母性の矛先

 僕が娘の急な母性に気付いたのは、彼女がまだ2歳の頃だった。
「よちよち」
 ある晩、そう言いながら彼女はベッドに横たわって何かを寝かしつけていた。回り込んで見てみると、大事そうに布団をかけられて、母親の真似事をするかのような格好で彼女が寝かしつけていたのは、テレビのリモコンだった。
 その時の僕は思わず笑ってしまったのだけれど、それは笑い事では済まない話の始まりだった。

「ねぇ、リモコン貸して?」
「ダメ!」
 その日を境に、彼女はリモコンを片時も離さなくなった。本当に自分の子どものように、いつも小脇に抱えながら生活するようになった。
「なぁ、どうする?リモコン」
 僕は妻に相談したけれど・・・
「そのうち飽きるんじゃない?」
 妻はずいぶん楽観的に構えていた。
「女の子だもん。いつかそんな時期が来ると思ってたし」
「だけどお前、リモコンだぞ?」
「ウケるよね。まさかのチョイス」
「軽く引いたけどね」
 結局、その時の僕達は、彼女が飽きるのを待つことにした。


「ねぇ、リモコン貸して?」
「ダメ!」
 けれど、すぐに終わるだろうと思っていたそんな生活は、見事にそれから1年続いた。彼女は3歳を迎えても、リモコンを我が子のように溺愛し続けていた。
「なぁ、いいかげんどうする?リモコン」
「うーん、まさかお人形作戦が失敗するとは思わなかったなぁ」
 さすがの妻も、この頃になって焦り始めた。妻の計画では、3歳の誕生日に買ってあげた赤ちゃん人形で全てが片付く予定だったらしい。けれど、その予想は見事に裏切られた。彼女は、より本物の赤ちゃんに近い人形には見向きもせず、リモコンの面倒を見続けたのだった。
「いい加減、リモコン無いと不便だよ」
 テレビの本体についているボタンを操作すれば、テレビを見るのに支障はないのだけれど、毎回立ち上がってテレビを操作するのはさすがに面倒だった。
「だよねぇ」
「リモコンもう1個買う?」
「でもさ、もし新しいリモコンも赤ちゃんにされたらどうする?」
「え、まさかの双子!?」
「なりかねないんじゃない?あの子の場合」
 結局、その時も僕達は彼女からリモコンを取り上げることはできなかった。


「ねぇ、リモコン貸して?」
「ダメ!今寝てるの!まだ赤ちゃんだから、いっぱい寝なきゃダメ!」
 そして、そんな生活は2年目を迎えた。彼女の凄い所は、赤ちゃん人形に見向きもしなかったことだけではなく———
「おんぎゃー!おんぎゃー!」
「うるさいよ!赤ちゃん寝てるんだから泣かないで!」
 本物の赤ん坊(弟)にすら、興味を示さなかったことだった。
「なぁ、いいかげんどうする?あの子」
「うーん」
 ここまでくると、ちょっと病的なものさえ感じてしまった。僕達は、彼女を連れて小児病院のカウンセリング科を訪れることにした。


「―――そういったわけで、2歳の頃からずっとリモコンをあやしているんです」
「・・・なるほど」
 僕がこれまでの経緯を説明すると、その時の担当してくれた女の先生は、ジッと彼女を見つめていた。もちろん、彼女の小脇にはいつものようにリモコンが抱えられていた。
「どうしてリモコンをあやしているのか、ちゃんと聞きましたか?」
「何度か。でも、何度訊いても“まだ赤ちゃんだから”ってしか言わないんです」 
 彼女を膝の上に抱いたまま、妻が言った。
「・・・なるほど」
 先生は、彼女から視線を逸らすことなく頷いた。
「赤ちゃんだからっては言うんですけど、本物の赤ちゃんには興味がないみたいで、弟には全く近寄らないんです」
「うん、それはそうですよ」
 先生はまるで何かが分かったかのような言い方だった。
「この子が面倒見たいのは、人間の赤ん坊ではなくてリモコンなんですから」
 言っていることの意味がよくわからなかった。僕と妻は、お互いに顔を見合わせた。
「例えば、あなたが本物の赤ん坊の面倒をみていたとして、急に “今日からコッチがあなたの赤ちゃんですよ”ってリモコン渡されたって、面倒見るのは嫌じゃないですか?」
「・・・はぁ」
「それと同じです。この子にとって、今はリモコンが赤ちゃんなんだから、替わりのものを預けたって無駄なんですよ、きっと」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「放っておくのが一番だと思います。自分で言ってたんですよね?“まだ赤ちゃんだから”って」
「はい」
「ということは、いつか赤ちゃんじゃなくなる日が来るんじゃないかしら?そうしたら、自分から自然と離れていくと思いますけどね。それまで気長に待ってあげるのもいいんじゃないでしょうか?」
 僕達は、もう十分に待ったような気はしたのだけれど、先生の言葉を信じて、もう少し待ってみることにしたのだった。


「ねぇ、リモコン貸して?」
「ダメ!」
 そして、彼女は今年で17歳になった。
 彼女はリモコンを渡すものかと言わんばかりに、しっかりと小脇に抱えて僕達を睨んだ。
「今日でこのドラマ最終回なんだから!」
 けれど、その理由は昔のそれとはもう違っていた。
 あの時、先生が言っていた通り、彼女のリモコン育児は、彼女が5歳になる前にいきなり終わりを迎えていた。
 今思えばあっという間の3年間だったけれど、当時の事を振り返ると、随分焦らせられたことを思い出す。
「録画して、後から見たら?」
「ダメ!終わったらLINEで感想言い合う約束してるから」
「姉ちゃん、俺と父ちゃんゲームしたいんだけど」
「ダメ!文句あるんならお父さんに言ってよ!今時、家にテレビ一台なんてウチくらいなんだから」
 今ではすっかりサイズも変わってしまったけれど、不満気な顔でリモコンを抱えるその格好を見ていると、否が応にも“あの頃”を思い出して・・・
「ぐふふ」
 つい、笑ってしまう。
「・・・キモッ」
「いやいや、あの頃のお前もなかなかキモかったよ」
「何それ?」
「昔の話だよ」
 またいつか、彼女がもう一度母性に目覚めた時、こんな話をしてやろうと思った。その時はどうか、彼女の母性を向ける相手が人間の赤ん坊であることを、僕は静かに願った。


お題【急な母性】にて

母性の矛先

母性の矛先

彼女が寝かしつけていたのは、テレビのリモコンだった。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-11

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