3:君のとなり(KIMInoTONARI)

3:君のとなり(KIMInoTONARI)

前章 第2章
http://slib.net/63598

3章 南の島で美しい蝶を追いかけると道を失う

ふわふわと、目の端に映る鮮やかな色と鼻をかすめる微かな香り。堪らず振り返ればそこに甘い罠。

1

「くれぐれも問題は起こすなよ」
 修学旅行へ出掛ける息子を送り出す、父親の一言。
 はいはい、と適当な返事を返して靴紐を結び終えると、バッグを持って立ち上がった。
 玄関を出て歩き始めると、ジーンズの後ろポケットに何かが入っているのに気づいた。
 覚えの無いお守り。
 そこには『交通安全』と記されていた。
 まさかと思うが先ほど父親がこっそりポケットに忍ばせたのかも知れない。
 ケンジは思わずプッと吹き出した。
 こんなものをそっと忍ばせるくらいなら『気をつけて行って来い』くらい口に出せば良いのに。
 早朝の肌寒さに身を震わせる。
 沖縄は暖かいと聞いて半袖の上に厚手の長袖シャツ一枚羽織って来ただけだったが、流石に少し薄着過ぎただろうか。
 校内の敷地に着くと、修学旅行に向う生徒たちがすでに大勢集まっていた。
 修学旅行は原則私服なので、生徒たちは各々お気に入りの洋服に身を包み、今か今かと期待に胸を膨らませている。
 馴染みの顔を見つけて近寄ろうとした時、誰かとぶつかった。
「あ、ワリィ!」
 チラリと見ると相手の肩が目に入った。
 目線を上にずらして見上げると、それは同じクラスの神崎(かんざき)ナオヤだった。
「ああ、こっちこそ」
 ナオヤは見下げる様にこちらを見つめてニヤリと笑った。
 中学の時、ナオヤとは同じバスケ部仲間だった。
 あの頃はよく一緒につるんで馬鹿みたいに騒いで楽しかった。
 だが今はそれも過去のことだ。
「いよいよだな、沖縄」
「ん……ああ、そーだな」
「もしかして初飛行機?」
「そうだけど」
「ビビんなよ?」
「は?ビビんねーよ」
 高校に入ってからは殆ど交流が無くなった。
 自分はバスケを辞め、ナオヤは昔と変わってしまい、上手く言えないがなんとなく苦手になった。
「なんか久々に話すな?」
 しかしそう言うナオヤの笑顔を久々に見て、少し懐かしくなった。
「ああ、まーな。最近つるまねーし」
「そーね、最近西山と仲良いみたいだもんなーお前。ああ言うのとつるむとか意外。でもよく蜷川(にながわ)みたいなバカと付き合えるよな。お前昔は真面目ちゃんだったのに、すっかりチャラ男になっちゃって」
「お前こそ、すっかり女たらしだって聞くぜ?」
 ナオヤは愉快そうに笑った。
「それは否定しないな」
 蜷川はバカ呼ばわりされて可哀想だが、事実だから仕方ない。
 しかし早くそのバカと愉快な仲間たちのところに行きたいのに、思わぬ相手に絡まれて足止めを喰らっているんだが。
「お前身長伸びた?」
 ナオヤがケンジの肩に肘を乗せた。
「ウッせぇ、乗せんなよ」
 ケンジは少し嫌な気分がしてナオヤの腕を払った。
「あんま身長差変わんないな。俺もまた伸びたんだよ。いつまで成長期続くのかなぁ」
 中学の頃からナオヤはすでに高身長だった。確か卒業時に百八十は越えてた。
 ナオヤはその頃からこうやって人の肩に肘を掛けるのが癖だったが、これ見よがしに身長差を見せつけられてる気がして嫌だった。
 ケンジ自身も身長は決して低い方ではなかったが、ナオヤは今年の春に百九十の大台に乗ったという噂を聞いた。
「なあ、夜お前も遊びに来いよ」
「あー悪いけど、先約あんだ」
 昨日視聴覚室であった前日集会の時に同じクラスの蜷川ショウヤからメモが廻って来た。蜷川の描いたヘタクソな裸婦のイラスト付きで。
「ツレねーな」
「お前だって普段殆ど教室いねーじゃん。休み時間すぐ他のクラス行くし」
「そうなんだよ、仲良い奴いないから。お前も構ってくれないし」
「まあな、俺はバカの相手が忙しいから」
 皮肉めいてそう答えるとナオヤがあはは!と声をだして笑った。
「また俺の相手もしてくれよ」
 ポンポンと肩を叩かれて、ようやく解放された。
 何とも言えない疲労感を感じてため息が出た。
 仲間の元に駆け寄ると、同じクラスの芳野(よしの)コウジがもの凄い形相で蜷川を追いかけ回していた。
「っはよ~!って何?どうしたの」
「あ!ケンジおは!」挨拶するや否や蜷川はケンジの後ろ背に回って盾にした。
「ってお前、何やらかしたんだよ」
「そこを退けケンジ!そいつはマジで殺す!」
「あっら、芳野がブチ切れてるー!」
 普段冷静沈着で懐の広く頼りがいナンバーワンの芳野が、ここまで憤慨しているのはめずらしい。
 蜷川は相当な何かをやらかしたのだろう。
「で、何やったのー?コイツ」
「俺がついこの前買ったばかりのゲーム機……どーしても見せろって言うから見せてやったらいきなり落としてぶっ壊しやがった」
 次期生徒会長の目は怒りで濁り、獰猛な獣の様に唸る芳野は今にも蜷川に飛びかかり食いちぎりそうな勢いだ。
 しかし全く、修学旅行出発間際だというのに本当にコイツは呆れる程のバカだ。
 ケンジが呆れて避けると芳野が蜷川を掴もうとして腕をのばしたが、蜷川はひらりとかわしてあろう事かユウの元に駆け寄った。
 ユウはどうやらクラスの女子たちと話をしていたようだが、蜷川が走って来て女子たちがキャッ!と叫び声を上げて散らばった。
「西山助けて!」
「えっ!?何から?」
「あれあれ!」
「え、芳野?」
 ユウは助けを求められ困惑しながらも興奮した芳野に「お、落ち着いて!」と声を掛けていた。
 ユウを盾にするとか、どんだけだよ。
 ケンジは大きくため息をついて側に駆け寄った。
 結局事態を収拾させるために、ケンジは蜷川にゲーム機を弁償させる事を約束させて芳野をなんとか説得した。
「俺も少し大人げなかったよ……元はと言えばこのバカにゲーム機を渡したのがそもそもの俺の過ちだった」
 芳野は諦めた様にフッと自嘲めいて笑った。


 出発時刻を前に出立式が行われ、芳野が代表して学園長たちに挨拶を済ませた。
 その後クラス毎に観光バスに乗り込み空港まで向う。
 バスの順番待ちをしている時に蜷川が言った。
「にしても西山って超お洒落さんだったんだなー!」
 隣に立つユウはこの前購入していたシャツを早速着ていた。
 モノトーンを基調としたコーディネート。妖艶な女性の顔が描かれた変形カットソーの唇の色と、上に羽織っている黒シャツのボタンが同じターコイズブルーカラーでポイントになっている。
 ユウの私服を見るのは初めてじゃないから驚きはしないが、相変わらずセンスがいいと思う。
「確かに西山の私服初めて見たかも。大人っぽいっていうか個性的でお洒落だよな。ま、お前は相変わらず場違いだけどな」
 芳野が蜷川の服装を指摘した。
 千鳥柄のベストに中折れ帽。とても沖縄のイメージとはほど遠い。
「ファッションモンスターとは俺様のことだ」蜷川が帽子に片手を添えて格好つけた。
「お前今から一体どこに行くつもりなんだよ」
「そら南国の島!沖縄さ!」
 蜷川はウザったらしく両手を広げて妄想に耽っていた。
「青い海青い空!白浜ビーチに水着ガール……!」
「今十月末だけど海泳げんの?」
「さあ?沖縄だからイケんじゃないの」
 バスの後部座席に着いて早速ユウに話しかけた。
「さっき女子に囲まれてたけど何話してたの?」
「えっ?いや、なんか服の事聞かれて。どこで買うのかとか」
 なるほどなー、と頷いた。
 普段あまり目立つことのなかった奴が、ハイセンスな私服を披露すりゃ誰だって気になる。ミーハーなクラスの女子たちが放っておくはずがない。
「まー女子は目ざといから」
「ケンジだってオシャレじゃん」
「そりゃどうも。一応気は遣ってるんでー」
 バスで数時間かけて空港まで向う。
「な~な~、中間テストどうだった?」
「どうって、もうやっべーやっべー」
「数学絶対引っ掛けあると思った!」
「それな!俺危うく引っかかるとこだったけど時間ギリギリで気付いて慌てて直した!」
「えっ!?どこ?やべぇ、俺引っかかってるかも」
「それよりさー、昨日ドラマ観た人!」
「あっ!観た観た!」
 それぞれ仲のいいグループで固まって喋ってたらあっという間に半分過ぎた。
 近くの女子グループがチューイングキャンディをくれたので、お返しに持ってきていたチョコ菓子を配った。
 トイレ休憩で停車するとユウがペットボトルのお茶を飲んでため息を吐いていた。少し顔色が悪く見えた。
「大丈夫か?」
「うん。一応酔い止め飲んでるから」
「あ、お前酔い易いの?言えば良かったのに。次前座ったら」
「うん、そうする」
 バスに戻った時蜷川たちに声を掛けた。
「おーい、俺ら次前座るから」
「えっ?なんでだよケンジ!さっきの話の続きがあんのに!」
 蜷川の自慢話に花が咲いていたが、大体想像がつくので手を挙げてバイバイと手を振った。
 適当に前から数列目の空席に座ると、後から来た男子二人組が困惑していた。休憩前にそこに座っていたのだろう。
「お前ら酔ったりする?」
「いや、別に平気だけど」
 ケンジは親指で後ろを指してはにかんだ。
「悪いけど席変わってくんない?コイツ酔い易いらしくて」
 窓際席に座るユウが彼らに気を遣って、ごめん、と頭を下げた。
 すると二人はしぶしぶ後部座席の方に向った。
 担任の梶山(かじやま)が人数を確認を終えて、運転席横の席に座るとバスが発進した。
「何もケンジまで一緒に前に座らなくても良かったのに」
「まーいーじゃん。蜷川の奴うるせぇんだもん」そう言って口の両端を上げた。
 片想いだった相手にようやく友達として認められたんだ。少しはゆっくり話がしたい気分だった。
「へぇ、お前ら本当仲いいのな?」
 落ち着きのある低い声がして振り向くと、通路を挟んだ反対の席にナオヤの姿があった。
 思わずゲッ!と声が出そうになった。
「なんだお前は一人かよ」
 二つ並んだシートの隣には誰もいなかった。
「だから仲いい奴いないんだもん。まあ別に窮屈なの嫌いだし、ちょうどいいよ」
 他の奴からも嫌われてるって訳では無いが、どうにも取っ付きにくいオーラがある様だ。
 クラスの行事に殆ど参加しないのも理由の一つかも知れないが。
「西山って何中?」
 今度はナオヤがユウに絡んで来た。
「えっと、……南美だけど」
 ユウは突然話しかけられて戸惑った様子だった。
「え?遠くない?そっちから通ってんの?」
「ううん、もともと家がこっちだから高校は近いところにしたんだ」
 同じクラスになってからも今まで殆ど話しかけもなかったくせに、急に興味を持ったのかユウを質問攻めにしてきた。
「そっかー、お姉さんいるんだ。西山のお姉さんなら相当美人だろうな」
「えっ……。どうかな、まあ綺麗な方だと思うよ」
「彼氏いる?」
「えっ……さあ……」
 流石に質問がエスカレートして来てユウがたじろいでいた。
「おい、いい加減にしろよ。何だよ急に質問攻めとか」
「だって、俺も西山と仲良くなりたいだもん」
「一方的過ぎるだろ」
「じゃあ西山も聞きたい事あったら何でも聞いてよ」
「えーっと、うん、そうだね……」
 ユウは困惑した表情を浮かべていた。
「じゃあ、二人は、仲いいの?」
 ユウがケンジとナオヤを指差した。
 それにナオヤが答えた。
「あー、同じ央中バスケ部だったんだよ」
「そうなんだ!?ケンジバスケ部だったの?」
「言ってなかったっけ?」
 この前公園で話した時言った気がするが、覚えていないようだ。
「そうそう、こいつスポーツ少年だったの。しかも超真面目でさぁ、優等生って言うの?」
「げ、やめろよ」
 ナオヤは昔の自分を知る数少ない人間だ。しかし今更昔の話をほじくり返されるのは御免だ。蜷川みたいなバカでかい声で吹聴しないだけはマシだが。
「でもキャプテンだったくせにバスケやめちまったもんなお前」
「……仕方ないだろ、腕怪我しちゃったんだから」
「それだけか?試合に応援にすら来なかったし。まあどうせ予選敗退したけど」
 怪我して試合に出れなくなったのは事実だ。でもそれ以上にあの頃は精神的余裕が無かった。
 そう言えばあの時、ナオヤもそんな自分の事を気にかけてくれていた事を思い出した。しかしその後ナオヤも変わってしまった。
「お前昔と全然変わっちゃったよなー。前はそんなんじゃなかったのに」
「お前だって……」
 言いかけて止めた。
 蜷川が現れたからだ。
「ケンジィ~!ちょっと聞けよ~!」
「……んだよっ蜷川」
 蜷川は走行中にも関わらず後ろからのこのこやって来た。
 しかもマイペースにナオヤの座っている席の横の補助席を出して座って話し始めた。
 いつものエロ男爵トークに、耳を傾けていたナオヤも流石に苦笑していた。
「ケンジなら分かるよな!」
「知るかよ!」
「な、西山もそう思うだろ?」
「ごめん、僕は分からない……」
「俺はそうは思わないけどな」
 ナオヤが蜷川の背後から口出した。
「ゲッ!聞いてたの?なんでだよ神崎」
「なんでって」
 ナオヤが蜷川に何やら耳打ちして話すと蜷川が興奮しだした。
「マジっ!?ウソだろ、やっぱりお前って噂通りの神なの!?」
 その後蜷川はケンジをそっちのけでナオヤと盛り上がっていた。
 ナオヤも蜷川をバカ呼ばわりしていた割に楽しそうに話してるのを見て、やれやれ面倒な奴らがまとめて片付いた、と息を吐いた。
 ナオヤに変わったと言われて正直動揺している。
 この前ユウと公園で話して、自分ももう無理してキャラ演じるの辞めようと思ったくせに、今更キャラを戻すのとか出来なくて通常営業してる。
 あれだけ偉そうな事を言っておきながら、結局自分も愛想笑いを止められない臆病者なのだ。
 でもまあとにかくユウが前より明るくなったことは喜ばしいことではある。


 空港に着くと、バスのトランクから荷物を取り出してロビーに向った。
 ガラス越しに幾つもの飛行機がスタンバイしているのが見えた。
 あんなデカイ鉄のかたまりが空を飛ぶなんて、本当に不思議だ。
 教員たちが団体のチェックインを済ませると、クラス毎にチケットが渡された。
 カウンターに荷物を預けた後、手荷物検査を通過して各搭乗口から飛行機に乗り込む。
 席に着いた頃に、ユウの様子がおかしい事に気づいた。
「あれ?なんか顔色悪くね?気分でも悪いのか?」
「う、うん……」
 そう言えば空港に着いてから殆ど口を開いていない。
「あ!もしかして怖いとか?」
 冗談めかして笑うとユウの表情がますますこわばった。
 どうやら図星の様だ。
「マジで?」
 ケンジは茶化して更に笑った。
「ウケる!……大丈夫だって!飛行機は一番安全な乗り物だって言うし」
 ユウは大丈夫じゃないとばかりに首を横に振った。
「安心しろよ、どうせ……墜ちるときはみんな一緒だ」
 ポン、と肩に手を置いてそう言うと、ユウは泣きそうな目でこちらを睨んだ。
 離陸時間が近づいて添乗員の女性たちがシートベルトなどを確認して廻り、やがてエンジン音が聞こえ出した。
 順番待ちに入るため機体がゆっくり動き出す。
 この頃になると、ケンジ自身も少し緊張してドキドキしてきた。
 離陸の順番が来たのか、当然、ゴッ!という音と共に機体が激しく揺れて加速し出した。
 シートに押し付けられる様な重力を感じて、更に緊張が走った。
 本当にこんなデカイ機体が勢いを付けて走ったくらいで飛ぶのだろうか?
 実際飛行機は揚力というものよって宙に浮く。
 揚力の正体は未だに解明されていないらしいが、空気の渦ができてその圧力よって物体が持ち上げられて前進するのだとか。
 理論上では問題ないと分かっていつつもやはり不安になるモノだ。
 ケンジは心臓をバクバクと鳴らしながら拳に力を入れた。
 やがてふわっ!と機体が持ち上がる感覚がして、前上がりの重力を感じた。
 数十秒もしないうちにあっという間に上空まで浮かび上がって、旋回をした後安定飛行に入った。
「ポーン」
 お知らせ音が響いてシートベルトの着脱が可能になった頃には、ケンジはすっかりアトラクション気分を楽しんでいた。
 口元に笑みすら浮かべながらシートベルトを外し、ふと横を見るとユウが離陸前と同じ姿勢で固まっていた。
「もう大丈夫みたいだけど?」
 ユウは不安そうにこちらを見た。
「シートベルト外せば?無事に離陸したし、暫くはこのまま安定飛行だろ」
 ケンジが促すとユウはしぶしぶシートベルトを外して大きく息を吐いた。
「なんでそんなに飛行機苦手なの?」
「……小さい頃に飛行機に乗った事があって、乱気流かなにかに巻き込まれて凄く揺れたんだよ。余り覚えてないんだけど、墜落しそうなくらい揺れてもの凄く怖かった事だけは記憶してて……」
「ふーん」
 ケンジは小指で耳の穴を掻いた。
 そう言えば父親も随分昔に、乱気流に巻き込まれて以来飛行機が苦手だった事を思い出した。だから今朝あんなものを渡してきたのかも知れない。
「でもすげーよな。俺ら今空飛んでんだぜ?」
 そう言って窓を指差した。
 ユウ越しに窓の外を覗く。
 先ほどまでいた空港が遥か下方小さく見える。地上の建物はもう砂粒程にしか見えない。
「わぁ、凄い……」
 ユウにもその景色を見せると、散々ビビっていたくせに声をあげて窓に張り付いた。
 ユウは窓の外の景色に夢中になっていた。
 暇を持て余してスマホの電源を入れていじり出すと、逆隣に座っていた女子に話しかけられた。
「ねえ、田所くんたちもなんか飲む?」
「えっ?」
 どうやら添乗員がカートを引いて飲み物を配給している様だ。
 適当にユウの分も頼むと、添乗員から渡された紙コップを女子が手渡してくれた。
 ユウに声を掛けたが生返事だ。よっぽど空の上の景色が気に入ったらしい。
 話し相手がいなくて退屈していると、隣の女子が話しかけて来た。
「そう言えば、田所くん」
「え?何ー?」
「ちょっと聞きたい事あるんだけど良い?」
「うん、いーよ」
「その、今彼女とか、付き合ってる人いるの?」
「ん……?」
 唐突な質問に戸惑ってしまう。
「いや。別に特定の人はいないかなぁ」
「えっ、何それ。不特定多数ってこと?」
「ん?」
 言い方に少し語弊があったようだ。
「うそぉ、マジで?」
 その更に隣にいた女子が騒いだ。
「やっぱり田所って遊んでんの?」
「は?ちげーし」
 ケンジは笑った。
「うわっ!サイテー。田所やっぱ超チャラいじゃん」
「だから違うって」
 そう言いながらも笑って誤摩化した。
 実際、本当に彼女はいない。
 そりゃ時に見栄を張っている様ないない様な仄めかすような表現をしたり、仲のいいギャル系女子たちとは、わざと際どい会話をして場を盛り上げる事はある。
 でもだからと言って本当に、遊びで色んな女子と付き合うとかいう事は一切無い。
 それは自分が実は童貞だから出来ない、という事実も関係している、かもしれない。
 周りの人間からはこんなキャラのせいか、当然遊んでいると思われている。 
 一年の時のクラスは比較的進んでいたというか、女子は大学生や社会人と付き合っている子もいたし、仲間内ではそういう話題でひっきりなしだった。
 だから連中と付き合うために話についていけるように色々勉強して、上手く会話に入り込む事も少なくは無かった。
 処世術という奴だ。おかげで普通に経験済みだと思われてしまった。
 正直焦る気持ちもあるが、だからと言って誰でもいいから付き合いたいとまでは思わない。
 中学の時三ヶ月くらい付き合った娘は居た。告白されて別に嫌いじゃなかったから付き合った。
 彼女とはキス止まりで、それ以上の進展は無かった。
 その頃は部活や男友達の付き合いの方が大事だったから、やがて向こうから別れを切り出されてしまった。
 今更童貞とかカミングアウト出来ないし。いやそもそもする必要は無いが、本音を言えば今更童貞だとバレるのが怖くて、誰かと付き合えないところもある。
 彼女は欲しいとは思うが、仲のいい女子と遊んだりバカな野郎どもとつるんでるのが楽しいから今は満足してしまっている。
「ねえねえ!見てよケンジ!」
 ユウの声に振り返った。
「ん?どした」
 ーーそれに今は友達付き合いで忙しい。
「窓の外見てみてよ」
 そう言われて再びユウ越しに窓の外を覗いた。
 そこには雲海が広がり、まるで白い雲の海の上を航海しているかのような感覚に見舞われた。
 航空機、とはよく言ったものだ。
 目の前には地上の景色とは全く違う幻想的な風景が広がっていた。
 蒼穹の空、絨毯の様に遥か遠くまで広がる白い雲。
「ね?凄いでしょ?」
 ユウがまるで自慢するかの様にドヤ顔していた。
「ああ、すげーわ」
 ケンジは笑って再び窓の外を見た。
 世界にはまだ見ぬ景色が無限に広がっている。

2

 沖縄到着が迫っていた。
 空から見た景色は、自分が知っている色とはまるで違う海の色。
 コバルトブルーの海というものを初めて肉眼で確認した。
 那覇空港に着陸後、搭乗とは逆にベルトコンベアに乗せられて来る荷物を回収して、空港のロビーに集まった。
 現地で予約していた観光バスに乗り、一行は一番始めの目的地である平和記念公園に向った。
 博物館やひめゆりの塔などの慰霊碑を周り参拝する。
 戦争の悲惨さを語る遺品や手紙の展示。当時の戦争経験者が語るビデオなどが上映されていた。
 希望者はエレベーターで屋上に上がり、公園を一望出来た。
 ――沖縄の明るい空とは対照的に、その整列した慰霊碑は物悲しい暗い歴史を物語っているかの様だ。
 修学旅行から帰った後班毎にレポートを発表しなければならないので、大勢がノートにメモを取りながら館内を見学して廻っていた。
 見学終了後、公園の敷地を後にして遅めの昼食を取るために大型レストランへ立ち寄った。
 恐らく観光客向けのレストランなのだろう。
 ご飯と幾つかのサイドディッシュの他、様々な料理をビュッフェ方式で好きなものを選ぶ事が出来た。
 昼食の後、再びバスに乗り込み旧海軍司令部壕の見学をした。
 そうして一日目は沖縄戦について学び、夕方ホテルへ到着した。
 クラス毎に分かれて諸注意を受ける。
「まあ、色々守らないと行けないルールはある。しかしだな……」
 担任の梶山(かじやま)は受け持つ二年四組の生徒を目の前に、腕を組みながら感慨深く語っていた。
「勉強のための旅行である事には間違いないが、お前たちの人生でこの先ずっと思い出に残るイベントになる事を、俺は願う。出来る限る最高の思い出にしてやりたいとは思っているんだ。だからこそルールを守って楽しい旅行にして欲しい!」
 梶山なりの釘の刺し方なのかもしれない。
 何年か前に修学旅行生が、台風が接近中で近隣海岸への遊泳が禁止されていたにも関わらず、抜け出して海水浴をして波に飲まれて命を落とした、と言う話をした。
 ルールや決まりがあるのには理由があるのだという事を熱弁した後、梶山は各部屋のルームキーを配り始めた。
 三泊のうち二日間がこのマンモスリゾートホテル泊となる。
 夕食の時間までは各自部屋で荷解きをしたり自由に時間を過ごせる。
 ロビーで解散した後、ユウはすぐさまケンジの側に近寄った。
「僕たち何号室だっけ?」
「三二一七号室」
 ケンジがカード式のルームキーを指先で弄びながらニヤリと笑った。
「三階?」
 他の同級生たちもケンジに話しかける。
「っそ。……でもエレベーターは時間かかりそうだな」
 ケンジの目線の先にはエーレベーターホールに群がる生徒たちの姿があった。
 ケンジの提案で階段から行く事にした。
 ユウは初めての場所で迷い、案内表示を確認しようとキョロキョロと辺りを見渡した。
 それに目もくれず迷うことなく歩き進むケンジに呼ばれた。「ユウ、こっち」
「あ、うん!」慌ててケンジの後を追う。
「あ、お前らの部屋あっち。俺らこっちだから」
 声をかけられた同級生の蜷川(にながわ)シュウヤがふた指を揃えて敬礼した。
「オッケー!じゃあ後でなケンジ!」
 蜷川はウインクして額に添えた指を空に投げた。
 ふと疑問に思ったので尋ねた。「ここ前にも来たことあるの?」
「ううん全然」
「え、じゃなんで部屋の場所わかるの?」
「避難経路図配られてたじゃん」
「えっ?わざわざ覚えたの?」
「別にちらっと見て覚えてただけだよ」
 そっか、ケンジって記憶力もいいんだ。暗記が苦手なユウには羨ましい能力だと感じた。
 部屋に辿り着くと、ドアノブの上の溝にカードキーをスラッシュしてロックを解除して部屋に入った。
 そこは程よい広さのツインルームで、窓の外にはホテルの裏にある公園の緑が広がっていた。
「ふ~ん、まあまあ。思っていたよりは結構広いじゃん?」
 よく言えばモダンで落ち着いた雰囲気の室内、綺麗だがごくありきたりなホテルの一室という印象だ。修学旅行だからこんなもので当然か。
 ユウたちは早速荷物をベッド脇に置いて、二つあるベッドにそれぞれダイブした。
「あ~っ!マジ疲れた」
 ケンジがうつ伏せに倒れながら唸っていた。
 ユウも横倒しになりながら開放感を味わっていた。
 ケンジが起き上がる気配がして自分も体を起こすと、ケンジはバッグの中からチョコ菓子を出してむしゃむしゃ食べ始めた。
「疲れたときはマジ甘いものに限る」
 お菓子は凄い勢いで何個もケンジの口の中に消えて行った。
「食べる?」
「うん、ありがと」
 お裾分けを貰いながらユウは尋ねた。
「ケンジって甘いもの好きなの?」
「まあね」
「何か意外」
 ユウはクスッと笑った。
「そうか?糖分は大切なエネルギー源だしな!」
 そう言ってケンジはあっという間に一袋平らげてしまった。
 ケンジは窓を開けて外に身を乗り出した。
「やっぱり三階は結構高いな」
 その間にユウ鞄から荷物を取り出して身の回り品を整理していた。
 暫くしてケンジがあっ!と声をあげた。
「どうかしたの?」
 振り向くとケンジが窓から身を乗り出して下の様子を伺っているようだった。
「何か落としたの?」
「うん、グラサン落としたわ」
 恐らくケンジがTシャツの襟首に引っ掛けていたものだろう。
「あーあ、そんなところに掛けてるからだよ」
 そう言うとケンジは拗ねた様にしゃくれた。
「ちょっと拾って来る」
「僕ここで少し休んでる」
「おう。ついでになんか飲み物買って来る?下に売店あったはず」
「ううん、僕はいいや」
「わかった」
 そう言ってケンジは部屋を出て行った。
 部屋に一人っきりになってユウは再びベッドに倒れ込んだ。
 やはり旅行は楽しいけど少し疲れる。
 目を閉じて横になっているといつの間にか寝てしまった。


 ふと気がつくとケンジに呼び起こされていた。
「おい、ユウ!ちょっと起きろ」
「……う……ん?」
 景色の滲む目を擦りながらケンジの声に体を起こした。
「どうかしたの?」
「大変なんだって!ほらこれ見てみ」
 ケンジが指差した先の天井を見ると、何やら天井にシミが出来ていくつもの雫が垂れ下がっていた。
「えっ!?」
 ユウは慌てて飛び起きるとケンジが風呂場の中を親指で刺した。
「多分上の階の部屋から水漏れしてんだよ」
 雫がポタリ、と落ちた。
 先ほど部屋に入った時には全然気がつかなかった。
「俺ちょっとホテルの人に連絡するわ」
 ケンジはベッド脇に設置されていた電話を手にして、フロントへ連絡しだした。
「……はい……はい、そうです。分かりました、お願いします」
 急にこんな事態になって、ユウは軽くパニックになっていた。
 どうしよう、せっかくの修学旅行なのにこんな事になるなんて。でもケンジは冷静に対処していて凄いな……。
 ユウはわたわたと荷物を移動させたり、天井を見上げながら室内をうろつくしか出来なかった。
「俺ちょっと先生のところ行って来るから、ホテルの人が来たら見てもらって」
 そう言ってケンジは再び部屋を出て行ってしまった。
 取り残されたユウはどうする事も出来ず、ただその染みの広がりをジッと監視していた。
 自分一人だったらどうして良いか分からないまま呆然と立ち尽くすか、戸惑いつつも放置していたかも知れない。
 暫くしてホテルの人がドアをノックした。
 中に入って見てもらうとホテルマンも、ああ~っ、と声をあげて困惑している様だった。
「申し訳ございません、ただいま上の階を調査しますので……」
 そのスーツに身を包んだホテルマンの胸元に刺さるゴールドプレートには、『チーフマネージャー』と刻まれていた。
 ホテルマンは折りたたみ式の携帯電話を手に取り、誰かに連絡を取って話し始めた。
 すると暫くして梶山と一緒にケンジが現れた。
 ホテルマンは梶山たちに挨拶して申し訳しながら頭を下げていた。
 梶山もその状況を見て、あ~っ!と声をあげて顎元に手を添えた。
「代わりのお部屋をご用意いたしますので、その間差し支えなければロビーでお待ちいただけませんでしょうか」
 ホテルマンは本当に申し訳無さそうな表情を浮かべながら何度も頭を下げて来た。
 こういう仕事も大変だな、と思った。
 仕方なく一旦荷解きした荷物をまとめ直し、ロビーのラウンジで出してもらった飲み物を飲みつつ待つ事にした。
「あ~、夕食までもう三十分しか無いな」
「うん、まさかこんなことになるなんて」
「まあな。……でもホテルなのに上の階から水漏れとか、サスペンスドラマかよ」
「本当だよね、ビックリした」
「部屋替えとかマジ面倒いよな。でもちょっと楽しくね?なんかイベント感っていうか」
「あ~、それちょっと分かる!」
 ユウもようやく落ち着いてきて心に余裕が出てきた。
 旅行先ではその非日常的な感じにワクワクしたり、普段ならなんでもないこともウキウキしてしまったり、感覚がオーバーになったりする。
 ただでさえ、家族の元を離れ友達と一緒に泊まることは普段ではないイベントなのだが、更に起きたハプニングによって興奮していた。
 五感が研ぎ澄まされるようなというか、意識も景色も鮮明なのに体がふわふわとした感覚。いわゆる”ハイ”になっていた。
 こうやってケンジと一緒に会話をしてるこの時間すらとても楽しい。
 ケンジと一緒なら、どんなハプニングだって逆に楽しめてしまうんじゃないかと思った。
 テンションがハイになり、普段はそこまでお喋りは得意じゃないはずなのに、この時は次から次へと話題が絶えなかった。
 テレビの話で盛り上がっているとケンジのスマホが鳴った。
「もしもし?アガチョ?どした。……うん、あーそうなんだけどさー、実は……」
 今まで息をつく暇もなく話していたのに、ケンジが電話の相手と話し始めたのでユウは途端に暇を持て余してしまった。
 恨めしい気分でケンジの方を見た。
 携帯電話は修学旅行から戻ったら買ってもらう約束だ。
 姉にやっぱり携帯電話が欲しいと言ったら、やっと仲のいい友達が出来たの?と笑われた。
 少し心外だったが、確かに今まで親しい友達もいなかったわけで。
 ケンジは自分と全然違うタイプなのに、こうして一緒にいるのが不思議なくらいだ。
 携帯電話を手に入れたら、ケンジともメールとか電話とかたくさんやり取りして仲を深めたい。
「今からバンド仲間の二人が来るらしい」いつの間にか通話を終えたケンジが言った。
「えっ?」
「なんか俺が暇してるって言ったら来るってさ」
「そう……」
 そう言われてユウは少し寂しい気がした。
 暇、か……。
 自分はケンジと話してるだけで全然楽しいと感じていたのに、ケンジには退屈だったのかなと心が曇った。
 五分くらいして、エレベーターから出て来た二人の男子がこちらに向って来た。
「よー!ケンジ、久しぶり」
「さっき海軍司令部の駐車場ですれ違ったろ」
「だからそれぶり!」
「つかお前ら二人部屋とかずるくねぇ?俺の部屋なんか四人部屋で学年一、二を争うデブが二人もいんだぜ?ありえねぇ」
 彼らは確かに学園祭で見た事ある二人だった。
 片方はヒョロッとした瘦せ形で少し陰気な雰囲気、もう一人は対照的に明るくて爽やかな雰囲気の男子だった。
「え~っと?」
 二人はユウを見てケンジの顔を伺った。
「ああ、コイツは同じクラスの西山ユウ」
「……西山……」
 彼らは少し思い出す様な仕草をして、あっ!と閃いた様に手を叩いた。
「あーっ!?あの西山ユウ?女装の!」
「バカっ!声でけーし、あんまそれ言うなよ怒るから!」
「道理でどっかで見た気がした!」
「うはーっ!マジか本物だ!初めましてよろしく!」
 陰気な方の男子がとたんに興奮した様にユウの手を握って来た。
「えっ!?は、はあ……」
「本当に普段は男なんだ。でもやっぱり超女顔」
「だからあんまり言うなって……」
「あ、あの」
 ユウは困惑してケンジの方を見た。
「あ、わりぃ。コイツらバンド仲間の、我妻リュウジと担岡イサヲ」
 ケンジはそう言って二人を交互に指差した。
「はーい、俺ギターコーラス担当のアガチョでーす」
 爽やかな方が軽く手を挙げて笑った。
「ベースの……」
 陰気な方がぼそりと呟くとアガチョと名乗った男子が付け加えた。
「イサミンでーす!」
「だからそれ嫌だっ!」
 どうやらその愛称は本人は気に入っていない様だ。
「イサヲで!ちなみにみつを的な感じで下のをだから」
「変わってるよな」
「父ちゃんのこだわりなんだよ」
 そう言うのでイサヲと呼ぶ事にした。
 座り心地の良いラウンジのソファに座って四人で話し出した。
「それにしても、に、西山の女装、凄く良かったよ……」
 イサヲの照れ笑いがまあまあ気持ち悪くて、微妙な気分になった。
「あ、ありがとう……」
「あれは衝撃だったね!俺マジでいつの間にケンジに彼女出来たのかと思ったもん」アガチョが両腕を組みながら笑った。
「でも皆の反応マジ面白かったし。男だって言った瞬間皆口あんぐり開いてさ?あれ爽快だったなー!」
 ケンジが思い出した様に笑い、こちらに賛同を求めて来たので口を尖らせた。
「なんで女装なんかしたの?」
 アガチョが尋ねてきた。
「なんでって……ケンジに無理矢理させられたの」
「え?俺だけのせいじゃないじゃん」
「えーっ、今更責任逃れするの?」
 ユウが横目で睨むとケンジが肩を縮めて「あ、はいすんません」と謝った。
「でも、ライブは凄く良かったよ!」
 ユウは思い出して思わず褒め讃えた。
「本当に?」
「うん、今までああいう感じの音楽興味なかったけど、カッコ良かったし、また聴きたいな」
「へえ~、じゃあ今度俺らのバンド練習見学しに来ちゃう?」
 アガチョがニヤリと笑って言った。
「えっ?いいの?」
「別に構わないよな?ケンジ」
「あー、いいんじゃねぇの。でも絶対マルオ絡むよな」
「まあね。俺らも充分絡んでるけど」
 笑いながら話していると梶山が声を掛けてきた。
「お前ら楽しそうだな」
「あ、先生」
「田所たち、部屋の準備ができたらしいぞ」
 梶山の後ろにホテルマンの姿があった。
「じゃあケンジ俺ら部屋に戻るわ」
 アガチョたちはそう言って去って行った。
 ホテルマンに連れられて行った先は別館のフロアだった。
「本日混み合っておりまして、同じタイプの部屋はご用意ができなかったものですから……」
「そうですか。まあ寝られればどこでもいいですよ」
 梶山が代わりに答えた。
 でも流石にシングルルームに二人とかは辛い。
 梶山はさりげなく水漏れの原因を訊いていた。
 どうやら上の階の客が、海水浴の後湯船に湯を溜めながら寝てしまい、排水処理が間に合わずに浴槽から溢れた水が室内まで漏れてしまった様だ。
「損害賠償大変そうですねぇ」
「あっええ……でも保険に入っておられたそうで……先方の保険会社の方が迅速な対応をしてくださったのでまあこちらとしても……」
 大人同士で何やら小難しい話をしていた。
 別館は本館よりもさらに綺麗で装飾の雰囲気が違った。
 しかもエレベーターで着いた先は七階で、案内された部屋の前は一段と豪華というか、明らかにグレード感が異なっていた。
「え?ここですか?」
「はい。実は諸事情により普段あまり使わないお部屋なのですが……」
 中に入ってビックリした。
 想像以上だった。
「こちらはジュニアスイートになります」
 そこはカウチソファやテーブル、テレビなどが設置されたリビングの様なラグジュアリー空間。
 脱衣所と浴室、トイレが個別にあって、奥にはツインのベッドルームがあった。
 まさにリゾート感たっぷりな部屋だ。
「ひゃあ、ヘタすると俺らの部屋より広いんじゃないか?」
 梶山が腕を組んでため息を漏らしていた。
「え、ここ本当に使っていいんですか?」
 ユウは驚いてホテルマンに尋ねた。
「はい、勿論です。ご迷惑をお掛けしましたので、本日はこちらでごゆっくりおくつろぎいただければと」
 梶山はう~んと悩んでいる様だった。
「えっ、ここ駄目っすか?」
 ケンジが梶山に尋ねた。
「そうだなぁ、まあ他に部屋が空いてないなら仕方ないか。まあ、大丈夫だろう。主任の先生には俺から話しておく」
「やったぁ!」「おっしゃ!」
 ユウはケンジと一緒に歓びの声をあげて手を叩いた。
「ただ、他の生徒たちには言いふらすなよ。くれぐれもお仲間を呼んで騒いだりして他のお客さんの迷惑になる様な事しないように。そしたら俺の隣で寝てもらうからな?」
「はーい」
 声を合わせて返事をした。
 ホテルマンから新しい部屋の鍵を貰い、彼はお辞儀をして去った。
 梶山もまもなく夕食だから早く支度を済ませる様言い残して去って行った。
 ドアが閉まり、二人きりになって騒いだ。
「やっべ!何この部屋!マジスゲー!」
「この展開は想像もしてなかったよ。本当にいいのかな?ここに泊まって」
「いいだろ?だって梶山が良いって言ったし!今更駄目とか俺が駄目」
 若干間取りが悪いせいか、窓の面積は部屋の割に小さいが、カーテンを開けるとそこはオーシャンビュー。
 外はもう薄暗くなっていたが、彼方で残り陽が光る海の景色とライトアップされたホテルの庭園がマッチして美しい。
 最初の部屋よりも絶対こっちの方が景色も良かった。
「災い転じて福と成る、だな」
 ケンジの呟きに頷いた。


 夕食はホテルのレストランバイキングだった。
 地元の特産品を使った料理などが並べられ、マンゴーやグァバ、シークァーサーなどの南国フルーツのジュースやデザートなども豊富に用意されていてかなり満足できた。
 ケンジは何度も料理を取りに行っては平らげていた。
「どんだけ食べるの?」
「別に?普通だろこんくらい」
 ケンジはそう言って二杯目のカレーをよそっていた。
「あ、ケンジ」
「おー、ショウタじゃん久々。あっそうだ、あのさ……」
 ケンジは近くにきた他クラスの生徒と話し始めた。
 どうやら後で部屋に呼ぶつもりらしい。
「ケンジ、先生にバレたら叱られるよ」
「大丈夫だって。せっかくの修学旅行なんだし。しかもあの部屋他の奴らに自慢しない訳にいかねーっしょ?」ケンジは悪戯っぽく笑った。
「そ、そう?」そう言われてユウもなんだかその気になってしまった。
 ケンジはまた他の生徒に声を掛けられて話していたので先に席に戻ると、何故かケンジの席に同じクラスの神崎(かんざき)が座って来た。
「あれ?席、ここじゃないと思うけど……」
「うん、知ってる。西山、カレー?」
「うん、ケンジが美味しいって言ってたから……」
「へぇー、俺にもちょっと頂戴?」
「えっ、自分でよそってきたら?」
「一口でいいよ」
 戸惑いながらもカレーを差し出すと、神崎はユウの使っていたスプーンですくって一口食べた。
「あー、確かに美味い。そう言えば西山っていつからケンジと仲良いの?なんか二人って意外な組み合わせだよね」
「うん。自分でも意外だとは思ってるよ。でもまあ全然違うタイプだから逆に面白いかも。仲良くなったのは割と最近なんだけどね」
「へえ?そんなんだ」
 するとケンジが戻って来た。
「何でお前がいるんだよ」
「別に良いじゃん」
「そこ俺の席だからどけよ」
「はいはい。お邪魔しましたー」
 神崎は去り際に「ゴーヤチャンプルーもオススメだよ」と耳打ちして来た。
「アイツと何話してたの?」
 ケンジが怪訝そうな顔をして尋ねて来た。
「別に、料理の話。カレー美味しいって言ってたから持って来たんだけど、なんか神崎がいて一口くれって言うから……」
「ふ~ん……。っていうか部屋に誘ったりしてねーだろうな?」
 ユウが否定するとケンジは「あんまりアイツの相手しなくていいから」と少し不機嫌そうにしていた。
 少し気まずくなって、別の料理も取って来ると言って再び席を立った。
 ケンジと神崎は昔仲良かったみたいなのに、今じゃなんだか距離があるみたいだ。ケンジが一方的に神崎を避けてる様な。
 やはり友情って長く続かないものなのだろうか。
 ようやく仲良くなれたばかりだというのに、そのうちケンジとも上手く行かなくなる日が来るかも知れないと心配してしまった。
 先ほど神崎がオススメだと言っていたゴーヤチャンプルーだが、皿に盛ってテーブルに持ち帰ったものの、一口食べてもう無理だった。
 初めてゴーヤを口にしたがここまで苦いものだとは思わなかった。
 吐き出したいくらいだったが、なんとか飲み込んだ頃には涙が滲んでいた。
 流石に元の器に戻せないだろうけど、残したらホテルの人に怒られそうだ。
 すると見かねたケンジが「仕方ねーな」と言って残りのゴーヤチャンプルーを食べてくれた。
「ゴーヤ好きなの?」
「まさか。苦いから余り好きじゃねーよ。でもこんなに残したら勿体ないだろ」
 肩をすくめてケンジにごめんと謝った。
 食後に班長会議があってケンジは奥のテーブルで他クラスの人たちと一緒に集まっていた。
 明日は班別自由行動の日なのでそのうち合わせだろう。
 自由行動は二日あり、班ごとに分かれて大体の班が一日を体験学習ルート、もう一日を観光に充てている。
 ユウとケンジは別班だったのでホテル以外では別行動になる。
 先に部屋に戻っていようとレストランを出ると、吉川モエが声を掛けてきた。
「西山くん」
「吉川さん」
 そう言えば吉川とは今日初めての会話だ。
「部屋に戻るの?」
「うん。ケンジがミーティングに出てて暫くかかるみたいだから」
「そっか。あ、そうだ。ちょっと見せたいものがあるんだけど、少しいい?」
 吉川は笑って手をこまねいた。
 付いて行った先はホテル本館の中庭にある噴水前だった。
「ここ!ねっ、凄く綺麗でしょ?」
 噴水がイルミネーションで彩られ、水が次々と移り変わる様々な色に染められていた。
 ユウも思わず声をあげて頬を綻ばせた。
「本当だ、凄い綺麗!」
「さっきサクラたちと見つけたんだ!」
 サクラとはユウたちの班の班長を務める安永(やすなが)サクラの事だと悟った。
 吉川とは幼なじみの様で仲が良く、部活も同じでいつも一緒にいる印象がある。
 何を話していいか分からなくなって適当に話を切り出した。
「このホテル凄く良いところだよね。部屋も綺麗だし、景色もいいし」
 そう言って吉川の方に目を向けた時、思わずドキッとした。
「うん、そうだね。でも私の部屋からは海が見えなくて残念かな」
 暗い中に輝く噴水の光の加減なのか、それとも私服のせいだろうか。
 吉川はいつにも増して可愛く見えた。
 綾瀬の事が好きなのに、吉川にドキドキしてしまった。
 恥ずかしさと自分への嫌悪感にいたたまれなくなって、そろそろ部屋に戻ろうかと考えた時だった。
「あっ……!」
 目の前でバランスを崩した吉川が噴水の中に落ちた。
「……吉川さん!」
 しぶきを上げて噴水の中にぺたりと座り込む吉川に声を掛けた。
 自分でも何が起きたのか分からない様子できょとんとしている吉川と目が合った。
「大丈夫!?……あっ……」
 濡れたTシャツの下に下着が透けて見えてしまった。
 ユウは手を差し伸べたが思わず目を逸らした。
「……あははっ!ごめん、ヤダ、超恥ずかしい。こんなところに落ちるなんて」
 吉川は笑いながらユウの手を握って来たので、ユウは目を逸らしたまま思い切り引っ張った。
「ありがとう、西山くん」
 いつもの調子で笑う吉川の顔を、余り長く見ていられなかった。
「風邪、引くといけないから、部屋に戻って着替えた方がいいよ」
「うん、そうする」
 吉川ははにかんで手を振って去ろうとした。
「あ、待って……」
 ユウは思わず部屋に誘おうかと悩んだ。ケンジもたくさん人を呼んでいる様だったし、問題は無いとは思うが、結局尻込みした。
「吉川さん、コレ……」
 ユウはシャツを脱いで吉川の肩にかけた。
「……あ、ありがとう……!」
 吉川は再びはにかんで今度こそ去って行った。
 先ほどの自分の行動が、少しキザったらしく思えて余計恥ずかしくなった。


 ホテルの周りを少し散歩してから部屋に戻る途中、班長会議を終えたケンジと遭遇した。
「ケンジ。会議終わったの?」
「あぁ。なんだ、先部屋戻ってれば良かったのに」
「うん、ちょっと散歩してたんだ」
 他の生徒たちと離れ共に新館に向った。
 すると驚いた事に部屋の前に同級生たちが群がっていた。
 向かいの壁沿いにすがっている女子たちに、ドアの前に座り込む男子共。
 軽く十人は待っていた。
「ちょっ……!?まさかケンジこんなに呼んだの?」
 ユウは驚いて声をあげた。
「おーい、お前らあからさまに待ち過ぎ。お忍びでっつったろ?」
「おせーよケンジ」
 ケンジがやれやれとカードキーを取り出し、ドアを開けて彼らを部屋に招き入れた。
 ユウは慌てて荷物を奥の寝室に運んだ。
 雪崩の様に人が押し寄せて、騒ぎながら室内を見分していた。
「こんなにたくさん、先生に見つかったら……」
「んまあ、そん時はそん時」
 ケンジは下をベッと出して呑気に笑っていた。
 来客は後から更に増え、知らない他クラスの生徒も多く集まっていた。
 ケンジの奴、いつの間にこんなに誘ったのだろう。
 更に驚いたのは綾瀬マイコが部屋を訪れた時だ。
「綾瀬さんたちも誘ったの?」
「だってどうせお前誘えないだろ?」
 ケンジがニヤリと笑った。
 それはそうだけど、とユウは口ごもった。
 そして吉川も安永サクラと現れてドキッとした。
「さっき田所くんが私も一緒にって誘ってくれたみたい」
「そう、なんだ?」
 どうやら班長会議で一緒だった安永にも声を掛けたらしい。まあケンジは吉川がお気に入りだって言っていたし、誘わない訳ないか。
 吉川は服を着替えていた。お風呂にでも入ったのか良い香りが漂って来た。
「急に来ちゃってごめんね?西山くん迷惑じゃなかった?」
「いや、迷惑なんて。といっても、この有様だけど……」
 室内は人でごった返していた。
 勝手にテレビを付けて見たりわざわざ人の部屋に来てまで通信ゲームで遊んでいる者もいれば、女子たちはお菓子やジュースを囲んで雑誌を広げていた。
 ユウもその場の流れで、吉川たちと一緒にソファに座りお喋りをして盛り上がった。
「そう言えばさっき借りた服、今度洗って返すから暫く借りててもいい?」
 吉川がにこやかに言った。
 替えの服はまだあったので、いいよと笑った。
「モエったら運動神経いいはずなのに、変なところでドジなんだから」
 安永が吉川の脇腹を肘で突いて笑うと、吉川は少し拗ねる様に口を尖らせた。
 彼女たちとのお喋りは楽しかったが、せっかく綾瀬がいるというのに一言挨拶も出来ていない。
 ケンジがまた綾瀬たちと楽しそうに話をしているのを、羨ましく遠目から見つめているだけ。
 同じ班だから自然と話す機会も増えて仲良くなれるんだろうな。
 本当今更だけど、やっぱり綾瀬と同じ班になりたかったなと残念な気持ちでため息を漏らす。
 吉川も可愛いけど、落ち着いた雰囲気で睫毛も長くて美人の綾瀬の姿を見るとやはり彼女が一番だと思った。
 そのうち女子だけで盛り上がって話題についていけなくなり、時間を持て余してしまった。
 かと言って今更他の友達と楽しそうに会話している綾瀬に近寄って話しかける勇気はなかった。
 ケンジはまた別のグループに混じって楽しそうに話している。
 誰とでも仲良くなれて、いろんなタイプの友達がいるケンジのことが羨ましく感じた。
 人気者ばかり集まって、改めてケンジの交友関係の広さを見せつけられた気がする。
 急に疎外感を感じてしまった。
 たとえ豪華な部屋だとしても、自分が誘ったところできっとこんなに人は集まらなかっただろう。そもそも誰かを誘う勇気なんてなかった。
 午後九時を過ぎた頃だろうか。
 ふとドアをノックする音が聞こえて、ケンジが怪訝な顔をした。
 ケンジはおい、と皆に呼びかけてシッ!と指を口元に立てた。
 一同はえっ?とドアに近づくケンジの方を見た。
 ケンジはドアの覗き穴を確認して皆に言った。
「……ヤバイ、梶山来た!」
 どうしよう!と混乱する生徒たちを、ケンジは浴室や奥のベッドルームに押し込んで黙らせ、ゲーム機や本を持たせてソファの裏に隠れさせた。
 ユウも他の生徒たちと一緒に浴室に押し込まれてしまって身動きが取れなかった。
 再びコンコン!とノック音が響いた。
「絶対しゃべんなよ……っ!」
 ケンジの声の後ドアが開く音がした。
「あ、先生。……どうかしたんすか~?」
 ケンジが何食わぬ様子で梶山と会話する声が聞こえた。
「いや、どんな様子かと思ってな。どうだ、ここは問題ないか?」
「あーはい、もう最高っすよ」
「そうか。かと言ってあんまりハメ外すなよ。西山はどうした?」
「あー……。今ちょっと風呂入ってまーす」
 浴室にいるのは間違いない。
「消灯時間まではまだ時間あるが、見回りは河合(河合)先生たちに頼んであるから。また後で様子見に来られるだろう。まあもし何かあれば連絡しろよ」
「はーい、了解っす」
「じゃあ、邪魔したな」
 ドアが閉まる音がして、ケンジがため息を吐く声が聞こえると、来訪者たちは再びゾロゾロと室内に戻った。
「超焦ったー!」
「マジセーフ!」
「痛ったぁ!さっき思いっきし足踏んでたんだけど」
「ワザとじゃないって!ケンジが押すから~」
「俺そろそろ帰るわー。風呂にも入んなきゃだし」
「だねだね~。先生たち見回りに来ちゃう」
 彼らはどうやら帰るタイミングを得た様だ。
 二、三人の女子が駄々をこねる様にケンジの肘を掴んでいた。
「ねぇ、また後で来ても良い?」
「え~、お前ら絶対夜中騒ぐっしょ」
「ええ~っ?いいじゃん!」
「駄目。消灯後は女子禁制だから」
「ウッソー?つまんなーい!ケチ!」
 ケンジは何食わぬ顔で腕を振りほどいていた。
 流石モテる男は女子の扱いにも慣れているようだ。
「お前ら分かれて帰れよ。バレると面倒くせーから」
 彼らは梶山の訪問で一気に気分が盛り下がったのか、アリの群れを蹴散らしたかの様に去って行った。
 皆いなくなって、さっきまで賑やかだった部屋はがらんとした。
「なんだか急に静かになったね」
 ユウは少しホッとした。
「そーだな。あ、因に後で蜷川たちが来るから!」
「あ、うん……そうだよね」
 思わず顔が強張った。
 そうだ、ケンジが蜷川たちを呼ばないはずがない。
 あれだけ大勢が来たのにまだケンジには友達がたくさんいる。
 明るくてギターも弾けて皆の人気者、何の取り柄も無くて殆ど友達のいない自分とは大違い。
「ユウ?」
 俯いているとケンジが声を掛けてきた。
 慌てて愛想笑いを浮かべ明るく振る舞う。
「ねえケンジ、今のうちに先お風呂使っても良い?」
「あー、いーよ」
 ユウは落ち込んだ気分を隠しながら身支度をした。
 ケンジと一緒にいると楽しいし、時々自分まで人気者になった様に錯覚してしまいそうになるけど、決してそうじゃない。
 自分との差を見せつけられると惨めな想いになる。
 羨ましがっている自分はケンジにはなれない。
 そんな当たり前の事が何故だか悔しい。
 滲む涙をシャワーの水で流した。

3

 ホテルの外に出た。
 建物の陰から黄金色の西陽が差して、光のコントラストで日陰部分の景色が青みがかって見えた。
 部屋の真下付近まで赴くと、落としたサングラスの姿を発見した。
「あったあった」サングラスを指先で掴むと、少し離れた部屋の窓から女子たちの声が聞こえた。
「マジでタド狙いなのー?」
 開いた窓から他クラスの女子が顔を出していた。
 大声で話しているのか会話がよく聞こえた。
 自分の名前が呼ばれたのが気になって、その部屋の下の壁に張り付いて聞き耳を立てた。
「あいつ超チャラいじゃん」
「えー、そこがいいんじゃん」
「彼女いるんじゃないの?」
「でも誰って噂聞かないよね?」
「部屋押し掛けて告っちゃえば?協力しよっか?」
「遊ばれて捨てられたりして」
「えーやぁだぁ」
「だって女慣れしてそーじゃん?」
「分かんないよ、アレで実は童貞だったりして!?」
「えー、それはそれでヤバくね」
「だったらむしろこっちが遊んで先に捨てちゃえば?」
「きゃはは!それいいー!」
 ケンジは驚愕した。
 何だよそれ、マジひでぇ。
 大体童貞で悪いかよ、余計なお世話だっつーの。
 それにしても女子の本性って怖いな。
 その女子たちはたまに遊んだする割と仲のいいグループだった。
 その後部屋に戻ると水漏れ騒動で大変だった。
 部屋を移動する事になって荷物をまとめて部屋を出ると、少し先の部屋からタイミング良くその女子たちが出て来た。
 ケンジは気づいていながら先ほどの事が気まずくて知らんぷりをした。
 だが夕食の時にそのグループの女子二人に声を掛けられた。
 マミコとリンカだ。
 やはり荷物を持って部屋を出て行く所を見られていて、何があったのかと問い詰められた結果仕方なく部屋に呼ぶ事になった。
 梶山(かじやま)が訪れてお開きムードになった後もしつこくまた来ると言われ、冗談じゃないと思って断った。
 正直男を遊んで捨てるとか言う様な女子は御免だ。
 付き合うなら一途な娘の方が良い。
 ユウが風呂に入ると言い、ケンジもようやく一息吐いた。
 本館の一階に大浴場があるはずで、多くの生徒たちは今頃大浴場で入浴している頃だろう。しかしこの部屋には広い風呂がついているのだからわざわざ行く気にはならない。
 浴室からシャワーの音が響き始めた。
 ユウが喜ぶかと思って綾瀬たちも呼んだのに、当の本人は後から来た吉川たちと楽しそうに話していた。
 なんだよユウのヤツ、綾瀬じゃなかったのかよ。
 しかし綾瀬たちとの会話が意外と面白かった。
 綾瀬と仲のいい岡澤、まともに話したのは初めてだったが、少し変わった着眼点を持つ岡澤の発言や、綾瀬の少し天然な部分にお互いがツッコミを入れる様な形で案外良いコンビのようだ。
 普段大人しいイメージだった綾瀬の意外な一面を知った気がした。
 つけっぱなしにされたままのテレビでは、ローカル局の番組が放送されていた。
 昼間のビーチで水着姿の若い女子たちが水を掛け合ってはしゃいでいるコマーシャルが流れた。
 ケンジは思わず目が釘付けになる。
 可愛い彼女が欲しい、とつい思ってしまう。
 勿論性的な対象としてそういう欲望を抱く。他の連中の話を聞いてると色々と興味が湧いてしまうのは仕方がないことだ。
 やっぱ欲しいなぁ、彼女……。
 そうこう考えていたらなんだかムラムラして来た。
 ちょっとストレスも溜まっていたのもあってスッキリさせようとトイレに入りベルトを緩めた。
 暫く後、良い感じのところでスマホが鳴った。
 ケンジは慌ててジーンズの後ろポケットから取り出そうとしたが、うっかり手を滑らせてしまい、便器の溜め水の中にポチャン!と浸かってしまった。
「のわぁああ~っ!?」
 急いで掴んで取り出しトイレットペーパーを巻き取って拭いていると、ついでに受話ボタンを押してしまった。
 スピーカーから、もしもし?と言う声が響いた。
 ある程度防水だったおかげでどうやら大丈夫そうだが、さすがに便器にダイブしたそれに顔を近づけるのは気が引けたのでスピーカーにした。
「な、なんだよ、芳野(よしの)?」
「おう。もうすぐ先生見回りに来ると思うから、消灯時間過ぎたら蜷川(にながわ)たちと一緒に行くわ」
「……了解」
「どうした?テンション低いなー」
「別になんでもねーよ!」
 お前のせいだけどな!
 電話を切った後、一気に萎えたので諦めて用を足した。
 トイレから出た後、洗面所でラバー製のスマホカバーを外して洗い、本体は一応濡らして固く絞ったタオルで拭いた。
 使用前だったからまあなんとか大丈夫だろう。
 部屋のドアをノックする音が聞こえた。
 ケンジは腕時計を見た。
 デジタルの数字はちょうど二二時を示していた。
「こんばんは」
 ドアの向こうに五組の担任の河合(河合)マドカが現れた。
「あら、田所くん」
 女性教師の中ではダントツに色っぽくて男子生徒から絶大の人気を得ている。
「相変わらず……」
「えっ?」
「いや、なんでもっ!こんばんは先生!」
 相変わらずお色気ムンムンですね、と口に出しかけて寸でのところで思いとどまった。
 先生の胸の谷間なんて見ちゃいけないんだろうが、見るなという方が無理だと思う。
 第一、修学旅行が沖縄で教師たちも少し気が緩んでいるのか、服装もいつもよりカジュアルで露出度が高い気がする。
「えっと、同じ四組の西山ユウくんと二人部屋でこっちに移ったのよね?」
「あっはい……」
 河合は部屋の中を伺うように前かがみになった。つい目が釘付けになる。
「や~ん、広くて良い部屋じゃない。先生羨ましいなぁ」
 そんな事言われても、あはは、と笑うしかない。
「西山くんは?」
「今風呂に入ってます」
「そう?じゃあお風呂に入ったら大人しく部屋で休むのよ?女の子呼んだりしちゃ駄目なんだからね?」
「分かってますって」
「なんなら先生が常駐して監視してもいいんだけど……」
「ははは!いやぁ~、大丈夫です……」
 冗談だろうけど、もしかして本気で言ってるかも知れないと思って焦った。
「じゃあ」と言って河合が去ろうとしたので「おやすみなさい」と返すと河合があっ、と振り返った。
「そうだ田所くん?」
「はい?」
 河合が体を寄せて来て何かと思ったら、急にケンジのジーンズのジッパーをジッ!と引き上げた。
「チャック、開けっぱなしよ?」耳の近くで囁くような声がして、心臓がドクンと音を立てた。
「う、わぁ……!」狼狽えて後ずさる。
「じゃあおやすみなさい」
 河合はうふふ、と笑顔でドアを閉めて去って行った。
 心臓はバクバクと音を立て、汗が滲んだ。
 ケンジは壁にもたれ掛かり、ずるりと腰を落とした。
 不意をつかれてしまった。
 童貞にはちょっと刺激が強過ぎだ、馬鹿野郎。
 まったく、絶対あれワザとだ。ああやって男子生徒をからかって面白がっているに違いない。
 収まっていたのに、過激な女教師に惑わされてしまった。
 悶々と妄想が溢れる。
 体の芯が、熱い。


 二二時半を過ぎた頃、ドアをノックする音が響き約束通り芳野たちがやって来た。
「見つかんなかった?」
「余裕~」
「差し入れたくさん持って来たぜー!宴じゃー!」
「すっげ、何この部屋広い。マジ俺らの部屋の何倍?」
「ヒャッホ~イッ!」
 奇声を上げて騒ぐ仲間に慌ててドアを閉めた。
「あんまり騒ぐんじゃねーよ」
 するとすぐにまたノックが聞こえた。
 開けるとそこには、中学時代からの知り合いであるショウタとヌギの姿があった。
「ケンジー!」
 二人は入って来て早々手を挙げ、ケンジがハイタッチを返すとフィ~!と奇声を発してはしゃぎだした。
「テンション高ぇな!」
「まあね!だって修学旅行なんですものっ!」
「だよな~っ!」
 蜷川がヌギに同意した。
「お~、元バスメンバー久々じゃん」
 芳野と荒居(あらい)ショウタ、ヌギこと功刀(くぬぎ)リョウの三人は、同じ中学のバスケ部出身だった。
 ショウタとヌギとは練習試合や合同合宿で仲良くなり部活以外でも遊んだり交流があった。
 一方、芳野とは面識あれど当時はそこまで仲良く無く、二年で同じクラスになってからつるむ様になったのだが、思っていたより良い奴でもっと早く仲良くなっていれば良かったと思った。
 ふとユウの姿が見えないと思っていると、ベッドルームの方からプリントTシャツに黒いハーフパンツ姿のユウが現れた。
「ごめん、電話してた……あっ、どうも……」
 ユウは初めて会うショウタとヌギに気付き軽く会釈をしていた。
 二人は誰?という感じで会釈を返し、ケンジの方を見遣った。紹介しようと思った時、再びドアがノックされて「僕見て来る」とユウがドアの方へ向った。
「あっ!ユウくんこんばんは!」ドアの方からアガチョの声が聞こえた。
「よっすケンジ」
「結構集まってるね。ど~も~」
 アガチョとイサヲの二人が加わり、ケンジにとって気の置けない仲間とやらが集まった。
「えっと、俺ら知らない人いるんだけど?」
 ヌギがユウや蜷川たちを指差す。
「あっ、ワリィ。同じクラスの蜷川と倉吉(くらよし)。んでこっちは西山ユウ」
「ああうん。……西山って……」
 普段は口数の少ないショウタが珍しく口を開いた。
「女装コンテストの?」
「あーっ!そうだ、西山ユウ!」
 それに何故か蜷川が代わりに答えた。
「は~い!何を隠そう、こいつこそ女装コンテストで優勝したあの美少女の正体、西山ユウちゃんで~す!」
 ユウの口元がピクッと引きつった。
「っていうか西山それ部屋着?寝る時はもちろんシルクのネグリジェなんだろ?」
 蜷川の発言に、皆ハハハ!と笑った。
「残念ながらネグリジェは持ってないんだ。ごめんね期待に添えなくて」と言って口元に笑みを浮かべるユウだったが、よく見る目が笑っていなかった。冗談だとはわかっているだろうが内心ハラハラしてしまう。
 蜷川と倉吉が持って来た紙袋の中の物がテーブルに並べられた。
 ジュースのペットボトルに大量のお菓子、液体の入った瓶が二つ、DVDが数枚。
「うわっ!それちょっとまっ!」
 ヌギやアガチョがDVDのパッケージを見て飛びついた。
「おおっこれ!地元限定のやつじゃん!」
 イサヲが丸瓶に飛びついた。
 蜷川が得意げに鼻の先を人差し指で擦った。
「超苦労したんだぜ?倉吉とホテル抜け出してタクってさ~!倉吉にジャケット着させて眼鏡で誤摩化し作戦大成功!俺マジ神!」
「ほぼ倉吉のおかげじゃん」
「でも作戦考えたのもタク代払ったのも俺だもん!」
「作戦ってほどでもねぇし」
「タクシーとか……チッ、ブルジョアめ」
「ブルジョアって何?」
「まあまあ!何でも良いから早くカンパイしよーよ!」
 イサヲが珍しく陽気な感じで促した。
 皆適当に座って紙コップを手に飲み物を注いだ。
 ケンジはユウにソファの席を譲ってやり、絨毯の上にあぐらをかいて座った。
「よっ!次期生徒会長!」
「いいのかよ、生徒会長がこんな不良で」
「いんだよ、来月からだから」
 芳野はバスケ部レギュラーで学力トップの超優等生だが、ガリ勉っぽさもなくフランクで他者からの信頼も人望も厚く、次期生徒会長としては相応しい人物と言えた。
 芳野の仕切りでコップを軽く合わせ合って乾杯した。
「カンッパーイ!」
「イエ~ッ!」
 アガチョとヌギは蜷川たちの買って来た珍しいお菓子や地域限定ジュースなどを、片っ端から開けて品評会を開いていた。
「う~ん、これはちょっと酸味が効き過ぎかな」
「おっ!?これイケル。ショウタ食ってみろよ」
 ヌギはショウタに持っていたスナック菓子を勧めた。
「荒居、こっち食べてみてよ、微妙だから」
 アガチョにも勧められたショウタは、何を思ったか両方口に入れて食べ、よくわからない、と答えた。
 そして二人に、同時に食べたらわかんねぇだろ!と突っ込まれていた。
「荒居って面白いな!」
 アガチョが腹を抱えて笑うと、イサヲと仲良くなっていた芳野が横から話しかけた。
「ショウタはヌギの初恋の相手なんだよ!」
「えっ、初恋?男だろ?」
 蜷川が口を挟んで来た。
 ケンジもその話が面白いので口を挟んだ。
「コイツら小学校からの幼なじみで、女子みたいに可愛かったショウタにヌギがひと目惚れしたんだよな?」
「マジ?」
「だって服も黄色とかで分かりにくかったし、本当に可愛かったんだよ。今はこんな仏頂面で可愛さの片鱗も無いけど」
 そう言ってヌギはショウタの鼻に指をズボッと指した。
 ショウタは、ヤメロよリョウ、と言って顔を遠ざけた。
「なんだ、ホモかと思った」
 蜷川が茶化すと、芳野が笑って言った。
「ショウタが今も西山レベルに可愛けりゃ、ヌギは今ごろ別の道を歩んでいたかも知れないな」
 するとユウ以外面白がって笑った。
 ユウはえっ?と言ってポカンとした表情をしていた。
 ケンジは内心ホッとした。
 なんだ、やっぱりユウは芳野から見ても可愛いのか。
 そう思ってハッとした。
 ――あれ?やっぱりってなんだ。
 モヤッとした物が込み上げて来た。
「でも俺あっちの西谷なら付き合っても良いかも」
 蜷川がまた変な事を言い出した。
「ねーわ!お前なんか西山が可哀想だわ」
「イヤ……!仕方ない、ここは功刀に譲るよ」
「えっ?譲られても」
「じゃあ芳野」
 ユウはイマイチ話が分かっていないのか「え?何?」と困惑した様な表情でキョロキョロして首を傾げていた。
「西山にも選ぶ権利があるだろうが。っていうか俺もう彼女いるし」
 芳野の発言に蜷川とヌギが詰め寄った。
「えっ?いつの間に!?」
「あれ?知らない?学祭の最終日に体育館のぶっちゃけオープンマイクで一年の子に告られたの、知らない?」
 芳野は指でVサインをした。
「知らねぇ知らねぇ!俺見てねぇもん!」
 ケンジはその場にいなかったが後で聞いた。
 知らなかったのはヌギと蜷川とユウだけの様だった。
「その子いつも部活見学に来てた子で、マネージャーになるみたいな話だったんだけど、俺も気になってたんだよね。役員で舞台袖に居たから即答したわ」
「うわ、なんだよぉ~!ずりぃ」
「えー、マジテンション下がる。芳野と倉吉以外で他に彼女いる奴ー」
 蜷川が言うとヌギがショウタをチラリと見た。
「えっ?何、まさかショウタ……」
 これには思わず芳野と一緒に驚いた。
 ショウタは話すとかなり面白いが、大人しくて人見知りが激しいので恋愛とも縁がない様に思っていた。
 ショウタの代わりにヌギが答えた。
「いやさ、聞いてやってよ。こいつ長年の恋を実らせやがってさ」
 ショウタは小学四年の時に転校して来た女子にずっと想いを寄せていた。同じ中学に進学しても告白も出来ないまま卒業し、高校はバラバラになって諦めかけていた頃、この前の学園祭にたまたまその子が来ていてたのだそうだ。偶然出会って、久々に話をして連絡先の交換をしたらしい。
「この前、一緒に遊んだ時にショウタに思い切って告らせたら……」
 ヌギは親指とグッ!と立てた。
「へえ~、やるじゃん!」
 芳野がショウタの背中をバン!と叩いた。
「クッソ~!俺も彼女欲しい!何故俺には彼女が出来ないんだッ!」
「まあ、仕方ないな。お前馬鹿な上に変態だもん。よっぽどの物好きが現れるのを待つんだな」
 芳野が嘆く蜷川を宥めた。
「あんだよヒデー奴!ケンジお前はどうなんだよ!」
「は?なんで急に俺?お前には教えてやんねぇ」
「あ!ハハーン、いないんだな!安心しろ、俺もだ!」
 喜ぶ蜷川は残りのメンバーにも一人ずつ聞いて回っていたが、皆少し迷惑そうだった。
 ユウも当然いないと苦笑していたが、アガチョの反応が微妙で少し気になった。
 蜷川が、彼女のいないメンバーで同盟を作ろうと、勝手にほざいていた。

 目が覚めると、最悪な気分だった。
 トイレに行きたいのだが、体と頭が重くてだるいし頭痛と胃がむかむかする。
 体を起こすとズキン!と一層痛みが頭に響いた。
「ッツ……!」
 なんとかベッドから立ち上がり、トイレに向った。
 窓の外はもう夜が開けて白んでいる。日の出前だろうか?
 自分の部屋でない事に気づき、そう言えばとホテルの室内である事を思い出した。
 隣の部屋に足を踏み入れると、そこには何人もの生徒が横たわっていた。
 ユウは驚いて声をあげ、彼らを踏まない様にそっと跨いだ。
 室内は夕べのお菓子とか飲み物の匂いが混じってか少し生臭かった。
 昨晩は途中から全くと言って良い程記憶が無い。
 断片的な記憶だけで、何かDVDを観た様な気がするのだが思い出せなかった。
 口の中はじゃりじゃりとする。スナック菓子を食べた残りが歯の奥に挟まったままの様だ。歯磨きせずに寝てしまったことをひどく後悔した。
 トイレから出ると、歯を磨こうとして洗面台に向った。
 ユウは鏡に移る自分の姿に目を丸くした。
「何コレ!?えっ!?」
 思わず叫んでしまった。
 明らかに顔に落書きされている。
 これは酷い、何たる仕打ちだ。
「っていうか、これ油性じゃないよね……?」
 ユウは慌てて水で顔を洗った。
 どうやら水性ペンの様で少し薄くなったが水では消えなかった。
 部屋の方から人が近づいて来る気配がした。
「……ユウ?」
 誰かと思ったら眠そうに目を細めるケンジだった。
 髪の毛をセットしていないせいか少し印象が違って見えた。
「起きたの……?」ケンジは不機嫌そうに目を擦りながら大欠伸をした。
「ケンジ、夕べ誰か僕に悪さ書きしたみたいなんだよ。なんだよこれ~……」
 ユウは必死に顔をこすった。
「駄目だって、擦ったら……」
 テンション低めのケンジに腕を掴まれ制止された。
 スウェットに身を包むケンジはいつもより大人びて見える。ケンジはユウの肩に少しもたれかかるようにしばらく俯いていた。
「ケンジ大丈夫?」
「……悪い、何でもない」ケンジはそう言ってフイッとそっぽを向いた。
 ケンジに言われて洗顔フォームを泡立てて丁寧に洗い落とす事にした。
 その間ケンジは順番に皆を叩き起こしていた。
「なんだ、西山落としちゃったのか~」
 蜷川(にながわ)が残念そうに笑っていたので、ピンと来て責め立てた。
「蜷川~!落書きしただろ!もう、なんて事するんだよっ!」
「えー?知らなーい。先に寝るからいけないんだよ」
 蜷川は自分は悪く無いとばかりに開き直った。
「まあ落ちたなら良かったじゃん」
 芳野(よしの)まで笑っていた。もしかしたら全員共犯なのだろうか。
 ユウはショックを受けた。
 イサヲや功刀(くぬぎ)たちは体調悪そうな様子で、芳野たちに抱えられながら部屋を出て行った。
「俺ちょっと飲み物買って来る」
 ケンジもそう言ってユウを部屋に残して出て行った。
 時刻は七時前で、陽が出て急に明るくなった。
 朝食は七時半からと決まっていたので、早速着替えて身支度を整えた。
 暫くして帰って来たケンジは、買って来たミネラルウォーターをがぶ飲みして口の端からこぼしていた。
 ユウが見ていると、ケンジは口を腕で拭いながら、飲む?と尋ねて来た。
 そう言えば喉が渇いていたので、一口のつもりで受け取って飲むと、もの凄くおいしく感じてゴクゴクと残りの殆ど飲んでしまった。
「おーい、マジか。もう一本買ってくれば良かったな」
 ケンジに御免と謝った。
「いいよ、どうせもうすぐ朝めしだし……」
 時間までテレビを見て過ごしていると、いつの間にかケンジは着替えて髪の毛もセットし終えていた。
 ケンジはダメージの入ったジーンズにラフなTシャツ姿でシャツを腰に巻いていた。
 今日は体験学習があるので、自分も動き易い様にとチノパンにカーディガンとTシャツのセットアップにしたが、シンプルな服装でも様になっているケンジとは対照的でなんだか子供っぽい気がした。
「髪の毛違うとだいぶ印象変わるね?」
「まあね。じゃなきゃセットする意味ないだろ?」
「そっか」
 自分はヘアスタイルを気にした事は殆どない。強いて言えば、中学のときはなるべく短くする事だけを気にしていた。
 ホテル内には幾つかレストランがあり、昨日とは違う場所で朝食を取った。
 夕べユウたちの部屋に来ていたメンバーも何人か見掛けたが、皆何食わぬ顔をしていた。
 今朝はバイキングではなく予めお膳が用意されていた。
食欲は余り無かったが、食べておかないと酔い止めの薬が飲めない。
「食欲無いのか?」
 ケンジが心配して声をかけてくれた。「無理すんなよ」
「ありがとう」と言って食べれそうなものだけ手をつけた。案外料理もおいしく食べていくうちに気分も落ち着き、食後に酔い止め薬を飲んでおいた。
 部屋に戻り必要な荷物を準備した。
 今日はケンジとは別の班だから一緒には行動出来ない。
「そろそろ行かなくちゃ」
「あ、俺もだ」
 少し名残惜しい気もしながら、じゃあねと言って別れた。


 ユウたちは予約していた現地の運転手付きマイクロバスをチャーターし、最初の目的地に向かった。
 班長の安永(やすなが)サクラが簡単に今日の日程をおさらいして、何か質問があるかと尋ねた。
「あ、はーい先生~、バナナはおやつに入りますかぁ?」
「はあっ?知らないわよ!私先生じゃないし!」
 蜷川は安永から疎まれている様で「ウザいウザいマジ蜷川ウザい」と連発していた。
 鼻息の荒くなった安永を吉川がまあまあと宥めていた。
 沖縄の天気はというと、少し不思議な空模様だった。
 先ほどまで晴れていたと思ったら、前方に黒い雲が見え、急に暗くなって激しいスコールになった。
 かと思えばあっという間にまた眩むような太陽が照りつける。
 そう言うのが何度かあった。
 雲が低いし天気がコロコロ変わって面白い。
 目的地に到着すると、運転手にお礼を言ってバスを降りた。
 午前中は琉球ガラスの手作り体験だった。
 工房は自然豊かで独特な空気感に包まれていた。
 周りに緑が広がる小さめの工房の入り口に扉は無く、開け放たれた建物内には小さな古い木製のカウンターがあった。
 人影が見当たらず安永が大声で呼ぶと、中年の痩せた男が出て来た。
 安永が受付を済ませ建物の奥に進んだ。
 工房の人から一通りガラス玉の作り方を説明され、二手に分かれて実践する事になった。
 まずは型吹きと言って、熱した材料を細長い棒状の筒の先につけた物を型に近づけて膨らますというやり方だ。
 安永が案外簡単にやってのけたので、自分にもすぐ出来るのかと思っていた。
 ところがどっこい。いざ順番が回って来てやってみると、想像以上に苦戦してしまった。
 息を吹き込んでいるはずなのに全然膨らまず、何度も炉に入れて熱し直しては何度か挑戦した。
 安永が色々アドバイスしてくれたが、ヤケクソになって適当に吹き込むとすんなり膨らんで気が抜けた。
 その後宙吹きを教わってガラス吹き体験を終えると、持ち帰り用の作品を作る事になった。
 予め完成している作品にサンドブラストで絵付けするコースも選べたが、ユウは『ホットテクニック』技法をといって焼いている途中に水につけて急激に冷やしひびを入れるを使う焼きヒビガラスを選んだ。
「ガラスの色は~、例えば酸化銅なら水色のガラスに、一酸化コバルトなら青色、重クロム酸カリなら緑、硫黄は茶色、二酸化マンガンなら紫、硫化カドミウムは赤……とまあ、着色材料によって色をつけられるんですがねぇ、どうしますかね」
 工房の人が見本を指しながら説明してくれて、ユウは迷いながら相談して色を決めた。
 型吹きした後にそれを取り出して素早く水桶に浸けると、ジュッ!という音と共に湯気が立ち、また炉に竿の先を入れる。
 それを何度か繰り返して竿から切り離すと、ガラスの内面にヒビ模様の入ったグラスが出来上がった。
 グラスはブルーとグリーンが入り交じったような発色になった。
 ユウが満足そうにグラスを見ていると吉川が声を掛けてきた。
「西山くん、それ素敵!自分でやったの?」
「うん、楽しかったよ。着色原料を混ぜてもらったんだけど」
「凄い、綺麗な色……。なんかグラデーションとも違って味がある感じだね」
 吉川は「私のはこんな感じになったんだけど、どうかなぁ?」と言ってみせて来た。
 ガラス製の皿にサンドブラストでハイビスカスか何かの花がバランス良く三カ所に描かれ、その間には小さなハートが描かれていた。
 女の子らしいデザインだ。
「可愛いと思うよ。吉川さんって絵上手いんだね!」
 ユウが笑顔で褒めると、吉川はちょっと照れた様に笑い、そして申し訳無さそうに言った。
「ありがとう。でも実は花の絵のところはちょこっとサクラに手伝ってもらったの」
「そうなんだ?」
 ユウが口を開くと同時に後ろから安永の声がした。
「ちょこっとね~?」
 振り返ると安永が少しふてくされた様に口を尖らせていた。
「あっ、ぇと……結構、手伝ってもらったかな?」
「ふ~ん?」
「だってぇ、サクラが描いた方が可愛いんだもん~……」
「まあいいけどぉ?……なんとなく、こうしてやる~っ!」
 安永はそう言うと吉川の胸部を後ろから鷲掴みにして揉み出した。
「キャアアッ!?」
 驚いて叫びながら抵抗する吉川に、安永はおりゃあ、と言って今度は腹部をくすぐり出した。
「やっ、やめて……!」
 身悶えする吉川の姿にユウは思わず赤面して目を逸らした。
 たまに女子同士でこう言う事するの見かけるけど、女子同士で胸とか揉んだりするのってその、こっちが恥ずかしくなるからやめて欲しい。
「モエって本当反応良くて面白いよね~っ!」
 それを見ていた蜷川がぼそっと耳打ちして来た。
「吉川って、可愛い上に胸もでけーよなぁ!俺も揉ませてくれ!」
 呆れる蜷川の言動にユウは無言を返したが、ますます自分の顔が火照っているのを感じた。


 ガラス工房を後にして、途中でソーキソバで有名らしい食堂に寄った。
 バスの運転手も交えて昼食を取った。
 食堂のおばさんが面白い人で、修学旅行?と話しかけられてからずっとおばさんたちと話をしていた。
 皆明るくて色んな話をしてくれて、オススメの穴場の観光名所まで教えてくれた。
 アイスまでサービスしてくれて、ユウは少し食べ過ぎてしまった。
 昼食後、移動中のバスの中で吉川と安永と最後部の座席で一緒にお喋りをした。
「西山くんてさぁ、休日とかなにしてるの?私服も個性的でオシャレだし普段何してるんだろうって気になってたんだ~!」
 安永が尋ねて来た。
「う~ん、特に何も。たまに姉の買い物につきあったり、ぶらっと街に出てみたり。最近は……ケンジと遊んだり。あ、この前吉川さんとも街で会ったよね」
「えっ?そうなの?」
「あっ、うん!たまたま、ね?」
 吉川が何故か少し慌てた様に笑った。
「ケンジって、田所だよね?なんか二人って二学期入ってから急に仲良くなった感じがしたんだけど、この組み合わせはちょっと意外っていうかぁ〜」
「あ、うんよく言われ……」
 ユウが返し切らないうちに安永が話し出した。
「だって田所ってバカっぽいイメージしか無いじゃん、あの蜷川とつるんでるんだよ?チャラいしさ~。昨日も急に誘ってくるからマジキモイし断ろうかと思ったけどモエが行くって言うから仕方なく?あ、西山くんは良いんだけどね?芳野はさ、面倒見がいいから仕方なくあの二人の相手をしてあげてるってカンジ?んで西山くんは真面目で大人しい感じだし頭良さそうだし、ちょっとミステリアスだったりセレブっぽい雰囲気あるじゃん?余り主張しないけど存在感あるっていうか。田所なんて、ちょっと顔が良いからって女子からそこそこモテるみたいだけどさー、ただの目立ちたがり屋のお調子者でしょ?もーとにかく二人って正反対だよね?」
 安永が水道の蛇口をひねったかのようにバーッと喋りだしたので、吉川と一緒にクスクスと笑ってしまった。
「サクラはさ、佐倉くんみたいなタイプが好きなんだもんね?」
 吉川がニヤッと安永の顔を覗き込んだ。
 不意をつかれた様に慌てて否定する安永。
「別に!?……そんなんじゃないって!」
 言葉とは裏腹に、頬がピンク色に染まった。
 佐倉という名前に聞き覚えがある。
 ふと思い出して、あぁ、と一人頷いた。
 佐倉カズヤ、確か吉川たちと同じ陸上部の男子だ。
 学年トップクラスの成績優秀者でありながら、陸上も学園初個人の部でインターハイ入賞という快挙を成し遂げている。
 女子からかなり人気がある生徒だった。
 安永も彼に想いを寄せる一人なのだろう。しかも同じ陸上部員。
 なるほど、とユウも口元を緩めた。
「でもサクラが佐倉くんと結婚したら、佐倉サクラになっちゃうから大変だよね?」
 吉川が困った顔をして首を傾げると、安永はしょんぼりとして俯いた。
「別に結婚とかそこまでは考えてないし……」
「あそっかぁ!」吉川が人差し指を立てた。「佐倉くんにお婿さんに来てもらえばいいじゃん。安永カズヤ、うん悪く無い~」
「やめてったらぁ!」
 吉川は先ほどの仕返しとばかりに安永をからかって遊んでいた。
 その後他の女子も交えて恋愛トークになり、話の流れで吉川に好きな人はいないのかと尋ねられたが、いないと答えた。
 噂を立てられても嫌だったので綾瀬の事は一言も口にしなかった。

 
 二カ所目の体験スポットに到着した。
 午後は漁港で船釣りと沖縄郷土料理の体験カリキュラムだった。
 最近は修学旅行生や観光客向けに色んな体験カリキュラムが用意されている様だ。
 自分たちで体験コースを選べるのを売りにしている観光協会推進の企業があって、学園が推奨していたので殆どの生徒がこの法人の体験コースに応募していた。
 人気のコースには生徒が集中するからスケジュール調整が大変そうだ。
 人数枠は下限も上限も制限があるため、場合に寄っては他の観光客や修学旅行生と被る事もあると事前に言われていた。
 すでに他の学生らしきグループがいた。
 近づくと同じクラスの生徒で、その中にはケンジや綾瀬の姿があった。
 二人は昨日の夜に引き続き、仲良く楽しそうに話している。
 つい嫉妬心からなのか胸の辺りがモヤついた。
 蜷川がケンジの姿を見つけると一目散に飛んで行って声を掛けていた。
 ケンジたちのグループもユウたちの班に気づいて声を掛け合った。
「一緒だったんだー?いーじゃん、大人数で楽しそう」
 向こうの班の女子が嬉しそうにはしゃいだ。
 ケンジが近寄って声を掛けてきた。
「よっ。元気してたか?」
 なぜだが朝と打って変わって、いつもよりもテンション高めだ。
 綾瀬と話していたからだろうか。
「……うーん、まあね。なーんだ、せっかくケンジのいない時間を満喫してたのに」
「なんだよ~、俺に会えて嬉しいく、せ、に!」
 ケンジがわざとドンと肩で突き飛ばして来た。
「何すんだ、やめろよ」
 そう言いながらも確かに内心嬉しい。
 言葉にはしないがお互い笑ってじゃれ合った。
 体験講師の人から軽く釣り方や道具などのレクチャーを受けた後、ライフジャケットを着て早速船に乗る事になった。
 女子たちが仲の良い同士で好き勝手乗り込んだために、二班ごちゃごちゃになって別れた。
 ユウはケンジと一緒で、綾瀬たちと蜷川も同じ船になった。
 乗り込むとき、綾瀬の揺れる船にはしゃぐ様子が可愛かった。
 しかしユウは船に乗ってから思い出した様に気分が悪くなってきた。
 ケンジはまた綾瀬たちと楽しそうに話をしていた。
「……ユウもそう思うよな?」
 話しかけられて、全然会話の流れが分からないまま精一杯笑みを返した。 
 どうしよう、やばいかもしれない。
 さっきまでバスの中でも全然平気だったのに、船は揺れが激しすぎるのか、胃液が逆流して吐きそうだった。
 いよいよ青ざめていると、ようやくケンジが異変に気づいてくれた。
「おい、大丈夫か?」
 ユウは力なく首を振った。
「もしかして船酔い?酔い止めは?」
「……朝飲んだんだけど……効き目が切れたのかな?」
 ケンジが漁師に事情を話してくれて、まだ海岸付近だったので一旦港に戻る事になった。
「西山大丈夫かー?」
 迷惑かけてごめんなさい、と皆や漁師に謝った。
 ユウが乗っていた船は遅ればせながら改めて沖合に向った。彼らの体験の時間が自分のせいで大幅に減ってしまった。
「ほら、お茶」
 何故かケンジまで一緒に陸に残った。
 ユウは差し出されたペットボトルを受け取った。
「……ありがと」
 ユウはお茶を飲んだ。少し気分が良くなる気がした。
 ケンジがユウの隣に腰を下ろした。
「ケンジも行けば良かったのに……」
「だって、一人じゃ寂しいだろ?」
 ユウは申し訳ない気持ち半分嬉しい気持ち半分で、うん、と頷いた。
 ケンジはスマホを取り出して構っていた。
 また、暇をつぶすためだろうか……。
 するとケンジが突然「ちょっと貸してみ?」と言ってユウの腕を掴んだ。
 ユウの手首の内側の辺りをふた指で押さえて、様子を伺っていた。
 不思議に思って首を傾げると、ケンジが笑った。
「いや、なんかここを押さえると、酔いが収まるらしいよ。ほら」
 そう言ってスマホ画面を見せて来た。
 気休めだとは思うが、気遣いはありがたい。
「皆に迷惑掛けちゃった……」
「まあ大丈夫だろ。もっと早めに言えば良かったのに」
「うん……」
「まあ俺もちょっと寝不足でヤバかったから丁度休めるわ」
「寝不足なの?」
「あー……夕べ結構遅くまで盛り上がってたし、何かちょっと、寝れなくて」
「そっか。……途中から全然覚えてないんだ」
「だろーな。お前吐いたのも覚えてないだろ?」
「えっ!?……覚えてない」
 そう言えばうっすらとした記憶の中で、洗面所でケンジに声を掛けられていたような気がする。
「吐いたんだ……ごめん」
「まーでもあいつらのせいだし」
 ユウは深呼吸した。気分が幾らかマシになって来た。
「そう言えば、ケンジ綾瀬さんと楽しそうに話してたね」
「えっ?……ああ、何話してたのか気になるわけ?」
「……別に」
「はっ、拗ねてやんの。別に大した事話してねーし。お前だって夕べ吉川と楽しそうに話してたじゃん。吉川とは仲良いのに、綾瀬とは全然話してなかったし」
「別に、吉川さんは話し易いっていうか、学祭委員一緒だったからさぁ。綾瀬さんとも話そうと思ったけど、タイミングが……」
 なんとなく言い訳してしまった。
 ――ケンジは誰とでもすぐ仲良くなれて話したり出来るだろうけど、こっちはそう簡単に話しかけたり出来ない性格なんだよね。
 心の中で付け足した。
「つか綾瀬って、思ってたより面白いんだよなぁ」
「ふ~ん……」
 ユウは拗ねて口先を尖らせた。
 自分も綾瀬と同じ班だったら良かったのに。
「あー眠ぃ。よっ……と!」
 ケンジが立ち上がって前方の岸まで行くと、ふいに足下の小石を拾って石切を始めた。
 ユウも立ち上がってケンジの後を追った。
 ケンジの投げた石は二、三度海面を飛び跳ねて消えた。
「良く出来るね」
「お前もやってみ?」
 ケンジにやり方を教わって真似てみたが、全然跳ねない。
「違うって。こう、すくう感じで」
 何度かチャレンジしたら、一回だけ飛んで喜んだ。
「気分よくなったみたいだな?」
「うん。なんかさっきのおまじない効いたかも」
「おまじない、っていうか。まあなんでもいいや」
 ケンジに「ちょっとその辺散歩しようぜ」と誘われて、漁港から足を踏み出した。
 すぐ先に海が見えるのに、裏の道路は林に面していて緑に囲まれていた。
 建物も少なく殆ど人気が無い。
「野生動物とかいるのかな?イリオモテヤマネコとか」
「イリオモテヤマネコは西表島にしかいないんじゃないの?っていうかさっき漁港の前の自販でお茶買った時、変な小動物いたよ。なんか狸みたいな猫みたいな。すぐ逃げてったけど」
「へえ~」
 ユウは返事を返しながら脇の林を見上げた。
 後ろ手を組んで歩きながら、クルクルと体を回転させて移りゆく周りの景色を楽しんだ。
 スタスタ歩くケンジと距離が空いたが気にしなかった。
 ケンジが通り過ぎた後、林の中から蝶が現れた。
 こんなところに蝶々がいるなんて。
 ユウは驚いて蝶の飛んで行く方向に目を向けた。
 それは見た事の無い珍しく美しい蝶だった。
 ケンジとは違う方向に飛んで行った。
 ユウはまるで誘われるかの様にそれを追いかけた。
 蝶はひらひらと予測不能な動きで舞っていた。
 角を曲がると少し開けたところに白いバンが停まっていた。
 ユウが近づいて見ると何かがはみ出て見えている。
 人の足の様に見えた。
 慌てて駆け寄ろうとすると後ろからケンジの声がした。
「ユウ……!」
 振り返ろうとすると、咄嗟に後ろから口を押さえられた。
「っ……!?」
 突如パニックに襲われ、声をあげたがむごむごと唸るのが精一杯だった。
 何者かに体の自由を奪われ、手で口を塞がれている。
 混乱しながらも抵抗し、後ろを振り返るとケンジが誰かと一緒に居た。
 引きつった顔のケンジは、知らない男にナイフの切っ先を首元に突きつけられていた。 
 その中で一人だけ服装が違うジャケットを羽織った男が、こちらに歩み寄りながら言った。
「シャハイズーダオメイ……いい子だから大人しく寝てなさい」
 少し訛りのある掠れた声。
 チクリと首元に痛みが走った。
 頭がクラリとして、ストンと意識は真っ逆さまに墜ちていった。

 気がつくと、ユウが名前を呼びながら必死に自分を揺すっていた。
 揺れる地面、チャプチャプという波の音。
 ケンジはボンヤリと目を開き、状況を把握する間もなく吐き気が襲って来た。
 とっさに上半身を起こし縁にしがみつき海へ吐露した。
 何もかも突然の事で混乱している。
 とにかく最悪な気分だ。胃の中がからっぽになり激しく憔悴していた。
「……ここは……?」
 ケンジはユウに状況を説明させようとした。
 自分が小舟の上にいる事は分かる。海の上に漂っている事もすぐ察しがついた。
「わわわ、わからないよ……!さっき気がついたらもうここにいたんだ。周りに何も見えない。海の真ん中だよどうしよう……!」
 ユウの方が相当混乱している様だ。目に涙を浮かべて今にも泣き出しそうだった。
 ケンジは必死に心を落ち着かせようと何度も深呼吸した。
 海の真ん中に漂う小型のボート。ゴム製ではなく二人が横になれる程度の大きさで釣り用の船のようだ。
 物資は何も無く朽ちたオールが一つ、塗装は剥げて随分錆びている。
 ケンジは思わず首を擦って確かめた。
 確かナイフの様な物を突きつけられて、意識を失う直前刺されたのかと思ったが、特に外傷は無い様だ。
 漁港の周りを散策していた時、ユウがいないのに気づき探していたら変な男達に遭遇した。
 一人の男が刃渡り十五センチくらいの刃物を持っていて、それはピンク色に染まっていた。
 その先にユウの姿があって、背後に別の男が忍び寄っていたので思わず叫んだがすでに手遅れだった。
「ユウ、あの時何してたんだ?」
「……何って、車の向こう側に人が倒れているのが見えたんだよ。それで……」
 ピンク色に染まった刃物を思い出してぞくっとした。
 あれはどう見ても堅気じゃない連中の様だったが、口封じに殺されなくて良かったというべきなのか。
 ケンジはハッとしてジーンズのポケットを探った。
 スマホが無い。
「……あいつらに取られた?」
「僕たちどうなっちゃうの!?このまま、海の上で助けを待てばいいの!?」
「お前とりあえず、ちょっと落ち着けって!」
 不安感からか、泣き喚くユウにケンジは声を荒げた。
 財布だけはそのままだった。中身を確かめたが恐らく何も取られてはいない。
 しかし通信手段が無ければ助けも呼べない。イライラする。
 ここまで流されて来たのか、それともあいつらが沖合に置き去りにしたか。
 何にせよ、この状況をどうにか打破しなければならない。
 腕時計を見ると午後三時半を過ぎていた。時計をして来て良かった。
 ケンジたちのいる海上の真上付近は曇天に包まれていた。
 水平線の先もぼんやりとしてよく見えない。
 本島が見えないが恐らくここは東シナ海付近であると仮定出来る。
 よく見るとボートには船外機が付いている。という事はエンジンがかかればボートを動かす事が出来るはずだ。
 ケンジはユウを退けて船外機に近づいた。
 スターターロープがある。
 小さい頃家族でキャンプに出掛けた時、船外機付きレンタルボートを父親が操縦していたのを見た記憶がある。
 ケンジは紐みたいなものを何度か試しに引っ張った。
 微妙な音はするもののエンジンがかかる事はなかった。
「ケンジ……」
 ユウが心もとない様子でこちらを見上げた。
「駄目だ。動かねー」
 ケンジは反対側の端に戻りしゃがみ込み、ボートの淵にもたれ掛かった。
 海はべた凪で海流も無く、ボートはその場に留まったままだ。
 このまま助けを待つしか無いかも知れない。
 ヘタをすれば一夜を明かす事も覚悟しなければならない。
 一夜で済めばよいが……。
 不安がよぎってうずくまった。
「このまま帰れなかったらどうする……?」 
 思わず弱音を吐いた。
「どうしたら……。誰か、僕たちがいなくなった事に気づいて探してくれないのかな……」
 ユウの声にケンジは顔を上げてあぐらをかいた。
「……いや、探すだろ。多分、蜷川(にながわ)あたりが俺の携帯に連絡してつながらなければ先生に連絡して、探してくれるとは思う。ただ、それが夜になるか明日の朝になるか……」
 さっき吐いたせいか喉がカラカラだ。
 しかしこんな海上では飲み水も無い。
 暫く沈黙が流れた。
 ユウは泣きべそをかいていた。
 それを最初のうちは黙って見て見ぬ振りをしていた。
 自分自身余裕が無くて焦っていた。
 しかしだんだんと、本当にどうしようもない状況だという事を受け止める腹をくくると、少し心が落ち着いて来た。
 そうだ、ここは自分がしっかりしなければ。
「……大丈夫だ、きっと無事に帰れる」
 自分にも言い聞かせる様に話しかけた。
 ケンジはユウを安心させるために世間話をする事にした。
「っていうかさ、俺らなんか災難多くねー?今年俺おみくじ中吉だったんだけんどなー」
 するとユウは顔を上げてこちらを見た。
 その後暫くたわいもない話をして時間を過ごした。
 ケンジの作戦が功を奏して、ユウの気持ちもだいぶ落ち着いて来た様だ。
 話が途切れるとユウが思い出した様に不安そうな顔をした。
「大丈夫だって。ユウ、俺が付いてる。俺結構強運なんだ。きっと助かるって」
「……でも。……ねえ、ケンジ、このオールで漕いだら少しは陸に近づけないかな?」
 ユウの言葉にケンジは首を横に振った。
「今は陸の方角も分からないのに闇雲に漕いだりして陸から遠ざかったらどうすんだよ?こう言う時はヘタに体力を使わない方が良いんだって」
 ユウはそっか、と納得した様だった。
「ケンジはこんなときでも冷静だね」
「そんなことない……」
 自分だって、もしユウがいなくて一人きりだったらどんなに心細くて不安だったか。
 きっと自分だって泣きべそかいていたに違いない。
 でもユウがいるから自分は落ち着いていられるし、しっかりしなければと気を張っていられる。
 辺りが随分暗くなって、少し先に真っ黒な雲が現れた。
 風が吹いて波が起こり、ボートが揺れて少し流され始めた。
 二人はハラハラしながら雲行きを見守っていた。
 遠くの海上に船が行き来していないか目を凝らして観察していると、途端にユウが声をあげた。
「ねえあれ!島じゃない!?」
 ユウに言われてそちらを見ると、確かにうっすらと陸の様な影が見えた。
「……島?本島じゃなさそうだけど、さすがにまだ沖縄県だよな?」
 沖縄本島から西方向に幾つか島があったはずだ。
 ケンジは必死になって朽ちかけたオールを手にした。
「無人島でも何でも、このまま漂流するよりはマシだろ!」
 海中に差し込んで、思い切り漕ぎだした。
 ミシリという音がして嫌な予感がしたがそれは的中して、二、三回海水を掬うとパキッ!と言う音と共に真っ二つに砕けてしまった。
「うわっ!ヤベー!」
 途方に暮れる。
 がしかしここで諦める訳にも行かない。
「しゃーない、これもっかい試してみるか」
 ケンジは船外機に手を掛けた。
 先ほど臭いがしたから恐らくガソリン式だろう。
 しかしもう燃料が残っていない可能性もあるし水が混じっていれば動かない。
 先ほどと同じ様に何回か試したが、やはり駄目だ。
「クソ、このオンボロ!」
 ケンジは苛ついて船外機を思い切り足蹴にした。
 諦めかけて、ふともう一度試した。
 今度はゆっくり少し引いてから残りを思い切り引っ張ると、何か手応えの様な物を感じ、変な音と共にエンジン音が鳴りだしてゆっくり動き始めた。
「え~っ!?」
 二人は思わず顔を見合わせた。
「ケンジやったぁ!」 
「って言うか、蹴り飛ばしたらつくとかどんだけだよ!」
 慌てて船外機のレバーを操作すると、ぐんっ!とスピードを上げた。
 島の影の方へ舵を取ると、ボートはジョギング程度の早さで島に向った。
 しかしエンジン音がブツブツと怪しい。
 いつ停まってもおかしく無いボート。祈る様な想いで島を目指した。
 島の影は結構大きく人が住んでいそうだ。
 気がつけばボートは先ほどの黒い雲の下に飲み込まれた。
 辺りは途端に暗くなって風が強くなり、ポツポツと雨が降り出した。
 雨はあっという間に強まり、二人の肌を濡らした。
「あー、クソ、もうちょっと頑張れよ!頼むから!」
 ケンジは今にも停まりそうなエンジンに声を掛けた。
 しかし、その願いも虚しくプスン、と言う音と共にエンジンが停止してしまった。
 船外機上部から少し煙が出ている。
 ボートが荒波に揉まれて揺れる。
 惰性で動くボートもそのうちスピードを失った。
「……どうしよう、停まっちゃった」
 雨に打たれてビショビショになりながら、周りを見渡す。
 底に水が溜まっている。心なしか沈んできている気がする。
 小型船であっても船底部に空気室というものがあって普通は沈まないはずだが、この船は古すぎるし無理に動かしたせいで亀裂が入って水が入り込んだのかもしれない。
 いずれ、この船が沈むのも時間の問題ということなのか?
 悪天候で視界が悪いが島はすぐ目の前だ。
 暫くして黒い雲が上空を通り過ぎて雨が止んだ。
 通りすがりのスコールだった様だ。
 しかし辺りはもう陽が暮れそうだ。
 島の向こう側の空がまだ明るい。
「……ユウ、お前って泳ぎ得意?」
「えっ?一応泳げる程度だけど……」
 ケンジは腰で結んでいたシャツの袖をほどいた。
 雨で濡れて重くなっていたのでそのままボートの中に投げ捨てた。
「多分海岸まで一キロも無い」
「えっ!?」
 ユウが叫んだ。
「島まで泳ぐの?」
 ケンジは焦っていた。
「このまま海の上で一夜を過ごすのもありだけど、島に辿り着いて民家があれば泊まらせてもらえるかも知れないし、先生たちに連絡もとれる。お前が行けるなら泳ごう」
 ケンジがそう言うと、ユウは少し考える様に手の甲をくわえた。
「遠泳はした事無いから自信無いけど……」
「大丈夫だって。焦らずに一定のペースで泳げばいいよ。平泳ぎでもいいし疲れたら仰向けになって、休みながら行けば辿り着けるって」
「……ケンジがそう言うなら」
「大丈夫!イケルって」
 ユウが不安がらない様に自信満々に笑った。
「わかった」
 頷くユウに頷き返してケンジはゆっくりと深呼吸して海に飛び込んだ。


 波が荒かったのは海面だけで海中は割と穏やかだった。
 これなら行けそうだ。
 海中で体制を整えてクロールでリズム良く泳いだ。
 とは言えケンジ自身も実を言えば今まで四百メートル以上続けて泳いだ事がないので、なるべく体力を使わない様に省エネ泳法で行く事にした。
 後ろで飛び込む音が聞こえて安心して前を泳いでいたが、途中で様子がおかしいのに気づいて後ろを振り返った。
 見ると数十メートル後ろでユウが苦しそうに暴れている。
「ユウ!」
 ケンジは急いで後戻りして、ユウの体を支えた。
「助け……!ゲホッ!……溺れ……!」
 どうやら水を飲んでパニックになっている様だ。
 ユウを海面に仰向けにさせて首のところを抱える様にして持った。
「落ち着け。大丈夫だから一旦力抜いてゆっくり深呼吸して……!」
 不安と恐怖から心臓がバクバク鳴っている。
 立ち泳ぎしながらユウが落ち着くのを待つ。
 ゆっくりと島の方に進みながら、少し落ち着いた様子のユウに笑いながら話しかける。
「慌てんなって」
「だって、ケンジがどんどん先に進んで置いてっちゃうんだもん……。速過ぎるよ」
「悪い悪い。そろそろイケルか?」
「うん……」
 再び体制を立て直すと、今度は平泳ぎでユウの様子を確認しながら泳ぎ始めた。
 ユウは途中で何度か水を飲んでしまい、その度に小休止していたが、四十分以上かかってようやく島に辿り着いた。一キロあったかなかったか定かではない。
 内心想像以上に過酷で正直ギリギリだった。海はプールよりも浮力があるから泳ぎやすいとは聞くが、波があると思うように進めないし海水をかぶったり飲んだりしやすい。
 恐怖と緊張感に押しつぶされない様に、必死に心を強く持った。
 文字通り地に足がついてホッとした心地だった。
 ユウは浜辺に倒れ込んでいた。
 島では小雨が振っていた。
 ケンジも体を襲う怠さに耐えかねて、両膝に手を付いてかがんだ。
「……ユウ、大丈夫か?」
「……なんとか。凄い、本当に辿り着けた。ケンジがいなかったら僕溺れて死んでたかも知れないけど……あははっ、笑い事じゃないや」
 ユウが目元を赤くしながら口元を震わせていた。
 ケンジも一瞬『死』という言葉が頭をよぎって震えた。それを誤摩化すため思わずニッ!と口角をあげて笑った。
「ばーか。俺が付いてるって言ったろ?」
「……うん」
 しかし服を着たまま泳ぐのは相当体力削られる。
 しかもよく考えたら寝不足で泳ぐなんて本当に自殺行為だった。
 ボートが沈むとは限らなかった。ユウと一緒にあのままボートで助けを待つべきだったのかも知れない。
 もしくはボートを押しながら泳ぎ進めばもう少し楽だったかもしれない。
 つい焦って冷静に判断出来ていなかった。ユウがいるのに。
 本当になんとかなって良かった。
 安堵して疲れた体に一気に眠気が襲って来た。
 ユウが自分を見上げて笑った。
「ケンジって本当頼りがいあるよね。……もし僕が女の子だったらケンジに惚れてたかも」
 ドキリとした。
 昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。
 結局ベッドルームから離れて、ソファの近くの空いていた床スペースに横になっていたけど殆ど寝れなかった。
「……ウケる」
 口元が震えた。
 ケンジは仰向けに横たわるユウに手を差し伸べた。
 ユウが手を掴み、そのまま引っ張り上げて起こしてやった。
 ユウは靴を脱いで中の水をひっくり返し、海水をたっぷり含んだ上着を出来るだけ絞った。
 ケンジは耳に指を入れて頭をブルブルと振って髪の毛に含んだ水を飛ばしていた。
「せっかくのヘアスタイルも台無しだね」
「ばーか。それどころじゃねぇよ」
 二人は浜辺を歩き進み、舗装された道を灯りのある方へ歩いた。
 スニーカーの中がぐちょぐちょで気持ち悪い。
 辺りはすっかり暗くなっている。
「誰かいるかな」
「沖縄の人は親切だって言うけどな。出来たら今夜の宿を借りたい。後電話と食事も」
「お風呂にも入りたい……」
 ようやく生きた心地がして様々な欲が沸き起こって来た。
 びしょ濡れで歩くうち少し寒くなって来たのか思わずくしゃみが出た。
 ふと堤防のある漁港の様なところで人影を発見した。
「第一村人発見。声掛けてみよーぜ」
「あの人?……大丈夫かな」
 どうやら釣り人の様だ。
 紺色のレインコートのフードを頭から被り、煙草を口にくわえたままぼ~っと海を眺めている様だった。
 ケンジが大声で声を掛けた。
「うぉおっ!?……なにどうしたの!?」
 男は少し驚いた様にくわえていた煙草を落として、あ、と呟いていた。
「あーれぇ?……君たち見ない顔だね?どこから来たのぉ?」
「あの、ちょっとボートで漂流しちゃって、本島から流されて来たんです」
「えっ!?本当?本島だけに……」
 ユウは思わずケンジと顔を見合わせた。
 本当にこの人に声を掛けて良かったのだろうか。
 男がフードを取った。
 見た目は三、四十代くらいだろうか。少し髭が伸びて茶髪の毛はパーマみたいに縮れている。
 ケンジは男に事情を説明した。
「そう、君たち修学旅行生なの?……えっ、起きたら流されちゃってたんだ。携帯も無くしちゃったの、それは大変だね!今ごろ友達や先生たちも心配してるだろうね」
 ケンジはあの男達の事はにごしていた。ユウも本当は何があったのかと思うと怖くて言えない。
「まあ、うちで良ければひとまずおいでよ」
 男はサカキと名乗った。


 集落は写真で見た様な沖縄独特の民家が並んでいた。
 コンクリート製の家もあったが大抵の家に堀と垣がついている。
 台風の多い地域だから雨風対策が大変なのだろう。
 彼の家はかなり古い感じの家で、垣や庭も余り手入れされていない様子だった。
 周りはヤシの樹の様な植物で覆われている。
 鎧戸が閉じられ全体的に暗い雰囲気だった。
「空き家だった家を安く買ったんだ」
 サカキは聞いても無いのに説明して来た。
「俺は元々東京出身なんだけど、五年前からここに引っ越して来たんだよ。よそ者で肩身が狭いけどね……いや、いい人たちばかりだよ本当」
 脱サラでもして移住したクチだろうか。だらしない風貌だが言われれば少し都会的な雰囲気がしなくもない。
 家に上がらせてもらい、タオルを借りた。
 ケンジがとりあえずサカキにホテルの電話番号を調べてもらい、ホテルのフロント経由で梶山(かじやま)に連絡を取った。
 どうやら明日の午後に本島行きのフェリーが出るらしい。
 サカキにも電話で梶山に事情を話してもらって、どうやら今夜はこちらに一泊させてもらう事になった様だ。
「はぁーっ、梶山スゲー怒ってたわ」
「……だよね~」
「でもとりあえず無事で良かったって。今夜はここでゆっくり休ませてもらって、明日じっくり話を聞かせてもらうってさ。やっべ~、絶対学年主任とかからも叱られるな」
 ケンジは気づいた様にサカキの方に向き直って頭を下げた。
「すみません、今夜一晩お世話になります!ありがとうございます!」
 ユウも慌ててお礼を言った。
「いいよいいよ、俺は全然構わないから。こんなボロ屋だけどゆっくりしてって」
 その後風呂を借りて一人ずつ入った。
「桶が狭くて申し訳ないが、ゆっくり浸かって体暖めるといいよ」
 サカキが家を購入した時、崩れて使い物にならなかった風呂場を自分で改装したのだそうだ。
 五右衛門風呂式で下に釜があり、火を炊き薪をくべて追い炊きも出来る様になっているらしい。
 島は水不足になる事が多く、この辺りの民家は湯船の水を使い回したり非常用水にしたりするのだそうだ。
 流石に今夜は新しい水を張ってくれた様だが、五右衛門風呂なんて生まれて初めての経験で、入る時に少し苦労した。
 なんとか風呂に浸かると体が芯から暖まった。
 一時はどうなってしまうのかと恐怖したが、今は生きた心地にようやくほっとしている。
 天窓の様に壁の上部がぽっかり空いている。
 うっすらと白く輝く月が見えた。それを眺めていたらつい長風呂になってしまった。
 ユウは用意してもらった着替えのグレーのスウェットにありがたく袖を通した。
 少し大きかったがお日様の良い匂いがして気持ちよかった。
「……お風呂ありがとうございました」
「ああ、そうかい!」
 部屋に顔を出すとサカキが気づいて声を掛けてくれたが、ケンジはユウの方を一瞥しつつも興奮した様子でサカキに話しかけていた。
 何かの話で盛り上がっていた様だ。
「ケンジごめん遅くなって……」
「あー、いーいー!もっとゆっくりでも良かったのに!」
 ケンジが楽しそうに笑いながら手を振った。
「ケンジくんも入って来ちゃったら?今夜泊まるんだから、心配しなくてもゆっくり話せるよ」
「そーすか?そーすね!じゃあお借りします!」
 ケンジはそう言って鼻歌混じりに風呂へ向った。
「……なんだか楽しそうでしたね。何の話してたんですか?」
 ユウは思わずサカキに尋ねた。
「はははっ!いやぁね、俺のレコードのコレクションに目を付けたみたいで、昔のロックバンドの話で盛り上がったんだよ」
「へぇ~……」
 そう言えばケンジは音楽好きだから、そう言う話で盛り上がるのかも知れない。
 十畳程の続き間幾つか置いてある古い箪笥の上に、四角い紙製のケースが幾つも飾られていた。
 昔でいうCDみたいなものらしいが、これが本物のレコードなのだろう。
「これですか?」
「うん。俺のコレクション。若い頃は結構金に糸目つけずに裏オークションとか手を出してたしね」
「レコード、初めて見ました。高価なんですか?」
「物によるけど、これなんかは当時二十万くらいしたかな」
 サカキは一つを指差してはにかんだ。
「えっ!?二十万!?」
 ユウは信じられない気持ちだったが、希少価値のあるものだとしたらそのくらいするのかも知れない。
 その後昔の国内外のロックバンドの事を聞かせてくれたが、殆ど分からなくてサカキの説明に耳を傾けて相づちを返していた。
 ケンジが風呂から上がると、サカキが思い出した様に手を叩いた。
「そう言えばうち布団無いんだよね。俺冬は毛布くるまって寝袋で寝るから」
 サカキが笑うとケンジも「沖縄殆ど布団いらなそうっすもんねー!」と言って楽しそうに笑っていた。
 いつの間にかすっかり打ち解けていた様だ。
 その後サカキが近くの民家に寝具を借りに行ってくれた。
「いやぁ、色々すみません。急にこんなにお世話になって。助かります」
「全然!なんかテレビ番組であるアポ無し旅のやつあるじゃん?あれみたいで面白い」
 サカキはノリノリの様子だった。

「二人とも腹減ったろ?そうだ、良かったら一緒に庭で晩飯にしないか?」
 ユウたちは庭で?と顔を見合わせた。
 サカキはひらりと身軽に縁側から庭に降り立つと、こちらを向いた。
 どこからとも無く島ぞうりを出してくれたので、戸惑いながら二人も庭に出た。
 庭にあった石で作った円の中心に薪を重ね立て、い草にマッチで火をつけてくべると見る見るうちに紅く燃え広がった。
 三人はその周りに両腕で抱える程の岩を置いて腰掛けた。
 頭上には木々と軒下の柱に固く結んで通したタコ紐に吊るしたユウたちの洗濯物がぶら下がっている。
 薪の上に置いた金網の上に底が焼けこげたヤカンを乗せて、サカキは二人のコップを渡した。
「ほれ、さんぴん茶」
 サカキはその辺に転がっていた木箱を当たり前の様にテーブル代わりにして、近所の人からお裾分けしてもらったという天ぷらやゴーヤチャンプルーや佃煮なんかを振る舞ってくれた。
 ユウはチャンプルーには手を付けないで置こうと一人頷いた。
「俺、夜は米を食べない主義なんだよね。酒飲むから」
 ご飯が無い事を弁解しようとしたのか、そう言ってサカキは自らは色の付いたグラスに一升瓶に入っていた液体を注いだ。
 ケンジはそのボリュームに物足りなさそうにしていたが、ユウはおかずとお茶だけで結構お腹が膨れた。
 サカキはグラスに酒を注いではぐいぐい飲み、思い出した様に後からつまみを追加して持って来た。
 暫くしてサカキが何故庭で食べようと言ったのかその理由に気づいた。
 空はすっかり晴れ、雨雲も無く綺麗な星空が浮かんでいる。
 それはまるで名も無き星すら投影する高度なプラネタリウムか、はたまた宇宙空間に浮かんでいるかの様な鮮明な宇宙の景色だった。
 煙草の煙を吐きながらサカキが呟いた。
「俺、東京にいた頃は、夜空がこんなにも綺麗なもんだって気づかなかったんだよな……リアルに」
 目を細めて遥か彼方の銀河の先でも見つめているかの様だった。
「俺の実家は中野の辺りで、精々夏の大三角形とか、あの辺りくらいしか見えなくて、でもそれが当たり前の星空なんだと思っていたんだよ」
 ユウたちの住む街でも流石にここまで綺麗な星空は滅多にお目にかかれない。
 サカキは何やら物思いに耽っている様だ。
 ユウたちも暫く星空を眺めていた。
「あ、そうだ!」
 突然サカキが思い出したかの様に立ち上がって家の中に入っていった。
 戻って来たサカキはアコースティックギターを手にしていた。
「おおっ!?」
 ケンジが歓声を上げていた。
 縁側に腰を下ろしたサカキは、挟んであったピックを手に取り手慣れた手つきで次々と音を鳴らし始めた。
「うまっ……!?」
 何かのフレーズを奏でるサカキのギターの音色に、ケンジはあからさまに反応して身を乗り出して喜んだ。
「……ニルヴァーナ、ストーンズ、ヴァン・ヘイレン、クラプトン、エアロスミス、ビートルズにツェッペリン……、ディープパープル、チャック・ベリー」
「ははは!正解!若いのに良く知ってるね!」
 サカキは赤ら顔で高らかに笑った。
「有名なリフばっかりっすね。一応昔のロックも聴いたりしてるんで分かりますよ」
 ケンジが得意げにニヤリと笑っていた。
 ユウも確かに幾つか聞いた事ある様なフレーズだったが、アーティスト名まではさっぱりだった。
 ギターを構え直したサカキは、今度はしっとりとしたアルペジオのフレーズを弾き始めた。
 そのマイナー調で切なくカッコいいフレーズにユウも思わず胸が高鳴った。
 柔らかくもつやっぽく響く音色に心を揺さぶられる様な感覚を覚えた。
 ケンジが呟いた。
「あ!これって天国への階段……確かレッド・ツェッペリンですよね」
「俺の時代、ロック好きなら知らない奴はいなかった」
 ツェッペリン?聞いた事は無いがとても印象的だった。
 もっと聴きたいと思っていると、サカキは次々と何かの曲を奏でた。
 聴いた事あるノリの良いフレーズ。
 昔テレビCMで流れたりしていた。
「……これ、前CMで聞いたことある」
 思わず口を挟んだ。
「あ、そうだね。じゃあもっと君も知ってる曲弾こうか」
 その後ユウにも分かる様な少し前や最近の流行曲をサラリと弾いてくれた。
 サカキはアレンジが本格的で、たぶんケンジよりギターが上手い。
 ――いいな……サカキさんカッコいい。
 サカキは急に誰かの物真似をしだした様で、ケンジが「え、それってさ○まさし!」と笑っていた。
 ユウはよく分からなかったが、何故か面白くて一緒に笑った。
 サカキは自分でやっておきながら大爆笑していた。
「ものまねバトルとか、芸人がたまにやってますよね!あはは、サカキさん超ヤバイ……!」
 ケンジが腹を抱えて笑っているとサカキがケンジに問いかけた。
「ところでケンジくんはギターどのくらいやってるの?」
「あ、まあ。えっと始めたのは小六くらいからですけど、本格的にやり始めたのは中三ぐらいからですね」
「今高校二年生だっけ?じゃあ四、五年ってとこ?」
「まあそんなとこです」
「へえ。じゃあケンジくんもなんか弾いてよ」
 そう言ってサカキがケンジにギターを差し出した。
「俺なんかサカキさんに比べたら下手くそすぎて超恥ずかしいっすよ」
「いーからいーから」
 ケンジはそう良いながら楽しそうに軽く音を鳴らし、ユウにも聞き覚えのあるCMソングを奏でた。
「クラッシュか、いいね!」どうやら昔の海外アーティストの曲らしい。
 その後サカキはケンジの曲に合わせて陽気に歌いだした。
 驚いた事にサカキは歌も凄く上手かった。
「ヤベー、スゲー楽しい!ちょっと待ってて!」
 上機嫌のサカキは再び家の中に入り、再び戻ると両手に物を抱えて来た。
 白いカクカクとしたギターと、小さな箱の様な物。
 ユウが不思議そうにその箱を見ていると、サカキが、あぁコレ?と説明してくれた。
「マーシャルのミニアンプ。要するにスピーカー。これ小さいけど結構使えるんだよ。電池で動くし、音も練習程度なら問題無い」
 サカキはギターをその箱にコードで繋いだ。
 そのコードはシードルと呼ぶらしい。
 ユウはついでに尋ねてみた。
「ギター弾くのって難しいですか?」
「うーん、練習すればある程度までは誰でも弾ける様になると思うよ」
「じゃあケンジやサカキさんみたいに上手になるには、五年くらいやらないと無理なのかな」
「そーいやお前ギターやりたいとか言ってたな」
「短期間でも集中して練習すればもっと早く上達するよ。ただ、やりすぎると蛸が潰れて痛くて弾けなくなっちゃうから注意だけど」
「……タコ?」
 ユウが首を傾げるとケンジが笑って自ら手を差し出して来た。
「ほら、ギター蛸っていうか、ギター弾いてると自然と出来るんだよ」
 ユウがケンジの指先を触ると確かに固くなっていた。
「へえ~!」
「サカキさんは?」
 ユウがサカキの指を触らせてもらうと、まるで工業用の固いゴム手袋でもしているかの様だった。
「わ、凄いですね?」
「……年季が入ってるからね」
 サカキは優しく微笑んだ。
 二人との時間は何もかも忘れてしまうくらい楽しかった。
 ケンジがサカキと一緒にセッションをすることになった。
「じゃあ曲はハッシュで」
「了解」
 ケンジが白いエレキギターを手に取り、アコギを構えるサカキがボディを叩いてカウントを取った。
 リズム良くリードしてくれるサカキのギターの腕前は、一緒に演奏する
とより一層際立った。
 サカキの提案でユウも空き缶に砂を入れた即席マラカスを手にして、パーカッションで一緒に参加していた。
 奇跡的に三人の息がぴったりと合っていて最高な気分だった。
 しかも、独特なフレーズを歌うサカキの歌声は発音も完璧だった。
 サビになるとケンジもハモったが、サカキとケンジのハモリはとても綺麗で感動した。
 曲が終わってサカキが陽気に、イエ~イ!と叫んだ。
「いいねぇ!いいよ!楽しいね!」
 その後オアシスというバンドの、『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』という曲やったが、再びサカキの歌と演奏に圧倒された。
 音楽って、歌詞とか分からなくてもなんか感動する。
 曲が終わりに近づいて、サカキの声に力がこもった。
 ケンジも感動しているのか少し目が赤くなっていた。
 曲が終わった後、ユウは思わず拍手をした。
「凄いです!僕、凄く感動しました……!」
 ケンジもサカキに伝えていた。
「俺も、感動しました……。すげー、なんか泣きそうだったし!サカキさんのギターと歌、聴けて本当に良かったです。俺なんかとセッションしてくれて、ありがとうございました」
 サカキはめっそうもない!と笑って手を振った。
「曲がいいだけさ。でもありがとう、二人も良かったよ。俺思うんだけど、音楽って生き物だよね」
 サカキはケースから煙草を出して口にくわた。
「コレは俺の持論だけど」
 マッチで火をつけ、ふ~っ、と煙草をふかした。
「音楽って結局生ものっていうか。同じ曲を弾いたつもりでも、時間や場所、仲間が違えば刻々と変化して行く。同じ時は二度と存在しないから、その一瞬にしか奏でられない音楽がある。だからこそ価値があるんだろうね。音楽だけじゃなく舞台やスポーツでも一緒だよ。ライブって一度きり、だからこそそのとき最高のものを出そうとするんじゃない?」
 サカキはアコギを少しつま弾き、ジャン!と指の平で押さえた。
「スタジオ収録なんかもいいけど、やっぱりこういう外で生で一発やる方が気持ち良いよな。あ、言い方誤解招きそうだけど……」
 ケンジが反応して笑っていた。
「誰かとその一瞬を共有出来るのってスゲー楽しいじゃん?」
 サカキはくしゃっと皺を寄せて笑った。
「分かります。俺もバンドでライブしてると他の嫌な事も忘れて頭真っ白になるくらい楽しいし、途中でメンバーと目が合うと更に盛り上がってここ一番のプレイが出来たりする。バンド組んでて良かったって思いますもん」
 ケンジの発言に、ユウは羨ましいなと思った。
 バンドの仲間たちはいつもケンジとこんなに楽しいひとときを過ごしているんだ。
 サカキは口角を上げると、くわえていた煙草を指で掴んだ。
「そう、だからさっきのは二人が一緒にいたから出来たここ一番。一人で弾くより断然楽しいよ。音楽って本当に楽しいものだよね」
「サカキさん、俺一つ質問していいですか?」
 ケンジがサカキに問いかけた。
「何?」
「サカキさんって、一体何者ですか?」
 サカキは少し黙って、う~ん、と煙草の煙を吐いた。
「別に俺は何者でもないよ」
「でもギターも歌も、実力も才能も知識も経験も……桁違いで半端ないし、もしかしてプロだったのかなって……」
 サカキは少し困った様に笑った。
「まあ、そうだなぁ、元、だね」
「やっぱり!バンドですか?それともスタジオミュージシャン?」
「俺はしがない音楽プロデューサーだったんだよ」
 ユウは突飛すぎる話の内容に必死についていこうとした。
「俺みたいなおじさんの話、聞きたいの?」
 ケンジが意気込んで返事した。
 サカキはギターを立て掛け、ゆっくり煙草をふかし始めた。


 幼い頃家が貧しく虐められていたサカキ少年は、ある時可愛がっていた猫を追いかけて近所でも有名な幽霊屋敷に迷い込んだ。
 鬱蒼と茂る、成長した草木をかき分けた先で、彼が見たもの。
 まるで浮浪者の様な風貌の中年オヤジが、真っ赤なレスポールを抱えてロックミュージックをかき鳴らしていた。
 灰色で縮れた汚らしいあご髭、髪もぼさぼさでべたべた。なのに手にしている赤いエレキギターはピカピカというそのアンバランスさ。
 余りにも衝撃的で劇的な光景にサカキは心を奪われた。
 その日を切欠にその謎の男のもとへ通うようになったサカキは、次第にギターを教わるようになった。
 中学にあがっても相変わらず虐められ、暗い中学生時代を過ごしながらも密かにギターの腕だけは上がって行った。
 高校生になったサカキは趣味を兼ねてレコード店や楽器店などでバイトを始めた。
 その頃には家が貧乏だからと虐める様な幼稚な人間は周りにはいなくなっていた。
 謎の男はいつしか行方知れずになりもう二度と会う事はなかったが、サカキは必死にバイトしてついに念願のギターを手に入れた。
 ある時転機が訪れる。
 当時学校の屋上でギターを弾いていると、ある一人の男子生徒に声を掛けられる。
「俺が歌うから、お前はギター弾いてくれ」
 彼は抜群の歌唱力と作詞の才能を併せ持ち、更には天性のカリスマ性があった。
 ヴォーカルが誘った他のメンバーと共に、バンド結成二週間後に初ライブを敢行した。
 演奏は散々でとても人前で披露する程のレベルでは無かったが、ヴォーカルの才能は驚くべきもので、アカペラでも観客の心を惹き付け、魅了した。
 気がつけば毎週のように行うライブで、日に日に観客動員を増していき、半年後にはワンマンライブを大成功に納めた。


 サカキは、ふぅ~、と白い煙を吹き出して、遠い目をした。
「地元では名の知れたバンドに成長した俺らは、高校三年の時誰かが呼んだ音楽プロデューサーの目に留まり、音楽事務所にスカウトされた。そしてトントン拍子に卒業と同時にデビューする事になった。俺は何もかも全て、自分たちの想い通りに人生が運んでいくのだと錯覚したよ」
 しかしそれはヴォーカルの才能による抜擢であった事は言うまでもない。そのバンドはそう長く続かなかった。
 プロデューサーとの行き違いから口論になり、ヴォーカルが事務所を勝手に辞めてしまったのだ。
 ヴォーカル以外のメンバーはアマチュアレベルで特に取り柄も無く、バンドは実質上解散に追い込まれた。
 路頭に迷った残りのメンバーは、お互い別々の人生を歩む事になった。
 ベースは作曲担当だったので、そのまま事務所に残り作曲家として活動した。
 ドラムは地元の企業に就職し、サカキはもう一度基礎から音楽を学ぼうとバイトをしながら音楽の学校に通う事になった。
 ところが再びサカキに人生の転機が訪れる。
 バイト先のスタジオやライブハウスで、色んな人と知り合って仲良くなっていたサカキだったが、当時人気の高かったバンドのドラマーをしていた人物が解散後に新規バンドのメンバー募集し、ひょんなことからサカキも仲間に入る事になったのだ。
 ケンジは口笛を鳴らした。
「凄いですね」
「たまたま運が良かったんだよ。彼と気も合ったしね。で、まあ結成して三年後にメジャーデビューしたんだけど、そのバンドも六年くらいで解散しちゃったんだ」
「サカキさん歌も歌ってたんですか?」
「まあね。そのバンドは皆歌うバンドだったからね。ドラムがリードヴォーカルの曲も結構あったし」
「なんてバンドですか?」
「……エクリプスっていうバンドだった。まあとにかく何年かソロでミュージシャンやった後、知り合いのミュージックスクールの講師をやったりイベントに参加したりしてたんだけどある時また……」
「転機が訪れたんですか?」
 ユウが食い気味に口を挟んだ。
 サカキは笑って、そう、と答えた。
「スクール主催のライブがあって、当時一番才能があって目をかけていた生徒が出演したんだけど、昔世話になっていた音楽事務所の社長が彼女を気に入ってね、もう一人のスクール講師と一緒に食事をする事になった。そして酒の勢いから、彼女を自分の事務所からデビューさせると豪語した社長は、その場にいた俺に白羽の矢を当てた。俺はその歌姫をプロデュースする事になってしまったんだ。俺は驚いたよ。冗談だと思っていたら、いつの間にか話がトントン進んでるじゃないか。まるで昔の俺たちのように。でも、俺にプロデュースなんかできねぇよ!って半ばヤケクソでやったら大当たりしちゃって。その成功のおかげで他のアーティストのプロデュースも任されるようになったから、俺は腹くくるしかないじゃん。命かけて本気でやったよ」
 始めのうちはバンドの個性を重視しすぎてウケなかったり、流行の音楽を取り入れたらあっという間にヒットしたりと、売れる売れないもまるで博打打ち。浮き沈みが激しい世界で試行錯誤していくうちに、音楽性よりただ売れるための商業的なプロデュースばかりになってしまった。
 体を張らせてタイアップを取り、バラエティ番組やドラマ出演させる。情報操作に買収、そう言う事が当たり前だったのだという。
 サカキは空いたグラスにまた、どばどばと酒を注いだ。
「あぁ、あの時の俺は相当酷い顔していただろうな。所詮世の中金で動いている、何もかも金が解決してくれるって思っていたよ。若い子は反抗的だったけど、売れたいなら言う通りにしろって捩じ伏せたし……。しかしおかげで一時期名の知れた敏腕プロデューサーって事で一目置かれていてね。今思えば俺はもう色んな判断を見失って後戻り出来なくなっていたと思うよ。まあそしてある時不眠不休が祟って倒れちゃったんだよね。それで一ヶ月程入院していたらなんだか憑き物が落ちたと言うか、音楽が好きだった最初の頃とかけ離れている自分の現実に嫌気が差しちゃったんだよね。それで、辞めちゃった」
 サカキは話し終わると少し悔しそうにグラスの酒を一気に飲み干した。
 ケンジはサカキに尋ねた。
「それで……辞めてこの島に移住したんですか?」
「うん。以前仕事で来た事があっていい島だと思った。どこか、誰も自分を知らない世界に行きたかった。そしたらここが思い浮かんだんだ。だから何もかも捨てて残りの貯蓄で隠居生活って奴さ。いいご身分だろ?」
 ははは、と笑うサカキだったが少し寂しそうだった。
「あれだけチヤホヤされてたのに、業界を去った後は皆冷たかったよ。一人だけ、未だに時代遅れの俺をあの世界へ戻そうとする奴がいるけど、正直もう俺なんて……」
「そんな事無い……サカキさんもう音楽やらないんですか?」
「どうかな……。でも今日思ったよ。俺はやっぱり音楽を捨てられない……」
「また、やり直せないんですか?サカキさんは、こんなに凄いのに……」
「あはは!おだてないでよ」
「おだててなんか……」
 その後サカキは話をそらすかの様に星空を仰いで星の話を始めた。
 あれはなんと言う星であれは何の星座だとか。
「そう言えばケンジくんは何座なの?」
「俺ですか?俺は牡牛座です」
「そっか。俺と一緒だ。ユウくんは?」
 サカキがユウに尋ねると、ユウは蠍座だと答えた。
「へえ、じゃあそろそろじゃない?」
「あっ、実は……」
 ユウがぼそりと呟いた。ケンジは驚いて叫んだ。
「えっ!?お前今日誕生日なの!?」
「うん、実はそうなんだ」
「今日最悪じゃねーか!」
「うーん、実はさっきまで誕生日だって事すっかり忘れてた。でもめったにない体験が出来て多分今日は一生忘れられない誕生日になったよ」
 サカキが呆れた様に笑っていた。
「もっと早く言っとけよ。朝おめでとうくらい言ったのに」
「うんでも、自分の誕生日ってあんまり人に言いにくいっていうか……」
 ユウが照れくさそうに笑った。
「そっかぁ、じゃあ……」
 サカキがそっとケンジにとある提案を耳打ちして来た。
 ケンジはニヤッと笑って頷いた。記憶が怪しかったのでスマホでコード譜を検索して確認した。
 二人してギターを構え出したのでユウは何事かという目で見て来た。
「じゃあ普通にEからですか?」
「オーケイ。んじゃ用意はいい?ゴーゼーン♪……ね?……ワン、ツ……」
 人気アーティストのバースデーソングを演奏しながら二人で歌うと、ユウは目を輝かせて喜んでいた。
 ケンジは普通に歌っただけで、サカキがハモりやアレンジを入れた。彼のアレンジ力の高さには本当に感嘆する。
 ジャカジャカジャカジャン!演奏を終えると共に叫んだ。
「おめでとー!」
「ユウおめでと!」
「うわぁ、ありがとうございます!サプライズです!」
「歌くらいしかプレゼントしてあげられないけど」
 サカキが顔に皺を寄せて笑った。
「そんな全然!凄く嬉しいです」
 その後サカキがトイレに席を立った。
「夕べ姉から電話があったんだ。今朝は出るの早いから前倒しでおめでとうって。誕生日に沖縄旅行だなんて良かったじゃないって言われたけど、まさか今日がこんな日になるとは」
 確かに今はこうやって気楽に笑っていられるが、つい数時間前は死の瀬戸際にいただなんてまるで夢でも見ていたかの様だ。
 ケンジは自分の腕に付けていたシルバーのブレスレットが目に入った。
 ふと思いついて外すとユウに差し出した。
「あのさ、プレゼントっていうか、良かったらこれやるよ」
「えっ?なんで、それお気に入りのやつなんじゃない?」
「うん。だからお前にやる」
 少し前にネットで気に入って購入した物だった。
 純銀製でターコイズとオニキスがあしらってあるシンプルなデザイン。
 ユウに似合いそうだし、とにかく何でもいいからユウにプレゼントを渡したかった。
 ケンジが促すとユウは手の平を差し出して受け取った。
「……本当にいいの?後からやっぱり返せとか言う……」
「んなこと言わねーよ。要らないなら別にいいけど」
 ユウは慌てた様に首を横に振った。
「要る!ありがとうケンジ……。実はこれカッコいいなって思ってたんだよね」
 そう言って嬉しそうに笑みを浮かべるユウを見てケンジも微笑んだ。
 ああ、良かった。ユウが喜んでくれて嬉しい。
「大事にしろよ……」
「勿論!本当にありがとう」
 ケンジは拳を作ってユウに向けた。
「ん……ほら」
 促すとユウがニヤッと笑って拳をコツンと当ててきた。
「こう言うの、一度やってみたかったんだよね」
 ユウは少し照れた様に笑った。
「俺で良ければ、いつでも」
 戻ってきたサカキがブレスレットに気づいて笑った。
「いーなぁ、青春しちゃって。俺もあの頃に戻りたいなぁ……」
 サカキは何かが吹っ切れたかの様に鼻歌混じりにギターを奏でた。 


 閉じた瞼に眩しい光が照りつけて、う~ん、と小さく唸りながら光から背けるように寝返りを打った。
 再び深い眠りに着こうと意識を沈めて行くと、急にバシッ!と頬を叩かれて機嫌悪く目を開けた。
「もう、何だよ……?」
 誰かの手の甲が頬を直撃していたのでそれを掴んで退かした。
 ユウが眠い目を擦りながら体を起こすと、隣でケンジが凄い寝相のまま寝息を立てていた。
「……んもぅ、ケンジィ~……」
 ユウはムスッとしてケンジの腕を放り投げた。
 ケンジの腕はケンジの体に直撃して畳の上に落ちたが全く起きる気配がしない。
 暫く思い瞼を閉じて項垂れていたが再び寝る気もしなくなって起きる事にした。
 ケンジは敷かれた布団から殆どはみ出して掛け布団も片足しか掛かってなかった。
 おまけにスウェットがめくれてお腹がはみ出している。
 ユウはその光景に思わず鼻を鳴らしながら立ち上がって背伸びをした。
 障子を開けて部屋の外に出ると、縁側から眩しい光が差し込む庭が見えた。
 とてもいい天気だ。
 思わず笑顔が溢れる。
 サカキはどこにいるのだろう?まだ寝ているのだろうかと辺りを見渡したが庭に人の気配はない様だ。
 ユウは庭に降り立ち、昨夜から干していた服を回収した。
 殆ど乾いていたが、ズボンはまだ少し湿っぽかった。
 古紙を丸めて入れておいた靴もまだ湿っている。もう少し日光に当てないと駄目だ。
 部屋に戻りポケットに入れたままでビチョビチョだった布財布ももう使い物にならなそうだ。中身だけ出して乾かしておいて正解だった。
 ユウはとりあえず服に着替えると、脱いだスウェットと自分の使っていた布団を軽くたたんだ。
 ケンジにもらったブレスレットを手にして少し顔が綻んだ。
 サイズが大きいので直してもらわないといけなそうだ。
 でも誕生日なんて家族以外に祝ってもらった事なんて殆どない。
 周りに言わないのもあるけど、やっぱりおめでとうって言ってもらうのは嬉しいものだな。
 ユウは暇を持て余して庭に出た。
 昨晩の炉の跡が黒く炭化している。
 庭は手入れはされていない様で雑草だらけだった。少し手入れすれば色々と使えそうなのに勿体ない。
 前に造形庭園という本を読んだ事があって少し興味があった。今度ガーデニング関連の本でも借りて見ようかな、などと思っていると、敷地の入り口辺りで中の様子を伺っている人がいた。
 近所のおばあさんの様だ。
「アィ、チャービラサイ!」
「……お、おはようございます……?」
 おばあさんはユウに気づいて何かを話しかけて来たが、方言が強過ぎて何を言っているのか全く分からない。
「ちょっとすみません、あの、ちょっと待っててください……!」
 ユウは慌ててサカキを探した。
 家の奥の部屋に向うと、そろりと襖を開けた。
 寝ているサカキを見つけ、そっと起こそうとした。
「サカキさん、起きてください」
 なんどかサカキの体を揺するとサカキは、う~ん、と唸って急にユウの腕を引き寄せた。
「ユキコォ……」
 サカキはユウを抱き寄せるように腕をのばして来た。どうやら寝ぼけている様だ。
 サカキからはアルコールの臭い匂いがした。
「サカキさん!起きてください!お客さんですっ!」
 慌てて叩き起こすと寝ぼけ眼で起き上がったサカキが、えっ?何?誰?と呟いた。
 ユウが来客の旨を伝えると、サカキはだるそうに起き上がった。
 甚平の様な者を着ていたが殆どはだけて腹まで見えていた。
 衣服の乱れを直しながら外門に向ったサカキは、先ほどのおばあさんと何か話しながら笑っていた。
 よく分かるなぁと思いながらケンジの様子を見に行くと、相変わらずの寝相のまま爆睡している。
 悪戯に鼻をつまんでみると、暫くしてから苦しそうに顔を横に振った。しかしそれでも起きない。
 サカキがおばあさんとの会話を終えて縁側に近づいて来た。
「いやぁ御免ゴメン!さっきはごめんよ」
「あ、いえ。あの人は近所の方ですか?」
「うん、また佃煮もらった」
 頷くサカキの片手には使い古されたタッパー。
「ここの人って皆親切ですね」
「そう言うのが当たり前なんだよ、ここの人たちにとっちゃ」
 サカキにさっきの言葉がわかるのかと尋ねると「実は未だに半分以上分からない」と答えたので「ですよね」と笑ってしまった。
 その後ケンジを叩き起こすと、朝食の準備をする事になった。
 残り物や先ほどの佃煮で簡単に朝食を済ませるつもりだったらしいサカキに、ケンジが自分が一宿一飯の恩義で食事を作ると言い出した。
「ケンジくん料理出来るの?」
「あーまあ、俺んち父子家庭なんで。一応家事は出来るんすよ、これでも」
 ケンジは手際良くみそ汁と卵焼き、余っていた佃煮と野菜で炒めものを手際良く作っていた。
 更に味も美味しくて驚いた。
「普段朝も余り食べないから久々の朝飯だなぁ。それにしてもケンジくんっていい奥さんになれそうだね」
 サカキの冗談に皆で笑った。
 ケンジが梶山(かじやま)の携帯電話に連絡して、今日の午後二時発のフェリーで帰る事になった。
 どうやら一日一往復しか無いらしく、本島に戻ったところで梶山が待っていてくれる様だ。 
「それまで少しこの島の観光でもするかい?」
 サカキの提案で晴れ渡る島内を散策する事になった。
 生乾きの靴の代わりに島ぞうりを借りて、先ずは港に向った。
 人通りは少なかったが島民は優しくてすれ違う度に挨拶してくれた。
 赤瓦の民家が建ち並ぶのどかな道のりを歩きながらサカキの島案内に耳を傾ける。
 かつて映画の舞台にもなったことがあるらしく、民宿や食堂もあり意外と栄えている島だったのだと知った。
「大抵はダイビング目的の観光客しかこないけどね」
 自転車を借りて島の西側を目指した。
 しかし上り坂が思いの外キツくて途中から歩いた。
 ただ展望台にたどり着くとその絶景に心が癒された。
 帰りは下り坂を自転車で爽快に走り抜けて、食堂で昼食を食べた。
 魚のフライ定食を頼んだが、とても美味しかった。
「本当にご馳走になっていいんですか?」
「勿論!全然気にしないでよ」
 二人ともサカキに奢ってもらう事になった。
 定食屋のおばさんに修学旅行か尋ねられた。
 やはりこの時期修学旅行生が多い様だ。
 おばさんは方言はそんなにキツく無かったので皆でお喋りを楽しんだ。
 沖縄の人は気さくで話し易い人が多いみたいだ。
「あっ!大変だ、そろそろ時間が……」
 サカキが叫ぶともう一時半を過ぎていた。
「俺もすっかりでーげーで……急いで一度戻ろう」
 慌てて靴を取りにサカキ邸に戻ると、再び港まで見送りについて来てくれた。
「サカキさん、本当にお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ。短い時間ではあったけど楽しかったよ、ありがとう」
「色々聞かせてもらえて良かったです。……俺、いつかサカキさんみたいなプロのミュージシャンになりたいんです」
 ユウはその言葉に少し衝撃を受けた。
「元プロ、だけどね」サカキは微笑んで頷いた。「そっか、なら尚更夕べの話は忘れてくれよ」
「えっ?」
「俺は本当に運が良かっただけとも言えるからね。現実は酷くて理不尽な事ばかりで、たとえ実力があっても長い間プロでいられる人はごく僅かで殆ど運次第だよ。音楽が好きってだけで何とかなる世界じゃないし、過酷な現実に諦めたり俺みたいに音楽すら嫌いになって辞めてしまうかもしれない。でも、結局最後に残るのは、音楽が好きって事だ。だから、君も本当に音楽が好きなら地位や体裁にはこだわらず、ただひたすらに自分の音楽を突き進めばいい」
「ただ……」
 サカキが続けた。
「俺はやるならとことんやるべきだとは思う。本気なら死ぬ気でやるんだ。憧れだけで上京して、やっぱり駄目だったので地元に戻ってアマチュアに甘んじますって奴、たくさん見て来たけど別にそれはそれでいい。ただ、問題なのは頑張ったけど才能がなかったんだよって愚痴るやつ。才能がないんじゃない、頑張り方が生ぬるいだけだ。もちろん運ってのもあるけど。正直プロになれても、売れるか売れないかは博打みたいなもんだ。たくさん売れれば良いというものでもない、難しい世界だ。確かにプロが全てではないが、プロである事は誇りと自信を与えてくれる。諦めない事は並大抵の事ではないけれど、とても意味があるし、実現させるためには決して諦めない事が肝心だ。しかしやるならだらだらやるな。若いといえども時間には限りがある。君にはまだまだ可能性はあるけどけれど今以上に相当努力しなければ無理だ」
「……はい」
 ケンジが絞り出す様な声で返事をした。
 やがてフェリーに乗り込み別れの時がやって来た。
「最後にもう一つ。どんな過酷な状況でも、何があっても君のことを信じて応援してくれる相手がいてくれたら、きっと乗り越えられる。君も君自身を信じて疑わなければ、必ず望んだ場所に行ける。これからもそう、信じ続けて欲しい」
 ケンジが動き出したフェリーの上からサカキに向って叫んだ。
「サカキさん!いつか、また会えますか?俺は絶対音楽を諦めないっすから!」
 サカキが手を振りながら微笑んだ。
「俺は……君たちに会えて良かったのかもしれない……!また、いつかどこかで会おう!」
 ケンジはいつまでも必死に手を振っていた。
 やがて港が小さくなってサカキの姿も見えなくなると、ケンジはフェリーの壁にもたれ掛かって走る水面に視線を落としていた。
「なんか寂しいね。一日もいなかったのに、もっと長くいたみたい」
「……そうだな。まあ、とにかく無事に戻れる……」
 ケンジは少し元気の無い様子だったが、背伸びをして欠伸を欠いた後は気を取り直したかのようにケロッとしていた。
 フェリーが本島に着くと梶山が迎えに来てくれて、宿泊先に向った。
 梶山に経緯を聞かれ、大まかに話した。
 『――たまたま散歩していたら突然怪しい男達に囲まれて気を失い、気がついたらボートの上に漂流していた――』
 横たわっていた何かについてはやはり怖くて明かせなかったので、なぜ二人がボートに置き去りにされたのかはさっぱり分からないと答えた。
「まあ、とりあえず無事に帰って来てくれて良かった!」
 梶山が目を赤くして二人に思い切り抱きついて来たので、ユウは驚いて後ずさった。
 三日目宿泊予定のホテルに着く前に、他の生徒たちが混乱するといけないので、他言するなと言われた。梶山は連絡が取れた後、他の生徒たちには二人は急遽宿泊体験をしているとだけ説明したらしい。
 その後引率の学年主任の教師にも事情を聞かれた。
 梶山は謎の男達の行為が略取監禁にあたるのではないかと言及したが、主任教師の方は二人が元気に戻って来た事を理由に、警察沙汰にはしない考えの様だった。
 ユウは内心ホッとした。何故なら警察に言ったら報復されるのではないかと怯えていたからだ。もう、あんな怖い人たちには一切関わりたくなかった。
 主任教師は「ご家族には私から改めて話そう」と言われたが、ユウは「余計な心配かけたく無いので、家族には言うつもりありません」と答えた。
 するとケンジも同じ様に言ったので、主任教師は「君たちがそう言うなら」とそれ以上言及しなかった。
 ケンジは、学校側は生徒が無事なら良しとしてあまり騒ぎ立てて問題にしたく無いんだろう、と言った。
 翌朝起きるとあっという間に修学旅行の最終日だった。
 あんなに怖い想いをしたのに何事も無かったかの様に観光している。まるで夢でも見ていたかの様な気分だ。
 同級生たちから、何故昨日急にいなくなったのかと追求されたが、他言しない約束だったので「色々あって」と無理矢理誤摩化した。
 首里城を見学して、行きとは逆に那覇空港から沖縄を飛び立つ。
「家に帰るまでが修学旅行だからな!」
 梶山が疲れてだらけている生徒たちを叱咤していた。
「結局ちゅら海水族館にも行けなかったなぁ」
 ユウが嘆いているとケンジがクスリと笑った。
「実際の海を体験したろ?まあお土産で我慢しろって。ほらやるよ」
 ケンジはまるで他人事の様に笑って、ジンベエザメのストラップをちらつかせた。
「いいよ、僕も国際通りでマンタ買ったし!」
 姉のお土産用にぬいぐるみとストラップ、ちんすこうを二種類も買ってしまった。
「なんならまた一緒に行こうぜ」
「……一緒に?また変な事に巻き込まれるかも」
「そしたらまた一緒に島まで泳ぐべ」
 ケンジが笑い、ユウもつられて笑った。
 ケンジと一緒なら、大丈夫な気がするのは何故だろう。
 結局、あの男達が何者だったのかさえ分からないまま、謎を残したまま沖縄の地を去った。

3:君のとなり(KIMInoTONARI)

3:君のとなり(KIMInoTONARI)

ライトBL創作小説、第3章 第1章はこちらから http://slib.net/58779

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 3章 南の島で美しい蝶を追いかけると道を失う
  2. 1
  3. 2
  4. 3