忘却のエトランジェ
プロローグ
文明は不可逆であると信じている人は多かろう。確かに、百年前に比べればずっと生活は進化していると考えるのが妥当であるし、この半世紀の技術進歩の速度たるや、たった十年前でさえダサい過去にしてしまうほどである。時代に取り残されてしまえば、その人はゆるやかにつまらない人生へと落ち込んでいかざるを得ない、が、もちろん誰だってそんなことはゴメンだった。
人々に進化をもたらしてきたのはいつだって逆境だ。戦争、自然災害、環境汚染、犯罪、不治の病....。人は死を回避するために心血を注ぐという本能的な制約を課せられている、それも死ぬまで。
死なない人類に進化などない。それ故、不老不死の夢は何千年経とうが夢のままなのであるし、夢であり続けねばならなかったのだ。
そんな生すら犠牲にした、人類の涙ぐましい進化も、半ばどうでもいいように思えてしまうような出来事が起こった。それから人類は、自らの死を思い、足掻き続けている。そしてそれは、恐らく死ぬまで。
***********************
トロリとした闇の中で、ぼんやりと不吉な光を放つモニターを半分閉じた目で見つめている男が一人。チカチカパカパカと規則正しく点滅を繰り返す点は…ええと、何のことだったか。ともかく、退屈なその動きに緊急性とか異常性なんてものはビタイチ感じられない、ので、腑抜けた顔で睡魔と戦うことに専念しているようだ。そこへ呆れた顔をしながら近づく立派な体躯の男が一人。
「なんつう顔だ、ユーリ…平凡ってのは人をダメにするなあ」
「あ?」
至極間抜けな顔でぬらりと振り返った男…ユーリは、大柄な同僚の姿を確認すると、「チッ…何だアラマか…」と面倒そうに呟いた。
「言っておくがな、あのアジアンよりよっぽどマシだぜ。あいつ、酒を飲んでしまいには寝やがるんだ。全く馬鹿にしてる」
違いない、とアラマが苦笑する。モニターの点は相も変わらずチカチカパカパカ律儀に点滅を繰り返していた。
「異常はあるか?」
「いあや、ないね。ないから寝かけてたんだ。じゃなきゃ寝たりしない。」
「ふーん?」
ユーリはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた同僚を忌々しげに睨みつけた。
「それで?研究員様が何をしにこちらへ来られたんです?」
「なんだ、それ?」
「深夜に担当でもないのに管理センター覗きに来るなんて、理由がなけりゃあしないだろ」
「…いやあ、ちゃんと仕事しているか確認にね?と言うかぶっちゃけ寝られなくて暇だった」
えへ、とアラマが笑う。腹立つ。
「だからって、ここかよ?笑え…」
減らず口を叩こうとした刹那、今まで規則正しくチカチカパカパカしていたモニターが強烈な赤い光を放つ、と同時に、けたたましいアラーム音が四方から鳴り響いた。
ユーリは慌ててモニターを確認する。敵襲か?有り得ない、そもそも…敵って誰だ?
対空センサーが異常を示している。空?このご時世、ミサイルでもぶち込もっていうのか?いや、それも有り得ないだろ、誰ができるっていうんだ?位置は…大気圏外?弾道ミサイルか?嘘だろ狂ってる!
「ミサイルか?発射地点は?!」ああっ、くそっ!わかってるよアラマ!いま確認してる!
「何が起こった!」やかましくドアを押し開け人が入って来た。「分かりません!いま確認中で!」おい…嘘だろ!外から地球へ向かってる?じゃあミサイルじゃなくて隕石か?なぜ今まで気がつかなかった?誰にも気づかれずにここまで接近したのか?あり得なさ過ぎるだろ!大きさは…
その表示を確認したとき、ユーリは自分が狂ってしまったのではないかと思い、思わず悲鳴をあげていた。
その日、太平洋の真ん中、誰にも気づかれずに、突如、巨大な円柱が、宇宙から降ってきた。
***********************
「…というわけで、えー、15年前の巨体隕石衝突事件が、一連の人類と化物の戦いの始まりだったわけであり、えー…」
壇上では、上質な礼服に身を包んだ老齢の紳士が、要領を得ない話を30分は続けている。この先生の座学が不人気な訳がわかった。とにかく退屈で、眠いのである。しかも話は長いだけで分かりやすくもなんともない。何とか理解してやろうと先生の話を気合を入れて聞いても、幼い頃母の胸に抱かれて聞いた子守唄よろしく、多くの人が深遠なる眠りの世界へ誘われ…というよりは強制連行されていくのだった。
マキナ・ライカスは、比較的真面目である、と自己評価していた。少なくとも、講義中にもかかわらず先程から中身のない話を続けている斜め後ろの席の三人衆よりはずっと。っていうかうるさいんだよ。講義聞かないならせめて寝てろ、喋るな、聴いてる奴の邪魔するな。
周りの人達もチラチラと迷惑そうな視線を送っているのだが、彼らは意に介していないのか、はたまた気付いてさえいないのか、全くやめようとする気配はない。
先生も注意すればいいものを、最早無駄とて無視を決め込んでいるようであった。
マキナだってできれば怒鳴りつけてやりたかった。しかしああいった傍若無人な人々は往々にして世渡りはうまく友人も多い。それに親しい人以外の忠告は全く聞かないという特徴も併せ持つ。マキナがガツンと言ったところで素直に従うとは到底思えない。ここはこちらが大人になって「ろくな死に方しませんように」と天にお願いしつつ耐えるしかないのだ。
そんな地獄のような時間もそろそろ終わるという昼休み間近、突如何かを叩きつけたような大きな音が講堂に響いた。
そこにいたすべての人が(先生ですら、だ)思わず音のした方向へと視線を向けた。勿論マキナも。そこは講堂の真ん中あたりで、音を出した主は、この地区の訓練所では珍しい綺麗なブロンドヘアーを持つ男子だった。
皆の注目が彼に集められる中、特段気にした様子も無く彼はスッと立ち上がって、ぬらりと後ろを振り返った。そこではじめて顔を確認できたマキナは、気難しい男の顔だと思った。
彼は、切れ長の目を些か険しくし
「うるせぇんだよ」
と、人がかなり腹を立てているとき特有の、極めて落ち着いた声色で吐き捨てた。その場にいたすべての人は主語がなくても誰に対して言っているか分かっていたし、言われた方もさすがに気が付いたようだ。三人衆の一人は反論しようと口を開きかけたが、多数の非難の視線に気がついてか、バツが悪そうに視線をさまよわせた。
「…お、おい君、講義中に一体何なんだね?」
壇上で声を荒らげた先生に、ほとんどの生徒が「それはこの人に言うべきセリフじゃねーだろクソジジィ!!」 と心の中でツッコミを入れたに違いない。
「所属と名前を言いたまえ」
「…警備隊育成クラス三組、ヴィクトル・クラスィチスキーです」
「そうか、クラスィチスキー、この後私の所に来るように。おっと、もうこんな時間か。今日の講義はこれまでだ、皆昼休みにしなさい」
先生の言葉を受けて多くの学生ががやがやと急いで講堂を後にしていく。その誰もが勇敢にもクソ野郎どもに立ち向かった(?)英雄的金髪くんをチラチラと好奇の目で見ていた。マキナも彼がどんな奴か気にはなったが、特別な事はせず、いつもより少し熱を持ったその波に乗って講堂を後にした。
それが、マキナがヴィクトルを認識したはじめてだった。
それから半年して、やっと彼らは出会うことになる。
第一話
そよそよと小麦の原を揺らす風は秋の土の匂いがする。少し乾いたその匂いに、マキナは名残惜しさを覚えた。都会に行けば、当分この匂いを嗅ぐこともできなくなるだろう。
「すまない…」
今にも泣き出しそうなその声は、麦の穂が擦れる音にかき消されてしまいそうだった。
「兄さんが謝ることないって。私が決めたことだし」
マキナはキャリーバックを持つ手に力を込めた。持っていくことのできる荷物は、これと小さなショルダーバッグだけだ。
横に佇む兄の顔は分からないが、泣いてしまうのが嫌で見ることができない。
「母さんも見送りに来たがってたんだが…」
「いいよ…忙しい時期だし、お別れはしたもん。それと、母さんのことは任せたからね」
化物に対抗するため、無作為に選出された15歳以上の青年は兵役に出なくてはならなかった。
けれどマキナは、兄の才能は時計を作ることにあって、化物を殺すことにはないと確信していた。
「それに兄さんは体も弱いし、私が兵士になった方がずっと役に立つと思わない?」
マキナは、兄の手がそんなことに使われるのが心底嫌だったし、許せなかった。それは罪悪だとさえ思った。
何故なら、兄の作る時計は、他の誰が作ったものより丈夫で、正確で、美しかったからだ。
「大丈夫だよ、兵役って言っても最近は化物たちもおとなしいらしいし、新兵がやることって、街の警備くらいだよ」
私が兄の代わりになれるならそうしよう。兄の代わりに私が化物たちを殺そう。 幸い兄妹が二人以上いる家では一人は兵役が免除されるという規定があった。それならば。
「それに、休みが取れたら帰ってくるし。向かいの家のテリー兄ちゃんもよく帰ってきてたじゃない」
永遠の別れではないのだ、無駄に感傷的になる必要はない。それに、見たことも聞いたこともない新しい世界への旅立ちに、少なからず興奮を覚えているのは事実だった。
ポーという間抜けな汽笛の音が遠くで鳴っていた。見ると、金色に輝く小麦の海原の中をリニアモーターカーか滑るように近付いてくる。時間だ。
それは徐々に速度を緩めて、ふわりと麦畑に波紋を広げつつ静止した。どくどくと鼓動が速くなる。マキナは前だけを見つめて、目の前に開かれた扉へと乗り込む。
「じゃあ行くね…母さんによろしく」
「ああ…」
振り返り見た兄の顔は、壊れそうなほど悲痛で、泣いてしまいそうだったけれど、マキナは笑った。昔から笑うことだけは教えられなくても得意だった。
「マキナ…元気で、元気でな」
「兄さんこそ。風邪…ひかないようにね」
「マキ…」
兄は何かを言いかけたが、無情にもドアが閉まり最後まで聞き取ることはできなかった。発車したリニアモーターカーはぐんぐん速度を上げ、兄の姿も、駅舎も、すぐに見えなくなってしまった。
乗り物が時間の早さを決めるというが、あまりにも急速に、あっさりと引き離されてしまったせいか、不安と寂しさに襲われる。先ほどの新しい世界への期待や興奮なんてもうすっかり消え失せてしまっていた。後悔と不安だけがマキナの心を支配していて、できることなら戻りたかった。しかしそういうわけにもいかないのは、決めたのは自分であるし、痛いほど分かっている。
いつの間にか流れていた涙を乱暴に拭って、マキナは空いている席を確保すると(そもそも乗客は少なくほとんど空いていたのだが)ショルダーバッグを開けてハンカチを探す。
財布とハンカチくらいしか入れていこなかったはずであったが、奥の方に折り畳まれた一枚の紙が入っていた。取り出して開いてみると、母親の字で「向こうに着いたら連絡ください(^-^)/」と書いてある。その言葉の間抜けさに何だか気が抜けてしまって、涙が止まらなかった。
なんだそれ。笑える。でも笑えるうちは大丈夫だ。きっと大丈夫なのだ。
***********************
「ひょええ…」
マキナは間抜け面で感嘆の声を漏らしていた。数時間後、目的地のジンジエ駅に着き、寝惚け眼でリニアモーターカーを降りたマキナの目に飛び込んで来たのは極彩色の世界だった。
目の前の通りには無数の電気二輪車が行き交い、クラクションやモーターの騒音が四方に充満していた。やりたい放題に増築された不格好な建物の壁面には光る文字や図形がきらめき、日も落ちたというのに真昼のような明るさであった。緑や赤、覚めるような青色で点滅を繰り返すそれらを見ていると、まるで未来の世界に迷い込んだようだとマキナは思った。
夕飯時だからか、路肩には屋台が並び、多くの人がそこで食事をしていた。駅から感じていた独特の空気の「味」はこれらが原因だったようだ。スパイシーで異国情緒あふれるその匂いは、マキナに「違うところへ来てしまった」と感じさせるのに十分だった。
周りの人々の会話に耳を澄ますと、良かった、少し訛ってはいるが共通語を話している。ジンジエでは方言を話す人が多いと聞いていたので一安心だ。とりあえずここから兵士免許を取得するための訓練所にたどり着かねばならない。文字どおり右も左も分からないマキナは送られてきた地図を手に、とりあえず歩き出してみることにした。
しかし、ただっ広い麦畑の中にある開けた一本みちしか知らないマキナにとって、ジンジエ中心部の道はまさに迷宮であった。しかも訓練所は200年以上前の古代的な建築の残る旧市街地の先にある。歩き出してはみたものの、10分もしないうちに自分の居場所を見失ってしまった。
慣れない道で、しかも人通りも半端ではなく、それだけで疲れてしまったマキナは、ちょうど夕飯時でお腹をすかしていたこともあり、屋台で何か買ってみることにした。腹が減っては戦はできぬし、探し物だってきっと見つからない。それに、夢の中のようにやかましくきらびやかな世界を探索したいという好奇心がムクムクと起き上がってきていた。マキナは人見知りも物怖じもしないタイプであったし、ここまで来て楽しまないのは自分に失礼だと思った。
マキナは心を決めると、特別屋台が多く人の往来も激しい路地へと歩き出していった。
***********************
「美味しいヨー、安いヨー!!一口食べたらほっぺたが落っこちるって、世界の裏側でも常識ネー!!」
屋台では小汚い格好の主人が調子の良い声で客引きをしている。その訛りはどこか音楽的でまるで歌を歌っているようだ。屋台では、大きな鉄板の上で真っ白なパイのようなものを焼いていた。香ばしい匂いがあたりに漂っている。
その匂いと物珍しさにふらふらと屋台へ近づくと、マキナに気がついた主人は早口に「お嬢チャンはじめてデショ、これとても珍しいネ。安いヨー、美味しいヨー」と捲し立てる
「これ辛いんですか?」とマキナ。
「ちょっと辛いネ、でも美味しいヨー、安いヨー」
近くでよく見てみると、パイのようだと思っていたそれは存外にやわらかそうで、見た目は大きなニョッキとでもいうべきか。上には胡麻とネギが適当に振りかけられており、中にも何か餡が入っているようだった。
「どう?ひと箱に六つ入って20サルトね、どうするの?」
「じゃあ…ひと箱ください」
「エエー、ひと箱でいいの?日持ちするネ、明日の朝ごはんの分、3箱で50サルトにするヨ、買うデショ?」
マキナの返事も聞かずに屋台の主人は手際よく3箱を袋につめる。ここは要らない、ひと箱でいい、と毅然とした態度で言うべき状況であったが、何せマキナは超ド田舎から出てきたばかりで勝手を知らなかったし、お腹はペコペコでしかも旅行気分で舞い上がっていたこともあり、主人に言われるがまま50サルトを支払って3箱買ったのであった。
「マイドー!!また買ってネー!!」
主人は気味の悪いくらいの満面の笑みでマキナを送ってくれた。
見れば見るほど不思議な町だった。屋台は食べ物を売るものが多かったが、アクセサリーやスパイス、何やら訳のわからぬ呪術品のようなものを売る店もあった。
屋台街の真ん中あたりで、薬草を煮詰めて作ったという甘い飲料を購入したマキナは、近くにあった土着の神を祀っている寺院の石段に腰掛け「戦利品」を頬張った。
…おいしい。最初の屋台で買ったパイのようなもの(違う店でシャオロンバオと言うのだと教えてもらった)は少し冷めてはいたが中にはひき肉とネギと椎茸の餡が詰まっており、アクセントの生姜がよく効いていた。可愛らしくつるっと行けそうな見た目とは裏腹にお腹にたまる…。ひと箱完食して満腹になってしまった。
周りを見てみると、マキナと同じようにして石段に腰掛けながらものを食べるおじさんやイチャつくカップル、バカ笑いする同い年くらいの男の子集団などなど、人々は思い思い寺院を使っているようだ。故郷では「教会の中でうるさくしちゃダメよ」と母にきつく言われて育ったので、ジンジエの人々の態度はとても新鮮に思えた。ここは、食べ物も文化も何もかも自分の知っているものとはまるで違う。シャオロンバオも変に甘ったるい飲料も、今まで出会ったことのないものだったし、兵士になると決めて村を飛び出さなければ、一生出会えなかっただろう。
…そうだ、兵士になりにここに来たんだっけ!
ようやく当初の目的を思いだしたマキナは、ふた箱分増えた荷物を持って寺院を後にしたのであった。
第二話
電気二輪車と大型エレカが行き交う大通りの前で、マキナは途方に暮れていた。
腹ごしらえも済ませいざ訓練所へ!と意気込んで寺院を出たは良いが、地図通り旧市街へと進んでいる筈なのに、一向にそれらしい町並みは見えてこない。アクセス案内には「大きな建物なので迷う心配はないでしょう!!」と書かれているが、大嘘だ。すっかり迷ってしまった。
こうなったらお金が非常にもったいないし、プライド的にもアレだがタクシーで訓練所まで行こうか…。そう考えたマキナは、路地の角でタクシーをつかまえようと立ち止まった。ここならばそれなりに車通りもありそうだ。すると程なくして小型のエレカがマキナの目の前で止まった。特別タクシーらしいなりでは無かったので、手を挙げて呼んでもいないのに、だ。都会のタクシーは進んでいるな、とひとり納得しつつ乗り込もうとした時、運転席の窓がユルユルと開かれ、長髪で眼鏡をかけた男がへにゃりとマキナに笑いかけた。
「やぁ、もしかして訓練所を目指しているのかい?」
「え?」
まさか乗り込む前から話しかけられると思っていなかったマキナは、なんとも間抜けな声を出してしまった。ぽかんとしたマキナを見て眼鏡の男が「あれ…違ったかな?」と心配そうに眉を下げる。
「あっ、いえ、訓練所です。訓練所までお願いします」
男は慌てるマキナを見ておかしそうに笑いながら「やっぱりかあ。もしかして駅から来たのかい?それだったらこっちは逆方向だったね。後ろに乗りなよ、連れてってあげる」と後部座席を示す。後ろはタクシーとしては珍しく…というか一般的な車ではまず無いだろうという斜め前方に開くポップアップドアになっており、マキナは正直興奮した。ポップアップドアなんて本や雑誌の中でしか見たことがなかったし、まさかこんな所で、自分の目で拝むことができるとは思ってもみなかった。
後で写真を撮らせてもらおう。そんなことを考えつつマキナは車に乗り込んだ。
マキナが座ると運転席の男はくるりと後ろを振り返り、マキナを見た。
「一人で来たのかい?」
「はい。ここの訓練所に配属されたのが村で私だけだったので…」
「そっかー、じゃあこれから訓練兵になるのかな?兵科志望は決めている?」
「ええと…警備隊にしようかなって…」
「ふふ、そっかあ…」
男は目を細めつつ、まろやかに笑った。
「それでは訓練所に直行で大丈夫かな?」マキナが頷くと男は極めて滑らかに優しくエレカを発進させた。
程なくして幹線道路へと抜け、先程到着したジンジエ駅付近を通り過ぎ、どんどんマキナが向かっていた方向とは逆に進んでいく。こうまで楽だったら最初からタクシーを使ったら良かったと思ったが、そうしていたら、屋台でご飯を買うことも、不思議で賑やかな寺院の中に入ることもなかったと考えると、ブラブラしたことも無駄ではなかったと思うことにした。
15分ほど進み続けると街の雰囲気が華やかなものからだいぶ変わり、あれだけ壁を覆い尽くしていたライトや看板もほとんど見られなくなった。空気も埃っぽさを増し、道幅も狭くなり小型エレカがやっと一台通れるほどだ。建物は土のブロックで組み立てられた物が多くなり、道路脇では机の上で、大人たちがガヤガヤとボードゲームに興じているようだった。家々の軒下には赤やピンク、黄色に輝くまあるい不思議な灯りが揺らめいていた。電灯だろうか?くらくらと街行く人の影を揺らすところを見ると、中に火を入れたこの地区独特のランタンのようなものなのかもしれない。
「旧市街はまた、雰囲気があるだろう?」
運転席の男性が前を見たまま言う。どうやらもう旧市街へと入ったらしい
「まあ…低所得層が人口の大半だから、中心部に比べればもちろん治安は悪い。ただ、その分人情味もある気がして僕は好きなんだけれど」
「はあ…」
「それに訓練生は出かける先も旧市街が中心になるだろうから、これから良く知ることになると思うけどね」
「そうなんですか…」
旧市街。新世界会議と呼ばれる唯一の国際機関が世界の平和を実現する前から存在していた区画だ。新世界会議設立前?「古代」と呼ばれる時代?の人類には知恵も愛もなく、互いが互いを憎しみ合い、騙し合い、殺し合っていたそうだ。文化や芸術もあるにはあったが、人々は自らそれらを作ってはは燃やし、壊してはまた作ることを繰り返して、私たちの時代まで伝わったものは少ない。伝わっていたとしてもそれは人を憎んだり、妬んだりする種になるものばかりで、学者以外が読むことは禁じられていた。そんな混沌とした時代のにおいを残す街がまさにここなのだ。
実のところ、マキナはそういった時代にこそ惹かれていた。母親に大きな街に連れていってもらう時などは、馴染みの胡散臭いおじさんから古代の本だというアングラ本を買うのが常であったし、祖父の家で曽祖父の隠していた発禁本コレクション(内容は「世界の危ないカエル」だの「美しきチンアナゴの世界」だのそのようなものだったと思うが)を見るのが何より好きだった。現代の書物は品は良いが、思いも寄らない世界への興味を掻き立てることはできないと思う。平たく言えば、マキナにとっては酷く平凡でつまらないものでしかなかったのである。
「窓、開けてもいいですか?」
外の空気を感じたくてマキナは運転手に尋ねた。
「もちろん。こっちで開けるね」
シュルル…と音を立てて後部座席の窓が開く。肺いっぱいに空気を吸い込むと、香辛料の匂いと土の匂いに混じって、少しだけ図書館の誰も立ち入らない一角に似たカビっぽくてひんやりした空気の味がした気がした。
「さて、そろそろ訓練所に到着だよ」
車に乗ってから45分ほど経っただろうか、赤い明かりが揺らめく路地の先に、開けた空間が見えてきた。
路地を抜けると広場になっており、屋台や物売りがひしめき合い、多くの人が無秩序に往来している。運転手は速度を緩めると繰り返しクラクションを鳴らしながら少しづつ進んでいった。黒山の人だかりの向こう、マキナには見えていた。奥にはコンクリートの壁がまるでとうせんぼをするかのように連なっている。おそらくあれが訓練所なのだろう。犯罪者を閉じ込めておく刑務所のようだと思った。
マキナ達を乗せたエレカが無事に広場を抜けると、仰々しい鉄製の門が現れた。どうやらここが入口らしい。
「あっ、じゃあここのあたりで…」
「いや、中まで送るよ。裏手から入るから受付まで少しだけ距離があるんだ」
「えっ、いやでも…」
国の機関であるのにタクシーがそう簡単に入れるのか…とドキドキしていると、運転手の男性は社員証のような名刺サイズのプレートを門の脇にある台へとかざした。するとゴロゴロと重たい音を立てて門が開いたのである。...勝手に警備が厳しいイメージを持っていたのだが、そうでもないらしい。もしかしたら運転手は事前に許可を得ているのかもしれない。
中に入ると、代わり映えのしない四角く灰色の建物ばかりが続く。スタンダードな施設の風景だ。壁の向こうの色合いとは随分違い、やはりここはそういう所なのだと再認識させられた。マキナ達を乗せたエレカはとりわけ明るく大きな建物の前にするりと止まった。
「...さあ、ここがセンターだね。入ったらまず受付に行けばいいよ、すぐわかるだろうから」
「ありがとうございました。あの、運賃はいくらですか?」
「うん?」
「それにタクシーも施設の中に入れるんですね、もっと警備が厳しいのかと思ってました」
何故か運転手の男性は少し困ったような笑みを浮かべている。
「いや、あのね、僕は...」
「タクシーじゃねぇよ」
ふいに運転席のとなりから声がし、そんなこと予想だにしていなかったマキナは「ヒャッ」っと小さな悲鳴を上げた。どうやら助手席にも人が乗っていたらしい。
「なんだお前、タクシーだと思ってやがったのか。手も上げてねぇのに止まるタクシーがあるかよ」
助手席と運転席の間から小柄で目つきの悪い男がひょこりと顔を出した。背が小さくて後ろからは見えなかったようで、マキナは今の今まで人がいることに気がつかなかった。助手席の男はにやにやと馬鹿にするようにマキナを見ている。そんな男を見て運転手は呆れたようにため息をついた。
「クラウス、意地悪言うなよ…。気にしちゃダメだよ?はじめてなら無理もないし。僕たちは、その、研究職の人間でね。たまにここに視察に来たりするんだ。偶然あそこで君を見つけて、ここに用があるのかなぁって思って、声掛けたんだ。」
「でも、俺達だから良かったが、普通はホイホイ知らねぇ車に乗るもんじゃねぇぜ。都会で生きるんなら警戒心を持つことだ、人さらいだったらどうする」
助手席の、クラウスと呼ばれた男が続ける。マキナはどう答えていいものやらわからずおろおろしてしまった。それを見てかわいそうに思ったのか運転手の男が「まあ、次から気をつけたらいいからね?」とマキナを見て優しく言うと後部座席のボップアップドアを開けてくれた。マキナは荷物を持って外へ出る。
「なんだか…本当にご迷惑をおかけしました…」
マキナは運転手へとお辞儀をしながら言った。
「そんな風に思わないでおくれ。どうせ僕らもここに帰る途中だったんだし」
「いえ…本当にありがとうございました」
「どういたしまして。それじゃあね」
運転手の男は優しく笑いながらひらひらと手を振る。
マキナはゆっくりと走り去るエレカを見送ると、何故かどっと疲れた心持ちで、センターの玄関へと続く階段を登り始めた。
***************************
エレカは訓練生の宿舎の傍を走り抜けていく。ちらほら明かりが灯っており、和やかな笑い声も聞こえてくる。
「なあアル…何であのガキを乗せたんだ?」
助手席の男は運転手をきろりと睨みつつ言った。
「別に。困っていそうだったからさ」
運転手は隣に目を向けることなく答える。
「それだけか」
「それだけさ、他に何があるっていうんだい?」
「さあな、ナンパとか?」
「なんだいそれ。子供は対象外だし、加えてああいうお喋りそうな女の子は好きじゃないね」
「ほお…女の子は、か?まあいい。…可能性があると思ったのか」
窓の外を見つめながらぼそりとつぶやかれた最後の言葉に、運転手は思わず眉をひそめた。
「……そんなの、僕に分かるはずないだろう?」
「…ふん、どうだかな」
「さっきから何が言いたいのさ」
今度は運転手がきろりと睨みつける。助手席の男は愉快そうに意地悪な笑みを浮かべている。
「なぁに…言いたいことを言ってるだけだぜ?」
「…君が期待しているようなことは何もないよ。残念だけど、また地道な作業になるだろうね」
「そうかよ…まあこの街に長いこといられるってのは願ったり叶ったりだ、ジンジエはいい酒が揃ってるからな」
運転手の男は何も答えない。が、その顔は明らかに不機嫌そうだった。
「…僕は、早く出て行きたいけどね」
運転手はいささか乱暴にハンドルを切る。
エレカは訓練所の一番奥まった場所、教官用の宿舎へ続く道へ進んでいき、やがて地下に潜ったのかテールランプも見えなくなった。
空には月もなく、星が良く見えた夜だった。
***************************
「だから、今日到着予定だったマキナです、マキナ・ライカスです」
センターに着いたマキナは、とりあえず入学手続きをしようと、そろそろ閉めようと動いていたカウンターへ向かった。
終業時間間近に来られたためか受付の女性の態度はすこぶる悪く、「はあ…今探してマース」とやる気のない声で応対し、ニコリともしない。それでも早く帰りたい裏返しか、てきぱきと手続きや会計をしてくれたので良しとしよう。
「あーそれじゃ今日は遅いので、個人証用の写真撮影は明日の朝になりますね。講義が11時から入ってますから9時から10時半の間にまたこちらに来てください、すぐ終わりますんで。個人証の発行は一週間後くらいです、それまではこの仮個人証使ってください。部屋のキーにもなってますし食事もこれで買うんで無くさないでくださいね。その他の詳しい使い方は、まあ先に入った人に聞くのが早いかと。あと基本的に消灯は22時、ですが大浴場は24時まで入れます。部屋はD棟の463号ですね、基本的に風呂以外は男女兼用ですしフロア分けとかもないんで。何か…いかがわしいことがあったら出ていってもらいますから、っていうのが建前です。が、あまりはしゃぎすぎないようにってことです。で、何か質問あります?」
そんな早口でワッと言われても。質問が無いわけではないが、マキナは早く休みたかったし、受付のお姉さんも早く帰りたそうだったので「アッハイ、何もないです」とだけ言い、マキナは部屋へと向かうことにした。
訓練生の宿舎はセンターと繋がっており(案内板の図を見る限り、センターを中心として放射線状に宿舎が建てられているようである。上から見たらさぞかし綺麗だろう)訓練用の施設はまた別にあるようだ。D棟に行こうとしてB棟に入ってしまったという小さなトラブルはあったものの、何とか目当ての部屋付近までたどり着くことができた。宿舎は灰色で飾り気の無いまっすぐな廊下の両脇に部屋が並んでおり、窓は突き当たりに二つあるだけだ。
「ええと、463ね。463は…ああ、ここか」
鉄製の、しかし軽そうな扉に「463」の数字。ノブの横にはカードリーダが備え付けられている。間違いなく自分の部屋であることを確認し、さっさと渡された仮個人証をかざす。ピピッという電子音と共に鍵の開く音が聞こえた。
部屋はお世辞にも広いとは言えない…というよりすごく狭い。1mほどの幅の釣り戸棚の他に特別収納もなければ、机と椅子、カプセル型のベッドが壁に埋め込まれているだけのシンプルな部屋である。簡素、あるいは質素といっていいかもしれない。
でも、それは訓練兵の部屋だ、豪華にする必要もなければ、寝られたらそれでいいのだろう。
マキナはここが自分の帰る家になってしまったという寂しさと落胆を感じたが、不思議と少し安心したような気持ちにもなった。
そして荷物もそのままでさっさっと靴だけ脱ぎ捨てると、ベットへ潜り込みそのまま泥のように眠った。
第三話
グル、グルと不吉な音を響かせながら、そのグロテスクな生き物は左腕…おそらく左腕であろう場所に突き刺さった鉄パイプを、不思議そうに眺めた。刹那、ヤツは今までの緩い動作が嘘のように俊敏に腕をしならせると、彼の体はもう吹き飛ばされていた。
「ヴィクトル!」
悲鳴に似た声を上げるも、頭で考えて出た言葉だったかどうか。コンクリートの壁に叩き付けられた彼は、そのまま崩れ落ち微動だにしない。
ヤツは相変わらず嫌な声で鳴きながら、先ほど自身で叩き殺した同期生だったものを覆い潰し、ゆるゆるとマキナのほうに近づいてくる。
形の定まらないヤツの体は、いつか本で見たアメーバという生き物に似ている、と思った。しかし、それでもそれはあまりに大きかったし人間的であった。女の肉のような、ま白いぶにぶにした身体を揺らして、ゆっくり進んで来る。…時折、呼吸の音に混じって、ゴリ、ゴリという奇妙な音も聞こえた。
ああ、ヤツは、ヤツはみんなを、
食っているのだ
そう気づいた瞬間、弾けるような恐怖と怒りがからだを支配し、そして…
****************************
「…っと、ちょっとマキナ!起きなって!」
「…ん、んん?」
うららかな午後の光の中、寝ぼけ眼で辺りを見回す。目に映るのは見慣れた談話室の風景だった。
「あれ?談話室…?」
まだはっきりしない頭をめいっぱい働かせつつ眼鏡をかけると、隣に座っている同期の友人が呆れ顔で言う。
「何寝ぼけてるのよ、ばあか。ていうかもう昼休み終わるんだけど…。アンタ、午後いちで体術訓練取ってるっていってなかった?あと10分で始まるわよ。ただでさえ体術の成績悪いんだから、遅刻したらマジで単位落とすんじゃない?」
「え、んと…」
まだぼうっとした頭で必死に考える。体術訓練…。
「あ。」
ようやく状況を把握した。非常にまずい。
「あー!どうしよ、じゃなくて早く行かないと!エレナ!起こしてくれてありがとー!後でお礼するね、じゃっ!」
マキナは弾かれたように立ち上がると、早口に礼を述べて、全速力で駆け出していった。
「…ほんと、忙しい子」
エレナと呼ばれた少女は、少しだけ笑いながら、ばたばたと駆けていくマキナの後ろ姿を見つめていた。
****************************
「随分と余裕だな。え?ライカス」
「いえ、あの、申し訳ありません…」
全力疾走も虚しく、結局体術訓練に5分ほど遅刻してしまったマキナは、同期の訓練兵の目の前で辱めを受け…もとい説教されていた。
「お前、成績も悪いのに、よくもまあ遅刻なんて真似できるな?俺には絶対無理だ。それともあれか?今期の単位取得は諦めたってことか?なら、無理して来なくていいんだぞ?お前が遅刻したせいで皆の時間が無駄になるんだからな、迷惑なんだよ!わかるか!」
だったら説教なんてせずにさっさと始めたらいいだろうが…と思うが、もちろん口に出せるわけもなく、項垂れて唇を噛む。
遅刻してしまった事は全面的にマキナが悪い。にしても、他の人が遅刻してきてもこんな衆前でくどくど説教などしないではないか。現にマキナより遅れてきた奴がそ知らぬ顔で列に並んでいる。なぜ自分がこのような目に合わなければならないのか腹立たしいことこの上ないが、出来ない子より出来る子が可愛い、といったレベルのものなのだろう。教官だって人間だし、完璧ではない。しかし、それはマキナとて同じである。
「まあ、今回は最後通告ということにしておいてやる。次遅刻したら、最終試験を受ける資格なんてないからな。皆もそうだぞ、よく覚えておくように!」
結局、体術訓練は15分ほど遅れて開始された。
体術訓練はふつう二人一組で行われる。しかし教官に目を付けられているマキナと組みたがる者はいない。結局いつも、体術が苦手で教官にいびられている人同士組むことになる。相手の子は気を使って「いつも私が相手でごめんね?私とじゃあ上手くならないでしょ…」と言ってくれるのだが、その気持ちはマキナだって一緒だ。やめてしまいたかったが、そうもいかない。警備隊に入るためには体術の単位が必須であったし、来期まで訓練所にいる金銭的余裕もない。しかしこのままでは単位は取れそうにもなかった。それでも兄のために、マキナはやるしか無かったのである。
はじめ、マキナがやられ役をやることになった。構えを取る相手に向かい、武器である木製のナイフを突き出す。が、もちろんそれは躱され、代わりに相手がマキナの懐へと肉薄し、腹部へ蹴りを入れる。彼女はそのモーションを取っただけだったが、そこを目ざとく教官は見つけたようで「そこ真面目に全力でやらんか!化け物どもが手加減してくれるのかコラァ!」とうすら笑いを浮かべながら怒鳴る。
その声に反応してか、相手の体が一瞬止まる。一拍の後に動き出したものの、マキナの背後を取り、足を掛けて転ばせるはずが、焦りがあったのだろう、もつれて互いの足が絡まってしまった。
「あ…」
気がついた時にはもう既に、体がふわりと浮き上がる心地がしていた。バランスを崩したマキナは相手に乗りかかるようになって、二人共々派手に倒れてしまう。相手の子は背中を強く打ち付けてしまったらしく、苦しそうに顔を歪めている。
「わあ、ごめんね!!今どくから…」
慌てて謝り立ち上がろうとするも、その前に頭上から「アァ?何やってんだあ?」と意地の悪い声が降ってくる。
「全く…この時期になって基本的な護身術も身についてないなんて、訓練所に来てから半年間、いったい何やってたんだおまえは?」
マキナが上からどき、相手の子も立ち上がる。相手の子の顔は伏せられたままだったが、口が真一文字に結ばれているのが見えた。
「ははあ、お前ら二人して、からかってんだろ、ふざけてんだろ?だったら辞めちまってもいいんだぞ?」
何がおかしいのだろう?にやにやと笑いながら教官が近づいてくる。そして、相手の女の子の前に立つとわざとらしく溜め息をついた。
そして、一瞬の間の後。手を振りあげると、ひゅっと風を切る音、バチンと高く左頬が鳴り、何も備えをしていなかった彼女の体は吹き飛ばされるように右へと倒れる。
短く切りそろえられた髪の奥で、目が大きく見開かれ、めいっぱい堪えているのだろう、唇は噛み締められていたが、ブルブルと震えていた。
周りの訓練生たちも、遠巻きにではあるが事の成り行きを見つめているようで、心配そうにそわそわとする人が多かったが、ニヤニヤと面白そうに見物している奴もいた。
「おい、お前もう次からは来なくていいぞ。落第だよ。やる気があれば、また来期頑張るんだな。」
教官が相変わらずヘラヘラ笑いながら、倒れたままの彼女に近づく。
「聞こえなかったか?もう帰れって言ってンだよ!…チッ、無視か?ほら、とっとと立て!」
教官は苛々した様子で彼女の腕を抱えると、そのまま乱暴に引き上げる。彼女は力なく引き摺られるようにゆらりと立ち上がるが、ハッと顔をあげ教官を睨み付けると、腕を払い、訓練室の出口へフラフラと歩き出した。その背中に向かって、教官がわざとらしい大声で、「言っておくがお前のためだぞ、そんなんじゃあ、兵士になっても化物の餌になるだけだからな!!」と怒鳴った。
彼女がマキナの前を通るとき、何か声をかけようとしたが、彼女の鋭い視線に射抜かれて何も言うことができなかった。
「アンタノセイ」
彼女の口は、そう動いたように見えた。
****************************
まだ夕飯には少し早いが、食堂には比較的ゆったりできるこの時間に夕食を済ませてしまおうという人達がいくつかグループを作って談笑していた。
いつもならその中心で出処も真偽もよくわからない話を得意げに話している友人の姿が見えず、シャオミンは首をかしげる。
この時間ならもういるはずなのだが、今日はまだ来ていないのだろうか…と食堂内をぐるりと見渡すと、はて、彼女には全く似つかわしくない隅っこの席で、目を伏せながらちみちみとスープを口に運んでいた。これはどうしたことかと不思議に思いつつも、彼女の元へと向かう。
「やあマキナちゃん。隣いいかな?」
「…あ、シャオミン。勿論いいよ~」
何か考え事でもしていたのだろうか、問いかけにもいまいち遅れて反応した友人の姿に、これはいよいよただ事ではないなと思った。
「どうしたの?なんだか元気ないみたいだけど…」
マキナに回りくどいことをしてもどうしようもないので、それとなく聞いてみる。
「ん~…いやね。私、兵士向いてないのかなあなんて…」
「へ?」
ぼそぼそ呟かれた言葉に、シャオミンは耳を疑った。「向いてない」だって?根拠の無い自信に足が生えたようなマキナがそんなことを言うとは、一体何があったというのか。
「いやまあ、確かに体力のことを考えたらそう思うこともあるのかもしれないけど…向いてないってほどではないと思うよ?」
とは言ったものの、実際マキナの運動神経がイマイチだということは客観的な事実である。しかし、腕力だけが兵士の強みではないし、マキナの器用さや頭の回転の速さは、いい兵士の条件たり得ると認めていた。
「…じつは今日ね、体術訓練で私のせいで友達が落第しちゃったの…。もう私も時間の問題って感じだよ、二週間後の最終試験なんか受かりっこないよ~…」
えへら、と無理やり笑ってはいるが、眉は完璧な八文字で目にはうっすら涙も浮かんでいる。あまり見たことのない友人のヘコミっぷりに、シャオミンは一瞬どう返していいかわからなかった。
「…で、でも、それはまだ分からないよ!それに…気を悪くしたら申し訳ないのだけれど、どうして体術だけそんなに苦手なんだい…?棒術や剣術はそんな悪い成績じゃないよね…?」
「それは…」と何かを言いかけてバツが悪そうに口を噤んだマキナだったが、「なに?」と続きをせかすシャオミンに促されて話しはじめた。
「んー…実際苦手なのもあるんだけど、教官が全然相手にしてくれないっていうか、むしろ見せしめにしてるっていうのかな。できないやつはこうなっちまうぞ!みたいな…そうなったら、うまい人は先生に気に入られてるから私なんかと組んでくれないし…へたっぴ同士で練習してうまくなれると思う?へたっぴはずうっとへたっぴのまんまなんだよ!」
おずおず…といった具合に話し始めたマキナだったが、いろいろ思うところがあったのだろう、最後は語気も荒く、目にはめいっぱいの涙をためていた。なんという教官だ、マキナと教官の相性が悪いのは聞きかじった情報でなんとなく察していたが、ここまで追い詰められるほどだったとは…。黒づくめの知り合いに頼んで灸でもすえてやろうか…とも思ったシャオミンだったが、それは根本的な解決方法ではない。
「…上手い子がコーチになってくれたら良いんだけど…私が頼んだって誰も聞いてくれないだろうし…」
ポツリとマキナが吐き出した一言に、はて、ほんのりとデジャビュを感じたシャオミンは、あることに思い当たり、「あ」と間抜けな声を出した。
「…なに?」
訝しがるマキナとは対照的に、シャオミンの顔にはみるみる興奮した笑みが広がっていく。まるで世界の新たな法則を発見したかのような笑顔だ。
「…あるよマキナちゃん!とっておきの解決方法!それも、ふたり一気にだよ!」
「は?」
全く意味のわからないマキナをよそに、シャオミンはやはり興奮気味に続ける。
「だからいるんだよ、マキナちゃんのコーチ!ああ!これって絶対、偶然じゃないよ!今日にでも聞いてみなくっちゃ…」
「まって、」
「彼ならきっと大丈夫、なんたって強いんだから!マキナちゃんだってメキメキ上達するよ!」
「ねえ、」
もはやシャオミンはこちらの話を聞いていないようだ。よく「ほんと人の話を聞かないよね」と言われるマキナだったが、なるほど、こういう気分になるわけか。次から気をつけよう。
「あのさ、」
数度目の呼び掛けに、テンション高めにぺらぺらと喋っていたシャオミンが、少しの間の後マキナに気がついたようだ。
「あ、…ごめん、なんの話か分からないよね…」
「うん、ぜんぜん分かんない」
「いや、ほら、マキナちゃん、数字学得意だろ?」
「え?うん、まあ…」
なんだ藪から棒にそんな話。
「実は僕のルームメイトなんだけど、ちょっと色々事情があって、座学の単位がこのままだと危ないんだよね…」
「…おばかなのね」
「まあ、平たくいえば…。
それでね、その子に家庭教師っていうか、座学のコーチがいたらいいのにって相談されてたんだ…特に数字学の」
…なんとなく話が見えてきた。
「つまり…私があなたのルームメイトの家庭教師になれってこと?」
マキナの質問に、シャオミンは満面の笑みを浮かべた。
「そう!そしてその代わりに、僕のルームメイトが君に体術を教える、どうかな?」
マキナにとってみれば、非常にありがたい話ではあるし、はっきり言っていまさら手段は選んでいられない。けれど…ほんとうにいいのだろうか。
「あ、彼の強さは折紙つきだよ!なんたって、体術は最終試験を免除されてるくらいだから!」
少し難しい顔をしたマキナに気がついたのか、シャオミンがフォローを入れる。そういう不安があったわけではないのだけれど…。それでも友人の心遣いが嬉しくて、今回は甘えてみようかな、と思った。
「うん、ありがとう…じゃあ、頼んでもいいかな?」
「もちろんだよ!」と元気よく答えるシャオミンに、別にあなたが教える訳じゃないろうに…とちょっとおかしくなった。かわいい友人を持ったものである。
「ありがとう…あー!!なんか安心したらやる気も出てきたかも!私、食後の走り込みしてくるよ!シャオミンはゆっくりご飯食べて!ルームメイトさんと話がついたら連絡ちょうだいね、じゃっ!」
急速に元気を取り戻したマキナは、早口でまくし立てるとスクっと立ち上がり、風のように去っていった。なんともいそがしいやつである、が、いつものマキナらしさが戻ってくれたと、シャオミンは安心していた。
マキナが去った後、ひとり残って夕食のチキンライスをほおばっていたシャオミンに、唐突に「ねえ、」という声が降ってきた。見上げるとトレイを持った長身の女子がシャオミンを見下ろしている。
…エレナ・タナリカ。マキナの寮の隣人で、一番の仲良しだ。しかしシャオミンは、どうしても彼女が苦手だった。切れ長の目と薄い唇は意地悪な印象を与えていたし、人を小馬鹿にしたような物言いにはどうしても慣れなかった。
「…なんだい」
少し冷たい反応を返したつもりだったが、彼女は意に介せず、シャオミンの隣にどかりと腰を下ろした。
「マキナと何を話してたのよ?」
「見てたの?なら話しかけてくれたら良かったのに」
「えー、だって人をなぐさめるのってとっても面倒臭いじゃない?あんなドへこみな子に話しかけるとか、それこそ地雷でしょ」
ヘラヘラと笑いながらエレナが言う。ほら、こういうところが嫌なんだ。
「まあ大方、体術訓練でこってり絞られたとかだろうけど。遅刻しそうになってたの、あたしが起こしてあげたんだから」
「あーうん、まあ、だいたいそんな感じ。もう解決したんだけどね。」
「へえ!」とエレナはことさらに驚いてみせるが、一部始終を見ていたのなら、嬉しそうに飛び出していったマキナのことも見ているだろうに。
「で、どうやって機嫌なおしてもらったよ?」
「機嫌って…なにも。ただ、マキナちゃんに体術のコーチをつけてあげるから頑張ろって。」
「えっ、あんたがやんの?」
「僕じゃなくて、僕のルームメイトだよ。彼の方が適任だろ?」
そう言った途端、エレナは怪訝な顔をして「それってマジ?」と、明らかにその案は考え得る中で最悪のものだとでも言いたそうだ。
「え、マジだけど…なんで?」
「いや、だってあんたのルームメイトってさ、その…人とコミュニケーションとれるタイプだっけ?」
「失礼な…!…でも、いや…うーん、そう言われると…そうだね…」
…ちょっと浮かれていた。エレナの言うことはある意味で的を射ていた。そうか、そういえばまだ肝心のルームメイトに了解すらとっていない状況であった。まるめこめる自信はあるが、その後どう転ぶかは、はっきりいって未知数ではある。
「…マキナちゃんなら、大丈夫じゃないかな…?」
「…それもそうね?…」
「…だよね…?」
短い沈黙のあと、うふふふふと意味もなく笑いあったふたりは、そのあと一言も話すことはなく、ただ黙々とチキンライスを口に運ぶのであった。
忘却のエトランジェ