ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅱ
ネイマール・ライリーは、アミューズブーシュ社の受付嬢をしている。本当はもう一人いるのだが、今は産休で休んでいるため、全ての業務をネイマール一人でこなさなければならなかった。
以前よりも早く出社を終えて、日課である今日のアポイトメントリストに目を通してから、手鏡で笑顔の練習をする。これも日課。
ネイマールは普段化粧をあまりしない。だから、通勤途中使う路面電車で見事にアイラインを引く女性をみると感嘆の声をあげてしまいまそうになる。
「受付は会社の顔だから、お化粧も嗜み。あなたも若さにかまけていては駄目よ」
入社してすぐに先輩に言われた言葉。
それ以来、ネイマールも化粧をするようにした。面倒くさいとまでは思わないまでも、化粧の具合が気になって手鏡が手放せなくなったことにとても困っている。
化粧をすれば、何か変わるかな?キャシーのように男性社員からご飯のお誘いを受けるようになるだろうか。
そんな淡い期待も抱いた時期もあったが、まだ一度として誘われたことがない。
どうやら、それと化粧とは関係がないみたいだ。
「おっはよ~っ」
今朝も一番にレイチェルが投書箱の中を見にやってきた。
「おはよう。いつも早いね」
「まぁね。はい、今日もいつも通り何も入ってませんでした!異常なしッ!」
ニカニカ笑いながらそんなことを言うレイチェルと一緒になってひとしきり笑いあってから、「じゃね~」と帰ってゆく彼女の背中を見送る。これも日課。
「よしっ」
今日もネイマールの一日がはじまるのであった。
プロローグ
「2回目だけど、おはよっ。ネイマールちゃんっ!」
アミューズブーシュ本社の受付カウンターに顔をのぞかせて、レイチェルが手鏡を見ていたネイマールに挨拶をした。
「2回目のおはよう。レイチェルちゃん」
茶色の近い髪の毛のカール具合を気にしながら言うネイマール。
「そんなにお化粧直ししなきゃダメなの?」
「そんなにしてないよ。レイチェルちゃんが化粧をしないだけよ」
紺色のベストのような受付用の制服から白いブラウスが伸びている。エメラルド色のカフスボタンは彼女なりのお洒落なのだろうか。
「そっかなぁ。だってさ、眉を書くと左右対称に書けないじゃん。イーっ‼ってなっちゃう」
「慣れだよ慣れ。アイラインだって眉だって、練習すれば路面電車の中でだって引けるようになるもの」
狭い額と形のよい目元、小さな鼻と控えめの口元。それらが、やや丸みの強い輪郭にバランス良く収まっている。オフの日のナチュラルメイクと比べると、さすがに職務中は厚化粧気味になるのだろう。
素顔美人画台無しだ。レイチェルは、同性ながらネイマールにそんな感想を抱いていた。
だが、世の中には常に上には上がいるものである。
「あら、レイチェル。また、ネイマールの邪魔してるの?ネイマールもいちいち相手にしなくっていいのよぉ」
レイチェルによる調査比較によるところの厚化粧ランキングにおいて、燦然と首位を守り続けている厚化粧クイーンこと、キャシー・ミンスが豊満な胸元をこれ見よがしに誇張しながらレイチェルに言った。
「ねぇねぇ、キャシー、そんなに高いヒール履いて足痛くないの?」
レイチェルが、キャシーの足元を見て、眉を顰めた。
「いい年をして、スニーカーで走り回ってるあなたの方がレディとしてどうなのかしら。と言いたいわね」
勝ち誇ったように顎をくいっとやると、それと一緒に、銀髪の縦にカールした髪も波打つように揺れた。
「まぁ、レイチェルの場合はその他にも色々と足りないみたいだけれどねぇ」
続けてそう言いながら腕を組むキャシー。ただでさえ自己主張の強い胸元が、さらに主張を激しくする。
レイチェルの慎ましやかな体型を見て、意図してやってるなとレイチェルは思った。
「けしからんのは、この尻もかっ!」
レイチェルはそう言いながら、目にも止まらぬステップでキャシーの後ろに回りこむと、全力で突き出すように形の良い尻を鷲掴みにした。
O
「公衆の面前でなんってことをしてくれるのよっ‼」
レイチェルにひとしきり尻を揉みしだかれたキャシーは、涙目になりながらその場に座り込んでしまった。
「この触り心地、さてはっ!今日のパンツはTバッ、わっちょっと何をするんだー放せぇー」
「言わせないわ!それ以上は絶対に言わせないっ‼」
勝ち誇ったように暴露しよとしたレイチェルに、キャシーが掴みかかると、口を押さえたままレイチェルを押し倒した。
ジタバタするレイチェルはせめてもの抵抗と、主にキャシーの胸を触りたおしていたのだが、そんなことは構いなしに、キャシーは得意の拘束術を掛ける。
「いだだだだだっ、外れる!肩が持ってかれるっ‼降参!降参するから‼」
うつ伏せにされ、後ろ手に腕を捩じ上げられたレイチェルは、涙を浮かべながら降参した。
「まったく!おいたが過ぎたわねっ」
パンパンと手の埃を叩いて見せたキャシーは、朝一番のキャットファイトを喜々として見守っていた男性写真達に向かって「見せ物じゃないのっ!散りなさいっ‼」と人だかりを一蹴した。
「仲いいねぇ。2人ともぉ」
一部始終を見守っていたネイマールが微笑ましい視線を2人にくべて優しく言った。
「どこがっ!」
「どこがよっ!」
2人の抗議の声は見事にハモった。
「そうだ、キャシー。エマがね、これ広告部に渡してほしいって」
レイチェルは、ポケットから四つ折りにした紙を取り出すと、キャシーに差し出した。
「うげっ、何よこれ⁉インクが乾かない内に折ったでしょ!文字が掠れてほとんど読めないじゃない!」
ほとんど読解不明な印刷文字を見て、キャシーは受け取ろうと伸ばした手をひっこめた。
「あ、ほんとうだ……てへっ」
とりあえず。ごまかしてみるレイチェルだった。
「てへっ、じゃないわよ。これ、どうするのよ」
「うーん。エマにまた書いてもらうしかないなぁ」
読めないのでは仕方がない。素早く自己完結したレイチェルは、紙を再びポケットに戻そうとしたのだが……
「ちょっ!それ以上掠れたら、本当に意味不明になるから折っちゃダメ!」
とキャシーに紙を引っ手繰られた。
「キャシーどうにかしてくれるの?」
「私は本社付きの記者で忙しいの、寄稿文店にいるエマの方がそりゃ暇でしょうね。でも、その……書類整理とか執筆とか……大変だと思うし……」
どんどん語尾に行くにしたがって声が小さくなってゆくキャシー。
「最後の方、良く聞こえなかったんだけど?」とニカニカしながらレイチェル。
「キャシーちゃんは優しいねぇ」とマイネール。
「ちがっ、そっ、そんなんじゃっ!違うわよっ‼お情けよっお慈悲なのよっ!」
違う意味で耳の先まで真っ赤にして言うキャシー。
エマもキャシーもわかりやすいなぁ。レイチェルは2人が変な男に騙されやしないか心配になってしまった。
とは言え、
「んじゃ、キャシー後よろしくっ!」
エマに怒られる心配がなくなったのだから良しとしよう。そう言うと、レイチェルは、鼻歌を歌いながら、キャシーに背を向けた。
「ちょっと!レイチェルッ!一言くらい言う事があるでしょ」
「ほへっ」
振り返るレイチェル。
「ほへ、じゃないでしょ。ここは『キャシーさんよろしくお願いします』でしょ!」
「うわー、自分のこと『さん』つけとかアホっぽい~プップ~ッ」
「ちょっと、トイレの裏で話そうか」
キャシーの目がマジだったので、これ以上からかうのはやめた。
「わかりました。言わせて頂きます」
「最初から素直に言えばいいのよ」
「キャシーちゃんってば、大人げなーい」
「ネイマールは黙ってなさい。この子は普段ダメ過ぎるの、たまには常識って言う縛りを課さないと、もっとダメな子になるの」
むっ。嫌な頭の一つでも下げよう。そう思って珍しく素直にお願いしようと思っていたレイチェルは、
「キャシーさん……あれだけ暴れても汗かいても崩れない厚化粧はもはや呪いの仮面レベルですねっ!」っと満面の笑みで言うと、そのまま脱兎した。
「待てこらッ‼」
キャシーは間髪入れず鬼の形相でレイチェルを追いかけて行く。
いつもの風景。
2人の背中を見ながら「あらあら、うふふ」ネイマールは1人微笑んでいたのであった。
投書Ⅱ ファイルタイトル『ダイヤモンドで朝食を』 クライス・ワグナー 体験談
「うへぇ、やっと逃げ切ったぁ~疲れたぁ~」
あんな高いヒールでよく全力疾走ができるものだと感心しながら、レイチェルは盗み聞きポイントの一つである、カフェ・エレメンタールのテラス席に腰を下ろしていた。
ウィスパー寄稿文店のあるクイーンアンネ通りを北に進み、セント・ジョージア公園の手前にある高級住宅街の一角にあるカフェである。
時間と金を持て余しているこの界隈の住人はティータイムと噂話が大好きである。
他人の不幸は蜜の味。
つまり、このエレメンタールのテラス席はその噂話のメッカなのだ。
飲み物一つとってしても、少しばかし値は張るが、色々と面白い話が聞けるので、レイチェルは大体、このポイントに巣を張ることにしている。
金持ちのスキャンダルは、一般人の感覚的な桁と常識を軽く飛び越えてしまうから、加えて興味深い。
あまりに過激すぎるのと、個人が特定できてしまう内容であるが為になかなか記事に出来ないところが歯がゆいところではあったが……
「(おっと、さっそくカモが来た来た)」
獲物を物色していると、紳士風の2人が近くの席に座った。ブランド物のスーツと手入れの行き届いた革靴。シンプルな腕時計。
「(銀行員とみたっ!)」
レイチェルは、獲物に的を絞ると、鞄からハードカバー型の手帳を取り出して、
「すいませーん、いつものくださーいっ!」
っと、近くで作業をしていた馴染みのウェイトレスに声を掛けた。
「ミッションスタートっ!」
レイチェル・ドアーの腕の見せ所、到来である。
Ⅰ
「やぁ、クライス、久しぶりだな」
「そうだね、デューク。復活祭に食事をして以来だよ。ご両親にかわりないかい?」
「もうそんな前になるか、お互いに忙しいからな。ああ、父も母も元気さ。確かお袋さんが入院してたんだったな。その後どうなんだい?」
「お陰様で、退院して今は庭いじりに夢中だよ。看病をしてくれていたエマが看護婦
になると言い出してさ」
「エマちゃんなら心根が優しいから良いじゃないか。それじゃ、入院することになったら、エマちゃんが働く病院にしよう」
「縁起でもないことを言うなよっ。それに気が早すぎる」
「あははっ、そうだな。冗談だよ。そう言えば、今度、支店長になるんだってな、おめでとう」
「耳が早いなぁ。ああ、ウィンザー支店長として来月赴任するんだ」
「ほぉ、水たまりに飛び込んで遊んでたお前がなぁ、一流銀行の支店長か。人はわからないもんだな」
「人の事を言えた義理じゃないだろ、外資系高級腕時計店の看板店長のお前が」
そんなことを言いながら、2人は朗らかに世間話を楽しんでいた。
「(なるほど。2人は幼馴染で、銀行員の方がクライスさん。高級時計店の方がデュークさん。2人とも、独身で恋人なし。クライスさんには妹が1人。うーん。エマの好みで言うなら、デュークさんなんだけどなぁ、クライスさんとエマがくっつくと、エマにエマって言う妹ができるから、そっちの方が面白いは面白いよねっ!)」
レイチェルはちゃんとメモをした。
「そう言えば、この前、事件があったんだよ。と言っても水面下でことが収まって事なきを得たんだけど」
「(キタキターッ!レイチェルちゃんラッキ~)」
レイチェルは、ハードカバー型のメモ帳で顔を隠しながらニヤニヤした。
「そう言えば、君の店はナイフも取り扱っていたな。それ絡みかい?」
「そうなんだ。あまり大きな声では言えないが、自殺用にナイフを欲しいと言う客が来てな」
「(この辺りで時計とナイフを扱ってる店と言えば……!思い出した。確か、ロンドンの中心街にある、ビクトリノックスだ。ほうほう、一流企業じゃないですか~とりあえず、エマにはデュークさんだね)」
レイチェルはメモ帳に書き加えた。
「自殺用?穏やかじゃないね」
「そうだろう?担当した部下が扱いに困って俺に持って来たんだよ」
「精神病院でも紹介したとか?」
「いいや、すでに通院していて、服薬もしているらしかった。その上で買いに来てるんだ、万が一店の中で早まられても困るから、とりあえず、対応をしたよ」
Ⅱ
その日は朝から雨が降っていた。
雨の日は必然と客足が遠のく。例によって、その日は来客も少なく、その男か訪れた夕暮れ時も店内に他の客はいなかった。
「店長、少しよろしいでしょうか……」
時計売り場のレイアウト変更の作業をしていたデュークの元にナイフ売り場の担当者であるサラが、怯えるような表情をして、デュークの元へと小走りにやってきた。
「どうかしたのかい?」
「はい……それがその……あちらのお客様が……」
肩越しに、サラが視線を向けた先には、頭の先から足の先までズブ濡れになった中年の男がナイフの陳列されてあるガラスのショーケースの前にただ立っていた。
「自殺用のナイフが欲しいと……」
「自殺用⁉」
デュークは思わず聞き返してしまった。
「はい。何度もお伺いしたんですけど、自殺用で間違いないって言うんです。私、薄気味が悪くなってしまって……」
今にも泣きだしそうなサラにデュークは「大丈夫だから。すぐ、表に臨時休業の看板を出してくれないか。それが終わったら、俺が引き継ぐから、君はこのレイアウトの続きを頼む」そう言ってナイフ売り場へと足早に向かったのであった。
「(ほうほう。これはなかなかいい線いってますにゃ。久々の大物の予感!あっ、そこに置いといて。そうだ、ハニートースト、ハニー多め。で追加でお願いします‼)」
男は青白い顔色に頬がこけ、見るからにやせ細っていたのがわかった。何日も食事をしていないのかもしれない。
「お待たせいたしました。どのようなナイフをお探しでしょうか?」
「一思いに死ねる刃渡りのあるものならどれでもかまわない。そうだな。あの後ろに飾っているのは売り物かね」
男は、ショーケースのずっと置く、在庫棚の一番上段に飾っている、一振りのナイフを指さして行った。
「あれはダイヤモンドのナイフでして、ほぼ、非売品となっております」
「面白いことを言う。ダイヤモンドなわけがあるか、あの光り方すれば、ガラスだろう」
「はい。お客様のおっしゃる通り、あれは、スワロフウスキー社製の記念ナイフになります」
『ダイヤモンドの輝きを』と言う売り文句の元に作られた、ダイヤモンドと見まがう輝きを放つガラスのナイフである。
この店が開店にするにあたって、記念として贈られたものであった。
「そうか、そうだな。私のような人間にあの輝きは眩しすぎる……」
男性は、虚ろな目元に涙を浮かべた。
「失礼ですが、話を伺っても?」
「もう絶望してしまったんだよ。私は長年に神を信じ神を愛してきた。なのに!神は妻も息子も助けてはくれなかった。今度は娘まで……明日、娘は手術を受けるんだ、主治医の話では成功確率は相当低い……手術しなければ、助からない……だから、私は、娘と一緒に妻と息子の所へ行こうと思っているんだ」
「奥様とご子息様にはお悔やみを申し上げます。ですが、どうして、当店なのでしょうか?」
自殺するのであれば、方法はいくらでもある。どうしてナイフなのだろうか。そして、今時、選びさえしなければ、刃物は食料品店でも買える。だと言うのに、わざわざこの男性は接客対応型のこの店を選んだ……デュークはそこにこの男性の真意がるように思えた。
「理由なんてありはしない。ただ歩いていたら目についただけだ」
「左様でございますか。お客様、大変申し訳ありませんが、お客様にはナイフをお売りすることはできません」
「金は払う。どうせ持っていても仕方のない物だ。付値の倍支払う。それでもか」
男は胸ポケットから財布を取り出すと、くたびれた財布から50ポンド紙幣を何枚か取り出して見せた。
デュークは驚いた。20ポンドが一般的なポンド紙幣の最高額として使用される。本当の最高額紙幣は50ポンド紙幣なのだが、小売店などでは使用を断られることも多く。財布に、複数枚持っている人間は少ない。
「お客様、私が申しておりますのはそのようなことではありません。もしも、私がお客様にナイフを売れば、お客様はそのナイフで自殺をしてしまう。そうですよね?」
「ああ、そのつもりで買い求めに来たと話しただろう」
「では、お客様の死後、凶器に使われたナイフが、この支店で販売された物であると、新聞記者たちはこぞって書き立てる事でしょう。そんなことにでもなったら、その風評被害は付値の倍額くらいでは到底足りません。自殺に使用されたブランドのナイフなんて誰も使いたがりませんからね」
デュークは毅然ともせず、言い捨てるでもなく、物腰柔らかく諭すように言うのである。
「面白い人だな。普通、自殺を仄めかす人間に出くわしたら、思い止まらせようと説得するものだろうに」
「生半可な同情はただ虚しいだけでしょうから」
「なるほど、確かにそうだ。もしも、あなたに安っぽい同情をされていたら、あなたを殴り飛ばすくらいはしていたかもしれない」
男は、何度も頷きながら、しみじみと話した。
ボーォーン ボーォーン
夕刻を示した柱時計が、店内にその刻限を告げた。
「決めたよ。あなたにここで会えたのも何かの縁だ、そのダイヤモンドのナイフを売ってはもらえないだろか」
「いえですからこれは……」
「さっき、『ほぼ、非売品』と言ったのはあなただよ」
「これは参りました。ですが、お譲りするにしても、この品に関しまして、小切手などは使えません。現金でのお支払いになりますが……」
デュークはそう言いながら、値段をメモ用紙に記して男に見せた。
「なるほど、これは銀行に行かなければ、手持ちでは到底足りんな」
値段を見た男は顎に手をやって、唸るように言った。
「ですが、お客様。幸いなことに銀行の取引時間は終わってしまっております」
デュークが視線で時計を指して言うと、男は驚いたように目を見開いてデュークの顔を見ていた。
「本当に面白い人だ。無関心なのか計算の内だったのか……すっかり手玉に取られてしまったな。わかった、今日のところはおとなしく引き下がるとするよ」
男は諦めたように頷くと、そう言ってデュークに背を向けて歩き出した。
その背中へ向けて、デュークは「そうでした。お客様。当店、明日は商品入れ替えの為、臨時休業を致します」
「なん…だと……」
男はデュークに促され、女性店員がレイアウト変更に悪戦苦闘をしている姿を見て、呟くようにそう漏らした。
Ⅲ
「もちろん、それは嘘なんだろう?」
アイスティーを一口含んでからクライスがデュークに問いかけた。
「もちろんだとも、だけど、翌日は本当に店を開けなかったんだ」
「まあ、ひょっこり来られたら、困るもんな。実際に」
「それもあるけど、これはチャンスだと思ってね。店を休みにして、ウェールズ支店まで同じナイフをもう一本取りに行ったんだ」
デュークは首を傾げるクライスをよそに、得意げにウィンナーコーヒーを一口飲んだ。
「(なんか難しい…ムシャラ…話だなぁ…ムシャラ…)」
蜂蜜だくだくのハニートーストを頬張りながらペンを走らせるレイチェル。
「(うーん…ムシャラ…『ひょっこり』とかなかなか聞かないなぁ…ムシャラ…ムシャラ…そう言うお婆ちゃん言葉で言えば…ムシャラ…エマにはクライスさんかなぁ…ムシャラ…あっ!メモ帳に蜂蜜ガッ‼)」
レイチェルはメモ帳にふんだんに落ちた蜂蜜を慌ててハンカチで拭った。が、
「あうー」
蜂蜜はページ一杯に伸びただけで、ほとんど拭えなかったのであった。
Ⅳ
男の初来店から数えて二日目の午後、デュークは朝から張りつめていた緊張の糸が緩みかけていた。
実を言えば、昨日から一睡もできなかったのである。
デュークは賭けに出た。
男の娘の手術が成功したなら、男は自殺をやめるだろう。と、そして、彼の性格から察するに、必ず、ダイヤモンドのナイフを買い求めに来るだろうと……
「いらっしゃいませ」
夕暮れ時、男は再びデュークの前に現れた。
「やあ、約束通り、特別なナイフを買いに来たよ」
「はい。お待ちしておりました」
デュークは、今度こそ本物の笑顔でそう言うと、在庫棚の上部に飾られていた、ダイヤモンドのナイフを男の前に置いた。
男は、黒光りする見事な仕立てのスーツに身を包み、顔色も随分と血色がよくなっていた。一昨日と同じ人物とは到底思えなかった。
「ご令嬢様の手術は上手くいったご様子で、何よりです」
「ああ、ありがとう。医者も奇跡的な回復だと驚いていたよ」
心労からだろうか、表情こそ疲れていたが、声色は明るい。
「ところで、ナイフが2本あるのはなぜだね?」
「2本、御入用ではありませんか?ご令嬢さまとお客様とで。ご令嬢様分の一本は、少々気が早いですが、当店からのお祝いの品として贈らせていただこうと思います」
男は、はっとなってデュークの顔を見つめているしかできなかった。
「ありがとう、本当にありがとう。そうだな、このナイフで娘と一緒に朝食を食べよう。今そう決めた。あなたには何から何まで感謝してもしきれない」
「私は当たり前のことをしたまでです。ですが……願わくば、お客様が今後とも当店をご贔屓にして頂ければと」
「ああ、是非そうさせてもらうとも」
そう言って男はデュークに握手を求め、デュークはその握手に応じたのだった。
Ⅴ
「デュークすまない。私にはよく話がみえないんだが」
クライスが困った顔をしてデュークに言った。
「(よくぞ言ったクライスさん。私も話が全然わかんないっ!)」
レイチェルは、とりあえず、皿に残った蜂蜜を指にとると暇を潰すように、口へと運んだ。
「痩せて、人相は多少変わっては居たけれど、最初にその男の顔を見たときにどこかで見た顔だと思ったんだ」
「知り合いかい?」
「違う。その顔を見たのは、半年前程の新聞でのことだ」
「有名人と言えば……コメディアンかい?」
「そっち方面の有名人じゃない。あれを寄贈した人物だ」
そう言いながら、デュークは肩越しに、セント・ジョージア公園にある、大きな獅子銅像を指さした。
「確か、あれを寄贈したのは……フランクリン・ジェノバ……財界の大物じゃないかっ!」
クライスが勢い余って、大きな声を出してしまった。それくらいフランクリン・ジェノバと言う人物は財界では著名人なのである。
レイチェルの調べでは、侯爵位を女王陛下から賜った人物でもある。
「そうだとも、値段もろくすっぽ聞かずに、財布から50ポンド紙幣を何枚も出してくるんだぜ。そのあたりで大体ピーンと来てたね」
「うーん。どうなんだろうな。普通は小切手なんじゃないのかな?」
「例え小切手を持ってたって、あれだけずぶ濡れじゃ小切手なんて使えやしないよ」
「なるほど。その後どうなんだい?」
「あぁ、フランクリン候が財界人の面々に進めてくれてるみたいで、大口の注文がひっきりなしで、毎日嬉しい悲鳴が止まらないよ。損して徳とれ。商売人の心得だよ」
「君には天性の商才があるんだなぁ。感服するよ!」
クライスはデュークの成功を心から喜んでいるようだった。
Ⅵ
昼を過ぎたあたりで、2人は昼食を食べに席を立ってしまった。なんでも、デュークの奢りなのだとか……
「うーん。やっぱり、エマにはクライスさんかなぁ。デュークさんは頭がよさそうだからなぁ。エマはああ見えてアホな子だから、デュークさんとは釣り合わないかなー」
ペンで頭を掻きながら、レイチェルはしみじみと言うと、グラスに刺さったストローでジュゴゴゴゴォと音を立てる。
すると、
「お呼びですか?レイチェルさん」と、ウェイトレスがピョンピョンと跳ねるようにやってきた。
「相変わらずサフィちゃんのおっぱいは揺れるねぇ~」
上体の抑揚に合わせて上下する胸元を舐めるように見ながら、レイチェルが恒例のセクハラをした。
「もうっ、レイチェルさんってば、セクハラ禁止です!」
トレイで胸元を隠しながら顔を赤らめて言うサフィニア。
「むぅ、隠してるつもりで隠しきれていない、そのけしからんおっぱいをどうしてくれようかっ!」
そう言うと、レイチェルはトレイをひっぺがし、サフィニアに襲い掛かったのであった。
エピローグ
「ねぇ、レイチェル。っで、その続きは?」
得意満面に、催促の電話に怯えるエマに経費の領収書を叩きつけた後、さらにもったいぶってから、レイチェルは今日、盗み聞いた話をエマに話し始めた。
「えっと、続きは……はっ!」
レイチェルは、肝心なところのページ同士が何かでくっついてしまっていることに気が付いた。剥がそうにも、ページ全体がくっついていて剥がれない。
「ねぇってば、レイチェル。もったいぶってないで続きを教えてよ」
エマは電話機とペン先を交互に見ながら、切羽詰った風に言ってくる。
だが、まさに切羽詰まっているのは、誰あろうレイチェルだった。
「(やばい。やばいよ……メモに書いてるからって話の内容なんて覚えてないし、サフィのおっぱいの感触しか覚えてないよ……唾で少しずつ溶かしながら……よし、いけるっ!)」
唾液で湿らせるとページの先が少し剥がれた。
「甘い……をおうっ!」
そして、レイチェルはそれが蜂蜜であることを思い出した。
「甘い?甘いって何?ちょっと、肝心なところが書けないんだけど……って今すっごい嫌な音がしたんだけど、何かが破れる音がしたんですけどっ‼」
思わず身を乗り出すエマ。その視線の先には……
「うへぇ……」
奮戦叶わず、無残にもページを破りとってしまったレイチェルの姿があった。
リリリーンッ リリリーンッ
その時、エマが一番恐れていた悪魔の電話が鳴った。
ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅱ
ネイマールは腕時計を見てから、手際よく終業作業をしていた。この後、取り立てて予定はなかったが、だからと言って手を遅くする理由もない。
「こんばんは、ネイマールさん。お久しぶりです」
「あら、ヴェラさんお久しぶりです」
珍しい人物がそこに立っていた。小柄で明るい赤毛に小さめの眼。大きな丸眼鏡をかけ、薄い唇の端には苦笑が作られている。これは彼女の癖だった。
彼女の名前はヴェラ・クリスティ。昨年行われたアミューズブーシュ社主催の文芸コンテストで優秀賞を受賞し、現在は小説家として働く傍ら、新聞の娯楽欄にエッセイを寄稿している。
「原稿ですか?」
「いえ、あの……言いにくいんですけど、ネタがなくって」
あはは……ヴェラは自分に呆れた声でカラカラと笑った。
「えぇっと……この前、お話ししていたミステリー小説のですか?」
「そうなんです。私って考えてみればミステリーって初めてで……日常ほのぼの系しか書いてこなかったのに、処女作のウケがよかったからって、調子にのって編集さんに次はミステリーでって言ったら、軽い気持ちで言ったらっ!次の日の文芸誌に次回作がミステリーだって告知されてて……」
にっちもさっちもいきませんよ。と再びカラカラと笑うヴェラ。
「あらら……」
「ネイマールさん」
「はい?」
「出来心は怖いですよ……私ね、結婚と告白はノリと勢いでもいいと思ってたんですよ。でも、今回のことで確信しました。石橋は叩いて渡るべきだとっ!」
「えっと…?」
「つまりはその、このあと時間はありますか?ウィスパー寄稿文店にいつも通りネタ漁りに行こうかと思うのですが、多分、今は締め切り間近でエマが修羅モードで、ほいほい尋ねようものなら、私なんてあっさり返り討ちにされてしまうと思うんですよ。だから、その、お願いします、一緒に行ってください」
ヴェラはそう言うと、勢いよく頭をさげ、そのまま受付カウンターで額を強打し、その場にうずくまってしまった。
ヴェラが小説に行き詰ると、ウィスパー寄稿文店に行くのは珍しいことではない。だが、前回、締め切り間近に店を訪れ、エマに酷い目にあわされたのが、よほど堪えたらしい……
「いいですよ」
「本当にっ⁉」
涙を袖でゴシゴシとやりながら、ヴェラはネイマールを見上げる。赤くなった額が痛々しい。
「支度するからちょっと待ってて下さいね」
「50秒で支度しなっ!」
ヴェラは嬉しそうに親指を立てて言うのであった。