多子化 【第一巻】
世の中では少子化対策、少子化対策と言って色々な助成金制度が設けられ同時に待機児童対策など子育て支援も強力に進められているが日本の出生率はなかなか改善が見られず高齢化が進んでいる事が大きな社会問題となっている。この小説は人口減少を憂い社会保障問題に果敢に取り組む今井留司《いまいりゅうじ》の妻である主人公|今井菜未《いまいなみ》、旧姓|鷺沼菜未《さぎぬまなみ》の生涯を綴ったドラマであるが現代日本の社会保障制度に一石を投じようとするものである。
第一章 幸せの青い鳥
鷺沼菜未はメーテルリンクのチルチルとミチルの話を幼い頃に母親の昌代に何度も聞かされたからか最近自分の四人の子供たちにその童話をよく聞かせる。
「人は誰でも自分たちより少し幸せそうな人を見ると、自分もそんなふうになりたいと思うわよね。でもね、留美ちゃん、晴菜ちゃん、司良ちゃん、健司ちゃんたちが幸せそうな人だなぁと思っている人たちでも本当は寂しかったり人には言えない病気を持っていたりして幸せじゃないこともあるのよ。あたしたちのお家は狭くてこうして八人一緒にすごく窮屈にしているけど、これって不幸せなことじゃないよ。第一、みんながいると寂しくないでしょ? もしもよ誰かが病気になったらみんなで病院に連れて行ってあげて看病してあげられるでしょ。だからお家が狭いことって決して不幸せなことじゃないのよ」
そんな話をしている内に末の健司はいつの間にかすやすやと眠っていた。
「ママのお話はおしまい。さぁ寝ましょうね」
菜未は子供たちを寝かし付けるとそっと寝室を出た。夫の留司はまだ役所から帰って来ない。最近仕事が忙しいらしく残業が多くなった。
「あら、菜未さんまだ起きていたの? 最近留司のやつ帰りが遅いわねぇ」
「多分今夜も残業だと思います。お義母さん、あたしそろそろお勤めに出たいと思っているんですけど、いいかしら」
「いいわよ。お金を稼ぐってことは大切ですけど、わたしはね、菜未さんにはご自分のやりたいお仕事に就いて欲しいのよ。子供たちは大分大きくなったから大丈夫わたしに任せて下さいな」
母の昌代は、自分の他に妹の菜桜、弟の翔太がいて子供が三人だったが、母の実家から千代おばあちゃんに来てもらって同居、あたしたちの子供の頃はおばあちゃんが面倒を見てくれたからそれで母は最近までお勤めをしていた。その千代おばあちゃんは昨年突然倒れて敢えなく他界してしまったと話してくれた。この話は以前にも聞いた気がするけど、お年のせいで以前話してくれたことを忘れたのかも知れない。
玄関のドアーが開くと、
「遅くなったな」
と言って留司が帰ってきた。
「母さん、オヤジはもう寝たのか?」
「今日は珍しく早く寝たわね。何か話しでもあるの?」
「ん。今日人事異動があつてさぁ、僕は来月から課長代理になるみたいだよ」
「菜未さん、聞いた? あなた来月から管理職夫人だわね」
菜未はちょっと嬉しかった。やはり夫が昇進してくれるのは妻としても嬉しい。
「旦那様、おめでとうございます」
菜未はちょっと舌を出しておどけた。
「おいおい、からかわないでくれよ。まだ代理が付いてるんだからさ。所でお隣の家、何か話を聞いてないか? その件でオヤジと相談したくてさ。明日オヤジに僕がそんなことを言ってたと伝えておいてよ」
第二章 マイスィートホーム
製鉄会社の本社に勤めている夫、芝山太郎と結婚して五年になる芝山萌、旧姓垂井萌は念願のマイホームを持つことができた。今日は引っ越し日だ。引っ越し荷物は全部引っ越し業者に頼んで、今日は夫と一緒に一足早く新しい家に向かった。
JR横浜線の相模原駅で降りて300mほど歩くと遠くに新築の家が見えてきた。その家は周囲の家に比べてひときわ大きく立派なものだった。近付くにつれて、萠の胸はドキドキして初恋の人に会った時のような心のときめきを覚えた。
「萠、どうかしたのか?」
「いいえ、なんだかあたし嬉しくて」
萠はそっと夫の腕に手をかけた。多分夫の太郎も希望と期待に溢れているんだろうと思った。結婚してからいずれ夫と暮らす素敵な一軒家を持ちたいと夢見て頑張ってきた。その時は自分たちが住む一軒家を手に入れるなんてずっと先だと思っていたが、政府の金融政策で住宅ローンの利率がすごく下がったので実家からの応援資金を合わせて土地付きの家を手に入れることができそうになって、頑張ってお金を貯めた。
夫は今三十五歳、自分は三十二歳だから、三十五年ローンを返し終わる頃には夫は七十歳になるから借りるなら今だ。夫の会社では定年延長になり今では六十五歳まで働けるから残りの五年間は何とかなりそうに思えた。
新しい家は駅から600m少しだったので、ぶらぶら歩いていても直ぐに着いた。夫が家の周囲を見て回っている間に、萠は初めてテンキー式の錠を触ってみた。暗証番号は六桁、萠の母親の誕生日にセットしておいてくれと頼んでおいた。萠は501107と入力して最後にEボタンを押した。すると、カチッと音がして解錠した。
「すごっ」
母の誕生日は一九五十年十一月七日だ。[これいいな]で覚えやすい。もちろん電気錠の他に普通の錠も二カ所にあった。萠は持って来た鍵を差し込んで上下共に施錠、解錠をしてみてうまくいくか確かめた。
「こんにちはぁ……でなくてただいまぁだな」
と自分で笑ってしまった。玄関を上がると各部屋の扉を開けて室内を見た。
「どうだ?」
背後で夫が声をかけた。
「どの部屋も広くて素敵だわ。天井が高いのがすごくいいよ」
萠は上機嫌だ。一番気になるのはやはりキッチン。新品のシステムキッチンを見て萠は満足した。特注したビルトインタイプのガス式スチームコンベックスオーブンレンジや食器洗い乾燥機もちやんとセットされていた。冷蔵庫も希望通りだ。
「こんにちわ、お邪魔します」
玄関に大手不動産会社の担当営業マンがにこにこして立っていた。
「どうですか? ご満足頂けましたでしょうか? お風呂場やトイレもご覧になって下さい。どれもご希望通りの最新型を入れてあります」
家具はまだ買ってない。萠の頭の中には洗濯機、掃除機、ダイニングのテーブル、ソファーなど理想のイメージがくるくる回っている。
各部屋の壁面収納家具は全て良く取り付けられていた。萠は北側の小部屋のウォーキングスルークローゼットを覗いてみた。
「これはいいな。思った通りだ」
ウォーキングスルークローゼットは萠の夢の一つだった。アクセを入れる引き出しもちやんと着いていた。
「芝山様の新居はなんたって土地が平地で八十五坪、建て売りなら二軒建てられる広さですからねぇ。カーポートに五坪ほど取られましたがこれだけの面積があればお庭も広いでしょう」
不動産会社の営業マンは太郎に向かって良い家を建てたと賞賛した。
「リビングの引き戸は一枚ガラスで四ミリの厚さです。開放感があっていいでしょう」
太郎と萠が家の中の点検をしていると、引っ越し会社のトラックが到着した。一通り運び込んだ後で、
「すみません、ベッドを組み立てますので置く部屋を教えて下さい」
と言った。ベッドは太郎と結婚後クイーンサイズのを使っていたがこれは気に入っていて新しい家でも使うつもりで運んでもらった。組み上がったままでは搬入するのが大変なのでフレームをバラバラにして運んできたのだ。萠は二階の寝室に作業者を案内した。
「ここが寝室ですかぁ。広くていいですね。置く場所はどこがいいですか?」
「ここにして下さいな」
「分かりました」
作業員は工具箱からドライバーを取り出して早速組み立てに取りかかった。
引っ越し荷物は一通り運び込まれて段ボール箱がリビングの片隅に積み上げられた。
「では失礼します」
引っ越し屋は早々に引き上げて行った。続いて不動産会社の営業マンも、
「何か必要なことがあれば何でも言いつけて下さい」
と言って引き上げて行った
太郎と萠は広いリビングの床に座り込むと、
「これから家具を入れたり荷物を片付けたり一仕事だなぁ」
と二人で辺りを見回した。
「萠、ちょっと」
太郎は妻を引き寄せると軽く接吻した。
「萠、頑張ったね。これからはここで楽しく暮らして行こう」
「ええ」
第三章 新築の資金
サラリーマンが家を一軒持つのは大変だ。
太郎の父芝山太介は茨城県野田市に母と二人で住んでいる。野田市は海岸線よりずっと奥だったので、あの東日本大震災での津波の被害はなく、家屋の倒壊は福島、宮城に次いで多かったものの、家が平屋だったこともあり倒壊は免れた。
母の真理子は旧姓長沢で埼玉県春日井市から嫁いで来た。野田市と春日井市は距離にして十五kmくらいしか離れていないので隣町から嫁いで来た感じだ。
太介は妻の真理子と一緒に父、つまり太郎の祖父から引き継いだ僅かな田畑を耕して、最近は野菜を都心のスーパー向けに出荷して生計を立てていたが太郎と妹の真由美の二人の子供を大学まで行かせたので僅かな蓄えを使い果たし家計に余裕はなかった。
子供二人を大学まで行かせたものの、太郎は卒業と同時に東京の会社に就職、妹の真由美は大学を卒業後就職浪人でぶらぶらしていたが翌年どうにか地元の自動車部品会社の事務の仕事に就いた。しかし就職後三年も経たない内に彼氏を作り結婚、大阪に移り住んで年に一度くらいしか帰ってこない。
真理子の実家も農業で生計を立てていたが、宅地の開発で持っている畑の一部を宅地用に売却したため、太介の実家より家計に余裕があった。それで子供たちが学校に通っている時しばしば実家から教育費の足りない部分を援助してもらっていた。
「父ちゃん、近い内に土地を買って家を建てる予定をしているんだ」
「おめぇ、東京さで家を建てるんじゃ大層な金がかかるんだっぺ?」
「都内じゃ高くてとても手が届かないから神奈川県にしたよ」
「神奈川よりこっちゃから通えば楽じゃねぇのか? 内の土地さに家建でるなら土地代は要らねえがら一千万もありゃぁ何とかなるだっぺ」
太郎は父親の言い分は正しいと思った。つくばエクスプレスが開通してから通勤時間は野田から東京の方が短い。だが妻の萠が横浜に通勤しており、萠のことを考えると無理だ。それを父親に何回説明しても納得してもらえない。
「萠さんは仕事止めてあがんぼ(あかちゃん)さ産むのが先じゃねえのか」
「……」
太郎は痛い所を突かれた。とっくに子供を持っていても可笑しくないのだが、萌と話し合って子供は一生持たないことに決めていたのだ。
父親と議論をしている内に母の真理子が口を出した。
「内はあんたらの学費やなんやかや出費が続いたからお金がないのよ。少しは出してあげたいんだけどね」
翌朝、
「太郎、お父ちゃんと相談してみたんだけど、萠さんはお勤め変えられないんでしょ」
「ん。母ちゃん悪いね。萠はずつと今の仕事を続けたいって言ってるから無理だよ」
「そう? 分かったわよ。母ちゃんたちもいい年だから、少しでも老後の足しにしようと貯金している中から三百万、少ないけど出してあげるわ」
「母ちゃんすまないね。母ちゃんたちは出してくれても大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、無きゃ無いで何とかするわよ」
それで太郎は自分の実家から三百万もらうことになった。だが萠と一緒に不動産会社に希望を伝えたところ、駅から歩いて行ける土地の坪単価は安い所でも四十万円はするので、八十坪欲しいとなると土地だけで三千二百万円もすると聞かされて驚いた。家は坪単価を下げれば安く建つが坪単価六十万円とすると六十坪で三千六百万円かかるから土地と合わせて六千八百万円は必要だと説明された。太郎と萠の収入ではとても手が届かない。それで萠も実家の両親に相談することにした。
妻の父親の垂井庄一は兵庫県の姫路で商店を営んでいた。萠は長女で妹の綾はまだ独身だ。母静子の旧姓は米山で遠く長野県から嫁いできた。
「お母さん、あたしたち近い内にお家を建てたいの」
「あら、突然ねぇ。どこに建てるの? まさか都内じゃないよね」
「ん。都心じゃ高くてとても手が出ないし、横浜も高いから相模原と言う所にしようかなと考えてるの」
「あら相模原? 将来中央新幹線、リニアが停まる駅ができるそうだから高いんじゃないの?」
「へーぇっ、お母さん良く知ってるね。不動産会社の方は将来土地が値上がりして資産価値が間違いなく増えるって言うのよ」
「それで予算はどれ位?」
「六千万」
萠は少し少なめに答えた。
「あなたたちのお給料じゃ無理じゃないの?」
「ん。全然予算立たないよ。お母さん少し応援してくれない?」
「どれくらい期待してるの?」
「千五百」
母は驚いた顔はしなかった。
「あなた明日帰るんでしょ?」
「そのつもりだけど」
「じゃ、お父さんと相談して明日渡すわよ」
「ほんとにぃ?」
「綾ちゃんのことも考えてあげないといけないから、沢山は出せないわよ」
萠は布団に潜り込んでから母は幾ら応援してくれるだろうかと考えているうちに眠ってしまった。翌朝、
「萠、お母さんから聞いたよ。思い切ったことするんだな。父さんの会社は見た目より厳しいから沢山は出せないが、一生住む家だから出来るだけ応援するよ」
昼過ぎに母は銀行から帰ってきて萠に封筒を渡してくれた。恐る恐る中を見ると千八百万円の銀行振り出しの小切手が入っていた。
「お母さんありがとう。ご恩は忘れないわ」
萠は母の首に腕を回して抱きついた。
「帰りにお父さんの会社に寄ってちゃんとお礼を言っておくのよ」
「はい」
第四章 着工前
「お見積もりができました。土地はご希望より五坪ほど広くなりますが、丁度八十五坪の良い物件が見付かりましたので、建物と合わせて五千八百万円になりますがこれでどうでしょう? わたしはお買い得間違いないと思いますが」
不動産会社の担当営業マンは胸を張って説明した。
「他に消費税ですとかそちらの手数料もありますでしょ? どれ位必要ですの?」
「先ず私どもに頂戴する仲介手数料ですが、概算で二百万円です。」
「そんなにかかるんですか」
「はい。どちらの不動産会社でも大体同じだと思います。世間では大手不動産は高く、中小の所は安いなんて噂がありますが、調べて頂ければ分かりますが、そんなことはありません」
営業マンは嫌な顔をせず言い切った。それで萠も太郎も納得した。萠は頭の中でパチパチとソロバンを弾いていた。
「税金は上がった消費税で計算するとどれ位になりますか?」
今度は太郎が質問した。
「税金は計算が複雑です。課税時の評価額や色々な減免措置がありますから、この書類に書いてある通りですが、後でごゆっくり読んで下さい。計算結果を言いますと、消費税、不動産取得税、登録免許税、印紙税などを合わせて概算で四百四十万円になります。ですから最初にお答えしました仲介手数料と合わせて六百四十万円を別途にご用意なさって下さい」
萠は話を聞きながらうっすらとかいた額の汗をハンカチで拭った。
「税金って随分高いのね」
「そうなんです。それで消費税が8%に上がる前に駆け込みで契約された方々が多かったんですよ」
営業マンは済まなそうな顔をした。
夜、太郎は萠と相談した。
「萠の実家から千八百もらえるって間違いはないのか?」
「あら、もう母からもらって来たわよ」
萠は銀行振り出しの小切手を見せた。太郎は自分の方は僅か三百万なので言い出し辛かったが、
「僕の方は家が貧乏だから三百で精一杯だって」
「仕方ないわよ。お義父さま、お義母さまにご無理はお願いできないですもの」
萠のこう言う優しい心遣いが太郎は気に入っていた。太郎は萠の頭に角が出て来なかったので安堵した。
「すると合わせて二千百万になるね。不足分は四千三百六十万円かぁ」
結婚後五年間二人で一所懸命貯めた積み立て預金が一千万を少し越えていた。萠はそれを足して、
「建てた後で家具を買ったり色々費用が必要だから、銀行からローンで四千万借りられないかしら?」
「僕も四千万は必要だと考えていたよ。明日銀行に行って聞いて見るよ」
翌日太郎は銀行の融資窓口を訪ねた。四十前後の女性の行員が応対してくれた。
「四千万円もお借り出来ますか?」
「新築住宅をご購入されます時、頭金はどれくらいご用意なさいますの?」
「二千万円です」
「すると自己資金は三割以上ですわね。それでしたら大丈夫です」
「本当ですか?」
「はい。最近は四千万円程度の方は多いです。住宅価格が高いですから、皆様ご苦労なさっているようですよ。あなたの場合は安定した大企業にお勤めでいらっしゃいますから会社の方にもご相談なさったらいかがですか?」
「仮に三十五年で四千万をお借りするとして、月々の返済額はどれくらいになりますか?」
行員は賞与の返済額をゼロにするなど色々な条件を入力してからパソコンの画面を見て、
「月々のご返済額は十四万三千円程度になります。変動金利をご指定の場合ですが、十一年目から固定金利になさる事も可能です。その場合には月々十六万円程度になります。金利は世の中の経済情勢によって変わりますからあくまで想定ですが。それと保証会社にお支払いいただく保証料など諸費用が九十六万円程度になりますが、これは別途にお支払い頂く必要がございます。ところで芝山様は今生命保険に入っておられますよね」
「はい。三千万円ですが」
「もし仮にですよ自動車事故など不慮の災難に遭われまして半身不随などになられて毎月のローンの返済が不可能になられた時はどうなさいますか?」
「実際にその時にならないと……困りますね」
「借り手のご本人様に万一のことがございました時に、ご本人様に代わってローンの残高を返済してくれる保険があります。この保険は一般の生命保険と違って、ご本人様に何かがあっても家が他人の手に渡らないようにするのです。保険料はそれ程高くはありませんから是非ローンを借りられる時に同時に加入されるとよろしいかと思います」
太郎は今住んでいる横浜のマンションの家賃が月々十二万円だからこの程度だと今まで通り楽に暮らして行けると思った。それに自分に万一のことがあっても家土地は萠に残してやりたいので銀行で勧められた保険には必ず加入しようと思った。
翌日会社の労務部に問い合わせた結果、ローンの利子の1%を十年間会社が補助してくれることも分かりますます元気が出た。
二日後、太郎は不動産会社の見積もりを持って銀行を訪ね住宅ローンの融資手続きをした。
「もしもし、戸田さんですか? 先日お世話になった芝山です。あの物件の購入の件、お見積もりの条件で進めて下さい。直ぐに契約を致します」
「おめでとうございます。では明日、土曜日でも構いませんので営業所にお出で下さい」
翌日不動産会社との契約は直ぐにまとまった。
「建物の着工は銀行さんの了解を取って直ぐに進めさせて頂きます」
銀行は不動産会社の系列なので話がスムーズに行くと言っていた。
第五章 着工と裏事情
「鍬入れは省略させて頂いて建前はちゃんとやる方向でよろしいでしょうか? 工場建設などの場合は鍬入れ式をやりますが、個人の住宅の場合建前だけに省略する場合が多いんですよ」
太郎は細かいことは良く分からないから不動産会社に任せると返事した。太郎からの連絡を受けて戸田は工事担当部署に連絡、着工日が決まった。
「九月三日が大安ですので、その日に着工させて頂きたいのですが、お越し頂けますか?」
戸田は太郎に連絡を入れた。
「生憎その日は関西に出張なんです。早めに着工して頂きたいのでそちらにお任せしますから、何かあれば後日に連絡を頂けませんか?」
「分かりました。ではこちらで予定通り進めさせて頂きます」
九月三日、太郎の相模原の新居は予定通り着工した。建物の設計の詳細は萠を交えて不動産会社の工事担当者と打ち合わせを終わっていた。萠が内装に色々注文を出し、付帯設備も注文が多く、
「これだけ盛り込みますとこちらは真っ赤(か)かの赤字です」
と担当者は苦笑したが、萠は押し切って受け入れさせた。
「参ったなぁ。何とか上司を説得してこれで進めさせてもらいます」
不動産会社で営業をしている戸田は、予(かね)て芝山から引き合いをもらっている物件に合う土地を相模原に探していた。すると、同業者から耳寄りな情報が入ってきた。
「空き家を至急処分したいと言う者がいるんだが」
「土地はどれ位だ?」
「広さかね、それとも価格かね」
「広さだ」
「分割して建て売り二軒はできるよ」
「何坪だ?」
「八十五と少しだ。測量してみないと何とも言えんが」
「分かった。その物件、俺の方で押さえたいから詳しい情報をくれないか?」
戸田は早速杉田と言う男に会った。
「持ち主は今は東京に住んでる息子の山崎と言う奴だ。何でもオヤジが急死して遺産として相続したんだが、直ぐに売却したいそうだ」
戸田は直ぐに山崎にアポを取り東京に出向いた。戸田は相手の足下を見て値引き交渉に入った。
「坪二十五でどうですか?」
「五十万前後が相場と聞いていますが」
「それは更地の場合です。色々事情がある場合はせいぜい二十七位がいいとこですよ。二十七なら直ぐにでも当方で買いますよ。この値段でもまとまった広さだと買い手が付きにくいですから」
「そんなもんですかねぇ。二十七だとあそこは父に八十五坪だと聞いてましたから、二千二百九十五、二千五百位になりませんか?」
「無理ですよ。その代わりこちらで仲介手数料は持ちますよ。手数料だけでも五十はかかりますよ」
「分かりました。では二千四百で、わたしの方もこれ以上でないと売りません」
「いいでしょう。では早速契約に入りましょう」
戸田はしめたと思ったが顔には出さなかった。
山崎から空き家を買い取ると、戸田は直ぐに業者に連絡を入れ家屋を解体して更地にした。それで芝山との契約を急いだ。土地を安く仕入れたことで、芝山の方には最初提示した価格より値引きをして契約に持ち込んだ。家の新築は坪六十万で見積もったが、実際には五十万に落とすつもりで工事部署と相談した。こうすることで芝山の希望に合わせた。
相模原警察署に匿名の女性から不審な電話があった。
「わたくし名前は言えませんが、7月お亡くなりになられた一人暮らしの山崎さんの死因に不審な事がございますの。そちらで調べて頂けませんでしょうか?」
第六章 事故物件
一般に家に住んでいた者が病死した場合は事故物件の瑕疵(かし)(欠点)にはならないが、自殺や殺人なら瑕疵として取り扱われ、売り手は買い手に契約前に[重要事項に関する説明]をしなければならない。戸田は土地の売り主の山崎から父は老衰で死にましたと説明されていたので、この時点では何も問題はなかったが、万一自殺だった場合も考えて強気に交渉したのだ。長年不動産取引の世界に身を置いていたから動物的勘が働いた。情報を持って来た仲間は何も言わなかったが、売り主が売り急いでいる点を話した時に何となく言葉の端に用心しろよと言うニュアンスが含まれているような気がした。
相模原警察署の刑事市川は山崎老人の事について聞き込みを始めた。
最初に山崎老人が住んでいた近所の聞き込みを開始した。
「確か老衰でお亡くなりになられたと聞きましたが、前日まで元気にこの辺りをお散歩なさっておられましたから、突然老衰でお亡くなりになったなんて信じられませんわ」
近所の主婦たちは概ね異口同音に不思議がった。市川は老人が住んでいた所に行ってみると、住んでいた家屋は綺麗に取り壊され、新しい建物の建築が進んでいた。
そこで、工事の責任者に警察手帳を見せて話を聞いた。
「わしらは××不動産の下請けで前のことは何も分かりません」
「××不動産の担当者は居ますか?」
「今日はまだ来ておらんが、明日なら来ますよ」
翌日刑事の市川が現地に行くと、
「わたしは工事部の者です。この土地のことでしたら営業に担当の戸田と言う者がおりますので聞いて下さい」
刑事は不動産会社の営業所を聞いて戸田を訪ねた。
「随分突然な話ですね。あそこは事故物件じゃありませんよ。住んでいた山崎様の父上は老衰で亡くなったそうで、念のため医師の診断書も見せてもらいました」
「どこの病院の医師か分かりますか?」
「確か診断書には医師○○と署名されてましたが、診断書は死亡診断書を棒線で消して死体検案書になっていました。病院名は書かれてなかったので分かりません」
「土地を売られた方の住所、氏名は分かりますか?」
戸田は手帳を見て、東京都足立区青井二丁目×-×青井スカイハイツ山崎肇だと教えてくれた。
「東武スカイツリーラインの梅島駅から数百メートルの所です。刑事さん、言っときますが私が契約した時は単なる病死と言いますか老衰でしたので決して事故物件じゃありませんよ」
「それは分かってますよ。こちらは死因に疑問を持っているだけで、まだ自殺とか他殺とかは何も分かっていません。安心して下さい」
戸田は胸を撫で下ろした。どうか物件を芝山さんに引き渡すまでは何も起こりませんようにと祈るばかりだ。
刑事はわざわざ梅島まで出向いて山崎が住んでいるマンションを訪ねた。
「山崎さんねぇ、もう引っ越されてここにはいませんよ。なんだか海外に行かれるとかで当分帰れないのでここは解約されたそうです」
隣人はそんな風に説明した。
「海外ってどこの国とかは聞いておられませんか?」
「さぁ、元々深いお付き合いはしてませんでしたから何も分かりません」
市川はむしゃくしゃして警察署に戻ってきた。何かあると思うのだが、本人が居なくてはどうにもならない。それで死体検案書を書いた医師を探すことにした。同時に山崎の渡航歴も調べるつもりだった。
第七章 芝山邸の落成
戸田は刑事が土地の元所有者山崎老人の死について疑問を持ち嗅ぎ回っているので工事を急いだ。東北の復興工事などが影響して職人の人材市場や建材市場がタイトになっているので一昔前のように一気に大勢の職人を集めるのが難しくなっているが、工事部に再三掛け合って何とか予定より早く落成に漕ぎ着けた。
「芝山様、ご注文の邸宅がようやく完成しました。そこでですね、早速引き渡しをしたいのですが」
「そうですか。最初の予定より早く仕上げて頂いて嬉しいです。早速そちらの営業所に行きます」
その日戸田は営業所で住宅ローン融資をする銀行の行員と買い主の芝山と三者顔を揃えて引き渡しの手続きを行った。土地と家屋の登記済権利證を一旦芝山に渡し、芝山が銀行員に担保として差し出すと行員は支店に電話を入れ、戸田に代金の入金の確認を促した。
「確かに全額お受け取りしました」
と戸田が行員に告げると、
「ではここに捺印をお願いします」
と行員は芝山に住宅ローン融資契約書に捺印を促し印鑑登録証と見比べて確かめた。戸田はそれを確かめると、
「おめでとうございます。これを持ちまして売買手続きは全て終わりあの土地と家屋は芝山様の物となりました。ありがとうございました」
と締めくくった。芝山は行員に、
「お世話になりました。これからもよろしくお願いします」
と挨拶して営業所を後にした。
芝山邸の引き渡しを無事に終わると戸田はやれやれと胸を撫で下ろした。法に触れるようなことはしていないが、万一後から変な情報が出てきたら芝山との間の始末が面倒だし、上司からも文句を言われることは分かっていた。
新しい家に引っ越しが無事に終わって太郎と萠は家具屋と家電量販店にでかけ、必要な家具や家電を買いそろえ、
「明日午前中に自宅に搬入して下さい」
と頼んだ。今は物流が徹底していて店で注文すると翌日には配送してくれる。便利になったものだ。翌日は太郎も萠も一日有給休暇を取った。
翌日、朝から二人で運び込まれた引っ越し荷物を開梱して食器を新しい戸棚にしまっていると、冷蔵庫や洗濯機、掃除機、大型テレビなどの他食卓のテーブルや応接間のソファーセットなど注文してきた物が全て午前中に届き、場所を指定したりしている内にお昼を過ぎてしまった。
一通り片付いて見ると、萠は夢に見た理想の住まいにほれぼれとした。
「あらぁ、もうこんな時間、あなた近所のスーパーに買い物に行くの。付き合って下さらない?」
「ああ、いいよ」
二人は揃ってスーパーに出かけると食材や日用品をまとめて買いそろえた。
「すごいご馳走だなぁ」
「そりゃそうよ。今日は新居で初めての夜だからお祝いよ」
萠が腕を振るったご馳走で満腹になると、太郎は真新しいテレビの前に座ってバラエティ番組を見始めた。萠は食器の後片付けを終わると新しいお風呂を自動にセットしてから二階の寝室のベッドメイクをした。
「お風呂、沸いたわよ。お先に入って下さらない」
太郎が風呂から出ると新しいパジャマとガウンが揃えて置いてあった。
「出たよ」
「そう? じゃあたしも」
と萠は湯殿に入った。太郎がテーブルを見るとワインとつまみがちやんと支度してあった。
萠が風呂を出て食卓につくと、
「あなた、新しいお家に乾杯しましょう。乾杯!」
ワインの壜が一本空いたところで、
「そろそろ寝ようか」
と太郎が寝室に誘った。
「萠、家が広くなったところで、子供一人くらいいいだろ? 産んでくれないか」
と太郎が今夜はゴムを付けないでセックスしようと言った。
「ダメよ。あたしたちは一生子供を持たないで楽しく生きようって約束したでしょ。あたしは子育てなんてイヤよ。あなたがいてくれるだけで充分」
結局その夜も太郎は避妊具を付けて萠を抱いた。
「その代わりと言っちゃなんだけど、今の旧い車、新しいのと買い換えたいんだ。いいだろ?」
「そうね、許してあげる」
萠は太郎に抱きついてすやすやと眠ってしまった。
翌日太郎はドイツ製の乗用車の販売店に行って三十六回ローンで購入契約を済ませた。新しい家の駐車場は今までの小型車でなくて少し大きめの車が停められるように広めに作るように予め手を回してあった。
新しく引っ越してきた時には大抵ご近所の挨拶回りをするものだが、太郎も萠もそんなことをすっかり忘れていたと言うより最初から挨拶回りなんて面倒なことをするつもりはなかった。まして、東側の隣は小さな建売住宅の建築中だ。
翌朝太郎と萠は揃って家を出た。太郎は電車で新宿まで出て、中央線に乗り換えて東京駅までの通勤だ。萠は横浜駅から近い大手の旅行代理店まで通勤のため横浜線に乗った。朝家を出る時に近所の人たちと目が合ったが挨拶もせず殆ど無視した。萠は近所付き合いなんて煩わしいと思っていた。
新築の家にどんな人が移り住んでくるんだろうと近所の人たちは関心をもっていたが、朝顔を合わせても挨拶もせず無視されて面白くなかった。
「ほら、今度あなたの家のお隣に引っ越してこられた、芝山さんと言ったかしら、なんだかいけ好かない人だわね」
「あたし、まだお顔も見てませんけどどんな感じだった?」
「お金持ちじゃなさそうだったけど、なんだかお高く留まっているようでお付き合いし難い感じだったわよ。こちらから先に会釈したのに無視されちゃったわ」
「若い方?」
「そうねぇ、見たところ三十半ば、あたしたちより少し若そうだったわ。あの若さであれだけの注文住宅をお建てになるくらいだから、ご実家がお金持ちなんじゃないかしら」
この話はまたたく内に近所中に知れ渡った。
第八章 建て売り住宅
空き家が売られて新築住宅芝山邸の建築が始まったのを見て、隣の家主勝本善雄は知り合いの不動産屋に頼んで買い手を探してもらった。だが、不動産屋は自分の会社で買い取って建て売り住宅として売ると言い張り、結局勝本は空き家を手放した。父親の代に使っていて築五十年以上だったので、建物の評価をしてもらえず、隣家の土地の売買価格に気持ち上乗せする形で取引は成立した。隣は売価が二十八万三千円程度だったので交渉の結果坪三十万円にしかならなかった。
「この辺りじゃ駅に近いし坪五十万が相場だと聞いてますが」
「勝本さん、土地と言うのはね、相場なんてあって無いようなもんですよ。坪五十と言いますが、あんなもんは参考になりません。参考になるのはこの土地の周囲の取引実績です。取引があればいくらで売買されたかちゃんと分かるんですよ」
結局隣の土地の売価を口実に押し切られてしまった。
不動産屋の柳田は勝本から四十七坪の土地を仕入れると早速解体屋を連れてきて空き家を撤去して更地にして、建て売り住宅を建てた。柳田は解体屋に百二十万円支払ったので、その費用も含めて土地代を坪三十五万円で計算して、建物と合わせて三千二百万円で売り出した。
売り出して直ぐに三人の買い手が現れた。是非買いたいと柳田の店まで来た夫婦は、鷺沼次郎と奥さんの昌代だった。
「旦那様はどちらにお勤めですか?」
「わたしですか、わたしは市内の東西プレス工業です」
「へぇーっ、あの大手の自動車部品会社ですか?」
「はい。自動車がメインですが、会社では色々な製品を作っております」
「そうでしょうな、所で具体的なお仕事は?」
「生産技術のエンジニアです」
「購入資金は銀行ローンですか?」
「もちろん。銀行の方にも相談してあります。そちらの見積書があれば具体的に相談に乗ってくれるそうです」
「なら安心ですね。私どもは早く買ってもらいたいので条件の良いお客様と契約させて頂くつもりです」
「と言うと他にも買い手がおられるんですか?」
「はいはい、今日だけでもそちらさんを含めて三名ほど」
「困ったな。じゃ他の方に売ってしまう可能性が高いってことですね」
「それは分かりません」
「現地の看板に書いてあった価格より高くないとだめですか?」
「いや、あの価格で即決して下さるならどなたでも構いません」
鷺沼は席を立って妻の昌代とひそひそと相談してから席に戻った。
「すみません、今手元に現金五万円しか持っていませんが、手付金として置いて行きます。これで何とかうちの方に売ってもらう約束をしてもらえませんか?」
柳田は一応困った顔をして見せたが、
「いいでしょう。鷺沼さんにお売りしましょう。但し一週間以内に銀行さんの融資の確約を取ってきて下さい」
鷺沼は背中に汗をびっしょりかいていた。今まで黙っていた妻の昌代が突然、
「柳田さん、約束ですよ」
と言ったので柳田も次郎も驚いて昌代の顔を見た。昌代はきっとした目で柳田に念を押した。柳田の約束しますと言う言葉を背に二人は店を出た。
「手元の貯金をかき集めても三百五十万しかないわよ。大丈夫よね」
「ん。買値の一割以上頭金があれば何とかなるよ。銀行も一割は必要だと言ってたな」
第九章 次郎の新居
次郎はフラット35の三十五年ローンで銀行から三千五百万円を借りて柳田から新しい建て売り住宅を買った。契約時の金利は固定で年率1.65%、ボーナス返済なしで返済額は毎月十一万円弱、融資事務手数料として約七十万円かかったが、次郎の毎月の給料手取額二十八万円でどうにか食って行けるように思えた。今住んでいる町田市森野の借家は家賃が一ヶ月五万二千円だったから大分きつくなる。
次郎と昌代との間には五歳になる長女の菜未、三歳になる次女の菜桜、生まれて半年経った長男の翔太の三人の子供がいた。
「あなた、ご心配なさらなくても大丈夫よ。この子たちの児童手当(子ども手当)の手続きを明日市役所でしてきます。菜未が毎月一万円、菜桜と翔太は合わせて三万円頂けるから毎月四万円。切り詰めて行けばちゃんと暮らして行けますわよ」
「そうかぁ、児童手当のことをすっかり忘れていたな」
次郎はしっかり者の昌代と結婚して良かったと改めて思った。
家屋の引き渡しが終わって、家族五人で引っ越して来た。家具などは買い換える余裕はなかったから、前に住んでいた借家で使っていた冷蔵庫や洗濯機などをそのまま持って来た。
借家は四畳半と六畳間と八畳程度のダイニングキッチンの三部屋だったが新しい家は一階は八畳間と十畳程度のダイニングキッチン、二階は八畳間が二部屋だから以前より大分広くなった。新しい家で菜未と菜桜は喜んではしゃいでいた。
「ダメダメッ。お家の中で走っちゃお怪我するから大人しくしてなさいっ」
昌代の大きな声が響いた。
引っ越しには次郎の部下の田辺と河野と言う二人の青年が手伝いに来てくれた。昌代の妹の鈴木真美、医者の弟と弟の彼女木下亜希子もお手伝いに来てくれて賑やかなお引っ越しになった。
妹の真美はまだ未婚でちょっとイケメンの河野と気が合う様子で楽しげに話しながら引っ越し荷物を運んでいた。
二階の八畳間は一つが畳敷きでもう一つがフローリングだったので、昌代は次郎と子供三人で寝る部屋は畳敷きの部屋にした。自分用の小さな鏡台の他に一間幅のビルトインクローゼットの前を避けて整理箪笥もこの部屋に運んでもらった。クローゼットには自分用と旦那の次郎用の衣服を入れた。二人とも衣服は少なかったから全部収まった。二階のもう一部屋に次郎と共用で使っている机と椅子、本棚を運び込んでもらった。
一階は四人がけの小さなテーブルと椅子を置いてもらった。一階のもう一つの部屋には何も運び込まず空いたままにした。昌代の頭の中には近い将来実家の母に来てもらってこの部屋を使ってもらう計画があった。
「皆さん、ご苦労様でした。お蔭様で思ったより早く終わりました。お昼はコンビニのお弁当でしたが、お腹空いたでしょ。お寿司を頼んでありますから少し待って下さいな」
「こんにちわぁ、鷺沼様のお宅はこちらですか?」
出前寿司屋だ。
「はい。鷺沼です」
昌代は代金を手渡して寿司を皆の前に運んだ。
「わぁーお寿司だぁ」
菜未は次郎のあぐらの上に座って早速手を伸ばした。
第十章 挨拶回り
「あなた、ご近所の挨拶回りだけど、何軒分くらい用意すればいいかしら?」
「昔から向こう三軒両隣って言うからなぁ、五つもあればいいけど、町の自治会長さんとか婦人会の会長さんなんかには最初に出向いて挨拶しておいた方がいいと思うよ。この辺りの組長さんも入れて全部で八つってとこかな」
「分かったわ。それで何にすればいい?」
「昔からタオルとか手ぬぐいと決まってるらしいよ。オヤジから聞いたんだけど。最近はお菓子とか石けんなんかもあるよね。大体千円程度にしてよ。我が家の家計では厳しいけど、うちは子供が多いし何かあった時はご近所のお世話になる可能性が高いからケチらないでな」
こう言う時、夫の次郎は頼りになると昌代は思った。それで早速横浜のデパートに出かけて挨拶の時に持って行く物を八つ買った。驚いたのはタオルは箱入りが多くて最低二千円もするのだ。仕方なく贈答用ではなくて日用品売り場で買って一つずつ包装紙に包んでもらい昌代は気を利かせて一つずつデパートの小袋に入れてもらった。ついでに丁度バーゲンセールをやっていたので菜未と菜桜用のブラウスを買った。
翌日日曜日に次郎と子供たち三人の手を引いて引っ越しの挨拶回りに出かけた。最初はお隣の新築の家だ。[芝山]と書いた表札が出ていた。
「こんにちわぁ、隣の鷺沼ですけど」
昌代がチャイムを二、三度押したが応答が無い。
「お留守かしら」
帰ろうとすると玄関のドアーが開いた。
「お留守かと思いました。この度お隣に越してきた鷺沼と申します。今後よろしくお願いします」
デパートで買った小袋を差し出すと、出てきた奥さんと思われる女は一応小袋を受け取ってくれたが、
「こう言うのって迷惑なのよね」
と言って扉をバタンと閉めてしまった。子供たちには予め挨拶の仕方を教えてきたものの、昌代は子供たちに声もかけられなかつた。
次は道路を隔てて向かいの家に行った。
「こんにちわぁ、お向かいの鷺沼ですけど」
「あら、お向かいに引っ越されて来られた方ね。ご丁寧にありがとう」
年配の奥さんは子供たちを見た。
「三人もいらっしゃるのね。子育て大変でしょ」
「こんにちわ。初めまして。あたし菜未です。よろしくお願いします。妹の菜桜ちゃんです。」
菜未は妹の菜桜を指差した。
「子供たちが何かとご迷惑をおかけすると思いますが、よろしく」
菜未は教えた通りちゃんと挨拶をした。
「みんな良く育ってるわね。困ったことがあったら遠慮無く訪ねて下さいな」
次は筋向かいの家に行った。挨拶が終わって、
「あのう、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あら何かしら」
「町の町内会長様と婦人会の会長さんのお宅を教えて頂けませんか?」
「困ったわね。両方ともお宅に伺ったことがなくて知らないのよ。お隣の旦那様が多分詳しいと思いますから」
と言って夫人は、
「滝田さーんっ、滝田さんいらっしゃいますうっ」
と隣に大声をかけた。ややあって、
「梅村さんかぁ、何かあったのか?」
と旦那が出てきた。
「こちらお向かいに越して来られた鷺沼さんですって」
「鷺沼です。よろしくお願いします」
今度は次郎が挨拶して、昌代は挨拶の紙袋を手渡した。滝田は町のことに詳しいらしく、
「私がご案内しましょう」
と言って会長宅に続いて婦人会長宅も案内してくれた。昌代は隣組の組長が誰かを聞くと滝田が案内してくれた。残っているのは滝田の隣のお宅だけになった。
滝田の隣の家の藤村では年取った夫人と若奥さんと思われる婦人が出てきた。
「ご丁寧に恐縮です」
と若い方の婦人が頭を下げてから子供たちと話し始めた。同年代の娘と息子がいるからお友達になってと話している。年寄りの夫人が昌代に向かって、
「あんたとこの隣の人、何て言ったっけ」
「芝山さんです」
「ああ、あの芝山ねぇ、感じが悪い夫婦だね。うちに挨拶も来ないし、顔が合っても知らんぷりだよ。ありゃおかしな夫婦だね」
昌代はそんな風に言われても答えようがない。それで、
「隣近所ですもの、その内お話する機会がきっとありますよ。悪い方ではなさそうだし」
と答えた。
「やっと全部挨拶が終わったね。子供たちもちゃんとご挨拶できて良かったよ」
次郎はご機嫌だったが、昌代は藤村の大奥さんの言葉が気になっていた。
第十一章 太郎と萠の出会い
会社に勤め始めて五年、芝山太郎はようやく仕事に慣れ、最近では責任のある仕事を任されることが多くなった。大学卒業後ストレートで入社したので、その時二十七歳になっていた。
「来週中国から三名大事なお客様が来社するんだ。芝山君会議が終わった次の日に一日接待役を頼むよ。なんでもあちらさんは横浜の観光をしたいそうだ」
「他にご希望とか出てませんか?」
「特にないようだが、市内の名所を一回りして夜は横浜で会食ってとこでどうだ」
「分かりました。アレンジをしておきます。予算は大体一人十万程度に抑えて大丈夫ですか」
「まあいいとこだろうな」
太郎は東京なら会社と同じビルの中にある旅行代理店にアレンジを頼んでも良いが、横浜なのでいつも使っている旅行代理店に横浜の営業所を紹介してもらった。
「もしもし、芝山様でいらっしゃいますか? こちら東京の方からご紹介頂いた件でお話を伺いたいのですが」
「はい。お世話になります。東京まで出て来て頂けますか? それともこちらからお邪魔しましょうか」
「いえ、わざわざお忙しい中いらして頂くのは失礼ですので、こちらから伺わせて頂きます。私横浜営業所の垂井萠と申します」
その日の夕方、太郎はビルの地下一階のポワン・エ・リーニュと言うカフェで垂井を待った。待ち合わせ時間は午後六時だ。太郎は六時少し前に店に入って入り口付近を見ていた。間もなくすると、若い女性が店の入り口でキョロキョロ周囲を見ているのに気付いた。一目で常連の客ではないと思われた。
六時を過ぎてもその女性は人待ち顔で突っ立っている。太郎は来るのは女性だと分かっていたが、多分近頃多くなったアラフォーの女性が来るものと思っていたので垂井と言う女性の到着を待った。五分を過ぎても来ない。先ほどの若い女性はまだ突っ立っている。それで、もしかしてと太郎は席を立ってその女性に近付いた。
「もしかして垂井さん?」
太郎に声をかけられて、女性の顔はパッと明るくなった。笑顔が可愛い。
声をかけられた垂井萠は相手の男性が中年のオッサンだと思っていたのにわりと格好がいい自分より少し年上の男性だったことも手伝って先ほどまでのイライラが吹っ飛んでしまった。
「垂井です。初めまして。時間通り来ましたんですが、お顔を知らなくて……」
「どうぞあちらへ」
太郎はアラフォーの女性が来るものと思っていたのに若い女性だったので意表を突かれたが顔には出さずに席に案内した。太郎と萠は向かい合って座席に着いて、注文した飲み物が届いてから太郎は相談の内容を切り出した。
「来週中国から大切な来客がありまして、横浜の市内の案内を頼まれています。当方は不慣れなので、アレンジをお願いできませんでしょうか? 予算は多くないですが、一人平均十万として三十万、僕の分も合わせて五十万以内しか出せませんが」
「それって夕食の接待は当然込みだと思いますが、宿泊のホテル代も含めてってことでしょうか?」
「横浜に泊まりたいと言う話が出た場合、宿泊費は別途精算で構いません」
「分かりました。では明日案を作ってもう一度お持ちします」
打ち合わせは終わった。
「垂井さん、これから夕食ですよね」
「はい。帰宅してから食べる予定です。会社に少し残したお仕事がありますので、一旦横浜に戻りますが」
萠はお客の芝山が夕食に誘っていることを察していたが、初対面の男と付き合うつもりはなかった。萠の気持ちを察してか、芝山太郎は無理強いはせず、
「ではこれで」
と言って勘定を済ますとさっさと店を出て行った。萠が自分の会社の経費で処理しますと言ったが芝山がさっさと勘定を済ませたのが印象に残った。
第十二章 萠の気持ち
萠は芝山太郎と別れて、自分は芝山に少し冷たすぎたかも知れなかったとちょっと後悔した。夕食くらい気楽に付き合ってあげてもどうってことはなかったのになどと考えてしまう。そうだ、明日具体案の打ち合わせでもう一度会える。萠はそんなことを考えつつ横浜の営業所に戻った。
「クライアントとは話が上手く行ったのか?」
営業所に戻ると上司に打ち合わせ内容について聞かれた。
「はい。先方のご予算はマックスで五十万だそうです。」
「垂井案としてどんなことを考えてるんだ?」
「わたしとしてはお昼はランチクルーズ、ロイヤルウイングで横浜の景色を海上から観光して頂いて、そのあと本牧の三溪園にご案内してから西洋館の山手111番館見学にお連れした後、元町でのお買い物にお付き合いして、最後にモーションブルーのディナーショーにお連れしてはどうかなんて考えてます」
「それ、いいじゃないか。さすが垂井君だなぁ」
萠は上司のOKをもらったようなものだと思った。
「で、予算内に収まるのか」
「大丈夫です。宿泊費は別途で良いと聞いていますから」
「ところで、垂井君は中国語もできるのか?」
「あたしはダメです」
「通訳はどうするんだ?」
「中国人の友人で日本語が達者な方がいますから、当日お願いしようと思ってます」
「そうか、最近我が社も中国語ができる人を増やしたいと考えているんだ。そのお友達、うちの社に派遣で引っ張れないか?」
「すぐそうして飛躍するんだからぁ。ダメですよ」
萠はきっぱりと断った。上司への報告が終わると、萠は明日芝山に持って行く観光案内案を作成した。予算は概算すると余裕で行けると思われた。
翌日芝山にアポを取ると、萠は案を持って芝山を訪ねた。今回は芝山がいるオフィスに出向いた。芝山は萠を応接室に案内した。お茶が出たところで、
「早速ですが、この案でご検討頂けませんか?」
と切り出した。芝山はざっと目を通すと、
「僕は中国語は全然ダメなんだ。垂井さんに通訳をお願いできますか?」
思った通り、芝山は通訳の話を持ち出した。
「そうおっしゃると思ってわたくしの友人にお願いしてあります」
「と言うと当日は垂井さんは同行なさらないのですか?」
「はい。友人がいれば大丈夫だと思います。彼女は父親が中華街のお店をやってますので横浜にはわりと詳しいです」
芝山はちょっと残念そうな顔をした。
「わたくしも同行しないとダメですか?」
「予想が外れたな」
と芝山は照れた。
打ち合わせが終わると芝山はストレートに、
「垂井さん、今夜夕食に付き合って下さい。……あっ、ダメですよね」
と萠の顔を見た。萠はどうしようか迷った。それで、
「すみませんがこの後用がありますので」
と断った。
「残念だな。つかぬことをお尋ねしますが、垂井さんはご結婚なさっておられますよね」
と聞かれた。萠はいきなりだなぁと思ったが、にっこり微笑んで、
「残念でした。まだ未婚ですよ」
と両手を拡げて見せた。
「そうおっしゃる芝山さんは?」
「あはは、僕も独身ですよ」
と両手を拡げた。そこで二人は笑い合った。
帰りの電車の中で、萠は芝山の笑顔を想い出していた。
「なぜか引っかかるんだよなぁ。あんな奴のどこがいいんだろ」
萠は苦笑した。
第十三章 太郎の気持ち
太郎は垂井に二度も振られてしまったような気がした。
「俺って女性の扱い方、まだまだ下手だなぁ」
最近は女性社員の採用枠が増えて太郎の周りにもいい子が沢山いる。だが、太郎の中には社内恋愛に抵抗する気持ちがあった。しかし、社外で自分が気に入った女性を見付けるのは難しい。婚活や合コンなどの方法はあるがそこまでして彼女を見付ける気はなかった。
振り返って見ると、最初に異性を意識したのは中学一年生の時だった。机を一つ置いた席にいる戸田さつきと言う名前の女の子で、クラスの中でも人気があった可愛い系のその子には既に彼がいる様子だったので太郎の片思いと言って良かった。結局太郎は一度も告白するチャンスがなく中学を卒業してしまった。
「さつきは今どうしているのかなぁ」
太郎は高校に進んでもしばらくはさつきのことを引きずっていた。だが、高校に進んでから一流大学を目指して受験勉強に励んでいる間に次第にさつきの面影が薄れてしまった。
二度目は大学二年の時だ。夏休みに男女二十名ほど集まって山梨県の清里高原に二泊三日のキャンプに出かけた時だった。
男たちはバーベキューの準備で忙しかった。炭に火を点けたり、テーブルをセットしたり、手分けして準備を進めていた。太郎は炭の着火に使う枯れ枝を探しに灌木の林の中にいた。その時少し先から、
「イタァーイッ」
と言う悲鳴が聞こえてきた。女の声だ。
太郎は集めた小枝を放り出して声がした方に走った。すると小さな穴に片足を突っ込んで倒れている女が泣き顔で太郎の方を見ている。太郎たちと同じグループの女の子ではなかった。
「大丈夫ですか?」
後で考えてみると大丈夫ですかなんて聞き方は可笑しい。相手は痛くて泣き顔をしているのに大丈夫なわけはないのだ。だが太郎はそこまで気が回らなかった。
近付いて見ると片足を穴に突っ込んだ時にくじいたか最悪は骨折しているような状態だった。
「僕の肩に腕を回して下さい」
そう言って太郎は女の両脚に腕を入れてそっと抱き上げた。
「痛いっ、ああっ、脚がちぎれそうに痛い」
太郎はどうして良いのか分からずにそのまま女を上に持ち上げた。
「イタァーイッ」
その時、女の脚がスポッと穴から抜けた。太郎はどうしたら良いのか分からず、女を抱きかかえて必死に走ってロッジに着くと、
「病院はどちらですか」
と聞いた。ロッジの管理人は、
「ここからだと車でないと無理です。車を出しましょう」
それで管理人に車に乗せてもらって診療所に女を連れて行った。
「レントゲン写真を見ますと足の甲の所の骨にひびが入っています。ギブスを当てて二週間程度固定すれば大丈夫でしょう」
医師の診断ではやはり骨に異常があったようだ。管理人は用があるからと帰ってしまったので、流れとして太郎が付き添うはめになってしまった。足の治療が済んだが、女は松葉杖を使わないと歩けない。仕方なく太郎はタクシーを呼んでもらってロッジまで戻った。
女は見た所太郎と同年代に見えた。
「あのう、まだお名前を聞いていませんよね」
女はどうやら落ち着いた様子で、
「ご迷惑をかけて済みません。わたし、村瀬敦子と申します。家は東京の吉祥寺です。母を呼びましたので来ましたら改めて助けて頂いたお礼をさせて下さい」
と言った。気がつくと太郎のグループのバーベキューはとっくに終わっていて太郎は急に空腹を覚えた。
「お腹、空いてませんか」
「空きました」
「どこかで食べませんか? 何が食べたいですか」
「特に嫌いな物はないですけど、麺類よりできればご飯」
太郎は診療所の受付の女性に聞いて近くのレストランに行った。村瀬は慣れない松葉杖をついてゆっくりと歩いた。レストランはメニューが思ったより豊富で村瀬がポークステーキを注文したので太郎も同じものにした。
「わたし、男の方にだっこして頂いたの初めて」
村瀬はちょっと顔を赤らめて上目遣いに太郎を見た。
「僕も初めてです。なんたって気が動転していて、あまり覚えてないです」
太郎もはにかみがちに答えた。村瀬の腕がしっかりと太郎のクビに巻き付いていて、彼女の太ももを支えていた時の女性の身体の感覚が蘇ってきて、太郎は何だか変な気がした。
「芝山さんはどちらの大学ですか?」
「W大の二年生です」
「あらあたしの方がお姉さんだわね。あたしはT女子の三年生です」
村瀬と別れた後、太郎は自分たちのロッジに戻った。友達は皆太郎が居なかったことに関心を示して色々聞かれたが、人を助けて病院に行っていたと言うこと以外に詳しいことは話さなかった。しかし、三日目に皆と一緒に帰り支度をしていると、村瀬が母親と思われる女性と一緒に訪ねてきて皆に知れ渡ってしまった。
敦子の母親はちょっと気取った感じで太郎を上から下までチェックする目で見た後で、
「この度は娘を助けて頂いてありがとうございました。これはほんの気持ちですが」
と持って来た菓子折を太郎に手渡した。太郎は辞退したが結局手土産を置いて二人は立ち去った。この時、太郎は改めて敦子を見て自分のフィーリングに合った可愛い人だと思った。別れ際に敦子とほんの一瞬目が合って、太郎は不思議な感覚に見舞われ、この時太郎は敦子に人見惚れしたと感じていた。
その後敦子とは連絡が取れず、いつの間にか太郎の心の中から敦子の面影が薄れてしまった。
垂井萠への感情は太郎にとっては三度目に訪れた異性への感情だ。垂井からはその後も仕事関係で何度か電話をもらったが、自分の気持ちを伝えるチャンスはなかった。
第十四章 接待Ⅰ
中国人の賓客を接待するその日、太郎は垂井から紹介された中国人の邱さんを会社のオフィスで待っていた。約束の時間は午前九時、太郎は少し早めに出勤していた。会社の始業時刻は九時なので、出勤した時はまだ誰も居なかった。
丁度九時に受付の女性から、
「丘さんとおっしゃる女性がお見えになってますがどうなさいますか?」
と連絡が入った。
「九時に約束しています。済みませんが第三応接に通して下さい。お茶二つ、お願いします」
太郎は五分ほど待って応接室に出向いた。太郎は受付の女性が邱さんを丘さんと読んで丘さんだと連絡してきたものと思っていた。垂井はその女性の名前は邱淑惠ですとメモ用紙に書いて渡してくれていた。
「初めまして、芝山です。確か邱淑恵さんでしたよね。垂井さんから伺ってます。よろしくお願いします」
太郎は名前を中国読みでキューシューホエイさんと言った。初めて逢った中国人の女性はとても美人で年は垂井と同じか少し若い感じで好感が持てた。
「私は中国、正確には台湾ですが、国では名前を邱淑恵と呼んで頂いてます。でも日本ではおかすみえと申します。なのでおかさんと呼んで下さい」
淑恵の日本語の発音はきちっとしていた。
「日本には長いのですか?」
「はい。中学校から日本の学校に通いました。両親は台湾から日本に来まして長く中華街でお店をやっていますが、家庭の中では今でも中国語を使っています」
「道理で中国語も日本語も達者なんですね。今日一日、中国から商談に見えているお客様三人の観光ガイドをお願いします。僕は中国語がぜんぜん出来ませんので」
「垂井さんから聞いております。精一杯やりますのでご安心下さい。ビジネスの話になりますが、日当はどれ位頂けます?」
「大切な話を忘れていました。素人のアルバイトは二万円前後と聞いていますが、プロの場合はスキルによって五万円から十万円が相場だと聞いています。ご希望はありますか?」
「相場で決めて頂いて結構です」
丘は遠慮がちに答えた。
「では五万円としましょう。但し交通費を含めて五万ですが、お客様とご一緒に行動している間は全ての費用はこちらで負担します。よろしいですか?」
「パーフェクト、それで充分です」
その時受付の女性から、
「お客様がお見えになりました。第一応接にお通ししてあります」
と連絡が入った。太郎は直属上司と部長に連絡を入れてから丘と一緒に第一応接室に向かった。
太郎と丘が応接室に入ると、三人の客が茶を啜って待っていた。
「直ぐ部長が来ます。しばらくお待ち下さい」
と言った時、営業本部長と部長、それに太郎の上司の課長が入って来た。簡単な挨拶を済ませたところで、部長が三人の客を本部長に紹介した。
「こちらは谢(謝)建明さんで今回のプロジェクトの責任者です。隣は徐俊賢さんで瀋陽の工場の責任者、左端は刘(劉)宗憲さんで営業本部長です。今日はこれから芝山君が横浜をご案内して差し上げる予定です」
「皆さんは横浜は初めてですか?」
すると三人共に東京は何度か来たが横浜は初めてだと答えた。三人の紹介の内容は丘が通訳してくれたので会話は滞りなく進んだ。
「横浜は歴史のある街ですからどうぞごゆっくりと観光なさって下さい」
と本部長が言うと、太郎の上司の課長が、
「先ほどから通訳をして頂いているこちらの女性は芝山君の知人で今日一日通訳として同行してもらいます」
と丘を紹介した。丘は、
「どうぞよろしくお願いします」
と頭を下げた。本部長が退席してから、太郎は丘の顔を見て、
「本日の行動予定はこちらにお任せ願えませんか?」
と言うと丘は客に中国語で内容を伝えた。
「お任せしますとのことです」
と丘は太郎の顔を見てにっこりした。笑顔が可愛い。
「では、車を玄関に回しますので、これから出かけましょう。」
第十五章 接待Ⅱ
太郎は車二台より一台の方が何かと楽なので、会社の接客用の八人乗りのワンボックスを手配しておいた。運転手を合わせて六人が車に乗り込むと、車は首都高に上がり、横浜の山下公園目指して走った。予約しておいたロイヤルウイングは小型の豪華客船で山下公園に近い大桟橋国際客船ターミナルから出る。大桟橋近くで運転手を残してお客三人と一緒に太郎と丘は車を降りてターミナルに向かった。ロイヤルウイングは既に停船していた。
「どうぞ乗って下さい」
太郎は乗船手続きを済ますとお客を誘った。その日は好天に恵まれ波は静かでとても良いクルーズとなった。横浜を船上から見る景色はとても良く、通訳の丘も気持ちよさそうに客と雑談、時々冗談を言って客を笑わせた。
昼食はBデッキの屋外に料理を運んでもらった。
ランチクルーズが終わって元のターミナルに戻ると、待っていてもらった車に全員乗り込んで本牧の三渓園に移動した。運転手は下調べをしていたらしく、迷わずに園内の駐車場に車を着けてくれた。こう言う手際の良さに太郎は感心した。
三渓園は広い。全部を見るにはとても時間が足りないので、三重の塔を見てから三渓記念館に案内した。記念館内を一通り見て最後に抹茶処望塔亭で一服して三渓園を出た。
案内をしている間、丘は何やら中国語で説明をしていた。丘の説明に客たちがいちいち頷いているので、多分歴史や由来について細かく説明してくれているのだと思った。太郎は手持ち無沙汰で、ふと時計を見ると十六時を回っていた。次の予定の山手111番館は十七時までなので、太郎はあせった。
「予定を減らせば良かった」
と独り言を言うと、丘が聞いて、
「急げば充分間に合いますよ」
とフォローしてくれた。山手111番館は山下公園に近い場所にあるので三渓園からそう遠くはない。十七時十五分前に滑り込んで運良く入館できた。
「この屋敷が出来た一九二六年は日本では大正から昭和に移った時代で、中国では北洋軍閥時代から中華民国に移る過渡期でしたわね」
丘は中国人なので中国の歴史に詳しい。だが突然客の一人が、
「そんな話は聞きたくないっ」
と怒り出した。太郎は中国語が分からないから、なぜ客が怒り出したのか分からず、丘に、
「どうかしましたか?」
と尋ねた。丘は泣きそうな顔をしている。丁度この時代は中国は世界の列強の圧力に屈して半植民地化されてしまった暗い時代だったのだ。だから中国人にとっては想い出したくない史実だったのだろう。太郎も丘もそう言う所に配慮が欠けていた。
そうこうしている間に閉館時刻が過ぎて、西洋館から追い出されてしまった。何が幸か不幸か分からないが、この場合は太郎たちにとっては幸だったようだ。
太郎と丘はお客を元町の商店街にお連れしてショッピングを楽しんで頂いている間に気持ちを鎮めてもらうように頑張った。三人のお客はそれぞれ国に残してきた奥さんにとプレゼントの品選びをしたが、代金は全部太郎が支払うはめになってしまった。
「気持ちを鎮めてもらうんだから仕方がないよ」
と太郎が言うと、丘は自分が原因だからと済まなそうな顔をしていた。
最後のプログラムはモーションブルーのディナーショーだ。その夜の公演は女流バイオリニスト里見紀子さんのショーだった。ジャズピアノに合わせて奏でる里見さんのバイオリンの響きに三人の客は満足している様子だったので、太郎も丘も胸を撫で下ろした。
「やっと終わったね」
客をホテルに送り届けてから、太郎は丘の顔を見て、長い間ご苦労様でしたと礼を言った。
「あのう、この後何かご予定はありますの?」
「僕は家に帰って寝るだけですよ」
と太郎は笑った。
「でしたら少しお茶しません?」
太郎は丘に誘われるままに、お茶に付き合った。
「芝山さんは彼女いらっしゃいますよね」
「いえ、決まったは女はいません」
「でしたら携帯の番号とメールアド教えて下さらない?」
「いいですよ」
丘は積極的だった。太郎が帰宅してベッドに潜り込むと携帯が鳴った。見ると丘からだ。
「太郎さん、もうお休みでした?」
「今寝るところだよ」
「わたし、なんだか太郎さんを好きになったみたい。おやすみなさい」
電話は切れた。多分丘は勇気を振り絞ってこんな電話をかけてきたのだろうと太郎は思った。その夜は丘の笑顔や泣きそうな顔が想い出されてなかなか寝付けなかった。
第十六章 丘淑惠《おかすみえ》(邱淑惠《キュウシューホエイ》)の恋Ⅰ
淑恵は太郎と別れて横浜の家に帰ると、疲れが出てシャワーをしてから直ぐにベッドに潜り込んだ。だが、一目惚れに近い太郎の面影が次々と想い出されて眠れず、太郎に電話してしまった。太郎に好きだと告白するまでには軽率過ぎるとか断られたらどうしようとか雑念が頭の中で交錯していたが、いざ電話をしてみると自分でも信じられないくらいすらっと好きになったみたいと言えた。言ってしまってからなんだかドキドキしてしまって結局明け方近くまで眠れずにいた。
翌日太郎から、
「お客様を怒らせてしまったけど、ディナーショーを気に入ってもらって気持ちを直してもらったから大丈夫でした。もしかしてお気にされているかと思って、お礼をかねて電話しました。通訳については上司から良い方を見付けてくれたと褒められました。ありがとうございました」
かなり事務的な内容だったが、淑恵は嬉しかった。
その夜、淑恵はまた太郎に電話をかけてみた。だが、携帯の電源が切られているらしく電話はつながらなかった。太郎は会議が遅くまで長引いて、会議が終わってから帰宅するまで携帯の電源を入れるのを忘れていたのだ。携帯がつながらなかったことで淑恵はがっかりしたが、そうなると益々太郎の声が聞きたくなって三度も電話をかけてみたが、つながらなかった。
淑恵は、
「もう一度個人的に逢いたいです。お時間のある時にお茶に誘って下さい」
とメールを入れてから眠った。
太郎は垂井のことが気になっていた。垂井の紹介で知り合った丘と付き合うのはなんだかルールに違反するように思えた。それで、丘に会う前に一度垂井に会って丘のことを話しておきたいと思った。だが、仕事が次々押し寄せてきてなかなか時間が取れず、丘からの電話やメールを無視した。
あれから三日が過ぎてしまった。その間淑恵から何度も電話やメールが届いたが無視していた。ようやく気持ちが落ち着いたところで、太郎は垂井に電話した。
「あれからお変わりはありませんか?」
「はい。元気にしてます」
「もしお時間が取れるようでしたらお茶でもしませんか?」
「わたしならいつでも大丈夫です。早めに言って頂けたらお仕事の時間中でも外出はできます」
「明日の日曜日はお時間の方どうですか?」
「午前中はお掃除、お洗濯がありますので午後ならずっと時間を空けられます」
「じゃ、午後三時に横浜まで行きます」
「そんなぁ、わたしの方から出向いてもいいですのに」
太郎は待ち合わせ時刻と場所を決めて垂井と会うことにした。
日曜日は生憎雨模様だったが、お昼を過ぎてから雨はあがった。特に持ち物はないので、太郎はカジュアルな出で立ちでズボンの後ろポケットに財布を押し込んで品川にあるワンルームマンションを出て横浜に向かった。垂井とは午後三時に横浜ベイホテル東急二階のラウンジにあるソマーハウスで待ち合わせだ。
ラウンジには少し早めに着いた。垂井を待つ間コーヒーを注文してスマホでゲームをして時間を潰した。丁度三時に、
「お待たせしまして?」
と声がして、上を向くと笑顔の垂井が立っていた。相変わらず笑顔が魅力的で可愛い。
「ちょっと早めに着いたから」
多分ゲームに夢中になっている姿を垂井に見られてしまいちょっとばつが悪かったが、笑って誤魔化した。
「どうぞ、ティーセットでいいですか?」
「はい」
太郎はウエイトレスを呼んでティーセットを二つ注文した。
「先日は素敵な通訳を紹介して下さってありがとう。社でもお客さんにもすごく評判が良くて助かりました」
「あたしが提案したプログラムで何か困ったことはありませんでした?」
「そうだなぁ、気を悪くされると困りますが、少し時間が足りなくて後半はばたばたしました。ランチクルーと三渓園とディナーショーの三つで丁度良かったような気がしました」
「そうねぇ、距離的に近いから大丈夫だと思ったんですけど、やっぱり。済みませんでした」
「謝られるようなことじゃないですよ。それと一つ気付いたことがあります。ご参考になるかどうか」
「是非お聞きしたいわ」
「実は、丘さんから聞いておられるかも知れませんが、山手111番館の見学をしていた時ですが、丘さんの説明を聞いて、瀋陽の工場から来られた徐俊賢と言う方が突然怒り出してしまって、ちょっと大変でした。後で丘さんから聞きましたら丘さんが建物の歴史的背景を説明していましたら、徐俊賢が『そんな勝者の歴史なんか聞きたくない』と怒ったそうです」
「そんなことがあったんですか。丘さんの通訳に問題があったのですか?」
「いえ、違うんです。実は山手111番館が出来た一九二六年前後は中国では辛亥革命が起こって、清王朝が衰退して共和制の中華民国が勃興して中国国内は混乱の中にあった時代です。ご存じだと思いますが袁世凱が国内の反乱を治めて大統領になった時に世界の列強から多額の借金をして軍備を増強して経済の立て直しを図ったのです。でもそんな混乱に乗じて、世界の列強は中国に進出、中国を半植民地化してしまったのです。第一次世界大戦後日本も列強の一つだったわけで、中国の方から見ると暗い過去なんでしょうね。今中国や韓国と日本の間で歴史問題がネックになってますが、国を挙げて海外の観光客を誘致する運動が盛んになっている今、相手国の国民感情に配慮して観光スポットを選定したり、説明する時に歴史的背景に配慮した内容で説明するとかそんな大切なことが欠けていることに気付かされました。日本人は日本の歴史を中心に観光スポットを考えがちですが、大昔は別として明治時代以降の歴史的建造物の説明にはその時代に敗者であった国の人たちにはそんな思い遣りも大切だと思いました」
垂井は太郎の話を聞いて、一応観光業に身を置いている自分に大事なものが足りなかったと反省させられた。問題の山手111番館をプログラムに入れた時にはそんなことを全く考えていなかったからだ。
「わたし、今のお話すごく参考になりました」
垂井は太郎が意外に博識だったので改めて尊敬する気持ちになった。
「ところで、実は丘さんのことですが……」
太郎はどう説明すれば良いか迷った。
「丘さんがどうかなさったんですか?」
「いえ彼女、僕のことが好きらしいんです」
「えっ、彼女が? 急にどうして?」
垂井は思いの他動揺した。実は垂井も太郎が好きになってしまっていて、今日太郎と逢う前までドキドキしていたのだ。それで、丘が太郎に好意を寄せていると聞かされて、垂井の太郎を想う気持ちは一気に確信に近いものに代わってしまった。
「丘さんがはっきりとおっしゃったんですか?」
「はい。好きだとはっきり言われました。それで、彼女と付き合う前に一応垂井さんのご意見を聞きたくて」
「お付き合いされるってことは、将来ご結婚も視野に入れてですよね」
「僕もいい年ですから、当然そうです。いい加減な気持ちでは丘さんに失礼ですよね」
垂井は困った。この場で自分の気持ちを告白してしまおうか迷ってしまった。急に無口になった垂井に、
「済みません、こんなこと垂井さんには関係の無い話でご迷惑だったですよね」
と太郎が言うと、垂井は突然太郎の顔を見て、
「関係ありますっ」
と言うではないか。これには逆に太郎が動揺した。太郎は垂井に初めて会った時からなんとなく垂井のことが気がかりになっていたのだ。それでどう言えば良いか分からなくなって、
「嫌でなかったらこれからお酒に付き合ってくれませんか?」
と聞いて見た。正直に言えば太郎は素面ではこの後の話を垂井と続ける勇気がなかった。
垂井は、太郎の予想に反して、
「いいですよ」
と答えた。
「こんなところじゃなくて居酒屋でもいいですか?」
と言うと、
「わたしも肩が凝らない居酒屋みたいなとこの方がいいです。あっ、横浜駅界隈は会社の人と会ってしまう可能性あるからこの近くの方がいいな」
と同意してくれた。垂井は少し馴れ馴れしい言葉遣いになった。
太郎は歩くのは面倒だからホテルのエントランスでタクシーを拾って、
「桜木町の横浜すきずきと言う居酒屋へ」
と運転手に行く先を告げた。ほんの五分も走ると居酒屋の前に着いた。時間が少し早いせいか店内は空いていた。
「こっちの方が落ち着くなぁ」
と太郎が呟くと、
「実はわたしも」
と垂井は笑った。突き出しが出たところで料理と酒を注文して、
「さっきの関係ありますって、やっぱ関係があるの?」
太郎もくだけた話しぶりで聞いた。
「はい。三角関係」
「ぇっ?」
「つまりぃ、あたしも芝山さんが好きです」
垂井は顔を赤らめて恥ずかしがっている様子だ。
「参ったなぁ。僕女性とこんな風になったの、と言うか女性を好きになったのは初めてだから」
「と言うと芝山さんは淑恵を好きになったの?」
「そうじゃなくて、僕が好きなのはあなたですよ」
垂井はぱっと明るい顔になって、
「じゃ、あたしと付き合って下さい。勿論結婚を前提に」
なんだか話が急展開して太郎は戸惑ってしまった。こんな話を成り行きで決めてしまっていいんだろうかとも思った。
「丘さんとのことだけど、どうやって話をするかなぁ」
太郎は独り言のように呟いた。
「わたしが芝山さんを好きで、お付き合いしているからと淑恵にはっきりお話された方が彼女もスッキリすると思いますけど」
結局太郎は垂井と夜遅くまで飲んで品川に戻った。丘さんにどんな風に話を切り出したらいいのか、その夜は悩んでしまって明け方まで眠れなかった。
第十七章 丘淑惠(邱淑惠)の恋Ⅱ
相変わらず丘から電話やメールが届いていた。太郎は無視してほったらかしにしていたが、いつまでもそんな風にはしていられないので、週末に丘に電話を入れた。
「すっかり返事が遅れてしまって申し訳ありません」
「もうっ、芝山さんに振られたと思って落ち込んでました」
「それで、丘さんのご都合の良い日に一度お目にかかってお話をしたいことがあるんですが」
「いいですよ。私もこんな形で振られてしまったら悲しいですから」
どうやら丘は太郎が振ってしまったと思っている様子なので太郎は少し元気が出た。
週末に太郎は丘と逢う約束をして、渋谷駅近くのプール付きのガーデンカフェに誘った。
カフェと言ってもゴチャゴチャした雰囲気でなく、ゆったりとしていて穏やかに話をするには良いと思って逢う場所を選んだ。夕方四時の約束だが太郎は少し早めに来てコーヒーを啜っていた。しばらくすると、
「お待たせしました?」
と丘が以前通訳を頼んだ時と同じようなにこやかな顔で太郎の前に来た。丘は太郎が予期しない年配の上品そうな婦人と一緒だった。
「僕も今来たばかりです」
「こちらは私の伯母の邱佩玲です。今日渋谷に出ると言いましたら、お買い物を一緒にとお洋服探しを手伝わされてしまって、それで太郎さんとお逢いする話をしましたら是非太郎さんに会ってみたいと言うものですから」
デートに伯母を連れて来た言い訳をするのに丘は苦労をしている様子だ。
「初めまして。芝山太郎です。淑恵さんには先日大切なお客様の接待で通訳をお願いした時に初めてお会いして素敵な女性だと思いました。今日は淑恵さんにお話をしたいことがありまして逢って頂くことにしました」
太郎は席を勧め、店員を呼んでケーキと紅茶を注文した。
「芝山さん……」
と淑恵が言いかけたのを伯母が制して、
「隠しても仕方がないわね。実は淑恵が好きになった男性ってどんな方かお目にかかって見たくて一緒に来ましたのよ」
と佩玲は悪戯っぽい目で太郎を見た。太郎も目の前に座っている品のある魅力的な年配の女性を改めて見た。
「何となくそんなように思いました」
太郎は俎の上の鯉になった気分で苦笑した。
「あなた、なかなか感じの良い男性だわね。あなたなら淑恵の伴侶として合格よ」
伴侶と言ったところを見ると、どうやら淑恵との結婚を前提に品定めされているようだ。今日は淑恵に交際を断るつもりで来た太郎だが、その話を切り出す糸口を失ってしまった。目の前の婦人は顔こそ中国人っぽい感じだが、日本語は流暢だ。
「あなた、淑恵のことをどう思っていらっしゃるの?」
太郎は交際の断り話を持ち出すなら今だと思ったがそれが口から出ずに、
「理知的で素敵な女性だと思います。お綺麗だし」
と答えてしまった。淑恵は少し顔を赤らめて、
「一目惚れしちゃいましたけど、お付き合いさせて頂いている間に本当の恋を見付けられると思います」
とフォローした。
「淑恵さんとご一緒の所に住んでいらっしゃるのですか?」
「私? 私は今たまたま日本に滞在していますが、普段は台湾で暮らしていますのよ。主人は日本でも有名な大きなエレクトロニクス会社の会長(董事長)をしておりますのよ。先日淑恵がお目にかかった谢建明は私の主人がやっている会社の幹部ですのよ。お仕事で必要なら主人から友人の会長(董事長)に口添えを頼むこともできますわ」
太郎は目の前の婦人の言葉に驚いた。一昔前はエレクトロニクスと言えば日本のN社やS社、F社などの大企業が世界の市場を席巻していたが、現在は台湾、韓国、中国の大企業にその座を明け渡してしまっているのだ。だから大きな会社だと言えば世界的にも名が通った大企業だ。その会長夫人が淑恵の伯母だと言う。
太郎の表情の変化を佩玲は見逃さなかった。
「もし、将来淑恵とご結婚なさってもあなたは今のお仕事をお続けになりますの?」
「はい。そのつもりでおります」
「今お勤めの会社の重役まで目指していらっしゃるの?」
「重役なんてとんでもありません。せいぜい部長まで行けばいいかなと思っています」
「あら、随分欲がないことね。あなたのお気持ち次第では将来主人が経営している会社の日本にある連結子会社を一つくらいお任せする可能性は充分ありますのよ。会社経営にご興味はないのですか?」
太郎の心は突然の話に揺れた。
「そりゃ会社経営のチャンスがあればやってみたいですが、突然のお話に驚いてしまって」
「そうよね。でも私の話はいい加減なものじゃありませんよ。可愛い淑恵の旦那様になる方ですものウソや誇張なんか必要ありませんもの」
飲み物がすっかり冷めてしまったのに気付いて、
「奥様、あっ伯母様とお呼びしてもいいですか? 何か注文しましょうか?」
「いいえ、私はそろそろ退散しますので淑恵をどこか楽しい所に連れて行ってあげて下さいな。淑恵ちゃん、伯母さんは一足先に帰ります。芝山さんを大切になさいよ」
先ほどから二人の話を聞いていた淑恵は、
「伯母さん、気を付けて帰ってね。お母さんに少し遅くなりますと言っておいてね。わたしはもう少し芝山さんとご一緒します」
と伯母に別れを告げた。
「夕食、ご一緒しませんか? 何か食べたいものがあれば、何を食べたい?」
太郎は淑恵にここを出て場所を変えようと言った。
「わたしが今食べたいもの? そうねぇ、わたし芝山さんを食べてしまいたいな」
淑恵は言い終わるとチョット舌を出して笑った。
「こら、真面目に答えないと僕帰っちゃうぞ」
太郎はくだけた言い方をした。
「そうねぇ、お寿司にしようかな」
「分かった。じゃ出よう」
太郎は店を出てタクシーを拾った。運転手にメモ用紙を渡して、
「この店に行って下さい」
と言うと運転手はナビをセットした。太郎は以前部長のお供で行ったことがある店で、その店は渋谷駅隣の京王井の頭線神泉駅の近くで松濤坂本と言う。松濤は渋谷でも高級住宅街で有名な場所だ。客単価はかなり高い寿司屋だが、太郎は先ほど彼女の伯母の話を聞いたのでレベルアップしたのだ。
ナビをセットしたのに運転手は近くまで行ってから通行中の人を呼び止めて場所を聞いている。どうやら番地は合っているが良く分からないらしい。運転席に戻ると、この先三軒目ですと言って料金を示した。
行って見ると確かに知る人ぞ知ると言うような感じの分かりにくい店構えでそばに行ってから以前の記憶を思い出した。
以前と変わらず寿司はと言うよりネタは良かった。
「美味しかったわ。太郎さんありがとう」
淑恵は太郎さんと言った。やはり芝山さんと苗字で呼ばれるより名前で呼ばれた方が親密感が湧く。
「横浜まで送るよ」
「いいの?」
「いいさ、家に帰ったら寝るだけだから」
駅までは近い。太郎は駅に向かって歩き始めると自然に淑恵が腕を絡ませてきた。太郎の鼻孔をほんのりとしたフレグランスの香りが刺激した。神泉から渋谷に出て、東急東横線に乗り換えて元町・中華街駅で降りた。昔は横浜駅止まりだったが今はみなとみらい線に相乗りしているから渋谷から乗り換えなしで行ける。
元町・中華街駅で降りると、太郎は淑恵と揃って改札を出た。大分遅くなったが、まだ営業中の店は多かった。
「私のお家はここではなくて三春台なんです。まだ母がお店の方に居ると思いますので寄って行きます。もう遅いですし、ここで結構ですのでお帰りになって。今日はありがとうございました」
「じゃ、僕はここで失礼するよ。お休みなさい」
丘淑恵と別れて太郎は駅に向かった。今日はすっかり淑恵に引っ張られて別れ話を持ち出すどころか返って淑恵の方に近付いてしまった。今度は垂井萠にどう言い訳をするのか自分でも頭の中が混乱してと言うか心が揺れてしまって、もうどうにでもなれなんて考えてしまうのだ。そんなことを考えている内に駅に着いてしまった。丁度ホームに入って来た電車に乗って横浜でJRに乗り換えて品川駅に戻った。
第十八章 丘淑惠(邱淑惠)の恋Ⅲ
家に戻ってシャワーを済ますと、二通のメールが届いていた。一通は淑恵からで電話もあったようだ。二通目は垂井からだった。太郎はベッドに潜り込むとスマホのメールを開いてみた。
淑恵からは、
「今日はお寿司とても美味しかったです。あんな高いお店でなくて結構ですので是非また連れて行って下さい。太郎さんのことを思い出しながら休みます。おやすみなさい」
垂井からは、
「今晩は。淑恵とちゃんとお話ができました? 近い内にまたデートに誘って下さい。太郎さん好きよ♡♡♡ おやすみなさい。 萠」
「困ったなぁ。どう返事をすればいいんだろ」
それで太郎は丘にも垂井にも、
「おやすみ」
とだけ書いて返信した。
太郎は性格的に二人の女性と同時に二股をかけて付き合うなんて器用な真似はできないから悩んでしまってなかなか寝付けなかった。垂井も丘もどちらも魅力的な女性だ。だが付き合って疲れないのは明らかに垂井の方だ。丘を案内した渋谷の寿司屋は勘定が三万五千円だった。太郎の小遣いではこんな贅沢を続けたら先が見えている。垂井だったらあんな高そうな店に入ったら多分最初に別のお店にしましょうと言っただろうなどと想像してしまう。だが、丘の伯母の話が本当なら丘と結婚すれば将来金で苦労することはないだろうなどと考えてしまう。そんなことを考えているうちにいつの間にか眠ってしまった。
翌日の夜、太郎は大阪に居る妹の真由美に電話をかけた。
「お兄ちゃんからかけてくるなんて珍しいわね。なんか元気がない声だけど、どうかしたの?」
「ん。今悩んでいることがあるんだ」
太郎は最近付き合い始めた丘と垂井のことを真由美に詳しく話して相談した。
「お兄ちゃんとしてはどっちの女性が好きなの?」
「両方。でもさぁ、恋人にするなら一人しか選べないから悩んでるんだ」
「当たり前でしょ。二股かけるなんて最低。どっちかに決めなさいよ。あたしがお兄ちゃんの立場なら丘さんを選ぶわね」
太郎はやはり真由美も自分と同じ考えなので少し安心した。
「お兄ちゃん、丘さんと垂井さんは仲のいいお友達だと言ったわね」
「ん。丘さんは垂井さんが紹介してくれた人なんだ」
「じゃ、この話すごく難しいよ。あたしの仲良しが仮にあたしの好きな人を好きになったなんて言われたら、あたしは耐えられないなぁ」
「じゃ、どうするの?」
「あたしなら自分の方から好きになった男性をお友達に譲るな」
「つまりぃ、真由美が身を引くってこと?」
「そうよ。仲のいいお友達関係を続けたいならそうするしかないもの。でも実際にどうなるかは分からないけど、お友達の方も遠慮して結局男性の方は好きになってくれた人を二人とも失うことになりそうだわね」
太郎は妹との話を引きずっていて、どちらを選ぶか心を決めかねていた。それで色々考えなくて済むように仕事に打ち込んだ。
一般のサラリーマンは土日が休日の所が多いが、垂井は旅行会社に勤めているために、土日は休みじゃない。それで週末太郎は丘に電話をかけた。
「土日はお休みですか?」
「はい。もしかしてデートして下さるの?」
「じゃ、明日の土曜日ドライブに行きませんか?」
「嬉しい。あたしどこでもいいけど、お花がいっぱいある公園がいいな」
太郎は女の子と公園を散歩するなんて初めてでどこに連れて行けばいいか分からない。それで職場の女の子、圭子に電話を入れて聞いて見た。
「へぇーっ、芝山さんがフラワーパーク? 意外だなぁ、似合わないよ。もしかして女性同伴だったりして」
「圭子、からかわないで教えてくれよ」
「誰と行くのか白状したら教えてあげる。もしかして孝子と行くの?」
「もういいよ。教えてくれないなら孝子さんに電話して聞いて見るよ」
予想外の反応に圭子は戸惑って、
「横須賀のくりはま花の国がいいんじゃない。コスモスが咲き始めて綺麗だそうよ」
とあっさり教えてしまった。
「ねぇ、わたしがついて行っちゃダメ」
「今回はダメ。今度にしてくれよ」
太郎は一方的に電話を切ってしまった。おしゃべりの圭子に余計なことをしゃべったら後の始末が悪い。あっと言う間に尾ひれが付いた噂を職場中に流されてしまう。
教えてもらったくりはま花の国をネットで調べたら横浜からはそう遠くなくて丁度いい。翌日土曜日の朝、太郎はレンタカーを借りて丘に教えてもらった三春台の丘の自宅に迎えに行った。行って見てびっくり、丘の家は豪邸だ。チャイムを鳴らすとお手伝いさんらしき女性が太郎を見て、
「お嬢様から伺っております。芝山様ですね。どうぞお入り下さい」
と玄関に案内した。太郎はなんだか落ち着かなくなってきた。
丘家の玄関に入ると応接間に案内された。シャンデリアのある豪華な作りになっている。、そこに綺麗な婦人が入って来て太郎を見て微笑んだ。
「初めまして。淑恵の母です。今日は娘をよろしくお願いします」
と深々と頭を下げた。
「芝山太郎と申します。こちらこそよろしくお願い致します」
太郎はすっかり雰囲気に飲み込まれてしまっていた。そこに先ほどのお手伝いさんがトレイに茶を載せて入って来た。
「芝山さん、中国茶はお嫌いですか?」
「いえ、大丈夫です」
太郎が茶碗に手を伸ばした時、淑恵が入って来た。淡い花柄の短めのワンピースの下から出ているすらっとした綺麗な脚が太郎の目を射貫いた。太郎も男だ。それを意識するかのような仕草で淑恵は太郎の隣に座って脚を組んだ。露わに出た綺麗な脚を見ないようにしようとしても太郎の視線はついそちらに向かってしまう。
「淑恵っ、女の子は人前で足を組んではいけませんよっ」
淑恵の母親はきつい目で淑恵に注意した。淑恵は慌てて組んだ脚を元に戻し、太郎に目を向けてちょっと舌を出した。そんなところがとても可愛らしいと太郎は思った。
「今日はどちらへ?」
母親の問いに、
「淑恵さんが花のある公園に行きたいそうですので、横須賀のくりはま花の国にお連れする予定です」
と太郎が答えると、
「ママ、あたし一度行ったことあるけどとてもいい所よ」
と淑恵は喜んだ。お茶が終わって、太郎は淑恵と一緒に門を出た。淑恵の母親とお手伝いさんが並んで見送ってくれた。
「緊張したなぁ」
と太郎が呟くと、
「アハハ、太郎さんママの前でコチコチだったわよ」
と淑恵は笑った。横須賀に向かってドライブ中淑恵はポツリポツリと自分のことを話し始めた。
第十九章 丘淑惠(邱淑惠)の恋Ⅳ
「太郎さんはご兄弟は?」
と淑恵が聞いた。太郎は正直に答えた。
「妹が一人、今は大阪に住んでる」
「ご結婚なさって?」
「ん。結婚して直ぐ大阪に行っちゃった」
「ご兄弟が居ていいな。わたしは一人っ子なの。母がわたしを産んでから子供を産めない身体になってしまって。なので兄弟がいないと寂しいわ。わたしは結婚したら四人か五人、出来れば六人位子供を産みたいな」
「台湾も一人っ子政策で子供は一人までって決まってないの?」
「台湾は今の所独立国ですから、本国の政策は及んでいませんけれど、最近は出生率が極端に下がって少子化が進んでいます。でもわたしは家族が多い方がいいな」
「どうしても子供が沢山欲しいの? そんなに子供が居たら育てるのが大変だろ?」
「わたし、子供が大好きだからちゃんと育てるわ。太郎さん華僑ってご存じよね」
「ん。大体のことは知ってる」
「わたしの家は台湾華僑なの。華僑は横のつながりをとても大切にしていて結束が強いわね。華僑は家族を大切にしていて、日本では最近家族の絆が薄れてきたと言われてますけど、わたしたちの家族はとても結束が強いわね。台湾ではオーナー企業が多いですが、家族を中心に発展した企業が多くて、企業の幹部は大抵血族か姻戚関係者で固められていますのよ。なのでわたしも誰かと結婚する時は先日逢った伯母の旦那様、つまり伯父の許しがあった方が良かったの。太郎さんは大丈夫よ。伯母が合格って言ってましたから伯父も認めてくれると思います」
「へぇーっ、日本の明治時代の家制度みたいだな」
「そうよ。窮屈なところがありますけど、良いところもいっぱいあります」
「日本じゃ外国に侵略されるかもと心配している方は殆ど居ませんけれど、わたしたちの祖国台湾はいつ中国に併合されてしまうかなんて心配している方は割と多いのよ。なので、そんな政変とか地震、津波なんかの天災のリスクを少しでも避けるため兄弟は海外に散らばっていることが多いわね。どこかの国で何かあっても兄弟で助け合いができますもの。仮に中国に併合されて財産の所有制限をされたり没収された場合、海外に分散していないと一族が崩壊してしまう危険もありますでしょ」
そんな話を聞いているうちにくりはま花の国に着いてしまった。コスモスが咲き始めていて淑恵は喜んだ。園内を散策している間、いつの間にか淑恵は太郎の腕に纏わり付いてきて、押しつけられた淑恵の胸の鼓動が太郎の心を刺激した。
お昼がすっかり遅くなった。
「園内のレストランでいい?」
「はい」
レストランは東京湾が一望できる丘の上にあった。休日なので混雑していたが、幸い窓際の眺望の良い席に案内された。
「何にする?」
メニューを見せると淑恵は丁寧にメニューを見てから、
「パスタ ジェノベーゼにするわ」
と答えた。太郎は自分も同じ物にして他にハーブティーとピザを注文した。
食後一時間ほど園内を散策して駐車場に戻った。帰りは道路が渋滞して夕方横浜に戻ってきた。
「山下公園で少しゆっくりしない?」
「わたしもこのまま家に帰るより太郎さんともう少し一緒に居たいと思ってたの」
山下公園の駐車場に車を入れると、淑恵と公園を散歩した。相変わらず淑恵は腕を絡めてきた。そんな淑恵を可愛らしいと太郎は思った。
「午前中の子供を産みたいって話だけど、本当に子供がいっぱい欲しいの」
「はい。太郎さんにいっぱい愛されて、子供がいっぱい生まれたら幸せ」
太郎は困った。
「実は僕は子供をあまり好きじゃないんだ。めんどくさいと言うか……」
淑恵の顔色が変わり今にも泣き出しそうだ。
「わたし、太郎さんをこんなに好きになったのに。愛し合えば子供が出来るのは自然よね。どうしてもダメなの?」
太郎は淑恵の予想外の反応に戸惑ってしまった。こんなに可愛い淑恵を手放したくないが、子供を六人もと言われてうんざりもした。太郎は根っからの子供嫌いではなかったが、結婚生活の中に子供を考えたことはなかった。出来れば子供を欲しがらない女性と結婚したいとまで思っていた。だから、最初に淑恵に五人も六人も子供が欲しいと言われた時、ゆくゆく二人で話し合えば淑恵の理解は得られるだろうと軽く考えていた。だが、華僑の話や今の淑恵のリアクションを見て自分の憶測が間違っていたと感じた。それで、今日はこれ以上子供の話をしたくなかった。
「子供の話は次の機会に話そうよ」
「はい。子供が要らないなんて悲しい話をなさらないで」
太郎は別れ際に淑恵を抱きしめてキスくらいは考えていたが、子供の話でそんな気持ちが萎えてしまって、結局家の門の前まで送って何も無く淑恵と別れて品川に戻った。
その夜、垂井から電話が来た。
「メールしたのにおやすみだけしか返事を下さらないの?」
「ごめん。返事を忘れてた」
「ウソおっしゃい。さっき淑恵から電話が来たわよ。今日彼女とデートしたんでしょ?」
太郎は参った。やはり仲のいい友達の片方と付き合うのは難しいと真由美が言っていた通りだ。それで、
「その話はいずれするよ。今日は疲れたから勘弁して下さい」
と返事してしまった。
第二十章 丘淑惠(邱淑惠)の恋Ⅴ
太郎に子供は嫌いだと言われて淑恵は落ち込んでいた。それでも太郎を諦め切れず、夜一時を回っていたが電話をしてみた。電話はつながらなかった。どうやら電源が切ってあるらしい。
太郎は会議が長引き疲れた足で一時過ぎに品川のマンションに戻った。ベッドに潜り込んで携帯をチェックしようとしたら電源が切ってあるのに気付き電源を入れると淑恵から何度も電話があったことを知った。太郎は子供を沢山産みたいと言う淑恵の気持ちにどう答えたら良いか分からず面倒になり淑恵に返事をせずに眠ってしまった。
翌朝出がけに淑恵から電話が来た。
「昨夜は仕事が長引いて真夜中に家に着いたんだ。ごめん。」
「そうだったの? わたし太郎さんに嫌われたらどうしようと眠れなかったの。今夜遅くてもいいから逢ってぇ。ダメ?」
甘えるような淑恵の声に太郎は、
「遅くてもいい? じゃ、夜の十時に東京駅まで出て来てよ」
と答えてしまった。
東京駅日本橋口で太郎が待っていると十時少し前に淑恵がやってきた。
「わたしの方が先に来てお待ちしてるつもりでしたのに」
淑恵は太郎が先に来て待っていてくれたのが嬉しかった。太郎は日本橋口から歩いてそう遠くないコードネーム ミクソロジーと言う変わった名前のバーに案内した。
「JR京浜東北線は十二時半くらいまで桜木町まで行けるのがあるから一時間か二時間は大丈夫だよ。それとも今夜僕のとこで泊まっていく?」
「うちは外泊は絶対にお許しがでないから遅くなっても帰ります」
「送って行けないよ」
「こう見えても一応もう大人ですから一人で帰りますわ」
と淑恵は笑った。バーは遅い時間なのにわりと混んでいた。ネットで予約しておいた席に案内されて二人は席に着いた。淑恵は周囲を見て、
「とてもいいお店ね」
と気に入ったようだ。パスタとマリネとワインを注文した所で淑恵が話し出した。
「太郎さん、本当に子供が嫌いなの?」
やはり淑恵は子供のことが一番心配のようだ。
「子供はいない方がいいね。どうしてもと言うなら一人なら我慢するけどそれ以上はダメだな」
「どうして一人しかダメなの?」
「子供を育てるってお金がかかるだろ。五人も六人も育てるなら淑恵さんは子育てが大変でとても共稼ぎなんて出来ないよね。僕の月給じゃとても無理だよ」
「あら、お金のことならノープロブレムよ。太郎さんが伯父の会社を手伝って下さるなら今のお給料の五倍以上は稼げますし、母がやっているお店だって毎月二百万以上利益がありますからご心配なさらなくても大丈夫よ。住む家はわたしのお家広いから両親とご一緒に住んで下さるならお金は要らないわね」
「それって同居ってこと?」
「太郎さんはあたしの両親と同居はイヤなの?」
「絶対とは言わないけど別居の方がいいね」
淑恵と結婚すると決めたわけでもないのに何でこんな話になってるんだろうと太郎は思わず苦笑した。
「何か可笑しい?」
「ん。まるで淑恵さんと将来の人生計画を話し合っているみたいで何か変だよ」
「太郎さんと結婚することになれば避けていられない話だと思いますけど」
淑恵は真剣な目差しで太郎を見た。太郎はこうして話しているといつの間にかずるずると底なし沼に引きずり込まれてしまうような気がしてきた。あるいは目の前の淑恵が毒蜘蛛に変わって太郎を糸でぐるぐる巻きにしてもがいても逃げられないようにされてしまうような気もした。
「どうしても子供を沢山産みたいの?」
「それは前に話しましたけど、わたし一人っ子で寂しい思いをして育ったから」
「僕は淑恵さんが寂しい思いをしないように努力するよ。それでもダメ?」
「太郎さん、あたしのこと好きじゃないんですか?」
「好き、と言うか好きになってるみたい」
「わたしは大好きよ。太郎さんと別れるなんて悲しくて考えられないわ」
「参ったなぁ」
そんな話をしている間に十二時近くになってしまった。太郎が腕時計を見たので、淑恵も気付いて、
「もっと太郎さんと一緒にいたいけど、時間ね。今夜はごちそうさま。子供のことよろしくお願いします」
淑恵は最後まで子供を産むことを心配していた。太郎は淑恵と結婚すれば今までとは違う世界に踏み出せそうな予感がしたが淑恵と別れて垂井と付き合うのかまだ迷っていた。
翌日昼休みに垂井からまた電話だ。同僚と一緒だったので、
「すまん。今会社の人と一緒だから」
と言って電話を切ってしまった。
「冷たく突き放されてるのになんであたしはあいつにしつこく電話してるんだろ」
垂井は自分がしていることを自嘲した。同時に知らず知らず自分が太郎に恋をしてしまっていると感じていた。
「お兄ちゃんはずっと子供嫌いだったから、彼女とは無理かもね。男って自分の子供を産みたいなんて女性が現れたらそれだけで幸せじゃないの? まさかセックスが嫌いになっているの?」
「僕はセックスは嫌いじゃないと言うか好きだよ。こんな話真由美だから話せるけど、セックスはしたいけど子供は要らないって話しだよ。アハハいくら妹にでも具体的な話になるとちょい恥ずかしいね」
太郎は淑恵のことを妹の真由美に相談した。妹は子供を沢山産みたい淑恵とはうまくいかないだろうから別れた方が良いと言った。
太郎は珍しく八時に帰宅した。ここのとこ十時前にマンションに帰れない日が続いていた。それを遠くから見透かしているように淑恵から電話が来た。
「こんばんわ。まだお仕事中?」
「いや、今日は珍しく今帰ったとこ」
「じゃ、デートしてぇ、横浜まで来て下さらない?」
太郎は迷ったが淑恵の甘ったるい声には抗えなかった。
「どこに行けばいい?」
「横浜ロイヤルパークホテルの地下1階カフェフローラ。場所は分かりますよね」
「ん。桜木町駅を降りて直ぐのとこだろ? ランドマークの」
「そうよ。必ず来てね」
太郎は身支度を調えて直ぐに品川のマンションを出た。カフェに着くと既に淑恵は待っていた。
「ご夕食は?」
「まだ」
「わたしもまだなの。何か頼む?」
太郎はメニューを持って来てと店の者に頼み、メニューが届いたところで淑恵の顔を見た。
「僕はハンバーグ、淑恵さんは?」
「あたしはブイヤベースにしようかな」
太郎はコーヒーを先に持って来てと言って料理を注文した。二人ともライスでなくてパンを頼んだ。
「一度聞いてみたかったんだけど、僕のどこが好きなの?」
淑恵は太郎の顔をしげしげと見て、
「いきなりですわね。好きなところはいっぱいありますよ。先ずは逢いたいと言うと今日のように直ぐ飛んできて下さるとこ。優しいこととイケメン。背が高いし」
と微笑んだ。
「他には」
「着こなしのセンスが良くて格好いいとこ。お仕事も出来る人だそうだから」
「僕がどんな仕事をしてるか知ってるの」
「この前伯母が前に会ったお客様の谢建明は伯父のお友達の会社で雇っている方だと言ってましたよね」
「ん。驚いたよ」
「伯父はその方を呼んで太郎さんのことを聞いたんですって」
太郎はどんな話か興味が湧いた。
「どんな風に言ってたの?」
「その方は今まで多くの日本人と商談してきたけれど、大抵の日本人は台湾人を上から目線と言うかこちらが客なのに何となく日本人の方が上って言う感じが伝わってくるんですって。でも太郎さんの場合はちゃんと自分の立場をわきまえて客としてもてなしてくれて、あの人付き合いの悪い徐俊賢が怒った時嫌な顔もせずに上手に彼の怒りを宥めてくれた所を見て、太郎さんは国際的なビジネスマンとして優秀な方だと褒めたんですって」
太郎はちょっと嬉しかったが顔には出さなかった。
「わたしはね、その話を聞いて伯父が太郎さんをわたしの将来の旦那様として合格にしてくれた理由が分かったような気がしましたのよ。伯父の話を聞いてからわたし、益々あなたを好きになっちゃった」
淑恵は照れ隠しにちょっと舌を出した。その感じがとても可愛いと太郎は思った。太郎の心の中では淑恵を諦めて垂井と付き合おうかとまだ迷っていたが淑恵と逢う度に次第に淑恵に吸い込まれてどうにもならない自分を持てあましていた。
妹は結婚相手として条件がいいけど、兄貴には人生に悔いの無い結婚をしてもらいたいからきっちりとお断りした方がよいとその後何度か言ってきた。
「淑恵は別としても丘家は僕を種馬みたいに見てるんじゃないかなぁ」
そんなことが頭の中でもやもやしている太郎は週末淑恵にきっぱりと言い渡した。
「こんな話を電話一本で済まして申し訳ないけど逢って話をしたら、多分淑恵さんに泣かれてしまってはっきり言えなくなってしまうから。淑恵さんが嫌いになったわけじゃなくて、子供が好きじゃないことが将来お互いを不幸にすると思って勇気を振り絞ってお断りさせてもらったよ。今後は二度と逢わないようにします」
電話の向こうで淑恵が泣いていることは分かっていたが、太郎は電話を切った。
翌日垂井から電話が来た。
「淑恵から聞いたわよ。あなた残酷な方ねぇ。あたしも許さないから。もうあたしもあなたとはお仕事以外では二度と逢いませんから。さようなら」
結局妹が言った通り、太郎は一瞬に二人の女性を失ってしまった。
第二十一章 鷺沼次郎
鷺沼次郎の父健司は茨城県の小美玉市野田で韮栽培の傍ら梨や青梗菜、小松菜、ほうれん草など葉物のハウス栽培をして生計を立てていた。近年福島の原発事故でこの辺りの農作物も放射能の風評被害に遭って価格が暴落したばかりでなく買い手が付かずに出荷が出来ず生活が苦しくなっていた。
次郎の母百合子は旧姓木崎と言った。女子高生だった百合子は大分から友達と一緒に日光に観光旅行に来た時華厳滝の近くで健司と出会った。健司は地元の高校を卒業後小美玉市からそう遠くない東大農学部付属牧場の手伝いをしながら受験勉強をしていたが、連休に友人と日光に旅行した時に足を挫いて立ち上がれない百合子の脚を応急手当した縁で親しくなり遠距離恋愛の末結婚した。百合子は気が強い性格で母親の血を継いで次郎も気が強い子供に育った。
次郎は名前の通り次男で兄太郎は父親の性格を継いで温厚な青年に育った。性格が違うとは言え兄弟仲は良く、兄が地元の県立農業大学を卒業後父の農作業を手伝っている間に兄の勧めで次郎も一浪後地元私立大学の流通情報学部に進んだ。次郎は大学卒業後農産物の物流関係の企業に就職するつもりでいたが、当時は不景気のどん底で希望の就職口が見付からず、たまたま面接を通過した神奈川県の相模原市にある東西プレス工業と言う会社に就職した。次郎は情報処理学科を卒業していたので、入社早々生産技術部に配属が決まった。
入社後三年が過ぎてようやく会社の仕事に慣れてきて、次郎はそろそろ彼女が欲しいと思うゆとりができた。とは言っても小学校から大学を卒業するまで女性と遊んだことがなく、学校時代はガキ大将でいつも男友達とつるんでいた。高校ではあまり勉強をしなかったので、高校を卒業後就職するつもりでいたが地方の高校卒で成績が悪い次郎を雇ってくれる所がなく、たまたま牧場の飼育係のバイトを見付けて応募したところ何とか採用が決まった。
だが入ってみると力仕事が殆どで身体が大きく力持ちの次郎も仕事が終わるとぐったりするほどきつかった。牧場は東大農学部付属で大学院農学部生命科学研究科に直結しており学問を目指す教授や学生を目の当たりにして大学を目指して受験勉強をする気になった。そんな時兄の勧めがあって、受験勉強に力を入れてどうにか地元の私立大学に滑り込むことができた。今思うとその時が自分の人生の岐路だったような気がする。
高校も大学も相変わらずガキ大将で慕ってくれる男友達は多かったが会社に入っても部下の面倒見がよく周囲から慕われていた。今年二十六歳になった次郎は一浪したから同期入社の同僚の間ではいつの間にか兄貴的存在になっていた。
「おいっ、田辺と河野、今夜付き合えよ」
田辺と河野は次郎の部下で呑み仲間だ。二人ともまだ独身なので、次郎の誘いを断ったことがなかった。
いつも行く駅前の居酒屋はその日も混んでいた。三人でたわいもない話をしている隣のテーブルは女性の四人組が大きな声で話し合っていた。
「兄貴、まだ彼女いないんですか? 兄貴くらい人気があれば一人や二人いてもいいですよね」
「おい、またその話かよぉ。俺はそっちの方だけは苦手でさ、どうやって付き合うか考えただけで気が進まねぇんだ」
隣の男性組三人の話を先ほどから聞いていた女がいた。見たところ四人組の女性たちは全員プロポーションが良く、その中で次郎の話を聞いていた女は特にスタイルが良かった。何となく動作がきびきびしていて身体が引き締まっている。その時突然、
「僕らと一緒に呑みませんか?」
と河野が隣の女性の中で一番若そうな女に声をかけた。と、
「河野、よせっ」
と次郎が遮った。
「あら、いいじゃないですか。男性ばかりで呑んでいてもつまらないでしょ」
と先ほどから次郎の話を聞いていた年上の女が言った。それで女性たちと合流して飲み始めた。田辺と河野は女性たちの話に加わってしきりと場を盛り上げている。二人の冗談に女性たちは笑いころげた。だが次郎は急に無口になった。
「どうぞ」
次郎が声がした方を見ると先ほど男ばかりで呑んでてもと言った女が空になった次郎のコップを見てビール壜をかざした。
「どうも」
「お近づきにあたしにも」
と女は自分のコップを突き出した。次郎は仕方ないと言う表情でビールを注いだ。
「ありがとう。あなたお名前は?」
「次郎、鷺沼次郎」
次郎はぼそっと呟くように答えた。女はその様子を楽しむかのように、
「あなた携帯持ってる? 出しなさいよ」
と言う。次郎は気が進まなかったが黙って尻のポケットから携帯を出して女に渡した。女は携帯を受け取ると慣れた手つきで受信メール一覧を一瞥した。
「佳織って彼女?」
次郎はむっとした顔つきで、
「香織は兄貴の嫁さん、俺の義姉」
とぶっきらぼうに答えた。次郎の顔は余計なことを聞くなと言っている。女は次郎の携帯に自分のアドを登録し、次郎のアドを自分の携帯に登録してから次郎に返した。女は、
「シャイなやつ」
と呟き、
「わたしたちは全員フィットネスクラブのトレーナーよ」
そう言いながら名刺を次郎に押しつけた。それを田辺が見て、
「僕も入会しようかな。そうすればみんなにまた逢えますよね」
と言うと、
「それは残念。わたしたちの所は女性専用のクラブ、男子禁制よ」
とまたみなで笑いこけた。
「いいじゃない。また誘い合って呑みましょうよ」
少し酔いが回ったところで全員揃って店を出た。支払いは自分たちの勘定と合わせて女性たちの分まで次郎が払った。
「今夜は楽しかったわ。ごちそうさま」
皆と別れてアパートに帰る途中、次郎は自分に話しかけてきた女のことが少し気になった。
第二十二章 磯崎清美
次郎が勤めている東西プレス工業の始業時間は八時半だ。入社三年目で次郎は班長を任され部下は男性四人女性一人だ。平日は毎朝八時半きっかりに全員集めて朝会をする。
「今日も安全第一、今日はライン1~5の計数に異常がないか調べて何かあれば直ぐに報告すること。それが終わったら十時半から第二会議室で品質管理課と打ち合わせを行うので全員出席すること。午後は新製品の金型の仕上がり具合を調べるので田辺君は図面を揃えて試作室に、他の人は田辺君が来るまでに試作室の整理整頓を済ますこと。午後は全員で作業。では今日も頑張りましょう。解散」
朝会が終わると全員工場に散らばった。残った次郎は品質管理課との打ち合わせ資料に目を通していた。
突然尻のポケットに入れた携帯がバイブした。仕事中はマナーモードだ。この時間に携帯が鳴ることはめったにない。次郎は咄嗟に現場で事故かと思いながら携帯を開いた。見ると知らない相手からメールが着信していた。
「今夜逢えませんか 清美」
「俺に女からメール来ることないんだよな。誰だろう?」
次郎は返信せずそのまま携帯を尻ポケットにしまって仕事を続けた。
品質管理課との打ち合わせを終わるともうお昼だ。終業ベルが鳴ったところで全員社員食堂に向かった。
「今日のメニューは何だ?」
と河野が女の子に聞いた。
「とんかつとハンバーグとスパゲッティだよ」
「僕はとんかつにしようかな」
「あたしはスパゲッティ」
たわいもない会話を聞きながら朝メールを受信したことを思い出した。だが、清美なんて名前の女は周囲にはいなかったから多分迷惑メールだと思って無視することにした。最近はたまに知らない出会いサイトからいかがわしいメールが届くことがある。次郎は知らない他人に自分のアドを教えたことはなかったが、どう言うわけかアドが外部に漏れているらしい。
夜帰宅して次郎はインスタントラーメンで晩飯をすますとシャワーを使ってから寝床に入った。ベッドはなく、床の上にマットレスを敷き、その上に布団を延べた。仕事に疲れてうとうとしていると、携帯のバイブが鳴った。次郎は大抵マナーモードのままにしていた。
「今頃誰だろう」
電話を取ると、
「こんばんわ。清美です。朝メールしましたけどお返事がないもので……」
「清美さんと言うと?」
「あら、昨日ご一緒に居酒屋で飲みましたよね。お忘れですか?」
それで次郎は思い出した。
「なんだ、あんただったんだ」
「失礼ねぇ。ちゃんと名刺をお渡ししましたでしょ」
次郎はそう言えば名刺を押しつけられたことを思い出した。
「ねぇ、これからちょっと逢えない?」
「明日があるからダメです」
清美は今まで男からこんな味気ない返事をもらったのは初めてだ。殆ど誘った男は一つ返事でいそいそと逢いに来た。だがあの男の場合勝手が違った。誘っても乗ってこない。それで清美はファイトが湧いてきた。
「明日、ダメですか?」
「ダメ。休みの日ならいいよ」
「土日ってことですか」
「ん。日曜日ならいいよ」
「わたしたちは土曜、日曜もお仕事がありますのよ。日曜日は夜八時にお仕事が終わりますから八時半でもいいかしら?」
「ああ、日曜日なら遅くでもいいよ」
「じゃ決まり。待ち合わせは横浜線の相模原駅南口改札前にお願いします」
「分かった」
清美は素っ気ないやつと呟いて電話を切った。
日曜日の夜、次郎は八時半少し前に相模原駅に着いて改札口の前で清美を待った。八時半少し過ぎに清美は小走りに次郎に近付いてきた。
「お待たせ」
吐息が乱れている。
「あのう、相模原だとわたしのお店の人とか鷺沼さんの会社の人に見られるでしょ。なので町田まで出たいの。いいでしょ」
「ああ」
二人は上り線に乗った。町田までは四つ目で近い。駅を降りると九時近いのに人出は多かった。駅近くの串焼き屋に入るとビールを注文した。
「このお店、安い割に美味しいのよ」
「時々来るの?」
「そうね。月一位かな。鷺沼さんはご家族は?」
「実家の茨城に両親と兄夫婦」
「香織さんでしたよね。他にご兄弟は?」
「兄貴と二人だけ。磯崎さんは?」
「わたしは妹が一人。実家はこの先の菊名。妹は多摩美の四年生。可愛いわよ。今度紹介するわよ」
「菊名と言うと」
「ああ、新横浜の一つ先。東横線の菊名駅。妹は東横線で自由が丘から乗り換えて上野毛までだから家から通ってるの」
お互いに自分たちのことを話し合っているうちに十二時を過ぎた。
「あら、もうこんな時間」
勘定を済ますと店を出た。清美はいつの間にか次郎の腕に自分の腕を絡めて歩いた。
「来週もデートして下さらない?」
「いいよ」
次郎がアパートに戻ると一時を過ぎていた。
「清美かぁ……」
この次から次郎、清美と名前で呼び合う約束をさせられてしまった。
第二十三章 次郎とのデート
次の週日曜日の夕方清美から電話が来た。
「今日デートして下さるんでしょ? ねっ次郎さん」
「ああ」
「この前の改札口前八時半でいい?」
「ああ」
次郎の返事はああかいいよかダメしか返ってこないが、慣れてくるとそれでいいと清美は思った。清美はお喋りな男は嫌いだ。
八時半に駅に行くと前と同様次郎はちゃんと待っていてくれた。毎回居酒屋ではつまらないと思って、イタリアンのカフェバーに入った。
「お仕事忙しいの?」
「ああ」
「今度の土曜日一日空けられない?」
「土曜日ならいいよ」
「じゃドライブに連れて行って下さらない? わたし、今度の土曜日有給取るつもりなの。次郎さんとどこかへ行きたいから」
「ああ、いいよ。どっち方面がいい?」
「日帰りだとそう遠くには行けないわね」
「朝早ければ少し遠くても大丈夫だよ」
「信州とか?」
「ああ」
「じゃ、軽井沢の方に連れてって」
来週の土曜日は清美と軽井沢までドライブが決まった。
「わたしが住んでるマンションにちょっと寄らない? 朝お迎えに来てくれるんでしょ?」
町田で一時間ほど潰すと二人は相模原に戻った。清美は自分が住んでいるマンションに次郎を案内した。
「お茶、飲んでってよ」
清美のマンションは次郎のアパートと違って広くて綺麗だった。次郎は一人暮らしの女性の部屋に上がるのは初めてだ。それで遠慮をしていると清美が次郎の手を引いて、
「遠慮せずに上がって」
と勧めた。次郎が突っ立っていると、突然清美が次郎の首に腕を回して抱きつき次郎の口を吸った。次郎は女とキスした経験がない。動揺している次郎を見て、
「キス、初めてじゃないでしょ」
と言った。
「俺、女性と付き合ったことないから」
「じゃ今のがファーストキス?」
「ああ」
清美は思わず嬉しくなった。自分が次郎のファーストキスを奪ったのだ。今まで何人かの男と付き合ったがこんなことは初めてだ。普通は男性が女性のファーストキスやバージンを奪ってしまうのだが、次郎と清美の場合は違った。清美が次郎に恋の手ほどきをしている感じだ。
「じゃ、もう一度キスするわよ」
次郎の唇に自分のを重ねると次郎は遠慮がちに清美のウエストに手を回して抱きしめてくれた。清美は気持ちが高ぶって舌を入れて次郎の口を吸った。こうして抱き合っていると幸せを感じる。
「次郎さん、もうわたしの恋人だからね」
「……」
次郎は黙って清美を強く抱きしめてくれた。それが次郎の答えだと感じて清美はふくよかなバストを押しつけた。きっと次郎は自分の気持ちを受け取ってくれているはずだと思った。
「ファーストキス、どうだった?」
「……」
次郎は顔を赤くして清美の顔を見ている。
「今お茶淹れますから」
お茶をご馳走になって、次郎は清美のマンションを出た。次郎は積極的な清美の行動に驚いたが悪い気はしなかった。自分のアパートに着いてからもファーストキスの余韻が残っていた。
月曜から金曜まで次郎は仕事に集中した。あの時から清美は夜必ず次郎に電話をかけてきた。それでようやく清美が自分の恋人だと実感が持てるようになった。清美は自分よりも一つ年上で二十七歳だと言っていた。だが次郎は年のことは気にしていなかった。
土曜日の朝八時に次郎はレンタカーを借りて清美を迎えに行った。清美は既にお化粧を済ませて待っていてくれた。清美を乗せると相模原から十キロほど走り津久井湖近くの城山から新しく開通した圏央道に乗り入れ鶴ヶ島ジャンクションから関越道に入り、関越道の藤岡ジャンクションで上信越道に折れた。二人を乗せた車は十時半頃碓氷軽井沢ICを降りて軽井沢に向かい、九キロも走ると軽井沢の町に入った。
「圏央道を使うと早いわねぇ。この時間でしたら軽井沢でゆっくりできるわね」
思ったより早く着いたので清美は喜んだ。
「最初どこに行きたい?」
「白糸の滝」
次郎は予め地図を見ておいた。それで市街を抜けて日本ロマンチック街道を少し北上して白糸ハイランドウェイに乗り入れた。木立の間を縫うように続く木漏れ日でまだら模様になった道をトロトロと走ると直ぐに白糸の滝に着いた。
「ミニと言うかマイクロナイヤガラだわね」
清美が言った通り幅広い岩の壁に沿って幾筋もの水が流れ落ち綺麗だ。
「次は?」
「雲場池」
次郎は旧軽井沢の市街に戻ると町営の駐車場に車を止めて、
「少し散歩しない?」
と誘った。軽井沢には良い散歩道が沢山ある。次郎と清美はそんな散歩道を雲場池に向かって並んで歩いた。清美の手が次郎の手に触れると、次郎は黙って恋人つなぎをしてくれた。清美にとっては予期せぬ出来事だ。二人はお互いの気持ちを確かめ合うように黙って歩いた。
雲場池に着いた時にはお昼になった。
「腹が空いたなぁ」
突然次郎が呟いた。
「戻ろうか」
「ああ」
市街の駐車場まで戻ると、蕎麦屋に入って天ぷら蕎麦を注文した。
食事が終わって駐車場から車を出すと、佐久に向けて走り、小海から清里高原を通り過ぎて国道二十号線甲州街道に出た。疲れが出た様子でいつの間にか清美はすやすやと眠っていた。次郎は清美を起こさないようにして、双葉ジャンクションから中央高速道に乗り八王子まで帰ってきた。清美は寝ぼけた声で聞いた。
「今どこ?」
「八王子」
「なんだもう帰ってきちゃったのかぁ」
次郎は清美をマンションまで送った。
「寄っていってぇ」
清美は甘ったるい声で次郎を誘った。
「疲れたから帰るよ。車も返さなきゃ」
寄らずに去って行く次郎が乗った車のテールライトを清美は見送った。やがて角を曲がってテールライトが見えなくなった時、
「帰っちゃったか」
と清美は呟きマンションの部屋に戻った。
第二十四章 次郎の気持ち
軽井沢に遊びに行ってから次郎は清美とデートを重ね、今夜で六回目になる。次郎は清美が最近恋人だと実感できるようになってきて、別れ際に軽いキスを交わすのにも慣れてきた。だが一つだけ不思議に思っていることは彼女が結婚を話題にしたことが一度もないことだ。
いつものように週末八時半に相模原駅で落ち合うと町田に向かった。この時間でも乗客は多かったが、最初と違って彼女は次郎に寄り添って恋人らしくしてくれる。飲んだり食ったりする店は同じところにしなかったが、今夜は最初にデートした時に入った串焼き屋に入った。庶民的な店が殆どだかこの店も庶民的で財布の中身を気にしないで飲み食いできた。
「今日で六回目だな」
と次郎が呟くと、
「えっ、何が?」
と不思議な顔をした。
「俺たちのデートの回数」
「もう二ヶ月近くになるわね」
清美は今まで色々なことを話してくれたが、今夜は恋人になったのに一歩踏み込んでこないことに不満がある様子だ。確かに次郎は女性関係の経験がないからクールと言われても仕方がないほどキスの先を求めたことはなかった。今夜は清美のピッチが速い。
「少しペースを落とさないか?」
「いいの。今夜は呑みたいの」
十二時近くには清美はかなり酔っていた。アルコールに強い方だが立ち上がると足下がふらついた。次郎は会計を済ますと清美を抱きかかえるようにして駅に急いだ。
清美のマンションに着いてもまだふらついている。
「鍵はどこ?」
「ここよ」
清美はトートバッグを差し出した。その時、急にげげっと扉の前に胃の中のものをはき出した。次郎は清美の背中をさすってやり、落ち着いたところで部屋に上がり抱き上げてベッドの上に寝かせた。清美が何か言ったようだが、次郎は新聞紙を持ってドアーの前の嘔吐物を綺麗に掃除した。
汚れ物をトイレで流し、新聞紙は包んでゴミ箱に押し込み、流しで汚れた手を洗っていると、いつの間にか清美が起きてきて次郎の後ろから抱きついた。
「次郎さん、今夜は帰さないからぁ。ねぇ、一緒にいてぇ」
振り向くと口の周りが汚れたままの清美の顔があった。次郎はタオルを絞って丁寧に清美の顔を拭いてやった。こんなことは初めてだ。取り乱してはだけたブラウスの上からふくよかな乳房がのぞいている。
「ねぇ、いいでしょ」
清美はベッドの方に次郎を引っ張って行った。
「酔ってるんだから今夜は大人しく寝ろよ」
「あたしそんなに酔ってないから」
「俺は明日は休みだけど清美は仕事だろ?」
「お仕事なんかどうでもいいの。それより今夜あたしをめちゃくちゃにしてぇ」
「今日はおかしいよ。さっ大人しくして」
次郎は清美をベッドに寝かせて毛布を掛けてやった。時計を見ると一時半を回っている。清美は次郎の顔を見つめていたがしばらくすると小さな寝息を立てて眠ってしまった。次郎はベッドの脇できよみの寝顔を見ていた。今日は酔っ払って取り乱していたがこうして寝顔を見ると可愛らしい。次郎にも睡魔が襲ってきて清美のそばでそのまま眠ってしまった。
カタッとする物音で次郎は目が覚めた。時計を見ると五時少し前だ。清美はベッドに寝ていなかった。
「次郎さん起きてしまったの? 起こさないようにしたんだけど」
見るとシャワーを使って風呂場から出て来た清美が立っていた。大きなバスタオルを巻いていた。清美はベッドに横たわった。かすかに洗髪剤の良い香りがした。清美は腕を伸ばして次郎の首に巻き付けると次郎の顔を引いてキスをした。
「次郎さん、ずっと一緒に居てくれてありがとう」
清美は次郎のシャツを脱がせてパンツのベルトに手をかけた。次郎はされるままにして黙っていた。清美は次郎のパンツを脱がせてベッドに引き込んだ。
「抱いてぇ」
清美の手が次郎のそこをまさぐり始めた。次郎は身も心も次第に高ぶりシャワーの温もりが残る清美の身体を貪った。エアロビクスで鍛えた清美の引き締まった身体が次郎の激しい愛撫に応えて悶えるかのように震えた。次郎の筋肉質で大きな身体に覆われしだかれている清美は強い男に射貫かれている幸せをかみしめながら鳴いた。次郎の激しさが増した時、清美は思わず大きな声を出して果てた。今まで何人かの男と関係を持ったが、今日のように燃やされたのは初めてだ。だから図らずも次郎が果てる前に果ててしまった。
愛の営みに陶酔している清美の耳元で次郎が囁いた。
「俺の子供ができたら結婚してくれ」
この言葉で清美は陶酔が一気に覚めてしまった。
「子供はできないわよ。今日は安全日だから」
「そんなこと分かるのか?」
「女性は分かるのよ」
「でも、万一俺の子供がお腹にできたら結婚してくれよ」
「万一出来ちゃったら堕ろすつもりよ」
「ダメだ。俺の子供を勝手に堕ろさないでくれよ」
清美は次第にイラついてきた。少し前までの幸せな気分が吹き飛んでしまった。
「堕ろすわよ。あたし四十歳を過ぎるまで結婚するつもりも子育てするつもりもないから」
「出来てしまったら仕方ないだろ?」
「ダメよ。子育てなんて煩わしいことは嫌いなの。今の生活で充分楽しいし、次郎さんが時々セックスして愛してくれればそれでいいのよ」
次郎は驚くと同時にこれ以上どう話をすればいいのか分からなくなった。
清美の出勤の時間は過ぎていた。だが次郎はこれ以上気まずい思いで清美のところに留まりたくなかった。
「帰るよ」
そう言い残すと次郎はマンションを出た。何か割り切れない気持ちはその日一日続いた。
第二十五章 恋人それともセフレ?
次郎は清美のこと一日引きずっていた。女は好きな男とデートを重ねれば自然に結婚のことを考えるのではないかと思っていたが自分が生まれて初めて恋人を意識した清美に限って結婚したくないと言う。考えてみれば最近いつまでも結婚しないであっと言う間にアラフォーになってしまった女性が増えているとニュースなどで報道されている。
自分は清美が近い将来妻となってくれるものと思って付き合ってきたし身体の関係ができればそれは結婚OKのサインだと受け取った。だが違った。戸惑ってみても悩んでみても相手が嫌なんだから諦めるより仕方がない。次郎は清美と結婚して小さいながら家庭を持ち、子供が出来たら子供たちと一緒に幸せな家庭を築きたいと思っていた。だから清美と別れて別の女性との出会いを考えるのか清美の説得を続けて清美に子供を産ませると考えるのか悩んだ。確かに清美はプロポーションが良く、顔も可愛いし頭も悪くないようだから、将来一生妻として可愛がるだけのものはある。清美と別れたらはたして清美程度の女性と改めて巡り会える可能性は低い。
「もうすこし清美と付き合ってやって結婚して俺の子供を産んでくれよと頼んでみるか」
清美は次郎が帰った後、次郎とは別のことを考えていた。
次郎に子供が授かったら結婚してくれと言われた時、一瞬一人くらいならと思ったが、今の仕事は楽しいしプライベートの生活は自由気ままで満足できる。もし子供を産んだら仕事は辞めなきゃならない。お腹がぷっくら膨らんだエアロビクスのトレーナーなんてあり得ないなどと考えると結婚して子育てなんか絶対に嫌だ。それで次郎に子供は産みたくないとはっきりと言い渡した。
でも、と清美の心は揺れる。今まで何人かの男と付き合ってセックスも許した。けれどセックスしてみて次郎ほどに快感に満たされたことはなかった。次郎は無骨なやつだが彼の大きな身体が覆い被さって後ろから逞しいその部分で挿し貫いてくるとまるで屈強な敵将に征服されて恥辱を受けている王女のような気持ちになるのだ。だから清美は次郎を失いたくなかった。何とか結婚を諦めてもらってお友達、つまり自分のセフレとしてこれからも付き合ってもらいたいと思った。
あれから何度も次郎に電話をしたりメールを送ってみたが全て無視されて返事が来ない。勝ち気な清美は諦めずに週末次郎のアパートを訪ねたが留守のようだ。そこでドアーの前で待ち伏せした。夕方遅く、こつこつと次郎だと思われる靴音がしてきた。
「ようやくご帰還だな」
と呟き待っていると、やってきた男は次郎でなくて別の男で一つ置いて隣の部屋のドアーを開けて中に消えた。すれ違いざま男は不審な目で清美をちらっと見た。清美はなおも待ち続けた。
次郎がようやく戻ってきたのは十二時過ぎだった。
「もうっ、どこに行ってたの? あたしずっとここで待ってたんだからぁ」
清美は甘い声でなじった。
「別に待ってろと頼んでないよ」
「その言い方、恋人に対して冷たくない?」
「いいから入れよ」
次郎の部屋は少し散らかっていたが一人暮らしの男の住まいとしてはまあまあだと思った。
「じろじろ見てないでそこに座れよ」
言葉遣いは以前より横柄だが我慢した。清美は畳の上に座った。次郎はコーヒーを淹れたマグカップを二つ持って清美の前に座った。
「電話もメールもずっと無視するつもり?」
「ああ」
「どうして無視するのよぉ」
「結婚したくない、子供を欲しがらない女とは付き合う気はないから」
「お友達じゃダメ? お友達以上恋人未満とか」
「ダメだ」
「意地悪ねぇ。普通の男性だったら、後腐れなくセックスしてくれる女性なんてよだれが出るんじゃないの」
「助平な野郎ならな。清美はそんな男を捜せよ。俺は……俺でもいいから結婚して俺の子供を産んでくれる女を捜すことにしたよ。だからさ、別れてくれよ」
「あたし、次郎さんでなきゃダメなんだ」
「一回しかしてないのに?」
「この前初めて次郎さんに抱いてもらってあんなにいい思いしたの初めてなのよ。女の幸せって言うのかなぁ。あたしどうにかなりそうに気持ちが良かったよ」
「結婚はしない、子供も欲しくない女とは付き合わないよ。結婚してくれる女性を探す邪魔になるから。女だって今付き合ってる別の女がいる男と付き合うなんて考えられないだろ?」
「バカねぇ、世の中じゃ不倫してる男や女はすごく多いよ。あたしたちはお互いに独身だから不倫じゃないし」
清美はなんで次郎とこんな話をしなきゃならないんだろとすっかり落ち込んでしまった。しばらく二人とも黙って冷めたコーヒーを啜った。
「次郎さんの子供、一人だけ産むからって言ったらこれからも付き合ってくれる?」
「一人っ子じゃ淋しくないか? 俺は最低二人は産んで欲しいな。結婚の話は子供が出来てしまった後で考えてくれてもいいよ」
「どうしても一人じゃ嫌?」
「ああ、イヤだね」
清美はもうどうでもいいと言う気持ちにさせられた。やはり恋心が強ければ抗えないのだ。
「あたし、次郎さんに降参する。ねぇ、今夜抱いてぇ、いいでしょ」
次郎は困った。それでも先日の快感が脳裏に蘇ってきて、
「俺の部屋じゃ気分が……出ないだろ? これから出ないか?」
次郎は着替えて清美と共にアパートを出た。二人でぶらぶらと駅に向かって歩いた。次郎は清美と恋人つなぎをして歩いた。もう午前一時近くで殆ど人の往来がなかった。
次郎は駅の近くのWGと言うビジネスホテルのエントランスを潜るとフロントで、
「今から泊まれる部屋空いてませんか?」
と聞いた。
「はい。明朝七時までのサービスタイムならタイプCのお部屋が一部屋ありますが」
「それで結構です。料金は前払いですか?」
「明朝チェックアウト時で結構です」
次郎はルームキーを受け取ると清美をエスコートして部屋に入った。部屋に入ると清美は次郎に抱きついて次郎の唇を吸った。もう我慢の限界と言う様子で清美の身体は次郎から離れない。
「シャワー、先に使うか?」
「次郎さんが先にして。あたし待ってるのイヤだからぁ」
次郎が備え付けの部屋着に着替えてテレビを見て待っていると清美が出て来た。二人は無言でベッドに潜り込み、次郎が明かりを消した。今夜は初めての時よりももっと清美は燃えた。やがて少し大きな声を出してから清美は震えていた。次郎より先に果てたようだ。次郎は中出しせずにゆっくりと清美の身体から離れた、二人はそのまま朝まで抱き合って眠った。
翌朝目が覚めると七時を少し回っていた。次郎は清美を先に帰らせて会計を済ますと自分のアパートに戻って来た。時間オーバーの追加料金は取られなかった。
アパートの前で携帯が鳴った。
「次郎さんありがとう。とても幸せでした♡♡♡ 清美」
次郎は読んでから携帯を閉じた。返信はしなかった。
一週間は直ぐに過ぎた。清美はあの夜次郎に降参すると言ったことを後悔した。あの場ではそう言わないと次郎が離れて行ってしまうと思い、焦燥感から白旗を揚げてしまったが、落ち着いて考えてみるとどうしても子育てはしたくないし今の仕事を失いたくなかった。エアロビックスのトレーナーなんてなり手が多く、一度離職してしまえば同じ条件で再就職できる保証はないのだ。つまりよく言われる[代わりはなんぼでも居るから]と言われてしまえば一巻の終わりだ。それで当分の間次郎に逢う時はウソをつこうと思った。
子供を産んでもいいとウソをついてその後何度かデートを重ねその都度次郎に抱いてもらったが、ウソをついている後ろめたさが邪魔をして清美は最初の時ほど燃え上がれず不完全燃焼が続いていた。男と女の仲の微妙な気持ちのもつれ合いは恐らく自分が本当に次郎を愛して結婚と子育てする覚悟をしなければ解けないだろうと清美は悟った。
第二十六章 最後のデート
「次郎さん、お元気ですか? お願い、今度温泉一泊旅行に連れて行ってください」
しばらく次郎の携帯に電話もメールもしてこなかった清美から珍しくメールが届いた。
「いいよ。日が決まったら連絡してよ」
次郎はしばらく清美と肌を合わせなくなって正直清美の肌が恋しくなっていた。自分でも不思議に思うが何度も清美と交わってきたため今まで気付かなかった次郎の中の性欲が目覚めてしまったのだ。それで清美の希望を直ぐに了承した。
清美は妊娠し難い安全日を選んで次郎に旅行の予定日を連絡した。次郎から連絡があり、
「新潟県の大湯温泉にしよう。千年以上も続いている温泉地で良い所だと思う。良かったら予約をしておく」
清美はお任せしますと直ぐに返信した。
最初のドライブの時と同様に朝清美を拾うと圏央道に乗り鶴ヶ島ジャンクションから関越自動車道を新潟目指して走った。十月は雨が多いがその日は運良く快晴で右手に赤城山を見ながら走ると間もなく谷川連峰の山々が綺麗に見えてきた。上の方は冠雪していて裾野の紅葉が引き立ちとても綺麗に見えた。
「素敵な風景ね」
清美はずっと車窓から遠くの景色を見入っていたが右手は次郎の太ももに伸びて先ほどからしきりと次郎の性感を刺激している。次郎は運転に集中してされるままにしていた。
谷川岳パーキングの所から長いトンネルに入った。
「すごく長いわね。わたしここを通ったの初めて」
「全長十一キロと書いてあったな。日本で一番長いトンネルだってさ」
トンネルを出ると、前方日本海に向かって雄大な景色が広がっていた。湯沢温泉を過ぎ、六日町を過ぎて次郎は小出ICで高速道を降りた。小出交差点を右折して国道三五二号線を十五キロほど走ると大湯温泉郷に入った。予約しておいたM旅館は直ぐに見付かったが時間が十二時を回っていたので弁当屋を見付けて弁当と飲み物を買うと元の国道に出て奥只見湖に向かった。この辺りから周囲の紅葉が一層綺麗になり清美は喜んだ。
公園で弁当を食べると次郎は遊覧船の切符を買ってきた。
尾瀬口乗船場から小さな遊覧船に乗った。湖を囲むように迫る周囲の山々は紅葉で燃えているように見える絶景が続いた。清美は今夜次郎にお別れを言おうと心に決めて出て来たのだが、こうして次郎と一緒に居ると、いっそのこと結婚して次郎の子供を育てようかとまた心が揺れ出した。
「次郎さんお願い、わたしを揺らさないで」
と心の中で呟いていると見ている景色がぼやけてきて、清美の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
「清美、寒いのか?」
次郎は上着を脱ぐと清美の肩にかけた。次郎に優しくされると別れを告げようと突っ張ってきた心が折れてしまいそうになる。世の中では結婚しない女などと揶揄される人がいるが、多分結婚を諦めて仕事を取った女性の多くは自分と同じ苦悩を乗り越えてきたのだろうと清美は思った。周囲から見えていないかも知れないが、それぞれ恋人との間で人には言えない葛藤があるのだろうと思った。
元の船着き場に戻った遊覧船を下りると、二人は元来た道を戻り大湯温泉のM旅館に入った。予約してあったので直ぐに部屋に通された。次郎は貸し切りの露天風呂を予約しておいた。それで一服すると、
「晩飯の前に風呂に入ろうか」
と清美を誘った。
「はい」
清美は無口になっていた。黙って次郎と一緒に露天風呂に入って湯船の中で次郎の逞しい腕に抱かれているとまた涙が出て来た。
夕食は美味しかった。食事が終わって隣室を見ると既に布団が延べられていた。今までだと清美の方から積極的に次郎の唇を吸ったが、今夜は何もせずに突っ立っていた。すると次郎がひょいと抱き上げ隣室の布団の上に清美を横たえた。清美は我に返って次郎の首に腕を回して次郎を引き寄せた。
明かりを消して次郎は清美の浴衣を脱がせ自分も裸になって抱きしめた。
「好きだよ」
耳元で囁く次郎の[好きだ]と言う言葉を清美は初めて聞かされた。今まで好きになってくれているのは分かっていたが実際に次郎の口から言われたことがなかった。
清美は今夜は安全日だと思って次郎に初めて抱いてもらった時のように結婚や子育ての煩わしさを頭の中から追い払って次郎を求め燃えた。がっりしとした大きな次郎に後ろから抱きすくめられて挿し貫かれていると幸せな気分で満たされ性の喜びに陶酔できた。
次郎の激しい愛撫に清美は鳴かされ、ついに絶頂に登り詰めて果てたが次郎も同時に果てたようで自分の中の奥深くに次郎の精液が満たされたように感じていた。
愛の営みが終わって、二人は抱き合ってそのまま眠った。結局朝目覚めるまで清美は次郎に別れの言葉を言えなかった。
翌朝目が覚めると、時刻は八時を回っていた。次郎はまだ眠っている。清美は次郎の寝顔を見ながら別れを告げようかまだ迷っていた。相性が良くてこんなに愛されてるのにと思うと複雑な気持ちになってしまうのだ。
一時間も過ぎて次郎は目覚めた。
「一緒に風呂に行かないか?」
「いいわよ」
貸し切り風呂に入って、湯船に浸かって次郎はあぐらをかいた上に清美の身体を乗せて抱きしめた。こうしていると言葉なんて要らない。外の景色を見ながら清美はじっとしていた。やがて次郎の両手が清美のふくよかな乳房をもみしだき始めた。
「朝からダメよぉ……」
と言いつつも清美の気持ちは次第に高ぶって、向きを変えて次郎の唇を吸った。すると次郎の大きくなったものが清美のそこにするっと入って来た。清美はもうダメだと思った。溶かされそうと言う表現の通り、本能に従って清美は次郎の愛撫に応えた。
風呂からあがって、清美は再び布団の上に横たわりぐったりしていた。そんな清美に次郎は毛布をかけてやり黙って部屋を出て行った。次郎の後ろ姿をぼんやり見ながら清美の目尻から一筋の涙がしたたり落ちた。清美は[別れましょう]とどうしても言い出せなかった。
「朝飯、どうする?」
「いただくわ」
次郎はフロントに朝食を頼んだ。食事が届いて、向かい合って朝食を食べたが清美は元気がなかった。次郎は食べ終わると、
「帰り支度を済ませておいてくれ。ちょっとその辺を散歩してくる」
そう言って部屋を出て行った。
次郎が戻ると支度を調えた清美が窓から外を見ていた。
「次郎さん」
「どうかしたのか?」
「ううん、何でもない」
チェックアウトを済ませて二人は小出ICから関越自動車道に乗り、午後相模原に戻ってきた。清美は最後まで別れ話を持ち出せず走り去っていく次郎が乗ったレンタカーを見送った。
第二十七章 別れと悲しみ
次郎の車を見送ってから清美はマンションの部屋に戻ると次郎を諦めるか仕事を諦めるか悩み苦しんだ。世の中では子育てと仕事が両立するように支援するとか何とか言われているが、言うほど簡単じゃない。それで今の自分と同じような境遇で悩んでいる女性は日本中できっと大勢いるんじゃないかと思った。
考えていても解決するわけじゃない。清美は意を決して次郎にメールを書いた。書いては消し書いては消し気持ちをどう伝えようか苦しんでいる間に夜が明けてしまった。
「次郎さん、ごめんなさい。わたしはやはり子育ては無理。今までウソをついててごめんなさい。あなたに逢うと愛されて抱かれたい気持ちに揺れてまたウソをつき続けると思うの。なのでもう逢わないと約束をして下さい。さようなら」
清美はもっと色々心の内を書きたかったがこのメールを送信してからベッドの上でうずくまって眠った。
別れのメールを送ってから一週間を過ぎても十日を過ぎても次郎から返信は届かなかった。多分次郎も自分の仕打ちにショックを受けているのだろうと思うとほんとうに済まないことをしたと思った。
次郎は清美から別れのメールを受け取って内容を読むと即削除した。むしゃくしゃする気持ちをぶつけるところがなく、そうしたのかも知れない。それ以来次郎は清美を忘れる努力を続けていた。部下の河野は清美の仲間の一番若い子とあれ以来付き合っていると言っていたからもしかすると清美と自分の関係が河野に筒抜けになっている可能性はあったが次郎はそんなことを気にしなかった。最初は清美と別れて辛い思いをしていたが一ヶ月も過ぎると次第に過去の思い出になりつつあった。
「もう清美に逢わないようにしよう」
次郎がそう心に誓ったのは清美と別れて一月以上過ぎてからだ。肌で愛し合った清美を完全に忘れるのは無理だ。だが逢いたい気持ちを抑え我慢ができるようになった。仕事と会社の周囲の人間関係に集中すれば、男でも女でも恋人を想う気持ちを抑えることができる。なので、ここのとこ次郎は毎日、いやあれ以来休日出勤もして仕事に打ち込んでいた。
次郎と最後のデートをしてから二ヶ月を過ぎても生理が来ないため清美は念のためと思って産婦人科を訪れた。
「磯崎清美さぁーんっ」
病院で呼び出され診察室に入ると、温厚そうな年配の女医さんが応対してくれた。
「磯崎さん、ご懐妊されてるわ。おめでとうと言ってもいいのかしら?」
医師の最後の言い方は多分色々なケースを経験していて相手の気持ちを考えて慎重に言ったのだと清美は思った。医師が思った通り清美の口から、
「先生、お腹に出来た赤ちゃん、堕ろしたいのですが」
と言うと、
「一応堕ろしたい理由を聞かせて下さい。理由もなく手術しますと先生が刑務所に入れられてしまうのよ」
と医師は微笑んだ。
「経済的に無理って言う理由でもいいのですか?」
「つまりお子さんをお産みになられても育てられないってことね」
「はい。あたし安全日をちゃんと確かめて彼とセックスしたんですが、先生安全日でも出来ちゃうことあるんですか?」
「誰が安全日だなんて言い出したのか知りませんが、一般に安全日と言われている期間は妊娠し難いだけで妊娠する場合も結構あるのよ。なので安全じゃないのよ」
「そうなんですかぁ」
「あなたの場合なら大丈夫よ。日本じゃ年間二十万人以上の女性が中絶手術をされてますが、堕ろしたご経験がある方は大体女性の五人に一人くらいかしら、その六割以上の方があなたのような経済的理由なのよ」
「じゃ、先生手術をお願いします」
「分かったわ。後ほど書類をお持ちしますから必要事項を記入して受付に提出して下さいね。手術の日は、そうねぇ、三日後でどうかしら。あなたの場合お仕事がお仕事だけに手術後直ぐにお仕事は絶対にしちゃだめですよ。一週間は安静に過ごしてからになさい。なので会社に土日を入れて九日間休暇をお願いして下さいね」
「あのう、どれ位のお金が必要ですか?」
「十万円あれば少しおつりがある程度かしら。あなたの場合は八週目なので入院は必要ないから追加の費用は多分必要ないわね」
「先生、ありがとうございました。よろしくお願いします」
「あっ、言い忘れましたけど、あなた未婚でいらっしゃって中絶は初めてでしょ?」
「はい」
「誰のお子さんか分かっていらっしゃるのよね」
「はい」
「その方に中絶のお話をなさるおつもり?」
「いいえ、絶対に言いません」
「そう。あなたのようなケース、あたし何度も経験してますの。一番大切なことって何かお分かり?」
「手術後の身体の養生ですよね」
「もちろんそれも大切よね。でも一番大切なことはあなたご自身のお気持ちよ。中絶された多くの女性の中には大切な赤ちゃんを自分が殺してしまったなんてご自分を責めてノイローゼになる方多いのよ。あなたがそうだとは申しませんけどね、退院なさったら気晴らしなさって絶対に後悔したり悩んだりなさらないようにして下さいね。お約束できますか?」
「はい。約束します」
「ではお大事にね。手術の日は注意事項を守っていらっしゃい。またお会いしましょう」
清美は経験のある良い女医さんに巡り会えて良かったと思った。
第二十八章 鈴木世之介
神奈川県の北部丹沢山脈の麓に愛甲郡愛川町半原と呼ばれる所がある。この地は一九六十年頃までは着物や洋服を縫う縫製用絹糸(撚糸)の生産が盛んで全国でも有数の産地であった。農家の出であった鈴木世之介は若い頃から撚糸工場に勤めていたが、その後絹糸は化繊に押され更に一九七十年代以降安価な輸入撚糸が海外から入ってきて半原の撚糸工業は衰退の道を辿ることになった。世之介が勤めていた工場も一九六八年に倒産、仕方なく別の工場に移り、父親の代から預かった土地に農作物を栽培して収入を補っていた。そんな時新しく勤め始めた工場で知り合った牟礼千代と言う女性と恋仲になり結婚、間もなく長女が誕生した。世之介は長女を昌代と名付け可愛がって育てたが、昌代が二歳になった時次女が誕生、真美と名付けた。妻千代の実家は愛川町から少し離れた山梨県都留市の農家で裕福ではなかった。千代は世之介と結婚後農作物の栽培を手伝い子育てしながら良く働いた。真美が三歳になったとき待ちに待った長男が誕生、啓介と名付けた。こうして世之介の家族五人と世之介の両親を合わせて一家七人睦まじく暮らした。
長女の昌代は地元の小学校、中学校と進み、愛川町にある県立高校に通った。高校を卒業すると大学へは進まず町にある大手の工作機械製造会社に就職、運良く事務の仕事が中心の総務部に配属された。昌代は母親の千代に似て働き者で、会社の休日は友達と遊ばず父親の農作業を手伝い家計を支えた。昌代の働きもあって、妹の真美と弟の啓介は大学に進んだ。真美は地元の相模女子大の栄養科学部に進み卒業後地元で中規模の食品スーパーを展開している三輪と言う会社の相模原本部に入社し、食品の安全管理に関わる仕事に携わっている。啓介は子供の頃から昌代に可愛がられ勉強を見てもらっていたので学校の成績が良く地元の南里大学の医学部に進みまだ在学中で将来大学病院に残り医者として頑張りたいと言っている。真美と啓介を大学に通わせるのに学費の次に負担が大きかったのは交通費だ。半原から相模原に出るにはバスしかない、通う時間は一時間半もかかる。だが、千代は相模原に下宿させないで二人とも家から通わせた。定期代は月々二万六千五百円、二人分で毎月の交通費が五万三千円もかかるが、親子七人の世帯では家から通わせた方が下宿させるより経済的だと考えたのだ。子供の頃から父母の苦労を見て育ったから、真美も啓介も文句を言わずに両親の考えに従った。
昌代は機械メーカーの総務部勤めで仕事は地味だ。昌代は毎日始業時間の八時半前に出勤し、上司のお茶くみを終わると溜まった書類の整理を始めた。各職場に配布する書類のコピーや役所に届ける書類の整理は昌代の主な仕事だった。
「鈴木君、午後一番で来客があると営業から連絡があったから応接室を綺麗にしておいてくれ」
係長の指示に従って昌代は書類の片付けが一段落してから応接室の整理にとりかかった。テーブルを拭き終わると花瓶の花を新しいのと取り替えた。花は工場の裏に作られた小さな花壇から適当に取ってくるのだ。今日は百日草が綺麗だったので数本鋏で切ってきた生けた。
午後予定通り客が営業課員と一緒に到着した。予定表を見ると来客名に東西プレス工業鷺沼様他一名となっていた。鷺沼と言う苗字はこの辺りでは珍しい。それで昌代はなんとなく記憶に留めた。
来客があったときお茶を出すのは総務部の昌代の仕事の一つだ。昌代はお茶を三つお盆に載せて応接室に入った。昌代の母、千代は何故か作法に厳しかった。昌代は子供の頃から躾けられていたからお茶を出す時の作法の基本は身についていた。お茶を出すのはお客様が先社員は後、テーブルの着席位置から客の上下を見定めるなどは当たり前だが、子供の頃教えられた通り客の右側後方から両手で茶托を支え小さな声で、
「どうぞ」
と言って茶碗の絵柄がお客の正面になるように気を付けながら茶を出した。最初は鷺沼だと思われる自分より少し年上の青年に茶を出した。
「どうぞ」
と言う小声にその客は、
「ありがとう」
と答えた。お茶を出した時礼を言われるのはまれだ。それで昌代はちょっと相手の顔に視線を向けるとこともあろうか視線が合ってしまった。昌代は動揺していた。それで次の客にお茶を出す時ほんの少しだが茶を茶托の中にこぼしてしまった。昌代はこんな不始末は初めてだ。咄嗟に、
「大変失礼いたしました」
と詫びて脇のテーブルに置いた盆の新しい茶と取り替え、社員の分はお茶くみ場に行って淹れ直してきた。
ほんのちょっとした不始末で社員に小言を言われるようなことではなかったが、昌代は客が退出した後も一日中その出来事を心の中で引きずっていた。思い出して見ると、あの鷺沼と言うお客様に何か心が引っかかっていた。
第二十九章 昌代の恋心
お昼休み、昌代は上司の係長に、
「東西プレス工業ってどんな会社ですか?」
と聞いて見た。
「あの会社は相模原に大きな工場があって主に自動車部品を生産してるんだ。今は好調らしいよ。うちの工作機械を使ってもらってるから大事なお客様だよ」
「相模原はここの愛川のお隣だから近いですね」
「突然に……何かあるのか?」
昌代は心の内を探られそうで落ち着かなかった。
「いえ、別に。この前お客様がお見えになってましたからどんな会社かなぁと思いまして」
「そう言うことか。鈴木さんは仕事熱心だね」
ある男性がちょっといい感じだなと思ってもきっかけがなければそう簡単には近付くことはできない。だから昌代も日にちが経つにつれて次第に鷺沼の印象が遠くに行ってしまったように思った。昌代は高校を出て直ぐに入ったこの会社にもう七年も在籍していてそろそろ気が合う男性を見付けて結婚を前提に付き合ってみたいと思っていたが、まだチャンスはなかった。会社の社員の中にも感じが良い人は何人もいるが、それとて個人的に知り合える機会はなかなかない。
「お姉ちゃん、大事なプリントを忘れて来たの。学校に届けてくれない?」
週末土曜日に妹の真美からだった。真美は時々忘れ物をして届けてくれと気安く頼んでくるのだ。可愛い妹に頼まれるといつも昌代は断れなかった。午前中は掃除洗濯をして丁度一段落したところだ。昌代はたまには町田の街に出て自分の洋服を探そうかななどと思ったからまんざら嫌ではなかった。町田は大きな街でデパートやファッションの専門店が沢山ある。昌代はバスで厚木に出てそこから小田急線に乗り換えて真美の学校がある相模大野で降りた。大学までは歩いて十分くらいだ。
校門で真美は待っていた。
「お姉ちゃん、ありがとう。もしかして町田に寄るの?」
昌代の行動は真美に見え見えだ。
「当りっ、お洋服探そうかななんて」
「じゃ、悪いけど三十分くらい待っててくれない? あたしも一緒に行きたい」
昌代は駅前のMIデパートで待ってるからと約束して真美と別れた。昌代は真美の目的が分かっていた。多分一緒に洋服を買ってくれとおねだりするに決まっているのだ。
三十分を少し過ぎた頃携帯に真美から連絡が入った。
「今学校を出た。待たせてごめんね」
「急がなくていいから気を付けていらっしゃいよ」
姉妹二人揃って隣駅の町田で降りた。昌代は最近くたびれてきた通勤用のパンプスを買った。真美に案の定ファッション専門店回りに付き合わされて真美のブラウスを買わされてしまった。月給取りの姉としてはこれくらい仕方がない。母に、
「今日は真美と町田に来たから夕食はこっちで適当に済ますから」
と電話を入れた。
「気を付けて帰ってらっしゃい」
二人は駅近くのパスタ屋さんに入ってパスタとピザを注文して食べた。丁度向かい側の席で先日見かけた東西プレス工業の鷺沼と言う男性がこちら向きに座ってパスタを食べていた。目が合うと男性は昌代に軽く会釈した。昌代の心臓はドキドキして、思わず視線を逸らせた。と、
「お待たせ」
と言って綺麗な女性が鷺沼のテーブルに近付き、鷺沼の向かい側に座った。昌代の方からは女性の顔は見えないが二人は親しげに話し合っている。ドキドキしていた昌代の心臓は凍り付いてしまった。
「あんな綺麗な彼女が居るんだ。そうよね、いない方が可笑しいかも。もしかして奥さんかなぁ」
「お姉ちゃん、お姉ちゃんってば何考え事してるの?」
昌代ははっと我にかえった。
「何でもないよ。ちょっと考え事しちゃってた」
家に戻ってからも昌代は夕方町田で見た光景が蘇って気持ちが沈んだ。昌代の中に僅かに芽生え始めた恋心が水遣りを切らした草花のようにしおれてしまった。昌代の恋心はまだ育っていなかったのが幸いしてそれほど大きなショックにはならなかったが、生まれて初めて男性に一目惚れしたことが早くも挫かれてしまって、恐らく昌代の心の傷となって長い間残るだろう。
第三十章 その後の次郎
次郎の元恋人清美は次郎の子供を堕ろしてもう二ヶ月も経ってしまった。清美は次郎の子供を授かって勝手に堕ろしてしまったことを絶対に次郎に漏らさないと心に誓ったから二ヶ月を過ぎるまで次郎に話はしなかった。だが秘密は漏れるものだ。十日近くも休暇を取った理由を酔ったはずみについ口を滑らせて次郎の部下河野と付き合っている一番年が若い平林香麻里に子供を堕ろしたと話してしまった。清美が堕ろした赤ちゃんと言えば恋人河野の上司の次郎の子供だ。清美はどうやら次郎さんにはそのことを言ってないらしい。それを香麻里は河野に話してしまった。そんな大事な話が河野の口から次郎に伝わらないはずがない。結局次郎は河野から自分に関わる大事な話を聞かされた。
「僕の話を聞いた時の次郎さんの怒った顔に僕はビビッたよ。あんな怖い顔、入社して初めてだよ」
と河野は恋人にその時の様子を話した。
自分の大切な二世を勝手に堕ろしてしまった清美を次郎は許せなかった。だが済んだことについて会って面と向かってなじっても仕方がない。それで次郎はこれから先絶対に清美には会わないと心に決めた。
あれから一ヶ月ほど過ぎて河野が、
「次郎さんに頼めるような話じゃないですけど、最近香麻里とケンカしちゃってさぁ、香麻里の機嫌がむちゃくちゃ悪くてどうにもならないっす。次郎さん助けて下さい。お願いしますっ」
と頭を下げた。次郎はどう応じたものか考えていた。すると、
「おまえなぁ、そう言う話は次郎さんに頼まないで自分で解決しろよ」
と田辺が遮った。
「僕もそう思ったんだけどさ、香麻里が次郎さんに会わせてくれたら考えてもいいって言うんだ」
「困った彼女だなぁ」
田辺も妙案が思いつかない表情だ。
「分かった。じゃ次の土曜日、俺が会って話してみるよ」
次郎が河野の困り顔を見た。河野は、
「先輩、すみません」
と頭を下げた。
「ところでさ、なんでそんな大喧嘩したんだ?」
「僕が悪いんです」
「それじゃ説明になってねぇよ」
「実は僕、魔が差したと言うか、香麻里のスカートの中に手を入れちゃったんです。そうしたら香麻里が『肇さん、結婚してないのにダメ』って僕の手を抓ったから、男心も分からない女なんか嫌いだって言ったらそれから口もきいてくれなくて、色々言い合って遂に彼女から『別れましょ』って……」
「馬鹿なやつだなぁ。俺も男兄弟で育ったから女の気持ちなんて分からんけどよぉ、でもさ、この場合はお前が悪いな。その時悪かったとお前の方から謝ればそれで済んだんじゃねぇのか? 男心ってかお前の助平心なんてさ、香麻里さんはちゃんと分かってるさ」
「そうかなぁ」
「アホかぁ。香麻里さんはお前より賢いぜ」
次郎は香麻里に連絡をして土曜日に町田で待ち合わせる予定にした。当日町田のパスタ屋で香麻里を待っていると丁度前の席に姉妹と思われる女性が来て座った。手持ち無沙汰で何となく見ると先日工作機械メーカーで会った女性だと分かり軽く会釈した。お茶を出してくれた時の応対ぶりを見て何となくいい感じの女性だと思っていたから、こんなところで偶然に出会うなんて縁があるのかなぁなんてことを考えている時に平林香麻里が来た。
「お待たせ」
「呼び出してごめん」
「冗談で言ったのにちゃんと会って下さってありがとう」
「ケンカした話、肇から聞いてるよ」
「喧嘩だなんて、彼は分かってないわね。あたしは喧嘩でなくて冷静に話し合いたかったのにぃ」
「俺も香麻里さんは多分そうだと思ったよ。肇が自分は間違ってたと心から謝ったら許してやったんだろ?」
「もちろん許してあげたわよ。でも彼って謝らないから強硬手段取ったのよ」
と香麻里は笑った。
「大分参ってるようだったな。すっかり落ち込んじゃってさ」
「いいの。ちゃんと反省してくれなくちゃあたし嫌だもん」
「だよね」
「それで次郎さんに頼んだんだ」
「ん。俺は気が進まなかったけどさ、肇をこのままほっとけないからさぁ。香麻里さんはまだ彼のこと好きなんだろ?」
「いちおう。結婚してあげてもいいって思ってたから。それよか次郎さん清美さんと別れたんですって?」
「聞いてるんだろ?」
「聞いたわ。あたし、清美さんがあんな方だとは今まで知らなかったわ。次郎さんの子供を堕ろしちゃうなんて信じられない」
「肇は子供が好きなやつだから大丈夫だよ。絶対に堕ろせなんて言わないよ」
「ってことは、次郎さんが清美さんに堕ろしてくれって言ったの?」
「バカ言えっ、俺はお腹に万一俺の子供が出来たら結婚して産んでくれって頼んだんだ。あの時は堕ろすも何も俺は清美が妊娠したなんて全然知らされていなかったから後から他人にそんな話を聞かされて本当に腹が立ったさ。もう清美とは絶対に付き合わないよ」
次郎のすごく怒った顔に香麻里は驚いた。どうやらカンカンに怒っている様子だ。
「あたしなら喜んで子供を産むよ。好きな人と愛し合ってできた子供ですもの堕ろしたりしたらバチが当たるわ」
「そうだよ。それが普通だと俺は思うね。俺は良くは分からないけどさ、女と男が好き合っていればお互いに恋人だよね。でもさ、結婚しても子供を作らなかったら恋人以上には絶対になれないって思うんだ。共働きしてて子育てできないからなんて理由で堕ろしちゃう人結構居るらしいけど、そんな人は本当の幸せが何かって分かってないような気がするね。男と女が愛し合ってつながってそれで生まれてくる子供はさ、恋人どうしが子供によって血がつながってさ、本当の家族が出来るんだと俺は思ってる」
「あたし、次郎さんみたいな人と結婚したいなぁ」
「おいっ、冗談はよせ。肇と仲直りしなかったら俺は許さないぞ」
次郎が真面目な顔で香麻里を叱りつけた。
「はい。仲直りします」
「あのさぁ、男ってやつは自分から仲直りを言い出すのって苦手なんだよな。だからさ、悪いけど、香麻里さんの方から電話して会ってやってよ。あいつ反省してっから大丈夫だよ」
「分かりました」
これでどうやら次郎はお役目を果たせたと思った。仲直りを約束したところで二人はパスタを食べた。
「ごちそうさまでした」
香麻里が去って行く後ろ姿を見て、
「肇のやつ、いい子と付き合ってるなぁ」
と次郎は呟いた。香麻里との話が終わってから先ほど偶然に出会った工作機械メーカーの女性に声をかけてみたいと思っていたが先に帰ってしまってチャンスを逃してしまった。
第三十一章 二度目の出会い
香麻里が次郎と別れてから、肇に香麻里からメールが入った。
「元気にしてるんでしょ? 逢ってあげてもいいよ」
肇はいそいそと香麻里に逢いにでかけ、どうやら仲直りしたようだった。会社に出勤した肇の顔色を見て肇は正直なやつだから次郎はすぐに上手く行ったのだと分かった。
その日次郎は上司から、
「先日機械メーカーと打ち合わせしてもらった案件だが、先方からうちの案を呑むと言ってきたよ。悪いけど最終の詰めを任すからこの前行ってもらったメーカーに出張してくれないか?」
「直ぐにですか?」
「ん。書類の整理があるだろうから、明日山田を連れて二人で行ってくれ」
山田と言うのは次郎の部下で最近田辺と河野に加えて飲み会の仲間に入れてやった奴だ。
「おい山田、明日朝から愛川の機会メーカーに出張だ。お前も一緒に来い」
「次郎さん、僕が持って行くものありますか?」
「手ぶらでついてくるだけでいいよ。仕事を覚えるためだからさ」
翌日次郎は出がけに自分の携帯の番号を書いたメモ用紙をズボンのポケットに押し込んだ。その日の仕事は前回仕様の詰めをやったので最終取引価格の最後の詰めだ。次郎の会社で設備更新を予定している工作機械は十台、一台一千万円と少しだから十台だと購入価格は一億円を超える大型商談で次郎の責任は重い。単価が十万円違うと百万円もの差がでるから詰めの作業は厳しい。
メーカーを訪問すると、先日の営業担当の社員が案内して応接室に通された。次郎は多分この前町田で会った女子社員がお茶を出してくるものと思っていた。だが、
「失礼します」
と言って応接に入って来た女性は別人だった。次郎はちょっとがっかりしたが、そんなことを顔にも出さず仕事の打ち合わせを進めた。
金額がでかいので会議はお互いの腹の探り合いだ。激しい遣り取りの末ようやく両者納得したら丁度お昼になっていた。
「ありがとうございました。これで私共も後は仕様通りの製品を納期通り納めさせて頂くばかりとなり肩の荷が下りました」
営業担当社員はハンカチで額の汗を拭った。
「こちらも大役を果たせてほっとしました。では納期の方はよろしくお願いします」
次郎と部下の山田が立ち上がると、
「今日が最後のお打ち合わせでしたので、お時間を頂いて昼食を是非ご一緒させて下さい。社の車を玄関に着けてありますのでどうぞ近くまでお供させて下さい」
要は接待として昼飯を食って行って欲しいと言っているのだ。次郎は昼飯くらいご馳走になってもいいだろうと思って、
「お前も一緒に来い」
と山田も一緒に玄関前に停まっている車に乗り込んだ。前の助手席に営業社員が乗り込み発車した。後ろからもう一台車が後を追ってきたのを次郎も山田も気付かなかった。
次郎たちが乗った車は市街地から離れて中津川に沿って山の方に走った。やがて車は大進館と看板が出ている大きな和食店の玄関に乗り入れた。
既に予約してあるらしく、到着すると直ぐにテーブルに案内された。テーブルには五人分の席が用意されていた。年配の女性が持って来たメニューを見ると、懐石料理が中心のメニューが揃っていた。次郎と山田の前は空席で空席の横に営業社員は座った。
「ビールでいいですか?」
と聞かれて、
「午後仕事ですから止めときます」
と次郎は遠慮した。営業社員は店の女性に、
「熱いお茶を五つ」
と言った。そこに若い女性が二人、
「遅くなりました」
と次郎たちの所にやってきた。見ると午前中お茶を出してくれた女性社員ともう一人先日町田で偶然出会った女性だった。二人は揃って次郎と山田の前に座り、
「前にお目にかかりましたわね。私は鈴木と申します。お隣の方は館林と申します。よろしくお願い致します」
二人揃って頭を下げた。
「二人とも総務部なんですよ。いきなりですがお二人とも現在花婿募集中、だったよね」
と営業社員の高橋は二人の顔を見た。確かにいきなりだ。二人は恥ずかしそうな顔をした。すると鈴木が、
「お飲み物はお茶でよろしいのですか?」
と聞いた。次郎は、
「紹介されましたからこちらも。自分は鷺沼、こっちは山田です。よろしく。午後会社に戻って仕事をしますからお茶で結構です」
と答えた。料理が運ばれてきて、
「どうぞ。お茶で乾杯なんて初めてですが、これからも良いお付き合いをお願いして乾杯」
と言う高橋の合図で皆が食べ始めた。食事が大方終わってデザートになった時、次郎は高橋相手に雑談を始めた。山田は自分の前に居る館林と話が合う様子で既に雑談を始めていた。
「高橋さんはお子様は?」
「娘が一人です」
「可愛いんでしょうね」
「親ばかと良く言われますよ」
と高橋は鈴木の方を見て笑った。
「鷺沼さんはお子様は? あっ、お客様ですから鷺沼様と言うべきですよね」
「堅苦しいのは嫌いです。鷺沼さんでいいですよ。僕はまだです。いい年して独身ですから」
「いい年だなんて、まだお若いでしょ? 最近は四十になっても独身なんて男がごろごろいますよ」
と高橋は笑った。
「山田さんも独身ですか?」
と高橋は山田に振った。先ほどから館林と話し込んでいた山田は、
「先輩がまだですから、僕なんて」
と照れ笑いした。
「突っ込んだ話で済みません。花婿募集中の女性がいますから、鷺沼さんは意中の女性、いらっしゃいますよね」
「今はいません。以前付き合っていた女性が居ましたが、これから先も独身でいたいと言われて別れました」
高橋はまずいことを聞いてしまったと後悔している様子だ。
「気にしないで下さい。もう過去の話ですから。実は先日部下が彼女と大喧嘩しまして、僕がなだめ役をやらされたんですが、女性の気持ちを理解するのって苦手です」
と次郎は笑った。鈴木は高橋と鷺沼の話をじっと聞いていた。もしかして先日町田で話し合っていた女性は後輩の彼女かしら? と想像したがとてもそんなことを聞けなかった。
時刻が一時半を過ぎてしまった。高橋は、
「そろそろお開きにしましょう。また機会がありましたら食事でもしましょう」
和食屋の玄関先まで見送ってくれた女性に昼食は楽しかったとお礼を言いながら、次郎はズボンのポケットからメモ用紙を出してそっと鈴木に手渡した。鈴木は次郎の意図を感じてか目立たないように受け取りポケットにしまった。
高橋は自分の会社の駐車場に停めた次郎が乗ってきた車の所まで送ってくれた。次郎は昼食の礼を言って高橋と別れた。
正直なところ、和食店の玄関前で鷺沼からメモを渡された時、昌代の胸はドキドキした。食事中の雑談で鷺沼は独身で今は彼女がいない様子だと分かり嬉しかった。
「ねぇ昌代、さっきお客様から渡されたもの何なの?」
目立たないようにしたつもりだが、館林美寿江は見落とさなかった。美寿江は昌代の一年後輩で実家が静岡県の富士宮なので会社の女子寮に入っている。だから変な噂が立とうものならあっと言う間に会社中に広がってしまう。
「何かしらねぇ」
昌代ははすっとぼけた。
「見せてよぉ」
「ダメよ」
「なんか妖しいな」
「そんなんじゃないよ。町田で会った時にお店を教えてって頼んでおいたのよ」
昌代はウソが下手だ。これ以上突っ込まれたら白状させられてしまう。それで急ぎの仕事があるからと逃げた。
帰宅後夜布団に潜り込んでから昌代はそっとメモを開いてみた。昌代の家族は小さな家に一家七人が同居していて自分の部屋がない。だから家族の間で秘密を作るのは難しい。そんなことは慣れてみればどうってことはないのだが、鷺沼のことは今は家族に知られたくなかった。万一妹の真美に見付かったら直ぐに母に知られてしまう。
第三十二章 鷺沼次郎との出会い
鷺沼から渡されたメモをそっと開くと携帯のメールアドレスが書いてあった。
「これでやっとあの人と連絡がとれる」
昌代が喜んだのもつかの間、携帯でメールを送信したらエラーで送れない。何度やってもアドレスの入力間違いを確かめても送れなかった。昌代はがっかりした。
お昼の会食のお相手をしてから、早いもので一ヶ月はあっと言う間に過ぎた。昌代は相変わらず月曜日から金曜日は会社で仕事、土曜日は掃除と洗濯が終わると父母のお手伝いで畑仕事、日曜日も殆ど一日畑仕事で終わる。こんな生活をしていたら男性との出会いなんて望めない。月に一度あるかないかの頻度で厚木や町田にでかける。それも大抵は真美の忘れ物届けついでだ。時々鷺沼のことを思い出すがどうしようもない。
鷺沼次郎は次郎でせっかくうまくメールのアドを伝えられたのにあれから鈴木と言う女性から何の連絡もない。メールくらいくれても良さそうなものだが、相手が自分に興味がないなら縁がなかったと諦めるしかないと思った。いつまでも鈴木のことを想っていても仕方がないので最近はあまり気にしないようにしていた。
その日、次郎は部下の河野肇と一緒に浜松の自動車メーカーに出張した。帰り道東名高速道が御殿場を過ぎたあたりから事故渋滞でのろのろになったので、松田ICで東名を降りて一般道の国道246号線を走った。運転は疲れたので河野に代わり会社への帰路を急いでいた。丁度愛甲石田を過ぎた時、飲食店の駐車場から出て来た車に河野が気付くのが一瞬遅れてブレーキが間に合わず相手の車の後部と接触事故を起こしてしまった。相手は修理代を払ってくれれば示談で済ますと言った。だが、次郎は後々を考えて110に通報した。河野には傷が付くが事故の因果関係をはっきりさせた方が河野のためにもなると思ったのだ。車は会社の業務用だし場合により休業補償など会社側の損害を相手に請求することだってあるのだ。そんな場合勝手に示談で済ませては言い訳がきかない。
直ぐにやってきたパトカーから警官が二人降りてきて現場検証をした上仲裁に入った。だが相手は、
「一方的にぶつけられたんで自分の方は全然悪くないです」
と言い張った。警官はこのような接触事故の場合普通は最初に通報してきた方が被害者のことが多いと経験上知っていたから、
「じゃ済まないが署まで来て下さい」
と相手と河野を管轄の厚木警察署に連れて行った。もちろん次郎も同行した。
「あんたなぁ、国道の制限速度は50kmなのは知ってるな」
「知ってますよ。それがどうかしたんですか?」
「左から接近してきた車がどの辺りを走っていたか覚えているか?」
「そりゃはっきり覚えてますよ」
「あんたが駐車場を出た時どれくらい離れてたかだよ?」
「100m以上ありましたよ。だから言ってるでしょ、あちらさんの前方不注意でブレーキを踏むのが遅れたんですよ。自分は被害者ですよ」
「じゃ、なんであんたが通報しなかったんだ?」
「面倒くさいからですよ。げんに今みたいに時間ばかりかかるでしょ。自分は忙しいですから早く結論出して下さいよ。修理代出してくれてらそれでいいですよ」
「仮に時速50kmで走っていたとして、こちらさんがあんたの車を見て停止するまでどれくらい距離が必要か知ってるのか?」
「70か80mでしょ。それくらい知ってますよ」
警官は少しむっとした。
「空走距離と制動距離を足した停止距離は約25mだぞ。空走距離は14mくらいだがな、仮に倍の30mだったとしても40mもあれば完全停止できるんだよ。あんたさっき100m以上あったと言ったな。それだったら多少ブレーキが遅れても絶対にぶつからんよ」
「100mでなくて50だったかも」
「あんた、いい加減なやつだなぁ。さっきは100以上だと言ったじゃないか」
「それがそんなに重要なんですか? あっちが一方的にぶつけといてひどいじゃないですか」
「現場検証の結果タイヤのスリップ痕を調べたら接触点から約23mだからあんたが走ってくる車を良く見てないで飛び出したとも言えるんだ。この場合はあんたの方が進路妨害で加害者になるんだぞ。幸い軽い接触事故で済んだがこれはなぁ、あちらさんが気付くのが早かったからだよ。空走距離と言うのはな、危険を感じてからブレーキを踏むまで走ってしまう距離のことだ。空走距離が倍あったと仮定してもだ、50mあれば停止できるがね、時速50kmで接近してくる車があるのに50mしかない距離で飛び出したら事故っても不思議じゃないんだよ。停止距離から逆算するとあちらさんは法定速度以内で接近しており、スピード違反はないね。今回はあんたの飛び出しが原因だ。あんたが加害者だよ」
相手は先ほどまでの勢いを挫かれて黙り込んでしまった。警官は神妙な顔をしている河野を見て、
「河野さんだな」
「はい」
「今回はあちらの飛び出しが原因の接触事故だが、あんたの前方不注意がゼロだったとは言えないから良く相談して示談にするなら示談にしてくれ」
「分かりました。会社に戻ってから総務部に報告後処理させて頂きます。ご迷惑をかけて済みませんでした」
河野が礼儀正しく挨拶したのを見て次郎は安心した。交通事故なんて誰にでも災難が降りかかる可能性がある。だから冷静に対応すれば必ず解決すると次郎は信じていたのが幸いしてうっかりしていると加害者扱いされるところが被害者になってしまってむしろ良かったと思った。
河野を慰めながら肩に手を回して警察署を出ようとしたら、
「失礼ですが、もしかして鷺沼さん?」
と後ろから呼び止められた。振り返ると前に昼食を一緒に食べた鈴木と言う女性だった。次郎は驚いた。
「鈴木さんは何でまたこんなところに?」
「運転免許の更新手続きにきましたの」
「そうでしたか? 今日は急いで社に戻らなくちゃなりませんから、あとでメールを下さい」
「あのう、何回もメールを送りましたけど届かなくて」
「えっ、そりゃおかしいな。じゃ電話番号教えます」
と次郎は自局番号を出して見せた。昌代は急いで自分の携帯に入力して、
「済みません。テストです」
と次郎に電話した。次郎の携帯の着信音を聞くと、
「ではのちほど」
と言って鈴木は立ち去った。
「先輩の知り合いですか?」
「ん。ま、そんなもんだ。余計な詮索をするなよ」
「分かってますよ」
二人は会社に戻ると浜松の自動車メーカーとの打ち合わせ結果と帰途に遭った事故の報告をした。
「二人とも身体は大丈夫なのか」
「ちょい触った程度ですから全然大丈夫です」
「なら僕の方で総務に報告しておく。あとは保険屋に任せておけばいいよ」
次郎は部下の河野の処分を恐れたがその心配は要らないようでほっとした。会社では交通違反の反則金や罰金は当事者個人が支払う規則になっているから、河野が反則金を負担するのはやむを得ないと思った。
翌日出がけに珍しく携帯が鳴った。鈴木からだった。
第三十三章 次郎との初デート
「これから出勤するところで今は時間がありません。すみませんが夜八時過ぎに電話を頂けませんか?」
「分かりました。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
鈴木の返事は丁寧で感じが良かった。
「思った通りだ」
と次郎は呟き会社に急いだ。
鷺沼と連絡ができるようになって昌代は嬉しくてお昼休みについ同僚で仲良しの館林美寿江に鷺沼のことを話してしまった。
「この前美寿江が聞いた鷺沼さんの電話番号分かったわよ」
「鷺沼さんて東西プレスのイケメンの人?」
「そう」
「ねぇ、あたしにも教えてよ」
「ダメよぉ、あなた山田さんと気が合ってたみたいじゃない」
「山田君ね、遊び相手なら話が面白いしいいんだけど、付き合うにはちょっと」
「あらどうして?」
「軽いのよ。あたしは鷺沼さんのような寡黙な感じの男の方がいいな」
昌代は穏やかでなかった。美寿江はちゃっかり屋でうかうかしてると鷺沼を横取りされてしまうのじゃないかと思った。
「実はあたし彼とデートを約束したのよ」
「うそっ、昌代は晩生だと思ってたのにぃ」
昌代はデートの約束なんてしてないが、ウソをついてしまった。
「お生憎さま。鷺沼さん、あたしの運命の人かもなんて思ってるのよ」
美寿江は突然昌代に告白されて面白くなかったし、自分の方が先にコネを付けなかったのを後悔した。
昌代はお昼の美寿江のことがあって待ちきれず夜八時きっかりに鷺沼に電話をした。
「もしもし、鷺沼です」
「今晩は。鈴木昌代です」
「時間、正確ですね」
「待ちきれなくて」
昌代は正直に自分の気持ちを伝えた。
「実は僕もなんですよ。あなたからの電話、待ってました」
次郎は俺と言わず自分のことを僕と言った。
「鷺沼さん、お休みの日ってお忙しいですか?」
「それってデートのこと?」
昌代ははっきり言われて心臓がドキドキしていた。
「はい」
「鈴木さんのご都合に合わせます」
「いいんですか? 今度の日曜日はいかがですか?」
「土日ならだいたい大丈夫です。今度の日曜日はもちろんOKです」
「じゃ鷺沼さんにお任せします。どこかへ連れて行って下さい」
「東京方面? それとも横浜方面? 近い所なら町田辺りでもいいですよ。ご希望ありますか?」
「わたし、遠くに行ったことないので、東京に連れてって欲しいです。ダメですか?」
「構いませんよ。電車でなくて車でもいいですか?」
「どちらでも構いません」
「じゃ、車でお迎えに行きます。どこまで行けばいいですか?」
急に具体的な話になって、昌代は殆ど舞い上がってしまった。
「この前ご一緒にお食事したお店、覚えていらっしやいます?」
「中津川沿いの?」
「はい。わたしは半原って所に住んでます。半原はご存じですか? あのお店までは5キロ程度で近いですからお店の前まで行ってお待ちします」
「じゃ、十時で……十時じゃ早すぎますか?」
「わたし早起きですから余裕です」
「じゃ、今度の日曜日十時にお店までお迎えに行きます」
「お願いします」
東京に出るなんて昌代は就活以来だ。なんだか遠足の予定ができたようでわくわくして来た。
日曜日、昌代はいつもより三十分も早く六時に目が覚めた。今日鷺沼に東京に連れて行ってもらうと思うと朝から落ち着かなかった。母の千代にはお友達と久しぶりに東京に遊びに行くと既にお許しをもらっていた。母は子供の頃から躾が厳しくて出かける時には必ず行く先と目的を言うのが習慣になっていた。だが昌代は男の人とデートだとは言わなかった。子供の頃は母にウソや秘密はなかったが、年を重ねるに従ってちょっとしたウソをつくようになってしまった。
昌代も女の子だ。出かけるのに何を着て行くかなかなか決まらなくて、あれこれ選んでいる内にバスの時間が近付いていた。前日調べたところ、田舎だし、約束の店に行くには休日九時台は九時十二分と五十二分半原発の二本しかない。厚木まで出るならいくつもあるのだが、お店は主要路線を迂回する形なので本数が少なく途中乗り換えとなる。昌代は九時十二分に乗るつもりでバス停に向かった。
昌代は九時に家を出ようとしたら鷺沼から電話が来た。
「日曜日で思ったより道が混んでいて、十時少し過ぎになります。すみません」
「分かりました。お気を付けてゆっくりいらして下さいね」
昌代は小走りでバス停に向かった。余裕だと思っていたのに図らずも鷺沼から電話が入って狂ってしまった。バス停に着くとバスは既に停車していた。通勤でいつも使っているバスだから勝手は分かっているのだが今日はなんだか落ち着かず足が浮いているようだ。
待ち合わせの和食店の前には十時十五分前に着いてしまった。十時前なので店はまだ開いていないし辺りには何もない。仕方なくスマホを取り出して東京観光スポットを見ていた。大人のまち歩きと言う項目に目が止まった。やはり六本木と銀座が人気があるらしい。見ている間に築地市場に行きたくなった。銀座より六本木の方に引かれるが両方だと鷺沼さんに迷惑をかけるかしらんなどと思う。スマホに夢中になっていると、ピピッとクラクションが鳴った。鷺沼さんだ。
「待たせてごめんね」
「いいえ、わたしも来たばかりですから」
「東京たって広いから、どこか行きたい所ある?」
「築地市場を見たいな」
「ああ、いいかも。お昼は築地市場で何か食べようよ」
「嬉しい」
「他にはないの?」
「六本木は遠くてダメですよね」
「築地からだと近いよ。じゃ築地の後は六本木でいい?」
「はい。お願いします」
車に乗ると、次郎は厚木に向かった。少し車は混んでいたが、三十分と少しで東名高速の厚木ICに着いた。
「自分の車は持ってないからレンタカーを借りたよ」
「高いんでしょ?」
「高いとか安いとかは比較する条件によるけど僕は安いと思うよ。こいつみたいな小型のハイブリットで二十四時間一万円前後で借りられるよ。ガソリン代安いし。高速料金よりガス代の方が遙かに安いのがちょっと癪に障るけどなぁ」
と次郎は笑った。次郎はホンダのFITハイブリッド車を借りてきた。
「わたし的には高いな」
「でもさ、遊びだとこれくらいは必要だよ」
「そうね、わたし鷺沼さんが車でお迎えに来てくれると聞いた時すごく嬉しかったわ」
「あのう、まだ付き合ってるって言う段階じゃないけど、僕のことを次郎と呼んでくれない? なんかさ鷺沼さんじゃよそよそしくて」
「わたしもよ。鈴木さんと呼ばれるとなんだか遠い人に感じちゃう。わたしの名前は昌代、なのでマサヨって呼んでくださいね」
「おいっ、昌代……なんちゃって」
と次郎は笑った。
「いいなぁ、昌代って呼ばれると次郎さんの彼女になった気がする」
東名高速から首都高に乗り入れて築地近くに着くと次郎は中央区営銀座地下駐車場に車を乗り入れた。この界隈は日や時間帯によって満車が多いが、運良く空があった。三十分二百円の駐車料はこの辺りでは安いが昌代は驚いた顔をした。
「お昼だね。築地に来たらお寿司だよ」
「わたしもお寿司と言おうと思ったよ」
二人はお寿司屋に入った。活況があり寿司も美味しかったし値段も思ったより安くて昌代は満足してくれたようだ。
「腹ごしらえが済んだから銀座を少し散歩しない?」
「時間、大丈夫かしら」
「大丈夫だよ」
就活のついでに数年前銀座に寄った時と比べて新しい店が出来ていたり様子が変わっていた。
「次は六本木に行くから駐車場に戻ろう」
六本木は昌代のリクエストで六本木ヒルズ五十二階の展望台に上がったあと、麻布十番の周辺を散歩した。
「麻布十番は実は僕も初めてなんだ」
昌代は正直で飾らない次郎に好感を持った。厚木に戻った時は日が暮れていた。
「お腹空かない?」
「少し」
「じゃパスタでも食べようか?」
「いいわね」
次郎は国道129号沿いのパスタ専門店に入った。食事の後でコーヒーを飲んでいる時に次郎は質問した。
「これからも付き合ってくれる?」
「わたしはそのつもりですけど」
「先のことは分からないけど、お互いに好きになったら将来を考えてもいいのかなぁ」
「わたしは次郎さん好きよ。次郎さんがわたしを好きになって下さったらずっと一緒でもいいよ」
「いきなり変な質問だけど」
「何か怖いな」
「昌代さんは子供好き? 嫌いだったら正直に言ってくれても構わないよ」
「わたしは子供は大好きよ。自分の子供だったらもうべったりかも」
「それって旦那をほったらかして?」
と次郎は意地悪な言い方をした。
「うーん、難しいご質問よ。次郎さんをほったらかしにしたら怒る?」
「怒らないさ。僕も子供べったりで昌代さんをほったらかしにするよ」
と次郎が笑うと昌代も笑った。次郎はこの女性となら将来一緒にやって行けそうだと思った。贅沢な性格じゃないのも気に入った。
第三十四章 昌代の気持ち
昌代は生まれて初めて男性とデートらしいデートをした。ちょっといい男だなと思っていた次郎は思った通り性格的にも自分に合っているしデートの帰りに自宅まで車で送ってくれたのがとても嬉しくて次郎を好きになった。本当のところはもう少しデートを重ねてみないと分からないが自分を裏切るような男だとは思えなかった。
「お姉ちゃん、今日送ってきた人もしかして彼氏?」
次郎が送ってきたところを妹の真美に見付かってしまった。でも、昌代は隠すつもりはなかった。
「多分彼氏、きっと彼氏になってくれる人」
「へんな言い方」
「まだ分からないわよ」
真美は案の定母の千代に見たことを告げ口した。
「どんな感じの方?」
「暗くてはっきり見えなかったけど、背が高くてちょっといい感じだったな」
「昌代は何て言ってるの?」
「多分彼氏だってさ」
と真美は笑った。千代はそのうち昌代から何か言うだろうと思ってそれ以上は聞かなかった。
昌代の仲良しの館林美寿江は昌代が鷺沼の電話番号を教えてくれないから、前に会った次郎の部下らしい山田に電話して次郎の電話番号を聞き出していた。
「もしもし、鷺沼さんですか?」
「はい」
「あたし、鈴木昌代の同僚の館林です。覚えていらっしゃいます?」
「あっ、あの時の方?」
「そうです。今度お時間のある時、お茶しません?」
「困ったなぁ。仕事が結構忙しくて無理だと思います」
次郎はもし時間が空けば昌代とのデートに使いたかったからはっきりと断った。だが、美寿江は食い下がった。
「昌代と会う時間があるのに」
「それってどう言うことですか?」
「先日昌代とデートなさったでしょ? あたし昌代から聞いてます」
次郎はこんな時どう応対したものか経験がなかった。それで、
「すみません、お話ししたくないので切ります」
と電話を切ってしまった。
「失礼な奴」
美寿江は次郎の仕打ちに腹が立った。それならこっちも山田のやつを利用してやるわよと次の作戦を考えた。美寿江は猫なで声で、
「山田さん、あたしとデートしてくれる?」
と電話して山田を捕まえた。山田は美寿江の策略とも知らず、週末に美寿江とデートする約束をした。
週末厚木に山田を呼び出して美寿江は山田と食事をした。食事の後、更に美寿江はカラオケに誘って山田をすっかり手懐けてしまった。
「鷺沼さんってあなたの上司でしょ?」
「上司だよ。それがどうしたの?」
「今度あたしのお友達の鈴木さんとデートする情報が入ったら教えてちょうだい」
「なんでそんな情報を教えなきゃならないの?」
「別に理由なんてないわよ。ダメならダメでもいいよ。その代わりもうあなたと付き合ってあげないから」
「分かったよ。ちゃんと教えるからさぁ、彼女になってくれよ」
「いいわよ。但し約束破ったらもう会ってあげないよ」
山田は美寿江の虜になり美寿江の言いなりになっていた。
山田から美寿江にメールが来た。
「日曜日、午後一時に厚木のミロード入り口で先輩が鈴木さんと会うようです」
直ぐに美寿江からレスがあった。美寿江はテレビドラマなんかでよく出てくる手を使う予定だ。単純な手だが失敗が少ないらしい。
「山田さん、厚木駅改札で昌代を捕まえて急用ができて鷺沼さんは来られなくなったからと言ってお茶に誘いなさい」
「誘えばいいんですね。どこに連れて行きます?」
「バカ、どこだっていいわよ。お店に入ったらあたしに連絡しなさいよ。分かったわね。上手く行ったら今夜デートしてあげる」
山田は美寿江に言いなりだ。早めに厚木駅に行って鈴木を待ち伏せした。一時十五分前頃運良く改札を出てくる鈴木を捕まえた。
「もしもし、前にお目にかかった鈴木さん……ですよね」
「はい。鈴木です。あの時のもしかして山田さん?」
「会えて良かったぁ。実は先輩が急用で来られなくなりまして、それを伝えるように言われまして鈴木さんを探してました」
「そうだったの? じゃ、わたし帰ります」
「折角ですからそこでお茶してから帰られたら」
「仕方ないわね。じゃコーヒー一杯で済みませんけど、ご足労のお礼にご馳走するわ」
山田は内心上手く行ったと思った。これで美寿江と今夜のデートは決まりだ。それで山田は鈴木をミロード七階のスイーツの店に案内した。席に座ると山田は直ぐに立ち上がって店のショーケースを見てスイーツを選ぶ振りをしながら急いで美寿江にメールを送信した。
「ミロード七階のパラダイス」
美寿江はミロードの入り口で鷺沼を待った。思った通り一時少し前に鷺沼はやってきた。
「こんにちは」
館林の顔を見て次郎は驚いた。
「びっくりしたでしょ? 昌代は急にどうしても外せない用ができて来られなくなって困ってあたしに鷺沼さんにそのことを伝えてと言ってきましたのよ。変な風に思わないで」
「そうでしたか。じゃ仕方がないですね。わざわざ来て頂いてありがとう」
「せっかくですからお茶くらいご馳走して下さい」
次郎はドタキャンを食らって後はすることがない。それで駅の北口に近いスタバに誘った。次郎はトイレに行くと昌代に電話を入れた。それで館林の悪巧みを全てを知った。
第三十五章 次郎のやり方
次郎は昌代に、
「山田はまだそこにいるんだろ? 代わってくれ」
と山田に代わってもらった。
「おいっ、おまえやってくれたな」
「先輩、済みません」
「分かってるって、おまえ館林さんに惚れてるんだろ?」
「はい」
山田が恐縮して冷や汗をかいている様子は電話の向こうでも分かる。
「じゃ、すまんが鈴木さんをそこに残してお前だけ駅前のスタバに来てくれ。直ぐに来いよ。お前には罰として芝居をしてもらう。駅前のスタバにいるからよぉ、偶然に会ったみたいにしてくれよ」
次郎が席に戻って館林と話をしていると、山田がやってきた。
「おっ、山田じゃないか。こんなとこで会うのは珍しいね」
「先輩、なんでこんなとこに?」
「そりゃ、こっちで聞きたいよ。今時間取れるのか?」
「大丈夫です」
「だったらオレたちと一緒にコーヒーでも飲んで行けよ」
山田は落ち着かない様子だ。明らかに芝居だと分かるくらいだ。館林は山田が少しおかしいと思いながらも敢えて何も言わずに話題を映画の話に戻した。山田が来る前は最近大ヒットしたアナ雪の話をしていたのだ。
「メイジェイって女の子はアナ雪でブレイクする前は鳴かず飛ばずだったらしいね」
「運、不運って分からないものね」
美寿江は次郎に話を合わせた。
「そうだよ。今日こうして三人が偶然会ったのも運だよなぁ。なぁ山田」
「はい。僕にとっては幸運ですよ」
「館林さん、こいつはあなたが好きらしいですよ。可愛い後輩だから泣かしたら僕が許さないからちゃんと付き合ってやって下さい」
「そうなんだ、山田さん、あたしを好きなのね。いいわ、そのつもりで付き合ってあげる」
「泣かせないと約束しといて、もしも山田を泣かせたら……館林さん、あなたの人間性に問題ありだな」
次郎はちょっと怖い顔をして館林を牽制した。
「オレはこれからちょい用があるから失礼するよ。館林さん、明日山田にちゃんと相手をしてもらったか報告させるから覚悟しといてくれよ」
次郎が帰った後で、
「鷺沼さんって方怒ると怖そう」
「先輩は怖いですよ。力が強いからウソをついたり欺したことがバレたら相当痛めつけられるそうです」
「どんな風に?」
「男の場合ですけど、蹴られて脚の臑を折られたって話聞いたことがあります」
山田の話を聞いて、美寿江は怖くなった。
「ところであなた、昌代はどうしたのよ」
「先輩に待たせておけって言われました」
「何よ、それって鷺沼さんにあたしたちがやったことバレてるの?」
「済みません。先輩は鈴木さんと話をして僕たちがやったことが分かったみたいです」
「あなたは何も話してないのね」
「僕から言うわけないでしょ。言ったら今頃腕を折られてますよ。ヤバいですよ」
「バレちゃったんだ。じゃ、失敗だわね」
「今頃先輩は鈴木さんのところに行ってると思います」
「仕方ないわ。今夜はあなたと遊んであげる。ちゃんと鷺沼さんに良くしてもらったって報告してよ」
美寿江は山田久雄を厚木の隣町海老名駅前の映画館に連れて行った。映画館の案内板を指して美寿江は、
「久雄君、見たい映画ある?」
「クローバーかな、紙の月でもいいけど」
「近キョリ恋愛なんて面白そう」
と美寿江は山田を誘う目をした。
「じゃ、これにしよう。近キョリ恋愛ってどんな内容かなぁ」
「あたしに聞いても知らないわよ。だから見るんでしょ」
映画を見ながら、美寿江はそっと久雄の手を掴んだ。すると久雄がコチコチに緊張していることが伝わってきて美寿江は面白かった。
「軽くて単純なやつ」
と美寿江が呟くと、
「えっ?」
と久雄が美寿江の顔を覗き込んだ。美寿江は久雄の頭に手を回して引きつけ、久雄の唇を吸った。突然の美寿江の行動に山田はドギマギしている。その様子が面白くて美寿江はクスクス笑い出してしまった。映画は大嫌いなイケメン英語教師と二人っきりで特別補習授業を受けている女子高生が目の前の教師に対して揺れ動く気持ちを表す場面になっていた。
昌代はなんだか理由が分からず、山田に言われた通りスイーツ店で待っていた。コーヒーを三杯もお代わりしたせいかトイレに行きたくなって店員に断って急いでトイレに行った。トイレから戻ってもまだ次郎は来ていない。仕方なく勘定を済ませて出ようとレジに行く途中携帯が鳴った。
「遅くなってごめん。今そっちに向かってるからもう少し待ってて」
次郎からだった。昌代はほっとした。店員にもう一度断って元の席に戻って待った。そこに次郎が駆けつけて来た。
「ちょいトラブルがあってさ、でも逢えたんだから気にしないでいいよ」
「はい」
昌代は次郎が来たら色々言ってやろうと思っていたが、次郎の顔を見てしまうと何も言えなかった。
「今日あなたが急用で来られなくなったと山田さんがいらして、そうしたらあなたからご連絡を頂いて、わたし何が何だか分からなくて……」
「ああ、その話はもうよそう。逢えたんだからいいだろ?」
「はい」
「今日、これから時間ある?」
「はい」
「じゃ、新宿に出ないか?」
「はい」
昌代は次郎と一緒にいられるなら何でも良かった。
新宿の南口を出ると、少し歩いて新宿御苑に入った。
「わたし、ここ初めてだわ」
「僕も初めて。思ったより人が少なくてゆっくりできそうだね」
並んで歩いていると、次郎の手が触れた。昌代の神経は触れた手に集中してしまった。次郎は黙って歩きながらそっと指を絡めて恋人つなぎをしてくれた。昌代は自分の心臓のドキドキする音が聞こえてくるような気持ちになっていた。
一時間ほど御苑の中を散歩してからサザンテラスの南端にあるサザンタワー三階のイタリアンレストランに入って少し早い夕食を済ますと町田で乗り換えて相模原駅で降りた。
「汚いけど、ちょっと寄って行かない?」
「あら、どこに?」
「僕が住んでるとこ」
昌代はそれ以上何も言わずに次郎と一緒に歩いた。そこは小さなアパートだった。
「上がってよ」
次郎の部屋は狭いが荷物が少なく思ったより散らかっていなかった。ベッドはなく畳敷きの部屋だ。昌代は独身の男性の部屋に上がるのは初めてで落ち着かなかった。
「見た通り僕は貧乏だからさ、こんな奴でも嫌いにならずに付き合ってくれるかなぁとか思って、最初に見て欲しかったんだ」
「わたし、次郎さんが貧乏でも気にならないよ」
「そう? ちょっと嬉しいな」
昌代は何気なく窓のカーテンを開けて外を見た。アパートの小さな庭に花壇があってピンク色の花が沢山咲いている。
突然後ろから次郎に抱きつかれ、驚いて振り向くと次郎の気恥ずかしそうな顔があった。次郎は昌代の向きを自分の方に向けて、唇を近づけてきた。昌代が目を閉じると、次郎の唇と重なった。昌代の身体は無意識に震えた。次郎の唇が離れると、次郎はちゃんと抱きしめてくれた。この時昌代はこれからずっと次郎を愛して行こうと思った。
「遅くならない内に送ってくよ」
次郎は昌代の手を取って外に出て扉に施錠すると電車からバスに乗り換えて半原の家まで送ってくれた。
「母に会って下さいません?」
「いいよ」
突然の訪問に千代は驚いたが次女の真美から昌代に恋人ができたらしいことを聞いていたから丁寧に応対した。
第三十六章 恋の行方Ⅰ
ちゃっかり屋の美寿江が次郎に手を出そうとしたことを昌代は詳しく知らされていなかった。次郎も山田も次郎が約束の時間に厚木のミロード入り口に来なかった理由をちゃんと伝えなかったからだ。
美寿江はあの夜次郎から昌代に昼間あったことを話したものばかりだと思っていた。だから会社に出て昌代と顔を合わすのが気まずかった。
週明け出社して、いつもは顔が合うと軽く挨拶を交わしていたが、その日は何故か美寿江が視線を外したので昌代はおかしいと感じていたが何も話をせずにいつも通り仕事を始めた。
お昼は二人とも社食で済ます。普段は並んだり向かい合って食事をするのだが、その日は美寿江が隣のテーブルに座った。昌代は美寿江が自分を避けているのに気付かず、食事をしながらぼんやりと美寿江を見ていた。すると、美寿江の携帯が鳴った。美寿江は携帯を見て直ぐに席を立って社食を出て行った。美寿江は周囲に人がいないのを確かめてから電話を受けた。
「もしもし久雄君、どうしたの」
「僕一晩眠れなくてさぁ」
「あたしのこと、一晩中思い出してたんでしょ?」
「なんちゅうか……やっぱまた逢いたいよ。今夜どう?」
「今夜は無理」
「じゃ、いつなら逢ってくれる?」
「当分ダメよ」
美寿江は山田を焦らして楽しんでいた。それとも知らず女に初な山田は美寿江に逢ってもらえるように頑張った。
「キスまでしてくれたのにぃ、美寿江は僕に逢いたくないのか?」
「あなた分かってないわね。遊んであげたのよ。鷺沼さんとの約束だからちゃんと付き合ってあげたでしょ」
美寿江は山田のしつこさにうんざりした。社食に戻るともう殆どの社員は食事を済ませて食堂の中はガランとしていた。美寿江は冷めた料理を返却棚に戻して社食を出た。その日は結局昌代と殆ど話さなかった。
突然美寿江の態度が変わったので昌代は気になった。だれでもそんな時は理由を知りたいものだ。帰りがけに、
「美寿江、何かあったの?」
「別に、何もないわよ。今日は人とお喋りしたくないのよ。あたし先に帰るわよ」
そう言うと美寿江はさっさと帰り支度を済ませて行ってしまった。昌代の中にモヤモヤが残った。
週末近くになった。美寿江は今週も昌代のやつきっと鷺沼とデートだなと思うと癪にさわった。たまたま昌代が席を立った時昌代の携帯がバイブした。周囲を見たが昌代の姿はなく、他の課員も仕事をしている。美寿江は昌代の席に近付いてそっと手を伸ばして昌代の携帯を開いた。
「今日は、お変わりありませんか? あなたに僕からご連絡する場合、他人に聞かれると少し問題があるように思いますので、済みませんが連絡はメールでします。このメールも読まれたら削除して下さい。お返事をお待ちします。必ずメールでお願いします。次郎」
美寿江は即座にメールを削除して、
「元気です。突然で恐れ入りますが、今日あたしの会社の正門前まで六時にいらして下さい」
美寿江は返信後送信文を削除した。直ぐに鷺沼から返信が来た。
「分かりました。今日六時過ぎに正門前に行きます。詳しいことは逢ってから話します。次郎」
美寿江は受信メールを削除して携帯を昌代のデスクに戻して何食わぬ顔をして自分の席に戻り、直ぐに席を立って係長の所に行った。
「何だ、何か用か?」
「折り入ってご相談したいことがあるんですが、ちょっと急ぎます」
「急ぎの用は何だ?」
「ここでは……」
美寿江は周囲を見た。係長は様子を察して小部屋に美寿江を連れて行った。
「実は、最近鈴木さんがストーカーに付きまとわれて困っているみたいなんです。その男性は今日も六時に正門前で美寿江を待ち伏せするとさっきメールが届いたらしいです。鈴木さんは仲良しのあたし以外に誰にも言えず悩んでいるみたいなので、警察に連絡して頂けませんでしょうか? ストーカーの男性は確か鷺沼と言う者です」
「話は分かったよ。でもなぁ、ストーカーの問題はあくまで鈴木の個人的な事情だろ? 会社が関わるのはまずいよ。万一公になって会社の名前が出たら責任取れないからさ」
「係長、今回一回だけです。鈴木さんを助けてあげて下さい。ねぇ、お願い」
美寿江は持ち前の甘ったるい声で係長にすがった。
「分かったよ。今回限りにしてくれよ。それと絶対に会社が関与しているようなことを外部に漏らさないと約束してくれよ」
「係長、やっぱ頼りになります。ちゃんと約束を守りますから警察に通報して下さい」
「人に聞かれちゃまずいから、ここから電話をするよ」
係長は携帯で厚木警察署の顔見知りの刑事に連絡を入れた。
「はい、ストーカーやってる男の名前は鷺沼です。下の名前? ちょっと待って下さい」
係長は美寿江の顔を見た。
「確か次郎、つぎのろうの次郎と言ってました」
「刑事さん、鷺沼次郎です。今日夕方六時頃正門前に来るそうですから逮捕して下さい。後はよろしくお願いします。個人的な問題ですので会社が関わっていると誤解なさらないで下さい。会社はこの問題にはノータッチです。よろしく。ああ、ストーカーされている社員は鈴木昌代です。必要なら後ほど署に伺わせますが、くれぐれも本人が通報したことは伏せて下さい」
係長は受話器を置くと額にうっすら汗をかいていた。
「ありがとう。署の方はあたしが代理で行きますので鈴木さんには黙っていて下さい」
二人は揃って小部屋を出て別れた。
第三十七章 恋の行方Ⅱ
その日鷺沼は用があるからと終業時間前に退社して昌代が勤めている機械メーカーに向かった。約束時間の六時に正門前に着くと、正門から少し離れて鈴木の退社を待っていた。
「もしもし、あなたもしかして鷺沼さん?」
厳めしい顔の中年の男性が次郎に声をかけた。連れがもう一人いた。次郎がそうだと答えると、
「おいっ、鷺沼次郎、ちょっと署まで同行してくれ」
男は警察手帳を見せると、もう一人の男と次郎を両脇から押さえ込んで会社の裏側に停めてあったパトカーの乗せた。次郎が抗わなかったので手錠はかけなかった。
署に着くと、次郎は取調室と思われる小部屋に連れ込まれた。
「あんた、ストーカーやっとるだろ。いつからやってるんだ?」
「えっ、僕がストーカーですか? そんなことやったことないですよ」
「そうかい、そうかい。ストーカーはだな、検挙すると百人中百人が全部オレはやってないと言うんだ。素直にやりましたなんて認めるやつはいないのよ」
「やってないことはやったとは言えません」
「ばか言えっ。あんたに付きまとわれて困ってると言う女性から通報があったんだよ。あんた今日もその女性を待ち伏せしてただろ?」
「えっ、僕が待ち伏せ? そんなことしてませんよ」
美寿江は少し遅れて警察署に着いた。
「鈴木昌代と申します。ストーカーの件で……」
受付を訪ねると美寿江のことは既に知っていたらしく、応対した婦人警官は直ぐに担当の刑事に連絡してくれた。美寿江は鈴木昌代になりすましていた。
「おお、あんたが鈴木さんか?」
「はい。鈴木です。よろしくお願いします」
刑事は取調室の中が見える場所に美寿江を連れて行った。
「あの男に見覚えはありますか?」
「はい。あります。あの人がストーカーです。間違いはありません」
「確かにあの男ですね」
「はい」
「わざわざお越し頂いてご苦労様でした。確認がとれましたのでこれで結構です」
「もう帰ってもいいんですか?」
「どうぞ、気を付けて帰って下さい」
美寿江は取調室で二人の刑事に尋問されている鷺沼を見てちょっと可哀想だと思ったが、少し気が晴れた。警察署を出ると真っ直ぐに帰宅した。
「じゃ聞くけど、どうしてあの会社の正門近くに居たんだ?」
「彼女に呼び出されたからですよ」
「おいっ、いい加減なことを言うなよ。適当にこっちを誤魔化そうたってそうはいかんぞ」
「ウソじゃないですよ」
「証拠があるのか?」
「証拠になるかどうか」
「ところでさ、あんた腹空いただろ」
「……」
次郎は黙っていた。
「晩飯、天丼でも食わんか」
「……」
「おいっ、黙ってないで何とか言えよ。食うのか食わんのか」
「じゃ、食います」
「言っとくけどよぉ、おごりじゃないぜ。あんたの分の金はあんた持ちだ」
「いいですよ」
そこに、
「まいどありー」
と天丼の出前が来た。
「四個、そこに置いてくれ。税込み九百円だから三六そこにあるから持って行ってくれ」
「まいどありー」
出前の青年は三千六百円を集金袋に収めると出て行った。どうやら天丼は次郎の意見を聞く前に既に注文してあったらしい。
四人は黙々と天丼を食った。腹が満たされると次郎も少しいらいらする気持ちが落ち着いてきた。
「さっき証拠とか言ってましたね」
「ああ、何かあるのか?」
「僕の携帯にあの機械メーカーの正門に呼び出されたメールが残ってます」
「どれ、見せて見ろ」
刑事は次郎の携帯を開いた。
「間違いはなさそうだ。ところで送信者の昌代と言う女性を何で知ってるんだ?」
「言ってる意味が分かりませんが」
「だからよぉ、あんたがどこでこの女性を見付けたのか聞いているんだよ。ストーカーを始めたきっかけだ」
「ストーカーじゃないですから、彼女は見付けてません」
「見付けてない? 可笑しいな、このメールは鈴木と言う女性からだろ?」
「そうですが」
「だったらこの女性をどこで見付けたか言えるだろ? あんたの片思いでもいいんだよ」
「お互いに好き合ってる関係ですから。彼女とは取引先の接待の席で知り合いました」
「おかしいな。その女性にあんたがしつこく迫ってあちらさんで困って通報されたんだぞ。あんたが言うことは全部デタラメじゃないのか?」
先ほどから話を聞いていた別の刑事が、
「おいっ、鷺沼。今夜は遅くなったから一晩ここに泊まっていけよ。明日改めて話を聞かせてもらうよ」
「冗談じゃないですよ。明日は仕事がありますし、僕はストーカーなんてやってないですから帰して下さい。まったくの冤罪ですよ」
「仕事? オレたちだって仕事だよ。あんたがさっさと白状して罪を認めればこんなに時間は必要ないんだよ」
その時次郎の携帯がバイブした。それに気付くと刑事は、
「ちょっと貸せ」
と次郎の携帯を取り上げて話し始めた。
「先ほどはご苦労様。こんな時間に何か追加事項でもありますか?」
「あなたどなたですか?」
「夕方会ったばかりでどなたはないでしょう。先ほどの者ですよ」
「鷺沼さんの携帯にかけたつもりですけど、間違ったようです。失礼しました」
「ちょっと待ちなさい。この携帯は鷺沼のものですよ。あなた、先ほどこの男がストーカーに間違いないと言ったじゃないですか」
刑事はいらだってきた。
「わたしそちら様で何をおっしゃっているのかさっぱり分かりません」
「ここは厚木警察署ですよ。さっきあなたがこられたじゃないですか?」
「変なことおっしゃらないで下さい。わたしは何も知りませんし今日警察署にも行ってません」
「おいっ、人をおちょくるのもほどほどにしろ。公務執行妨害で逮捕するぞ」
「分かりました。直ぐにそちらに向かいますからお名前を教えて下さい」
「刑事の××だ。署に来たら呼び出してくれ」
刑事は電話を切った。
「おかしいな。鈴木って女性は今日こっちに来たことがないらしいよ。ま、これから来るそうだから来てから調べりゃ直ぐに分かるさ」
次郎は刑事に携帯を取り上げられているのを返せと言って取り返した。長い間沈黙が続いた。
昌代は不審な電話の応対に驚いた。次郎に電話したつもりが横柄な口ぶりの男性が訳の分からないことを言い話が全くかみ合わない。夜の十時を回っていてバスはない。仕方なくタクシーで厚木警察署に向かった。
第三十八章 恋の行方Ⅲ
警察署に到着すると昌代は教えられた刑事の名前を話して呼び出してもらった。出て来た刑事と顔を合わせると刑事は驚いた顔をした。
「あんたが鈴木さんかね?」
「はい。鈴木でございます」
「おかしいな。本当に鈴木さんですか?」
「はい。お疑いになられるなら」
と昌代は運転免許証を出して見せた。刑事は写真と実物を比べて納得したようだ。
「実は夕方ストーカーに待ち伏せされているから何とかしてくれとあなたから通報がありましてな、鷺沼と言うストーカーを逮捕して鈴木昌代と名乗る女性に来てもらったら『間違いなくあの男です』と確認して帰りました。所が確認にこられた鈴木とあなたは別人ですな。こっちも驚きましたよ」
「恐れ入りますが、鷺沼さんに会わせて頂けませんか?」
「いいですが、鷺沼とあなたの関係は?」
「恋人どうしです」
「だったらストーカーではありませんな。とにかく会って見て下さい。もし危険なことがあればこちらでガードしますから」
「危険だなんて、本当の鷺沼さんなら礼儀正しい方ですから乱暴するなんて考えられません」
刑事が取調室に昌代を案内すると疲れた顔をした次郎がいた。
「次郎さん、大変だったわね」
昌代は次郎に抱きついた。
「もう何時間もお前はストーカーだと言われちゃってさ、ほんと疲れたよ」
見ていた刑事はヒソヒソと相談を始めた。ややあって、
「鷺沼さん、どうやらウソの通報で誤認逮捕してしまったようです。申し訳ない。ところで、ウソの通報をした人に心当たりはありませんか?」
「あります」
と次郎が言った。
「その者のことを話してもらえませんか? 鷺沼さんにとんでもない濡れ衣を着せた者ですから、告訴されるなら逮捕しますが」
「いえ、僕が間違ってなかったことを分かって下さったならそれでいいです」
「と言うとお知り合いの人?」
「親しくはないですが、そんなものです」
先ほどの高圧的な態度が一変して刑事たちは丁寧に応対して解放してくれた。
警察署を出ると、
「昌代、ありがとう。昌代が来てくれなかったら多分ストーカーにされてたな」
「怖い話しですよね。あたしになりすましてあなたを訴えるなんてひどい人だわ。さっき誰か分かったっておっしゃったわね。誰? あたしが知っている人?」
「多分知らない人だと思うよ」
「そう? ひどい方ね」
次郎は間違いなく館林美寿江の仕業だと思ったが昌代には言わなかった。
「遅くなったけど、家まで送っていくよ」
「タクシー代、すごく高いわね。送って下さるのはうれしいけど、もったいないわ」
「いいよ。昌代に救われたんだから」
「今夜一晩あなたの所に泊めて頂いたらいけないかしら」
「ご両親に言い訳するのが大変だろ?」
「母に電話をしてみます」
昌代は母親に細かく理由を説明した。
「ちょっと電話、代わってくれないか?」
昌代は携帯を次郎に差し出した。
「もしもし、先日お目にかかった鷺沼です。昌代さんからの説明の通り大変ご迷惑をかけてしまい、こんな時間になってしまいました。ご心配でしょうが、今夜は僕の所に泊まって頂いてもよろしいでしょうか?」
昌代の母親は次郎に快諾したらしい。
「娘をよろしくですってよ」
次郎は昌代と一緒に厚木駅から電車で町田まで出て乗り換え、相模原で下車した。私鉄の運賃はタクシー代に比べてずっと安い。町田から相模原へは終電に間に合った。駅から人通りが絶えた道をぶらぶら二人で歩いた。
「狭いけど我慢してくれよ」
「わたし、狭いのは全然平気よ」
「ちょっと何か食べないか?」
「パスタで良かったらわたしがお作りします」
昌代は材料を次郎から聞いて手際よくパスタを作り始めた。次郎は卓袱台を出して、フォークと箸を二人分用意した。間もなく良い匂いが部屋中に広がりパスタは出来上がった。次郎は缶ビールのプルトップを開けるとコップに注いだ。
「無事の帰還に乾杯!」
昌代が作ったパスタは美味しかった。食事が終わると次郎はシャワーを済ませて寝間着に着替えた。
「昌代の寝間着はないから大きいけど僕のジャージを着てよ」
昌代はシャワーを済ますと次郎のだぶだぶのジャージを着て出て来た。
「あはは、ちょっと可愛い熊さんみたいだな」
「熊さんなんて失礼ね。せめて兎さんにして下さらない」
と袖口を垂らして耳元に持って行って兎の真似をした。
「兎になるともっと可愛いね」
二人は笑いこけて二つ並べて敷いた布団に潜り込んだ。
「疲れただろ? おやすみ」
「おやすみなさい。明日は少し早めに出ますから六時頃起こして下さいね」
「ん。分かった」
次郎は明かりを消すとそのまま眠りについた。
翌朝六時過ぎにはっと気付いて飛び起きたら昌代は既に起きて朝食の支度をしていた。
「おはよう。眠くない?」
「大丈夫よ。次郎さん、良く眠ってらしたわね」
「ん。夕べ何時間も刑事とやり合って疲れていたから」
二人で朝食を済ますと次郎はアパートから駅まで昌代を送った。
「じゃ、またね」
「行って参ります」
会社に出ると係長に呼ばれた。
「昨日は大変だったそうだね」
「いいえ、別に」
係長は小声で意味ありげに、
「聞いたよ。ストーカーに付きまとわれて大変だったそうだね。これからはもう大丈夫だから心配しなくてもいいよ」
係長の話を聞いて昌代は警察に通報したのは会社の人間だと思った。でないと係長が昨夜の話を知っているなんておかしい。
「わたしがストーカーに付きまとわれて困っている話はウソです。そんなことは何もありません。警察で説明して納得して頂きました。ご心配をおかけして済みません。以後今回の話は何もなかったことにして頂けませんか?」
「話がよく分からないが、ま、君がそう言うならいいだろう。この話はなかったことにしよう。会社もその方が助かるよ」
昌代はそれ以上係長に何も言わなかった。席に戻ると周囲の同僚は何となくよそよそしい。だが昌代は気にしなかった。多分昨夜の話を誰かが言いふらしたに決まっている。
帰宅後夜次郎から昌代に電話が来た。
「僕だ。すまんがお母様に代わってもらえるか?」
「はい」
昌代は携帯を母に渡した。
「もしもし、鷺沼です。昨夜は昌代さんにご無理をお願いして済みませんでした」
「ご丁寧に電話を頂いてありがとうございます。私はあなたたちを信頼してますから何もご心配は要りませんよ」
「ありがとうございます。電話、昌代さんに代わって下さい」
昌代に代わった。
「次郎さん、お気になさらないで下さいね」
「明日の土曜日はお休みですか?」
「わたし、土曜日はお掃除とお洗濯をすることに決めてますの。日曜日なら一日空けられます」
「分かった。日曜日にデートしてよ」
「どこに行けばよろしいですか?」
「十時にお迎えにあがります」
「またレンタカー?」
「いや、済まないが厚木からバスで行くよ」
「わたしその方が気が楽です。次郎さんに散財させたくないですから」
「そう言うと思った」
と次郎が笑った。
十時ぴったりではないが十時を少し過ぎて昌代の家に次郎がやってきた。昌代は次郎の服装に驚いた。着古したシャツにジーパン、ジャンパーまでは驚かないが、ゴムの長靴を履いている。とても恋人とデートする姿とは思えない。出て来た母まで驚いた顔をしている。
「何よ、その格好。この辺りの農家のおじさんみたいじゃない」
「そうよ。今日一日昌代のところの畑仕事を昌代と一緒にやろうと思ってさ」
「えーぇっ、信じられない」
「お義母さん、構わないでしょ」
「勿論よ。娘の未来の旦那様がうちの畑でデートだなんて涙が出るわよ」
「お義父さんもおられるんでしょ? 家族揃って畑仕事をやりませんか」
昌代の父親の鈴木世之介が玄関先に出て来た。
「初めてお目にかかります。僕、娘さんに付き合ってもらっている鷺沼次郎です。よろしくお願いします」
世之介は次郎の姿をじっと見た。
「あんたも農家かね」
「僕は隣の相模原の工場に勤めているサラリーマンですが、実家は農家です」
昌代の妹真美はまだ大学生だ。弟も大学生で医学を目指しているからまるで金喰い虫、両親の収入ではとてもやっていけないから昌代が二人の学資の一部を負担していた。それで少しでも家計の足しになるように土曜日と日曜日は弟の啓介も畑仕事を手伝う習慣になっているらしい。
家族全員に次郎を加えて六人で農作業をした。畑仕事は農村の婚活にも利用されている通り、汗を流して一緒に仕事をすれば自然にお互いの理解が深まるものだ。
お昼は母親の千代と昌代が二人で、畑で採れた新鮮な野菜をたっぷり使って揚げ物や炒め物やスープを作り次郎と昌代の家族五人が揃ってご馳走を食べた。賑やかで楽しい食卓だった。
昼食が終わって一休みするとまた家族全員で畑に出た。こうして次郎と昌代の一日は終わった。
第三十九章 恋の行方Ⅳ
次郎が日曜日に昌代の家を訪ねてから、毎週日曜日に次郎は昌代の家を訪ね一緒に畑仕事を手伝うことが習慣になった。昌代の家では主に葉物を栽培していて、収穫した野菜はその日の内に契約先のスーパーや飲食店に発送していた。畑仕事は力仕事だが、次郎は重い荷物を軽々と運び昌代の父親の仕事を助けたので父親ともすっかり親しくなった。そんな次郎を昌代は益々好きになっていた。
平日は昌代は今まで通り愛川町の工作機械メーカーの総務部に勤めていたが、毎週日曜日に次郎が家に来てくれるので平日にデートの約束などの連絡をすることはなくなっていた。夜就寝前におやすみメールを送信するだけだ。
しかし、最近昌代の周囲の者がなぜか昌代を避けるようにする。昌代は最初気付かなかったが、トイレで変な噂話を耳にしてから気を付けているとやはり噂が原因らしいことが分かった。噂は誰が流しているのか分からないものだ。次第に尾鰭が付いてありもしないことが囁かれていた。
「ねぇ、総務課に鈴木さんって人いるでしょ」
「ええ、あのちょっと綺麗な感じの方ね」
「彼女、ストーカーに追い回されてレイプされたんだってよ」
「怖いなぁ、あたしたちも気を付けなくちゃ」
「それだけじゃないのよ」
「えっ? まだなんかあるの」
「レイプされてから妊娠してしまったんですってよ」
「おかしいわね。彼女お腹大きくないじゃない」
「そうなの。妊娠したことが分かって堕ろしたそうよ」
「そんなことがあったの。あたし全然知らなかった」
「この話し、他人に喋っちゃダメよ。秘密らしいから」
昌代はひそひそ話を耳にしてぞっとした。身に覚えのないことが噂されているのだ。
別の日に女子トイレでまた噂話が囁かれていた。
「ねぇ、聞いた? 総務課の鈴木さん、本社の××営業課長と妖しい噂があるのよ」
「日本橋本社の××さん?」
「そうよ」
「××さん、時々工場にも来てるわね」
「妖しい噂って何」
「××さん、子供さんがいるんですってね」
「と言うと、もしかして鈴木さんと不倫?」
「してるみたいですってよ」
「あなた、その話しどこから聞いたの」
「あら、知ってる人結構いるわよ」
「なんか不潔」
「いつも澄ました顔をしているのに人って分からないものね」
昌代はこんな噂を耳にして身体がすくんでしまった。一体誰がこんなありもしない話を流しているんだろ?
その日昌代が回覧資料の配付を終わって席に戻ると、
「昌代、さっき課長が探してたわよ」
と仲良しの美寿江が教えてくれた。何か意味ありげな顔をしている。
「顔を見たら課長のところに来るようにですって」
昌代は普段課長に直接呼ばれることはない。課長に話がある時はいつも必ず係長を通している。
「直接呼ばれたのは何だろう」
昌代は何か特別な指示を受けるのだろうと思って課長席に行った。
「鈴木君か、今手が離せるのかね」
年配の課長は鈴木の顔をしげしげと見た。
「はい。大丈夫です」
「すまんが聞きたいことがあるんだ。ちょっと来てくれ」
課長は会議室に昌代を連れて行った。
「実はだな、言いにくい話だが君について良からぬ噂が広がっているのを知っているか」
「はい。わたしが身に覚えのない内容です。誰がそんな噂を流しているのか、課長はご存じですよね」
課長はちょっと困った顔をした。どう答えるか迷っている様子だ。
「口にして良いかどうか、噂なんてものは厄介なもので、一度広まってしまうとどうにも手の打ちようがないんだ」
「課長はまだご存じじゃないんですね」
「大体は見当が付いているんだが、君館林君と最近何かあったのか?」
「もしかして美寿江さんとのことですか?」
「そうだ」
「別に、特にご報告するようなことはありませんが、最近昼食を一緒に食べて下さらないこと位かしら」
「なるほと、そう言うことか」
昌代は課長が言っている話の内容を少し理解できなかった。
「噂が出てからなんとなく周囲の方々がわたしを避けているように感じています」
課長は昌代の言葉を待っていたかのように頷いた。
「それで、鈴木君はどうするつもりだ?」
「どうするって、噂を消すことは出来ませんし、わたしは身に覚えはありませんと誰に向かって言えば良いのかも分かりません」
課長は少し厳しい顔になった。
「君の潔白を信じるとしてもだ、このままでは組織として困るんだよ」
「わたし、どうすればよろしいのでしょうか」
「君が悪いわけではないからこの際一身上の都合とか適当な理由を付けて辞表を出してもらえないかなぁ」
「会社を辞めろと言うことですか」
「いや、誤解されると困るんだが、会社は君に辞めろとは一言も言ってないよ」
「でも、実質的には辞職勧告になりますよね」
「鈴木さん、僕を困らせないでくれよ。頼む。この件は穏便に済ませてくれないか」
昌代はこれ以上課長を困らせても解決しないと思った。それで、
「趣旨は分かりました。一週間ほど考える時間を頂けませんか」
「ああ、いいよ。気持ちの整理が付いたら辞表は僕の所に直接出してくれ」
第四十章 恋の行方Ⅴ
課長は美寿江が悪い噂を流しているとは言っていなかったが、次郎をストーカーだと通報されてから何となく関係がぎくしゃくしていたから、もしかして噂を流しているのは美寿江かも知れないと思った。仲良しだったのに最近はなんとなく二人の間に冷たい風が吹いている。次郎は美寿江について何も言っていないが、次郎との間を邪魔したのはうすうす美寿江の仕業だと気付いていた。仲良しの同僚に裏切られたと思うと切なかった。自分は何も悪いことをした覚えはないのに。
辞職を勧告されてから、昌代は噂を流した者を確かめようと努力してはみたものの誰なのか分からなかった。誰だろうと思い巡らせている時、昌代のメールボックスに嫌がらせのメールが届いていた。社内のメールアドレスは情報管理が徹底していて容易に外部には漏れず、外部からのメールで不審なIPアドレスから送信され社内のネットワークに侵入してくるものはファイヤーウォールによってがっちり守られているのだ。ファイヤーウオールとは火災を防ぐ防火壁のようなもので社内のネットワークを保護するために最近はどこの会社の社内システムにも適用されている。
昌代に送られてきたメールの内容はひどかった。
「淫売女 鈴木 このまま会社に居続けられると思うなよ 早く辞めないと天罰が下るぞ」
このメールを他人に見せて意見をもらうわけにもいかず、昌代はメールを削除した。
課長に会ってから一週間が過ぎた。昌代は自己都合で退職したい要旨を書いた辞表を課長に直接手渡した。
「済まないね」
この一言で昌代は会社を去ることになった。職場の送別会は辞退した。
「お伝えして聞いて頂きたいことがあるの。日曜日以外の日に逢って下さいません」
昌代は次郎にメールした。
「土曜日の午後なら時間取れます」
次郎からのメールに三時に町田で逢う約束をした。
土曜日午後三時、昌代は私鉄の町田駅を降りると町田モデイと言うショッピング施設三階のアラカンパーニュと言うカフェに向かった。十分ほど遅刻したが次郎はコーヒーを飲みながら待っていてくれた。
「遅れてすみません」
「五分、十分は誤差の内さ。それより元気がない顔をしてるね」
「色々あったから」
「何か頼もうよ」
「ここは確か以前大丸百貨店じゃなかったっけ?」
「わたしは詳しくないけどそうだったみたいね。何年か前にモディに変わったらしいわよ。真美が詳しいのよ」
「真美ちゃん、今年卒業だろ」
「そうなの。ようやく半分お荷物がなくなるわ」
「もう半分は啓介君」
「そうなの。医学部はお金がかかるから大変」
「昌代はそうして兄弟の面倒をみているから偉いよ。家族は助け合わなくちゃ。きっと将来は昌代が困った時に助けてくれるよ」
「実はそのことで困っているの」
昌代は会社で嫌がらせの噂を流されて課長に辞職を迫られて結局辞表を出して金曜日に退社したと打ち明けた。
「急に収入がなくなると大変だなぁ」
次郎は自分のことのように思案顔になった。次郎は携帯を取り出すとどこかに電話をかけた。
「もしもし、社長さん」
「鷺沼さんか?」
「そうです。実は少し前にお話があった求人の件ですが、もう良い方が見付かりました?」
「それがね、去年から急に求職者が減ったとかでいい子がまだ見付からんよ。鷺沼さん、何かいい情報ないですかねぇ。うちみたいな小さな会社じゃ給料は世間並み以下、事務職と言ったって半分現場作業もしてもらわんと、うちみたいに条件が悪い会社にはなかなか人が来てくれんのだよ」
「社長、まだ会社におられますか」
「ああ、土日仕事を休んどったら会社が潰れるからな」
社長は冗談交じりに言ったが零細企業の実情としてはそんなものだと次郎は分かっていた。
「十分ほどしたらまた電話します」
次郎は一旦電話を切った。昌代はじっと聞いていたが、
「お知り合い?」
と聞いた。
「ん。会社の下請けさんの社長だよ。相模原の機械金属工業団地の中にあるんだ」
「求人とか言ってらしたわね」
「ん。まだ決まってないらしい。一応事務職募集だけど小さな工場だから現場の作業もやらなくちゃならないんだ」
「現場作業と言うと?」
「おそらく検査作業とか箱詰め作業だと思うよ」
「わたしじゃダメかしら」
次郎は少し考えている。
「良かったらこれからそこの社長を訪ねてみないか? 社長は良い人だよ。会って詳しいことや工場の様子を見てからにしたらどうかなぁ」
「いいわ。これから直ぐに行くのでしょ?」
次郎は社長に電話をしてこれから行くと伝えた。
二人はカフェを出るとJR横浜線に乗って橋本に向かった。橋本は相模原の次だ。
橋本駅を降りると一キロほど歩いてその工場に着いた。工場は休日だが、社長の他数名が仕事をしていた。
「社長、実はこの方は将来結婚してもらおうと思ってる方なんです。ですから四、五年しか勤められないと思いますがそれでもいいですか?」
「それくらい居てくれればむしろありがたいね。給料は安いし仕事はきついから今まで長続きする人がいなくてさ」
昌代は次郎がいきなりフィアンセだと紹介したので驚いたが、社長の人柄が良く、仕事も事務はもちろん現場の仕事もそれほど大変ではなさそうなので社長さえ良かったら雇って下さいと申し出た。
「じゃ来週の月曜から来てくれるんだな」
「はい。大丈夫だと思います」
次郎は日曜日いつもの通り半原で農作業の手伝いに昌代の家に行くので、その時に昌代の両親を説得するつもりだった。
第四十一章 恋の行方Ⅵ
日曜日、ここのとこ習慣のように十時に次郎は昌代の家に行った。午前中は葉物の箱詰めと出荷に追われたが、午後からは新しく野菜の作付けをするために畑を耕す作業だ。今は機械で耕すからあまり大変ではなさそうだった。それで昼食後次郎は昌代の父親に、
「ご相談したいことがあるんですが、三十分ほど時間を頂けませんか?」
と相談事を持ちかけた。
「話とは何だ?」
「昌代さんが会社を辞められたことはもちろんお義父さんにも報告されてますね」
「ああ、聞いたよ。突然で驚いたがね色々とやりにくいことがあったそうだな」
「それでご相談ですが、昌代さんは啓介君が卒業するまで学資を応援する約束だそうですが、会社の稼ぎがなくなると困りませんか」
「それならわしが何とかするつもりだが」
「確かに農作の収入から一部を回せば何とかなりそうですが、昌代さんの家事手伝いだけでは余裕がなさ過ぎるように思いますが」
「今はあんたが手伝ってくれるようになったから以前より楽になったがうちのような小規模では確かに厳しいな」
「これから昌代さんが新しい就職口を見付けるのはかなり大変だと思います。それで僕の知り合いの会社社長に相談しましたところ、雇ってくれると話は決まったのですが、相模原の工業団地なので半原から通うのはかなり大変だと思いまして」
「相模原までは車ならそれ程でもないが電車・バスじゃ通い切れんかも知れないな」
「それで僕は将来昌代さんとの結婚を許して下さいとお願いするつもりでしたが、急なことなのでとりあえず婚約をお許し頂いて僕が住んでいるアパートから通勤されるようにしたらどうでしょう」
「結婚まで同棲するつもりなのかね」
「はい」
世之介は少し考えている様子だ。次郎は黙って庭を見つめていた。
「子供ができたらどうするんだ?」
「それは絶対にないとお約束します。昌代さんはふしだらな方じゃないですから二人でけじめをつけます」
「きちっと約束を守るならあんたの考えでええよ」
「結婚は啓介君が卒業する二年後でもいいですか?」
「そうしてくれると助かるな」
次郎は義父に深々と頭を下げた。
「晩飯、ここで食って帰れ」
「はい」
夕食後世之介は、
「昌代、お前明日から次郎さんの所に引っ越せ」
と突然昌代に命令した。昌代は話が通ったのだと察したが母親の千代は驚いた。
「お父さん、急なお話ねぇ」
と世之介の顔を見た。
「次郎さんに昌代との婚約を許した。仰々しく式は挙げんでいいが、来週次郎さんのご両親に会いに行くぞ」
急な話の展開に真美も啓介も驚いた。
その夜次郎を見送ってから昌代は床に就くと人生とは分からないものだとつくづく思った。本当は思い出に残るような雰囲気に包まれて婚約や結婚はするものだと思っていたが自分の辞職と再就職がきっかけで次郎と婚約することになってしまったのだ。
月曜日、昌代は取り敢えず必要な洋服や下着を風呂敷に包んで始発のバスに乗り、厚木から町田に出て相模原の次郎のアパートに行った。小さな部屋だが昌代はそれでいいと思った。
次郎は既に起きていたので荷物を片隅に置くと昌代は冷蔵庫の中を覗き込み食材を適当に取り出して簡単な朝食を作り次郎と一緒に食べた。二人は少し早めに家を出ると自転車で次郎が紹介してくれた工場に向かった。昌代の自転車は隣の奥さんに頼み込んで一日だけ貸してもらっていた。
「夕方仕事が終わったらリサイクルショップで安い中古の自転車を買おう」
昌代が出勤すると社長は喜んで次郎にも礼を言った。
「僕はこれから会社に出ますので後はよろしくお願いします」
社長は初日だからと昌代を定時で帰してくれた。昌代はママチャリで家まで戻ると間もなく次郎も帰って来た。
「自転車を買いに行こう」
次郎のアパートから昌代が通う会社までは片道約4キロあるが平地なのでそれ程大変ではなかった。リサイクルショップに行くとママチャリが五千円以上もするのに驚いた。店の旦那の話では整備をして盗難保険を付けると最低五千円になってしまうのだそうだ。店の旦那は掘り出し物だと言う電動アシスト自転車を四万五千円でどうかと勧めたが、昌代は六千五百円のママチャリを五百円値切って六千円で買った。
「通勤には坂道がないから電動でなくてもいいけど、これからはここから半原まで二人共自転車で行ったり来たりすることを考えて電動アシストがいいよ。自転車だとバスの時間なんか気にしなくても済むしね」
「それは分かっているわ。でもわたしはこれでいいの。五段変速機付きだから坂道でも頑張る」
昌代は試乗してみて驚いた。今までこんな贅沢な自転車に乗ったことがなかったが、変速を落とすとちょっとした坂道なら楽に登れる。これじゃ毎日の通勤が楽しくなる。
昌代は借りた自転車を返す時、引っ越しのご挨拶も兼ねて少し奮発してケーキを七個詰め合わせてもらったのをお礼に渡した。お隣には三つくらいの男の子がいると次郎に教えてもらったからだ。
「ここのお家賃、どれくらい払っていらっしゃるの?」
「月々二万二千円だよ」
「じゃ、二人で住んだら一人月に一万円と少しね。わたし助かるわ」
「あはは、昌代は部屋代を払う気でいるようだな。でもさ、払わなくてもいいよ」
「ほんと? 二人とも自転車通勤だし随分経済的ね」
第四十二章 恋の行方Ⅶ
昌代の父世之介から連絡があり次の日曜日に次郎の実家に行くことになった。
次郎の父鷺沼健司と母百合子は突然の次郎の結婚話に驚いたが次郎は次男で自分たちと同居するのではないので鈴木家について概ね説明を受けると快く承知した。戦後憲法が改まってから家族の認識が随分変わってきたが地方では旧い法律で定められていた家制度の仕来りが年寄りの脳裏に残っていて今でも長男を跡取り息子などと言う。
概ね話が決まった所で、健司は百合子と相談して次郎の兄夫婦太郎と佳織、昌代の両親世之介、千代それに主役の次郎と昌代を伴い小美玉市内のそばよしと言う旧家風の蕎麦屋に誘った。
「話は分かりました。内々だが次男の婚約を今日ここで決めたいのだが」
健司の提案に世之介は同意した。
「次郎と昌代さんの婚約を祝して乾杯!」
次郎の兄太郎の音頭で一同乾杯したあとで世之介が続けた。
「次郎さんはこの一月余り毎週拙宅にお出で下さってその間わたしは次郎さんの人となりを充分に知ることができました。次郎さんは大変立派な青年で昌代の生涯の伴侶として申し分ないと思うとります。今日こうしてめでたく婚約が成立しましたことを良いご縁ができたと家内も喜んでおります。これからは両家良きご親戚として仲良くして頂ければ幸いです。私どもの家は裕福ではありませんが末永くよろしくお願いします」
昌代は上手ではない父親の挨拶に真心がこめられていると感じて思わず頬に涙が伝い落ちた。母の千代もハンカチで目を押さえている。
「さ、おめでたい席ですから笑顔でいきましょう」
健司は陽気な顔をつくって場を明るくしようと努めた。
次郎と昌代は実家の小美玉で婚約を済ませて二人で次郎のアパートに戻った。
「今日から昌代は僕の大切なフィアンセだよ」
「はい。わたし尽くすから」
「疲れたから寝ようか」
「はい」
昌代は次郎が脱いだ服を畳むと布団を延べた。新婚初夜ではないが二人は抱き合って眠った。次郎は約束を守りセックスをしようと言わなかったが、次郎に抱きしめられて昌代は幸せだった。昌代の中では次郎を慕う気持ちが日毎に増して、こうして抱きしめられていると、次郎が本当に自分の恋人だと感じられるのだ。
朝は昌代が次郎より早く起きて朝食を支度、後片付けは二人でやって通勤は揃って家を出た。それ以後毎日が同じパターンで過ごし、週末の土曜日には朝食後自転車で昌代の実家に向かい、二人で農作業の手伝いをした。土曜の夜、次郎は義弟の啓介と一緒に寝て、日曜日農作業が終わると昌代と二人揃って自転車で相模原に戻った。昌代は元勤めていた工作機械メーカーでの悪い思い出を少しずつ振り払い、いつの間にか相模原の新しい職場に馴染み周囲の社員から可愛がられるようになった。社長は最初の間は次郎に気兼ねしていたが、それも次第に変わり、今では遠慮なくあれこれ言いつけたが昌代は一生懸命働いた。大抵の日は事務の仕事を午前中に切り上げて午後は現場の作業を手伝った。そのお蔭で現場の工員たちとも仲良くなれた。人は誰でも家の外でも中でも自分の居場所が欲しい。それも心地よい居場所がいい。心地の良い居場所は他人が作ってくれるものだと勘違いしている者がいるが、心地よい自分の居場所は自分が努力して作るものだ。昌代は特に意識をしていたわけではないが、持って生まれた性格で自然に自分の居場所を作った。
ようやく新しい生活のリズムが出来てきたとき、館林美寿江から電話が来た。
「あたしも会社を追い出されちゃったわよ」
昌代は驚いた。もしかして美寿江が意地悪をして昌代の悪い噂を流したのかも知れないと何となく感じていたのに当人の美寿江も会社を追い出されたなんて信じられなかった。
多子化 【第一巻】