2:君のとなり(KIMInoTONARI)

2:君のとなり(KIMInoTONARI)

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2章 誰もが傷つき合いながら生きている

2章 誰もが傷つき合いながら生きている

誰かを信じることは難しい。それでも信じたいと願い、その痛みに耐えながらも手を差し伸ばす。心の奥底では君を求め、繋がりたいと心が叫んでいる。

 大好評のうちに終わった学園祭から二日。
 二日間の振替休日に入っていたが、疲れからか体調を崩したまま昨日は丸一日寝て過ごしてしまった。
 今日は姉に誘われ、午後から繁華街に足を伸ばしていた。
 普段休日が変則的な姉とは一緒に出かけることは少ないが、たまに
休みが合う時などユウが暇そうにしていると見かねたように誘ってくる。
 信号待ちの交差点で姉の隣に立っていると、ふと姉が嬉しそうに呟いた。
「ユウ、あんたまたちょっと背伸びたんじゃない?」
 去年の今頃はまだ姉の方が背が高かったのだが、そう言われれば今はヒールを履いた姉と大体同じくらいの目線だった。
 一学期の身体測定の時には姉と同じ165センチくらいだったはずだが、あれからまた少し伸びたみたいだ。
「そうかもね」
「でも、あんたは身長が少し伸びたところで、体でも鍛えないと駄目かもね」
 姉が何を言いたいかはそれだけで十分伝わった。
 ただえさえ女顔なのだからもっと男らしくなるには、とかそう言う事だ。
 その通りだが余計なお世話だ。
 ユウは姉が購入した商品の入ったショッピングバッグを提げていた。調子に乗ってあちらこちらの店で買い物をしているので、なかなかの重さだ。
 いわゆる荷物持ちの役割を文句一つ言わずに担っているのは、多少”そう言う事”を自覚しているからだ。
 今日の姉の真の目的は買い物ではなく、好きな女性アイドルグループのインストアライブイベントだった。
 会場は駅から徒歩五分の場所にある電器店のビルで、上層階部分にはレコードショップが入っている。
 即座に最上階のイベント会場に向かったが、平日にも関わらず人混みでごった返していた。
 姉は「ヤバイ人多すぎ」とぼやいていた。
 早めに来たはずなのに、会場のイベント用ステージ前には既にファンたちが肩を並べて待ち構えていた。
 イベントは午後三時半スタート。まだ一時間近くも待たなくてはいけない。
 姉は列に並ぶと、当たり前の様にミュージックプレイヤーを取り出して音楽を聴きながら更にスマートフォンを構い出した。
 ユウは、僕の事なんてお構いなしだよ、と軽くため息を吐いた。
 暇つぶしに周りの人間観察でもしようとしたが、皆同じ様に携帯端末を構っているだけなのですぐに飽きてしまった。
 こんな事なら読みかけの本でも持参すれば良かったと後悔した。
 余りにも暇なので姉に声を掛け、イヤホンの片方を借りて一緒に音楽でも聴く事にした。今日これから出て来るアイドルのニューアルバムらしく、テクノ調ポップスだった。どうやら昨日発売したばかりのようだ。
 正直以前姉が入れ込んでいたアイドルグループの曲の方が良かった。
 姉に学園祭のイベントでもらったエステセットをあげたら喜んでいた。姉がいてちょうど良かった。
 姉はユウとは正反対に父親似のキリッとした美人で、社会人になってずいぶん見違えた。以前はずっとショートカットだったヘアスタイルも、今はカラーリングとパーマを施したロングヘアでずいぶん女性らしくなっていた。
 予定時刻を少し過ぎてようやくイベントが始まると、三人組のメンバーが現れて前方からはファンの雄々しい歓声が上がっていた。
 ”acqua”と名乗るその三人組アイドルグループのイベントはトークがメインで、途中と終わりに二曲歌った。
 一時間も並んで待ったのに、イベント自体はものの三十分にも満たない時間で終わってしまった。
 それでも姉や他のファンたちは表情を光悦とさせて「可愛かった~!」と満足そうに喜んでいた。
 ユウはこのグループの曲よりも、学園祭で田所(たどころ)たちが演奏していた曲の方が好みだなと思った。ふと思い出してあの時の興奮も蘇ったが、慌てて頭を振った。
 さてこの後どうしようか、と話していたら姉の携帯電話に着信が来た。
 しばらくして通話を終えた姉が言った。
「ごめんちょっと用事が出来たから、ここで解散」
 そう笑いながらショッピングバッグを奪い取るとユウを置き去りにした。
 ぽつんと取り残されたユウは、今度は一人どうしようかと首を傾げた。
 付き合えって引っ張り出されて、今更置いてけぼりとか、何だよ。
 なんだかんだ結構姉にも振り回されている気がする。
 仕方ない。せっかく街まで出てきたことだし、下の電器店で新しいミュージックプレイヤーでも物色することにした。
 臨時収入が入ったおかげで、小遣いを足してそれなりの新機種を買うこともできそうだ。
 本当はそろそろ自分用のPCが欲しいところだが、どうやって強請ろうか。
 様々な電気製品を見ながら店内をうろついていると、ふと見知った顔を見つけて思わず顔が強張った。
 ワックスでセットされた茶髪、耳には幾つものピアス。
 同じクラスの田所ケンジだった。
 大人っぽいプリントシャツにローゲージの赤色カーディガンを羽織って腕まくりするスタイルがよく似合っていて目を引く。
 田所は両耳にイヤホンを挿し、ポケットに片手を突っ込んだまま店内を物色しているようだった。
 ユウは慌てて物陰に隠れてどうしようかと考えた。
 もう田所とはこれ以上関わりたく無い。
 面倒な委員を押し付けられたり学園祭で女装させられたり、あいつに関わってからろくな事がない。
 自分のペースをかき乱されるだけ。
 どうせあいつも自分の事を影で笑う様な奴だ。
 こんなところで不用意に鉢合わせたく無かったので、見つからないうちにさっさと店を出る事にした。
 しかしエスカレーターを降りたところでポンと肩を叩かれてビクついた。
「おい、西山(にしやま)?」
 恐る恐る振り返ると、そこにいたのはやはり田所だった。
「おーっす、こんなところで何してんの?体調良くなった?」
 田所は愉快そうに笑いかけてきた。
「うん、まあ……」
 会いたく無いと思っている時こそ遭遇してしまうのは何故だろう。
「えー、今一人?」
「うんまあ、ちょっと」
 苦笑して誤摩化した。
「へー、俺も今一人でブラブラしてたんだけどさ、あ、この後暇?」
「えっ。いや……」
 嫌な予感がした。
「ま、こんなとこ一人でいるくらいだからどうせ暇だろ?腹へってねー?なんか食いに行こうぜ」
 やはり誘ってきたか。
 一人だからって暇だって決めつけないで欲しい。……実際暇だけど。
「そこのマックで良い?」
「えっ!?いや、もう帰ろうかと……」
「まー、いいから付き合えって」
 問答無用な態度の田所は断る隙も与えてくれなかった。
「昨日はほぼ一日爆睡してたわー。でも紫冠祭(しかんさい)めっちゃ楽しかったよな?」
 窓際近くの席に座り、馴れ馴れしい田所のその一方的なトークに、愛想笑いを浮かべていた。
 顔も見たくないと思っていた相手なのに、なぜ一緒に来てしまったのか、自分でも自分の行動がよくわからない。
「明日からまた授業とかだるいよなぁ。あーでも今度は修学旅行あるからな~っ!沖縄とかマジテンション上がるし」
 田所はコーラの入ったコップに口をつけつつ、片手でスマートフォンを構いながら独り言の様に話していた。
 話すか飲むかスマホいじるかどれかにすればいいのに。
 ユウはバーガーセットをひたすら食べることに徹した。
 田所は自分の事や学校の友人や教師の話をしていた様だが、ユウは適当に相づちをして聞き流していた。
 バーガーとポテト食べ終えドリンクを飲みほして、ふーっ!と一呼吸した。ふと静かな事に気がついて顔を上げると、田所が黙ってこちらを見つめていた。
「……何?」
 田所ももうすでに食事を済ませて頬杖を付いていた。
「いや、別に。そういや西山ってあの店良く来るの?」
 ユウは首を横に振った。「姉に誘われてインストアライブに行っただけ。たまに買い物に付き合わされるんだ。今日は急な用事が出来たらしくて先に行っちゃったけど」
「あー、なんかやってたっぽいな。俺も見にいきゃ良かった。西山って姉ちゃんと仲いいの?」
「別に普通だよ」
 これ以上仲良くなる気もないので当たり障りの無い話しかしたくない。しかし田所はそこから色々突っ込んで来た。
「西山って何人家族?」
「え……三人、かな」
「ふーん。じゃあ片親?」
「……そうだけど」
 ユウは戸惑って口ごもった。これ以上は踏み込んで欲しく無い。
「そういえば、これからどうするの?」
 咄嗟に話題を変える事にした。
「あー、ゲーセンでも行く?」
 全然行きたくも無い。ユウは首を振った。
「え、楽しいじゃん。せっかくだし行こうって!」
 田所はそう言うと立ち上がり、ユウの分のトレイまで勝手に片付けていた。
 勝手に先を行き「ほら、行くぞ!」とユウを急かす田所の、こういう強引なところは好きじゃ無い。
 店を出て近くのゲームセンターに向うと、田所は早速目についたクレーンゲームに手をかけた。
「この前これ取ろうとして結局取れなくてさー、二千円擦ったんだよなー。マジムカつくからリベンジしてやる」
 暫く田所の奮闘ぶりを見ていたが興味が無いためかすぐ飽きてしまって、熱中している田所を他所に他のコーナーへとぷらぷら彷徨った。
 最新の音楽ゲームが並ぶコーナーでは、大学生くらいの男女が驚く様な速さで両手を操作して対戦していた。
 何がなんだか分からないが、流れて来る音楽に興味が沸いて遠巻きに観戦した。
「あー、ガチ勢やべぇな」
 気がつくと田所がすぐ隣に来ていて驚いた。
「もういいの?」
「うん、取れた」
 田所はそう言って景品の入った袋を持ち上げた。こういうゲーム類は得意らしい。
「お前もなんかやんないの?」
「僕は別に良いよ」
「いーじゃんなんか対戦しようぜ」
 無理矢理誘われてレースゲームを対戦したが、操作も分からずてんで駄目だった。
 田所に「西山ヘタクソだな」と言って笑われ「じゃあ今度はこっち」とシューティングゲームに誘われた。当然ながらそれもほとんど敵に当たらなかった。
 小遣いも無駄に減るし、もう帰りたかった。
 しかし田所は遊び足りないらしく、自動販売機で購入した炭酸飲料を飲みながら「なんかカラオケ行きたくねぇ?」と言い出した。
 ユウはいい加減うんざりして「僕もう帰るよ」と告げた。
 すると田所が何の前触れもなく突然尋ねてきた。
「そう言えば、西山ん家ってもしかして母親がいねぇの?」
 思っても見ないタイミングで生傷をナイフで抉るような事を言う。
 ユウは言葉を失った。
「離婚とか?まーよくある話だけど」
 ユウは一瞬開きかけた口を固く結んだ。
 なんでこんな事聞いてくるんだろう。まるで嫌がらせだ。
 ズンと心が重くなった。よくある話だって?田所のデリカシーの無い言い方に腹が立った。
 誰にだって言いたく無い事だってあるし、訊かれたく無い事だってあるはずだ。
 こうやって色々聞き出して、他の誰かに吹聴してまた自分の事を笑うのかもしれない。
 ユウはやがて重い口を開いた。
「……そうだよ。浮気が原因ってやつで母さんが出て行ったんだよ。よくある、話だよね?なんか文句ある?」
 ユウが強い口調で睨むと、田所は動揺した様に狼狽えだした。
「えっ、いや……文句とかそんなのないし。何だよ急に」
「そうやって……人のプライベートな事に首突っ込むのって、田所には普通かも知れないけど、軽々しく訊かれるの嫌な人間もいるんだよね」
 田所は憤りを露にしたユウにようやく悪びれた様子で「悪い……」と詫びて来た。
「大して親しくも無いのに、土足で踏み込んで来ないでよ」
 ユウはそう言い残してその場を離れた。
「って、ちょっと待てって、西山!」
 田所が慌てた様に声を張り上げたが、ユウは立ち止まる事無くそのまま立ち去った。



「西山……!」
 咄嗟に追いかけようとして、躊躇した。
 ーー『大して親しくも無い』、か。
 頭の中でプレイバックした西山ユウの言葉に、田所ケンジは足を止めて暫くその場に立ち尽くした。
 自分が友達だと思っていた相手に、そうでは無いと否定される気分は到って最悪だ。
 このひと月余り、自分が築き上げてきたと思っていた関係性などただの虚構だった。
 その言葉を突きつけられてようやくその事実を知る。
『友達』の定義は人それぞれだ。どこから友達と認識するかは人の価値観によっても違う。
 仲良くなったと思っていたのはどうやら自分の勘違いだったようだ。
 いや、そもそも他人の家庭事情にそう簡単に踏み込んでいいはずがなかった。
 やってしまった。
「チッ……!」
 愚かな自分が腹立たしくて舌打ちをした。
 西山ユウに興味を持ち始めたのは一学期の終わり頃。
 最初は目立たないクラスメートの一人くらいにしか認識しておらず、全然興味もなかった。
 きっかけはちょっとしたタイミングだ。ある時ふと西山の方に目が行った。
 いつも本を読んでいる様子の西山だったが、その日西山が手にしていたのは昆虫図鑑で、それに気づいた時は思わず吹き出しそうになった。
 高校生にもなって昆虫図鑑なんてわざわざ借りて読むやつがいるのかと、可笑しくてたまらなかった。
 他のクラスメートたちは話に夢中だったので、ケンジは密かにその様子を観察することにした。
 西山は表情一つ変えずに最後まで読み終えて本を閉じた。
 その瞬間ため息をついて、「やっぱり借りなきゃ良かった」と呟いたのが聞こえた気がした。
 なんだコイツ、意外と面白い奴なのかも。そう思って西山ユウという人物に興味を抱いた。
 よく話す女子たちに何気なく西山の話を振ると、意外とその容姿に注目している女子も少なく無かった。
 言われれば確かに見た目は悪く無いのに、どうしてこんなに目立たないのだろう。
 社交性はあれど、常に他人と一線を引いているような態度だったからあえて話しかけることはなかった。
 観察すれば観察するほど、まるでわざと気配でも消しているかのようで、逆にそのことにも興味が沸いた。
 二学期に入り、面倒だと思っていた席替えで、西山が自分の後ろの席になった。
 話しかけるチャンスを伺っていた。
 真面目かと思っていたら、案外授業中に眠りこけていたからつい声をかけた。
 最初は相当疎まれている感はあった。いつもの調子で下ネタに走ったのがお気に召さなかったようだ。
 でもだんだんと心を開いてくれていると思っていた。
 普段は優柔不断で大人しい性格だと思いきや、怒ってキレるとドSになるとか、今までツルんでいた奴らの中にはいないタイプの人間で面白かった。
 もっと仲良くなって色々知りたいと思っていた。
 だが焦って、うっかりミスを犯した。軽率な言葉を口にして、西山を傷つけてしまったことを後悔した。
 単なる興味本位だけじゃない。もしかしたら自分の境遇と似ているのではないかと、確かめたかっただけなのだ。
 ケンジは繁華街の大通りをぼんやりしながら駅に向って歩いていた。
「あれー?タドピー?」
 声を掛けられて無意識に反応する。
「あー!やっぱり!学祭お疲れー!超イケてたよ?」
 一年の時同じクラスだった女子たちだった。
 軽いノリで盛り上がれるからよく遊んでいた女子グループ。自然とそのノリに合わせて会話する。
「おー、久しぶり。お疲れー?俺がイケてんのいつもの事だろー?」
「あはは!マジウケる!最近調子乗ってるっしょー?でもヒーローとか超ウケた!」
「まあー、ヒーローっつうか救世主?盛り上がったっしょ?」
「うんうん、マジヤバかった!他校の友達が今度タドピーに会いたいって?久々にまた遊ぼーよ?」
「おー、遊ぼーぜ」
「じゃあまた学校でー!LIMEするねー!」
 バカみたいに大振りに手を振って愛想笑い。
 軽く見送って振り返ると、なんだかどっと疲れが沸いて来た。
「なんか、しんどいな……」つい独り弱音を吐く。
 落ち込んでいたのに無理して明るく振舞ったから余計だ。
 いつの間にか、人前だと無意識の内にバカ元気に明るく振る舞おうとするのが癖になっていた。
 ノリが良いのは勿論嫌いじゃない。ただいつもいつも軽いノリのお調子者を通し続けるのは正直しんどい。
 でももう周りがそれを許さない気がして、内心少し疲れた。
 少し喋らないと具合でも悪いのかとか言われて、気がついたらもう後戻り出来なくなっていた。 
 駅から電車に乗って家路に着いた。
 住宅街の上り坂の中腹にある中古の一軒家。自分が生まれた時に家族はここに越して来た。
 家の近くまで来ると近所のおばさんが挨拶してくれた。ケンジは笑って挨拶を返した。
「そうだケンジくん、これうちの田舎から送って来たんだけどたくさんありすぎるから近所に配ってるの、ケンジくんとこも良かったら貰ってくれない?」
「えっ?マジっすか?ありがとうございます。いただきます!」
 ビニール袋の中を覗くと大振りの大根と人参が何本も入っていた。
 ケンジはお礼を言って意気揚々と家に持ち帰った。
 スウェットに着替えてから腕まくりをして早速夕飯の支度を始める。
 せっかくなので先ほどいただいた大根と人参を使って煮物でも作ろうと、スマホを取り出して『大根 人参 煮物』とウェブ検索。すると簡単レシピの共有サイトが表示された。
 冷蔵庫の中身を確かめて、早速鶏肉と牛蒡とこんにゃくで筑前煮風に煮込むことにした。
 大根は何にでも使えるからありがたい。
 ケンジは野菜の皮をむき具材毎に大きさを切り分けて、レシピ通りこんにゃくはスプーンでちぎって軽く塩揉みした。結構手間はかかるが明日の分も作り置き出来るから結果的に楽だ。
 醤油を入れて鍋で煮込みながらスマホをいじる。バンド仲間と反省会の予定の話や、同級生たちとのたわいもないグループトーク。
 皆自分が今料理しながら返信してるなんて思っても無いだろう。
 料理をする様になったのはここ数年。
 母親がいなくなって必然的に家事をしなければならなくなったからだ。
 意外と料理は嫌いじゃなくて寧ろ楽しい。掃除とか洗濯もまあ嫌いじゃないが面倒くさいのである程度まとめてやる事が多い。
 中学の時はまだ真面目な方だったと思う。勉強はまあそこそこやってたので成績も常に上位の方だった。所属していたバスケ部ではキャプテンで、部活動に熱心だった。
 でも母親たちが出て行ってしまったあの事件から暫くは苦悩して落ち込んだ。
 元気が無いと憂慮する友人たちにも詳しい事情を話すことは出来なかった。
 ただ親が離婚しただけ、よくある話だと言って自ら笑った。
 その反動のせいか高校入学後は無駄にハイテンションなお調子者キャラを演じて自分を鼓舞した。
 すると結構色々ふっとんで余り悩まなくなった。
 調子に乗って髪色を明るくしたりピアスを開けたりしたせいで中学時代を知っている連中に「田所は高校デビュー」とか言われたが、今はそれも懐かしい。
 実際今は学校生活もそれなりに楽しいし、小遣いもらって好きな事して遊んで暮らしているからそれでいい。
 でも時々、心にぽっかり穴が空いているように感じるときがある。
 虚しくて、悔しくて、仕方がなくなる。
 そろそろ出来上がったかな、と思った頃に父親が帰ってきた。
「……お帰り」
「ああ」
「飯できてる」
「ああ」
 二言三言の会話をして二人分の食事の準備を進める。
 昨日の残り物のカボチャの煮物と今作った煮物、大根サラダ、大根のみそ汁。
「今日田淵(たぶち)のおばさんに大根と人参貰った」
「そうか。お礼を言っておく」
 その後は居間でテレビを見ながら殆ど無言のまま食事を済ませる。
 いつもの事だ。
 食事が終わると食器を片付けてその間父親が風呂に入る。
 父親が風呂から出れば自分の番。
 風呂上がりにはついでに風呂掃除までしてしまう。こうしておけば明日がまた楽になる。
 男二人暮らしに始めは不便も多かったが、慣れて来ると意外と出来なくも無い。
 父親は仕事してるし、必然的に自分が家事をするようになった。
 でもやっぱり、どうしても。
 母親がいてくれれば良かった……と、未だに思う。
 あの時、西山が屋上に上がる階段でぐったりしているのを見つけて、そばに駆け寄った時、あいつはうなされて泣いていた。
 確かに聞いた、ーー母さん、行かないで、って。


 カーテン越しに差し込んで来た生まれたての光に照らされて目覚める。
 その眩しさに腕で瞼を覆うが、動かした左腕が痺れている。暫く痺れが切れるのを待った。
 何度か瞼を開けたり閉じたりしていた。
 天井に貼られた英国ロック歌手のポスターがぼんやりと瞳に映る。貼ったのは何年も前だ。四隅の角の一つが少し剥がれかけている。
 鼻から大きく深呼吸すると、ケンジは徐にベッドの脇に座り込んだ。
 上体を起こし前かがみにうなだれると、頭をくしゃくしゃと掻きむしった。
 大欠伸をかきながら腕をぐるぐると回す。
 立ち上がってオーディオのスイッチを入れると、スピーカーからは激しいロック音楽が流れ出した。
 それに耳を傾けながら軽くストレッチを行う。
 日課になりつつある筋トレ。自重トレーニングを中心に腹筋系は毎日、スクワット、腕立て、背筋は曜日ごとのローテーションで、ゆっくりと時間をかけて十回から五十回を数セット。
 その後は気が向けばギターを手に取ってハミングしながらアルペジオとピッキングの練習。
 朝起きて顔を洗うよりも先、いの一番にやる。
 気が済めばようやく部屋を出て、トイレで用を足して洗面所で洗顔と歯磨きを行う。汗が酷ければそのまま風呂場へ行ってシャワーを浴びる。
 自室に戻って制服に着替え、髪をワックスでセットし身支度を整えて部屋を出る。
 リズム良く音を立てて曲がり階段を下り台所に向かうと、既に父親が朝食を済ませて新聞を読んでいた。
 朝は大抵父親が朝食の準備をしてくれる。納豆とみそ汁と焼き魚に昨日の残り物の煮物。昼は大抵買い弁で済ませる事にしている。
「いただきます」、と軽く手を合わせて呟くと無言で食べ始めた。
 すると新聞を読み終えた父親が思い出した様に口を開いた。
「そう言えば明日ノリコが来るそうだ」
 ケンジは一言「そっか」と返した。
 ノリコとはケンジの従姉だった。 
 六歳年上になるノリコは高校卒業後すぐに結婚して二人の子供がいる。昔から仲の良かったノリコは最近ではたまに子供を連れて遊びにくると、ケンジたちの分も夕飯を作って食べてから帰って行く。
 明日は夕飯のメニューを考えなくて良さそうだ。
 ふと予定を思い出して「今日は少し遅くなるから適当に食ってて」と付け足した。
 父親は運送会社の制服に着替えて出勤して行った。 
 今日はいつもより会話した方だ。
 今やたった二人家族なのに会話もめっきり減ってしまった。まあ他に家族がいたところで父と息子なんてこんなものなのかもしれないが。
 ケンジも食事を済ませた後食器を洗い終え、身支度をして家を出た。
 学園に着くとまたいつもの調子で声を掛けられる。
「おっす!田所!」
「っはよー!」
「おー!っはよー」
 ケンジは手を挙げて愛想笑いを振りまく。
 教室に入るとクラスメート達が話しかけてきた。
「おはよーっす」
「よーケンジ!代休何してた?」
「えー?ほぼ寝てた」
「寂しい奴だなー?俺誘ってくれれば遊んでやったのにー」
 クラスメートの蜷川(にながわ)シュウヤ。
 人の事言えないがコイツは相当ウザイキャラが浸透している。しかし何処か憎めないひょうきんさがある。
 見た目通りのバカだが悪い奴じゃないしノリの良さから付き合いも多い。
「そいつぁどうも」笑いながら自分の席に向った。
 なぜ嘘を吐いたのか自分でもわからないが、昨日はたまには一人で出かける日があっても悪くないと思い、あえて誰も誘わなかった。
 そこで西山に遭遇したのだが、その時はただ単純に嬉しくて声をかけた。
 後ろの席の西山の姿が目に入った。いつも通り何かの本を読んでいる。
 窓を背にした状態で椅子に横向きに座り、声をかけた。
「おはよ、西山」
 だが、まるで何も聞こえていないかの様に反応がない。
 こころなしか”話しかけて来るなオーラ”が出ている気がする。
「学祭おっ疲れー」蜷川を含め仲のいい何人かがケンジを囲った。
「あーお疲れ」
「田所たちのバンドって今度いつライブやんの?」
「えーと、次は年末かな。結構でかいとこ誘われてさ」
 ケンジがSHRが始まるまで他のクラスメートと会話している間中、西山はずっと本とにらめっこしていた。
 この日の午前中は先日の学園祭の片付けを分担してやる事になっていた。
 ケンジがグラウンドの特設ステージの撤去を手伝っていると、一緒に片付けを手伝っていた体育教師の深山が声を掛けてきた。
「おー、田所!お前今帰宅部でやることないんだろ?どうだいっそボクシング部に入部しないか?」
 深山はボクシング部の顧問だったが、今年は部員数が少な過ぎて来年以降廃部になるのではないかと噂されていた。
「ヤっすよ~、俺バンドで忙しいんで」
 ケンジは笑いながらさらりと断った。
「スパーリングだけでも体験してみないか?いい感じで筋肉付くぞー?」
 深山はしぶとくケンジの肩を叩いてきた。
「ん?なんだお前結構鍛えてんじゃん」深山がケンジの上腕や背中をガシガシと掴んできた。
 ケンジはニッ、と一笑して叫んだ。「やだー、先生セクハラー!」
 ひらりと身をかわし、深山の腕を振り払うとその場から小走りで逃げた。
 予定通り午前中で片付けが済むと、昼休みの後は通常通りの授業が再開された。
 片付けで疲れた体に授業の退屈さは眠気を誘った。
 いつの間にか居眠りをしていると、「おい!起きろ!」と厳格ジジイと名高い教師に頭を教科書で殴られて目が覚めた。
「いってぇ~……」
「いてぇじゃない。真面目に授業受けろ。中間試験は来週だぞ」
 クラスメート達はこちらを見て笑っている。
 つい後ろの席を横目見たが、西山はまるで興味がないとばかりに無表情だった。
 さっき昼飯を誘おうとした時も、ケンジが声をかける前にさっさと教室を出て行ってしまった。
 昨日の事を引きずっているのは明白だった。
 放課後、ちゃんと謝ろうと思い切って声を掛けた。
「なあ、西山……」
 だが西山はタイミングを見計らったかのように立ち上がり、荷物を持って席を離れた。その時西山の後ろの席の男子が声をかけ、それには普段通り挨拶を返して行ったが、とうとうケンジとは一切目も合わせようとしなかった。
 ケンジは慌てて立ち上がり西山の後を追って教室の出口に向かった。
 だが、足早に去っていく西山の後ろ姿を見たとき、足が止まり扉に手をかけたまま見送ることしかできなかった。
 まるで背中で語る男だ。相当怒っているのか近寄りがたいオーラを漂わせながらあっという間に遠くにいる。
 西山とは本気で友達になりたいと思っていた。
 繊細な西山の性格を考慮して、もっと色々慎重に行くべきだったのだ。
 しかし後悔は先に立たない。ケンジは項垂れた。
「さっきの西山だよな」
 目の前で隣のクラスの男子二人が西山の後ろ姿を見ながら話しているのが聞こえた。
「西山の女装はマジ凄かったよなー?またやんねーかな」
 あぁ、あれは確かに可愛かった……。
 って、そうじゃなくて。ケンジは慌てて頭を振った。
「っていうか昼休みに上級生に絡まれてたぜ。パンツ何色ー?とか言われちゃってさ」
 男子生徒の言葉に思わず眉を顰めた。なんだって?
 学園祭での出来事に関しては諸々許してもらえたと勝手に思っていたが、こんな風に尾を引いてしまうとは。
 ただえさえ親の事で心象を悪くした上に、俺が女装させたせいで揶揄われるとか、西山からしたらクソみてぇな状況だ。
 そりゃガン無視するわけだ、とケンジは苦汁を飲まされたような気分になった。
 いっそ前みたいにお前が悪いと面罵してくれた方がマシだった。
「ケンジ、今日暇?ゲーセン行かね?」荷物を取りに席に戻ると蜷川が声をかけてきた。
「あー、無理用事ある。お前こそ今日塾は?」
「今日はサボり!」
「あーっそ!悪りぃけど他を当たれよ」ため息をつきながら教室を出た。
 駅前のカラオケ店に駆けつけると、バンドのメンバーたちが面を揃えていた。
 反省会という名の打ち上げだった。
 夜十時までのフリータイム。設備は古いが料金が安い上にフリードリンク制なので学園の生徒はよく利用していた。
「えーっと、じゃあとりあえずお疲れさま!」
 各々ドリンクグラスを片手に軽く打ち付けあった。
「んじゃまあ最初に反省会という事で、まず一番反省しなきゃならん奴立て!」
 本来のドラムパート担当、自称ぽっちゃり系の通称マルオこと丸井ケンタが偉そうに叫んだ。
「お前だろうが!」
 他のメンバー全員で突っ込むハメになる。
「え?俺?」
 マルオは驚いたかの様に自分を指差した。
「本番一ヶ月前に全治一ヶ月の怪我をするとかありえない」
 そう言うのはベースパート担当の担岡(になおか)イサヲ。中学時代のあだ名の”イサミン”という名を呼ぶとヒステリックに怒り出す。
 今度はギターパート担当の我妻リュウジ、通称アガチョが言い放った。
「お前出てなかったから、もう帰っていいよ」
 その言葉にマルオは「何言ってんだよお前ら、俺がステージの外から熱いテレパシーを送ってたの気づかなかったの?」と意味不明な事を発した。
「あの時俺の熱い魂はお前らと一緒にあのステージ上に居たんだよ!」
 それにアガチョが野次を飛ばす。
「うるさいぞデブー!」
「デブじゃねぇ!ぽっちゃり系だボケ!」
「はいはい、どっちでも良いよポチャデブ」
 ケンジたちはいつものごとく適当にあしらった。
「ライブの動画撮ってやったじゃん」
「あれ手ブレ酷過ぎ!しかも音もこもってて最悪だし」
 マルオがスマホで撮った動画は確かにあまり参考にならなかった。しかし、自分たちのライブを客観的に観ておく必要はあったので、全くの無意味という訳でもなかった。
「二番目に反省しなきゃなのはお前だけどな、ケンジ」
「えっ?」
 アガチョに言われて眉を潜めた。
「なんで俺?」
「何でって、お前ライブ中に自分のクラスメート、ステージにあげちゃうんだもん。しかもコンテストの宣伝するし~」
 ケンジは指摘されて「ああそれか……」と呟いた。
「あーっ!それな!あの超絶美少女だろ!」
 マルオが興奮した様子でケンジの方を指して叫ぶとアガチョが「男だけどね」と突っ込んだ。
「別にもう良いじゃん、終わりかけだったし」
 ケンジは少しふてくされてコーラをゴクゴクと飲み干した。
「よくねーよぉ」
「……あれは女神だったな」
 イサヲが遠い目をしてため息を吐いていた。
「だから男だって」と再びアガチョが突っ込む。
「今度連れて来いよー!仲良いんだろ?」
 マルオに言われてケンジは言葉に詰まった。
「……いや。多分無理」
 西山の事を思い出して少し落ち込んでいるとアガチョが不思議そうに尋ねて来た。
「どうかした?」
「別に何でもねーよ。っていうか、もうさっさと曲入れね?」
 ケンジは無理矢理笑顔を作った。憂さ晴らしは思いっきり歌うに限る。
「おーっ!そーしよ!俺の快気祝いもかねて!」
 マルオが調子良くマイクを握りしめた。
「自分で言うなよ!」
「お前らいっつも言うけど、俺三年だからな!先輩だからな!もっと敬えよ!」
「ムリムリ~!」
 笑いながら手を振った。
 その後は結局反省会そっちのけカラオケ大会。それぞれ好みの曲が違うがかえって飽きない。
 コイツらは他の学校の連中とはまた違う存在。気兼ねなく接する事の出来る大切な仲間だ。
 仲間とバカみたいに笑い合っていれば、その時だけは色んな事を忘れられる。
 結局盛り上がって時間めいっぱい遊んでしまった。帰りに三件隣のラーメン店で腹を満たして帰った。
 流石にちょっと遅くなりすぎたなぁと反省した。
 帰ると案の定不機嫌な様子の父親に出迎えられた。
「こんなに遅くなるなら連絡入れろ。風呂が冷めただろうが」
「サーセン」ケンジがぼそっと呟いて謝ると、父親は
「明日も学校なんだからさっさと寝ろ」
 そう言って自分の部屋に戻っていった。
 ため息を吐きながらシャワーを浴び、歯を磨きながらスマホをイジる。
 グループチャットでバンド仲間と次の練習日を決め、クラスメートや友人からのメッセージの返信を返す。
 クラスのグループで学園祭の動画のURLが回って来た。
 学祭委員が早速編集して動画をアップしたようだ。
 ダンスパフォーマンスや漫才大会、三年のクラス発表の動画も幾つかアップされていた。
 ベッドの上で仰向けになってスマホを掲げた。
 そう言えば自分は西山の連絡先すら知らない。
 教えろって言ったのに結局教えてもらってない。よく考えたら他にそんな例はない。
 西山は最初から自分に気を許してなどなかったのか。
 本当に自分だけ友達の気分でいたって事か。
 ケンジは疲れた腕を下ろして額の上に乗せた。
 コンテストの後喧嘩したけど、一緒に出店回ったの楽しかったな……。
 つい一週間前の学園祭が遠い日の出来事に感じる。
 西山の色んな一面が垣間みれたし、それに西山がキレたあの時少し本音でぶつかって来てくれた気がして正直嬉しかった。
 何故だろう、気がついたら一緒に居て楽しくて、もっと仲良くなりたかったのにな。

 翌日登校すると、昇降口からほど近い掲示板の前に生徒たちの人だかりができていた。
 ケンジは下駄箱に入っていた手紙をそっと鞄の奥にしまいながら、群がっている生徒たちの隙間から中心の様子を伺う。
「何なに?」
 近くにいた男子生徒の肩を叩いて尋ねると、そいつは「学祭の写真だよ」と答えた。
「あー、掲示販売か」
 保護者向けにインターネットでも予約注文できるが、生徒たちにとってはこうやって同級生たちとワイワイガヤガヤ言いながら見るのが楽しみであったりもする。
 頬を指で掻きながらケンジが呟くと、パッと目の前の人だかりが割れた。
 なんだ?と思っていると、生徒たちがザワザワと自分の名前を口にした。
「タドケンだ……」
田所(たどころ)先輩……!」
 その場にいたのは大半が下級生で、物珍しそうにというか、ニヤニヤしながらこちらを見つめている。女子の熱い視線は嬉しいが、中には面白くなさそうな表情の男子もいて、面倒なことになったなと思った。
 どうやら学園祭の反響はでかい様だ。
 それもそのはず、ポップに飾り付けされた掲示コーナーには、ふと目についただけで四、五枚自分が映っている写真を見つけてしまった。
 コスプレ時の写真やライブ中の写真など、我ながらひときわ目立っている。後日改めて客観的に見ると、その姿がなんだか急に恥ずかしくなった。
「あっ、俺超写ってんじゃん!ヤッベー変な顔、ウケる。なあ?」
 そう言いながら近くの男子の肩を叩く。笑って誤摩化してその場から立ち去った。
 教室に入ると挨拶もなしに、早速蜷川(にながわ)が切り掛かってきた。
「おいケンジ!学祭写真、お前ばっかり写ってんじゃねーよ!」
「確かに。田所の写真めっちゃ貼られてたな」
 クラスメートの注目が一斉に集まった。
「カメラマン贔屓じゃね?」
 会話をしていた女子たちもクスクスと笑いながらこちらを一瞥した。
「どっちかっていうと、掲示コーナー作った人の趣味でしょ?だれか知んないけど」
 クラスメート達に詰られて何とも言えない気分だった。
 学園祭など大きな行事の際は学園の契約カメラマンが写真撮影している。
 そういえば行く所々で声をかけられ、調子に乗ってカメラに向かった記憶がある。
「ところでさぁ」蜷川が耳元で囁いた。
「残念ながら西山(にしやま)の女装写真が一枚もないんだけど」
 思わず西山の方を盗み見てしまう。西山は鞄から教科書やノートを取り出して机にしまっていた。
 ケンジは視線を戻して答えた。「……だろうな」
 プライバシーとか肖像権の問題で、本人の許可がなければ撮影したり公開はできない規則だった。撮っていいかと聞かれて西山がそれを許した訳がない。
「誰か写メってねぇかなぁ~」
 見るなと言われると見たくなるように、見れないと思うとあれこれ想像を巡らしたくなるものだ。
 写真がないことで、逆に西山の女装が話題になっていた。
「あれは伝説として語り継がれるな」
「下手なアイドルより可愛かった」などと吹聴され、その姿を目にしていなかった者たちも西山の女装がやばかったらしいと口々に噂した。
 おかげで今までずっと目立たない存在だった西山は、心ない冷やかしを受けたり、暇を持て余している連中にとって退屈を紛らわす格好のネタになっていた。
「ユウちゃん超可愛いね~!」
「西山ちゃん、今度スカート履いて来いよ。俺が可愛い下着プレゼントしたげるからさぁ」
 同じ学年のやんちゃな連中が、通りすがり教室内に向かってヤジを飛ばしてきた。
 女子が「何なのよあいつら」と顔をしかめたが、西山は聞こえていませんとばかりに無反応を決め込んでいた。
 本人のいない所でも陰口の様に噂する連中も少なく無かった。トイレに行けば他クラスの奴らが声を潜めて笑っていた。
「西山なら女子の制服着てても先生にバレねぇんじゃねえの?」
「あっは!言えてる!」
 蜷川たちもそんな校内の雰囲気に同調してか、後ろの席で相変わらず本を読んでいる西山の方を向いてヒソヒソと囁いて来た。
「西山って今まで目立たなかったけど、女装してからスゲー注目の的じゃん。いっそ毎日女子の格好で来たら面白いのにな」
「……おいやめろよ。本人に聞こえんじゃん」
「なんだよ、ケンジだって面白がってたろ」
 そう言われてバツが悪かった。ケンジは舌打ちした。
 確かに女装させたのは自分だ。だがまさかここまで西山を窮地に立たせてしまうハメになるとは。
 西山は相変わらずケンジを無視し続けた。授業中以外はイヤホンを耳に挿しひたすら本とにらめっこしている。その姿は、噂話に盛り上がる生徒たちから自分を隔絶しようとしている様にも見えた。
 良くも悪くも、西山が注目を浴びているの確かだ。ケンジは人知れず責任感のようなものを感じて心を痛めていたが、今更どうしてやればいいかわからなかった。
 だがそのうち西山の心配ばかりしてもいられなくなった。
 放課後、廊下で声をかけられた。
「あ、あのさ田所、ちょっといいかな?」
 振り返ると隣のクラスの奴だった。
「学園祭に来てた妹が田所たちのライブ見てファンになったらしくてさ、悪いけどちょっとサインしてくれない?」
「は?」
 その男子はわざわざ色紙とペンを差し出してきた。
「え、でも俺サインとかした事無いけど?」
「まーまー、適当で良いから」
「はぁ……」
 ケンジは仕方なくバンド名も入れてそれっぽくかいてみた。意外とイケてるんじゃないか?よし、もし今後サインとか頼まれる様な事があればこれからこれを使おう。
「あ、妹チナツっていうから」
「あー、おけ」”チナツちゃんへ”と入れてみた。
「ついでに写メ撮っていい?」
 ケンジが頷くや否やスマホを向けられたので反射的にポーズをとる。
「マジありがと!」
 そいつはサインを奪い取ると満足そうに笑って去って行った。
 サインに写メって、芸能人かよ。と一人ツッコミを入れた。
 照れくさいながらもなんとなくその気になっていると、少し離れた先の廊下に恐い顔をした上級生の男子が数人、窓際の壁にすがりながらこちらにガンを垂れていた。
 ケンジは嫌な予感がしてくるりと反対方向に踵を返した。
「おーい、たっどころくーん」
「タードーコーローケーンージーく~ん!」
 ケンジはそいつらに呼び止められ思わず小さく舌打ちをした。
 振り返る頃には足早に駆け寄って来た仲間の一人に肩をポンと叩かれた。
「なぁ人気者の田所くん。俺たちにもその秘訣を教えろよ?」
 サイドをガッツリ刈上げたソフトモヒカンの奴が低い声で囁きながら肩に肘を乗せて来た。自分よりもタッパがある。
 そう言えばコイツら、学園祭二日目に自分がバカ呼ばわりして逃げた相手だ。思い出して青ざめた。
 元々問題児の集まりで散々騒ぎを起こして教師から目をつけられている。
 ツラを貸せと言われ、連れられてやって来たのは定番のごとく東側の校舎裏。
 グラウンドの反対側で人通りはほぼない。
 胸ぐらを掴まれたかと思うとそのまま壁に突き飛ばされた。 
「まあ何でこうなるか分かると思うけど」
「調子のりすぎ」そう言って一人が膝蹴りを食らわせてきた。
 ドン、という衝動とともに鈍い痛みに襲われる。
 ケンジは腹部を庇いながら思わず笑いが込み上げて来た。
 こういうシチュエーション、中学の頃不良漫画に憧れて想像したこともあった。だがいざ現実に起こるとそれを思い出してなんか異様に可笑しく感じる。
「笑んなよ。余裕ぶってんじゃねぇぞタコ」
 ケンジは幾度か足蹴りにされた。
「あーあ、俺らもさーそれなりに楽しみにしてたわけですよ。最後の学祭ー?あーなのにお前みたいなのがしゃしゃり出てマジつまんねー」
「まあ別にそれは許してやるよ。色々滑稽で傑作だったし。あー、お前いっそ芸人でも目指したら?全身白タイツでも着てさ」
 奴らは、はははっ!と腹を抱えて笑い出した。
 何でお前らに許されなきゃいけないんだよ、とケンジが少し反抗的な目で睨みつけると、黙っていたソフトモヒカンが突然ケンジのみぞおち目がけてキツい一発を打ち込んで来た。
「俺からの拍手だ、バーカ」
 見事に入ってガハッ!と激痛の余り呼吸が出来ずに倒れ込んだ。
「言っとくけど復讐とか無駄だから。まー今後は大人しくいい子ちゃんにしてた方が身のためってやつかなー?これは忠告」
 ようやく呼吸が戻り咽せていると、髪の毛を鷲掴みにされて頭を引っ張られた。
「別に俺ら以外にもお前の事気に食わない奴なんていっぱいいるからさ、まー精々気をつけろよ」
 笑いながら去って行く連中をケンジは睨みながら唾を吐き捨てた。
 あーくそ。
 ケンジは立ち上がって頭を後ろの壁にガンと打ち付けた。
 何の抵抗もできなかった。そりゃ喧嘩なんかしたこともない。
 出る杭は打たれるってやつ。あぁ、暴力反対。
 でもいっそ西山にしたことの罰だとでも思えば、少しは気が楽になった。


 クソ、いってぇ……!
 ケンジは片手で腹部を押さえ壁に手をつきながら校舎内に戻った。
 シャツをはぐってみると、殴られたところがうっすら赤く腫れていた。これは痕が残りそうだ。あのクソモヒカン野郎。
 こんなことならやはりボクシング部にでも入っておくべきだったか。
 荷物を取りに教室に戻ろうとすると、掲示板付近にはまた人だかりができていた。
 テスト前期間に入り部活動が休みになった生徒たちも含め、帰りがけにまた盛り上がっているに違いなかった。
 ケンジはこんなみっともない姿を人前に晒す気にはなれなかった。舌打ちしながら踵を返し、別ルートを探す。
「おい、聞いたか。なんか第二視聴覚室で秘密裏に学祭写真販売されてるらしいぜ」
 東棟のB階段を上がろうとすると上の方から男子生徒の声がした。
「えっ?どういうこと?」
「西山の女装写真あるってよ。隠し撮りしてたらしい」
「うそ、それってやばくね?」
 ケンジは下唇を噛んだ。
「ついでに言うと西山だけじゃなくてあの吉川(よしかわ)のコスプレ写真とか、三年のマドンナのあんな写真やこんな写真まで幅広い品揃えらしいぞ」
「マジか!俺らも行こうぜ」
 同じ学年の奴らのようだ。
 何となく嫌な予感がして、ケンジも確かめなければならない気がした。
 彼らの気配が遠くへ去り行くのを待ってから、階段を上った。
 焦る気持ちからか、いつの間にか二段飛ばしで駆け上がっていた。衝撃で腹部が痛み、イテテ、と思わず身を屈めた。
 すると突然現れた女子二人組とぶつかってしまった。
「キャッ!」
「あっ、悪い!」
 ケンジはぶつかった衝撃で女子の一人が落とした荷物を拾い上げようとした。
「あっ……!」
「キャッ!田所せんぱ……!」
 何か封筒から写真の様な物。
 ケンジは思わずそれを拾い上げた。
 それを見て愕然とした。
 間違いなくこれは学園祭の時のものだが、ちょうどケンジが西山にキスをしたところを絶妙なアングルで捉えられていた。
 ケンジは思わず頭を抱えた。
「……これって……」
「キャーッ!?先輩ごめんなさいっ!許してくださいっ!」
 一年の女子は泣きそうな声をあげながらケンジが拾い上げた写真を奪い取ると、悲鳴を発しながら階段を降り去ってしまった。
 最悪の形で嫌な予感が的中した。
 ケンジは急いで彼女たちがそれを手に入れただろう現場に向った。
 東棟四階第二視聴覚室。
 メインの視聴覚室に比べるとかなり狭めのカーペット敷の特別教室。普段は選択授業で使用する程度、放課後にたまに文化部が利用するとかしないとか。
 部屋の入り口の靴入れには結構な人数の上靴が並んでいた。
 ケンジが上靴を脱ぎ捨てて中に足を踏み入れると、中にいた生徒の一部がヒソヒソと騒いで入れ違いに出て行った。
 その場にいたのは全部で二十人くらいだろうか。
 奥の壁際の隅でふんぞり返ってる男子生徒の姿を見つけて、やっぱりな、と思った。
「おやおや、これはこれは田所ケンジくんではありませんか」
 三年の木村シンゴ。情報通で学園の裏事情から噂話まで、奴の耳に入らない情報は無いと言われている。
 然るに、時には姑息な手段を使ってでも自分の都合が良い様に教師から問題児共まで根回し手回しし、学園を裏で牛耳っているとかいう大層な噂まである。
 まあ言ってみればケンジも良いように使われた一人だったのだが。
 木村が声を発すると中にいた全員がケンジの存在に気づいてザワ付き始めた。
「やっぱりあんたの仕業って訳か」
 ケンジが眉間に皺を寄せながら木村に近寄ると、空気を察した生徒たちは一人また一人とその場を去って行った。
 中央に置かれた会議机にはなにやらフォトアルバムの様な物が散乱している。それで写真を物色して反対側の販売役の生徒に欲しい写真の番号を言って購入するシステムの様だ。
 木村は椅子から立ち上がり片手を広げた。
「あー、この写真の事?それがどうかしたか?」
 ケンジは舌打ちした。
「変な写真バラ撒きやがって」
「どれも良く撮れてるだろ。将来有望な写真部の連中に撮らせたんだぜ」
 木村は歩いて写真の入ったクリアファイルの一つを広げた。
「ほら、お前だってちゃんと男前に良く撮れてんじゃん。何、ケチ付ける気?ナルシストは本当面倒臭いな」
 木村が鼻で笑うと、近くにいた黒ブチ眼鏡の生徒が同調してフフッと笑った。
 悔しいが、確かに写真はどれもプロ顔負けに良く撮れていた。
「あー、変な写真ってこれか?これなんか妄想女子に大人気の傑作じゃん!」
 木村は先ほど階段でぶつかった女子が手にしていた写真を指差した。
 ケンジは、あっ!と思って息を飲んだ。
「忘れたのか?お前も共犯」木村はケンジに向かってまっすぐ人差し指を向けた。「キスしろって言ったのは俺だけど、結局したのはお前なんだからな?」
 木村のヤケにムカつく言い方にケンジは舌打ちをした。
「あ、そうそう。お前や西山以外にも朝比奈の女装写真とか、人気女子の写真も集めてるから良かったら見てけよ」
「ふざけんな」
「俺はいつだって本気だ」
「勝手に隠し撮りしやがって、とんだ商売根性だな」
 木村はだるそうに大きくため息を吐いた。
「まあまあそんな力むなよ。それに隠し撮りだなんて人聞き悪いな。お前みたいな人気者の連中の邪魔をしない様に撮らせてもらっただけだ。それに写真部の顧問もこっち側だから暗黙の了解ってやつ」
 木村はペラペラとファイルをめくって写真部顧問である若い人気数学教師の写真を見せて来た。そこにはカメラ目線で愉快にポーズを決めるイケメン教師の姿が写っていた。
 なるほど、そういうことかよ。人気教師と癒着しているとは、さすが悪名高い木村だ。
 思い返せば確かに学園祭中、カメラを構えている腕章付きの生徒を何人か見掛けた様な気もする。
 しかしこのままじゃ西山が可哀想だ。
「本人に許可とったのか?肖像権の侵害ってやつなんじゃねぇのかよ」ケンジは眉間にしわを寄せて木村を睨んだ。
「ああ~、面倒臭いなお前。いくら欲しいんだよ」
「金の問題じゃねぇだろが!とりあえず西山の写真だけでもバラ撒くのはやめろよ」
「嫌だね断る」
 木村は笑いながら即断した。
「言っとくけどお前のピンよりも売れてんだぜ?まあお前が残りの西山の写真を全部買い占めるっていうなら別だけど?そうだなぁ、五万くらいで手を打つか」
 ケンジは大きく舌打ちして「はあ?ざけんな!」と叫んだ。
「いくらで売ってんだよこの守銭奴が!」
「一枚五百円。良心的だろ?」
「高ぇだろ」
 という事はあと百枚はある計算になるが、一体どんだけばら撒くつもりだ。しかし五万は無理だ。
「そんなに西山の写真が気に入ったなら特別に一枚やろうか?」
 木村は笑って一枚の写真を取り出した。
「要ら……」要らねーよ、と答えようとして言葉を失った。
 一瞬、息が止まった。
 そこには女子生徒の姿をした西山が写っていた。
 その横顔は何かを見ているようで、笑顔が満面に溢れていた。
 キラキラと潤んだ瞳に赤らんで見える頬。
 正直言って見とれた。
「ヤバいだろ?」
 無意識のうちにその写真を手に取っていた。
「これ撮ったのコイツ、シゲちゃん」
 木村は黒ブチ眼鏡の男子生徒を指した。その生徒は得意げに眼鏡を指で押し上げた。
「ポートレート撮らせたら専属より全然腕いいからね。俺もあの西山には相当ビビってソッコー張らせたんだけどさ。俺も流石にこれはヤバいと思って一部の連中にしか見せてない。残念ながらこれが最後の一枚なんだよなー」
 ケンジはハッと気づいて慌てて写真を木村に突き返した。
「別に要るかよ」
「そうか?まあ、流石に一応男だしな。でもこのクオリティーなら十分だよな」
 木村はニヤリと下品に笑った。
「とにかくもうアイツの写真バラ撒くなよ」
「元はと言えばお前が調子に乗って女装なんかさせたからだろ?お前の責任俺に押し付けんな」
 そう言われると何も言い返せない。
「まあいいだろ、お前おかげで俺からV貰えるんだから。あ、因に年末に最後のライブあるからその後になるけど、いいよな。今更要らないとか言う?」
「言わねーよ。犠牲払ってんだから」
「犠牲だなんて。代価って言えよ」
 確かに、ただ犠牲を払ったのは西山の方かも知れない。いっそ西山に殴らせてやりたい。
 だが、木村にこれ以上何を言っても無駄だと分かり諦めて立ち去ろうとした。
「ああ!そう言えばケンジ」
 木村に引き留められて振り返る。
「これずっと前にお前から借りてた本、返すわ」
 そう言って木村は鞄から取り出した本を持って近づいて来た。
 よく見ると半年以上前に木村に半ば無理矢理持って行かれたバンドスコアだった。
 今更、っていうか何で今。
 木村は本を押し付けるとニヤリと笑ってポンポン!とケンジの肩を叩いた。
 本当、ギターの腕以外はクソみたいな奴。と、心の中で吐き捨てた。
 家に帰ると子供たちが飛び出して来て焦った。
「ケンちゃんおかえりー!」
「かえりー!」
 足にまとわりつく子供たち。
 従姉のノリコの子供だった。
 ノリコが来る事をすっかり忘れていた。
 ケンジは「お~、ただいま。よく来たな」と言って頭を撫でてやった。
「ケンお帰り。久しぶり!」
 エプロン姿の従姉が早速料理に取りかかろうとしていた。
「親父は?」
「帰って来てたけど、さっき町内会の何とかでちょっと出て来るって」
 ふ~ん、と提げていた鞄を椅子に下ろすと、四歳と二歳半になる子供が「あそぼうよ」とケンジの裾を引っ張って来た。
 料理が出来るまで遊び相手をしてやらなければならない。
 二人とも男なので最近はやんちゃで走り回るし、相手をするのがますます大変になった。
 だが、小さい弟ができたみたいでケンジは二人のことを可愛がっていた。二人の頭をポンポンと撫でてやる。
 上の子が勝手に鞄を開けようとするので、「どうした?」とその手を抑えようとした。どうやら紙とペンが欲しかった様で「ちょっと待てよ」と鞄から筆記用具とノートを取り出した。
 その拍子にドサリと鞄から本が落ちた。
 ノリコは物音に反応し軽く様子を伺ってきた。
 ケンジが木村から返された本を拾い上げると、中からひらひらと何かが舞い落ちた。
 それは子供の足下に滑り、それを拾った子供はニヤッとして母親の元に持って行った。
「え?なあに?」
 ノリコは軽く手を拭いてそれを受け取ると、あっ!と叫んでニヤッと笑った。
「何なに?この綺麗な子~。まさかケンの彼女?」
 そう言ってノリコが見せた物は、先ほど木村が見せて来た西山の写真だった。
 ケンジは慌てて写真を奪った。
「バカ違うよ!」
「ちょっとバカとは何よ」
 拾った子供が「返してー!」と喚いている。ノリコが頭を撫でて「駄目、ケンのだから」と宥めていた。
 何故これが挟まっているんだ……!?
 しかしすぐにピンと来た。あの野郎の仕業だ。
 本を渡す時にワザと挟んだのだろう。だからニヤニヤしていたのか。
 ケンジは慌てて、一旦荷物を部屋に置いてくると言って二階に上がった。
 部屋に入って床に鞄を置き、手にしていた西山の写真を思わず見た。
 余りの美麗さについ見とれてしまう。
 何かが胸に込み上げて来るような感覚がした。
 階下からノリコの声が聞こえると子供たちの事を思い出して、とりあえず写真は引き出しの中にしまった。
 ケンジはその何とも言えない高揚感に、動揺していた。

 ーー目覚めた瞬間から、脳裏に焼き付いて離れない。
 ベッドに横たわりながら、うっすらと瞼を開く。瞳をまっすぐ天井に向ければ見慣れたポスター。
 体を横に倒して両手を投げ出した。視界が部屋の中の景色に変わった。
 すっかり目は覚めているのに起き上がる気力がなかった。ただ一つだけ、今すぐ起き上がって、目の前にある引き出しを開けてみたかった。
 でもそうすることを拒んでいる自分がいる。
 ケンジは反対側に体を倒すと、窓のカーテンからは外の光が漏れだして眩しかった。
 瞼を閉じ、光に照らされているうちにまたまどろみ、珍しくそのまま二度寝してしまった。
 再び目を覚ますとベッドから落ちていた。
「ケーンジ!よっ!久しぶり」
 視界に逆さまに現れたのは、叔父のカズヒコだった。
「……カズ兄!?」
 ケンジが驚いて飛び上がると、勢い余って覗き込んでいたカズヒコの頭と衝突してしまった。ガンッ!という音が脳内に響いた。
「ガッ!?」
「グウェッ!?」
 二人同時に額を押さえて悶絶する。
「イッテェ~ッ!おまっ、急に起き上がるなよなぁ~。相変わらず石頭!」
「ごめんごめん!あ~いてて。ってかカズ兄!久しぶり!スゲービックリした、いきなり来るんだもん。いつこっち帰って来たの?」
「ひと月くらい前だよ」
「えっ?!マジで?」
「あれ?シュンスケ兄さんから聞いてなかった?」
 ケンジは「全然」と返事をしながら体をストレッチして伸ばした。
 カズヒコは父親の歳の離れた弟にあたり、一回り以上違う。
 小中校生の頃は特に親しくしていた、ケンジにとってはもう一人の兄的存在だった。
 会うのは約三年ぶりだ。
 カズヒコは高校の時書いた小説で何かの賞をもらい、雑誌の新人賞に投稿して最終選考まで残ったりしたという話を聞いたことがある。
 上京してシナリオライターの専門学校に通い、何年か東京で暮らしていたがケンジが九歳の頃に一度戻って来た。
 そしてカズヒコは、ケンジがギターを弾き始める切欠を与えてくれた人物でもあった。
「ケンジ、すっかりでかくなったな!雰囲気も随分、ったく色気付きやがってぇ~」
「ったり前じゃん!もう俺、高二だし?」
 カズヒコは笑いながらケンジの二の腕を触って来た。
「おっ!結構鍛えてんじゃん?」
「まーね?あ!結構腹筋も割れてんだよ!ちょっ見て!」シャツを捲り上げて腹を見せびらかした。
 久々の再会に、思わずガキの様にはしゃいでしまった。
「なんだ、中身はそんな変わってねーな」
 カズヒコはそう言って笑ったが、ケンジは嬉しくてたまらなかった。
「本当しばらくぶり。三年くらい?」
 カズヒコを目の前にして昔に戻った気分だ。色々と懐かしい思い出が蘇る。
「ずっと東京にいたの?全然帰って来なかったのにどうしたの?」
 すると、カズヒコは寂し気に笑った。「ああ、まあ色々あってな」
 カズヒコはこっちにいる時、営業職に勤めながら空いた時間に小説やシナリオを書いて投稿していた様だ。
 小説を読ませてもらったこともあるが、その頃のケンジには内容が難しすぎた。
『やっぱりこっちだとシナリオの仕事なんてないし、他の仕事しながらだと時間が足りない』
 そう言ってカズヒコは、再び上京して行った。
 夢を諦めずに追い続ける姿に憧れを抱いていた。ケンジから見たらまるでヒーローの様に格好良く見えたものだ。周りには他にそんな大人はいなかった。
 でも少し成長して、夢を叶えるということがそう簡単ではない事も分かり始めていた。
「ギター、続けてんだな?」
 カズヒコが立て掛けてあったギターを見て、嬉しそうに笑った。
 小学生の頃だ。たまたま家にあった、飾りと化していた父親の年代物のギターをカズヒコが弾いてくれて興味を持ったのが始まりだ。
「うん。まあね。実はバンド組んでんだ。この前も学園祭でライブしたんだ」
「へえ~っ?バスケは?」
「あー、もう辞めた」
「そうなのか。頑張ってたのに、勿体ないな」
「今は音楽の方が楽しい」
 ケンジはギターを手にすると、ベッドに腰掛けて自分の技量を自慢するべく、六弦スウィープからのスラップ奏法を披露した。
「やんじゃん!」
 カズヒコは嬉しそうに笑った。
 ケンジはジャカジャン!と音を鳴らして、得意げに両手を広げた。
「スゲー練習したんだな、ケンジ。もう俺なんか全然足下にも及ばないな。……俺なんて……情けねぇよ」
「何言ってんだよカズ兄。カズ兄は俺には無い才能があるじゃん。それにカズ兄がいなきゃ、俺は今ギターなんて弾いてねーもん」
 そう言うと、椅子に腰掛けていたカズヒコはフッと笑った。
「……ああ」
 カズヒコの表情がまた少し曇った。
「そうだ、親父は?」
「ああ、なんか庭の掃除してたよ?ケンジ朝飯まだだよな?」
「まだ」
 着替えを済ませてカズヒコと一緒に一階の台所に降りると、父親が新聞片手にコーヒーを飲んでいた。
 休日は大体、自分の好きな時間に起きてそれぞれ勝手に時間を過ごす。
「おはよ」
 ケンジが父親に挨拶をすると父親は「ああ」と返事を返した。
 普段通り殆ど会話もなく、ケンジは朝食の支度をする。昨夜の残り物を鍋にかけて温める。
「カズ兄、朝飯は?」
「俺は軽くコンビニで済ませた」
「味噌汁飲む?」
「ああ、じゃあいただくよ」
 ノリコたちが来ない限り普段この家で会話が響く事は少ない。
「おっ、この味噌汁結構美味いね。兄さんが作るの?」
 やたらカズヒコの声が際立って聞こえた。
 ケンジの父親は問いかけにも特に反応を見せず、新聞から目を離さない。マイペースなのは常日頃の事だ。
「二人とも全然会話しないね」
 カズヒコは苦笑いした。会話が少ないのは今の我家のデフォルトだった。
「まあ男二人っきりだと、あんまり喋ることもなくなるよな……」
 そう言ってカズヒコは、あっ!と気まずそうな表情をして口を閉じた。
 カズヒコも二年前に母親が出て行った事は、誰かに聞いたのだろう。
 親戚にも事の詳細は話していない。
 何故別れたのかと聞かれても、父親は決して母親に非がある様な事は一言も言わなかった。
 納得出来ない親族たちは、母親の事を根も葉もない噂をして悪く言った様だ。
 そのせいでここ数年、従姉のノリコと叔父家族以外の殆どの親戚とは疎遠になっていた。
「兄さん」
「……なんだ」
 遅めの朝食後、テレビを見ながらお茶をすすっていると、突然カズヒコが父親に話を切り出した。
「今日、母さんの誕生日なの覚えてる?」
「……ああ」
 二人の母と言う事は、ケンジの祖母の誕生日という事になる。知らなかった。
「母さんが今日の夜、良かったらご飯でも食べに来ないかって。……実は誘って来いって言われたんだ」
 父親は、そうか、と言って立ち上がった。
 祖母に最後に会ったのは、確か五年前の正月だったろうか。
 孤児院で育った母親は、親戚付き合いというものが得意じゃなかったらしく、滅多に父親の実家には顔を出さなかった。
 親戚内で母親の評判が良くなかったのはそのせいもある。
 前回は祖母の還暦のお祝いを兼ねていたから、親戚中集まっていた。その時は母親は割と楽しそうに笑っていた気がするが、無理をしていたのかもしれない。
「どうする兄さん?……母さん、兄さんの事心配してた」
 ケンジの父親は無言のままメモを取り出して、ペンで何かを記していた。
 やがてメモをビッ!と破ると、カズヒコに差し出した。
「ちょっとここに書いてあるものを、近所のスーパーで買って来てくれないか?」
「えっ?……いいけど」
 父親はケンジに「お前も一緒に行け」と指示した。
 仕方なく、六百メートル先の小規模スーパーにカズヒコを連れて出掛けた。
 歩きながらカズヒコが話を切り出してきた。
「義姉さんたちの話、兄さんから聞いたよ」
「……そっか」
 ケンジは軽く頷き返した。
「離婚したって話は聞いてたけど、あんなに仲良い夫婦だったのに何があったんだろうって思ってた。でも、結局兄さんたちにも詳しい事情が分からないんだな。……ケンジは、内緒で義姉さんから連絡が来たりとかないの?」
 ケンジは首を振った。
「……ないよ。本当に、母さんからも兄貴からも、何の連絡もない」
「そっか……」
「別にもういいよ。まあ、よっぽどの何かがあったんだろうって思うしか無いし。家族でもいつかは、家を出たりしてバラバラになって行くもんじゃん?別に今更戻って来て欲しいとは思わねーけど。ま、出来れば理由はいつか知りたいかな」
 ケンジは少し強がって笑った。
 スーパーに着くと、店内でカズヒコがメモを見て呟いた。
「小麦粉に卵に、ベーキングパウダー?……なんだ、お菓子でも作るつもりか?」
 カズヒコは笑っていた。
 ところが家に帰って見ると、父親は本当に昔母が使っていたオーブンを引っ張りだしてコンセントに繋いでいた。
「え……兄さんまさか」
 意外な事に、父親はパウンドケーキを作ると言い出した。
 小さい頃はたまに母親が手作りのお菓子を作ってくれていた事もあるが、父親がお菓子作りをしているところなんて記憶に無い。
「親父、お菓子なんて作れたの?」
「一種類だけな。お前たちも手伝え」
 そんなこんなで、男三人が台所に立ってお菓子を作る事になった。
 ケンジは父親に言われて、小麦粉とベーキングパウダーと塩を混ぜてふるいにかけた。
 カズヒコも言われて、柔らかくなったバターをボウルで混ぜさせられていた。
「カズ。それに砂糖を少しずつ加えながら混ぜろ」
「へっ……!?砂糖?オッケー……」
 カズヒコは困惑しながら砂糖を手にした。
 当然泡立て器の使い方なんて慣れていないカズヒコは、四苦八苦していた。見かねて交代した父親は結構手慣れた手つきだった。
「電動式は無いの?」
 息を荒くして尋ねるカズヒコに父親は「壊れていた」と答えた。
 クリーム状になったボウルの中身に、軽くほぐした卵を小分けに入れてかき混ぜる。
 先ほどふるいにかけた小麦粉等を入れてさっくりと混ぜ合わせていた。  
 父親は、そのとろっとした生地に小豆の缶詰を投入した。
「小豆入れんの?」
「そうだ」
 何処から引っ張りだしたのか、長方形の型の様なものに生地を流し込むと、予め余熱していたオーブンに入れて焼き上がりを待つ事になった。 
「兄さん、お菓子作りなんていつ覚えたの?」
 ケンジも気になっていた事をカズヒコが尋ねた。
「昔おふくろに教わった。何かで悩んでいた時に何故かおふくろが焼き菓子の作り方を教えて来たんだ。確かお前にも食べさせたことあるんだぞ、カズ」
「えっ?俺?」
 カズヒコは覚えが無い様だった。
「へえ。シュンスケ兄さんって、ケンイチ兄さんに比べて昔からあんまり口数多い方じゃ無かったけど、色々と手先は器用だったもんな。……ギターだって元々シュンスケ兄さんが弾いてたのマネして始めたんだ」
 カズヒコはケンジに向かって言った。すると父親がカズヒコに「余計な事を言うな」と叱咤していた。
 そういえば、家に父親のギターがあったって事は、確かに昔父親もギターを弾いていたって事になる。ただ、父親からギターを教わった事は一度も無い。
「お前がコイツに余計なものまで教えるから、今では勉強もろくにしないでフラフラ遊び歩いてる」
 ケンジはムッとして、ツーンとそっぽを向いた。
「兄さんだって人の事言えないじゃん。ギターに夢中になって父さんに勉強しろって怒られてたくせに。俺覚えてるんだから」
 カズヒコが反論すると、父親はバツが悪そうに咳払いをした。
「父さんも歳取って、今じゃすっかり丸くなっちゃったけどさ」
 ケーキが焼き上がるまでの間、カズヒコはケンジの父親が若い頃の話を始めた。
 自分の事を殆ど話さない父親の昔の話は、ケンジには新鮮でなかなか面白かった。
「あの時の兄さんたら」と笑うカズヒコの話に、父親も時折思い出した様に口元を綻ばせていた。
 久しぶりに父親の楽しそうな顔を見た。
 数十分後、香しい匂いと共に、ふっくら美味しそうなケーキが焼き上がった。
「これ、ばあちゃんにあげるの?」
 ケンジはなんとなくそんな気がして尋ねた。
「ああ。せっかくだから持って行ってやるか」
 ケンジの父親がそう言うと、カズヒコが気づいた様に目を見開いていた。
「兄さん、最初から母さんに持って行ってあげるためだったのか!」
「ケンジ、お前も一緒に行くか?」
 ケンジは父親がそう言って誘って来るなんて珍しいなと思った。
「無理にとは言わんが、どうせ試験勉強する気は無いんだろ」
 いつもながら今度試験がある事は一言も言っていない。ただ、近所の人から噂を訊いて把握はしているのかも知れなかった。
 勉強してないって決めつけんなよ、と言いたくなったが、実際勉強はするつもりもないので心に留めておいた。
「そろそろ、逃げてばかりもいられないからな……」
 父親がそう呟いた。


 今思えば、あの時のことは夢でも見ていたのではないかとさえ思う。それまで我が家は平凡で幸せな家庭だった。父親は昔から余り喋る方ではなかったが、今よりはよく笑っていた。
 二年前の夏休み。夕方、部活帰りに買い物帰りの母親とばったり出くわした。
「あらケンジじゃない、部活終わったの?」
「あっ、うん」
「お疲れさま。今日はお肉が安かったから焼肉!」
「やった!」
 反抗期らしい反抗期もまだ訪れてなかったこの頃、母親とはよく兄と三人で買い物に出かけたり、一緒にテレビゲームで遊んだりと友達のように仲が良かった。
 美人で頭が良くて料理の味も最高だった母親は、気さくで明るく愛情深くて自慢だった。
「今夜お父さんとコウスケも誘って庭で花火しようよ。買っちゃった」母はそう言って花火セットを買い物袋からチラつかせてはにかんだ。
 ケンジには三つ年上の兄がいた。頭の出来が良すぎる兄のことを内心コンプレックスにも感じながら、それでも尊敬していたし慕っていた。
 母親と並んでいつもの家まで道のり、突然母親が足を止め頑なに動かなくなった。
「えっ?母さん?」
 声をかけると母親は何かを見つけたのかケンジの腕を引っ張り、家とは反対方向に道を進むと物陰に隠れケンジに身を屈ませた。
「ケンジ、暫くここにいて。母さんが戻ってくるまで動いちゃダメ……いいわね?」
 ケンジは呆然としながらも、深刻そうな母親の表情を見て素直に頷いた。しかし母親が戻ってくることはなかった。
 十分くらいして我慢できなくなったケンジはそこから立ち上がり家の方へ向かった。
 家の前で母親の姿を見つけたと同時にケンジは叫び声をあげていた。なぜならそこには見たこともない景色が広がっていた。
 一瞬だったし、幻覚のようなものが見えただけかもしれないが、まるで次元が歪んでいるかのような虹色の空間。雷のような電磁パルスの光の蔦が、母親と見知らぬ男を取り囲んでいた。
 ケンジが慌てて母親の元に駆け寄ろうとした時、光が爆発したかのように目の前が真っ白になった。
 気がついた時には病院に運ばれていた。左腕にはヒビが入っていた。頭も軽く打ったらしく簡単な検査を受けた。
 しばらくして、痛み止めで朦朧としていた意識がはっきりしてくると、迎えに来た父親に慌てて母親の安否を確かめた。
 一体何が起きたのか尋ねたが「俺にも何が何だかわからない」としか答えてくれなかった。父親も混乱していた様子だった。
 ケンジは自分が目の当たりにした出来事を話したが、父親には信じてもらえなかった。
 家に帰ると母親が兄と小さな荷物を持って玄関に立っていた。
「ごめんねケンジ」
 頭を撫でられて不思議と察した。
「待ってくれマツリ、一体何がどうしてお前たちが出て行かなきゃならん事情があるんだ」
 父親が必死に引きとめようとしていた。後に先にもあんなに取り乱した父親の姿は見たことがない。母親は首を横に振った。
「ごめんなさい。それはあなたにも言えないの。あなたには本当に感謝している。幸せな時間を与えてくれてありがとう。でももう一緒にはいられない。あなたのことは一生愛し続けるわ」
「どうして……」去り行く母親たちを目で追いながら、父親の瞳から色が消えていくのがわかった。
 突然何かに引き裂かれてしまった家族。
 兄は去り際、「部屋にあるものは全てお前にやる」と言って二度と振り返らなかった。あんなに優しかった兄はまるで機械のような冷たい表情をしていた。
 何故兄だけ連れて行き自分は取り残されたのか。考えても理由は思いつかず、強いて言えば兄の頭脳が桁違いに天才だったところだろうか。
 国内一の偏差値と言われる大学部は勿論、米国の超一流大学に留学できるレベルらしかった。
 兄は周囲から変わり者だと言われ、他人と交わらずいつも難しそうな本を楽しそうに読んでいた。でもケンジには優しくて頼れる兄でもあった。どんな疑問をぶつけたとしても必ず何か答えをくれた。
 ただ一つ、何故二人は自分の元を去ってしまうのかと言う答えを除いて。
 兄の頭脳は母親譲りだった事が父親の雇った探偵の調べで判明した。
 孤児だった母はその天才的頭脳から海外の一流大学を飛び級で入学卒業後、日本の大学院で教授として働いていた過去が分かった。父親と結婚してからは専門的な研究施設に籍を置き、非政府機関で働いていたらしい。妻に公務員だと聞かされていた父親がそれを知らなかっただけの事。
 母親の過去に一体何があったのか、それももう知る由もない。
 数ヶ月後に離婚届が勝手に受理されていた事が発覚した。
 半年にも及ぶ調査の後、探偵に二人は既に日本国内にいない可能性が高いとされて打ち切られた。
 残されたのは探偵が得た僅かな情報と、母親が残したまるで手切れ金のような巨額の預金。母親のタンスの引き出しの奥から、父親あてに手紙が残されていた。しかしそこにも真相につながることは一文字も記されていなかった。
 ケンジの腕の怪我は大したこともなかったが、精神的ストレスからか何ヶ月も腕がしびれる症状が消えなかった。
 体より心の傷の方が相当重症で、この世で一番信頼していた家族に裏切られたことがショックで、人間不信に陥った。
 あんなに励んでいた部活も中学最後の夏の大会に出ることもなく、練習にも顔を出さないまま怪我を理由に退部した。
 心配して色々聞いて来る友人や、噂話に盛り上がる近所の住人に声を荒立てていた時期もある。
 もう何もかも信じられなくなり、何もかもが鬱陶しかった。
 それでも社会で生きるには人と関係を築いていかなければならない。
 仮面を被ることで、他人とは一定の距離を置ける気がした。
 だから高校入学を機に、必要以上に明るいキャラを演じ振る舞う事にした。
 それまでの自分とは別人になろうとした。
 母親と兄に見捨てられた愚かな自分の存在を否定したかったのかもしれない。
 それでも時々思い出してしまう。
 なぜ母親は自分を捨てていったのだろう。なぜ兄は一緒に行こうと誘ってはくれなかったのだろう。
 今でもそんな考えが、延々と同じところをぐるぐると回っている……。


 父親とカズヒコと三人、家を出て車で約二時間。
 着く頃には夕方前になり田園風景が黄金色に輝いていた。近頃は日が暮れるのが随分と早くなった。
 辿り着いた祖父母の家は趣のある純和風の日本家屋で、塀に囲まれた門の先には更に小道があり玄関へと続いていた。
 庭も広く、小さな池の中では鯉が泳いでいた。家の裏手には土蔵の影も見える。
 ここに来るのは小学生の時以来だ。そういえば結構でかい家だったなと思い出した。
 カズヒコが玄関の戸を開き「ただいま~!」と言うと、奥から年配女性が現れた。
 その人は「おかえりー」と言った後、ケンジの父親に気付いて「あっ!」と声をあげた。
「あらぁ!シュンスケじゃないのぉ~!久しぶりねぇ?」
「ああ、久しぶりおふくろ」
 割烹着姿の祖母は、まるで老舗旅館の女将さんの様な雰囲気だった。
 ケンジの父親とそっくりな目鼻立ちをしており、白髪の混じった灰色の髪は綺麗束ねられて気品がある。顔も皺があるが肌がつやつやして血色も良く、若々しい雰囲気ではあった。
 祖母は「なかなか顔を見せに来てくれないんだもの~!」と、まるで若い女性の様に頬を膨らませてケンジの父親の肩をポカポカと叩いた。
 可愛い人だなぁと見つめていると、祖母がケンジに気付いた。
「あっ!もしかしてケンジくん?……えぇ~!もうこんなに大きくなったの?前会った時はまだこのくらいだったのに!」
 軽く挨拶を返すと「顔を良く見せて?」と祖母に顔を覗かれて若干恥ずかしかった。
「あらやだ、シュンスケに似てすっかりイケメンね?うふふっ!」
「おふくろ、からかうのはよせ。……そうだ、これ」父親は祖母に作ってきたケーキを渡していた。
 父親たちに続いて廊下を進み、十二畳と十四畳の広い続き間の部屋に案内されると、そこにはすでに大勢の親族たちが一同に会していた。
 室内には絨毯が敷き詰められ、奥には来賓用のしっかりした作りのテーブルとソファが置いてあり、その机上にはアルコールと見られるボトルとグラスが置かれていた。
 殆ど会った事もない親戚やその子供たちも大勢いてガヤガヤと騒がしかった。
「みんな~!シュンスケが来たわよ!」
 祖母がわざわざ皆に知らせた。すると大人たちが何事だという感じで振り返る。
「おお~?こりゃ珍しい顔だなぁ!」
 奥にいた総白髪で恰幅のいい男性が徐ろに立ち上がった。つやつやとした顔を赤らめている。
「イチロウ叔父さん、ご無沙汰しています」
 そう言ってケンジの父親は頭を下げた。
「そこの坊主は下の子か?」
「そうです。ケンジです」
「ほお、見ないうちにでかくなったな?」
 ケンジは「こんにちは」と挨拶して会釈した。
 ちらりと周囲を見渡すと多くの視線を注がれていて緊張した。
 奥の方に自分と同じくらいの歳の女の子の姿を見つけた。目が合うと彼女はじっとこちらを見つめ返してきた。どこか不思議な雰囲気がして、クラスメートの綾瀬(あやせ)マイコに少し似ていると思った。
 大人たちはしばらく話に盛り上がっている様子だったが、祖母の一声で食卓につくことになった。
「さあさ!大勢揃った事だし、料理が冷めないうちにいただきましょう!」
 大きなテーブルをつなぎ合わせて大勢で囲めるようになっていた。上には色とりどりの美味しそうな料理がずらりと並べられている。
 どうやら祖母と近所のおばさんと親戚の主婦たちが集まって、料理の腕を振るった様だ。
 テーブルの周りをぐるっと、子供を合わせてざっと二十人以上が囲んだ。
 先ほどのイチロウという祖母の兄にあたる人が、祖母の代わりに乾杯の音頭を取り仕切っていた。
「……という事で、それでは、タツミの六十五歳とセイジロウくんの喜寿を祝って、カンパーイ!」
「さあさ!召し上がれ!」
 祖母はタツミという名前らしい。自分の誕生日だというのに、料理を運んだり飲み物を持って来たりと気を利かせていた。
「お義母さん、私がやりますから!」
「いいのよ~!私じっとしてられないのよ」
「そうそう、いいんだよ。やらせておきなさい」
 そう言う祖父はすでに酔ってご機嫌な様子だった。
 どうやら喜寿とは七十七歳の祝いのことらしく数日後に誕生日を迎えるが今日まとめて祝うようだ。祖父はイチロウやその他の男親戚と共に、ビール片手に料理をつまんで楽し気にしていた。
 何十種類もの料理を、周りの大人に勧められるままガツガツ食べたが、流石に食べ過ぎて苦しくなった。
「にしてもぉ、ケンイチのやつは結局来れないのか?」
 イチロウが言うと祖母は笑って答えた。
「仕方ないわよ仕事が忙しいみたいだし。でも先週来てくれたし今朝電話もくれたわ。ノリちゃんも来てくれるつもりだったみたいだけど、子供が熱出したっていうから今日は遠慮してもらったのよぉ」
 あらかた料理が片付けられると、祖母はケンジの父親が持参したパウンドケーキを少しずつ切り分けて、生クリームとミントの葉を添えて皿に盛って来た。
 その時、自分にも別腹があることを実感した。
 パウンドケーキ自体は仄かに甘く、生クリームをつけて食べるとなかなかの絶品だった。あっという間にぺろりと平らげてしまった。
「男三人でケーキ作りなんてねぇ?でも美味しいわ~」
 大叔母や叔母たちも笑いながらがっついていた。
「昔からシュンスケはお菓子作りは得意だったのよ。何せ私が教えたんだもの」
 祖母は自慢そうに笑った。
 ケンジは今度こっそり自分でも作ってみようかと思った。
 ケーキも食べ終わり、一部の大人は奥の部屋のソファ席でくつろぎ始め、女の人たちはテーブルに残っていた食器を片付けたりフルーツを配ったりしていた。
 小さい子供たちも部屋の隅に集まって子供同士で遊びだした。
 ケンジもカズヒコと一緒にグレープを摘みながらおしゃべりをしていた。
「してもお前のところは、一体どうなってんだ!マツリさんは!」
 酔いが回ったイチロウがケンジの母親の名を大声で口にした。
「突然旦那と子供一人置き去りにして出て行ったなんて、解せん話だなぁ!」
 イチロウは奥の部屋で話していたが、ケンジのところまで声は聞こえた。
 ケンジは忘れ去ろうと思っていた過去を色々思い出して胸が詰まった。
 不穏な空気が漂った。矛先がいつの間にか自分に向いているのが分かった。
「残された方はショックで、おめぇ、ちゃらんぽらんの不良になっちまったんだろ?見てみろあのチャラチャラした格好。良い学校に通わせてもらっておいてろくすっぽ勉強もしてないんだろう?」
「……はあ。情けない話です」
 ケンジの父親は項垂れたように相づちを打っていた。
 あーあー!ちゃらんぽらんで悪かったな!
 ケンジはムカついて奥歯を噛み締めたが、グッと我慢して聞こえてないふりをしようとした。
「本当に情けない。シュンスケ、お前がだらしないから嫁に逃げられるんだ」
「確かに、私が不肖未熟であるせいです」
 父親の声は悲しく冷たく響いて聞こえた。
「父さん……!もういい加減にしなよ。飲み過ぎよ」
 食器を片付けていた、イチロウの娘が通りすがりに険しい顔で父親の肩を叩いた。
「そうよ兄さん、男を責めてもどうしようもないじゃないの」
 大叔母が他人事の様に笑った。
「男なんてみんな情けないもんなんだから!」
「なんだと!?」
 大叔母もかなりアルコールを飲んでいる様子で、顔を真っ赤に染めていた。
「マツリさんも薄情な人だったわよねぇ?親戚付き合いもろくにしない。挨拶にも来ないで、贈り物だけで済まそうとするし。子育てだって、お兄ちゃんは随分頭が良かった様だけど、コミュニケーション障害か何かだったんでしょ?母親がちゃんと見ないからよ。それに出来のいい方だけ連れて行ってもう一人は置き去りなんて、酷い話よね。シュンスケくんみたいないい男を置いて出て行くなんて馬鹿ね。裏で何をしてたか、ああ、きっと他の男でもいたのよ。母親も妻も失格ね!」
 自分のことはいい。だが母親や兄の事を散々バカにされて、流石にカチンと来て立ち上がった。カズヒコが「ケンジ……!」と小声で叫び腕を引いて引き留めた。
「兄さんもエイコもいい加減にしてちょうだい!」
 ケンジの代わりに祖母が二人の前に立ちはだかった。
「わ、私はただ……」
「子供の前で、親の事を悪く言うんじゃないの!」祖母がそう言うと、大叔母はバツが悪そうに俯いた。
 ケンジは立ち上がったまま呆然として祖母の姿を見ていた。
「マツリさんはね、確かに顔を見せてくれる機会は少なかったけど、毎年必ず直筆の手紙に子供たちの写真を添えて送ってくれたりしていた。彼女なりに努力してくれていたの。シュンスケが選んだ人がそんないい加減な人間だとは私は思っていない。何かどうしようもない理由があったのかも知れないでしょう?それに言っておきますけど、今日は私の誕生日なのよ!大切な息子家族の事を悪く言うのはよしてちょうだい!金輪際、マツリさんの陰口は許しませんからね!」
 淑やかそうな外見とは裏腹に、凄い剣幕で捲し立てる祖母の姿に呆気にとられてしまった。
 すると父親も立ち上がってイチロウたちの方に向って口を開いた。
「我々家族の事、色々とお騒がせしご心配をおかけして申し訳ありません。しかし、私はマツリの事を信じています。母が言った様に、どうしても去らねばならなかった理由があったのだと。ですから、皆さんが妻の事をなんと申されてももう私は気にしません。ただ、ケンジはまだまだ子供です。あいつの心は随分傷つきました。あいつはあいつなりに、自分の心に決着をつけようとしてる最中なんだと思います。だから私たちの事はどうか、そっと見守っていていただけないでしょうか」
 父親の拳は固く握り締められていた。
 ケンジは呆然とした。
「正直を言えば、妻を信じていると言っておきながら私も腐っていました。だからこういう場をずっと避けて来た。すみません、これからはもっと皆さんとの交流を心がけます。……ケンジ」
 父親が手招きして自分を呼んだ。
 ケンジは戸惑いながら父親の側へ寄った。
「これからも私たち家族をよろしくお願いします」
 父親はケンジの頭の後ろを持って前へ押し出した。父親の手のひらの体温を感じた。
 頭を下げさせられたケンジは、何故か涙が溢れそうになってグッと堪えた。
 何だよ、子供扱いしやがって……!
 そう思いながらも、内心少し嬉しさも感じていた。悔しさや惨めさ色々なものが込み上げて、それでも父親がそんな自分の気持ちを少しは察してくれていたのだと知った。
 気まずさを漂わせていた大人たちはやがて、ケンジたちを鼓舞するかのように拍手をした。
 すると祖母は満足そうに再び台所の方へ向った。
 ケンジは思わず祖母の後を追った。
「……ばあちゃん」
「ん?なあに?ケンジくん」
 にこやかに笑う祖母に何も言葉が続かなかった。
 一体何を言おうとしたのだろう。
「いや、片付け手伝う?」
 すると祖母はニコッと笑って首を振った。「ううん、人手は足りてるから大丈夫よ。ありがとうね、ケンジくん」
 その笑顔が何故だろういつかの母親の笑顔と重なって、祖母が背を向けた瞬間、ケンジの瞳から涙が一つ溢れた。


 誰にも見られぬうちにそっと頬を拭った。
 踵を返して部屋に戻ると、追いかけっこしていた親戚の子供の一人がぶつかって来た。
「おっつ……!はしゃいでんなー?あっぶねーぞ」
 その子供はケンジを見上げてニヤッと笑った。
「お兄ちゃん誰?遊ぼ?」
 手を掴まれて引っ張られた。
「えっ、俺?」
 そのまま子供たちの集まるスペースに連行された。
 隅の方にあの綾瀬似の女子も座っていて、再び目が合ったが彼女はケンジを一瞥すると目線を下に落とした。
 最初は恥ずかしそうにしていた小さい女の子も、暫くすると慣れてきたのか興味津々な様子でずっと話しかけてきた。
 数人の子供たち相手に、まるで聖徳太子のように同時に話を聞いて相槌を打ち質問に答え、腕を引っ張られおんぶに抱っこにじゃんけんをしなければならない羽目になった。
「おめーら、俺一人しかいないんだから、全部は相手してやれねぇんだって」
 ケンジが思わず助けを求めて例の彼女に視線を送った。
 すると彼女は少し口を尖らせたようにため息をつき、立ち上がった。
 手にしていたタブレットを操作すると、子供達の前に子供向けアニメの動画を再生して置いた。するとあっという間に子供達はそれに釘付けになり大人しくなった。
「やるじゃん」ケンジは彼女に笑いかけた。
「さっきまで子供だけで遊んでて平和だったのに。おかげで私が動画見れナイじゃん」
 その女子は話すと余計不思議な感じが増した。
「あ、悪りぃな!まーでもサンキュー!助かったわ」掴み所がないので、ケンジはとりあえず遊び仲間の女子を相手するノリで話した。
 するとその女子は一瞬怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「君って変わってるネ。初対面なのに馴れ馴れしいってゆーか、チャラい」
 その言葉に少しぎくっとして笑顔が引きつった。「え?あ、ごめんごめん、俺ってそういうキャラだから?」
「ふうん。キャラなんだソレ。そういうのってモテるの?」
「え゛」ケンジは焦った。女子とはチャラいキャラの方が話しやすいが、だからと言ってモテているわけではない。
「それにしてもあなたの周りには美人が集まるみたい。恋愛運は最悪だケド」
 彼女が唐突に語り出したので、ケンジは慌てて訊き返した。
「え?何急に、どういうこと?」何から尋ねればいいかわからない。
「最近、何か運命的な出会いか、出来事があった?ああ、あと水難に気をつけて」
 少女はじっとケンジの方を見つめていたが、ケンジではない何かを視ているかのようだった。
「えっと、それって~占いか何か?」
 占い好きの女子に付き合ってネットやアプリの占いをやったことがあるが、何を根拠にあんな自信満々にアドバイスを書けるのだろうと疑問を感じた。結局気休めというか目安的な、天気予報みたいなものだ。
「占いというか、小さい頃事故に遭ってから、見えるようになったの」
「霊視的な?何が見えるの?」
「見えるというか、感じるって感じ。たまにしか見えないし、未来かも過去かもわからないイメージを受け取るときがある」
 ケンジはヘェ~?と相槌を打ちつつも、若干信じ難いと思った。
「私、熊川テルミ」彼女は突然名乗った。
「えっと、俺は……」
「ケンジ、でしょ?」
「えっ?」
 一瞬霊視で名前までわかるのかと思った。
「さっき呼ばれてた」
 イチロウたちが言い争っているところも見ていたのだろうか。「あー、そっか」ケンジはなるべく明るく返した。
 テルミはやはり同い年で、隣町に住んでいて定時制の高校に通っているらしかった。
「小さい頃事故で両親が死んで、私だけ助かったの。それからおばあちゃんとずっと暮らしてる。だからちょっとみんなとズレてるって言われる。親がいないからだって。親ってなんだろうって思う。おばあちゃんと何が違うのかな」
 テルミは明るく笑った。
「でも君は、いつかまた会えるといいね。お母さん」
 そう言われて何も返す言葉が見つからなかった。
 生きていればいつかまた会えるかもしれない。会いたい気もするし、いっそもう会いたくない気もする。ただ、テルミはもう二度と両親に会うことはできない。
 そうこうしているうちに小さい子供がいる家族が帰る支度を始めた。
「私もそろそろ帰らなきゃ」そう言ってテルミはタブレットを鞄にしまい立ち上がった。
「次会ったときまた話し相手になってくれる?」
「もちろん」と頷いて自分も立ち上がり「じゃあまた」と手を振った。
 テルミが去った後、父親の姿を探すと奥のソファでイチロウと一緒にいた。
 イチロウじいさんは何事も無かったかの様に笑っていた。
「シュンスケ!悪かったな!よし、気を取り直して一緒に飲むぞ!」
 ケンジの父親は、酌を勧めて来るイチロウに手の平を向けて断っていた。
「すみません、明日の朝町内会議に出席しないといけないものですから。私はこっちをいただきます」そう言って父親はお茶を手にした。
 父親は帰りも運転して帰らなければならないため酒を飲めないのだ。
 ケンジの元にカズヒコがやってきた。手にはアイスバーを二つ持ってニヤニヤしている。
 カズヒコと庭に面した部屋の縁側に座り、バニラ味のアイスバーを頬張った。季節外れのアイスはまた格別に美味しい。
「さっきはびっくりしたな。母さんにも、シュンスケ兄さんにも」カズヒコが言った。
「……まあね」
 ケンジはさっきの父親の後ろ姿を思い出していた。
 父親は母親たちの事をずっと信じているんだ。自分は裏切られたと塞ぎ込んで、自分を失って情けなかったのに、父親はそれでも淡々と日常をこなして自分の面倒を見てきてくれたのだ。内心は父親だって相当辛かったはずなのに。
「やっぱ俺ってチャラいかな?」
 ケンジは突拍子もなくカズヒコに問いかけた。するとカズヒコもケンジの方に体を向けてニヤッと笑った。
「見たまんまで言えば、どっからどう見てもチャラいだろ~」
 ケンジは苦笑して「ですよね~」と返した。
「でも俺のことで親父まであんな事言われるんだな」
 ケンジはイチロウの言ったことを思い出していた。
「古い人間だからな。やっぱり見た目で判断されるのは仕方ないよ」
「いや実際俺チャラいしな。女子とかともめっちゃ遊んでるし、軽いし適当だしよくお調子者って言われるし」
 ケンジはフンと自嘲めいて鼻を鳴らした。
「ケンジ。お前も色々大変だったよな」カズヒコは真面目な顔で言った。「あんま、無理すんなよ?お前って根は真面目なくせに、強ぶっちゃってんじゃねーの?」
 ケンジは思わず口を尖らせた。昔から仲の良いカズヒコにはお見通しなのだろう。
「まあ、昔からお調子者なところはあるな、俺に似て」カズヒコはシシシッ!と笑った。 
「軽いってさ、中身が無いって意味じゃ無いんだよ。あえて深刻に捉えないって生き方もある。人生、生きてりゃ色々あるよ。結構誰もが人に言えない悩みだったり傷だったり抱えて生きてるもんだ。みんなそういうのを乗り越えて一人前になっていくんだと思うんだ。辛いのは自分だけじゃないって知って、人の痛みがわかる人間になる。それが大人になるってことだと思う。ま、俺もまだまだ大人になりきれてないんだけどな!」
 そう言われてテルミのことを考えた。そうだよな、みんな結構色々あるんだ。
 そして自分が西山(にしやま)に言った言葉を思い出して、改めてそれがどんなに酷いものだったか痛感した。
「明るく振る舞うことは悪いことじゃない。でもなケン。自分の本当の気持ちに向き合わないまま逃げてばかりだと、いつかもっと辛くなるよ」
 カズヒコにそう言われて、わからなくなった。わざと明るく振舞うのは傷ついた心を隠すため?心配されたくないから?自分は母親たちのことを忘れようとして、逃げてきただけなのか。
 大したことじゃない、よくあることだって自分に言い聞かせようとしていた。でもそのせいで西山にも嫌な思いをさせてしまった。
 何の事情も知らない奴にいきなりあんな風に言われたら、誰だってカチンとくるに決まってる。
「実はさ、友達に軽いノリでひどいこと言って傷つけた」気がついたら西山のことを相談し始めていた。
「え~?なんだ、どうすりゃいいってか?」
「謝ろうとしても口も聞いてもらえないんだ。つか、友達だと思ってたのはこっちだけかもだけど」
「ケンジはどうしたいんだよ」
「そりゃ、仲直りっていうか、そいつとちゃんと友達になりたい」
 カズヒコはニコッと笑い眉を上げた。「んじゃ、ひたすら謝ってお前の誠意を見せるしかないんじゃない?」
「誠意って……どうすりゃ」
「う~ん。まあ、お前の本当の気持ちをぶつけてみるとか、な」カズヒコが再びニカッと笑った。
「おい、カズヒコ!」
 突然酔っぱらったイチロウが絡んで来た。
「何だっけシュンスケんとこのせがれ」
 隣にどかっと座って来た。
「ケンジっす……」
「ああ、ケンジだ!いや、さっきはな、ちょっと言い過ぎて悪かったな。お前も飲むか?」
 そう言ってグラスを勧められた。
「叔父さん、ケンジは高校生だから駄目だよ」
「ああん高校生?シュンスケはああいったがおめぇだってもうガキじゃねーんだろ?男同士の会話に酌杯はつきものだろうが。それともお前、肝心なものついてねーのか?」
 イチロウがそう言いながらいきなり股間をまさぐって来たので焦った。「ちょっ!?」
「なんだ付いとるじゃないか!まー良いから飲め!飲まんと許さん!」強引に口元にグラスを押し付けられた。
「あ~うわわ!バレたら俺が兄さんにどやされるよ~!」
 カズヒコが慌てていたが、ケンジはイチロウが納得しないと収拾が付かないと思い、仕方なく一口飲んだ。
 途端に舌や喉の奥がピリピリと刺激されて咽せた。
 飲み込んで鼻から息を吐くと、口の中になんともいえない芳醇な香りが広がった。
「よし!お前も男だ!」背中をバシン!と音を立てて叩かれた。「イッテ……!」思いの外痛くて小さくボヤいた。
「ケンジィ~!本当はお前、駄目だからな!?」
 グラスを返すと、後ろからイチロウの娘がまた剣幕捲し立ててやって来た。
「ちょっとお父さん!こんなとこで絡んでたの?もうー!いい加減にしてとっとと寝なさい、この酔っぱらい!」
 イチロウは腕を掴まれて連れて行かれた。もう足下はふらふらで、カズヒコが手伝って家の奥の部屋へと消えた。
 胃の中が熱かった。少しでも良い、認められたかったのかもしれない。
 たった一口なのに、その後ふわふわと空でも飛んでいるような感覚になり眠気に襲われた。
 その後父親にバレて、カズヒコ諸共こっぴどく叱られたのは言うまでもない。

 今週も学校が始まってしまった。
 ユウは一人深いため息を吐いた。
 これまで特に目立つ事無くやり過ごして来たのに。
 考えるだけで憂鬱だ。学校に行きたく無い。
 登校して昇降口に向っていると、駐輪場周辺のスペースに屯っているガラの悪い生徒たちに冷やかされる。
「おはよーユウちゃ~ん!今日のパンツ何色~?」
「ヒャハハッ!」
 奇声を発して喜んでいる連中の横を、足早に通り過ぎるほか無い。
 学校に行きたくない理由の一つは、学園祭で女装したことでひっきりなしに冷やかされるようになったことだ。
 あの時予想しなかった訳じゃないのに、こうして再び悪夢の様な日々が続くのかと思うと目の前が黒い霧に覆われる様だった。
 憂鬱のまま下駄箱の扉を開けると、大きくハートマークが書かれた簡素な手紙が入っていた。
 おもむろに手に取って見ると、明らかに冷やかしのラブレターだった。
 ユウは無言のまま細かく破って通りすがりのゴミ箱に投下した。
 教室に向う前にトイレに入ると、鞄からだて眼鏡を取り出した。
 またこれを使う日が来るなんて。
 中学の頃、女顔を理由に虐められていたので、高校に入学直後はあまり目立たない様にできるだけ顔を隠そうとだて眼鏡を買ったのだ。
 掛けていたのは少しの間だったが。
 ユウは眼鏡を装着した。
 暫くこうして顔を隠して大人しくしていれば、少しはマシだろうと思った。
 そのうちこの騒ぎが収まってくれることを願う。人の噂も七十五日っていうし……。でも七十五日って長すぎない?
 教室に入ると眼鏡に気づいたクラスメートたちに見られている気がしたが、極力気にしないフリをした。
 自分の席に座るのは億劫だった。
 もう一つの理由は、今最も顔も見たくない相手が前の席にいること。
 当の田所(たどころ)の姿が視界の隅に入った。今日は自分の席ではなく、教室後方の窓際にすがって他の生徒と屯っている。
 後の席だと、どうしたって田所の姿が目に入る。姿を見ると色々と思い出してイライラするし、授業も集中できない。こちらとしては後ろにいてくれた方が有難い。
 今週に入って田所は声を掛けて来なくなった。好都合だ。
「うわ、ちょっと」
 ユウが席に座るや否や、前の方の男子生徒が呟いた。
西山(にしやま)の眼鏡、ダサくね?」
 聞こえてるって。
 でも聞こえてないフリ聞こえてないフリ……。
 もう何もかもこの耳には聞こえない事にしようとした。
「おはよう西山……。眼鏡どうしたの?」
 後ろの席の男子生徒に話しかけられて、それは流石に返事を返した。
「うんおはよう。ちょっとコンタクト無くしちゃって」
 心無しか大きな声で嘘をついた。
 相変わらず冷やかしの魔の手が収まることはなかった。
 眼鏡を掛けてから却って悪目立ちしてしまい、余計にヒソヒソ陰口を叩かれている様な気すらする。だが今更眼鏡を外すというのも、逆に意識してると思われそうで嫌だった。
 翌日も学校の敷地内に入ると眼鏡を着用した。多少効果はあったのか、朝は不良に絡まれずに教室まで辿り着けた。
 しかし昼休み、同じ学年の不良グループと廊下で鉢合わせて捕まってしまった。
「あ~、西山じゃん、超ウケる」
「何それダッセェ眼鏡」
「またコスプレでもしてんの?あ、今度俺リクエストあんだけど」
 勝手に盛り上がって笑っていたので俯いたまま通り過ぎようとした。
 だが、一人に通せんぼされてしまった。
「え、ちょっとどこ行く気。まだ話の途中だろー?」
 そう言ってユウを押した。
 ふいに眼鏡を奪われてユウは取り返そうとした。
「今時こんなダサイ眼鏡どこで売ってんの?」
 そいつはクルクルと眼鏡を回したかと思うと、床に落とした。
 あっ、と思いユウが拾おうと手を伸ばそうとした時、目の前の奴の足が眼鏡をクシャリと踏んづけた。
「あーっ!ワリィ!手が滑って落として踏んづけちまったわー!」
 その男子はわざとらしく謝り片手を顔の前で立てた。
 ユウは腹が立ったが不良相手に何も言い返せず、仕方なくしゃがんで眼鏡を拾った。
「ダッセェのはお前らの方だろ」
 後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
 立ち上がって振り返ると、そこにはやはり田所の姿があった。
 よく見ると何故かボロボロで顔に殴られた様な傷があった。喧嘩でもしたのだろうか。
 今度は田所に眼鏡を奪われた。「あっ……」
 田所は歪んだフレームを見てあーあ、と呟いた。
「歪んでんじゃん。弁償しろよお前ら」
 不良たちは「あ?」と田所にガンを飛ばし舌打ちした。田所の奴余計な事を言わなくて良いのに。
「彼氏のお出ましかよ」
「ハッ!ウケる」彼らは笑い出した。
「ボロボロのダッサイ奴にダサイとか言われて、マジ泣いちゃうんですけど」
 不良になんて関わりたく無いユウは、さっさとこの場から逃げてしまいたかった。
 しかし田所はいつもの様子とは異なり、随分機嫌が悪そうだった。
「……じゃあ泣けば?」
 その冷たい声にゾクッとした。
 連中もそのただならぬ雰囲気に少し怯んだ様子で、ヒソヒソと話し一人が舌打ちして言った。
「まあいーや。もう行こうぜ」
 彼らはポケットに手を突っ込み、廊下を我が物顔で歩き去って行った。
 残されたユウはどうしようか迷った。
 眼鏡は田所が持っている。諦めて去るか、奪い去るか。
 すると眼鏡を観察していた田所が口を開いた。
「なんだこれ、度が入って無いじゃん。伊達?何今更眼鏡なんか……」
 ユウは田所から眼鏡を奪い取った。
「皆が僕の顔を見て笑うからだよ」
「誰も笑ってねーよ」
「笑ってる」
 ユウは踵を返して歩き出した。
 田所も何故か後を付いて来た。
「いっとくけどその眼鏡実際ダサイからな」
「うるさい」
「もうやめろよ掛けるの」
「どうせもう歪んで掛けれない」
「そりゃ良かった」
「そっちこそボロボロじゃん」
「うん。やられた」
「だからなんか機嫌悪いの」
「まーな。殴り返したら倍返しされてスゲームカつく」
「保健室行けば」
「もーめんどくさい」
 田所と随分久しぶりに会話した気がした。
 関わりたく無いとか、会話するのも億劫だと思っていたのに、この時はなんでか自然に話していた。いつもの田所の感じと少し違ったけど、こっちの方が自然な気がした。
 なぜ喧嘩したのかは分からなかったが、自分には関係ないことだ。
 チャイムが鳴った。
「次、移動だよね」
「ああ、そうだな」田所はそう言ってトイレに消えていった。
 やっぱり田所の奴、いつもと感じが違う。
 ユウは眼鏡を取り返してくれたお礼を言えばよかっただろうかと考えた。でも、別に頼んだわけでもないし、元はと言えば……。
 ユウは次の授業のために特別教室に急いだ。
 田所はその後授業に姿を現さなかった。


 期待しなければ失望することもない。
 信じなければ裏切られることもない。
 そんな当たり前の事わかってはいるんだ、頭の中では。
 でも、それでも心のどこかで期待してしまった。信じてもいいんじゃないかって。あいつに感じた何かがそうさせた。
 ユウはフレームの歪んだ眼鏡を机の上に置いた。
 本当は少し嬉しかった。ほらまた期待してしまいそうになる。だから、こんなに苦しい。
 登校すると、今日もまたガラの悪い連中が声を掛けて来る。
「ユウちゃ~ん!デートしよー!色々教えてやっからよー!」
「ヒャハハッ!」
 毎度毎度、冷やかしご苦労な事だ。そろそろ飽きてくれないだろうか。テストの日くらいさっさと教室に行けば良いのに。
「おはよ西山。あれ、コンタクト買ったの?」早速後ろの席の男子に突っ込まれた。
「おはよう。あーうん、そんなとこ」
 ユウは愛想笑いで返事をした。そう言う事にしておいた。
 今日から中間試験が始まる。
 今年は就学旅行の期日がいつもより早いせいで、学園祭の後すぐに中間試験とギリギリの日程だ。
 前の席からテスト用紙を配られ、それを渡すために軽く後ろを振り向いた田所は口元に小さな傷テープを貼っていた。
 目が合ったが、慌ててすぐに目をそらしてしまった。
 今はとにかくテストに集中する事にした。
 三つ目のテストの後お腹の具合が悪くなり、教室から離れたところにあるトイレにそっと駆け込んだ。
 このところのストレスか、それとも昨日の夕飯の牡蠣フライがまずかったのかも知れない。
 ホッとしたのもつかの間、出ようとした時に人が入って来る気配がして思わず一番奥の個室に隠れてしまった。
「にしてもさ~、聞いたか?」
「え?何」
「三年の園生(そのお)って、マジで実家ヤクザらしいよ」
「マジで?」
「謹慎解けて学校来てるらしい」
「幾ら私学っつってもなー。ヤクザ入学出来るんだ」
「そのせいかなんか最近荒れてんだよな~。三年の不良連中がイライラしてしょっちゅう突っかかってるし」
「うちの学校ってこんなにガラ悪かったっけ?」
「噂じゃ四組の田所も昨日スゲーボコられたらしいよ」
「あー、なんか目付けられてるんだって?調子に乗ってっからだよ」
「あいつ余計な事ばっかしやがるしなー。学祭の時だって、あいつが西山ステージに上げたりしなきゃさー……」
 ユウは自分の名が出て心臓がヒヤリとした。
「あ?朝比奈まだ根に持ってんの?」
「でもさ、お前あんだけガチで衣装選んどいて、準グランプリとかどんだけ中途半端」
「え~、俺だってめちゃくちゃ頑張ったんだからな~?でも西山の出場は予想外」
 そう言う声の主は、恐らく学園祭の女装コンテストで戦国風衣装を身に纏っていた男子生徒だろう。少し独特な声色に聞き覚えがあった。
 出場者の中でもかなり美形でまるでビジュアル系の様な華やかさがあった。
「まあたしかに、西山のアレは反則だよなぁ~」
「俺、最初普通に女子スタッフだと思ってたんだよ。そしたら舞台上に出て来るからマジありえねぇみたいな。学祭の女装コンテストとか言うレベルじゃないじゃん」
「そーいやたまに見かけたことあったんだよな。全然目立つキャラでもないし、女みたいな奴いるなーぐらいにしか思ってなかったけど」
「大体元が違いすぎるっつうか、卑怯だよな。あいついなかったらダントツで朝比奈が優勝だったのにな」
 こっちだって好きでやった訳じゃない。
 ユウは個室の中に隠れたまま、早く出て行かないだろうかと息をひそめ続けた。
 暫くして流水音が聞こえて気配が遠ざかった。
「そう言えば知ってるか?今スゲー写真が出回ってるらしいぞ……」
 何かを話しかけながら彼らはようやく出て行った。
 ユウはこっそり外の様子を伺い自分もトイレから出た。
 このところ学園内で居場所に困る。
 どこにいても自分の事を噂されている気がした。自意識過剰だろうか。それも嫌な気分だった。
 いっそ別人に顔を変えられたら良いのに。
 試験最終日には目前に迫った修学旅行の準備のため、テスト後LHRになった。
 行動班は八人から十人の四つの班に分かれていて、班ごとに集まり最終調整と自由行動の行き先を相談していた。
 この学園は修学旅行の行き先や日程など、生徒たちの自主性に任せようという方針だ。
 学習内容のテーマや旅行先などは生徒たちの投票によって決まり、三泊四日のうち二日間は自主学習などの時間として完全に生徒たちが計画する。
 宿泊施設などは経費がかさむので全クラス同一のホテルと決まっていた。今年の行き先は沖縄に決まり、体験学習などは一箇所に固まらないように配慮しなければならなかった。
 ユウは修学旅行のしおり用の原稿に目を通しながら憂鬱だった。
 沖縄に行くということは、必然的にあれに乗らなくてはならないからだ。
 殆ど記憶はないのだが、どうやら小さい頃のトラウマらしい。
 ユウは飛行機が苦手だった。だから家族で旅行に出掛けるときも、極力電車とか新幹線とか陸路を利用する様にしていた。
 でももう一つ気がかりなのは、ホテルの部屋割りだ。
 学園祭前に田所に勝手に決められて、あいつと同じ部屋になっていた。
 数少ない二人部屋になれたのは嬉しかったが、今からでも変更できないだろうか。
 少し前ならともかく、今の状況で田所と同じ部屋で二人っきりなんて耐えられそうにもない。
 このままじゃ修学旅行も憂鬱に過ごす羽目になりそうだ。
「私たちの班は二日目に体験学習だから、三日目に色々回りたいよね。首里城は最終日に全クラスで行くから、美ら海水族館かおきなわワールド、どっちにするかよね~。二つとも行けるかなぁ?」
 一人ずつ希望を聞かれて、ユウは海の生き物が好きなので水族館と答えた。本当は体験学習でシュノーケリングのアクティビティとかしてみたいところだ。
 多数決が割れてしまい、班長の女子が両方行けないかと時間と予算を計算している最中、隣になった同じ班の吉川(よしかわ)モエがこそっと声を掛けてきた。
「西山くん。最近なんか大変そうだけど、大丈夫?元気ないみたい」
 ユウはあー、と戸惑いながらも笑って頷いた。
「別に大丈夫だよ。周りが勝手に騒いでるだけだし、気にしてないよ」なんて、大嘘ついた。
 だって女子の前で泣き言なんて言えないし。
 吉川は「そっか、それなら良かった」と言って笑った。
 本当は全然良く無い。
 ユウは思わず漏れ出してしまいそうなため息を、なんとか押し殺していた。
 ふと見た先に楽しそうに笑いながら話している田所の姿があった。綾瀬(あやせ)マイコと同じ班らしく、少し羨ましく感じた。
 結局今日も田所とは一言も言葉を交わしていない。
 つい昨日のことを思い出していた。そういえば昨日の田所は雰囲気がいつもと違ったな。
 そう思って、いつもの田所ってなんだろう?という疑問が頭をよぎった。
 田所が本当はどういうやつか知らないのに、いつもも何もないよな。
 田所が自分のことを知らないのと同じくらい、きっと自分も田所のことを何も知らない。
 よく考えたら、自分は田所のことを軽くていい加減な奴だと思ってるんだ、田所が自分のことを女々しい奴だと思ってても文句は言えないのに。
 LHRも終わり放課になると、ようやく今週が終わったとほっと胸を撫で下ろしながら図書館に向っていた。
 一般も利用出来る私立図書館なので、校舎から少し離れた敷地内に独立している。
 なので一度昇降口から出て遊歩道を通って行かなければならない。
 この学園の創設者が以前館長を務めていた大型図書館が閉館となり、その一部がこの図書館に寄贈された。専門書から週刊情報誌まで幅広い品揃えで定評がある。
 試験期間中は勉強のために利用している生徒も多いので、今週はなるべく近寄らない様にしていた。
 ふと目の前に見知らぬ男子生徒たちが現れた。
「君、二年四組の西山ユウだよね?」
 細目で見た感じ優しそうな男子生徒が柔らかい口調で話しかけて来た。
「は、はい、そうですけど……」ユウは恐る恐る答える。
「……悪いんだけどちょっと顔貸してくれる?」
 その男子はそう言って顎を動かしてユウを促した。一見優しそうな笑顔だが、なんだか目が笑ってない。
 しかも後ろの方に構えていた他の二人は、明らかにガラの悪そうな体格のいい男子生徒で、ユウは思わず息を飲み込んだ。


 ユウは戸惑いながらも有無を言わさない雰囲気の彼らに連れられて、校舎の北側の倉庫に辿り着いた。
 そこは普段物置としてしか使われていない用具倉庫だ。鍵は掛けられている筈なのだが、既に開いていた。
 彼らにそこへ招かれ不安が募る。
 意外と広い倉庫内には、体育祭や年間行事でたまにしか使わない備品や用具品などが隅の方に積み重ねられていた。
 中央部分は奇麗に空間が作られて、奥の壁側に巨大な白いスクリーンの様な物が立て掛けられている。
 その手前部分では会議机の周りにパイプ椅子などに数名の男子生徒が座って待っていた。
 大人しい生徒たちでは無さそうだ。
「お待たせ。言われた通り連れて来たよ」
 細目の男子生徒は中央で偉そうに座っていた男に声を掛けた。
 制服のズボンを履いているので恐らくこの学園の生徒だろうが、上半身は規定外の柄のシャツだった。
 額から左眉にかけて目立つ傷がある。しかも最近の物でもなさそうだ。
 その男は近づいた細目の男子生徒に、あぁ、と言って小さく折り畳んだ紙の様な物を渡した。
 細目の男子は満足そうに頷くとそのまま倉庫から去って行った。
 男は立ち上がりユウに近づくと見下ろすように見つめて来た。
 身長がかなりある。百九十センチくらいあるのではないだろうか。
「……マジで女みてぇな顔してんなぁ。よぉ、お前ちょっと体貸せや」
 そう言ってフンと鼻で笑った。
 ユウは思わず心の中で、顔じゃないのか?と焦った。
 すると入り口の方でガラガラとシャッターをスライドさせる音が響いた。
「ちょっと、持って来てやったわよ!」
 入って来たのはほぼ金髪に近い髪色にパーマをかけた体操服姿の女子生徒。彼女もまた大人しい部類ではないだろう。
 手に掲げていたでかい紙袋を傷のある男に投げつけるように渡した。
「おおサンキュ、ミカ」
 ミカと呼ばれた女子生徒はもう!という感じで両手を腰に当てた。体操服の色からして三年生だ。
「早めに終わらせてよね。今日デートなの」
 男はその言葉を無視して紙袋から服の様な物を取り出した。
 女子用の制服となぜかセーラー服にフリフリのメイド服。ウィッグなどの小物が会議机の上に散乱した。
 ユウはそのラインナップを見て嫌な予感しかしなかった。
「さあ、早速だがとりあえずお前これに着替えろ」
 傷男の言葉にああやっぱり、と思いつつも恐る恐る反論した。
「……あの、何でですか?」
「何でって、お前女装趣味なんだろ?」
「ちっ、違います!」
 ユウは慌てて訂正した。
 傷男は周りの男子生徒を見て笑った。
「なんだ違うらしいぞ」
 不良たちもゲラゲラと笑っていた。
「まあどうでもいい。西山だっけ?お前の女装姿なんかすげー反響あるらしいじゃん。噂でお前の女装写真が売れるって聞いてよ。そう言う訳で俺にも撮らせてくれ」
 そう言う訳ってどういう訳だよ。到底納得がいかないが、まず自分の女装写真が売られてるっていう噂の方が気になった。
 学祭の写真販売には一枚だけ自分も写ってものもあったが、それはコスプレ喫茶の初日開店前にみんなで記念撮影したものだ。女装姿はカメラマンに断固拒否したからないはずだ。
 あっと、思い出した。客で来た人に撮られていた。よく考えたら他にも自分の知らないところで撮られていたかもしれない。
 そんなの、すごく困るよ……。
 不安で俯いていると、女子用の制服を渡されて着替える様に迫られた。
 ユウは「いやちょっと……」と首を横に傾げた。これでも怖い人たち相手に必死の抵抗だった。
「なんだよ、嫌がるなよ。それとも俺に無理矢理着替えさせられたいのか?」
 傷男はニヤリと気持ち悪く笑った。
 周りの男子生徒はゲラゲラと嘲笑した。
 ここには助けてくれる奴なんて誰もいない。言うことを聞かなければ何されるかわからない。最早選択の余地がない事を知った。
 パテーションで区切られてスペースで着替えることになった。
「なんで男なのにわざわざパテーションなんか用意してやってんのよ」
 女子生徒は不服そうに話していた。
「たまたまここにあったんだよ。それに隠れてた方が出て来た時盛り上がるだろ?演出だよ演出」
 傷男の声が笑った。
 ユウは着替えに手間取っていた。ボタンが逆で留めにくい。
 学祭のときは同じクラスの女子たちに強引に着替えさせられたからあっという間だったけど。
 そのうち「まだなの?」としびれを切らした女子生徒がやって来た。
「何チンタラ着替えてんのよ。こっちは時間無いのよ早くして」
 世話が焼けると言わんばかりにため息を吐いてボタンを留めてくれた。
「言っとくけどその制服アタシのだから汚したら承知しないわよ」
 彼女から制服を着た時に香った匂いと同じ香りがして少しどぎまぎしていた。
 ミカという女子生徒がさっきまで来ていた制服という事になる。道理で少し生暖かいと思った。
 意識してしまい少し興奮した。
「何赤くなってんの?変な想像してんじゃないよ」
 ユウは必死に首を横に振った。
「顔は女みたいでも一応は男子ってわけね。ウケる」
 女子生徒はユウを椅子に座らせてメイクを施し始めた。
 この感じ二度目だなぁと憂鬱に思っていると、ミカという女子生徒はブツクサ言い始めた。
「ったく、何でアタシがこんな事しなきゃなんないのよ。全くあいつ何様のつもり。謹慎解けたと思ったらまた面倒事でこき使いやがって……」
 スカート一枚はスースーして落ち着かないなぁと思っていると、黒いタイツを渡されたので大人しく履くことにした。
 しかし女子用らしく真ん中のラインが非常にやりにくい。
 パテーションの向こうから声が聞こえた。
「おいミカ、まだかよ」
「はーい!今やってるよ!もうすぐ出来るから!」
 彼女は「……ったく!」と舌打ちしながらユウにパーマのかかったウィッグを被せた。
「……うーん、やっぱりあんたって可愛いね。男のくせになんかムカつく……」
 そんな事言われても。
 彼女は満足げに机の上に座ってスマートフォンを取り出すと、煙草を吸い始めた。
 ここは教師も余り来ないとは言え、見つかったら停学処分だ。
「何見てんの。さっさと行きなって」
 睨まれてユウは仕方なくパテーションの外に飛び出た。
 傷男が出て来たユウの姿に気づいて、ヒュウ!と口笛を鳴らした。
「はぁ~、化けたな。これは確かに参った……」
 ニヤニヤと笑う傷男にぐるりと一周見られて本当に最悪な気分だった。
 付けマツゲのせいで心無しか瞼が重く感じた。
 瞬きする度シャカシャカと音を立てた。

 ドガッ!という音と共に、腹部に衝撃が走る。
 ケンジはよろめいて壁にもたれかかった。
「……勘弁してくださいよ」
「ウッせぇ、調子のんな!」
 問答無用で膝蹴りを喰らう。
 このところよく不良グループに絡まれる。
 先週末のあのソフトモヒカンたちを筆頭に、ほぼ毎日色んな奴らに絡まれる。テスト期間中だろうがおかまい無しだ。
 どうやら噂では、裏で一番権威のあった三年の園生(そのお)ガクト、通称キングが学期始めに問題を起こして謹慎になり、その間羽を伸ばしていた他の不良連中が、園生の謹慎が解けた事を機にまた苛ついて暴れているらしい。
 ボス猿が帰って来て自由に出来なくなった上、テストのストレスも相まってむしゃくしゃしていたところに丁度いい標的を見つけてカモにしているのだろう。そのカモというのが自分な訳なのだが。
 このところ目立っていたのが気に食わないのだろう。まあいい迷惑ってやつだ。
 幾つかのグループの中でも小物そうなバカ野郎共は喧嘩慣れすらしていないのか、調子に乗って殴ってきて手首を傷めていた。ザマァみろ。
 顔も殴られるからいよいよ教師にも目をつけられそうだし、父親からも怪訝な目で見られて、一方的に絡まれるのだと説明してもお前が悪いと説教される始末。
 えーえー、確かに目立ちたがり屋なのは事実でした。
 でももういい加減身に染みたと言うか、もう本当にいい加減にして欲しい。
 しばらく蹴りを食らった後、ようやく解放されて一人奥歯を噛み締める。
「……あー、クッソが!」
 油断していた。職員室にプリントを届けに行った帰り、待ち伏せされているとは。
 立ち上がって身なりを整えようと上半身をよじると、肋骨に激痛が走った。
 全く容赦ない奴らだ。内臓破裂でも起こしたらどうするつもりだ。
 今のところ抵抗すれば大体が倍返し。もっと上手くガードする術を身につけなければ。
 声を押し殺してゆっくり息を吐き、平然を装って校舎に戻った。
 教室へ荷物を取りに戻り帰ろうと歩いていると、通りすがりに他クラスの男子二人組が何かを噂していた。
「さっきの西山(にしやま)だったよな」
「なんかヤバそーな雰囲気だったくね?」
 西山……?
 ケンジは咄嗟にその足を止めた。
「後ろの片方、九組の多曽川(たそがわ)……ほら、例のソノキングの子分の!」
「おい、それ言うなよ。誰か三年が聞いてるかもだろ?」
「あっ、悪い……!でもあんな不良に連れてかれるなんて、ただならぬ予感すんじゃん」
「いやでも俺ら関係ないしな。触らぬ神に祟り無しだよ」
 それは聞き捨てならなかった。
「おいちょっとお前ら」
 ケンジが背後から声を掛けると、その生徒たちはビクッと一瞬体を強張らせた。
 振り返りケンジだと分かると「なんだよ……」と少しホッとした様に肩の力を抜いた。
「今の話、詳しく聞かせろよ」
 ケンジは尋ねた。
「なんだ田所(たどころ)かよ。マジびびらせんなって……」
「っていうか相変わらず偉そうだなお前」
「三年にボコられても懲りてねーんじゃねーの?」
 あーはいはい。これ、反田所勢力だ。
 自分で言うのもなんだが、不良たち以外にも自分を毛嫌いしている連中がいる事は自覚している。
 見た目ちょっと大人しそうな奴らだったから油断した。
 ケンジはイラッとして眉間に皺を寄せた。
「……ごちゃごちゃうるせぇな。いいから話せよ」
「な、なんだよキレんなよ……」
 連中はビビった様に顔を引きつらせた。
「四組の西山が、九組の多曽川と細目の奴に声掛けられてどっかに連れて行かれたのを見ただけだよ」
「多曽川?」
「三年の園生先輩の子分だって聞くけど」
 要するに手下ってこと。でもそれって。
 ケンジは焦った。
 相手が不良だっていうなら、まさかとは思うが西山も自分みたいにリンチに遭っているんじゃないかと想像した。
「どこに連れて行かれた?」
「は?知んねーよ」
「あっそ……」
 ケンジは礼も言わず踵を返した。
「……なんだよあいつ、態度悪ッ!」
 後ろで悪態吐く声が聞こえた。悪いが自分の事を嫌っているヤツに愛想を振りまいてやる程お人好しじゃない。
 思いつくところを探し歩いた。
 人目の付かないところを重点的に回ったがどこにも姿が無い。
 最早事が済んで西山は泣きながら帰った後かも知れない。
 最後に第一体育館の裏にある北側の用具倉庫に向った。そういえばこの裏でも一度リンチを喰らった。
 裏手に回ろうとすると、ふいに中から話声が聞こえた。
 倉庫のシャッター越しに中の様子を伺い聞く。
 誰かが「こっち向けよ西山」と言って笑う声がした。
 ケンジは思わずシャッターを開けようとした。
 しかし中からロックが掛かっているのか、ギャッ!と変な音を立てて固まった。
 どうやらそれで中にいた人間が気づいた様だ。
 人が近づく気配がした。
 今更逃げる訳にも行かないが、果たして中にいるのは本当に園生たちなのだろうか。噂には聞くが今までまともに園生の姿を目の当たりにした事は無かった。
 ケンジが中の様子を伺っていると急に横の扉が開いて、何人かの男に無理矢理倉庫の中に連れ込まれた。
 ――ガチャン!
 倉庫内に閉まる扉の音が響いた。
 シャッター横に扉があるなんて知らなかった。
 中は薄暗く、中央部分だけ異様に光り輝いていた。
「呼んでもないゲストの登場に拍手~」
 目の前に現れた柄シャツの男がそう言って手を叩いた。しかし他に誰も拍手しない。
 後ろを振り返ると先ほど自分を中に引入れた男子生徒が、ギラギラと鋭く睨みつけていた。
「っていうか誰?こいつ」
「二年の田所って奴っす」
 何処かで見た事のある顔の奴が言った。
「わざわざこんなとこまで来て、また俺と遊んでくれんの?」
 その目つきの悪いベリーショートはこちらに向って口角をあげた。
 ケンジは思い出した。
 道理で見た事ある筈だ。
 数日前東棟を歩いていたら、コイツと仲間に廊下ですれ違いざまにいきなりリンチされた。
 ーーいぃ~気味。
 ーーそれくらいにしとけって、多曽川。
 あぁそうだ、コイツが多曽川だ。そういえば仲間が名前を呼んでいた。
 思い出して腹が煮えくり返る。
「この西山と同じクラスの奴っすよ。このところ調子良いみたいで、最近他の先輩方にもよく遊んでもらってるみたいっすよ」
 異様に黒目の小さい多曽川の笑い顔が、不気味過ぎてゾッとした。
「ああ、そういやなんか、そんな話も聞いたかもな」
 園生の子分だったのか。道理でイカレタ目つきだ。
 という事はこの柄シャツの男が三年の園生か。
 目が慣れて良く見える様になってきた。
 この園生の謹慎が解けて戻って来たばかりに、俺は不良共からとばっちりを食らってるのかと思うと、思わず奥歯に力が入った。
 しかし園生はとても高校生とは思えない風格を漂わせている。
 伊達にヤクザの息子と噂される訳じゃない様だ。
 その存在も気になったが、ケンジの心を一番乱したのはその先に見えたセーラー服姿の美少女だった。
 前髪パッツンの黒いボブヘア。赤く塗られた唇は色っぽくてセクシーで、まるでテレビで見るコレクションモデルの様な迫力。
 しかし、それが一体誰なのかすぐに察した。
「……西山?」
 半信半疑で声を掛けた。
 しかし声を掛けた相手はプイと顔を背けた。
「お前、えーと、高橋?」
「田所っす」
 ケンジの代わりに多曽川が答えた。
「ああ田所。俺の邪魔すんなよ」
 園生に睨まれて思わず息を飲んだ。
 あはは、これは本物っぽい。額に傷まであるし、間違いなくマジでヤバい奴。
「まあまあ、ギャラリーってことで。ちょっと大人しくして見てろよ。……なぁ?」
 園生にポンと肩を叩かれ、そのままいつの間にか用意されたパイプ椅子に座らせられた。


 そこには臨時の撮影スタジオ的なものが存在していた。
 三メートル近い白いスクリーンを背景に、意外にもキング自ら一眼デジタルカメラを構えていた。簡易的とは言い難いストロボ装置からフラッシュが焚かれる。
 ケンジは思わず近くにいた多曽川に声を掛けた。
「おい、あの人写真趣味なの?本気?」
「あ?園生さんか?なんでも詳しい知り合いがいて中学からの趣味らしいが……ってなんだオラ文句あんのか?」
 ケンジは「いや別に……」と口をつぐんだ。
 ヤクザのボンとなればやる事成す事に金かけていてもおかしくないってか。
 西山は園生に逆らえないのか、園生に言われるがままにポーズを取っていた。
 時には園生に腕や顔の向きとか構われて、まるで操り人形の様にカメラの前に立っていた。
 それでも圧倒的な存在感に目を惹き付けられて鼓動が鳴った。
 他の連中は暇つぶしにトランプでババ抜きを始めていた。机の上にはお菓子類が散乱していて、時々袋からこぼれたスナックを齧りながら目の前の相手のカードを引き抜いては舌打ちを繰り返していた。
 ケンジはそんな連中を横目で見ながら、大人しく椅子に座って撮影風景を傍観していた。
 セーラー服姿での撮影が終わった様で、園生が西山に近づいた。
「よし、じゃあ次、噂のメイド服にでも着替えるか」
「……あの……もう、解放してもらえませんか」
 その声を聞いて、ようやく西山だと確信が持てた。
「あー、次で最後だから我慢しろよ」
 西山は不服そうに眉を潜めつつも、開きかけた口を結んだ。
「もー、まだやるの?」園生に対等そうに話しかける女子生徒がいた。
「悪い悪い、もう少しだから。ほら頼む」
 その女子生徒に背中を押されて奥のパテーションの影に隠れた西山は、暫くして今度はメイド服姿で出て来た。ウィッグがパーマの物に変わっており、サイドで二つ結びしていた。衣装も学園祭で着させた物とはまた違うタイプだ。
 西山は今にも泣きそうな表情でずっと視線を床に落としていた。
「もっと顔上げろよ」
 園生が西山に近づいて顎をぐいと上げた。
「お前見た目は俺好みだなぁ。……チューしてやろうか?」
 西山が慌てた様に抵抗した。
「ヒャハハッ!嫌がり方も女みてぇ……うっわ、男だって分かってても興奮すんなぁ」
 ケンジは思わず立ち上がった。すると真横から大声がした。
「オイコラァッ!勝手に立ち上がんな!」
 ケンジは多曽川に力尽くで椅子に押し付けられた。肩にグッと力を入れて抵抗しながら西山に向って話しかけた。
「……お前嫌なら嫌だってちゃんと言えよ。何でこんな事させられてんだ」
 すると、園生の腕を強く振り払った西山が顔を上げて睨んで来た。
「元はと言えば、お前のせいだろ!」
 突如として怒り出した西山に一同は唖然とした。
 園生も面食らったみたいに間の抜けた顔をしていた。
 ケンジは多曽川の腕を振り払い再度立ち上がった。
「何だよ急にキレやがって……!」
「キレもするさ!嫌だって言えたらとっくに言ってる!誰が好きでこんな格好するかよ!ボケナス!」
「ボケッ……ナスって意味わかんねーけど、いやいや、今ハッキリ言ってんじゃんか!」
 ケンジは一歩足を進めた。
「誰のせいでこんなことになってると思ってんだよ。なんで僕ばっかりこんな目に遭わなきゃなんないんだよ……」
 西山が卑屈っぽく笑いながら俯いていた。ケンジはついイラッとして言葉を吐き出した。
「あのさぁ、お前さ、自信無さそうな態度せずに今みたいにハッキリ言えばいいじゃん。嫌なら嫌だってさ!もっと自分の意志を周りに伝える努力しろよ。だからお前が何考えてるか分かってもらえねーんだよ」
「うるさい!」
「女装すんのがそんなに嫌なら、学祭ん時もっとハッキリ断れば良かっただろ。このところだってそうだ、俺に話しかけられるの嫌なら話しかけるなって一言言えよ!」
 正直ちょっと自分自身もやけっぱちだった。
 西山はムッとしたように一瞬口を尖らせて、口を大きく開いた。
「じゃあハッキリ言ってやるよ!もう話しかけんな、バーカ!」
 西山は舌を出してあっかんべーをした。それは、破壊力抜群だった。
 衝撃的なその可愛さに、つい口元がニヤついてしまった。
「……何笑ってんだよ。僕をなめてるの?」
「いや、その格好で言われても、可愛いだけだし……」
 ケンジはしまったと思って口を塞いだ。つい言葉が口をついて出てしまった。
「何だよそれ、キモイ」
「は?うっせぇ……!言葉のあやだろ」
 ケンジは顔が熱くなった。
 周りにいた連中が「なんだコイツら」とゲラゲラ笑い出した。
 すると園生が頃合いを見計らった様に手を叩いた。
「はいはい、痴話喧嘩はよそでやれよ」
 西山は頬を膨らませて、違う……!と小さく抵抗して叫んでいた。
「安心しろ、お前は誰がどう見ても可愛いぞ。自信を持て」
 園生がそう言って西山の肩を叩いて笑った。
 西山は顔を引きつらせてドン引きしていた。
 その後、しきりに時間を気にしている様子の女子生徒が園生に何やら耳打ちした。
 すると、今度は園生が西山の耳元でボソボソと話しかけていた。
 西山は次の瞬間えっ?という顔をして顔を上げた。気のせいか少し嬉しそうだ。
 新しい衣装で撮影が再開された。
 先ほどまであんなに機嫌が悪かったのに少しマシになっている。にしろ少し嬉しそうだ。何故なのか、一体何を言われたのだろう。
 西山は少しポージングに慣れたのかサクサクと撮影が進んだ。
 と言うより、先ほどとは明らかに雰囲気が変わった気がした。
 普段の西山からはとても想像出来ない程の、その場を支配する様な絶対的なオーラ。
 ケンジはそれをゾクゾクと感じて気がつけば鳥肌が立っていた。
 気がつけば周りにいた他の連中もじっと西山の方を夢中で見ていた。
「よし、後もう何ショットか撮って終わらせてやる。ところでお前ら……」
 園生は後ろで見ていた仲間たちを一瞥した。
「さっき写メ撮ってた奴いたろ。出せ」
 すると不良たちはぎくりと顔を見合わせ、ボスの命には逆らえないのか数人がスマホを園生の手の平に乗せていった。
「はい消去」園生がそう言って彼らのスマホを構うと、持ち主は残念そうに「あっ……!」と声を上げた。
「俺の写真を買え」園生はニヤリと不敵な笑みとやらを浮かべた。
 日が沈んで夜の帳が降りた始めた頃、ようやく西山は女装から解放されて制服姿に着替えて来た。
 いつの間にか化粧も落とした様で、すっかりいつもの感じの西山の姿に戻っていてホッとした。
 ふと園生が近づいて西山の肩を組み、笑いかけながら何かを渡していた。
 西山はそれを少し嬉しそうに鞄にしまうと出口に向って歩いて来た。
「西山」
 声を掛けたが、西山はムッとした表情で通り過ぎていった。
「に~し~や~まぁ~……!」
 ケンジは後を追いかけた。
 西山は体育館横の外水道に辿り着き、鞄を水道上部のコンクリート部分に置いて、流水で顔を洗い出した。
 ケンジはその間コンクリートの側面にもたれ掛かりながら西山に話しかけた。
「その、なんていうか……。あれだよ、さっきはちょっと言い過ぎたっていうか……。それに、この前の事もちゃんと謝ってなかったし……」
 西山の方を見るが聞いているのか聞いていないのか分からない。
 話しかけるなって言われたけど、詫びくらい聞いてくれてもいいのにな。
「プライベートな事をいきなり訊いたりして悪かったよ。あれから考えたんだ。確かに誰にでも聞かれたくないこととか、家庭の事情ってあるよなって。俺あの時お前の気持ちを想像できてなかったと思う。でも、俺は……冷やかしとか興味本位で聞いたわけじゃなくて、その……」
 キュッ!と蛇口を閉める音が鳴った。
 顔を上げた西山の前髪から、ポタッポタッ、と水が滴っていた。
 慌ててタオルか何か出そうと鞄を探ったが、よく考えたらハンカチすら持っていない事に気づいた。
「……自分のあるから」
 西山はそう言って制服のポケットから自分のハンカチを取り出して顔を拭いた。
 ケンジは西山の表情を伺った。
 西山が自分の方を見た。
 何を話そうかとあれこれ言葉を探していた。
 すると急に西山がニヤッと笑った。
「……なんだよ、急に」
 ケンジは驚いた。
 すると西山は嬉しそうに前髪を指先でくしゃくしゃとほぐしながら話した。
「さっき、あの恐そうな先輩に貰った」
 そう言って西山が取り出したのは茶封筒に入った万札数枚だった。
「へっ!?」
「さっきの報酬だって。凄くない?」
「……えっと、要するにバイト代ってこと?」
 ケンジは開いた口が閉まらない。
「そう!僕初めてかも。バイトとかした事無かったし、これって初めてのバイト代ってやつ?」
 西山は無邪気にはしゃいでいた。
 ケンジは呆気にとられてしまった。
 えっ!?だからさっき急に機嫌が良くなったわけ!?
「あははは……!」戸惑いながら「へ~、良かったじゃん!」と笑った。
 さっきまで女装なんて嫌だとか叫んでいたのに、何だこの変わり身。
 人の心をここまで動かすとは、金の力ってやつは恐ろしい……。
 でも久々に西山に笑いかけられた事は、純粋に嬉しかった。
「それ、どうする気?まさか貯金とか?」
「まさか。……ちょっと欲しい物があるんだ」
 西山は思いついた様にそうだ!と手を叩いた。
「ねぇ、明日ちょっと付き合ってよ」
「えっ!?」
「なんだよ、断るの?何でも言う事聞くやつ、保留になってたの忘れた?」
 西山は口を尖らせて意地悪っぽく言った。
「いや忘れてねーけど、そんな事でいいの?」
 ケンジは色々予想外の展開に驚いた。
「うん。まあ流石に大事な用事とかあったら別に良いけど……」
「いや、別に用事とかねぇし。わかったよ」
 帰り道、途中まで同じ方向に歩きながら待ち合わせの時間や場所を決めた。
「じゃあそういう事で」
「おう、明日な」
 手を挙げて別々の道へ別れ、去り際にもう一度振り返った。
 遠ざかった西山の後ろ姿が角に消えた。
 何っていうか、想像もしなかった状況に思わず笑いが込み上げた。
 人生って何がどうなるか、わっかんないもんだなぁ。
 あーやばいどうしよう、なんか今から明日が待ち遠しい。
 ケンジは思わず拳を握った。

 改札口から徒歩約一分の駅前ロータリー。
 土曜日の人混みの中、イヤホンで音楽を聴きながら西山(にしやま)が来るのを待った。
 ケンジの家から一番近い私線に乗り、終点はこの辺りで一番大きな繁華街。
 私鉄とJRのホームから丁度中間地点に位置する駅前ロータリーの噴水前は、恰好の待ち合わせ場所だった。
 つい癖で時間の十分以上前に着いてしまった。
 向いにある金属製のモニュメントに反射した自分の姿を見ながらニット帽のずれを直す。
 行き交う人々の幾らかもまたそこで立ち止まり、身なりを整えて立ち去って行く。
 西山が来るまでスマホでネットして暇をつぶす。
 ネットショップで安いエフェクターなどの機材を見つけては、買い物かごに入れるだけ入れて放置しまくっている。他にもお気に入りのブランド商品とか。
 もしも全て決済すれば数十万円という非現実的金額だが、ヴァーチャル感覚でエアショッピングを楽しんでいる。
「ごめんお待たせ」
 ここに来てその台詞を耳にしたのは何度目だろうか。
 反応して多くの人間が顔を上げる。
 ケンジも顔を上げて声の方に目線を向けると、今度こそ西山の姿があった。
 西山は独特なモード系ファッションに身を包んでいた。
 少なくとも自分が行く様なショップには置いていないアイテムばかり。
 印象的なプリントTシャツに奇麗目系の黒シャツを羽織り、サルエルっぽいシルエットのパンツがよく似合っていた。
 以前偶然はち合わせたときも独特なシャツを着ていたが、一体どこで買うのか。
「よう。いや別に待ってねーし。俺も今着いたとこ」
「本当?それなら良かった」乱れた髪をさっと直しながら西山がホッとしたように笑った。
 腕時計を確認すると、ちょうど待ち合わせの時刻を過ぎたところだった。
「西山ってさぁ、どこで服買ってんの?」つい心の内が口に出た。
「えっ?さあ。あんまり服とか買わないけど、大体いつも同じとこ……姉とよく行く小さいインポートショップかな。ブランドとかよく分かんないし、何着ていいかわかんなくて適当に気になったの選んでるんだけど……変かな?」
「いや、別に。似合ってんじゃね?」
 ケンジは褒めたつもりだった。
田所(たどころ)はお洒落だからいいよね。僕流行とか疎いから」
 西山は少し残念そうに笑った。
 そりゃこっちだってファッション誌とかアプリ見たりしてそれなりに努力してるわけで。
 寧ろ西山の方が個性があって羨ましいくらいだ。
「んで?どこ行くんだよ」
「楽器店ってこの辺りにある?」
 西山が口にした場所が意外で驚いた。
「え?あー、あっちにあるけど」
 そう言うと西山は頷いてそちらの方向へ歩き始めた。
 普段から西山は何を考えているのかイマイチ分からない節がある。
 今だってそうだ。昨日まであれだけ頑なに自分を無視し続けていたにも拘らず、突然用事に付き合えって誘ってきて、普通に話して笑っている。
 許してもらえたのだろうか?
 西山とまたこうやって話せるのが嬉しい反面、内心探り探り。
 ちょっとした表情の変化や仕草を読み取って、今度こそ機嫌を損ねる事のないように、発言にも気をつけなければ。
 ケンジもよく立ち寄る楽器店に到着すると、西山は楽器店にはあまり来ないのか物珍しそうにキョロキョロと店内を見渡し、所狭しと陳列されている楽器の数々に驚いたような表情を浮かべていた。
 一階部分にあるギターコーナーで西山が立ち止まった。
「何探してんの?」
「うん、実は僕もギター欲しいと思って」
「は?お前がギター?マジで?」
 ケンジは思わず吹き出してしまい、ヤベッ!と口を塞いだ。
 しかし西山は怒り出すとかそう言うのではなく、少し拗ねた様な感じで俯いた。
「だってさ、羨ましかったんだ。学祭の時……田所ものすごく格好良くて。だから僕もギターとか弾いてみたいなって、思って……」
「あ、いや、そんな茶化すつもりはなかったんだけど。意外っていうか、突然だったから吃驚しただけで!」
 ケンジが慌ててそう言うと、西山は顔を上げて少し微笑んだ。
「実際幾らくらいする物なのか見たかったんだよ。でもやっぱり結構ピンキリだね。二十万とか、絶対無理。二万くらいならいいけど」
「そりゃあな。それに俺みたいにエレキやるってんならアンプとかエフェクターとか揃えないと満足には弾けないし、アクセサリー類も一緒に買うとそこそこかかる。ネットで探せば結構安いのあるけど。まあ最初は初心者用の安めのギターで三、四万あれば揃えられるんじゃねーの?」
 西山はそっかぁ、と言って壁面に飾られたギターを眺めていた。
「本気でやるなら、シールドとかチューナーとか余ってるのあるから貸すけど……」
 結局その楽器店では安価な物で西山の気に入る物がなかったようで、「少し考える」と言って店を後にしてしまった。
「で、どうすんの?次の店行く?」
「うーん……」
 ケンジが先頭に立って歩き、暫くして振り返ると西山の姿が無かった。
「えっ!?」
 焦って元来た道を戻ると、大型書店の入り口のところに西山の姿を発見した。
「って、急にいなくなんなよ」
「うん、ごめん」
 西山はそう言いながら立ち読みしていた本に夢中だった。
「何それ」
「僕の好きなミステリー作家の新作」
 ケンジはへえ、とため息を吐いた。
 周りを見るとそこはCDなんかも販売している様で、話題のアーティストのアルバムが陳列販売されていた。
 ナナイロメイプルXのアルバムを見つけてあっ、と呟いた。
「そう言えばナナプルのアルバム貸すって話だったけど」
 西山の方を見ると本を読むのに熱中している。
「そんなに続きが気になるなら買えば?」
「うん、そうする」
 西山がそう言って本を持って振り返ると、誰かとぶつかって相手が悲鳴を上げた。
「すみません!」
「……あれ?西山くん?」
 見るとその相手は同じクラスの吉川(よしかわ)モエだった。
「あっれー?吉川さんじゃん!」
 ケンジは思いがけない偶然の鉢合わせに、テンションが上がって叫んだ。
「あ、田所くんも一緒?あれ~、二人ってやっぱり仲良いいんだねー!」
 学校では普段ポニーテールが定番の吉川だが、この時は髪の毛を巻いてハーフアップにしていた。服装もトレンドを押さえたガーリーなファッション。流石吉川、いつ見ても可愛い。
 ケンジは意気揚々に「ああ、ちょっとコイツに付き合ってて」と笑いかけた。
「あれ、もしかして西山くんその本買うの?」
 ケンジの言葉をスルーするかのように、吉川は西山に少し興奮した様子で話しかけた。
「あっ?うん。好きな作家さんなんだ」
「本当?実は私もファンなの」
 吉川は嬉しそうに笑った。
「そうなの?」
 西山と吉川はその作家の話で盛り上がった。
 詳しくないケンジは蚊帳の外で、ぼんやりとその会話を聞いていた。
 西山は話しながら笑っていた。
 あのいつもの愛想笑いとは違い、本当に楽しそうだ。やっぱり好きな事を話す時、人は誰しも心からの笑顔になるものなんだな。
「じゃあ田所くんも、一緒にご飯食べに行くってことでいい?」
「えっ?」
 途中から全く話を聞いていなかったケンジは、突然そう言われて驚いた。
「じゃあ田所のおごりで」
「はぁ!?なんで」
 西山が突然にっこり笑った。これはきっと作り笑いだ。
「今日は何でも言う事聞いてくれるんでしょ?」
「……ッ!?あ~っ……!」
 ケンジは思わず声にならない叫びを上げた。
 そう言う事かよ。最初から買い物に付き合うだけじゃ済まなかったって訳だ。バイト代貰ったくせに本当コイツいい性格してる。
 吉川は「いいよそんな私の分まで」と言ってはいたけど、西山にほだてられ飲食店に着いて注文するなり「ゴチになります♪」と可愛く笑った。
 まあ最初に言い出したのは自分だし?売られた喧嘩は買うのが信条だこの野郎。
 食事中も相変わらず吉川と西山は好きなテレビ番組とか音楽の話で盛り上がっていた。
 どうやら趣味が合う様だ。
 ケンジは話に入れなくて一人残されてる感が半端なくていじけた。
 三人分のパスタセットに身銭を切り、寂しくなった財布の中を見つめてため息が出た。
 修学旅行に着ていく新しい服買うつもりでいたのに。
 悲壮感たっぷりで店を出た後、ケンジの思いを知ってか知らずか、西山が服を買いに行きたいと言い出した。
 マジで喧嘩売ってんのかコイツ。
「あー、私も服買いたい。一緒に行っても良い?思ってたんだけど、西山くんってお洒落だよね。普段どんなお店に行くのか知りたいな」
 それは確かに自分も気にはなるところだった。
「じゃあ、今から行ってみる?田所もそれでいい?」
 ケンジは一瞬西山を見つめた。それは学祭ぶりに自分に向けられた心から楽しそうな笑顔だった。
「しゃあねぇな」そう言いながらも自然と口元が綻んだ。
「今日はとことんお前に付き合ってやるとすっか!」


 西山御用達のインポートショップは、意外にも自分もよく行く総合ファッションビルの中にあった。
 早速その店に立ち寄ると、海外製の様々なジャンルの服が置いてあり、ケンジは物珍しさにぐるりと店内を一周して回った。
 和柄テイストでロックなデザインのアンサブルのトップスや、深みのあるカラーにシワ加工が施されたクラッシュジーンズなどが目に留まった。タグを見ると大体七千円から二万くらいでお手頃価格だった。メイドインフランスと記されたタグのものが目立つ。
 気がつくと西山はいつの間にかまた個性的なシャツを手にしていた。
「西山くんそれ可愛いね!買うの?」
 吉川が西山の手にしていたそれを一瞥して微笑みかけた。
「あ、うん。これ良いよね」
 西山は可愛いという言葉を何の躊躇もなく賛辞と受け取っていた。
 まあケンジも昔は何でもかんでもやたら可愛いっていう女子の脳みそが理解できなかった。
 へんてこな、下手すれば少し気持ち悪いようなマスコットキャラクターに可愛いと叫び、ハゲオヤジの芸人を可愛いと言ったり、一体どこがどう可愛いのかさっぱり理解不能だった。
 高校に入り、女子グループとつるむようになりようやく理解した。
 女子の『kawaii!』は時として『so cool!』という意味であったりあるいはただの社交辞令なのだと。
 西山はそこで何点か服を購入した。
 その後吉川が女子向けのショップに立ち寄りたいというので、付き添う形で一緒に店内に足を踏み入れた。
 女子の服は最近はラフでボーイッシュなデザインなものが多いが、個人的にはレースとかプリーツとかパフスリーブとか可愛いと思う。ハイウエストの切り替えワンピースなんか特にいい。
 吉川に「これなんか吉川さん似合うんじゃん?」などと目に付いたものを当てがって勝手に喜んでいた。
 西山も総じてファッションには興味があるらしく、商品に手は触れないものの興味津々にアイテムに見入っていた。
 もし西山が女装姿なら、ごく自然に店員に接客されていただろうなと想像して、一人小さく吹き出してしまった。
 吉川は別の店でも靴を購入し、ケンジもよく行く店で結局幾つかアクセサリー類を買った。
 ファッションビルを出てお茶でもしようとカフェに向かう途中。
 道すがら声を掛けられて立ち止まった。
「こんにちは!ごめんなさい、君ちょっと良いかな?」
 チャコールグレーのジャケットを羽織った女性だった。
「私こういう者なんだけど」
 差し出された名刺には、地元では有名なファッション雑誌の出版社名と部署と名前。どうやら雑誌編集部の記者のようだ。もう一人カメラを持った男性がいた。
「実は来月発売号の特集ページ用にスナップ写真を集めてて、ちょっと何枚か撮らせてもらっても良いかな?」
 ケンジはつい軽いノリでいいっすよ、と返事を返してしまった。
「君も個性的でお洒落だね!良かったら一緒に……」
 記者が西山に声を掛けると、西山は無言のまま首を横に振り一歩後ずさった。
「あ、シャイなのかな?ごめんね」
 女性記者が西山に謝ると、西山は会釈をして俯いた。
 ケンジは道端で適当にポーズを付けさせられ、フォトカメラを向けられた。
 雑誌の取材とか初めてで内心緊張していたが、カメラマンの言葉巧みなトークで表情が固くならずに済んだ。
 どうやら必要だったのは男子の写真だけらしかったが、しかしそこはさすがの吉川、せっかくなので撮らせて欲しいと言われ、まんざらでもない様子でカメラに収まっていた。というかかなり撮られ慣れている印象だった。
 女性記者も思わず尋ねた様子だった。
「失礼だけどもしかして読者モデルとかやってる?」
「あ、はい一応。kimiバランスって言う月刊誌で時々」
「凄い!全国誌じゃない!うち見たいなローカル誌とは雲泥の差ね」
 ケンジも驚いたが、そう言えば吉川が読モをやっているという噂を思い出した。本当にやっていたのか。
「専属は声掛かってないの?」
「専属はまだ……」
「そうなんだ!もし良かったらいい話があるんだけど。東京の出版社にいる知り合いが新しくファッション誌を立ち上げるんだけど、若い子探してて今度紹介させてもらってもいいかしら?イメージにぴったりなの」
「本当ですか?」
 吉川は暫くその女性記者と話し込んで別の名刺を貰っていた。
「ごめんね、待たせて」
 記者たちと別れた後吉川が嬉しそうにその名刺を両手で握りしめていた。
「流石過ぎるだろ吉川さん!マジ驚いたわー。なんかスカウトされてるし!」
「吉川さん、読者モデルやってたんだ」
 さっきまで無口だったはずの西山も、興味津々な様子で話に突っ込んで来た。
「そうなの。読モは中学の時叔母さんの勧めで、やってみたらすっごく楽しくって。両親も勉強とかに支障がなければ好きなだけやればいいって言ってくれてるし、……できれば将来はプロのモデルになりたいなって思ってて」
「へえ~!すげーじゃん!吉川さんならなれるって!」
「え~?本当?だといいけど」
 照れ臭そうにはにかむ吉川を見て、ケンジは少し羨ましく感じた。
 そうやって周りからも家族からも認められて、自分のやりたいことを、夢を追いかけることができるなんて。
 もちろん自分だってたとえ父親に反対されたとしても、夢を諦める気はないけれど。
 カフェに入り一息つく。
 ガラス張りの窓際カウンター席に横一列に座り、コーラを飲みながら来る修学旅行について雑談をしていた。
 話の合間、美味しそうにミルクレープを頬張る西山をじっと見ていると、物欲しげに見えたのか西山が「食べる?」と尋ねてきた。
「えっ、いーの?」
 西山がどうぞと言って皿を差し出したものの、スプーンがない。
 スプーンは西山が手にしている。
 既に一口分乗っていたのでケンジは西山の手首ごと掴んで引き寄せ、それを口にした。
「あっ、うめぇ。あんがと」
 西山は一瞬キョトンとしていたが、クスリと笑って「ごめん、スプーン僕が持ってたね」と言って詫びた。 
 それを見ていた吉川が口元で拳を作ってニヤニヤしながら言った。
「二人って本当仲がいいね」
 なんとなく、しまったと思った。と同時に、吉川にとある疑念を抱いた。
「あ、吉川さんも一口いる?」西山が吉川に尋ねた。
「ううん、私はチーズケーキあるから、気持ちだけありがとう」
 吉川は、うふふと笑い「ごちそうさま」と満面の笑顔を浮かべていた。
「うん……?」
 吉川の発言が意味深であることに、おそらく西山は気づいていない。
 だがそんな吉川のおかげで、西山について衝撃的な事実が判明した。
 別れ際に吉川が西山に連絡先を尋ねたところ、西山が気まずそうに答えた。
「ごめん。教えたく無い訳じゃないんだけど……」
 吉川が悲しそうな表情になり、西山は慌てた様に付け足した。
「実は携帯持ってないんだ」
「えっ!?」
 吉川と二人して驚きの声を上げた。
「ま、マジで?」
 西山はコクンと頷いた。
「だって、高校生にもなって携帯持ってないとかそんな奴、今時いないだろ!……あ、いた」
「本当に携帯持ってないの?ガラケーも?そっか、だから前に聞いた時も教えてくれなかったんだ」
「えっ、そうなの?」ケンジは吉川に訊き返した。
「学祭委員の時、一応連絡先交換してた方が何かと都合がいいかと思って聞いたんだけど、覚えてないって言うから私のLIMEのID書いて渡したの。ずっと連絡ないなぁって思ってたんだけど」
 西山は申し訳無さそうに口をつぐみ、頬を指先で掻いていた。
「本当ごめん。持ってないとか言うと皆に色々言われると思って……」 
「それで黙ってたって訳?」
「まあそんなところ」
「道理で俺が聞いたときも教えてくれないと思った」
 ケンジは内心ホッとしていた。自分にはワザと教えてくれなかったのだと思っていたから。そういう事なら納得せざるを得ない。
「親買ってくれないの?」
「ううん。必要ないから」
 西山はケロッとそう言い放った。
「いや必要でしょ!」
「いや必要だろ!」
 吉川と二人して突っ込んだ。
 西山はやはりどこかズレている。
 可笑しくて笑いが込み上げて来た。
「じゃあ例の金で携帯買ったら?」
「うーん、携帯は別に必要ないし、どちらかというとタブレットPCが欲しいかな」
「西山くん、スマートフォンだったら便利だよ?スマホにしない?」
 吉川も笑いながら必死に説得しようとしていた。
「ね、絶対あった方が便利だから、買いなよ。ね?」
「そうだよ。本当お前ズレてんなぁ」
 吉川は時間を確認して「大変、電車来ちゃう」と呟いた。
「西山くん私のアドレスまだ持ってる?」
「うん。大事にしまってあるよ」
「じゃあスマホ買ったら連絡ちょうだいね?約束だよ?」
「っていうか、俺にも連絡しろよな?」
 すると西山は不服そうに口を尖らせた。
「まだ買うって決めた訳じゃ……」
「バカ、吉川があそこまで言ってんだから!親だって駄目だって言ってる訳じゃないんだろ?」
「まあね。姉にも勧められたけど……」
「ほら!」
 西山は別に必要ないもん、と繰り返した。
「今日は一日遊んじゃったね。じゃあまた来週!修学旅行本当楽しみ!」
 そう言って笑顔で手を振る吉川とは駅で別れた。
 西山と同じ電車で同じ方向に帰る。
 学園の生徒の家は大体二方向に分かれているから、街からだと私線かJRで分かれる。
 吉川の話をしたりギターをどうするか話をしながらあっという間に自分の降りる駅に着いてしまった。
 停車して扉が開いた瞬間、秋の冷たい風が車内に吹き込んだ。
 立ち上がっておいて足が止まった。
「あれ?ここじゃないの?」
 西山が指摘してきた。
「やっぱり次で降りる」
 怪訝そうに首を傾げる西山。
 そう、本当はこの駅でよかった。
 発車した電車は再び次の駅で停まり、西山と一緒にそこで電車を降りた。
 二つの駅は大きなカーブを挟んだ北と西に位置する。
「西山の家ってここから歩いてどれくらい?」
「十分か十五分ってとこかな?」南の方を指差した。
 ならば恐らく自分の家とそんなに離れてはいない。
「あのさ、もうちょっと付き合ってくれる?」
「え、うんいいけど……」
 少し戸惑う表情の西山を横目に、ケンジはある覚悟を腹に据えていた。


 西山を連れてやって来たのは自分の家から十分程度の距離にある近所の公園。
 おそらく西山の家との中間地点に当たる。ここからずっと先丘陵へ向えば二人の通う学園がある。
 公園の自動販売機で暖かい飲み物を二つ購入し、西山に投げた。
 キャッチした西山は熱かったのか慌てて手の中で転がした。
 西山は「ありがと」と呟いてベンチに座り、ケンジはその前にある車止めに座った。
「それで、どうかしたの?」
「いや、ちょっと西山とは腹を割って話しておきたいと思って」
 ケンジは缶の蓋を開けるとミルクココアをすすった。熱くて火傷しそうだった。
「別にわざわざ腹を割って話す必要、無いと思うけど」
 西山は苦笑いして目線をずらした。
「あー、まーたそうやって距離置くつもり?お前っていつも笑って誤摩化そうとしてない?」
「別にそんなことは……」
「ほら、目合わせないし。お前って俺のことどう思ってんの?」
「……えっ?どうって」
「友達だと思ってるのかってことだよ」
 ケンジは直球を投げた。
 西山は眉を顰めて困ったような表情を浮かべていた。
「正直に言えよ」
「悪いけど、友達だとは思ってないよ」
 自分で聞いておきながら、こうハッキリ答えられるとやはりショックだ。
「あっそ。やっぱりね。で、お前って、友達いんの?」
 わかっていたはずなのに苛ついてしまう。ついとげとげしい口調になった。
 西山は押し黙っていた。
「だってお前、学校ではいつも一人だし。誰に対しても一線を引いているっていうか、深く関わらないようにしているように見えるというか。心開ける相手いねんじゃね?」
 ケンジの言葉に西山はムッとした表情でこちらを見て来た。
「いなかったらなんなの?」
「えっ、マジでいないの?友達」
 つい聞き返してしまった。
「前にも言ったけど、田所には関係ないよね。なんで僕に構うわけ?もし一人で可哀想だとか思ってくれてるなら余計なお世話だから。僕は一人がいいの。一人が楽だし、誰にも邪魔されなくて済む」
「へえ、それって本当に本心?」
「うるさいな……」
 西山は厭そうに横を向いた。
「そっか西山は一人の方が楽しいんだ。じゃあ今日俺と吉川と遊んだけど、それも楽しく無かったんだ」
 西山は無言を返した。
「吉川悲しむだろうなぁ。あんなに楽しそうに好きな作家の話とかしてたのに、実は全部演技でした。本当は少しも楽しくありませんでした、愛想笑いでした」
「違う!もう止めろよ!……お前に何が分かるんだよ」
 西山の声が揺らめいて、流石に少し虐めすぎだなと反省した。
 ケンジは項垂れて頭を掻いた。
「悪い言い過ぎた」
 大きくため息を吐く。
「あのさ、俺ん家も母親いないんだ」
「……え?」西山が怪訝そうにこちらを見ていた。
「中三の時、兄貴を連れて家を出てった。俺と親父を残して……」
 簡単に事の顛末を話した。
 改めて母親たちのことを思い出して、悔しくて惨めで一層悲しい気持ちになった。
 そうだ、あれからずっと必死に忘れようとして自分の気持ちに蓋をしていたのかもしれない。
 大好きだった。母のことも兄のことも。
 だからこそ余計に辛くて、現実に向き合うのがしんどくて自分を偽ることしか出来なかったのかもしれない。
 視界が涙で滲んだ。慌てて上向きに顔を上げ、鼻で深呼吸する。
「だから、俺も本当は、あれ以来本気で心を許せてる相手はいないかもな。チャラいとかお調子者とか言われるけど、そういうキャラを演じて広く浅い付き合いばっかり。誰かと深く関わらなくても済むのは確かに楽だよな。期待もしなければ信じる必要もない。また傷つきたくないって、防御反応働いちゃってんのかな。なんかトラウマってやつ?」
 西山を見ると静かに頬を濡らしていた。
「えっ、なんでお前が泣いてんの?」
「別に……」
 西山は手で涙を拭って虚勢を張っている様に見えた。もしかしたら西山自身のことを重ねたのかもしれない。
「お前んちの事情は知らないけどさ、ちょっと俺と似てんのかな?って思ったんだよ」
 車止めから腰を上げて西山に向かった。
「でも、俺デリカシーなくて、悪かった」そう言って頭をさげた。
 頭を上げると、西山が再びポロポロと涙をこぼしながら、自分の身に起きていたことを語り始めた。
 その話を聞いて結構ショックを受けた。
 まさかそんな過去があったとは想像もしなかった。
 同時に自分がした事は、西山にとっては相当しんどい事だったと改めて反省した。
 親しい友達なんていらない。僕はもう人を信じるのが恐い。――涙ぐみながら西山は呟いた。
「友達だと思ってた相手は、僕のこと友達だと思ってなかったんだ。どんなに一緒に過ごしてても、話をしていてても、形だけだった。本当の友達じゃなかったんだ」
 まさにその想いはつい最近身に覚えがある。その相手は目の前にいるのだが。
 本当の友達が一体どういうものなのかは正直わからない。でも友達になれるかどうかは考えてても仕方ないとも思う。
「母親の事はどう思ってんの?」西山の隣に座って尋ねた。
「分からない。憎かったけど、でもやっぱり出て行ったのはショックだった。今でもたまに夢に見る。出て行くのなら、最後にちゃんと言って欲しかった。でももういいんだ。おかげで家族でも分かり合えないこともあるってわかったし。だったらなおさら他人を理解し合うなんて到底難しいことなんだって、ある意味諦めもつくし」
 西山は泣いて喉が渇いたのか、冷め切ったミルクココアを今更開けて飲み始めた。
「あのさ西山。こう言うことってあんまり口に出したことないんだけど」
「……何?」
「俺お前と友達になりたい」
 西山は目線を落として呟いた。
「馴れ合いは求めてないんだ」
「別に俺、お前と広く浅い付き合いを望んで言ってるわけじゃない」
「でも、そもそも僕と田所じゃタイプが違いすぎるよ」
「そうか?でもタイプなんて関係ねぇよ。それに俺お前と一緒にて楽しいもん。学祭の時、スッゲェ楽しかった。お前は楽しくなかった?」
 西山は頭を横に振った。
「楽し……かった。……でも、信じられる、自信ない」西山が悲しそうに顔を背けた。
「いいよ、信じられなくても。さっき俺に話してくれたじゃんお前のこと。自分の事話すのって勇気いるよな。俺もお前に話すのちょっと勇気いった。でもお前は俺に応えて話してくれただろ?だから俺はお前を信じたい。お前は俺を今すぐに信じてくれなくてもいい。今までのことは心から謝る。でもこれからは俺がお前の味方になってやれるって思ってる」
 真剣な面持ちで西山を見つめた。赤く腫れ上がった目の西山がこちらを見つめ返していたが、すっと目線が落ちて西山がまだ迷っているのを感じた。
 ケンジはもどかしくなってくしゃくしゃと頭を掻いた。
「あーもう!あれこれ考えて悩むよりはとりあえず、友達になろーぜ!って話」思い切り笑った。
 すると西山が肩の力が抜けたように息を吐いた。
「田所って、そういうところは多分元々素だよね」
「へっ?」
「お調子者なところ」
 西山がそう言って笑ったのでとりあえず笑っておいた。あ、こういうとこが調子いいって言いたいのかもしれない。
「まあ、今後のことだけどさ、冷やかしてくる連中はもう無視無視。虐めるヤツって大概反応が楽しくてやるって言うじゃん?俺に対して言うみたいにさ、もっとハッキリ言っちまえば良いよ。バカでもボケナスでも言い返してやれって。人を信じられないなら、人の顔色伺うなんてもうやめちまえ。あー俺もいい加減無理してキャラ被るのやめるし」
 西山は何とも言えない感じで頷いた。
「分かった?」
「……分かった」西山が再びコクンと頷いた。
「毅然としてればいい。そのうちお前が皆を見る目が違って来るよ」
「え?……僕が?」
「そ。確かに冷やかして来るバカ共もいるけどさ、それはお前に興味があって好意を抱いているからだと思えば、嫌な気もしなくなるって。あーはいはい、君たち僕のファンねー?っつって適当にあしらっときゃいいんだよ。ま、ほっときゃそのうち治まるさ。それでもしつこく煩いヤツがいたらぶん殴ってやりゃいい」
「暴力は良くないよ」
「あ、確かに良くないな。暴力反対!」
「まったく、調子いいんだから」
 西山がそう言って笑ったのでこちらも笑い返した。
 ふと時間を気にすると、既に夜の九時をまわっていた。
「あっ!やっべ!夕飯の仕度すっかり忘れてた」
 ケンジが叫ぶと、西山も慌てた様に腕時計を見た。
「って、えっ、田所ご飯作ってるの?」
「ああ、意外だろ?男二人だから仕方ねぇよ」
 別れ際、少し名残惜しくて去ろうとする西山を思わず呼び止めた。
 振り返った西山に伝えた。
「俺の事、ケンジって呼べよ。俺もお前の事、これからユウって呼ぶから」
「えっ?下の名前……」
 明らかに動揺する西山だったが、ケンジは満足した気分で「じゃ!よっろしく~!」と笑って背を向けた。
 翌週の登校日になって西山は髪をさっぱり短くして来た。
「っはよ……」
 ケンジは思わず西山の頭を見つめた。
「おはよう」
 いつもより随分と機嫌が良さそうだ。
 まるで何もかも吹っ切れたみたいに明るい雰囲気になった。
「どうしたの西山急に髪切って明るくなってっけどイメチェン?」
 ケンジのそばにいた蜷川(にながわ)のでかい声が聞こえたのか、西山が顔を上げて話しかけてきた。
「あー、蜷川おはよう。そうなんだ、変かなー?」
 爽やかに話しかけられて蜷川が少したじろいでいた。
「いや、スゲー良いと思うよっ?」
 西山は今度は後ろの席の生徒に話しかけられて後ろを向いた。
「っていうか、俺今初めて挨拶されたんだけど……マジ何があったの西山」
 蜷川が青ざめた様な表情でケンジの肩をガクガクと揺さぶって来た。「いてぇやめろ」
 西山は蜷川の事が苦手そうだったし、今までろくに会話をしているところを見たことがなかった。
「そうだケンジ」
 西山がポンポンと肩を叩いてきた。
「今度ナナプルのCD持って来てくれる?」
「ああ、わかったよ、ユウ」
 ケンジは思わず口元が緩んだ。
 戸惑っていたくせにこうもサラリと呼び捨てにするとは。
「ん?あれ?お前らっていつの間に下の名前で呼び合ってたっけ?」
 蜷川が首を傾げた。
「お前だって俺の事呼び捨てじゃん」
「何だよーっ!嫌なのかよ!」
「別に嫌じゃねーから許してんだろ?」
 蜷川は「俺の事も誰か名前で呼んでくれねーかなー」と嘆いていた。

2:君のとなり(KIMInoTONARI)

(3章へ続く)
第3章
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2:君のとなり(KIMInoTONARI)

ライトBL創作小説 第2章。 距離を置こうとする西山ユウの思いと裏腹に、田所ケンジはより友達として仲を深めたいと考えていた。しかしケンジは焦る気持ちから失言を口にしユウに避けられてしまう。さらには学園祭でお互いに目立ちすぎたせいで思わぬ弊害に見舞われる始末。不良に絡まれる日々、ケンジがユウの身を案じて飛び込んだ先には意外なユウの姿があった。トラブルに巻き込まれつつも、ユウが見せた笑顔に安堵するケンジ。やがてお互いの想いの内を明かし、ついには互いに心を許せる相手へと変わっていくのだった。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-07

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  1. 2章 誰もが傷つき合いながら生きている