融解
その手紙を受け取った時、彼女はすぐに封を切ることができなかった。
送り主として記された名前を見て、思わず彼女の右手は震えた。蝉の鳴く日にも寒さの沁みる夜にも、何度となく頭の中で呟いてきた名前だった。長い間ずっと会っていなかったのに、それは妙に馴染んでしまった響きをしていた。
純白の朝日に照らされた静かな冬の朝。一つの呼吸だけが時間を刻んでいる六畳の部屋に、唾を飲む音が居心地悪そうに浮かんで消えた。
六日前、彼女はその男に一通の手紙を送った。何度も何度も書き直し、結局十日もかけて書き上げた大作だった。彼女にとっては手紙を書くこと自体が二年振りのことであり、今度の送り先も二年前と同じ男だった。その時には、高校を出て地元を離れたきり成人式にも帰らなかった彼の現況を案じる手紙を書いた。手紙の本当の理由が、自分に宛てた男の言葉が欲していたためだという真実は、当時の彼女自身もはっきりと感じていた。それから二三のやりとりをしたが、手紙は今でも綺麗なまま抽斗にしまってあり、長らく指も触れぬままである。彼女の計画は果たされたわけだ。
今度の手紙で、漸く彼女は想いを男に打ち明けた。高校生の頃以来の大恋愛である。彼女の人生において、恋とはその人に対する想いだけを意味する言葉だった。
彼女は自身の感情の移ろいを、恋の始まったところから仔細に記述した。煩わしいと思われようと構わなかった。これを告げずにおけばきっといつか後悔するだろうという恐怖が彼女を強力に支配していた。貴方に会って話がしたい。何でもいいから返事が欲しい。そのように締めくくった数年物の言葉への答えが、今やとうとう彼女の手元にあった。
荒く不規則な自分の呼吸を感じながら、覚悟を決めて開いた手紙には、以下のように綴られていた。
拝啓
近頃は雪の降る日が多くなりました。そちらの気候は大変ではありませんか。
さて、手紙というのは難しいものですね。何と書いていいやら、筆をとってみるとまるでわからなくなってしまいます。わかりませんから、ここでは私は本題にのみ触れようと思います。もしもこれが失礼でしたら、どうかお許しください。
頂いた手紙は丁寧に読みました。まずはありがとうございます。多少驚き戸惑いはしましたが、今は落ち着いています。君がこれほど私に心を開いてくれたのですから、私の方でも偽らず、また包み隠さずに全てを正直なままに答えようと思います。言葉の足りない部分を感じることもあるかもしれませんが、私の思うところは君に正確に伝わるだろうと信じることにします。
まず、私は、君の気持ちにはずっと昔から気づいていました。君はそのことを知っていたでしょうか。私は確かに気づいていながら、気づいていないかのような演技をずっと重ねていたのです。
君が書いたように、それは高校一年生の頃からだったと記憶しています。季節は夏頃だったでしょうか。ふとした瞬間の君の視線や、私との会話の中で時々高くなる君の発音が時々気にかかるようになりました。初めは、ただ不思議な感じがしました。誰かに愛されるということは、それが私にとって初めての経験でした。誰かが自分のことを好いているなど、当時の私にとっては思ってもみなかったことだったのです。
率直に言って、私は君の気持ちに応えることはどうしてもできませんでした。それで、私は直感的に君の気持ちに気づかない振りをしました。無用に事を荒立てて大切な一人の友人を失うことが怖かったのです。今にして思えば、あまり真摯な対応とは言えなかったと思います。反省する気持ちもあります。しかしその恐怖は、当時の私の思考というものをねじ伏せてしまいました。言い訳のようになってしまいますが、それは抗いようがなかったのです。
いつしか私は、君のそんな気持ちにも慣れていきました。慣れとは本当に恐ろしいものです。君の気持ちを想像するようなこともすっかりやめてしまいました。そうして私の卑怯な思惑の通り、何事もないままに時は過ぎて行きました。高校を卒業したとき、実のところ私はいくらか安堵しました。君の片思いは結実しないまま、その熱はじっくりと冷めていき時の流れに飲み込まれてゆくのだと思ったのです。
今、長い時を隔てて、君という存在が再び私の前に蘇りました。当時の君の印象がそっくりそのまま私の脳裡に再現されました。しかも君の片思いは、当時の熱をそっくりそのまま保っておりました。それはどうにも私の臆病な推測を超えて強靭でした。きっと君はその想いに耐えようとしながらも、ついに忍耐の袋から漏れ出してしまったのでしょう。これを招いたのは他でもない、私の弱さに違いありません。
さて、正直に告げます。私は、今でも君を愛することができません。それには明確な理由があります。今、私はある人を愛しています。とても強く、揺らぐことのない確固たる恋慕です。そして、冗長になるためにここでは詳しく述べませんが、この愛は報われる可能性の非常に低いものです。それでも已むことのない恋です。君ならきっとわかるでしょう。
このように言葉を重ねて君を傷つけることを、私は本当に申し訳なく思っています。この手紙を読むだけでも十分に伝わるでしょうが、私は君が思っているよりもずっと卑怯な人間です。こうしてせっかく現実に形をもった君の気持ちをすっかり無視して、自分の気持ちをやはり優先するのです。
これは君にとって非常に残酷な告白だったと思います。あるいは君の知るべきではない事実だったかもしれません。もし私が君であったなら、これがどれほど苦しい言葉であったか、想像するだけで息が詰まるようです。それでも私がこうした言葉を連ねるのは、私が勝手に君がこの正直さを求めているものと空想しているからです。ここに至っても我が儘な私です。ただただ恥じ入るばかりで、顔向けもできない思いです。
……君がこの手紙を受け取って、それでもまだ君が私に会いたいと望むなら、私は友人としてそれに応えることができます。私の心のどこかには、どうやらそうしたいという意思が隠れているようです。それでも、どうなることが本望なのか、君自身でしっかりと考えて欲しいと思います。後悔をするようなことがあってはいけません。私はそれをいつまででも待ち続けています。
それではこれで終いとします。どうかお身体を大切にしてください。
敬具
彼女はその手紙を繰り返し読んだ。何度も何度も読み、ついに何度読んだのかも分からなくなった。一つ一つの言葉が、男の声音を伴って聞こえてくるようだった。彼女は時々目を閉じて、その響きに心を委ねた。
そうして、手紙に載せられた想いを確かに受け取ると、ふうと大きな息を一つ吐き、手紙を両手で包んでそこに顔を埋めた。紙がくしゃくしゃになっても全く構わなかった。掌の微かな震えが、手紙を通して瞼に伝わり心の底から涙を呼んだ。両手で覆われているはずなのに、濡れた手紙は不思議と頬に冷たく感じられた。
融解