ことばにしない


ことばにしないのもひとつの形だと言うから,大切なものについて,ことばにするのを止めた。そうしたら,大切なものの一つひとつが,前より存在感を増して,より大切なものになっていった。ただし,どんなものとして,どんな理由で,私にとって大切なものなのか,人にも自分にも言えなくなった分,得体も知れなくなった。分かるのは,それが大切なものだということだけ。だから,それが良いことなのかも,悪いことなのかも,もう私には言えない。
彼からメールが届いた。別れ話をしたいから,いつものカフェで会いたいという内容だった。私は「いいよ。」と答えた。それに対する返事として,時間だけが指定された。ひと休みする人たちで混雑する,午後の三時は避ける配慮が窺えた。それと多分,その日の彼の外回りの日程にとって,都合もいいはずで,私の当日の営業ルートに照らし合せても,問題は無かった。だから,絵文字で返事をした。それに対して,何も返って来ないことが約束を確実なものにした。私は,テーブルのデリバリーの空箱を片付けた。
しばらくして,私はスマホの画面を消した。出かける準備をするためだった。肩を出した,白のサマーニットに黒のプリーツスカートを合わせて,トートバッグを持って行く。履物はサンダル。色をどうしようか,決めてかねていた。
テーブルを拭き,布巾を洗い,タオルで手を拭いて,洗濯物を取り出して,カゴに入れて,リビングを通り過ぎる前に,足を止めた。点けていたテレビから流れるCM特集に,バーでお酒を飲んでいるペンギンのカップルがいて,素敵な歌に,涙が流れる。小さい頃,ママと一緒にこれを観ていた記憶が浮かんだ。私はママの膝の上に乗って,ママを見上げて質問している,そういう部分の記憶。ほんのりと赤くなっているママの顔が続いて終わるから,その時に私がしたのは昔の恋バナについてのものだったのかな,と推測できるけど,だとすれば,ママの高ぶった気持ちがその後にどうなったのかということも,今の私には説明できてしまう。若い頃の別れの分岐点に立ち戻って,新たな生活を始めたママ。そのママから,形見のように貰ったアクセサリー群を,私はしばらく見ていない。シンプルな指輪とかもあったから,デザインに問題はないと思う。財産になるからと,オジさんが定期的に手入れをしてくれていた。そのオジさんが亡くなってから,だから,五年は経った今日にそれを探してみて,錆びたりしていなければ,身につけて行こう。鏡の前で合わせてみて,似合わなかったら,そうするのは止めればいいし。そう決めた。ベランダへ向かい,一日中晴れっぱなし,という予報どおりになりそうな天気を確認してから,水を吸った洗濯物をカゴごと置いた。バスタオルが三枚も出ていた。ハンガーがいつもより余計に必要だった。
それでも時間はかからない。手際のよさは,その時々の好きな人から必ず褒められた,私の長所だった。
予定どおりに外出して,色々とお店を回った。途中,ナンパが三回。同じ会社のポケットティッシュを受け取ること二回。あると便利な営業向けのアイテム。それと,欲しかったフェルトの中折れハットと,厚手の靴下を二足,キャメルと,ベージュに,ブルーのボーダー。これからのアウターは,仕舞い込んでいるものを引っ張り出してから,着れるものとそうでないものを選別してから,必要なもので,気に入るものを探す。それから,インクジェットの替え。バインダー。思い出して,替えのカミソリ。あと,予備の歯ブラシ。
時間はまだまだあった。だから,最後に大手のCDショップに寄った。そこでは,あるアーティストとコラボした人気バンドの新着アルバムの発売イベントが行われていて,その一つに,ライブ用のスペースを存分に使った,巨大なボードへの『アイの書き込み』というものがあった。要はカップルでも友人でも家族でも、愛のある繋がりを持った人達の名前をそこに書いて,どこまでも広げていこう,というもので,実際に書かれたものの中には名前と一緒に絵を描いたり,プリクラを貼ったりしたものから,イベント用に用意されたサイトから取得できる個別のアドレスを書き残して,そこにアクセスすると,凝ったものから,くだらなくて面白いものまで,アップされた様々な動画を楽しめたりと,今時のオープンな工夫が施されていて,テレビでもネットでも話題になっていた。
私が行った時も,高校生ぐらいの若い子達を中心に,書き込んだり,撮影したりをしている人が結構いて,賑わった雰囲気で満ちていた。私は空いた所からボードを見ていこうとしたけど,どれも詰めて書かれた分,はっきりと区別することは難しかった。それでも目に止まるのは,描かれる名前の数が最も少ない,各カップルのもので,どうせなら会社の同僚とか,知っている人(かもしれない)がいないかを探してみようと横移動を繰り返した。そして,思ったよりも見つけた。だいたいが黒のマジックペンで,ハートに囲まれて,真ん中にきちんと収まるように,くっついていた。特徴的だった一組は,ピンクの線で,相合傘をしていた。丁度,上に位置した書き込みが,小さいハートマークを雨のように降らせていたから,即興的にそうしたんだろうなと思った。この人が私の知っている人なら,そういうのは得意だったから。今度会うときに,直接訊いてみよう。そう決めて,私はボードの最後まで移動を続けた。でも結局,バンドのCDは買えなかった。売り切れに加えて,次の入荷は未定だというのだから,仕方なかった。欲しかった特典は諦めた。
ロータリーで待つ間,バスは何台も出て行こうとして,その前方ライトを私の方に向けては,後ろに並ぶタクシーに,何回かクラクションを鳴らされていた。大通りに繋がる信号が青でも赤でも,進めないのは明らかだからこそ,鳴らさずにはいられないって感じだった。運転できない私からすれば,それは本当に想像するしか出来ない苛立ちだった。訊いてみたこともなかった。
待ち合わせの時間に五分遅れて,相手がやって来た。「悪い!」と言いながら,素敵な笑顔を見せてくれた。「ほんとう!」と私は彼を責めながら,すぐに寄り添って,その襟を直してあげた。サンキュー,と彼は応えて,私の荷物に半分を持ってくれた。私は空いた方の手で,その手を握った。私たちはそのまま歩き始めた。予約していたお店まで坂を上がってすぐそこだけど,ATMに寄りたいという彼の要望に乗っかって,遠回りすることにした。まずはお喋りをしたい,お互いにそういう気分だった。
それから,見えた部屋の天井。習慣で起きてしまった朝,多分眠れてから,一時間しか経っていないはずなのに,それほどキツさを感じない不思議は,まだ酔ってるからか,楽しかったからか。どっちとも決めかねる,ほぼ満足した気持ちで,私はとりあえず起きて,用を済ませた。ドアを開けたら薄暗い部屋の一部に,日付けが変わった頃に取り込んだ洗濯物が積まれていて,テーブルの上にお皿が一枚。あとはちゃんと片付けられていた。スマホの類は,多分ベッドにある。じゃあ,あとは,とそれ以上に考えが進むことは無かった。薄いカーテンが光をどうにか遮って,頑張って,始まろうとする一日に蓋をしている。私はそれに感謝を述べるのを忘れて,また眠りに戻った。行儀悪く,一人分をまたいで,壁にくっ付いたベッドのマットに体を預けた。しばらくゆっくりとしたリズムで、息をしながら,私は語れない時間に戻っていった。沈んでいった。
結果的におさがりになったママの服を,パパの前で広げたりすることは決して無かった。体型に関して問題のない年齢になった頃には,古くて着れない。そう思っていた。いつの間にか見なくなって,パパに行方を訊いてみても,それは知らないという返事があるだけだった。今になって分かる,桐材の衣装ケースを,家を出るときに貰えた私は,疑問をもっとぶつけるべきだったのかもしれない。新しい母の居ない二人っきりのときにでも,なんで,なんで?と詳しい質問をすることなく,昔みたいに繰り返しても,怒られたり,メンドくさがられたりすることも無かっただろうに。誰の気にも触ることなく,知りたいことを,何となしに。
今度はお昼前に二人で起きて,洗面とかをもう一人が済ませている間,私は着替えに畳みと服の片付けを終わらせて,アクセサリーを一つずつ,仕舞った。サッパリした彼がパンを焼くと言い出して,軽い格好で,コンビニまで出かけて行った。私は顔を洗い,いつもの歯ブラシを使って,歯を磨き,口をゆすいだら,出していたタオルを使って,目の前の鏡を拭って,彼の使用後の跡をきれいに落とした。そしてすぐに温度を調整して,引き戸を閉めて,服を脱いだ。彼はきっと,その間に帰って来るだろうなと思っていたら,玄関が開く音がして,早足で廊下を歩く音が続いて,ちょっとしたら,また出て行った。多分,財布でも忘れたんだ。彼ならありえる。私は足を滑らせないように気を付けて,浴室を閉めて,頭から洗い流した。思い浮かべるのは,排水口が忙しそうにするいつものイメージ。
充電しながらチェックをしたメールにメッセージと,必要な返信を終えたら,スーパーまで足を伸ばして予想以上に買い込んできた彼が張り切るのに任せて,私は昨夜の番組を適当に再生する。冒頭三,四分のCMに,ドラマが始まる内容。カーペットに直に座って,軽いストレッチをしようと片膝を立てる。上体を後ろに捻れば,視界の端であの人が動いていた。そして流れた歌声が,私を止めた。そのまま五秒数えた。五秒経ったら,元に戻した。私は画面に見入っていた。次は,反対側に捻らなきゃいけなかった。
面白そうだからと中身を引っ張り出してしまうと,同じように使えることは二度とない。それは何か,と言われたら,私なら,ビデオテープか,カセットテープとは答えない。一番古いMDだって,見える中身を取り出すことなんて出来なかった。それ以外の,CDとかは論外。なら,私に答えられる物はない。記憶にないし,思い付かない。
テーブルを挟んで目の前にいる彼に,怪しんでる素振りはひとつも無かった。友達からのメッセージの内容を,彼に事前に見せていたから,また,メールを送るための操作の手順も回数も,過度に増えるものじゃなかったから,彼は信じたんだろう。私も,そういう彼を信じた。そして,私自身も信じた。スマホを置いて,彼と向き合った。
「そういえばさ,」
と始まった話に,ドキドキした。唇がふるえた。

ことばにしない

ことばにしない

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-11

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