春と桜
何年前のことだろう。
もう、それすら忘れてしまった。
君のその手の温もり。胸の鼓動。髪の香り。
たぶん、俺は日々の生活に疲れてしまったのだと思う。毎日満員電車に揺られ、取引先に頭を下げに行き、寝るだけの場所となったワンルームにへたれ込む。土曜日は平日の睡眠不足を補うために昼過ぎまで寝ることになるし、日曜日も君に会わないときは食料品を買いにスーパーへ出かけるくらいのもの。
今となっては、こんなことはもう言い訳にもならないけれど。
俺は君を、理由は何であれ、拒絶してしまった。
代わり映えのしない灰色のような日常に、君が一輪の花を添えていてくれたことにすら、気づいていなかった。
会えないからと、君に辛い思いをさせてしまうからと、自分のわがままを君に押しつけて、君のことを傷つけた。
その後、俺は壊れた。
病院に救急搬送されて、見知らぬ白い天井をぼーっと見つめながら、このまま自分と世界との境界が無くなって溶けていってしまえればいいのに、とか馬鹿みたいなことを思った。
点滴を受けながら担当医から言われたこと。
過労。
それだけだった。
いっそのこと、もっと重い病気にかかって死んでいたほうがマシだったのに。自分の状態が、過労という現代社会にありふれた二文字で一蹴されてしまったことが何よりも耐えられなかった。
「あなたは大丈夫。私がいなくても、やっていけるわ。あなたは、あなたが思うより、強くて優しい人だから」
君は、こんな俺にそう言ってくれた。
君を拒絶した俺を、君は拒絶しなかった。
それだけは、覚えている。
新しい職場は以前よりも給料は安いけれど、風通しがよく人間関係で思い悩むことは今のところない。小さなビルの1フロアを借りている中小企業だが、それでも自分が会社の役に立てているという実感が得られるだけでも、俺の労働環境はかなり改善されたと言える。
ストレスで胃潰瘍になるなんてこともなく、案外やっていけている。自分が思っているより鈍感なのかもしれない。繊細過ぎる生き方は、命をすり減らすだけだ。今はそう思うようになった。
新しい恋人もできた。相変わらず黒髪のショートの女性だから、好みは以前と変わっていないのだろう。たぶん、人生のパートナーになるだろう、という予感はしている。相手も、それを望んでいるようにも思える。
君は今どこで、誰といて、何をしているだろうか。
この東京という街で、君も過ごしているだろうか。
傲慢な言い方だとは思うけど、俺は君がどこかで幸せであることを切に願っている。
最後まで俺を拒絶しなかった君が言ったことは本当だった。
何とか、やっていけている。
君と離れることになった日。あの日も今日みたいな小春日和だったように思う。君の髪についた桜の花びらを、俺はとってあげた。
結構、覚えているものだ。忘れていると思っているけど、人はそんなにすぐ忘れられる生き物じゃない。ましてや、君のことなんて。
電車通勤のサラリーマンを横目に、俺は自転車で駅前を通り過ぎる。桜並木に陽の光が燦々と降り注いで、さまざまな形の影を落とす。
君も、こんな綺麗な桜を見ていたらいいな。
伝え損ねたありがとうは、もう届かないけれど。
君のおかげで、俺は前に進める。
これからも、ずっと。
春と桜
短編が書きたくなったのですが勝手がよくわからないので掌編から始めてみました。