願いが叶えられるか、所有者にその権利がなくなるまで、必ず所有者の手元に戻ってくる。』
 親切な箱です。
 趣があるからと誰かにプレゼントしたとしても、どうにかして、またわたしの元へ戻ってくる、つまりはそういうわけなのです。
 だんだんと、この願いを叶えると謳う箱は本物ではないだろうかと思えてきました。それでも、誰かに打ち明けられることではありません。

 身近で不思議が起こったところで、日常は素知らぬ風で進行していきます。一定のリズムで毎日学校へ通い、合間には本を読み。わたしは、友達はいますが、上手く話せる性格ではないため、聞き役に回っていることが多いです。心から笑えて、楽しいと思える瞬間もあるにはあります。それでも、ときどき自分自身の不器用さを呪いたくなります。
 それも、真夏くんと付き合ってから少しずつ変わりました。友達の輪の中におけるわたしの立場はそのままでも、真夏くんには、自分の気持ちを素直に伝えられたのです。だから、真夏くんといるときは心がとても軽い。
 読書は、確かに好きです。でも、なければ困る、というほどではありません。ほんとうの読書好きにはそういう方もいるのでしょうけど、わたしは習慣として読書をするようになっただけです。こういう性格なので、周囲に置いていかれることも多々あり、手持ち無沙汰な折には読書がちょうどよかったのでした。
 本を読みながら、ときどき教室の様子を窺います。みんなの言動を、表情を、それとなく見つめ。広末さんとはたまに言葉を交わすくらいだけど、あんな風に男女の隔てなく、明るく接せるのはすごい、とか。会田さんはいつも一人で、もう一つ何を考えているのか分からない、とか。真夏くんは――そんなとき、真夏くんも同じようにクラスを観察していたのか、よく目が合いました。互いの名前を知ったくらいの頃は、彼は無感動にすぐ目を逸らしてしまったけれど。でも、次第に、二人で秘密を共有しているかのように、笑いかけてくれるようになりました。その笑顔が、わたしの胸にいつまでも残ったのです。
 学校からの帰り道、真夏くんと並んで歩いていました。次の日曜日、デートに行かないかと誘われました。――デート、なんとも甘い響きです。わたしは一も二もなく、頷きました。
 どこへ行こうかと案を出し合い、遊園地に決まりました。なんでも、遊園地はデートの定番らしいのですが、わたしが一度も足を運んだことがないと打ち明けると、それならぜひ行ってみよう、と、どこか悪戯っぽい顔をして言うのです。明らかに、楽しまれている気がします。別段、かまいませんけれど。

 そうして、日曜日を迎え。わたしたちは水道橋駅で待ち合わせをしました。
 季節はすっかり秋。ひんやりと冷たい風が肌を滑ることもあり、ワンピースにカーディガンを合わせてきました。真夏くんとお出かけしたときに買った白のベレー帽もかぶって。
 わたしはあまり髪を伸ばしません。肩にかからないくらいが楽で、自分に合っている気もします。広末さんみたいに柔らかくウェーブをかけることもなく、会田さんみたいに長くすることもなく。
 眼鏡は小学校の頃からかけています。赤いフレームの愛器。かけていなくてもぼんやりと見えますけど、やはり、世界の映り方がまるで違います。
 待ち合わせはよいものです。待っているのは少しも苦ではありません。今日も待っているのは、真夏くんが遅れているわけではなくて、わたしが早めに来ているだけ。二人とも、時間には余裕をもって現れるタイプです。
 待ち合わせの何がよいって、そこにいる必然性が生まれることです。人は所在なくどこかに佇んでいたっていいはずなのに、用事もなくそこにいると、圧倒的な疎外感を覚えます。それが、待ち合わせは、普段はいない場所にいることの必然性を与えてくれるのです。
 それに、待ち合わせをしていると、たくさんの人を見られます。今日、約束がなければ交わらなかったいくつもの線が、ここで交錯しているのです。なんでもないようで、とても神秘的なことだと、わたしは思います。
「だーれだ?」
 考え事に耽っていたら、突然、背中側から両腕を回されました。声を上げそうになりましたけれど、目についた腕時計と、何より聞き慣れたその声で、真夏くんであることが分かります。じんわりと広がる温もりを感じました。
「真夏くん」
 これまで、そしてきっとこれからも何度となく呼ぶ名を口にしました。
「正解」
 体をくるりと半回転させられ、真夏くんと向き合います。機嫌よさそうに微笑んでいました。――今日を楽しみにしていたのは、わたしだけではないのです。
「ちょっと、びっくりしました」
「ごめんね、待たせて」
「いえ、早めに着いちゃっただけですから」
「秋乃、いつも早いよね」
「性格的なものだと思います。不測の事態に、的確に対処できませんから」
 そう言うと、真夏くんはまた笑いました。
「さあ、行こうか」
 遊園地のある方を指し示します。手をつないで歩き出しました。
 こうして恋人同士になることを、どれほど夢見ていたことでしょう。当たり前のものとして舞い込んできても、夢見心地のままです。真夏くんと手を絡ませて、たくさんの言葉を交わすこと。
 デートは始まったばかりです。

 幻想的な世界に誤って迷い込んでしまったかのようでした。いくつもの乗り物があり、みな、重力と抗うために生まれてきたと言わんばかりの動きを披露しています。阿鼻叫喚の世界。方々からたくさんの叫びが聞こえ、それなのに、降りてきた人たちは嬉しげに笑んでいました。
 あくまでも、不思議なことです。
 わたしは乗る前から怯えていました。
「大丈夫」
 真夏くんが震える手を、ぎゅっと握ってくれました。
「見た目のわりに、とても安全で、楽しいから。何ごとも経験あるのみ」
 不安は尽きませんでしたけれど、真夏くんと一緒なら――。
 そこからは駆け抜けるように。ものすごいスピードで走る乗り物は、途中でビルの間を通り抜けました。薄暗い建物では、奇妙な格好をした人たちに驚かされました。簡易な椅子に座って、ぐるぐると振り回される乗り物には、放り出されるのではないかと危惧しました。
 何度、真夏くんの名を呼んだことでしょう。その度に、どれだけ安堵したことでしょう。真夏くんの名前は、わたしにとって魔法みたいなものです。
 二人で乗れる籠みたいな乗り物は、高いところまで運ばれますけれど、スピードは緩やかで、驚かされる心配はありませんでした。ようやく、落ち着きを取り戻せます。
「遠くの方まで見えるね」
 真夏くんに言われ、周囲を眺めやります。水道橋駅に沿って、お堀が続いています。大学のキャンパスも見えます。真っ白なドームも見えます。卵のような形をしていて、あそこへ落ちたら柔らかく受け止めてくれそうだ、などと非現実的な考えを抱きました。
 足下を覗き込みそうになって――
「下は見ない方がいいよ。ぞっとしないから」
 後悔しました。
 状況を受け入れていくのに精一杯で、最後まで余裕は持てませんでした。でも、ほんとに楽しかったです。同級生たちは、みんな、こんな楽しみを当たり前のものとして知っていたのですね。
 わたしも普通に近づけました。真夏くんのおかげです。
 集合は水道橋駅にしましたが、帰りは一緒の電車です。二人並んで、吊革を掴み、揺られながら我が家へと戻っていきます。
「今日は楽しかった?」
 わたしはゆっくりと頷きました。
「とても」
「そう。安心した。いきなりだと、満足してもらえないかもしれない、って思っていたから」
「……わたし、そんなに怖がっていました?」
「うん。かわいかったよ」
 何気ない瞬間にそんなことを言うので、わたしは耳まで赤く染まる心地でした。
「真夏くんのおかげで、いい経験ができました。また、どこかへお出かけしましょう」
「そうだね。次は、どこへ行こうか」
 それから、二人で早くも次の計画を練り始めました。考えているだけでも、胸が弾みます。
 家に帰り着いてから、机の上に置きっ放しの箱が目に入りました。大切なものと引き換えに、願いを叶えてくれる箱。分不相応なほどに満たされている現在があるのに、所有者として選ばれたわたしは、どんなことを願えばいいのでしょう。それでも、箱はいつまでもわたしの元を去らないのです。
 大切なもの、今は、真夏くんといられるこの日々かもしれません。仮に、何かを欲したところで、けっして捧げられるものではありませんけど。

 昼休み。屋上には眩い秋の光が差し込んでいました。わたしの足下から薄い影が伸びています。
 一人でぼんやりとしたくて気まぐれに足を向けてみましたら、一人の女生徒の姿がありました。艶やかな黒髪がさらさらと流れる後ろ姿、しんと透明な空気が彼女の周りを包んでいます。
 会田冬さん。
 わたしは少し離れた場所から、しばらく見惚れるようにしていました。一心に遠くを見つめ、たまに風に弄ばれた髪を耳にかける仕草はどこか官能的ですらあり、引き込まれます。こういう感情になるなんて、不思議なことでした。
 あんなに目を引く存在なのに、教室では空気みたいに扱われているのが、ただ奇妙です。みなは、わたしのように会田さんのことが見えないのでしょうか。
 ふいに湧いてきた思い。それは、気づいたら片想いを抱いていた、という精神状態に近く。友達になりたい。彼女へ向かって手を伸ばし、その背中を優しく撫で、声をかけたい。わたしと友達になってくれませんか?
 溢れた気持ちを敏感に察したのか、ずっと前を見据えるばかりだった会田さんが、緩慢な動きで振り返りました。目が合ったその瞬間、鼓動が止まるのではと思いました。心の色をすっかり読み取っていそうな、聡明な眼差し。
 会田さんが一歩、また一歩と歩み寄ってきて、小声でも話せる距離まで近づいてきました。涼風に運ばれて、甘いシャンプーの香りが匂いました。――手を伸ばせば、触れられる距離。
「屋上に来る人がいるなんて」
 会田さんはよく来ているのでしょうか。
「小嶺さん、よね?」
 わたしが無言のまま頷くと、彼女は手で口元を覆って、笑いました。
「何か言ったらどうなの? そんなに、びっくりした表情でずっと見つめられても、困る」
 会田さんはとても澄んだ声音で、話すのが苦手ではないみたいでした。やはり、自ら孤独を選択している方、なのですね。
「会田さん――」
 わたしの友達になってくれませんか。何か前置きのしようがあった気がしますけれど、気づいたらそんなことを口走っていました。
 会田さんは戸惑いを見せず、また笑みを浮かべました。
「それは、わたしがいつも一人だから? かわいそうだと思ったから?」
 わたしは慌てて首を横に振りました。
「いいえ、違います。自分でも不思議なのですけど、あなたと友達になりたいと、心から望んだのです。わたしの勝手な願望です。ごめんなさい」
「――そう。こちらこそ、ごめんなさい。嬉しい言葉をかけてもらえたのに、斜に構えた返しをしてしまって」
「いえ、突然すみません」
「友達になってくれませんか、か。いい言葉だな。胸を打つ響き。過去に友達がいなかったわけじゃないけど、そんな風に言われたことはなかった」
「わたしも、言ったのは初めてです」
「小嶺さん、とてもいい人そうだし。なんだか、仲好くなれそうな気がする。よし、じゃあ、友達になりましょう」
 会田さんの瞳に映るわたしの顔が、パッと華やぎました。
「ほんとうですか、ありがとうございます」
「よろしくね、小嶺さん。――ううん、秋乃って呼ばせて」
「では、わたしも冬って呼んでもいいですか?」
「よくってよ」
 会田さん――冬は悪戯っぽい笑みを見せました。今まで知らなかっただけで、いろんな表情を持ち合わせている人でした。
 真夏くんと出会って、わたしは少しでも変われたのでしょうか。でも、自分から誰かと友達になろうと動いたのは、わたしが変われた一つの証左だという心地がします。
 こうして冬と友達になれて、普段から一緒にいる機会が増えていきました。やがて季節は冬の入口に差しかかってゆきます……。

 吉祥寺駅の北口は、さまざまな装いの人で賑わっています。でもそれは、新宿や渋谷で見るような、自分を守るための鎧ではなく、とても自然体だと感じられました。楽しさの中に、どこか気持ちの余裕が。
 さっきから何度も通り過ぎるバスを眺めて、ぼんやりと待っています。待つのは好きですが、腕時計に目をやって違和感を覚えました。待ち合わせ時間よりも進んだ時間を、その時計は表示していました。
 真夏くんが待ち合わせに遅れるなんて、未だかつてなかったことです。わたしが早めに着いて待っても、それほど経たずに姿を見せます。真夏くんをぶっきらぼうな性格だと評する人もいますけれど、ほんとうはとても思いやりのある人なのです。よほどのことがない限り、約束した相手を平気で待ちぼうけの状態にさせません。それは、付き合ってから改めて知ったこと。
 約束。今日は吉祥寺でデートをする予定です。お洒落な街で、憧れが胸の内で膨らんでいましたから、真夏くんと一緒に来たいと考えていたのです。
 何かあったのでしょうか。ようやく心配が頭をもたげてきて、スマートフォンを取り出します。すると、どうして気づかなかったのか、真夏くんからのメールを受け取っていました。
『ごめん、北口だと分かりづらかったかもしれない。中央改札口の前にしよう。』
 慌てて、近くにあった駅の構内図を確認すると、北口は駅と併設されたショッピングモールによって、二つに分かれているようでした。確かに、これでは待ち合わせしづらいです。それに思い至った真夏くんが、直前で待ち合わせ場所を変更していたのです。それなのに、気づかなかったのはわたし。
 エスカレーターで上がって、ずっと前に通り越してきた改札口の方へ向かいます。そこには、不安そうな面持ちで佇んでいる真夏くんがいました。
「真夏くん、ごめんなさい」
 わたしが呼びかけると、安心した、と言うように笑顔を浮かべました。
「やっぱり、下にいたのか。連絡がギリギリになってごめん」
「こちらこそ、メールに気づかなくて……。何かあったのかと、心配しました」
「おれも」
 しばらく、何も言わずに見つめ合っていました。互いの瞳をまじまじと眺めてから、どちらからともなく笑みをこぼします。
「じゃあ、行こうか」
 促され、並んで歩き出します。今はお昼時。真夏くんが見つけてきてくれたという、ネパール・カレーのお店に向かいます。
 大通りを進んでいきます。左右に高い建物が聳え立ち、道はまっすぐに伸びています。整然とした街並みに好感が持てました。
「今夜は用事があるんだよね。それまでに、帰れるようにしよう」
 はい、と頷き返します。今夜の用事とは、冬と温泉に行く約束をしていることです。温泉と言っても遠出するわけではなくて、都内にあるスーパー銭湯みたいなもので。中学生二人だけで行くのは気が引ける思いもしますけど、だけど、せっかくだからと。ここのところ寒くなってきましたし、何より、そこはわたしたちの住む場所からほど近いのです。
 左右に道が分かれた箇所で右を選びました。大通りから外れたため、喧騒も次第に遠ざかっていきます。あまり馴染みのない土地で喧騒から離れることはときに不安で、でも同時に、たった二人でいるのだということを意識させます。
「ここだ」
 真夏くんが一つの店を指し示して、そう言いました。言われるまで店と気づかないほど、ごくありきたりな民家のようでした。ガラス張りのドアの向こうに見える店内の様子も落ち着いていて、アットホームな空気が流れているのが分かります。
 店内に足を踏み入れた瞬間、熱気で眼鏡が曇りました。二人で案内された席に座り、向かい合います。そうすることで、まるでわたしたちは恋人同士みたいだと、ほんとうのそれなのに考えてしまい、胸の奥で仄かに笑いました。
「それにしても」
 それぞれに注文をしてから、真夏くんが切り出しました。
「いつの間に、会田と仲好くなっていたんだ」
「いろいろありまして」
 冬と友達になった経緯は、説明できなくはありませんけれど、でも、言葉にしたところで、そのときの感情の色を余さず伝えきれないでしょう。それくらい、見えない何かに突き動かされたのです。――真夏くんと結ばれたときと似ている気がします。
 それから、二人に起こった最近の出来事を語らいました。いずれもささやかな事柄に過ぎず、それでも、真夏くんが口にするすべてを知っておきたいと思うかのごとく、耳を傾けていたのです。真夏くんも同じように、わたしの話に耳を傾けてくれていると願いつつ。
 受験の話は、まるでそれが禁忌に触れるもののように避けられていました。もうすぐ本格的な受験シーズンに入るというのに、不思議です。でも、互いに志望校は把握しています。それ以外、言及する必要はないのかもしれません。不安や焦燥はきっと尽きないけれど、それを相手にこぼしたところで何になるのか、そんな考えが二人の底に流れ、たゆたっていたのでしょう。
 やがて、カレーが運ばれてきました。日本のそれよりも色の濃いルー、そして大きなナン。食べきれるでしょうか、しかし、おいしそうな匂いが鼻孔をくすぐります。
「食べきれなかったら、おれが食べるから」
 食の細いわたしの心配を察したように、真夏くんがそう言ってくれました。頷いて、いただきます、と揃って食べ始めます。

 井の頭公園の風は、街中を歩くときに感じるそれと違っているような心地がしました。葉がさやさやと、こちらに何かを伝えるかのように鳴いています。
 デートスポットとして名高いこの公園ですから、来るまでは勝手な想像をし、身構えていた部分もありました。それは否めません。ですが、いざ直に目の当たりにしますと、アベックばかりではなく、家族連れや年配の方もいらっしゃいます。イメージよりも、もっとほのぼのした空気が流れていました。――アベック、という言い方は、真夏くんによると古いそうです。
 何も決めず、二人で気の向くままに歩いていました。園内はとても広くて、一周するだけでもそれなりにかかります。
 途中、池が現れました。ボートがいくつか浮かんでいます。
「乗る?」
 真夏くんが悪戯っぽい笑みをたたえて、問いかけてきます。わたしだって、ここのジンクスくらい耳にしたことがあります。首を横に振りました。
 池を見やると、意外とボートに乗っているアベック――もとい、カップルは大勢いました。別れたいわけではないだろうに、なぜ――? ジンクスにも負けない、強靭なつながりがあることを証明したいのでしょうか。だとしたら、少しは納得できますけれど。
 でも、わたしは頑なに乗ることを拒みました。縁起の悪いものはできる限り遠ざけておきたいですから。
 二人で歩きながら、ぽつぽつと、話をしました。真夏くんはいつでもわたしを楽しませてくれます。話すのが苦手なわたしのために、じっと耳を傾け、聞いてくれます。だから、わたしは好きなのです。ささやかなことかもしれませんが。
 風が気持ち好くて。光が心地好くて。周囲の人もみんな笑顔で。幸せな空間にいつまでも閉じ込められていたい、そう望みました。
 やがて太陽は追われ、辺りが暗くなってきました。別れの時間が近づいてきています。
「そろそろ行こうか」
 そう呟く真夏くんの唇を、わたしのそれで塞いでしまいたかったです。そんなことを考えた自分に、戸惑いました。いったい、どうしてそんな大胆な――。だけど、それくらい、わたしの依存する心は明らかなものでした。どうしようもありません。
「はい」
 どんなに望んでも、求めても、二人にはそれぞれの時間があります。わたしたちは大人で、わたしたちはとても幼いのです。その稚さゆえに、感情は絶えず揺り動かされるのでした。
 駅に戻り、電車でわたしたちの街へ帰りました。オレンジから紺青へ、時間の経過とともに流れる景色のグラデーションが、窓外を淡く彩っています。瞳は、感傷的なときほど、ものの映し方を異ならせるのでしょう。
 最寄り駅で「さようなら」を告げ、手を振りました。ふと、香辛料の匂いが漂った気がして、その出どころに気づきました。自分の上着に鼻を寄せると、カレー屋でついただろう豊かな匂いがします。こんなに残っていたとは。
 きっと、真夏くんも匂っているはずです。これは、今日わたしたちが、確かに同じ場所で過ごした証拠。けっして優雅なものではありませんが、いつまでも消えないでほしいと願う者は、往生際の悪いわたしなのでした。

 ぼやけた瞳で捉える世界は、こんなにもすべてが曖昧なのかと驚きます。普段がかえって見えすぎていたのです。わたしたちは、すべてをきちんと把握しようとし過ぎる生き物。
 駒込の染井霊園からわりあい近い位置に、この温泉がありました。約束した通り冬と待ち合わせをして、二人、ここへ向かいました。ところが――。
 ――二人とも、どこ行くの?
 右手の方より聞き憶えのある声がして、揃って首をめぐらせば、そこに立っていたのは春海でした。広末春海さん。柔らかく波打った髪が、大人っぽさを引き立てます。
 ――広末さん……。
 わたしはいくらか動揺していました。彼女に話しかけられたのが嫌だった、とかではなく。普段、あまり話す機会も少なく、それほど興味を抱かれていないのではないか、そう思っていたからです。
 春海はクラスの中心で、いつも明るく笑っていて、見ていて気持ちのいい娘です。わたしもいつか友達になれたらと、密かな願いを抱えていました。むしろ、めったに言葉を交わさない今の状況が不思議でならない、そう思うくらいに。
 冬はきっと、わたし以上に春海と話したことがないのでは。それなのに、質問に答えたのは冬の方で。
 ――温泉に行くの。二人で。
 ――温泉?
 中学生らしからぬ答えに、春海は目を瞠りました。
 ――そうよ。
 ――へえ、いいな。リフレッシュできそう。
 ――あなたも来る? 一緒に。
 わたしは黙って、二人の応酬を眺めていました。来てほしいとは望みませんけど、来ないでほしいとも、また望まないのです。成り行きに身を委ねることにしました。
 ――いいの?
 ――もちろん。だから、誘っているのよ。
 春海は考えるためか俯き、それから顔を上げ、冬、わたしと、順番に表情を確かめました。わたしは視線を向けられたとき、冬と同意であることを示すために頷きました。でもそれは、気づかれないほど微かな頷きだったかもしれません。
 ――じゃあ、せっかくだし。
 こうして、わたしたちは三人でやって来ました。おっかなびっくりで入りましたが、丁寧に案内され、ふと気づいたときには、湯に浸かっていました。凝り固まっていたものが、すべて解れていくような感覚。気持ちよさに、心がだんだんと静かに、溶け込んでいきました。
 最初は別々になり、好きな湯へ浸かっていることにしました。温泉では、一人で、何かを考え込む時間も大切。そう、冬が提案したからです。
 わたしが考えたことは、なんともとりとめのないこと。
 湯を掌で掬い上げると、指の隙間からあっという間にこぼれました。
 わたしは自分に自信が持てません。それは、容姿や性格の話ではなく、もっと根源的なものなのです。わたしは、自分の感情に自信が持てません。あらゆる感情は、どこからやって来るのでしょう。その実態のなさに、ときたま、不安感を抱きました。
 真夏くんが好き、というわたしの感情は、確かに胸に内在していて、疑いようのないもの。ですが、それならどうして、真夏くんに想いを告げた日のことが、曖昧にしか思い出せないのか。わたしから伝えたようで、それに真夏くんが頷いてくれたようだが、いくら緊張していたとはいえ、頭が真っ白になっていたとはいえ、大切な日の情景をちゃんと記憶していないのですか?
 誰にその答えを求めればよいのでしょう。神様なら、すべて納得のいく回答をしてくれますか?
 ほんとうは、分かっています。わたしは誰かのせいにしたいだけです。憶えていないのは自分自身に責任があるのに、それを見えざる手によるものだと言いたいだけなのです。
 不安でも、日々は続いてゆきます。わたしがいらない心配に囚われている間に、今の幸せを掌からこぼしませんように。ただ、祈ることしかできないのでした。
 体が温まってきました。湯から出て、露天風呂のある方へ向かいました。夜空を眺めながら湯に浸かるなんて、きっと素敵な気分になれます。
 露天風呂に、何人かの人の姿。その内に、なんとなくそれと分かる輪郭を見つけます。冬と春海が、足だけ白濁した湯に入れていました。わたしと目が合うと、にこりと微笑んで、手招きをします。
 春海と冬の語らう光景は、かつて目にしたことがないものでしたけど、二人は自然な調子で笑みを交わしていました。改めて、わたしたち三人が居合わせている今の状況は、夢見心地にさせることだと思います。
「夜空が見えるのはいいけど、星が見えないのは残念ね」
「地方じゃないのだから、東京で星空を期待するのは酷よ」
「でも、風が感じられるのはよいものです」
「小嶺さん、眼鏡をかけていないと印象がまた違うわね。かわいらしい」
「秋乃、でいいですよ。――子どもっぽくなるだけです」
「赤い縁の眼鏡なのよね。意外と似合っているし。意外、っていうと悪いけど」
「広末さん」
「春海の方が嬉しい」
「……春海、どうしてわたしたちと一緒に、ここに来てくれたのですか?」
「どうして、って。そう訊かれると困るかも。なんとなく、楽しそうだなって思ったから」
「秋乃が訊きたいのは、クラスの中心にいつもいる春海が、片隅にいるわたしたちと仲好くしてくれる理由じゃないの?」
 冬はこともなげに、はっきりとした言い方を選びます。
「――わたし、クラスの中心にいるかな?」
 思わず、尋ね返しそうになりました。
「クラスの中心って、そもそもなんだろう。たくさん笑っていたら、クラスの中心? 大きな声で喋っていたら、クラスの中心? お洒落にとびきり気を遣っていたら? 恋愛にいつもかまけていたら? わたしは中心にいるとは感じない。むしろ、二人は羨ましい」
「羨ましい、ですか?」
「うん。だって、何にも煩わされていないし。上手く言えないのだけど、二人を見かけるたびに、あなたたちと仲のいい友達だった可能性もあったのに、って、ちょっと悔しさが混じった感情を覚える」
 春海がそんなことを考えていたなんて、予想外でした。隣の芝は青く見える、とは人口に膾炙された言葉ですが。
「今からでも遅くないと思うけど」
 冬はふわりと動いて、全身を湯に浸からせます。それに倣って、わたしと春海も湯に潜りました。
「今からでも、仲好くしてあげてもいいよ?」
 わざと高飛車な口ぶりをして、冬が同意を促すような視線をわたしに送ります。春海にも分かるように、ゆっくりと頷きました。
「ありがとう。でも、どうだろう。今までの友人関係が嫌だ、ってわけじゃないから、なんだろう、わたし不器用だし、すべての人と等しく親しくなれないかも」
 ただ、と言葉を噤む。
「ただ、わたしが二人を意識していたことは、知っていてほしかった。今日、会えてよかった。変な言い方になっちゃうけれど、なれる範囲で、わたしと友達になってください。よろしくお願いします」
 それは、ある種の告白みたいなもので。ちゃんと受け止めなければ、そう思いました。そのためには不用意な台詞は必要ではなくて。笑顔を浮かべて、正直な瞳を見つめ返すだけでよいはずです。
 それから、しばらく学校のことや、家族のことを話しました。ふと沈黙が降りて、そろそろ上がろうかと誰かが言い出しそうな気配がしたので、わたしは咄嗟に思いついた質問を投げました。どうしてか、まだこの時間が終わってほしくなかったのです。
「あの、変なことを訊いてもいいですか?」
 冬と春海が同じように目を見開いて、わたしに注目しています。その眼差しに少したじろぎながらも、平静な声で、なんとか質問を伝えました。
「もしも、願いを叶える箱があって、その箱で願いを叶えるためには、自分にとって一番大切なものを差し出さないといけないとしたら、二人なら何を差し出します? そして、どんな願いを叶えますか?」
 我ながら、相手を困らせるような質問をしてしまったと、激しい後悔にすぐに襲われました。あまりに唐突で、幼稚な問いかけです。箱にお願いして、取り消してもらいたくなりました。
 ところが、そんな意に反して、二人とも真剣な表情で考え込んでいました。真面目に答えてくれようとしています。
 部屋には相変わらず箱が鎮座し続けていました。わたしは毎日それを見るにつけ、この幸せは、ほんとうは存在しないものなのではと、いらない不安が頭をもたげるのです。わたしが真夏くんと結ばれている幸せ。だって、箱は所有者を選ぶと言っているのですから。
 一番大切なものを差し出せ、それは悪魔の囁きにも似ていました。失いたくない、そう念じるために、さらに募る想い。純粋な恋愛感情に疑いを持たせるのに充分でした。
「わたしは、今の楽しい時間を全部差し出そうかな。友達と笑っている日々を」
 春海が口火を切りました。先ほどもそう感じましたが、春海は外から見ていた印象とはだいぶ違っていたようです。現状に満足していないわけではないけれど、ほかのレールが敷かれていたのかもしれない、それくらいには考えているようです。
「それで、何を願うの?」
 冬が尋ねると、ほんとうに大切に想える誰かと愛し合える今が欲しい、と一息に答えを返しました。愛し合える今、無意識に唱えていました。そんなわたしに一瞥をくれ、春海はきまり悪そうに笑いました。
「わたし、その、裸で向かい合っている状況で誤解しないでほしいのだけど、昔から同性を好きになってしまう節があったの。最近は特に誰が、ということはないけど、そのどうにもならなさに悩む時期もあった。だって、気持ち悪がられるでしょう、きっと」
 果たして、そうなのでしょうか。わたしは真夏くんと付き合っているくらいなので、異性愛者に違いないと思います。だからといって、同性愛者を軽蔑する心は持ち合わせていません。仮に、春海がわたしのことを愛していたとして――そんなことは、絶対にないと言い切れますが――その想いに応えられないとしても、むげに断るような真似はしません。
 でも、春海が言いたいのはそういうことではないのかもしれません。むげに断られなければよいわけがない、「想いに応えてもらえない」可能性の高さに、深く苦悩していたのでしょう。その心中を推し量る術は見当たらないのでした。
「わたし、おっぱいが大きいってたまに言われる。女性らしさを表す一つの象徴が、女性であることに誰よりも悩んでいるわたしに限って、その存在を主張している。皮肉だな、って思う一方、だからこそ、より自分が女性である現在を強く意識してしまうのかな、とも感じる」
 難しいよね、春海の、諦めの絡みついた呟きが湯気に紛れて消えていきました。
「冬はどうですか?」
「わたしより、秋乃が先に答えてよ。言い出しっぺなのだから」
 そう返されるとは考えていなかったため、しばし逡巡する間を作りました。ずっと、あれこれと思い煩ってきましたが、それを言葉にして説明できる自信はありません。
「わたし、大切な人がいて」
「あら、のろけ?」
 春海にからかわれて、わたしは頭から火が出る勢いでしたが、首を振って続けました。
「それで、こう以上何を望めばいいのだろう、という感じで。でも、ときどき、わたしがこんなに幸せでいいのだろうか、と思うのです。それは事実です。わたしが想っているのと同じくらい――彼も、わたしを想ってくれているのでしょうか。不安に駆られる日もあります。だから、一番大切なものはすぐに検討がつきますけれど、叶えてほしい願いを挙げてみるとすれば、その不安を払拭するような証拠を与えられたいです。もし、わたしにふさわしくない幸福なのであれば……」
 しかし、その先は言えませんでした。
 妙に抽象的な話で、春海は怪訝な表情を浮かべていました。一方、隣の冬は、納得したように微笑んでいました。それほど気にする必要はないのに、とも、あなたの不安はよく分かる、とも受け取れるそれでした。
「それでは、冬は」
 水を向けられた冬は、一つ、ため息を漏らしました。今まで見かけたことのない顔、影が差した気がします。
「わたしは――団欒がほしい」
 だけれど、何を差し出せばいいのか。わたしの一番大事なものなんて……。
 湯に浸かり始めてから、長い時間が経過していました。冬の声の寂しい響きに、その経過を意識させられました。

 わたしの毎日は変わりました。以前の消えそうな火を頭頂に灯した蝋燭のような生き方では、おそらくなくなりました。少しずつ、心は外へと開かれていったのでした。さまざまなことに、より興味関心を抱くようになった、とも言えます。
 春海と予想以上にたくさんの深い話をし、でも、学校では特に親しい関係には変わりませんでした。けれども、ときに言葉を交わすとき、あるいは学校のどこかで目が合ったときなど、秘密めいた目配せをされるようになり、わたしたちだけの楽しみとなっていました。
 冬とはすっかり、いつも一緒にいることが当たり前になりつつありました。そこに、ついに真夏くんも加わるようになったのです。
「温泉って、染井霊園の近くのか。高村光太郎の墓がそこにあった気がする」
「東くん、なんでそんなこと知っているの。意外」
「誰かに聞いたんだったかな……。秋乃が教えてくれたんだっけ?」
「はい、わたしが前にちらっと。よく憶えていましたね」
「やっぱりか。そりゃ、秋乃の話はちゃんと憶えておくさ」
「あらあら、これはどうもごちそうさまでした」
「からかうなよな、会田」
「でも、まさか春海まで一緒になるとは、思ってもいませんでした」
「ほんとに。だけど、とっても楽しかった」
「どんな話をしたの?」
「それは……ねえ」
「それは……ええ」
「なんだよ、二人だけで分かったような顔して。ぜんぜんこっちには伝わってこないから」
 三人で笑い声を上げる、ささやかな時間が流れます。わたしたちは自然な形で、共にいることができたのです。わたしは真夏くんを好いていますけれど、それとは異なった種類の好きを、冬にも抱いています。だから、こうして三人でいられることは、過ぎたる幸せでした。
 そう、あまりに幸福が過ぎたのでしょう――。
 いつからかは分かりません。決定的な事件があったわけでは、きっとないのだと思います。それでも、気がついたらそうなっていました。わたしは心の奥底で、こんな日がやがて訪れることを予感していた気がします。あの箱を手に入れてしまった瞬間から。
 真夏くんは相変わらずわたしに笑いかけ、優しくしてくれて、満ち足りた日々を与えてくれました。しかし、だんだんと、彼が冬をじっと見つめるシーンが多くなっていったのです。ふとした刹那に、愛おしむように目を細めて、冬を捉えている彼。冬は、誰にも知られていないような存在だけど、ほんとうはとても魅力的な人で、一緒にいる時間が増えるにつれて、彼もそれに魅せられ始めたのです。わたしだって冬の内側から発するような眩しさ、人の心に入り込んでくるような笑顔が魅力的だということは知っていて、だからこそ、友達になりたいと余計に望んだのです。それは認められます。わたしは真夏くんが好きでした。真夏くんが次第に離れていく心地がしても、彼を恨む気にはなれなかったのは、彼の「浮気相手」がほかでもない冬だったからかもしれません。わたしには真夏くんも冬も恨むことはできません。真夏くんを手放したくないと強く願いながらも、でも、冬を見る彼をどうすることもできない。そういう状況になっていっても、真夏くんと別れるなんて考えられもしなかったですし、まして、冬と友達関係を絶ち切るつもりも微塵もないわたしなのでした。雨の日も風の日も、わたしはうじうじと考え続けました。どうすれいいのでしょう。わたしはどんな選択をするべきなのでしょう。眼鏡をかけているから、すべてがよく見えすぎてしまいます。明瞭に映ってしまうから、もっと世界がぼんやりと見えていたらよかったのです。そうしたら、わたしはこんなにも悩む必要はなかったのかも分かりません。そうだったらそうで、もっと苦しむ現在だった可能性もありますけれど。どんな選択をすべきか、教えてくれる存在が一つだけありました。
 吉祥寺に行こうと高田馬場駅から東西線に乗り換えましたが、中野止まりの電車でした。そこで、また乗り換えればよかったのに、わたしはなんとなく、その駅を出ました。改札口を抜けて、中野の街へ。広場がありました。キーボードを弾きながら歌っている女性がいます。向こうの方には商店街が続いていて、たいそう賑わっていました。
 商店街の方へは進まず、わたしは左手に歩き出しました。エスカレーターに乗って、上がってゆきます。心なしか、ほかの街よりも風が強いような気がしました。それほど高い建物は目立たないのに、ビル風という言葉を思い出させる感じの冷たい風。
 高台に出ました。そこから、さきほど降り立った駅のプラットホームが見えます。落合駅から中野駅へ向かう中途で、地下鉄東西線は地上へ出るのです。そこに立っている人たちは、誰もが人待ち顔で。電車が来ました。傍で、親子が電車の入ってくる様子を眺めていました。子どもはまだ稚く、その様子に興奮していました。ちゅうおうせん、と何度も繰り返し口にしています。
 少し歩くと、駐輪場が見えてきました。色の層を成すかのごとく整然と並んだ自転車たち。バス停も見えます。制服姿の少女、片足を引きずるようにしているおじいさん、髪の色が奇抜な若者がそこで同じ箱を待っているのです。
 わたしは鞄から箱を取り出しました。大切なものと引き換えに願いを叶えてくれるという、件の。
 風がひときわ強く吹きました。それは背中を押してくれるようにも、諌めてくれているようにも、解釈によってはどちらとも受け取れました。それでも、わたしはわざわざ見知らぬ街まで来て――ほんとうは思い出のある吉祥寺に行くつもりでしたが、そこへ行けないのも一つの運命だったのでしょう――箱をこうして手にしているのです。今さら引き返す道は選べません。
 真夏くんが好きです。愛しています。あの日、勇気を出したわたしがいてよかった。いろんな思い出を作れてよかった。
 冬はかけがえのない友達です。これから、もっともっと仲好くなりたい、そう望んでいます。
 真夏くんはわたしを大切に想ってくれていますが、もしかしたら冬に特別な感情を寄せているのかもしれません。それを確かめる手立てが一つだけありました。
 真夏くんとの思い出を差し出すから、真夏くんがほんとうに好きな人と結ばれる現在をください。未来ではなくて、現在、あるべき形に。
 ふわっと匂いがしました。香辛料の匂い。手をつないだときの温もり。白濁した湯。膨らんだ乳房。影が差した笑み。真夏くんの笑顔。わたしの赤い縁の眼鏡。
 すべての愛おしいものが掌から砂のようにこぼれていきます。そして、次に風がわたしの髪を揺らしたときには、何もかもが白く、透明になっていました。


     四


 執着できない性格になったのはどうしてだろう。特別に思えることが少ない。誰かのことばかり絶えず考える、なんて、わたしには分からない。
 数年前から、家に父親がいなくなった。もともと、昔からぶつかり合いが多くて、子どもながらに胸を痛めていたものだが、だんだんとそれに慣れてしまった自分がいる。泣いて、かすがいになっていた娘だったのかもしれないのに、冷ややかに傍観するスタイルを身に着けてしまった。だから、父親が家から姿を消しても、そうだよね、と呟いただけ。いつかはこうなると知っていた。
 ――お母さん、お父さんは?
 学校から帰ってきて、家の変化を敏感に察知した。あらゆるお父さんのものがなくなっている。喪失感を背負い、その圧力に押し潰されるようにして、母親は床にへたり込んでいた。
 ――もう、帰ってこないわよ。
 あの日、わたしはどんな言葉をかけてあげただろう。もしかしたら、気の利いたひと言もなかったかもしれない。だけど、わたしの心は、嫌いな人のために慰めの言葉を紡ぎ出せるほど広くなかった。九割方、あなたの責任でしょ、くらいにしか思っていなかった。
 離婚は避けられた。わたしが義務教育を終えていないからか。学費は向こうで負担してくれたけど、残されたわたしたちは、広くなった家にただただ当惑していた。どうしたらいいのか分からないものを持て余し、すれ違う毎日。結託するなんて、露ほども考えられなかった。
 団欒が欲しい。現実を散々突きつけられてきたわたしに、誰か温もりを与えてください。でも学校では、人の暗い部分にちょっとでも触れるのが厭わしくて、一人で過ごすのを選んでいる。それはそれで、楽だから。
 これからどんな未来が待っているのかな。感傷的な気分に浸る瞬間に、いつも自分を嘲笑したくなる。未来に思いを馳せてしまうと、気持ちに負荷がかかり過ぎる。目の前のことを淡々とこなしていないと耐えられない。

 普段より早めに学校へ向かう途中。吐く息が白い。マフラーに顔を埋めながら、すっかり丸裸になった木々たちを見上げる。冬も深まりつつあった。
 センター試験まで残り一か月ちょい。三年生の教室はとても静かで、まるでピアノ線が張りつめているみたい。わたしはそれくらいが居心地いいけれど、みんなはいつまでこの状態が続くのだろうと、もう嫌になっているのかもしれない。いや、そもそも、そんな風に考えている人は稀少か。みんな、目前の試練を乗り越えることに必死だ。
 人通りの少ない住宅地を進んでいくと、同じ学校の制服を身に纏った男子生徒を見つけた。と、思ったら、角を曲がって姿を消してしまう。その一瞬だけでは知っている人だか判然としなかった。なんとなく興味を持って、距離を縮めてみることにした。歩く速度を上げ、視界に映る背中を大きくしてゆく。
 背はそんなに高くない。中肉中背。髪もありふれたショートカットにしていて、クラスでも目立つ方ではないだろう。だけど、清潔感があって、好感が持てる。靴紐が長い。自分で踏まないかとちょっとばかり危惧する。
 わたしは直接誰かと関わるのは避けるきらいがあるけど、こうして観察するのが好きだ。いつも、遠くからそれとなく眺めているだけで、その人の人となりを想像するのが楽しい。変な性癖かもしれないが、家で性格の悪い女を相手にしていると、ほかの人をじっと見つめていたくなるのだ。たぶん。
 気づいたら、かなり距離が近くなっていた。相手に、わたしの足音は聞こえているかも。聞こえたからといって、振り返りはしないだろうけれど。このまま近づきに近づいて、背後から両腕を回したら、彼はどんな反応をしてくれるかしら。
 だんだんと、その後ろ姿に見憶えがある気がしてきた。おそらく、三年生だ。でも、顔をはっきり確かめないと名前は思い出せそうにない。
 あ、危惧していたとおり、彼は自分で自分の靴の紐を踏んで、体を傾けた。そんなことしなくても体勢を立て直せただろうけど、わたしは反射的に、さっと手を伸ばして彼の両肩を支えた。
 ふいの感触に、はじかれたように彼は振り向いた。分かりやすすぎるほどに、表情に驚きの色を浮かべていた。そして、その顔を目の当たりにして思い出す。彼の名前は、東真夏。東くんだ。
「危なかったよ」
 両肩に触れた感触を思う。男子の体つきに比べ、わたしの手の華奢なこと。助けようとしたなんて言えないほどに、その体格差は歴然としている。
「ありがとう……?」
 それにしても、東くんはいい顔をしている。造作がどうだとかではなく、考えていることがそのまま表情になる。なんというか、おもしろくて、かわいい。
「どういたしまして」
 わざと胸を張ると、君、会田さんだよね、と東くんは呟いた。認識されているとは想定していなくて、すぐに頷けなかった。
「会田冬さんだよね。同じクラスの」
 確信を持っている。そう、わたしたちは同じクラスの生徒。でも、言葉を交わしたことはほぼなかったはず。思ったよりも、クラスで浮いているわたしが目立っていたからか、彼が特別、わたしを気にかけていたからか。まあ、後者はなさそうだけど。
「うん。知っていたの?」
「そりゃ、クラスメイトだし。というか、おれの名前は分かる?」
「東真夏くんでしょう。わたしなんかと違って、ちゃんとクラスで存在感を放っているから、分かるよ」
 東くんは複雑さを表情に滲ませた。誰とも仲好くしないわたしの状態をどう捉えたらいいのか迷っているのだろう。彼はきっと、優しい人。
「冬」
 いきなり呼び捨てにされたのかと戸惑った。
「冬、っていい名前だよね。前からずっと思っていた。だから、話したことなくても、憶えていた」
 わたしは自分の名前をどうとも捉えていなかった。好きでも嫌いでもない、ただ、珍しいと感じていただけ。
「じゃあ、わたしのこと、冬って呼んでもいいよ」
 また東くんは目を瞬く。ほんのり、頬が赤くなっているのは、寒さのせいだけじゃないだろう。
「そんな、突然――」
「だって、いい名前だと思っていたんでしょ。そんな風に言ってもらえたの、初めてなの。だから、ぜひ冬って呼んで」
 お願い、と手振りで表現した。東くんは時間をかけて、ゆっくりと首を縦に動かした。
「うん、そんなに言うなら」
 それなら、と東くんは指を一本突き出してくる。
「それなら、おれのことは真夏、そう呼んでよ」
 仄かに甘い香りがしたような心地。内側から湧き上がってきた感情に、わたしは心当たりがなかった。
「いいよ、真夏くん」
「……冬」
 静かなこの場所でも消え入りそうな小さな声だった。わたしが口の前に手をやってそれを笑うと、東くん――真夏くんはとても嫌そうな顔をした。ああ、愉快。
 ほんとのほんとはいつだって分からない。だけれども、この日から、わたしは真夏くんに惹かれ始めていたのだということは、もしかしたら言えるのかもしれない。

 活字を目で追うことに疲れて、うんと一つ、伸びをする。学校の図書室には、窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。閉じられた本の表紙を軽く撫でる。本来はなかった、図書室の本特有の滑る感触が返ってきた。
 放課後の図書室はたくさんの人で埋まっている。多くは受験勉強の追い込みに余念がない三年生で、読書をしているのはわたしと、離れた席にいる赤い縁の眼鏡をかけた女子だけ。
 わたしだって勉強をするつもりでここに来たのだけど、たまたまおもしろそうな本が目についてしまって、つい手に取って読み始めてしまったのだ。やらなければならないことがあるときほど、平素は目がいかないところへ目が行きがち。実際におもしろかったし、得られるものもあったはず。
 毎日、放課後は学校に残っている。どこかの街へ足を伸ばす日もあるけれど、それだとお金がかかる。学校で時間を過ごすのが最も経済的だ。こんなにも帰ることを遠ざけているのは、母親と顔を突き合わすのが嫌だから。ただ、それだけ。いずれ帰らなきゃいけなくなるというのに、わたしは哀れにもささやかな抵抗を繰り返す。
 下校時刻が迫っていた。読書はキリがよく終わって、今さら勉強する気にもなれない。帰ったらちゃんとすることにしよう。もう学校を出てもよかったけど、なんとなく、屋上に行きたくなった。窓から覗くに、夕焼けが鮮やかだろうから。
 そうと決めると早かった。学生鞄を肩にかけて、図書室を出る。階段を上がっていって、最上階へ。ドアの向こうに、フェンスに囲まれた猫の額みたいに狭いスペースが現れた。夕焼けをうっとりと眺めるよりも先に、そこにいる一人の影を捉える。――真夏くんが一人で佇んでいた。
「真夏くん」
 声をかけ、歩み寄っていく。真夏くんはばつが悪そうな笑みを浮かべた。
「どうしたの、一人で、こんなところに」
「なんか恥ずかしいな……なんでか、誰か来ることを予想してなかった。でも、冬でよかった。冬こそ、どうしたの?」
 わたしたちはあれから、ずいぶんと話すようになった。家が隣近所であることも発覚し、一緒に登下校する機会が増えた。今まで遭遇していなかったのが不思議なくらいだ。
「時間が中途半端になっちゃって、なんとなくここへ。夕焼け、綺麗そうだし」
 それが合図で、二人は赤く染まる空と向き合う。誰よりも自己主張が激しい太陽も、やがて追われる。その頃には、とうにわたしは帰宅している。
「もうすぐ、中学校生活が終わるんだよな」
 彼の声の響きが、なんと寂しげであったか。
「どうしたの、急に」
「青春じみた光景に、気分がおセンチになったのかも」
 照れたように笑う。
「わたしたち、終わる頃になって知り合うなんて。なんだか不思議」
「ほんとうに、そう。だけど、だからこそ、卒業してもちゃんと印象に残る気がする」
 変な話だ。でも、わたしは笑えない。笑うには互いの声は切実すぎた。
「わたし、友達がいなくてもいいって思っていた。実際、困っていなかったし」
「うん」
「だけど、真夏くんとは友達になりたい。わざわざ言うのもおかしいけど、今、確かにそう思っている」
「うん」
「そして、恋人同士にもなりたいな、なんてね」
 ようやく笑えた。
「うん」
 真夏くんは天才だ。同じ返答の言葉しか使っていないのに、そのすべてに異なった感情を忍ばせる。それは同意で、それは感謝で、それは戸惑いで。
 下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。そろそろ帰らなければ。
「冬、一緒に帰ろう」
 少し前まで、こんな風に誘い、誘われる関係ではなかったのに。まるで三年間、これを重ねてきたような感覚がする。
 背中を向けて歩き出す真夏くんの手に向かって、自分の手をめいっぱい伸ばす。「待って!」思った以上に大きい声。握った掌に、どちらのものとも分からない汗がじわり、と。
「真夏くん」
 真夏くん、真夏くん、真夏くん。わたしは最近、この名前をどれだけ呼んだだろう。この短期間で一生分呼んだかもしれない。
「冬……」
「真夏くん、さっきの、ほんとう」
 恋人同士になりたい。付き合ったからといって、劇的に何かが変わるとは思えない。これまではそう決めつけていた。でも、それが優越感に浸る行為だろうが二人をつなぎ止めるための鎖だろうがなんでもいい。言わずにはおれないほどには、芽生えた感情が根を張って、育っていた。
 真夏くんは息を飲むようにして、真摯な眼差しでこちらを見ている。その双眸に映るわたしの表情は、そこまで必死さを醸し出してはいなかった。むしろ、清々しいくらいに凜としていた。わたしでも、こんな顔をするのね。
「うん」
「本気でそう思っているから」
「分かるよ」
 おれも、そうだから、俯かずに彼は言い切る。
 下校時刻のチャイムが鳴り終わっていた。これ以上はまずい。空も赤からあっという間に紺色を帯びていく。冷たい風がスカートを揺らした。
 頬が熱い。とろけて、世界が真っ白に変わりそうだった。今の状況を遠くへやろうと努める二人の瞳には、同じ想いが宿っていた。恋愛感情って呼ばれてしまうのが口惜しい。それだけではないのに。
 帰りたくない。

 母親が嫌いだ。母親はなんでも決めつける。自分の考えを押しつける。人の話をちゃんと聞かない。不必要に介入してくる。入ってきてほしくないところまで土足で上がり込んでくる。反論するとすぐに感情的になる。愛を誤解している。母性を勘違いしている。心が歪だと、それぞれが相容れないと諦めてしまうのは、ほんとうはとても簡単だけれど、人はそれを踏まえても接していかなければならない、それを、母親は頭で知っていて、理屈の上では分かっているつもりになっているが、実際にはできていなくて。いい反面教師になっている気がしても、わたしは社会と上手いこと付き合えない。反面教師だけではだめだ。優れたお手本がいないとよくはならない。母親はいつからか予防線を張るようになったのかもしれない。傷つけられることを過度に恐れて、前に進み続けるための推進力として、周囲を受け入れないスタンスを手に入れたのだろう。前向きに解釈すれば、そんな風に表現することも可能。それでも、毎日、毎日、ほんとうに毎日、面と向かって関わらないといけないわたしにしてみたら、ただただ圧倒的な苦痛で、絶望で、底なし沼だ。幾度別の道を選んでも、どこへも出られない行き止まり。せめて、頭を抱えてみる。
 母親は嫌いだ。だけれども、どんなに嫌いだったとしても、わたしの物語に母親を登場させるつもりはない。仮に、わたしの人生を物語として記せたとしたら、だが。
 父親の気持ちが分からないでもない。でも、同情するには、父親もまた好きでなかった。父親に欠陥はないかもしれない。彼を許せないとするなら、そんな母親と向き合うことを放棄して、逃げを選択した一点のみ。それがあまりに大きな黒い点だった、それだけ。
 崩壊はじわじわと広がる、真綿に水が染み込むように。

 風が強く吹いている。街路樹が儚く揺れ、わたしは目を細める。ここよりずっと高い位置を通る高速道路を数えきれないくらいの車が過ぎていった。太陽は今、真上にあるだろうか。青い空は憎たらしいほど、白い雲が浮かんでいない。冬の真昼の空。
 池袋の公立図書館で午前中いっぱい勉強し、お昼ご飯を食べるために外に出た。このまま図書館へは戻らず、どこかを巡り歩いてから家に帰るつもりだ。駅に向かっていくと小さな喫茶店が見えた。ここにしようと足を踏み入れ、店内の様子を窺う。空席があることを確認し、注文をする。中学生が一人で喫茶店を利用するなんて、あまりないのかもしれない。でも、わたしは細かいことは気にしない。いることが許されない場所じゃない。
 ホットカフェオレとサンドイッチの載ったお盆を持って、空席に腰掛ける。二人用の向かい合わせの席で、一方に荷物と防寒具を置いて、対面にわたしは座った。カフェオレを啜ると、口の中に甘ったるい舌触りが滑る。冷えた体内に温かい液が染み込んだ。
 食べながら、飲みながら、ぼんやり考えた。夕方頃に帰宅するまで、どこで何をしていよう。時間はたくさん残されている。東京には、一人でも過ごせる場所が数多ある。
 わたしはあまり真面目な受験生とは言えないかもしれない。だけど、将来に希望が抱けない中、どうモチベーションを維持していけばよいのか。どんな道を選んだとしたって、行き着く先は概ね同じ。
 もうすぐ年が明ける。それより前にクリスマスがある。街はイルミネーションが飾られていて、夜は目映い。クリスマスの日は一年の通信簿を突きつけられる、とはよく言ったものだが、その日の充実度は一年の充実度とほぼ一致するらしい。わたしにはその日の光は圧倒されるだけで、軽く眩暈すら覚える。
 真夏くんはどうするのかな。今のところ特に約束していないけれど、もしかしたら向こうは家族で過ごすのかしら。中学生カップルはそもそも夜中に出歩けない、一緒に居られるとしても日中までだ。
 わたしたちには制約が多い。その分、負わなくていい責任があるけど、いつまでも子どもでいたくないと思う。しかし、不思議とその思いは、早く大人になりたいと直結しないのだから、勝手なものだ。しょうがないことだけれど。
 食べ終わると、店を出た。
 池袋駅周辺は、主に若者で賑わっている。活気が溢れ、その中を縫うようにして通り抜ける。改札口までたどり着くのも一苦労だ。
 改札の前では人待ち顔の人たちが何人もいる。わたしは、誰かを一心に待っている人の横顔が好きだ。周囲を不必要に気にしていないで、相手が来るだろう方向を見つめている、その瞳、その口元。
 山手線に乗って、新宿へ。電車内は混雑していた。満員の電車が好きだった。お互いの心の距離を測らなくても、そんなものを踏み越えてくるくらいには近しくなるから。身動きが取れないでいると、何も考えずに――ときどきむせ返るような香水の匂いが鼻につく――揺られる。
 箱が目的地のホームに滑り込む。吐き出されるようにしてドアから降り、何ごともなかったかのごとく、背筋を伸ばして歩き出した。歩きながら、乱れた服の裾を整えた。
 新宿駅の南口から外に出て、幅の広い横断歩道を渡る。横断歩道が川だとしたら、そこを対岸から流れ、すれ違うわたしたちは石ころ。数えきれない石ころは、だけど不思議とぶつかったりしない。
 開発途中の新南口を通り抜けると、高島屋が大きく姿を現す。それに沿うようにして歩みをさらに重ねれば、右手側の下方には何本もの線路が伸びていて、休む間もなくさまざまな色をした電車が通過しているのが分かった。左手側は建物、ガラス張りの壁面に、薄っすらと自分の全身が映っている。白のベレー帽、紺のマフラーに顔を埋め、無垢なほどに白いコートに稚い身を包まれているわたしは、どこか頼りなげ。
 吐き出す息はすべて白かった。でも、正体の見えたそれも、瞬きをしてすぐに空気に溶け込んでしまう。冬はこの壊れやすさが好きだ。
 紀伊國屋書店が視界に入り込んでくる。時間を潰すには、書店はもってこいだ。規模が大きければ大きいほどいい。
 ふと、空を見上げてみた。海が空のせいで青に染まっているのなら、わたしの心も曇りのない色に染めてほしいと思う。何度、こんな幼稚なことを考えながら空を見上げてきたことだろう。

 師走の夜道は心を落ち着かせない。何かに背中を押されるようにして、最寄り駅から足早に歩いてきた。その足が、束の間止まり、わたしは動けなくなる。ほかに誰の姿も見受けられない住宅地の中。
 書店でひとときを過ごして気持ちはそれなりに満たされたけれど、特段、欲しいと思う本は見つかられなかった。そんな日は、たくさんある。だけど今日は、自分の欲望の欠如と人間としての欠陥が結び付けられてしまっていけない。考えすぎは悪い癖だ。
 帰りたくない。執着できない性格になったのはどうしてだろう。特別に思えることが少ない。誰かのことばかり絶えず考える、なんて、わたしには分からない。
 寂しかったのか、切なかったのか。どうにでも形容できる感情は便利で複雑だ。涙が堪えられなくて、ぽろぽろと頬を伝ってゆく。手で拭うことなく流れるに任せていると、顎まで達して地面へと落ちてゆく。溢れて、こぼれて、わたしの足下で湖になれ。
 風が鳴いている。その声を聞くともなしに耳を傾けた。誰かに呼ばれている気がする。ふゆ、ふゆ、ふゆ――わたしの名前。世界を閉塞的にし、空をあくまでも澄ませて、もう二度とどこへも行けないのではないかと不安にさせる季節と同じ名前。ふゆ、ふゆ――
「冬」
 瞠目した。次に意識したときには、目の前に真夏くんの顔があった。心配している風なその瞳に、ぼんやりと映るわたしの顔のなんと汚れていることか。
「どうしたの、こんなところで。大丈夫?」
 わたしは、大丈夫、という言葉が好きだ。誰にも言ってあげられなくて、誰からも言ってもらえないから。
「真夏くんだ……」
 涙は止まらなかったが、わたしの口元は緩慢に笑みの形を作った。傍らに温もりを求めてしまうとき、そこにいるのは呆れるくらい真夏くんだった。生来の優しさは持ち合わせていても、あらゆる存在を包み込むような懐の大きさはない。だけど、真夏くんは必ずいてほしいときにいてくれた。そういう人だった。しかも、それをすべて無自覚的に行っている。
 誰からも気づいてもらえない魅力、知っているのはわたしだけでいい。
「真夏くんがいる」
 依然として頬を流れるものは枯れる気配もなかった。潤んだ視界でも、真夏くんの姿だけはぼやけない。
「冬、どうしてそんなに泣いているの?」
「……ふとした瞬間に、押しつぶされてしまいそうな寂しさに襲われる、みたいなこと、ある?」
 真夏くんは眉を顰めた。それは、掠れた声で聞きとりづらいためではなく、問いの内容への明らかな戸惑い。
「ふとした瞬間に、どうしようもなく誰かに甘えたくなること、ある?」
 わたしはずっと昔、この質問を誰かに投げかけた気がする。でも、真夏くん以外に、こんな風に訊ける人がいただろうか。家族にも学校の人にも訊けたものではない。
 日は暮れていた。街灯がわたしたちの周りを淡く照らしている。
 真夏くんの答えは、言葉じゃなかった。一歩、距離を縮めてきて、そして、わたしを力強く抱きすくめた。上着越しにも、互いの肌が密着していることを意識する。これほどまでに身を寄せ合ったのは、物心がついてからは初めてだった。抱きしめる、という行為は、下手な言葉たちよりもずっと強さを有していると、今知った。
「冬。おれはいるよ」
 わたしは弱い生き物だ。教室の片隅を居場所として選んで、家庭の状況を表情のない顔で傍観して、話しかけられたら陽気に笑って、不思議なキャラを演じていたつもりだったけど、そんな生き方を四六時中貫けるほどタフではなかった。何よりも、真夏くんと出会ってしまった。
「おれはいるから」
 耳元でそう繰り返す。やがて体を離し、少しの間見つめ合ってから、真夏くんはわたしの肩を掴んだ。そうして、瞬きをするわずかな隙を狙っていたかのように顔を近づけ、わたしの唇に自分のそれを重ねた。

 生まれ変わることってほんとうにあるのかしら。人生はゲームみたいにやり直せない。だからこそ、死んだ後に明るい次の「生」が待っていると盲信してしまう人がいるのではないかな。
 自ら命を絶つことで逃れられる苦しみはあっても、代償として手放さなければならないものはあまりに多すぎる。人は失いたくない何かを見つけてしまったその日に、真っ白な赤ちゃんに戻るきっかけから、人生をやり直す機会から遠ざかる。
 学校の図書室でおもしろそうな本がないか探していた。本棚の間を往復し、二冊くらいまで候補を絞った。
 図書室内はいつでも静か。誰かと誰かの囁き声が目立ってしまうほどに、長い沈黙を保っている。ふと、棚の片隅に、本来そこにあるはずもないだろうものを見出した。本と一緒に平然と居座っていたのは、古めかしい小さな木箱。趣向があっていいのかもしれないけれど、あなたの居場所は少なくともここではない。どうしてこんなところに木箱が。
 興味を持って、手に取ってみる。見た目以上に重量感があった。手触りは意外と滑らかで、誰かが常に磨いているかのようだ。図書室にずっとあったのかな。でも、しばしば物色しにきているわたしでも見た憶えは皆無。それに、置いておく理由が分からない。
 なんとなく、周囲に目をやる。憚ったところで、書棚の方には誰も来る気配がない。それを確認してから、そっと蓋を持ち上げてみた。しかし、中には何も入っていなかった。
 中には紙切れが一枚だけ入っていた。――わたしは違和感を覚える。そして、自分の記憶はこんなに頼りないものではないだろうと思い至る。今さっき、確かに箱の中には何も入っていなかった。ところが、つと、唾を飲み込んだくらいの刹那に、紙切れが正体を現していた。じわじわと輪郭を持ち、わたしの目に映った。
 頭の整理がつかないまま指先で拾い、紙片を開くと、短い言葉が書かれていた。
『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』
 人は生まれたままではいられない。誰もが汚れ、まみれ、あるいは輝く。現状に溺れる者も嘆く者もそれぞれの自由だ、たんに心の持ち様。
 わたしの大切なものはなんだろう。叶えたい願いはなんだろう。
 掌の上でじっと大人しくしている木箱から、たくさんの人の願う声が聞こえてくるような気がした。

 とはいえ、俄かにその箱を願いが叶う箱と断定するほど、わたしの頭はおめでたくできていない。ただ、いくつか不思議な点はある。なかった紙切れが現れたこと。今まで見かけなかった場所に何気なく収まっていたこと。空箱にしてはちょっぴり重たいこと。作られたものだとしても、あまりに精巧な仕掛けが施されている。
 それらの不思議さを越えて、この箱を信じてみたくなる出来事がこの後起きた。
 箱を手にしたまま教室に戻った。誰からの興味の視線も注がれず、席に座って観察していると、ふらりと小嶺秋乃が傍に立った。童顔、ショートカット、華奢な体つき、赤い縁の眼鏡。いつもにこやかに微笑んでいる大人しい少女。
「その箱、どうしたのですか……?」
 秘密を分かち合うような囁き声。まるで、誰かに聞かれることを忌避しているかのごとく。彼女はわたしの一つ前の席に座った。
「図書室にあって、誰のものなのか分からないけど、持ってきてしまったの」
 彼女ならいいか、と正直に答えると、ふうん、と小さく頷く。
「お洒落な箱ですね。なんだか、見憶えがある気がします」
「え?」
 見憶えがある?
「どこだったか、いつ頃だったか、ぜんぜん思い出せないのですけれど、まったく初見のものではないことだけは確か」
 珍しく真夏くん以外の人に話しかけられたと思ったら、どうやら彼女はこの箱について気になることがあったらしい。でも、本人もはっきりしていない部分が多いようだ。顎に手を当て、考え込むような顔で、じっとわたしの手の中にある木箱を凝視している。
「願い……大切なもの……」
 驚きのあまり、変な声が出そうだった。必死で堪えて、無表情の仮面を崩さずに、彼女の続きを待つ。
「ごめんなさい、なんでもありません」
 しかし、それ以上言葉をつなげないで、席を立ってしまう。
 相変わらず不思議さは消えないままでも、少なくとも何やら曰くありげな箱だというのは窺える。学校で流行する七不思議のような類かしら。そんなのに小嶺さんが関わっているとは考えられないけど。

 今日も一日が終わろうとしている。ほかに誰もいない教室でぼんやりと佇んでいると、静かな心を取り戻すことができた。校舎の窓から校庭の様子が見える。部活に汗を流し、晴れ晴れとした表情で帰路につこうとする生徒たち。青春、と形容せざるを得ない眩しい光景だ。わたしにあの眩しさは発せられない。
 職員室に用事があるという真夏くんを待っていた。すぐ済むと話していたけれど、なかなか終わらないみたい。待つのは好きだから苦じゃないけど。
 誰かの入ってくる気配。背中越しに物音を感じても、窓から視線を逸らさなかった。
「会田さん」
 意外にも声をかけられた。真夏くんではなかったが、声だけでそれが誰か即座に分かった。いつも教室で耳にする声だから。
 わざとゆっくりと振り返る。こちらをまっすぐに捉えている少女は、やはり広末春海だった。教室の真ん中で明るく振る舞う、華やかな印象。わたしとは住んでいる世界が違う。
「その箱、あなたの?」
 箱を拾ってから、自分の机の上に絶えず置いている。けれども、興味を示したのは小嶺さんだけだった。それ以外は尋ねてこないどころか、目もくれない。まあ、ただの箱に過ぎないからそんなものだろう。
 だから、彼女は二人目。
「ううん、図書室でたまたま拾って。誰かのかもしれないのだけど、なんとなく持ってきてしまって」
 広末さんは、図書室、とクエスチョンマーク付きで呟いて、それから気を取り直したように微笑んだ。
「そっか。ごめんなさい、なんだか見憶えがある気がして話しかけちゃったの」
 それじゃ、とあっさり別れを告げる。わたしは何も返せないまま、その後ろ姿を見送った。
 平素はほとんど言葉を交わさないのにも関わらず、わざわざ尋ねてきたこと。それにしては、はっきりしない態度。考え込むような表情。すべてが小嶺さんのときと重なった。
「冬」
 今度こそ真夏くんがその姿を現した。遅いよ、と頬を膨らませてみる。
 真夏くんは、ごめん、と詫びてから、
「あれ、箱……どうしたの?」
 そう訊いてくる。真夏くんが興味を持ったのは彼氏だから? それとも――。
「うん、図書室で見つけて、持ってきちゃった。真夏くん、何か知っている? 二人くらいに見憶えがあるって言われて」
 真夏くんは真剣な顔をして、箱だけに意識を向けている。そろそろ帰らなければと思いながらも、その半ば開かれた口からどんな言葉が紡がれるのか、じっと待っていた。
「おれも、どこかで見た気がする。でも、どこだろう。ずっと前のような、つい最近のような……」
 最終下校のチャイムが鳴る。慌てて、わたしたちは教室を出た。慌てていたから、というのは後付けの言い訳で、これはただの箱ではないらしいと感じたわたしは、それを持って帰ることにした。誰かの忘れものだったら、ごめんなさい。
 帰る道すがら、真夏くんが何か想起するかもしれないと期待していたけれど、結局具体的な何かが明らかになることはなかった。

 長い夢から醒めた朝は、手応えのない現実を自分の方まで引きつけるのに苦労する。上半身だけ起き上がって、寝ぼけまなこで薄暗い室内を見渡す。カーテンの隙間から細く薄日が差していた。
 夢の中ではさまざまな場所へ足を運び、そこでさまざまな人の時間を見た。たとえば雑貨屋だったり、遊園地だったり、温泉だったりした気がするけれど、寒さに身を震わせて意識がしっかりしてくると、それらの記憶は儚くもぼやけていった。後には、記憶に何も残らない。
 部屋の片隅に放られた箱を捉える。大切なものと引き換えにどんな願いも叶えてくれるとのたまうあなたに、どんなことを頼んだらいいのだろう。願ったらいいことを教えてほしい、という願い。
 リビングに行き、冷たい水を飲んだ。渇いた口内に広がり、唇を湿らす。口元に指先を持っていって、軽く拭う仕草。洗面所で顔を洗った。気分がさっぱりとする。水滴が顔の輪郭に沿って流れ、顎から少しずつ落ちてゆく。鏡とまっすぐに向き合って、そこに映る少女の瞳の色を知った。何かに迷っている風ではないけど、ひどく寂しい色をしている。
 ぽた、ぽた、ぽた。
 ようやっとハンドタオルに手を伸ばし、顔を拭った。そうしている間に母親が起き出していたようだ。リビングで物音がする。わたしを呼ぶ声がした。冷たく乾いた季節と同じ名前を甲高い声で呼んでいる。吐き気がした。
 一つ、閃くものがあった。母親とは関係のないことで、件の箱のことだ。あの正体に近づく機会を設けるために、見憶えがあると言っていた人たち一同で会したい。はっきりせずとも、ヒントくらいは得られるのかもしれない。ふと、そう感じた。
 重い足取りで明るい方へ向かう。今日も一日が始まり、じわりじわりと今日の終わりへと歩み寄ってゆく。

 ワンレングスの黒髪を手で簡単に梳いて、息を吐き出した。妙に緊張している。どうしてだろう。そんなにたいそうなイベントでもないはずなのに。
 化粧室から出て、賑やかな廊下を、存在感を消すようにして歩いた。たくさんの笑い声が聞こえてくる。みんなが作るアーチを潜っているみたいな気分になって、慌てて通り過ぎる。屋上へ通じる階段を上がってゆくと、次第にその喧騒は遠い場所のものになった。
 箱について訊きたいことがあるから、放課後に屋上へ来てほしい。面識の薄い小嶺さんと広末さんには、正直にそう伝えた。それぞれに怪訝な表情を浮かべていたものの、了承してくれた。やはり、気になるところがあるのかも。
 真夏くんには、ただ屋上に来て、とそれだけを言った。これで全員が揃うだろう。揃ったところで、何が分かるか知れないけれど、わたしはきっとこの会合自体に意味がる、そんな考えに既に囚われている。
 屋上にたどり着く。深呼吸をしてからそっとドアを開けると、光に包まれた。薄目でそこにいる人たちを確かめる。わざと遅れてやって来たわたしより先に、真夏くん、小嶺さん、広末さんが集まっていた。三人で談笑している。わたしに気づくと話し止め、真剣な面持ちでこちらを捉えた。
「おまたせしました。それに、わざわざ集まってくれてありがとう」
 この四人で居合わせることなんて初めてなのに、どうしてかそんな気がしなかった。一緒にお出かけしていてもおかしくないくらい、しっくりくる関係性。
「今、二人から、箱についての話があるらしい、ってことだけ聞いた」
 真夏くんが小嶺さんと広末さんを示して、開口一番にそう告げた。
 屋上に吹く柔らかい風、少女たちのスカートを揺らした。
「そう、これのことなんだけど」
 後ろ手に隠していた木箱をさっと前に出し、それぞれの視線を集中させた。みな、息を飲んだようにする。
「図書室で見つけたって言っていたよな。いったい、これはなんなんだ?」
「これが何か分かってないの。翻って言うなら、分かっていないからこのメンバーを集めたの」
「分かっていないから……?」
「どうして、わたしが呼ばれたの? 小嶺さんも」
 広末さんが尋ねた。小嶺さんと広末さんもそれほど親しい間柄ではないらしい。
「見つけてから、わたしはこの箱を自分の席のよく見える位置にいつも置いていた。教室にいる誰からの視線も受け止められるように。だけど、気にしない人が大多数だった。そんな中で、なんとなく気になる、見憶えがある、と言って寄ってきたのは二人だけだった。あとは、真夏くん」
 わたしは真夏くんと向かい合った。
「真夏くんもこの箱を見たことがある、そう言っていたよね。それは、ほんとう?」
 真夏くんはこくり、と真剣な面持ちで頷いた。
「ほんとう。ただ、やっぱりどこで見かけたのかは思い出せない。いつ頃だったのかもかなり曖昧」
「だとすれば、小嶺さん、広末さんと同じ。これはどういうことなんだろう」
「春海でいいよ」
 広末さんが言った。
「よそよそしいし」
「わたしも、よかったら秋乃と呼んでください」
 小嶺さん――秋乃の丁寧な口ぶり。
「分かった、そうさせてもらう。代わりに、わたしのことは冬って呼んでね」
「急に距離を縮められた感じがあるな。仲間外れはつらいから、おれも真夏って呼んでよ。冬は既に呼んでいるけれど」
「うん、真夏くん」
 中学校最終学年の冬になって初めて下の名前で呼び合うわたしたちは、とても不思議なつながりを有している。箱についてはっきりしたことが明らかにならなかったとしても、この興味深いつながりが舞い込んできただけで、大げさに言うなら僥倖なのかもしれない、なんとなくそう感じた。
「ここにずっといると寒いかな。呼び出しておいてなんだけど、中に入ろうか」
 屋上に日差しはあっても、吹き付ける風はひんやりと冷たい。わたしの提案に揃って同調し、扉のすぐ向こうへ行き、階段に腰掛けた。ここもめったに人は来ない。学校にはあまり人の来ない都合のいい場所が必ずある。
 階段の一番上の段に真夏くん、二段下に春海と秋乃が左右に、さらに二段下に真夏くんと向かい合わせの格好でわたし、とそれぞれに座った。最も低い位置から三人の顔を順繰りに見ていき、何かを確かめたように首を縦に動かすと、話の中心となる箱を四人のちょうど真ん中に置いた。古びた、掌に乗るくらいの木箱。開いてみせた。
 相変わらず紙片が畳まれて、仕舞われている。それを拾って、文字が書かれている方をみんなに向けた。この箱のルールが記されているはず。
「…………」
 しかし、みんなの表情に変化は萌さない。
「書かれている言葉は見えない?」
「何も、真っ白だ。裏表逆とかじゃなくて?」
 わたしは裏も見せる。
「こっちは白紙。わたしには、書かれている言葉が見える」
 なるほど、と腑に落ちるものがあった。箱は所有者を選ぶ。だからきっと、ルールを伝えてくれるこの紙切れの言葉も、所有者の目にしか映らないようにできているのだ。まったく、よくできていること。
「どんな言葉が見えるの?」
 春海が訊いてくる。その顔は、わたしがみんなをたばかっている可能性を微塵も感じ取っていなくて、それは実際にたばかるつもりはないから、ありがたく、話の早い限りだった。
「秋乃には、少しは見当がつくのでは? 思いつくままに答えてみて」
 水を向けられた秋乃は目を瞠ったが、考え込むように俯いてから、やがて顔を上げた。
「……願い」
 秋乃は頭を抱える。苦痛に顔を歪めているわけではなくて、そうすることで自然と思い起こされるのではないかと信じている、そんな仕草だった。
「……願いを叶えてくれる」
「そう」
 だけれど、それだけではない。
「秋乃、もう一声」
 茶化すように言うと、秋乃は両手を頭に当てたまま、「大切なものと引き換えに」と絞り出した。
「その通り」
 わたしは半ば感動していた。
「その箱は願いを叶えてくれるの?」
「そう、記してある。この紙には」
「そのためには大切なものを差し出せ、と」
「うん、そういう条件が用意されている」
「不思議な箱。俄かには信じられない」
「わたしもそう思っていた。すぐに信じるわけがなかった。だけど、普段はまったく接点のない秋乃と春海が興味を抱いて近づいてきた。そして、真夏くんも含め、見憶えがあると口にした。それでやっと、特別なものなんじゃないかって考えられるようになってきた。
 それから、この紙の文字が見えないこと。わたしにしか見えないことが確かめられた。この箱は所有者を選ぶそうなの。願いを叶えるか、その人に所有権がなくなるまで箱は去らない。今の所有者はわたし。わたしには『あなたの大切なものを入れてください。そうすれば、どんな願いも叶います。』という言葉が見える。でも、ほかの人には見えない。これだけで、だいぶこれが只者ではないと思える」
 一心に語るわたしの声を、みなは余さず聞き取ってくれる。一瞬の表情の変化も見逃すまいとするかのごとく、少ない瞬きで。
「なるほど――だとすれば、わたしたち三人だけ見憶えがあったのは、どうしてでしょう?」
「それは」
 わたしは一度、言葉を切った。現実的な立場に引き返せば、ここまでの話は奇想天外に過ぎる。果たして、話し続けてどこまで信じてもらえるのかしら。
「それは、三人が既に願いを叶えているからじゃないかな」
 まるで示し合わせていたように、三人は同じ反応をする。心当たりはなさそうだ。
「おれ、そんな気がまったくしないけど」
「わたしも。そもそも、願いを叶えたのなら、今現在は誰かの望みが反映された世界なの?」
「世界、と言うと大げさかもしれない。だけれど、そうね、誰かの望みの果てに今は存在している。
 そしてもう一つ重要なのは、願いを叶えた後に起こること。三人の一様のリアクションが示すように、願った人たちは何も記憶していない。何を願ったか、何を差し出したか、かつての所有者は忘れるようにできている。それどころか、箱にまつわる一連の出来事も忘れてしまう。願いが実現しなかったとしても、所有者から所有権が消滅する際も一緒」
 願える、となったとき、人は自分の利益を考えるものだけど、おそらく、この箱は優秀だから、たんに利益を追求するのみの人の元に現れない。切実な、ほんとうの願いをあぶり出す。
 それがどれほど繰り返されてきたのか分からない。この学校にももっといるのかも分からない。この学校の外、この街の外、どれだけの願いが叶えられ、その度に大切なものが失われたことだろう。
「わたしだけ言葉を思い出せたのはどうしてでしょうか?」
「ここまでの話を含め、すべては推測の域を出ないけど、この中で最後に願いを叶えたのが秋乃だったんだと思う」
 それと、秋乃以外の二人も見憶えがあると感じられたのは、本来あちこちを巡るはずの箱が、あまりに狭いコミュニティで行き交ったためかもしれない。

 胸が騒いだ。非現実的な話はすべて受け入れてもらえた。実証されたわけではないから、ほんとのほんととは到底言えない。それでも、いい。
 ここまで分かって、残された道はこの箱をどうするか、だ。そして、その最終決定を下す権利はわたしにある。
 連帯感が生まれたのかわたしたちは帰り道を共にし、話に耽っているといつの間にか巣鴨駅前までたどり着いていた。わたしと真夏くんの家は目と鼻の先だけど、秋乃と春海は反対方向だ。歩いてそれほどかからないとはいえ、もう夜に入りかけているというのに、ちゃんと帰るつもりはあるのかな。わたしも人のことを言えた口ではないが。
 JRの巣鴨駅はいつも混雑しているけど、地下鉄の巣鴨駅は時間帯によっては空いていた。地上から通じている階段に誰もいないことを確かめ、わたしは提案する。
「ねえ、グリコやらない?」
「グリコ?」
 わたしの発案に春海は目を丸くした。グリコとは、じゃんけんの勝敗によって階段を下りる、または上がっていき、ゴールまで先にたどり着いた人が勝者になる遊びだ。出したものによって進める数が異なっていて、「グー」で勝ったら「グリコ」で三歩。「チョキ」だったら「チョコレート(チヨコレイト)」で六歩。「パー」だったら「パイナップル(パイナツプル)」で六歩。
「そう、グリコ。知らない?」
「いや、知っているけど。なんで突然」
「ここの階段、あんまり人来ないし。それに、グリコをやっていたらどんなことを願ったらいいのか、何を大切なものとして差し出せばいいのか、考えがまとまるかもしれない、そう思って」
 後半は完全に後付けの理由に過ぎないけれど、誰かに伝えてみるとほんとうにそのような気がしてくる。人の意識はいいかげんだ。
「いいじゃん、やろうよ。まだ帰りたくない」
 真夏くんは賛成してくれるだろうと信じていた。
「わたしもやります。グリコ、久しぶりです」
「秋乃まで……」
 しょうがない、と呆れた風に春海はため息を漏らした。
「分かったわよ。やればいいんでしょ」
 わたしたちは共犯者みたいに笑みを交わし、拳を振り上げた。最初はグー、じゃんけん……。
 勝って、階段を下りてゆく。負けて、誰かが下りるのを見届ける。繰り返される掛け声。思いのほかゴールは遠かった。
 自分の願いを叶えるなんて身勝手だ。まして、大切なものまで消そうとするならなおさら。だけど、しょうがない。箱はわたしを選んでしまった。選ばれたからには何か願わなければならない。その結果どんな未来が待っていたとしたって、じゃんけんの勝敗で進める人と進めない人が規定されてしまうようなものだと割り切るしかない。結局は、みんながゴールするまで続けられるのだから。
 やはり、グリコは考えをまとめるのにふさわしかったらしい。おかしくて、どうしようもなく頬が緩んだ。

 すべて自覚的だったとしても、鈍感さを手繰り寄せてたまに自己肯定しないと死ぬことばかり考えてしまうのなら、それはきっと言い逃れのできない心の弱さだ。
 わたしは分かっていると、受け入れていると、自分に言い聞かせてきた。現状も、家族も、恋も友達も。ありのままに、存在している姿のままに受け取って、消化してきたつもりだった。それでも絶望するには些末なことでしかなく、満足するには理想が遥か遠くにあることを思い知らされた。
 私は一人ぼっちでも、一人ではない。最初から分かっていた。
 神様にも星にも願わずに、箱に願う。どんな言葉をかけるのかベッドに横になって思い巡らしていた。眠気はいつまでもやって来ず、願わなければこのまま眠れないのではないだろうか。暗闇の中、覚醒した目を二つ光らしている。
 少なくとも、自分だけのために願うことはやめよう。それは決めていた。わたしだけが幸せになる未来を選択したところで、そんな歪な行く末、すぐに瓦解するに違いない。それなら、何を――。
 真夏くんの顔が浮かんだ。次いで、春海、秋乃の顔も順繰りに浮かんでくる。彼らは何を失い、何を得たのかな。そこにどれだけわたしも介在していたのかしら。実際に知ろうとすると怖さもあるけれど、何から何まで推測でしか考えられないなんて、そのどうしようもなさに呆れる。
 枕の横に置いた箱に片手を伸ばした。触れると不思議な感触が応えてくれる。
「あなたはほんとうになんなの?」
 もうすぐ、さよならだ。
 みんなに見憶えがあるくらい、箱はわたしたちだけを巡ってしまった。その果てにある現在なら、それは正しい姿ではきっとない。わたしと真夏くんが中学三年目にして出会って、付き合い始めたことも、もしかしたら。四人にまるで関わり合いがなかったことも。
 そうだと仮定しよう。その場合、わたしがしなければならないのは、正しくない姿を本来のあるべき姿に戻すことだ。彼らが願う前の現在に。そして、それをこれから訪れる未来の出発点に。
 そう、願った。
 大切なもの。わたしが今誰よりも愛おしく想っているのは真夏くんだ。真夏くんだけだ。彼を失うわけにはいかない。彼と過ごした光り輝く素敵な思い出を差し出そう。彼の戸惑ったその表情も、こちらを安心させる微笑みも、抱き締めてくれた温もりも、少しだけ塩辛い味のした口づけも。すべて、さよならだ。
 真夏くん。せめて、友達くらいであれたらいいけど。
 頬を熱いものが伝った。漏れそうになる嗚咽を堪えると、かえって滴は次々に溢れた。止まらない。瞳を閉じて、流れるに任せた。泣いて、泣いて、たくさん泣いて。言葉にならない言葉が胸中を渦巻いて、これが想いなのかもしれないと実感した。失うことを恐れる感情作用は、きっと誰もが持ち合わせている心の弱さだ。
 声を殺して涙しているうちに、泣き疲れてやがて眠った。夢も見ないような深い眠りだった。

 翌朝、目が醒めると窓の向こうがやけに静かに感じた。カーテンを開けると、白い光に包まれた。一面、雪化粧。さらに雪は降り続けているから、ますます積もってしまうことだろう。ホワイトクリスマスだ、と柄にもなく呟いた。
 部屋から出ると、リビングの方から朝食の匂いと、母親の甲高い声と、父親の大儀そうに応じる声がした。
 今日もここから始まる。吐き気がした。
 だけどきっと、真夏くんがいるから大丈夫。そう思えて。

箱に願いを

箱に願いを

望んだ願いをなんでも叶えてくれる箱。その代わり、所有者はその人にとって一番大事なものを失う。四人の男女が出した、答え。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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