めしべ
種など欲しくなかった。花などもう一度咲かなくてよかった。ただ、相手が、そこにいてくれればよかった。
その繊細な雰囲気と、凛と張った声。首すじにかかる細い柔らかい髪、長く形の良い指先。深く落ち着いた眼。伏せられた長い睫が、つ、と上を向くたびに、音が聞こえてきそうだった。
美也は佐和子が出会った、生まれて初めての「美しいひと」だった。
「卒業かぁ」
屋上の柵にもたれながら、美也は空を仰いだ。二月の終わりの空気は息苦しいほど張り詰めており、雲間から洩れた陽光は、屋上に容赦なく突き刺さっていた。この冷たさに、時が止まってしまえばいいのにと、佐和子は思う。
このまま、美也と自分が二人たげでここに残れたらいいのにと。
「……結局女子大やめたんですね。W大、おもしろそうですか?」
美也のすぐ隣で、佐和子は彼女を見ないままに聞いた。
「だって女子大行ったら、十年女子校に通うことになっちゃう。それじゃあ世界広がらないかな、て思ってさ。女子校の楽しさは、この六年で十分わかったよ」
少しだけ笑って、美也はちらりと佐和子を見る。相変わらず、彼女は顔を上げない。俯いたまま、曖昧な様子でうなずいた。
「佐和子、」
声をかけると、「はい」と小さく返事をする。佐和子はいつでも礼儀正しい。それは、部活の先輩後輩だった頃も、恋人と呼ぶ関係になった今でも変わらない。黙って寄り添う影のように控えめで、大人しい女の子。
「……雲から光の筋が洩れてる。キレイ」
上着のポケットに入れていた手を、空へと向ける。佐和子はその先を見やり、やはり曖昧な様子でうなずくのだった。
佐和子は、決して強い子ではない。自分が卒業した後も、彼女は美也に電話をしてくるだろう。手紙を書くだろう。もう二度と連絡をよこしてはいけないと言い聞かせたとしても。恋人の 美也を、心から消すことができないだろう。
小学四年生の時に聞いためしべの話を、美也は今でもはっきりと覚えている。
『めしべとおしべが受粉することで、新しい種ができるのです』。
甘い香りに誘われた虫が、めしべの先の蜜におしべが抱く花粉を絡みつける。そうやって新しい種はできるのだと、保健の教師は言った。
『あなたたちは、めしべなのですよ』、と。
なぜ――めしべ同士では種ができないのだろう。濃厚な蜜が混ざり合うだけでは、何も産まないのだろうか。
美也にとっては当然の疑問だった。校長室の前に飾られた大きな百合の花、そのふくよかなめしべ、濡れた先端。人差し指で触れると、とろりと細い糸を引いた。あれだけではなぜ、生殖能力を持てないのか。
美也は、ぬるぬるした感触の残る手で、もう一輪の百合のめしべをちぎった。根元まではうまくちぎれず、柱頭部分だけがその手に残った。その振動で、手の甲にはらはらと花粉が落ちる。片手で払おうとしたが、茶色の粉は肌にしっかりと吸いついて離れなかった。漠然とした嫌悪感が、付着した箇所から湧く。
教師や他の児童が来ないかどうか廊下をきょろきょろしながら、美也は、ちぎった柱頭を先ほど触れためしべの先へとそっとこすりつけた。強い百合の匂いが鼻をつく。めしべはお互いの粘液を溶かしあい、どちらのものともつかぬ汁で艶やかに濡れた。
校長室の前の百合の花は、三日後にはもうなくなっていた。新しい花ができるかどうか、美也は結局、試みることができなかった。
自分が女の子しか好きになれないと悟ったのは、その頃だった。
かすかな溜息を、佐和子はじっと聞いていた。言葉のひとつひとつ、呼吸のひとつひとつが、確実に過去へと変わって行くのがわかった。
「さようなら」? 「終わりにしよう」? 「もうやめよう?」
ドラマや映画で幾度となく聞いた別れの言葉が、美也の唇からいつこぼれるのか心配でたまらない。恋人との別れを経験したことはないが、言葉数の少ない会話と、この怖いほど青く冷たい空が、その瞬間を用意しているように思えた。
心臓が、ぎしぎしと、痛かった。
「先輩、春になったら――」
体内に積もった緊張を吐き出そうと、佐和子は口を開いた。
「春になったら、桜を見に行きませんか。所沢の航空公園。すごくキレイだそうですよ。あたしの地元にもキレイな桜並木があるんです。屋台も出て、ピクニックしてる人もいて、ちょっとしたお祭りみたいなんです」
話し始めたら止まらなかった。桜の話に始まって、地元の話、花火の話、友達の話、あちこちに話題が飛んだ。
この話の終わりが、二人の終わりだ。
佐和子のその確信を、美也は感じ取っていた。自分に、話す隙を与えてくれない空気。明らかに、彼女は怖がっていた。自分が次に発する言葉を、拒否することができないのを、彼女は察してしまっていた。
「それで、由紀ってば――」
「佐和子」
一向に自分の顔を見ようとしない佐和子を、美也はのぞきこんだ。びくりと、彼女は美也を見返す。瞳の奥が滲み、ゆらゆらと揺れていた。
長く、美也は息を吐いた。
終わらせなくてはならない。たとえ佐和子が大声で泣いたとしても。彼女を嫌いになったわけではなく。彼女が好きだから、ちゃんと終わらせなくてはならない。
怯えた顔の佐和子の頬に触れて、美也はまじまじとその顔を見つめた。
やわらかい頬。ぽってりとした唇。きっと佐和子は、やがて自分を忘れるだろう。この女子校の外に出た時。男の指に触れて、その強さに憧れるだろう。佐和子の美也に対するものは、女子校という特異環境における擬似恋愛のそれに他ならなかった。自分たち以外にも、そういう恋人を何組か知っている。けれどこの場所を卒業してからも続いている組み合わせを、美也は聞いたことがない。外に出れば、みんな変わって行くのだ。ごく一部、自分のような存在をのぞいて。佐和子は自分とは違うものなのだと、最初から美也も知っていた。知っていて、好きになった。佐和子がずっと自分を好きでいてくれたらどんなにいいだろう。来年も再来年も、ずっと一緒だと言って笑ってくれたら、どんなに幸せだろう。けれど彼女は、戻らなくてはならない。他の女の子たちと同じ道に。今別れれば、「ほんの少しの間、同性と付き合った」という思い出だけが彼女に残る。甘く、ほろ苦い思い出ならば、思い返して恥じ入ることもない。人に伏せてきた恋でも、いつか誰かに話せる時が来る。十代を懐かしむ幸せな顔で。
「――なんで先輩が泣くの?」
掠れた声で、佐和子は口を開いた。震える手が、美也の腕にそっと触れる。表情を変えないまま、美也は泣いていた。
「ごめんね……」
呟いて、美也は佐和子を引き寄せた。花の匂いがふんわりと美也の鼻をかすめる。美也が好きだと言った、シャンプーの匂いだった。
「ごめんね……あたし、あんたのこと好き。大好き。だから、ごめん。あんたがあたしのこと、少しずつ忘れていくのが辛い。だから、今、別れて」
瞬間、佐和子が美也から離れようとした。それを押さえつけるように、美也は腕に力を入れる。
「勝手だけどさ。ごめん。あたし、あんたに覚えていてほしい。あたしを好きだったこと。あたしが、佐和子を好きだったこと。ほんとにうれしかったから、忘れてほしくない」
佐和子は何も言わなかった。自分の髪に、ぽたりと水滴が落ちてくる。その一滴一滴が、佐和子を呼んでいた。求めていた。めしべの先の、甘い蜜のように。
「あたし、先輩のこと忘れたりなんか――、」
「いいよ、佐和子。このまんまじゃ、あんた戻れなくなっちゃう。誰か、男を好きになったとき、今の気持ちに罪悪感出てくるよ。あたしは、あんたの中できれいに残しておいてほしいの。忘れてほしくない。忘れてほしくないの」
繰り返し、美也は呟く。腕に力を入れて佐和子を抱くが、自分の全力をもってしても、男の腕の強さには敵わないことも知っていた。
回された腕から伝わる細かな震動のなか、佐和子はじっと息を潜めていた。美也の心臓の音、小さな嗚咽、セーターごしの暖かさ。どんな些細なものでも、記憶しておかなくてはならない。美也の言うように忘れてしまうのであれば。美也がいなくなって、自分が高校を卒業した後のことを、佐和子も考えてはいた。変わらずふたりが一緒にいることはできない――変わって行くのが自分の方であることも、佐和子は知っていた。どんなに今思っていても。美也と自分は「違う」のだ。いつか聞いた百合の花の話を、佐和子はぼんやりと思い返す。
百合はそのかたち、その色合いだから美しいのだと佐和子は思った。茶色の粉を掲げるおしべがあり、濡れためしべがあり、受粉し種が作られ、また花が咲く。そういう規則正しさがあるから、花は美しいのだと。
おしべをもいでしまうことは、佐和子にはできなかった。その美也に対する罪悪感が、この恋に拍車をかけていたことも、とうに気付いていた。
「――忘れないよ」
美也の背中に手を回して、佐和子は呟く。しなやかな背中。少し角張った肩甲骨。
「忘れないよ。先輩のこと、大好きだもの。だから、先輩も、あたしのこと忘れないで。これから別の人を好きになって、その人と幸せになっても。忘れないで」
やわらかな胸に顔を押しつけて、佐和子は声を殺して泣いた。その肩に、美也が額をつける。
種など欲しくなかった。花などもう一度咲かなくてよかった。ただ、今咲いている花を、ずっと大切にしていたかった。
卒業式に向けて切った美也の短い髪の先を、陽光が掠っていた。
めしべ