夜行性仁類
1 狸せんべい
「お母さん、今の見た?」
鈴香はほとんど後ろ向きになるほど身体をよじり、遠ざかっていく道路に目をこらした。
「何だか動物みたいなのが、ぺったんこになってた」
犬とも猫ともちょっと違うような、しかし明らかに何かの生き物だった。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
お母さんはシートに深くもたれ、前を向いたまま不機嫌な声でそれだけ答える。代わりにタクシーの運転手さんが「ありゃ狸だよ」と教えてくれた。
「この辺りには狸がけっこう住んでるんだ。どんくさいんで、車にひかれるんだな。ちょくちょく見かけるよ、狸せんべい」
彼はそう言って笑った。鈴香はバックミラーごしにその顔をちらりと見て、やっぱりこの辺は田舎だなあ、と溜息をついた。
お寺の名前は晋照寺、なんだかんだで二、三年に一度は来ているけれど、中学に入ってからはこれが初めてだ。山門の前でタクシーを降り、キャリーバッグを引きずって、お母さんと二人で緩やかな坂になっている石畳の参道を上った。真上には細長く青空が見えるけれど、それを除けば辺りには木がうっそうと繁り、一足先に日が沈んだみたいに薄暗い。
お母さんは一言も喋らないし、鈴香も特に話すことを思いつかなかったので、二人はただ静かに歩いた。電車を三回も乗り換えて駅に着き、それから一時間に一本しかないバスに乗るはずだったのに、鈴香がトイレでもたもたしたせいで間に合わず、タクシーを使う事になったのを、お母さんはまだ怒っているみたいだった。
梢を渡っていく風の音と、耳慣れない鳥の声だけが響くこの場所は、夜になったらどれだけ寂しいだろう。そう考えると鈴香はまた小さな溜息をつき、それがお母さんに聞こえないように咳払いをしてごまかした。
ようやく参道を登りきると、その先にまだ石段が続く。十段もないけれど、キャリーバッグを持ち上げるのは一苦労。そしてもう一つ小さな門と土塀があって、そこを抜けると明るい前庭がひらけ、正面にお寺の建物が見えた。
「やっと着いた」
お母さんは自分に言い聞かせるように呟くと、すたすたと歩いて薄暗い玄関に入って行き、「こんにちは」と声をかけた。鈴香はぼんやりとキャリーバッグのそばに立ったままで周囲を見回す。
お寺の門から玄関までは、前庭を斜めに横切るように石畳が続き、脇の地面からは息継ぎをしようと顔を覗かせたように、それぞれに形の違う大きな石が三つ、ごつごつとこちらを睨んでいる。近くには松の木が一本だけ、これまたちょっとひねくれた感じで枝を広げていた。
少しだけ遊びに来るならまだしも、ここに今日から住むだなんて。一気に「帰りたいモード」にスイッチが入って、鈴香はくぐってきた門に視線を向けた。すると、さっきまで誰もいなかったはずのその場所に、人が立っているのに気が付いた。
たぶん大学生より少し上ぐらいだろうか、背の高い男の人で、紺色のジャージを着ていて、そのサイズが小さいので、裸足にサンダルの足元は脛が出ていて、腕は七分袖状態だった。でも何より一番目立つのは、オレンジ色に見えるちょっと長い髪だ。
一瞬ぎょっとしたけれど、彼が手にしている竹箒が目に入って、だいたいの察しがついた。ここへは時々「更生」という名目で、ちょっと変わった人が出入りすることがあるのだ。彼は小さな子供が珍しいものを観察するような顔つきで、じっとこちらを見ていた。
「鈴香、いらっしゃい!」
お母さんの甲高い声に我に返り、鈴香はその人から目を逸らしてキャリーバッグを引きずっていった。
「もう鈴ちゃんも中二か、俺も年をとるわけだな」
六年生の時も同じ事を言っていた南斗おじさんは、お母さんの一回り年上のお兄さんだ。若い頃は遊び人だったという話だけれど、鈴香はこの晋照寺で住職をしている作務衣姿のおじさんしか知らないので、どうも信じられなかった。
「まあ、色々と不便かもしれないけど、半年ぐらいなら鈴ちゃんも辛抱できるかしらね」
そう言って笑うのは奥さんの民代おばさん。まさか旦那がいきなりお寺の住職になるなんて思ってもみなかった、と言ってはいるけれど、こちらも鈴香から見るとずっと昔からお寺の奥さんみたいな、面倒見のいい親切なおばさんだ。
「ご迷惑かけてすみません。できるだけ早く帰ってくるから」
お母さんが二人に頭を下げるのはこれで何度目だろう。鈴香は複雑な気持ちで座敷の隅に坐り、お茶菓子の包み紙を爪で何度も畳んだ。
「そもそも槙夫(まきお)をお前に紹介したのは俺だし、そういう意味では連帯責任だもんな。ま、そっちがちゃんとやってけるようになったら、しれっとした顔で戻ってくるんじゃないか」
南斗おじさんはそう言って、大きな湯呑みからごくごくとお茶を飲んだ。
槙夫、というのが鈴香のお父さんの名前だ。たいていの家では父親というのは決まった仕事についているけれど、鈴香の記憶する限り、お父さんにそういうのはなかった。それでも職種では一貫していて、知り合いや友達に頼まれて喫茶店とか、スナックとかバーとか、そういう店を手伝うことが多かった。
娘の鈴香が言うのも変だけれど、お父さんには色々な人から好かれる不思議な魅力のようなものがある。いつも何だかイライラしているお母さんよりも、よっぽどよく笑うし、話していると何だか楽しくなる。だからお店もけっこう流行るらしくて、よければ本気でやらない?という展開になるのもしょっちゅう。なのに、その途端に仕事が嫌になってしまうのだった。まあ正確には、そこで固まるのが嫌になるらしい。
まだ鈴香が生まれる前、お父さんは南斗おじさんと遊び友達で、アマチュアバンドのボーカルをしていた。ライブハウスに出ればいつもお客は満杯。追っかけのファンもいたし、プロデビューの話も具体的に進んでいた。けれど、メンバーの一人がやっぱり銀行に就職すると言い出して、なんだかんだでバンドはデビューを待たずに解散してしまったのだ。
当時OLだったお母さんは、バンドが無名な頃からお父さんとつきあっていたらしい。でも解散の直後に鈴香がお腹にいると判って、ふたりは結婚し、お父さんが生活のために「とりあえず」働くことになった。その時、お父さんは二十三、お母さんは二十八だった。
要するに、お父さんの中で音楽は「一時休止」しているだけで、本来の職業はやっぱりミュージシャンらしい。だからスナックや喫茶店で落ち着いてしまうのは、完全に「負け」らしかった。
「俺はここで納まってるわけにいかない」という言葉をお父さんが何気なく口にすると、お母さんも鈴香も、そろそろかな、と身構える。そして案の定、三日もしないうちに彼は仕事を放り出してどこかへ消えてしまうのだった。
とはいえ、いつも大体短くて一週間、長くても三ヶ月ほどでひょっこり戻るのに、今回はどうも様子が違っていた。去年の秋、中学の文化祭が終わった頃に消えて、寒くなっても帰ってこず、気がついたら年がかわっていた。お母さんはそれまでずっと「お父さんの気が緩むから」と言って、正社員の仕事にはつかず、スーパーのレジ打ちやなんかのパートをしていたけれど、バレンタインが過ぎ、春休みに入ろうとした頃、突然こう宣言した。
「お母さんエステティシャンになるから」
いきなりそう言われても、鈴香はどう答えていいか判らなかった。
「大学時代の友達が東京のサロンの幹部なんだけど、よければやってみないかって言ってくれたの。ただし研修期間が本部で三ヶ月、それからニューヨークの提携サロンでまた三ヶ月ほどあるんだけど」
「え、三ヶ月と三ヶ月って、六ヶ月、って半年?ニューヨークってアメリカの?」と、つい念を押したくなるほど、お母さんの計画は唐突だった。確かにプロのエステティシャンなら、スーパーのレジ打ちよりもずっとお金がもらえそうだけれど。
「だって普通のエステならあちこちあるし、差別化を考えたら最新の理論と技術を身につけなきゃ。鈴香にはその間、南斗おじさんのところで待っててほしいの。確かに学校のことは心配かもしれないけど、今ならまだ中二だし、受験には影響ないわよ。もっと先のことを考えたら今しかない。お父さんにはもう期待してられないわ」
鈴香はお父さんに、何も特別な期待はしていなかった。とりあえず休み休みでも仕事をしてくれて、今の生活が続けばそれで文句はなかったけれど、もしかしたらそれが「期待」なんだろうか。
「鈴香も大学行きたいでしょ?そのためにお母さん頑張るから、協力してほしいの」
そう言われると何だか自分にも責任があるような気がして、鈴香は晋照寺に住み、転校する事に同意するしかなかった。お母さんは研修が全部終わったら、その後は東京に住むつもりらしくて、それは今までいた街にもう戻らない事を意味していた。
「でも、私達がいない間にお父さんが戻ってきたらどうするの?」
「大丈夫よ、携帯の番号もメルアドもそのままだし、判らなくても南斗おじさんに連絡すればいいだけじゃない。まあ、帰るつもりなら、だけど」
お母さん、もしかして離婚考えてる?
鈴香はその質問をどうしても言えず、胸に呑み込んだままで荷造りをした。いくら二年に進級する節目でも、転校するのはすごく憂鬱だったし、今までよりちょっと小さな街の、更に山奥にあるお寺に住むのも気が滅入ったけれど、鈴香には選択の余地などなかった。唯一の希望は、お父さんがひょっこり帰ってきて全て元通りにしてくれる事だけれど、頭のどこかにいる冷静な自分が、今度はこれまでと違うみたいよ、と否定するのだった。
「私、そろそろ失礼するわ」
一通りの話が終わると、お母さんはそう言って腕時計を見たけれど、「そうだ、湛石さんにもご挨拶しなきゃ」と、腰を浮かせた。しかし南斗おじさんは「いいよ、寝てるかもしれないから」と手を振って笑う。
湛石さん、というのは南斗おじさんの前にこのお寺の住職をしていたお坊さんだ。もう九十歳ぐらいのお爺さんで、今はお寺の奥にある離れに住んでいる。南斗おじさんと民代おばさんが食事の世話やなんかをしているけれど、何となくボケちゃってるのを除けばまだまだ元気で、花を植えたり、お習字をしたり、毎日好きなようにしている。
「じゃあ鈴香、後できちんとご挨拶しなさいよ」
「わかった」鈴香はまだ爪でお菓子の包み紙を折ったり広げたりしながら、俯いたままで返事した。お母さんはそして、自分に言い聞かせるように「じゃあ」と声を出して立ち上がった。
「一晩ぐらい泊っていけばいいのに」と、民代おばさんは残念そうだったけれど、お母さんは「明日からもう研修なの。滑り込みで、今期のメンバーに無理して入れてもらったのよ」と説明した。南斗おじさんも立ち上がり「駅まで車で送るぞ、鈴ちゃんも一緒に行こうか」と声をかけてきた。
「いいわよそんな、バスだってけっこう早いもの」
お母さんはそう断ると「鈴香、ちゃんとしててね」とだけ言い、バッグを肩にかけた。
お手伝いしろとか、朝は自分で起きろとか、電気をつけっぱなしにするなとか、そういう事を全てまとめて濃縮したのがお母さんの言う「ちゃんとする」だ。何か一つでもいい加減にすると「もう、ちゃんとしないんだから」と小言を食らうし、お父さんに至っては「ちゃんとできない人」というレッテルが貼られていた。
バスの時間が迫ってきたので、とりあえずみんなで玄関まで出て、お母さんを見送った。キャリーバッグと鈴香という二つの大きな荷物を降ろして、お寺の門をくぐり抜けて行くその後姿は、何となくせいせいしたような気配を漂わせていた。
「しっかし、相変わらずそっけない女だよなあ」
お母さんが去って静まり返った夕暮れの庭に、いきなり南斗おじさんの太い声が響いた。
「ああいう所がだな、槙夫から見ると可愛げなくて、下手すりゃおっかないんだよ」
「ちょっともう、何言ってるのよ」と民代おばさんが慌てて止めても、おじさんは全く気にしていない。
「鈴ちゃんもそう思うよな?年上だから仕方ない、なんて言うけど、五つどころか十や十五年上でも可愛い女ってのはいるもんだよ。槙夫はあんな奴だし、頼れる相手が欲しかったんだろうから、割り切ってそこをどーんと引き受けてやらなきゃな。中途半端に大黒柱に押し立てられても無理なんだよ、ああいう男は」
おじさんは結局、お父さんとお母さんどちらの味方というわけでもないようだったけれど、言っている事は何となく当たっている気がした。鈴香があいまいに「そうかもね」と呟くと、民代おばさんはその背中をさするように叩いて、「鈴ちゃん、おじさんの冗談なんか真に受けちゃ駄目よ。さ、晩ご飯の用意するから、手伝ってくれる?」と言った。
鈴香は黙って頷くと、おばさんの後について中に戻ろうとした。そこへまたおじさんが声をかけてきた。
「鈴ちゃんにも紹介しとかないと。ジンルイ、こっちこっち」
振り向くと、いつの間にそこへ来たのか、さっき見かけたオレンジの髪をした男の人が、まだ竹箒を持ったままで立っていた。
「こちら鈴香ちゃんだ。今日からしばらくここに住んで中学に通うから、よろしくな」
紹介されて鈴香はぺこりと頭を下げた。彼はおじさんより頭一つ高くて、身体の幅はその半分くらいしかない。着ている寸足らずのジャージはどうも誰かのお古らしくて、よれよれだった。
「鈴ちゃん、こいつの名前はジンルイ。仁義の仁に種類の類なんて立派な名前がついてるけど、実は狸なんだよ」
南斗おじさんはそう言って腕を伸ばすと、そのオレンジの髪をくしゃくしゃとなで回した。彼はまるで犬みたいに全身をぶるっと震わせ、さいごに頭を軽く振ると、さっきと同じ、不思議がっている子供みたいな顔つきで鈴香をじっと見つめた。
2 尻尾があるはずだ
「鈴ちゃーん、一緒に下山しない?」
よく響くちょっとハスキーな声に誘われて、鈴香は手にしていた漫画を床に落とすとベッドに起き上がった。指先で軽く髪を梳いて、カットソーの裾を引っ張り、それから裸足のまま部屋を出る。
歩くと足元で小さな音をたてる暗い廊下を抜け、中庭に面した座敷に出ると、裏から入ってきた祐泉さんがちょうど縁側に腰をおろしたところだった。彼女はまだ若くて、すらっと背が高く、はっきりとした目鼻立ちをしているから、もし普通のヘアスタイルで少しでもメイクしていれば、ファッション雑誌のモデルみたいな感じだろう。なのに頭は剃ってるし、お化粧もしないで、いつも煮詰まった番茶のような色の作務衣を着て、裸足に草履という格好だ。
「今日は土曜だから、下山しようかな」
鈴香は縁側に出ていって、祐泉さんのそばに立った。
「土曜でも火曜でも、気にしなくていいじゃない」
そう言って悪戯っぽく笑うと、祐泉さんは長い脚を組んだ。しかし鈴香にとってそれは大問題。何故ならここしばらく、学校を休んでしまっているから。
せっかく学年の変わり目に転校したというのに、鈴香が入った中学は学年に二クラスしかなくて、大半が小学校からの仲間だった。気心の知れた友達どうしですっかりうちとけた雰囲気の中、鈴香は途方に暮れてしまった。
友達って、どうやって作るんだっけ?
知っていたような、知らないような。たまに何か話しかけられても、どう答えていいか判らなくて、思わず小さな声になってしまったら、相手はそれが聞こえなくて、会話はそれっきりだったり。何もかもがぎくしゃくとして、うまく回っていかなかった。
毎日学校が終わってお寺に帰ると、ぐったり疲れて何もする気になれない。前の学校は家から歩いて五分だったのに、バスでの一時間近くかかる通学もすごく面倒だったりする。
前の学校の友達に手紙を書いても、あっちはあっちで忙しいみたいで、あまり返事が来ない。メールならもっとましだと思うけれど、携帯を持っていないので仕方なかった。それに転校した本当の理由は誰にも話していないし、急だったので、みんな鈴香の事をどんどん忘れている感じだった。
そして新しい学校に通い始めて半月ほどたった頃、鈴香は風邪をひいた。民代おばさんは「色々と疲れがたまってたのよね」と、優しく看病してくれた。風邪はそう大した事もなく、何日か休むと熱も下がったけれど、ちょうどそこでゴールデンウィークになった。そして連休が明けても、まだ本調子でないような感じだったので一日だけ休もうと思い、あともう一日休むことにして、それから後はもう、どんな顔をして登校すればいいか判らなくなって、なし崩し的に休み続けているのだ。
お母さんなら、怒鳴りつけてでも鈴香を学校に行かせるところだけれど、南斗おじさんも民代おばさんも、厳しい事は言わなかった。ただ、時々何か手伝ってほしいことがあると声をかけて、あとは鈴香の好きにさせてくれていた。だから、近所の尼寺にいる祐泉さんから「下山」と呼んでいる買出しに誘われても、自由に出かけてもかまわない。ただ鈴香自身が、学校を休んでるのに平日うろうろするのはおかしいかな?などと気にしているだけなのだ。
「ねえねえ、あいついる?例の狸」
鈴香の「下山」問題はとっくに解決済みという感じで、祐泉さんは座敷に向かって身を乗り出した。
「うーん、昼間はたいがい寝てるけど」
「じゃあ押入れかな。仁類ちゃーん、おやつ食べない?」
彼女は座敷に上がり、少しだけ開いている押入を覗き込んだ。すると中でごそごそ音がして、オレンジ色の髪が現れる。祐泉さんは嬉しそうに「いたいた」と言いながら、肩にかけていたキャンバス地のバッグからおさかなソーセージを取り出し、「はい、ちゃんとここで坐って食べて」と、眠そうな顔の仁類をおびき出した。彼は今日もまた、寸足らずのジャージ姿だ。
狸にも猫なで声って通用するんだ、と思いながら、鈴香は二人の様子を見ていた。祐泉さんは白くて細い指先で器用におさかなソーセージのフィルムを半分ほどはがすと、仁類に差し出した。彼はそれを両手で受け取り、あっという間に食べてしまう。
「だいぶ人間らしくなってきたね」と、彼女は感心したように言った。
「祐泉さん、この人のこと狸だって本当に信じてるの?」
「だって湛石さんが言ってるんだから、きっとそうなのよ」
南斗おじさんによると、仁類を「発見」したのは湛石さんらしかった。離れに住んでいる彼の楽しみの一つは、山に住んでいる狸の餌付けで、夕食の残りを庭に出しておくと夜中に食べにくるらしい。そしてある日、いつものように狸の様子を見に障子を開けてみると、そこにオレンジの髪をした男の人がうずくまって、卵焼きと海老の天ぷらを食べていたらしい。そして彼はお寺に住み着いて、南斗おじさんに「田貫仁類」という名前をつけてもらった。
「人類になりたい狸だから、タヌキジンルイ。いい名前だろ?」
そう説明してくれたけれど、たぶん酔っ払ってつけたんだろう。南斗おじさんはお坊さんなのに、お酒が大好きで、親父バンドでベースも弾いて、何でもありなのだ。
「まあ、私も最初はかなり疑ったわよね。記憶喪失の家出人かなんかじゃないかって」
祐泉さんは、おさかなソーセージの名残を惜しむように、ぺろぺろと口の周りをなめ回している仁類を見ながらそう言った。鈴香もその説に賛成で、「だよね」と頷く。
「だからさ、もし狸だったら尻尾があるはずだと思って」と、祐泉さんはいきなり、しゃがんでいる仁類の背中に手を伸ばし、ジャージのパンツをひっつかんで脱がそうとした。思わず鈴は悲鳴をあげていて、気がつくともう仁類の姿は押入れの中に消えていた。
「んもう、毎回失敗すんのよねえ」
落ち着いた様子で坐り直す祐泉さんの傍で、鈴香はただ呆気にとられるだけだった。彼女は尼さんになっている割に、いつもこういう掟破りな事ばかり考えているみたいだ。そこへ、「ギャーギャーうるさいと思ったら、祐泉放送が来てたのか」と言いながら、南斗おじさんが現れた。
「どうもお邪魔してます。鈴ちゃんと下山するんだけど、お買い物、何かしてきましょうか?」と、祐泉さんは軽い調子でにっこり挨拶する。
「それは嫁さんにきいてみて。台所にいるから。しかしお前さん、いい加減に動物虐待とセクハラは止めんとな」
「やーだ、人聞きの悪い。ちょっとした探究心の表れよねえ、鈴ちゃん」
そう言われたって、鈴香も祐泉さんの暴れっぷりにはちょっとついていけない。
「全く、叡李院の評判を一人で落としてるよなあ。鈴ちゃん、こいつが街で馬鹿なことしないように、ちゃんと見張ってないと駄目だぞ」
「そんな事しません。私が昔は外資系の役員秘書だったって、南斗さんまだ信じてないでしょ」
「当たり前だ。仁類が狸なのは信じるけどな」と、おじさんは大げさに目をむいてみせた。
新緑のトンネルの隙間から、日差しがきらきらと降り注ぐ中を、祐泉さんの運転する白い軽バンは走ってゆく。お寺から街に向かう二車線しかない道路には、行き交う車も少なく、信号もない。
「絶好のドライブ日和よね。もうちょっとマシな車なら遠出しちゃうのに」
祐泉さんが窓を少しだけ開くと、ひんやりとした風が、中にこもっていたお寺独特の線香みたいな匂いを運び去ってゆく。この車は彼女がいるお寺、叡李院に檀家さんから寄進されたもので、ボディに黒々と「崑崙山叡李院」と入り、電話番号まで書かれているのだ。
「全く、民宿か和菓子屋みたいよねえ」と祐泉さんはいつも文句を言っているけれど、買出し役を押し付けられているのも気に入らないらしい。
「みんなペーパードライバーだからとか何とか、うまい事言っちゃって。でもまあおかげさまで、ちょっとした自由はあるわよね」
鈴香と二人で出かけると、買い物だけで終わることはまずなくて、いつも寄り道して帰るのだった。
「鈴ちゃん、民代さんからリスト預かってきた?」
祐泉さんに聞かれて、鈴香はリュックのポケットに入れた買い物リストを確かめた。野菜なんかは近所の農家から直接買ったりしているので、街で買うのは調味料やこまごまとした台所用品類だ。お醤油、お茶、アルミホイル、シャンプー、と並んだリストの最後に「仁類の服」というのがある。
仁類がいつも着ている寸足らずのジャージは、南斗おじさんの息子の天地くんが中学時代に着ていたものらしい。「天地にも小さくなったけど、勿体ないから私が着てたの」と民代おばさんは言っていたけれど、まあとにかくそれは、仁類には小さすぎた。
「もうそろそろ暑くなるから、半袖のシャツとか買ってきてあげてってさ」
「だったら連れてくれば、かっこよく全身コーディネイトしてあげたのに」
「来るわけないよ。祐泉さん、さっきもいじめたところじゃない」
「でもさ、上はいいとして、下はサイズ判ってるの?無用に長い足してるけど」
「おばさんがちゃんとメモしてくれた。仁類ってさ、ジャージばっかり着てるけど自分の服持っててね、それを測ったの」
「あらそうなんだ。どんな服?」
「ジーンズとパーカー。湛石さんが見つけた時にね、それだけ着てたんだって。まだ寒いのに裸足で、パーカーは後ろ前だったらしいよ。そんな人が夜中に庭で狸の餌を食べてたら、普通は警察呼ぶよね。それを狸だって言って、居候させちゃうんだから」
「まあねえ」
祐泉さんは何か考えるように、そう呟く。鈴香はまだ納得がいかず、話を続けた。
「ね、これって裸の王様みたいなもんじゃないの?湛石さんがボケちゃって変なこと言ってるのを、偉いお坊さんだから、みんな反対できないんでしょ?」
「確かにあの年だ。少しはボケててもおかしくないけど」と、笑いを含んだ声で祐泉さんは答え、ゆっくりとハンドルを切った。
「でしょ?仁類ってやっぱり人間だよね」
「そうとも言い切れない」山道のカーブに沿って、こんどは逆にハンドルを切りながら、祐泉さんは急に低い声になった。
「鈴ちゃん、仁類のあの髪、どう思う?」
「髪?オレンジなのは染めてるんだよ?狸だからじゃないよ」
「いや、それは私にも判るけどさ」と祐泉さんは笑い、そして「彼が現れて三ヶ月近くなるけど、ずっと髪全体がきれいなオレンジのままって不思議じゃない?」と訊ねた。
言われて初めてはっとした。鈴香のお父さんは長い家出から帰ると、髪を茶色や金色に染めている事があったけれど、半月もすると徐々に黒い髪が伸びてきた。だから仁類の髪もそうなって当然のはずなのに。
「じゃあやっぱり、狸だからオレンジ色なの?」
「そうじゃないだろうけど、私はさ、仁類って誰かのコピーじゃないかと考えてるの」
「コピー?」
「つまり、誰かモデルがいて、その人を真似て化けてるのよ。だからコピーしたその瞬間で時が止まってて、髪も伸びないわけ」
「誰かって、誰?」
「さあね。あくまで仮定よ。もしかしたら単にヅラなだけかもしんないし。でもさ、仁類は少しずつ人間ぽくなってるでしょ?まあ、鈴ちゃんや南斗さんたちを見て学習してるのかもしれないけど、もしかしたらその誰かさんの頭の中身も、少しずつ読み込んでるんじゃないかしら」
「マジで?」
「それも仮定だけどね。でも面白いと思わない?」
「面白いっていうか、怖いよ」鈴香は急に仁類のことが、何か得体の知れないものに感じられてきた。いつもちょっと不思議そうな顔で、黙ってみんなのやりとりを見ていて、不器用でお箸が使えなくて、熱いものが苦手で、昼間はたいがい寝ていて、夕方になると変な風に箒を握って庭を掃いている。彼は本当に、人間に化けた狸なんだろうか。
「ちょっと小腹がすいたわね。アイスと言わず、ガツンとくるもの食べようかな」
ショッピングセンターで一通りの買い物を終えて、荷物を入れたカートを押しながら、祐泉さんはフードコートに向かっていた。普通のお客さんの中で、スキンヘッドに作務衣姿、おまけに美人の彼女はとにかく目立っていたけれど、周囲の視線なんかまるで気にならない様子だ。一緒に仁類なんか連れてきたら、本当にシャレにならないと思いながら、鈴香は何を食べようかとフードコートを見回した。
クレープ、パスタ、アイスクリーム、どれも気になる一方で、どうしてもこれがいい、という決め手もない。それでも強いて言えば今の気分はチョコレートとバナナのクレープかな、と決めかけたその瞬間、思いがけない相手と目が合った。
同じクラスの水沢さんと井上さんだ。二人はクラブでもしていたのか、制服姿でクレープ屋さんの前に立っていた。鈴香はとっさにどうしていいか判らなかった。そう近くではないけれど、顔ははっきりと見える。そして向こうも同じように感じているのは明らかで、互いの間に一瞬で回線がつながったのが判った。
どうしよう?笑いかける?手を振る?でも私、ちょっと口きいた事があるだけだし、ていうか、ずっと休んでるのになんでこんなところにいるのか、やっぱり変だよね?
頭の中を色々な気持ちが飛び回り、跳ね返り、そして鈴香はいきなり回線を遮断すると水沢さんたちに背を向けた。
「祐泉さん、今日、外の喫茶店に行かない?」
「ん?いいけど?鈴ちゃんはどこの店がいい?」
「どこでもいい。外ならどこでも」とにかく一瞬でも早くこの場から立ち去りたくて、鈴香は早口でそう言うと自分のカートを押して出口に向かった。祐泉さんはちらりとクレープ屋さんの方を見たようにも思えたけれど、カートに手をかけると「そしたらジャスミン行こうか」と歩き出した。
そうして行った「ジャスミン」という名の喫茶店で、鈴香はバナナシフォンケーキを食べ、祐泉さんはチーズとトマトのホットサンドを食べた。ここでは祐泉さんは常連扱いで、いつも他のお客さんも巻き込んでの馬鹿話で盛り上がるのだった。
「そいで私が戻ってきたらさ、逃げちゃってんの。駅員室に監禁しとけっつうのよね」
OL時代に通勤電車で、女子高生を狙った痴漢をつかまえた話をしながら、祐泉さんはアハハと笑った。彼女は目も口も、更に声も大きいので、普通の人三人分ぐらいのインパクトがある。鈴香はその傍で紅茶を飲みながら、お父さんが喫茶店で働いていた頃をぼんやりと思い出していた。
お父さんが去年家を出るまで働いていたのは、「水玉」という店だった。鈴香は土曜の夕方、塾の帰りに遠回りして、よくそこへ遊びに行った。勝手口が裏通りにつながっている細長い店で、いつも誰かお客さんがいて、お父さんと世間話をしていた。鈴香はたいがい、一番奥にある二人がけのテーブルに座って、出されたばかりの宿題をしながら、大人たちの話をラジオか何かのように聞くのだった。
お客さんは皆、お父さんのことが大好きみたいで、コーヒーよりもお父さんと話をするのが目的で来ているように思えた。どうって事ない話ばかりなのに、お父さんが加わると、何故かすごく面白い事のように聞こえてくる。
鈴香は大人たちの弾んだ声を聞きながら、家でもこうだったらいいのに、とよく思った。お父さんは家では無口だし、何か言ったところでお母さんの返事はそっけなく、会話そのものが続かない。そして逆もまた同じ。お父さんはお母さんの顔も見ずに、短い返事をするだけだ。
お客さんと話す時みたいに、もっとちゃんと聞いてあげればいいのに。
一度だけ、鈴香はその考えをお父さんに伝えたことがある。答えは「お客さんと話すのは仕事だもの」だったけれど、正直言ってお母さんとの会話の方が仕事っぽかった。
そして店にはお父さんの古くからの友達も来た。彼らはお父さんを「マキ」と呼ぶ。バンド時代に全部片仮名で「コカヂマキオ」と名乗っていた名残でもある。お父さんいつもその友達たちと草野球やセッションの約束をして、喫茶店が休みの日はほとんど出かけていた。鈴香にしてみれば、寂しいけれど、家にいて退屈そうなお父さんより、「ただいま~」と、少し鼻にかかった声で、夜遅くに機嫌よく帰ってくるお父さんの方がましだった。そしてお母さんは「自分だけ楽しんじゃって」と、パソコンの画面に向かったまま呟くのだった。
実はお母さんにも、別の名前があった。ネットの掲示板で使っている「サマンサ」というハンドルネームだ。偶然パソコンの画面を見てしまったせいで、鈴香はその名前を知った。こっそり掲示板をチェックしてみると、「サマンサ」はほぼ毎日のように、あちこちの話題に登場していた。「義理の姉が不要になった衣類を送りつけてきます」、「職場で私だけがトイレ掃除を押し付けられています」、そんな相談に対して「あなたにも何か、落ち度があったのでは?」などと全体に辛口だった。
ともあれ、「マキ」は友達のところに、「サマンサ」はネットの中に、それぞれ居心地の良さを見つけているようで、3DKの賃貸マンションはそのためのベースキャンプのようなものだった。鈴香はしかし、お父さんが仕事に行って、お母さんが自分に対して辛口にならない限り、別に文句はなかった。
ジャスミンでずいぶんと長居をしたので、お寺に戻る頃には太陽はもう山の向こうに隠れようとしていた。南斗おじさんも民代おばさんも姿が見えず、本堂のある母屋は静まり返っている。鈴香は頼まれていた買い物を台所に置くと、誰かいないかと縁側に出てみた。
日課の庭掃除を済ませたらしい仁類が、箒を軒下に転がしたまま、丸くなってまた昼寝している。本当によく寝るなあと思ったその瞬間、祐泉さんの言葉が甦ってきた。
「ずっと髪全体がきれいなオレンジのままって不思議じゃない?」
確かに、今こうして見ても、仁類の髪はやっぱりオレンジ一色だ。祐泉さんが言うみたいに、本当はカツラだったりするんだろうか。鈴香はそっと足音を忍ばせて彼に近づくと、その髪をひと房つまんで勢いよく引っ張った。
「いたっ!」
仁類は飛び起きると、転がるように庭に降り、それからそっとこちらの様子をうかがった。鈴香は慌てて「ご、ごめんなさい」と謝ったけれど、そこでようやく気がついた。
「いま、しゃべった?」
そう言われた仁類の方が鈴香よりもずっと驚いた様子で、ぽかんとしたまま、固まってしまった。
3 人が来るのを待ってる
朝方の雨が残していった水滴が、午後の陽射しを受けて苔の上できらきらと輝いている。これを宝石みたいに、手に取って集められればいいのに。鈴香はそんな事を思いながら畳に座り、手だけは休まずに新聞紙を敷いた硯で墨を磨り続けた。
湛石さんの離れの、縁側から見える小さな庭はよく手入れされていて、今日のような梅雨の晴れ間には特に緑が鮮やかだった。生垣の向こうはもう山林で、風が吹くと木々の葉先が触れ合ってさざなみのような音をたてた。
湛石さんは時間のあるときは、毎日のようにお習字をしている。いつもは墨汁を使っているけれど、鈴香に頼んで墨を磨らせることもある。お寺に住むようになってから、もう何度も手伝ってきたので、鈴香もどれ位の水加減で、どれ位の力で磨ればいいのか心得たものだった。お駄賃は金平糖と五百円で、これは祐泉さんとの下山の時に使える、ちょっとしたお小遣いになった。
「墨というのは、鈴ちゃんぐらいの年頃の女の子が磨ってくれると、ちょうどええ加減なんですわ」
ずっと長い間このお寺に住んでいるというのに、湛石さんはいつも、のんびりした関西弁で喋った。
庭からは心地よい風が緩やかに吹いてきて、墨の香りをかきたてる。少しずつとろりとした質感を持ち始めた手応えを指先で感じながら、鈴香は顔を上げた。湛石さんは文机に向かって背を丸め、ぼろぼろになった辞書を大きなルーペでのぞきながら、ちびた鉛筆で何かを書き写している。そしてその後ろでは、仁類が丸くなって昼寝をしていた。
彼はもうジャージを卒業していて、鈴香が祐泉さんと「下山」した時に買ってきたジーンズとTシャツを着ていた。髪は相変わらずきれいなオレンジのままで、昼間はたいがい寝ていて、夕方になるとうろうろし始めるのも同じだったけれど、一つだけ前とは違うことがあった。
あの日、鈴香に髪を引っ張られて「いたっ!」と叫んで以来、何かつかえていたものが取れたように、仁類は少しずつ言葉を話すようになった。それは一から憶えているのでもなさそうだったし、かといって外国の人みたいに、自分の国の言葉のアクセントがあるわけでもなく、少しずつ思い出している感じだった。祐泉さんに言わせれば、「読み込んでいる」という事だろうか。
「ちょっと、仁類さんよ」
湛石さんはルーペを手にしたまま、ゆっくりと振り向いた。呼ばれた仁類はぴくりと動くと、顔だけ上げて言葉の続きを待つ。
「ちょっとあっち行って、民代さんから色紙をもろうて来てくださらんか?」
「シキシ」
「そうです。みやこ堂さんから預かってる奴、言うたら判ります」
「ミヤコド」と繰り返し、仁類は身体を起こして一度頭を振ると、立ち上がって縁側を降り、サンダルをぺたぺたいわせながら母屋へ歩いていった。
なるほど、今日はあれか、と鈴香は思った。みやこ堂、というのは京都にある、お習字や絵の道具を扱っているお店で、月に一度ぐらい湛石さんに会いに来る。まあ要するに訪問販売みたいなものだけれど、その時、たまに色紙を預けてゆくのだ。
「お時間のある時でよろしいですさかいに」
まるで女の人みたいな話し方の、ずんぐりむっくりと大きなみやこ堂の営業さんは、その身体をできる限り小さく丸めて、薄紫の紙で包んだ色紙の束をそっと差し出すのだった。
南斗おじさんによると、湛石さんというのは書道界ではちょっと名の知れた存在らしくて、彼が書いたものなら大金を払ってでも欲しい、という人は沢山いるらしい。でもまあ、それは湛石さんが若くて元気だった頃の話だろう。いま、彼が色紙に書く字は子供が書いたかと思う程へなへなと下手くそで、更に手抜きな時は、字の代わりに大きな丸が一つだけ書かれていた。
やっぱり「裸の王様」なのかな、と鈴香はまた納得する。誰も湛石さんに「年をとって下手になった」と言えなくて、でも昔の評判があるから名前とハンコが入っていれば、「まあこれでいいか」と受け入れているに違いない。だから色紙を書いたお礼に、金平糖しかもらえないのだ。
みやこ堂の営業さんが持ってくる金平糖は、まるでアイスクリームのパーティーパックのように、色々な味のものが少しずつ詰め合わせになっている。湛石さんはそれを民代おばさんに小さなジャムの空き瓶に移し替えてもらって、鈴香にお駄賃として分けてくれるのだった。
「湛石さん、もういいみたいよ」鈴香は使い古した小筆を手にとり、湛石さんがとっておいた書き損じの半紙の余白で、墨の濃さを確かめた。
「はいおおきに、ご苦労さんでございました」と、湛石さんは座ったままゆっくりと鈴香の方に身体の向きを変えた。鈴香は用心して硯を捧げ持ち、湛石さんの文机に運ぶ。
「またよろしゅう頼んます」湛石さんは懐紙に包んだ五百円玉と、これまた懐紙に包んだ金平糖を差し出した。鈴香は「どうもありがとう」とお礼を言い、「また硯を洗う時に呼んでね」と立ち上がった。そこへちょうど、仁類が色紙の包みを持って戻ってきた。彼はそれを湛石さんに渡すと、元の場所に座ったけれど、その視線は鈴香の手元に釘付けだ。
「しょうがないなあ」鈴香はしぶしぶ、手にした包みを開き、白とピンクの金平糖を幾つかつまむと、仁類の鼻先に突き出した。彼はそれを両手で受け取ると、すぐに口に放り込んでジャリジャリと噛み砕いた。
「あーあ、ゆっくり舐めて味わわないと駄目だよ」
その言葉が終わらないうちに、仁類はもう何もかも飲み込んでしまっている。
「仁類さんは狸ですさかい、ちょっと犬みたいに早食いなところがおありですな」湛石さんはそう言って、楽しそうに笑った。
今は自分の部屋として使わせてもらっている、従兄の天地くんの六畳間に戻ると、鈴香はベッドに腰かけて、金平糖の包みをもう一度開いた。まず白いのを一粒食べてみる。舌の上に爽やかな林檎の風味が広がり、それを楽しみながらあちこちに転がしていると、やがてうっすらと消えてゆく。次にピンクのを口に含むと、こちらは苺だった。
そういえばお父さんが家を出る前、最後に買ってきたお土産は、季節外れの苺だったのを思い出す。「秋なのに珍しいだろ?」なんてはしゃいでいるお父さんを横目に、お母さんは「また無駄遣い」と明らかに不機嫌で、しかし鈴香は自分に買ってきてくれたのなら、やっぱり喜ぶべきなのかな、と複雑な気持ちだった。そして苺は美しい見た目の割にそう甘くもなく、何だか硬くて奇妙に喉につかえた。
鈴香は金平糖を包みなおすと、腕を伸ばして勉強机の上に置いた。そしてベッドに仰向けになると、天井の木目を見上げた。それは何だか天気図に似ていたけれど、自分の気分もこんな感じかもしれない。低気圧と高気圧があって、今は少しずつ低気圧が近づいている。
この前祐泉さんと下山した時、クラスの水沢さんと井上さんに遭遇してしまって、鈴香はかなり慌てた。「あの子学校は休んでるくせに、買い物には来てるんだよ」なんて言われるのは目に見えているからだ。そして思いついた苦肉の策は、また学校へ行くことだった。つまり、もう学校に行けるぐらい元気になったから、ショッピングセンターへ買い物に行っていたという解釈で、だから翌日から普通に登校すれば何も言われないだろう、という理屈だった。
しかし、久しぶりに訪れた教室の空気は相変わらずよそよそしく、おまけに授業の内容も判らない。鈴香は三限目が終わったところで挫折して、気分が悪いと嘘をついて保健室に逃げた。いや、嘘ではなく、本当に心臓がドキドキして、船に乗っているように身体全部が揺れて、今にも倒れてしまいそうな気がしたのだ。
それまでも何度か避難した事があったので、保健室の遠藤先生は鈴香の事もよく憶えていてくれた。
「まだ調子出ないのかもしれないね。もし教室で勉強するのが辛かったら、ずっとここにいてもいいよ」と言われて、鈴香はただ頷くしかなかった。そしてそれからはずっと、とりあえず保健室に登校はしているものの、一度も教室に入っていない。
担任の先生が時々様子を見に来て、プリントを置いていったりするけれど、鈴香はそれを少しだけやってみたりするのを除けば、とりたてて何もせず、ただ保健室の奥の空いたデスクに座り、三階の窓から見えるグランドと、その向こうに広がる馴染みのない街を眺めて毎日を過ごした。
明日はまた月曜がやってくる。
鈴香の心の低気圧らしきものは、月曜と同じ速さで近づいてくるのだった。本当はちゃんと教室で授業をうけて、誰かと仲良くなったりしたいのだけれど、今となってはもう不可能だ。でもとりあえず学校に行くこと。お母さんの事を考えると、それは鈴香にとって最大の使命だった。
「鈴香だって大学行きたいでしょ?」
だからこそお母さんは、エステティシャンになる決意をして研修を受けているのに、肝心の鈴香がこんな状態では意味がない。けれど、勉強もどんどん判らなくなってきたし、これでは高校に進学できないかもしれない。
「あーもうどうしよう!」
思わず大声を出して、鈴香は起き上がった。そして何気なく窓に視線を向けると、オレンジの髪が目に入った。仁類だ。彼は窓の外に立ってじっとこちらを見ている。
「な、何してんのよ!」
驚きのあまりベッドの上に正座してしまったけれど、仁類はきょとんとした顔のまま、「ソウジ」と、手にしていた竹箒を差し上げて見せた。
「掃除って、さぼってここ覗いてたじゃん、気持ち悪っ!」鈴香は勢いよく立ち上がると仁類の鼻先で音をたてて窓を閉め、更にレースのカーテンを引いた。しばらくして、竹箒の音が少しずつ遠ざかるのを聞きながら、鈴香はまだ苛立ちを抑えきれずに「気持ち悪っ!」と繰り返した。
全く、どうして自分はこんな山奥のお寺に居候して、狸に部屋を覗かれなきゃならないんだろう。友達もいないし、お母さんは東京だし、お父さんは行方不明だし、おまけに来週は中間テスト。最低以外の何物でもない。
結局、テストも保健室で受けて、結果は最悪だった。幸い、南斗おじさんも民代おばさんもテストの結果には関心がないらしく、聞かれもしなかったし、お母さんはといえば二、三日おきに電話はしてくるものの、たいていは民代おばさんと何やら長話していて、最後に鈴香が代わると「ちゃんとしててね」でまとめて終わりなのだった。
もともとお母さんはかなり教育熱心で、テストの結果どころか、夏休みの宿題の進み具合までチェックするほどなのに、今は自分の勉強で手一杯で、鈴香の方まで気が回らないらしい。
また次の学校で挽回すればいいか。
とんでもない点数のテストをまとめて小さく折りたたみ、キャリーバッグの底にしまいながら、鈴香は自分にそう言い聞かせた。でも次の学校、って一体どこだろう。いつからそこに行けるだろう。十月ぐらい?だとしたら、もう今の学校で頑張る意味もない。それでいいじゃない。毎日ぼんやりと過ごしながら、鈴香の気持ちはその辺りをなぞり続けた。
そろそろ本気で暑くなってやろうと、助走しているような初夏の風が保健室の窓から飛び込んでくる。脇に寄せていたはずの白いカーテンは、船の帆のように大きくふくらみ、鈴香の頬を撫でようと押し寄せてきた。
窓の外の世界は真っ白に明るくて、広くて乾いている。山の中にあるお寺が緑に包まれて、いつもどこか薄暗いのとは正反対で、その眩しさが鈴香をたじろがせた。
学校の周りに広がる住宅街と、国道の向こう側に並ぶビル。そのまた向こうには駅前の、この街で一番賑やかな場所がある。更にその向こうには何があるんだろう
そんな事を考えるうちに、六限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。鈴香はそれでもしばらくは席を立たず、校舎から溢れ出した生徒の波が引いてゆくのを待った。そして何も手をつけなかったプリントとペンケースを鞄にしまうと、立ち上がって遠藤先生のところへ行き、挨拶する。パソコンに向かっていた先生は顔を上げるとにこりと笑い、「はい、また明日ね。気をつけて」と言ってくれた。
やれやれ、とりあえずまた一日が終わった。
鞄を提げ、俯いたままで保健室を後にすると、すれ違う人の顔を見ないように、階段を一気に駆け下りる。午後の日差しを反射してグランドは白く発光し、クラブの練習でボールを蹴ったり、柔軟体操をしている生徒たちがとても遠く見える。彼らの掛け声と、音楽室から流れてくる吹奏楽部の、色とりどりのリボンをよじり合わせたようなロングトーンを聞きながら、鈴香はグランドを縁取るように続く歩道を歩いた。
お寺の方に向かうバスには、急がなくても間に合う。校門を出て、コンクリートで固められた細い川を渡って、診療所の前を通り、角を曲がればもうバス通りだ。帰りのバス停は横断歩道の向こう側で、信号待ちの時間が長いのがいつも嫌だった。
気がつくと鈴香はいつもと逆方向のバスに乗って、終点の駅前で降りていた。そして当たり前みたいな顔をして駅のビルに入り、これまでお母さんとお寺から帰る時にそうしていたように、切符売り場へ向かった。そして券売機の上の料金表を見上げた途端に、頭がくらくらしてきた。
私どこに行くんだっけ?前の家に戻るの?東京のお母さんのところ?それより、持っているお金でどこまで行けるの?
とりあえず待合室のベンチに移り、鞄から財布を取り出して確かめる。そこには千円札が一枚と、百円と十円が数枚ずつ入っているだけだった。南斗おじさんがお母さんから預かっている毎月のお小遣いは、あと三日しないともらえないし、お年玉は前に住んでいた街の信用金庫に入れたままだ。
溜息をついて鈴香はベンチに深くもたれた。そもそもどうして駅に来たのか、自分でもはっきりしない。でもまあ、まだ夕方まで時間はあるし、とりあえず電車に乗ってみる?
手持ちのお金でどこまで行けるのか、もう一度確かめようと立ち上がったその時、鈴香は自分に向けられた視線に気づいた。
「あ・・・」どちらからというのでもなく、そんな声が漏れた。クラスの水沢さんが、券売機の前でこちらを見ている。気づかないふりをするにはあまりにも近い距離で、鈴香はただ固まるしかなかった。こっちはまだ制服のままなのに、水沢さんはTシャツにデニムのスカートという私服で、ピンクのショルダーバッグをたすきがけにしていた。
「どっか、行くの?」と、先に口を開いたのは水沢さんだった。よそよそしいけれど、とりあえず笑顔っぽい表情。鈴香は何故だかとっさに「人が来るのを待ってるの」と答えた。
「そっか。私はこれからおばさんちに行くの。いとこのバースデーだから」
どう答えていいかわからず、鈴香はただ頷いた。水沢さんはちょっと黙っていたが、「小梶さんってお寺に住んでるの?」と訊ねた。
「うん」また頷いてから、鈴香は水沢さんの言葉の続きを待った。しかし彼女は彼女で鈴香が何か言うのを待っていたようで、それから一言「じゃあね」と少し困ったような顔つきで手を振ると、改札の方へ駆けていった。
彼女の髪を束ねた、レモン色のシュシュが遠ざかるのを見送りながら、鈴香はどうやら自分は大事なチャンスを逃したらしいと感じていた。「お寺に住んでるの?」と訊かれて、もっと色々答えればよかったのだ。バスが少なすぎる、山の中だから超不便、お風呂にカタツムリが出る、狸も住んでる。そうしたら水沢さんだってまた何か返してくれて、ずっと話が続いて、ちょっと仲良くなれたかもしれないのに。
でもきっと違う。
鈴香はまたベンチに腰をおろし、少し伸びてきた爪を見た。水沢さんはこれからおばさんの家に行くのだ。自分と話してる時間なんてない。きっと何か言ったところで、「ふーん」なんて気のない返事で、「じゃあね」と手を振ったに決まってる。
だからやっぱり、これでいいんだ。鈴香はそう自分を納得させると、あらためて周りを見回した。さっき思わず「人が来るのを待ってる」と言ってしまったけれど、本当にそうならいいのに。少し背筋を伸ばすと、待合室の入り口を通して改札が見える。今もし「お待たせー」と、言葉の割に申し訳なさのかけらもない、いつもの笑顔でお父さんが現れて、「なーんか忙しくて、連絡できなくて」なんて言われたらどんな気分だろう。そのまま二人で何事もなかったように、東京までお母さんを迎えに行けたらどんなにいいだろう。
どの位そうして待合室に座っていたのか。仕事帰りみたいな人が随分沢山通るなあ、と思って腕時計を見ると、もう七時近い。しまった、駅前からお寺に向かうバスは六時四十五分が最終なのに。鈴香は慌ててバス乗り場に向かって走った。他の乗り場には大勢の人が並んでいるのに、お寺行きのバスが出る乗り場には誰もいなかった。
4 一歳が大人
駅前の大通りをまっすぐ行って、三本目の角を右に曲がり、コンビニを左に曲がった路地の、太陽のネオンサインが出ているビルの地下。鈴香はその言葉を繰り返しながら夜の繁華街を歩いた。スーツ姿のサラリーマンや、きれいな服を着たOLや、学生たちが行き来する中で、制服姿の自分が場違いなのはよく判っていた。だから時々道を確かめる以外はずっと俯いて、できる限り早足で歩いた。
最終バスを乗り逃がして、タクシーに乗るしかお寺に帰る方法はなくて、でも南斗おじさん達にどう説明していいか判らなくて、鈴香は結局、公衆電話から祐泉さんに助けを求めた。詳しい事は抜きにして、「いま、駅前にいるんだけど、バスに乗り遅れちゃって」とだけ言うと、祐泉さんは「あら、それは困ったわね」と驚き、少しだけ考えて「今から言う場所にある、太陽館ってライブハウスに行けばいいわよ」と言ってくれた。
「そこにカンパチって人がいるから、借金返して貰いに来たって言えばいいわ」
「借金?」
「私がお金を貸してるの。せっかくだから一万円ぐらい預かってきてね。それでタクシーに乗るといいわ。私にはまた後で返してくれたらいいから」
何だか要領を得ないままに、鈴香は「わかった」と返事して電話を切っていた。とにかく今はそれしかお寺に帰る方法がないんだから、言われた通りにするしかない。
コンビニの角を曲がると、夕暮の路地に太陽の形をしたネオンが赤く輝いていた。ライブハウスという場所は、お父さんと一緒に何度か訪れたことがあったし、そこで働く人たちはけっこう気さくで優しいという印象があったので、鈴香はビルの外側にある、地下への階段をためらわずに駆け下りてドアを開けた。
「こんばんは」
声を出してみたものの、流れている音楽で鈴香の挨拶はかき消されてしまいそうだった。まだ時間が早いのか、テーブル席に二組のお客さんがいるだけ。そこで何歩か進み、こんどは「すみません」と声をかける。すると、左手にあるカウンターの中で、こちらに背を向けていた男の人が振り返った。
「あら、鈴香ちゃんね。どうぞどうぞ、私がカンパチです」
彼はがっちりと小太りで、よく日に焼けていた。赤いチェックのシャツにジーンズという格好だったけれど、オネエ系の人らしく、ちょっと芝居がかった動作で腕を伸ばすと、鈴香にカウンターに座るよう勧めた。
「はい、こちら祐泉お姉様への、私の借金」いったんカウンターの奥に姿を消した彼は、戻ってくると水色の封筒を差し出した。鈴香は「どうも」と頭を下げると、それを受け取った。これでタクシーに乗って帰れる。そう思って立ち上がろうとすると、カンパチさんは慌てて「あらちょっと待って」と引き留めた。
「こんな可愛い子が一人でうろちょろしてたら、悪いおじさんに連れてかれちゃうわよ。タクシー呼んであげるから、ね?」と笑いかけ、それから「何か飲む?マンゴージュースなんかお勧めよ」と勧めた。
「いえ、いいです」と答えると、カンパチさんは「遠慮しなくてもいいのよ」と言いながら、電話をかけに行った。鈴香は何だか少しほっとして、周囲を見回した。
店にはけっこう奥行があって、ステージは入り口から向かって正面だ。今夜はライブはないらしく、アンプやスピーカーが影のようにのっそりと蹲っていた。ステージの右手、カウンターの向かい側にある白い壁には、これまでに出演した人たちのサインがびっしりと書き込まれている。
鈴香が小学校を卒業する頃までは、お父さんもまだライブハウスに出たりしていた。それがある日、お母さんに内緒ですごく高いライブ用のギターを買ったせいで大喧嘩になって、結局、もうライブは止める、という約束になったのだ。問題のギターはまた売ったし、他に何本か持っていた奴も売ったはずだ。最後には大切にしていた三本だけになったけれど、倉庫に預けたお父さんの荷物の中になかったから、もしかしたらあれだけ持って家を出たのかもしれない。
だったらやっぱり、もう帰らないつもりなんだろうか。
鈴香はその考えを振り切るように一度ぎゅっと目をつぶって、それからカウンターに向き直ると、一番端に積まれているチラシに視線を向けた。この店でやるライブの案内だったり、どこかのホールの公演だったり、絵の個展や演劇の案内だったり。その中の一枚、あんまりお金のかかってなさそうな水色のチラシを見たとき、鈴香は心臓が止まったように感じた。
「コカヂマキオ ソロライブ決行!」
お父さん?
鈴香は飛びつくようにしてそのチラシを手に取った。単なる同姓同名って事も十分にありうる。そう自分に言い聞かせてみたものの、そこに書かれた言葉が全てを物語っていた。
「あの「センチメンタル・ゼロ」のコカヂマキオが、沈黙を破って帰ってきた」
「センチメンタル・ゼロ」というのは、お父さんが昔ボーカルをしていたバンドだ。メジャーデビュー寸前で解散した、幻のバンド。
ちょうどその時店のドアが開き、「すいませーん、東和タクシーです」と大きな声が響いた。鈴香はそのチラシを鞄に突っ込むと、慌てて立ち上がった。
タクシーが夜の繁華街を抜け、お寺に向かう県道に出てしばらくすると、鈴香はようやく鞄の中からくしゃくしゃになったチラシを取り出した。
「伝説のカリスマ。ゼロ解散からの長い眠りを抜けて、新たな時代への覚醒」
コカヂマキオと小梶槙夫。聞こえる音は同じなのに、片仮名だけで綴られたその名前はとてもよそよそしい。この世に存在しなかったものが、いきなり命を吹き込まれて勝手に歩き回っているような感じがする。
ライブは来週の金曜日、さっきの太陽館で八時開演。
とにかく行って、本当にお父さんなのかどうか確かめたい。けれど開演まで待っていては、また今日みたいに帰れなくなってしまう。一体どうしたらいいだろう。
あれこれ考えているうちに、タクシーは止まった。
「お姉ちゃん、晋照寺ってここでいいのかな?」
「あ、はい。すみません」鈴香は慌てて顔を上げ、カンパチさんから預かった一万円札を差し出した。お釣りをまた封筒に入れて車を降りると、ひんやりとした空気と森の匂いが気持ちよかった。
「じゃあ、暗いけど気をつけてね」
運転手さんの声と、タクシーのドアが閉まる音にはっと我に返ると、鈴香が立っているのは山門の前だった。しまった!ここじゃなくて、県道を大回りして本堂の方に行ってもらわないと駄目なのに。慌ててタクシーを呼び止めようと駆け出したけれど、赤いテールランプはすごい速さで今来た道を遠ざかって行った。
「やだ、どうしよう」山門には常夜灯が灯っているけれど、明るいのはそこだけだった。夜の間は閉められている大きな扉。その脇にある勝手口みたいな、小さなくぐり戸をほんの少し開き、そこをすり抜けるようにして通る。その向こうに続く参道に目を向けた途端、自分が一回り小さくなってしまったような気がした。
まっすぐ歩けば本堂にたどりつくのは判っていたけれど、黒々と横たわる夜の闇に足を踏み出す勇気がない。思わず鞄を抱きしめたところへ、すぐ近くの繁みで物音がした。
「きゃっ!」声を上げてそちらを見ると、何かいるらしく、木の葉が揺れている。鈴香は山門の太い柱に貼り付くように後ずさりした。
「鈴ちゃん」
そう言って姿を現したのは、仁類だった。
「わ、は、仁類か、びっくりした。何してるの」まだ心臓のドキドキが収まらなくて、鈴香は震える声で訊ねた。
「民代さんが電話の聞く。仁類はここを来て鈴ちゃんに待つ」
「え?電話?」
どうやら祐泉さんが民代おばさんにうまく話をしてくれて、おばさんは仁類に出迎えを頼んでくれたらしい。鈴香はいつの間にか額にうかんだ汗を手の甲で拭った。仁類は軽く首をかしげると、そのまま参道をすたすたと歩き出す。
「ちょっと待って、歩くの速すぎるよ。真っ暗で何も見えないのに」
仁類は立ち止まると、空を見上げて「明るい」と答えた。そこには満月と呼ぶには物足りない感じの月が浮かんでいる。
「そりゃ狸には明るいかもしれないけど、人間には真っ暗だよ」
「真っ暗」仁類はそう繰り返すと、こんどは参道のずっと奥に視線を向けた。鈴香は彼に追いつこうと足を踏み出したが、いきなり石畳の継ぎ目に躓いてしまった。思わず伸ばした手がつかんだのは、仁類が羽織っていたシャツの裾だった。
「転ぶ」
「大丈夫。でもここ持っとくから、ゆっくり歩いて」
「ゆっくり歩く」
本当は手をつないだ方が歩きやすいだろうけど、それは何だか嫌なので、鈴香はシャツの裾を握ったままでいた。辺りはとても静かで、二人の足音しか聞こえなかったけれど、時おり吹く夜風が木々の枝を怪しげにざわめかせた。その間を縫うようにして、県道を走る車の音がうっすらと近づいてはまた遠ざかってゆく。
「ねえ、仁類はどうしていつも昼間は押し入れに隠れてるの?」暗闇をずっと黙って歩くのは不安なので、鈴香は気を紛らわせるために質問してみた。仁類はしばらく考えてから「寝る」と答えた。
「でも狭いじゃない。畳の上で、布団敷いて寝ればいいのに」
「押し入れは人の来ない。仁類は安心」
なるほどね、と鈴香は思った。お寺にはしょっちゅう誰か尋ねてくるし、何より祐泉さんは相変わらず尻尾問題に興味津々だ。しかも仁類は馬鹿だから、いつも祐泉さんの持ってくる食べ物の誘惑に負けてはつかまり、また逃げるという事を繰り返していた。
「じゃあ湛石さんは怖くないの?あっちの離れじゃよく、押入れの外で寝てるよね」
「湛石さんは、頭が考えないので安心」
「そっか」と、鈴香は頷いた。やっぱり狸にも湛石さんがボケちゃってることは判るのだ。仁類は更に「鈴ちゃんは子供で安心」と続けた。
「子供?私もう中学だよ!そんな小さくないし」鈴香にとって子供という言葉が指すのは小学生までだ。バスや電車は大人料金だし、映画は学生料金。子供とはちょっと違う。
「でも子狸と同じの匂い」
「え?!ウソ!」慌てて鈴香は自分の肩の辺りに鼻を近づけてみた。子狸と同じって、それ何だか動物園みたいな匂いじゃないだろうか。最悪だ。
「私毎日ちゃんとお風呂で洗ってるし、そんな匂いするはずないよ」少なくとも自分では大丈夫な気がして、鈴香は反論した。
「人間は聞こえない。親と同じものが食べて、まだ自分の食べ物とらない子狸の匂い」
「へえ・・・」思いがけず仁類が長々と説明したので、鈴香は少しびっくりしてしまった。聞こえる、というのはどうやら匂いが判るという意味みたいだ。
「鈴ちゃんの親は、食べ物がとりに行く」
「ん、まあ、そうかもね」正確には、エステティシャンになって生活費を稼ごうとしているのだけれど、それはつまり、鈴香のために食べ物をとりに行くことに他ならない。でも、お父さんはそうじゃない。何だかその話は嫌で、鈴香はちょっと話題を変えてみた。
「仁類はさあ、人間に化ける前はいつも何食べてたの?湛石さんにもらうもの以外に」
しばらく沈黙があって、それから「小さの生き物」という返事があった。
「生き物?小さい?」
「虫など、カエルなど、トカゲなど、ヤモ…」
「もういい!言わなくていいから!」鈴香は思わず大声をあげた。
「そういうの超気持ち悪いから。もう聞きたくない」
本気で気持ち悪くて、鈴香はもっとましな事を考えようとした。
「じゃあさ、お寺で食べるもので、何が好き?」
「玉子焼きとおさかなソーセージ」と、仁類は速攻で答えた。そして少し考えて、「一番好きの金平糖」と付け加えた。
「そんなに好きならもっとゆっくり食べなよ。いつも噛み砕いちゃってるじゃない」
「それで一番おいしい」
あーあ。心の中で呆れた声を出し、鈴香は自分が少し笑顔になっているのに気がついた。
「ねえ、仁類って何歳なの?」
「今の前で春に生まれた一歳」
「一歳?って、赤ちゃんじゃん。子供以下ってことだよ?」
「狸は一歳が大人」
「でも今は人間に化けてるじゃない」
何だかよく判らなくなって、鈴香は頭の中を整理しようとした。犬や猫は生まれて一年すれば大人だ。だから多分、狸もそうなんだろうけれど、でも人間の一歳は赤ちゃんなんだから、人間に化けている場合は赤ちゃんじゃないだろうか。
「ていうか、仁類は一体誰に化けてるの?」
「誰に化ける」
「そう。いま、誰かのふりをしてるんでしょ?それとも自分で思いついたの?そのオレンジの髪とか」
仁類は急に立ち止まり、勢い余った鈴香は彼の背中に顔をぶつけた。
「んもう、止まるんなら言ってよ」と文句をつけると、仁類はまた歩き始めた。そして低い声で「男の人は寝る」と呟いた。
「え?それって誰なの?」
仁類は何か考えているみたいで、そうすると見る間に歩く速度が落ちていって、また立ち止まった。こんどは鈴香もぶつからない。
「真っ暗」という仁類の言葉に、鈴香は周囲を見回した。今は目が慣れてきて、月明かりでもぼんやりと辺りの様子がわかる。「そんなに暗くないよ」と言うと、仁類はこちらを振り返り、「頭の中の真っ暗」と言った。
たぶんそれは思い出せないとか、そういう意味じゃないだろうか。最初は言葉を話さなかった仁類が、いまはこれだけ喋るんだから、もしかしたらそんな事も思い出せるようになるかもしれない。
「慣れたら見えてくるんじゃない?」
「慣れたら見え」と繰り返して、仁類はまた歩き始めた。
いつの間にかもうお寺の入口まで来ていて、二人は小さな門を抜けて中に入った。玄関から庭に回り、勝手口に向かう。台所の窓からさす明かりがうっすらと辺りを照らし、中からはテレビの音が聞こえてくる。
「戻ってきた」と言って仁類は振り返った。鈴香は自分がまだ彼のシャツの裾を握っていることに気づき、慌てて手を放した。そして勝手口を静かに開けて中に入る。脱いだ靴を揃えようと振り向くと、仁類はまだ外に立っていた。
「入らないの?」と聞くと、仁類は黙って頷き「散歩」と言った。
「散歩?今から?」
「毎日散歩」
「そうなんだ」鈴香はもう一度靴を履くと外に出た。仁類はまだじっと立っている。
「それって狸のときからずっと?」
「ずっと」
「一人で散歩するの、怖かったり寂しかったりしないの?」
しばらく考えてから「仁類は大人」と答え、彼はくるりと背を向けて、湛石さんのいる離れの方へと姿を消した。
それから鈴香はちょっと後ろめたい気持ちで中に入った。茶の間では民代おばさんが一人、お茶を飲みながらテレビを見ていた。ふだんちょっと薄暗いと思っていた明かりが、今夜は眩しく感じる。「ただいま」と言った後、何と続ければいいのか迷っているうちに、おばさんが声をかけてきた。
「お帰り。ちゃんと仁類は迎えにきてくれた?」
「あ、うん。でもまた散歩に行っちゃった」
「そりゃよかった。今度から遅くなる時は先に連絡してね。今日はハンバーグだったんだけど、祐泉さんが電話くれた時にはもう焼いてたから冷めちゃったの。今から温めるから着替えてらっしゃい」
おばさんの明るい声に何だかほっとして、鈴香は自分の部屋に向かった。そして制服を脱いでTシャツとジーンズに着替えたところで、ふと気がついた。
私なんで仁類とだと普通に喋れたんだろう。
水沢さんとはほんの短い会話でも続かなかったのに、どうして狸だと大丈夫なの?それは何となく、駄目な事のように思えた。
5 何か努力してる時
太陽は沈むのを忘れたように、西の空に低くひっかかったままだ。足元からはアスファルトにこもった熱気が立ち上がり、頬には車のエンジンが吐き出す濁った風が吹きつける。鈴香はできるだけ日陰を選んで、仕事帰りの人が溢れ出す前の街を足早に急いだ。
ライブハウス太陽館のネオンサインはまだ光っていなくて、ちょっと白骨じみた姿を晒している。タイル貼りの外階段を下りてゆくと、踊り場にポスターが貼られていて、鈴香はその前で少しだけ立ち止まった。
コカヂマキオライブ 二〇時開演。
この前、太陽館でチラシを手にしてから、鈴香はずっとお父さんのライブの事を考えていた。南斗おじさんのお寺がこの街にあるのはお父さんもよく知っているのに、なぜ連絡もしていないんだろう。電話なんかしたら、お母さんや鈴香にも知られてしまうから、秘密にしておきたいんだろうか。
それをどうしても確かめたいのと、やっぱりずっと会っていないお父さんの顔が見たいのを抑えきれず、鈴香は祐泉さんにタクシー代を返しに行った時に相談してみた。
「あら、そうなんだ。鈴ちゃんのお父さんってミュージシャンなの」
祐泉さんは何だかすごく感心したように「なるほどねえ」と頷いた。でもバンドはメジャーデビューしなかったし、ミュージシャンなんてのは自称で、お母さんに言わせれば「ずっと治らない病気」みたいなものだと説明はしたものの、それでも祐泉さんは「誰にだってできる事じゃないわよ」と言うのだった。
「南斗おじさんたちにはちょっと秘密にしときたいの。でも、こないだみたいにタクシーで帰るわけにもいかないから、ライブの時間までいられないし」
「だったらカンパチに頼んで、開演前に会いに行けばいいわよ。そしたら最終のバスに間に合うだろうし」
「そっか」
「でもさ、お父さんはきっと、鈴ちゃんにライブ聴いていってほしいと思うんじゃない?だから帰りのタクシーとかは心配しなくていいかもよ」
それはどうだか判らない。でもとにかく、鈴香はお父さんに会いに行く決心をした。カンパチさんには祐泉さんから連絡してもらったけれど、実際のところ、鈴香が来ると判ったら逃げる可能性も無くはない。だから「ファンの女の子がサインを貰いに来る」という話にしておいてもらった。そして今日はいったん学校からお寺に帰り、制服を着替えてからまたバスに乗って太陽館まで来たのだ。
踊り場に貼られたポスターの前で小さく深呼吸して、鈴香は残りの階段を一気に駆け下りた。「CLOSED」の札はかかっていたけれど、思い切ってドアを押す。エアコンの効いた空気と、薄暗い空間。そこはもう外とは別世界だ。正面奥のステージは小さく照明がついていて、ドラムセットやアンプなんかの機材が浮かび上がっている。カウンターの中を覗くと、ちょうどカンパチさんが奥から出てきたところだった。
「こんにちは」
ここはもう夜中って感じなのに、この挨拶でいいのかな?と思いながらも鈴香は頭を下げた。カンパチさんは「あーら、鈴ちゃん、よく来てくれたわね。マキオさんのファンだなんて、若いのに目が高いわ。お母さんがファンだったんですって?」と話しかけてきた。
「ええ、まあ」とりあえず嘘ではないので、鈴香はちょっとひきつりながらも頷いておいた。
「マキオさんに話したら、とっても嬉しそうだったわよ。もうリハーサル終わって休憩中だから、ちょうどよかったわ。バックバンドの人も一緒にいるけど、気にしなくていいからね」
カンパチさんはそして、鈴香を狭い廊下の先にある楽屋に連れて行ってくれた。傷だらけ、落書きだらけのドアをノックすると「失礼します、マキオさーん、お客様よ」と声をかけた。そしてドアを開けると一歩下がって、鈴香に入るよう目配せした。
今ならまだ逃げられる。一瞬そう思ったけれど、やぱり鈴香は前に踏み出していた。お父さんが時々吸っていたメンソールの煙草の匂いがして、顔を上げるとそこには彼がいた。ソファに深くもたれて、足を組んで、左手の指先に吸いかけの煙草をはさんで。
「お父さん」
鈴香がそう言ったのが先なのか、お父さんが「鈴・・・」と声を上げたのが先なのか、わからないけれど、とにかくそれで十分だった。ソファの脇にあるパイプ椅子に腰掛けてベースを弾いていた金髪の人は「ちょっと失礼」と出ていって、壁にもたれて携帯を見ていた背の高い人も「ここ、電波来ねえな」と呟いて立ち去り、気がつくと楽屋には鈴香とお父さんだけが取り残されていた。
あらためてその姿をよく見ると、お父さんは今までと少し違う感じの人になっていた。
髪は肩にかかるほどに伸びて、染めずに黒いまま。そのせいなのか、痩せただけなのか、全体の輪郭が妙にはっきりしていて、これに比べたら以前のお父さんは何だかぼやけていた。黒いシャツに皮のパンツなんか合わせて、足元はブーツで、指にはシルバーのリングが三つも光っているのに、お母さんとの結婚指輪は見当たらなかった。
「背、伸びたね」
お父さんはつとめて能天気な感じでそう言った。半年以上も行方不明になっておいて、最初の一言にふさわしい言葉とは思えない。鈴香はただ「計ってないから知らない」とぶっきらぼうに答えた。
「そっか。元気してる?」
「してなかったらどうする?」
なんでずっと連絡一つせずにおいて、こういう質問するんだろう。さすがにお父さんも何だかヤバイと思ったのか、煙草を少しふかすと「まあさ、色々と噂は聞いてはいるんだけど、南ちゃんちのお寺にいるっていうから安心してたんだ」
安心?何それ。でも鈴香は何も言わずにじっとお父さんの言葉を聞いていた。
「こっちもあれこれ大変でさ、何ていうの?リハビリみたいな感じで、ようやくライブなんか回れるようになってきて。たぶんあと半年ぐらいで完璧に取り戻せると思うからさ、そしたらもう大丈夫」
まるで宿題サボって遊んでるのを見つかったみたいに、お父さんはぺらぺらと調子よく言い訳した。
「大丈夫って何が?」
「うん、だからたぶん昔の伝手で、事務所入って、ツアー回って、アルバム出して」
「それ本気で思ってる?」
「まーたあ、お母さんみたいな事言わないで」
既にお父さんは自分で自分の言葉に励まされたみたいで、何だか調子に乗ってきた。短くなった煙草を灰皿で消すと、その手でソファの空いた場所を軽くたたく。
「まあちょっと座ってよ。どうせ今日のライブ聴いてくれるんでしょ?お父さんだってここを選んだのは鈴香の事考えて、ってのもあるんだよ。今晩うまくいったら、明日はお寺にサプライズ訪問するつもりだったんだから」
「別にそんな事しなくても、その前に電話とかメールとか、いつでもできたと思うけど」
鈴香はドアのところにじっと立ったまま、低い声でそう答えた。
「ほら、何か努力してる時って、大好きなものを我慢したりするだろ?お父さんにとって、それは鈴香なんだよね。だからさ」
お父さんはそして、少し照れたように髪をかき上げると、足を組みなおした。それでも鈴香はまだじっと立っていた。
「でもそのせいで私は転校しなきゃならなかったんだよ。はっきり言ってこっちの学校なんか全然面白くないんだから」
「うーん」と唸って、お父さんはまた髪をいじった。
「確かにそれは俺にも予想外だったんだよね。ずっと家で待っててくれると思ってたから」
「お母さんのせいにするつもり?」
「そういうわけじゃないけど、連絡くれた時には、もうマンションは引き払うし、鈴香は南ちゃんちに預かってもらうし、って決めちゃってたから」
「連絡って、お母さんと話したの?」
「まあ、全部段取り決まってからだけどね」
それじゃ話が違う。鈴香の頭の中は一気に真っ白になった。お父さんがずっと音信不通で、だからお母さんはエステティシャンになる決心をしたはずなのに、連絡とっていたってどういう事だろう。
「なんで、なんで転校するの止めるように言ってくれなかったの?」
「だってさ、お母さんって何か決めたら、絶対に撤回しないもの。議論するだけ無駄な抵抗だよ。そりゃ鈴香には気の毒だと思ったけど」
「気の毒?それだけ?」
「いやまあ可哀相っていうか。でも、お父さんも小中合わせて五回も転校したしさ、親の都合でそういう事があるのって、人生ある程度は避けられないもんだよ」
親の都合って、転勤とかそういうのならまだ判るけれど、ある日突然仕事を放り出して行方不明になるってのも、お父さんにとっては「都合」なんだろうか。
「もういいよ」
自分でもびっくりするぐらい、冷たい声が出た。
「え?」
「もういいって言ってるの!」
今度は思い切りそう叫ぶと、鈴香は楽屋を飛び出していた。そのまま誰にも挨拶せずに外に出て階段を駆け上がり、駅までひたすら走った。
息切れしそうになりながらバスターミナルにたどり着いたけれど、最終のバスが来るまで、まだ四十分ほどあった。それだけの時間を、自分はお父さんと一緒に過ごすつもりでとっておいたんだと思うと、すごく馬鹿らしくて情けなかった。そして何より虚しかったのは、結局お父さんはライブの方が大事で、鈴香の後なんか追いかけて来なかったという現実だった。
バスに乗った時にはまだ辺りはじゅうぶん明るかったのに、降りる頃にはすっかり日が暮れていた。「晋照寺門前」とかすれて消えそうな字で書かれたバス停を後にして、鈴香は山門まで歩いて行くと、脇のくぐり戸をそっと開き、その向こうに続く深い闇を覗き込んで大きな溜息をついた。こんな事なら民代おばさんにお願いしておいて、仁類に迎えに来てもらうんだった。
いや待てよ。もしかしたら仁類の奴、もう散歩に出て、その辺を歩いているかもしれない。どうせ周りに誰もいないし、腹が立っていたこともあって、鈴香は思い切り息を吸い込むと、ありったけの大声で「じんるーい!」と叫んでみた。
残念ながら何の返事もなく、鈴香の声は木立の中に吸い込まれてそれっきりだった。山門の青白い明かりには、沢山の羽虫がぶつかるように集まってきて、それを狙っているのか、黒い目を光らせたヤモリが扉にじっと貼り付いている。
仁類はこういうのも食べるんだろうか。
自分の想像に自分でオエっとなって、鈴香はヤモリから目をそらした。仕方ないから一人で歩いて行こう。そう決心してくぐり戸を後ろ手に閉めたところへ、脇の繁みから仁類が現れた。
「呼んだ」
オレンジの髪に枯葉をくっつけたままで、仁類はそう言った。
「聞こえてたんだ」
「鈴ちゃんの声はとても聞こえる」
そして仁類はシャツの裾を引っ張ると、「持つ」と言った。鈴香は頷いて手を伸ばし、軽くつかんだ。そこにも枯れ草みたいなものがついている。歩き出した仁類の背中に向かって、鈴香は「どこ通ってきたの?」と訊ねた。
「いちばん近い通る」
「葉っぱだらけじゃない」
「狸は通る。人間はぶつかる」
それってけもの道って奴だろうか。しかし鈴香は何だか、もうそれ以上話す気にもなれず、頭の中でお父さんとの会話を何度も再生していた。
お寺に着いて鈴香が玄関から中に入ると、仁類も一緒に上がってきた。どうやら今日はまだ晩ご飯を食べていないらしい。民代おばさんは仁類を一目見るなり縁側に連れて行って、あちこちについた枯葉やなんかをはたき落とした。
「仁類ったら、もうちょっと広いところで遊びなさいよ。あと、埃だらけになるから、縁の下に入るのも止めてね」と笑った。鈴香はちょっと後ろめたい気持ちでそれを見ていたけれど、思い切って「おばさん、電話借りていい?お母さんにちょっと用事あるんだけど」ときいてみた。
「どうぞどうぞ。でも先にごはん食べたら?」
「すぐ済むから先に電話する」
本当はとにかく急いでお母さんにお父さんの事を話したかっただけで、すぐ済むどころか、一時間ぐらいしゃべりまくってしまうかもしれない。鈴香は居間にある電話の子機を手に取ると、おばさんたちに聞こえないように座敷の奥に移動して、お母さんの携帯の番号を押した。
呼び出し音は八回鳴って、留守電になるかと思った頃にようやくつながった。
「もしもし?民代さん?」
「鈴香だよ」
「え?鈴香なの?」
聞こえてくるお母さんの声は切れ切れだ。向こうにもこっちの声はよく聞こえないみたいで、ちょっと迷惑そうに「ごめん、お母さんいま、話できないのよ。明日じゃ駄目かな」と言われた。電話にはお母さんの声に覆いかぶさるように音楽だとか、人のざわめきとかがとめどなく流れ込んできて、どうやらそこはお酒を飲む店みたいだった。
「じゃあもういい」
それだけ言うと、鈴香は電話を切った。お母さんは研修で忙しいとか言ってるくせに、お酒飲みに行って、鈴香の話なんか面倒くさくて聞きたくないのだ。お父さんは家にいたくなくて、自分のやりたい事をしたくて出て行ったけれど、お母さんもそれと大して変わらない。二人とも、鈴香といない方がずっと気楽だという事にようやく気づいたに違いない。
鈴香は子機を握り締めたまま、暗い座敷の真ん中に座り込んだ。何もかもがつまらなくて悲しくて、腹が立って、涙が次々と溢れてきた。
そもそもお父さんとお母さんが結婚したのは、鈴香が生まれることになったからだ。そうじゃなければお父さんはずっと音楽を続けていて、違うバンドかソロかは知らないけれど、メジャーデビューしていただろうし、お母さんはきっと、頼りないお父さんに見切りをつけて、銀行員か公務員と結婚していただろう。
二人とも、どうせこんな結果になるのは判っていたんだから、鈴香の事なんか生まなければよかったのだ。そうすればさっさと離婚して、またやり直せたのに。それが無理なら、鈴香が生まれてすぐに南斗おじさん達に預けてくれればよかった。そうしたら少なくとも、あの中学で仲のいい友達もいたはずなのに。
過去を変えることができないのは判っていても、鈴香はそんな事を考えずにいられなかった。お父さんとお母さんがやってしまった、最悪の選択。そのせいで自分は今、最悪の状態にいるのだ。
でもとにかく、民代おばさんに泣き顔を見られちゃ駄目だ。鈴香はそう思うと、何とか泣き止もうとして洟をすすった。そして何気なく横を見ると、いつの間に来たのか仁類がそばにしゃがんでいる。彼は不思議そうな顔でじっと鈴香を見ていた。
「何よう」
私は見世物じゃない!ちょっと腹が立ってすごんだつもりだったのに、うまく声が出ない。すると仁類はいきなり顔を近づけてきて、鈴香の頬に流れる涙をぺろりと舐めた。
「きゃーっ!」
大きな悲鳴を上げると、鈴香は力いっぱい仁類を突き飛ばした。思ったよりずっと軽い手応えがあって、気がつくと彼は消えていた。と思ったら、縁側の下からひょいと顔を出し、上目遣いにこっちを見ている。一瞬であんな遠くまで逃げていったのだ。
「カエルやトカゲなんか食べた舌で舐めないでよ!気持ち悪い!」
鈴香が大声で怒ると仁類は首をかしげ、右肩の辺りをカシカシと噛み、それから何度も舐めた。いつも祐泉さんにいじめられた後で、落ち着こうとする時にやる癖だ。でも冗談じゃない、今すごく迷惑してるのは鈴香の方だ。
そこへ叫び声に驚いた民代おばさんが「どうしたの?鈴ちゃん」と、様子を見にきた。さすがに泣いているのを仁類のせいだと言うわけにもいかず、鈴香はさっきまでの出来事を正直に話すしかなかった。
ひとしきり泣いて、洟をかんで、色んな話をして、晩ご飯を食べたのはそれからだった。南斗おじさんは檀家さんのところへ行って留守だったし、仁類はどこかへ逃げてしまったので、鈴香と民代おばさん二人きりの食事だった。
仁類の分は取り分けて縁側に置いておいたら、鈴香がお風呂から上がった頃には器はもう空になっていた。
「ちゃんと食べてんじゃん。ばーか!」
食器を台所に下げながら、鈴香は何だかまた仁類に腹が立った。
6 きれいって言葉
太陽館でお父さんと喧嘩した翌日の土曜、鈴香は朝からずっとお寺を留守にした。まあ元々、祐泉さんから用事を頼まれていたこともあるけれど、もしお父さんが来たとしても顔を合わせたくなかったのだ。だから朝ごはんを食べたら、洗濯と部屋の掃除だけ済ませてすぐに出かけた。
祐泉さんのいる尼寺、叡李院は鈴香の住む晋照寺よりも更に山奥にあった。バスの停留所でいえば四つも先だけれど、それは車の走る県道が曲がりくねっているからで、山の中の近道を歩いて行けば十分ほどで着く。
民代おばさんから預かった、おすそ分けの佃煮が入った紙バッグを手にして、鈴香はなだらかな山道を一人で歩いた。昔、バス道路がなかった頃はみんなここを通って行き来していたらしくて、お寺から少し行ったところに、道しるべの石が埋まっている。南斗おじさんによると、そのままどんどん歩けば隣町に抜けるらしい。
夏の日差しは木立に遮られてほとんど射し込まないけれど、薄い緑のカーテンに包まれた部屋みたいに、辺りはほんのりと明るい。時たま下の方からバス道路を走る車の音が聞こえるのを除けば、梢のざわめきと鳥たちのさえずりと、鈴香の微かな足音しか耳に届かなかった。
木立の下には日陰を好きな草が生い茂り、あちこちで小さな花を咲かせていた。途中、一か所だけ山百合が競い合うように生えている土手があって、そこだけむせ返るような香りに包まれていた。それに誘われたのか、白っぽい蝶が何匹か、木漏れ日の中を雪のように舞っていた。
山道はやがて低い土塀につきあたって右に曲がり、更に続いてゆく。土塀の向こうはもう叡李院の敷地で、塀に沿って植えられた楓の陰を歩いてゆくと、門が見えてくる。そこをくぐり、前庭を抜けて薄暗い玄関に入ると、鈴香は「おはようございます」と声をかけた。
祐泉さんはいつも「どんどん中に入って来ていいわよ」と言うけれど、どうもそれを許さない雰囲気がここにはあって、鈴香は何だか誰かに見張られているような気分でじっと待った。
古いけれど、毎日ていねいに磨かれて黒光りしている廊下。波打ったガラス戸の向こうに見える中庭。ひんやりした空気に漂う、晋照寺とはまた違うお香の匂い。静けさに耐えられなくなって、もう一度声をかけようと思ったところへ、いつもの作務衣姿の祐泉さんが現れた。
「鈴ちゃんご苦労さま。一人で歩いてきたの?」
「うん」と頷いて、鈴香はスニーカーを脱ぐと玄関に上がった。
「お客さんもう来てる?」
「あと三十分ぐらいかな。まずは場所だけ確認してね」
そして祐泉さんは先に立って、長い廊下をすたすたと歩き始めた。今日、叡李院では「一日尼僧体験」というイベントがあるのだ。去年から市の青年部と協力して、いわゆる町おこしという企画で始めたらしいけれど、これが予想外に好評だったという事で、今年は募集人数を去年の倍の三十人に増やしたらしい。
「まあさ、尼僧体験なんて言っても、実際はちょっと法話聞いて、座禅組んで、お昼に精進料理食べて、あとは写経するぐらいだけどね」
祐泉さんはそう説明してくれたけれど、鈴香にしてみれば、わざわざ退屈な座禅なんか体験して、何が面白いのかよく判らないというのが本音だ。二人はちょっとした迷路のような廊下を歩き、本堂の脇を抜けて奥の座敷に向かった。
「さすがに三十人まとめて食事できる場所はないから、お昼は三部屋に分かれてもらうのよ。他にもお手伝いの人は来てるけど、鈴ちゃんはお膳を運んだり、お茶のお世話とかをお願いね」
軽い調子で話しながら、祐泉さんは続いて、講堂と呼ばれる、一番広い部屋に鈴香を案内した。そこには細長い机が並べてあって、すぐに写経が始められるように硯や筆といった道具が準備してある。三十人分となると、学校の教室とそう変わらない感じだ。
「こんなに沢山、硯とかあったんだ」鈴香が感心すると、祐泉さんは「それがなかったのよね」と笑った。
「なんせ人数が去年の倍でしょ?まあこれからの事もあるから、この際そろえましょうって話になって、まとめ買いよ。ほら、あそこに有能なセールスマンがいる」
そう言って祐泉さんが目配せした先、部屋の隅には、いつも湛石さんのところに来ているみやこ堂の営業さんが、太った身体を小さく丸めて正座していた。彼は鈴香に気づくと「あっ、どうも」と会釈したので、鈴香も思わず頭を下げる。
「硯や何かを安くしてあげるから、今日ここで写経セットとか売らせて下さいってさ。商魂たくましいっていうか、出世しないはずないよね」
祐泉さんに言われて、みやこ堂さんは「いやいやそんな」、と恐縮した。そして鈴香に「また、今日この後で湛石さんのところにお邪魔しますさかいに」と言った。多分こないだの色紙を受け取りに来るのだ。という事は、また新しい金平糖が増えるのかな。鈴香は図々しくもそんな事を考えていた。
それから鈴香と祐泉さんは台所に向かった。そこには尼さん達の他にも、割烹着やエプロン姿の女の人が何人かいて、お昼に出す精進料理の準備をしていた。もうお料理はほとんどできているらしく、あたりには煮物の椎茸や昆布の優しい匂いが漂っている。お料理はちょっと料亭っぽいお弁当箱に盛りつけられるらしくて、皆はその作業に忙しそうだった。
「お茶はやかんに入れてここに置いておくからね。鈴ちゃんはそれを運んでいって、注いであげて。一通りすんだら、あとはお代わりの欲しい人がいないか、ゆっくり見回ってくれればいいわ。今からお昼ごはんまでは、ここで妙雪さんのお手伝いしていてね」
妙雪さん、というのは祐泉さんの先輩にあたる尼さんで、祐泉さんとは対照的に物静かで小柄だ。お弁当箱を布巾で拭いていた彼女は、鈴香に向かってゆったりと会釈してくれた。
そこへ祐泉さんが作務衣の懐に入れていた携帯が短く鳴った。
「そろそろみたいね。じゃ、よろしく!」
祐泉さんは携帯を取り出し、ディスプレイをちらっと見ると、それだけ言って足早に玄関へ向かった。
「一日尼僧体験」のお客さんは、ほとんどが二十代から三十代の独身OLという感じの人たちで、たまにもう少し上で鈴香のお母さんぐらいの人もいた。座禅の後で足がしびれて転び、襖を外してしまう人がいたり、食事の時にお茶をこぼした人がいたり、ちょっと慌てるような事はあったけれど、まあ全体としては予定通りに進んだみたいだ。
お昼ごはんがお終わってちょうど写経が始まった頃、いきなり外が暗くなって雷が鳴り、ひとしきり激しく雨が降ったけれど、そのおかげで随分と涼しくなった。写経を済ませたお客さんは雨上がりの庭を散歩したり、座敷でお茶を飲みながらお喋りしたりして、残りの時間を過ごしていた。
そして四時になると、お客さんたちは来た時と同じ、二台のマイクロバスに乗って帰っていった。中には「本気でここで修行したいかも」とか言いだす人もいて、イベントはちゃんと成功したみたいだった。
鈴香が祐泉さんを手伝って写経の道具を片付けていると、隅の方でみやこ堂さんが荷物をまとめていた。
「かなり儲かっちゃったんじゃないの?」と祐泉さんが声をかけると、「いやまたとんでもない」と恐縮している。そして彼は鈴香に向かって、「よろしかったらお寺まで送りましょか?」と訊ねた。祐泉さんも「そうね、車に乗せてもらったら?」と言ったけれど、鈴香は首を振った。
「まだ掃除が終わってないし、歩いて帰るから大丈夫です」
本当の事を言えば、今の時間だとお父さんが現れる可能性があるから帰りたくない。とにかくできる限り叡李院でゆっくりして行きたいのだ。
「ほな、お先に失礼します」と去っていくみやこ堂さんを見送ってから、鈴香と祐泉さんは本堂や座敷の座布団を集めたり、机を片付けたり、掃除機をかけたりした。
全ての片付けが終わると、二人は熱いほうじ茶の入ったお湯呑みと、和菓子をのせたお盆を真ん中に、涼しい風の吹く縁側に腰を下ろした。小ぢんまりとした庭の踏み石にあるくぼみには、さっきの夕立で水溜りができていて、黒い蜻蛉が羽を休めていた。
「鈴ちゃんのおかげで今日は本当に助かったわ。これね、みやこ堂さんが持ってきてくれたの」
そう言って祐泉さんが手に取ったお菓子は、鮎の形をしていて、目やヒレなんかもちゃんと描いてあった。鈴香も一匹もらうと、尻尾の方から齧ってみる。中は甘いお餅みたいな感じで、それをどら焼きの皮みたいなものが包んでいる。しっとりとおいしくて、あっという間に食べ終わってしまった。
「そういえば、昨日はちゃんとお父さんに会えた?」
ほうじ茶をゆっくりと飲んでいた祐泉さんは、いきなりそんな質問をしてきた。
「え、まあ…」鈴香は答えに困ってしまった。でも自分が黙っていたところで、何があったかは全部カンパチさんが知っているわけだし、隠しても仕方がない。
「あらま、そんな事になっちゃったんだ」
鈴香が一通り話をすると、祐泉さんは目を丸くした。
「民代おばさんはさ、お母さんも大人の付き合いってもんがあるから、好きでお酒飲みに行ってたわけじゃないと思うよって言ったけど、何だかもう、二人とも勝手にすりゃいいじゃん、って感じでムカついたの」
「なるほどね。まあ鈴ちゃんの気持ちはわかるよ。私も中学の時に親が転勤して学校変わったけど、なかなか大変だよね」
祐泉さんはそう言って、ほうじ茶をおいしそうに飲んだ。
「そうなの?何年の時?」
「中一の秋、千葉からいきなりアメリカよ」
「えーっ!マジで?」
鈴香は思わずお湯呑みを落としそうになった。
「ちゃんと英語とか喋れたの?」
「喋れるわけないわよ。夏休み前にいきなりそんな話になって、英会話学校なんか行かされたけどねえ、それで九月から現地の中学にそのまま入れってんだから、無理もいいとこ」
「と、友達できた?」
「友達どころか、毎日いじめられちゃうし。しかも何言ってからかわれてんだか、理解できないから更に悔しいわよねえ」
「それでどうしたの?」
「まあね、学校は行きたくなかったけど、行かないと親が心配するじゃない?うちの場合、母親の方が初めての海外生活で参っちゃってたから、私が何とかしなきゃと思って、必死で勉強したのよね。まあ、子供ってのは残酷なもんだけど、先生やなんかはけっこう親切だしさ。あとね、クラスに変な日本オタクの男子がいて、その子に頼まれてTシャツの背中に漢字で「地獄」って書いてやったら、皆にすんごい感心されてさあ。その辺からかしらね、少しずつ雰囲気が変わったのは。私は地獄に救われちゃったね」
祐泉さんはそう言ってあははと笑った。
「結局、高校出るまでずっとアメリカで、大学でようやく日本に戻ってきたの。いま思えばいい経験だったと思うけど、もう一度あれをやれって言われると考えちゃうよね」
「そうなんだ」
鈴香は手にしていたお湯呑みの底に沈んだ、ほうじ茶の細かい葉っぱを見つめていた。祐泉さんに比べたら、今の自分なんか別に大変でも何でもないに違いない。なのに保健室に逃げてばっかりで、このままもうすぐ夏休みに入ってしまう。
「でもさ、お父さんも本当は鈴ちゃんのこと追いかけたかったと思うよ。ただ、ライブを放り出すわけにもいかなかっただけで」
「そうかな。あんなの遊びじゃない」
「遊びじゃなくて真剣勝負よ。ちゃんとライブハウスと出演するって約束して、お客さんにチケット買ってもらってるんだから。それをすっぽかすわけにはいかないし、半端な歌を聞かせるわけにもいかない。お父さんがずっと鈴ちゃんに会うのを我慢してたっていうの、まんざら嘘でもないと思うな」
「じゃあ、私、ライブをぶち壊しにしちゃったのかな」
「それはまあ、何とかなったんじゃないの。お父さんも鈴ちゃんを追いかけなかっただけの覚悟はあったんだろうし」
「とりあえず私、カンパチさんに謝りに行っていい?せっかくお父さんに会わせてくれたのに、黙って帰ってきちゃったから」
「じゃあまたこんど下山する時に、一緒に遊びに行こうか」
昨日の夜は一方的にお父さんが悪いと思っていたのに。こうして祐泉さんに話してみると、鈴香も随分と勝手な事をしたような気がする。小さく溜息をついて、ほうじ茶の最後の一口を飲むと、庭の向こうの林から蜩の鳴く声が響いてきた。
「そろそろ帰ろうかな」
いつの間にか随分と時間が経っていて、太陽はじき山の端に隠れようとしている。鈴香がお盆にお湯呑みをおくと、祐泉さんは「車で送ってあげるよ」と言った。
「ううん、歩いて帰るからいい」
「でも、今の時間に山道を一人で帰るのはちょっとねえ」
とは言うものの、祐泉さんも色々とまだ用事があるに違いない。
「そうだ、いい手があるから大丈夫」
鈴香は立ち上がると、庭の踏み石をぴょんぴょんと三つほど進んだ。それから大体あっちの方だなとあたりをつけ、胸いっぱいに息を吸い込むと「じんるーい!」と叫んだ。今の時間ならもう昼寝も終わって、その辺をうろついてるに違いない。
「しばらく待ってたら、きっと来るよ」
また踏み石を跳んで縁側まで戻り、腰を下ろす。祐泉さんは「へーえ」と感心したように唸った。
「鈴ちゃんて、すごくよく通る声してるのね。夏祭りのカラオケ大会出てみない?」
「カラオケ大会?」
「けっこう商品が豪華なのよ。優勝するとペアで温泉旅行ご招待なんだけどさ、鈴ちゃんなら狙えるんじゃないかな」
「無理だってば。第一、恥ずかしいし」
「大丈夫だって。それで二人で温泉行こうよ。ね?準優勝はホテルのディナー券だし、そっちでもいいわよ」
祐泉さんはすっかりその気だったけれど、鈴香は調子にのって仁類を呼んでしまったことを後悔していた。声のことを言われるのはすごく嫌なのだ。忘れもしない、中学で初めての音楽の授業で校歌を合唱したら、鈴香の声だけすごく目立つと先生に指摘されて、それがとても居心地が悪かった。だからそれ以来ずっと、音楽の授業ではなるべく小さい声で歌うように注意しているのに。
とにかくこの話はごまかしちゃえ、と思い、鈴香は「仁類の奴、途中まで来てるかもしれないからもう行くね」と立ち上がった。そこへちょうど、庭の隅にオレンジの髪が現れた。
「あらすごい、本当に来た。偉い偉い。こっちおいで」
仁類はしかし、そう言って手招きする祐泉さんが怖くて、かなり間合いをとって立っている。
「ほら、ごほうびにおいしい鮎があるよ」
いつの間にキープしていたのか、祐泉さんは作務衣の懐からみやこ堂さんのお菓子の鮎を一匹取り出して振って見せた。こうなると仁類はもう逆らえない。少しずつ近づいてくると、祐泉さんが差し出している鮎を、恐る恐る両手でつかんだ。全く、彼女より頭ひとつは大きいのに、まるで子供みたいだ。彼は鮎を受け取るとすぐに後ずさりして十分な距離をとり、それから一口で食べてしまった。
「おいしい?」と祐泉さんに訊かれて、仁類は黙ってうなずいたけれど、しばらくしてジーンズのポケットに手を突っ込むと、何かを取り出し、鈴香に向かって「あげる」と言った。
「それ何?」と祐泉さんの方が興味津々だったけれど、彼の掌には黄緑色の金平糖がいくつか載っていた。
「いらない」鈴香は迷わず即答していた。
「あらなんで?せっかく仁類がくれるってのに」と祐泉さんは不思議そうだけれど、鈴香にはそれなりの理由がある。
「だってポケットにそのまま入ってたんだよ。糸くずとか埃とかついてるし、きれいじゃないよ」
それを聞くと祐泉さんはくすっと笑い、「だってさ。仁類、それじゃ私にちょうだい」と言った。ところが仁類は「ちょうだわない」と言って、金平糖をまとめて口に放り込むと、ジャリジャリと食べてしまった。
「やだあ、鈴ちゃん、仁類ったら傷ついちゃってるよ。何かフォローしてあげなよ」
祐泉さんにそう言われたけれど、鈴香は「だって嫌なものは嫌なんだもん」と答えるしかなかった。
「それにさ、あんな事平気でしちゃうし」
いつの間にか仁類は庭の隅に行ってしゃがみ、そこに置いてあるバケツに頭をつっこんで雨水を飲んでいた。
「ああいう所が嫌なんだよね」
その言葉が聞こえたらしく、仁類は顔を上げるとこちらをちらっと見て、肩のあたりをカシカシと噛んだ。祐泉さんは腕を組んでしみじみと「狸だもんねえ」と呟き、それから「仁類、こういう時はお水ちょうだいって言えばいいのよ」と呼びかけた。
仁類は前髪についた雫をシャツの袖で拭い、少しだけ首をかしげた。
「鈴ちゃんのために大急ぎで走ってきたから、喉が渇いたのかもね。可愛いねえ」
確かにここまで呼び出したのは自分だと思うと、鈴香はちょっとひどい事を言い過ぎたかなと反省した。とは言っても、仁類は「可愛い」ってほどのもんじゃない。絶対。
そんな事はあったものの、鈴香はやっぱり仁類と一緒に山道を歩いてお寺に帰った。
朝来るときに聞こえていた鳥の声は止んで、蜩の声だけがあちこちから流れ星みたいに降ってくる。夜道と違ってシャツの裾を持つ必要もないので、鈴香は仁類と並んで歩く。
「あの金平糖さあ、みやこ堂さんが今日持ってきたんでしょ?」
「持ってきた」
「それを湛石さんがくれたんだ」
「くれた」
「何味だった?」
「メロン」
「あんなに急いで食べるのに判るんだ」
「判る」
鈴香もちょっと食べてみたかったな、とは思ったけれど、やっぱり仁類のポケットから出てきたものはいらない。そこにカナブンとか、得体の知れないものを入れていた可能性は十分あるからだ。
狸だもんねえ。
祐泉さんの言葉を頭の中で繰り返しながら、鈴香は歩き続けたけれど、甘い香りにふと顔を上げると、行きがけに見た山百合が夕立の残していった雨粒を全身にまとって、土手から山道の方へと一斉に身を乗り出していた。まるでその花で通る人を釣り上げようと待ち構えているようだ。
「わあ、きれいね」
山百合を飾っている無数の水滴はレンズになって、木立の隙間から差し込む西日を反射させている。鈴香はわざと道の端に寄って、上を向いたままで山百合のアーチの下をくぐってみた。鋭く反った花びらや、しなやかな葉の先から今にも滴り落ちそうな雫は、夕方の涼しい風に誘われてかすかに震え、まるでシャンデリアのように輝いていた。
仁類も真似してみようと思ったのか、同じように鈴香の後に続く。ところが彼は鈴香よりずっと背が高いから、頭から山百合に突っ込んでしまった。
きらきらと輝く雨粒はいっせいに仁類に降り注ぐ。振り返ってそれを見ていた鈴香は思わず声を上げた。
「夕日のオレンジ、仁類の髪と同じ色!」
でもそれを言い終わった頃にはもう、仁類は反射的に全身を震わせて水をはじき飛ばしていた。彼はそして鈴香の方を見ると「これはきれい?」と訊ねた。
何がきれいって聞いてるんだろう?でもたしかにさっき、仁類の髪と、雨の雫と、夕日と、全てがオレンジでとてもきれいだった。
鈴香は「きれい」と答えて頷いた。すると仁類は顔を上げ、百合の葉にまだ残っていた雨粒を舐めた。
うわあ、またやってる。まだ喉渇いてるのかな。鈴香は一瞬そう思ったけれど、ふとさっきのやりとりがよみがえってきた。
仁類のポケットから出てきた金平糖のことを、鈴香はきれいじゃないと言った。もしかしたら今、「きれい」と言ったから、仁類は雨粒を舐めてるのかもしれない。
「仁類さあ、きれいって言葉の意味、判ってる?」
鈴香にそう言われて、彼は雨粒を舐めるのを止めてこちらを見た。そして軽く頷くと「きれいの言葉は鈴ちゃん」と答えた。
「え?何言ってんの?」
思いがけない答えに、鈴香は何故だか身体のどこかを強く押されたような気がして、足を踏みしめた。
仁類は何も答えず、こんどは頭を低くして上手に山百合の下をくぐり抜けると、そのまま鈴香の前を素通りしていった。しばらくしてくるりと振り返り、シャツの裾を引っ張って「ここを持つ」と言う。
何だか馬鹿にされたような気がして、「持たないよ!」と言い返すと、鈴香は小走りに追いついた。それから更に仁類を置き去りにして、ずんずん前を歩いていった。
7 鶴でも恩返しする
コーラのグラスに挿したストローをつまんで軽くかき混ぜると、小さな泡が次々と浮かび上がってはじけた。鈴香は腕時計をちらりと見て、それから周囲を見回す。開演前のライブハウス「太陽館」。お客さんの入りはまだ半分を少し超えたあたりだ。
祐泉さんから「あそこで今度やるライブ、一緒にどう?」と誘われて、カンパチさんにこの前の事も謝りたかったので、来ることにしたのだ。けれど祐泉さんは急用ができて少し遅くなるし、カンパチさんは忙しいらしくて、カウンターの中にはアルバイトらしい女の人が二人いるだけだった。
今夜出演するのは「弦弦」と書いて「つるつる」と読む、アコースティックギターのデュオ。一人は本職が歯医者さんで、もう一人は漬物屋の社長さんだと祐泉さんが言っていたけれど、お父さんもそういう「ちゃんとした」仕事があってのライブなら、鈴香だって素直に応援できたかもしれない。
来ているお客さんは男の人も女の人も仕事帰りという雰囲気で、まるっきり大人の世界だ。薄暗いからそんなに目立たないけれど、自分が場違いなのは明らかで、せっかく来たのに何だか帰りたい気分になっていた。
「ここ、空いてる?」
誰かにそう尋ねられて、鈴香はふと顔を上げた。大学生ぐらいの男の人がこちらを覗き込んでいる。確かに鈴香の前は空いているけれど、祐泉さんが座るんだし、他に空いた席はまだある。一人ならカウンターでもいけるのに、などと考えているうちに、彼は手にしていたビールのグラスをテーブルに置き、向かい側に腰をおろした。黒いフレームの眼鏡をかけていて、うすい耳の片方だけにピアスが光っている。
「一人で来てるの?高校生?」
彼はとても親しげに話しかけてきた。
「俺さ、今日出るシゲルさんと時々セッションしてるんだ。ネットに動画アップしてるからさ、ヒマな時に覗いてよ」と、彼はスマホを取り出す。どうやらその動画を見せたいらしい。
「まあ、アコギだけってのもいいけど、ちょっと地味すぎる感じはするよね」とか言いながらスマホをいじっている。しばらくして出てきたのは、なんだかはっきりしない画像で、周りの拍手や歓声ばかり大きくて、肝心の演奏はよく聞こえない。
「あとさ、バンドの動画もあるんだよ。うち、ツインリードなの」
鈴香がそんなの別にどうでもいいし、他の席に行ってくれないかな、と思っているのには全く気づかず、彼はずり落ちてきた眼鏡を指先で直すと、また動画を探している。そこへ誰かの声がした。
「ちょっと、そこ私の席なんですけど」
見上げると、知らない女の人が立っていた。艶やかに光るボブカットの黒髪が切れ長の涼しい瞳によく似合う。黒いジャケットの下は真紅のキャミソールで、タイトな黒のパンツで十分に長い脚を更に強調している。
「あっ、すっ、すみません」
男の人は即座に立ち上がり、その拍子にスマホを床に落とした。それを慌てて拾い上げると「お邪魔しました」と頭を下げて去ってゆく。女の人は「ちょっと、忘れ物よ」と声をかけ、テーブルに置き去りにされたグラスを指差した。
彼がそそくさとグラスを回収して遠ざかってから、鈴香はあらためて女の人に「すみません」と頭を下げた。彼女はきっと、鈴香が困っていたので嘘をついて助けてくれたのだ。
「何をかしこまってるの?ごめんね、遅れちゃって」
彼女はそう言って、手にしていたグラスをテーブルに置くと、向いの席に腰を下ろした。あらためてその顔をよく見て、鈴香は大声をあげた。
「祐泉さん!どうしちゃったの?」
「どうもこうもしないわよ。せっかくのライブに作務衣で来るのは興ざめってもんでしょ」
「で、でもその髪・・・」
「んなもんヅラに決まってるじゃない。正しくはウィッグね」
そう言って長い脚を組むと、攻撃的なエナメルのピンヒールが光る。さっきのやり取りを横目で見ていた隣のテーブルのサラリーマン二人連れの視線は、ずっと祐泉さんに釘付けだった。
「たまにはこうやって羽根のばさないとね。でもお寺には内緒よ」と、にっこり笑う唇はルージュで艶やかに光っている。
「それ、お酒?」
「だといいけど、残念ながら今日は車だからね、ジンジャーエールよ」
「お寺の車で来たの?」
「そう。せっかくお洒落してきてもあの車じゃ台無しね。近所のコインパーキングに停めたんだけどさ、なんかじろじろ見られて」
祐泉さんは多分、車に大きく書かれた「崑崙山叡李院」のことを言ってるんだろう。
「みんな車じゃなくて、祐泉さんのことを見てるんだよ。かっこよすぎるもん」
「お世辞言っても何も出ないわよ。ところで南斗さんは来るのかしら」
「ううん、檀家さんに行かなきゃならないって」
「そっか。カンパチも久々に会いたがってたのに、残念ね」
「そうだね」と頷き、鈴香はようやく落ち着いた気分でコーラを飲んだ。
南斗おじさんが実はこの店の常連で、年末の「おやじフェス」には必ず出演しているという事は、この前のお父さんとの一件で初めて知った。あの後、お父さんは結局お寺に現れず、南斗おじさんには電話だけしてきたらしくて、その後で「鈴ちゃん、槙夫の奴、かなり落ち込んでたぞ。謝っといてくれってさ」と言われた。そこからまたお父さんの言い訳があれこれ続くんじゃないかと鈴鹿は身構えていたのに、南斗おじさんは太い眉を持ち上げてにやりと笑い「ま、そういうこと」で締めくくってしまった。
ギターの音って何だかとても懐かしい。
鈴香は不思議な気持ちで、流れてくる演奏を聞いていた。自分が五年生ぐらいの頃までは、お父さんも家でよくギターを弾いていたし、二人で時々一緒に歌った。
ステージで演奏している二人のギターは、お父さんよりもずっと丁寧で細やかな感じがする。けれど鈴鹿は今、お父さんの弾くギターを聞きたいと強く思った。曲だけではなくて、弦の上を滑る指先のかすかな響きだったり、イントロが終わって、さあこれから歌うよ、という目配せだったり、そういった細々とした事とか、まだ小さくてお父さんやお母さんに腹を立てることもなかった頃の、疑いなく満ち足りた気分だとか、そういった事の全てが突然に懐かしくてたまらなくなった。
みんなどこに消えたんだろう。どうして?いつから?
鈴香があれこれ考えているうちにライブは終わったみたいで、気がつくと周りでは大きな拍手が続いていた。しばらくして弦弦の二人はまたステージに上がると、アンコールに短い曲を一曲演奏して、それから大きく手を振って去って行った。
フロアが明るくなり、ほとんどのお客さんは席を立つ。けれど鈴香と祐泉さんはそのままカンパチさんが来るのを待った。
「ねえ、鈴ちゃんお腹すいてるよね?」
「まあちょっと」
「ここで何か食べて帰ろうか。適当に注文しちゃっていい?」そう言ってカウンターに向かう後ろ姿を、本当にモデルみたいだと思いながら、鈴鹿はふと、なんで祐泉さんは尼さんなんかやってるんだろうと不思議になった。いつも「面倒くさい用事ばっか押し付けられちゃって」と文句を言っているし、流行ってる髪形もファッションも関係なく、ネイルやアクセサリどころかお化粧も禁止。中学生よりまだキツい。嫌ならすぐに辞めてもいいはずだし、秘書をしていたぐらいだから、またOLになれるはずなのに、尼さんを続けているのは何故だろう。
「ピザのマルゲリータとサラダ頼んだからね」
祐泉さんは細いグラスを二つ手にして戻ってきた。それは淡いピンク色の飲み物で、グラスの縁に紫の蘭の花があしらわれている。
「わあ可愛い!」鈴鹿は思わず歓声をあげた。
「残念ながらノンアルコールだけどね」
黒いストローに口をつけて飲んでみると、グレープフルーツの味がして、よくきいた炭酸が気持ちいい。何だか急に大人になったような気分で、鈴香はそれを少しずつ飲んだ。
「お二人とも来て下さってありがとう」
聞き覚えのあるハスキーな太い声がして、カンパチさんがフライドポテトを盛ったバスケットと自分のグラスを片手に現れた。
「はい、これは私からのサービス。お姐さん、今夜はコスプレなのね。相変わらずオカマと紙一重だけど」
「うるさいわね。あんたまたちょっと太ったんじゃない?」
「いいじゃない、ほっといてよ。ねえ、この人本当にキツいでしょ?」と、苦笑いしながら、カンパチさんは鈴香の顔を覗き込んでくる。そこでようやくタイミングが見つかった気がして、鈴香は「あのう、この間はどうもすみませんでした」と謝った。
「あらあらとんでもない、私の方は別にどうって事ないから」
「でも、あの日のライブはちゃんとできたんですか?」
「それはもう大丈夫だったわよ。マキオさんってもしかすると、アクシデントがバネになるタイプじゃないかしら」
「ちゃんと盛り上がってたの?」
祐泉さんは早速フライドポテトを齧っている。
「かなりいい感じだったわよ。バンド時代のファンの人なんかも来て下さって。でも驚いちゃったわねえ、マキオさんにこんな大きなお嬢さんがいたなんて」
言われて鈴香は思わず俯いた。ずっと前から友達やそのお母さんに、「鈴ちゃんのお父さんってまるで独身の人みたい」とか「うちのお父さんより全然若い」なんてよく言われていて、それは結局「頼りない人」や「子供っぽい人」を遠回しに表現しただけだとはっきり感じていたからだ。
「あの日は白塚さんも来てらして、なかなかいいねって」
「白塚さんって、ここの社長さん?」と、祐泉さんはさらにポテトを齧る。
「そうよ。あの方、ふだんは東京が多いけど、たまたま寄ったのよね」
「かなりのやり手っていうか、あちこちに顔が広いって噂ね。どう?鈴ちゃんのお父さんもその伝手でブレイクできそう?」
「かもしんないわねえ。でもなんせ彼はポーカーフェイスだから。ま、そこが素敵なんだけど」
ちょっとうっとりした顔つきになったカンパチさんに、祐泉さんは質問を続ける。
「その白塚さんって、こっちじゃかなり名の知れたお金持ちなんでしょ?」
「そりゃもうすごいわよ。駅前に不動産いくつも持ってて、このビルもそうだし。うちの社長さんは次男だから、かなり自由にしてらっしゃるけど、何代も続く由緒正しいお家なのよ。噂じゃすごい霊能者が一族にいるらしくて、それが成功の秘密なんですってよ」
「本当に?」と、鈴香も思わず質問してしまう。カンパチさんは大真面目にうなずくと「白塚さん本人がそうだっていう噂もあるのよ」と言った。
「ふーん。でもそっちが霊能者なら、晋照寺は狸よねえ、鈴ちゃん」
祐泉さんは意味ありげに笑いかけてくる。
「狸ってあれ?南斗さんの事かしら?」
「それはただの狸オヤジ。鈴ちゃんとこにはね、人間に化けた狸がいるのよ。しかもけっこうカンパチ好みのいい男」
「あらやだ!なんで一緒に連れてこなかったの?ねえねえ、その狸でいいから、ちょっとバイトに回してもらえないかしら。うちのタクジ君、先週バイクで事故っちゃって、いま猫の手も借りたいほどなの。狸の前足でも全然OKだわ」
バイト、と聞いてはっとしたのは鈴香の方だった。
「あの、それってどういう仕事するんですか?」と、恐る恐る聞いてみる。
「まあ時間帯にもよるけど、タクジ君は早番だから、開店準備よね。掃除とか、お料理の仕込みとか。あとはこういうもん補充したり」と、カンパチさんはテーブルの端に立ててあるペーパーナプキンをつまんだ。
「あと、チケットのモギリもね。うち、女性のお客さんが多いから、やっぱり可愛い男の子だと喜ばれちゃう」
「それはあんたの個人的な見解でしょ。ね、鈴ちゃん、仁類の奴、いつもタダメシ食べてるんだし、ちょっと働かせてみたら?鶴でも恩返しするんだから、狸も頑張らないと」
「ていうか、そのバイト、私じゃだめですか?」
「え?鈴ちゃんが?」
カンパチさんは驚いていたけれど、鈴香はかなり本気だった。夏休みで学校に行かなくていいのは嬉しいけれど、毎日お寺にいるのも何だか退屈してきたのだ。かといって、あちこち出かけてクラスの誰かに出くわすのも気まずい感じだし、何よりバス代が馬鹿にならない。もしバイトができればお小遣いになるし、頑張ればお母さんに会いに、東京に行くお金も貯まるかもしれない。
「そうねえ、鈴ちゃんならちゃんとやってくれそうだけれど、いま中学生よね?いくら早番でも七時過ぎまでいてもらう事があるし、帰りが心配だわ」
「だったらさ、狸とセットでどう?二人で一人分の時給払ってくれればいいから」
祐泉さんはいきなり身を乗り出してきた。
「まあ、お姐さんったら阿漕な芸能プロの社長みたい」
「いい話だと思うけどね。それでお給料は鈴ちゃんが全部もらっとけばいいわ。仁類にはおさかなソーセージでも買ってあげて」と、祐泉さんの頭の中ではすっかり計画ができているようだ。
「とにかく、試用期間って事で三日ほどやりましょうよ。帰り道は心配しなくても、ちょっとあてがあるの。ただし毎日ってわけにはいかないけど」
「まあ鈴ちゃんには金曜と土曜と、あと一日ぐらい来ていただければ助かるわ」
「わかった、そこは調整するから。お給料は週払いにして、現金でお願いね」
「全く、お姐さんたら、尼さんより人材派遣業とかの方がよっぽどお似合いなんだから。鈴ちゃんはこんなに可愛げのない人になっちゃダメよ」と、カンパチさんは大げさに呆れてみせたが、この二人が仲良しだという事は鈴香にもよくわかった。
そこへちょうど焼きあがったピザが運ばれてきて、カンパチさんは「じゃ、私はちょっと失礼するわね」と立ち上がった。
「あら、一緒に食べないの?」
「それがさあ、こないだ病院で痛風一歩手前って言われちゃったのよ。だからダイエット中。これもカロリーゼロよ」と、カンパチさんはコーラの入ったグラスを揺らしてみせた。
「あらそーお、変なとこだけちゃんとオヤジなのね」
「悔しいけどそうなんです。本当にねえ、鈴ちゃんのパパみたいにシャキッとしてればいいんだけど」
そしてカンパチさんは「じゃあ、バイトの件はまた連絡するわね」と、肩のあたりで小さく手をひらひらさせて、カウンターの方へ戻っていった。
うちのお父さん、別にシャキッとなんかしてないのに。
カンパチさんが持ち上げてくれるほど、鈴香はなんだか後ろめたい気持ちになるのだった。痛風ってどんな病気か知らないけれど、とにかく頑張って仕事してるカンパチさんの方がお父さんよりもずっとちゃんとしてると思う。
「鈴ちゃん、熱いうちに食べなきゃ」
祐泉さんにせかされて、鈴香は我に返った。パリっと膨らんだ薄い生地の上で、黄金色にとろけたチーズが待っている。祐泉さんはそれを一切れ、手づかみで口に運んでいて、鈴香もその真似をした。
「なかなかいけるじゃない。バイトに来たら賄いで食べさせてもらいなよ」
「でも私、あんな事言っちゃったけど、できるかなあ」
「そりゃ全然心配ないって。鈴ちゃんこないだ、うちのお寺でもすごくよく手伝ってくれたじゃない。むしろ心配なのは仁類だわ」
「仕事って言っても、庭掃除ぐらいしかした事ないしね。あれも最後にごみ集めてるのかどうか、わかんない」
「ちゃんと教育してやってね」
「私が?」
「だって鈴ちゃんは仁類の飼い主みたいなもんだし。あいつ私には全然なつかないのに、鈴ちゃんの言う事はよくきくじゃない」
早くも二切れめのピザを半分齧り、祐泉さんはその大きな目で笑いかけてきた。
そうか、自分は働くだけじゃなくて、仁類の面倒もみなきゃいけないんだ。まだほんの一歳で、しかも狸。そう思うと、これは大変だという気がしてきた。
太陽館でのアルバイトについて、心配なのは南斗おじさんの反応だった。鈴香はまだ中学だから、とか、場所がライブハウスだから、といった理由で反対されるかもしれないと思ったのだ。ところがおじさんは「そうか、じゃあ鈴ちゃんが行ってるうちに、俺も一回ぐらいライブに出なきゃいかんな。うちはオヤジフェスでも前座扱いだから、厳しいけどなあ」と、自分のバンドの事しか考えていないようだった。そして「狸が働いてるって噂になったら、テレビの取材が来るかもな」と笑っていた。
一方、民代おばさんは「お弁当持っていくんだったら作るからね」と、これまたクラブの練習と勘違いしてるみたいな事を言った。
ともあれ、バイトを始めるにあたって、大きな問題は仁類だ。いっそ自分ひとりで行きたかったが、祐泉さんに言わせると「いつまでも昼寝ばっかりさせてちゃ駄目」ということで、通勤の練習から始めることにした。
行きはバスに乗るけれど、まずは車に慣れることだ。祐泉さんが試しに下山してみようと叡李院の車で迎えに来てくれたものの、そう簡単にはいかなかった。仁類は車を警戒しているらしくて、近くまでは来ても、首をつっこんで中の匂いをかぐだけでまた離れてしまう。
「とにかく乗せないことにはね」と、祐泉さんは作務衣の懐からおせんべいの袋を取り出し、一枚だけシートに置いた。すると仁類はそれを食べようと車に乗り込む。どうやら食べ物が絡んでくると、他はどうでもよくなってしまうらしい。
「よし、行こうか」と祐泉さんに小声で言われて、鈴香も車に乗ろうとした。ところが祐泉さんが運転席のドアを開けた途端、仁類はおせんべいをバリボリ噛みながら降りてくる。
「もーお、駄目じゃない」と祐泉さんが文句を言うと、仁類はどんどん車から離れて行き、軒下の赤い防火用バケツに顔を突っ込んで水を飲み始めた。。
「うわ!またやってる。もう放っとこうよ。今日はとりあえず私達だけで下山しよう」
鈴香は呆れてそう言うしかなかった。祐泉さんだって暇じゃないのだ、いつまでも仁類の気まぐれにつきあわせられない。やっぱりアルバイトには自分ひとりで行こうと心に決めて、鈴香は車の助手席に乗り込んだ。祐泉さんも「次はちょっと作戦変えなきゃね」と言いながら車のキーを取り出したけれど、そこへいきなり仁類が戻ってきた。
「今頃何よ」ちょっと腹が立って、軽く睨みつけてやったら、仁類は中を覗き込んで「入る」と言う。思わずキツい口調で「はあ?」とやり返したけれど、祐泉さんが「いいからいいから、早く乗せちゃって」とせかすので、仕方なく鈴香は腕を伸ばして後ろのドアを開けた。
ようやく車を出してから、祐泉さんは「私も馬鹿よね、肝心な事を忘れちゃってた」と笑った。
「肝心な事?」
「鈴ちゃんが仁類の飼い主だって事。最初から鈴ちゃんが乗ってれば、大人しくついてきたのよね」
「わたし仁類なんか飼うの嫌だよ。きっと、まだおせんべいもらえると思ってるだけじゃない?」
「かもね。とにかく、大人しく車に乗れるって判ったんだから成功って事」
祐泉さんはご機嫌で、少しスピードを上げた。鈴香は振り向くと仁類の方をこっそり見た。彼は二人の会話なんてまるで気にしてない感じで、窓に貼り付くようにして外の景色を眺めている。
全く何を考えてるんだか。
少しだけ開いた窓から吹き込む風で、彼の髪は絶え間なくかき乱されていたけれど、相変わらず根元まで鮮やかなオレンジ色のままだった。
8 人間やるのって難しい
試用期間もどうにかパスして、鈴香と仁類はライブハウス太陽館のアルバイトになった。バイトのある日は、まず仁類を探し出す事から始まる。たいがい湛石さんのところで寝ているけれど、たまに本堂の隅にいたりするから判らない。
「バイトに行くよ」と声をかけると、仁類は眠そうな顔で起き上がり、黙って鈴香の後についてくる。でもすぐに出発できるわけではなく、先に腹ごしらえだ。南斗おじさんや民代おばさんと一緒にお昼ごはんを食べ、少し休憩して、それからようやく出かける用意をする。
ところが鈴香が身支度を済ませた頃には、仁類は気持ちよさそうにまた昼寝をしている。
「もう、怠け者なんだから。起きろ!」
鈴香が手にしたリュックを軽くぶつけると、仁類はようやく目を覚ます。民代おばさんの「いってらっしゃい、気をつけてね」という声に送られて二人は参道を下り、山門のそばにある停留所からバスに乗るのだった。
三十分以上バスに揺られ、終点の駅前から二つ手前で降りてビルの谷間を少し歩くと太陽館。いつも着くのは三時過ぎぐらいだった。カンパチさんは一足先に来ていて、それから鈴香と仁類も加わって開店の準備をするのだ。
ライブのある日だとカンパチさんの来る時間はもっと早くて、鈴香たちが着く頃にはリハーサルもたいがい終わっている。出演する人たちは開演時間まで控室でネットを見ていたり、外に食事に行ったり、中には駅前のサウナで一風呂浴びてくる人もいた。でも大体みんなちょっと落ち着かない感じで、そんな様子を見ていると、鈴香は今更のように本番前のお父さんと喧嘩してしまった事を後悔するのだった。
カンパチさんは仁類に初めてに会った時、いきなり「あら可愛い!」と大喜びで、彼が狸だという事はまるで問題外らしかった。それでも仁類がいつもぼんやりしていたり、手先が死ぬほど不器用だったり、最低限の常識でさえち合わせていない事にはすぐに気付いたようで、「できる範囲で働いてくれればいいからね」と言ってくれた。
もちろん鈴香はそんな展開は最初から予想していたので、とにかく何でも自分が引き受けることにしていた。仁類がやるのは掃除機をかけたり、拭き掃除をしたり、鈴香と行くおつかいの荷物持ちだったり、そんな感じだ。
それでも彼はテーブルの上の塩やなんかをひっくり返したり、掃除機のコードをぐちゃぐちゃに絡ませたり、次々と失敗をやらかす。おまけにそういう困った事態になると、何も言わずに放り出して、どこかへ隠れてしまうのだ。たいがいテーブルの下のような、押し入れ代わりになる場所にいるのだけれど、一度なんかゴキブリキャッチャーが手に貼り付いた状態で、ステージにあるグランドピアノの下にうずくまっていた。
「仁類ちゃん、絶対に怒ったりしないから、こういう時は早目に自首してちょうだいね」
カンパチさんはそう言いながら、洗剤とかサラダ油とか、色んなものを駆使して、仁類の手にべったりとくっついたゴキブリキャッチャーのネバネバをとってくれた。幸い、ゴキブリはまだかかっていなかったけれど、それでも自分にはちょっとできないな、と鈴香は感心した。カンパチさんは仁類だけでなく、鈴香にも優しかったし、仕事も丁寧に教えてくれた。
一方、仁類もカンパチさんの事は嫌いじゃないみたいだった。知らない大人は苦手なはずなのに、初めて会った時から平気でそばに寄って行った。カンパチさんがオネエ言葉を使うからかもしれないし、色々食べさせてくれるからかもしれない。
いつも開店の準備はまず、前髪をピンクの髪留めで上げる事から始める。ゴムで束ねてみたりもしたけれど、それではちょっと子供っぽいのでやめておいた。こうすると何だか目の前がすっきりして、働くぞ、という気持ちになってくる。仁類はいつもその一連の動作を、不思議そうに見ていた。
それからまず掃除を始めて、ひと段落つくと鈴香はカンパチさんからメモを預かり、仁類を連れて駅前の高級スーパーまで買い出しに行く。太陽館で沢山使う食材は専門の業者さんが届けていたけれど、細々とした物はこうして補充するのだ。なんでもオーナーの白塚さんはこのスーパーも経営しているらしくて、その関係で安くなるみたいだった。世の中って色んな風につながっていて、鈴香の知らないことは本当に山ほどあるのだった。
その高級スーパーは、祐泉さんといつも行くショッピングセンターよりも少し照明が暗くて、品物の種類は多いけれど出ている数が少なめで、しかも何だかおいしそうに見えるように並べてあった。流れている音楽は静かだし、そんなに混んでいなくて、走り回る子供もいない。何より、小さい子が喜ぶようなお菓子はあんまり置いてなくて、その代わりに全国各地のお醤油や、色んな太さや形のパスタがずらっと並んでいたり、テレビでしか見たことのない果物が売られていたりした。
鈴香が頼まれるのはたいがい、無農薬の有機栽培レモンだとかパセリだとか、家では使わないバジルやルッコラといったハーブだとか、アボカドやなんかの果物だった。
オリーブ油なんかは、決まった名前のものを買えばいいけれど、野菜や果物は質のいいものを選ばなければいけない。特にアボカドはちょうどよく熟したのを選ぶのが難しくて、鈴香は中が少し黒くなったのや、まだ固いのを買ってしまった事がある。しかし仁類は何故だかそれがとても得意だった。幾つか手にとって少し匂いを嗅いだだけで、「これ」と選び出す。五つ買えば五つとも完璧に食べ頃で、カンパチさんに「すごいわ、天才ね」とほめられた。
おつかいに出るとき、カンパチさんはいつも「ついでにおやつもお願いね」と言ったので、鈴香はその日の気分でプリンやアイス、ロールケーキなんかを買って帰った。それからしばらくは休憩時間。買ってきたお菓子を食べながら、カンパチさんとおしゃべりするのだ。
「痛風予備軍だからあんまり食べ過ぎちゃ駄目なんだけどさ、やっぱこういうのは別腹じゃない?」
カンパチさんはいつもそう言い訳したけれど、それでも我慢して半分だけを取り分け、あとの半分は鈴香と仁類にくれた。仁類は自分がもらった分も一瞬で平らげて、あとは鈴香が食べるのをじっと見ているのだった。
「鈴ちゃんさあ、仁類ちゃんみたいないい男に見つめられて、何だか困らない?」
「全然。こんなの気にしてたらやってられないよ。それに、いい男でもないし」
「それはアレね、お父さんがかっこいいから、鈴ちゃんは免疫があるのね。私は駄目だわ、ドキドキしちゃう」
「お父さんも別に、どってことないよ」
それは鈴香の正直な気持ちだった。大体、仁類が何故そんなにじっと見るかと言えば、単に食べ物が気になるからであって、それを食べている鈴香は存在しないも同然なのだ。そして鈴香がお菓子を食べ終わると、なぜか自分の口の周りをぺろりと舐めて、仁類は一番奥にあるテーブルの下にもぐって昼寝をした。
「あーあ、まだ仕事中なのに」と鈴香が呆れると、カンパチさんは「狸寝入りって奴かしらね。でも寝顔も可愛いわね」と気にしていない。それから二人でサラダの下ごしらえをしたり、ゆで卵を作って殻をむいたりするうちに、他のアルバイトの人たちが出てきて、開店時間になるのだった。
仁類はといえば、テーブルの下で少し眠るとまた目を覚まし、カウンターまでやってきて鈴香たちが何をしているのかと覗き込む。火は怖いし、不器用すぎて包丁も使えないし、一度チーズをつまみ食いして鈴香に怒られてからは、中に入ってこようともしない。本当に役立たずなのだ。
その間の仕事として、カンパチさんは仁類にチラシ配りをさせることにした。太陽館でのライブはもちろん、人から預かったチラシでも何でも、配れるものは適当に持たせて駅前に送り出す。最初だけカンパチさんが付いて行って教えたけれど、何をどうやっているのか、いつもちゃんと全部配り終わってから帰ってきた。
本当はどこかにチラシを捨ててるんじゃないかな?鈴香は内心そう疑っていた。仁類に一人でちゃんと働けるほど、責任感なんてものがあるとは思えなかったのだ。ところが何日かすると、チラシについたクーポン券を持ったお客さんが少しずつ来るようになって、鈴香はようやく仁類が真面目に働いていると信じるようになった。
中には店に来るなり仁類を見つけて「あ、いたいた」と喜んでいる女の人もいて、カンパチさんは「作戦成功ね」と笑った。
「作戦ってどういうこと?」と鈴香が尋ねると、「だってほら、仁類ちゃん可愛いから。絶対に彼目当てのお客さんが来ると思ったの」
鈴香にしてみれば仁類のどこが「可愛い」のか判らないけれど、大人はけっこうそう思うみたいだった。見た目は一人前なのに中身が一歳の役立たずな狸という、ちぐはぐなところがそう思わせるのかもしれない。
とにかく、ライブの日なんかに二人でチケットのモギリをすれば、女のお客さんは鈴香よりも仁類の方に大勢並んだ。なのに仁類ときたらチケットを縦に破ったり、ドリンクと引き換えるためのコインを渡し忘れたかと思えば一度に二つあげたり、お手洗いの場所を聞かれてカウンターを指さしたり、とにかく適当だった。
ところがそんな事をされてもお客さんは少しも怒らず、逆にニコニコと笑って「この人面白い!」とはしゃいでいたりする。中には「ライブ出たりしないんですか?」と質問する人もいて、これにはカンパチさんが「この人ね、狸が化けてるから、それはちょっと無理なのよ」と代わりに答えていたけれど、それがまた「マジ?受ける!」と喜ばれた。
ともあれ、そんな感じで一通りの仕事をこなし、鈴香と仁類は七時半ごろには太陽館を後にするのだった。もう最終のバスもないけれど、そこは抜かりのない祐泉さんの事、ちゃんと車の手配をしてくれていた。太陽館から五分ほどの場所にある公園の裏通りに行くと空色の軽自動車が止まっていて、鈴香たちが近づくと一度だけ小さくライトを光らせた。
車の運転席にいるのは暢子さんという女の人だった。年は民代おばさんと同じぐらいだろうか。レンズに薄く色のついた眼鏡をかけていて、いつも綿の洗いざらしのブラウスにジーンズといったすっきりとした服装に、白髪まじりのショートカットがよく似合っていた。彼女はいつもその時間から、祐泉さんのいる叡李院へと出かけるのだった。
「まあ、ちょっとした宿直みたいなものね」と説明してくれたけれど、叡李院は鈴香のいる晋照寺と違って人も多いし、きっと外から来る人の仕事もあるんだろう。
鈴香と仁類は暢子さんに会うとまず「こんばんは」と挨拶し、それから仁類が車の後ろの席に潜り込み、鈴香が助手席に座った。
さすがに暢子さんは仁類を「可愛い」とは言わなかった。初対面の時には「まあ、きれいな色に染めてらっしゃるのね」と、オレンジの髪に感心していたけれど、それだけだ。思わず鈴香が「この人、狸だけど人間に化けてるんです」と説明したら、「あら本当?少しも判らなかったわ」と、また感心した。
そして車が走り出すと、暢子さんはいつも優しく「お疲れさま、お仕事どうだった?」と聞いてくれるので、鈴香はその日の出来事を報告した。仁類のやらかした失敗も情け容赦なく話すのだけれど、彼自身はまるで他人事みたいな顔でじっと外の景色を眺めているのだった。
暢子さんの車は、バスよりもずっと短い時間で晋照寺に着いた。目的地は更に先の叡李院だから、バス停のある山門ではなく本堂まで回ってもらえるので、鈴香と仁類はわざわざ暗い参道を歩かなくてすむ。これはすごく助かった。
暢子さんの車を見送ってからお寺に帰ると、民代おばさんが夕食を準備してくれていて、南斗おじさんもビールを飲みながら鈴香たちにその日の出来事を聞くのだった。といっても報告するのは鈴香の役目で、仁類は何も言わずにせっせとごはんを食べた。
そして食事が終わると鈴香は民代おばさんを手伝って後片付けをし、仁類はというと、真っ暗な山へ散歩に出かけるのだった。
「毎晩毎晩、雨にも負けず風にも負けず、あいつにはあれが仕事なんだよなあ」
ほろ酔い加減の南斗おじさんは、いつも感心したようにそう言った。
確かに、どうやら仁類には太陽館でしているのが仕事だという認識はないようだった。だからいつも、バイトに行く時間になっても昼寝をしていて、鈴香が探しに行かなくてはならないのだ。
ある日いつものように鈴香が探しに行くと、仁類は座敷の押し入れに丸くなったまま、片目だけ少し開いて「今日は行かないのいい」と言った。もう、サボるためにそんな事言うんだ、と思うと腹が立って、「これは仕事なの。お金貰ってるんだよ。こないだおさかなソーセージ買ってあげたじゃない。絶対行かなきゃダメ!」と怒ったら、彼は渋々、といった感じで押し入れから出てきた。
ところがその日は太陽館に着いた頃から、何だか変な感じがしてきた。スーパーでの買い物から戻ると、外は真夏で暑いはずなのに寒気がする。それでも我慢して働いていたら、段々とめまいがしてきて、ついに鈴香は立っていられなくなった。
「あら大変よ、熱があるみたい」
鈴香の額に手をあててみて、カンパチさんは本気で心配した。その日はちょうど暢子さんの予定が空いていたので、早目に迎えに来て病院に連れて行ってもらうことができたけれど、鈴香はどうやら夏風邪をひいたらしかった。
「鈴ちゃんは、仁類の言葉をよくの聞かない」
暢子さんが薬局で薬を貰って来るのを待つ間、待合室の長椅子で横になっている鈴香に向かって、仁類はそう言った。
「どういう意味?」何をするのも億劫で、目を閉じたままで尋ねると、仁類は「今日は行かないのいい、と言葉を聞かない」と答えた。
「出かける前に言った事?」
「あそこの時、鈴ちゃんの声はもうすぐ苦しいの音だった」
「もうすぐ苦しい?」
「そう。すぐに寝ないと、こういう苦しいになる」
それってつまり、病気になりかけの声だったって事だろうか。
「なんで、ちゃんと言ってくれなかったの?」
「絶対に行かなきゃダメは、必ずそうする言葉なので」
そりゃ確かに、あの時は仁類がサボりたがってると思い込んでたけど。
鈴香はため息をついてうっすら目を開いた。仁類は床にしゃがんでいたので、彼の顔がちょうど目の前に見えた。待合室の青白い明かりの下で、オレンジの髪は金属のように不思議な光を放っている。相変わらずぼーっとした顔つきだけれど、その黒い瞳はいつも怒られた時に見せる、困ったような気配を浮かべていた。でも、困っているのともちょっと違うな、と鈴香は靄のかかった頭で考え直した。
そんな瞳は前にも見た事がある。風邪をひいたりして寝ていると、夜遅く帰ってきたお父さんが枕元にやって来て、「すーずー、どうしちゃったの」と髪を撫でてくれる。あの時の感じに似ているのだ。それって、心配って事かな?でも狸の仁類が人間みたいに心配なんてするだろうか。そんな事を思ってはみたものの、どうにも面倒くさくなって、鈴香はまた目を閉じてしまった。
鈴香の夏風邪は二日ほどで治ったけれど、噂を聞いた祐泉さんがお見舞いに来てくれた。
「ちょっと張り切りすぎちゃったのかしらね。これ、お裾分けよ」
そう言って差し出された段ボールの箱を覗いてみると、鮮やかに色づいた水蜜桃が並んでいた。何でも妙雪さんのお姉さんが山梨の果樹園に嫁いでいて、毎年水蜜桃を送ってくれるらしい。
「食べきれないほどだから、いつもここに持ってくるの。本当は丸ごとかぶりつくのがおいしいんだけどね」と言いながら、祐泉さんは台所でナイフを借りて皮をむいた。南斗おじさんと民代おばさんは出かけていたので、ふたりの分は丸のままとっておく。
桃はよく熟していて、ナイフの刃を立てなくても、軽くひっかけて引っ張るだけで面白いように皮がむけた。その甘い香りに惹かれたのか、昼寝していたはずの仁類が、いつの間にか台所に現れた。彼は祐泉さんの傍まで来てその手元を覗き込み、貰えるのを今か今かと待っている。
「まずは湛石さんに食べてもらわなくっちゃね。あと少しだけ我慢よ」と、祐泉さんは仁類の方を振り向いたけれど、その瞬間、彼の口の端からよだれがつーっと垂れた。
「うわ!きったなーい!」
鈴香は反射的に大声で叫んでしまった。仁類は慌てて肩に噛みつき、シャツでよだれを拭いている。
「駄目じゃない!いつもそこ噛むからペラペラになってきたって、民代おばさんに言われたとこなのに」
鈴香は立て続けに怒ったけれど、祐泉さんは笑い過ぎて滲んだ涙を指先で拭いながら仁類をかばった。
「まあしょうがないじゃない。人間やるのって難しいよね。仁類は先に湛石さんのところで待ってなさい」
言われなくても彼は逃げる体勢に入っていて、こそこそと出て行ってしまった。
「あれでけっこう、一生懸命なんだと思うよ」
もう一度涙を拭って、祐泉さんはナイフを握り直した。
「でもいつも同じような事してるんだもん。進歩なさすぎ。別に無理して人間に化けてなくても、嫌なら狸に戻ればいいだけの話じゃない」
「確かにねえ。でもずっと人間でいるのは、何か理由があるのかもね」
「それはやっぱり食べ物だよ。ここにいれば毎日おいしいものが食べられるもの」
鈴香には他の理由なんて考えられなかった。
透き通るように瑞々しい桃を淡い緑色のガラス鉢に盛って、祐泉さんと鈴香は湛石さんの離れを訪ねた。
「お邪魔します。湛石さんご機嫌いかが?」
祐泉さんが声をかけて入っていくと、湛石さんは「ようお越しやしたな」と喜んで、押し入れに隠れていた仁類を呼んだ。
「ほら、別嬪さんが連れだって来てくれはりましたで」
がさごそと襖をひっかく音がして、仁類が押し入れから顔を出す。鈴香はそれを横目でにらみ、調子いいの、と思いながら、湛石さんがいつも食事をする時に使っている小さなお膳を出した。
「今年も妙雪さんのお姉さんから桃を送っていただいたんで、お裾分けに伺いました」
祐泉さんもさすがに湛石さんには丁寧だ。桃を盛ったガラス鉢をお膳に載せると、お揃いの小さな取り皿に二切れほどとり、フォークを添えて勧める。
「いつもすまんことですな。こんな立派なもんを」
「桃は不老長寿の薬ですからね。湛石さんには沢山召し上がっていただかないと」
「もう十分に長生きさしてもろてますわ。けど、やっぱり旬のもんはええ味がしますなあ」
湛石さんはとてもおいしそうに、ゆっくりと桃を食べた。鈴香も自分の分をとり、祐泉さんは仁類に一皿とってあげると「はい、おまちどおさま」と手渡した。彼はそれを受け取るなり、フォークも使わず、流し込むようにして一瞬で食べてしまった。
「ほんまにこの人は勢いよう食べはりますなあ」と、湛石さんは感心している。
「行儀悪すぎ」と、鈴香は釘を刺したけれど、仁類は平然としてこちらが食べるのをじっと見ている。そんなの気にしないで桃を一口頬張ると、柔らかな果肉からその淡い色とは対照的な深い甘みが滲みだした。喉に広がる香りは、目の前がピンクに染まったかと錯覚するほどに強い。仁類ほどじゃないけれど、一皿なんてあっという間だった。
「私はもう十分やし、後は皆さんで分けてくれはったらよろし」と湛石さんはお皿とフォークをおいた。
「あら、まだ沢山あるのに」
「この年になりますとやな、おいしいもんをちょびっとだけいただくのんが、一番の贅沢なんですわ。傍に別嬪さんが二人もいはる時は余計にそうです」
そう言って湛石さんは顔中を皺くちゃにして笑った。祐泉さんは鈴香に向かって「湛石さんってこの調子だから、うちの尼さんたちも全員ファンなのよね」と言いながら、鈴香のお皿におかわりを入れてくれた。それから仁類のお皿にも取り分ける。
「そう言うあんたさんは、尼さんにさせとくのが何やら勿体ないお人やな。国会議員でも立派に勤まりそうやで」
「頼まれればやってもいいですけどね」
そうする間に、仁類はもうおかわりを平らげ、大あくびをしている。それを見ていた湛石さんは「なんや、あんたら二人は近ごろお勤めに行ってはるらしいですな」と訊ねた。
「お勤めっていうか、アルバイトだけど」と、鈴香は訂正する。
「まあ、働いてるって事に変わりはないわよね」祐泉さんはようやく自分も食べ始めた。
「仁類さんは、よう働かはりますか?」
「あんまり。まあ狸だし、元から期待してないけど、すごくどんくさい」
「いやいや、狸の身でお勤めしようとは立派な心がけや。それに鈴ちゃんも若いうちから偉いなあ。せやけどここのお寺から街までは遠いさかいに、道中お腹が空きまっしゃろ。これ食べながら行かはったらええわ」
そう言って、湛石さんはよっこらしょと身体の向きを変え、床の間の脇にある茶箪笥のの引き戸を開けた。「ちょっと仁類さん、手伝ってんか」と呼ばれると、彼はすぐにそばへ行き、湛石さんが引っ張り出したものを受け取った。それはお菓子の空き箱に並べられた小さなジャムの空き瓶で、中には色とりどりの金平糖が少しずつ入っている。
「これ全部まとめて持っとかはったらええわ」
「でもそしたら湛石さんの分が無くなっちゃうよ」
「またそのうち、みやこ堂さんが来はりますわ」
湛石さんは新しい半紙を取り出して、瓶を一つ一つ開けてはその中味をあけてゆく。仁類はふだんとうってかわって真剣な顔つきでその様子を見つめていた。
「これが揮毫料の代わりなんだから、恐れ入るわよねえ」と、祐泉さんは溜息をついた。
「キゴウリョウって何?」
「平たく言っちゃえば一筆お幾らって事。湛石さんクラスだと本当はすごい金額のはずだもの」
「色紙とか書いてるのが?」
正直言って鈴香には、あのいたずら書きみたいなものに値段がつくとは信じられなかった。本気でほしがる人がいるだけでも不思議なのに。
「いやいや、世の中には値打ちのないもんに値段つけて取引する、けったいな輩がおりますさかいにな。ほんまのところ、私らにはこれでも十分過ぎる程ですわ」と言いながら、湛石さんは半紙の上に色とりどりの金平糖で小さな山を作った。
「ほな、鈴ちゃんが代表してちゃんと持っててや」
そう言われると何だか責任重大で、鈴香は恭しくその半紙を受け取った。仁類の視線はそこに釘付け、今にも噛み付きそうなほどに首を伸ばしてくる。
「もう、仕方ないなあ」と、三粒ほどつまんで差し出すと、彼は掌で受けとめてすぐに口へ放り込んだ。ジャリジャリと噛み砕く音を聞きながら鈴香は、この金平糖は春に風邪をひいた時に舐めていた、喉飴のケースに入れておこうと考えていた。
9 真珠はどうやってできる
夏風邪もすっかり治って、鈴香は仁類とまた太陽館へバイトに行けるようになった。
そのいちばん最初の日、店に続く外階段を下りる途中から、仁類は何だかそわそわしていて、ドアを開けるとすぐにその理由が判った。カンパチさんの茶飲み友達、近所のコンビニのおばさんが遊びにきていたのだ。それだけなら珍しくないけれど、テーブル席でくつろぐおばさんの膝には茶色いトイプードルが抱かれていた。
「あら、お二人さんご苦労さま」
おばさんはいつものようにコンビニの若草色の制服を着ていて、それと同じような色の裏メニュー、青汁牛乳を飲んでいた。そして膝のプードルは、鈴香たちが入っていくなり立ち上がって激しく吠えた。
「駄目よチロちゃん、静かにしなくちゃ」と、おばさんはプードルをなだめたけれど、一方の仁類は見たことないほど緊張した顔つきで、入口のすぐ脇の壁にぴったりと背中をつけていた。オレンジの髪はまるで寝癖がついたみたいに逆立っている。
「あーら、やっぱり狸だって判るのかしら。ワンコってすごいわね。でもまだ小さいから怖くないわよ、仁類ちゃん」と、カンパチさんはカウンターの中から声をかけた。
固まっている仁類がそれ以上近づかないと判ったのか、プードルはしばらくすると吠えるのをやめて、またおばさんの膝にうずくまった。そうしていると、まるでぬいぐるみの熊みたいだ。鈴香は思わず「ちょっと触ってもいいですか?」と聞いてみた。
「どうぞどうぞ。チロちゃんは若いお姉さんが好きなのよ、私みたいなね」と、おばさんはプードルを鈴香に抱かせてくれた。
別に少しなでるだけでよかったんだけど。でもそう言えるわけでもなく、鈴香は恐る恐るチロを抱いてみた。実はプードルなんて抱くのは初めてで、ぬいぐるみとは違って小さいながらもちゃんとした重さがあるのが何だか不思議だった。そして掌からはその温もりと、じっとしていられない元気のよさが伝わってくる。
「まだ子犬なんですか?」
「そうよ、先週からようやく外を散歩できるようになったの」
「だからって、ずっと抱っこしてたら散歩になんないじゃない」と、カンパチさんが突っ込むと、おばさんは「だって地べたに降ろして病気になったりしたらかわいそうじゃない」と反論した。
「過保護なんだからねえ」とカンパチさんは笑ったけれど、それも仕方ないような気がする。そのうち、だんだん腕が重くなってきて、鈴香はチロを胸元に抱き寄せた。するとチロは濡れた鼻面を伸ばしてきて、頬をぺろぺろと舐めた。
「うわあ、くすぐったい!」
首をすくめて鈴香は声をあげた。子犬ってすごく可愛いなあ、そう思いながらはっと気がつくと、壁に貼りついたままの仁類が何だか複雑な顔つきで、じっとこちらを見ている。髪はもう逆立っていなかったけれど、かといってふだんののんびりした感じではない。何だろう、と考えたところでチロが頬をまたぺろりと舐めて、それで鈴香はようやくわかった気がした。
たぶん仁類は、どうしてチロは鈴香の頬を舐めてもぶっとばされないのか、それを考えているのだ。
そんなもん、狸と子犬じゃ全然違う。
チロはきれいな家の中で大切に育てられていて、外を散歩したこともないのだ。仁類みたいに、トカゲやなんかの変なものを食べている狸とはわけが違う。だから鈴香は自分に言い聞かせるような大声で、「この子、本当に可愛いね」と念を押した。
すると仁類は顔だけこちらを見ながら壁伝いにじりじりと移動していって、最後に一番奥のテーブルまでたどりつくと、その下にもぐりこんでしまった。
「お兄ちゃん、今日はご機嫌斜めらしいわね」
おばさんは眉を上げてそう言うと、残っていた青汁牛乳を一気に飲み干した。
「さてと、それじゃ私も店番に戻るとするか。バイトさんが夏休みで帰省しちゃって忙しいのよ。鈴ちゃんが高校生だったらお願いするんだけどね」
「あら駄目よ。鈴ちゃんはうちの専属なんだから」
「うちの方がいい時給出すわよ。高校入るまでに考えといてね」と言って、おばさんは鈴香からチロを引き取り、「しっかし本当に暑いわねえ」とぼやきながら店を出て行った。けれど鈴香は、せっかくバイトに誘ってもらったくせに、高校生になるまでこの街にいるなんてありえないし、と思っていた。
「仁類ちゃん、拗ねてないで出てらっしゃいよ」
気がつくと、カンパチさんがテーブルの下を覗き込んでいる。鈴香は慌ててそこへ近づくと「いきなり休憩しちゃ駄目じゃない」と注意した。しかし仁類はちらっとこちらを見ただけで、やっぱりうずくまってじっとしている。
「ま、わかるけどね。ガラスのハートなのよね」と呟き、カンパチさんは立ち上がると鈴香の方を向いた。
「鈴ちゃん、今日はまず、ピアノ拭いてもらっていいかしら。本当は仁類ちゃんに頼もうと思ってたんだけど」
「ピアノ?」
「明日、調律の人が来るんだけど、埃をかぶってたらみっともないからね」そう言って、カンパチさんはステージの照明を入れ、奥の方にあるグランドピアノの蓋をあけた。近くでよく見ると、けっこう古そうだ。
「これね、スタンウェイだったりして、かなり上等なのよ。元々は白塚さんのお家にあったの」
「そうなんだ」と鈴香は頷いた。家にグランドピアノがあるなんて、やっぱりオーナーの白塚さんってお金持ちなんだな、と感心してしまう。カンパチさんは椅子を引き出すと「よいしょ」と腰を下ろし、ピアノの蓋を上げると慣れた様子で短いフレーズを弾いた。
「ね、仁類ちゃんって何か歌えたりしないのかしら。前座にでも出てくれたら、またお客さん増えると思うんだけど」
「さあ…歌ってるのは聞いたことないなあ」と鈴香は首をかしげた。
「もしかしたらさ、鈴ちゃんも一緒に歌ってあげたら、何か知ってるのがあるかもよ」
そしてカンパチさんは「こんなのどうかしら」と、ピアノを弾き始めた。鈴香もよく知っている「翼をください」という曲だ。
「カンパチさん、すごく上手」
出だしを聞いただけで、鈴香にはそれがよく判った。音楽の先生が授業で弾いてくれる伴奏よりも、ずっと素敵な何かがそこには流れている。カンパチさんは照れたように笑って指を止めると、「これでも私、昔はピアニスト目指してたのよ」と言った。
「ピアニスト?すごい!」
「子供の頃から、友達と遊ぶよりも練習練習って生活してて、ストレートで東京の音大に入ったんだけど、そこでいきなり夜遊びデビュー。ピアノそっちのけで、自分らしく生きることに没頭しちゃったのよ。まあ、そんな調子じゃピアニストになれるわけもなく、流れ流れて太陽館なの。だからいまだに実家の両親とは絶縁状態。まああっちが怒るのも当然よね」
鈴香はなんと答えていいか判らなかった。カンパチさんはすっかり大人だと思っていたのに、お父さんと喧嘩してしまった自分と、そんなに変わらないんだろうか。
「ま、そんな私の下らない話はどうでもいいの。鈴ちゃんが歌ってみせれば、仁類ちゃんも一緒に歌えるかもよ」と、カンパチさんはもう一度「翼をください」を弾き始めた。鈴香は何だかその勢いに逆らうことができなくて、あきらめ半分で歌うことにした。
こうして歌うのってずいぶん久しぶりみたいな気がする。カラオケもずっと行ってないし、学校の音楽の授業も出てないし、何より、目立たないためにずーっと授業では小さな声で歌っていたのだ。でもやっぱり、誰かがピアノを弾いてくれて一緒に歌うのってちょっと楽しいかもしれない。ううん、本当にすごくすごく楽しい。
鈴香は自分が地下のライブハウスにいるのを忘れて、どこか空の高い場所へ駆け上って行くような気持ちになった。
「すいませーん、受取お願いします」
気がつくと鈴香はまた地面に立っていて、ドアのところでは荷物を抱えた宅配のお兄さんが覗きこんでいた。
「いいところで邪魔が入っちゃったわね」と、カンパチさんは残念そうに笑いながら立ち上がると、荷物を受け取りに行った。
「ね、鈴ちゃんってやっぱりお父さん譲りで歌が上手ね。たんに音程がどうこうっていうんじゃなくて、声にちゃんと気持ちがこもってる」
戻ってきたカンパチさんは、またピアノの前に座るとそう言った。
「別にそんなんじゃないし」
鈴香は急に、楽しくて本気で歌ってしまったことが恥ずかしくなった。
「照れることないわ。音楽って、なりきるのが大事なんだから。これを弾けばこの私だって英雄になれちゃう、そこがいいんじゃない」
そう言うと、カンパチさんはいきなり、何かが乗り移ったようなすごい勢いでピアノを弾き始めた。これってたしか有名な曲じゃなかったっけ。そう思ったのも一瞬で、あとはもうカンパチさんの指先が生み出す音の流れに圧倒されてしまった。でも、こんなにすごいピアノを弾くことよりも大切な、自分らしく生きる事って、カンパチさんにとって何だったんだろう。ぼんやりと考えながら立ち尽くしていると、肩に何かが触れた。
なんだか暖かいけれど、ちょっと思い出せない感覚で、鈴香は不思議に思いながら首を廻らせ、そして大きな悲鳴をあげた。
何か、と思ったのは、仁類の顎だった。いつの間にか彼は鈴香の後ろに来ていて、何だか知らないけれど、その顎を鈴香の肩にのせたのだ。
「何すんのよもう!」
すぐに飛び退くと、鈴香は仁類を睨みつけた。仁類はといえば、どうしてそんな事をしたのか判らない、といった感じでうろたえている。
「噛まないの!」
慌ててまた自分の肩を噛もうとしたのを叱ると、彼はかろうじて我慢したけれど、何度かそこに鼻をこすりつけて頭を振った。
「仁類ちゃんたら、こっちに来れば歓迎してあげたのに」と、カンパチさんは気の毒そうな顔をしている。
「実を言えば、さっき鈴ちゃんが歌ってる途中からこっそり覗いてたのよね。どう?仁類ちゃんも歌ってみない?」
しかし仁類は、今度はピアノの下にもぐりこんでしまった。鈴香はそれを見ていると何だかまた腹が立ってきて、「ほら、ちゃんとピアノきれいに拭きなさいよ」と命令すると、自分は掃除機を取りに行った。
「だから、鈴香もちゃんとしててね」
いつもの一言で電話は終わり、鈴香は手にしていた子機を戻そうと縁側から茶の間に戻った。民代おばさんは「お母さん、来れなくなって残念ねえ」と声をかけてくれたけれど、鈴香はそれが本当に残念な事かどうか自分でも判らなかった。
東京でエステティシャンの研修を受けているお母さんは、ニューヨークでの研修を受ける前に一度会いに来ると言っていた。なのにいきなり電話してきて、チケットの都合であさって出発することになったから、もう時間がないというのだ。
「日にちによってチケットの値段がずいぶん変わるらしくて、仕方がないのよ」とお母さんは説明した。南斗おじさんは、こっちから空港まで見送りに行こうかと提案したけれど、夜中に出発する便だからそれも無理という事だった。鈴香はなんとなく、どんな方法を提案したところで、お母さんは全部断ってしまうんじゃないかと感じていたから、それならもういい、と言ったのだ。
「鈴ちゃん、お母さんのこと、そっけないと思うだろ?」
南斗おじさんは晩酌のビールをごくりと飲んで、そう尋ねた。
「よく判んない」
そう答えてから鈴香は子機を充電器に戻し、お膳の前に座ると、一口だけ残っていたごはんを食べて「ごちそうさま」と言った。仁類はとっくの昔に食べ終わっていて、鈴香が食べ終わったのを見届けると、いつものように口の周りをぺろりと舐めた。そして黙って立ち上がると、夜の散歩に出かけて行った。
「こっちに会いに来るのが無理でもさ、鈴ちゃん一人で東京に行くぐらいできるよなあ」
南斗おじさんは二本めの缶ビールを開けて、空になったグラスに注ぎ足した。民代おばさんは「まあ仕方ないわよ。色々とこっちには判らない事情があるんでしょうし」と、お母さんをかばったけれど、南斗おじさんは話を続けた。
「鈴ちゃん、お母さんがああやってそっけないのにはちゃんと理由がある。それはな、お母さんのお母さんもそうだったからだよ」
「え?お婆ちゃんのこと?」
正直言って、鈴香にとって母方のお婆ちゃんは遠い存在だった。住んでいる街が遠いという理由もあったけれど、何より、数えるほどしか会ったことがない。前の学校にいた頃の友達には、お婆ちゃんとすごく仲の良い子が何人もいて、どうしてうちはそうじゃないのかと不思議に思ったことはある。しかしまあ、よそはよそだし。うちはお父さんからして普通じゃないんだから、他にも変わったことがあっても仕方ないと自分を納得させていた。
「鈴ちゃんは、由美子おばさんの事は知ってるよな」
「うん。名前だけだけど」
それは南斗おじさんよりも二つ年下の、お母さんには姉さんにあたる人だったけれど、小学校に上がった年に交通事故で亡くなったという話だった。
「お婆ちゃんはさ、由美子おばさんが死んでからもずっと、子供たちの中で由美子おばさんが一番可愛いって思い続けてるんだ」
「うちのお母さんが生まれてからも?」
「そう。お母さんには可哀相だけれど、この子のことはちっとも可愛くないって、お婆ちゃんそう言ってたんだ」
「ちょっと、お父さん」と、民代おばさんは南斗おじさんを止めようとした。けれどおじさんは話を続けたい感じだったし、鈴香も聞いておきたかった。
「でも鈴ちゃんのお母さんは、お婆ちゃんに褒められようと一生懸命だった。出来が悪かった俺と違って、本当に優等生になれる子だったんだ。それがお母さんにとっては不運だったんだなあ」
「どうして?」
「いくらテストで百点をとっても、絵のコンクールで入賞しても、そんなの当り前としか思ってもらえないんだ。お婆ちゃんの口癖は、由美子だったらもっとちゃんとできる、だったからな」
鈴香はそれを聞いて何だか胸が苦しくなった。お母さんの「ちゃんとしててね」はそこから来ているのかもしれない。
「たぶん今の時代なら、お婆ちゃんは心の病気だって事で、病院で診てもらった方がいいと言われるかもしれない。でもあの頃は誰もそんな事は思いつかなかった。ただ、不幸な事があったから、そうなるのも仕方ないって考えていたんだよ。そして鈴ちゃんのお母さんだけが、お婆ちゃんに認めてもらうために一生懸命だった」
鈴香はただ、「ふうん」とだけ言って、民代おばさんがグラスに注いでくれた冷たい麦茶を飲んだ。
「お母さんは高校も進学校に合格して、大学も国立に入って、大手企業の関連会社に就職した。世間から見たら本当に素晴らしい事だ。でもお婆ちゃんにしてみればそんなの当然で、由美子ならもっとすごい大学に受かったわよ、なんて言うくらいだった。しかしだ、そこでとうとうお母さんにも目覚める時がくる。といってもささやかな反抗かもしれない。OLになってお金に余裕ができて、俺や友達に誘われてライブハウスに通うちに、気に入ったバンドができた。名前はセンチメンタル・ゼロ。そこのボーカルはチャラチャラした男だけれど何だか憎めない奴で、いつの間にかつきあうようになった」
それはお父さんの事だった。そこから後は鈴香も知っている話だ。バンドにメジャーデビューの話が来て、実現する寸前にメンバーが一人脱退して、それと同じ頃にお母さんのお腹に鈴香がやって来たのだ。
「ただでさえバンドの追っかけをお婆ちゃんは嫌がっていたけれど、そのメンバーと結婚したい、しかも相手は高校しか出ていない二十歳そこそこの若造で、おまけにもうお腹に赤ちゃんまでいる。どれをとっても受け入れられない事だった。当然大反対だ。お母さんだっていつもならお婆ちゃんの言うことを聞くはずだ。でも、その時は違ってた。生まれて初めてお婆ちゃんに反抗して、自分のやりたいようにやると宣言して家を出たんだよ」
南斗おじさんはそこで一息ついて、ビールを半分ほど飲んだ。
「鈴ちゃん、お母さんは別に鈴ちゃんに会いたくないわけじゃない。それどころか、きっとすごく会いたいはずだ。でも、その気持ちをうまく伝えられないだけなんだ。代わりに、わざわざ見送りに来てもらうのは悪い、なんてことを考えてしまう。どうしてそんな風だか判るかい?」
そう尋ねられて、鈴香は黙って首を横に振った。
「お婆ちゃんからそんな風に育てられなかったから、自分の子供にどうやって気持ちを伝えればいいのか、本当に判らないんだよ」
「でも、お母さんの気持ちって、しょっちゅう怒ったり文句言ったり、鈴香にちゃんと伝えてると思うけど」
「そんなのはお母さんが鈴ちゃんに対して持っている気持ちのほんの一部だ。本当はもっと一緒に笑ったり遊んだりしたいんだよ」
「そうかな」
だってここ一年ほどの間、鈴香は何だか不機嫌なお母さんしか見ていないような気がする。
「まあ、お母さんはそんなだから、槙夫の事を好きになったんだろうなあ。あいつはとにかく自由で、自分の気持ちに素直すぎるところがあるから」
それはそうだな、と鈴香も思った。お父さんと遊園地に行けば子供の鈴香より楽しそうだし、映画を見に行けば自分が先に泣いちゃってる。ゲームには本気で勝ちたがるし、テレビでおいしそうなラーメン屋さんが紹介されただけで、夜中でも「ラーメン行こっか」と誘いに来たりする。
「でも俺はね、槙夫が鈴ちゃんのお父さんでよかったと思ってるよ。両極端な二人を半々でブレンドしてあるんだから、鈴ちゃんはちょうどいい子供ってわけだ」
「それはどうかな」と、鈴香は少しぬるくなった麦茶を飲んだ。
「でもさ、南斗おじさんはお婆ちゃんとは仲良しなんでしょ?」
「それは難しいところだな。実を言えば、由美子おばさんが事故にあった時、俺は公園で友達と遊んでた。家を出る時に由美子おばさんが一緒に行きたいって言ったのに、邪魔だからって置いてけぼりにしたんだ。それで由美子おばさんは、一人で友達の家に行く途中で事故にあったんだよ。お婆ちゃんは、年上の俺がしっかりみてないからだって怒ったよ。周りの大人たちは、子供にそんな責任はないし、あれは不幸な事故だったと言ってくれたけれど、お婆ちゃんのその言葉は抜けない棘みたいに俺の心に刺さったままだった」
そこまで聞いて、鈴香は何かすごくいけない事を質問してしまったのに気がついた。でも、おじさんはそのまま話を続けた。
「俺はいつもその事で自分を責めていたし、大人になってからもそこから楽になりたい一心で、バンドやなんかでふざけてばかりいた。その一方で色んなセミナーや宗教に首を突っ込んだりしたし、いわゆるインチキ宗教の信者になって、わざとではないにせよ、人を騙すような事もした。それでいちど警察のお世話になりかけて、ずいぶんと考えなおして、坊主になる修行を一からやってみることにしたんだ。それからまあ色々と回り道はしたけれど、湛石さんに出会ったおかげでこの寺に落ち着くことができたわけだな」
「それって、お坊さんになったことで、気持ちは楽になったって事?」
「ならないね。ただ、そこから逃げないっていう覚悟はできたかもしれないな」
そして南斗おじさんはグラスに残ったビールを飲み干すと、真っ赤になった顔をごつい掌でつるりと撫でた。
「鈴ちゃんは真珠ってどうやってできるか知ってるか?」
「真珠?貝からとれるんだっけ?」
「そうそう。貝ってのは不思議なもんで、身体の中にとれない石ころみたいなものが入り込むと、それで自分が傷つかないように少しずつ少しずつ、薄い膜でその石ころを包んでいく。それが丸く大きくなったのが真珠だ。長い時間をかけるほど、大きくて綺麗な真珠ができる」
おじさんはそれだけ言うと、気持ちよさそうに目を閉じて横になってしまった。こうなるともう、あと一時間ほどは起きてこない。民代おばさんは「沈没しちゃった」と呆れながら、冷蔵庫に冷やしてあった西瓜のお皿を持ってくると、何切れか小皿に取り分けた。
「仁類に持って行ってあげて」
鈴香はうなずくと、そのお皿を片手に立ち上がり、台所に置いてある小さな蠅帳をもう片方の手に提げて縁側に行った。仁類は散歩に行ったところだから、しばらく戻ってこないだろう。
廊下の端に置いた、豚の形の蚊遣から、線香の煙が漂ってくる。いつの間にか庭からは虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえるようになっていて、季節は少しずつ秋に向かって近づいているようだった。
西瓜のお皿を縁側に置き、虫よけの蠅帳を開いてその上にかぶせると、庭の砂利を踏む足音が聞こえた。顔を上げると、そこには仁類がいた。
「散歩に行ったんじゃなかったの」
仁類はきっと、民代おばさんが冷蔵庫に西瓜を入れるところを見ていたのだ。だからタイミングを見計らって戻ってきたに違いない。鈴香はそのがめつさに呆れながら、蠅帳をたたんで「これ仁類のだよ」と言った。彼は縁側に腰掛けると西瓜を一切れ手に取ったけれど、残りをお皿ごと鈴香の方に滑らせると「あげる」と言った。
とっさに「いらない」と言いそうになって、でもこれは別に仁類のポケットから出てきたわけじゃないからいいか、と思い直し、鈴香は黙って一切れ手に取った。仁類はそれを見てからようやく、自分の西瓜をしゃりしゃりと食べ始めた。
「あのさあ、種はちゃんと出さなきゃだめだよ。明日掃除すればいいから、地面に捨てとくんだよ」
仁類は西瓜でも葡萄でも、小さな種を吐き出すのが苦手だった。今もやっぱり、ちらっと鈴香の顔を見ただけで、口の中のものを全部飲み込んでしまった。
「あーあ、おへそから西瓜が生えても知らないよ」と脅してみても、平気な顔をしている。自分はちゃんと種を吐き出して、鈴香は手にしていた西瓜を食べ終えた。仁類は二切れ目を半分ほどかじってから、また「あげる」と言った。どうやら残りの西瓜の事らしい。
「もういい。あっちにまだあるから」と答えると、彼はちょっと安心したような顔になって、あっという間に二切れ目を平らげた。
続けて三切れ目を齧り始めた仁類の横顔を見ながら、鈴香はこの前の太陽館での出来事を思い出していた。プードルのチロの事をわざと大げさに「可愛い」なんて言ってしまって、やっぱり仁類だっていい気はしなかったに違いない。お婆ちゃんに「可愛い」と言ってもらえなかったお母さんの事を考えると余計にそう思えた。
お父さんはといえば、まさに正反対かもしれない。三人きょうだいの末っ子という点だけは同じだけれど、桃子おばさんと桜子おばさんからはペット扱いされて育ったらしいし、たまにお爺ちゃんの家に集まると、未だに皆から「マキちゃん」と呼ばれていたりする。お婆ちゃんは「今日はマキちゃんの好きなビーフシチュー作ったの」なんて感じに嬉しそうで、全てがお父さん中心に回っていくのだ。もしかしたらそういうのが悔しくて、お母さんはあっちの集まりに全然参加しないのかもしれない。
そんな事を考えていると、鈴香はお母さんが可哀相になってしまった。子供の頃はお婆ちゃんのために一生懸命頑張って、結婚してからはお父さんが頼りない分、余計にしっかりしようとしているから、いつも不機嫌になってしまうんじゃないだろうか。お父さんよりもお母さんに味方したい気分で、鈴香は膝を抱えた。
お母さん、ニューヨークで楽しい事がいっぱいあればいいな。
今までずっと自分だけが我慢しているような気持ちでいたけれど、それはちょっと考えが狭すぎたかもしれない。
「ねえ仁類」
鈴香は思い切って、この前の事を謝ろうとした。なのにいざ声を出してみると、とたんに喉がつかえたようになって続きが出てこない。仁類は最後の西瓜を一口かじったところでこちらを向いた。
「食べる?」
「いや、そうじゃなくて」と、鈴香は少し慌てた。
「あのさ、あの、子狸って可愛いのかな」
言いたかった事はそんな風に変換されて、鈴香の口から出てきた。なんていうか、チロは子犬だから可愛くて、だから頬を舐められてもOKだったわけで、狸でも子狸ならたぶん大丈夫だったと言い訳したかったのだ。
仁類はしばらく考えて、「可愛い」と答え、さらに「子犬より大きな可愛い」と付け加えた。
なんだ、やっぱりチロのこと根に持ってるんだ。鈴香は急にむっとして、「それは実際に見てみないと判んないな」と反論した。
「今は見えない」
「なんで?」
「春の生まれた子狸が今、あんまり子供ではない。鈴ちゃんより大人」
「私のことを狸と一緒にするの、やめてくれる?それに私、仁類より十三も年上なんだからね」
鈴香にきつくそう言われても、仁類は全く平気そうで、それどころか「鈴ちゃんは今、少し大人にする」と言った。
「え?」と、鈴香が思わず首をかしげると、仁類は「自分で食べ物のとる練習をする」と言った。
「食べ物をとる、練習?」
「そう。カンパチさんのところ」
「あーあ、太陽館のバイトの事?」
「人間は食べ物とお金の同じ。だからお金の練習は、狸が食べ物のとる練習」
「まあそれは、そう言えるのかも」
狸のくせにけっこうよく解ってるじゃない。鈴香はちょっと感心して頷いた。
「じゃあさ、仁類はどういうつもりでバイトに来てるの?」
やっぱり人間に化けてるからお金がほしいのかな。だとしたら鈴香がお金を全部受け取って、仁類にはおさかなソーセージを何度か買ってあげただけ、というのはかなり不満なのかもしれない。しかし仁類は「鈴ちゃんの行くから」とだけ言うと、最後の西瓜を全部食べきって、大きなあくびをした。
「だから、私が行くからついてくるだけじゃなくて、ちゃんと働かなきゃ駄目なんだよ」
「お金、大きくもらった?」
仁類は手にした西瓜の皮を名残惜しそうに見ながら、そう質問してきた。
「え?まあね」と受け流したけれど、鈴香内心かなり焦っていた。まずい、仁類はやっぱり自分もお金を貰いたいのだ。
「あのさ仁類、お金少し貯まったから、どこか遊びに行かない?」
「どこか遊びに行かない?」
その言葉の意味を確かめるように、仁類は鈴香と全く同じ口調で繰り返した。本当の事を言えば、鈴香はお給料を貯めて東京のお母さんのところに遊びに行きたかった。けれど今となってはもう無理だし、だったらもう仁類と二人で平等に使ってしまおうと思いついたのだ。
「鈴ちゃんの行くだったら行く」
仁類はそれだけ言うと立ち上がり、持っていた西瓜の皮をお皿に落とすと、振り向きもせずに闇の中へと姿を消してしまった。
10 鈴ちゃんはまだ子供
車が緩やかなカーブを切ると、街並みの向こうにちらりと青いものが光った。
「あ、海!」
鈴香は思わず声を上げて身を乗り出した。それはすぐにまた屋根の後ろに隠れてしまったけれど、もう一度カーブを曲がると今度はもう紛れもない水平線が目の前に広がっている。
どこか遊びに行かない?仁類にそう提案したものの、鈴香には特別にいい場所が思いつかなかった。街で遊べそうな場所に行けばクラスの誰かに出くわしそうだし、それを避けて遠出するとなると、どこへ行けばいいのか判らない。太陽館からの帰り道に、暢子さんに何となく相談してみると、「だったらマリンパークなんかいいんじゃない?」と教えてくれた。
「お寺に行くバス道をずっと進んでいって、峠を越えたら隣町に出るでしょ?海水浴場まではまだかなりあるけど、わりと近くに水族館と海釣り公園があるのよ」
鈴香はこれまでずっと、お寺に続く山道のそのまた先も山ばかりだと思い込んでいた。でも、言われてドアのポケットに入っていた地図を確かめてみると、バス道は本当にそのまま峠を越えて、海に面した隣町へと続いていた。
「よかったら車で連れて行ってあげようか。私は時々あっちに行く用事があるから、そのついでにね。鈴ちゃんたちは水族館で遊んでくれば、帰りにまた拾ってあげるわ」
暢子さんがそう提案してくれて、今日はこうして仁類も連れて出かけてきたのだ。あまり朝が早いと仁類が起きてこないので、昼前に出発して、午後いっぱい遊ぶ予定だった。
「途中に展望デッキがあるから、そこでお弁当を食べるといいわ。でも最初にイルカショーの時間を確認ね」
お礼を言って車から降りる鈴香たちに、暢子さんはそう教えてくれた。
「大人一枚と中学生一枚下さい」
水族館の窓口で生徒手帳を見せて、鈴香は二人分のチケットを買った。本当なら大人が買うところだけれど、仁類は鈴香の後ろでぼーっと見ているだけで、いっそ中味に合わせて子供料金にしてほしかった。
でもまあ背だけは高いし、後ろの人の邪魔になるから大人料金で仕方ないかな、そう自分に言い聞かせて、鈴香は仁類にチケットを渡した。
「太陽館と同じだからね。入口でここをちぎってもらうんだよ」
仁類は黙ってうなずくと、鈴香の後に続いてゲートを抜けた。中の空気はひんやりとしていて、日差しの強い外から入ると夜みたいに感じるほど暗かった。短い廊下を曲がると、正面にいきなり見上げるほど大きな水槽があって、鈴香はつい「すごーい」と声をあげてしまった。
水槽の上はどうやら外に続いているらしくて、柱のようにまっすぐな太陽の光が、何本も差し込んでいる。その間を縫うようにして、大きさも色もさまざまな魚がゆったりと泳いでいた。水槽の前では大人も子供も、みんな楽しそうな顔になっていて、口々に「きれいね」だとか「大きいね」なんて言いながら魚たちを見つめていた。
鈴香は自分も水中にいるような気分になってぼんやりと立っていたけれど、そういえば仁類はどうしているだろうと思い出した。
振り向くと、仁類は少し後ろに立って、いつものちょっと不思議そうな顔でじっと魚たちを見ていた。水族館に行くよ、と言っても別に特別な反応はなかったけれど、やっぱり面白いのかもしれない。
「すごいでしょ」
普通の狸にはこんなの絶対に見られないと思うと、鈴香はちょっと恩着せがましい気持ちになった。仁類は鈴香を見ると、また水槽に視線を移して「サメ。くっつくコバンザメ」と言った。
「え、知ってるの?」
確かに、仁類が見ている先には、猫みたいな目をした灰色のサメが、お腹に二匹もコバンザメをつけて泳いでいる。一瞬驚いたけれど、よく見ると水槽の手前には魚の名前と写真がずらりと並んでいる。なんだ、これを見てたんだ。でもよく考えたら、仁類は字なんか読めないのだった。
「ちょっと、なんであれがサメだってわかるの?」
「知らない。でも知っている」と、仁類は平然としていた。そして水槽の底の奥まった場所にじっとしている、岩みたいにごろりと大きい魚を指さして、「あれの事は、クエ」と言った。
慌てて写真を探してみると、その魚の名前は本当に「クエ」だった。これは一体どういう事?呆気にとられている鈴香には構わず、仁類は「イルカの向き」と言って、水槽の左手にある通路を指さした。たしかに壁には「イルカスタジアム」という表示が出ていて、鈴香はまず最初にイルカショーの時間を確かめるように、暢子さんからアドバイスされていたのを思い出した。
「仁類さあ、南斗おじさんとかと、ここに来たことあるの?」まさかとは思いながら、そう尋ねてみたけれど、仁類は「ない」としか言わなかった。
その後も、仁類は次々と鈴香の知らない魚の名前をあげていった。魚だけではない、イルカや、アザラシや、ラッコまでちゃんと知っているのだ。イルカショーを見終わって、展望デッキに並んだパラソルつきのテーブルで少し遅い昼ごはんのお弁当を広げながら、鈴香は、一体これはどういう事だろうと考えていた。
そういえば仁類は、今まで果物だってそんなに食べたことがないはずなのに、湛石さんからもらった金平糖が何味なのかを知っていた。その知識は一体どこから出てくるんだろう。本当に、祐泉さんが言っていたみたいに、誰かの記憶を読み込んでいるんだろうか。
「鈴ちゃんなぜ食べない」
ふと気がつくと、仁類は並んだおにぎりに手をつけずにじっと鈴香を待っていた。
「食べるよ。仁類もどんどん食べて」
鈴香は民代おばさんが作ってくれた三角おにぎりを手に取ると、一口齧った。仁類はそれを見てからようやく食べ始める。きっと梅干しおにぎりがどれか心配で、探りを入れてたんだろう。仁類は酸っぱいものが苦手だから、今日のおにぎりも、海苔の巻き方でどれが梅干し入りか判るようにしてあった。でもよく考えたら、アボカドの熟れ具合が一瞬で判るんだから、仁類にそんな目印は必要ないかもしれない。
「こっちも食べなよ」
鈴香は別のタッパーに入れてある卵焼きとソーセージも仁類に勧めた。彼はプラスチックのフォークを手にすると、「鈴ちゃんは作った」と言った。
「上手じゃないけどね」
二人分のお弁当を全部民代おばさんに任せるのも悪いので、鈴香も自分でおかずを作ってみたのだ。でもきっと仁類は、卵焼きがきっちり巻けていなくて、端っこが焦げているのが気になるんだろう。別に味は見た目ほど変じゃないから、という事をアピールするために、鈴香は先にどちらも一切れずつ食べてみせた。すると仁類は納得したみたいで、自分も食べ始めた。
おにぎりを一つ食べ終わると、鈴香はペットボトルのお茶を飲んで一息ついた。、何だか気持ちがざわざわと落ち着かない。仁類がどうして魚の事を知っているのか、気がつくといつの間にかそれを考えているのだった。
当の仁類はいつもと変わらない様子で、いびつな卵焼きとソーセージを食べ、空のペットボトルに入れてきた、お寺の井戸水をおいしそうに飲んでいる。
酸っぱいものと辛いものが苦手で、お茶もコーヒーも苦手で、百パーセントの野菜ジュースと牛乳は飲んで、水道の水より井戸水が好きで、雨水だって飲む。それは狸だから。でも普通の狸は水族館に来ないし、魚の図鑑も読まない。
「鈴ちゃんまた食べない」
いつの間にかまたぼんやりしていたらしい。鈴香は慌てて二つ目のおにぎりを一口食べた。
「私もういい、あと全部仁類にあげる」
「少しの食べて、急いでお腹がすく」
「いいよ、そしたらアイスか何か買って食べるから」
そう言って、鈴香は二つ残っていたおにぎりと、卵焼きのタッパーを仁類の前に移動させた。仁類は一瞬困ったような気配を見せたけれど、やっぱりまだ満腹ではなかったらしくて、ぱくぱくとおにぎりを食べ始めた。
そして鈴香がまたお茶を飲んでいると、幼稚園ぐらいの男の子がテーブルに近づいてきた。どうやら仁類のオレンジ色の髪が気になるらしくて、じっと見ている。仁類も同じように男の子を見ているので、鈴香は思わず「ちょっと笑ってあげなよ」と言った。
「笑ってあげ?」
「だってそんな真顔でにらめっこしてたら怖いじゃん。ねえ?」鈴香が話しかけると、男の子は少しだけ笑顔になった。そして「これ自分の髪の毛?」と仁類に尋ねた。
仁類は「自分の髪の毛?」と、同じ調子で繰り返すと、フォークに刺さった卵焼きを男の子に差し出して「食べる」ときいた。
「だめだめだめ!」鈴香は慌てて、仁類をとめた。
「よその子に勝手に食べるものあげちゃだめだよ」
「どうしてだめ」
「だってほら、アレルギーとかあったら大変じゃない」
まだ小学校だった頃、同じクラスの子が運動会で友達にもらったお弁当のおかずを食べて、息ができなくなって救急車で運ばれたのを鈴香は思い出していた。ほんの少しだけ入っていたエビのアレルギーという話だったけれど、あの時の先生の慌てた様子やなんかは忘れることができない。
「もう、なんで魚の名前は判るのに、アレルギーのことは知らないの?」
卵焼きを持ったままぽかんとしている仁類に、鈴香は何だか腹が立った。
「アレレギ」
仁類はそう真似して、卵焼きを一口で飲み込むと肩に鼻を近づけた。鈴香に文句を言われて、本当はカシカシ噛みたいんだろうけれど、それをやるとまた怒られるからこらえているのだ。仁類の頭が少し低くなったので、まだそばにいた男の子は、思い切ってそのオレンジの髪に指をつっこんだ。
「自分の毛だ」
男の子は目を丸くして「なんでこんな色してるの?」と言いながら、まるでぬいぐるみにするみたいに、髪をつかんで何度も引っ張った。でも仁類は何も言わず、少し困った顔になってじっと耐えている。見ていた鈴香の方が何だか辛くなってきて、自分も前に同じような事をしたのは棚に上げて、「そんなにしたら痛いよ」と止めに入った。
ちょっと驚いたように手を引っ込めて、男の子はこんどは犬か猫にするみたいに、仁類の髪を小さな掌で何度もなでた。
「そうそう。それなら大丈夫」鈴香はほっとして、食べかけのおにぎりを平らげた。仁類はテーブルぎりぎりまで頭を低くして、じっとされるがままになりながら、「子供は子狸の同じ」と呟いた。
「あのさ、人間を狸と一緒にしちゃだめだよ」
「なぜだめ」
「だって人間の方が狸より上だもん」
「なぜより上」と、仁類はけっこうしつこく質問してくる。
「例えばさ、動物にはこんなすごい水族館なんか作れないじゃない」
「人間は、ウツボも、イルカや作らない」
「そりゃそうなんだけど」
ちょっとやりこめられた気分で、鈴香は同意するしかなかった。確かに、いくら大きな水族館を作っても、魚がいなくては意味がないし、それは人間が作れるものじゃない。
その間も仁類はずっと男の子に頭を撫でられていて、今や背中を丸めてテーブルに顎をのせている。その向こうに、お母さんらしい女の人が慌てて走ってくるのが見えた。
「やだ、ひろくんここにいたの?ごめんなさいね、お邪魔しちゃって」
お母さんが急いで抱き寄せると、男の子は仁類に「バイバイ」と手を振った。彼が何も言わないので代わりに手を振って、鈴香はペットボトルのお茶を飲んだ。仁類はそのままテーブルに突っ伏すと「眠るになる」とあくびをした。
「いつも昼ごはんの後は昼寝だもんね。ここで寝てれば?私一人で他の場所まわって、後から迎えに来るから」
お弁当を片付けながらそう言うと、仁類は「ついて行くに決める」と顔を上げた。
まだ見ていなかった深海魚と淡水魚のコーナーを回り、ラッコの食事を見てからもう一度イルカショーを楽しんで、鈴香と仁類はようやく水族館を後にした。暢子さんとの待ち合わせにはまだしばらく時間があったので、鈴香は道路の向こうの海釣り公園に隣接した、「海の楽園」という大きな店でお土産を買うことにした。
太陽はずいぶん西に傾いていたけれど、日差しはまだじりじりと容赦ない。海釣り公園の桟橋にいる人たちは、パラソルの影に縮こまり、海面をにらんでじっと座っている。鈴香と仁類はそれを横目で見ながら、エアコンのきいたお店の中へ入った。
そこは高速道路のサービスエリアに似た感じで、このあたりの名産らしい食べ物とか、おみやげ向きの小物やお菓子なんかがずらっと並んでいて、奥には軽食コーナーもあり、けっこう大勢の人が買い物をしていた。
鈴香はさっそくプラスチックのかごをとると、おみやげを選び始めた。南斗おじさんには、タツノオトシゴの模様が入ったグラス。民代おばさんには冷蔵庫にメモを貼るための、イルカのマグネット。祐泉さんには小さな海亀のついたボールペン。カンパチさんには熱帯魚のイラストのタオル。暢子さんにはタコの携帯ストラップ。湛石さんには文鎮に使えそうな、ガラスの巻貝を選んだ。
そして一番迷ったのはお母さんの分だ。鈴香はあれこれ見ながら、もう一度店を一周してみた。仁類はその後ろから黙ってついてくる。
「ねえ、仁類も何か買い物すれば?千円ぐらいで好きなもの選ぶといいよ」
「千円」と首をかしげる仁類を見て、鈴香は彼が数字を読めない事を思い出した。大体、数だって三つぐらいから上は「たくさん」としか言わないんだから。
「好きなのを決めたら持ってきて。そしたら買えるかどうか教えてあげるから。でも食べ物はだめだよ。ここに来た記念で、後に残るものを買わなきゃ」
仁類は黙って頷くと離れていった。狸が選ぶ記念のお買い物って一体何だろう。鈴香はちょっと楽しみな気分でそれを見送ると、またお母さんへのお土産を探した。次に会う時はもうエステティシャンになってる予定だから、それにふさわしいものがいい。けれど真珠なんかを使ったアクセサリはそれなりの値段でちょっと手が出ないし、安いのは何だか子供っぽい。散々迷って、結局小さな珊瑚をあしらった銀色のブレスレットにした。それから自分の分として、ラッコの赤ちゃんのぬいぐるみを選んで、これで任務完了。そう安心した後で、鈴香はお父さんのことを思い出した。
どうせ次はいつ会うんだか判らないから、おみやげはパスしてもいいんじゃないかな。そう思う一方で、他のみんながもらっているのに、自分だけおみやげなしと判った時の落ち込み方がハンパじゃないのも想像できた。
「なんで~?マジで何にもないの?なんでそんな冷たいわけ?」なんて感じで、子供みたいに拗ねるに違いない。それも何だか可哀相な気がして、結局、南斗おじさんと柄違いのグラスを買うことにした。
ようやくすっきりした気分で、さて仁類はどうしてるかな?と店を見回す。ひときわ目立つオレンジの髪は、鈴香がさっきブレスレットを選んだあたりをうろうろしていた。
「何にするか決めた?」と声をかけると、振り向いた仁類の手には貝殻のついた髪留めが握られていた。
「え?これ買うんだ?」
鈴香は笑いたいのをこらえてそう訊ねた。仁類ってば、鈴香が太陽館で働く時に前髪を留めているのをいつも見ていたから、自分もやってみたくなったのだ。彼のオレンジの前髪をその髪留めで上げて額を出したら、かなりおかしな感じに違いない。これは祐泉さんに報告しなきゃ、と何だか嬉しくなって、ちょっとぐらい予算オーバーでも買ってあげることにした。
「まあギリギリOKかな」
値段を確かめるためによく見ると、その髪留めはけっこう可愛いのだった。海みたいに深く透き通ったブルーで、真ん中に白く小さな貝殻が幾つか、花束みたいにあしらわれている。狸が使うには勿体ないような感じで、お母さんにもこういうの選んであげればよかったと鈴香は一瞬後悔した。でもやっぱり、真似をするのは癪に障る。
仁類の買い物も一緒にかごに入れ、鈴香はレジでお金を払った。お弁当は自分がリュックに入れて持ってきたのだから、この荷物は仁類に持ってもらって、鈴香はそろそろ暢子さんとの待ち合わせ場所、水族館のバス乗り場に戻ることにした。でも仁類は明らかに軽食コーナーでソフトクリームやイカ焼きを食べている人達が気になるらしく、そっちばっかり見ている。残ったお金で食べさせてあげようかと鈴香が考えたその時、誰かが声をかけてきた。
「アカネ、アカネじゃん!」
振り向くとそこには、「海の楽園」とネームの入った青いシャツを着た、大学生ぐらいの男の人が立っていた。彼は仁類の方に一歩踏み出すと「お前、車で事故って峠の病院に入ったって聞いたけど、もう大丈夫なの?」と、まるで幽霊でも見ているような感じで訊ねた。けれど仁類は何も言わず、不思議そうな顔で突っ立ったままだ。
「けっこう重傷らしいって話で、心配してたんだよ。でもなんでそんな色にアタマ染めてんの?もう仕事してんの?」
男の人は傍にいる鈴香なんか目に入らない様子で、とにかく仁類を「アカネ」だと思い込んで話し続けた。
「携帯も全然つながらないしさ、新しいのに変えたの?いま持ってる?」
アカネって一体誰なんだろう。鈴香は段々と不安になって、こぶしをかたく握り締めた。そこへ、おばさんの二人連れが「お兄さん、このちくわの賞味期限ってどこに書いてあるの?」と割り込んできた。
彼がその応対をしている隙に、鈴香は一言だけ「人違いだと思います!」と断って、仁類のシャツの裾をつかむと、大急ぎで店の外へ連れ出した。
一息ついて、「誰あれ、知ってる人?」と問いただしても、仁類は首を振るだけだ。とにかく急いでこの場所を離れよう。そう思って鈴香は足早に水族館のバス乗り場を目指した。そして道路を渡ろうとしたその瞬間、いきなり後ろからリュックを強く引っ張られて、思い切り尻餅をついてしまった。
「いったーい!」わけが判らずに振り向くと、犯人は仁類だった。
「何すんのよ!」
周りに人がいる場所で尻餅をついた恥ずかしさで、鈴香はすごい勢いで仁類を怒った。
「車が来て、踏まれる」
「そんなの判ってたよ!」
本当は道路を走っている車の事なんか忘れていたけれど、そうでも言わないと気が済まない。怒られた仁類はこらえきれずに肩をがぷっと噛んで、しばらく黙っていた。ジーンズのお尻をおおげさにはたいて立ち上がると、鈴香はまた足早に、こんどは車に気をつけて道路を渡った。
水族館の駐車場の奥にあるバス乗り場への歩道を、西日に炙られながら歩いてゆくと、すぐ後ろで仁類の声がした。
「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、車は本当で怖い」
「そんなの知ってるよ!」
「猪はぶつかっても跳ね飛ばされてだけ。車は、踏まれるとぺたんこ」
仁類はいつになく、長くしゃべった。
「仁類と一緒で生まれた狸は、車が踏んだ。後で見る時、道でぺたんこにしていた。すごく本当。それは嫌なこと」
その言葉を聞いて、鈴香の頭の片隅に、お母さんとお寺に来る時にタクシーから見た光景がよみがえった。
「それは仁類の大きく大きな、嫌なこと」
仁類はそう繰り返すと、黙ってしまった。でも地面の影を見れば、彼がすぐ後ろを歩いていることは判る。鈴香はその細長い影に視線を落としたまま、唇をかんだ。あの時、タクシーの運転手さんは「狸せんべい」なんて言っていたけれど、もしかしたらあの狸が仁類のきょうだいだったかもしれないのだ。
そんな事があったから、鈴香のことも心配してくれたのに、どうしてあんな風に怒ることしかできなかったんだろう。我慢できずに肩に噛みつくほど、仁類は傷ついたのだ。鈴香に何度も噛みつかれて、穴があきそうなのは仁類の心だった。
ちゃんと謝らなきゃ。
気持ちはそう思うのに、どうしていいか判らない。もしかしたらお母さんも、鈴香や父に色々と怒った後で、こんな気持ちになっていたのかもしれない。それでも鈴香とお母さんは親子だから、自然と仲直りもできた。でも仁類とは親子どころか、人間と狸だ。一体どうすればいいんだろう。
あれこれ悩んだままバス停に着くと、鈴香は日よけの下のベンチに腰を下ろした。仁類はおみやげの入ったビニールバッグを提げたまま、黙って傍に立っている。どうやらバスは出たところらしくて、周囲には誰もいなかった。鈴香は背中のリュックをおろして、中から金平糖の入ったのど飴のケースを取り出した。
そのカラカラという音が聞こえただけで、仁類は隣に腰を下ろし、こちらをのぞきこんでいる。よかった、そんなに怒ってるわけじゃないみたい。少しだけ安心して、鈴香は掌に金平糖を五つほど転がすと、仁類に差し出した。彼はそれを両手で受け取り、一瞬で口に放り込んで、ジャリジャリと噛み砕く。
「さっきはごめんね」
鈴香の口からようやく言葉が出てきた。仁類は少しだけ首をかしげて、唇を舐める。
もうさっきの事、忘れちゃったのかな。拍子抜けしたような気分で、鈴香はリュックに入れていたペットボトルのお茶の残りを飲んだ。仁類は腰を下ろしたままビニールバッグの中を覗き込むと、鈴香が買ったラッコのぬいぐるみを取り出した。
「これ狸」
「海で狸のぬいぐるみなんて売るわけないじゃん。ラッコだよ。貝持ってるでしょ?」
なんで魚や動物を見れば名前が判るのに、ぬいぐるみの違いは判らないんだろう。本当に変な狸だ。
「鼻くっつけて匂いかいじゃ駄目だよ」
今まさにやろうとしていた事を指摘されて、仁類は固まってしまった。それから残念そうにラッコをバッグの中に戻すと、今度は自分が買った髪留めを取り出した。やっぱり初めての買い物だから嬉しいに違いない。その様子をちゃんと祐泉さんに報告しようと思って、鈴香は横目でじっと見ていた。
彼は髪留めをしばらく色んな方向から眺めていたけれど、いきなり鈴香に向かって「あげる」と差し出した。
「え?あげるって、私に?」
「あげる」
「でもそれ、仁類が買ったんじゃない」
「仁類が欲しいのは、食べ物しか」
鈴香があっけにとられていると、仁類は腕を伸ばし、「こうすると使う」と言って、鈴香の前髪を一束すくうと髪留めでまとめた。
髪のひっぱられる感じからすると、どうやら髪留めはちょっと変な具合についているみたいだ。それを直すのも悪いようでじっとしていると、仁類は「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、これはプレゼントという」と付け加えた。
「そんなの知ってるよ!」
ようやく魔法が解けて身体の自由が戻ったような気がして、鈴香は大声を出した。仁類はちょっとだけ鼻先を肩に近づけて、それから軽く頭を振った。その仕草に胸の奥がちくりと痛んで、鈴香は小さく「ありがとう」と言った。
「でもさ、仁類はどうしてプレゼントの事を知ってるの?ていうか、さっきの人は誰?アカネって仁類のこと?」
仁類は「知らない」と言って、大きなあくびをした。
暢子さんは約束の時間より少しだけ遅れて、二人を迎えに来てくれた。鈴香を見るなり彼女は「あら、髪留め買ったの?よく似合ってる」と言ってくれた。けれど鈴香はどうしても仁類にもらったと言い出せなくて、「うん」と言ったきり、サイドミラーを覗いて髪留めをつけ直すだけだった。仁類はというと、そんなの全く聞いていない感じで、車に乗るなり後ろの席で丸くなって眠ってしまった。
沈みかけた夕日に照らされながら、車は元来た山道へと入ってゆく。鈴香はふと思いついて、「峠の病院ってどこにあるんですか?」ときいてみた。
「峠の病院?ああ、聖テレジア病院の事ね。誰か入院してるの?」
「そうじゃないけど…」
「ほら、もうすぐ見えてくるわ。右側の山の方よ」そう言って暢子さんがハンドルを切ると、緩やかな山の斜面の上に、白い建物が見えた。
「昔は結核の患者さんのサナトリウムだったところを、病院に建て替えたの。この辺じゃ大きい方よね。峠にあるから峠の病院って、聖テレジアより憶えやすいから皆そう呼んでるわ」
「そうなんだ」
鈴香は身体の向きを変えて、既に後ろの方へ流れ去ってしまった病院をもう一度よく見た。夕日に照らされてほんのりオレンジに染まった白い建物。ほとんどの病室の窓には明かりが灯っていて、どうやらそこには何人もの人が入院しているみたいだった。やがて車は次のカーブを曲がり、病院は視界から消えた。そして鈴香が下ろした視線の先には、仁類が丸くなって眠っていた。
11 狸が彼の魂を
木津朱音
鈴香は手にしていたメモをもう一度じっとにらんで、それから小さくちぎるとトイレの中に落とし、勢いよく水を流した。外に出ると手を洗い、鏡を見つめて心の中で三回「キヅアカネ」と唱える。
あの日、海辺のお土産屋さんで仁類に向かって「アカネ」と声をかけてきた男の人の事を、鈴香は祐泉さんに話してみた。祐泉さんはその時は「それはちょっと不思議ね」と言っただけだったのに、次の日に届け物をするふりをしてお寺までやってくると、鈴香を庭の隅に連れて行った。
「鈴ちゃん、昨日の話なんだけどね、実は私の友達に、峠の病院で看護師をしてる人がいるのよ。彼女に頼んでこっそり調べてもらったら、本当にアカネって名前の男の人が入院してるって」
「今も?」
祐泉さんは頷くと、「それでね、彼が入院した日付が、仁類がここにやって来た日とちょうど同じなの」と続けた。
「ど、どういう意味?」
「私にも判らないわ。そのアカネって人は、ここからもう少しいったところの県道で交通事故を起こして、峠の病院に運び込まれたらしいの。正確には、運転中に脳出血を起こして、そのせいで車をぶつけちゃったのね。山側だったからよかったけど、反対なら車ごと崖から落ちて、多分助かってなかったって」
「じゃあ、今はもう随分よくなってるの?」
「それがね、手術はしたんだけど、ずっと昏睡状態で目を覚まさないらしいわ」
鈴香は何と言っていいか判らず、祐泉さんの言葉の続きを待った。彼女はいつも「下山」の時に使っている大きなキャンバス地のバッグから手帳を取り出すと、そこに挟んであった小さなメモを手にした。
「鈴ちゃん、ここにその人の名前が書いてある。もし鈴ちゃんが本当にそれが誰なのか確かめてみたいなら、病院に行って、お見舞いの部屋を間違ったふりをして彼に会ってみることはできるわ。でもね、もし誰かに見つかって、何か聞かれても、本当のことを言ってはいけない。でないと私の友達がとても困った事になってしまうから」
「絶対に言わない」
「秘密、守れる?」
「大丈夫」
鈴香は祐泉さんの大きな目をじっと見て、そう約束した。祐泉さんは軽く頷くと、二つ折りにしたメモを鈴香に渡してくれた。
四階の四一三号室。鈴香は部屋の入口に書かれた番号を一つずつ確かめながら、白い廊下を進んでいった。病院の面会時間は午後二時からで、鈴香の他にもお見舞いの人は病室を出入りしていたので少し安心した。それでも看護師さんの姿を見かける度に動悸がして、鈴香は目を伏せたまま足早に歩いた。
病室は廊下の手前が四人部屋で、奥に進むと二人部屋になり、最後に個室になって、その一番奥が四一三号室だった。部屋番号の下に名札を入れる場所があって、そこには確かに「木津朱音様」と書かれていた。
どうしよう。一瞬だけ迷って、でもやっぱり確かめなくてはと自分に言い聞かせて、鈴香は廊下にいる人が誰も自分を見ていないことを確認してから、スライド式のドアに手をかけた。
部屋の空気は廊下よりもひんやりとしていた。窓のカーテンは開けられていて、すっきりと白く明るい光がそこを満たしている。鈴香は後ろ手にドアが閉まったのを確認して、そろそろとベッドに近づいた。
白いカバーのかかった布団を胸元までかけられて、その人は眠っていた。横になっていても背が高いのがよく判る。思い切って視線を彼の顔に向けて、鈴香は無意識のうちに「うそ…」と声を漏らしていた。
そこに眠っているのは仁類だった。すっと通った鼻筋。何もしていなくても少しだけ笑ってるような感じに見える口元。左の頬に小さく二つ並んだほくろ。ただ仁類とは違って、眠っている彼の髪は真っ黒で、とても短くカットしてあった。よく見ると左側の生え際の辺りからずっと、頭の地肌が引きつれたようになっていて、それはお父さんの右腕にある、自転車で土手から落ちて十二針縫ったという傷痕に似ていた。
彼の呼吸はとても微かで、寝息はほとんど聞こえない。鈴香は少しだけ近づくと前かがみになって、小声で「仁類?」と呼んでみた。もちろん返事はない。そばで見る彼の肌は仁類よりも随分白くて、顔の輪郭は少しふっくらしているように思えた。
いま、仁類は本当にお寺にいるだろうか。もしかして、昼間はここで眠っていて、夕方になるとけもの道を通ってお寺にやってくるのではないだろうか。混乱した頭でそんな事を考えながら、鈴香は身体を起こした。その瞬間、ドアの開く音がした。
「あら、お客様?」
入ってきた女の人は鈴香がいるのに一瞬驚いた様子だったけれど、微笑みかけてきた。
「あ、ご、ごめんなさい!部屋を間違えてしまって!」
鈴香は慌てて逃げ出そうとしたけれど、彼女は全然気にしていない様子で、「ね、よかったらお菓子食べていかない?私ちょっと退屈してたのよね」と言った。よく見ると彼女の手には病院の一階にあったコンビニの袋が提げられている。鈴香は一瞬迷って、それから小さく頷いていた。
「まるでどこも悪くない感じでしょ?」
ペットボトルに入っていた紅茶を紙コップに注ぎ、鈴香に手渡しながら彼女はそう言った。鈴香は丸いパイプ椅子に座り、彼女はベッドの端に腰を下ろした。先にもらっていたチョコチップクッキーを齧って、鈴香は「普通に眠ってるみたい」と答えた。
「でも、もう何か月も眠ったままなの。お医者さんはできるだけの治療はしたって言うけどね」
彼女はまるで自分の髪形の話でもするみたいに、気軽な感じでそう言った。年は「木津朱音」より少し上のように思える。太陽館に来る、OLの人みたいな大人の雰囲気で、セミロングの髪を後ろで一つに束ねている。
「この人と、家族なんですか?」
「ううん、赤の他人。ていうか、俗に言う彼女。でもね、私以外にも彼女ってのは何人もいたみたい」
鈴香はどう返事していいか判らなかった。
「なんかね、容体が少し落ち着いてから携帯チェックしてみたら、私以外の女の子といっぱいメールしたり電話したりしてたの。仕方ないから代わりに、入院してずっと眠ってますってメールしたら、みんなそれっきりよ。たまにここにお見舞いに来る人もいたけど、もう一度来た人はいないわね。今じゃ携帯も電源切りっぱなし」
そう言って悪戯っぽく笑いかけられると、鈴香は何故だか不安になって紅茶を一口飲んだ。
「この人の家族とかは?」
「いるけど、何もしないわ。元々絶縁状態だもん。保険の書類だけはもらいに来たらしいけど」
「じゃあ一人で看病してるんですか?」
「ほとんどは看護師さんがちゃんとやってくれてるわ。でも着替えとか、ティッシュとか、そんなものは私が買ってるかな。それでも家族じゃないから、治療方法とかに口出す権利は一切ないの。本当は彼はどうなってるのか、詳しいことも教えてもらえない。なのに毎日こうやって会いにこないと気が済まない。そのせいで会社を辞めて夜のお仕事に変えちゃって、安いアパートに移って、定期解約して」
彼女はふうっと大きなため息をつき、しょうがないね、という感じに笑ってみせた。
「ネットで色々調べたりしたけど、本当に何がどうなって眠り続けてるんだか。占い師に見てもらったりもしたんだけど、狸が取り憑いてるって言われて、何だか吹っ切れちゃった」
「た、狸?」
「そう。馬鹿げてるとは思うんだけど、その占い師さんが言うには、狸が彼の魂を持って行っちゃったんだって。夜中の山道で事故にあったって聞いたから、思いついたのかしらね。そんな日本昔話みたいな事言われたら、もう笑うしかない感じ」
「じゃ、じゃあ、狸が魂を返してくれたら、この人は目を覚ますんですか?」
「そういう事になるのかな。でも狸が相手じゃ無理よね。罠でも仕掛けに行こうかな」
彼女はそして、空になった紙コップをごみ箱に放り込むと、布団の上から彼の足をゆっくりと撫でた。鈴香は自分の手が震えているのを悟られないように、紙コップにそえた指に力をこめた。
「もしこの人が目を覚まして元気になったら、結婚するんですか?」そう質問すると、彼女は少しびっくりしたように目を丸くして、それから「その反対」と言った。
「実はね、彼が事故に遭ったのは、私に会いに来る途中だったの。話があるからって、わざわざ呼び出したのよ。あなたとは二年間おつきあいしたけど、浮気もされたし、借金もされたし、やっぱり無理ですって、そう言うつもりだったのよ。でもこんな事になっちゃって。友達はみんな、別れたいんでしょ?逃げるなら今のうちよ、って言ったわ。でも私はそれは違うと思って。もし彼が目を覚ました時に誰もそばにいなかったら、それこそ本当に捨てられたって思うわ。でも私は目を覚ました彼と、ちゃんと話をしてからお別れしたいの。捨てるんじゃなくてね」
鈴香は彼女の気持ちが判るような気もしたし、全然判らないようにも思えた。それに気がついたのか、彼女は急ににっこり笑顔になった。
「ごめんね、大人のややこしい話しちゃって。今の話ぜんぶ、忘れてくれればいいわ。それで、またよかったら遊びに来て。今度はもっと面白い話しようよ。私、渚っていうの。あなたは?」
そう聞かれて、鈴香は一瞬嘘の名前を言おうかと思ったけれど、やっぱり「鈴香」と答えて立ち上がった。
「鈴香ちゃんか。今日は誰のお見舞いに来てたの?」
「おじさん」心の中で南斗おじさんに謝って、鈴香はそう嘘をついた。
「そう。早く良くなるといいわね」
廊下で手を振ってくれた渚さんに小さく頭を下げて、鈴香は周りの人に変に思われないよう、速足で病院の玄関まで急いだ。そして外に出てからは全速力で坂を駆け下りて、ちょうど走ってきた帰りのバスに飛び乗った。
お寺に帰ると、鈴香は真っ先に仁類を探した。座敷の押し入れにはいない、となると今の時間は湛石さんのところだ。庭に降りるためのサンダルを履き損ねて転びそうになりながら、鈴香は湛石さんの離れに向かった。縁側の障子は開いていて、湛石さんは籐の枕に頭を預けて昼寝をしていた。
「湛石さん?」と声をかけながらサンダルを脱いで上がると、湛石さんは「はいおはようさんです」と返事だけはして、まだうとうとと目を閉じている。
「仁類、ずっとここにいた?」と尋ねると、「いたといえばいたし、いいひんかったといえば、おりませんでしたなあ」なんて答えが返ってきた。ボケちゃった人に質問しても仕方なかったな、と思いながら、鈴香は少しだけ開いていた押し入れを全開にした。そこには仁類が丸くなって昼寝していた。
やっぱりここにいたんだ。鈴香はちょっと安心して膝をついた。仁類は片目だけ薄く開くと「太陽館?」と尋ねた。
「それは明日。仁類、ちょっとだけ頭さわっていい?」
「頭、さわ」
その返事をOKということにして、鈴香は手を伸ばすと、仁類の髪の生え際から耳の上がどうなっているか確かめてみた。少しぱさぱさして堅いオレンジの髪をかきわけても、白い地肌には傷ひとつない。髪にからんでいた枯草をつまみ出して、それをごみ箱に捨ててから戻ると、仁類はまた目を閉じている。
「仁類、彼女いっぱいいるの?」
返事はない。
「渚さんって女の人、知ってる?」
「知らない」
こんどは目を閉じたまま返事をして、仁類はくるりと背を向けた。鈴香は何だか腹が立って、パーン!と押し入れを閉めてしまってから、後ろに湛石さんが寝ていた事を思い出した。
「娘さんはちょっとやきもち焼きな方がよろしいな。ええこっちゃ、ええこっちゃ」
湛石さんは目を閉じたまま、笑い顔になってそう言った。
夕方になって、祐泉さんが下山のついで、と言いながら訪ねてきた。彼女が民代おばさんに頼まれていた買い物を渡し終わったのを見計らい、鈴香はもやしの根っことりを中断して、停めてあった車のところへ行った。
病院であった事を全部話すと、祐泉さんは「そうなの」と呟いて腕を組んだ。
「占い師の言った事って本当だと思う?狸が魂を持って行ったのって、仁類の事だと思う?」
「うーん、偶然というには当たりすぎてる感じがするよね」
祐泉さんは長い指で軽く眉間を抑えて「私、基本的に占いなんて信じないんだけど、こればっかりはね」と言った。その様子はいつもの自信たっぷりな彼女とはずいぶんかけ離れていて、鈴香は本当にどうしていかわからなくなってしまった。
夜、ベッドに横になって目を閉じると、「木津朱音」の白い寝顔が浮かんできた。それを振り払うように目を開き、暗い天井を眺めていると、外から波のように押し寄せてくる虫たちの声がいつの間にか渚さんの声になった。
狸が彼の魂を持って行っちゃったんだって。
私以外にも彼女ってのは何人もいたみたい。
狸が取り憑いてるって。
いつも一体どうやって眠ってたんだろう。鈴香はそれすら判らなくなってきて、何度も何度も寝返りをうった。ラジオをつけてしばらく聞いてみたり、また止めたり、枕元のスタンドをつけて漫画を読んでみたり、そんな事をしても全然眠くならない。
もしかしたら、すごく難しい本を読んだら眠くなってくるかもしれない。
鈴香はベッドを降りると、いとこの天地くんの本棚の前に立った。大学院を出て、今は外国の大学にいる彼の読むような本は、どうせ自分には関係ないし。そう思ってこれまで少しも気にかけていなかった、たくさんの本。ケースに入った難しそうなのが多くて、題名から、もう読み方が判らなかったりする。まあ、背表紙を眺めるだけで眠くなるかもしれないし。そう自分に言い聞かせて、鈴香は上から順番に題名を読んでいった。よく見ると随分古びた本もあって、昭和に出版されたらしい文庫や雑誌も混じっている。
鈴香は「思想前線」というタイトルの雑誌をためしに手に取ってみた。裏表紙の広告で、お酒のグラスを片手に笑っている女の人の眉があまりにも太いのがおかしくて、他にも何か変な写真はないかな、とページをめくってみた。でも残念ながら中味はほとんど文字ばっかりで、本当はそれをじっくり読んだ方が眠くなるに違いないのに、鈴香はどんどんページをめくっていった。一瞬、どこかで見たような漢字が目に入って、鈴香の指は止まった。
伊東湛石
「あれ、湛石さん?」
何故だか知らないけれど、開いたページに、湛石さんの書いた文章が載っていた。
「狸和尚四十年、だって」
その変な題名にくすっと笑いながら、鈴香はベッドに戻って腰を下ろすと、続きを読んでみた。
先の大戦がまことに悲惨な結末を迎えた時、私はまだ二十歳を迎えていなかった。生来病気がちな子供で、自身はおろか周囲の誰もが、かくも脆弱なる肉体の持ち主が神国の守り手として重責を負うことになろうとは、予想もしていなかった。であるから召集令状を受け取った時の私の気持ちは、ただ国家のために散華するという栄誉に浴する資格を与えられたことへの高揚感のみであった。もちろん女手ひとつで私と姉を育ててくれた母との別れは十分に悲しいものであったが、それと引き換えにもたらされるであろう、栄光への期待にうち震えるほど、当時の私は幼く愚かであった。
それから半年もしない内に、己が心待ちにし、精神的支柱としていたものが実際には完全なる幻想であったという耐えがたい屈辱とともに私は敗戦に直面した。ほどなくその屈辱は後悔へと変わり、更には底知れぬ罪悪感となって私の精神を苛んだ。寝食を共にした若き戦友の多くが先立ち、己は五体満足でのうのうと生き延びている、その事実だけでも万死に値するというのに、若い肉体は飢え、渇き、生存しようという要求を主張して已まないことがひたすらにうらめしかった。
その浅ましい肉体をひきずって故郷に戻った私を更に打ちのめしたのは、母も姉も大空襲の犠牲となっていたという事実であった。親類や近所の者は、お前は運がよかったと慰めてくれたが、私の耳朶を打つその言葉は、お前ひとりが何故生き延びたのか?という苛烈な糾弾でしかなかった。逃げるように故郷を離れた私は、死に場所を求めてうろつくしかなく、見かねた戦友の伝手で闇物資の商いに関わるようになった。
一歩間違えば命を失うかもしれない、そのような仕事にしか私は己の価値を見出すことができず、同類とも言えるやくざ者たちとの争いに明け暮れた。皮肉なもので、そういう人間は不思議なほど死に損なう。いつしか私は、自分には死ぬ事すら許されていないのだという確信を持つようになり、大胆不敵な行動を繰り返した。そしてある日、へまをやらかして深手を負うことになる。
そのまま朽ち果てればよいのである。精神はそう念じるのに、肉体はまたもそれを裏切ってみせた。追手のかかる都会を避け、私はひたすら山中を彷徨した。季節は冬の初めで、秋の恵みの名残があちこちで露命をつないでくれた。それでも傷を負った肉体は思うように恢復せず、歩みは徐々に緩慢になった。そして大雨に降込められたある夜、私は最期を予感しながら泥土の中に昏倒した。
何か暖かいものの感触に目を開くと、既に明るんだ蒼穹が見えた。それを遮るように黒い影が幾つも伸びて、再び私の頬に触れる。頻りに嗅ぎまわるそれらは、狸であった。さてはこいつら私の屍を食らいに来たか、そう思って一喝しようとしたが、その声すら出ないほど私は衰弱していた。にもかかわらず奇妙に明晰な思考を以て、私は己が今ひとたび生を永らえたことの意味を探り続けた。狸どもの鼻面はその間も私の身体のあちこちに触れてまわり、それからようやく何か得心したような気配を残して立ち去っていった。
生き永らえてもよいのではないか。
小さな暖かい生き物たちにそう諭されたような気がして、私は渾身の力を揮い、沢の水を啜り、這いずるようにそこを下った。山仕事に通りがかった者に援けられて近くの荒れ寺に養生の場を得た後、私は仏門に帰依する身となった。
師への深き恩は今更ここに繰り返すまでもないので割愛するが、御仏のお導きによってこのように狸と結縁したことが、私がげんざい狸和尚と呼ばれるそもそもの発端なのである。つまらない話ではあるが、一度くらいは語っておいてよいだろうとも思い、筆を執った次第である。
読めない漢字がたくさんあって、ところどころはっきりと意味がつかめない。それでも大体の内容は理解して、鈴香は溜息をつくと天井を見上げた。
あの湛石さんにこんな過去があったなんて、想像もできなかった。この雑誌が出てから、また二十年ほど経って、いまの湛石さんは狸和尚六十年ぐらいになっているけれど、少しぼけちゃったから、もうそんな悲しい事は忘れただろうか。まあ、少なくとも昔ほどじゃないだろう。でなければ、あんなに呑気にはしていられないはずた。
鈴香はベッドを降りて窓を開けてみた。虫たちの鳴き声がどっと押し寄せてきて、山の夜のひんやりとした空気が流れ込んでくる。思わず二、三回くしゃみをしてから、空を見上げた。深く暗い闇に無数の輝く星がちりばめられて、まるでその一つ一つが小さな瞳のようにこちらを見下ろしている。
戦争に行くってどんな気がするだろう。友達が死んでしまったり、帰ってきたら家族も死んでしまっていたら、どんなに悲しいだろう。
真剣に想像するのが怖くて、鈴香はただその疑問の入口あたりを行ったり来たりしながら夜空を眺めていた。ふいに、庭の砂利を踏む足音がして我に返ると、常夜灯の白い明かりに仁類の姿が浮かんでいた。
「な、何してんの?」一瞬びくっとしてから、鈴香はそう質問した。彼は何も答えずにまっすぐ歩いてくると、「寒いと中に隠れる」と言って窓を閉めようとした。
「判ってるってば」
鈴香は慌ててそれを遮ると、少しだけ身を乗り出した。外とは段差があるので、顔の高さは仁類とちょうど同じくらいだ。
「仁類は、湛石さんが狸和尚って呼ばれてるの知ってる?」
「湛石さんは狸に違う人間」
「それは判ってるけど、何かそんな話きいたことないの?昔はどんな事があったとか」
「湛石さんはずっと人間」
駄目だ、意味わかってないや。鈴香はもうその質問をあきらめることにした。
「ねえ、仁類はずっと人間に化けてるつもり?」
「ずっとの違う」
「じゃあいつまで?」
「そうしない時まで」
それはいつ?と尋ねようとして、鈴香はまたくしゃみをした。仁類は「寒いと隠れる」と言うなり鈴香の肩を押し戻して、窓を閉めてしまった。彼の足音が虫の鳴き声に溶け込んで消えてゆくのを聞きながら、鈴香はゆっくりとベッドに戻り、また深い溜息をついた。
12 つまらない女の子
「今日は鈴ちゃん、なんだかおネムって感じね」
カンパチさんはバイトに行った鈴香の顔を見るなりそう言った。「別に大丈夫だよ」と答えて仕事にとりかかろうとすると、掃除機を引きずってきた仁類が「きのう早く寝ない」と余計な口をはさんだ。
「うるさい!誰のせいだと思ってるのよ!」
鈴香はむしょうに腹が立って、手にしていたペーパーナプキンの束を勢いよくテーブルに放り出した。
「あら、鈴ちゃんてば、仁類ちゃんのせいで眠れずにいたわけ?恋の予感?」
「違います!いくらカンパチさんでも、そういう事言うと本気で怒るからね!」
「やだ、ごめんなさいね。年とると本当にデリカシーがなくなっちゃって、嫌よねえ。でも仁類ちゃん、鈴ちゃんは駄目でも私は大歓迎だからね」
仁類はそれには何も言わず、しゃがんで掃除機のコードを引っ張り出している。鈴香はカンパチさんに申し訳ない気持ちになった。ただの冗談なのにイライラして、やっぱり寝不足だからかな。
「そうそう鈴ちゃん、もうすぐ夏休みも終わるし、バイトもあと少しでしょ?オーナーの白塚さんが、一度ケーキでもご馳走したいって言ってるんだけど」
「え、そうなの?」
「公園の脇にあるホワイトムーンってカフェもね、彼が経営してるのよ。今日ちょっと早目に切り上げて、仁類ちゃんも一緒にどうですかって」
「でも白塚さんって社長さんでしょ?なんか緊張しちゃうからやだな」
だいたいそんな偉い人とケーキを食べて、何を話せばいいのか判らない。
「心配ないわよ。あっちが招待してるんだから、全てお任せしておけばいいの。暢子さんのお迎えの来る時間も、ちゃんと言ってあるから大丈夫よ」
公園脇のそのカフェは、いつも暢子さんが車を止める場所からそんなに離れていなかった。建物の一階がちょっと高級な感じのブティックで、外階段を上がった二階がカフェになっている。広々としたテラス席は公園に面していて、あちこちに鉢植えの観葉植物が涼しげに揺れている。中は天井が高くて、映画に出てくる外国のホテルみたいな感じだった。
入口で白塚さんと約束している事を告げると、可愛いメイド服のウェイトレスさんは鈴香と仁類を窓際の落ち着いたソファ席に案内してくれた。白塚さんの隣に座るわけにはいかないので、鈴香と仁類は並んで座る。それからようやく周囲を見回してみると、けっこうお客さんが入っていた。
近くの女子大の学生さんみたいな人。ショッピングバッグを沢山もった、お母さんぐらいの女の人。仕事中らしいスーツ姿の男の人たち。ウェイトレスさんが置いていったワインレッドのメニューを少しだけ覗いてみると、コーヒーの値段はいつも祐泉さんと行くジャスミンよりも高い。夜にはお酒も飲めるみたいだった。
仁類はあちこち匂いをかいでみたい様子だったけれど、それをやると鈴香に怒られるので大人しくしていた。鈴香もあんまりきょろきょろせずに、そっと横目で隣の席のカップルがどんなケーキを食べているのかチェックした。
「やあ、遅れてすみませんね」
その声にはっとして顔を上げると、スーツを着た男の人が立っていた。鈴香が慌てて立ち上がろうとすると、彼はそれを身振りで抑えて「今日は友達って感じでいきましょう」と、腰をおろした。
男の人、特にスーツを着た人の年齢となると、鈴香には本当によくわからない。それでも多分、白塚さんはお父さんより年上で、南斗おじさんよりは若くて、だからきっと四十代だと思えた。彼は「ケーキセットでいいかな?」と尋ねたけれど、それで悪いわけがない。鈴香が「はい」と答えてしばらくすると、ウェイトレスさんがケーキを盛り合わせた銀のトレーを運んできた。
「好きなのを選んで。二つでも三つでも、欲しいだけどうぞ」
夢みたいな白塚さんの言葉に、じゃあ二つ、と言えるわけもなく、鈴香はトッピングにルビーのようなラズベリーをのせたチョコレートケーキを選んだ。仁類、もちろん一つだけだよ、と心の中で注意したけれど、そんなの通じるわけもなく、彼は図々しくロールケーキとショートケーキとフルーツタルトを選んだ。白塚さんは「僕は残念ながら甘いものが駄目なんだよね」と笑って、コーヒーを注文した。鈴香はレモンティー、そして仁類は「水を飲む」と言った。
「鈴香ちゃんがマキオさんの娘さんだって、カンパチさんから聞いてね、びっくりしたよ」
ミルクも砂糖も入れないコーヒーを一口飲んで、白塚さんは笑った。親しみやすい笑顔だけれど、カンパチさんや南斗おじさんほど、あけすけじゃない感じがする。
「鈴香ちゃんも音楽は好きなの?」
「まあ、普通です」
「でもカンパチさんが、君の歌はいいってほめてたよ。あの人、ああ見えて辛口だから、珍しい事もあるもんだと思ったんだ」
「そんなことないです」
白塚さんの質問にあれこれ答えながら、鈴香は自分って本当につまらない女の子だなと思った。好きな学科も得意なスポーツも、ずっと続けてるお稽古事も何もない。友達もいなくて、毎日ぼんやり過ごすだけの子だ。
「で、こっちの仁類くんは、狸、なの?」
言われた仁類はロールケーキを一番に平らげ、今はショートケーキを手づかみで食べていた。
「お行儀が悪くてすみません」と鈴香が代わりに謝ると、白塚さんは「いや、本当に狸だとしたら、こうして人間みたいにケーキを食べているのはすごい事だよね」と、妙な感心の仕方をした。
「彼は誰かに化けているの?」
そう聞かれて、鈴香は「そうかもしれないです」としか言えなかった。当の仁類はたぶん白塚さんが怖いのだろう、彼の方はほとんど見ずにグラスの水を一口飲んで、「氷をいらない」と言った。
「もう、最初から言えばいいのに」鈴香は仕方ないなあ、と思いながら、ウェイトレスさんに氷なしのお水をお願いした。
「狸だから氷水は冷たすぎて苦手なんです」と白塚さんに説明すると、「ちゃんと面倒みてあげてるんだね」とまた感心された。
「見た目は大人のふりしてるけど、まだ一歳だからしょうがないです」
「そうか、鈴香ちゃんはお姉さんだからだね」
すると、取り替えてもらった水を飲んでいた仁類がいきなり「狸の一歳は大人」と訂正した。
「そういう余計な口出しするところが子供だと思う」とやり返すと、仁類は「子供が鈴ちゃん」とだけ言って、フルーツタルトを齧りはじめた。
「まあ二人とも、言い分はよく判ったから」と、白塚さんは笑った。そしてもう一度仁類の方を見ると、「この髪は鈴香ちゃんが染めてあげたの?」と尋ねた。
「いいえ、うちのお寺に来た時からこうだったらしいです」
「それからずっと染め直してないの?」
「そうですけど…」と答えながら、鈴香は急に胸がドキドキしてきた。白塚さんもやっぱり、祐泉さんと同じ事に気がついたみたいだ。お寺に現れて何か月もたつのに、仁類の髪が全然伸びなくて、ずっとオレンジのままだという事に。
でも白塚さんはそれ以上仁類の髪の話はせず、ポケットから携帯電話を取り出すと、「申し訳ないけど、ちょっと急ぎの用が入ったみたいだ」と顔をしかめた。
「鈴香ちゃんたちは、お迎えの人が来るまでここでゆっくりしていって。追加でオーダーしてくれても全然かまわないよ」
そして彼はすぐに立ち上がると「ごめんね。また機会があればご馳走するから」と、残念そうに言うと足早に去っていった。その姿を目で追うと、ウェイトレスさんたちがすごく緊張した様子でお辞儀をしているのが見えた。やっぱり社長さんだから、みんな一目おいてるんだ。
はっきり言って白塚さんがいない方が、のんびりできてずっといいな。こうなると判っていたらケーキを食べずに残しておいたのに、などと勝手なことを考えながら、鈴香は仁類の隣から、白塚さんが座っていた側へと席と移ることにした。
「意味もなく、くっついて座るの嫌だからね」と説明しても、仁類はぼやっとあくびをするだけで、この座り心地のいいソファでひと眠りしたい様子だ。
「寝たら放って帰るよ」と釘を刺しながら腰を浮かせたその時、さっきまで白塚さんの影になって見えなかった席に座っている人と、ふいに目が合った。
その人は部屋の中なのに黒い帽子を目深にかぶっていて、髪はどうやら後ろに束ねているらしい。黒い長袖シャツのボタンを喉元まで留めていて、小柄な男の人のようでもあれば、痩せた女の人のようにも見えた。腕組みをして、右手を軽く顎にそえて、何だかずっとこちらを見ていたような感じがする。その指にはとても大きな宝石を嵌め込んだ指輪が光っていた。
「やっぱりもう出ようか。暢子さんが来るまで公園で待ってよう」
急に不安になって、鈴香はそのまま席を立った。仁類は何も言わずについてくる。レジのところで「ごちそうさまでした」と挨拶すると、最初に案内してくれたウェイトレスさんに「白塚からです」と、小さな紙のバッグを渡された。
公園のベンチに腰を下ろし、バッグの中を覗いてみると、どうやらクッキーの詰め合わせが入ってるみたいだった。
「すごーい。やっぱり社長さんって感じ」
まだ中学生の自分と狸の仁類を相手に、まるで大人みたいに扱ってくれるなんて。いつも白塚さんの話をするたびに、カンパチさんがうっとりするのも判るような気がした。
「食べる?」と覗き込んでくる仁類の鼻先からクッキーを遠ざけて、「これは南斗おじさんたちのお土産」と鈴香は断固死守した。
病室のドアを軽くノックして、それからゆっくりとスライドさせると、鈴香は「こんにちは」と声をかけて顔を出した。洗面台で洗い物をしていた渚さんは振り向くと、「あら、鈴香ちゃん、来てくれたんだ」と笑顔を花開かせた。
「今日もおじさんのお見舞いなの?」
「ううん、おじさんはもう退院したから、今日は渚さんに会おうと思って」と、鈴香は木津朱音さんの病室に入った。
「そうなの?嬉しいわ。ねえ、リンゴジュースと紅茶とどっちがいい?」
「クッキー持ってきたから、紅茶にしていいですか?それとこれ、お見舞いに」
鈴香は手にしていた小さな花束を差し出した。
「わざわざ持ってきてくれたの?ありがとう!先に生けちゃうね」
「庭に咲いてたのを切っただけだけど」
正確には、湛石さんが庭に植えている花、だった。また墨をすってほしいと頼まれたので、代わりに少しだけ花を切らせてほしいとお願いしたら、「どうぞどうぞ、なんぼでも」と言ってもらえたのだ。色とりどりのダリアと、百日草と、民代おばさんが植えているローズマリーも、香りがいいので少し混ぜておいた。
「ほーら、いい匂いだね」と言いながら、渚さんはローズマリーの枝を眠っている朱音さんの顔に近づけた。
「ネットで見たんだけどね、こうやって眠ってるようでも、実際には意識があって、ただ話せないだけって事もあるらしいの」
「そうなんですか?」
「うん。でも耳だけはちゃんと聞こえてて、周りの事も全部わかってるって。それ読んでから私、彼の悪口言うのちょっと我慢するようになったわ。そして、できるだけ話しかけるようにしてるの」
彼女はそれから、ガラスの小さな花瓶に鈴香の持ってきた花を生けながら、「鈴香ちゃんもよければ声かけてあげて」と言った。
「え、えーっと」
いきなりそう言われても、何と声をかけていいか判らない。「あの…こんにちは」と、恐る恐る呼びかける。仁類にそっくりなその人は、何の反応もみせずに微かな寝息をたてるだけだった。
「彼はこう見えてけっこうシャイだからね。遊び人のくせに」と笑って、渚さんは花瓶を枕元に置き、それからポットのお湯で紅茶を入れてくれた。鈴香は手提げから、白塚さんに貰ったクッキーを取り出すと、サイドテーブルにのせる。
「あら、これ、ホワイトムーンのじゃない」
この前と同じように、ベッドで眠る朱音さんの足元に腰を下ろして、渚さんはクッキーを手にとった。
「知ってるんですか?」
「まあね。友達が働いてたりして」
「そうなんだ」
それってもしかしたら、この前のウェイトレスさんかな?そこまで考えて、鈴香はひやりとした。もしあのウェイトレスさんも朱音さんを知っていたら、当然、仁類が彼にそっくりな事に気づいていたはずだ。海釣り公園のお土産屋さんみたいに声をかけてこなかったのは、社長である白塚さんのお客だからって事で、遠慮していただけかもしれない。
やっぱりここに来ない方がよかった。
鈴香は急に部屋全体がぐるぐると回っているような気がして、肩で大きく息をした。あれからやっぱり渚さんと朱音さんの事が気になって仕方なくて、また来てしまったけれど、そのうちきっと何かがばれてしまうに違いない。そしたら一体どうしたらいいんだろう。
「なんだか唇が白いよ?寒い?ここちょっとエアコン効きすぎなのよね」
「いいえ、だ、大丈夫です」
「そう?とりあえず紅茶飲むといいわ」
渚さんは紙コップを二重にして、熱い紅茶を鈴香に手渡してくれた。それを少しずつ飲んでゆくと、回っていた部屋がだんだんとスピードを落とし、やがて静かに止まった。
「ねえ、今日は鈴香ちゃんのお話してよ。いま夏休みでしょ?毎日どんな風にしてるの?」
「うーん、別に」
ああ、まただ、と鈴香は自分にうんざりした。この前の白塚さんとの時もそうだったけど、誰かに何か聞かれても、本当につまんない人間だから、話すことが全然ないのだ。
「あの、私やっぱり、渚さんのことが聞きたいです」
「私?それこそ別に、だよ」
「でも例えば、この人とどんな所に遊びにいったとか」
「うーん、遊びに行くって言っても、水族館ぐらいかなあ。あそこは本当に何度も行ったわ。鈴香ちゃん行ったことある?」
「うん」
「なんかね、彼はお父さんによく連れてもらったらしくて、お気に入りの場所らしいの」
「そうなんですか」鈴香は小さく頷きながら、だから仁類は魚の名前を知ってるのかなあ、と考えていた。
「彼のお父さんって、彼が三年生の時に出て行ったんだって。それでお母さんはすぐに再婚したの。でも彼は新しいお父さんに好かれなかったのよね。それでもう中学の頃から家出ばっかりしててね、高校には進まずに、先輩のところに転がりこんでバイト生活。でもさ、彼は密かに俳優になりたいと思ってたのね。どうもテレビに出れば実のお父さんに見つけて貰えると期待してたみたい。それにまあまあ悪くない顔してるじゃない。背も高いし」と言って、渚さんは身体を思い切り傾けると、腕を伸ばして朱音さんの短い髪を撫でた。
「それで、一度は上京して劇団の研究生みたいなのになったらしいわ。でもまあ、世の中そんなに甘くなくて、いくらオーディション受けてもそんなに大した役は回ってこなくて、結局またこっちに戻ってきたの。私と知り合ったのはその頃なんだけどね。再びバイト生活に戻ってたんだけど、やっぱり夢をあきらめきれない、なんて事言ってさあ、私から借金して東京とこっちを行ったり来たり」
渚さんはちょっと口をとがらせ、少しだけ窓の向こうに視線を投げた。
「まあ、どうせそのうち諦めて帰ってくると思ってたら、ちょっと風向きが変わってきたの。なんとオーディションに通って、二時間ドラマの犯人役をもらったって言うのよ」
「すごい!」
「それがさ、ロックシンガーで、ツアーに行く先々で両親の仇を殺すって役柄なのよね。で、そのためにわざわざ髪をド派手なオレンジ色に染めちゃったのよ。本当にね、目が覚めるような色。メールで写真見てびっくりしちゃった」
「実際には見てないの?」
オレンジの髪の朱音さん。それはつまり今の仁類の姿だ。
「残念ながら見てないわ。あのね、彼からその話を聞いたときに、私はチャンスだ、と思ったの。今なら彼と別れられる、ってね。だって向こうはこれをきっかけにもっと有名になろうって前向きだし、私に別れ話を切り出されたら却って喜ぶだろうと思ったの。だから、話があるから撮影前にいちど帰ってきてってお願いしたの。そしたら運転中に山道で脳出血起こして、車ぶつけて。私が慌ててこの病院に来た時は集中治療室に入ってて、一週間ほどしてようやく会えたと思ったら、オレンジの髪なんかきれいさっぱり剃られちゃってたわ」
軽く肩をすくめてみせて、渚さんはクッキーを一つ齧った。
「だからね、彼をこんな目に遭わせたのって私なのよ」
「でも脳出血って、病気なんでしょ?」
「それはそうだけど、タイミングの問題もあるじゃない。かなりハードスケジュールで疲れてたのに、どうしても会いたいって言ったのは私だし、仮に東京で倒れてたとしたら、すぐに病院に運ばれたはずだから、こんなに悪い状態になってなかったと思うのよね。山道で車をぶつけたのは真夜中だったし、通りがかったトラックが救急車呼んでくれたのは随分後だったらしいわ。まだ三月で、すごく寒かったと思うのよ。ずっと一人で、潰れた車の中に取り残されて、少しは意識もあったんじゃないかしら」
もしかして、仁類はそこに現れたんだろうか。車のぶつかる音を聞きつけて、どうしちゃったのかと覗きに来て、それから…
そこまで考えて、鈴香は思わず身震いした。
「ほら、やっぱり寒いんじゃない?」
渚さんは立ち上がると、病室の窓を少しだけ開けて外の空気を入れると、軽く伸びをしながら戻ってきた。
「嫌ね私って。また大人のややこしい話をしてる」と言って、束ねていた髪をほどくと、もう一度まとめて、今度はベッドに座らずに軽くもたれた。
「鈴香ちゃんってさ、聞き上手だよね。友達にもそう言われない?」
「え?言われない…けど」
本当は友達がいないから、何も言われないだけだ。
「そうなの?なんか私さあ、鈴香ちゃんといると何でも話したくなっちゃうんだもの」
それは私に何にも面白い話がないから。鈴香はちょっとみじめな気分でクッキーを食べた。自分だって「ねえちょっと聞いてよ!」っていうほど、人を引きつける話をしてみたいけれど、本当になーんにもないのだ。
「あの…それで、ドラマはどうなったんですか?」
鈴香はちょっと話題を変えようと思って、気になっていた事をきいてみた。
「もちろんキャスト変更。はっきり言って、彼の代わりになる俳優なんて山ほどいるのよ。ちょうどこないだのお昼に再放送してて、せっかくだからここで彼と一緒に見ちゃった。おひとり探偵彩也子の事件簿・復讐のロックシンガーっての。けっこう面白かったわ」
「そうなんだ」
「でもやっぱり切ないよね。すごい色に髪を染めて、ジムで身体絞って、ギターなんかほとんど弾けなかったのを、友達に習って。それがみんな無駄になっちゃったんだから。せめて撮影がすんでから倒れてたらって思うの」
鈴香は何と言っていいかわからず、空になった紙コップを両手で弄んだ。その時、誰かが部屋のドアをノックした。続いて「木津さーん」という声とともにドアが少し開き、看護師さんが顔を出した。
「あら、その方は何人目の彼女?」
看護師さんは背が高くて肩幅も広くて、金色に近い髪をポニーテールにしていなければ、一瞬男の人かと見間違えそうにな感じだった。
「彼女は私のお友達。こんなチンピラとつきあうような安い女の子じゃないから」と渚さんがふざけると、看護師さんは「見りゃわかるわ」と豪快に笑った。そして「ねえ、身体拭こうかと思ったんだけど、後の方がいいかな」ときいた。鈴香は慌てて立ち上がると「私もう帰ります」と言った。
看護師さんがお湯を準備している間に、鈴香は帰り支度をした。渚さんはキャンディを三つ、「帰り道に食べてね」と鈴香に手渡し、「とても楽しかった。気が向いたらまた遊びに来て」と微笑んだ。
この前は全速力で駆け下りたバス停までの坂を、鈴香はゆっくりと歩いた。山の斜面のあちこちから蝉の声が降ってきて、渚さんがくれたミントのキャンディは口の中で甘く溶けてゆく。
きっともう渚さんに会わない方がいいに決まってるのに、気持ちはまた会いたい方に傾いている。渚さんはもちろん、眠り続けている朱音さんも、二人の存在は鈴香の心の中で持て余すほどに大きくなってゆく。その事が怖いのに、まるでこの坂を下りるのと同じように、勢いがついて勝手に進んでゆく。
鈴香は少し立ち止まって、深呼吸してみた。見上げた夏の午後の空は、叩けば音が響きそうに澄み切って、でも誰かがスポイトで一滴だけ秋をたらしたような色をしている。いま、仁類は何をしてるだろう。押し入れにいるのか、木陰にいるのか、それともあの病院で眠っているのか。
13 知らない間にできてた
峠の病院からお寺に戻って、鈴香は台所で冷たい麦茶を飲むと一息ついた。南斗おじさんは朝から出かけているし、民代おばさんは座敷で婦人会の人たちと夏祭りの打ち合わせ中だ。ひんやり涼しい廊下を抜けて部屋に戻ると、鈴香はベッドに横になった。山の方から聞こえてくる蝉の声は遠くなったり近くなったり。それを追いかけているうちに、何だか頭がぼんやりとしてきた。
「鈴ちゃーん、いる?」
かすかに聞こえる祐泉さんの声にはっと目を開くと、部屋はなんだか少し薄暗くなっていた。慌てて時計を確かめると、いつの間にかもう五時を回っている。鈴香は立ち上がると窓から身を乗り出した。
「あら、お昼寝してたの?」
縁側にいた祐泉さんは鈴香に気づくと、こちらを向いた。
「ちょっとドライブしない?友達を街に送って行くついでがあるの」
鈴香は大きく頷くと、「ちょっとだけ待ってて」とお願いして、冷たい水で顔を洗い、髪を直してから表に出た。祐泉さんは先に車に乗っていて、助手席にはお友達らしき人が座っているので、鈴香は後ろのドアをスライドさせて「お待たせしました」と乗り込んだ。
「じゃ、出発ね。こちら、友達の眞子」
そう紹介されて後ろを振り向いた顔を見て、鈴香は飛び上がりそうになった。
「初めまして・・・じゃないよね」と言ってにこりと笑ったのは、さっき朱音さんの病室に現れた看護師さんだった。
「あ、あの、どうも」
どう返事していいか判らず、鈴香は何だか泣きたい気持ちになってきた。
「ほら、あんたが怖いからびっくりしてるじゃない。鈴ちゃん、眞子は見た目ほど危なくないから安心してね」と、祐泉さんは笑いながら車のエンジンをかけてバックさせた。
「でも、あの、私、この人と会ったことあるの」
「判ってるよ。鈴ちゃん、また峠の病院に行ったんでしょ?まあ秘密は守ってくれてるから大丈夫だと思うけど、一応気をつけてね」
「ごめんなさい・・・」
その後に続く言葉が思いつかなくて、鈴香は黙ってしまった。
「別に謝らなくてもいいって。ただ私も面倒はできるだけ避けたいってだけ」
「何せレディース上がりだからね。この人、三回も警察につかまったことあるのよ」
「まあ全部一晩で帰ってきたけど。十八でちゃんと更生してさ、今じゃこんなヤクザ尼僧よりよっぽど品格があるし」
「ちょっと、眞子と比べられること自体ありえないから。あんた次つかまったら絶対刑務所行きよね」
呆気にとられる鈴香を置き去りにして、二人の喧嘩みたいなやりとりは続いた。気がつくと車はもう街まで来ていて、いつも行くショッピングセンターの近くで停まった。
「下手な運転だけど助かったわ。でも、カーブはもっと攻めろよな」
降り際に眞子さんがそう言うと、祐泉さんは「そこに警察あるから、顔隠して行きなさいよ」と答えた。なのに眞子さんは角を曲がる時に振り向くと手を振って、祐泉さんも軽くクラクションを鳴らすのだった。
「さて、大きな荷物は降ろしたし、ジャスミンでお茶して帰ろうか」
「よっ、お元気?」と声をかけてくる常連さんにちょっと挨拶して、祐泉さんは少し離れたテーブルを選んだ。
「今日は普通にコーヒーにしようかな。鈴ちゃんは?ホットケーキ食べる?」
鈴香は小さく首を振って、ライムソーダを選んだ。祐泉さんはオーダーを済ませると、「なんだかまだまだ暑いね」と椅子にもたれた。
「あの・・・さっきの、眞子さんの事・・・」ずっと黙っているのが辛くて、そう鈴香が切り出すと、祐泉さんは優しく笑ってくれた。
「眞子も私も、怒ってるわけじゃないのよ。ただ、彼女がさっき電話してきて、木津朱音さんの病室に、中学生ぐらいの女の子がいたけど、もしかして例の?って言ったのね。だからまあ、ついでだから会っちゃった方が早いかと思って」
「最初は本当に、誰にも見つからずに帰るつもりだったんだけど」
「わかってるわよ」
運ばれてきたコーヒーにクリームを入れてかき混ぜながら、祐泉さんは話を続けた。
「鈴ちゃん、朱音さんの彼女の、渚さんとやらと友達になっちゃったんだよね」
「友達だなんてそんな、仲良しじゃないと思う」
「どうして?眞子が言ってたよ。渚さんは鈴ちゃんが来てくれたのが、すごく嬉しかったみたいって」
「でも渚さんって、ずっと年上だもん」
「友達作るのに年なんて関係ないわよ。私だって鈴ちゃんの倍ぐらいの年なのに、友達じゃない」
「え?祐泉さんって私の友達なの?」
「違うのぉ?だったら私の片思い?それすごくショックだなあ」と、祐泉さんは随分大げさに落ち込んでみせた。
「でも私、中学生と大人って友達になれないと思ってた」
「だったら何だっていうのよ。まあいいや、私たち友達だからね。そして鈴ちゃんと渚さんも」
鈴香はそろりそろりとライムソーダを飲んだ。その冷たい液体が喉を通って身体に浸みてゆくみたいに、友達という言葉が胸に染み込んでゆく。学校じゃどうやって作ったらいいか判らなかった友達が、知らない間にできていたなんて、どういう事なんだろう。
「眞子も鬼みたいな女だけど、まあ仲良くしてやってよ」
「あの人、本当にレディースだったの?」
「そうよ。今度写真見せてもらうといいわ、死ぬほど笑えるから」
「祐泉さんはどうやって眞子さんと友達になったの?」
もしかして、祐泉さんも暴走族仲間だったとかだろうか。
「ま、趣味の仲間ってとこかな。ねえ鈴ちゃん、それよりその、朱音さんって人の事、もう少し何か判った?」
鈴香はそれで、朱音さんが俳優だった事、本当は二時間ドラマに出るはずだった事を話した。
「なるほどねえ。眞子の話だと、ずっと今の状態が続くようなら転院させられちゃうかもって」
「転院?他の病院に入るってこと?」
「そうね。はっきり言って、峠の病院でこれ以上できる治療はないらしいのよ。だからもっと別の、そういった患者さんに向いた病院か施設に移った方がお互いのためにいいのよね。でも渚さんは彼の家族じゃないから、何も決めることはできないし」
「けど、朱音さんの家族は全然来ないって」
「らしいわね」と呟いて、祐泉さんは頬杖をついた。
「でも保険金だけは沢山出てるらしいから、手続きだけして、ろくでもない病院に入院させて、はいさようなら、なんて事になっちゃうかもしれない。渚さんの事は無視してね」
「そんな…」
「もし彼が目を覚ましたとして、今の状態からだと何か月もリハビリが必要だろうし、すぐに俳優の仕事はできないでしょうね。それでも眠り続けてるよりはずっといいけど」
でも、朱音さんが目を覚ましたら、こんどは渚さんがさよならを言うのだ。そうすると彼は一人ぼっちになってしまう。だからといって、彼が眠っている限り、渚さんが付き添い続けるというのも何だかいい事ではない。
「鈴ちゃん、心配なのはわかるけど、あなたが朱音さんの事で色々と悩む必要はないんだからね。それは渚さんと朱音さんの問題なんだから」
まるで鈴香の心の中を見通したように、祐泉さんはきっぱりとそう言った。そしてテーブルに置いていた車のキーを手にとると「さ、戻るとするかな。あんまり長いこと遊んでると、いないのがばれちゃう」と笑った。
「鈴ちゃんも仁類ちゃんも、せっかく板についてきたのに寂しいわねえ」
カンパチさんはポテトサラダに使う茹でたじゃがいもをつぶしながらため息をついた。太陽館でのアルバイトも残すところあと一回、鈴香にしてみればそれは、夏休みが終わって学校が始まるという、面白くない現実だった。
「私、ずっとバイト続けたいけどなあ」
ゆで卵の殻をむきながら、鈴香はそう持ちかけてみた。
「さすがにそれは無理だもんね。また冬休みにでもお願いするわ」
「でも私、その頃にはまた転校してると思うよ」
「そっか、お母さんと東京に行くんだったわね。でも、時々は遊びに来てね」
「わかった。本当は仁類が一人でバイトに来れたらいいんだけど」
せっかく気に入ってもらってるのに、仁類は一人でバイトに来るのは嫌みたいで、「鈴ちゃんが行かないのは行かない」としか言わない。お金は全部自分が貰える、と聞いてもそれは変わらなかった。
「まあ一才だからしょうがないな」
鈴香はちょっと背伸びしてカウンターごしに、テーブルの下で昼寝をしている仁類を見た。
「でも、タクジさんももうすぐ戻って来れるんでしょ?」
「まあ、あと半月ほどの辛抱だけどね。そうだ、鈴ちゃん、白塚さんが帰りにちょっと事務所に寄ってほしいって」
「白塚さんが?どうして?」
「なんかさあ、九月の連休にやるイベントのお手伝いをしてほしいらしいわ。花束のプレゼンターとか、そんな事だと思うけど」
「え?私が?」
「大げさに考える事ないわよ。とりあえず話だけでもきいてみたら?今日の帰りはタクシーを呼ぶから、お迎えの人に連絡だけはしておいてってさ」
確かに、話を聞くだけなら別に構わないかもしれない。嫌なら断ればいいだけだ。あんまり目立つような大げさな事はしたくない、でもかっこいい白塚さんの世界を覗いてみたい気もして、鈴香はなんとなく行く気になっていた。
白塚さんの事務所は太陽館から五分ほど歩いたビルの六階にあった。入口で「株式会社ブランシュ」という会社の名前を確かめて、鈴香は少しドキドキしながらエレベータのボタンを押した。仁類は周囲を見回したり、落ち着きがないけれど、とりあえず黙ってついてくる。
エレベーターを降りると、目の前にいきなりガラスのドアがあって、その向こうはテレビで見るような、いわゆる「会社」という雰囲気の場所だった。デスクが並んでいて、パソコンが何台かあって、女の人が俯いて書類を書いていて、スーツ姿の男の人が電話で真剣に話をしている。
いきなりここに入っていくのは嫌だなあ、と思っていると、もう一台のエレベーターが止まって、降りてきたパンツスーツの女の人が「何かご用ですか?」と声をかけてくれた。
「私、小梶鈴香と言いますが、白塚さんはおられますか?」
カンパチさんから教えてもらった台詞を一生懸命に思い出して、鈴香はできるだけはっきりとそう言った。女の人は目を丸くして、「少し待っていてね」と言うと、事務所に入って別の女の人に声をかけた。その人がまた電話をしたりして、鈴香と仁類はしばらく廊下で待たされた。
「やっぱり帰ろうか」
鈴香は思わずそう仁類に話しかけたけれど、彼はエレベーターが何階にいるかを示す明かりが動くのをぼーっと見つめていた。
「お待たせしました」
女の人は戻ってくると、さっきより何だか丁寧な感じで鈴香に話しかけた。
「白塚はちょっと急用ができて、別の場所にいますので、そちらにご案内します」
そして彼女はエレベーターを呼ぶと、鈴香と仁類を連れて一階に降りた。そして「今駐車場から車を回してきますので、待っていてくださいね」と出ていった。五分もしない内に、ビルの前に白い乗用車が停まり、さっきの女の人が降りてきて二人を後ろの座席に乗せた。
一体どこに行くんだろう。不安に思いながら窓の外を見ていると、車はどんどん知らない方へ進んでいった。何度も角を曲がったけれど、案外近くかもしれないし、隣町あたりまで来てしまったかもしれない。
やがて車はちょっとすすけたビルの立ち並ぶ場所で停まった。外はそろそろ夕暮れが近づいている。そのせいか、辺りにはけっこう人通りがあったけれど、行き交う人々は太陽館の近所を歩いている人より、心なしか厳しい顔つきをしているように思えた。
道幅は狭くて、自転車が何台も停まっていたり、いわゆるスナックという感じの店がいくつもあったり、更に細い路地の奥の方にもぎらぎらと看板が光っていたり、今までに来たことのない雰囲気の場所だ。
女の人は鈴香たちを連れて、何だか古い感じのビルに入った。正面に一台だけあるエレベーターには乗らず、薄暗い廊下をまっすぐ行くと階段があって、そこから上がるのかと思っていたら地下に降りるのだった。
「ごめんなさいね、こんな場所まで来てもらって」と、女の人は謝ってくれたけれど、鈴香はとても不安になってきた。
地下に降りると、廊下ではネクタイを緩めた男の人が一人、段ボールの箱を覗いて何やらチェックしていた。その大きな箱はいくつも積んであって、鈴香たちの通り道も塞いでいる。彼は「あ、すいませんね」と言いながら、見た目よりもずっと軽いらしい箱をせっせとどけてくれた。
そこを抜けると左側にドアがあって、そこがどうやら地下で唯一の部屋らしい。どうぞ、と通された場所には応接セットが置かれていて、その向こうは衝立で区切られ、明かりもついていなかったけれど、廊下にあったような箱がたくさん積まれているように見えた。
女の人に「しばらくお待ちくださいね」と言われて、鈴香は仕方なく少し傾いたソファに腰を下ろした。仁類は黙って周囲をぐるりと見回してから、鈴香の隣に座ってあくびをした。蛍光灯の明かりは妙に白々しくて、しかも二本あるうちの一本が時々思い出したように暗くなり、やがてぱちん、と弾けるように元にもどるのが嫌な感じだった。
もう黙って帰ってしまおうかな、と考え始めた頃にドアをノックする音がして、お母さんより少し年上ぐらいの女の人が入ってきた。花柄のブラウスと紺のベストにタイトスカート姿で、どうやらこのビルで働いている人らしい。
彼女は「もうすぐ来ますからね」と言いながら、グラスに入ったオレンジジュースを出してくれた。
なんだか緊張して喉がからからだったので、彼女が出ていくなり鈴香はグラスに手を伸ばした。ところが仁類がその手を押さえて「飲むとだめ」と言った。
「な、なんで?」
反射的に手を引っ込めて、鈴香はいつになく強引な仁類の方を見た。気のせいか髪が逆立ってるように見えるけど。しかし彼が答える前に再びドアがノックされ、それからゆっくりと開いた。
入ってきたのは白塚さんではなかった。何となくそれは判っていたように感じて、鈴香は身を固くしてそちらを見たけれど、思わず声を上げそうになった。
14 わからないけどわかる
「どうも、初めまして」
それはこの前、ホワイトムーンでじっと鈴香たちを見ていた、黒い服の不思議な人だった。今日は帽子をかぶっていないので顔がはっきり見えたけれど、やっぱり男とも女ともつかない。男にしては何だか優しそうで、女にしては険しすぎる顔立ち。年も若いんだかそうでないのか判らない。ただ、その目は人並み外れて鋭く光っていて、この人がどんな格好をしようと、その目で誰だかわかってしまうほど印象的だ。
この前はよく見えなかったけれど、髪は背中のあたりまであって、組紐のようなもので一つに縛られていた。そして今日もまた黒い長袖のシャツに、膝下から斜めにカットされた黒いスカート、その下に黒い細身のパンツにブーツを合わせている。はっきりいって夏という季節を完全に無視したファッションだった。
「白塚さんじゃなくて悪かったわね。私、こういう者です」と言って、その人は白いカードを差し出した。鈴香はそれをおずおずと受取り、名前を確かめた。
「ヤクノ、ゲンランって読むのよ」
鈴香の視線が「夜久野玄蘭」という文字をたどったのとほぼ同じタイミングで、その人の声が被さった。
「私が男か女か、考えても無駄な事。その人に見えるようにしか見えないんだから」
夜久野さんはそう言って二人の前に腰を下ろし、胸のポケットから煙草を出しかけて、少し考えてから戻した。その指は白く、爪はどれも細く長く尖っている。
「あなた、鈴香さん」
「は、はい」と、鈴香は慌てて返事した。
「私のこと不気味だと思うでしょ?いいのよ、誰だってそう思うし、自分でもそう思うもの。だから、一分でも早くさよならしたいなら、私の話をちゃんと聞いて、さっさと決めなさい」
余りの強引さに、鈴香は何も言えずに頷くだけだった。夜久野さんはそれをじろりと見て、それからいきなり仁類を指さした。
「そこの狸。そいつを譲っていただきたい」
「ゆ、譲る?」
「そうよ。鈴香さんは学校が嫌いだから、よく判らないかしら。譲るっていうのは、売るって言葉とほぼ同じ」
「売る?」
何が何だかよく判らない鈴香に、夜久野さんは明らかに苛立っているみたいで「あなたね、人間と動物の違いって何か判るかしら?」と尋ねた。
「え?言葉をしゃべるとか?」
「残念。そこの狸はおしゃべりするけど人間じゃない。今の日本の法律じゃね、動物ってのは物と同じ。お金で売り買いできるのよ。そして動物を殺したところで、殺人罪なんて適用されない。器物損壊にしかならないの」
そこまで一気に言うと、夜久野さんは腕組みをして、妙に優しい声で「ジュース飲まないの?」と尋ねた。
「喉乾いてないので」と答える声がかすれてしまって、鈴香はもう泣きそうな気分だった。しかし夜久野さんは大して気にもかけない様子で、「だからね、その狸、売っていただけない?」と本題に戻った。
「でも、仁類は買ってきたんじゃないから、売れないです」
「あなたやっぱり勉強苦手よね?」と、夜久野さんは大げさに呆れてみせた。
「いい?漁師さんってのは海で魚を獲って、それを売るのが仕事。魚を買ってきてからまた売ってるんじゃないの。そこの狸も山から獲ったんだから、売っても構わないのよ」
「でも獲ったんじゃなくて、自分から来たんです」
「いいの。トビウオが船に飛び込んできたら、漁師さんは獲物としてカウントするんだから」
「でも、私が飼ってるわけでもないし」
「いいの。あなたに一番なついてるから、あなたの飼い狸なのよ、こいつは」
夜久野さんにこいつ、と呼ばれても、仁類は平然とした顔で座っていた。鈴香は不思議に冷静な気分で、狸だから傷つかなくてよかったなあ、と思った。自分のこと売るとか買うとか言われたら、普通すごくショックに違いないのに。でもよく見るとやっぱりうなじの辺りの髪が逆立っていて、それなりにムカついてるのかもしれない。
「誰も知らないと思ってるだろうけど、その狸が木津朱音の魂を盗んで、彼のふりしてるの、こっちはちゃんと調べがついてるんだからね」
鈴香はいきなり自分も疑っていた事を指摘されて、思わずびくりと震えてしまった。夜久野さんはかすかに笑うと、胸のポケットからまた煙草を取り出した。見たこともない紫のパッケージに入っていて、あと二、三本しか残っていない。
「その狸がいつまでもだらだらと人間のふりして遊んでると、木津朱音はずっと目を覚まさない。そのおかげで迷惑してる人間もいるのよ」
「や、夜久野さんって木津さんの何なんですか?」
「何なんですか?」
夜久野さんは取り出した煙草をまたポケットに戻すと、いきなり大声になった。
「あなたね、人の事を尋ねるのに、何なんですかって、物みたいに言うんじゃないわよ。せめてどういうご関係とか言えないの?」
「すみません」と小声で謝って、鈴香はなんでこんな質問しちゃったんだろうと後悔した。
「私はね、あんなチンピラがどうなろうと別にどうでもいい。けどまあ白塚さんに頼まれた事は断れないのよ」
「白塚さん?」
「いちいちうるさいわね、あなた。つべこべ言わずにさっさと決めたらどうなの?」
夜久野さんは面倒くさそうに溜息をつくと、立ち上がってサイドテーブルに置いてあったプラスチックの灰皿を手にした。そしてまた腰を下ろし、音をたてて灰皿を置き、もう一度煙草を取り出して今度は一本くわえると、腰のポケットから銀のライターを取り出した。鈴香は勇気を振り絞って「仁類は売れません」とはっきり言った。
カチリと灯ったライターの炎越しに、夜久野さんは鈴香を睨んだ。
「そう?売れないの」と諭すように言って煙草に火をつけ、ゆっくりと吸い込む。目を閉じてほんの少し笑うように口の両端を持ち上げて、それからかるく横を向いて、口笛でも吹くように長く長く煙を吐き出した。
「全く仕方ないわね。本当に面倒くさい」
夜久野さんはまだ長い煙草を乱暴に揉み消し、背中に手を回した。そしてもう一度出てきたその手には、映画で見るような黒い拳銃が握られていた。
「う、うそ、ちょっと待って」
ゆっくりと仁類に向けられた銃口を目にして、鈴香はとにかく何とか防がなければと焦った。なのに狙われている仁類は平気な様子で座っている。もう、本当に何もわかってない!鈴香は立ち上がり、夜久野さんと仁類の間に割り込もうとした。
次の瞬間、耳をつんざくような音がして、仁類の足につまづいた鈴香は床に転がってしまった。慌てて起き上がってみると、さっきまで鈴香が座っていた場所に仁類が倒れこんでいた。
「仁類?仁類ってば!」
大声で呼んでみても、揺さぶってみても、仁類は目を閉じてぐったりしたままで、何の反応もない。その姿が病院のベッドにいる朱音さんに重なって、鈴香はどうしていいか判らなくなった。
「ギャーギャー騒ぐんじゃない。よく見てごらんなさいよ」
夜久野さんは鬱陶しそうにそう言うと、テーブルの上に銃を置いた。鈴香は慌ててもう一度仁類を見てみた。確かに動かないけれど、どこにも怪我はしていないみたいだ。
「あなた、狸寝入りって言葉も知らないの?こいつらは呆れるほど臆病だから、空砲で十分」
「空砲?」
「運動会で鳴らすピストルみたいなものよ。あれのもっと本格的な奴。それだけでもう気絶するんだから、情けないわよねえ」
そう言われて、仁類の鼻先に指をそっと近づけてみると、ゆっくりだけれど息をしている。急にほっとして、鈴香は床にへたり込んでしまった。
「まあとにかく、眠ってくれてよかったわ。私本当に、狸がそこにいるだけで、どうにかなるほど嫌いなの。それに何より、あなたの強情さが五割増しだものね。これで少しは落ち着いて話ができるわ。地べたなんかに座ってないで、ソファにおかけになれば?」
夜久野さんはさっきよりもずっと穏やかな口調になって、新しい煙草に火をつけた。鈴香はそろそろと移動すると、気絶している仁類をよけて、ソファの一番端っこに腰を下ろした。
「本題に戻りますけど、何も私はこの狸を千円やそこらの安い値段で買おうってわけじゃないのよ。差し上げるのは別にお金そのものじゃなくてもいい。ねえ、例えばお母さんにエステサロンを一軒オープンしてあげるとか、お父さんにいいプロデューサー紹介してあげるとか、そういうのでもいいのよ。また三人一緒に住めるように、広いマンションだって用意してあげるわ。今の学校が嫌なら、私立の女子校に入れてあげる。どう?」
夜久野さんが煙草の煙と一緒に吐き出したその言葉は、鈴香の心に深く突き刺さった。
「どうして判るの?って顔してるわね。私はね、この位の事は簡単に知ることができるの。これだけいい条件出してあげてるんだから、はい、って言いなさいよ」
それでも鈴香は首を横に振っていた。
「んもう、大体あなたね、自分が狸憑きだって自覚してないでしょ?」
「たぬきつき?」
「そうよ。たしかにこいつは元々狸だけれど、今は木津朱音の魂を手に入れて、人間のふりを続けている。それはもうただの狸じゃなくて、魔物よ。あなたはそれに取り憑かれているの。だから学校の皆も変な子だと思って友達になってくれないし、あなたは穴にもぐった狸みたいに保健室に隠れてばっかり。ね?私に任せてくれれば、ちゃんと木津朱音の魂を取り出して、狸は処分するから」
自分の一番触れられたくない事をずばずばと指摘されて、鈴香は胃がねじれたような感じがした。本当にそうなんだろうか。でも、祐泉さんは鈴香と友達だと言ってくれたはずだ。変な子だなんて言われていない。鈴香は歯を食いしばって、納得いかない事を質問した。
「処分するってどういう事ですか?」
「判らない?やっぱりあなた勉強苦手よね。つまり殺しちゃうってことよ。そうすれば狸の身体から魂が離れるから、木津朱音の分だけを捕まえるわけ。まあ、しばらく飼ってたから情が移るのはわかるけど、安心して。いい獣医さん知ってるから、お薬で苦しくないように死なせてあげる。必要なら毛皮ぐらいは差し上げるから、記念にクッションでも作るといいわね。それとも和尚さんに筆でも作ってあげる?」
もう言葉も出なくて、鈴香は激しく首を横に振った。夜久野さんは呆れたように眉を片方だけ吊り上げて、また深く煙草を吸う。
「言っておくけどね、この狸は放っておいてもそのうち死ぬわよ。そもそも狸なんて本当に安っぽい生き物だから、人間みたいな高級なものに化けるのってすごくエネルギーを使うのよ。だからいつも食べるか寝てるかしかしてないでしょ?」
言われてみればその通りで、鈴香は思わず頷いてしまった。
「それでも所詮は長続きするわけがないし、きっと寒くなる頃には寿命が尽きるわね。嫌じゃない?なんか匂うなと思ったら、縁の下で狸が死んでたりしたら。腐った狸なんて、保健所でもきっと引き取ってくれないわよ」
そんな想像は絶対にしたくなくて、鈴香は唇をかんで少しだけ夜久野さんを睨んだ。
「あなたね、人の迷惑も考えなさいよ。木津朱音がいつまでも眠ってると、白塚さんが困るの。あの人の経営するお店で世話になっといて、わがまま言うんじゃないわよ」
「で、でもどうして白塚さんが困るんですか?」
「うるさいわね。だから子供と話するのって嫌いなの。どうして?なんで?どうして?の繰り返し。まあそれでも馬鹿な大人よりましだけど」
そして夜久野さんは雲のように煙を吐き出すと、「渚さんのことは知ってるわよね?」と尋ねた。
「彼女はいま、白塚さんが経営してるお店で雇われてるんだけど、まあ、彼のお気に入りになったわけ。彼としては結婚したいのに、渚さんは木津朱音が眠ってる間は別れないって言ってるし」
「でもどうしてそれが夜久野さんに関係あるんですか?」
夜久野さんは鈴香の「どうして」に、露骨に顔をしかめてみせた。
「あのね、白塚さんの一族がこれだけ事業がうまくいって栄えてるのは、うちの一族がずっとそれを支えてるからなの。これはもう大昔からそうなのよ。私たちはとっくの昔に世の中から失われてしまった、色んな秘密を伝えてきたからね。ただし残念な事に、うちの一族はとにかく怠け者で、全てが面倒くさい。本音を言えば生きてるのも面倒なくらいだけど、死ぬのはもっと面倒だから我慢してるだけ。学校もほとんど行かないし、大人になっても働かない。それをちゃんと生活できるように、白塚さんちが住むところから何から全部世話してくれてるの。だからその見返りに、うちの一族では一人だけ、白塚さんのために何でもしてあげる便利屋を提供するのよ。運悪く今は私がその役に当たってるってわけ」
「便利屋さんって、換気扇の掃除したり…」
「違います!」
夜久野さんは勢いよく煙草をもみ消し、胸のポケットから空になったパッケージを取り出すと、それをねじって灰皿に投げ込んだ。
「たとえばどこに新しい店を出せばいいとか、誰と組んで仕事をすればうまくいくとか、そんな事を知らせてあげるわけ。誰と結婚すべきかも、本当は判るんだけど、聞かれる前に結婚を決めちゃったからね。もちろんこれは前の奥さんの話よ。すぐに離婚しちゃったけど、あなたと同い年の娘さんがいるんだから。
ついでに言うとね、白塚さんのお嬢さんはあなたと比べ物にならない素敵な生活をしてるわ。お母さまと、おじいちゃまとおばあちゃまと、広々とした一戸建てに住んでて、小学校から私立に通ってる。バレエが上手で、発表会ではいつも主役よ。そしてペットはボルゾイ。知ってる?ロシアの貴族が飼ってた犬よ。彼女がその犬を連れて散歩に出ると、まるでドラマのワンシーン、みんなうっとりして振り返るわ。あなたがオレンジの髪の狸と歩いてると、みんな呆れて振り返るけどね」
さすがにそこまで言われると、鈴香も何だか腹が立った。
「じゃあ、白塚さんが渚さんと結婚するのは大丈夫なんですか?」
「それがね、信じられないほど抜群の相性なのよね。私は面倒くさいから結婚なんかしないけど、ちょっとうらやましくなるわ。渚さんが一緒なら新しい運が開けて、白塚さんの事業はもっとうまく行く。それはつまり、うちの一族もいい条件で養ってもらえるって事。だから判った?あなたにこの狸を譲ってもらえないと、みんなが迷惑するの」
「でも、もしかして、朱音さんが目を覚ましたら、渚さんはやっぱり朱音さんと結婚するかもしれないでしょ?」
「それはそれ、ちゃんと手は考えてある」
夜久野さんは頬に指を副えてしばらく黙っていたけれど、はっと顔を上げた。
「そんな事はあなたが首をつっこまなくていいのよ。問題はこの狸。和尚さんやおじさんにどう説明するかなんて心配する必要ないわよ。その辺はこっちでうまくやるから。とにかくあなたがOKするだけ。そしたら何だってうまくいく。学校に行けば、皆があなたの友達になりたいって寄ってくるし、お母さんはすぐに帰ってくるし、お父さんともちゃんと仲直りするわよ」
「でも、仁類が死なずに魂を返す事はできないんですか?」
「だって狸にその気がないんだから仕方ないじゃない。それにね、預かってる魂をうっかり手放すと、そのまま天に還ってしまう。そうしたら木津朱音は死んでしまうわ。だからって別に可哀相でも何でもないけど、白塚さんが許してくれない。狸から取り出した魂を運べるのは私だけなのよ。だからわかった?私にその狸を譲るしかないって事」
そこまで言われて、鈴香は何だか自分が間違っているような気分がしてきた。まるで朱音さんと同じように、ぐったりと眠っている仁類。このまま彼が死んで、朱音さんが目を覚まして、渚さんとお別れして、本当にその方がいいんだろうか。
混乱した気持ちのまま、鈴香は仁類の手をとってみた。ちゃんと暖かい。やっぱり生きている。そう思った瞬間、ほんのわずかだけれど握り返してくる感触があって、鈴香は彼が本当はもう目を覚ましていることに気づいた。
仁類、お願い、一緒にここから逃げよう!
心の中でそう叫んで彼の腕を引っ張ると、仁類はいきなり跳ね起きて駆け出した。ドアを開け、鈴香を先に通してから後ろ手に閉めると、中から夜久野さんが「このバカ狸!」と怒鳴っている。
「ドア押さえてて!」と仁類に命令すると、鈴香は廊下に積まれていた段ボールを次々と引きずり落とした。それを壁とドアの間に詰め込んで、つっかえ棒の代わりにする。残念ながらぴったりというわけにいかなくて、ほんの少しだけ隙間ができたけれど、それでも時間稼ぎにはなる。鈴香は仁類に「行こう!」と声をかけて廊下を走り、階段を駆け上った。後ろでは夜久野さんが力任せにドアを開けようと、体当たりを繰り返しながら「ああもう面倒くさい!」と叫んでいた。
ところがビルの外に出た途端、鈴香はどちらへ逃げていいか判らなくて立ちすくんだ。辺りはすっかり暗くなっていて、知らない街の風景が二人を押し潰すように迫ってくる。
「こっち」
いきなりそれだけ言うと、仁類は鈴香の手を引いて駆け出した。行き交う人をすり抜け、乱雑に停められた自転車をよけ、重そうな台車を押すおじさんをかわし、角を曲がり、路地を抜け、また走る。
やがて仁類は工事中の建物の前に来ると立ち止まり、張り巡らされた青いシートの内側に鈴香を押し込んだ。街灯の明かりにぼんやりと照らされた仁類のオレンジの髪は、まるで寝癖がついたみたいに逆立っている。
「ここをじっとする」
彼は鈴香をもっと奥まで押し込むと、自分はシートの隙間から外の様子をうかがった。鈴香はその時になってようやく、全身から汗が流れるのを感じた。乱れた息は火のように熱いし、足はがくがくするけれど、それでもまだ安心はできない。声を出すのも怖くて静かにしていると、救急車のサイレンや、クラクションや、バイクの音が浮かんでは遠ざかってゆく。
どのくらいそうしていただろう、気がつくと仁類の逆立っていた髪は落ち着いて、彼は鈴香の方を向くと「外を出る」と言った。
「でも、大丈夫なの?」
「こっちに逃げて、匂いのわからない」
どうやら仁類は、風上に逃げたと言いたいらしかった。夜久野さんは犬じゃないよ、と鈴香は思ったけれど、犬を使って二人を追いかけている可能性もなくはない。
「あの人から逃げるには、湛石さんに匿ってもらうのが一番だよ。今はとにかくお寺に帰らなきゃ」
かなりぼけてはいるけれど、湛石さんが偉いお坊さんである事に変わりはない。いくら夜久野さんでも、湛石さんにはそう簡単に手を出せないだろうと思えた。
工事現場の外に出て辺りの様子をうかがうと、近くにはお店や背の低いビルなんかが立ち並んでいる。しかしどこもシャッターを下ろしていて、車が二、三台路上駐車しているのを除けば、暗い道路には誰もいない。ずっと向こうを野良猫が一匹、影のように道を横切っていったのが、唯一の動くものだった。
「ねえ、ここどこ?」
急に不安になって、鈴香は仁類に尋ねたけれど、頭の片隅で予想していたとおり、「知らない」という答えが返ってきた。
「どこか知らなかったら帰れないじゃない!タクシーだって走ってないし、どうすればいいの?仁類がここに連れてきたんだよ?」
それに多分、タクシーを拾えたところで、その情報は夜久野さんに筒抜けのような気がした。あの人はきっと、この街で起こることを何だって知っているに違いない。もしかしたら警察にも嘘の情報を流して、鈴香たちを追っているかもしれない。
そこまで考えると鈴香の不安はどんどん膨れ上がってきた。さっきまで張りつめていた気持ちが急に緩んだせいか、足の力が抜けて、思わずしゃがみこむ。それと同時に喉が苦しくなって、気がつくと鈴香はしゃくりあげて泣いていた。
「もうやだよ、こんな怖いのもうやだ。早く帰りたい」
中二にもなって小さな子供みたいに泣くのはみっともない。それは判っているのに、自分でも止めることができなくて、鈴香は泣き続けた。仁類はすぐそばにしゃがんで鈴香の顔を覗き込んだけれど、前に涙を舐めてぶっとばされたのは憶えているらしくて、じっとしていた。
「お寺は帰れる」
彼はしゃがんだまま、膝に顎をのせてそう言った。狙われてるのは自分の命なのに、まるで他人事みたいに平然としている。それを見ていると、鈴香は少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
「でも、道わかんないじゃない」
「わかる」
「ここどこなの?」
「わからない」
ふざけてるのかと思って腹が立ったけれど、鈴香はまずリュックからバッグからティッシュを取り出して鼻をかんだ。
「もう、どっちなのよ!」
「ここのどこか知らないでも、帰る道にわかる」と答えて、仁類は立ち上がった。見上げた夜空にはまん丸な月が浮かんでいた。
15 仁類の押し入れ
もうどの位歩いただろう。四車線の県道に時たま出ている地名は、この街に馴染のない鈴香には何の意味もなくて、本当にこの方向でいいのかどうかも判らない。なのに仁類は分かれ道にくるたびに、迷う事なく「こっち」と先に進んでゆくのだった。
いま二人が歩いている歩道の右手は雑草の生えた空き地で、道路をはさんだ向こう側には川が流れている。もうあまり車も通らず、バスなんか一台も見かけない。たまにトラックが追い越して行くだけで、エンジンの音が通り過ぎると、草むらの虫たちがそれに負けまいとして、いっそう賑やかに鳴くように思える。
やがて道路は川と交差して、二人は橋を渡った。その辺りから少し周りの様子が変わって、暗闇の中にぽつりぽつりと、お店らしい明かりが見えてきた。
「何だろう、ラーメン屋さんかな」
鈴香は何だかその明かりがとても懐かしくて、ほっとした気分になった。近づいてゆくとそれはお弁当屋さんだった。駐車場には黒いワンボックスカーが停まっていて、店の中にはちょっと怖そうな男の人が三人いた。唐揚げのような匂いが外まで漂って、それをかいだ途端にお腹がきゅっと空いてきた。どうやら仁類も同じみたいで、立ち止まって店の中を見ている。
「ここは駄目だよ」
鈴香は慌てて仁類の背中を押した。あの人たちが夜久野さんと無関係という保証はどこにもない。そう考えると、その向こうにあるラーメン屋さんも、そのまた向こうにある牛丼屋さんも、全部危ない感じがした。中で食事をしている間に夜久野さんに連絡されたら大変だ。それに第一、鈴香の財布にはあんまりお金が残っていない。
お店の前に来るたびに立ち止まる仁類を押し続けて、鈴香はようやく小さなコンビニを発見した。駐車場には軽自動車が二台と、原付が何台か停まっていて、中には立ち読みしている男の人が何人かいた。店からさす明かりで、鈴香は財布の中身を確認した。
「おにぎりか何か買ってくるから、待ってて」
とにかくオレンジの髪が目立つ仁類は隠れている方がいいと思って、鈴香は一人で店に入った。防犯カメラに映らないように、なるべくうつむいて、大急ぎで棚に残っていた梅干しと鰹と鮭のおにぎりをバスケットに入れる。夜道を歩き出してすぐに自動販売機でスポーツドリンクを買って飲んだので、そんなに喉は乾いていなかったけれど、念のためにまた一本とって、仁類には水を買う。それからメロンパンも一つ追加した。
そしてうつむいたまま、店員さんの顔も見ずに急いでお金を払い、鈴香は駐車場の脇で待っていた仁類のところに走って戻った。
「はい、急いで食べちゃって!」
鈴香は自分が食べる分の梅干しおにぎりとスポーツドリンクをとると、後は袋ごと仁類に渡した。ところが彼はそれをまた鈴香に差し出す。
「鈴ちゃんが全部の食べる」
「何言ってんの、いつもこれくらい平気で食べてるのに」
「仁類はあっちに食べる」
そう言って彼が指さしたのは、コンビニのごみ箱だった。
「ごみなんかあさっちゃ駄目!」
鈴香は慌ててまた袋を仁類に押し返すと、「とにかく急いで食べなよ」と自分の梅干しおにぎりを食べ始めた。仁類が少し困ったような顔になったので、鈴香は彼が不器用でおにぎりのフィルムをはがせないことに気づいた。
「ちょっとこれ持ってて」
ごみ箱をあさるのも平気そうな仁類に、自分のおにぎりを預かってもらうのも少し微妙なんだけれど、手がかかるんだから仕方ない。急いで彼のおにぎりのフィルムをはがすと、「はい」と手渡して自分のと交換する。そうなると仁類が食べる速度はやっぱり半端じゃない。鈴香が一口二口と食べるうちに二つ平らげて、それから水を少し飲み、メロンパンを取り出すとこんどは自分で袋を開けて、また「食べる」と差し出してきた。
正直いって鈴香も、おにぎり一つではやっぱり物足りなくて、「じゃあ半分」と答えた。でも仁類に任せたらパンがとんでもない事になりそうなので、自分が食べる分だけちぎらせてもらった。
お腹に食べ物が入ると、ずいぶん気持ちが落ち着いた。スポーツドリンクは半分以上残しておいてリュックに入れ、鈴香は「行こうか」と声をかけた。仁類は水も全部飲んでしまったけれど、雨水を平気で飲めるんだから、別にとっておく必要もないんだろう。そうなると狸の方がずっと楽かもしれない。
二人はそしてまた、夜道を歩き始めた。今までは本当にお寺に向かっているのか半信半疑だったけれど、道はどんどん山手の住宅地に入っていって、それはすなわちお寺のある山に向かっている事に思えた。
「仁類はどうして道がわかるの?」と尋ねても「わかるから」という答えしか返ってこない。その位当たり前の感じで、彼は月明かりの下を歩いてゆく。前に見たテレビの感動大特集で、旅行先で迷子になった犬が一人で家に帰ってきた、というアメリカの話を紹介していたけれど、南斗おじさんによれば狸も犬の仲間だし、少しはそういう事ができるのかもしれない。
一戸建ての小さな家が立ち並ぶ細い道を歩いてゆくと、どの家の窓にも明かりが灯っていた。時にはテレビの音が聞こえて、時にはお風呂でシャワーを使う音が聞こえた。そしてまた別の家からは、子供たちのはしゃぐ声が聞こえたりした。みんな家族一緒で、安心してくつろいでるのに、自分はどうしてこんな事になってるんだろう。鈴香は今頃になって初めて、とても寂しい気分になった。
正体不明の変な人に命を狙われてる狸と、それを助けなくてはならない自分。目の前の家のリビングで、テレビを見ながら大声で笑ってる子供が自分ならどんなにいいだろう。そして鈴香は夜久野さんが言っていた、白塚さんの娘さんの事を考えた。同い年で、大きな一軒家に住んでいて、私立の中学に通ってて、バレエが上手。彼女は今頃何をしてるだろう。テレビなんか見ないで、勉強してるんだろうか。それともペットのボルゾイと遊んでるんだろうか。
「鈴ちゃん」
気がつくと、仁類はずいぶんと先の方で待っていて、鈴香は慌てて走って追いついた。
「ちょっとの休む」
「考え事してたから遅れただけ」と説明しても、彼は歩き出さなかった。そしてしばらく考えて「仁類の背中を乗る」と言った。
「え?おんぶするって事?いらないってば!」
小さい子供じゃあるまいし。鈴香は馬鹿にされたようでちょっと腹が立って、先に立つとどんどん歩き出した。するといきなり脇の方から凄い勢いで犬が吠えかかってきて、思わず後ずさりしてしまった。
「つないで犬は大丈夫」と言いながら、仁類が追いつく。仕方なくまた並んで歩き出すと、その先は舗装した道路が途切れて山道になっていた。
「ここを歩くの?」生い茂る木立に思わず怖気づいた鈴香だけれど、仁類は「歩く」と言ってどんどん進み始める。仕方なくついて行くと、辺りは月明かりのおかげでほんのりと明るく、一人でもちゃんと歩けそうだった。
道は緩やかに登って行ったかと思うと下りになり、そしてまた急に登った。しばらく尾根のような場所を伝ったかと思うと、今度は滑るようにして斜面を下る。たぶんもうジーンズは泥だらけだったけれど、気にしている場合ではなかった。
仁類は坂がきつい時は鈴香の手を引っ張り上げ、降りる時は下で待っていてくれた。鈴香の目には道なんて存在しないように見える木立の中を、彼はまるで何か標識でもあるみたいに、ためらわずに進んでいった。
やがて急な坂を上り切った二人の前がぽっかりと開けた。よく見るとそこは舗装されていて、どうやらお寺から街につながっているバス道の一部らしく、道沿いに白いガードレールが廻っている。
「あっちの行く」と言って、仁類はガードレールの下をすり抜けて道路に這い上がり、身を乗り出して鈴香を引っ張り上げた。ちょうどそこへダンプカーがすごい勢いで走ってきて、鈴香は思わず悲鳴を上げた。
「だから車は大きく怖い」と、仁類は自信ありげに言うけれど、そこはちょうどカーブで見通しのきかない、横断するには最悪の場所だった。
「こんなところで渡らなくても、もっと広いところにすればいいのに」
ようやく立ち上がって、車が来ていないか耳を澄ませながら、鈴香は文句を言った。
「狸の道はこれで正しい」と答え、仁類は鈴香の腕をぐいと引いて道を渡る。そしてそのまま目の前の斜面をよじ登った。
「狸の道はずっと前で決めた。車の道は後ろでつくった」
「でも、そうやって狸の道を変えずに通ってたら、ひかれちゃっても文句言えないよ」
「だから気をつける」と仁類は答えた。ただ気をつけても危ないものは危ないのに。狸って困る事を何とか解決しようと思わないのかな、と鈴香は少し残念な気持ちになる。でも確かに、山の中に道路を作って車を走らせたのは人間の都合で、もし狸に相談していたら、別なルートになっていたかもしれない。
そしてしばらく緩い斜面を登ってゆくと、狸の道はまたバス道と交差していた。そんな事を何度か繰り返し、二人はやがて月明かりでほんのりと明るい山の中をまっすぐに歩いていた。辺りの藪は虫の大合唱で、時々頭の上から、何かがはばたく音や、物悲しい鳴き声が聞こえてくる。坂道の上り下りはけっこう必死だったけれど、ようやく一息ついた感じがして、鈴香は少しだけ休憩してもらうと、倒れた木の幹に腰掛けてスポーツドリンクを飲んだ。
少し離れて立っている仁類に「鈴ちゃん、まだ歩ける」と聞かれて、「大丈夫」と答える。本当は今すぐにでも横になって眠りたいけれど、とにかくお寺に帰るまでは頑張らなくてはいけない。
「あとどの位あるの?もう半分以上来てる?」
「もっとの歩く」とだけしか仁類は答えなかった。
月はもう頭上を越えてしまって、夜風の寒さが背筋をぞくっとさせる。鈴香は念のためスポーツドリンクをあと少し残しておいて、また立ち上がった。
まだ、なだらかな道が続いていたので歩きやすかったけれど、それは退屈という事でもあって、何だか頭がぼんやりとしてきたので、鈴香は気を紛らわせようと仁類に話しかけた。
「ねえ、仁類っていつどこで人間に化けたの?もう思い出した?」
「お寺に来る前。車の道で寝る人の見る」
仁類はゆっくりとそう言った。
「それ、寝てたんじゃないでしょ?事故でしょ?」
鈴香は渚さんにきいた朱音さんの話を思い出しながら尋ねた。車を運転中に脳出血を起こして、そのまま崖に衝突したという話を。
「その人は車の中を寝る。車は怪我がして動けない。その人の…」
そこまで言って、仁類は少し口ごもった。
「その人の、何?」と鈴香が促すと、彼は立ち止まって、少し考えると振り返った。
「狸の約束は人間と言わない。でも鈴ちゃんは子供だから言う。他の人で言うのはいけない」
「わかった。秘密ね」
鈴香は深く頷いた。仁類はこちらを向いたまま、また少し考えて「寝る人の自分が出ていくところを見る」と続けた。
「自分が出ていく?」
「自分が出て、戻らないと冷たくなる。仁類はその時見るのが初めて」
きっと仁類は、初めて死にそうな人を見たのだ。夜久野さんに言わせると、魂が離れかけている人、だろうか。
「狸は人間に化けて時、人間の自分を借りる。だから仁類も借りるにした」
「でもなんでその時、人間に化けようと思ったの?」
「湛石さんを会う」
それを聞いて鈴香は思わず「どうして?」と大声をあげていた。「いつも湛石さんにごはんもらって、会ってたんじゃないの?」
「でも湛石さんでいつも、こんどは中で一緒にごはんの言うから、仁類も人間で会うに決めた」
「もう最悪」
仁類は、ボケてちゃってる湛石さんの言葉を真に受けたのだ。鈴香には湛石さんがどんな感じだったか、だいたい想像がついた。「あんた、今度はちょっと上がってって、座敷で一緒に晩御飯たべまほか。お酒も出ますさかいに、人間に化けてきはったらええわ」なんて調子のいいこと言ったに違いない。
「仁類はその人の自分を借りて、服に借りて、お寺の行った」
「でもさあ、お寺で湛石さんとごはんも食べたし、目的は達成したんでしょ?そしたらもういいじゃん」
「自分を返しに行く時、でもその人のいなかった。車も逃げた」
そうか、仁類がお寺で遊んでいる間に、朱音さんは峠の病院に運ばれてしまって、それで仁類はずっと魂を借りたままなんだ。
「仁類さあ、カリパクって言葉あるの知ってる?」
「カリパク」
「物を借りといて、そのままパクって自分のものにしちゃう事。それって泥棒と一緒だよ」
鈴香は前の学校で、ちょっと問題になった事件を思い出していた。友達の漫画を借りて、そのうち返すねと言って、そのまま自分のものにしていた子がいたのだ。その子は返しそびれただけと言い訳したけれど、今の仁類も似たようなもんだ。
「ねえ、今からちゃんと魂を返す事できる?でないと、ずっと夜久野さんに命を狙われるよ」
でも仁類は返事をしなかった。
「いつまでも人間でいたってしょうがないでしょ?本当は狸なんだから。卵焼きだったら、また湛石さんにもらえばいいよ」
まだ返事はなくて、仁類はそのままくるりと前を向くと、また歩き始めた。後はただ、規則正しい足音が聞こえるだけだ。もう、本当は狸って言ったのを、馬鹿にされたと思って怒ってるんだろうか。鈴香は仁類の背中を見つめたまま、黙って歩き続けた。
それからずっとずっと歩いて、仕方ないから何か言おうと鈴香が思った時、仁類は口を開いた。
「仁類はもっと人間にしている」
「だからどうして?」
「鈴ちゃんの親に帰ってこないから」
思いがけない返事に、鈴香は面食らってしまった。その間も仁類はどんどん歩き続ける。
「なんで私と関係あるの?」
「鈴ちゃんはまだ子供の、親がいないでいけない。子供は悪いもの食べるの苦しくなったり、車に踏まれるのはぺたんこ。だから仁類は人間にして、鈴ちゃんを見ておく」
「わ、私は別にお母さんやお父さんと一緒じゃなくても大丈夫だよ!南斗おじさんや民代おばさんもいるし、第一そんなに子供じゃない!」
「でもさっき、親に探す子狸みたいで、いっぱい泣いた」
「あれは…」
急に決まりが悪くなって、鈴香は口ごもった。でもとにかく、仁類が人間でい続けることを自分のせいにされるのは困る。
「もう私の事なんか心配しなくていいから、ちゃんと朱音さんに魂を返すこと、お寺に帰ったらすぐに決めるんだよ!」
それから鈴香は何だか気まずくなって、黙々と山道を歩いた。月はどんどん空を転がり、それとともに足は重く、頭はぼんやりとしていく一方だった。仁類はといえば、いつも夜は散歩しているせいかとても元気そうで、歩き始めた時と変わらない感じでひょいひょいと、木の根っこや転がる岩をよけて坂を上り、バネをきかせて斜面を弾むように降りて行く。
正直いって、もう限界だと鈴香は思った。でも弱音を吐くのも悔しくて、はあはあと荒い息をつきながら急な斜面を登り、また降りようとしたところで足を滑らせてしまった。
石ころや枯葉と一緒くたになって転がった鈴香を、仁類はうまくキャッチしたけれど、勢いで二人とも地面にひっくり返った。
「ごめん、足が滑った」
鈴香はようやくの思いで起き上がり、くっついた枯葉を叩き落とした。仁類も先に立ち上がっていたけれど、「鈴ちゃんはもう寝る」と言った。
「寝る?ここで?」
いくらなんでも、こんな山道で寝るのは嫌だ。しかし仁類は「こっち」と言って鈴香の腕をとると、斜面沿いにゆっくりと歩いた。
しばらく行くと、大きな枯れ木が倒れていて、その下がほら穴のようになっている場所があった。入口はマンホールの蓋ぐらいの大きさがある。
「ここの寝る」と言って、仁類は鈴香を穴の中に押し込もうとした。
「え?ちょっと、やめてよ。熊とかいたらどうするの?」と、思わず抵抗すると、彼は「これは仁類の押し入れ」と言った。
仕方ないので腹這いになり、後ろ向きにこわごわ中に入ってみる。そこは人ひとりが何とか入れるほどの空間で、地面には乾いた枯葉がいっぱいたまっている。もう何だか身体を動かすのが億劫になって、鈴香はリュックを枕にして、とりあえず一休みする事にした。でも二人一緒はかなり厳しいなあ、と心配になって「仁類はどうするの?」と聞いてみた。
「仁類はここでいる」と、彼は穴の入口に座ったまま返事をした。だったらいいや、と安心して、鈴香は身体をゆったりと伸ばした。仁類がいるせいで夜風も入ってこないし、乾いた枯葉はふかふかと布団みたいに気持ちがいい。ここが仁類の「押し入れ」なんだ。
16 今夜は満月だから
「鈴ちゃん」
とんとん、と背中をたたかれて、鈴香ははっと目を開いた。どうやら少し眠っていたらしい。慌てて起き上がろうとすると、身体はそのまま軽々と持ち上げられて、気がつくと仁類の顔が目の前にあった。彼は鈴香の顔をまっすぐ覗き込んでにこりと笑う。
あれ?仁類が笑うとこって初めて見たような気がする。鈴香はびっくりしてその目を見つめた。彼の瞳には鈴香の顔が映っていたけれど、それは人間じゃなくて、奇妙な生き物だった。犬?にしては熊のように丸顔、この謎の動物は…狸?そんな筈はない!
慌てる鈴香を高々と抱き上げて、仁類は「鈴ちゃんは子狸だから本当に軽いね」と、歌うように言うと、肩にぽんとのせた。なんとかしがみつこうとするけれど、狸の前足は物につかまるようにできていない。あっという間につるりと滑って、落ちる!と思った瞬間、鈴香はがぶっと歯をたてて仁類のシャツにぶらさがっていた。
「痛いなあ!鈴ちゃんは本当に乱暴なんだから」
彼は鈴香の背中をひょいとつまんで持ち上げるともう一度肩にのせて、今度はしっかりと掌で押さえた。
「さあ、一緒に散歩に行こうか。今夜は満月だから、色んなものがよく見えるよ」
鈴香が顔を上げると、すぐそばに仁類のオレンジの髪が風になびき、目の前には月の輝く澄み切った夜空が広がっている。見下ろすと、街の明かりが宝石のように煌めいていた。
私たち、空を飛んでる?
怖いような気がして仁類の肩に爪を立てると、「大丈夫だよ」という答えが返ってきて、気がつくと二人は地面に近づいていた。見覚えのある建物がせりあがってきて、それが祐泉さんのいるお寺だと判った瞬間、二人はその中に飛び込んでいた。
そこは鈴香が入ったことのない、小さな勉強部屋みたいな場所だった。カーテンのないガラス窓に向かって机が一つ置かれていて、誰かが背を向けて座っている。部屋は暗くて、机に置かれたスタンドだけがほんのりと辺りを照らしていた。尼さんではない、普通の格好をしたこの人は誰だろうとよく見ると、座っているのは暢子さんだった。
「暢子さん」と呼びかけたら、鈴香の喉からはきゅうっと妙な鳴き声が出た。仁類はその背中を撫でると「静かにして。僕らの姿は他の人に見えないんだから」とたしなめた。
暢子さんは眼鏡をかけて、手にした文庫本を読んでいる。机にはスタンドの他に電話とノートとペンが置かれていて、そばの棚にある小さな時計は一時十分を指していた。暢子さんの細い指が文庫本のページをめくると、外から誰かが声をかけた。
「どうぞ」と彼女が振り向くと、襖を開けて入ってきたのは祐泉さんだった。「今日はちょっと暇みたいね」と言って、祐泉さんは手にしていたお盆を机に置いた。そこにはお湯呑みが二つと、小皿に盛られたクッキーがのっている。
「これからかもね。満月の夜はけっこう電話が鳴るから」と答えると、暢子さんは軽く伸びをして、「当番でもないのに、ずいぶん夜更かしね」と笑った。
「ちょっと本読んだりしてて。これ食べたら寝るわ」
祐泉さんはそばにあった木の椅子を引き寄せて腰をおろし、クッキーをつまんだ。暢子さんも同じように一つ手にとる。
「今夜はまだ、いたずら電話が一本だけよ」
「そっか、まあ仕方ないわよね。物珍しさでかけてくる人もいるし」
「まあね。でも私ね、いたずら電話してくる人も、結局はみんな同じじゃないかと思うのよ。寂しくて、誰かとつながっていたくて、不安で、追い詰められてる」
暢子さんはそう言って、お茶を一口飲むと長い溜息をついた。
「だからまあ結局、誰からのどんな電話でも、私は正也からの電話だと思って聞いちゃうの。あの子が最後の最後に、思い直してかけてきた電話だと思って」
祐泉さんはその言葉に静かにうなずくと、自分もお茶を飲んだ。
「私もね、これが彼女からの電話だったらどんなにいいだろうって、とる前にいつも思うのよね。あの日とらなかった電話のこと、そうやっていつも考えちゃうわ」
「みんな私達に、偉いわねって言うけど、そんな事ないわよね。ただこうしてると、気がまぎれて、少しだけ赦されたような気持ちになるだけ」
「まあ少なくとも、暢子さんは偉いかな。わざわざ車運転してこんな山奥まで来てくれるんだから」
「一緒よ。どうせ眠れないんだから」
二人はそして、顔を見合わせて笑った。その時とつぜん電話が鳴って、暢子さんは目配せをするとすぐに受話器をとった。
「はい、叡李院こころの電話です、こんばんは」
気がつくと鈴香と仁類はまた空を翔けていた。そして次に目に入ったのは、鈴香の住んでいる晋照寺だ。やった、とうとう帰ってきた!と思う間もなく、二人は南斗おじさんたちの部屋に降り立っていた。
おじさんたちは布団を敷いて横になっていたけれど、枕元の行燈みたいなライトだけをつけて、小声でおしゃべりをしていた。
「遅くなったからビジネスホテルに泊めてくれるっていうけど、大丈夫なのかしらね」と、民代おばさんは心配そうな声で言った。
「まあ、白塚さんも同い年の娘さんがいるらしいし、その辺は安心だと思うけどな。帰ってきたらちゃんと話を聞くか」
「だから太陽館でアルバイトの真似事なんて、気が進まなかったのに」
「でもさ、ずいぶん元気になったと思わないか?俺も最初、祐泉放送の奴が提案してきた時は、何を言ってるんだと思ったけど、学校に行ってた頃よりずっと楽しそうじゃないか」
「それはそうだけど」
二人の話を聞いていて、鈴香はようやく、自分が話題になっていることに気がついた。
「確かに仁類を連れて歩けば、変な男も寄ってこないし。あの狸も妙なところで役に立つよ」
「でも、太陽館の事はそれでいいとして、休み明けから学校に行ってくれるかしら。教室で授業を受けるのは無理でも、保健室は続けてくれるかしらね。うちで預かってる間に不登校になったりしたら、瞳美さんに申し訳なくて」
「俺は病気や怪我さえしなければ、それで十分だと思うけどね。それにさ、天地だって高校に入るまではしょっちゅう学校休んでたじゃないか。うちはそういう家系なんだよな。あいつ、いつも湛石さんの部屋でぶらぶらしてただろ?仁類を見てると妙に思い出すよなあ、押し入れに隠れたりしてさ」
「まあ、それはそうなんだけど。私、女の子って育てたことがないから、何だか心配なのよ」
民代おばさんはそう言って、ちょっと顔を上げると枕元の目覚まし時計を確かめた。時間は一時近くを指している。
南斗おじさんは大きなあくびをすると、「自分だって女の子だったじゃないか。昔過ぎて忘れてるだけで」と言った。
「忘れるなんてとんでもない、今でも心は乙女なんだから」
「どの口がそう言うんだかなあ」と、大げさに呆れてみせて、おじさんは腕を伸ばすと明かりを消した。
それと同時に鈴香と仁類の周りも真っ暗になって、辺りを見回すと、満月が目に入った。せっかく帰ってきたのに、また外にいる?慌てて鈴香が飛び降りてお寺に戻ろうとすると、仁類の手がそれを押さえる。
「暴れちゃ危ないよ」
言われてよく見ると、いつの間にかお寺は小さく遠ざかって、鈴香と仁類はまた夜空を翔けているのだった。
「まだまだ夜は長いんだから、慌てなくても大丈夫」
そう言って仁類が飛び上がると、月はぐるりと回転し、星々は弧を描いて二人の周りを流れた。
これじゃ目が回ってしまう。鈴香はぎゅっと目を閉じて、それから恐る恐る様子をうかがった。足元には知らない街が見えて、次の瞬間に二人は小さなビルに向かって飛び込んでいた。
まず最初にドラムセットが目に入って、それからアンプだとかマイクだとか、立てかけられたギターだとか、床をのたくるコードだとか、譜面台とかが見えて、鈴香にはそこがスタジオだという事が判った。どうやら休憩中らしく、四人いるバンドの人たちは、隅にある折り畳み椅子に思い思いに座り、煙草を吸ったり、携帯をいじったりしていた。壁の時計に数字の文字盤はないけれど、一時二十分ぐらいに見えた。
「なーんかこう、あと一息って感じなんだよね」
足を大きく開き、椅子の背を抱え込むようにして逆向きに座っているのはお父さんだった。黒いTシャツに破れたジーンズ、白塚さんに比べたらとんでもなくいい加減な格好で、髪は練習がうまくいかない時の癖で、ぐしゃぐしゃになっている。
「俺的にはオッケーだけどな」と煙草をふかしているのは、この前も太陽館の控室でお父さんと一緒にいた金髪の人だ。もう一人の背の高い人もいて、こちらは携帯をポケットにしまうと「ライブの反応もよかったんだし、今あえていじったりする必要ないんじゃないの」と言った。
「でもさ、それって結局、昔と同じレベルでよしって事だろ?俺はそういうの嫌なんだよな。ブランクを埋めるんじゃなくて、違う次元に超越したいっていうか」
お父さんはけっこう真剣な顔でそう言った。
「でもさ、ファンなんて結局、青春時代の一番元気だった頃を再現できればそれで幸せなんじゃないの?」
この前はいなかった、少し髪の長い、痩せた人は手にしていた譜面を丸めては広げる、という動作を繰り返しながらそう言った。
「だから俺はそれじゃ全然満足しないっていうか、自分に嘘ついてる感じなんだもの。ゼロ時代の曲もやるけど、今は今なりの音や声があるし、何よりそれなりに年とってるわけだし」
お父さんはそう言って、顎を椅子の背もたれにのせた。金髪の人はにやっと笑って、「娘もすっかり大きくなって、反抗期だもんな」とちゃかした。
「うるさいな。それを言うなよ。落ち込むんだよマジで」
「いやいや、変に希望は持たない方がいいぞ。たぶんお前、鈴香ちゃんにかるーくあと十年は口をきいてもらえないから」
「嘘だろ?」
「だってうちの姉貴って、中一でオヤジの事をうぜえって言い出して、結局もう一回口きいたのって、デキ婚で子供が生まれてからだもん。十五年たってたよ。それがしかも、離婚して実家に帰るって報告」
「嘘だって言ってよ。俺はクリスマスまでには仲直りできるつもりでいるのに」
「プレゼントでごまかすつもり?頑張ってあれこれ選んでも絶対外すよな。何これ、キモっ!とか言われるから」
お父さん以外の三人は、そこでどっと笑った。
「でもさ、うちの子、クリスマスが誕生日なんだよ。だからジングルベルで鈴香って名前にしたんだから、仲直りできないなんてありえないよ」
「だからその話はもう一万回は聞いたって。あのさ、女の子なんて中学にもなったらね、父親より友達とか彼氏が大事なの。マキさんのは鬱陶しいほどの片思いなんだよ」
金髪の人がそう言ったら、背の高い人が「だったらいっそ、思いっきり片思いの曲でも作ってみたら?」と笑って立ち上がった。それをきっかけにみんな立ち上がると、それぞれの持ち場に戻っていった。
もう一度空に駆け上がって、次に仁類と鈴香が飛び込んだのは渚さんの部屋だった。なんだか古くて狭いアパートみたいな場所で、隣の部屋の人のいびきが筒抜けだ。外から帰ってきたところらしい彼女は、深い溜息をついてピアスとネックレスを外し、チェストの上にある銀のトレイにのせた。それから腕時計も外してそばに並べると、お化粧も落とさず、水色のスーツのままベッドに倒れこんだ。
サイドテーブルに置かれた小さなデジタル時計は二時四十五分を指している。あちこちささくれた畳の上にはショルダーバッグと、小さなペーパーバッグが転がっていて、そこからセロファンに包まれたピンクのバラが一輪だけ覗いている。
そのまま眠ってしまうんだろうか、と思っていると、渚さんは「ダメダメ」と呟き、起き上がると台所に入った。そして細いガラスのコップに水をくんできて、落ちていたバラを拾い上げるとセロファンを外し、そっと生けた。そのコップをサイドテーブルに置き、またベッドに腰を下ろして、じっと見つめる。コップ後ろには写真立てがあって、渚さんと朱音さんが、海を背景に笑っていた。
渚さんは腕を伸ばしてその写真立てをぱたんと伏せた。それから両手で顔を覆うと、静かに泣き始めた。
渚さん!どうしたの?大丈夫?鈴香はそう言いたくて、前に飛び出そうとした。仁類は「ほら、じっとしてないと危ないってば」と鈴香を抱き上げ、それからもう一度肩にのせ直した。
「いい?僕らの姿は誰にも見えないんだからね」と念を押すと、仁類はまた夜空を翔ける。すると今度は見覚えのある場所に飛び込んだ。
「どうも、お疲れさま」
ドアに向かって手を振っているのはカンパチさんだった。そこは太陽館で、どうやらもう閉店らしく、フロアの照明は全部消えていて、カウンターにだけ明かりがついている。カンパチさんはそして、ポケットから携帯を取り出すと、しばらく考えてから、誰かに電話をかけた。
「あ、ちかちゃん?まだ起きてた?ごめんね、いつもこんな時間で。どうかしら、パパの検査の結果ってもう判ったの?うん、まだ別の検査がいるわけ?なんか友達に聞いたりしたけど、見つかった時には手遅れってケースが多いらしくてさあ、また心配になっちゃって。うん、でもちかちゃんは旦那さんとあっくんを最優先にしなきゃ駄目よ。本当は私が長男だからしっかりしなきゃいけないのに、色々任せちゃってごめんね。とことん親不孝な息子でさあ、我ながら泣けてくるわ。え?まあ今はまだ泣いてないけどね。一応それは言っとかないと。うん、じゃあまた電話する、おやすみ」
カンパチさんが電話を切ると、ディスプレイには十二時四十五分という表示が出た。そして携帯をポケットに戻し、カウンターに置いていたショルダーバッグを肩にかけると、カンパチさんは「ほーんと親不孝」と呟いて明かりを消した。
カンパチさん、私と仁類、最後のバイトに行けないかもしれないよ。そう言おうと思った瞬間に、もう仁類は空高く舞い上がっている。澄み切った夜風は狸になった鈴香のヒゲを優しく震わせて、その感触から空気の湿り具合や、明日の天気なんかが手に取るようにわかった。
へーえ、狸って案外すごいんだ。
そう思ったら、仁類は「やっと判った?」と鈴香の方を向いた。彼の頬に触れて、弓のようにしなった鈴香のヒゲを伝わってくるのは、とても暖かい心だった。なんで今まで気が付かなかったんだろう。いつもぼんやりして、大食いなだけだと思っていた仁類は、本当はすごく優しい生き物だ。今まで当り散らしてばかりでごめんね、そう言おうとしたのに、仁類はまた急降下を始めて、鈴香はぎゅっと目を閉じた。
次に目を開けると、そこはまた見覚えのある場所だった。いつもより少し薄暗いけれど、たぶん峠の病院の廊下。そこを勢いよく歩いているのは眞子さんだった。
「どいつもこいつも一斉にナースコール押すんじゃねえよ。早押しクイズじゃないっつうの」
ぶつぶつ文句を言いながら大股で歩いてゆくと、眞子さんは個室のドアを開けた。
「ハヤミさん、どうしました?」
さっきとはうって変って優しい声で患者さんに話しかける。
「なんだかやっぱり痛みが引かないんだよ。強くなったような感じもするし」
ベッドで丸くなっている患者さんの声は、とても不安そうだ。眞子さんは「そっか、じゃあ痛み止め打てるかどうか、先生に聞いてみますね。あと少しだけ待ってくださいね」と言うと病室を出て、それから隣の部屋に入った。
「カンダさん、どうしました?」
「あ?俺?呼んでねえけどな?」
患者さんは寝ぼけている感じで、眞子さんは「手が当たっちゃったんですかね、ちょっとナースコール、こっちに動かしときますね」と調節すると、「お邪魔しました」と部屋を出た。ドアが閉まった途端に「こらこら、ざけんじゃねえよ」と一言呟き、速足でナースステーションに戻る。それからデスクの上の電話をとると、「すみません、大山先生お願いします」と明るい声で呼びかけた。壁にかかった、学校の教室にあるような丸い時計は三時十分を指している。
看護師さんって、ああしてずっと患者さんの面倒見てるんだ。ナースキャップが可愛いからって、ちょっと憧れたこともあるけれど、鈴香はやっぱり自分には無理かもしれないと思ってしまった。
「鈴ちゃん、あっち見てごらん」
ふいに背中を押さえる仁類の指先に軽く力が入って、鈴香はその方向に首を廻らせた。二人はいつの間にか広い森の上を翔けていて、その向こうにある湖は月の光を反射して銀色に輝いていた。湖のほとりにはひときわ背の高い大木がそびえ立ち、水面に向かって勢いよく枝を広げている。よく見るとその枝の先の方に、誰かが腰かけていた。
あ、湛石さん!
一体どうやってあんなところまで登ったんだろう。ボケちゃった人は時々とんでもない事をするっていうけれど、まさにそんな感じ。これじゃ南斗おじさんでも救出は無理だし、レスキュー隊出動かな。
鈴香が呆気にとられていると、湛石さんはこちらを見上げてにっこり笑い、緩やかに大きく手を振った。何故?私たちは誰にも見えないんじゃないの?
「それは普通の人の話。湛石さんは特別なんだ」
仁類はそれだけ言うと、鈴香を押さえていない方の手を振った。鈴香は思わず振り向いて、遠ざかる湛石さんの姿をじっと見つめた。やがて湖は森の中へと吸い込まれていって、あとはもう月明かりに浮かぶ木々の梢が海のように広がるだけだった。
夜風はただ心地よくて、お腹の下と背中からは仁類の温もりが伝わってくる。鈴香はなんだか嬉しくなり、その気持ちは身体の中を走り回って尻尾に飛び出してゆく。ぱたぱたと勝手に動く鈴香の尻尾が仁類の背中をたたくと、彼は「うん、すごく楽しいね」と頷くのだった。
「さあ、今度は少し遠くまで行ってみようか」
そう仁類が言うか言わないうちに、夜空に浮かぶ月と星はすごい勢いで流れ、やがて虹色に輝く光の帯になる。それがぐにゃりとねじれて裏返しになったかと思った次の瞬間、真っ白な光が弾けて、二人は太陽の射し込む明るい部屋にいた。
そこは中学の教室を一回り小さくしたような場所で、スーツを着た白人の女の人がホワイトボードに何か書きながら説明している。英語のクラスかな?と思って、生徒たちを見てみると、そこにいるのは大人の女の人ばっかりだ。たぶん日本人、という人もいれば、東南アジアっぽい顔立ちの人もいて、小さなテーブルのついた椅子に座って、みんな真剣な顔で先生の話を聞き、時々ノートをとっている。
中学の授業とは比べ物にならないほど熱心だなあ、と感心しながら一人一人の顔を見て行くうち、鈴香はそこにお母さんがいることに気づいた。
鈴香に小言を言うときの、眉間にしわを寄せた顔でもなく、お父さんに嫌味を言うときの、少し横を向いた冷たい顔でもなく、まるで小学校に入りたての一年生みたいに、しっかりと先生を見ているお母さんの顔は、鈴香の全然知らないものだった。
お母さん、英語でやってる授業なんかわかるの?
鈴香は思い切り身を乗り出して、お母さんのノートを覗き込む。するとついバランスが崩れ、前足は空中を踏んだ。
「危ない!」
そう叫ぶ仁類の声が一気に遠くなって、鈴香はくるくると回りながら落ちて行った。
「わ!」
自分の声で目が覚めると、鈴香はまだ枯葉の中に寝転がっていた。
「なんだ、夢か。変な夢」
鈴香は横になったままで軽く伸びをした。外からは色々な鳥のさえずりが聞こえてくる。そろそろと這って穴から顔を出すと、辺りはまだぼんやりとした明るさで、日が昇るまではもう少し時間がありそうだった。
仁類はどこに行ったんだろう。見回してもその姿はどこにもなく、鈴香は急に不安になって「じんるーい」と呼んでみた。しばらくすると目の前の土手からオレンジの髪がひょっこりのぞいて、「起きた」と言った。
リュックを抱えて穴から這い出し、「何してたの?」と近づいて行くと、「水飲み」と答える。確かに彼のシャツは少し濡れていて、髪にも水の雫が光っていた。土手から身を乗り出してみると、下の方に沢が流れているのが見える。鈴香は土手を越え、木の根を伝って降りてゆくと、沢に両手を浸してみた。
思っていたよりずっと冷たい水が、砂埃で汚れた指を見る間にきれいにしてゆく。鈴香は両手で水をすくい、顔を洗ってみた。それから今度はその水を口に含んだけれど、やっぱり飲む勇気はなくて、何度かうがいだけした。
それだけでも気分はすっかりシャキッとして、鈴香はリュックからタオルを出して顔をふいた。そして斜面を登ろうとすると、仁類がまた下りてきた。
「もっと水飲むの?」と尋ねると、「ここの通っていく」と言って、沢伝いにどんどん歩き始めた。鈴香も慌てて後を追いかけ、「あとどれくらい?」ときいた。
「あと短い歩く」と答えてからちょっと立ち止まると、仁類はいきなり沢に手をつっこんで小さな蟹をつかまえた。それからちらっと鈴香を見て、また蟹を水に放り込むと歩き出す。
「あのさ」
石の下に慌ててもぐりこむ蟹を目で追いながら、鈴香は仁類に声をかけた。
「食べたかったら別に我慢しなくていいじゃない」
でも仁類は何も言わない。やっぱり自分に遠慮してるのかと思うと、鈴香は複雑な気持ちになった。確かに前は気持ち悪いとか言ったけど、コンビニのごみ箱をあさるのに比べれば、つかまえた蟹を食べるのは狸にはもっとずっと自然なことに違いない。
夢の中で狸になったせいか、鈴香は何となく、こうして山の中を歩き回って暮らすのも面白いような気がしてきた。誰にも邪魔されず、好きなように走って、好きなように寝て、好きなように食べる。
そんな事を考えていて、ふと顔を上げると仁類の姿が見えない。はぐれちゃった?そう思ってきょろきょろすると、上の方から「こっち」という声がした。見上げると仁類は沢の土手を登り切って、繁みから顔だけ出している。
「黙って置いてかないでよ」
鈴香も急いで土手をよじ登り、木の繁みに潜り込むと、トンネルのようになった細い道を這うようにして仁類の後に続いた。繁みのトンネルが途切れた場所から顔を出すと、そこは湛石さんの離れの庭だった。
ようやくここまで戻ってきた!そう思うと鈴香はなんだか涙が出そうになったけれど、また泣いたら仁類に馬鹿にされそうなので、あくびをするふりをしてごまかした。仁類はそんなの気にもしないで、すたすたと離れに向かって行った。
「ちょっと待って、いくら何でも湛石さんはまだ寝てるよ!」
辺りはようやく明るくなってきたところだし、縁側の障子は閉まったままだ。もう少し待った方がいい。小声だけど必死で呼びかけた鈴香の耳に、何か不思議な声が聞こえてきた。
誰かが歌っているようなその声は、強くなったり弱くなったりしながら離れの方から響いてくる。
「あれ…湛石さん、お経あげてるんだ」
呆気にとられていると、仁類は振り向いて「毎日ですること」と言った。
ぼけちゃってるけど、やっぱりお坊さんなんだなあ。鈴香は感心してしまったけれど、これじゃなおさら邪魔するわけにはいかない。終わるまで待っておこうと思ってその場にしゃがむと、仁類もこっちに来るように手招きした。
その時、お経をあげる声が中途半端にぴたりとやんだ。それから咳払いが何度か聞こえて、続きはなかなか始まらない。鈴香は、もしかして湛石さん、どうにかなっちゃったかな、と心配になってきた。そこへ突然、縁側の障子がかたん、と開いて、湛石さんがゆっくりとした足取りで出てきた。
「おはようさんです」
作務衣姿の湛石さんは、さも当然、という感じで、庭にいる鈴香と仁類に向かってあいさつした。
「あ…お、おはようございます」
鈴香は庭の隅っこにしゃがんだまま、上目使いであいさつを返す。仁類は何も言わずに縁側に寄って行くと、そのまま靴を脱いで上がり、湛石さんの脇をすり抜けると座敷に入り込んだ。
「あんたら夜っぴて外で遊んではったんか。元気でよろしなあ。まあ上がってお茶でもどうですか」
そう湛石さんに呼ばれて、鈴香もようやく立ち上がった。
17 もう知らないからね
ゆっくりとした動きでお茶を淹れようとしてくれる湛石さんに代わって、鈴香は自分で茶箪笥から急須を出し、ティーバッグの緑茶を入れると電気ポットのお湯を注いだ。それからお湯呑みを三つ出して、湛石さんがいつも食事に使っている小さなお膳に並べた。
湛石さんと自分のお湯呑みにはお茶を入れて、仁類には湛石さんが夜の間に飲むために用意してある、魔法瓶の井戸水を入れてあげた。
「そうそう、それを取って下さらんか」
仁類は湛石さんに言われて、棚からおせんべいの空き缶を下ろしていた。湛石さんはその中にいろんなお菓子を蓄えていて、仁類もそれを知っているからいそいそと動く。
「残念ながら金平糖を切らしておりまして、この黒糖饅頭っちゅうのはどうですやろな。若いお人の口に合いますかな」
今はとてもお腹が空いていて、もう何だってOKって感じだ。目の前に出された白い小さな袋をびりっと破ると、中からコーヒー色のしっとりしたお饅頭が顔を覗かせて、鈴香はぱくぱくとそれを食べきってしまった。
黒糖饅頭ばんざーい!そう叫びたくなるほどおいしくて、もう一つもらっていいかなと湛石さんの方を見ると、仁類が困ったような顔でお饅頭の袋を見つめているのが目に入った。どうやって開けたらいいかわからないのだ。
「貸して」と手に取ると、仁類は「あげる」と言った。
「いいよ。私もう食べちゃったんだから」
そう言ってお饅頭を出してあげると、仁類はちょっとためらって、それから一口で飲み込むようにして平らげた。
「ほんまにあんたは気持ちのええ食べ方しますなあ。鈴ちゃんも、もっとおあがり。私はお茶だけでよろしいさかいにな」
湛石さんはそう言って、缶の中にあった黒糖饅頭の残りをお膳の上に並べた。全部で三つ。鈴香は二つを開けて仁類の前に置くと、最後の一つを自分にもらった。
「これ二つとも仁類のだよ。私一つでいいから」
言われて仁類は、鈴香の顔とお饅頭を見比べて、それからあっという間に二つとも食べてしまうと、お湯呑みの井戸水をごくごく飲んだ。本当に味がわかってるのかなあ、と不思議に思いながら、鈴香はさっきよりも時間をかけてお饅頭を食べた。甘さがまるで温度を持っているように、じんわりとお腹の中に広がってゆく。熱い緑茶はまだ眠気の残っていた頭をしゃきっとさせてくれた。
「ごちそうさまでした」とお礼を言うと、湛石さんは「よろしゅうおあがり」と返してくれた。仁類はそれをじっと見ていて、鈴香が食べ終わるとやっぱり自分の口の周りをぺろりと舐めて、大きなあくびをした。それからいきなり畳の上に丸くなると、目を閉じてしまう。
その姿を見た途端、鈴香の頭の中には昨日の夜、気を失ってソファに倒れていた彼の姿が甦ってきた。
「ねえ湛石さん、動物の命って人間のよりも軽いの?」
動物を殺しても器物損壊にしかならない、という夜久野さんの言葉は、鈴香の胸から消えそうにない。湛石さんはお湯呑みから緑茶をずずーっと啜ると、「命に重い軽いがあると言う人には、まず、人間と動物と、それぞれから命を取り出して、量ってみせてもらわんとあきませんなあ」と言った。
「まあ、そんな事のできる秤があれば、の話やけども」
そう言って笑うと、湛石さんはまた一口お茶を飲んだ。
「そやけどな、お二人さんとも、命っちゅうのは案外と軽いもんで、思わぬ拍子で風船みたいに飛んでいってしまうことがあります。そやから、うっかり手放したりせんように、しっかりと掴んどかなあきませんで」
なんだか、ボケてる割にちゃんとした事言うなあと思って、鈴香は頷いた。
「実を言いますと、私も一度、ぼんやりしておって、あの世へ行きかけたことがあるんですわ」
「え?死にかけたってこと?」
「まあそうですな。それで、山の中で行き倒れておりました」
あ、これは雑誌の「狸和尚四十年」に書いてあったことかな?鈴香は真剣に聞こうと思って、背筋を伸ばして座り直した。
「まあちょっと、傷を負うたりして、具合が悪いのにあちこちうろうろしたんが災いしたんですな。まことに身体がしんどうて、頭では判っておっても、一度横になってしもうたら、ぴくりとも動けませんのや。そうこうするうちに、なにやら気持ちようなってきて、妙に身体が軽いような気がしましてな。ふっと目ぇ開いてみましたら、すぐ下の地面に自分が寝ておるんですわ。そしたらそれを見下ろしてる自分っちゅうのは、さて何なんやろうと首をひねっておりますと、寝ておる自分の周りにけったいなもんが見えました。茶色いような、黒いような、犬にしては足が短うて丸々とした生きもんです」
「もしかして、狸?」
「ご名答。やっぱり鈴ちゃんは頭がええな。その狸が何匹も、寝ておる自分を取り囲んでおりまして、こちらを見上げておるんです。あんたら、何してますのや、と尋ねようにも声が出ません。せやけどあちらさんは私の声が聞こえたんか、てんでに飛び上がると、私のズボンの裾やらシャツの袖やら、色んなところを咥えて引っ張りますのや。そんな大勢の狸にぶら下がられたら、さすがに浮かんでるわけにもいきませんわな。そのままずるずると引きずり落とされてしまいました」
そこで湛石さんは一休みすると、またお茶を飲んだ。
「ほんで気がついたら、私はまた地べたに転がっておりました。ぎょうさんおった狸は、私が目を開いたんを待ってたみたいにして、そのままどこへやら行ってしもたんですわ。後になって思えば、あの世へ行きかけておったところを、狸に引きとめてもろたようなもんですな」
「そうなんだ」
雑誌に書いてあった話と少し違うというか、かなりバージョンアップしてる感じがするけれど、やっぱり少しぼけちゃったから、記憶があやふやなんだろうか。でも湛石さんが話すと、何となくこっちが本当の事のように思えてくる。
「あのさ、湛石さん、実は今、仁類は命を狙われてるんだよ。もし誰か知らない人が来て、仁類を売って下さいって言っても、ずっと押入れの中に隠しておいてくれる?」
鈴香は思い切って、そうお願いしてみた。
「それはまたえらい事ですな。せやけど鈴ちゃんの頼みとあれば、私も頑張らんとあきませんな」
湛石さんは快く引き受けてくれたけれど、肝心の仁類は鈴香の心配なんかどこ吹く風で、どうやら眠ってしまったらしい。
「仁類って、湛石さんが飼ってることになるんだよね?」
それさえはっきりさせておけば、夜久野さんも手を出せないだろうと思って、鈴香はそう聞いてみた。
「飼ってはおりませんが、私のお客さんですな。そやから大事にもてなさんとあきません」
ちゃんとかくまってくれるなら、どっちでもいいやと思って、鈴香は小さく頷いた。それから、少し気になったことを確かめてみた。
「湛石さん、さっきお経あげてたでしょ?途中で止めちゃったけど、私達が邪魔しちゃったんじゃないの?」
「はいまあ、お経は毎朝上げておりますが、続きはまた後でさしてもらいます」
「そういえば、中でお経あげてたのに、庭に私達がいるのが判ったみたいだったね」
「はあはあ、あれはですな、仏さんが教えてくれはったんですわ」
「仏さんが?」
また変な事を言い出したな、と思いながら、鈴香は少し残っていたお茶を飲んだ。
「ああしてお経をあげておりますと、段々と心の中が落ち着いてまいります。喩えて言うなら、お湯呑みのお茶が、最初は濃い色をしてるのんが、いつの間にかお茶の葉が底に沈んで透き通ってくるようなもんですな。そうしますと、仏さんの声が聞こえてまいります。鈴ちゃんと仁類さんが庭にいてはりまっせ、と教えてくれはるんですわ」
いてはりまっせ、って、仏様は関西弁でしゃべるんだろうか。でも湛石さんにそういう事を突っ込むのはちょっと無駄だと思えたので、鈴香はそのまま黙って聞いておいた。
ひんやりした風が顔を撫でて、はっと目を開くと、大粒の雨が地面を叩く音が聞こえてきた。開けっ放しの窓から湿った土の匂いが流れ込んできたかと思うと、雨は見る間に本降りになり、やがて瀧のように激しく降り始めた。
ベッドに横になっていた鈴香は身体を起こし、窓を閉めようと立ち上がったが、そこへ稲妻が光り、一拍おいて長い長い雷鳴が地面を這うように響いた。部屋の中にいれば安心、と思うものの、やっぱり雷は好きじゃない。窓を閉めて再びベッドに腰を下ろし、枕元の時計を確かめると四時半。ずいぶん長いこと眠っていたみたいだ。
昨日の夜帰らなかった事について、南斗おじさんには白塚さんの事務所から、「秋にやるイベントの打ち合わせに時間がかかって、遅くなったのでホテルをとった」という連絡が入っていたらしい。もちろんそれは夜久野さんの嘘だったけれど、本当の事を説明するのはとても骨が折れることのように思えて、鈴香はその通りだった、と話を合わせた。
「でも知らない場所だったから全然眠れなかった」と嘘をついて、シャワーだけ浴びてすぐに寝たのだ。今となっては昨日のどこからが現実でどこからが夢なのか判らないほど、全てが遠い出来事のような感じがした。
激しい雨と雷は一向に止む気配がなく、外はまるで夕暮れのように暗い。明け方に湛石さんからもらった黒糖饅頭を食べただけなのでひどくお腹が空いて、鈴香は立ち上がると台所へ行き、冷蔵庫の牛乳を出してコップに注ぎ、半分ほど飲んでから、戸棚にしまってあったビスケットを二枚食べた。座敷の方からは時々笑い声が聞こえてきて、どうやらお客さんが来ているらしい。鈴香は空になったコップを洗うと水切り籠に伏せ、この大雨で外はどんな感じだろうと、裸足のまま片方の爪先を三和土につき、勝手口を開けて覗いてみた。
地面には浅い川のようになって、雨水がどんどん流れてゆく。庭にある植木の葉は雨粒にうたれる度に、まるで機械仕掛けのようにあちこちで小刻みに震え、今朝開いた朝顔はぐったりと濡れそぼっている。全てが雨で煙ったような景色の中に、一か所だけはっきりと黒いものがあった。目をこらしてよく見ると、それはカラスで、夾竹桃の枝にとまって雨宿りしているのだった。
どうせなら軒下に入ればいいのに、そう思ってぼんやりと眺めていると、カラスはほんの少し嘴を開けた。
「上手に逃げたつもりでいるの?残念でした。あんまりあなたが強情だから、うまく行くはずの事も全部駄目になったわよ」
それは夜久野さんの声だった。瀧のような雨音とは無関係に、妙に鮮明に響くその声に、鈴香は凍りついたようになって立ち尽くした。
「もう知らないからね」
カラスは首を軽く伸ばしてそう言うと、翼を広げ、大雨をものともせずに飛び去ってしまった。
「鈴ちゃん」
後ろから肩をたたかれ、鈴香はびくりとして飛び上がった。振り向くと祐泉さんが立っている。
「どうしたの?こんなとこに裸足でおりて」
どうやら座敷にいたお客さんは祐泉さんだったらしい。洗い物を下げてきたらしく、手にはお盆を持っていた。
「あ、ちょっと雨が気になって」
鈴香は慌てて勝手口を閉めると三和土から上がり、祐泉さんに向き合った。
「大丈夫よ、もう雷も遠くなったし、じき止むわ。ねえ、頂き物の梨持ってきたの、食べない?」
祐泉さんは流しのそばに置いてあった、大きな梨を手にとった。鈴香は「うん」とか何とか返事はしたけれど、やっぱり「ちょっと、後で行くね」とだけ言って、台所を飛び出した。
暗い廊下を走り、縁側から降りるとサンダルをつっかけて軒伝いに湛石さんの離れへ駆けてゆく。それからまたサンダルを脱ぎ散らかして上がると、「湛石さん、入っていい?」と声をかけながら障子を開けた。
「はいはい、おはようさんです」
雷なんか全然関係ない様子で、昼寝をしていたらしい湛石さんは、横になったまま適当な返事をした。鈴香は押し入れを開けてみたけれど、中は空。奥の方におさかなソーセージのフィルムが一枚だけ、ぺろんと落ちていた。
「湛石さん、仁類はどこ?」
「おはようさんです」
まだ寝ぼけているらしい湛石さんにちょっと腹が立って、鈴香はすぐに部屋を出た。縁側から飛び降りてサンダルを履くと庭に駆け出し、木の下とか生垣の奥とか、手当たり次第に探してみた。
「仁類?仁類ってば!」
もしかしたら、もう夜久野さんにつかまった後かもしれない。やっぱり湛石さんなんか頼るんじゃなかった。みるまに雨が全身を濡らしてゆくのも構わず、鈴香は仁類を探し続けた。
「鈴ちゃん」
後ろから聞こえたその声にはっとして振り向くと、仁類が縁の下から這い出してきたところだった。
「何だ、そこにいたの?」
仁類のぽかんとした顔を見た途端、安心したというか、腹が立ったというか、色んな気持ちがごちゃまぜになって、涙がいきなりあふれてきた。
私どうしてこんなによく泣いちゃうんだろう。
鈴香は自分で自分が不思議でたまらなかった。でもまあ、これだけ雨に濡れていれば、泣いているとは気づかれないはずだ。鈴香は小走りに駆け寄ると、軒下にしゃがみこんだ。
「縁の下に入っちゃだめって、いつも民代おばさんに言われてるじゃない」
「掃除のしていると雨が降った」
たしかに、仁類の足元には竹箒が転がっている。彼はじっと鈴香の顔を見ると、「鈴ちゃんは何の泣いている」と言った。
「泣いてないよ。雨に濡れただけだから」
「でも涙の匂いをする」と言うと、仁類はTシャツの上に羽織っていたシャツを脱ぎ、「これは着る」と差し出した。
「え?」
「人間は毛がない。濡れるは寒くなる」
「いらないってば。そのシャツ昨日からずっと着てて泥だらけじゃない。それに、なんで家じゃなくて縁の下に入るの?汚れるから駄目って言われたのに」
「もう汚れてから、新しく汚れても同じ」と言って、仁類は鈴香に拒否されたシャツをくしゃくしゃと丸めた。それを片手に持つと、こんどは鈴香の濡れた髪を拭こうとする。
「やめてよ!汚れてるのになんでそんな事するの!」
慌ててその腕をつかんで押し戻すと、仁類は「でもこれは濡れるない」と答える。鈴香は「屁理屈こねないでよ!」とやり返した。言われて仁類は、びっくりしたように自分の手元を見ると、「へりくつ、どこにある」と言った。
「もう!それは一種の表現!とにかく私はちゃんと着替えるから、濡れててもいいの!」
大声でそう言い返すと、仁類は首をかしげ、肩に顔を埋めるようなしぐさをした。それを見た途端、鈴香の中に立ち込めていた苛々がすうっと引いて行く。
あの時と一緒だ。水族館に遊びに行った時、車に挽かれそうになったのを止めてくれたのに、思い切り怒ってしまった。今だって、やり方は確かにちぐはぐだけれど、濡れたのを心配してくれてるのに、けんか腰になってしまう。泣いたり怒ったり、まるで抑えがきかないのが嫌で、鈴香の方が自分に噛みつきたい気分だった。
「ねえ、仁類、もう人間に化けるのやめて、山に帰りなよ。私ね、仁類が魂を借りてる人がどこにいるか知ってるから、そこまで連れて行ってあげるよ」
「仁類は鈴ちゃんの親が戻るまで、お寺のいる」
「そんな事してたら、夜久野さんにつかまっちゃうよ。あの人、仁類のこと殺すつもりだよ。でもあの人が欲しいのは仁類が借りてる魂だから、ちゃんと返せばきっと大丈夫」
「仁類は捕まったりない」
「よく言うよ、あんなに簡単に気絶してたくせに。それに…」
鈴香は一瞬口ごもった。こんな事本当は言いたくない。でも言わないと仁類は判ってくれないだろう。
「狸が人間に化けるのってすごく大変なんでしょ?このまま続けていたら、仁類は死んじゃうよ。冬まで生きられないかもしれないよ」
「仁類は生きているとき死なない」
もう、狸ってどうしてこんなに呑気なんだろう。仁類は全然こたえてない感じで、膝の上に丸めたシャツに顎をのせてしゃがんでいる。
「とにかく、私はお父さんやお母さんがいなくても大丈夫なの。来週から学校だって行くし、もう仁類の相手してる暇なんかないの。だからもう山に帰って」
きっぱりそう言うと、仁類はしばらく黙って鈴香の顔を見ていた。もしかして納得してくれたのかな?そう思ったところへ、また一言返ってきた。
「どうして鈴ちゃんの言葉と声は別々の事で言う?」
「言葉と声が別々?」
「仁類は鈴ちゃんの言葉のわかる。山で帰ってほしい。でも、鈴ちゃんの声は別の事を言う。仁類をずっとそばにいてほしいと言う」
「わ、私そんな事言ってないよ!」
何故だか急に胸がどきどきして、鈴香は大声を出した。仁類はそれでもじっと鈴香を見たまま話を続けた。
「仁類は狸の時、人間の声しかわからない。人間に化けてもから、言葉をわかるになった。人間はときどき声と言葉の別々。それはむつかしい。でも湛石さんはいつも声と言葉で同じ。鈴ちゃんも同じ。なのに今はどうして言葉と声の別々?」
「そんな事ない!私の言葉は私が思ってる事!それが本当なの!仁類こそどうしてそんなに頑固でわからずやなの?もういいよ!」
鈴香は思いきり大声でそう叫ぶとしゃがんだままの仁類を置き去りにして駆け出した。
濡れた服を着替え、髪を乾かし終えた頃には、雨も止んで外には薄日が射していた。まだ祐泉さんはいるかな、と思って座敷をのぞくと、他の尼さんたちもいて、ちょうど帰ろうと立ち上がったところだった。
「あら鈴ちゃん、こんにちは。またうちのお寺にも遊びにきてね」
一緒にきていた妙雪さんから声をかけられて、鈴香も挨拶する。祐泉さんは「ちょっと先に行っててください」と言うと、鈴香に「少しだけいい?」と声をかけた。
誰もいなくなった廊下で、二人きりだというのに、祐泉さんは声をひそめたままで話した。
「今日ここに来る前にね、眞子から電話があったのよ。木津朱音さん、他の病院に移っちゃったんだって」
「え?いつ?」
「今朝だって。急に決まったらしくて、眞子も全然知らなかったらしいわ。でも、鈴ちゃんがお見舞いに行って、彼がいなくなってたらびっくりするだろうからって、連絡してくれたの」
「でも、どこの病院に行ったの?遠いの?」
「まあ、眞子にきけば教えてくれるとは思うけど。ねえ、鈴ちゃん、もうあの人たちの事、心配するのやめた方がいいわ。渚さんだって鈴ちゃんの事は大好きだと思うけど、大人にはそれなりの事情があるし、仁類が彼にそっくりだっていうのも、何ていうか、鈴ちゃんが責任感じる事じゃないしね」
祐泉さんは優しくそう言ってくれたけれど、鈴香にとっては何の慰めにもならなかった。何故ならこれはきっと、夜久野さんが仕組んだ事だからだ。鈴香があの人の言う通りにしなかったせいで、こんな事になってしまった。何もかも鈴香のせいなのだ。
「もう知らないからね」
飛び立つ前にカラスが叫んだ言葉が、鈴香の頭の中にこだまし続けた。
「もうおしまい?」
鈴香がごちそうさまを言ってお箸をおくと、民代おばさんは心配そうに尋ねた。
「朝だって食べてないし、ちょっとおやつ食べただけでしょ?」
「でもずっと寝てたから、お腹すいてない」
鈴香の前には手をつけなかった肉じゃがと、昆布巻と、茄子の煮びたしが残ったままだ。食べたのはご飯とお味噌汁と冷奴だけ。それでも喉につかえて、なかなかお腹に収まらなかった。自分のせいで朱音さんが別の病院に移ってしまった、その事への後悔と、渚さんに対する申し訳ない気持ちで、鈴香は頭が変になりそうだった。
「食べないと早くお腹を空く」
何故だかいつも昆布巻だけは食べない仁類は、一足先に他のものを全部平らげて鈴香を見ていた。
「あとは仁類が食べればいいよ」
そう言って鈴香は立ち上がった。南斗おじさんは「ま、一食ぐらい抜いたって、人間死にはしないさ」とビールを飲んだ。
部屋に戻るとベッドに寝転がり、どうしようどうしようと考える。朱音さんが移った病院は判るとして、そこにどうやって仁類を連れて行く?
いくら考えても答えは出ない。本当はお茶碗洗うのを手伝わないといけないのに、鈴香はそのまま天井を見つめていた。一本だけつけた蛍光灯の光がいつの間にか奇妙に滲んで、それは涙に変わると頬を伝う。泣いたってどうにもならない。頭では判ってるのに、鈴香の涙は止まりそうもなかった。
「鈴ちゃーん、電話よ」
廊下の向こうから、民代おばさんの呼ぶ声が聞こえて、鈴香は慌てて起き上がった。祐泉さんが何か新しい情報を知らせてくれるのかもしれない。Tシャツの裾で涙をぬぐうと、急いで部屋を飛び出す。ちょうど台所に戻ろうとしていたおばさんは、振り向いて微笑むと「お父さんから」と言った。
がっくり、というのが一番ぴったりな表現だった。
よりによってこのタイミングで、一体何の用事だろう。鈴香は保留になっている子機を手に取ると、話が誰にも聞こえないように縁側に出ていった。
「もしもし?」
「すーずー?元気してる?」
相変わらず能天気な、ちょっと鼻にかかった声が受話器の向こうで弾けてる。元気なわけないじゃん、と思いながら「まあね」と答えると、「なーんだかつれないなあ、こないだの事、まだ怒ってるんだ?」と聞かれた。
「別に。あんなのいつもの事じゃん」
太陽館の控室での喧嘩、いつもの事、というには大爆発してしまったけれど、今となってはそれもどうでもいい感じだった。
「そう?じゃあ許してもらったって事でいいのかな?もうそうしちゃうよ?」
「ご自由に」
蚊取り線香を焚いているのに、足元には藪蚊がまとわりついてくる。それを空いた手ではらいながら、鈴香は気のない返事をした。
「じゃあさ、仲直りって事で、どっか遊びに行こうよ。夏休みも終わっちゃうしさあ。鈴は宿題なんかいつも速攻で終わらせてたから、心配ないよね」
「まあね」
確かにいつも夏休みの宿題は先に片づけていたけれど、それはお母さんがきっちり監督していたからだ。今年は宿題なんか何もしてないけれど、もうどうだってよかった。
「ねえねえ、鈴はどこ行きたい?こっちに遊びに来れば、色々面白いとこがあるよ。」
「別に興味ない。それに今一体どこにいるわけ?」
「あ、南ちゃん言ってなかった?横浜だよ。中華街とか、みなとみらいとか、遊ぶとこいっぱいあるんだから」
相変わらず自分の考えてる事ばっかりしゃべるなあ、と思いながら、鈴香は適当に相槌をうっていた。さすがにお父さんもそれに気づいたのか、話の方向を切り替えてくる。
「いや別に、俺が車でそっち行ってもいいんだよ。でもお寺なんて辛気臭いしねえ。そっちの方はドライブぐらいしかする事ないし」
明らかに来ることを避けている感じ。たぶん南斗おじさんや民代おばさんに説教とかされるのを警戒してるんだ。でも、鈴香の頭にはある考えが閃いた。
「ドライブって、車持ってないのに行けるの?」
昔はうちにも車があったけれど、通勤に必要ってわけでもないし、税金と駐車場代が無駄、というお母さんの決断で売ってしまったのだ。まさか借金して買っちゃった?
「んなもん友達に借りればいいんだよ。どう?鈴はドライブがいいんだ?」
「まあ、行きたいところがあるんだけど」
「それを早く言ってよ~。じゃあ、できるだけ急いで行くから待ってて」
それだけ言うと、お父さんは行く先も確認せずに電話を切ってしまった。本当に思いつきだけで生きてる感じがするけど、どちらかというとあれこれ迷うことの多い自分に比べて、お父さんのスパスパ決断する性格はちょっと羨ましくもある。
電話で油断してる隙に、ふくらはぎを蚊に刺されたみたいで、鈴香はそこを少しひっかいてから立ち上がった。庭の方をふと見ると、仁類が松の木のそばに立ってこちらを見ている。
「ごはんもう食べない?」
まだ言ってる、と思いながら、鈴香は縁側の柱にもたれて「食べたくない日もあるの」と答えた。
「お腹のすいたら湛石さんに言う。何かくれる」
そして仁類は、また散歩に行くらしくて、離れの方へ歩き出した。鈴香は慌てて「仁類」と呼びとめた。
「二、三日したら私のお父さんがここに来るから。そうしたら仁類はもう帰るんだよ」
「お父さん」
「それで仁類を、魂を貸してくれた人のところまで送ってあげる」
仁類はしばらく黙って鈴香を見ていた。それから一言「そう」とだけ言って、闇の中へ消えていった。
18 なかなかキツいよね
翌朝、鈴香がずいぶん寝坊して起きて行くと、民代おばさんが「お客様よ」と座敷の方を指さした。もしや祐泉さんか眞子さん?と思って覗きに行くと、そこには布団が敷いてあって、お父さんが大の字になって眠っていた。
「朝の五時ごろにいきなり来たのよ。鈴ちゃんとドライブの約束したからって」
民代おばさんも座敷に入ってくると、笑いをこらえきれない様子でそう言った。
「たしかに言ったけど、こんなにすぐ来るなんて思わなかった」
「槙夫さんらしいわよね。鈴ちゃんが起きたら起こしてって言われたけど、どうする?」
「うるさいからまだ寝かせといて」
「わかったわ。じゃあ先に朝ご飯にしましょうね」
民代おばさんは台所へ行き、鈴香はその場にしゃがんで、お父さんの寝姿をじっくりと眺めた。この前より少し日焼けしていて、また痩せた感じだ。髪は黒いままで、ピアスも相変わらず。ひげがうっすら伸びてて、鼻と額は脂でテカってて、唇はちょっと荒れてる。寝息はとても深く、朱音さんに比べると同じ眠るというのでも随分と違うというか、生きてるっていう感じを発散させて眠っている。
そういえば仁類の寝てる感じも、なんだか朱音さんに近いな、と思いながら、鈴香はくしゃくしゃになっているタオルケットを広げてお父さんのお腹にかけた。相変わらずのTシャツと破れたジーンズ。首にはシルバーのネックレスが二本。そしてお母さんとの結婚指輪はちゃんと左の薬指に光っていた。
「お父さんとどこに出かけるの?」
葱と油揚げのお味噌汁をお膳において、民代おばさんはそう尋ねた。
「どこってわけじゃないけど、仁類を送っていく」
「仁類を?」
「そう。いつまでも人間に化けてちゃいけないから、もう山に送っていくの」
「あらそうなの。湛石さんは知ってるのかしら」
「私からちゃんと言うよ」
昨日、お父さんとの電話を切ってから、鈴香は祐泉さんに電話をして、朱音さんの新しい入院先を教えてもらった。けっこう遠いみたいだけれど、カーナビさえあればきっと大丈夫だろう。
白いごはんと熱いお味噌汁。トマトときゅうりのサラダに、ほぐした鮭の入った卵焼き。今朝はいつになくおいしいような気がして、鈴香は味わって食べた。仁類は山に戻ったら、もうこんなごはんを食べることはできないのだ。猫舌だから熱々かどうかは関係ないけれど、やっぱりちょっとかわいそうだな、という気がしてきた。
「おばさん、後でお弁当作っていい?」
「ああ、ドライブに持っていくのね。でもおかずになるようなもの、あんまりないんだけど、ちょっと買いに行こうか」
「ううん、おにぎりと卵焼きぐらいで大丈夫」
「そう?冷凍のひき肉があるから、肉団子も作れるわよ」
「じゃあそれも入れる」
そして鈴香は朝ご飯の残りを平らげた。外は昨日の雨の名残なんか感じさせないほどにからっと晴れていて、絶え間なく響く風鈴の音が風の強さを知らせてくれた。
結局、お父さんが目を覚ましたのはほとんどお昼だった。それはちょうど鈴香がお弁当を作り終わった頃で、シャワーを浴びてから台所にのっそり現れたお父さんは、ラップに包んだおにぎりを見つけるなり「おにぎりじゃーん、食べていい?」と聞いた。
「その前にお互いにご挨拶しなさいよ」
民代おばさんは呆れ顔だったけれど、鈴香も何だか照れるので、挨拶もせずに「これ持って行って、後で食べるんだよ」と言った。
「じゃあ槙夫さん、冷麦でも作りましょうか」と民代おばさんが言ってくれたのに、お父さんは「いやいや、コーヒー一杯あればそれで」とだけ言って、台所を出ていった。
「お父さんてさ、基本、朝は何も食べないんだよ」と鈴香は説明した。
「そうね、鈴ちゃんが作ったものは別としてね」と笑うと、民代おばさんはコーヒーメーカーをセットした。この調子だと、お父さんはコーヒーを飲み終わったらすぐ出発するに違いない。鈴香は台所を出て、湛石さんの離れに向かった。
「湛石さん、仁類いる?」
声をかけると、湛石さんは机に向かって何かを書いている最中だった。
「はあ、何でっしゃろ」
呼ばれてから三つぐらい数えた後に、ようやく返事がある。その時にはもう、鈴香は押し入れを開けていた。仁類は丸くなって昼寝の真っ最中だったけれど、くるりと一回転して顔を出した。
「今から出かけるよ」と声をかけると、仁類は「朝、お父さんの来た」と答えた。
「なんで判ったの?」
「鈴ちゃんで同じ匂い」
「マジで?」
とっさにお父さんの寝姿が頭に浮かんで、あれと同じ匂い、と言われたことにショックを受けた。子狸とかお父さんとか、一緒にされたくないものばかりだ。まあ多分人間に判るレベルの話じゃないだろうけれど、やっぱりちょっと落ち込む。
「匂いで判った、って言い方にしてくれる?」とお願いしてから、鈴香は湛石さんの方に向き直った。
「湛石さん、仁類はもう帰るね。私とお父さんでちゃんと送っていくから、心配しないで」
すると湛石さんは机に向かって亀みたいに丸くなって、それからよっこらしょと身体の向きを変えた。
「はあ、もうお帰りですかいな」
「そう。仁類、今までお世話になりましたって、ちゃんと挨拶しなよ」
横にしゃがんでいる仁類にそう言って、軽く頭を押してみたけれど、彼はそのままじっと湛石さんを見ているだけだった。
「あんたが来てくれはって、ほんまに楽しゅうございました。できたら私も一緒に送って差し上げたいんやけれど、なんせ年とって足腰がおぼつかんもんで」
一緒に来られても困るよ、と一瞬ひやっとしたけれど、どうやら湛石さんはここでお別れしてくれるらしい。
「どうぞいつまでも達者で、長生きしれおくれやっしゃ」
湛石さんはそう言うと、枯れ木みたいな腕をゆっくりと伸ばし、仁類の頭をぽんぽんと叩くようにして、二度ほど撫でた。
「ほな鈴ちゃん、頼みまっせ」
「わかった。じゃあ行ってくるね」
鈴香はそれだけ言うと立ち上がり、仁類を連れて離れを後にした。
髪をオレンジに染めた人なんて、お父さんにとってはそう珍しくもないだろうと思っていたのに、彼は仁類を見た途端に固まってしまった。
「え、一緒に行く友達って、この人なの?」
「だから片道だけだよ、送ってあげるんだから」
もうお弁当もお茶もリュックに入れて、さあ出発しますという今になってどうこう言われても困る。さっさと廊下を抜け、玄関に向かった鈴香の後を追ってきて、お父さんはひそひそ声で「あの人って鈴の彼氏なわけ?」と聞いた。
「はあ?意味わかんないし」
思いっきりぶっきらぼうにそう言うと、鈴香はスニーカーを履き、音をたてて爪先を地面にぶつけた。それからいったん外に出て裏に回ると、今度は鈴香が固まる番だった。
「何、この車」
シルバーがかっているとはいえ、明らかにピンク色。軽じゃないけど小さめで、リアウインドウにはテディベアが二つ並べて飾ってあって、シートカバーはイチゴ柄で、赤いハート型のクッションが後ろのシートに二つ転がっている、
「これ女の人の車でしょ?」
「いや別に、女だろうが男だろうが、友達に借りたんだからいいじゃない」
「友達ってどういう友達?」
「友達は友達だよ。俺はお母さんと違ってね、男女間にも友情が成立するって説を支持してるの。それに鈴だって、煙草くさい車よりも、こういう綺麗な車の方がよっぽどいいだろ?」
「でも趣味わるーい」
「自分の車をどう飾ろうが、それはその人の勝手だからいいんだよ」
「お父さん、やけにかばうね」
「乗るの、乗らないの?」
そう言われて、鈴香はしぶしぶ後ろのドアを開けた。ぼーっと二人のやり取りを見ていた仁類を押し込んで、それから自分も隣に座ろうとすると、お父さんが「鈴は助手席でしょ」と呼んだ。
「じゃあね。仁類、元気でね」
南斗おじさんは朝から出かけているので、民代おばさんだけが見送ってくれた。仁類はやっぱりそっちをじっと見てるだけで、何も言わない、代わりに鈴香が「いってきます」と返事をして、車はお寺を後にした。
「随分遠いとこの病院まで行くんだな」
カーナビに住所をセットして、お父さんは呆れたように言った。
「お見舞いだから仕方ないよ。大事な人だし」
「その割に寝てるけど」
お父さんはバックミラーごしに、また寝てしまった仁類をちらちらと見ていた。
「だから仁類は狸だって言ってるでしょ。人間と違って夜起きてるから仕方ないんだよ」
「そんなに簡単に信じられる話じゃないけど。鈴さあ、やっぱりあんなお寺に住んでると、段々と言うこともオカルトめいてきちゃうよ。これからはお父さんのとこに来ない?」
「横浜ってこと?ちゃんと家あるの?」
「いやまあ、友達のマンションが空いてるから、使わせてもらってるんだけど」
「いつまで住めるの?ていうか、お父さん、ちゃんと収入あるの?借金返せって手紙来てたよ」
「いや、あれはさ、どうしても買いたいギターがあって、即金ならOKって話だったから。それにね、こないだ俺の曲をカバーしたいっていう話がきて、ちょっとお金が入ることになったから、少なくとも借金はチャラにできるし。あとねえ、昔のインディーズの曲を集めてアルバム作るって企画もあってさ、ね、聞いてる?」
「聞いてるけど、横浜は行かない」
鈴香はそう言って、わざと身体を窓の方に向けた。もう峠の病院はとっくに過ぎて、じきに水族館のある街に入る。朱音さんが移った病院は、そこからまだずっと先で、道の混み具合にもよるけれど、着くのは夕方近くになりそうだった。
「すーず、お父さんのこと、まだ怒ってるの?」
「別に」
「じゃあ機嫌が悪いのはやっぱり、この人とお別れするから?」
「違う!ちょっと寝るから、放っといてくれる?」
何だか感情のうすい言葉しか言わない仁類とは違って、お父さんは暑苦しいほどだし、構われないとうるさい。もうちょっと普通の人と会話したいなあ、と思いながら、鈴香は窓の外を流れる景色を眺めていた。
もしお父さんと横浜で暮らし始めたら、こんどは新しい自分になれるだろうか。保健室に隠れてた事なんか全部忘れて、友達がいっぱいいる、楽しい女の子になれるだろうか。でもお母さんがいない間にそんな事したら、絶対に怒るに決まってる。そもそもどうしてこんな事になったかといえば、お父さんが自分勝手過ぎるせいなんだから。
けれど、もし夜久野さんが言っていたように鈴香が狸憑きなら、仁類が狸に戻ればそれも解決するかもしれない。そうしたら、こっちの学校でも友達ができるかもしれない。
「どしたの、溜息なんかついちゃって」
お父さんは何だか心配そうな声でそう言った。
「え?私のこと?」
「そうだよ。ふうーって、中学生にはふさわしくない溜息ついちゃってさ」
「別にどってことないよ」
鈴香は身体を起こすと、お父さんの横顔を見た。陽の光がまぶしいのか、少し目を細めてまっすぐ前を見ている。
「鈴にはもっと楽しくしててほしいんだけどな」
「世の中こんなもんじゃないの?」
「そっか、こんなもんか」
お父さんはふっと笑い、短いフレーズを軽く口ずさんだ。そしていきなり「あ、ここいいじゃん、ここでお弁当食べようよ!」と声をあげてハンドルを切った。
そこは堤防みたいな場所で、海までは階段のようになっていた。ちょうど水門の日陰になっている一角を選んで、鈴香たちは腰を下ろすとお弁当を広げた。
「これ全部鈴香が作ったの?」
「まあね。肉団子は民代おばさんが手伝ってくれたけど」
「いや、すごいじゃん。三角おにぎりなんて長いことコンビニでしか食べてないよ」
早速おにぎりを頬張ってはしゃぐお父さんとは対照的に、仁類はずっと黙っている。それでも鈴香がリュックからペットボトルを出し、キャップをとって渡すと、ごくごく飲んだ。お茶のラベルがついてるけど、中身はお寺の井戸水だ。
「ねえ鈴、どうしてこの人にはそんなに親切なの」
「だって狸なんだもん。狸ってすごく不器用なんだよ。大人に見えるけどまだ一歳だし」
鈴香がそう言うと、仁類は「狸の一歳は大人」と訂正した。
「いつもこう言うんだけど、その辺が子供だよね。お箸も使えないし」
仁類の前にラップをはがしたおにぎりを三つ置き、おかずを食べるためのプラスチックのフォークも並べてから、鈴香は自分のおにぎりを一口齧った。
「俺もお茶もらっていい?」
お父さんは二つ目のおにぎりを食べながら、ちょっと不満そうに言う。鈴香は早速、水筒についているカップに冷たいお茶を入れてあげた。それからおにぎりを半分ほど食べ、初めて作った肉団子を食べてみた。
「ちょっとしょっぱかった?」
「いや、俺的にはこれでいいと思うよ」
「仁類はどう?」
「おいしい」
彼はふだんと変わりない感じだったけれど、お父さんの方はあんまり見ないようにしているようだった。
「この卵焼き、もっと食べちゃっていいかな」
お父さんはといえば、こちらも仁類の事は無視したいみたいだ。まあとにかく、家にいた時と同じように、好きなものを好きなだけ食べたいというところは変わらない。
「いいよ、私は朝も卵焼き食べたし」
鈴香は卵焼きを全部お父さんに譲って、自分はおにぎり二つでおしまいにした。お茶を飲み、海からの風に吹かれていると、とても不思議な気持ちになる。一体いまどこで、いつで、どうして鈴香と仁類とお父さんの三人でお弁当を食べているのか。夢みたいといえば本当に夢のようだ。
昼ごはんの後も、車は走り続けた。道はいつの間にか海を離れ、田んぼと畑が交互に続き、思い出したようにお店や家が現れるという、何だか退屈な風景になっていた。仁類はとっくの昔に眠っていたし、鈴香も何だかうとうとしていて、お父さんも時たま「あーあ」と大きな声であくびをした。ただ、FMラジオだけが元気に音楽を流し続けている。
「ちょっと煙草買ってくるね」
お父さんはコンビニを見つけると車を停めて、一人だけ降りると店に入っていった。鈴香もちょっと外の空気を吸おうかと背伸びをしたら、いきなり仁類が後ろの席から身を乗り出してきた。
「鈴ちゃん、本当の大丈夫?」
「え?ど、どういう意味?」
ぐうぐう寝てると思ったのに、これが本当の狸寝入り?鈴香はちょっとびっくりして仁類の顔を見た。
「あの人は確かの鈴ちゃんのお父さん。でも鈴ちゃんにごはんが作ってもらって、鈴ちゃんの卵焼きも食べた。もしかして、人間の親で食べ物をとるはお母さんだけ?」
「ううん、そんな事ない!絶対ない!」
鈴香は慌てて否定した。今ここで仁類がお父さんを信用しなかったら、またお寺に戻るとか言い出しかねない。それだけは絶対に避けなければ。
「お昼はたまたま、お寺にごはんがあったからお弁当にしただけ。本当ならお父さんが食べさせてくれたんだから」そう説明しているところへ、お父さんがのんびり缶コーヒーを飲みながら戻ってきた。
駄目だ、自分のしか買ってない。鈴香は車の窓を全開にすると「お父さん!」と叫んだ。
「今すぐアイスクリーム買ってきて!仁類の分と二つ。食べやすい奴、もなかアイスにして!」
「あ、うん、わかった」
お父さんはすぐに回れ右をしてコンビニに戻ると、言われた通りもなかアイスを二つ買って戻ってきた。
「もーう、先に言ってくれればいいのに」
「ちょっとぼんやりしてた」
鈴香はもなかアイスを受け取ると、仁類の分を開けて渡した。彼は両手で受け取ると、すぐにかぶりつく。なんで氷水は苦手なのにアイスクリームは好きなんだろうな、と不思議に思いながら、鈴香も自分のもなかアイスを食べた。お父さんはそれを横目で見ながら車を発進させる。
「本当に鈴はその人には親切だね」
ちょっと皮肉っぽい口調。でもこっちはそれどころじゃないというか、そもそもお父さんが自分の事しか考えないから、こんな演技までしなくてはならないのだ。
でもまあ、アイスはおいしくて、ぼーっとしていた頭も一気にすっきりしてきた。鈴香がまだ半分も食べないうちに、仁類は全部食べ終わって、後ろのシートからゴミを差し出してくる。ちらっとその様子をうかがうと、さっきより少し落ち着いた感じで、どうやらお父さんも食べ物を調達できる事に納得したみたいだった。
「すーず、ちょっと一口かじらせてくんないかな」
お父さんは呑気にそんな事を言い出した。
「だったら自分のも買えばよかったじゃない」
「さっきはコーヒー飲んでたから。でも鈴たちが食べてるの見たら、何だか欲しくなってきたんだよね」
「やだ。絶対やだから」
ずっと一人で運転してて、可哀相な気もするんだけれど、それとこれとはわけが違う。それに、そんなを事したらまた仁類が「鈴ちゃんの食べ物をとった」とか言い出すかもしれない。
「あーあ、そっちの人にはそんなに親切なのにな」
「そっちの人じゃなくて、仁類。狸だけどちゃんと名前あるから」
「わかってるって」
どうもお父さんと仁類は互いに警戒してるというか、こんなにそばにいるのに、存在を無視し合おうとしてるようだ。本当に面倒くさいなあ、と思いながら、鈴香はもなかアイスの残りを頬張った。
「おっ。ちょっと停まっていい?」
「どうぞ」
もうこれで何度目の休憩だろう。一度はトイレ休憩を兼ねてファミレスでピザを分け合って食べて、次は中古のレコード屋さんで停まって、さっきは煙草休憩。もう太陽もずいぶん西に傾いてきたというのに、また道草だ。でも何といっても運転できるのはお父さんしかいないので、好きにさせてあげた。
「こんなとこにあったんだ。この楽器屋さんさ、ネットじゃ掘り出し物が多いって有名なんだよね。ちょっと一回りしてくるから」
「いいけど、借金してギター買ったりしちゃ駄目だよ」
「もーう、お母さんみたいな事言わないでよ」と、わざとらしい声で言うと、お父さんは腕を伸ばし、鈴香の頭を軽く叩いて車を降りた。長く座っていて疲れたので、鈴香も車を降りると、店の外からウインドウの中にある楽器をのぞいてみた。
エレキギターにアコースティックギターに、サックスとクラリネットとトランペット。奥の方にはまだまだ沢山のギターやベースが並んでいて、お父さんはもう店員さんと友達みたいに打ち解けた感じで何やらしゃべっていた。
なんでああいう風に、知らない人ともどんどん話せちゃうんだろうな。
鈴香にとってお父さんの最大の謎はそこだった。確かに子供の頃は何度も転校したって話だけれど、それだけであんな風になれるもんだろうか。そのお父さんの子供なのに、自分はとても人見知りなのが、何だかすごく駄目な感じがした。
「鈴ちゃんのお父さんは、これの好き」
気がつくと仁類も車を降りて、鈴香のそばに立っていた。ウインドウのガラスに、ひょろりと背の高い仁類と、その肩にぎりぎり届くほどの背丈の鈴香が映っている。
「お父さんは昔、バンドやってたんだよ。って、わかんないか。歌うたって、それでお金をもらうんだよ。まあ、今もそうしようと努力してるみたいだけど」
店の奥では店員さんが、壁にかけてあった赤いギターを下ろして、お父さんに手渡していた。アンプをいじったりなんかしているから、試しに弾かせてもらうつもりらしい。
「あーあ、あれやりだすと本当に長いよ」
斜めに照りつける西日が暑くて、鈴香はもうエアコンのきいている車に戻ろうと思った。
「仁類は長くてもいい事」と言って、彼はじっと中を覗いている。
「鈴ちゃんはあそこの行かない?」
「別にいいや。あっちはお父さんの世界だし。何ていうの?お父さんって私のことあれこれ気にする割に、音楽の事になるともう自分の世界で、それ以外はどうでもよくなるんだよね。つまんないんだ」
「鈴ちゃんも一緒にやるればいい」
「駄目だよ。私まで音楽やりだしたら、お母さんが一人ぼっちになっちゃいそうで、嫌なんだもの」
その言葉に首をかしげた仁類の不思議そうな顔を見て、鈴香は自分が余計なことを話し過ぎたと気がついた。
「まあどうでもいいよ、そんな事。ちょっと水飲もう」そう言って車に戻ると、仁類も後からついてきた。
「ほーんと、あれ、掘り出し物だよ。とりあえず予約だけしてさあ、また連絡するって事にして。だから買ったわけじゃないから」
「まあ好きにすれば」
結局、一時間近く楽器屋さんでギターをいじりまくって、お父さんが車に戻って来た頃にはもう暗くなり始めていた。
「鈴がそういう口きくと、本当にお母さんに似てるね」
「親子なんだからしょうがないじゃない」
「じゃ、お父さんとは?」
「親子だけど、別に似てない」
「そう?でも南ちゃんがさあ、鈴は歌が上手なのに、わざと歌わないようにしてるって言ってたよ」
「そんな事ないよ」
鈴香は何となく照れくさくなって、シートベルトを直した。そこへ、後ろで眠ってると思っていた仁類が、いきなり口をはさんだ。
「それは本当」
「えっ?」
お父さんが驚いて聞き直すと、仁類はむっくり起き上がって、「鈴ちゃんは歌を気持ちがこもってる。カンパチさんでそう言った」と念を押した。
「だーよーねー!」
お父さんはいきなり大きく頷き、その勢いで車は少しだけ左に揺れた。
「やっぱ、鈴はお父さんの娘だもん。ね、君も聞いたんでしょ?」何故だかとつぜん仁類にフレンドリーになって、お父さんはそう尋ねた。
「仁類も聞いた」
「で、どう?やっぱりいいと思ったでしょ?」
「そういう風に無理やりきくの、止めてくれる?」と、鈴香が割って入っても全然気にしていない。
「そう、仁類はどこでも鈴ちゃんの声を聞こえる」と、仁類は質問と微妙にずれた答えを言ったけれど、お父さんには関係ないみたいだった。
「でしょでしょ?すーずー、もっと自信持っていいって」
鈴香はもうとにかく早くこの話題が終わればいいと思って、何も答えなかった。お父さんはいつもこうして、他の人の前で、平気で鈴香のことを褒めちぎったりする。お母さんはといえば正反対で、道で知ってる人に会ったりしても、「本当に駄目なとこばっかりで」という感じで、よく言わないのだった。前に一度、絵のコンクールで賞をもらって、同級生のお母さんに誉められた時でも、「たまたま他にいい作品がなかったから。ただの偶然よ」と言ってたっけ。
結局のところ、たぶんお母さんの評価の方が正しくて、お父さんのはただの無責任発言のように思える。でなければきっと、今の学校でもすぐに友達ができたに違いないんだから。
「ほら、もうあと少し、長旅お疲れさーん」
お父さんにそう言われて、鈴香は我に返った。慌ててカーナビを見ると、目的地の病院は確かに近い。お父さんも仁類に負けない位に夜型で、日が暮れた途端にテンションが上がってきたような感じがする。元祖夜行性の仁類はというと、もうすっかり目を覚まして、じっと窓の外を眺めている。
いつの間にか街の中に入っていた車は、背の高いビルの立ち並ぶ四車線の広い道路を走り、それから大きな川を越えて、その堤防沿いの道路をずっと走った。そこには工場か倉庫みたいな建物が広い敷地に並んでいたけれど、その向こうにひときわ背の高い建物があって、それがどうやら目的地の病院らしかった。
ほとんどの部屋に明かりが灯っていて、窓のカーテンを閉めているところもあれば、開けっ放しのところもある。あのどこかに朱音さんがいる、そう思うと鈴香は胸がドキドキしてきた。
「車、どこに停めればいいのかな?あの夜間救急外来ってとこは駄目だし。今更だけどさ、もう面会時間って終わってんじゃないの?」
お父さんはゆっくりと車を走らせながら、とりあえず駐車場の方に入った。
「時間は大丈夫だと思う。お父さんはここで待ってて。私、仁類を送って行くから」
鈴香はそう言うと、リュックに片腕だけ通し、「ほら、行くよ」と仁類に声をかけた。仁類は病院の方をちょっと見て、それからいきなりシートの間から身を乗り出し、「お父さんは鈴ちゃんを大事」と言った。
「え?それ質問?」
軽く頷く仁類を見て、お父さんは「そりゃ当然でしょう」と答えた。
「では鈴ちゃんが大人になるまで一緒がいて、車に踏まれないの注意でする。食べ物がいっぱいあげる」
それだけ言うと、仁類は車を降りた。鈴香はぽかんとしているお父さんを残して、「すぐ戻るから」とドアを閉めると、仁類と並んで歩き始めた。
もう辺りはすっかり暗くて、建物に沿って作られた植え込みから虫の声が聞こえてくる。空はきれいに晴れていて、星がよく見えた。
「仁類、ここにあの人がいるの、判る?」
「うん。匂いのする」
「じゃあ一人で中に入って、あの人のところまで行ける?」
「大丈夫」
「それから狸に戻っても、ちゃんとここから出て、近くの山まで一人で行ける?」
「大丈夫」
「そしたらもうずっと山の中にいて、車の通る道に出てきちゃ駄目だよ。うちのお寺に来るのも駄目。仁類は夜久野さんに恨まれちゃってるから、遠くにいた方がいいよ」
「わかった」
「じゃあ私はここで見てるから、あとは一人で行って」
鈴香はそう言うと、立ち止まった。病院の夜間入口まではもう少し距離があるけれど、これ以上ついて行くのは何だかとても辛い気がして、前に進めなくなったのだ。なのに仁類も一緒に立ち止まってしまった。
「何してんの、早く行きなよ」
「鈴ちゃん、仁類はやっぱり狸に戻るはしない」
「なんで今になってそんなわがまま言うの?」
いきなりそんな事を言われて、鈴香は大声で怒りたくなるのを何とかこらえた。仁類はといえば、困ったような顔でこちらを見ている。
「人間の頭は広くて、いっぱいの事を入るけど、狸の頭は広くない。だからきっと、狸に戻ると色々な事を入らなくて、鈴ちゃんも入らない」
「それはつまり、頭が小さいから、憶えてられないって事?」
「そう。それは仁類の大きく、大きい嫌な事」
仁類は俯くと、肩をがぷっと噛んだ。それを見て、彼の言う「嫌な事」の意味が、鈴香にはようやくはっきり判ったような気がした。そう、仁類は泣いたり笑ったりしないし、悲しいとか寂しいとか言わない。でも、そういう気持ちは人間と同じようにちゃんとあるのだ。
「確かに狸の頭は人間ほど大きくないけど、心は人間と同じくらい大きいんじゃないかな。だから、頭は難しくても、心にならきっと入ると思うよ」
自分でも何だか判らないけれど、鈴香にはそんな気がした。仁類はようやく肩を噛むのをやめると、「本当?」と低い声で言った。
「大丈夫。私も仁類のこと、ちゃんと憶えておくから」
そして鈴香は、ふと思い出してリュックに手を突っ込むと、喉飴のケースを取り出した。振ってみるとからからと音がして、湛石さんにもらった金平糖はまだ少しだけ残っているみたいだった。
「ほら、手を出して。これを食べ終わったら本当にさよならだからね」
そう言ってケースを逆さにすると、仁類の掌に金平糖が三粒だけ転がり出した。彼は少しためらってから、それを口に放り込んだ。
さあ、例によってジャリジャリと噛み砕いて、そうしたら仁類はもう行ってしまう。そう思ってじっと待っていたけれど、いつまでたってもあの音は聞こえてこなかった。
「もしかして丸呑みしちゃった?」
すると仁類は口を開けて舌を見せた。そこには少しだけ角のとれた金平糖が三つのっている。
「最後だから時間かけて食べてるの?」
鈴香の問いかけに、仁類はまた口を閉じ、黙ってうなずく。それから二人は何だかにらみ合うようにして、ずっとお互いを見ていた。それはとてつもなく長い時間にも思えたし、一瞬のような感じもした、でもとにかく、いくら何でももう金平糖も溶けただろうという気がして、鈴香は「食べ終わった?」と尋ねた。仁類は慌てて首を横に振ったけれど、何だか不自然で、鈴香は思い切って鼻をつまんでみた。すると彼は苦しくなって、口をぱかっと開いた。
「やっぱり食べ終わってる」
嘘がばれた仁類は、さすがに決まり悪い様子で目をそらした。そして背中を向けて少しだけ歩き出したけれど、また戻ってきて鈴香の顔を覗き込んだ。
「鈴ちゃんはまだ子供の知らないけれど、人間の男の人は、好きな女の人のこうする」
そして仁類は鈴香の唇にそっと自分の唇を重ねて、すぐに離れると、こんどは後も振り向かずに歩き出した。
そんなの知ってるよ!
大声でそう言い返したかったけれど、胸が詰まって何も言えなかった。無理に声を出したらまた仁類が戻ってきそうな気がして、リュックを抱きかかえたまま、鈴香はその後ろ姿が病院の中に消えていくのをじっと見送った。
虫やカエルやトカゲを食べていた、仁類の唇はとても優しかった。その暖かい息が頬を撫でた感触がまだ残っているような気がして掌をあてると、そこはいつの間にか涙で濡れていて、鈴香は思わずしゃがみこんでしまった。
仁類、戻って来て!お願いだからずっとそばにいて!
でもそれは絶対に言ってはいけない。私はもう十分に大きいし、仁類がそばにいなくてもきっと大丈夫。借りたままの魂を朱音さんに返して、仁類は狸の世界に戻らなくてはいけない。
しばらくして、少しだけ気持ちが落ち着いたので車に戻ると、お父さんは外に立って煙草をふかしていた。
「遅いじゃーん」と言われたけれど、鈴香は何も返事しないで助手席に座る。お父さんもすぐに車に乗りこんできて、エンジンをかけると「さて、どこ遊びに行こうか」と聞いてきた。
「今から?」
「だって夜はこれからでしょ。狸さんもちゃんと送ってあげたし」
そう言ってお父さんは車を発進させた。駐車場を抜け、道路に出ると徐々にスピードは上がり始め、鈴香は身体をよじって夜の向こうに病院が遠ざかってゆくのを見つめた。
「ねえ、久しぶりにボウリングなんかどうかな。さっき来るとき見つけたんだよ。カラオケもいいと思うけど。あと、さっき待ってる間に携帯でチェックしたら、近くに温泉あるらしいんだけど、せっかくここまで来たんだから、泊まってこうか。でさ、卓球なんかしたくない?」
次から次へとお父さんの提案は続き、全然そんな気分じゃない鈴香は、うんざりして「別にどこも行かなくていい」と言いながら座りなおした。声を出すと、まだ何だか鼻がつまった感じになってしまう。
「そーんな!あんまりだと思わない?お父さんなんかずっと運転しっぱなしで、全身固まっちゃってんだよ?肩なんかバキバキだよ?ちょっとは動きたいんだけど。ねえ、聞いてる?」
お父さんはひとしきりゴネて、それから「彼氏じゃないって言ってた割には、落ち込んじゃってる」と言った。
「うるさいな、もう!関係ないでしょ?」
わざわざ余計な事を言ってくる鈍感さに、鈴香は思い切り不機嫌な声でやり返し、身体ごと窓の方を向いて丸くなった。
「やっぱり鈴って、お父さんの子供だよね」
鈴香の反撃なんて軽くかわす感じでそう言ったお父さんの声は、呑気さの中にうっすらとした悲しさを含んでいた。
「自分の気持ちに嘘がつけないんだ。それってなかなかキツいよね。自分も、周りも」
静かに優しく全てを包み込む、夜の闇に眼を凝らしながら、鈴香はもう流れきったはずの涙がまた溢れてくるのを感じていた。それをこっそりと指先で拭うと、顔はまだ窓の方に向けたままで、無理やり大きな声を出す。
「あのさ、ちょっとぐらいならボウリングつきあってもいいよ」
するとお父さんは「やーった!あーりがと!」と一気にはしゃいだ声になり、次の瞬間、車はぐんとスピードを上げた。
19 一人ぼっちでも
「湛石さん、もういいみたいよ」
鈴香はそう声をかけると墨を置き、いったん立ち上がってから腰をかがめ、用心深く硯を手に取った。
「はいはい、ご苦労さんどした」
背中を丸めて大きな虫眼鏡で辞書を調べていた湛石さんは、ゆっくりとこちらを向き、鈴香の手から硯を受け取ろうとした。そんなことをして墨がこぼれたら大変なので、歩いて行って、そっと机の上に置く。すると湛石さんはまた「ほんにすまんこってす」とお礼を言って、懐紙に包んだ五百円玉を差し出した。鈴香は「ありがとう」とそれを受け取り、ジーンズのポケットに入れた。
「すんませんなあ、ちょうど今、金平糖を切らしておりまして。他になんぞあったと思うんやけど」
そう言いながら、湛石さんはよっこらしょと立ち上がり、いつものお菓子入れの空き缶をとろうとした。
「お菓子は別にいいよ」と鈴香が言うのも聞かず、棚をごそごそやっていると、そこに入れてあった紙の束が音をたてて畳の上に落ちた。
「あれまあ」
湛石さんがびっくりしているので、鈴香が代わりに散らばったものを拾い集めた。封筒に入った手紙や葉書がほとんどで、薄い雑誌みたいなものも何冊かある。そのまま腰をおろした湛石さんの前に、鈴香は集めたものを揃えていった。
「またそのうち整理しようと突っ込んでおるうちに、どんどん増えてしまいまして、みっともない事ですな。えろうすんません」
「とりあえず、種類ごとにわけとくよ」
封筒と葉書と雑誌、それぞれにまとめて、仲間に入らない新聞の切り抜きやチラシみたいなものは別にしておく。湛石さんは「はあ、もう適当にしておくれやす」と言っていたけれど、ふいに手を伸ばすと、新聞の切り抜きを一枚つまみ上げた。
「そやそや、これは面白いさかいに、鈴ちゃんに見てもらお、思てたんですわ」
そう言って差し出された小さな切抜きには、赤いサインペンで「八月二十七日夕刊」と日付が入れてあった。
「何の記事?」
ふだん新聞はテレビ欄ぐらいしか見ないし、何か知らない事件でもあったのかと思って、鈴香はそれを読んでみた。
八月二十六日深夜、H市のN病院より警察に「病棟内に狸がいる」との通報があり、かけつけた署員によってオスの狸一頭が捕獲された。狸は入院患者のいる病棟の五階廊下で発見されたとの事だが、侵入の経緯は全く不明。同市の山林に狸が生息することは知られているが、市街地にある同病院からは十キロメートル以上離れており、何故突然現れたのかと関係者も首をひねっている。狸は本日午前、H市郊外の山中に放された。
「うっわ…」
思わず声をあげてしまってから、鈴香はそれをごまかすように「へーえ、狸だって」と、大げさに驚いてみせた。
「面白いでっしゃろ?病院にいきなり狸がおったら、そら驚きますわな。せやけど狸もなんぞ用事があって行かはったんやないかと、そんな気もいたします」
「狸は病院に用事なんかないよ。迷っただけじゃない?」
鈴香はそれだけ言うと、切抜きを他のものとまとめ、封筒や葉書のそばに置いた。本当のことを言えば、何だか胸がどきどきして、指先が震えそうな感じだった。湛石さんはのんびりと封筒の束を手にして、「そういえば仁類さんは、あんじょう帰らはりましたんか?」と尋ねてきた。
「うん。ちゃんと帰ったよ」
実際はこんな新聞沙汰になっていたけれど、そう言っておくしかない。
「そりゃよろしゅうございました。鈴ちゃんが見送ってくれはったおかげやな。お礼と言っては何やけれど、私の書いたもんで、軸にしてあるのんを、受け取っていただけますやろか」
「え?湛石さんの?」
私の書いたもん、って、例のいたずら書きみたいなお習字だ。そんなのいらないよ、と思ったけれど、正直に言うのも失礼なので、「ありがとう。でも私、ちょっと用事があるからもう行くね」と言って立ち上がった。
「そうでっか?ほな、また置いときますさかいにな。ちゃんと判るように、箱に鈴ちゃんの名前を書いときますわ」
「わかった」なんて、適当に返事をして、鈴香はそのまま離れを後にした。まだ少しだけ胸がどきどきしていて、警察に一晩つかまっていた仁類の事を想像すると、とても可哀相になった。あれだけ大丈夫って言ってたくせに。檻に入れられて、困って自分のこと何度もガプガプ噛んで、血なんか出たんじゃないだろうか。
ぼんやり廊下を歩いていると、民代おばさんが台所から出てきた。
「鈴ちゃん、お友達そろそろ来るんじゃない?」
「うん、十五分のバスで着くから、迎えに行ってくる」
「じゃあおばさん庭にいるから、戻ったら声かけてね」
「わかった」
鈴香は玄関でスニーカーを履くと外に出て、前庭を抜けると、山門に続く緩やかな坂道を下り始めた。太陽はまだ空の高い場所にあるけれど、もう真夏ほどの勢いはない。それでも林の中のツクツクボウシたちは、まだこれからが出番だという賑やかさで、木漏れ日の下を歩く鈴香に向かって鳴き続けていた。
九月になって、学校が始まって、鈴香は行こうかどうしようか、とても迷った。保健室なら多分行ける。でも、やっぱり教室で授業を受けた方がいいに決まってる。それはつまり、一人ぼっちでも我慢しなければいけないという事だった。
広い教室で、他のみんなが「夏休みどうしてた?」と楽しそうにしていても、気にしないでずっとそこにいる。もちろん、自分から何か話かけられたらいいだろうけれど、そんなの無理なのも判っている。でも、とにかく最初だけは教室に入ってみよう。仁類に向かって、お父さんやお母さんがいなくても大丈夫だし、学校にも行くと宣言した以上、やってみなければいけない。何故だか強くそう思って、始業式の前夜、寝る前にそれだけは心に決めた。
朝、学校に着くと、鈴香は教室に入り、窓際の一番後ろに決まっていた自分の席に座った。どうせすぐ始業式で体育館に行くんだけど、そうしたら私、誰の後ろに並ぶんだっけ。やっぱりその間は保健室にいようかな。
席についた途端に色々な事が不安になってきて、鈴香は早くも保健室に行くタイミングを計り始めていた。教室にはもうほとんどみんなが来ていて、はしゃぎ合う声があちこちに響いて、それが更に鈴香の気持ちを苦しくさせた。
もう駄目。やっぱり無理。
そう思って拳を握り、鞄を持って立ち上がろうとしたその時、誰かが「小梶さん」と声をかけてきた。
「小梶さん、夏休みに太陽館でバイトしてたよね?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、前に駅でばったり会ったことのある、水沢さんだった。鈴香はどう返事していいか判らず、ただ小さくうなずいていた。
「お盆の少し前に、プラスキップってバンドのライブがあったでしょ?あそこのベースの人が、うちのお姉ちゃんの友達でさ、一緒に見にいったの。そしたら小梶さんがチケット切ってたからびっくりしちゃった。忙しそうにしてたから、後で声かけようと思ってたら、もう帰っちゃってたみたいで」
「私、いつも早番だったから」
「そっかあ。私、オレンジの髪した男の人にチケット切ってもらったんだよ。あの人かっこいいね。まだバイトしてるかな」
「ううん、もう辞めちゃった。私と同じで夏休みだけのバイトだったから」
「なんだ、残念。ねえ、小梶さんってライブハウスでバイトしてたり、お寺に住んでたり、面白いね。お寺ってどんな感じ?毎日お経読んだりしてるの?」
一瞬、からかってるのかと思ったけれど、水沢さんはどうも本気で質問しているらしかった。
「別に普通にしてるよ。よかったら、遊びに来てみる?」
気がついた時には、その言葉は鈴香の口から勝手にこぼれていた。私なんでこんな事言っちゃったんだろう。慌ててごまかそうと思ったのに、水沢さんはとても嬉しそうに「いいの?」と笑顔になった。
「特に面白いとこでもないけど」
「面白いよ。本当に行っていい?こんどの日曜日とかどう?」
そんなこんなで、水沢さんはお寺に遊びに来ることになって、成り行きで、彼女と仲のいい山内さんも誘った。南斗おじさんたちに無断で人を呼んでしまったのに気付いたのはそれからだったけれど、おじさんは「お寺ってのは誰でも歓迎する場所だ。狸でもな」と言って笑った。
時たまふわふわと降りてくる、赤とんぼを追いかけるように坂道を歩いていると、その辺の繁みから仁類がひょっこり顔を出すような気がする。オレンジの髪に枯草をくっつけたままで、ちょっと考え事してるような、それでいてなーんにも考えてないような顔で、「鈴ちゃん」と呼びかけてくる。
でもそれはもう終わったこと。
いつの間にか足が止まり、何故だか痛みを感じたような気がして、鈴香は長い息を吐いた。
「ご機嫌なんだか、そうでないんだか」
頭の上から突然聞こえてきた声に、鈴香は慌ててその主を探した。見上げた先にある木の枝には、一羽の大きなカラスがとまっていた。その面倒くさそうな低い声は、忘れようがない。
「や、夜久野さん?」
カラスはちらりと鈴香の方を見ると、軽く翼を広げて身体の向きを変えた。それに合わせて木の枝がわさわさと揺れる。
「ごあいさつぐらいしなさいよ」
相変わらずの駄目出しに、鈴香はやっとの思いで「こんにちは」と言ったものの、心の中では「でもカラスじゃん」と呟いた。
「全く、好き勝手にやってくれちゃって、こっちは本当に迷惑したわよ」
「朱音さんのことですか?」
「他に何があるっていうのよ。ま、最終的にはどうにかなったけど。でも、だからって何もお礼なんか出ないわよ。あなたがこちらの申し出を蹴って、自分でやった事なんだから」
カラスはそして、真っ黒いビーズのような目で鈴香を睨んだ。
「まあ、あのバカ狸にはちょっと仕返ししてやったけど」
「もしかして、仁類が警察につかまったのって…」
「うるさいわね!あんなのどうってことないでしょうよ。お弁当の残りをもらって嬉しそうに食べてたんだし、全然こたえてないわよ」
その剣幕に一瞬怯んだものの、鈴香は心のどこかが少しだけほっとしたのを感じて、もう少し勇気を出してみた。
「あの…朱音さんはちゃんと目を覚ましたんですか?」
「まあね」と短く答えてカラスは首をかしげ、鋭い嘴で背中をかいた。
「それで、渚さんとは?」
「まーったく、相変わらず質問の多い子ね。男女の仲なんて一筋縄ではいかないものよ。あんただって自分で少しは判ったんじゃないの?」
「わ、私?」
「まあどうだっていいわ、下らない。とにかくね、私が言っておきたいのは、今後一切、お互いに関わらないって事。いい?一言でも私のことを誰かにしゃべったりしたら、あのバカ狸がどうなるか知らないわよ。いくら面倒くさくても、それ位の事はするからね。そのためにわざわざ、あいつを生かしておいたんだから。」
「わかりました」
渚さんと朱音さんの事は確かにとても気になるけれど、仁類の方がやっぱり大事なので、鈴香はもうそれ以上は質問せず、素直に頷いた。カラスはそれをちらりと見て、それから勢いよく羽ばたくと、あっという間に飛び去ってしまった。
鈴香はぽかんとして、黒い影が消えていった青空を見上げていた。その目の前にまた、赤とんぼがふわふわ舞い降りてきて、はっと我に返る。
「いけない、バスが来ちゃう」
そして山門に続く緩やかな坂道を、鈴香は勢いよく駆け下りていった。
夜行性仁類