歪な薔薇④
あたしの心にあるこの感情はなんだろう。
暗く深い水の底に沈んでいくような。
開け放した窓から、夕闇が迫ってくる。
夏の夕暮れはひどく遅い。
真っ黒い影法師となった家々はまるで死んでしまったように見える。
群青の空に散らばるちいさな星たちはいつも孤独に見える。
だって夜にならないとその姿を現すことさえできない。
何もできずに、ただそこで光っていることしかできない。
生ぬるい風がふわりと入ってきた。
あたしはベッドに寄りかかり、足を投げ出して座っている。
この時間はまだ外の方が明るい。夜の匂いが鼻から肺に入り込んできた。
目を閉じてまぶたに風をうける。夏は嫌いだ。
夏は嫌な季節だ。夏はあたしをいつも苦しめる。てのひらがずきりと痛んだ。
ハンカチを巻いたてのひらを顔の前に持ってくる。
それを閉じたり開いたりすると、ごわごわとした感触がする。
血が固まって、傷口はハンカチにくっついているだろう。
ただ薔薇の木を眺めていただけだった。
暑さの中でさえも咲いている、何輪かのつよく美しい花たちを見ていただけだった。
そうしたらあのとき、急に目の前が真っ暗になって、嵐のような激情がわきあがってきた。
それは自分が狂ってしまうんじゃないかっていうほどの激しさだった。
説明のつかないような、負の感情の塊だった。
怒りや、かなしみや、恐怖や、絶望や、殺意なんかがないまぜになったような。
気づいたら薔薇の枝を握りしめていた。
そこに棘があるということは忘れ去っていた。
痛みなど微塵も感じなかった。そうしていれば、安全な気がした。
今思えば、薔薇の棘が私を私として存在させてくれたのだ。
壱星。はじめは誰だかわからなかった。
だって昔はあんなに小さくて、あたしの後をついてくる無邪気なちいさな子供だったのに。
掴まれた手が感じたのは、大きな、大人みたいな手だった。
馬鹿な子。二階まで上がってきて、傷の手当がしたいだなんて。
あたしのことなんて放っておいたらいいのに。あたしは誰も受け容れない。あたしは誰にも懐柔されない。
あたしは暁仁を愛しているけど、愛すれば愛する分だけ、すきまができてしまう。
そこから吹く暗くつめたい風に、あたしはいつもしんから凍えてしまう。
優しいのに全然あたたかくない暁仁にあたしはしょっちゅう苛立つ。
苛立って当たり散らしても、暁仁はやっぱり優しいから、あたしはどうしようもなく悲しくなる。
悪いのはあたし。
悪いのは……。
あたしは両腕で頭を抱える。
力まかせに髪の毛を引っ張る。ぶちぶちと音をたててそれは抜けた。
ひきつるような、声ともつかぬ声が喉の奥から絞り出される。
頭を押さえていなければ、大声で叫びだしてしまいそうだった。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、あたしは拳で自分の頭を何度も叩く。
自分の吐く息の音がひどく耳障りで、そう感じると、嗚咽みたいなあたしの吐息は、ますます大きな音をたてた。
「梓、入るよ」
突然暁仁の声がして、ドアがきい、と小さく音をたてて開いた。
あたしは乱れた呼吸をもとに戻すことができずにいた。両手で頭を抱えたまま。
「梓?電気つけるよ?」
その言葉と共に部屋はあかるくなった。
暁仁はいつもの俊敏さであたしの異変に気づくと、がちゃんと(たぶん夕飯のトレイを床に置いたのだ)音を立てた後、あたしのもとに飛んできた。
「どうした?喘息の発作?」
暁仁はあたしの肩を抱きながら言った。
あたしは黙って首を横に振る。
暁仁の優しい瞳があたしの瞳を覗き込んだ。
あたしは両手を暁仁の首にまわし、しがみついた。強く、強く。
あたしの息が暁仁の首筋に当たって、その周辺を熱くした。
あたしの顔に当たる自分の息と、暁仁の首筋の温度はまざりあって苦しいほど熱くなり、あたしは軽いめまいを感じた。
暁仁はあたしの背中を、そのしなやかな両腕で包んでいてくれた。
あたしが体を離すと、暁仁は汗に濡れたあたしの額の髪をかきわけてくれた。
灯りのついたこの部屋はなんだかそらぞらしくて嫌い。
必要以上に明るすぎて、あたしは身の置き所がなくなってしまったように感じる。
優しいくせにあたしを抱いてくれない暁仁も嫌い。
嫌いと何百回心の中で呟いても、暁仁を嫌いになれない自分が嫌い。
「ごはん、食べさせて」
あたしは頬を暁仁の胸にこすりつけながら言った。呼吸はもとに戻っていた。
「いいよ」
暁仁の差し出すスプーンに、あたしは無防備に口を開ける。
歪な薔薇④