赤のミスティンキル 第一部
起章 滅び行く魔導王国
世界そのものが赤一色に染まったかのようである。
紅蓮と灼熱が、いよいよこの島を支配したために。
夜になったものの、なおもアズニール王朝の軍勢は熾烈な攻撃を仕掛けてきている。今また一匹のドゥール・サウベレーン《龍》が炎を放った。炎の帯を浴びた城壁は薄板のように脆く崩れ去り、城内から上がる火の手はさらに大きいものとなる。天まで届き、焦がさんとする業火を、女はなかば呆然としながら見ていた。
ときおり、熱をともなった爆風が彼女のもとにまで届き、ぬばたまの黒く長い髪をなびかせるも女は微動だにしない。
彼女の黒い瞳に映る光景はただ一つ。それは先ほどまで自らがいた城が燃えるさま。
彼女の脳裏に浮かぶ情景もただ一つ。この魔導王国の王であり、“漆黒の導師”とも称される偉大な魔導師、そして女にとっては魔法の師匠であり愛焦がれる人――スガルトが、黒き剣に深々と胸を貫かれ、息絶えるさま。
先ほどから耳元でぎりぎりと鳴る音が聞こえていたが、それが悲しさと悔しさと情けなさのあまりに食いしばっている自らの歯の音だとようやく気付いた。同時に、ふとまなじりが熱くなるのを感じとった。女は溢れる涙をこぼすにまかせ、瓦解していく城を見上げる。彼女の胸に去来するのは万感の想いに他ならなかったであろう。その想いはしかし、一つの負の感情によって蝕まれていく。
女の瞳に映える紅蓮の炎は今や、憎しみに燃えたぎる彼女自身の炎と化したのを実感する。
(愛する師スガルト様――あなたを殺した魔導師を、ディールめを殺してやりたい――! でも私には力が及ばなかった。私にあなたほどの力があれば、あの魔導師を八つ裂きにできたのに!)
いまわの際にスガルトが女に遺した言葉のひとつ、それは「逃げろ」というもの。そして自分は言われるままに逃げることしかできなかったのだ。城の裏手から丘を下っていく時、魔導師シング・ディールと朱色の龍が天高く舞い上がっていくのが見えた。朱色の龍が鐘の鳴るような咆哮を勝ち鬨のように轟かせたその時、空を我が物顔で滑空するドゥール・サウベレーン達と、それに騎乗するアズニール王朝の兵士達が、とどめとばかりに城に炎を浴びせたのだ。
(――やはり妙だわ)
女は訝しがった。王がこうもやすやすと倒されるものなのだろうか? たしかに魔導師ディールの実力は、スガルトに比肩するだろう。だが、暗黒と不死を追い求めていたスガルトにしては、あまりにあっけない最期であった。王は抵抗する素振りもみせず、黒い剣――レヒン・ティルル――をその身に受けたのだから。
『探せ!』
それは、スガルトの遺したもうひとつの言葉。いったい何を探せというのか。だが、その言葉こそが王の死の謎を解く鍵に違いない、と女は思った。
炎に照らされていた女の頭上が、急にすうっと暗くなった。
涙を拭い、ゆっくりと見上げると、褐色のドゥール・サウベレーンが真っ赤に染めあげられた空から舞い降りてくるところであった。龍は大きな口を開き、体内に燃えさかる炎を今まさに標的に迸らせんとしている。燃えたぎる溶岩よりもなお熱いとすら伝えられる龍の息を浴びれば、人間など消し炭すら残らないであろう。
【魔導師の女よ。その命、忌まわしき力もろとも、我が消し去ってくれる】
女の頭の中に直接、龍の言葉が入り込んでくる。と同時に褐色のドゥール・サウベレーンは躊躇することなく自らの息を女に吹きかけた。炎が女の身体に到達するまで極めて短い時間しかなかった。
だが女にとってはそれで十分だった。たった一言ことばを紡ぐ時間があれば。魔導を発動させる言葉を女が紡ぐと、瞬時に青い色をした幕が目の前に現れ、巨大な盾のように燃えさかる炎を遮った。
すぐさま反撃。女は右の腕を高く振り上げた。青い障壁はすぐさま球体と化し、今し方の龍の炎よりも鋭く立ち上っていく。
自ら放った炎が魔法によってはねのけられたことを龍が知ったときには、既に青い球体は龍の身体を貫いていた。破壊の魔法によって自らが殺されたことを知るいとまもなく、龍の身体は瞬く間に霧散した。
「まだだ……。この程度ではまだ師の足元にすら及ばない……」
しかしながら、女の命運もそこまで。
ほとばしる炎と青い光は、アズニールの軍勢の目を引きつけるには十分すぎたのだ。怒声と甲冑の音が徐々に近づいてくるのが分かる。
さらに、仲間を殺されたことに気づき、龍達は激しく憤った。忌まわしい魔法の匂いをかぎつけた龍達は、ついに女を見つけ、威嚇するようにまわりの空を取り囲む。その数は十匹はいようか。女が破壊の魔術に長じていたとしても、これだけの龍を相手に敵うはずもない。そもそも龍が有する魔力は、人間の比ではないのだから。
女は見ていた。龍達の姿ではなく、その向こうに見える城を。だが、憎悪の感情にとらわれたその瞳はもはや虚ろ。
やがて女は、嗚咽を抑えるような震える声で――自らの感情をさらけ出した。
「わが師よ。私はこの苦しみを忘れません。あなたが掴みかけた不死の魔法をこの手に……。それすらも超越する“魔法の極限”を掴み取ってみせる! どんなことをしてでも! ……そうすればまたあなたに会えるでしょう……スガルト様……!」
女は理性を失ったように泣き――。
「さあドゥール・サウベレーンよ。私の体を焼いてみせろ! だが私は滅びぬぞ。いつの日か必ず力を手にしてみせる!」
そして、憎しみを込めて笑った。
龍達は業火を放つ。
スガルトの最後の弟子、フィエル・デュレクウォーラは、こうして歴史から姿を消した。
――この体など、失ってもかまうものか! せめて、私の意識だけでも……残す!――
◆◆◆◆
この広大な世界の名は、アリューザ・ガルドという。
今よりさかのぼること九百年ほど昔――
まだ“魔法”という体系が確固として存在し、魔法使いによる研究が盛んであった時分。
東方、ユードフェンリル大陸の最南端の島に一つの王国が興った。
肉体と魂の不死を追い求めた魔導王国、ラミシスである。建国後数年間、この国の実情は不気味ながらもようとして知れないものであった。しかしやがて、ラミシスから命からがら逃亡してきた避難民達によって、この王国の狂気が明らかにされた。いわく、生け贄を使う禍々しき悪魔の儀式が毎夜のように行われているというのだ。さらに魔法学の見地からも、不死の研究とはそもそも魔法における禁断の領域にほかならない。その昔、かの冥王ザビュールを降臨させてしまったのも、時の王が不死の領域に触れてしまったことが大きな要因であったとされている。
ついに、ラミシス打倒の勢力が決起した。この時代、世界中に版図を広げていた統一王国アズニール王朝は軍勢を集め、魔導師シング・ディールを筆頭としてラミシスに攻め入った。
たとえ魔導に長けたディールであっても、魔導王国を取り囲む強力な魔法障壁を解くことは叶わず、緒戦は大敗を喫した。だが、龍達の協力を得た彼らは遂にラミシスに侵攻、ディールは漆黒の導師――スガルトをうち破り、魔導王国はとうとう滅びの時を迎えたのであった。
それからさまざまな出来事と共に年月は過ぎ去り――アズニール暦一一九七年。
魔導の力が封印されている今の時代において、魔導を巡る物語が幕を開けることとなった。
ここに紡がれるは魔導復活の物語であり、多大な魔力をその身に有する龍人、ミスティンキル個人の物語である。
赤のミスティンキル。
赤とはミスティンキルにとって“炎”であるのかもしれない。
時には激しく燃えさかり、またある時はちろちろとくすぶり、そしてほのかに暖かめるもの。それが炎。そしてそれはミスティンキルの人生そのものを象徴するものなのだろうか――。
第一部 主要登場人物
ミスティンキル……………ラディキア群島のドゥノーン出身。ドゥローム《龍人》の若者。五十歳。純粋な赤い“原初の色”をその身に宿すゆえ、強大な力を有している。寡黙だが、ウィムリーフのことを大事に思っている。
ウィムリーフ………………ティレス王国の王都ディナールで育ったアイバーフィン《翼の民》の娘。五十五歳。“風の司”。明朗で、人見知りしない性格。
アザスタン…………………龍頭の衛士。金色の角を持つ蒼龍。“炎の界”でイリリエンを守護する。
イリリエン…………………偉大なる深紅のドゥール・サウベレーン《龍》。“炎の界”を守護する龍王。
エツェントゥー……………炎の“司の長”の長老格。
マイゼーク………………… “司の長”のひとり。
第一章 デュンサアルへの旅
(一)
満天の星の中、南で一番明るいと言われるエウゼンレームがひときわ青白く煌めいて見える。街では目にすることの少ないツァルテガーンも、その横にはっきりと見える。やはりここが高地だけあって、空気も澄んでいるのだろう。砂の舞う乾ききった荒野を通り過ぎたあとだけに、この美しい夜空の情景は、今の世の平和を象徴しているかのよう。心の奥底にまで染み渡る星々の瞬き。
空を見上げながら男はおもむろに、ほうっと息を出してみせた。春もまだ早いこの時期は、夜にもなると底冷えがするものだ。白い息はやがて夜の闇の中に溶け込んでいった。
傭兵の男は、東方大陸南部へと向かう旅商達を護衛している。アルトツァーン最南部から目的地に至るまで、一月に及ぶ長旅である。この一隊は今日ようやく不毛の地、気候が厳しいことで有名な荒野を越し、夕刻には丘陵の麓へとたどり着いた。さらに丘を登っていきながら一週間を経ると、ようやくドゥローム《龍人》族の住む高地に到着する。
アルトツァーン王国の産物の数々の到着を、ドゥローム達は今か今かと待っていることだろう。春に訪れる商人達は待ち遠しい客でもあるのだ。冬の間は荒野を猛烈な吹雪が襲うため、アルトツァーン王国への道が閉ざされていたのだから。春一番の商品は決まって高値がつくとはいえ、売れ残ることはない。
六月にもなれば、あの荒れ狂うグエンゼタルナ海も静まるだろう。それまでの間、商人達は陸路を使い、南部との行商をするのだ。
あたりはしんと静まりかえり、ただ聞こえてくるのは、篝火にくべた木が爆ぜる音のみ。真っ暗な草原の中では、この炎の赤はさらに美しく見えるようだ。少し離れた場所でぼうっと浮かびあがってくる白は、旅商達の天幕である。
百人からなる商人達と数多の商品、商人の道先を守る護衛達。一列に並べば五フィーレを越す大隊商である。旅の吟遊詩人や芸人などが交じることは度々あるが、今回は彼らのほかにもさらに珍しい顔ぶれがいた。
――東の丘の稜線から半円状の月が顔を見せはじめた。
あの月がすっかり姿を見せたら、今夜の護衛は次の者に任せることが出来る。故郷を離れて以来、九ヶ月もの長旅を続けてきたというドゥロームの若者に。
任務の終わりを待ち望む彼にとって、本来白銀の光をほのかに放つはずの月の色が、ややくすぶって見えていることは、さしたる問題ではなかった。
(注釈:一フィーレは約四十五メートル)
(二)
とりとめのない夢を見ながらも、自分の名前が呼ばれているのを意識したミスティンキルは、浅い眠りからゆっくりと覚醒していった。
もそりと上半身を起こし、二、三度首を振る。両腕を突き上げ大きく伸びをしてから、彼は目を開けた。うっすらともやに覆われているとはいえ、あたりはずいぶんと明るくなっていた。日が昇って既に一刻は過ぎているのだろう。
しかしなぜ天幕の中ではなく、草むらに寝そべっていたのだろうか? ゆったりとした白い旅装束にくるまるように寝ていたようだが、暖をとるにはいささか役不足であったようだ。ミスティンキルはくしゃみをひとつ豪快に放った。
ぱさり、と肩に着物が落とされる感覚。それは雪豹の毛皮だった。
「よう、赤目の旦那。風邪ひくなよ。そいつを羽織っときな」
ミスティンキルを起こし、毛皮を彼にかけたのは、あごひげを蓄えた中背の旅商だった。男はミスティンキルが寝転がっていた場所にどっかりと腰を落とす。
「お勤めご苦労さん。もう朝だぜ」
それを聞いたミスティンキルは、ようやく自分の失態に気付いた。ぼさぼさになっていた黒い髪を手で整えながら、旅商の顔色を窺う。
「……すまねえ、ワジェット。思わず寝ちまったようだ」
暖かい毛皮を羽織り、ミスティンキルは素直に謝った。故意ではないとはいえ、職務を途中で放棄してしまったのだから。
ミスティンキルの目指す場所は、旅商達と同じ。ドゥローム達の聖地デュンサアルである。単身で荒野を越すのは危険だという相棒の忠告もあり、旅商達と行動を共にしているのだ。元来動き回るのが好きな彼は、食客に甘んじることなく、よく働いた。そして昨日の夜半過ぎから朝の刻に至るまでの間、旅商達を護る任に就いたのだが――突如襲いかかった睡魔には敵わなかった。
ワジェットという名の旅商は、気にするなと言って、からからと笑った。
「ザルノエムの荒野越えはきついからな。ナダステルから旦那たちが旅をはじめてから三週間だ。おおかた旦那も疲れがたまってたんだろ。俺らだってこのエマクの丘あたりに着くとホッとしてよ。番をしながらたまに寝ちまったりするもんだ。……春も早いこの時期は、まだ盗賊どもや土着の悪鬼どももめったに姿を現さんし、まあ気になさんな」
「すまねえ。これから気をつける。――ところでワジェット」
「ん?」
「赤目ってのはともかく、旦那って呼び方だけはなんとかならねえかな? おれなんぞよりあんたのほうが人生経験ってやつを積んでるだろう? まあ、からかってんだったら話は別だけどな」
背高の偉丈夫とも言えるミスティンキルの背丈は、四ラクを越すであろうか。ワジェットより頭半分ほど高い。体格も漁師のせがれらしく、浅黒い肌の腕や足はすらりとしていながらも鍛えられた強靱な筋肉がついている。彼の種族――ドゥローム――特有の切れ長の目と、縦に細い虹彩は、野生の猫や豹すらをも想起させる。
そして――何かしらの畏怖を感じさせる、澄み渡った真紅の瞳。ミスティンキルには得体の知れない力が備わっているというのは、親族からも幼少期から言われ続けてきたこと。
しかしながら同時に彼は、ようやく少年時代の域を脱したあたりの若者でしかない。また、ちやほやとおべっかを使われるほどにミスティンキルは身分が高いわけでもない。
「旦那って呼び方でいいんじゃねえかと思ってるんだけどよ。あんたが見た目若いからって、からかってるわけじゃねえ。銀髪の嬢ちゃんから昨日はじめて聞いたんだが、あんたは今年で五十歳だっていうじゃねえか」
ミスティンキルは頷いた。
「けれどおれは、まだ成人したばかりだ」
「知ってる。旦那が成人する記念にこうして旅をしてるって事もな。けど……俺の村では、年上の人間は敬うものだって教えられてきた」
ワジェットは続けて言う。
「俺はこう見えてもまだ三十二になったばかりだ。赤目の旦那、あんたよりずっと年下なんだぜ?」
五十という歳はドゥロームにとっては一つの節目である。それは成人すること。
ミスティンキルが故郷の島を離れてはや九ヶ月、はるばる龍人の聖地にまで旅をしてきたのも成人になるという名目があったからだ、実際にはこの旅は自分の意志にそぐわないものであり、成人というのは旅の表向きの言い訳でしかないのだが。
「そんなこと言ったら、あんたたち旅商が“銀髪の嬢ちゃん”と言ってるウィムだけど。……あいつは五十五だぜ?」
「何い?! 俺のお袋と、そう歳が変わらないってのかよ?! あの娘が?」
予想していた通りの反応だったために、思わずミスティンキルは、にやりと笑った。
「おれたちドゥロームも、あいつの種族も寿命はさして変わらないって聞いてるからな。実のところはウィムだって、成人して間もないらしいけどな」
ミスティンキルにそう言われても、歳の離れた妹のように捉えていたはずの人間が、じつは自分よりも年上だった事実はワジェットにとってやはり衝撃が大きかったようである。
「俺は長いことドゥローム相手にも商売をやってるから、あんたが実際は俺より年上かもしれないってのは想像がついたけど……アイバーフィンにお目にかかったのは今回がはじめてだったんだよなあ……そうかぁ、五十五かあ」
「……まあいいや。おれたちの呼び方自体は、あんたたちが今まで呼んでたとおりで構わねえよ。ウィムもおれと同じ意見だろうし。けど、あんましあいつの前で歳を話題にしないほうがいいけどな」
先ほどと立場が逆転し、やや気落ちして肩を落とすワジェットを今度はミスティンキルが慰めることとなった。
「そういやさ、あんたがおれんところに来たってのは何でなんだ?」
言われて、ワジェットは本来の目的を思い出した。
「ああそうだ! 朝飯が出来たってんでこっちまで知らせに来てやったら、旦那がぐうすかと心地よさそうに寝てたんだったよな。仕事ほっぽってよ!」
ワジェットの言葉は明らかな軽口。ミスティンキルは笑いながらも肩をすくめてみせた。
「ああ、悪かったって。ウィムは何してるんだ?」
この場所から少し離れたところにある旅商達の天幕からは、朝げの煙が立ち上っている。しかしミスティンキルの旅の相棒であり心を許せる恋人――銀髪の娘、ウィムリーフはどうやら今朝の炊事に携わっていないようだ。
「嬢ちゃんは……ほら、空飛んでるよ。久しぶりに緑の草原が見れて嬉しいんだろうな。髪を染めちまったことの気晴らしってのもあるんだろうけどな。……まあもうじき降りてくるだろうさ」
ワジェットが指さした方向――すぐ真上の空にはウィムリーフがいた。まるで鳶が滑空をする時のように、両の手を広げてゆっくりと漂っている。彼女の背中からは時折、かすかに光が放たれる。その様は彼女の均整のとれたすらりとした体に相まって、まるで翼をまとった天の使いであるかのよう。眼下に広がる丘陵地と、南に連なる山々。その光景とはさぞかし心地のいいものなのだろう。
「さあ、飯を食いに行こうぜ。腹ごなしが終わったら出発だ! 三週間が過ぎちまったけど、もうあと一週間の辛抱だ。そしたら旦那たちの目的地、デュンサアル山に着くからな!」
ワジェットはそそくさと旅商の天幕へと向かう。ミスティンキルもまた、天を舞う娘に声をかけたあと、護衛用の槍を片手にして朝食の場へ向かっていった。
◆◆◆◆
アリューザ・ガルドに住む人間は大きく四つの種族に分けられる。短命なバイラル族が国家を興し、アリューザ・ガルド全土に渡って勢力を誇る中、他の三種族は慎ましやかに暮らしていた。
ドゥローム族もまたしかり。
アリューザ・ガルドにおいて彼らは炎の加護を受ける人間である。彼らは長命種であり、短命なバイラル族が三世代を終える頃に、ようやくドゥロームの一世代が“幽想の界”へ向かう眠りにつく。
“炎の界”への試練に赴き、“炎の司”として認められたドゥロームは龍の翼をその背に得る。この翼は物質的な存在ではないため、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。
なにより、彼らの特徴として特記すべきは龍化。おのが持つ力を龍王イリリエンに認められれば、その身体を龍と化すことが出来るのだ。ただし、今までの歴史の中でも、龍となれたドゥロームはごく少数に限られているというが。
故郷から体よく追い払われたミスティンキルが目指しているのは、ドゥロームの聖地デュンサアル山である。炎の界との繋がりが最も密接とされているこの地から“炎の界”へと赴き、“炎の司”の資格を手に入れること。これこそがミスティンキルが望むことであった。自分を追いやった親族に対する、彼なりの復讐でもある。
◆◆◆◆
ミスティンキルはもともと、アリューザ・ガルド南部、ラディキア群島のとある小島の出身である。彼の父は、その海域をなわばりとする漁師の長であり、ミスティンキルは次男として生まれた。
“ミスティンキル”とは古い言葉で「まったき赤」の意であるという。持って生まれた真紅の瞳から付けられた名だ。
瞳に宿す赤は美しく、深い。その瞳がすべてを見通すかのように澄み渡っているようにすら見受けられたので、得体の知れない力を秘めているのではないかと両親は期待し、また畏れた。
体格に恵まれたミスティンキルは父親の漁の仕事もよく手伝い、時として父親以上の釣果をあげることすらあったし、近所の島に住むバイラルの若者達とも親しく、彼らからよく大陸の華やかさを聞かされていた。
だが、少年期も過ぎ去ろうとしていた頃に持ち上がったのが跡継ぎの問題である。ミスティンキルの兄は、ミスティンキル以上に両親の寵愛を受けていたが、こと漁の腕前に関してはミスティンキルのほうが一枚上手であった。
バイラルの漁師仲間はミスティンキルをぜひ跡継ぎにと両親に推したが、ミスティンキルの親族とさらには両親までもがこぞって異を唱えた。あくまで後を継ぐのは長子である、と彼らは主張したのだ。
ドゥロームの言い分はいちおう筋が通るものであり、ミスティンキルを推す漁師達も渋々納得したため、次期首領には兄がおさまることになった。しかしなによりドゥローム達はミスティンキルに内在する底知れぬ力を恐れたのだ。
ミスティンキルは波止場で商売をするまじない師のように、魔法らしきものが使えていたのだ。それも、呪文の詠唱すらせずに。
大きすぎる力は時として災いを呼び寄せるという。
事実、歴史上においても力に魅せられたゆえに災禍を招いた例というのは数知れない。
大いなる力を秘めた若者は、その力ゆえに徐々に疎んじられるようになっていった。成人も間近に迫った頃、ミスティンキルはついに、生まれ育った島をあとにすることを決意する。後継者候補であった自分がいなくなれば漁師同士の密やかな確執も無くなるだろう。何より親族が自分に対して向ける羨望や畏れ、特殊な者として仲間はずれにしようというような冷酷な雰囲気が堪えた。
別れの晩餐はひっそりと、数人のドゥロームの友人とバイラルの漁師仲間によって催され、明くる朝ミスティンキルは西方大陸へと向かう船に乗り込んだのだった。両親から餞別として贈られたのはなんの皮肉だったろうか。ミスティンキルの瞳の色――赤く染まったそれは、ラディキア特産の赤水晶であった。これを売ればどこでも土地を得て暮らしていくには十分すぎるほどの額を得るだろう。しかし、波止場には親族はもちろんのこと、兄も両親もついに姿を見せなかった。
(あんたたちが疎んじた力とやらを、おれは自分自身のものとしてやる! 龍にだってなってやるさ! そうして龍と化したおれの姿を見せつけてやるんだ!)
船上、徐々に霞んでいく故郷の島を見ながらミスティンキルはそう決意したのだった。
彼が目指すは、ドゥロームの聖地デュンサアル山。
たとえ龍にはなれずとも“炎の司”の称号を得れば、ドゥロームとして高い地位を確立することになる。冷ややかな態度をとり続けた親族も、今度は一転してへつらうようになるだろう。それは大した見物に違いない。ミスティンキルはもはや故郷に戻る気をとうに無くしていたものの、彼らの豹変した滑稽きわまりない姿だけは見てみたかったのだ。
故郷ラディキア群島からエヴェルク大陸へ。さらに海を越してユードフェンリル大陸に至り――旅をはじめてから九ヶ月を経た今、ミスティンキルの目的地は間近に迫っているのだ。
(三)
目に見えない翼を時折はためかせながら、ウィムリーフは優雅に空を舞っていた。昨日、仕方なく黒く染めてしまった自慢の髪のことも、空の心地よさが忘れさせてくれる。
どこを向いても乾ききった大地がうんざりするほど広がっていたザルノエムの荒野とは違い、この丘には豊かな緑があり、雄大な山々が連なっている。その景色は彼女の生まれ故郷をも連想させ、郷愁の念すら感じさせるものであった。
荒野では、冷たい風がいまだ強く吹き荒れていたため、なかなか空を飛ぶことが叶わなかった彼女であるが、今はこうして丘陵地帯の穏やかな風を受けながら空を漂っている。何も遮るものが無く、自由に飛び回ることが出来るというのは、本当に楽しいことだ。この格別な思いをミスティンキルと分かち合いたいと彼女は考えていた。ミスティンキルが“炎の司”となり龍の翼を得れば、二人は共に空を飛び回ることが出来るのだから。
彼が受ける試練は、おそらく生半可なものではないのだろうが、力を持つミスティンキルなら難なく成し遂げるだろう事を彼女は予感していた。赤い瞳の彼が膨大な力を有していることに、ウィムリーフは感づいていたから。自身が多大な力を有するからこそ分かる、相手の力の大きさ。そう、彼女もまた大きな力を秘める者なのだ。
◆◆◆◆
彼女の種族であるアイバーフィンは、“翼の民”の名で知られるように、風の加護を受ける人間である。主として西方大陸の北部に住む彼らは美しい銀髪を持ち、龍人ドゥローム同様に長命種である。
また、“風の界”にて試練を乗り越えれば“風を司る者”として認められ、その背に翼を得るのだ。この翼は鳥の羽に似た形をしているらしいが、本来は物質的な存在ではないために、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。そのかわり、アイバーフィンが翼をはためかせて空を舞うときには、背中から時折光がほとばしるのを目にする事がある。
ウィムリーフは生まれたときすでに翼を有しており、しかも風を自在に操る“風の司”でもあったのだ。それはアイバーフィンの中でも極めて稀である。おそらく出生に依るところが大きいのだろう、と彼女の両親は言っていた。ウィムリーフの祖父祖母の血筋が、彼女の代になって突如あらわれたのだろう。彼女の血統については、ミスティンキルにすらまだ明らかにしていなかった。彼にだけはいずれ近いうちに話すことにしようと、ウィムリーフは心に決めていた。
すぐ真下から、ミスティンキルの低いながらもよく通る声が響く。自分の名を呼んでいることに気付いたウィムリーフは、にこやかに手を振って応える。対する彼は表情を現さないまま商人達が集う天幕を指さし、そのまま槍を片手にすたすたと歩いていってしまった。食事が出来ている、と言いたかったのだろう。そのぶっきらぼうな態度も最初は横柄にしか映らなかったものだが、五ヶ月近くもの間、彼と共に過ごしているうちに、いつの間にか不思議と嫌いではなくなっていた。
「まったく、あたしもなんであんな無愛想なやつとつるんでるのかしらね?」
彼の後ろ姿を見ながら苦笑するものの、その無愛想な人間と共にいることが今となっては楽しいのだ。出会った当初は、彼女の冒険に対する好奇心を奮起させてくれる打ってつけの目的地――デュンサアル――へと向かう若者としか捉えていなかったというのに、不思議なものだ。
これから先の行程は、日記に記す事柄もさぞかし多くなってくるだろう。うまくいけばミスティンキルと共に“炎の界”を見ることが出来るかもしれない。
『“炎の界”への冒険記』――なんと胸おどる表題だろうか!
冒険家たる彼女は、この旅が終わったら故郷に戻って日記をまとめるつもりなのだ。かの冒険家テルタージがそうしていたように、自分もこの旅を記録に残し、後世の人々の役に立てたい、と願っていた。また幼い頃の自分がそうだったように、本を読んだ人が好奇心に駆られ、魅入られたように次々と頁をめくり冒険行に没頭していき、最後になんとも言えぬ喜びを得て明日からの生活を希望を持って臨むようになる――そのような人の心に触れる冒険記を残していく事こそが、自分が心からやりたい事なのだ。
◆◆◆◆
ミスティンキルから呼ばれたあとも、ウィムリーフはしばし空の散歩を楽しんでいた。しかしあの朴訥な若者は、ひょっとしたら彼女が降りてくるのを待ってくれているのかもしれない。彼女はそう思い、翼をいつものように大きく広げながらゆっくりと着地しようとした――。
「――え?」
それは予想し得ぬ落下だった。彼女の翼は突如として揚力を失い、まるで翼をもがれた鳥のように彼女の体は急降下したのだ。
とっさに周囲にいる風の精霊に語りかけ、次の瞬間にはなんとか体勢を持ち直したものの、彼女の背中からは一瞬だけ、翼の力が消え失せたのが明らかだった。
生まれながらにして翼を持つウィムリーフにとって、翼を操るのは瞬きをするのと同じくらい当たり前の動作であり、間違えようがないはずなのだ。その自分がなぜ今、翼を操れなかったのだろうか?
翼は目に見えないし、触わることすら出来ないのは分かっていながらも、ウィムリーフは不安げに後ろを見ながら手を背中にあてがう。翼がきらりと光るのを見て、ようやく彼女は安堵して再び降下をはじめた。
降りる最中、あらためて注意深く周囲を見渡すが――ふと彼女の感性に訴えてくるものがあった。
はたして山々の稜線というのはこんなにも薄ぼけて見えるものだったろうか? 空の色や草の緑すらもどことなく色あせて見えるのは、果たして気のせいなのか? 今し方までは思いに耽るあまり、注視していなかった景色が、どこかしら普段と違って見えていることに気付いたのだ。
何も知らない旅人であれば、ユードフェンリル大陸のみが持つ独特の色合いだと説明されれば納得するかもしれない。が、彼女は冬の四ヶ月もの間、ミスティンキルと共にこの大陸に逗留していたのだ。そのようなことがあろうはずはない。このくすんだ色合いは、世界そのものに異変が起こりつつある兆しではないだろうか。冒険家として彼女はそう直感した。
(四)
この朝、ミスティンキルは穀物商人達と朝げを共にしており、湯気の立つ麦粥を食らっていた。そして商人から麦酒の入った木杯を受け取ったとき、ウィムリーフが顔を覗かせた。
途端、ウィムリーフの顔があきれ顔になる。
「なあにミスト、朝から酒なんて飲んじゃってさ。酔いつぶれてもあたしは知らない……あ……」
当のミスティンキルは、ウィムリーフの言葉を最後まで聞かずに、麦酒を一気にあおり、心地よさそうに息をついた。
「ようウィム。そうカッカすんなって。ここに来てけっこう寒くなってきてるだろ。だけどこいつを一杯飲めば体が温まるんだぜぇ?」
悪びれもせずに言ってのけるミスティンキルに、ウィムリーフは肩を落として見せた。普段のやりとりから考えても、彼女がそんなに怒っているふうではなさそうなので、ミスティンキルはそれ以上何も言わずに隣の場所を指さした。ウィムリーフは彼の横に腰掛ける。
商人達はウィムリーフにも酒をすすめる。が、彼女はやんわりと断った。
「いいですよ、あたしは。ご飯を食べに来ただけなんだから」
「ありゃ、そいつは残念」商人の一人がおどけてみせる。
「ミストも、今朝はそれ一杯だけにしとくのよ?」
とミスティンキルに釘を差し、ウィムリーフは粥をよそおうとした。
しかし先ほどからミスティンキルが自分を――正確には自分の髪を注視しているのが気になり、やや不安そうな面もちでミスティンキルを見た。座った状態でミスティンキルのほうが彼女より頭半分ほど高いため、見上げるかたちになる。
「なに?」
「けっこう馴染んできたんじゃないかって。その髪の色」
その言葉を聞いた途端、彼女の顔がやや渋った。襟首までの髪の毛を目の前まで持ってくると眉にしわを寄せて唸るのだった。
「……うーん……けっこうあたしも気になってるのよねぇ……」
商人が彼女の分の粥をよそったのにも気付かず、ウィムリーフは自分の髪にじいっと見入っていた。
彼女は、光を放つかのような見事な銀髪を昨晩、黒く染め上げたのだ。
黒い髪はまるでバイラルの一氏族、カラカ・ダーナびとのよう。さすがに群青の瞳まで黒く染め抜くことは出来なかったものの、端から見て彼女のことをアイバーフィンだと気付く者はまずいないだろう。
“デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
旅の途中で彼女は何回かこの言葉を耳にしていたが、商人達からあらためてその言葉を聞いていた。実際に彼らと商売をしている商人達の言葉だけに聞きおけない。ドゥローム達の領域に入る前に、仕方なく彼女は自慢の髪を染めることにしたのだ。
――遙かな昔のこと。ドゥロームとアイバーフィンは翼を持つ者同士、空の領有を巡って争ったことがあると伝えられている。そのような遺恨など、歴史の激流の中にとうに埋もれて消え去っていたものとウィムリーフは考えていた。さらに当のドゥロームであるミスティンキルですらも。
しかし、古くから聖地に住みつづけていたドゥローム達の考え方はどうやら違うらしい。特に聖地近くに居を構える“司の長”達は、商人達の言葉を借りると「考えが古い連中」なのだ。
「嬢ちゃんが銀髪のままでも、さすがに理由も無しに命を狙われるってことはないだろうけどね。なんにせよ、あんたらにとっちゃあそこは、はじめて足を踏み入れる場所だ。それにアイバーフィンはウィムリーフ、あんた一人だけで、あとはみんなドゥロームだ。なにが起こるか分からないから、念を入れておくに越したことはないよ。……それにさ、その髪だって似合ってるじゃないか。それに相変わらずかわいいよ。あたしが男だったら必死で口説きにかかってるもの」
ウィムリーフを慰めるように、女商人が言った。
「……そうかな?」
「そう! あとは……ほら、そこでもう一杯飲もうとしてる旦那、ほんとはこういうことは、まず最初にあんたから言わなくちゃ!」
ウィムリーフが髪の毛に魅入ってる隙をついて、密かに酒をつごうとしていたところを見とがめられたミスティンキルは、酒瓶をもとの場所に戻す。しかし、やはりウィムリーフからは小突かれた。
「痛ぇっ……。まあ、そうだな。似合ってんじゃねえか?」
小突かれた脇腹を押さえつつ、いかにもぶっきらぼうに言ってのける。
が、その感情を抑えた口調は、単なる照れ隠しに過ぎないことはウィムリーフには分かってしまっているだろう。
「それに黒く染めてるのもデュンサアルにいる間だけだ。ちょっとの間、辛抱してくれ」
「……ありがとう。まあ誰かに狙われたって、飛んじゃえばこっちのもんよ! それに、いざとなったらあたしのブーメランで蹴散らしちゃうしね!」
「はっは……ちがいねえ。嬢ちゃんのブーメランは百発百中だもんな。昨日の晩飯の見事な鹿肉! あの鹿だって嬢ちゃんが空から狙いをつけて倒したんだぜ……」
そうして再び会話が弾んでいき、朝げの場は和やかな雰囲気に包まれていった。もう半刻もすればこの歓談の時間は終わり、再び旅がはじまる。
ウィムリーフは商人達には語らなかったものの、ミスティンキルには自分の不安をそっと打ち明けた。色の異変のこと、そして翼の力が一瞬失せたことを。
最初はミスティンキルも朝もやのせいだろうと考えていたのだが、言われてみれば空はからっと晴れ上がっているのに色がくすんで見えるのはなぜなのだろうか、という疑念に駆られはじめた。それと、ウィムリーフの翼が一瞬力を失ったというのに関係があるのか?
「大丈夫だろうよ、ウィム。なんとも言えない……変な感じだけどな。すぐにもとに戻るさ」
相棒を不安に陥れないようにと、彼なりに注意を払いながらミスティンキルは言った。
「そう……デュンサアルの“司の長”たちだったら、なんかしら知ってんだろう。デュンサアルに着いたらすぐ、おれは訊いてみる」
昼過ぎになって天候は一変し、濃い霧が立ちこめはじめたため周囲の景色は見えなくなった。しかし色が見えないという事が、かえってミスティンキルとウィムリーフを不安にさせた。
◆◆◆◆
そして、彼らのひそかな不安は的中した。
エマクを登りだしてから二日目には、景色の見え方が普通と違っていることに、全ての者が感づいていた。
晴れ渡っているというのにも関わらず、山々はまるで霞がかかったように薄ぼけて見える。また草木が萌えるこの季節、エマクの草原は若々しい緑で満たされるはずなのに、自分達が目にしているのは灰ですすけたような色あせた緑でしかない。さらには紺碧であるはずの空すらも、くすんで見える。
アリューザ・ガルドから、色の持つ艶やかさが徐々に失われようとしていたのだ―。
第二章 “司の長”
(一)
自然の景色がおしなべて色あせて見えるのに対し、旅ゆく商人達の姿や衣服などは以前と何ら変わらなかった。雲一つない灰色の空から注ぐのは、太陽の鈍い光。それは春の暖かな陽光とはほど遠く、むしろ薄ら寒さすら感じさせる。
くすんだ色合いの風景の中にあって、自分達の輪郭がやけにくっきりと見えるというのは不自然きわまりない。景色が変容してから二日ほど、商人達は声高らかにこの不気味さを言い合い、またそうすることで自分達の不安をうち消し合っていた。だが、三日目が過ぎ、風景の様子がいまだに戻らないことに、いよいよ恐怖を覚えた商人達は言葉数も少なくなり、黙々と丘陵地を登っていくようになった。
ともすれば陰鬱になりがちな商人達を励ましたのは、明るさを失わないウィムリーフであり、音楽を奏でる旅芸人達であった。さらには愛想が悪いなりにミスティンキルも、しきりに商人達に声をかけるようになっていた。ミスティンキルの生まれは海のそばであるが、もともとドゥロームというものは山に居を構え空を友としていた人間である。今こうして山々に囲まれた高地にいること自体がミスティンキルの心を落ち着かせるのだ。
周囲の山岳地帯の至るところにドゥロームの村落がある。この日は空を滑空して狩りをする住民をときおり見かけることがあったが、次の日からはぱったり見なくなった。
エマクの丘を登りはじめて六日目、翌日にはデュンサアルに着くという日のこと。旅商達は道行く葬列に遭遇した。このあたりにしては大規模な葬儀だ。彼らは百人をゆうに越えており、三百名ほどにも達するかと思われた。葬儀に参加する者達はみな一様に赤い長衣をまとっていた。猛々しく立ち上る炎を象った刺繍が施された赤い衣装こそが、ドゥロームの正装である。葬列の衆は松明を手にしており、そこからは色あせた炎がちろちろと弱々しく、くすぶっていた。
ミスティンキルは旅商の列から離れ、彼らの一人に声をかけてみた。
「なんだ、よそ者か? あんた」
その男はミスティンキルの言葉遣い――抑揚の違いを訝しんでいるようであった。そしてなにより、赤い瞳も。
ミスティンキルは男の物言いに憤りを感じたものの、死者の手前もあり怒りを収めた。
「……ああ、おれはラディキアの島からやって来た。ここに来るまで九ヶ月だ。……人が亡くなったのか。……ニーメルナフの力もて、汚れ亡き魂が、無事にかの地にて安らぎをえんことを」
ミスティンキルの言葉は、死者の魂の冥福を祈る言葉。男は礼を述べると、死者のことを語りだした。
棺の中にて眠るのは老夫婦。“炎の司”であり、この近くの村の長でもあった彼らは既に二百の齢を重ねていたが、残念なことに寿命による往生ではなかった。腕のいい狩人でもあった夫婦は昨日、普段どおり獲物を狙っていたが、どうあやまったのか二人共に空から落ちてしまったのだという。
「あれほどの名手が翼をいきなりたたむなんて考えられんし……この景色の不気味な色合いのせいだろう、と考えるほかない。まったく、この“色”は何なんだろうな? これこそ、なんかしらの呪いなのかもしれないと、俺たちは思っているんだが」
男はそう言ってやりきれなさそうにかぶりを振る。
「おれたちもこの“色”には心底まいってるんだ」
ミスティンキルは言った。お互いの抱いた第一印象から抜け出すことが出来ず、会話はいまだにどこかしらぎこちないものとなっている。
「……おれはこれからデュンサアルに行く。“炎の界”で試練を受けるために。ついでに、景色がくすんで見えることについて“司の長”たちに聞いてみようと思ってる。おれたちには分からない何かを、ひょっとしたら知ってるかもしれないしな」
「試練を受けるのならば、ぜひとも長たちには会うべきだろう。だが、俺も先ほどあんたに対して失礼を言ったが、デュンサアルの長たちも同じような事を言うかもしれん。こう言うのも何だが、海に住むドゥロームはドゥロームではないとすら考えているようだからな」
離れゆく葬列に気付いた男は最後に「試練の成功を龍王様に祈る」と言い残して、ミスティンキルと別れた。
(あいつ、気に入らねえな。はなからよそ者扱いしやがって。でも長の連中ってのは、もっと気に入らねえかもな)
ミスティンキルは隊商の列に戻った。憤りながらも彼は別のことを同時に考えていた。景色のくすんだ色合いは、世界そのものに何らかの影響を及ぼしているのだ、と確信したのだ。
こういった考えに至る人間は数少ない。本当に偉大な魔法使い――魔導師とは、術を発動させる際にいつも、世界の運行そのものを視野に入れているものなのだ。しかし、今の世の中に魔導師と呼べる人間など皆無であろう。
本人は未だ自覚していないものの、ミスティンキルはやはり生まれながらにして魔法使いの才覚を持っていた。
◆◆◆◆
この夜、ミスティンキルは久々に護衛の任に就いた。深夜には満天に星々が瞬くものの、それはむしろ彼の心をかき乱す。夜の星々や月さえもが弱々しく光るように見えてならなかったからである。
今日までであれば、高地にいること自体が彼の心をいくらか救ってくれていた。色はくすんだとはいえ、澄んだ空気と山々の雄大さは変わることがない。しかし昼間の葬列を見て以来、色あせた景色を見ること自体に嫌気が差していた。
「……眠っといたほうがいいんじゃねえのか?」
ミスティンキルは後ろの気配に対して声をかけた。
「へえ、あたしだって分かった?」
ミスティンキルは言葉に出さず小さく頷いた。ウィムリーフの体内に有する“力”が彼自身の“力”と共鳴するのか、これはウィムリーフの気配である、と分かってしまうのだ。
また、彼女が今夜ここに来るだろうことを何とはなしに予感していた。このところ気丈に振る舞ってみせるウィムリーフだが、それは空元気に過ぎないことをミスティンキルは気付いている。またウィムリーフも、寡黙な若者が抱えている不安を知っている。だから彼らは今、こうしてたたずんでいるのだろう。自分を、そしてお互いを安心させるために。
「なんか……眠くなくなっちゃってさ。暇つぶしがてら、あんたのとこに来てあげたわけ。感謝なさい?」
ほんの少しとはいえミスティンキルより年上の彼女は、ときおり彼に対して姉のように振る舞うことがある。当初は小やかましくも感じられたものだったが、五ヶ月の共同生活の中でミスティンキルも次第に慣れていた。
「……勝手にしろよ」
といつものように素っ気なく言う。
暖をとる炎と向かい合う彼らだが、火の色すらもあせている。この不自然な色合いを避けるようにするうち、二人はお互いの顔を見合わせるようになっていた。
「今日までの日誌をつけるのはまだ楽だったけど、明日からは日誌に書くことがもっと多くなりそうで大変かもね。でもはじめて見るドゥロームの聖地だもの。しっかりと目に焼き付けておかなきゃ!」
「……色のこと、やっぱり不安か?」
口数の少ないこの若者は、前ふりをおかずに核心から話し始めることがままある。話を中断させられるかっこうとなったウィムリーフは苦笑をしつつ、彼の言葉に頷いた。
「うん。疲れるのよねぇ……。無理してがんばって見せてるっていうの、自分でも分かっちゃうから。気晴らしに飛んでやりたいところだけど、それをやっちゃったらせっかく髪を染めてる意味が無くなっちゃうし、それに……落ちるのは怖いし」
ウィムリーフは明らかに、自分の翼が失われることを恐れている。ミスティンキルは彼女の肩をそっと抱くと、彼女の顔のそばで言った。
「……ウィムの力が無くなったわけじゃないだろ。これはおれの勘だけどな、色がおかしくなったことで自然の力が弱まってんじゃないかと思ってるんだ。……見ろよ。この火だって、これだけ薪を入れてるってのにたいして暖かくならねえ。じゃあ風の力はどうだ?」
「……そうね。風の流れ方が明らかにおかしくなってる。流れ方が遅くなっているというか滞ってるというか……」
風の司でもあるアイバーフィンの娘は即座に答えた。
「な? おかしくなってんのは自然の力だ。あの時、翼が消えたのだってお前のせいじゃない。そこは安心しろよ」
少々強引なこじつけであることが自分自身でも分かっていながら、ミスティンキルは言ってのけた。ウィムリーフの不安を追い払ってやりたい一心から。
「へええ」
対するウィムリーフは、ミスティンキルの考察を見事と思ったのか、感嘆を漏らした。
「大したもんね、ミスト。そういう言い方、安心するわ……ずうっと昔、魔導師たちがいた頃の魔法学の講義を聴いてるみたいね。ひょっとしたらあんた、魔法使いとして食べていけるんじゃない?」
ミスティンキルは笑った。
「馬鹿を言えよ。今いる魔法使いなんて、いんちきなまじない師と変わりねえだろう? そんなうさんくさいもんになるつもりはないね。おれには漁師のほうが向いてる……それに今のおれは“炎の界”のことしか頭にないんだ」
「“炎の界”での試練ね……どういったことをするのか、あたしも見てみたいな。冒険家のたまごとしては、すごく興味あるもの」
「やっぱり、ウィムも行きたい、か……」
ウィムリーフは力強く頷いた。
彼女が自分と一緒に“炎の界”に行きたがっているという事は前にも聞いたことがあるが、彼自身連れて行っていいものだか見当がつきかねた。ウィムリーフがついていてくれれば自分の心が安らぐし、彼自身としてはついてきて欲しかった。だが、アリューザ・ガルドとは全く様相を異にする世界へと連れて行くことは問題にならないだろうか。火に属する自分はともかく、風に属するアイバーフィンを果たして“炎の界”が受け入れてくれるのだろうか。なにより、デュンサアルの住民に見とがめられたらどうするのか。
「まあ、“炎の界”への入り方が分かるのはドゥロームだけなんだし。無理な話だと思ってるんだけどね……いつものあたしだったらごり押ししてただろうけどさ。……忘れてくれてもいいよ」
「悪いな。今のおれからはなんとも言うことができねえ」
その後、二人は鈍く光る陽光が東の空を薄紅色に染めるまでの間、語り合った。商人達のこと。二人が歩んできた旅のこと。昔の自分のことなど。
ミスティンキルとウィムリーフが出会ったのは五ヶ月ほど前のこと。西方大陸から東方大陸へ渡る途中の島で、ごく小さな出来事をきっかけに知り合い、以来行動を共にするようになっている。
話し込むうちに眠気はもちろんのこと、いつしか不安は吹き飛んでいた。ミスティンキルにとってウィムリーフは、かけがえのない女性になっている。ウィムリーフもまた、同じようなことを考えているのだろう。種族の違いなど、もはや些細なことにしか過ぎない。
◆◆◆◆
明くる日、やや急な斜面を登りきると、それまで左右に迫っていた大きな岩の壁も切れた。そして、望んでいた景色が広がる。この時、商人達にとっての旅はようやく終りをむかえた。そしてミスティンキル達にとっても。彼らはとうとう目的地にたどり着いたのだ。
“炎の界”に最も近いとされるドゥロームの聖地デュンサアルをはじめに見たとき、ミスティンキルは少なからず落胆した。聖地と言うからには、アルトツァーン王国の王都ほどでないにせよ、地方の小都市ほどの華やかさくらいは持ち合わせているのだろう。もしくはまるで神殿のように、象徴たる炎が柱をかたどり、その柱が赤々と辺り一面を取り巻いているのかもしれない。そんな彼の想像とはおよそかけ離れていたのだ。
拍子抜けしたのは彼だけではなく、ウィムリーフもまた同様であったろう。
「本当にここがデュンサアルなの? 聖地なの?」
と、商人に念を押して訊いていた。
森と山々とに守られた小さな盆地。素朴で閑静な村。それがデュンサアルだった。
平地と呼べる場所はごく限られていたものの、そこには客を迎えるための宿や酒場といった施設が、質素ながらもあった。
低いながらも急峻な岩山の斜面のそこかしこにへばりつくようにして、堅牢な石造りの家々が密集している。それらの集落からさらに上を見ると、山の頂に近いところにやや小綺麗な建物の集まりがあった。それが、“司の長”達が住む地域なのだろう。
目指すデュンサアル山は――岩山同士を縫うように登っていき、その先にある平原を越えたところに存在している。山そのものは高くはないものの、どっしりと構えた雄大な姿は聖地として相応しいものだった。この山のどこかに、“炎の界”へと通じる門が存在するのだ。
(はやいとこ、“炎の界”に行ってみたい!)
ミスティンキルは、はやる気持ちを抑えながら、商人達と、そしてウィムリーフと共に旅籠へと向かう。夜を徹したこともあり、ウィムリーフのまぶたは重そうである。
ミスティンキル自身もかなり疲労がたまっていることを自覚していたが、それに勝る意思があった。旅籠で一息入れたあと、すぐにでも“司の長”達に会いにいくのだ。
(二)
炎を象徴した赤い長衣。それがドゥロームの正装である。“司の長”達に会うにあたって、ウィムリーフがミスティンキルに半ば押しつけるように着させたのだ。長という立場の人間に会うのだから、身なりを整えるべきだというのが彼女の考えであった。一方のミスティンキル本人はわざわざ着替えることもないだろうと考えていたのだが、「しゃんとしなさい」という彼女の言葉に一蹴されてしまったのだった。
こうして赤い衣を身にまとって旅籠をあとにしたミスティンキルは、宿の女主人から教えてもらったとおりの道を辿り、“司の長”達が住む地域の麓までやって来た。
しかしながら、そこから長達の住まいがある岩山の頂きに到着するまでは、思った以上に時間がかかってしまった。傍目から見て大した高さではなさそうだったのだが、そう簡単に事は運ばなかったのだ。山の頂へと向かう小径は狭く、岩山の緩い斜面をあちらに行き、またこちらに戻るといったふうに、つづれ折となりながら延々と続いていた。
「やっぱり……ウィムに頼んで、ここまで運んでもらえばよかったよなぁ……ああ、でもあいつ、翼を使うのを怖がってたんだっけ……」
山道を登っている最中、何度もミスティンキルは思ったものだ。空を舞う翼さえあれば、このような苦労をせずに済んだのだから。かつて海と共に暮らし、鍛え抜いた体を持っているミスティンキルではあるが、昨晩の護衛のために一睡もしていないこともあって、今や疲労の極致にあった。ウィムリーフの言葉どおり今夜一晩は旅籠でゆっくり休めば良かったのだ、と心の声は囁くが、ミスティンキル本人は依怙地に否定した。
息を切らせながら、やっとのことで山道を登りきったその時、鐘の音が山の麓から春の風に乗るようにして聞こえてきた。
ミスティンキルが泊まっている地域で打ち鳴らされているそれは、一刻ごとに時を告げる鐘である。ミスティンキルと商人達がデュンサアルに到着した時分にも折しも、鐘が鳴っていたことから察すると、この山道を一刻ちかくに渡って登り続けたことになるのだろう。
流れる汗のために顔にまとわりつく黒い髪が疎ましい。ミスティンキルは汗を拭いながら、自分が歩いてきた道を振り返った。ちょうど見下ろした位置には、自分達が滞在する集落の屋根が見えていた。そして家々からそう離れていない広場に見えるのが灰色にくすむ天幕。その周囲で動き回る小さな影は、商人達であろう。
天幕が貝殻ほどに小さく見える場所まで、また引き返さなければならないのかと思うと、気が滅入りそうになるが、あえて忘れおくことにした。
「翼を持つ長の連中にとっちゃあ、こんな山の上に住んでても何の不便もねえってことかよ!」
悪態をついても何にもならないが、もとから気に入らない長達のことがさらに憎たらしく思えるようになっていた。
(海のドゥロームなんてドゥロームじゃねえだと? アイバーフィンが嫌い? ……はん! 高いところから人を見下ろして、偉そうに暮らしてる奴らなら、そうも思うだろうよ!)
面倒なことはすぐに済ますに限る。早く長達に会って、そして早くウィムのもとに帰ろう。
そう思い、ミスティンキルは息を整えると、目の前に立ち並ぶ建物の中でもひときわ大きく目立つ館――“集いの館”へと向かっていった。
(注釈:一刻は約一時間半に相当。一日は十六の刻に分割される)
◆◆◆◆
そして、再び鐘の音が流れる。
館の柱の一つに背を預けて座り込んでいるうちに、さらに一刻が過ぎたことをミスティンキルは知らされた。弱々しく光を放つ太陽は、既に西へと傾きはじめ、屹立する山々に夕刻を告げようとしている。
今のミスティンキルは、不愉快と焦燥感の固まりと化していた。なにせ長達のいる“集いの館”に着いたはいいが、館を前にして聞く鐘はこれで二回目なのだから。
彼は待ちぼうけを食らっていた。
ミスティンキルは舌打ちをして、右横にある扉を恨めしそうに見上げる。石造りの立派な扉には、炎を象った大層な意匠が施されてある。しかしながら扉は今も固く閉ざされ、向こう側から人が現れる気配は全く感じられない。あとどれほど待てばいいというのだろうか?
ミスティンキルが最初に扉を叩いたとき、館の中から顔を覗かせた男が「ちょっと待ってくれ」と言ってから、まるまる一刻もの時間が過ぎてしまったのだ。
彼は腕を大きく上にあげて伸びをしたあと、疲れと眠さのあまりくっつきそうになる瞼をごしごしとこすり、そして再び背を壁に預けて座り込む。腹立ち紛れに目の前の地面を叩いたところで、けっきょく彼の憤りは収まるはずもない。
元来ミスティンキルは、けして気の長い性分ではなかったものの、待つことに関しては辛抱強く耐えられた。それは彼がまだ漁師のせがれとして暮らしていたとき、自然と身に染みついたものである。ラディキア沖で魚の群がやってくるまで二刻も三刻も待つことはざらだったからだ。
しかし今、彼は苛立っていた。長達は「会議中である」として、いっこうに姿を現そうとしない。いい加減にしびれを切らしたミスティンキルは立ち上がると、“集いの館”の周りを大股で闊歩した。
この館はバイラルの国々に見られるような、宮殿の華麗さや城塞の威圧感は持ち合わせていない。ほんのごく小さな地方の領主が住まうであろう程度の造りである。それでも、デュンサアルにある建造物の中にあっては豪奢といえた。それはデュンサアルに住むドゥローム達がおしなべて質素かつ堅実な生活を送っているからに他ならない。
ミスティンキルはぐるりと一周を回ってみたものの、館の窓はいずれもカーテンがきっちり降ろされており、中の様子を伺い知ることはできなかった。
会議の内容は間違いなく“褪せた色”の件についてであろう。宿の女主人に聞いていたところでは、「長様たちの館では、かれこれ三日三晩も話し合いが続いている」という。しかし彼らはなんと長いこと話し合えば気が済むというのだろう。ラディキアの漁師達も寄り合いをすることがあるが、長くても一刻以上はかからない。最後には決断権を持っている漁師の長の一声で決まるのだから。
(いまの事態が普通じゃねえってのは、おれにも想像がつくが。しかし、だらだらと話し合ったところで、答えなんか出るのかよ?)
いくらなんでも休憩なしに会議を続行するわけはないだろう。
ミスティンキルはそう思い、一刻前に取り次いでもらった龍人と話すために、扉を強めに叩いた。
ややあって、中からくぐもった声が聞こえてきた。
〔誰だ?〕
その言葉は、いまの世では滅多に使われなくなったドゥローム語。そしてこの声は、一刻前に言葉を交わしたドゥロームのものだ。
〔さっきの者……ミスティンキルです。あの、だいぶ前から待ってんだけど、会議が終わるのは、まだとうぶん時間がかかるんですかねえ?〕
言葉を荒げながらミスティンキルは扉の向こう側に言った。
しばしの沈黙のあと、扉がぎいっと音を立てて内側に開いた。扉から顔をのぞかせた者は青年のようであり、ミスティンキルよりやや年上である程度のようにもみえるが、その物腰から実際のところは相応の年を重ねたドゥロームであることが伺い知れる。彼はミスティンキルの頭からつま先までをじろじろと眺めた。長時間にわたる会議のためか、彼のやや虚ろとなった眼差しからは焦燥感が感じられた。
〔入れ。今ようやく俺達も休憩に入ったところだ。……お前の用向きは……何だ?〕
〔“炎の界”に行って試練を受けたいのです〕
〔ならばついてくるがいい。俺はファンダークと言い、“司の長”の一人だ。お前を長たちに引き合わせよう。『“炎の界”へ向かう者は炎を尊び、炎を司る者を尊べ。さすれば龍王の加護あらん』と、我らドゥロームの言うからには、な〕
ミスティンキルは、その男に先導されて薄暗い玄関へと入っていった。
(長さまだか何だか知らんが、えらそうな口調をきくやつだ。だいたいおれの用件なんざ、一刻前もおんなじことを言ったじゃねえか。二度も言わせるなよ)
と内心苛立ちながら。
◆◆◆◆
会議室の扉が重々しい音を立てて両側に開けられた。
大部屋を照らすのは、窓から入り込む弱い西日と、壁の燭台にたてられた幾本かのロウソクのみであり、やや薄暗かった。部屋の中央には円卓が置かれ、“司の長”と称される五人の龍人達が、卓を取り囲むようにして深々と座っていた。が、扉のそばに立つ見慣れぬ訪問者――ミスティンキルの姿を認めると、この訪問者へと視線は集中した。
そのまとわりつくような視線を嫌うかのように、ミスティンキルは目を泳がせると、部屋の奥にあるものにふと目を留めた。そこには天上から吊され、床にまで届く大きな壁掛けが掛けられていたのだ。
意匠もまた見事であり、真っ赤な躯を持ち大きく翼を広げている雄々しい龍を中心に据え、炎が龍のまわりを取り囲んでいる。この深紅の龍こそが龍王イリリエンに他ならない。“炎の界”を統べ、ドゥール・サウベレーンの頂点に立つ深紅の王。アリュゼルの神々によって人間達が創造されるよりさらに以前に、アリューザ・ガルドに顕現した最初の龍。イリリエンの力はディトゥア神族にも匹敵する。あるいはディトゥアより上位の神であるアリュゼル神族にすら肩を並べるかもしれない。かつて“黒き災厄の時代”に黒き神ザビュールが降臨した際にも、龍王は龍達の先陣を切って魔界に至り、忌まわしき冥王と相対したと言われている。
そのイリリエンの壁掛けを背にするようにして腰掛ける老ドゥロームこそ、長の中でももっとも地位の高い者だろう。右奥、目を閉じて腕組みを崩さずにいる大男は、長老格の者よりもやや年若くもあるが、初老の域に達しているに違いない。そのほか、右手前には明らかに疲れ果てた表情をしている痩せた男、左奥のミスティンキルから目を離すことなく鋭い視線を投げかけている壮年の男と、同じくミスティンキルを見つめる左手前に座す男。彼らこそが、炎の事象にもっとも長じている“司の長”であった。
ミスティンキルを案内してきた今一人の“司の長”――ファンダークも、もっとも手前の席に腰掛けると、扉を背にして棒のように突っ立ったったままのミスティンキルを一同に紹介した。
〔エツェントゥー老、それに皆さま方。……この若者は、試練を受けるために“炎の界”に行くそうです。その前に我ら”司の長”に挨拶したいとのことで、連れてまいりました〕
エツェントゥーという名の長老は静かに頷いた。
〔我らを訪れたというのは賢明だな、若いの。そして我らもちょうど会議を休もうとしていたところで都合が良かったというものだ。さあ、名乗るがいい。そして、どこからやってきた?〕
右前に座わる痩せた男が聞いてきた。
〔名はミスティンキル。ミスティンキル・グレスヴェンド。……ラディキアからやってきました〕
〔そうか、ラディキアか! ……はっは。あの海洋に浮かぶちっぽけな島のいずこかからお前は来たというわけだな?〕
ミスティンキルの出身地を聞いた途端に笑い出したのは、右奥に腰掛ける初老の大男だった。歳を経たとはいえ戦士といっても差し支えない鍛えられた肉体を持つ偉丈夫は、豪快に笑った。
〔わざわざここデュンサアルを訪れ、試練を受けたいとはな。“ウォンゼ・パイエ”らにも、炎を尊ぶ心がまだ残っておるとは思わなんだ。ご大層にも我らドゥロームの真っ赤な正装で着飾りおって。俺はてっきり、海の者達の正装は、青――波打つ海を織り込んでいるものと思っていたぞ〕
腕組みをしていたその男の言葉にはあからさまな侮蔑が込められていた。
〔ウォンゼ・パイエ……つまり、海蛇の落人だと?〕
ミスティンキルは嫌悪の念をあらわにして、じろりとその男を見やった。
海に住むドゥロームはドゥロームではない、と長は考えている――。
事前にこの噂を聞いていただけに覚悟は出来ていたつもりだったが、こうして自分が実際に蔑みの言葉を浴びせられると、かあっと頭に血が上っていくのが分かる。
男はミスティンキルの表情を気にも留めない様子で、さらに言葉を続けた。
〔さよう。龍でもない。海蛇よ。これはもう遠い昔のことであるが……我らドゥロームは、もともと翼を持ち、山を住まいとしていた龍の民であった。これくらいはお前でも知っていよう? しかし、鳥人達との戦いがあり、我らと鳥人は共に神の裁きを受けた。結果、我らの翼はもがれ、デ・イグでの試練を受けぬ限り、アリューザ・ガルドでは得難いものとなってしまった。翼を無くしたというのは、あの鳥人達も一緒だが……こともあろうにその後に連中はアイバーフィン、つまり“翼の民”であると名乗りおった。我らとて翼を持つ民であることには変わりないというのに……我らのことを差し置き、“翼の民”を名乗るとは、けしからん傲慢な連中よ! ……なあ、長の衆よ〕
一同は、もっともだと言わんばかりに頷いた。男は言葉を続ける。
〔まあ、鳥人のことはさておいて、だ。……かの“天空の会戦”によって失われたのは翼のみにならなかった。アリューザ・ガルドと“炎の界”とをつなぐ門をも我らは失ったのだ。その時から我らはもといた大地をあとにして、失われた門を再度見つけるために探求の放浪を続けた。そして長きに渡る流浪の末、とうとう新しい門を見つけたのだ。それがここ、龍人の聖地デュンサアルだ。門を見つけ、そしてここに住まうことを我らは誇りに思う。――だが、一部の者にとってはそうではなかったようだな。山への郷愁を忘れて放浪を止めてしまった者、海辺にて暮らす者。真摯な意志を捨てて安穏と暮らす落伍者……それがお前の祖先だ。海蛇の落人よ〕
この言葉を聞いたとき、ミスティンキルは自分の抑えが効かなくなっていることに気付いた。そして気付いたときには既に言葉が出ていたのだった。
「落ちこぼれだと? おれたち海に住む者が?! ……このじじい、言わせておけば勝手なことを!」
ミスティンキルは男に殴りかかろうとしたが、手前に座っていた長の二人に制止された。
「離してくれ! おれたちだって毎日一生懸命に働き、誇りをもって生活をしてるんだ!」
ミスティンキルは強引に振り解こうとするがかなわなかった。
「なのに、あいつはおれを馬鹿にしやがったんだ! 許しておけねえ! それとも……あんたたちも所詮あいつと同じだっていうのか? そうなんだな? なんせ長の仲間うちだものなあ! おれのことなんざ、卑しいやつだって程度にしか考えてねえんだな?!」
ミスティンキルは赤い瞳をめらめらと燃えたぎらせ、司の長達の顔を鋭くねめつけた。
〔……おまけに粗野ときたものだ。礼儀知らずめ。我ら長に対してよくそのような不敬な言葉をつかえるものだ。いや、ものをよく知らないと言うべきか?〕
当の男はそしらぬ顔で肩をすくませるだけだった。
〔まあ、お前のドゥローム語は訛りがひどく、何を言っているのだか、我らには聞き取りづらいのだがな。ドゥロームの言葉よりも、バイラルの言葉をよく好んで話すようだ。所詮は気高き誇りをうち捨てた、海の者よ〕
憎悪と怒りに包まれ、我を忘れそうになったその時。
ミスティンキルは自分の中から何かが放たれたのを認知した。瞬時にして、彼の視界に広がるもの。それは霧のような赤い色だった。純粋なる赤い力、ミスティンキルが有する力の片鱗であった。
彼自身が驚く間もないうちに、ミスティンキルのまわりを取り巻いていた赤い霧状のものは突如肥大化し、あたかもミスティンキルがそれを望んでいたかのように長達の姿をも飲み込んでしまった。
(三)
〔こやつ、もしや魔法使いか?〕
ミスティンキルの動きを封じていた二人の“司の長”は、赤い色を解き放った若者に恐れを抱き、即座に手を離すと部屋の奥まで逃げ去った。
〔“術”を放とうというのか!〕
奥の席に腰掛けていた二名の長達も、部屋を包む赤い色が尋常ならざる力を秘めているのを感じ取り、立ち上がった。“司の長”ほどの知識を持つ者であってすら、顕現した超常の現象を目の当たりにしてなすすべがない。ただ狼狽えるのみである。ある者は逃げまどい、ある者は怯えて机の下に隠れた。平然と落ち着き払った様子で椅子に腰掛けているのは、長老エツェントゥーただひとり。白い顎髭を蓄えた細身の老人は、ミスティンキルの力を見極めようとするかのように、正面から彼と対峙している。
当のミスティンキルは呆然と立ちつくすのみ。自分の前には、恐れのあまり気高さをうち捨てた長達がいる。彼らの滑稽さをあざ笑ってやろうとも思うのだが、出来なかった。今のミスティンキルは内的思考に深くとらわれ、心は凪のように静まりかえっていたのだ。
(この赤い霧みたいなのは、なんなんだ? こんな……得体の知れないものがおれの体から出てくるなんて。ラディキアの親族達が忌み嫌っていた、おれ自身に秘められた“力”というのは、こいつなのか?)
(なぜ、こんなものが出てきたのか、それなら何となく分かっている。……抑えられないくらい、あのじじいを憎たらしく思ったからだ。あいつは……)
……気にくわねえ。
そう思ったと同時に、色は鮮烈な紅色からどす黒い赤へと変貌した。この禍々しい赤は、ミスティンキル自身の憎悪の念をまとったものなのか。
ふと気付くと、先ほど蔑みの言葉を放ったドゥロームが、苦悶の表情を浮かべて胸をかきむしりはじめているようだ。赤い色は明らかに、この長に対して力を流しているのがミスティンキルには分かる。
その時、長老エツェントゥーはすくりと立ち上がると、ほっそりした老体からは想像できないほどの大声を放った。
〔そこまでだ! それから先は考えるでない! 赤目の若者よ、力を抑えるのだ!〕
威厳に満ちた声が会議室に朗々と響き渡る。
それを聞いたミスティンキルは、今まさに降りようとしていた内なる思考の深淵から、意識を戻した。
彼が己を取り戻すのと同時に、忌まわしく濁った赤は徐々に小さくなっていき、色合いも鮮烈な赤へと戻っていく。ついに一点に凝縮した紅の光点は、矢のように鋭く放たれ、ミスティンキルの胸の中に埋まった。刹那、ミスティンキルの全身が赤く輝く。
ミスティンキルは目を見開き、また、大きく息を吐く。流れる血潮の音すら聞き取れるほど、彼の鼓動は高まっていた。そして、今し方発動し、また取り込んだ得体の知れない力に対し、恐怖を覚えているのを知った。
エツェントゥーは長達に叱咤した。
〔……そしてお前達、なんたるざまだ。炎を守護し司る者の頂点――“司の長”ともあろう者達が、魔力に怯えるとは! さあ、さっさと席につくがよい!〕
長達は、ミスティンキルに怪訝な眼差しを投げかけながらも、各々の席に着いた。
部屋はもとの薄暗さと静けさを取り戻した。この沈黙は重苦しい雰囲気を助長する。“司の長”達はミスティンキルを威嚇し咎めるように睨み、一方のミスティンキルは居心地悪そうに彼らの視線から目をそらした。だが、今し方の現象について誰も言葉にしようとはしなかった。
〔……以降、エツェントゥーの名において、無駄ないがみ合いはまかりならん。よいな、各々がた。しかと肝に銘じよ〕
不自然な静けさが支配する会議室の空気を破ったのは、長老だった。
〔さて、若いの。先ほどはこちらのマイゼークが無礼を言ってしまったようじゃな〕
先ほどまでの厳格な表情は消え失せ、エツェントゥーの物腰は柔らかなものとなっていた。彼はまず、先ほどの口喧嘩を仲裁するようだ。長老のみが先ほどの“赤い力”について何かしら知っているような素振りを見せていただけに、ミスティンキルはやや落胆した。エツェントゥーは言葉を続ける。
〔だがおぬしとて、我ら長に対して暴言を放ったこともまた事実。まずはそちらから詫びてくれ。さすればこちらも同様に詫びるとしよう。マイゼークよ、よいな?〕
先ほどまでミスティンキルと言い争っていた無骨な龍人――マイゼークは決まりが悪そうに頷いた。
〔……確かにおれも口が悪くなってました。長たちを前にして申し訳ない〕
ミスティンキルは小さく頭を下げた。
〔なにぶん長引く会議のために、俺も気が立っているのだ。まあ……済まなかったな〕
こうしてマイゼークも、長老に催促されてしぶしぶながら謝罪した。が、この強情な偉丈夫の目は責めるように、じっとミスティンキルをねめつけている。
忌々しいやつめが。お前は海蛇の毒を放って、俺を苦しめたのだ――マイゼークの目はそう語っていた。
〔……では話を戻そう。お前は“炎の界”へ行くのだったな。だが、どうやら察するに“炎の界”への入り方などは知らぬようだな?〕
長老エツェントゥーの問いにミスティンキルは頷いた。
〔長老。一つ訊いておきたい。あなたは知ってるんでしょう? さっきの……赤い霧みたいなものが、一体何なのか〕
エツェントゥーは頷いた。
〔ふむ、ふむ。……力を放った当の本人がそのように言うか。やはりそうか。お前は自分の持つ力について何一つ知らないのだな?〕
〔ガキの頃から、なんかしらの力が宿ってることは知っている。けど、それが何なのか、分からなかった。もしかすると……〕
〔忌まわしい力だ……〕
ミスティンキルは驚き、体をぴくりと震わせた。マイゼークが漏らした言葉こそ、自分が言わんとしていた言葉だったのだから。
〔マイゼークよ、口を慎めと言った! 今後そのような振る舞いをすることは、わしの名にかけて許さんぞ〕
エツェントゥーの叱責を受けたマイゼークは肩をすくませた。一方のミスティンキルは、自分の過去を――大きな力を秘めるがゆえに疎んじられてきた過去を思い出し、わなわなと拳を震わせた。
〔やっぱり、あってはならない力だっていうのか? おれが持つ力とやらは……呪いなのか?〕
〔いや、赤い色を秘めた者よ。恐れることはない。あのような力は、実のところアリューザ・ガルドの住民であれば、多かれ少なかれ誰しもが持っているものなのだ。このわしも、そしてここに居並ぶ長達も。そして下の町に訪れている商人達もな。それはすなわち――魔力だ〕
魔力。
七百年もさかのぼる昔のこと。バイラル達は国をあげて魔法の研究に取り組んでいたとされている。その魔法を行使するための源こそが、魔力。
ある時、制御を失った膨大な魔力が氾濫し、アリューザ・ガルドが危機に瀕したことから、もっとも強大な魔法――魔導は封印されたのだ。それ以来、力のある魔法使いは姿を消し、現在に至っている。
〔魔力だって? そんなものは、魔法使いの持ち物でしょう?〕
ミスティンキルの問いに対し、白髭の長は静かに首を横に振った。
〔そうではない。魔法について全く不勉強ではあるものの、炎の“司の長”であるわしには分かるのじゃよ。魔力は確実に、わしらに宿っておる、とな。だが、先ほどの赤い色……鮮明なかたちを成すほどの魔力――。あれほどの力を発動できる人間は、我らドゥロームのみならず、今のアリューザ・ガルドを探してもいはしないだろう。おぬしはそれほど強大な魔力を持っているのだ〕
それを聞いてミスティンキルは鼻で笑った。
〔おぬし、いま心の中で否定をしたな? まさか、自分はそんな大それた力を持っているわけでない、とな。否定してはならぬ。己が大きな力を持ち得ていることを確信するのだ。だが決して増長してもならぬ。過信こそが、おぬしを陥れるであろうから……それこそ呪いのごとく、な〕
〔長の言っていることが、さっぱり分かりません。おれは頭の出来がよくないから……〕
エツェントゥーは、自分の孫を見るように目を細めて言った。
〔いまは分からずともいい。いずれお前にも分かるときがやってくるじゃろう。ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな〕
こうしてミスティンキルはエツェントゥーと約束を交わした。そしてあらためて長老は、“炎の界”への“門”の所在や彼の地で用心すべき事をミスティンキルに教えるのであった。
◆◆◆◆
西側の窓掛けごしに差し込んでいた西日がやや眩くなり、虚ろな橙色へと部屋を染めぬく。太陽がほのかな暖かさを伴って窓に顔を覗かせ、夕刻になったことを“司の長”達に知らせた。
〔エツェントゥー老。陽が落ちかけておりますし、そろそろ会議を再開しませぬか?〕
手前右に腰掛けていた痩せぎすの長が言った。
〔そうじゃな。ならばミスティンキル、下がってくれぬか。あとはお前の望むときに“炎の界”の門をくぐるがいい。門はいつでも開かれておるゆえに〕
ミスティンキルは半歩後ずさりはしたものの、部屋から出ることを躊躇した。
〔あのう。最後に一つだけ、教えてもらえませんか? どうしても訊きたいことが、いや、訊かずにはおれないことがあるんです〕
〔なにか? わしに分かることであれば答えよう〕
ミスティンキルはもうひとつ聞きたかったことを――色の変化について――語りはじめた。自分や旅商達がエマク丘陵に至り、そしてデュンサアルに到着するまでに経験したことを、覚えているかぎり洗いざらい述べた。
〔……おれは、あなたたち“司の長”であれば知ってるんじゃないかと思ってました。なんでこんなふうに、色褪せちまったんでしょうか? あの葬列の男が言ったとおり、呪いのせいなんですか? もしそうだとしたら、色を取り戻す方法など、知ってますか?〕
ミスティンキルが言葉を切ったと同時に、ばん、と大きな音を立てて机を叩いた者がいた。左奥に座る長ラデュヘンであった。彼は憤慨した様子ですくと立ち上がるとミスティンキルに向き直った。
〔痴れ者か?! 我らが何のために会議を延々おこなっているというのか、場の空気を察することすら出来ないほどに! 出ていけ!〕
ミスティンキルにとっては予想も出来ず、また謂われのない中傷であった。彼は言葉を失うが、やがて沸々と胸の奥から怒りが湧きだし、長老の制止も耳に入らず、ラデュヘンに言葉を叩き付けた。
「あんたたちが色について会議していたことくらい、俺にだって分かる! 分かんねえのは、なぜ出てけなどと言うのかってことだ!」
〔双方とも、やめい! わしが先ほど言った言葉をもう忘れたというのか〕
長老の声と共に、喧嘩をしていた両名の足元から一瞬、小さな火柱が上った。驚いた両名はあわてて後ずさった。
〔今度このようなことがあれば、容赦なくおぬしらの舌を炎で包むぞ〕
エツェントゥーは厳しい表情で両者を睨みつけると再び座した。長老の横でマイゼークはいやらしく薄笑いを浮かべている。彼なりに思うところがあるのに違いない。
両隣の長を目で制止しながら、長老は語った。
〔残念ながら、いまだ対応策は出ていないのじゃ。バイラル達はどうなのだろうか。彼らもまたそれぞれの国でわしら同様、議論を戦わせているのだろうか?〕
〔……では、龍王イリリエンはどうなんだろう。神にも匹敵する力を持つというのなら、色について知っているはずでしょう? なんならおれが“炎の界”に行ったときに、訊いてみるとしようか〕
ミスティンキルの言葉を聞いて失笑を漏らしたのはマイゼークであった。
〔まったく、無神経もここまで来ると立派なものだ。ラデュヘンの怒りを買って業火で焼かれる前にここから立ち去るがいい。彼とクスカーンは先日、まさに色について訊くために“炎の界”を訪れておる。だが、さしもの彼らであっても力及ばず、龍王様にはついに会えなかったのだ。まして貴様のような者がイリリエンに会えるわけもない。“炎の界”に入った途端に試練に敗れ、さらには炎に焼かれておのが存在を灼熱の中に消し去るのがおちだ〕
〔龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか〕
と、ラデュヘンも言った。
ミスティンキルは気が付くと、怒りを込めた笑いを漏らしていた。
「おもしれえ。なら、あんたたちが出来なかったことを、おれはやり抜いてみせる。よし、イリリエンに会ってやろうじゃねえか。そして、色を元に戻す方法をおれ自身が探し出してやる。大言を吐いたなどと、いまは笑ってるがいいさ。……けど、こんな海蛇の落人がやり遂げたなら、あんたら“司の長”はそれ以下の存在だってことだぜ」
この言葉をあからさまな侮辱と受け取った司の長の面々は怒り心頭、
〔ウォンゼ・パイエめが、身の程を知れ!〕
〔出て行け!〕
と口々に罵るのであった。さしもの長老とて、この勢いを止めることは出来なくなっていた。
ミスティンキルは、そんな長達を一瞥し、長老のみに一礼をすると、即座に会議室から出ていった。
壊れんばかりの大きな音と共に会議室の扉が閉まる。床を踏みならす足音も徐々に遠ざかり――玄関の扉が乱暴に閉ざされると、“集いの館”は閑散とした陰鬱な空気に閉ざされた。
〔無礼な奴め。あのような者、水牢に幽閉してしまえ!〕
怒髪天をついたラデュヘンは再び机を叩く。
〔なぜあのような者を招いたのだ。おぬしにも責任があるぞ?〕
とクスカーンは、ミスティンキルと最初に対面したファンダークを責めた。ファンダークは返す言葉が見つからず、ただ小さくなって耐えている。
〔エツェントゥー老よ。本当にあのような者を“炎の界”に行かせるのですか? 危険だ。奴は赤い魔力をもって、このマイゼークを害しようとしたのですぞ!〕
マイゼークの言葉を長老は肯定した。
〔確かにぬしの言うとおり、あの者の力は底知れぬほど大きい。危険であるかもしれぬ。が、あの若者ならば世界の色を元に戻す手段を見つけるのではないか、とわしは直感したのじゃ〕
マイゼークは首を振った。
〔まったく甘い。それほどに入れ込むとは厳格な貴方らしくもない。ならば私めは、あの者が危険だという自分の直感を信じて行動させていただきますぞ〕
◆◆◆◆
「あいつ、マイゼークと言ったか! 見ていやがれ、目にもの見せてやるからな!」
館をあとしたミスティンキルは怒りの感情に身を委ね、大声を上げた。ひとしきり喚き叫んだあと、ようやく気が済んだミスティンキルは山を下りていった。頑なな決意を胸に抱きつつ。
「ウィム。寝ているところすまねえが、これから行くことにした。“炎の界”へな!」
ミスティンキルは宿の自室に戻るなり、毛布にくるまっているウィムリーフに開口一番で言った。
「……だって、もうじき夜になるっていうのよ? 明日にしましょうよ? ミストだって疲れてるでしょうに」
先ほどまでぐっすりと寝入っていたウィムリーフは、いまだ気だるそうな顔をしている。
「いいや。なんと言われようと、おれは今すぐにでも山に登るって決めてるんだ。ウィムも十分寝たんじゃねえのか? 今起きないっていうんなら、置いてっちまうぜ」
その言葉を聞いて、ウィムリーフはがばりとベッドから起きあがった。こういうときのミスティンキルは依怙地であり、梃子でも動かないのが分かっている。なにより彼女自身、体の疲れより好奇心のほうが勝った。
「分かったわよ、仕方ないなあ。今回はあたしのほうが折れてあげる。長旅の果てにようやくここまでたどり着いたっていうのに、置いてかれたんじゃ堪らないからね」
「……なんだよ。なんだかんだ言って乗り気なんじゃないかよ」
「当たり前じゃない。冒険家のたまごとしての血が騒ぐのよ」
ウィムリーフが支度を整えるのを待ってから、彼らは宿をあとにした。目指すはデュンサアルの山。そして――“炎の界”である。
太陽は山の稜線に隠れ、ほのかに西の空が薄茜色に染まっていた。もうじきに日が暮れるだろう。
第三章 “炎の界”へ
(一)
“炎の界”への門が存在するというデュンサアル山。
麓の町をあとにして“門”に至るまでには相当の道のりがあることを、ミスティンキルは“炎の司”の長老エツェントゥーから聞いていた。
長達が住む“集いの館”がある山の、その隣にそびえる岩山を登ることおよそ一刻。今度は山を割くようにして断崖が待ちかまえているのだ。底知れぬ奈落を越える手段は二つ。吊り橋を渡るか、翼を用いて飛び越すか、である。この絶壁の向こう側は平原となっており、一本の小径がデュンサアル山へと続いていく。
デュンサアル山の登坂路をしばらく登ると傾斜が緩やかになり、空き地が広がっているという。そこにそびえる二本の石柱こそが門――次元を越えて“炎の界”とアリューザ・ガルドを繋げる唯一の場所なのだという。
“炎の界”へと赴かんとする二人の若者は、最初の内こそ他愛もない話を交わしていたが、山道を登るにつれ空も暗くなり、次第に言葉少なになっていった。とくに、この半日歩きづめのミスティンキルは、少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうなほどに疲れ果てていた。
だというのに、なぜ歩みを止めようとしないのか。先ほどからウィムリーフがさんざん言うように、長に侮辱されたあまり、依怙地になっているせい、なのかもしれない。だが、単にそれだけではないような気もしていた。彼自身把握できていないが、なにかが自分の奥底に触れているような、そんな奇妙な感覚をも覚えているのだ。
岩山を登りきると、いよいよとっぷりと日は暮れ、山々の黒い輪郭が夜闇の中から浮かび上がってくる。デュンサアル一帯の山々の中にあって、ひときわ存在感を誇示するのは、やはり雄大なデュンサアル山に他ならない。漆黒にそびえるあの山からは、人の住む地域では感じることの出来ないある種独特の雰囲気――自然をも超越した何らかの力が伝わってくるようだ。
暗闇の中で活発になるのは野生の動物に限ったことではない。自然と共に生き続ける精霊達や、太古から存在し続けてきた闇の力、さらには魔界の眷族すらもうごめくと言われている。黒き神が封印されて長い時が流れたとはいえ、魔族の力が悪ふざけをすることもあるのだ。世界の色すべてが薄れている今、ランプや月のほのかな光だけでは、こういった闇を照らし、消し去るにはあまりにも頼りないというものだ。
ウィムリーフはランプを地面に置くと、一言二言呪文を唱える。すると彼女の右の掌から小さな光球が浮かび上がり、二人の周囲を煌々と照らし出した。
「へえ。そんな魔法が使えたんだな」
「冒険家としてのたしなみ、かしら。でもあたしが使えるのはいくつもないわ。魔法使いにとっては、こんなものは魔法の初歩みたいなものなんでしょうね。でも、アイバーフィンらしく風の力を使役するほうが、あたしにとってはしっくり来るけどね」
風の司たる娘は得意げに答えた。例えばあの長のように、人によっては嫌味にも聞こえるような言葉でも、彼女の口から聞くと不思議と気にならない。それはウィムリーフの飾らない性格のせいなのだろう。
「っとっと……」
ふっと気が抜けてしまったミスティンキルは、足をふらつかせて地面に倒れ込んでしまった。
「ミスト!」
ウィムリーフが心配そうに顔をのぞき込む。
「へへ。情けねえ。岩山を登りきったから安心しちまったんだろうな。でもまだ道は長いんだから……」
「道は長いんだから、少しここで休んでいきましょう」
ミスティンキルの言葉を遮ってウィムリーフが言った。
「……徹夜の護衛。昼間から山道を歩きづめ。加えて食事もろくに摂ってない。それじゃあへばって当然よ。……ねえ、少し眠りなさいな。あたしが見張っててあげるから」
ミスティンキルは意地になって上半身を起こそうとするが、もはや体が言うことを聞こうとしない。
「せめて……もう少しでも先に進みたいんだ……」
「はいはい。ミストの決意が固いのは感心するわ。これだけ頑なな意志をもってすれば、試練だって難なく突破できるかもしれない。けれどもね、意志が強いっていうのと、聞き分けがないっていうのはまた別。それに、ここから平原に行くのに吊り橋を渡らなきゃならないでしょう。そこで今みたいに倒れ込んだら、奈落の底に真っ逆さま、よ。そうなっちゃったら、いくらあたしが翼を持っているといっても助けられないわよ。……おとなしく休みなさい。それともあなたたちには、『“炎の界”に行く前には断食して、不眠不休で歩きづめなきゃならない』という掟でもあるっていうの?」
ミスティンキルは折れた。大の字になって天上の空を見上げる。と、頭が起こされてウィムリーフの膝に乗せられた。
「そう。一刻の間だけでも眠るといいわ。次に鐘が聞こえてきたときに起こしてあげるから」
言われるままにまぶたを閉じる。ウィムリーフの優しさ、暖かさを感じながら、ミスティンキルは眠りへ落ちていった。
◆◆◆◆
どこともしれない虚ろな空間。これが夢の産物であることをミスティンキルは自覚しながらも、周囲を包む白い闇に四肢を捕らわれたように、動くことがまるで出来ないでいた。
〔呪われたウォンゼ・パイエめが。貴様などが龍人を名乗る資格などありはせぬぞ!〕
どこからともなく、罵る声が聞こえてくる。これは“司の長”――あのマイゼークの声か。
「“司の長”たちは、海に住むドゥロームなど同族だと思っていない。……俺もそうさ。ましてお前などに、我らが村長の葬列に居合わせてほしくないものだ」
今度聞こえてきたのは、デュンサアルに着く前、葬儀に参列していた男の声。
こんなものは幻聴だ。実際に聞いたことなどない、おれが勝手に思いこんでいるだけだ――そう思っている最中でも、さらにさまざまな罵言が容赦なく頭の中に響いてくる。
旅商達、酒場に居合わせた者達、波止場の水夫、街道ですれ違った旅人達。かつての旅先でミスティンキルが出会ってきた人々が口々に罵る。“忌まわしい力の持ち主”と嘲笑する。
「黙れ! おれの持っている力が忌まわしいだと?!」
たまらずミスティンキルは声を張り上げた。すると怒りの感情と共に赤い色が――魔力が顕現した。“司の長”達を襲ったあの時にも似て、それは空間を覆いつくすように膨張していき――ついに雷鳴のような音と共に弾けた。
途端、それまで激しく飛び交っていたすべての雑言は消え失せ、空間には静寂のみが佇む。
――ほら、見るがいい。お前の持つ力とはかように恐ろしいものなのだよ。
「親父殿?!」
模糊とした空間から浮かび上がってきた姿は他でもない、彼の家族だった。ミスティンキルが避けたくもあり、しかしながらもっとも会いたいと望む人々。
ミスティンキルの抱く複雑な想いとは裏腹に、父母も兄も一様に、悲しさと恐れを併せ持った表情でミスティンキルを見つめる。少年時代から見慣れていたその表情こそ、彼がもっとも見たくないものであった。だからミスティンキルは家族の眼差しから目を背けようとした。が、全身がこわばっているためにそれすらも出来ない。
耐え難い視線を一身に受けていた時間はいかほどのものだったのだろうか。彼らはくるりと身を返し、漠然とした白色の中へと消えていった。最後までその表情を変えぬまま。
ようやく呪縛から放たれたミスティンキルは天を仰いだ。はち切れそうなまでに膨らんだ感情の中にあってなお強く感じとれたのは、あまりに深い悲しさだった。漁師の次期首領としての後継者争いが始まり、“力”を持つがゆえに一族から疎んじられ――ミスティンキルが孤独を覚えるようになってからずっと、誰に知られることなく密かに抱え込んでいた感情。
そして彼の意識が現実へ戻ろうとしているのが分かる。それは嬉しいことだった。いつもと変わらずに振る舞えば、この夢のように辛い感情を吐露することもない。なにより、ウィムリーフが自分を包み込んでくれるのだ。
最後に、ミスティンキルは思った。
自分の力の強大さゆえに迫害され続けてきたのなら――
「なんでこんな力を、大きな魔力なんかを……おれは持ってなきゃならねえんだよ?」
それはミスティンキル、運命という名の必然が待っているから。
歴史という名の物語の流れへと飛び込んでいくから。
その時が、いよいよ始まる。
意識が覚めていく中で最後に聞こえたのは、覚えのない声。それはいったい誰の言葉だったのだろう――。
(二)
さわさわと、木々の葉擦れの音がさやいでいる。
ミスティンキルは仰向けに寝転がって漆黒の宙と星々の瞬きとを凝視していた。そしてようやく、自分が悪夢から目覚めていたのを知った。天高く昇っている白銀の月は、今宵ほぼ完全な円を象っている。月は常にかたちを変えるもの。二十八日すなわち一ヶ月という周期をもって、月は満ち欠けを繰り返すのだ。おそらく明晩は満月となることだろう。白銀がくすんで見えるとはいえ、その独特の神秘性にミスティンキルは魅了されるのだった。
やがて、こぅん、という鐘の音が耳に届いてくる。風に乗って麓から運ばれてきたのだろう。一日の終わり、闇の時間のはじまりを告げるその鐘は六回鳴らされる。次の鐘が鳴るのは朝を告げるとき。それまでの間は“刻なき時”と呼ばれており、闇が支配するこの時間、人々は眠りに落ちるのだ。
天上を見上げていたミスティンキルの視界は唐突に遮ぎられた。不意をつかれ、何事かと思ったミスティンキルは、思わずびくりと身を震わせた。だがそれは見慣れたものだった。ウィムリーフがミスティンキルの顔をのぞき込んだのだ。ウィムリーフの膝を枕代わりにして寝入ったのを思いだし、ミスティンキルは安堵の息をついた。一方、ウィムリーフは一言ことばを唱えて再び光球をともらせる。魔法の光は彼らの頭上へと浮かび上がるとほのかな光を発し始め、やがて周囲を明るく照らしだした。
「どうやら起きたみたいね。疲れは少しはとれた?」
鼻先、すぐ真上からのウィムリーフの問いかけに、ミスティンキルは首を縦に振った。疲弊していた体力は回復し、感覚も冴え渡っているのが分かる。
「ぐっすりと一刻ほど眠りこんでたわよ。それで、こっちのほうは、ふくろうが二羽飛んでいったのを見た他は、とくだん何も起きなかったわ。……どう、もう少しこのままにしている?」
ウィムリーフの慈しむような眼差しがミスティンキルを捉えている。
目が覚めてしまったからには、いつまでも彼女の膝の上に頭をのせていても仕方ないだろう、とミスティンキルは思いながらも、ついついウィムリーフの視線に見入ってしまうのだった。彼女の群青の瞳はいつにもまして澄んでおり、それ自体が光を放つようにも見える。
奇麗だ、と彼は素直に感じ入っていた。彼女の青い瞳は優しく微笑みかけてくる。
「……奇麗だね、赤い瞳が。まるで赤水晶みたい」
ウィムリーフの意外な言葉であった。忌まわしい力を象徴するかのような、この赤い瞳を誉められたことなど、未だかつてないのだから。
(赤い瞳。赤い……力、か)
ミスティンキルは、今し方見ていた夢を反芻するように目を閉じた。夢の輪郭は既に失われ、すべてを思い出すことは出来ないが、それが痛切なまでに辛いものであったことだけは覚えている。心の奥底に密かにしまい込んでいた感情を、思わず吐露してしまうほどに。
「なあウィム……。おれ、寝てるとき何か言っていたか?」
あれほど心に突き刺さる夢だ。もしかしたら、寝言を言っていたのかもしれない。おそるおそるミスティンキルは訊いてみた。
ウィムリーフはかぶりを振った。
「寝言は言ってなかった。でも、ミストが夢を見ていたとしたら……なにか悲しそうだった。それは伝わってきたわよ」
感情の波動が伝わってしまうのは、ミスティンキルのみならずウィムリーフ自身も、大きな力をその身に秘めているためだろう。それが都合のよいときもあれば悪いときもある。今は、どちらだろうか。
ミスティンキルは上半身を起こすと、膝を抱えて空を見上げた。
「そうだ、おれは夢を見ていた。あまり思い出せないけれども、どうにも辛い夢を。……おれの持ってる力は、どうあがいても忌々しいものなのかもしれないな」
口をついて出た言葉は、普段らしからぬ弱音だった。今は――自分の弱さを彼女には知って欲しかったのだ。彼女と出会ってから今までの間にも、過去の自分の境遇を話したことはあったが、こうして感情を吐露することで自身のもろさをさらけ出したのは、ミスティンキルの記憶している限りでは、はじめてだった。
ウィムリーフは即座に否定をした。
「忌まわしいというのとは違うんじゃないかな? あたしだってミストと同様に大きな力を持っているんだから、あんたが自分の力を怖がる気持ちは分かるつもり。……そう、こんなことがあったわ」
彼女もまたミスティンキルと同様に天上を仰いだ。何か思い出そうとしているようだ。そしてようやく、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
“――人間が、おのが持つ力を行使しようとしたとき、よきにせよ悪しきにせよ結果がもたらされる。たとえ悪しき事象が及ぼされたとしても、力そのものが悪なのではない。力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。しかしだからこそ、心せよ。自分を強く保て――”
「これは、“風の界”の王エンクィが言った言葉よ。あたしが“風の界”に赴いたことがあったってことは前にも話したと思うけど、そのとき風の王に会ったの。エンクィに言わせると、あたしには純粋な青い色が――大いなる力が宿っているんだって。……それでもたぶん、ミストの力にはかなわないだろうけれども、アイバーフィンとしては珍しいほど、魔力に恵まれているんだって。だからあたしは生まれながらにして翼を持っていたりしたらしいのね」
ウィムリーフは、ただ慰めているのではない。彼女なりに真実を語っているのだ。“風の界”の王エンクィは、ディトゥア神族の一人である。一介の人間が、神に対面できることはまずあり得ない。彼女が秘めた力の大きさが推し量れるというものだ。
「魔力に、恵まれているだと?」
ミスティンキルは起きあがると、ウィムリーフの言葉を反復した。
「そう、あたしは『恵まれている』と言ったわ。エンクィも言ったように、魔力っていうのは行使する人次第で良くも悪くもなるものだからさ。ミストもそう落ち込まないで! あんたの力はけして忌々しいものなんかじゃない。炎の司ミスティンキルという人を、世の中の人が知るのはこれからなんだから。……だから、きっちりと試練を乗り越えるのよ!」
ウィムリーフはばんと、ミスティンキルの背中を叩いて励ますのだった。ミスティンキルは心の中で礼を言った。
“力を行使する者の気の持ちようがすべてなのだ。だからこそ、心せよ。自分を強く保て”
そして、風の王エンクィが語ったとされるこの言葉は、後々までミスティンキルの記憶に刻み込まれたのだ。
ごうっと音を立て、一陣の風が強く吹き付ける。
「……風が出てきたな」
「さっきからそうだったんだけど、この周囲の風の力が、もとに戻っているみたい。なぜなのかは分からないけれどね。これだけ風の力に恵まれていたら、あたしも今だったら飛んでいけそうよ。……ほら」
ウィムリーフはそう言って軽く地面を蹴る。と、彼女の体はふわりと宙に浮かんだ。
「見て! 今だったらいつもと同じように飛べるよ」
ウィムリーフがいかにも嬉しそうに、くるりと宙返りをしてみせると、翼をきらめかせて空高くまで飛び上がってみせる。ミスティンキルは小さく笑みを浮かべ、彼女が空を舞う様子を見ていた。
その時。
なんかしらの感覚が、心の奥底をざわりと触れた。ふと勘が働いたミスティンキルが、視点をデュンサアル山の中腹へと移すと、二本の赤い炎が、蛇の舌のようにちろちろと揺れ動くのを見た。あのあたりに“炎の界”に至る門があるに違いない。
“炎の界”が自分達を招いているのだ。あるいは、龍王その人が呼んでいるのか? ――ミスティンキルの研ぎ澄まされた感覚はそのように訴えかけている。
だとしたら一刻も早く、扉のあるところまでたどり着かねばならないだろう。
「さてウィム、降りてこいよ。行こうぜ! どうやらおれたちが今夜デュンサアル山に向かうことは、間違ってなかったようだからな」
こうして二人は再び山路を歩き始めた。
◆◆◆◆
風に乗って届いてくる狼の遠吠えと、木々のざわめきとを耳にしつつ、岩山の頂上をしばらく歩くと道は途切れ、巡礼者の行く手は阻まれる。山を割くような断崖があるのだ。だがこれは先刻、“司の長”エツェントゥーから聞いたとおりである。
断崖を越えるには細長く頼りない吊り橋を渡るほかないのだが、その吊り橋の横には一件の山小屋があった。デュンサアルへの巡礼者のための休息所として建てられたのだろう。もしくは、聖なる山を守護する守人の詰め所をも兼ねているのだろう。
灯りのともった山小屋を横目に見ながらも、ためらうことなく二人が吊り橋に向かおうとしたその時、山小屋の扉が開き、小屋の中から一人のドゥロームが現れた。
〔止まれ!〕
槍を片手にした守人のドゥロームがあからさまに警戒をしながら駆け寄ってくる。ミスティンキルほどではないが、背の高いこの若者は――もっともドゥロームとしては平均的な身長だが――二人のすぐそばまでやって来ると、怪訝そうにミスティンキル達の様相を伺う。
龍人の正装である赤い長衣をまとった男。それに、瑠璃色の短衣と白くゆったりとしたズボンを着た女。ふわりと宙に浮く魔法の光球。
この守人に自分達はどのような印象で受け止められているだろうか。怪しい者だと思われても仕方がない。加えて、ウィムリーフの衣装はアイバーフィンの正装なのだ。これでは銀髪を染めた意味がない。だが、種族の正装でなければ、事象界に入ることが出来ず跳ね返されてしまうこともままあるのだ。
“デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
ともに旅をした旅商から聞き知った言葉だ。その言葉どおり、デュンサアルには偏狭な龍人が多いことをミスティンキルは身をもって知った。海洋地域出身のミスティンキルすらまともに取り合ってくれないのだから、太古に敵対していたアイバーフィンに対する扱いはいかなものになるというのだろうか。
(へんなことで咎められるのはごめんだ)
ミスティンキルは内心不安を感じながらも、感情をあらわにすることなく守人と対峙した。そして眉をひそめた。この若者のがっしりとした体格と、厳めしい顔つきには見覚えがある。憤りを覚えるほどにあの龍人に似ている。自分を侮辱したあのマイゼークとかいう長の若い頃は、このような容姿であっただろうと思わせる。
〔ふん……魔法使いか? けったいな術を使うなど……〕
ふわふわと浮いている光を訝しげに見ながら若者は問いかけてきた。彼の若い声色は、マイゼークのような低い声ではなかったが、気分を害する口調はあの老人譲りである。
〔よそ者が、聖なる山になんの用あって赴こうとするのか? しかもすでに深夜――“刻なき時”に入っているというのに〕
「けして怪しい者じゃない。おれは――海の向こうのラディキアから来た、ミスティンキル・グレスヴェンドというんだ。“炎の司”になる試練を受けるためにデ・イグに行こうとしている。“炎の界”への門はいつでも開かれている、と“司の長”エツェントゥーどのから聞いたから、今こうしてやって来たんだ。……あんたは長からなにも聞いていないのか?」
ドゥローム語を話す若者に対して、ミスティンキルはアズニール語で返答した。自分まで龍人の言葉でやりとりを行ったら、言葉を解さないウィムリーフにはあたかも密談のように聞こえてしまうだろうから。
くっくっと、含み笑いをしたあと若者は言った。
〔知ってるとも。君の話は聞いている、遠方の海辺からわざわざお越しなすった同胞どのよ。私はマイゼーク・シェズウニグの長子ジェオーレという。……しかしこんな夜更けにこそこそ闇に紛れて――まるで魔の眷族のように――やって来るとは、父の読みどおりだったよ。しかしながらこれは予想できなかったな……同行者がいたとはな〕
守人ジェオーレの表情は笑ってはいない。また、彼の口から出る言葉は言葉遣いこそ柔らかではあるが、きわめて辛辣なものであった。デュンサアルに住む者以外は信用ならない、そんな様子が言葉の端々から伺いとれる。
ジェオーレの鋭い目つきがぎろりとウィムリーフを凝視する。服装からアイバーフィンであるということがばれたのだろうかと、ウィムリーフは心配そうにミスティンキルを見た。
「……バイラルの女か。デュンサアル山になんのようだ」
ジェオーレは、ややたどたどしいアズニール語で話しかけてきた。
「ウィムリーフと言います。あたしも、このミスティンキルと一緒に“炎の界”に行くんです。……龍王様に会いたい一心で、ここまでやって来たんですよ」
気を取り直した彼女は臆することなく、持ち前の快活さで答えた。
「ふん。ドゥロームであっても会うことが叶わないお方だぞ。ましてバイラルなど……我らの“炎の界”に入ること自体がとうてい無理だ。たどり着いたところで、業火に身を焦がされて、魂すらも消し炭になるぞ」
ジェオーレはウィムリーフなど歯牙にもかけない様子で言い放ったのだが、“炎の界”に赴こうとしている二人は、とりあえずほっとした。この若者は、どうやら実際にアイバーフィンを見たことがないのだろう。彼女が着ている翼の民の衣装には、まったく気付く様子がない。あくまで、ウィムリーフの黒く染め上げた髪の色のみで種族を判断しているようだ。
「我らの“炎の界”、だと? ……なあ、あんた思い違いをしていないか。“炎の界”はドゥロームの持ち物じゃあないはずだろう? 誰のもんに属するものではない、とエツェントゥーどのからは聞いているぞ」
ミスティンキルの言葉に対しジェオーレはわざとらしく頭を押さえ、悩んでみせた。あからさまにミスティンキルの感情を逆撫でしようとしている。
〔ああ。エツェントゥー様も、余計なことをおっしゃるものだ……。たしかに海辺の漁師どのが今言ったことは間違ってはいない。が、海の住人たちは忘れてしまわれたのだろうなあ。我らドゥロームの誇りがあることを。炎を司る我らにとって、他の種族の者達が“炎の界”に赴くのは好ましからざることだ〕
(ここの連中は、誇りってやつの意味をはき違えてるんじゃねえか? そんなのは、単なるくだらねえ偏屈だ)
ミスティンキルは苦々しく思ったが、口に出すことはなかった。
「さあ、もういいだろう。その槍を引っ込めてくれよ。おれたちはデュンサアルを登る。そして“炎の界”に行くんだ」
〔……それはならないな〕
威嚇するように声の調子を落としたジェオーレは、手にした槍を横につきだして道をふさいだ。
「不敬なウォンゼ・パイエ(海蛇の落人)を行かせてはならないとの命を受けている。ましてバイラルまで同行しているとあっては、なおさら通すわけにはいかない」
「……マイゼークの差し金か?」
今まで抑えてきた憤りを隠しきれなくなったミスティンキルは、食ってかかるような勢いでジェオーレに言った。
〔差し金とは酷いことを言うな。確かにわが父の指示であるが、これは“司の長”じきじきのご命令と思え。お前が我らと同じ炎の民、龍の末裔だというのなら、これに従う必要がある〕
「そんな命令など聞けるか?! そこをどけよ」
ミスティンキルは、ジェオーレの槍に手をやると、力任せに押しのけ、強引に通り抜けようとした。
「これ以上進もうというのなら、それは“司の長”に刃向かったということを意味する。……デュンサアルの掟に従って罰せられるぞ」
ジェオーレは槍を手にしていない左手を後方の吊り橋のあたりに向けて、高く掲げた。すると、吊り橋の入り口あたりの地面から勢いよく炎の柱が幾本も立ち上り、壁となって行く手を阻んでしまった。
〔……年若いからといって、この私をなめるなよ。私とて炎の加護を受けし者、炎を操る者――“炎の司”だ。こうして道をふさいでしまえば、お前たちにはどうすることも出来ないだろう。無礼な赤目よ。この炎が消せるか? ……無理だな。いくらお前が強大な魔力を持っていたとしても、おのが力の使い道を知らなければ、為すすべなど何もないからな〕
「ああ、確かに今のおれでは何も出来ないな。でもな……突破してみせてやるよ。あんたが思いもかけないような方法でな!」
そう言ってミスティンキルはウィムリーフのほうを振り向いた。
「ウィム……さっき、風が出ていると言ってたよな。どうだ、いけるか?」
ウィムリーフは一瞬戸惑ったが、この龍人の若者の言わんとしていることを理解し、渋々ではあるが頷いた。
「風はさっきと変わらないわ。いける……けれど、罰せられるというのはどうなの? それはデュンサアルの――ドゥローム族としての掟に反することになるんじゃない?」
「掟だって? どのみち、このへんぴな村を出ちまったらそんなものには意味がねえよ。だいたい、こんな了見の狭い連中の言うことなんかを『はい、そうですか』と聞いていられるか?! おれは我慢ならねえな。ウィムだってそう感じないか?」
ウィムリーフは頷いた。彼女の表情はミスティンキルの言い分には幾分納得しかねている様子だが、だからといって堅物なジェオーレの言葉に従うつもりも無さそうだ。傲慢で偏った排他性こそが誇りである、と思い違いをしている守人に対して、彼女なりに怒りを感じているのは間違いないだろうから。
「なら、決まりだ。……行こうぜ!」
ミスティンキルはニヤリと口元を歪ませて、再びジェオーレの方へ向き直った。
ジェオーレはそのやりとりをただ聞き流していた。彼らがどうあがこうと、炎で遮られたこの吊り橋を渡ることなど出来るはずもないのだから。彼ら同士のやりとりは無駄なあがきにすぎない。たとえ泣きついてきたとしても、ここから先へ通してなどやるものか。
そう侮っていただけに、ミスティンキル達が次に為したことは、この若者の理解の範疇をまったく越えていた。
決意を固めたウィムリーフはミスティンキルの背後からそっと手を伸ばし、胴回りを抱きしめると――彼ともども高く跳躍した!
〔飛んだだと?! ばかな!〕
槍を落とし、半ば呆然とした様子のジェオーレが徐々に小さくなっていく。彼の哀れなまでに呆けたさまを楽しむかのように、上空のミスティンキルは笑ってみせた。
「まんまと突破されました、とマイゼークに伝えてやれ! どのみちおれは、エツェントゥーどののお墨付きを貰っているんだ。……なあ、嫌味ったらしいマイゼークのせがれさん! この試練が終わったら、今度は同じ立場で――“炎の司”としてお前に会ってやるよ!」
余計なことを言わないの、とウィムリーフのたしなめる声が背後から聞こえてくる。
ジェオーレにはもはや怒声を張り上げるほか為すすべがない。世界が色褪せてから自然の持つ力が弱まった。龍人の飛ぶ姿を見かけなくなったということは、おそらく“司の長”の命令で飛ぶことが禁じられているのだろう。ジェオーレは追ってくることはなかった。かりに追うことが出来たとしても、“風の司”ウィムリーフに敵うはずもないだろうが。ジェオーレは苦しみ紛れに攻撃を仕掛けてきた。吊り橋を阻んでいた炎の壁が大きな火の玉へと姿を変えて二人に襲いかかった。ウィムリーフは、ミスティンキルの大柄な体を抱きかかえたまま、いともたやすく避けてみせ、さらには風の力を用いてその火球を吹き飛ばしてしまった。
「まったく、無茶するわねえ! ミストも、あたしもだけれどもさ。……こうなったらどうあっても“炎の司”となって、しかも色を元に戻す方法を龍王様から聞きだして帰ってこなきゃね!」
背中越しに聞こえるウィムリーフの声は、やけに楽しそうだ。底意地の悪い守人に一泡吹かせて気が晴れたのだろう。
ウィムリーフは光の玉を消すと、精神を集中させるために一つ二つ大きく呼吸を繰り返す。と背中から、夜の闇をも照らすように白い光が煌めく。
時折輝く翼を広げたウィムリーフに抱きかかえられ、赤目の若者は雄大なデュンサアル山を見た。今また山腹からちろりと炎の舌が姿をのぞかせた。
◆◆◆◆
風をかき分け、空を疾駆する。
デュンサアルの大きく黒々とした山容がぐんぐんと迫ってくる。
みたび、山腹のとある一点から炎の柱が上がるのが見えた。ウィムリーフもそれに気づき、自分達を呼び寄せるように立ち上るそれに向かって、見えない翼を羽ばたかせるのだった。
炎に誘われるまま、彼らは空き地へと降り立つ。すると二本の石柱から炎がすうっと消え失せた。そのものが意志を持っているようなこの炎は、アリューザ・ガルドの産物ではないだろう。次元の狭間を通り越して“炎の界”から流れ込んできているに違いない。
「ありがとうよ、ウィム。重くなかったか?」
「重かったわよ! 大柄なあんたを運ぶのは骨が折れる仕事なんだからね」
そう言いつつウィムリーフは興味深そうに柱をまわり、冷たくなった石の肌をべたべたと触っている。夜の闇に覆われているために周囲の情景が把握できないが、空き地には二本の柱以外めぼしいものは何もないようだ。そしてこれこそが“炎の界”へと通じる扉に他ならない。
ミスティンキルは、ここで自分達が何をすべきなのか、分かっていた。エツェントゥーから聞いた言葉にしたがって、彼は二本の柱の中央に立つ。ウィムリーフも彼の横に並んだ。
「ウィム、覚悟はいいか? いよいよ行くぞ」
自分自身の声がやや震えているのが分かる。物質界であるアリューザ・ガルドとはまったく様相を異にする異次元に転移しようというのだ。恐怖、不安、期待。様々な感情が織り混ざる。
「……いいんだな? 帰ってこられないかもしれない」
「ミストの力をもってすれば、大丈夫。試練に打ち勝つことが出来る。あたしが保証するわ」
差し出されたウィムリーフの手を堅く握ると、いよいよミスティンキルは覚悟を固め、ことばを発した。
【デュレ ウンディエ ゾアル イリリエネキ】
それは龍の言葉。放たれる音そのものが魔力を持ち得るという、太古の言語だ。言葉を放つと同時に、柱の石の裂け目から炎が吹き出して石柱全体を赤々と包み込む。視界が歪に曲がり、アリューザ・ガルドの情景が徐々にうっすらと消し去られていく。
――我赴かん、イリリエンのみもとに――
柱の頂から炎が高々と立ち上ったその時、二人の姿はかき消えた。
(三)
まことを語るただひとつの歴史書には、このように記されている。
幾百万の昼夜をさかのぼってもまだ足りないほど太古のこと。
原初の世界には“色”という概念そのものがありえなかったという。
暗黒と、漠然とした白のただ二つのみが存在していた、と歴史は語り継ぐ。
殺伐とした原初の世界を統治し、幾千年に渡って栄華を誇っていたのは古神といわれる荒くれる神々達。だが彼らは始源の力、つまり強大な“混沌”の力の氾濫によって滅びの時を迎え、その後アリュゼル神族に取って代わられた。
アリュゼル神族は、もともとは古神達と時を同じくして原初世界に誕生したのだが、世界の果てへと飛び去ってしまった。諸次元の彷徨の果てにふたたびこの世界へ復帰したのだ。
そしてアリュゼル神族とともにこの世界へと流入してきたものこそが、“色”。
魔力そのものを内包する“原初の色”だ。世界の新たな構成物であるこれら原初の色は、いくつもの帯状となって空を包み込むと互いに絡み合い、無数の色を織り上げていく。やがて原初の色は万象事物へと染みこんでいった。それまで無機質だった世界は、無数の色をして美しく彩られるようになったのだ。
これがアリュゼル神族により創られる世界――アリューザ・ガルドのはじまりとなる。
“炎の界”が、物質界アリューザ・ガルドと繋がるようになったのは、アリュゼル神族によって世界創造が行われているさなかであった。
次元の隔壁を飛び越えてアリューザ・ガルドに顕現した最初の龍こそが、美しい深紅の巨躯を持つ龍王、イリリエンである。
アリューザ・ガルドに現れた龍王は、アリュゼルの神々にこう申し立てた。
【各次元へと繋がる門――“次元の扉”を解き放たれよ。さすれば事象界は地上と近しい存在となり、火が、水が、大地が、そして風が、この地にさらなる祝福と癒しをもたらすのだ】
イリリエンの言葉どおりにアリュゼル神族は次元の扉を開け放った。これによって火・水・土・風の事象界はアリューザ・ガルドと密接に繋がるようになった。“炎の界”の住人であった龍の多くも、物質界目指して飛び去っていった。
世界に関するすべての原理が整ったアリューザ・ガルドでは、アリュゼル神族が最後の創造を行った。人間の創造である。
水の加護を受け、森と共に生きるエシアルル、空を駆ける風を力とするアイバーフィン、大地に息づく力――龍脈を感じ取るセルアンディル(のちのバイラル)。彼ら三種族がアリュゼル神族によって創造された。だが火は――すでに龍達が司る事象であったために、火の加護を受ける人間は創造されなかった。
しかし意外なことに、孤高の存在であると思われた龍達の一部は人間に大きな関心を寄せ、また人間の生き方に憧れたのだという。彼らはおのの叡智を結集して人化のすべを形成し、人間となった。
炎の加護を受けるドゥローム族とは、人化したドゥール・サウベレーン達の末裔なのだ。
アリューザ・ガルドでは四種族によって人間の生活が営まれていくことになった。
それから歴史は数々の激動とともに幾星霜を重ね、現在に至ることになる。
◆◆◆◆
火という事象そのものの発祥の地であり、龍達の生まれ故郷である“炎の界”。
そこに今、新たな訪問者が流入してきた。ミスティンキルとウィムリーフ。彼らは見事に次元の壁を飛び越えて、“炎の界”への転移を果たしたのだった。
ゆらゆらと舞うようにして、二人は炎の中に佇んでいた。人の姿から、<赤>と<青>という色の固まりへと姿を変えて。
(四)
見えるもののすべては、陽炎のごとく揺らめく赤と橙。つまり火という事象。
深淵の縁から先の見えない天上に至るまで、この広大な空間はひとつの大きな炎によって占められていた。まさしく“炎の界”である。
物質界に生まれた者が“炎の界”を見たとき、それまでの自身の常識に照らし合わせて、こう考えるかもしれない。
この奇妙きわまりない世界には大地が存在するのか? はたまた空間の果てが存在するのか? と。
距離の概念というものは、この世界においては重要な要素ではないのだが、それを理解するに至る人間はほぼ皆無だろう。だが事象界へ入ろうとする者は、理解の範疇を越えるさまざまな出来事を、この世界の理として受け入れなければならない。
「あり得ないことだ」という拒否の意志をあらわにした時、事象界はその意識を拒絶する。拒絶に陥った人間の意識は、運が良ければ事象界からはじかれて物質界へと送還されるだろう。が、運が悪ければ物質界へ帰還できずに、意識の尽きるまで次元の狭間を漂うか、そうでなければ意識そのものを事象界に融かされてしまうだろう。その行き着くところは、死。
では、今この世界に現れた二つの意識はどうだろうか?
抽象的な世界の様相は瞬時に変貌を遂げる。それまでゆらゆらと緩慢にたちのぼるように揺れ動いていた炎の空間は、激しく立ち上る業火のイメージへとたちまち趣を変えた。
だが炎に包まれているというのにまったく熱さを感じない。そして一切の音はない。
絶えることなく揺れ動く炎と静寂とに支配された幻想的な空間。これが“炎の界”の本質であった。
炎の舞い上がるさまにあわせて<赤>自らも空間をふわふわと漂っているのが分かる。しかし、本来持ち得ていたはずの浅黒い手足が視覚できず、さらには体の重さの感覚すら感じ取れないというのは不自然きわまりない。だが<赤>はこの事態を当たり前のものとして認識した。ここは、アリューザ・ガルドとは異なった原理が支配している、と理解したのだ。
龍人ミスティンキルの意識は、純粋な赤を有する雲のような固まりとなっていた。赤い固まりは大きさにすると、人間の頭ほどにあたるのだろうか。だが内部にはたぎる力が凝縮されているのが感じ取れる。これこそが自身の持つ、まったき赤い魔力そのものなのだろう。
そして自分のすぐそばを飛び回っている青い球は、自身の恋人の意識体だ。留まることなく色を変える炎の中にあっても、なお鮮やかに見えるこの<青>もまた、<赤>と同等の大きさを持っている。そして快活な気性をあらわすかのように跳ねまわり、姿を真円にまた楕円にと頻繁に変貌させていた。先に意識を覚醒させていた<青>は、<赤>がようやく目覚めたのを喜ぶかのように<赤>の周囲を弾んでみせた。
二色の意識体は荒れ狂う炎の流れに任されるまま、しばらく空間を漂っていた。深淵から突き上げてくるような激しい業火はやがて収まり、ちろちろとくすぶるような炎へと移り変わった。同時に、天上の空間からは太陽を想起させる色を持った、赤白い炎が滝のように流れ落ちてくる。その大瀑布がもたらす眩さは“炎の界”全域を明るく照らし出した。すると今まで濁り淀んでいた周囲の空間が徐々に澄んでいき、はるか遠方の領域まで見渡せるようになった。
空間の至る所には、赤水晶のように煌めく球体が浮かんでいた。その大きさはまちまちで、一軒の小屋程度のものから小高い丘を覆うほどに大きなものまで様々だ。それら球体は硬質な固体ではない。炎が凝縮して作り上げたものだ。
近くにあった球の一部分が内側から盛り上がると、なにやら白く細長いものが現れた。<赤>にとってそれは生まれて初めて目にするものだった。ドゥール・サウベレーンだ。
その白いドゥール・サウベレーンは、龍としては小柄なのだろう。すらりと細い体をしており、球から抜け出すとすぐさま巨大な翼を広げて飛び去っていった。
この球体は、“炎の界”に住む龍達の住居なのだ。よく見ると、炎の空間の中に何匹かの龍達が飛び交っているのが分かる。
だとすると、遙か向こうにひときわ大きく見える球体は――。
海に落ちるときの真っ赤な夕日を連想させる、あの巨大な球体こそが、世界の中心に位置するものであることを<赤>は悟った。また同時に炎の王イリリエンがいるという気配も。
次に<赤>は思った。“炎の界”で自分が受けるべき試練というのは、一体いつから始まるのだろうか、と。“炎の界”への行き方についてはエツェントゥー老から詳細を聞いていたのだったが、こと試練の内容については一切聞かされることがなかったのだ。
試練の事を<青>に語ろうかと思案したものの、静寂が包むこの世界で会話という行為そのものが成立するのか訝しかった。
その時。音なき声が届いた。
この声は空間を響かせて到達するものではなく、<赤>の意識下に直接語りかけてきたのだ。
【……アリューザ・ガルドの住人か。炎に焼かれることなくよくここまでたどり着いた。自身の姿を想起し念じればいい。そうすれば物質界本来の姿が映し出される】
声は龍の言葉で語りかけてきたが、周囲には何者も存在しない。この声は<青>にも届いていたらしく、今は鞠のように跳ねるのをやめ、動きをとどめている。ここは姿なき声に従うべきだろうと<赤>は考えた。
<赤>と<青>が念じると、二つの色は瞬時に人間の姿を象った。赤い装束をまとったドゥロームと青い衣装を着たアイバーフィンの姿へと。
◆◆◆◆
物質界と同様の姿で、ミスティンキルとウィムリーフは炎の中に立っていた。足下に地面と呼べるものはないが、確かに足場は存在しているようだった。
ミスティンキルは自分の手足を見た。それは見慣れた自分の体に他ならないが、やはり物体的な感覚を把握できないのはもどかしかった。手足を触ろうにも空気のようにすり抜けてしまう。
ウィムリーフの黒く染めてあげていたはずの髪の色は、きれいな銀髪に戻っていた。事象界にあっては、事物はその本質のみを映し出すのだろう。
そして彼女の背中にあるのは、二枚の優雅な翼。白い羽根が輝いて映える。アリューザ・ガルドでは目にすることがかなわなかった翼は今、明らかな「かたち」を伴って顕現している。こうして見ると、アイバーフィンが“翼の民”を名乗っているのもうなずける話だ、とミスティンキルは思った。“天界”の御使いとは、おそらくこのような翼を持っているのではないか。そう思えるほどに、彼女の背中に生える純白の翼は神々しさを感じさせるものであった。
そしてウィムリーフは驚いたような顔でミスティンキルの背中を指さした。
ばさり。ここがアリューザ・ガルドであれば明らかにそのような音がしただろう。ミスティンキルは背中に異質感を感じて首を後ろに向けた。
そして彼は目を丸くする。
ミスティンキルの背中にあるものもまた、翼だった。彼が背中に生やす黒い翼は、アイバーフィンの白い羽根とは違い、猛き龍の翼である。試練をこれから受ける身だというのに、なぜ翼を有しているのかミスティンキルは分からなかった。ウィムリーフは生まれながらにして翼を有していたと言うが、ミスティンキルの出自はそうではないことを知っている。
【見事。赤きドゥローム、お前は試練を乗り越えたのだぞ】
今度は間近から、音を伴って声が聞こえた。その低い声は先ほど意識下に届いた声と同じものだった。
二人の目の前で炎の空間が揺らめき、とぐろを巻いて歪む。その中から何者かが出現しようとしている。ミスティンキルは一瞬、歪んだ空間の中に蒼い龍の巨躯を見たような気がした。
とぐろが消えて空間が元に戻ったとき、そこには一人の人物が佇んでいた。その“彼”の風貌を一目見て、ミスティンキル達は思わず身構えた。
ミスティンキルと同じような背丈を持つ“彼”は白い長衣を羽織り、帯を締めた腰の左右には一振りずつの太刀が収まっている。
しかしミスティンキルが警戒した理由は、“彼”が武器を持っているからではない。“彼”の容姿が、人間とは根本的に違っていたからだ。
頑丈な蒼いうろこに覆われた四肢。手足に生えた鋭い爪。そして顔つき。それらすべてがドゥール・サウベレーンの姿そのものであった。一本の金色の角を頭の頂点にいただいた巨大な蒼龍こそが、彼本来の姿なのだろう。
だが今は、蒼龍は人間大の姿へと変貌し衣をまとい、二本の力強い後ろ脚のみで立っていた。
【“炎の界”の中心部まで人間が訪れたのは実に久しい。よくここまで来たものだ】
龍頭の衛士は右手を挙げて、敵意がないことを示した。
【そう怯えなくてもいいだろう? わしの姿が怖いか? ……わしは守護者アザスタン。龍王様に仕える者よ】
アザスタンはそう言って、細長い金色の目をさらに細めた。
第四章 龍王イリリエン
(一)
龍。
その風貌は、巨大なトカゲが大コウモリの翼を得た姿を連想させる。しかし、龍を獣として捉える人間はアリューザ・ガルドにいない。龍は生けるもの達の中でも超越した存在なのだから。
無双の猛々しさと膨大な魔力、深遠たる知性を所有する龍にかなう人間など、数少ない例外を除いてありはしないだろう。太古の時分から現在に至るまで、龍とはまさしく畏怖と驚異の象徴なのだ。
龍は孤高の存在であり、生まれ故郷の“炎の界”にあっても、またアリューザ・ガルドにあっても、他の者を寄せ付けることなくひっそりと棲んでいるという。しかし、彼らは世の中に背を向けているわけではない。冥王降臨の折りに“魔界”に攻め入ったり、魔導師に協力してラミシスの魔法障壁を打ち破ったりと、情勢によっては率先して動くこともある。
龍の姿態に酷似した生物として竜が存在する。“龍もどき”とも言われるこの巨大な化け物は、人に害をなすものとして恐れられている。獣達の長として認識されるのがゾアヴァンゲルだ。しかし、ゾアヴァンゲルは所詮獣の域を出る生物ではない。
古来より、竜殺しの勇者を讃えた伝承は世界中に数多く伝わっているが、龍を倒した者となると皆無に等しい。龍はよほどのことがない限り人間に危害を加えるようなことをしないし、そもそも龍の強大さを一介の人間と比較しようとすること自体、見当違いも甚だしいというものだ。
龍の体内には灼熱の炎が宿っているという。この炎が、自身の魔力の産物なのか、それとも“炎の界”から転移されてくる異次元の炎なのか、それは定かではない。確かなのは、激昂した龍の放つ業火に巻かれれば一巻の終わりであるということだ。
龍達の語ることには注意を払わなければならない。龍の言葉そのものに魔力が込められているために、何も警戒しない人間が接すれば、たやすく虜となってしまうだろう――。
◆◆◆◆
その驚異の存在が“炎の界”の空間を飛び交っている。そして何より――人間大の姿に化身しているとはいえ――自分達と対峙しているのだ。
【そう怯えなくてもいいだろう? わしの姿が怖いか?】
龍の衛士アザスタンはこう言った。はた目にはわずかに震えているようにも見えるのだが、それは龍を目の前にして気圧されたためではない。
“炎の司”という確固たる地位を手に入れること。
龍という存在そのものになること。
九ヶ月前に旅を始めてからこのかた、ずっと待ち望んでたときがいよいよ訪れようとしていることを知ったミスティンキルは胸が詰まる思いだった。
だが一方で彼は内心首をかしげるのだ。
(ひょっとして、おれの願いの一つというのは、すでに叶っちまったんだろうか?)
この龍、アザスタンは【試練を乗り越えた】などと言ったが、試練などいつ受けたというのか、ミスティンキル自身には全く身に覚えがなかった。だが、彼の背に生える龍の翼こそ、炎の司であることのれっきとした証拠に他ならない。
ウィムリーフは、というと――龍という希有な存在を目の当たりにして、冒険家としてこの上ない願いが実現したことに格別の思いがあるのだろう、彼女の喜びようが見て取れるようだ。
「怖がるなんてとんでもない! ドゥール・サウベレーンとこうして話すことが出来るなんて、それこそ夢が叶ったというものだもの……あ、あたしはウィムリーフ。で、こちらがミスティンキルです。見てのとおり、アイバーフィンとドゥロームの組み合わせなんだけれど、おかしなものでしょう? でもあたしたちはこの半年近く……」
ウィムリーフは頼まれもしないのに、早口で衛士に語りかけた。緊張しているわけではない、が舞い上がっているのは一目瞭然だ。たぶん彼女は吟遊詩人の伝承に出てくる英雄達のことを想起し、それらを今の自分に投影しているに違いない。
普段の彼女らしくなく、声がうわずって聞こえるのが、かえってほほえましくも思えるのだが。
そんなウィムリーフの様子に苦笑しながら、ミスティンキルもまた声を発した。
この二人の適応性は大したものだといえる。静寂なこの空間にあっては音を発すること自体が出来ないものだと思って当然なのだが、彼らは自らの声を音を伴って発しているのだから。
「ウィム、落ち着けって。今からそう興奮してどうするんだよ。おれたちはこれから、イリリエンに会おうっていうんだぜ? そんなことじゃあ龍王を前にしたとき、ひっくり返っちまうだろうに」
【龍王様に会う、と?】
ミスティンキルの言葉を聞いたアザスタンは即座に反応した。
「ああそうだ。おれは龍王にお目にかかりたい。ぜひ、訊いておきたいことが……いや、訊かなきゃならないことがあるんだ」
ミスティンキルの頭に浮かんだのは、旅商達やエマク丘陵に住むドゥローム達の不安な面持ちと、狭量な“司の長”達が差し向ける蔑みのまなざしだった。
“色が褪せる”というアリューザ・ガルドの異変を解決するのは、ことによると自分なのかもしれない。高慢と同情、期待と不安という複数の感情がミスティンキルの心中に折り重なる。
【ふむ。ならば、わしについてくるのだ。龍王様もお会いくださるかもしれぬ】
龍は、必要なこと以外の言葉を発しないという。アザスタンはそれだけ言い放つと、身を翻して翼を広げて飛び立った。それまで龍が立っていたあたりの炎が、風に巻かれたかのように揺らめく。アザスタンはかなりの速さで滑空しているのだろう。見る見るうちに姿が小さくなっていった。向かう先は、きらきらと赤い輝きを放ちながら宙に浮かぶ巨大な球体。やはり思ったとおり、あの中にイリリエンがいるのだ。
ぽつんと取り残された格好となった二人にアザスタンからの言葉が届いた。
【ついてこい、と言ったぞ。……じきにこの周囲は嵐に巻かれる。炎に飲み込まれ、世界の彼方にまで吹き飛ばされたくなければ早くすることだ】
「ま、待ってよ! さっきあなた、試練を乗り越えたって言ったじゃない? あれはどういうことなの? 試練があったなんて全然分からなかったのに!」
ウィムリーフもまた、ミスティンキルと同じ疑問を持っていたのだ。あたふたとしつつ、銀髪の娘は翼をはためかせて蒼龍の後を追い、答えを聞き出そうとした。が、当のアザスタンは言葉を返すことなく王の住まいへと、ただまっすぐ向かうのみ。
あとに残ったのはミスティンキルひとりとなってしまった。
「あいつ、ひとりで浮かれてやがるなぁ」
やれやれと、黒い翼を広げて彼もまた宙に舞った。今まで自分の力で飛んだことなどもちろん無い。そのために、空を飛ぶことについてかすかな違和感があったが、じきに消え失せた。背中に得た龍の翼は思うままに羽ばたき、飛んでくれる。もはや自分の体の一部なのだ。
試練に打ち勝ったドゥロームは龍の翼を得て、今や炎の司となった。
そういえば――。
炎をかき分けて飛びつつ、ミスティンキルは漠然ながら“試練”のことを思い出していた。確かに自分は試練を受けたのだ。
アリューザ・ガルドからこの世界に転移したとき、つまり<赤い思念体>を象って炎の界に顕現したとき、この世界の炎達は激しい業火となって自分達に襲いかかった。あれがおそらくは試練だったのだろう。あのとき自分は抗うことなく、炎に身をゆだね、また一見不条理とも思えるこの世界特有の理を、ごく当たり前のものとして受け入れた。
その瞬間、炎の理はミスティンキルの知るところとなり、炎の力は彼のものとなった。それを経ているからこそ今、自分達は“炎の界”の中心部に存在出来ている。ミスティンキルはそう悟った。思う間もなく試練を乗り越えてしまったことにいささか拍子抜けしながら。
だが、ふつうのドゥロームであればもっと長いこと試練に苦しみ、その果てに理を掴むものなのだ。しかし、この赤い力の持ち主はいともたやすく試練に打ち勝った。それもまたミスティンキルが元来持っている力の強さ故であるのだが、当の本人はまったく気づいていない。
ようやくミスティンキルは、先行していたウィムリーフに追いついた。みるとウィムリーフの息はやや上がっているようだ。空を自在に舞う彼女にしては、らしくない。ウィムリーフは、ミスティンキルのそばに寄ってきた。
「あれ……不思議ね。今まで暑くてたまらなかったのに、あんたが来たとたん涼しくなったわ。ミストは、飛んでいて暑くなかった?」
ミスティンキルがかぶりを振るのを見て、ウィムリーフはさも不思議そうに首を左右にかしげた。
再び、アザスタンからの声が届く。
【そのミスティンキル……からあまり離れないことだな。ウィムリーフ、おぬしは炎の試練を乗り越えて理を知ったわけではないのだ。今までこの世界でお前自身を維持出来ていたのは、ミスティンキルの守りがあったためだ。距離が離れればその守りも薄くなり、やがては炎に焼かれてしまう】
それを聞いたウィムリーフは目を丸くし、さらにミスティンキルに体を寄り合わせるのだった。
「そんな怖いことを淡々と言わないでよ! じゃあなに、今あと少しであたしの体は燃えるところだったっていうわけ? ちょっと、聞いてるの? アザスタン!」
【はっは……。龍に対しても怯むことのないその堂々とした言い様、わしは気に入ったぞ、アイバーフィンの娘よ。……まあ、ぬしの言うとおりだ。お前がいくら風の王じきじきの加護を得ているからといって、炎の世界を見くびると痛い目に遭うというもの。それを心に留め置くのだな。だからこそ、わしも前もって注意しなかったのだ】
それを聞いたウィムリーフは、むう、と一言唸った。
「あたしとしたことが、すっかり増長しちゃってた、なんてね……。それに、あたしの力はやっぱり、ミストには敵わないのか……」
ウィムリーフにしてはめずらしく自嘲気味に言った。その表情にはややかげりすらも伺えたがそれも一瞬、ミスティンキルが知るいつもどおりの彼女へ戻った。
荒れ狂う炎の力が徐々に強まっていくのをミスティンキルは感じ取った。アザスタンがさきに言ったとおり、じきに嵐がやってくるのだろう。ミスティンキルは、ウィムリーフに一声かけると飛ぶ速度を増した。
深紅に煌めく水晶球の威容が近づいてくる。
◆◆◆◆
黒い翼を得た赤い力の使い手と、白い翼を羽ばたかせる青い力の持ち主はともに横に並んで宙を疾駆し、龍戦士の後を追っていた。ちらと後ろを振り返ると、先ほどまで自分達がいただろう空間には、ふつふつとたぎる溶岩を思わせる重厚な炎の塊が出現していた。その塊は飴か粘土のように空間一面に拡散すると、質量をまるで感じさせないかのように激しく吹き荒れた。飛び立つのがもう少し遅ければ、アリューザ・ガルドではおよそ想像もつかない、あの異様な嵐に飲まれてしまっていたのだろう。
前方、彼らの視界には、いよいよ眼前に迫ったイリリエンの住まう球体のみが映る。ミスティンキルの故郷であるドゥノーン島が、丸ごと球の中に収まってしまうかのように思えるほど、途方もなく大きい。遠くから見たときは分からなかったが、この深紅の太陽は完全な球体ではなく、多面体のように表面が削られているように見える。その表面のあちらこちらでは、赤や橙、はたまた白など色とりどりの炎がとぐろを巻き、時折高々と火柱を突き上げると、そのたびに球体の面は光り輝くのだった。
この球の近くには何匹かの龍が飛び交っていた。彼らは見慣れない人間達が来たことを察知すると、二人のすぐそばまでやってくる。いかつい龍鱗を持つ赤龍や、すらりとした体躯が美しい銀龍、さきほど会ったことのある小柄な白龍など、ひとくくりに龍と言っても彼らの容姿は様々だ。
ここの龍達には敵意を感じない。龍達はそれぞれ思い思いに二人の周りを飛び交う。その威風堂々とした様に、二人はすっかり魅了されるのだった。
ふとミスティンキルは、銀龍の大きな瞳と目があった。瞳の色こそ違えど、その瞳孔は縦に細長く切れている。――自分と同じように。おれもいずれ、このような龍の姿を持つことになるのだろうか、とミスティンキルは思った。
龍達の中でも一番の巨躯を持つ赤龍がアザスタンの横に並ぶと彼に話しかける。横に並ぶと言っても、たとえるのならば巨岩と大鷹ほど、彼らの大きさには差異がある。
【ドゥロームと、さらにはアイバーフィンとは! さても珍しいものだ。先ほどから龍王様がお待ちのようだが、こいつらを待っていたというのかな。アザスタン、お前は何か知っているのか?】
赤龍はしゃがれた低い声を発する。
【どうだろうか。かの方の心の内は、とらえどころがない炎そのものだ。あのドゥロームが龍王様に会いたいと言ったからわしはここに連れてきた。だが、今こうして力ある存在がデ・イグに顕現したというのは、何かしらの引き合わせなのかもしれんな】
【運命というものは私の関知するところではないが、それもまた楽しみなことだ】
龍達は謎めいた会話を交わし、そして赤龍は身を翻して去っていった。
そうこうするうちにアザスタンはとうとう球体の表面にたどり着いた。しかし彼は球体に降り立つ様子を見せず、また、飛ぶ速度を落とそうとしない。どうするのだろうかとミスティンキルが訝るうちに、龍の頭は球面に接触し――表面をすり抜けて中へと消えていった。
ミスティンキル達も少し遅れて赤い水晶球に到着した。今し方のアザスタンの様子を見ていた彼らは炎の壁の間際で滞空し、どうしたものかと互いの顔を見合わせる。
まずはウィムリーフがおそるおそる指先を壁に触れさせる。すると何の抵抗もなく、指先は壁の中に埋まる。
「面白い感じよ。ほら、お菓子の生地みたいにふわふわしててさ。……このでっかい丸全部がお菓子だったらすごいわよねえ?」
「こんなふうにめらめら燃えてる菓子なんか、誰が食べるってんだよ」
ぶっきらぼうに言うミスティンキルは右の腕を壁に突入させる。すぐ横でウィムリーフが口をとがらせて不満を言うのを聞きながら。
「ふうん。生地、と言うよりはクリームだな、こいつは」
ついに肩口まで壁に埋まった彼は、簡潔な感想を漏らしながらはい出した。この球体には入り口らしい扉や穴はない。ならば、この壁から中に入るほか無いのだ。先ほどアザスタンがそうしたように。
ミスティンキルとウィムリーフは意を決して球体の表面に触れ、そのまま内部へ入っていくのだった。
この中ではイリリエンが待つという。龍王との出会いがもたらすものは果たしてなんなのか、二人の若者は知るよしもない。
(二)
柔らかな表面から球の中に入るとそこは、手を伸ばしたわずか先の空間すら見通せない、炎の濃霧となっていた。そばにいるウィムリーフの顔さえかすんでよく見えない。だが、躊躇している場合ではない。アザスタンは先にこの中へと飛び込んでいるのだし、何より龍王が待っている。二人ははぐれないようにと手を取り、固く握りしめると、赤い闇の先を目指して羽ばたいた。彼女の感触はやや質感には乏しいが、それでもこうして触れられるというのは、物質界での姿を強く意識し続けていたためなのだろう。
まるで雲の中を飛んでいるようだ、と真横からウィムリーフの声が聞こえる。その声色から、彼女は自分以上に気分が高揚しているに違いないとミスティンキルは思った。ウィムリーフにとって最初となるこの冒険行は、幾昼夜、机に向かっても書き足りないほどに貴重で、素晴らしい体験になることは間違いないのだから。
逆にミスティンキルは浮かれがちな気分を抑え、努めて冷静になろうとしていた。龍王と対面した龍人が、果たして何人いるというのだろうか! 高ぶる鼓動を少しでも静めるために、彼は大きく息を吐いた。
ようやく雲を突破したかと思うと、息つく間もなくまた眼前にはすぐ次の雲の層が立ちふさがっていた。幾層もの雲をかき分け、二人は疾駆する。
しかしいくら行けども果てが見えない。これは“炎の界”のあやかしなのではないか、はたまたこのまま球を突き抜けて外に出てしまうのではないか、と不安がつのり始めた頃、ようやく二人の眼前の視界が開けたのだった。途端、雷鳴のような音が二人の鼓膜を響かせた。どうやらここから先は、静寂に覆われていたそれまでの空間とは明らかに異なっているようだ。
ミスティンキルとウィムリーフはその場で滞空し、しばし空間の様子に――超常の景色に魅入った。
広大な球内もまた外と同じく、炎によって形成され、橙色に彩られた空間が揺らめいている。だがここには、“炎の界”には無いはずのものがあった。土・水・風の要素が確立され、存在しているのだ。
自分達が入ってきた場所以外の三方は、天上から底に至るまで白いカーテンが垂れているよう。だが、雷のような轟音を響かせるそれは、実のところ水によって形成されているのだ。はるか高みから轟き流れ落ちる、一面の大瀑布。滝底の様子は舞い上がる水煙に隠れ、ようとして知れない。
この空間を吹き抜ける風が、滝の轟音と水を周囲一体に運ぶ。時折風は強く吹き、ミスティンキル達のところにまで水しぶきを届かせるのだが、“冷たい“という確かな感覚があるのは、かえって不思議に思えるのだった。球内を炎が支配しているというのに、熱さはまるで感じないのだから。
中空には、岩山を得た島々がいくつか浮遊していた。島の間を時々走る閃光こそ、大地の力“龍脈”だ。これが島々を繋ぎとめ、浮かぶ力を与えているのだろうか。
大地の力は水・風の力と融合し、島々の至る所に樹木を育んでいた。その枝葉は炎に彩られるが、決して木が燃え尽きることなど無い。
四つの事象が融和したこの様相を、ミスティンキルは純粋に“美しい”と感じた。
そしてこの空間の中央には炎の柱があった。球のはるか底から吹き上がっているそれは、中空で枝分かれし、中心部を守るかのように覆い囲んでいる。その中心部では、周囲の炎よりなお燦然と輝く炎が繭状に燃えているのが、枝越しからも見て取れる。あれこそが間違いなく――。
【力ある者よ。はらからの子――エウレ・デュアよ。来たな】
繭の中から発されたのは力強い和音。奇麗な高音と打ち響く低音が折り重なるその音こそ、いと高き龍の声に他ならない。
そして炎の繭は四散し、中から深紅の龍が――龍王イリリエンが姿を現した。と同時に、圧倒的な存在感から生じる、凄まじい力が二人を襲った。
◆◆◆◆
古来より現代に至るまで、神々の姿をかいま見た人間はほんの一握りにしかならない。神と対峙し、かつ会話を交わした人間となれば、さらに。
イリリエンの放つ莫大な神気に気圧されて、ミスティンキル達はまったく身動きがとれなくなってしまった。だが、それだけでもましと言える。かの龍こそは太古より生きる龍の王、そしてアリュゼル神族にも匹敵する力の持ち主。心弱き者は姿を直視するだけで、魂を簡単に抜かれてしまうだろうから。
――龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか――
“司の長”ラデュヘンの放った言葉が、単なる侮辱ではなかったことをミスティンキルは思い知った。龍王に会うということは、それなりの決意が必要なのだ。
だが結果として、彼ら“司の長”が望んだところでイリリエンに会うことは叶わなかった。今、自分は出来た――。慢心ともいえる優越感が、頭をもたげようとしているのにミスティンキルは気づいた。それはある意味、痛快でもあった。“炎の界”は権威に寄りかかる長よりも、一介の漁師を選んだのだ。忌まわしいと言われ続けた、赤い力を持つ自分を。
「ようやくお出ましかい。龍王様」
ミスティンキルはぽつりとつぶやくと、ほくそ笑んだ。
だが。
【否。私は待っていたのだよ、同胞の子】
龍王はこのように言った。自分の些細な呟きが聞こえていたことを知り、ミスティンキルは驚いた。
【音として放たれた言葉は、多かれ少なかれ空間を揺らすということを知りおくのだな。ともあれ、苛烈な炎を乗り越えよくここまでたどり着いた。まさか風の司まで来ていようとは思いも寄らなかったものだが、嬉しく思うぞ。さあ、イリリエンのもとに来るがいい!】
イリリエンの言葉とともに、ようやく体の呪縛が解けた二人の前には、再びアザスタンが空間を渡って現れた。アザスタンは二人を先導し、龍王の御前まで行くと飛び上がり、龍王の頭の横で滞空した。
こうしてあらためて見上げると、イリリエンの巨躯にはやはり圧倒される。体は山のように大きく、アザスタンの龍戦士姿は、龍王の牙と同じくらいの大きさにしか見えない。
炎の繭を打ち払ったとはいえ、イリリエンの体には常時炎が取り巻いている。
ミスティンキルは、司の長の館で見た壁掛けを思い出した。長達が会議を行っていた部屋の奥にあった壁掛けの意匠は、炎に取り囲まれた雄々しい龍王が描かれていた。
しかし、イリリエンの醸し出す雰囲気は猛々しいだけではなく、優雅さをも兼ね備えている。
イリリエンの金色の瞳が二人をじいっと見つめ――龍王は声を放った。
【……私は力ある人間の来訪を待ち、デュンサアルの扉を介して呼び寄せようと試みていた。おそらくは、他の界の王達も同様に力ある者を呼び寄せていることだろうが、運命は私の方を向いていたようだな】
龍の発声の仕組みというのは明らかに人間とは異なっているようだが、いくつもの音を同時に発するイリリエンの声は神秘そのものを具現化したかのようだ。男声と女声が調和してひとつの音楽をなす合唱にも似ている。アルトツァーンのどこかの街で祭りが催されていたとき、そのような音楽を聴いたことをミスティンキルは思い出していた。
「ひとつお訊きして……よろしいのでしょうか?」
ウィムリーフの言葉に龍王は目を細め、肯定した。
「龍王様は、あたしたちが来ることを知ってらしたのですか?」
【名は……ミスティンキルにウィムリーフ、か。……今、ここにいるアザスタンから聞くまで、ぬしらの名前は知らなんだ。力を持つ者がデュンサアルに来ていたことのみ分かっていた。それがたまたま、ぬしらだったということだ】
イリリエンはしばし風の司の娘を凝視した。ウィムリーフもまた、龍王の瞳を見つめるが、緊張の極致にあるさまがうかがい知れる。息を止め、まばたきひとつしようとしない。
【……なるほど、風の王は、ぬしがこちらに来ていることを知ったら残念がるであろうな。ぬしが今、“風の界”に行っていれば、エンクィは間違いなくぬしに“使命”を与えたであろうに】
イリリエンは即座にウィムリーフの力のほどを見抜いたのだ。
「ありがとうございます。……こうして龍王様のご尊顔を拝したこと……それだけであたしはもう、胸がいっぱいです……」
念願叶ってイリリエンと会話が出来たことで、彼女は張りつめた緊張の糸がぷつりと切れたのか、くらりとバランスを崩し倒れてしまった。その体をミスティンキルは抱え上げる。
「龍王様。あなたならば知っていると思って……どうしても聞いておかなきゃならないことがあるんです」
いよいよ自分が出る幕なのだ、と考えたミスティンキルが口を開いた。心臓の音が頭に響いてくるかのようだ。
「今、アリューザ・ガルドでは変なことが起きているんです。こういうことを言って信じてもらえるか分からないが、世界の色が褪せている。草の色や空の色まで……。こんなことは今まで生きてきてはじめてで、周りの人間もどうしたらいいものだか途方に暮れてしまっている。……どうしてこうなったのか、どうすれば元に戻るのか、その方法を知らないでしょうか?」
「……あのね、ミスト。いつも言ってるけれど、説明するにしてもそれじゃあまりに言葉が足りないのよ。今さらどうこう言ってもしようがないから、あたしがあらためて……」
ミスティンキルの腕の中から彼を見上げ、いつもと変わらぬ様子でウィムリーフが諭しはじめる。またか、とミスティンキルは顔をしかめた。
【それには及ばぬ、“風の司”よ。我ら四界の王は、アリューザ・ガルドの情勢を見極めている。今、アリューザ・ガルドの色が褪せてきた原因も、それに対しなすべき手段も知っている。だが、我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ。四界の王が力ある人間の招来を願ったのは、なればこそ。使命を乗り越え、新しい流れを作るためである】
「だとすると、おれたちの手で、この異変を解決できるっていうんですか? どうやればいいんです?」
龍王の語る言葉は漠然としており、ミスティンキルはすべてを把握しきれなかったが、これだけはつかみ取った。どうやら本当に、世界の異変を正すのは自分達にかかっているのだということが。
【ことの発端は、封印された強大な魔法の力――すなわち魔導によるものだ。なればこそ、唯一のすべは、おのずから見えてこよう? これにより事態は収拾し、新たな運命が切り開かれて行くであろう】
龍王は言った。
【これは、力ある者だからこそ達成できることだ。……同胞の子よ。魔導を、解き放て!】
(三)
――魔導の復活こそが、色を甦らせる唯一の手段だ――
龍王イリリエンの言葉の意味するところが、ミスティンキルには理解出来なかった。
生まれてからこのかた、彼は本物の魔法使いに出会ったことがない。ミスティンキルが見かける魔法というのは、盛り場界隈のまじない師達があやつる“まじない”くらいなものだ。しかし、彼らの操る魔法はおしなべて拙く効果に乏しく、ミスティンキルからすれば“うさんくさいもの”でしかなかった。
かつて魔法の力は、今と比べものにならないほど強力だったという。
今より七百年ほど遡り、アリューザ・ガルドには強大な魔法体系――つまり魔導が存在し、時の魔導師達によって研究が進められていた。
だがある時、魔導を行使する源である魔力が制御できなくなり、膨大な魔力は氾濫を起こしてアリューザ・ガルドに壊滅的な打撃を与えた。これが世に言う、“魔導の暴走”だ。
状況を憂い、暴走を食い止めたのは、ディトゥア神族の中でも闇を司るレオズスだった。しかし彼は“混沌”という太古の絶対的な力に魅入られており、その力を利用し(一方では利用され)アリューザ・ガルドを恐怖でもって君臨しようと企んだのだ。だが宵闇の公子の野望は、三人の英雄によって潰え去った。
それ以降、魔導の体系はいずこかへ封印されて今日に至っている。
これくらいであればミスティンキルも聞き知っていた。とくに大魔導師ウェインディル達が卓越した魔法と剣の技を繰り出し、ついに“宵闇の公子”レオズスを倒すくだりなどは、吟い手が好んで唄う勲のひとつで、ミスティンキルも気に入っていた。
だがもはや“魔導の暴走”の災禍などは、遠く過ぎ去った大昔の事件でしかない。それ以上魔法に対して興味を見いだすこともなく、ミスティンキルは漁を営んできたのだ。
魔法に興味を持たない他の人間達と同様、魔法と色の相関関係などをミスティンキルが知っているはずもない。
だから今、イリリエンが与えようとしている使命に対して、「魔法なんて得体の知れないものなんか、手に負えない。出来るわけがない」と躊躇したとしても、それは仕方のないことなのだ。
しかし、ミスティンキルは違った。
彼はほんの一瞬だけ思考を巡らせると、こう答えるのだった。
「わかりました」
◆◆◆◆
「ええ?!」
ウィムリーフは、いとも簡単に承諾してしまった龍人の腕の中で驚嘆の声をあげた。彼女は起きあがるとすぐさまミスティンキルに対峙する。
「ちょっと待ってよ。……こんな大事をそんな簡単に受けちゃっていいわけ?! それとも魔導が復活すれば、なぜ色が元通りになるのか、理由をミストは知ってるの? あたしは知らないけど……魔導と色との間に関係があるというの?」
「そんな難しいことは分からねえ」
ミスティンキルは即座に言葉を返した。
「けれど、魔導を解き放つことしか世界の色を元通りにする方法がないってんなら、やってのけるしかないだろ。だいたい面白そうじゃねえか。おれたちが魔導を復活させた、なんていったら、それこそ歴史に名が残るに違いないぜ?」
明らかに彼は状況を楽しんでいた。炎の司となったうえに、龍王はミスティンキルのことを“力ある者”として認め、使命を与えようとしたのだ。
これに応えないわけにはいかない。ミスティンキルにとって躊躇うことなどみじんも考えられなかった。イリリエンから直々に認められたドゥロームなど、そうそういるわけがない! ひょっとしたら魔導の力すらも自分の手に入れることが出来るのかも知れないのだ。そうなれば、自分を蔑視しようなどとは誰も思わないだろう。
自分の赤い瞳が嫌忌の象徴ではなく、多大なる力の象徴であることを、はっきりとミスティンキルは自覚した。
(アリューザ・ガルドに戻ったら、まず絶対に故郷に戻ってやる! そして……見せつけてやる!)
鬱積していた感情はいまや払拭された。代わりに、少しばかりの高慢が現れたのだが、心の解放を感じ取っているミスティンキルがそれに気づくはずもなかった。
「……分からねえ……面白そう……」
ウィムリーフは言葉を反復する。明らかに呆れかえっているのが見て取れる。彼女はため息をついて、次に大きく息を吸い込んだ。過去の経験から、この次の言動およそどういったものになるのか、ミスティンキルには見当がつく。
そして、ミスティンキルの予測は違わなかった。
「ミスト! あんたはねえ、ろくに考えもせずに感情だけを突っ走らせて……そんな簡単に答えを出しちゃっていいと思ってるの?!」
感情を露わにして声を張り上げすぎたと思ったのか、ウィムリーフは声の調子をやや落とした。
「……だいたい、魔導を復活させるなんてそんな大それたこと、あたしたちがやり遂げられるかどうか、分からないじゃないのよ」
「じゃあほかに、どうすればいい? おれたちの力を見込んでるからこそ、イリリエンはおれたちに使命を与えようとしてるんじゃねえのか? 理屈なんざ、あとまわしだ。せっかく苦労してここまでたどり着いたんだから、あともう少し、やってやろうじゃねえか。……なに、おれたちならば出来る。そう信じようぜ」
【……さて、元気があるというのはいいものだが……龍王様を御前にしながら勝手に口論をはじめるというのは感心しないぞ】
上方からアザスタンが、珍しくもやや困惑した口調で言った。
【もっとも……蒼龍たるわしの炎を浴びてみたいというのなら、望みどおりそうもしようがな!】
アザスタンは急に声色を変えた。人間とそう変わらない大きさのはずの彼の姿が、ひどく恐ろしく大きなものに見えてくる。蒼龍のイメージが、二人の脳裏に浮かび上がる。
さすがに二人は喧嘩を取りやめた。ドゥール・サウベレーンの逆鱗に触れればどんな目に遭うのかは知らないが、無事では済まないことは確かだろう。
だが、イリリエンは鼻から火の息を漏らしただけで、大して気にも留めていないようだった。龍王は淡々と和音を重ねた。
【……“風の司”の問いに対しては、私が答えられる。それで納得し、ぬし達が使命を受け入れることを願う。魔導についての知識は必要ない。……私とて魔導のことはよく解さない。封印を解く者の器の大きさこそが重要なのだ。そしてぬし達は十分に力を――魔力を持っておるぞ。おそらくはぬし達でなければこなせないだろう。色の再生という使命をな】
龍王の言葉を聞いたウィムリーフは深々と頭を下げた。
「過分なお言葉を拝領し、ありがたく存じます。けれど、もう一つ教えていただけませんでしょうか? 魔法と色との関係について……。なぜ魔導の復活が、色の再生に関わっているのでしょうか?」
◆◆◆◆
イリリエンは金色の目を細め、二人を見下ろしながら語り始めた。
【魔力とは、人間のみが持っているものではない。アリューザ・ガルドの世界そのものも魔力に満ちているのだ。たとえば草木、岩、河川など、ありとあらゆるものに大小の差異こそあれ魔力が宿っている。――そしてこれこそ、世界の核たる摂理よ。これを理解している人間など、今の世にいるかどうか訝しいが。かつての魔導師達は、おのが魔力のみならず、これら事物に宿る魔力をも抽出し、術を行使していたようだ】
【そして魔法と色とは密接に結びついている。なぜならば色とは、魔力そのものを帯びているからだ。それはアリューザ・ガルド創造の折り、それまで色の存在があり得なかった世界に、いずこからともなく色が流入したことによるのだ。魔力を伴った“原初の色”と呼ばれる色の帯が互いに織り編まれていくことでアリューザ・ガルドは彩られ、魔力に満ちていった】
【創世の時が終わりを告げると、“原初の色”は事物の奥深くに隠れ、表層には現れなくなった。しかし依然“原初の色”は確かに存在する。“留まる色”と“流転する色”とになってな。“留まる色”は、事物の奥深くに内包されることで恒久的に魔力と色をもたらす。一方、“流転する色”は世界の深層部を流れている。そして“原初の色”を常に循環させて、事物に鮮やかな彩りを保たせているのだ】
【川の流れが止まれば、清流は濁ってしまうもの。同様に、“原初の色”の流れが淀んでしまえば、世界の色もくすんでしまうのだ。かつての人間が“魔導の暴走”を経て、力ある魔導を封じたのはいい。……が彼らはそれと知らず、“流転する色”をもせき止めてしまった。幾百年を越えた今、その影響が現れ始めたのだ。これが世界に起こりつつある異変の原因よ】
だからこそ、“原初の色”の流れの閉塞を解くためには、魔導を解放するほか無い。
龍王の言葉にウィムリーフは納得したようだ。
ミスティンキルはあとでウィムリーフに教えてもらおうと思った。龍の言葉はまどろっこしく、なかなか意味を把握できない。加えてべつに世界の構造についての説明を受けなくても、ミスティンキルは使命を受諾するつもりだったのだ。
「ではこのまま色あせたままだと、アリューザ・ガルドから魔力は無くなってしまうというのですか?」
ウィムリーフの問いかけを龍王は否定した。
【魔力の全喪失となれば、色の概念そのものが無くなることを意味する。幸いにもそのような事態には至っておらぬ。“留まる色”が依然存在し続けているゆえにな。――よって事態そのものは、世界を根本から揺るがす大事――破滅には至らない】
「けれども突然起きたこの異変のことを、人々は非常に恐れています。凶事の前触れなのかとか、何かの呪いが発動したのか、とか考えている人も多くいるようですし、あたしも不安でした。……不安が募った人間達によって、かえって大事が引き起こされる可能性というのも考えられます」
それを聞いた龍王は満足して、笑ったかのようにも思えた。
【ふむ、鋭い感性よな、“風の司”。ぬしの言うとおりだ。突如変容した事態をたやすく許容できるほどに、人間の心とは柔軟かつ強いと言えるか? それはぬしら人間であれば承知のことだろう】
人心が不安に陥れば、それを巧みに利用しようとする輩も現れるだろう。冥王降臨をとなえる崇拝者も出てくるだろうし、戦乱の世を望む野心に満ちた者も出てくるかも知れない。過去の歴史が証明しているように。
「そうならないためにも、おれたちが魔導を解き放って、世界の色を元通りにしてみせる!」
ミスティンキルは言った。
「なあウィム。こいつはとんでもない大冒険ってやつだぜ。やってみようじゃないか」
ウィムリーフはくすりと笑った。
「面白そう……か。さっきミストの言ったこと、確かにそのとおりかもね。ともあれまあ、冒険記の編纂にはだいぶ手間取りそうね……あんたにももちろん手伝ってもらうわよ」
「手伝えって……おれは、字の読み書きなんて得意じゃないぞ」
「あら、じゃああたしが教えてあげるわ。出来ないなんて言わせないからね。さっきから自信満々に言ってのけてるんだから、これもやってのけてちょうだいな!」
まず最初に故郷に戻るというミスティンキルの予定は、早くも崩れそうになっている。が、ミスティンキルも言い返すことが出来ず、観念するほか無かった。
小悪魔のように笑ったウィムリーフは次に畏まり、右手を胸に当てて龍王に誓った。
「わかりました、龍王様。この変事に際して、あたしたちは微力を尽くしたいと思います」
「……やるよ。龍王様」
やや意気消沈したミスティンキルが続けて言った。
【なれば今こそ、ぬしらが為すべきことを告げようぞ!】
龍王は高らかに声をあげた。
◆◆◆◆
【この周りを見てのとおり、我が宮殿には炎のみならず、風・水・土の界の力が集っている。なぜならそれは、三界とデ・イグとを繋ぐ“次元の扉”がこの宮にはあるからだ】
天上から流れ落ちる滝と、浮かぶ島々、そして吹き抜ける風は、“炎の界”では本来あり得ない存在だ。しかしこの球内に限っては、三界の事象が次元の壁を乗り越えてもたらされている。
【そしてそれ以外にも、いくつかの次元へ繋がる“扉”がある。力持つ若きエウレ・デュア《はらからの子》よ。“風の司”よ。私がぬしらに与える使命は、月に行き、その地に封印された魔導を解き放つことだ】
「月だって?」
ミスティンキルはあっけにとられた。
「あの、空に浮かんでいる月ですか?」
【アリューザ・ガルドの天上に浮かぶ星々とは、諸次元が放つ煌めきだ。この“炎の界”とて、アリューザ・ガルドから見れば煌々と光る星々のひとつなのだ。そして月もまた同じ。かの世界はアリューザ・ガルドと近しい位置に存在するため、ああも大きく見え、行き来も比較的たやすい。だからこそ人間は魔導をあの地に封印したのであろうな】
色のことや星のこと。その存在があまりにも当たり前だったために大して考えもしなかったことなのに、こうして聞く真実はあまりにも突飛なものだった。ミスティンキルもウィムリーフもぽかんと口を開けるほか無い。
「……書くことがまた増えたわ」
ウィムリーフの呟きが聞こえる。
「その月へ、どうやって行けばいいというんですか? アリューザ・ガルドに戻って、おれたちの翼で飛んで行けとでも?」
ミスティンキルが問いかけると、龍王はその雄大な二枚の翼を大きく横に広げる。と、翼からは竜巻のような螺旋を巻く炎が出現した。その炎は肥大化し、ミスティンキル達を包み込んだ次の瞬間、辺りの景色は一変した。
美しい遠景は今までどおり変化はなかったものの、ミスティンキル達を取り巻く赤い情景は消え失せ、かわって一帯は暗黒の空間と化した。
アリューザ・ガルドの奇麗な夜空を想起させるこの空間は、実のところ宇宙そのものと繋がっているのだろう。数え切れないほどの星々が全天に姿を見せている。これらすべてが他の次元の世界の放っている煌めきだというのだ。
真上を見上げると、ちょうど天頂にあたる部分に一つの門が出現していた。壮麗な二本の柱によって象られたその門は淡く銀色に輝いている。――月そのものを彷彿とさせるような、神秘的な色だ。
【この扉を越えれば月の世界へと転移する。その際に唱えよ。『ナク・エヴィエネテ』とな。……心の準備が出来たのなら、飛び立つがいい。あの地からアリューザ・ガルドへ戻るすべは、月に住む“自由なる者”が知っている】
ミスティンキルは思い出した。時は今しかない。ミスティンキルに残されたもう一つの願いを果たすには。
「イリリエン、今ひとつ聞きたいことがあるんです。このおれが、龍の力を持つことは出来るでしょうか?」
駄目でもともとと割り切り、ミスティンキルは龍王に問いかけた。
【ほう。龍化の資格をも求めるか、エウレ・デュアよ。まったき赤を身に有するミスティンキル……】
恐ろしいまでの低い声が鳴り響いたかと思うと、空間からはウィムリーフとアザスタンの姿は消えていた。ただ、ミスティンキルとイリリエンの姿のみが、暗黒の宙に浮かんでいた。
(四)
星々が瞬くこの空間に在るのは、ミスティンキルと龍王の二者のみ。月へ向かう門も消え失せて、そして銀髪の彼女も――。
ミスティンキルは、今まで高揚していたおのれの気分が急に醒めていくのが分かった。それは、あるべきはずの存在が無いことに対する憂いのためだ。
ウィムリーフ。
時には口やかましくも感じられる彼女が――常に一緒にいたはずのウィムリーフが、姿を消した。この空間の暗がりのどこかに隠れ潜んでいるわけではない。
彼女の気配が全く感じ取れない。それは、彼女と出会ってからの五ヶ月間で、全く思いもつかないことだったし、おそらくこれからも彼女との旅が続くものと思っていたというのに。
「ウィムっ! どこに行ったんだ?!」
ついにたまらず、ミスティンキルは声を周囲に響かせるが、快活で暖かみのあるあの声を聞くことはなかった。ミスティンキルの表情はこわばり、胸中は不安と焦りとによって苛まれ、沈んでいく。
そんな彼の様子を知ってか知らずか、龍王は彼を見下ろしつつ、相も変わらず威厳のある不可思議な声をわんわんと響かせるのだった。
【“炎の司”の地位ではもの足りず、さらに龍化をも望むか。たしかに、ぬしは強い力を秘めている。まったき赤という純粋な“原初の色”、強大な魔力をな】
「ウィムは……ウィムリーフは、どこに行ったんです? さっきまで、ここにいたはずだってのに」
【ふむ、気づいたか。龍化の試練に際して、他者が介在することは望ましくない。だからあの娘はここにはいないのだ。……どこに行ったのか、ひどく懸念しているな?】
深紅の龍イリリエンは言葉を止め、黄金に輝く両の瞳でミスティンキルを凝視した。心の奥底までも貫くような視線に対してあくまでも抗うように、ミスティンキルは毅然とした表情をあらわし、龍王の眼前まで飛び上がった。両者は目をそらすことなく、真向かいからお互いを見据える。
先に言葉を発したのは龍王だった。
【……アザスタンに命じ、あの娘には先に月の界へと赴かせた】
「なんだって?!」
龍王の言葉を聞いた途端、今まで隠していた感情を露わにし、ミスティンキルは龍王をにらんだ。
「だったらおれも、行かなきゃならねえ! 月へ行く門を出してください!」
ミスティンキルの切実な願いとは裏腹に、龍王は厳しい口調で言った。
【それはならぬ。エウレ・デュア《はらからの子》。龍化の試練を望んだ者が、自ら資格を放棄することは許されぬ。ぬしが龍となるに値する者かどうか、イリリエンが見極める。……だが、どうやら今のぬしには困難とみえる。そら、ぬしの心に渦巻いている感情は何だ? 孤独に対する恐怖か? 私に対する憤りか?】
図星をつかれたミスティンキルは顔をしかめた。
一方のイリリエンは、なおも問いかけてくる。
【さて、ぬしの持つ色がよう見えるわ。まことに赤き色を持つ者よ、ぬしは赤き色に何を想うのか?】
「おれにはそんなことよりも……!」
ミスティンキルは焦りと苛立ちを露わに返答した。
【今は私の問いに答えよ! ぬしは、答えなければならない!】
龍王は有無を言わさないほどの強い圧迫感を放った。龍の言葉それそのものに力があることを、あらためてミスティンキルは思い知るのだった。
重圧をまともに食らった若者の体は金縛りにかかり、まったく動けなくなった。出来ることと言えばただ、小さく舌打ちをして顔をしかめ、悪態をつくくらいのものだ。
この場に及んで龍王はなぜ謎かけなどをしてくるのか、ミスティンキルには理解できなかった。龍化の試練を早いところ終わらせる必要があるというのに。そしてウィムリーフのもとに行き、彼女の顔を見て、安心したいのだ。今の自分が滑稽なまでに狼狽しているのが分かるが、裏返して言えば自分にとって彼女の存在こそ本当に大事なものだったのだ。今、ミスティンキルにはそれがはっきりと分かった。
だというのにイリリエンは謎かけなどをして無駄に時間を長引かせているだけではないのか?
(邪魔者め!)
ミスティンキルは強い憤りを覚えた。
(赤い力に何を連想するのか、だと? それは……そう、激しく燃える炎だ! おれの持つ魔力を解放して、この偏屈な龍王様に一泡吹かせてやりてえもんだ!)
そう思った途端、ミスティンキルの全身から赤い輝きが放たれるようになった。身体の奥底に息づいている多大な魔力が現れようとしているのだろうか。怒りという激しい感情とともに吹き出す魔力は、さぞかし強烈な威力をもって発動されることだろう。司の長の館で魔力を顕現させた時と同じか、それ以上に。
「おれにとっての赤とは、炎だ。真っ赤に燃えさかる炎だ!」
ミスティンキルは宣言した。
◆◆◆◆
だが、そんなミスティンキルの心の奥底を射抜くような黄金色の瞳がきらりと輝く。
【……なるほど。ぬしにとっての赤とは業火に他ならないというのだな? そして炎をもって、おのが力がいかに多大なものかを示しさえすれば、この私に認められると思ったか】
龍王に心を読みとられたと悟ったミスティンキルは動揺するが、それでも小さく頷いた。
【甘いな。そもそも炎は、赤という事象の持つ象徴のひとつに過ぎぬ。それに龍化の試練は、ぬしが考えるような生半可なものではないと知れ!】
イリリエンは声をくぐもらせて笑い――次にその巨大な口を、ミスティンキルに向けてがばりと大きく開いた。巨大で鋭利な牙が並ぶ口内のさらに奥には、ちろちろと炎の玉が見え隠れしている。球状に凝縮されたその炎の色は赤ではなく、眩しいまでの白い輝きを放っており、尋常ならざる焦熱を宿らせているのに違いない。
つまり龍化の試練とは、龍王が放つ白色の炎に耐え抜き、そして打ち勝つことに他ならないのだった。そしてそれは、およそ並の龍人では到底、耐えうるものではないのだ。
かつて暗黒の神、冥王ザビュールがアリューザ・ガルドに降臨した折りに、イリリエンは龍達の先頭に立って“魔界”に乗り込みザビュールと対峙したという。その時に龍王の放った炎は壮絶なまでの光輝に満ちあふれ、ザビュールその人にこそ威力が及ばなかったものの、冥王直属の最高位の魔族すなわち天魔の幾人かを屠ったと言われている。
熾烈な炎が今まさに放たれようとしているのか――。
(……おれには敵いっこねえ!)
ミスティンキルは、自分が敗れ去ることを直感した。この暗黒の空間一帯が白一色の炎に覆われ、抗う時間すら与えられずに、自分の存在は跡形もなくなってしまう――死に至る情景がまざまざと脳裏に浮かび上がってくる。
そしてミスティンキルは悟った。
(だからなのか。ウィムリーフを先に行かせたっていうわけは……)
龍王の炎を浴びれば、自分のみならずウィムリーフまでが消え去る。それでは月の界へ行き、魔導の封印を解くという目的が果たせなくなってしまう。そしてそれは龍王の望むところではない。龍王は端から、ミスティンキルが試練に破れることを見越してウィムリーフを行かせたのだ。
(これで終いになるんだったなら、龍になるなどと思わなければよかった!)
ミスティンキルは絶望を覚えた。
(今のおれにとって、龍になることは高望みだったのか。そしてそのせいでおれは死んじまうっていうのか?! そんなのはいやだ、ウィム!! ……助けてくれ……)
【ならば、ぬしの願いは――龍化は果たせぬな】
龍王は口を閉じた。あたかも、ミスティンキルの痛切な心の叫びを聞き届けたかのように。
【ミスティンキルよ。お前自身は真の強さを持ち得ておらぬ。それではこの龍王の与える試練、つまり“蒼白たる輝焔”にはとうてい耐えられぬだろう。あの娘のことで心ここにあらぬ状態であれば、なおのことだ】
イリリエンはそう言って天を仰ぎ、鐘のような声を打ち鳴らして朗々と咆吼した。すると暗黒の天上からは月へと向かう門が再び姿を現した。
【ぬしが思い焦がれている“風の司”の娘に免じて、ぬしに戒めを与えるのはやめおこう。……風に護られし孤独の炎、赤のミスティンキルよ。月の界への扉をくぐれ。そこでぬしの相棒が待っている】
その時、ミスティンキルを縛りつけていた圧力がようやく解かれた。
「え……?」
予想だにしなかった龍王の言動だっただけに、ミスティンキルは戸惑った。訝しそうな表情を浮かべて龍王を見る。
「行っても……いいんですか?」
【今は、このイリリエンが龍化の試練を与える時ではない。先ほど言ったとおりな】
「真の強さとやらを、おれが持っていないから……? じゃあ、真の強さっていうのは?」
【それはぬしが、これから身をもって知るべきこと。私から答えを導き出すべきではない。……たしかに、魔力の強大さにのみ言及するのならば、ぬしの力は龍となるに十分値する。しかし、試練は先延ばしだ。これからのぬしに待ち受けているであろう運命をくぐり抜け、いずれぬしが強さを得たその時こそ、龍化は果たされよう】
それを聞いてミスティンキルは落胆したが、同時に安堵をも感じた。試練を受けることが出来なかったというのは悔しく、自分の至らなさには気落ちした。しかしそれにも勝る別の感情があったのだ。ほかでもない、ウィムリーフに再会できるという喜びだ。
波が退くように彼の感情が静まっていくにつれて、それまで身体に浮かび上がりまといついていた赤い力は、再び体内の奥底へと戻っていった。そしてそれと共に、かつて自分が交わした約束の言葉の一節を思い出した。
――ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな――
デ・イグに赴くにあたって“炎の司”達の館を訪れた際に、彼らとの間にいざこざが生じた。それを収めた司の長老エツェントゥーが、ミスティンキルに言った言葉であり、また約束事であった。
(エツェントゥー老……。どうやらおれは司の資格を得て、すっかりいい気になっちまっていたようです。これから魔導を解き放ってさらに力を得ることを夢見て……しまいには龍化だって簡単に出来る、そう思いこんでました。……おれは激しやすい。もっと、落ち着かなきゃならないのか……出来るのか、このおれに……?)
【真紅の魔力を持つミスティンキル。再び会う時を楽しみにしているぞ。さあ、今は行け。そして待ち受ける運命と対峙するのだ】
龍化が叶わなかったことに対して、ミスティンキルは後ろ髪を引かれる思いだったが、それでも思い直して答えた。
「また、来ます」
その表情は晴れやかだった。
ミスティンキルは翼をはためかせて飛び上がると、躊躇うことなく天上の門をくぐっていった。
(待ってろ、ウィム! おれも今から行くからな!)
こうして次元を跳躍するための“ことば”を放ち、ミスティンキルは転移していった。
◆◆◆◆
血気にはやる若者が門の向こうへと消え去ると、龍王の周囲の空間はゆっくりともとの姿に戻っていく。四界の事象が結集した、美しく幻想的な情景へと。
一息つくかのように、龍王は炎を帯びた息を鼻から吹き出すと、おのれの周囲に繭のような炎を形成し始めた。
しばらくのち、月と繋がる門の向こうから一つの姿が現れた。龍王に仕える戦士、アザスタンだ。彼は門から舞い降りると、イリリエンの胸先近くで滞空し、恭しく一礼した。
【ただ今、戻りました。“風の司”の娘ウィムリーフを、“自由なる者”イーツシュレウ殿のところまで案内しておりましたゆえ、少々遅くなりましたが。……あの赤目の奴はどうしました? 龍化を果たしましたか?】
蒼龍の戦士は言った。
【龍化は叶わなかった。しかしあれもまた今し方、月へと赴いていった。アザスタン、おぬしまた道先案内をつとめるか? おそらくミスティンキルは、門を抜けた先に娘が待っているものと思いこんでいるぞ】
いいえ、とアザスタンはかぶりを振った。
【あやつならばなんとかしてウィムリーフのもとにたどり着こうとするでしょう。どうやら、お互い引き合わせるような力を持つようですので】
イリリエンは目を細めて小さく息を吐いた。
【ほう。そこまで行動を読みとるとは、ぬしにしては珍しく人間に興味を示しているな。なぜか?】
【あの娘に触発されたためでありましょうか。相手が龍であるからといって怖じ気づかない態度は見上げたものです。それでありながら礼儀もわきまえている。あのアイバーフィンをたいそう気に入りました】
【ではミスティンキルはどうだ? あれは以前のぬしのことを想起させるほど似通っている。ぬしがはじめて我がもとに来た時を思い出すわ……】
【あやつなどは、どうでもいいことです。奴はものを知らなさすぎる。龍王様に対しても、無礼な口を叩きおって!】
アザスタンは言い捨てた。かつての青臭かった自分も、やはり向こう見ずで血気盛んであったことを思い出したためなのだろう。
猛き蒼龍アザスタンはもともと、龍化を果たしたドゥロームだ。遡ること千四百年も昔、すでに“炎の司”としての地位を持っていた若き戦士アザスタンは、“炎の界”での試練で辛酸をなめた末にイリリエンのもとへたどり着いた。自分の持つ力がどれほどのものなのか、龍となるに相応しいか、試したかったのだ。
しかしイリリエンの与えた試練に打ち勝つことが出来ず、かろうじて命のみを留めてアリューザ・ガルドへと帰還した。それからしばらく時が流れ、アザスタンが司の長となるまでに鍛練を重ねたあと、再び彼は“炎の界”へと赴き、ついに龍化の資格を手に入れておのが身を蒼龍と転じた。
冥王降臨の暗黒時代には、イリリエンと共に“魔界”に乗り込んだが、この時にはよく龍王を守護した。その功労もあって龍王の側近に抜擢されて、二振りの剣を持つ龍戦士としての姿を象るようになり、今に至っている。
では、あの赤目の若者は、今後どのような人生をたどっていくのだろうか?
ウィムリーフのみならず、ミスティンキルにも興味が湧いているということを、悔しくもアザスタンは認めざるを得なかった。性格が似た者ゆえに疎ましく感じられる一方、力を持つ者同士ゆえに惹かれるというのだろうか。
【……龍王様。しばらくの間、私はおいとまをいただきたく存じます。久方ぶりに、アリューザ・ガルドへ行きたいのです。彼らの動向を見据えるためにも】
決意を胸に、アザスタンは上奏した。
【――いよいよ運命は廻りだし、“物語”が始まる――】
預言者のごとく、龍王は言う。
【……よかろう、アザスタン。私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ】
第五章 魔導を得る
(一)
『……ナク・エヴィエネテ!』
その呪文はおそらく、ディトゥア神族の複雑きわまりない言語を、並の人間にも発音できるようにと簡素化されたものなのだろう。龍王から聞いたそのことばを、ミスティンキルは意味も分からぬまま唱えた。声がややうわずり震えていたのは、人智を越えた業、すなわち次元を跳躍することに対する恐れのためか。転移に失敗すれば、炎の界にもアリューザ・ガルドにも再び戻ることは叶わず、身が滅びるまで次元の狭間のただ中をさまようほか無いのだ。
事実、彼の唱えた呪文の発音は、やや正確性に欠けており、ひょっとすると彼は次元の狭間の彷徨者と成り果てていたのかも知れない。だが、ミスティンキルが生まれついて持ち得ていた強大な魔力と、魔法に対する素質が、呪文の効力を本来あるべきものへと修正した。なによりそれ以上に、今のミスティンキルは強い意志を持っていた。何が何でもウィムリーフに会うという意志を。
強い意志――願いは、ほかの何よりも勝り、力を発揮する。
そして目の前の空間がとぐろを巻いて歪みゆき――門をくぐり抜けた先もまた、星の瞬く夜空が天空一面に広がっていたのだった。
空の様相こそ先ほどの情景と酷似しているようだが、どうやら次元の跳躍は発動したようだ。今はまったく別の場所に佇んでいるのだということを、彼の感覚が彼自身に教えてくれた。
ミスティンキルの背後では、次元の門が姿を消していった。ふと、ミスティンキルが振り返った時には、すでに門はあとかけらもなくなっていた。これでもう、“炎の界”には戻ることが出来なくなった。龍王イリリエンが言ったとおり、これから先は“自由なる者”イーツシュレウとやらに会うしか、アリューザ・ガルドに帰還するすべはないのだろう。
ここは月の界だという。アリューザ・ガルドの空に浮かび、白銀の光を夜の地上に落とす、あの月だ。
夜空を埋め尽くす星々の本質とは、諸次元のそれぞれが放つ煌めきだ、と龍王は言った。弱々しく灯る星もあれば、輝きを放って強く存在感を主張する星もまたある。
ならば煌々と照る巨大な星――月というものは、それら星々の中でも特別な存在なのだろう。それに、毎夜かたちを変える月を見上げる時、人は誰しも、何かしら敬虔な感情を胸に抱かずにはいられないのだ。
実際のところ、月の世界は神秘的な雰囲気に包まれていた。そしてここは、“炎の界”ともまた異なる摂理が支配する世界でもある。“炎の界”では、精神体のみが自身の全存在であったのだが、ここでは違うのだ。完全な物質界であるアリューザ・ガルドほどではないにせよ、月の世界では、物質という概念が確固として存在しているのだろう。
彼の身体が落下しかけたのは、まさにそのためである。
この世界に顕現して、ミスティンキルは実体を得たのだが、あまりに突然の変化に対して彼の翼は順応できず、刹那、揚力を失ったのだ。慌てふためいたミスティンキルは意識を集中させ、懸命に翼をはためかせつつ宙に留まるのであった。肉体の重さを気にかけることなく、彼が自在に飛べるようになるには、まだ時間を要するようだ。
(あいつはなんだって、あんなにやすやすと空を飛び回れるんだ? おれはこうやって、はためいてるのが精一杯だってのに)
彼は眉をひそめ、背中の翼を見る。“炎の界”で、あれほど鮮明に象られていた翼は、今や姿を失いかけ、半透明になっていた。ドゥロームやアイバーフィンが持つ翼というものは、本来は物質的な存在ではないのだ。アリューザ・ガルドに帰還すれば、全く見えなくなってしまうのだろう。
ようやく落ち着きを取り戻したミスティンキルは、次に周囲の様子を見やった。
足下には大地が広がっている。それは、硝子か水晶で構成されているような硬質で透明な世界だ。また、大地ばかりでなく、岩も樹木も一様に硝子細工でこさえたかのような玲瓏とした美しさを持っている。冷たく乾いた風が吹くと、それらはしゃらりという軽やかな音色を奏でるのだった。
この世界そのものが発光していた。ところによっては仄かに、また鮮やかに光が放たれている。その色はアリューザ・ガルドから見上げる月の色と同じく、白銀だ。幽玄として美しい月の世界。
ウィムリーフが先に着いているのならば、早いところ合流しなければならない。彼女こそが自分に安心を与えてくれる人なのだから。ミスティンキルははやる心を抑えつつ、彼女の気配を探った。
そして、鮮明かつ純粋な青い色のイメージが、彼の心に優しく触れるのを感じた。他でもない、ウィムリーフが体内に秘めている色だ。“炎の界”ではその色を鮮明にあらわしていたのを思い出す。
ミスティンキルは、彼女の気配が感じられた方向を見やった。右手前方には大きな湖が、宝石のように煌めく水をたたえている。湖の中央には妖しく光り輝く建造物があった。目をこらして見ると、純白を放つそれは尖った円錐状をしており、おそらくは巨大な塔のようなものだろうとミスティンキルは考えた。
橋らしいものはどこにも見あたらない。尖塔にたどり着くには、飛ぶか泳ぐかするほかなさそうだ。
(さてと。……ウィムのやつはあそこにいるのか。おれが龍王のところで怖ええ目に遭ってた間に、とっとと先に行っちまいやがって。……まったく、つれない奴だな、ちょっとは待っててくれてもいいじゃねえか!)
ミスティンキルは軽く悪態をついたが、銀髪の恋人の気配が感じ取れることに嬉しさを隠し通すなど、出来るものではなかった。彼は塔を目指して翼を大きくはためかせた。
ふと、何とも形容しがたい奇妙な印象が、ミスティンキルの脳裏に一瞬だけ浮かんだ。ここに来たことがあるような、それともいずれここに来ることになるような――それはある種の既視感にも似た感覚だった。しかし、彼が明確に意識する前に消え去ってしまった。
◆◆◆◆
アリューザ・ガルドの時間に換算すると、おそらくは四半刻もまだ経たないのだろう。
しかし、“炎の界”で翼を得て間もないミスティンキルにとって、物質界に近しい月の空を飛ぶというのは、思いのほか骨の折れることだった。身体の頑強さにはいささかの自信があったはずなのに、湖の上空にたどり着くころには息はとうに上がっていた。なにより、“飛ぶ”という動作に対して意識を集中し続けなければならないのが堪えた。精神体のみで飛んでいた“炎の界”の時とは勝手が違うのだ。
アイバーフィンとドゥローム。アリューザ・ガルドにおいて翼を持ち得る二種族であるが、“翼の民”を名乗るアイバーフィンに対して、自分達すなわち龍人ドゥロームはさほど自在には空を飛び回れない種族なのではないか、とミスティンキルは思った。隼のように滑空できるウィムリーフが、アイバーフィンの中でも特別な資質の持ち主なのかもしれないが。
荒ぶる息をなんとか整えて、再び塔を目指して進もうとしたその時、足下の湖面がこれまでにないほどにまばゆい光を放ちだした。湖面だけではない。水晶のように煌めいていた月面一帯が、突如として強く輝き始めたのだ。ミスティンキルは白銀の光に眩惑され、それまでなんとか保っていた集中力をついに途切れさせてしまった。
当然の結果として、翼は羽ばたくのをやめ――ミスティンキルはなすすべなく、眼下に黒々と広がる湖面に向けて真っ逆さまに落ちていくのであった。
ミスティンキルの身体は水面に叩きつけられ、彼はそのまま水中深く沈み込んでいく。すると、湖底もまた地上の様子と同様に硝子質の岩肌が広がっているのが知れた。アリューザ・ガルドでは目にすることの出来ない幻想的な水中の世界。
だが、岩肌は燦然と光り輝きはじめた。ミスティンキルは眩しい光をまたしてもまともに見てしまった。たまらず彼は目を覆い、急いで浮かび上がった。
ミスティンキルは飲み込んだ水をはき出すと、立ち泳ぎしながら、前方に高々と屹立する塔を恨めしそうに見やる。
あの純白の塔は、磨き上げられた真珠で出来ているのだろうか。ミスティンキルが旅の途中で通り過ぎた王国――西方のファグディワイスやフィレイク、そして東方の大国アルトツァーン――のいかなる城の塔とも趣を異にしている。またこの真珠の塔は、人間達の建造した建物とは比べものにならないほど高くそびえ立ち、また、いかなる芸術家をもってしても表現しようのない精緻さと美を併せ持っていた。塔には至るところに小窓が開いており、時折その内側から小さな影が見え隠れするのだった。彼らは、この世界の住人なのだろうか。
そして、何気なく塔の頂上を見たとき――。
「……!!」
ミスティンキルの全身は一瞬にして鳥肌立ち、硬直した。湖水の冷たさゆえではなく、塔の頂上から感じられる圧倒的な力によって。先の龍王の厳格な神気ともまた違う、超常的な力が一つところに凝縮し存在しているのが感じ取れる。その力こそが、封印された魔導に他ならないことをミスティンキルは直感した。
ウィムリーフはすでに龍戦士アザスタンに導かれ、魔導の封印されていた場所に到着していたのだ。だがミスティンキルの感覚は、未だに魔導は解かれていないことを告げる。
塔の頂上に見えている巨大な円形の蓋が、幻想的な情景の中にあってさらに異彩を放っていた。その鈍色に輝く重厚な蓋は、塔の柱から吊されているわけではない。上空に留まっている、という表現が正しいのだろうか。
あれは上空の一部を封印しているのだろう、ぴったりと固着して動く様子を見せない。重々しい蓋の向こう側に、魔導のすべが結集されて封じ込められているのだ。あの巨大な蓋をこじ開けたその時こそ、大いなる魔導は解き放たれる。そして、“色が褪せる”という、アリューザ・ガルドの異変は収まるのだ。
ミスティンキルは塔の頂を目指して再び飛び上がろうとしたが、出来なかった。彼の翼は疲労のあまりもはやぴくりとも動こうとしない。ミスティンキルは舌打ちした。
「ちくしょう。あともう少しだってのに、使えねえ翼だ! こうなったら泳いでいくほかなさそうだな……ちょっと距離があるのが辛いけど、この程度だったら泳げるな」
その時、声が突如、頭上から聞こえてきた。
「……この湖を泳ぐだって? どんなに自信があるか知らないけれど、やめておいた方がよいぞ。ここに棲む強欲なワニクジラに食われて、その腹の中で過ごしたいと望むのなら別だけれどな」
ミスティンキルが真上を見上げると、空中に二人の人物が立っていた。彼に声をかけたのは、まだ年端もいかない、あどけない少年のようにみえた。奇麗な栗毛色の髪を肩のあたりでそろえた小公子は、まるでアルトツァーン貴族のように膝元まで覆う濃紫の上衣を羽織っていた。
そして隣で滞空しているのは――。
「ずいぶんと遅かったじゃないの、ミスト。すっかり待ちくたびれちゃったわよ」
「ウィム!」
この時、ようやくミスティンキルは心の底から安堵した。
自分にとってかけがえのない少女にようやく再会できたのだ。彼女の銀髪は、月光を浴びてさらに美しく光り輝く。
ウィムリーフは湖面に足先をつけて軽やかに静止するとかがみ込み、ミスティンキルに両の手をさしのべてきた。
ずぶ濡れのミスティンキルもまた手を伸ばし、彼女の掌中を流れる血潮を感じ取れるまでに、固く握りしめるのだった。この暖かみをもう逃したくないと、ミスティンキルは強く思った。
「痛いってば……ミスト……ひゃっ?!」
水中から引き上げられたミスティンキルは、彼女を強く抱きしめたのだ。普段めったに露わにすることのない、愛おしいという感情を、今はウィムリーフにすべて受け止めて欲しかったのだが――。
「冷たいっ……ちょっと! そんなずぶ濡れのままひっついてこないでよ!」
対するウィムリーフの仕草はつれないものだった。
(こいつときたら……おれがどんなにお前に会いたかったのか……! そんなこと分からねえだろうなあ……)
思いの丈をウィムリーフにぶつけるつもりだったミスティンキルは、すっかり毒気を抜かれてしまった。だがせめて彼女の背中に手を回し、冷たいと喚くウィムリーフの声をよそにさらにきつく抱きしめ、そして離れた。
「ふん、……ばか」
離れ際にそのように耳元で囁く彼の憎まれ口の真意は、ウィムリーフに伝わるだろうか。
「ばかって……まあ、いいわ。あんたの言葉の足らないところは今に始まったもんじゃないものね。……あたしは塔で待っていたのよ。そしてようやっと、ミストの気配が感じられたから、来てみたんだけど……ここで水浴びしてたってわけなの?」
「……違う。誰が好きこのんで服着たまま飛び込むかよ。ここまで何とか飛んできたんだけれど、力尽きて落っこちたんだ。どうやらおれは、ウィムみたいにはうまく飛び回れないらしい。……おれを引っ張っていってくれねえか?」
ウィムリーフはしようがないな、というような柔らかな表情を浮かべると、ミスティンキルの両手を掴み、見えない翼を羽ばかせて舞い上がった。
「時はいよいよ満ちたようだな。ついてこい龍人。イーツシュレウが案内するぞ」
不思議な薄墨色をした瞳をミスティンキルに投げかけて、その少年――イーツシュレウはあたかも氷上を滑るようにして、空中を歩く。目指すは、魔導が封じられた真珠の塔の頂上。
長かった不可思議な冒険行も、ここに来てようやく終わろうとしているんだ、とミスティンキルは感慨にふけるのだった。
さらなる物語は、これから紡がれていくのだが、それはもちろん今のミスティンキルの知るところではなかった。
(二)
ウィムリーフの手に引っ張り上げられつつも、ミスティンキルは周囲の様相を見やった。ウィムリーフが翼をはためかせて、尖塔の頂上に向け舞い上がるにつれ、月の世界の容貌がよく見て取れるようになる。まばゆく光り輝くこの月世界の様は、たとえるなら白銀の発光体を内部に持つ貴重な鉱石、青水晶が極限まで光り輝き、世界の一面を覆い尽くしているかのようだ。
そして、月面の白銀と空の黒を分ける地平線は、ミスティンキルにとって見慣れないかたちを取っていた。右端から左端に至るまで、奇麗に円弧を描いているのだ。アリューザ・ガルドでは、このような地平線を見ることなど決してあり得ない。ミスティンキルが海に出ていたとき常に見ていた水平線は、どこまでも平らに続いている。世界に果てというものがあるとするのならば、おそらくそこに至るまで平らかに伸びていくのだろう。
だが、この月は違う。察するにこの世界は、どうやら球状を象っているようだ。アリューザ・ガルドから見上げる月は、美しい円を描いている。その見たとおりのかたちを、月の世界は持っているのだ。
「たまげたもんだな。月っていうのは丸い世界なのかよ」
「アリューザ・ガルドに戻ったら、すぐに冒険誌を書き上げなきゃ、ね!」
ウィムリーフはやや苦しそうに言葉を返す。大柄なミスティンキルの身体を引っ張りあげるのは、やはり難儀なことなのだろう。
「さっきあの子――イーツシュレウからいろいろ聞いたんだけどね。たとえば月の世界は、“幽想の界”つまり死者の国と“次元の門”によって繋がっているとか、ミストも言ったように丸い世界なのに落っこちないとか……“炎の界”からこのかた、驚くことばっかり続いてるもんだから、戻ったらデュンサアルの宿でもいい。とにかく忘れないうちに全部を書き留めておかないと」
「ほかにも色々ある。例えばほら、ここ一帯のように自ら光り輝く大地がある一方、この裏側の半球は光を放たない。アリューザ・ガルドから見上げる月の姿が常に移ろうのは、そのためだよ。月とアリューザ・ガルドとは毎夜ごとに次元が繋がるんだが、月の位置は日々変化している。……そしてアリューザ・ガルドから見れば、間もなく満月が姿を現すことになるんだろう。それはこの月ともっとも密接に繋がる夜だ」
二人のやや斜め上前方では、イーツシュレウが滑らかに浮遊している。“自由なる者”を名乗る少年、その実は見かけよりはるかに年を経ている栗毛の彼は振り返り、柔和な子供らしい声色で語った。
「アリューザ・ガルドの龍人、ここ月の世界は、どうか? イーツシュレウがここに来てすでに千年近く経とうとしているが、この美しい光景には飽きることなど無いものだよ。月の住人――精霊達も楽しませてくれるしな」
「……なあイーツシュレウ。あんたが、この月の世界の支配者なのか?」
ミスティンキルは、あどけないかんばせを持つ少年に向かって訊いた。
「違う。月は精霊達の故郷であって、とくに支配者などはいない。それにイーツシュレウは“自由なる者”。その名のとおり、何ものにも縛られず、また司らない。そのような者は、数多いるディトゥア神族にあって、このイーツシュレウだけだろうけれど」
ディトゥア神族!
驚いて顔を見合わせる二人。無理もないことだ。ディトゥア神族の中には人前に姿を現す者もいるが、神族であるということを気取られないために、自らの神気を露わにすることは滅多にないものだし、そもそもディトゥア神族と出会った人間自体少ないだろう。
ミスティンキルとウィムリーフは、まるで惚けたかのように栗毛の髪の子供を見上げた。対するイーツシュレウはそんな彼らの様を見て、面白そうにくすりと笑うと言葉を続けた。
「……何ものも司らぬということは――おのが持ち得る力の限りにおいてだけれど――神としての力を自由に使えるということ。だからだ。かつて“自由なる者”イーツシュレウは望んでこの世界に来た。膨大な魔力の封印を見守るために」
「で、ではイーツシュレウ様! ならば今こそ、その封印を解くときなのです。……あたしたちが住むアリューザ・ガルドが色あせてしまったのは魔導の封印が原因だと、“炎の界”の長、龍王イリリエン様から聞いています。だからこそ、あたしたちがここに来たわけで……」
ウィムリーフの口調が先ほどまでとはがらりと変わったことに、ミスティンキルは苦笑を漏らした。分からないでもない。あの小柄な少年が、その実は神々のうちの一人だというのだから。だが、厳格な龍王イリリエンと比べれば、目の上を浮遊するこの少年神は、はるかに穏和な性格をしているようだ。
「しかしさ、イーツシュレウ。ディトゥア神族だってんなら、わざわざおれたちがここまで来なくても、あんたがさっさと封印を解いちまえば事は収まったんじゃないのか? それだけの力は持っているんだろう?! ……痛てて……ウィム……」
ウィムリーフの言葉に、間髪入れずにミスティンキルは言った。それに対して、神様に対してなんて口の利きようなの?! と言わんばかりに、ウィムリーフは彼の両手首を強くつねりあげるのだった。吊り下げられる格好を強いられているミスティンキルにはなすすべがない。
だがイーツシュレウは、とくに気分を害したようでもなさそうだ。
「龍人。君の言い分も身にしみて分かる。けれどもそれだけは……出来ないんだ。“自由なる者”イーツシュレウだって、ディトゥアとしての役割を越えた権限を行使することは叶わないから。偉大なるアリュゼル神族が、世界の存在そのものをもたらす。われらディトゥア神族はアリュゼルに臣従し、それら世界の各事象を司る。……アリュゼルやディトゥアの神々のなかには、単体の事象に束縛されない例外もおろうが、数は少ない(冥王ザビュールや宵闇の公子レオズスのようにな)。だが君たち人間が創造されて以来、運命を切り開き“歴史”という物語を紡ぎゆく役割を担うのは、大概において人間のみなのだ。だからイーツシュレウにたとえ力があろうとも、魔導の封印を解くことは、してはならない。……まあ、本音を言ってしまうとだ。なんにも出来ずに手をこまぬくしかないというのは、イーツシュレウとしても歯がゆいことなんだがな。実に……」
イーツシュレウは腕を組んで顔をしかめると、もっともらしくうんうんと唸ってみせた。
――我らやディトゥアの神々は、いかなる世界の潮流に対しても、自ら率先して新たな流れを作ることを禁じ手としている。運命を切り開く役割というのは、唯一人間のみ有しているのだ――
そういえば、龍王も同じようなことを言っていたのをミスティンキルは思い出した。
先ほど湖中に落下しずぶ濡れとなったミスティンキルは、衣服から伝わる水の冷たさのためではなく身震いした。
自分自身が運命を切り開こうとしている。歴史を紡ごうとしている。おそらく後に編纂されるであろうウィムリーフの冒険誌によって、自分達の名前は世界中を駆けめぐるに違いない。増長しようとする生来の性分を何とか抑えながらも、高ぶる快感は収まらない。そのためにミスティンキルは震えるのだった。
◆◆◆◆
そうしているうちに彼らは塔の頂へとたどり着いた。白を基調としていながらも、時折虹色の光沢を放つ、真珠の床に降り立った。この尖塔はその名の通り、上るにつれて筒が狭くなっており、ここ頂上部は下層部からするとはるかに小さい。安宿の二部屋分ほどの中にすっぽりと収まるのではないかとすら思える。
そして――彼ら三人のちょうど真上には、巨大な円盾のような蓋が存在している。蓋を通してすら、内部にある膨大な魔力がびしびしと肌に伝わってくる。ごくり、とミスティンキルは喉を鳴らした。
目指していた地にようやく到着したミスティンキルがまずはじめに行ったことは――冷たい水を含んで重くなった赤い上衣と靴を脱ぎ捨てることだった。
この突然の行動にはさすがのディトゥア神の一人とはいえ、呆気にとられるほかない。我に返って制止しようとしたウィムリーフが言葉を放つ前に、彼はとうとう下衣のみの姿となってしまった。
「ウィム……言いてえことはだいたい分かる。……けど、あんなずぶ濡れの服着たままだったら風邪ひいちまうだろうが」
二の句どころか一言も告げられなかった、口を大きく開いたままのウィムリーフに対して、とくに悪びれる様子もなく、ミスティンキルは言い切った。
一瞬の沈黙が覆ったあと、イーツシュレウがぽつりと漏らした。
「……人間とは豪胆になったものだな。かつてここにやって来た魔導師達は、それは慎重だったものだが。千年も時が流れると人の考え方も様変わりするというんだな」
「そうじゃなくて……ミストの言動が独特すぎるんです……さすがのあたしでも、今回の行動だけは予想できなかったわ……」
(あたしたちは、神様を御前にしているっていうのよ、ミスト。それなのにあんたのする事ときたら……)
頭が痛い。とうに怒りを通り越してしまったウィムリーフは、もはや指一本を額に当てて、大きく溜息をつくほか無かった。
「ふうん……。では事が済むまでの間、服を乾かすようにと、精霊達に頼むとするか」
ウィムリーフはぺこりと頭を下げた。
「さて、と。身軽になったところで、さっさとケリをつけるとしようぜ! この分厚い蓋を開ければいいんだろう?」
「まあそう急くな、龍人。間もなく夜の刻が訪れる。その時こそアリューザ・ガルドとの次元が繋がるのだ――ほら、見やれ」
羽根を持つ小さな精霊達がやって来て二言三言話した後、イーツシュレウはミスティンキルの頭の高さまで浮かび上がり、前方の虚空を――星々が瞬く暗黒の宙を指さした。
やがてその宙の中からぼんやりと、巨大な“もの”が姿を現しはじめた。やがてくっきりとした輪郭を描き出す。彫像か、はたまた岸壁か。途方もなく高くそそり立つその巨大かつ堅牢な塔の頂では、山々が連なるように円をつくる。そして褪せた青が山々の円冠の中を彩る。その青は――水……海なのだろうか? さらにその中心部、かすかに小さく緑色が見て取れる。二粒の豆のようにすら見える小さなその緑は、ややもくすんで見えるが、それでもなお確固たる存在感を持っていた。陸地だ。
「あれこそが、人の住む世界――アリューザ・ガルドだ」
イーツシュレウは言った。
物質界、人間達の住まうアリューザ・ガルドは広い――だが、そこから繋がる諸次元とは、人の子では想像だに出来ないまでに広大だったのだ。果てもなく。
しばし、二人は言葉を失った。
◆◆◆◆
「こ、これが……アリューザ・ガルドのすべてだってのか?!」
しばらく後に、ようやくミスティンキルが発した言葉だった。彼の横に立つウィムリーフは、手を口に当ててその世界の様を凝視するしか出来ないでいる。
「どうだ、驚いただろう? 翼人に龍人!」
イーツシュレウは彼らの周囲をくるくると飛び回りながら、なぜか自慢げに言ってのける。
「こんなものを見せられて驚くなという方が無理ですよ……」
ようやくウィムリーフが、抑揚少なめに口を利いた。
「信じられない……長い筒の頂上にあたしたちの住んでる大地があって……海が広がっていて……さらに周囲を山が取り囲んでるなんて……。じゃあアリューザ・ガルドの底って、一体どうなっているんだろう……」
「奇っ怪きわまりないけれども、底なんて概念は無いらしいぞ。延々と果てなく、あの絶壁は続いてると言われている。この月は、アリューザ・ガルドと“幽想の界”とを結ぶ役割をも果たしているために、『死者の魂が見るアリューザ・ガルド』というのがどんなものかを、こうしてかいま見ることが出来るわけだけれども……」
ふわりと浮かんだまま手を後ろに組み、まるで学び子達に教え説くかのようにイーツシュレウが言った。
「アリューザ・ガルドに住む生きている人間にとっては、世界に果てなど存在しない。いくら外洋に出てもあるのはただ一面の海だけ。けれども、死者の魂にとっては違う。死した人の魂は海を渡り、いや果てにある“果ての山々”すらも越えるのだ。ほら、円環状に連なるあの山々がそれだな。……そして山を越した魂はいよいよ、アリューザ・ガルドの岸壁にたどり着くわけだが、ここで生前の行いに対して裁きを受けることになる。無垢な者も罪人も、基本的には分け隔てなくこの月へと登り来る。そしてさらに次元を越えて“幽想の界”にて住まうわけだ。……だけれど、あまりにも業が過ぎた魂は、あの岸壁から突き落とされ、まさしく永遠に救われることが許されず落ち続ける――こう言われているな」
そこまで言うと、イーツシュレウはくるりと二人の方を振り返った。
「これが、アリューザ・ガルドだ」
「……さっきから思ってたんだけど……あんたって、見かけの割には意外と物知りなんだな」
ミスティンキルにとっては、そう言うほか無かった。
「む。なんだか、あまり嬉しくない褒められ方をされてるようだけれども……まあいい」
イーツシュレウは口を尖らせた。
「“自由なる者”には司るものがないから、一つところに束縛されない。だからたまに、気が向いたときには次元の狭間を越えて“イャオエコの図書館”で本を読んだりもする。イーツシュレウはそこで得た知識を披露しているに過ぎない。『受け売り』とかいうやつなのかもしれないな。けれども人間にとってアリューザ・ガルドの全容を知るなど、今の世を生きる者のなかでは君達が初めてだろうさ」
「確かに……これってとんでもなく貴重な体験だわ。お爺さまたちだってこんな事知らないはずだし……」
アリューザ・ガルドに向かって凝視を続けながら、ウィムリーフは小声でひとりごちた。
「……いよいよ時は満ちた」
イーツシュレウは真顔で、宣告するように言い放った。あどけない少年の声色でありながらも、その言葉の端々には神でしか具現出来ないであろう威厳に満ち満ちているのだった。
「アリューザ・ガルドは夜の刻を迎え、今や月の界と完全に繋がった。さあ、歴史を刻む人間よ、褪せた色を戻すために、今こそこの蓋を開けて、封じられたる魔導を解き放つのだ! ……事が為し遂げられたその時、イーツシュレウは力を放ち、君達をアリューザ・ガルドへ帰還させる!」
「おう! とっととケリをつける」
ミスティンキルは力強く答え、イーツシュレウの頭をぽんぽんとはたいた。子供扱いされたその神は、不服そうに頬を膨らませ灰色の瞳でにらんだ。
「おれたちの最初の冒険誌の締めくくり……きちんと書いてくれよ、ウィム!」
ウィムリーフは頷く。
そして二人は首を上に向け、鈍色の巨大な蓋を見やった。
歴史を動かすということ。
そのとてつもない出来事に今、真っ向から対峙しているがために、かつて無いほどに緊張はいや増し、自然と鼓動が早まっていく。手足を流れる血潮の音すら聞こえるようだ。
だが、それと共にミスティンキルは、自分の内に秘められた赤い魔力が徐々に膨張していくのを感じていた。膨大な力が沸き上がり気分を高揚させていく。
そして申し合わせたかのように――二人は同時に跳ね上がった!
(三)
ミスティンキルの全身にみなぎった魔力はついに、体外に放出されはじめた。純粋な真紅の魔力は、持ち主の強靱な肉体に薄い衣のようにまとわりつくと、いよいよ鮮明に色づくのだった。あたかも彼の魔力が、天蓋の向こう側にある大いなる魔力と共鳴するかのように。
ミスティンキルの真正面にはウィムリーフがいる。彼女もまた、今やそのすらりとした身体全身を純粋な青い魔力でまとっていた。ウィムリーフを包む魔力の彩りは、ミスティンキルのそれと比べれば、やはり僅かばかりながら劣っていた。だが“風の界”の王エンクィ直々にその力を認められただけあって、アリューザ・ガルドに現在するいかなる術使いをしても、彼女の魔力を越える人間は存在しないのだろう。
青い色に包まれた銀髪の翼人の背中には、二枚の純白の翼が鮮明に顕現し、左右に大きく広げられていた。さらに、月面から目映く放たれる白銀の光が、ウィムリーフの青い衣装と白い肌、それに群青の瞳をもひときわ美しく鮮やかに映し出すのだった。
一瞬ミスティンキルは、対峙している彼女がまるで別人であるかのような奇妙な錯覚にとらわれた。しかしウィムリーフの青く大きな瞳は、好奇心溢れる彼女ならではの意志の強さを物語るように、きらりと輝いていた。ウィムリーフの瞳を見て、ミスティンキルも安心する。
ミスティンキル自身もまた、背中に龍の黒い翼を得ているのを自覚していた。ウィムリーフから見れば、彼のまとう真紅の魔力の膜と、生来持つ赤い瞳だけが異様に輝いて映っているに違いない。
黒い髪と龍の翼、露わになった褐色の肌と、放たれた真っ赤な力。かたや青い膜に包まれたウィムリーフは、銀の髪と群青の瞳、そして白い羽根と肌の持ち主。対峙する二人は、その何もかもが対照的と言えた。
だが、二人の想いは同じ。変わることのない互いへの愛と、そして――使命感。龍王イリリエンから自分達に課せられた使命を成し遂げるということ。
二人は翼をはためかせてさらに舞い上がり、ついに分厚い円盾の蓋に二人の手が届くほどの位置にまで近づいた。
二人はまじまじと、重厚な蓋を見つめる。この大きな円状の蓋は、鏡面仕上げの銀皿のごとくつるりとしているようだが、鈍色に曇った表面は周囲の情景の何ものをも映し出さず、月の光を受けて時折きらりと光るのみだった。
だが、この蓋をしらみつぶしに調べても、開けるための取っ手らしきものはどこにもない。ならば、どうやって開ければいいというのだろうか? ミスティンキルは思案するも、結局答えが浮かんでこない。ウィムリーフも、ただ首を横に振るばかりだった。
意を決したミスティンキルが恐る恐る右手を伸ばし、表面に指が触れたその時だった。
――「魔導のすべを、解放するときが来たというのだな」
男のくぐもった声が、蓋の向こう側から聞こえてきた。
◆◆◆◆
「そうだユクト。この間イーツシュレウが言ったとおりだ。いよいよ時は満ちたのだよ」
下方から、イーツシュレウが声をあげてきた。
しばらく、沈黙が周囲を包む。ミスティンキルもウィムリーフも、蓋の向こう側の声がどのような反応をするのか、待っていた。
――「……人よ。君の持つ魔力が強大なことは私にも分かる。私もかつて魔導師と呼ばれた身ゆえに。しかし人よ、君には魔導の封印を解くということの重要性が分かるか?」
と、男の声。
「あんたは、“魔導の暴走”というやつを知っているんだろう? おれは、吟遊詩人の歌でしか聞いたことがないけれども、あれが本当に起こったっていうんなら、魔導のすごさが少しは分かる様な気もする」
ミスティンキルは訊いた。ややあって、男の声がした。
――「そう。私は当時まさにその渦中にいた魔導師の一人だ。魔導とは、魔法体系の頂点に位置するものである。が、強大な力というものは諸刃の剣であり、それは魔導も同様。魔導が及ぼす力とは、下手をすれば世界そのものをも危うくしてしまうほど強大なものにもなりかねない。――かつての“魔導の暴走”のように。だが時は移り、魔導の封印は別の問題を起こしてしまった。それが今、君達が直面していると聞いているアリューザ・ガルドの色のことだ。……魔導の封印を解くというのならば人よ、私ユクツェルノイレと約束をしてほしい。決して……決して、過去の災禍を再び招くような愚挙を犯さない、ということを。……どうか、これだけは守ってほしい」
魔導師ユクツェルノイレと名乗るその声は、七百年前に自身が体験した出来事――“魔導の暴走”の大惨事を思い起こしたのだろうか、哀しみに震えた声で言った。
使命を託されている二人は顔を見合わせ、次に下方から二人を見上げている“自由なる者”の顔を見て――三人して頷いた。彼らは今、“歴史を動かす”という決意を確認したのだ。
「……おれの名はミスティンキル。ドゥロームだ。おれは……そうだな、龍王イリリエンに誓って、あんたの言った言葉を守る」
「あたしはアイバーフィンのウィムリーフ。ウィムリーフ・テルタージと言います、魔導師様。……あたしは、風の王エンクィの名の下に、あなたが今おっしゃった言葉を胸に刻み込み、遵守することを誓います」
「……ユクトよ、聞いてのとおりだ。ならばだ。この“自由なる者”イーツシュレウが、ディトゥア神として証人になろう。我らが長イシールキアの御名をお借りして、ミスティンキル、ウィムリーフ二名の言葉、人間の宣誓として確かに聞いたぞ!」
◆◆◆◆
ぴしり、と音がした。重厚な天蓋の中央部にわずかに亀裂が入ったかと思うと、それはみるみるうちに蓋全体に広がりゆき――薄氷が砕け散るような、しゃらんという軽い音と共に、重厚な蓋は崩れ去り、月の空気に触れたと同時にすぐさま融けて無くなった。
蓋が消え失せたその向こう側は――正しく言えば“何ものも存在しなかった”。あえて表記するとすれば――無理やりねじ曲げられたのだろうか、いびつに歪んだ“澱み《よどみ》”の空間が“あった”――としか言いようがない。
この常軌を逸した空間は果たして、魔導の封印を行うために月の世界に赴いた当時の魔導師達が、持てる魔力と叡智の全てを振り絞って創りあげたのか、もしくは――これもまた星々の数だけ存在する諸次元の一つなのかもしれない。推し量ることすら困難だが、明らかに分かることが唯一ある。それはあの“澱み”に無防備に立ち入れば、ただでは済まないだろう事、のみ。
だから、ミスティンキルもウィムリーフも、身を震わせてすぐさま戦慄の空間から目をそらした。超常的なその空間は実在感というものに全く欠けており、“炎の界”や月世界の様相の幻想的な非現実性を体験してきた二人をもってしても、こればかりはとうてい耐えきれなかった。
人智を越えたあの異常な空間を見つめ続けていたい、もしくは入り込んでみたいという、相反する欲求もまたあったが、これを受け入れてしまったが最後、狂気に陥るに間違いない。
ややあって――我に返ったミスティンキルの目の前には、真四角で象られた立方体の底面が現れていた。
この立方体の高さは、ミスティンキルの背丈の倍近くあるだろう。ミスティンキル達が今見ている立方体の下部にこそ何もなかったが、中部から上には無数の球がふわふわと浮かんでいるのが見て取れた。常に七色に輝きを放っているそれらこぶし大の球体は、しゃぼん玉を想起させるように儚く見えるものの、球体同士が触れあっても割れることはなかった。しゃぼん玉の一つ一つに、魔力が――原初の色が凝縮されているのだ。
そして、立方体のちょうど中央には――横たわっている人の姿があった。
「ああ、姿なき友ユクト! 蓋が消え去った今、再びじかに君の実体に会えたな。じつに七百年ぶりだ!」
イーツシュレウは、はしゃいだ声をあげてウィムリーフの横に舞い上がってきた。
(四)
ミスティンキルとウィムリーフ、そして“自由なる者”イーツシュレウは、空をさらに昇った。
この空にある尋常ならざる澱んだ空間に、吸い込まれやしないかと懸念したものの、目前にある不可思議な物体に対する好奇心の方が勝った。
無色透明な立方体の平面は鏡面のようになめらかで歪みひとつ無い。まるでフィレイクあたりの老練の硝子職人が、長い歳月を投じて仕上げたかのような出来映えだ。その立方体の周囲をイーツシュレウがふわふわと浮遊し、ミスティンキルとウィムリーフは、立方体を間に挟んで対峙する格好となった。
ミスティンキルが恐る恐る上空を見上げると、もとから存在しなかったかのように、あの異質な空間はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。
そうして、いよいよ彼らは、澄み切った立方体の中核部を見据える。
この物体の中心から真っ先に目に飛び込んでくるのは――深紅、金、褐色という色のイメージだった。彩度の異なるこの三色は、二人の網膜に強く焼き付いた。目を閉じても残像として残るほどに、鮮明に。
まず、深紅。
ユクツェルノイレがまとっているローブの色。
深い赤一色に染め上げられた魔導師のローブは、ドゥロームの正装――炎を象った意匠が前面部に縫い込まれている赤い長衣――に似ているようでいて実はそうではない。ドゥロームの正装とは違い、あの深紅の衣には刺繍や意匠がいっさい施されていないのだ。唯一きらりと光るものがあるのを除けば。
月の光を受けて銀色に煌めく“それ”は、小さな紋章だった。両襟すその周囲に小石ほどの大きさの紋章が十三個ずつ取り巻き、そして右胸部にこぶし大のものが一つ縫われている。合わせて二十七個。見たこともない奇妙きわまりない文字が、それぞれの紋章の中心に据えられ、その周りを細微な螺旋文様の紋章が編み紡がれているのだった。
装束の色と紋章の数が示す事柄はただ一つ。つまり、この横たわる男は、かつての魔導学の全盛期において最高位の魔導師であった、という証だ。
そして、金色。
夕暮れ時の茜さす空と同色に染まった大地の中にあって、黄金に波打つ麦穂を想起させる――そのような色。
この魔導師がアリューザ・ガルドにいた時分は、その長い金髪が深紅のローブによってさらに際だって美しく映えていたことだろう。
だが今や髪はくすみ、ほつれてしまっており、黄金色が本来持ちうる美しさを台無しにしてしまっている。加えてところどころに白髪が見え隠れしている。
これらは彼の老いの兆しを示すものではない。彼や他の魔導師達が、魔導をこの地に封じるに至るまでの間に経験したであろう辛苦の数々を刻むものなのだ。
魔法が全盛の時代だったというのに、それまで長年まで研究してきた魔導学の膨大な知識をすべて禁じてしまうことについて、時の権力階級層の人間達や、魔法貴族達からの反発はさぞや大きいものであっただろう。それまでの自分達が権力のよりどころにしていた“力”そのものを使えなくしてしまうというのだから。結果として当時の魔術師達の主張が受け入れられ、『魔導の公使は危険である』として魔導を行使するすべは封印された。
これまでのミスティンキルとウィムリーフには、“陰謀”という名を持つ人間の暗い側面によってどれほどの無垢な血が流されていったか、どれほどの苦痛に耐え忍んだのか――人間の歴史が遺した傷というものに対しておよそ想像もつかなかったし思考すらもしなかった。でも、今は痛みの一片を切実に感じ取ることが出来る。この魔導師の白髪のほんの一房からすらも。
褐色。
それはユクツェルノイレの肌の色。
ミスティンキルの日焼けした肌に比べると、若干明るい色をしているようだが、まるで死人の肌のような冷たさをも感じる。
彼が金髪であることと併せて察するに、この大いなる魔導師は、バイラルの氏族の中でもラクーマットびとに属するのだろう。金髪と、青もしくは緑の瞳を持つ褐色人。ミスティンキルが西方大陸を旅していた時分、ファグディワイス王国の領土内でとくによく見かけた氏族だ。
ファグディワイスは、ミスティンキルの故郷ラディキア群島と国家規模での交易が盛んである。たとえバイラル以外の種族、龍人であっても他のバイラルと同様に、旅先の人々は迎え入れてくれたのをミスティンキルは思い出す。当時、全ての物事に対して斜に構えていた自分でさえも受け入れてくれたのだ。
ユクツェルノイレは、立方体の中で仰向けの姿勢を崩さず、微動だにせず横たわる。八百年弱という期間、彼はずっとそのままの姿勢で留まっていたのだ。
無精ひげともいえる短いあごひげを蓄えた彼のかんばせからは、表情というものが消え去っており、まるで深い眠りに引き込まれて戻れなくなってしまったかのように、彼の両の目は固く閉じられている。
魔導師の齢はバイラルにして三十半ば、といったところであろうか。短命なバイラル族の社会にあっては、世代の中心的存在となって人々の生活を支える、そんな年齢といえる。
だがユクツェルノイレにとって、“社会”という認識、“時間”という概念は、もはやなんの意味をもなさないものなのだろう。おそらくは魔導が封印されてからこのかた、八百年弱もの長きに渡り、ユクツェルノイレは他の世界から完全に隔絶されていたのだから。魔力を制御するという重責をたったひとりで背負い込み、時折語りかけてくるのはイーツシュレウの声だけ。ユクツェルノイレひとりが存在する孤立した世界では、何事も移ろうことも、起こることもありえず……ただただ長大な歳月のみが緩慢に過ぎ去っていったのだ。
八百年! なんと気の遠くなる歳月であろうか。
◆◆◆◆
小さなディトゥア神は、あぐらをかいた姿勢のままふわふわと飛び回り、ミスティンキルのところまでやって来た。
「久しいなあ、ユクト。そちらはどう? 変わりはないか?」
彼はそう言って立方体の表面を軽く二回ノックした。さも嬉しそうな表情を浮かべながら友人の姿を見やっている。
こうして端から見ると、大きな薄墨色の瞳を輝かせているこの神の仕草は、ひとりの純朴な少年のそれと全く変わらない。ミスティンキルはまた、ぽん、と彼の頭をはたいたが、今度はにらまれることはなかった。
――「……相も変わらず。特に変わりませんよ、イーツシュレウ。私の“存在”という定義そのものが変化したということ以外はね。……あなたが見ている肉体には、すでに私の精神は宿っておりません。あれは半ば死んでいると言っても差し支えないでしょう。魔導を封じたあの最後の時から、バイラルにとってはあまりに長すぎる時を経て、この核の中でいつしか私の精神は肉体から離れゆき……この“封印核”そのものと一体となったのです。今の私は“封印核”に宿った“意識”そのものに他ならないと考えていただきたい」
太く毅然とした男の声が、立方体の全方位から響く。その声は先ほどまで、重厚な蓋越しに聞いていたくぐもった声と違い、まったく鮮明なものとなっていた。声そのものからは、魔導師が持つ生来の気品が伝わってくる。
そして“封印核”――誰がそう名付けたのか、もはや定かではないが、その立方体の中には人の手では制御しきれないものが封じられている。
すなわち、当時の魔導師達が費やした労力と蓄えた知恵、そして増大させた魔力。
それらが無数の小さなしゃぼん玉の中と、封印核の中に充満している空気に、全て凝縮されているのだ。
たとえミスティンキル本人の意識下では気が付かなくとも、また言葉では表現できずとも、その圧倒的な様に対して、赤目を持つ炎の司の冴えきった感覚は戦慄に震えていたのだ。
「ユクツェルノイレ――そう! 昔……なんかの本で見たことがあるわ、その名前」
ウィムリーフが額に指をあてて思い出そうとしながら言った。彼女は相変わらず、ミスティンキルから“封印核”をとおして真向かいにいる。
「ええと、たしか……“魔導の暴走”を食い止めるために、魔導師たちの筆頭に立っていた大魔導師だったはず。……それで、そのあと“宵闇の公子”レオズスがアリューザ・ガルドに君臨したときにいつの間にか行方不明になったとか……」
――「君の明瞭な記憶のとおりだよ、翼の民の娘。まさに私のことだ」
そこでミスティンキルが言葉を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ。……それじゃあ、『暁の来復をもたらした者達の勲』に唄われてる、ええと……
『……デルネアはかの剣を見いだし“澱み《よどみ》”より還り来たるも、“まったき聖数を刻む導師”デイムヴィンは遂に戻ることあたわず……』
というようにある、その“デイムヴィン”ってのが、あんたのことなんだな?」
ミスティンキルは両手と顔を立方体の表面にぴたりと押しつけ、ほんの数ラク先に横たわる魔導師の肉体に問いかけた。
そしてユクツェルノイレは肯定した。
――「そう。私のことだよ。ユクツェルノイレ・セーマ・デイムヴィン。これが私の真名」
そう発せられる言葉と共に、立方体の表面が振動するのがミスティンキルには分かる。
『暁の来復をもたらした者達の勲』には三人の人間の名が高らかに謡われている。つまり、“竜殺しの”デルネア、“預幻師”クシュンラーナ、そして、森の民エシアルル族でありながらも、卓越した才能と魔力を有する“礎の操者”ウェインディル。
レオズスを打ち破った三者を讃える勲の中にあって、ほんの数節のみ触れられている名前が“デイムヴィン”である。“まったき聖数を刻む導師”とも呼ばれた彼は、ウェインディルの師であり友であったのだ。
――「私は魔導学の隆盛と暴走、さらにはレオズスの脅威を目の当たりにしてきた。そして魔導学の終焉と……さらに加えて言うならば、時を超えた今この時、まさに起ころうとしている魔導の復活をも……か。私の人生は、つねに魔導とともにあった。帳を降ろすこの時に至るまで、な……」
大魔導師は感傷的に言った。そして言葉をさらに紡ぐ。
――「もはや限られた時間しかないが、レオズスが出現してから今までに、私が経験した出来事について語らせて欲しい。いや……継承する者には是非とも聞いてもらいたいのだ」
◆◆◆◆
こうしてユクツェルノイレは、自らの体験を語り始めた。
――「“宵闇の公子”レオズス。彼は“混沌”に魅入られて己を失った、忌まわしくも哀しいディトゥア神だった。レオズスがアリューザ・ガルドに驚異をもたらす存在となり果ててしまったゆえに、人間達は彼を打ち倒すしかなかった。だが、一介の人間ごときが――たとえ魔導師であっても、神に対抗できる技などを身につけているはずもない。アズニール王朝生え抜きの精鋭騎士団ですらレオズスに軽くあしらわれ、彼の操る恐るべき“混沌”の欠片によって抹消されたのだ」
――「我々四名は密かに古い文献を読みあさり、ついに神を倒す手段を見つけた。唯一レオズスを倒しうるという剣を見いだすために、私と剣士デルネアは“閉塞されし澱み”という禍々しい世界に入り込んだのだ。あの世界はとてつもなく強力な力場によって支配されていた。暗黒とひどい臭気と重苦しい空気が常に我々を苛んだ。そして、いくつものおぞましい情景、狂気とも言える超常の空間や、身の毛もよだつような異形の生き物達を常に目にしつつ、それでも正気をなんとか保ちつつ、為すべきことを為すために突き進んでいった。……が、あろう事か私は遂にその空間の異常性に魅せられ、精神が保てなくなってしまった……。しかも我が友をも狂気に巻き込もうとたくらんだが、勇敢なデルネアはそれを拒んだ」
ユクツェルノイレの声がやや震えてきている。それは悲しみという感情のあらわれに他ならない。何とか押し隠そうとしているのが痛切に伝わってくる。
――「こともあろうか、デルネアと私は正面きって戦うことになってしまった! これは悲劇としか言いようがない!」
――「痛ましい戦いの果てにデルネアが勝った。……その後、デルネアが“名もなき剣”を手に入れアリューザ・ガルドに帰還し、ついに三人によってレオズスが倒されたということ。そしてその後の彼らの顛末については、そこにいる我が小さな友人――イーツシュレウから聞き及んでいる。……我ら四者は皆、大きな悲しみを受けるようにと宿命づけられていたのだろうか……? それとも人智を越えた何かを得るためには、それ相当の代償が必要だというのか……?」
封印の核全体を振動させ、魔導師の声が響いた。音の余韻がひどく哀しげに聞こえ、耳に残った。
しばし経ってユクツェルノイレは、その後の自身のことについて語った。
――「私はデルネアと違い、戻ることが叶わなかった。……いや、狂人と成り果てた私は、もとの世界へ戻ることを拒んだのだ。“澱み”の空間にある超常的な“力”に魅入られ、それら全てを我が手にしたいという欲望に駆られてしまったために……。デルネアと刃を交えた後の記憶は定かではないが、しばらくして私はようやく自身を取り戻した。が、もはや時はすでに遅かった。……私は自分自身に呪詛を吐いた。取り返しのつかないことをしてしまったのだから」
――「かつての自分を完全に取り戻すために、そしてアリューザ・ガルドへ帰還するために、私は“澱み”の空間から何とか抜け出し、何年もの間に渡って諸次元をさまよい歩いた。……ある世界では人々は私を神のごとく畏れ敬い、またあるところでは異端者として蔑み嫌われ、独房に繋がれたこともあった。なぜか私は老いることがなくなっていた。まるで千年を生きるエシアルル達のように、三十半ばの姿のままであり続けたのだ。」
――「アリューザ・ガルドへ帰還してみれば、すでに五年の月日が流れていた。レオズスは倒されたもののアズニール王朝は崩壊し、諸勢力が勃興していた。アリューザ・ガルド全土に戦乱の嵐が吹き荒れていたのだ。私は、デルネア達三人に会おうと願ったが、混乱に包まれた世界の情勢によって拒まれた。乱世にあっては、たとえ山一つ越えることですら命を賭する必要があったのだ。結局彼らには会えずじまいだった。そして、私には私なりに魔導師の長たる者として、やらなければならないことがあった。つまり、魔導のすべをいずこかへ封印することだ」
ユクツェルノイレはさらに、自分たち魔導師が直面した受難の数々を語り続けた。だが、ついに月の世界に赴き、魔導を封印する儀式を執り行うことが出来たのだ。月に行った魔導師達の人数は十名たらず。そして封印に際しては彼らの魂そのものを奉じるしかなかったのだ。彼らの命と引き替えに、あの空間が形成され、また封印核が出来上がったのだった。そしてもっとも魔力を有していたユクツェルノイレが、封印核の中心に入り、封印を守り続けてきたのだ。
その封印が時を経た今、ミスティンキル達によって解放されようとしている。
魔導の復活。それは、アリューザ・ガルドにおいて新しい時代を招来するものなのだろうか?
◆◆◆◆
――「さて……魔導の封印を解く前に、再び見てほしい。世界の姿を」
ユクツェルノイレの声は、アリューザ・ガルドの姿を見るように、とミスティンキルとウィムリーフに促した。
それは真珠の塔の頂から見ることのできる、アリューザ・ガルドの全貌であった。頂上が平らとなった逆さつららのようにも見えるあの世界は、相も変わらず色あせた様を見せている。
――「魔力を開放すれば、アリューザ・ガルドの色は元に戻る。だが、開放した魔力を制御するべき者が必要だ。私はその任を……君達二人に託したい」
魔導師の声は朗々と響いた。
「……おれたちが?! その、つまり……魔法使いになれっていうのか?!」
ユクツェルノイレの言葉にミスティンキルは困惑した。
“炎の司”の試練と、さらに龍化の資格を得る事に対しては、彼なりに覚悟は決めてアリューザ・ガルドから転移した。龍王イリリエンによって魔導が今回の件の発端だと聞かされたときは、心のどこかでまだ見ぬ魔導に対する憧憬の念、自分の力にしたいというかすかな欲望はあった。だが、事ここにおいて、まさか本当に自分が魔法使いになろうとは、思いもよらなかったのだ。封じられた魔力を開放して世界に色がよみがえりさえすれば、そこで自分達の使命は終わるものとばかり思っていた。使命を下した龍王イリリエンは知っていたのだろうか? 赤い魔力をうちに秘めた自分が魔導の継承者になるということを。
「じゃあ、ユクツェルノイレさん。もしあたしたちが継承を拒んだら、どうなさるつもりなのですか?」
ウィムリーフが問いかけた。
ややあって声が響く。
――「私の個人的な思いとしては、魔導の継承は君達にこそ委ねたいのだ。現世において、君達ほどの魔力を備えた者など居ない。……ウェインディルはアリューザ・ガルドに戻っているようだが、もはやかつての力を失って老いており、また彼の弟子もまだ本来の資質を発揮するには至っていない。……だが、もし君達が魔導の継承を拒んでもそれはそれで構わない。ウェインディルと彼の弟子にその任を委ねたいと思う。魔力に乏しい彼らにとってやや重責やもしれないが」
――「しかし、少なくとも魔導の解放と色の復活については君達の力が必要だ。元々君らはそれを果たすために、ここ月の界へ来たのだろうから」
しばし間をおいてミスティンキルは言った。
「けれども、だ。……面白そうでもあるな。魔導、か!」
彼の赤目がきらりと光る。“力”をどん欲に求める生来の気質が再びちろりと炎をあげたのだ。
「“炎の司”であること以外に取り立てて特技のない、一介の漁師のおれが大魔法使いになれるってのか? しかも、そこらでやっている、見せ物のようなちんけな“まじない”じゃない。本物の魔法を使いこなせるっていうのか? 一体どうすればいい? 俺は文字がろくに読めないし、もちろん魔法の呪文のうちのひとつだって知らない」
――「アリューザ・ガルドでウェインディルを見いだせ。彼らの住まいはあえて私からは言わない。……魔導に関しては彼だけが大いなる導き手となるだろう。だが心せよ! 彼と会うまでは決して……決して自身の多大な力に酔いしれるでない。膨大な力は諸刃の剣であるというのが世の常なのだからな」
それは、エツェントゥー老から、そして龍王イリリエンから何度と無く聞いた、多大な力に対しての心構え。ミスティンキルとウィムリーフは共にうなずき、聞き入れた。
そしていよいよ大魔導師は宣告した。
――「もういいだろう。私はもはや語るべきことを全て語った。……魔導を解放することにしよう。君達の有する魔力を全て解き放ち、この“封印核”を打ち砕くのだ!」
(五)
――全魔力をもってして“封印核”を打ち砕け――
そのユクツェルノイレの言葉を聞いて、すぐにウィムリーフが言葉を返した。
「わかりました。でも、それでいいんでしょうか? 他に方法は……ないんですか?」
ウィムリーフが躊躇している理由。それはミスティンキルにも分かった。ユクツェルノイレの意識は“封印核”と同一化している。という事は、この目の前にある立方体を粉々にしてしまえば、大魔導師の肉体はおそらく失われてしまうだろう。そうなった時、彼の意識は――魂はどうなってしまうのか。それは一つしか考えられない。ミスティンキルは、“封印核”全体を見やるようにして訊いた。
「そうだ。ウィムの言うとおりだ。ぶっ壊しちまう? ……そんなことをしたらあんたの体はどうなる? 今、おれたちとしゃべっているのがあんたの意識だとしたら、それはどこに行ってしまうんだ?」
――「あれにある私の肉体は失われるだろう。そして、私の意識の向かう先はただひとつ」
ユクツェルノイレは答えた。
――「死者の世界、“幽想の界”」
ユクツェルノイレの声は妙に穏やかだった。自分が死に至ることがあたかも宿命であることを、むしろ望んで享受するかのように聞こえる。
――「あの身体に再び魂を宿らせることが出来ないものか、私とて考えなかったわけではない。……だが結局のところ方法はただ一つしかなかったのだ。……君達はアリューザ・ガルドの色を取り戻すためにここまでやって来たのだろう? だとすればためらう理由は何もない。君達の魔力を開放してくれ。私も核の内部から同調する」
「でも……!」
ウィムリーフの言葉を制止するかのように、封印核はぼうっと赤い輝きを帯びた。
――「気遣ってくれてありがとう。だが私の命数はすでに尽きているべきものなのだ。……今の私は摂理に反した存在。『奇っ怪な運命』とやらに翻弄されたまま生きながらえているにすぎない。バイラルは君達長命種と違い、百の齢を迎えられることなどほぼあり得ない。たいていはその前に老衰して死に至るものなのだ。もし君達がほんとうに私のことを考えてくれているというのならば、なおのこと――魔力全てをぶつけるのだ。その時となってようやく呪縛から解放され、私は穏やかに“幽想の界”に赴けるというものだから」
地上に生きる者として当然しかるべくして訪れるのが死。だが今までの彼には死ぬことが許されなかった。魔導の封印を守るという使命を担っていたから。しかし魔導を解放するとき初めて、彼は全てのしがらみから解き放たれる。そう。死こそがユクツェルノイレの望む全てであった。
「……魔導の封印が解けたら、イーツシュレウはここから去る。もともとはイシールキア(ディトゥア神族の長)から、魔導の封印を見守る旨を受けて、もう長いこと月にいたのだからな。その必要が無くなったら……これからは“自由なる者”として、各地をぶらぶらと渡り歩こうと思う」
イーツシュレウは淡々と言ったあと、目を伏せた。神にも人間に対する情というものはあるのだ。今の彼は懸命に悲しみを抑え込もうとしているように、ミスティンキルには見えた。
「いずれはこうなることになるものと予想は出来ていたから、だからユクト……長きに渡る辛苦を乗り越えたのだから、その分も含めて“幽想の界”で安らかに過ごしてしかるべきだ。イーツシュレウは君に幸あれと願う。そなたは良き友であった」
感情を押し殺したまま、イーツシュレウは語った。
――「ありがとう。イーツシュレウ。……そして人よ。魔導のことをよろしく頼む。この後、忌むべき事が起きぬよう、再び封印が為されないよう――魔法が常に人にとって良き存在たらんことを願う」
――「では、魔力を解放するのだ。二人とも目を閉じて……呼吸を大きく繰り返し……そうだ。他のことは何も考えなくていい。自分の深層に存在している力を体外へと出すように、想像するのだ」
ユクツェルノイレの言葉どおり、二人は目を閉じて意識を集中させた。今もミスティンキルの身体全体を赤い魔力の膜が取り囲んでいるが、それが徐々に大きく強く膨張していくのが感じとれる。
――「いいぞ。そのまま力を強めていって……私が“開封のことば”を唱えよう……」
――<アーディ>!
そして――。
それがユクツェルノイレの最期の言葉となった。
◆◆◆◆
ミスティンキルは目を閉じる。心の中を無にして、ゆっくり、天上を仰ぐ姿勢をとる。
まぶたに映るのは暗黒ではなく、月の光のイメージだ。白銀が白々と映えていた。
やがて網膜に、自分の魔力――まったき赤がぼんやりと浮かび上がり、じわじわと白銀を打ち消してゆく。
(魔力よ……おれの力……。おもてに出てこい……)
仰いだままの姿勢で大きく呼吸をひとつ、ふたつ。……みっつ。
まぶたの裏側に映る赤は徐々に鮮明に色を写しだし、同時にミスティンキルの心をも高揚させていく。ミスティンキル自身も、自分を取り囲む赤い魔力がさらに力を増しているのが分かった。
おもむろに両手を水平にかざす。掌から魔力を放出させるような情景をミスティンキルは頭の中で描いた。
そして――
――<アーディ!>
ユクツェルノイレによって“開封のことば”が放たれると共に、ミスティンキルは仰いでいたこうべを戻し、かっと両の目を見開く。深紅の両目は今や、ぎらぎらと輝いていた。
「出ろ!」
ミスティンキルがそう叫ぶと同時に、彼の身体に絡まっていた赤い魔力の薄絹は霧散し、瞬時に両の手に集まる。さらに、彼自身の内部に存在する膨大な力もまた、掌の一点に集まった。
龍の放つ業火のように、両の手から勢いよく赤い魔力が放たれ、“封印核”の半分を覆い包む。彼の想いによって肥大した赤い力は、炎のような象形となった。それは、ミスティンキルが炎の司であるためだろう。火が氷を溶かすように、赤の魔力によって徐々に立方体の表面が溶けていく。
その反対側で、ウィムリーフもまた魔力を解き放っていた。彼女は両手をぴたりと“封印核”の表面に押し当て、青い魔力を放出させる。彼女の掌を中心として、風にたなびく水のように波紋が幾重にも広がり、立方体を崩していく。
双方の魔力が重なる部分では、赤と青が螺旋状に絡み合い、核の外周に見事な円環を形成させた。
黒い翼の持ち主が真っ赤な魔力を“封印核”に叩きつけ、その反対側では白い羽根の持ち主によって青い魔力が放たれ、“封印核”を振動させている。各々の髪の色、つまり黒と銀は、魔力を発動した本人の色を受けて、妖しくも華麗に色づく。
そして彼らの魔力がぶつかり、融合する中心部では縦の輪が創られ、有機的にうごめきながら廻り、同時に赤・青・紫と色を変化させながら煌めいている。
この時、月に住む様々な種類の精霊達は、真珠の塔を覆い尽くす鮮やかな色を見て、一様にこう思ったに違いない。
――美しい――と。
“自由なる者”イーツシュレウもまた、同様に感じ入っていた。だが、惚けてばかりもいられない。彼自身はこの儀式そのものに干渉することは出来ないが、もし悪しき力が芽生えた場合はそれを断ち切るよう、心構えをしていた。また同時に、月からアリューザ・ガルドへ繋がる“次元の門”を招来しようとしていた。
やがて、ぴしり、という音と共に、“封印核”の表面の至るところに亀裂が走った。
その様はまるで、湖上に張られた分厚い氷が強大な力を受けて割れていくよう。がらがらという大きな音が立方体から響くたびに亀裂は広まっていく。もう少しの時間で“封印核”が割れるのは確実であると思われた。
だが、いくらミスティンキルが膨大な魔力を有するといっても、人間である以上、体内にある魔力は無尽蔵ではない。ミスティンキルは、自身から放出されている魔力がそろそろ枯渇しそうなことが感じ取れた。
ウィムリーフもまた同様。彼女はすでに魔力を出し絞ってしまったのだろうか、それまで彼女を覆っていた青い魔力の膜すら消え去ってしまっていた。普通の人間であれば――また並の術使いであってすら、いつ倒れてしまってもおかしくない状態なのだろうが、冒険家を名乗る彼女の強い意志がウィムリーフの身体を何とか支えていた。肩で荒く息をしながらも、そのまなざしは相変わらず真摯だった。
「……だいじょうぶよ。ミスト」
彼女の言葉を聞いて安心したミスティンキルは、これが最後とばかりに体内に残存しているだろう魔力を全て解き放つよう、自分の中で思い描いた。
「……よし。行けぇ!」
かけ声と共に、紅蓮の魔力が“封印核”の中心に向けて放たれた。
ミスティンキルの魔力が“封印核”に触れると同時に、内部にあるユクツェルノイレの身体からも大魔導師が有する魔力が放射状にほとばしった。ユクツェルノイレの持つ赤い魔力が立方体内部の壁にぶち当たると、それらはいくつもの奇妙な文字と化していくのであった。
“呪紋”。
魔法をかじったことのある者であれば、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。かつての魔導師達が用いていたそのすべは、魔力をさらに増幅させ、術の効果を最大限に発揮させるものだ。
外から受ける魔力と、内側から放たれた呪紋。その二つの衝撃によって、ついに“封印核”は砕け散った。
そして“封印核”内部にあった無数のしゃぼん玉は、はかなくも次々と割れゆき――その内に封じ込められていた膨大な魔力がいよいよ外に放たれようとしていた。
◆◆◆◆
魔力のこもったしゃぼん玉は、ひとつ割れるたびに轟音を放ち、周囲の空気をも震わせる。解き放たれた魔力の大きさは圧倒的なものであった。小さな玉に凝縮されていた魔力は爆発と共に膨張し、ミスティンキル達に襲いかかるのであった。
ミスティンキルら三人はその衝撃のたびに何とか堪え忍ぶのだが、内包していた魔力をすでに完全に失ったユクツェルノイレはそうではなかった。真紅のローブは千切れ、彼の肉体は、やわな石膏のようにぼろぼろと崩れ去っていった。だが、不思議と“悲しい”という感情は芽生えなかった。
なおも迫りくる強力な魔力に抗おうと、ミスティンキルは腕を胸の前で十字に構え、守りの姿勢をとった。衝撃のいくらかはしのげるものの、それでも彼に向かってくる力の量は絶大なものであった。
しゃぼん玉が割れて、轟音と共に色の帯が出現する。ひとつ、またひとつと……。
そのうちにミスティンキルは、自分の身体に何かが起こっているのを知った。先ほど放出しきってしまい全く失われたはずの魔力が、今や再び自身の体内にみなぎっているのを感じる。それは、解放された色の帯――魔力の本質が、彼に与えたものだった。
数々の色の帯が彼に与えたのはそれだけではない。いつしかミスティンキルは、今まで聞いたこともないような言語が大量に自分の体内に入り込み、頭から足の先に至るまで、ぐるぐると循環するのを感じていた。ミスティンキルには解することが出来ない言葉であったが、おそらくは太古に存在した“力”を持つ言語のうちのいずれかなのだろう。
ミスティンキルは抗うのを止め、魔力の渦に流されるままになろうと決意した。すると魔力を帯びた色達は一斉にミスティンキルの周囲を取り囲み、彼にさらなる膨大な情報をもたらす。それは、魔導を扱うすべであり、呪文であった。並の人間であればその情報量のあまりの多さに仰天して卒倒したか、はたまた衝撃に耐えきれず、心身を破壊されて死んでしまったかもしれないが、魔法使いとして卓越した素質を生来持っているミスティンキルは、それら全てをあるがままに飲み込んだ。
(入ってくる……これが魔導、というやつか。分かるぞ、こいつは……この力はすごいもんだ!)
多彩に組み合わされゆく魔力の帯に取り囲まれ、ミスティンキルの視界からはウィムリーフやイーツシュレウの姿が見えなくなってしまっていた。二人が無事であることは感覚的に掴み取れる。だが、唯一失われたものがあるのを知った。
つまり、ユクツェルノイレはすでにここにはいないということ。彼の気配は失われ、おそらくは“幽想の界”へと旅立っていったのだろう。
ミスティンキルの意識が次第にぼやけていく。彼の中を突きぬけた様々な色の帯は、そのまま真っ直ぐにアリューザ・ガルドへと向かっていった。幾重にも渡る色の帯がこうして解放されゆくことで、“原初の色”の流れは本来あるべき姿に戻るのだ。そして森羅万象あらゆるものが、今までどおりの色に彩られることだろう。
アリューザ・ガルドに色が戻る。
ミスティンキルは確かな達成感を味わいつつ、意識を失っていくのだった。
終章
気が付けば煌々と照る月を見ていた。
時は深夜。
おそらく、ずっと前から天上を見上げていたのだろう。ようやく我に返ったミスティンキルは仰向けになったまま、ほうっと息をついた。真っ白な吐息が立ち上り、そしてはかなく消える。
(……帰ってきた、のか?)
ミスティンキルはがばりと跳ね起きると両の目をこすり、周囲の景色を見た。夜目を利かせると、二本の柱がそばに立っているのが薄ぼんやりと見えるが、ここは以前自分達が“炎の界”に赴いた場所と同じ場所なのだろうか。アリューザ・ガルドに無事還ってきたというのだろうか?
いや、そもそも自分は本当に“炎の界”に行き、さらに月まで行ってきたのだろうか。実は、あれらは全て、自分の夢の中での出来事だったのではないだろうか?
様々な疑念が頭の中に浮かび上がるが、それらは全て一瞬でかき消えた。
彼は背中に翼を得たのを察知したからだ。
およそ絵空事としか思えない奇妙な出来事の数々が、彼が夢の中で見た空想ではなく、現実に起こった――いや、自分達が“起こした”出来事であるということを確信した。
彼の翼は、アリューザ・ガルドでは目視は出来ないが、それはやはり龍の翼に似た形をしているのだろう。そうして、飛ぶようにと念ずれば、たぶん空高く舞い上がることが出来るだろう。ウィムリーフのように。
そして、炎を象徴する魔力が自分の体内に渦巻いている。
ミスティンキルは“炎の司”になったのだ。しかも、きわめて力の強い司に。彼が望めば、そう遠くない未来に“司の長”の頂点に立つことすら可能だろう。自由奔放な今のミスティンキルはおよそ望むはずもないだろうが。
さらに“炎の司”の資格だけではない。魔法の頂点といえるもの、“魔導”をも彼は習得していた。
今までの自分では知るはずもない膨大な知識が、頭の中に全て入っている。それは魔導に関するありとあらゆる知識だ。目くらましのような簡単な術。占いや儀式の行い方。そして――人間一人ではとても制御しきれないほどのすさまじい威力を持つ、破壊の魔法すらをも彼は得ていた。これらはミスティンキルが生まれながらに持っていたものではない。全てユクツェルノイレと、“封印核”内部の多種多様な“原初の色”の帯から受け継いだものだ。
人の手によって為された魔導の封印は今再び人の手によって解かれ、解封に携わったミスティンキルは、魔導のすべを知り、かつ行使できる者となった。ユクツェルノイレの言葉のとおりならば、ウィムリーフもまた同様の力を得ているはずだ。
『魔導の継承はミスティンキル“達”に託したい』
とユクツェルノイレは言っていたから。
その時、冷たい風が彼の体をなでた。ミスティンキルはぶるりと身震いした。春とはいえども、やはりエマク丘陵から南部イグィニデ山系にかけて、デュンサアル一帯の高原地方の夜は底冷えがするものだ。
時はアズニール暦にして一一九七年、春の初め。
かつての封印から七百年以上という、人の子にとっては長すぎる時を経て、魔導のすべはここに復活した。
魔導を身に得た彼らが、これから辿る道はどのようなものになるのだろうか? それは龍王やユクツェルノイレですら分からないこと。すべては、ミスティンキル達が切り開いていくものなのだ。
『ウェインディルを見いだせ』
ユクツェルノイレはそのように言った。もう一人の大魔導師を見つけろ、と。
魔導を極めた、“まったき聖数を刻む導師”ユクツェルノイレの助言に虚偽はないだろう。だが、それよりも前に、自分達にはやらなければならないことがある。冒険書の編纂だ。
くしゃみの音がひとつ。
見ると、ミスティンキルのすぐ傍らではウィムリーフが寝入っていた。体を丸めて膝を抱え、寒さに耐えながらも、彼女はまだ眠りから覚めることはなかった。ミスティンキルはかがみ込み、柔らかな感触のする彼女の髪の一房をなでる。ドゥローム達の居住地域に入る前に、ウィムリーフは黒く髪を染めていたのだが、別世界での冒険を経ているうちにいつの間にか染料が落ちてしまっていたようだ。やはりウィムリーフには銀色の髪こそ一番似合う。
ミスティンキルは自分が羽織っていた上衣を脱ぎ、彼女にかけてやった。ドゥロームの衣。それは月の世界の湖でずぶ濡れになり、真珠の塔の頂上で脱ぎ捨てたはずの衣だったが、どうやらイーツシュレウが気を利かせてくれたものらしい。あの小公子は言葉どおり、アリューザ・ガルドへ帰還するにあたって服を乾かしてくれていたのだ。
赤い衣の中から、蝶ほどの大きさの妖精が一人、もぞりとはい出てきた。白銀に輝く小柄な彼――もしくは彼女は、ミスティンキルにぺこりと頭を下げると、空高く、月へと向かって舞い上がっていった。
(月の妖精か……しかしまあ、今までいろんな連中と会ったもんだ)
龍王イリリエンと蒼龍の戦士アザスタン、“炎の界”の龍達。そして“自由なる者”ディトゥア神のイーツシュレウと魔導師ユクツェルノイレ。
彼らの姿が頭をよぎる。バイラルが一生を遂げたとしても、これだけの力を持つ者達と会うことなどまずあり得ない。自分達は実に貴重な体験をしたのだ。
「まあ、ひと月かふた月か分かんねえけど、当分はお前の書く冒険書とやらの手伝いをせにゃならねえんだろうな。……しかしよくやったよ、おれたちは。自分のことを自分でほめちゃあ世話ねえが……ありがとうな、ウィム」
その率直な言葉は、ウィムリーフが起きているときであれば彼は声に出すことが出来なかっただろう。そうして自分も彼女の傍らに横たわり、そっと背中からウィムリーフを抱きしめた。恋人の体から伝わってくる心地よい温かさと匂いが、なんだかとても懐かしいもののように思え、ミスティンキルの心を落ち着かせていく。
風が再び舞う。土の匂いや木々のざわめきが、ミスティンキルの感覚を優しくなでる。
アリューザ・ガルド。物質が確固として存在するこの世界に、無事帰還を果たしたことを、確かに感じ取ることが出来る。
自分が生きていく世界は他でもない、アリューザ・ガルドだ。自分の過去には思い出したくもない色々なことがあったにせよ、“ここ”こそが一番いたい場所なのだ。はじめて、彼は実直に嬉しくなり、首を星空に向けた。
澄み切った天上。“炎の界”に転移した昨晩と変わらず、空には数限りない星々が瞬いていたが、なかでも月の姿はやはり別格だった。一昼夜を経て今夜は満月。月は真円を象り、空の周囲にあるであろう星達の姿を、白銀の輝きでもって消し去ってしまう。
あの遠く離れた次元にある世界、月の世界に今し方まで自分達がいて、アリューザ・ガルドを見ていたのだ!
にわかには信じがたい出来事が多々起こり、そして帰還を果たしたことについて、あらためてミスティンキルは途方もない達成感を覚えた。
やがてゆっくりと、睡魔が彼を襲う。彼自身はもっとウィムリーフのぬくもりを感じていたかったが、極度の疲労と眠気に打ち勝つことはついに出来なかった。否応なく、ミスティンキルは眠りの縁へと再び落ちていった――。
◆◆◆◆
とりとめのない夢を見ながらも、自分の名前が呼ばれているのを意識したミスティンキルは、浅い眠りからゆっくりと覚醒していった。
もそりと上半身を起こし、二、三度首を振る。両腕を突き上げ大きく伸びをしてから、彼は目を開けた。
すでに周囲は明るくなっているようだ。朝か、それとも昼か……などとのんきに構えていたミスティンキルの表情は次の瞬間一変した。
彼のすぐ目前に、ごつごつした異様な“なにか”があったのだ!
巨大な青い岩。その岩の一部が割れ、亀裂が上下に開いていくと、その奥からは黒めのうのように真っ黒な眼球が現れた。そして、その中央にある白い瞳孔が、ぎろりとミスティンキルを凝視する。
およそ予想だに出来ない光景を目の当たりにして彼は瞬時に目が醒め、恐怖のあまり腰砕けのまま二歩三歩後ずさる。いつの間にか彼の体にかけられていた赤い上衣をぎゅっと握りしめる。
あんぐりと開けたままの口がようやく閉じ、何とかかたことの言葉を発音した。
「ドゥ、ドゥ……龍?!」
そう。彼の目の前には龍がいたのだ! 龍は、顔をこちらに向けた姿勢で臥していた。顔の大きさだけでも、ミスティンキルの身長を遥かに凌駕するほどの巨龍だ。幼い龍はともかく、これほど成長した龍が人の前に姿を現すことなど滅多にないことだが――。
(危ねえ!)
そのようにミスティンキルが思った瞬間、彼の手元にはいくつもの火球が出現し、それらは矢のように龍めがけて飛んでいった。突如出現した真っ赤な火の玉は、明らかに魔法の力によるものだ。
龍を目の前にして、本能的に危険を察知したミスティンキルは、威嚇のためでなく倒すという明確な意志のもと、とっさに攻撃の魔法を発動させたのだ――が、龍が首を一振りしただけで、それら全ての火球はあっけなく打ち消されてしまった。
【……龍の力を見くびるでない。そもそも、だ。魔法というものは、たやすく用いるべきものなのか? それは違うだろう】
蒼龍の声がミスティンキルの頭に直接響いた。どうやらこの龍は敵意を持っていないらしい事が分かる。
ふしゅるる、と音を立てて、龍は熱い鼻息を吹き出した。ちろちろとした炎がちらつくそれは、龍にとってのため息だったようだ。が、それでさえ人の身体を焼くには十分だ。ミスティンキルはさらに退いた。
【姿は変われど、わしだと見破れないようでは……いくら魔導の知識を得たと言っても、やはりお前は若い。浅はかで直情的……愚かだな。赤目の龍人】
金色の角を持った青い体躯の龍の声はそう響いた。
「あんた、まさか……アザスタンか?」
ミスティンキルが言うやいなや、龍は目を細めると次には天に向かって大きく吼え――姿を変えた。
白い装束をまとい、二振りの剣を腰に下げた龍戦士の姿に。
「その、まさかというやつだ」
アザスタンは腕を組み、ミスティンキルと対峙するとアズニール語で返答した。
「だがお前とは違い、ウィムリーフは大したものだったぞ。わしのことをきちんと理解していた。たとえわしが龍の姿をとっていたとしてもな」
「……うるせえなぁ」
ぼさぼさになった頭髪をぼりぼりと掻きながら立ち上がると、きまりが悪そうにミスティンキルは返答した。
「だいたい、あんたは龍王の側近じゃなかったのか? それがなんだって、こんなとこにいるんだよ?」
「わしとて本意ではないのだがな。龍王様から命じられて仕方なくではあるが、しばらくの間お前達と行動を共にする」
アザスタンは少々嘘をついたが、それが見破られることはなかった。
「……おれは嫌だぜ、そんなの」
ミスティンキルは不満そうに口をとがらせた。彼にとって今のアザスタンの存在は、二人の間に割り入ってくる野暮な邪魔者としか思えない。
「そんなことを言っていいのか? もしわしがここで“炎の界”に還ってしまったらお前達、大変なことになるぞ。デュンサアルの人間達を説き伏せられるか、お前が?」
「……。あれだけ騒いでみせれば仕方ねえか……」
ミスティンキルは舌打ちをした。
自らの行動が招いた結果とはいえ、後先考えずにあれだけの大騒ぎをやってのけてしまったのだ。いくら“司の長”のエツェントゥーの口利きがあるとはいえ、何事もなくデュンサアルに戻れるとはとうてい思えない。よそ者のしでかした粗野な振る舞いに対して、敵意にも似た反感を抱く者も多々いるだろう。
おそらく今頃、デュンサアルでは前代未聞の不祥事に蜂の巣をついたような大騒ぎになっているに違いない。下手をすれば、炎の“司の長”達が警備兵を引き連れてここまでやってくるかもしれない。そうなったとき掟破りの自分達は犯罪者として裁きにかけられるだろう。その先どうなるのかは分からないが、少なくともよくない結果がもたらされるのはミスティンキルにも分かった。
――だが、龍王から遣わされた龍がその場にいたとなれば、どうか?
ここにいるアザスタンが
【彼らは龍王の命を受け、為すべきことを為し遂げたのだ。だからアリューザ・ガルドに再び色が戻ったのだ】
とでも宣告をすれば?
間違いなく状況は一変するだろう。むしろ逆に自分達は、龍王に選ばれた者としてデュンサアルの龍人達から好待遇を受けるかもしれない。ならば、と、ミスティンキルはアザスタンの介入を渋々受け入れた。
「ちっ……。俺としちゃあ不本意だが、どうやらあんたと一緒に行くほかなさそうだな、龍殿!」
「まあ、そういうことだ。しばらくしたら、こちら側からデュンサアルに向かうとするぞ。さしもの長達も肝を冷やすだろうがな!」
アザスタンはのどの奥で笑った。これから起こるだろう数々の物事を予想し、楽しんでいるようだ。
◆◆◆◆
「そうだ。ウィムはどこに行っちまったんだ?」
「ミストが寝ている間にちょっと飛んでみて、デュンサアルの様子を眺めてきたのよ。……おはよう、ねぼすけさん。もう、おてんとうさまも高いわよ!」
その時ウィムリーフが真後ろからミスティンキルの背中を軽く小突いた。彼女の口調から察するに、ミスティンキルの様子にややあきれているようだ。
「あ? ……ああ、おはよう……」
「まったく……。この期に及んで真剣みに欠けてるのよねぇ、あんたは! ほら、ちゃっちゃと服を着て! ……あ、そうだ。それでね、アザスタン。いい加減なんかしらの行動を起こさないと、あたし達本当にまずいことになるわよ!」
ウィムリーフは半ば惚けたままの相棒を叱咤した後すたすたと歩き、龍頭の戦士に向かって言った。
「ついにドゥローム達が動いたか」
「そう! 二人のドゥロームが指揮を執ってるようでね。そのあとに武器を持った兵士達が続いているわ。もう、山道に続く吊り橋を渡り終えてるから……あの連中が翼を使って飛んでくるとしたら、すぐにでもここに来ちゃうわよ!」
彼女の口調は、きわめて真摯だ。やや焦る気持ちが表に出ているが。
対するミスティンキルは、
「へぇ。よくそんなことが分かったなあ」
などと、のんきな口を返す。
「……!!」
ぷちん。
もし彼女から音がしたとするならば、まさしくこんな感じだろう。
状況が逼迫してるときに限っては、たいていの場合ウィムリーフの堪忍袋の緒のほうが切れやすいのだ。
「さっきも言ったでしょう! あんたが! のうのうと寝てる間に! あたしが! 用心に用心を重ねて! 様子を見に飛んでいったの!」
一言区切るたびに、ウィムリーフは人差し指でミスティンキルの胸部を強めに突く。
「たっ。そんなに怒るなっての! ……ま、そいつはそうと、兵士を指揮してる二人ってのはだいたい想像がつくな。執念深い奴らだ」
こうなった時のウィムリーフには逆らわない方が得策であることを知っているミスティンキルは、ただ悪態をついた。
そして考えた。
自分達に明確な敵意を持っている司と言えば、二人しか思い当たらない。最初にミスティンキルを侮辱した長――マイゼークと、まんまと吊り橋を突破された守人――マイゼークの息子、ジェオーレに違いないだろう、と。
「……で? アザスタンさんよ。おれは連中をゆうに追っ払える魔法を身につけてるわけだけれど、そんなことは出来ねえんだろう? だったらどうするんだ?」
アザスタンは鼻で笑って――次におのが背に得ている翼を広げて空高く舞い上がった。
「ふん。悪知恵の働きそうなお前のことだから、わしがどうするのかおおよそ見当がついているだろうに。……まあ、彼らを殺すわけにいかんだろう? だから“彼らが絶対に納得する方法”というものを実行してやろう。それは、魔法なぞを発動させるより、ある意味痛快なものになるだろうな!」
アザスタンは再び吼え、巨大な龍の姿に戻った。
「ウィム。飛ぶぞ! お偉いさんがわざわざここまで出向く手間を省いてやろうぜ」
ミスティンキルは相棒に向かって不敵に笑った。“絶対に納得する方法”によって、あの二人の司が顔色をなくすのを見るのが、今から楽しみでしかたない。
【なればだ。二人ともわしの後に続け。龍王様と相対した勇敢なる者、そして魔導の継承者よ!】
アザスタンはそういうなり巨大な翼を広げ、一路デュンサアルの麓を目指して飛んでいった。
ウィムリーフは“彼らが絶対に納得する方法”とは何なのか、的を射ていない様子でありながらも、飛び上がり、蒼龍の後に続いていく。
ミスティンキルは――物質界で滑空するのは生まれて初めてとなる。勢いよく身体が宙に放り出されたかと思うと、あらぬ方向に飛んだり、落ちそうになったり。いろいろと滑稽な姿をさらして四苦八苦を繰り返しつつ、なんとか二者の後に続いていく。やがて見かねたウィムリーフが彼の手を取り、翼を使った飛び方というものを教えていくのだった。
アリューザ・ガルドに帰還した二人と、炎の界から転移した龍は、こうしてドゥロームの聖地デュンサアル山を後にした。
◆◆◆◆
ミスティンキル達がマイゼーク達と対峙しようとしている、その同じ刻。
世界東南の地デュンサアルから遙か離れたこの場所においても、魔導復活の物語に関係するであろう人物が動こうとしていた。
暖炉のある部屋でひとり、安楽椅子にもたれかかって茶の香りを楽しんでいたその老人は、周囲の空間に異変が生じたのを察知した。案の定、彼のすぐ横の空間の一部が黒く染まり、細かな電光がその周囲を覆う。
だがその異変は、この老人にとっては驚くに値しないこと。“彼”が次元を越えて出現する兆候だ。老人は茶を一口含むと、ゆっくりと香りを楽しんだ。
「……無事に帰ったか」
白髪の老人は、まなじりにしわを寄せて友人の帰還を喜んだ。
空間の闇の中からひとり、細身の青年が姿を現した。
「どうも。意外とすんなり話が通りましたよ。いや、思ったより話せるお方だったようでねえ」
老人の友――癖のある金髪が映える青年は、相も変わらず穏やかな口調でそう返答し、円卓脇の椅子に腰掛けた。老人は青年と向き合った。
「……ああ、今日はいい天気だ。こんな日はあのニレの木のもとでタールでも弾きたくなるな」
青年は窓の外の景色を眺め、楽器を弾く仕草を見せる。その口調はさわやかなものだった。昨日“炎の界”へと旅立つときは、やや緊張の色が見えていたというのに、今は全くそれを感じさせない。
「うん。よかった。無事に“色”が戻ったようですね。ほら、離れの館を見てください。昨日まで病気のように褪せていたツタが、見事に緑の色を取り戻していますよ」
青年はにこやかに微笑むと、卓にあった瓶を手に取ると、手元のカップに茶を注いだ。
「今朝未明に色の流れは本来あるべき摂理に戻ったのだよ。だが、それと同時に、魔導も復活した……これは間違いないのか?」
老人が身を乗り出して訊く。
「ええ、あなたの言ったとおりでしたね。色が褪せていった――これは魔導と深い関わりがあるものであり、当世において最も優れた魔力を持つ者が事態の収拾にあたるだろう。しかしそれはあなたやあの子ではない……ってことがね。事にあたったのは全く別の人間です。その人間がこれから運命を切り開くのか、それとも弄ばれるのか――それはその個人の行動いかんによって変わってきてしまいますが」
「なるほど。だが、私の存命中にその者が現れたのは幸いだ」
老人は目を閉じると大きく息を吐いて、言った。安堵という名の穏やかな空気が彼ら二人を取り囲む。とりあえず、事は成就したのだからよしとするべきだろう。老人は続けて言った。
「魔導の力は諸刃の剣。しかるべき者が扱うべきだ。運命に弄ばれるような意志の弱い者に魔導を任せておく訳にはいかない――“魔導の暴走”の再来だけは避けねばならないからな」
彼の持つカップが震えているのは、彼自身が恐れをなし、震えているからだ。“魔導の暴走”を知る、数少ない者の一人だから。
「これは早々にも旅立たなければならないでしょうね。龍王イリリエンが言うには、“彼ら”はドゥロームの聖地、デュンサアルにいるっていうんですから」
「デュンサアル……あまりにも遠いな。“ここ”からもっとも離れている場所ではないか……。私が出向くには少々厳しいものがあるが、やむを得ぬか。魔導を解き放った者に会いに行かねばならぬ」
「いや。ここは僕が行きましょう。あなたにとってはあまりにも長旅になる。必ず、身体に障ることでしょう。あなたはここで待っていてください」
老人はしばし考え込んだ。そして口を開く。
「……失礼だが、君は魔導についての知識はほとんど持ち合わせていないはずだ。君がデュンサアルまで転移するのはそう時間がかからないだろうが、帰路はどうする? その地にいる魔導の継承者は、人間だ。君と同じ道を通って私の館までたどり着くことなど出来ないだろう。そうすると帰りは……陸路と海路あわせて……少なくとも三ヶ月以上の時が必要だと思うのだが、もしその間に、かの者それと知らず身勝手に強力な魔導を発動させてしまったとき、君ひとりで抑え込めるか? やはり私が……」
青年は、カップを卓に置いて答えた。
「いえ、むしろ帰路の方が安心できます。彼らと一緒に龍がついていますからね。龍の翼だったらここまで辿り着くのにそう時間はかからないはず、です。……というより問題はやっぱり往路ですねぇ。僕ひとりで行ってもいいんだけれども……あなたの言うとおりだ。魔導を持つ者に対してどう対処すればいいのか、正直分かりません。……エリスは今どこに?」
「エリスメアはアルトツァーンの王都、ガレン・デュイルにいる。あの娘を連れて行くのか?」
「はい。あなたと“彼ら”以外に魔導を知る者といえば、あの子しかいないでしょう。まだ腕の方は確かではないかもしれないけれども、僕にとって大きな支えになることは間違いない。出来ればエリスと合流した後にデュンサアルへ向かいたいのですが、よろしいですか?」
「それは私の決めることではないだろう。エリスメアは君の娘だ」
「そしてあなたの弟子でもある」
「……それはそうだが……。私が行かないとなると、彼女が君と共に行動するのがもっとも望ましいだろう。それに、彼女自身の魔法修行になるのは間違いないから……分かったよ。我が弟子を付き添わせるとしよう。よろしく頼む」
「分かりました。……しかし僕らの運命っていうやつも、やっぱり数奇なものなんですねぇ。魔導と切っても切れない関係にある、とはね。……もう少しのんびりとさせてくれても良さそうなものを……このぶんじゃあ、万が一、冥王が復活したときにも、真っ先にかり出されそうだな、僕は」
青年は苦笑して答えた。
こうして、いにしえより魔導と深い繋がりのある者達も、また動き出した。
魔導の復活。それはアリューザ・ガルドの諸国家や一般人にとっては何ら興味を引く事項ではないだろう。
だが、魔法使いにとっては違う。魔導封印後も、一部の魔法はこれまで細々と受け継がれていた。威力の弱いそれらは“まじない”とか“術“などと呼称されていた。そこに突如、魔導の継承者が現れたのだ。その者は魔導を行使するに相応しい魔力と、手段を持っている。しかし、自然界の摂理や魔導の発動原理の知識となると全く無知だ。
復活した魔導は――そしてミスティンキルは、アリューザ・ガルドにおいて、この後どのような物語を紡いでいくことになるのだろうか?
それを知る者は誰一人としていない。
もし予言に精通した魔導師が現世におり、このあとの筋道を語ったとしても、いざその局面に実際に立ったとき、予言がすべて現実のものになるかどうかは定かではないのだ。
人間達の行動いかんによって、未来とはどのようにも変化していくなのものだから。
◆◆◆◆
……。
ソシテ……。
ヨウヤク“私”ハ目覚メタ……。
ソウ。
……望ンデイタ時ガ、遂ニ来タノダ……!
〈第一部・了〉
赤のミスティンキル 第一部