Y20X2 君の瞳の中の『 』 〔第一部〕「言葉が現れる時」
「照らし出すもの」
「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネ1・1❘5
「物語がはじまる前に」
暗くて狭いトンネルを抜けると、そこには隔てられた風景とともに解体された物語があった。また再び組み立てられ、完成されるために。
「言葉が現れる時」
風が吹いた。
暴徒のかざす灯火を一瞬で吹き消すほどの強い風だ。わたしの右の頬にとても強い風が当たり、そしてその風と共に何かが通り過ぎて行った。わたしは駆け抜ける風の中で薄目を開けると、ある男の後ろ姿があり、狂気の男達はその男の圧倒的な存在感に気圧されて、それ以上動くことができなかった。
男はゆっくりと、そして真っ直ぐにハルとウノへ向かって歩いて行った。
途中、鉄の棒をもった暴徒の一人が奇声を上げながらその男に襲いかかったが、風をはらんだその男は簡単に暴徒を吹き飛ばしてしまった。そしてなにごともなかったようにハルとウノへと近づき、わたしに振り返る格好で暴徒達をけん制しながらハルを見つめた。わたしは心臓が止まりそうになるほどの衝撃を受けた。髪が伸びて、とても精悍な顔つきになったけど、わたしが男を見間違えるはずはなかった。
男はわたしの哲学者だ。
彼は着ている物を脱ぎ、ハルの亡骸を、まるで何か厳かな儀式を執り行うように大切に包んで、ゆっくりと胸に抱きかかえた。ウノは時々彼を見上げながら、その振る舞いに従った。そして彼は、暴徒の群れに対して、ただ「去れ」と言った。それは静かな声だったが、誰も逆らうことのできない、大きな意思と強さに満ちたものだった。そして暴徒の群れは静まり返り、一人また一人と正気を取り戻しては去っていき、中にはリリさんのようにどっと泣き崩れる者もあった。
わたし達は、まるでずっとそうであったかのような静寂を取り戻した。彼はただそこに立って亡骸を抱いていた。それからしばらく時間が経っても、彼はわたしに近づこうとせず、ただそこにいた。わたしは少し不安になった。
彼はわたしを見つめているのだろうか?
……違う、彼は私を見つめているのではない、彼は彼の心を見つめている。ただ静かに、瞳を閉じて。そしてわたしは、そんな彼をただ見つめていた。それからどれだけ時間が経ったのか分からない。わたし達の置かれているこの今は、時間と共に語られるものなのかも、分からない。そして彼はゆっくりと……、少しまぶしそうに開いた瞳でわたしを見つめ、微笑むよりはもう少し大きな笑顔でわたしに言ったのだ。
とてもはっきりと聴こえた。
言葉は突然、正面から熱い風と共にやってきた。歓びはその後、背後から強いさざ波のように、そして次第にエネルギーの透明なうねりが大きな波となってわたしにぶつかり、通り過ぎて行った。わたしは確かに目撃した、その瞬間を。そして感じた、その衝撃を。
言葉が現れたのだ。
わたしは彼と再びめぐり逢いたかった。逢えると信じていたから生きてこられた。
彼がわたしと世界をつなぐ最後の砦だった。彼にもう一度逢わせてください、お願い、お願い。どれほど切ない祈りを捧げただろう。そして彼は、世界から永久に消えてしまったと思っていた、わたし達にとってとても大切な言葉を取り戻して、わたしのもとに戻って来てくれたのだ。
「目は口ほどに物を言う」わたしは、涙で声にならない想いを瞳にのせて、彼を見つめた。彼はそのきれいな瞳で、まるでわたしを抱きしめるように見つめ返した。
「マヤ、話したいことが沢山あるんだ」
まるで大した時間ではないと言わんばかりに話す彼に、わたしはちょっとだけクレームを言いたかったけど、やっぱりただ嬉しかった。わたしも……、そう心がつぶやいた。
「ハルを動かせないんだ。こっちへ」
彼から伝えられた言葉は、わたしを現実に引き戻した。
わたしはまだ、この現実も奇跡も完全には信じられずにいて、それを確かめるために一歩一歩彼に近づこうとしたけど、足が思うように動かなかった。心が壊れてしまうような悲劇と祈り続けた奇跡がわたしの心で交わる時、わたしはどうなってしまうのだろう。
わたしはなんとか彼の息づかいを感じられるほどに近づいて止まり、恐る恐る彼の左肩にわたしの右手をかけた。
それは間違いなく彼の身体で、ただなんだかとてもたくましくなっていた。
指先の感触がそう教えてくれた。それからわたしは、手を肩から胸の辺りに下ろし、胸の筋肉にそって手の平をピタリとくっつけた。じっと、手の平の感触に神経を集中すると、確かに震える手の平から彼の心臓の鼓動が伝わって来た。
奇跡は叶ったのだ。
彼はここにいる。
わたしは手を下ろし、彼の瞳を見上げて言った。
「お帰りなさい。ずっと……、気が遠くなるほど、ずっと、待ってた……」
「ただいま。やっと……、気が遠くなるような旅をして、やっと帰って来ることができた」
わたしはこらえていたものを抑えられずに下を向いた。涙がポトポトと、たて続けに地面に落ちた。そして感情の波が少しだけ引いたその時をつかまえて、彼の着ている服の端をつかみ、下を向いたまま言った。
「もうどこにも行かないで……、どこにも行かないで、ね? お願い……お願いだから……」
「僕はもうどこにも行かない。君のそばにいるよ」
彼はわたしに、わたしが求め続けて、それでもずっと長い間手に入れられなかった「安らぎ」という言葉をくれた。わたしは顔を上げて彼の瞳を見た。そこには、確かな言葉をたずさえた男の深く揺るぎない瞳があった。どれだけ見つめ合っていただろうか。彼は目を伏せた。
「ハルは僕を迎えに来てくれたんだ。ここに手を置いてくれないか? 」
彼は左手でハルの亡骸を抱き、右手でハルの一点を指さした。わたしは言われるがまま、彼の指さした場所に両手を重ねておくと、その上に彼は右手を重ねた。それから彼は瞳を閉じ、少し緊張した声で何かに祈るような言葉を発した。……わたしは次第に自分の手の感触を疑い、彼を見ると、彼はちょっとだけ笑い、また目を落として大きな声で言った。
「帰って来い、ハル! 」
それまでただ沈黙していたウノは、わたしと彼が抱いているハルに向かって懸命に吠えた。そして、外套でぐるぐる巻きにされていたハルは、ウノの呼びかけに応じるように、また外套の窮屈さに抗議するように大きな声で吠えた。
「お帰り、ハル……」
わたしは、止めどなく込み上げてくるものに幾度となくさえぎられながら、声にならない声で言った。
わたし達の間に生まれた言葉は、まばゆい光を放ちながら、詩となり、歌となり、そして物語となって、わたし達を永遠の中に照らし出している。
わたし達は、はじめて目が合ったときから、お互いの心を捕えて喜び、そこにかけがえのない愛が生まれ、始まり、そしてその愛を育みつづける同士となった。みんなもきっとこうやって、少しずつ分け合った希望に慰められながら、その時には勇気と共に立ち上がり、いつか自分だけの幸福な『 』をつむぎ出していくのだろう。彼の瞳はわたしにそう教えてくれた。
これは、そんな彼とわたしの物語だ。
「こうして愛は目と目を通して心に至る、
目は心の斥候だから、
心が捕えて喜ぶものを捜して回る。
そして二つの目と心と、その三つが和解し、
しっかりとひとつの決心を固めるとき、
そのとき、目が心のために喜びを迎えたものから、
完全な愛は生まれる。
愛はそうやってしか生まれないし、
本心から動かされぬかぎり、
愛が始まることもない。
これら三つの恵みと命令とによって、
またその喜びから、愛は生まれ、
その美しい希望が友達を慰めに行く。
ほんとうに愛し合っている人ならみんな知っているように、
愛は限りない親切だからだ。そしてそれは-疑いもなく-心と二つの目から生まれる。
目は愛の花を咲かせ、心と二つの目から生まれる。
目は愛の花を咲かせ、心は愛を養い育てる。
自分らの種から生まれた実にほかならぬ愛を。」
ギロー・ド・ボルネイ(一一三八~一二〇〇頃)
わたし達の物語は、たとえばこんな風に、ある幸福な結末に向かう最短の軌道をただひたすらに駆け抜け、そして遂にはその時を迎えるものだと思っていた。……
「僕らの世界について」
これは紛れもない、彼女と僕の物語である。
僕らの物語は、営々と積み重ねられてきた世界の歴史の長さに比べれば、簡単にその中に呑み込まれてしまうほど短く、また悲しくなるほど儚い。
そんな僕らの物語は、いつも言葉と共にあり、いつでも言葉と世界の折り合いをつけることを望んできたが、そんな僕らのささやかで個人的な望みとはまったく関係なく、さまざまな時代に言葉で世界を大きく揺さぶり、変えようとした人々がいた。
また、言葉で巨万の富を得た人々もいた。
言葉を聴くために、多くの聴衆が、観衆が集まり、時には群衆が押し寄せることもあった。
彼らは漠然とした不安や不満を解消するために、真実の正体を突き止めるために、また時には快楽に溺れるために、そして……ただ誰かとつながっているために。
それらの言葉はさまざまなムーブメントを引き起こしたが、それは必ずしも世界にとって好ましいものばかりではなかった。時に言葉は、大いなる狂気や対立、破壊を生み、世界を遠くへと追いやった。
それでも言葉は語られ、消費されつづけ、やがてはすり切れ、棄てられて、少しずつその意味を失っていった。
最初に語る言葉を見失い、沈黙しはじめたのはミュージシャンだった。
それから作家や著名人、政治家、宗教家……、言葉を生業とするあらゆるジャンルの人々が沈黙しはじめ、そして沈黙は世界に波及し、世界から言葉が消えていった。今でも一部の人々の間でとても大切に取り扱われている言葉はあるが、それが公にされることはない。また今では、多くの信じられていない言葉は、そんな言葉があったことすら忘れ去られてしまっている。
世界は沈黙と共に急速に荒れ果て、今もそれは止まらない。
そんな世界の荒廃の原因が何かに特定されるのは適切ではないと思う。ただ、世界にまだ言葉があふれていた頃、ある少女はこうつぶやいたのだ。そのつぶやきは、世界が荒廃へと向かうキザシを表現していた。
「世界には言葉があふれていた。
それは色々なカタチで現れ、消えていった。
良い言葉もあれば、悪い言葉もあり、長く使われる言葉もあれば、すぐに消えていく言葉もあった。
広がる言葉もあれば、秘密にされる言葉もあった。
伝え方もさまざまだった。
毎日やり取りされるメール、音楽もあれば、物語もあった。
ただ、わたしに寄り添う言葉は一つもなかった」
そしてある時、少女の声にならない叫びが、世界にあふれていた多くの言葉を壊した。
壊れた言葉の破片は、地上に降りそそぎ、大地を覆っていった。少女は、ただありきたりな言葉を許さなかったのだ。
そして少女は心を閉ざし、長い沈黙の中にある。同じく世界は沈黙の中にある。
「日常」
僕は二十一になった。
すべてが退屈だ。何もはじまらないし、その気配すらもない。
僕は毎日、トランクルームと呼ばれるこの建物の中で宛名書きのバイトをしている。トランクルームでは、みんな自分の仕事を選んで働いている。僕は、宛名書きを選んだ。僕が宛名を書いた封筒は、他の者が印刷物を入れて封をし、次にこの部屋を訪れた時にはなくなっている。
その繰り返しだ。
印刷物はなにを語り、一体どんな事情を抱えた人々に送られていくのか、それは分からない。
今日も仕事が終わっていつものようにトランクルームの屋上に上がり、空をながめている。このトランクルームは恐ろしいほど細く高い建物だ。しかもこの辺りには、ほかに背の高い建物がまったくない。
ここはとても静かだ。みんな、とても小さな声で話す。
でも、それで不自由はない。ここにはいわゆる「女」というものがいないし、「歳の離れた男」もいない。だからかもしれないが、指を開いたり、閉じたり、カタチを作るだけで話しができるし、誰も互いになんとなく言いたいことが分かった。時には一日誰ともしゃべらないで済んでしまう日もあるくらいだ。
そんなある日、ちょっとした事件が起こった。
事件について語る前に、まずはその背景から説明しなければならないだろう。
僕は、これまでトランクルームからただの一歩も外へ出たことがない。ここには生活に必要なすべてがそろっているし、なにより僕らはトランクルームの外へ出かけて行って、そのまま帰らなかったかつての住人をたくさん知っているからだ。幸いにも、トランクルームの外から帰ってきた者は「何もなかった」とか「すごく怖かった」とか言うだけで、それ以上多くを語りたがらなかった。だからみんな、トランクルームの外のことをよく知らない。
知っているのは管理人だけだそうだ。
そんな僕が、この間友達のマルキスから「今度トランクルームの外へ一緒に行ってくれないか? 」と頼まれた。マルキスは別の友達から「トランクルームの外でカギを落としてしまったから探してきてくれないか? 」と頼まれ、カギを落とした当の本人は「二度とトランクルームの外へは出たくない」と言っているのだそうだ。
落としたのはトランクルームのどこかの部屋のカギだ。
トランクルームでは、どの部屋も必ず何かの仕事か荷物の置き場所に使われていて、部屋が使えなくなるとみんながとても困るのだ。その影響だろうか、今日はトランクルームの中がとても寒い。結局、明日宛名書きの仕事が終わってから、マルキスと一緒にカギを探しに行くことになった。そんなわけで僕は、はじめてトランクルームの外へ出ることになったのだが、やはり気が進まない。
「眠れぬ夜に彼女の旅立ち」
わたしは、とても寝つきが悪い。
そして夜が明けて目が覚める時、とても寂しい気持ちになる。夢の中でとても温かい気持ちになることがあるけど、目覚めると寂しさが心に沁み込んでくるのだ。この寂しさはいったいどこからやって来るのだろう。そしてこの寂しさはとても漠然としている。
わたしは今日、十八になった。
わたしは今日からこの家を出て、一人暮らしをすることになる。わたしの両親は事故で亡くなり、それ以来母方のおばあちゃんと二人で暮らして来たけど、ある時におばあちゃんが自分で決めて施設に入ることにしたのだ。わたしはなるべくその施設の近くに住むことにして、学校も通える範囲で受験し、無事に合格した。はじめての一人暮らしで不安も多いけど、実はまったくの一人暮らしかというとそうではなく、犬が一緒だ。
名前は、ハル(母)とウノ(娘)。
ハルはとてものんびりしていて、一日の半分以上は寝ているけど、時々わたしのことを思い出しては近寄って来て、自分の存在を前足のパンチ★★★でアピールする。
ハルは、犬に詳しい友人から言わせると、とても美人顔なのだそうだ。確かに顔は小さい(お腹は出ているけど)。
そして、男の子顔のウノは、どうも自分のことを犬だと思っていないようだ。
彼女が知っていると言えるほどの犬は、唯一母親のハルだけで、産まれた時からいつもわたし達人間に囲まれて暮らして来たからかもしれない。散歩をしていて他の犬とすれ違ってもまったく興味を示さないし、向こうの犬が吠えても吠え返したりしないのだ。それに、ウノは時々わたしのところに来て、わたしの目をじっと見つめながら口を動かす仕草をする。
わたしはウノがいつか本当にしゃべり出すのではないかとちょっと期待している。
わたしの心配のタネは、そんな同居犬が時々行方不明になることだ。おばあちゃんと住んでいた家では、ハルもウノも庭で遊ばせたりしていたけど、外に出られるような塀の隙間はなくて、いつも首をかしげながら捜しに出かけていた。でも、おばあちゃんは特に心配する様子もなく、犬達のご飯の支度をはじめる頃にはハルもウノもちゃっかり庭先に戻って来ていたりして、これまで本格的に家出をしたことはなかった。両親が生きていた頃、ハルとウノを話題にしてよく笑っていた思い出がある。あの頃、世界はとてもにぎやかだった。
今、世界はとても静かだ。そんな静けさの中でなに気なく目を向けた先にプランターのホオズキがあった。しばらくそれをながめているとちょっと安心した。
「トランクルームの外」
トランクルームの外へ出るための扉は、とても大きかった。扉は鉄でできていて、外から内へ入るもの内から外へ出るもの、どちらをもへだてる圧倒的な存在感があった。そして、扉のそばには管理人がいた。管理人はトランクルームから出たゴミを集めていた。ゴミは砂のようなもので、それがもともとなんだったのかは分からない。
管理人は僕達に気づいて言った。
「あなた方がカギを探しに行かれるのですか? 」
「はい」
「それではお願いします。あのカギはとても大切なものです」
僕は前々から疑問に思っていたことを、管理人に質問してみた。
「トランクルームの外には、何があるのですか? 」
管理人は少し考える素振りをしてから答えた。
「それは私にも分かりません」
「みんな、あなたはトランクルームの外のことをよく知っていると言っています」
「それは根も葉もない噂です。トランクルームの外がどうなっているかは、自分で見て確かめる必要があるでしょう。ただ、カギは東の果て、境界の手前にあるようです」
「境界とは何ですか? 」
「このトランクルームの外には、この建物を取り囲むように溝があり、溝の向こう側とこちら側を完全に隔てています。それを境界と呼んでいます。とても深い溝で、落ちたら命はありません。そして……」
遠くで何かの低い音が聴こえた。
「聴こえましたか? トランクルームの近辺に「何か」が侵入してきたようです。ですから、急いで戻ってきてください。そして、「何か」とは決して接触しないように。トランクルームに戻れなくなってしまいますから」
その時、トランクルームでは珍しい、しかも聞きなれた大きな音が響いた。日々朝と夜を告げ、そして時には侵入してくる「何か」を告げる鐘の音だ。
トランクルームの扉が開いた。
トランクルームの外はとても暗く、空気がよどんでいるせいか視界も悪かった。トランクルームの中よりも、もう少し寒い。マルキスに声をかけながら、東の果てを目指して進んで行った。管理人が言っていた通り、急がなくてはいけない。ただしそこに道はなく、管理人から教わった大きな木や星の道標をたどりながら、草をかき分け、湖をまわり込み、浅い川を渡らなければならなかった。そうして前進するうちにトランクルームから聞こえる鐘の音もだんだんと小さくなって行った。東の果ては確か、小高い丘の上にある。管理人はそう言っていた。僕は小高い丘へと続く傾斜を登りながら、マルキスに小さく声をかけた。
「マルキス、この丘が東の果てじゃないのか? 」
しばらく待ったが、マルキスからの返事がなかった。マルキスとはぐれてしまったのだろうか。小さな声で呼び続けるが、やはり返事はなかった。
「マルキス! 」
つい声が大きくなってしまった自分に驚いた。トランクルームでは大きな声を出してはいけない。ただ、ここはトランクルームの外で、いつ危険にさらされるかも分からないのだ。何度も呼んでみたが、それでも返事がなかった。マルキスはどこかへ行ってしまった。僕は、東の果てでたった一人取り残され、急に不安と恐ろしさがこみ上げて来た。その時ふと、管理人がトランクルームの扉を開けて、僕らを送り出す時にかけた言葉を思い出した。
「おぼえておいてください。
これは○○だ、と名づけられないものは、この世には存在しないものです」
その時、冷たい風が僕の背後から丘の上に向って流れていった。
とにかくカギを見つけて、急いでトランクルームに戻ろう。そう気持ちを奮い立たせて、丘の上に生えている枝の張り出した木を見上げると、その木の根元には僕を身構えさせ、足を止めさせる「何か」がいた。
暗闇の中で、それが僕を見ていた。
「それ」は、決して僕らと同じものではなかった。早鐘のように鳴る心臓は僕に「逃げろ! 」と強く訴えていたが、すくんでしまった身体はその訴えに応えることができなかった。とっさに僕は「これは○○だ、と名づけられないものは、この世には存在しないものだ」と強く念じたその時に、その「何か」が僕の頭の中にダイレクトに語りかけてきた。
「知っているはずだ。これは○○だ、と名づけられないものは、この世には存在しないものだと思うか。違う、忘れてしまっただけだ」
決して強い口調でも、恐ろしさを感じさせる口調でもなかった。そして「何か」は、それが立っていた場所に銀色の棒のようなものを静かに落とし、丘の向こう側へと消えた。
僕はぼんやりとした意識の中で、あの「何か」が立ち去る前に僕の頭の中に残していった言葉を思い出した。
「言葉はキザシ、言葉はサイン。どこからかやって来る、「それ」を注意深く観察せよ」
僕は頭を振り、周囲を見渡しながら丘を登った。そして「何か」が存在していた場所までたどり着くと、そこには探していたカギが置かれていた。「何か」が消えた丘の向こうには、確かに管理人が言っていた境界が広がっていた。
僕はトランクルームに戻った。マルキスは僕より後に戻ってきた。やはり途中、僕を見失って探していたのだそうだ。管理人は、僕らに温かい飲み物を出してくれた。
「トランクルームの外はどうでしたか? 」
「手入れのされていない荒れた大地が広がるだけで、なにもありませんでした」
「あなたは? 」
「……」
管理人はしばらく僕を見つめていたが、それ以上トランクルームの外のことには触れず、話題を変えた。
「よくカギを探して来てくれました。どうもありがとう」
「そのカギの部屋では、どんな仕事がされているのですか? 」マルキスが飲み物をすすりながら聞いた。
「それは、残念ながら答えられません。カギの所有者しか知ることができないのです」
そう言って管理人は僕を見た。
「えっ……僕が所有者なのですか? ただマルキスの友達が落としたカギを探して来ただけなのに? 」
「あなたが所有者です。今はあなたが部屋のドアを開ける権利をもっています。永久に部屋のドアを開けないということを選択する権利も。また開けた後で誰かにカギを所有する権利を譲ることもできます」
「ドアを開けて仕事を再開しないと困らないのですか? 」
「そうしたら困る世界もありますが、このトランクルームに大きな影響はないでしょう」
「世界? 」
「世界です」
「部屋のナンバーは? 」
「№2012です。もう少し温まったら、行ってみますか? 」
「……いえ、今日はとても疲れたので休みます。明日の仕事もあるし」
「そうですか」
それから僕らは、最近の仕事の話しやトランクルームの運営の話しなどをして解散した。
結局僕は、「何か」と接触したことを彼らに話さなかった。
トランクルームの外へ出てから数日が経った。
僕は相変わらず毎日、宛名書きのバイトをしている。
「言葉はキザシ、言葉はサイン。どこからかやって来る、「それ」を注意深く観察せよ」
なぜだか仕事をしていても、他になにをしていても、あの言葉が頭をよぎった。あれは現実として僕の身の上に起こったことだったのだろうか。勿論、あれから僕は友達と交わす会話やトランクルームの掲示板、張り紙なんかを注意深く観察した。でも結局なにもはじまらないし、その気配すらもなかった。僕はそんな毎日にウンザリしながらも、だからと言ってNo.2012のドアを開けてみようという気にはならなかった。結局、管理人の言っていた通り、No.2012に行こうが行くまいが僕の世界はなにも変わらないのだ。それにカギは僕に、トランクルームの外で見たあの「何か」を思い出させた。
得体のしれない「何か」だ。
「アルバイト」
わたしは新しい学校生活や一人暮らしにも慣れてきたので、アルバイトをすることにした。
自分で働いたお金で、おばあちゃんに何か買ってあげたかったのだ。
でもこのことは、おばあちゃんには秘密だ。おばあちゃんが知ったら絶対やめるように言われるから。でも具体的に、どんなアルバイトをするかは決めていなかった。そんなわけでアルバイト情報誌をパラパラめくっていたら、B5紙の4分の1のスペースに、こんな求人募集の記事があった。
◆メッセンジャー募集
「あなたの手で、お客さまにお手紙を届けてください。何も切り捨てず、みんなをつなげることのできる方を募集しています」
就業条件
自転車の運転ができる方(自転車貸与可)
原則 月~日の週一日勤務から(応相談) 十時から十七時
時給 千円
担当エリア ×××
服装 パンツであれば自由
エントリー方法
お電話でお申し込みの方は TEL:045211****
※現在、インターネットでお申し込みは受けつけておりません。
なんとなく「何も切り捨てず、みんなをつなげることのできる方」というのが気に入った。あと、このエリアなら無理なく通えるし、昔住んでいたから少しは土地勘も活かせそうだ。平日は学校があるので無理だから、土日のどちらかで働こう。
取りあえず、電話してみよう。
「最近は手紙もめっきり減っちゃって、こういう商売もなかなか厳しいのよ。でも、国の方針でやめられなくてね」
応募したアルバイト先の事務所は、駅からすぐ近くにある雑居ビルの一階にあって、そこはガレージと事務所のスペースがパーテーション一枚で仕切られていた。メッセンジャーという仕事は想像していたよりとても静かな職場で、配達用の自転車の駐車スペースもとても小さかった。その理由は、面接をしてくれた女性(社長さん)のはじめの一言で、すっきりと分かった。
わたしは応接スペースに通され、電話をした時に持って来るように言われた履歴書を社長さんに渡した。
社長さんは、わたしの手書きの履歴書を、見るともなしに見ながら聞いた。
「一応聞いておくけど、志望動機は? 」
わたしは、志望動機なんてきちんと考えていなかったので、ちょった(かなり)ドギマギしながら答えた。
「えっ……と、求人広告に「何も切り捨てず、みんなをつなげることのできる方」と書いてあって、それがちょっと……素敵かな(汗)、と思いました」
わたしの取ってつけたような返答がおかしかったのか、社長さんはちょっと笑って、それから目線をそらし、ふーっと大きく息を吐いてから言った。
「ああ、あれね。今は、手紙をきちんと届けてくれないバイトくんが多いのよ。メッセンジャーなのに。だから手紙は途中で捨てたりしないで、ちゃんと届けてねって意味で書いたのよ。昔はバイトくんなんて言ったら、それこそ怒って食ってかかられたわ。プライドを持ってやっている子も多かったから」
社長さんは、よく話しの輪郭がつかめていないわたしを確認し、何かをきちんと伝えようと決めたかのように、少しだけ身を乗り出して続けた。
「昔はね、この街を沢山のメッセンジャーが駆け抜けていたのよ。今は面影もないけど。もともとメッセンジャーという仕事は、手紙や荷物をどこかでピックアップしてどこかにデリバリーする単純なものだった。そんな単純作業の中で、メッセンジャーは働く機能を追求しながら、洗練されたウェアやヘルメットに装備類、たとえば、メッセンジャー・バックとか、ディスパッチャーやメッセンジャー同士で交信するための無線機なんかで、ある種のスタイルや文化を築いていったのよ。そんな文化を研究する人もいた。
勿論、その中に個性もあった。
ウェアもそうだけど、自転車のポジションや部品の構成を変えたりしてね。
メッセンジャーの多くはその文化に誇りを感じていたから、手紙をきちんと誰よりも速く届けることを、この仕事の外に追いやるなんて考えられなかったのに……でも今はダメね。手紙そのものが少なくなってしまって、文化を築くための基本的なエネルギーが極端に減ってしまったのよ。きっと」
わたしは辛うじて社長さんが「この街を沢山のメッセンジャーが駆け抜けていた」時代のことを好きで、今でもとても好きなのだということは分かった。
ただ、わたしにはメッセンジャーを務めるのは無理だとも思った。
「わたし、あの……(無理です)」
言いかけたわたしの気持ちはすべて見透かされていた。
「大丈夫よ。今はとても楽な仕事だし、あなたは私の話しを聞いてくれたから、はい、合格! 」
わたしは結局なんのアピールもせずに合格し、定期便と臨時便のうち臨時便を担当することになった。ただ臨時便はとても少ないので「デスクワークを教えるねー」ですって。働き始めてすぐに分かったのは、社長さんはとても気さくで楽しくて良い人だということだった。
「語らざるもの」
僕の日常の連続性は呆気なく分断された。
僕は、それをながめていた。
それは直径が四~五センチメートルくらいの薄い皮に覆われてフワフワした物体だった。
きれいな朱色をしていて、触った感じから、これは植物であるのは間違いなかった。
ただ、僕はこの植物を見たことがなかった。
そして、それよりも僕にとって大切なのは……この植物はどこから湧いたのだろうか、ということだ。いつもと変わらない朝に目覚め、宛名書きの仕事に向かおうとしてはおった上着に違和感があったのだ。それで、ゆっくりと上着のポケットから取り出したものがこれだった。
確かトランクルームでは、栽培を許されている植物の品種は厳しく管理されているはずだ。僕は、この植物が栽培を許可されているものなのか、そもそもこれをどう扱ってよいのかも分からなかった。
そこで、とりあえずマルキスに相談してみたが、マルキスもこの植物を見たことがなく、管理人に相談したらどうかとアドバイスをくれた。
そして僕は、また管理人と向かい合った。
「あなたはこれをどこから持って来たのですか? 」
「よく分かりません。上着のポケットに入っていました」
「前回あなたが上着を身につけた時に、何かいつもと変わったことはありませんでしたか? 」
「トランクルームの外へ出た時にこの上着をはおっていました」
「それではこの植物は、トランクルームの外で摘んで来たものなのですか? 」
「いえ、自分では何も摘んでいません」
「そうですか……」
「僕はこれをもっていることを許されるのですか? これはトランクルームで栽培することを許されている品種なのですか? 」
「それは、分かりません。トランクルームの意思で決めることですから」
「トランクルームの意思? たとえばトランクルームに住む僕らの総意ではなくて? 」
「そうです。トランクルームそのものが持っている意思です。まずはこの品種について明らかにしてくれませんか? トランクルームに害をもたらす品種であるのか、そうでないのかも含めて」
「それは僕には分かりません」
「過去の言葉を調べてみてください。その仕事をする部屋のカギは、あなたが持っているではないですか。№2012はそのための部屋です」
そして僕は、トランクルームの外で見つけて以来、気にはかけながらも放置していたカギをもって№2012の前に立った。ドアにカギを差し込み、ゆっくりドアノブを回した。開いたドアの内側から、冷たく、少しカビ臭い空気が流れ出して来て、そして……まず、№2012の広さに圧倒されてしまった。
トランクルームの中に、こんなにも広い部屋があるとは……。
背の高い本棚が遠く遥か向こうまで、両サイドに長く連なっていた。中央は吹き抜けだ。
僕が開けたドアは二階にあたる位置にあって、中央から一階を見下ろすと階下にも本棚と誰かの肖像彫刻が同じ規則性をもって連なっていた。他に一階の中央、廊下の所々に美術品のようなものが陳列されライトアップされているが、ここからではなにが陳列されているのかまでは分からなかった。そして上方に目をやると、両サイドの本棚をつなぐアーケードのような屋根が本棚と同じく遠くへと伸びていて、建物全体を、これも規則的に配置され彫刻された木の柱が支えていた。
僕はドアを背に、ひとしきり目の前に広がる壮大な空間をながめた後、中央から左側の本棚に向かって歩き出した。
この部屋には一体どれだけの書物があるのだろう。
部屋の中は長く保管されてきた書物に特有の匂いがして、何だかその匂いと共に過去の言葉が圧倒的な存在感で僕に迫って来るようだった。
さぁ、植物、植物、植物……。
どれだけ歩いて、そして探しただろうか。僕は、手にしているその植物をきちんと特定することができるよう、詳しい解説が記されている植物図鑑を選んだ。僕は、書物を閲覧するための机と椅子に向かい、椅子に腰をかけて大きく重たい図鑑を開いた。図鑑の横にまだ名も知れず、得体の知れない実物を置いて。それは、こう説明されていた。
「鬼灯または酸漿(ホオズキ)。英名は「ground cherry」または「Chinese lantern」。ナス科の多年草で、夏に黄白色の花が咲き、その後、萼(がく)が大きく袋状になり、球形の果実を包む。萼(がく)とは、植物用語の一つで、花冠の外側の部分を指し、花弁のつけ根にある緑色の小さい葉のようなものである」
書かれている言葉には、僕の知っている言葉もあれば知らない言葉もあった。僕は次々に現れる言葉を思いつくままに調べ、机の上にどんどん書物を積み上げて行った。
「鬼灯は、死者の霊を提灯に見立て……、鬼。超自然的な力を有する想像上の怪物。死者の亡霊」
「江戸時代には堕胎剤として利用……、江戸。現在の日本国における東京都千代田区を中心とする地域。堕胎。胎児を人為的に流産させること」
「胎児。哺乳類の母胎内にあって、まだ出生しない子のこと」
「哺乳類。哺乳綱の脊椎動物の総称。……」
「花。……には花言葉が……、花言葉。花の象徴的な意味。ホオズキ花言葉。いつわり。欺瞞。頼りなさ。心の……」
ひんやりとした№2012で、いつしか僕のこめかみには汗がつたい、何か見てはいけないものを見てしまった時のような罪悪感と恐ろしさに駆られていた。僕はここで一体なにをやっているのだろう?
その時、背後から声がした。振り返った僕の顔は間違いなく青ざめ、怯えた表情をしていたに違いなかった。
「その植物が何か分かりましたか? 随分と長い時間、№2012にいらっしゃいますが……」
管理人は、僕を驚かせたことをわびるように軽い笑みをおびて言った。気がつけばいつの間にか№2012は薄暗くなり、書物の文字も読み辛くなっていた。管理人は、夜の鐘を鳴らしてから長い時間が経つのに僕を見かけた者が誰もいなかったので、ここに来てみたのだそうだ。僕は管理人の顔を見ずに小さな声で「まだこの植物が何かは分からない」と答えた。
管理人は「そうですか。それは残念ですが、いずれにせよ今日はもう遅いのでおしまいにしましょう。急ぎの仕事というわけではないのですから」と言って、部屋を出て行った。
僕は管理人の背中がドアの向こうに消えるのを見届けてから、机の上に積み上げた書物を急いでもとの本棚へ戻し、何かから逃げるように震える手でカギを閉め、№2012を後にした。
「かすかな目覚め」
「私の意識が正しい意識であるかどうか、自分ではわからない。自分の存在だと思っているものが、ほんとうに私の存在であるのかどうか、それもわからない。しかし、私の喜びがどこにあるかなら、よくわかっている。だったら、喜びに取りついていよう。そうしたらそれが私の意識と存在をも運んできてくれるだろう」
ジョーゼフ・キャンベル ビル・モイヤーズ著 飛田茂雄訳「神話の力」
僕は数日後、また再び№2012のドアを開けて、あの景色の前に立っていた。
前回、はじめてこの部屋のドアを開け、そこにある沢山の書物を手に取った時に、何か見てはいけないものを見てしまった気がして慌てて扉を閉めた。ただ、退屈な日常に戻ってみると、やはりこの部屋は、本棚は、書物は、僕に何かを語りかけているような気がして、そしてなにより僕は知りたいと思った。
僕が知りたいと思っていることが何かは分からない。
知ることでなにがどうなるのか、なにが待っているのかも分からない。
ただ、僕は僕の心に従っていようと強く思ったのだ。
そうして僕は本棚から気の向くままに書物を抜き出した。書物は、僕らには遥かな歴史があることや歴史の中で起こった出来事、歴史を生きる人々の暮らしを教えてくれた。僕はますます書物に、そして言葉に魅せられ、本棚から本棚へと歩いていたら、床の上にひと際古めかしい形の崩れた本が落ちているのが目に入った。本棚から落ちたのだろうか……。僕は今にもページがバラバラに解けてしまいそうなその本を、落ちていたそのままの状態でそっと拾い上げると、開いたページには誰かが書きなぐったのであろう言葉の断片が記されていた。
「 いつか世界の終末が来て こそが巨人達との最終決戦の日 予言により 巨人達の戦いの果てに滅び 神々の黄昏、ラグナロク予言は正 世界は様々な予兆と共にラ 世界の滅び た」
世界の終末……巨人達との最終決戦……神々の黄昏、ラグナロク……。
この言葉は一体なにを描こうとしているのだろう。
これを書き綴った者にとっての世界の終末とは、一体どんなものだったのだろう。
巨人達や神々とは何を指しているのだろう。
№2012に保管されている書物の語り方は様々だが、それらを記した人々は確かにそこにある何かを、語るべき何かを、真摯にきちんと描き出そうとしているように感じた。僕には、遠い昔に語られた言葉が現わそうとしたことを、具体的にはなにも分からなかった。ただ、先達によって綴られた言葉は、単なるおとぎ話などではないように思えた。彼らは何かを現わそうとして言葉をつむぎ、そして時には命をかけてその言葉を大切に守り、育み、後世へと伝えたのだ。
彼らの言葉は僕らに一体どんな真実を伝えようとしているんだろう?
ずっと後になるが、僕は世の中に「偶然」などというものがまったく存在しないことを知った。僕の魂の静かな歓びは、「偶然」という名の必然的な出来事を重ねながら、まるで次々と扉を開くように僕の運命をたぐり寄せて行ったのだ。
ある日、僕は一階に降り立ち、本棚と肖像を横目に見ながら部屋の奥へと進んで行った。
一体この部屋はどれくらいの広さがあるのだろうか。遥かに歩いても本棚と肖像が続くように思えた。それでも歩いていると、しばらくして行き止まりの壁が見えて来た。その壁には彫刻された大きな額縁におさめられた絵画が飾られ、そこには書物で知った女と二体の動物が、僕から見て左の方向を見つめる姿で描かれていた。とても平面的な絵画だ。四足で立つ二体の動物は、とても奇妙に描かれていて、それが何かは分からなかった。
具体的にはこうだ。
顔は骨のように白く、耳は立っていて、裂けた口からは大きな舌がはみ出していた。胴体は全体的に黒いが、背骨にそって白い線があり、腹にも白い線がいく本か入っていた。後足はがっちりしていて、爪も大きかった。そして一体は口に何かを咥えているのか、舌を出しているようだった。また、女の真黒に塗りつぶされた瞳からは表情という表情はうかがえず、無機質でのっぺりとしていて、このトランクルームでは見たことのない服を身に纏っていた。ほかに絵の右下の額縁の近くには「I am」と書かれていた。
これは確か英語だ。
作者のサインなのだろうか。
勿論それが誰か知る由もないし、特に興味もわかなかった。僕は、ひとしきりながめた絵画を背に歩いてきた道を振り返ると、僕がいつも出入りしているNo.2012の入口のドアがはるか向こうに見えた。果たしてこの空間にある書物は、彫刻は、絵画は、僕がつかまえようとしている世界のすべてなのだろうか。そうであれば、僕はいつか世界をつかまえられるはずだ。
いつか、必ず。
僕はささやかな冒険に満足して、さあ戻ろう、と歩き出したその時だった。
音がした。とても小さな音だ。
僕は反射的に後ろを振り返った。
振り返った先にあるはずの絵画は、なんら期待を裏切ることなく、そこにそのまま変わることなくおさまっていた。
ただ……、絵画からそう遠く離れていない床の上に、球のカタチをした何かが落ちているのを見つけた。
僕は周囲をうかがいながら、ゆっくり近寄り、しばらくその球をながめてから指でつまみ上げた。そして僕の知識は、この球体について、ある事実を教えてくれた。
これは……。
「新たな植物の取り扱い」
「みなさん、お集まりいただけましたか」
トランクルームの住人に対して管理人が言った。
「一部の方はご存じかと思いますが、新たな植物の取り扱いについてトランクルームの総意をご報告いたします」
周囲には無表情な顔が並び、管理人の報告が終わるのをただ待っていた。
「ホオズキという植物がトランクルームの外で発見され、この植物は薬物的な害悪の見込まれることが分かりました。したがって我々は、ホオズキを認めません。今後存在するそれは、すべて焼却もしくは別の手段により排除いたします。これは決定事項です。トランクルームのみなさん、今後、ホオズキを発見することがありましたら、速やかにご報告ください」
集会はそれで終わった。
他の住人と同じように集会場を後にしようとしていた僕を管理人が呼び止めた。僕の胸ポケットには拾ったばかりのリアルなホオズキが入っていた。
「ホオズキについて色々と調べていただいて、ありがとうございました。ただ残念ですが、トランクルームの総意としてホオズキを排除することになりました」
「排除するとは、どういうことを指すのですか? 」
僕は胸ポケットを意識しながら、それをさとられることがないようにさり気なさを装って聞いた。
「このトランクルームからホオズキに関するあらゆる情報を消去します。これは○○だ、と名づけられないものはこの世には存在しないものです。また、名づけられたものはその名と共に存在を消してしまえるのです」
「そんな事ができるのですか? 」
「できます。あなたもすぐに忘れますよ」
管理人は僕の肩を軽く叩きながら薄く笑い、歩き去った。
僕は管理人の言っていたことを確かめるために急いで№2012に戻り、以前ホオズキについて調べた植物図鑑やそのほかの関連する書物を次々と手にとった。
ホオズキ、ホオズキ……
えっ! ホオズキという植物はすでにもう、どの植物図鑑にも存在していなかった。それだけではなかった。
この植物にまつわる言い伝え、育て方、花言葉などもそのすべてが消去されていた。まるでそんな植物はもとから存在していなかったように。ほかの書物も手に取ったが、同じように一切の情報が消去されていた。
「名づけられたものはその名と共に存在を消してしまえるのです」
ハッと我にかえり、胸ポケットに手を当てると、ホオズキの果実はまだ確かにそこにあった。ただ、この果実は放っておけば、いつか他の植物と同じようになくなってしまうものだ。僕は、急に寒気がして所在なく周囲を見まわすと、あれだけ広々としていた№2012が何かとても小さく、僕を圧迫するほどに狭苦しく感じられた。その時、またあの言葉が耳の奥から聞こえてきた。
「言葉はキザシ、言葉はサイン。どこからかやってくる、「それ」を注意深く観察せよ」
なぜだかは分からない。僕は、このホオズキの果実を拾った場所に向かって歩き出していた。単なる直感で、その場所に何かのサインがあるような気がしたのだ。
「メッセンジャー」
わたしにはじめて内勤以外の仕事が回ってきた。
臨時便の手紙を届ける仕事だ。
わたしはなんだかワクワクして、たった一通の手紙を届けるためメッセンジャー・バックに丁寧に手紙を入れ、自転車に乗り、さあ行こうとした所でヨウコさんに呼び止められた。
「いい? 臨時便の受取主は感情的に混乱している人も多いから、あんまり深入りしないで切り上げるのよ。もし何かあったら、すぐ連絡してね」
ヨウコさんは「くれぐれも」という感じで言った。とても不安そうだ。
「大丈夫……なんですよね? 」
わたしも不安になって聞いた。
「基本的には大丈夫……安全よ。ただ、臨時便の手紙を受け取る人の気持ちに引っ張られ過ぎないようにね。私達はただ届けているだけなんだから。まあ、そういうことでよろしくね」
……そういう事で、という感じでわたしは送り出されたのだ。
十分くらい走っただろうか、目的地にはスムーズに着いた。そして、宛先の玄関ドアの前に立ってノックした。男の人の声がして、ドアがわたしの方に開いた。
「はい? 」
ドアの向こうから、顔色の悪い無精ひげを生やした男の人が現れた。
「メッセンジャー社です。手紙をお届けに参りました」
「手紙? ……めずらしいね、手紙なんて……。それはもしかしたらフロム・エイジかな? 」
「フロム・エイジ? 」
「知らないのかい? メッセンジャーなのに? フロム・エイジはどこからともなく送られてくる差出人不明の手紙だよ。その手紙を読んだ誰かがそう名づけたんだ。またの名を「なぐさめの手紙」ってね。まあ、都市伝説みたいなものだよ。でもこの手紙が本当にフロム・エイジだったら、それは私宛じゃないんだ。私の知人宛だ。彼は飼い犬を殺されて、ひどく悲しんでいるんだよ」
「えっ? ……でも、お届け先はこちらになっているんですけど……」
「本当? 」
「はい、間違いありません」
わたしはもう一度宛先を確認し、うなずいて見せた。
「そう……。いや、明日裁判で彼の代理人を務めるんだけど、陪審員に一体なにを話したものか考えがまとまらなくて困っているんだよ。彼の深い悲しみをどうしたらうまく伝えられるんだろうね? 」
その男の人はわたしにはよく分からない話しを続けた。ヨウコさんの言っていたことが少しだけ分かった気がした。
「あの……、ここにサインを……」
「……ああ、なんだったっけ? 」
「手紙の受け取りのサインをください」
わたしは胸のポケットにさしていたペンを抜き、男の人に差し出した。
「いやー、でも本当に僕じゃないんだよね」
そう言いながら、男の人は受領証にサインした。
「ありがとうございました。あの……、お知り合いの悲しい気持ちをきちんと伝えてあげられるといいですね」
それまで顔にしわをよせて、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていたその人は、ちょっと笑って「ありがとう」と言ってくれた。わたしは、ほんのちょっとだけメッセンジャーの醍醐味を味わった気がして嬉しくなった。
バイトが終わり、家に帰ってみるとまたハルが家出をしていた。小さな部屋のどこを捜しても見つからなかった。バリケンネルの中で寝ていたはずなのに、一体ハルはどうやって家出したのだろう?
まあ……いいや、またちゃっかり戻って来るはずだから。
「ハルさんはどこへ行ったのですか? 」とウノに聞いてみた。ウノはワンと吠えた。
「思い出」
再び同じ道をたどると、今度はすぐそこに到達した。
特に変わった様子もなく、新たなホオズキの果実も落ちてはいなかった。
僕は少しホッとしながら目の前の絵画をながめて、そして……かすかな違和感をおぼえた。前に見たこの絵画はとても平面的だったが、今は少し違っていた。描かれている対象物に親近感をもつことができるのだ。対象物には表情があった。同じ絵であることには変わりがないのに。
中央の人物が連れている二体の動物も奇妙さが薄れ、このトランクルームにはいないがどこかで見たことのある動物になっていた。
そして、その一体が口に咥えているもの、はじめて見た時には大きな舌がはみ出しているようにも見えたそれは……ホオズキの果実だった。僕はこの変化を受け止めきれず、ただ目をこらして絵画をながめていた。
そして、ホオズキの果実……。
視線は右下の額縁の近くをとらえた。
変わらず「I am」と書かれていたが、そのさらに右に目を向けると、絵画を淡く照らすアンティークブロンズのスタンドが台の上に設置され、その同じ台の上には古い革表紙の書物が置かれていた。
僕は、絵画を理解する手がかりがあるかもしれないと思い、すえた臭いのする書物を手にとってしばらくページをめくっていると、ページの間から、端々が変色してあちこち虫に食われた紙がぱらりと落ちた。拾い上げたその紙にはただ、こう書かれていた。
My Dear
僕はあらためて書物を手に取り、その英記号の意味を解読しようと手がかりをたどった。記号は、いつも言葉の書き出しに記されていた。記号はいたる所に記されていたが、拾い上げた紙切れがもともと配されてあっただろうページには、言葉がこう書かれていた。
「今日はありがとう。わたしはとても幸せです。大きな声で伝えたい。でも何か、この世界の秘密をわたし達だけが知ってしまったみたいで、ちょっと怖くもあるけど、ただ素直に喜んでいいよね。また明日、少しでも会いたいな」
言葉は、宛名書きのように手書きで書かれていた。僕は、その手書きの言葉が僕にとても大切なことを伝えようとしている、どこかへ僕を運んで行こうとしているのを感じた。その時、突然大きな音が響いた。朝と夜を告げ、侵入してくる「何か」を告げる鐘の音だ。……
鐘は時の経過と共にますます大きく、そして強く打ち鳴らされたが、トランクルームの中にいる僕にとっては鐘が知らせる危険も他人事だった。それより、僕に起こっている出来事と自分自身に折り合いをつけることの方が遥かに重要だった。ただ鐘は、僕の不注意を許さなかった。あの何かが、いつの間にかNo.2012に存在する暗闇から現れ、じっと僕を見ていたのだ。
しばらく時が流ても鐘の音は鳴り止まなかった。
何かは僕に少し近づいたが、不思議なことに僕は以前ほど恐れを感じなかった。僕は、何かを見すえて聞いた。
「この危険を知らせる鐘は、お前に対して鳴らされているのではないのか? 」
僕らではない、その何かは答えた。
「キケン、ナイ。ワタシ、シルカ? 」
「知らない」
「ワスレ、タカ? 」
何かはかろうじて僕らの話す言葉を話していたが、発音がとても独特で、言葉は一言一言が短く区切られていた。まるで、普段は違う言葉を話しているものが、僕に分かる言葉をわざわざ使ってくれているかのように。
「忘れてしまったのかどうかも分からない。僕にはお前が分からないんだ」
「……。マツ。クル」
そして何かは、僕の返事を待たずにどこかへ歩いて行こうとした。
「嫌だと言ったら? 」
「カエル。イヤ、ナイ」
それは四足で暗闇に消えて行った。僕は結局ただ黙って従った。そうしろと僕の心が僕に命じたのだ。そして僕は何かにつき従いながら、何かは想像していたよりとても小さくて、恐ろしさを感じさせないたぐいの動物だと分かった。歩き続けるうちに周囲はますます暗く、道はどんどんと狭くなって行った。
「夢の中で 彼女の場合」
その夜、わたしは夢を見た。
わたしが、いつもアルバイト先で送り出しているメッセンジャー達が、自転車を走らせていた。
今日は、数え切れないくらいの自転車が一斉にどこかへ向かい、走っていた。
ヨウコさんから聞いたメッセンジャー仲間達の会合かレースだろうか。
わたしも自転車を走らせていた。
みんな仲間だ。
誰もがささやかな誇りと安らぎの中でそう感じていた。
そして、ある自転車は左折し、ある自転車は右折して、それでも真っ直ぐな道が続いていた。彼らは、並走して声をかけ合う時も道で別れるときにも、必ずサインを出し合った。
「どうしたんだ? 」「がんばれ」「大丈夫だ」「またね」
なぜだろう、わたしはそのサインを当たり前のように理解していて、使うこともできた。
「どうしたんだ? 」「がんばれ」「大丈夫だ」「またね」
そんなサインを出しながら、なぜだかわたしは胸につかえるものを抑えることができず、自転車を走らせ続けることができなくなった。道端に自転車を寄せ、少しふらふらとしながら、足元のおぼつかない格好で停まった。そしていつものようにただじっと黙り、瞳を閉じて何かをやり過ごそうとした。きっとわたしに声をかけ、話しかけてくれる人はいないのだと確かめたくて。でも、わたしの予想は簡単に裏切られた。
「どうしたんだ? 」彼は聞いた。
わたしは黙っていた。彼の言葉をもう少し引き出そうとして。怖くもあったから。彼も黙っていた。わたしも言葉をつながなかった。彼はしばらく沈黙した後に言った。
「この道を真っ直ぐ行きなさい。きっと最後には一人で行かなければならないだろうが、その先には彼が待っているよ」
その時、もう一人自転車から降りて声をかけてくれた。声をかけてくれた二人は何か言葉を交わしていたけど、わたしには聞き取ることができなかった。二人は再び自転車にまたがり、メッセンジャー同士の連帯が自然にそうさせるのだろう、笑い合いながら、わたしに「大丈夫だ」「またね」と言って、自転車の大きな川へと戻っていった。
わたしは少し元気になり、また自転車をこぎ始めた。沿道に目を向ける余裕も生まれた。声をかけてくれた二人に感謝だ。所々で銀杏並木の落ち葉がフワッと舞っていた。
そしてわたしはさとった。
……これは明らかに夢だ。
運動の嫌いなハルが急に沿道から飛び出して来て、私の自転車と並走しはじめたのだ。ウノも。ウノは運動が大好きだから、まだあり得るとして。でも、わたしの大好きな状態がそこにあるので、まあいいか。
わたしはハルがついて来られるようにゆっくりと走った。ふと、さっき声をかけてくれた人の言葉を思い出した。
「この道を真っ直ぐ行きなさい。きっと最後には一人で行かなければならないだろうが、その先には彼が待っているよ」
つい真っ直ぐ行くその先に目をこらしてしまう、そんなわたしはわたしにそっぽを向いて、時々ハルとウノを確認しながら沿道の銀杏並木に目をやった。
そこには、わたしとなに気なく目の合った、あの人がいた。
少し髪が伸びただろうか、彼の瞳はなにも変わらず、どこまでも深い透明な湖のようだ。その瞳が、わたしに気づいた。そして笑った。わたしはその笑顔に引き寄せられるように心が彼のもとへと駆け、その後を身体が追いかけようとしたけど、身体は他の自転車に押しやられて停まることができなかった。
わたしの自転車は彼からどんどん遠ざかって行った。わたしが大きな声で彼を呼ぼうとしたその時、別の大きな音がわたしの声を瞬時にかき消し、わたしはまどろむ意識の中で朝が来たのを知った。それはまるで、夜のとばりのような朝が。
目覚めたばかりのわたしは、急速にかすんでいく夢の記憶の中で、幸せな、泣きたくなるような気持ちになった。しばらくそんな気持ちを引きずりながら、いつもの通りベランダまで歩き、窓を開けると秋口の澄んだ空からひんやりとした空気が流れ込んで来た。
「夢の中で 彼の場合」
何かは、気がつけばどこかへ行ってしまい、姿が見えなくなった。
僕は№2012から暗くて狭い道を歩き、途中トンネルのようなものを通り抜けた。
それから、辺りが草木に囲まれ、土をえぐって石を敷き壁を塗り固めた、なだらかに遥か遠くへと続く石段をたどって行くと小さな石造りの建物にたどり着いた。僕は、ひんやりとした石畳の上に足を投げ出して座り込み、ここまでやって来た道中に交わした言葉を思い出した。僕の先に立って歩いていたそれは、次にこの建物の鐘が鳴るまでやって来た道を戻ることはできないと言っていた。僕は見知らぬ土地に取り残されてしまったのだ。
石造りの建物を後にしてしばらく歩いていたら、広くて大きな通りに出た。
その道は、沢山の人が東から西の方向へ移動していて、まるで大きな川のようだった。
しばらく人々が通り過ぎて行くのをながめていたら、同じく通り過ぎて行く一人の少女と目が合った。彼女は僕と目が合うとハッとしたような表情になり、まるで僕を知っているかのように見つめ続けていたが、結局そのまま言葉を交わすこともなく、川の流れに呑み込まれるように走り過ぎて行った。
彼女の瞳は、僕に何かを語りかけていた。
僕はなぜだか無償に彼女と話しがしてみたいと思ったが、そんな事は叶うはずもなかった。彼女はもうどこかへ行ってしまったのだから。でも……不思議だ。どうして僕はたった一目見たあの女のことがこんなにも気になるのだろうか。そして僕は、自分が今こんな風にして抱えているこの気持ちをうまく言葉にすることができなかった。
それにしてもこの土地はとてもにぎやかだ。
人々は彼女が乗っていた道具とは違う道具に乗り込み、耳をふさぎたくなるほど大きな音を立てて移動して行くし、行き交う人々もトランクルームでは考えられないくらい大きな声でしゃべっていた。時々、耳と口元に何かの道具を押し当てたりながら。
この土地で僕に気づく者は誰もいなかったが、いずれにしても彼女はこの土地で生きているのだ。
「残していくものと残されるもの」
わたしは、おばあちゃんが暮らす施設に来ていた。
ここには寝たきりの人もいれば、車椅子で生活している人、まだ普通に散歩に出られる人、おじいちゃん、おばあちゃん、(生きていたら)わたしのお父さんやお母さんくらいの歳の人、わたしと同い年くらいの人、まだ幼い子供などさまざまな人がいた。
ここでは毎日色々なことが起こっているけど、お医者さん、看護師さん、他にも専門的な仕事をしている人、ボランティアなどが協力してテキパキと対応しているし、なによりとても感じの良い人ばかりだった。
そんな施設でおばあちゃんは普段、車椅子で生活していた。
おばあちゃんを看てくださっている方から、おばあちゃんのここ数日の体調を教えてもらい、とても良好だということなので、車椅子を押して外へ散歩に出ることにした。その日は日差しが暖かくて、空も澄み渡って輝いていた。おばあちゃんは、わたしが訪れるとはじめに必ずハルとウノのことを聞いた。
「ハルちゃんとウーノちゃんは元気なの? 」
おばあちゃんはウノのことをウーノと呼んだ。
「うん、元気だよ。ハルは、相変わらず寝てばっかりいるし、ウノは、「散歩! 」って言うと相変わらず、すっ飛んでくる」
「そう。それは良かったわ」
おばあちゃんはいつもニコニコしながら、小さくてゆっくりとした声でしゃべった。
「学校はどう? もう半年経つわね」
「そうね、随分慣れたかな」
「そうかい、寂しい思いをしていないかい? 」
「大丈夫だよ、学校でも友達できたし、それに……」
アルバイトの話しをしかけてやめた。
「おばあちゃんは、何か必要な物とか、欲しい物とかないの? 」
「うん、特にないね」
「そっか」
わたしは、庭園内で紅葉がよく見える辺りまで、おばあちゃんを乗せた車椅子を押して行き、車椅子の車輪をロックしてからおばあちゃんの横に並ぶようにしてベンチに腰をかけた。庭園内には、ほかに杖をつきながら散歩をしている人もいれば、点滴スタンドを押しながら看護師さんと一緒に歩く人、わたし達と同じように車椅子で移動する人、ベンチで本を読んだり、うたた寝する人、はしゃぐ子供達もいた。
この施設で生活している人は年齢もかかえる病気もこの施設での過ごし方も本当にさまざまだけど、皆に共通していることが一つだけある。
それは、もうそれほど長く彼ら、彼女らの人生は残されていないということだ。
おばあちゃんがこの施設で生活しはじめてから一年近くになるけど、その間に施設で出会ったおばあちゃんの友達は何人か天国に召されて行った。おばあちゃんも、もう年齢相応の体力の問題から手術などの治療はできなくなっていた。前回ここに来た時、お医者さんからおばあちゃんの余命は三カ月から長くて半年だろうと言われた。おばあちゃんが亡くなったら、わたしにはこの世界に血のつながった身内が誰もいなくなる。いわゆる天涯孤独というやつだ。そんな事を考えながら、おばあちゃんと同じ目線で紅葉した大きな樹を見ていたら、おばあちゃんがぽつりと言った。
「わたしは、もういつお迎えが来てもおかしくないけど、お陰さまでこれといった後悔も残さずに逝けそうだよ。ただ……一つだけ悔やまれるのは、心に大きな……それは大きな傷を負って……、そんな孫娘をたった一人残して逝くことだよ。ごめんね」
「おばあちゃん……」
「ただね」
おばあちゃんは紅葉に目を向けたまま、ゆっくりとした声で話しを続けた。
「逝くものもあれば、生まれるものもあるんだよ。みんな順番で、繰り返すものなんだから。だから自分の信じた道を真っ直ぐ行きなさい。みんな最後には一人で行かなければならないんだけど、その先にはきっと何か、とても幸せなことが待っているから。そう、信じるんだよ」
「ねぇ、おばあちゃんにとって人生で一番幸せだったことってなに? 」
おばあちゃんは紅葉からわたしに視線を移したものの、面と向かって話すのは気恥ずかしいのか、また紅葉に視線を戻し、少し照れながら言った。
「そりゃあ……、おじいちゃんと出会って、夫婦として暮らしたことだね」
わたしは、そういうおばあちゃんが可愛らしくて、ちょっと意地悪を言いたくなった。
「おばあちゃんがあっちの世界へ行ったら、おじいちゃんはちゃんと迎えに来てくれるかな? 案外、薄情だったりして」
「そんな事はないよぉ。ちゃんと迎えに来てくれるよ。おじいちゃんは、優しい人だから」
わたしはちょっと羨ましく感じた。
そして、おばあちゃんとわたしは再び紅葉に目を向けた。わたしは、このとても短くて、儚くて切なくて、だから大切でかけがえのない時間を丁寧に過ごしたかった。
おばあちゃんは、またそっと「ごめんね」ってつぶやいたけど、わたしは聞こえない振りをして、ただ紅葉を見つめ続けた。
「完全なる目覚め」
「すべての知識、ありとあらゆる疑問と答えは、犬の中にある。」
フランツ・カフカ「ある犬の回想」
結局、僕は次に建物の鐘が鳴るのを待って、やっと来た道を戻ることができた。
僕はその足でやはり№2012に向かい、彼女が生きる土地の背景を理解しようとした。
そうすれば彼女を理解することができると思ったのだ。
まずは僕を度々誘(いざな)う、あの動物を理解しようと文献を掘り返した。文献は思いのほか沢山あったが、僕の調べていたのはどうやら犬という動物だということが分かった。その犬に関して、先達はさまざまな説明や評論、考察を残していたが、特にそれらは人との関わりの中で語られることが多かった。
たとえば、人と犬との親密な関わりを示すめずらしい記録として、ある法定代理人が裁判所で陪審員達に語った友人の犬にまつわるスピーチなども残されていた。僕はあちらの文献、こちらの文献へとあたりながら、犬と人々との暮らしに思いを馳せた。犬という動物は、ジャッカルやオオカミというものを祖先としながら、少しずつ長い時間をかけて人と歩み寄り、いつしか共に暮らすようになったらしい。そして彼女の暮らしは、多分犬と共にあるのだろう。
さあ、そしてこれは肝心なことだが、犬は僕をどう彼女へと導くのだろうか。
僕は、少しずつだが自分の中心らしきものからつむぎ出される心の声の聴き方をマスターしはじめていて、その時もまた心がつむぎ出す声にじっと耳を傾けた。
そして僕は、先達がもたらしてくれる知識の一部をたずさえて、また再びあの絵画の前に立った。
もう絵画は、はじめて見た時のそれではなく、少女と二匹の犬を克明に描いた肖像画に変わっていた。少女はこの間見知らぬ土地ですれ違った少女であり、二匹の犬は僕がトランクルームの外で見たあの犬達だ。あの時は、大きく凶暴な怪獣にしか見えなかったが、いま目の前に描かれているのは人が容易に抱きかかえることのできる小型の犬だ。僕から見て左側の犬は以前ここに侵入し、僕を少女のもとへ誘ったのだ。
少女は椅子に座り、左側のひじ掛けにもたれ、少し傾けた額の真ん中から分かれた黒髪は腰の上辺りまで伸びていて、肌色の白さとは対照的に大きく黒目がちな瞳は、真っ直ぐに描き手を見つめていた。
そして少女が座る椅子の両側には犬が立ち、左側の犬の視線は描き手に、右側の犬の視線は左側の犬に向けられていた。二匹とも独特の刈り方をされた灰色っぽい毛並みで、鼻の周りを長い毛が覆っていた。
多分、シュナウザーという犬種だろう。
僕は、この少女の輪郭を、遥かな昔から知っていた気がしてならなかった。
そして僕は、この絵画から少女と犬達の鼓動や仕草を容易に想像することができたのだ……。
犬達は同じ場所に少しも立っていられず、描き手を大いに悩ませ、少女は慌てて犬達をもとの位置に戻したが、何度かの試みは不毛な結果に終わった。仕方がないので、少女はとりわけ協力的ではない方の犬を胸に抱いて座りなおした。それを見たもう一匹も椅子に飛び上がろうとジャンプしたが、そこには一人と二匹が共有できるほどのスペースはなく、あえなくズリ落ちて少女と描き手の大きな笑いを誘った。そして少女が胸に抱いていた犬は、少女の腕を逃れて公園内を足早に歩きまわり、少女は犬の名を呼んで戻って来るように言った。
しばらくして戻って来た犬は、口になかば潰れた朱色の球のようなものを咥えていて、球の血のような色に少女はギョッとし、描き手にそれを犬の口から取り出すよう助けを求めた。そして取り出されたのは……。
僕は、まるで触れられるような、とても幸福な気持ちで展開される映像に浸りながら、ある重要な事実に気がついた。
これは、記憶である。
これは、確かな、記憶である。
そして僕は、絵の右下の額縁の近くに目をやった。
……「I am」、これは僕が描いた絵だ。
「許されざるもの」
「みなさん、お集まりいただけましたか? 」
トランクルームの住人に対して、管理人が言った。
「一部の方はご存じかと思いますが、最近、度々このトランクルームに侵入する不穏ななにものかがあり、調査したところ、それは犬という名の猛獣であることが判明しました。今回、その犬という名の猛獣の取り扱いについて、トランクルームの総意をご報告いたします」
周囲には相変わらず無表情な顔が並び、管理人の報告を聞いていた。
「犬という名の猛獣はトランクルームの外で発見され、またいかなる手段を使ってかトランクルーム内にも侵入し、我々に重大な危害をもたらす可能性のあることが分かりました」
集まった住人からざわめきの声が上がった。管理人の報告が続いた。
「したがって、我々は犬を認めません。今後存在するそれは、すべて捕獲後に処分もしくは別の手段により排除いたします。これは決定事項です。トランクルームのみなさん、今後犬を発見することがありましたら速やかにご報告ください。私からの報告は以上です。みなさんから何か意見や質問はありますか? 」
「ちょっと待ってください」
声が響き、会場にいる住人の視線が集まった。
これまでこの集会で住人から意見や質問が出たことは、それがどのようなものであれ、僕の知る限りにおいてなかった。そしてその言葉が、あろう事か僕から発せられるとは今の今まで考えもしなかったことだ。
「何でしょうか? 」
管理人は眉をしかめて言った。
僕は震える声で答えた。
「本当に犬という動物は、危険なものなのでしょうか。№2012の書物を調べる限り、犬は遠い昔から常に我々と共にあったと書かれています。なぜ、そんな動物を排除する必要があるのですか? 」
管理人は、しばらく無言で僕を見つめた後、僕を諭すようにゆっくりとした口調で言った。
「これは、トランクルームの総意です。あなたが書物から得た知識は、完全でも、そしてすべてでもありません。そうでしょう? あなたは、このトランクルームの住人の一人として、その総意に従っていただきたい」
「でも、今回のように何かの存在を否定してただ排除するだけでは、我々そのものがとても小さく歪んで、弱くなってしまう……」
「その、なにが、いけないのでしょう? 秩序は守られているではありませんか。いずれにせよ、トランクルームの規範を脅かしかねないそのあなたの発言は、決して穏やかではない。あなたがこれ以上、そのような意見を主張するのであれば、正式にトランクルームの査問委員会にはかる必要があります。主張を撤回してください」
僕は管理人の強い口調に尻込みし、下を向いてしまいそうになったが、僕の中で芽生えはじめたある気持ちが主張の撤回を拒み、辛うじて管理人を見つめ続けさせた。
「主張を撤回し、トランクルームの総意に従っていただけないのですか? 」
「僕は、このトランクルームの規範を乱したいわけではないのです。ただ……」
「もう、十分に、乱しているではありませんか! 私はあなたを告発する! そして、あなたの穏当ではない主張の元凶となっている№2012は閉鎖し、あなたから№2012にまつわる仕事を取り上げます! 」
僕は、ヒステリックにまくし立てる管理人の言葉を黙って聞くしかなかった。
「やはり、あなたにカギを探しに行ってもらうのではなかった! 精神と身体の連絡が、ほぼ完全に絶たれたあなたであれば、トランクルームの規範に逆らうような変性はしないだろう、そう考えた私が甘かったようです! 」
「……なにを言っているのですか? あなたは、僕がトランクルームの外へカギを探しに行くことを、はじめから知っていたのですか? それに精神と身体の連絡……? なにを言われているのか分かりません」
管理人は、自分の発した言葉に一瞬表情をかげらせたように見えたが、すぐにますます声を荒げた。
「さあ! あの部屋のカギを返してください! 」
住人は最初戸惑い、それから徐々にこのトラブルを引き起こした僕に、強い非難の眼差しを向けた。そして、僕を取り押さえようと動き出す者もいた。
その時だ。
獣の咆哮が、トランクルームに響き渡った。
住人は、その身に危険を知らせる咆哮に動揺し、怯えた顔を見合わせたが、僕はその主を知っていた。時と共に獣はますます大きな声で吠えたけり、遂には僕らの前に姿を現した。そして犬は辺りを見回し、威嚇しながらゆっくりと僕に向かって歩き、目の前まで来て言った。
「イク。マツ。カエル」
「それは絵画の少女のことか? 」
「アルジ」
その時、管理人がポリスを連れて会場に戻ってきた。
いくつかの出入口に立つポリスはそれぞれに武器をたずさえ、標的である犬と、そして僕にも狙いをつけた。
「犬を捕獲します。あなたは下がって身体を屈めていてください。抵抗しないで! 」
犬は僕をじっと見てから、ポリスとは反対の方向へ飛ぶように駆けて行った。僕も何か大きなものに背を押されるように後を追って走った。……
背後から聞こえる声や武器による轟音はやがて遠ざかり、そして僕らは以前に通った暗く狭い道をたどって行った。
これがあの少女へと続く長い旅のはじまりであるとは、その時の僕には知る由もなく、そしてその時から僕らは追われる身となったのだ。
「代償、そして告白」
近頃、ハルはずっと元気がなかった。
その日もハルは、床の上で足を全部投げ出して、横になって寝ていた。その横でウノは遠くを見つめていた。時々、ハルを見下ろしながら。
獣医さんにも連れて行ったけど、これといった病気も見つからず、ただ「あまり気を落とさないで……」と言われた。わたしは、ハルの後ろ姿を同じ目線で見つめられるように、足を投げ出して横になってみた。そんなわたしを変に思ったのか、ウノは近づいてきて、ハルにそうしていたのと同じように、わたしを見下ろした。
わたしは、ハルがどこかへ行ってしまうことに耐えられるだろうか……。
……だめだ、この感覚から抜け出さなくては。もう誰も助けてはくれないのだ。
ただ、わたしの心配はハルの健康についてだけではなかった。
テレビのニュースで、不法侵入者が他人の飼い犬を棒のようなもので打ち殺したり、犬の飼い主が散歩中の犬ともども襲われたりする事件が多発していると報道していた。実際、近所でもカタチをとどめないほど殴られて、無残に放置された犬の死骸を度々見た。
誰がなんのためにそんな惨いことをするのだろう……、と考えてみてもはじまらなかった。寄る辺がないのだから、自分達で自分達の身を守るしかなかった。
わたしは深呼吸をして、瞳を閉じた。
それまで意識して押し止めていた想いが、またゆっくりと静かにわたしを満たして行く。あふれる想いはやはりとても抑えきれない。
わたしはどうしたって君をあきらめられない。
君にそばにいてほしい。
「わたしは、君に逢いたい」
「わ、た、し、は、き、み、に、あ、い、た、い」
わたしは同じ言葉を繰り返す。
もうこれまでに何度も繰り返し、また繰り返してしまう。
そうしてわたしは、またいつものようにいつの間にか、お腹に重石を抱えたような鈍い痛みと共にどうしようもなく彼のことを考えてしまう。
この想いは、わたしの中にしばらく漂って、それでも結局はどこへも行くことができず、寂しさだけを残してわたしを通り過ぎて行くのに。
またいつものようにいつの間にか。
はじめて彼と出会ったのは、わたしが十三の時だ。
彼は、わたしが前に住んでいた家の近くの公園で絵を描いていた。確か部活を終えた後、学校からの帰り道だったと思うけど、いつも彼は公園で熱心に(今にして思えば? だけど)絵を描いていた。そんな彼を確認しながら、通学用の自転車で通り過ぎる毎日が一週間過ぎ二週間が過ぎようとしていたある日、まだ幼かったわたしは年上の男性に対して警戒心を抱くこともなく、あっさりと彼に声をかけた。
「いつも熱心ですね」
わたしの声に彼は振り向いた。
わたしは彼と目が合った瞬間を、今でも鮮明におぼえている。
わたしの人生はその瞬間に目まぐるしく動き出したのだ。まだちゃんとした恋も経験していない、一目惚れなどドラマや映画でしか観たことがなかったわたしの頭の中で、彼との間にこれからはじまる物語が一瞬にして、まるで過去の出来事がフラッシュバックするように、未来が次から次へと現れた。
彼は、わたしの物語だ。
わたしは彼と笑い、悲しみ、育み合って……、明るい時代も暗い時代も、いつでもわたし達は共にあるのだ。その時のわたしはどんな顔をしていたのだろう。多分、眼の焦点が定まっていなかったに違いない。そんなわたしをいぶかしんだのか、初対面の彼はわたしに当たり前のことを聞いた。
「君は? 」
彼は、わたしを見た。
わたしも、彼を見た。
それからわたしは、急に気恥ずかしくなって慌てて目をそむけたのをおぼえている。きっとその時が、異性への目覚めだったのだろうというくらいに。今でもその後になにを話したのか、ほとんどまったくと言ってよいほどおぼえていない。
ただ、その日から、わたしは彼と言葉を交わすようになった。
彼は当時高校生で、わたしも良く知っている近くの超進学校に通っていた。
彼は、進学校に入学してはみたものの、勉強に対する興味をまったく失ってしまっていたらしく(本人が言っていた)、海外の作家が書いた小説や、その時のわたしではどんなジャンルに当てはめて良いのか見当もつかないような本を読みふけり、そしてたまに気が向くと絵を描いていた。
彼は、わたし達が出会ったちょうどその頃、たまたま読んでいた本に絵心を刺激されたらしい。
ただおかしいのは、彼は公園でキャンパスに向かいながら、そこに広がる景色を描いていたわけでは決してなく、彼のイメージの中に存在するもの、わたしに言わせれば「わけの分からないもの」を忠実に描き出そうと躍起になっていたことだ。
彼の描き出す絵は、キャンパスの向こうにそびえる樹が案山子になっていたり、花畑から辛うじてそれと分かる小人達が顔をのぞかせたりしていたけれど、その全般的な特徴はとても平面的で、たとえば古代エジプトのなんとかの壁画のような絵だ、という風に評価できると思う。
わたしは、彼がはじめて披露する(そして、そのままお蔵入りするのだろう)絵を時には笑い転げながら、時には彼の主張する哲学的な意味を見出そうと、目を凝らしながらながめていた。
わたしを、描いてもらったこともあった。
わたしだけでは絵心を刺激されないと言われたので、ハルとウノも一緒に。結果この絵も見事に平面的で、キャンパスに描かれた誰かがわたしだということは勿論、ハルとウノが犬だということすらも見事に覆い隠した。
そんな毎日だった。
わたしは、友達にも両親にも、おばあちゃんにも彼のことをなにも打ち明けず、ただ彼との時間を大切に過ごしていた。みんなには近い将来、ごく自然に打ち明ける時が来るのだろうと思いながら。お父さん、お母さんは、そしておばあちゃんは娘に何かの変化を感じていたのだろうか。
そして、わたしは十五になり、はじめてキスというものをした。
勿論、相手はおかしな画家兼哲学者の彼だ。わたしは、わたしの中心につながる命の泉からまるで何かが絶え間なくわき出すように彼のことを好きで、その時二人は(少なくともわたしは)、ますます高まっていく「何か」を感じていた。
その日、わたしは彼と共に創り出していく何かのオーラのようなものにあてられながら、いつものように帰って行こうとする彼に、今日これだけは伝えておかなければと思う気持ちをメールした。
いつもの事だった。
彼は、わたしから見えなくなるまで自転車を押して、それから自転車に乗り、帰って行った。
いつものように。そして、わたしはメールの送信ボタンを押した。
それが、わたしの見た最後の幸福の記憶だった。
不幸の前兆は静けさを破り、突然に嫌な音を立てた。
おばあちゃんもわたしもテレビがあまり好きではなかったので、その夜も二人がテレビの前に集まることはなかった。
おばあちゃんは、海外から久しぶりに帰って来るお父さんとお母さんのために夕食の支度をしていて、わたしはわたしで哲学者がなかば強引に貸してくれたなんだかさっぱり意味の分からない難しい本と格闘していた。ハルはわたしのそばで寝ていて、ウノはおばあちゃんとわたしの間を行ったり来たりしている、そんないつもの風景だった。
その電話を受けたのは、おばあちゃんだった。
わたしは、ふと何か嫌な予感がして、おばあちゃんが誰かと交わす会話を聴いていた。
そしてすぐに、ただ事ではないことが起こったと確信した。
おばあちゃんは、時々相槌(あいづち)を打ちながらわたしに向かって振り返り、そして指示を出した。
わたしは言われるがまま、外着へ着替えるため二階に上がった。
おばあちゃんが電話でタクシーを呼ぶ声が聞きながら、わたしは急いで着替えて、ハルとウノをバリケンネルに入れた。
タクシーはすぐに家の前に横づけされ、わたし達は乗り込んだ。
おばあちゃんが運転手に告げたのは、家から一番近くにある大学病院だった。
おばあちゃんはタクシーの中で、お父さんとお母さんが空港から知人の家に預けていた車で帰宅する途中、交通事故に巻き込まれたらしいと話してくれた。それは、もう家からほんの数分の路上で起こったそうだ。
病院に到着して、夜間の受付に向かうと、わたし達は集中治療室に通された。
わたし達を先導する看護師も急いでいた。わたし達は、集中治療室に入室するための消毒と着替えを済ませ、ドアを開けてもらった。
看護師はわたし達にかいつまんで状況を説明してくれた。
お父さんの運転していた車は、急に飛び出してきた自転車を避けることができなかったのだと。お父さんもお母さんも強く身体を打っていて重体なのだということを。
そしてわたし達がお父さんとお母さんの前に立ったその時……、自分の身体がまるで石になってしまったかのように、身動きの取れないわたしを置き去りにして、お父さんの心拍計もお母さんの心拍計も、まるで二人の命が呼び合うかのようにアラームを発し始めたのだ。
ここから先は、目の前の風景がぐんにゃりと曲がってしまって、よくおぼえていない。ただ……お父さんの自動車と接触して生死の境を彷徨(さまよ)っている青年が、わたしの肉親から少し離れたベッドに寝ていた。これは、わたしの頭がそこに飛び交う会話をつなぎ合わせてしまった結果、分かってしまったことだ。
彼は、特に頭を強く打ってしまったのだそうだ。それに彼は、集中治療室に運び込まれてからも、しばらく携帯電話を手に握り締めていたらしい。
わたしは、そこで何かの幕を引くように気を失った。
目覚めたわたしは加害者の遺族として、その後どこかの病院に転院して行った彼について、「生きている」という以外に、なにも知らされることはなかった。
それからわたしは、一切の慰めの言葉を拒否した。
わたしに寄り添う言葉は一つもなかったから。語るべきこともなにもなかったし、見つからなかった。そうして今でもずっと、あの景色はわたしの胸に潜み、わたしの時は空白のままであり続けている。
「予感」
わたしは、久しぶりにハルとウノをトリミングしてもらうために、ペットショップに行った。
近頃、生活必需品を売るお店以外は特に長引く不況の影響や治安の悪さからだろう、一軒また一軒と閉店していき、ますますその数を減らしていた。わたしの通うペットショップのオーナー兼従業員のリリさんは、がんばってお店を続けていたけど、時々ニュースで伝えられる犬ばかりを狙った猟奇的な撲殺事件なんかの影響で、お店で扱う犬種も数もとても少なくなっていた。犬をそばに置いておくと危ないというわけだ。わたしが店の外から声をかけると、リリさんが中から頑丈そうなドアを開けてくれた。
「こんにちわ」
「あらっ、お久しぶりね。ハルちゃんとウノちゃんも元気にしていた? 」
「元気です」
ハルが最近病気がちなのは黙っておいた。
「今日は? 」
「トリミングをお願いします。ハルはいつもの感じで。ウノは前にやってもらったことのある、あの……」
「タテガミヘアね」
「そうそう、ウノも気に入っていたみたいだから」
「じゃあ、ウノちゃんからね」
そう言って、リリさんがトリミング台にウノを乗せようと手を差し伸べた瞬間、ハルとそしてウノまでが猛烈な勢いで吠え出したのだ。わたしはわけが分からず、ハルとウノに向かってしゃがみ込み、二匹を抱え込んだ。
「ハルもウノもどうしたの? いつもは、トリミングの時も大人しくしていられるでしょう? 」
わたしはあわててリリさんに失礼をお詫びしようとして振り返ると、そこにはリリさんのなぜだかわたしの背筋をゾッとさせる笑顔があった。
「いいのよ。じゃあ、あなたがウノちゃんを台に乗せてあげて」
わたしはハルとウノを目で言い聞かせ、ウノを抱き上げて台に乗せた。リリさんは台を調節して、ウノの首に太い紐をかけた。
トリミング台は、犬が立つ台の端から垂直に細い柱が伸びていて、その柱は途中から犬に向かって張り出すように曲がり、先端には輪になった紐が垂れ下がっている。トリミング中に犬が動かないようにする工夫なのだろうけど、なんだか首吊りの道具みたいでわたしはあまり好きではなかった。
リリさんはバリカンを取り出し、いつもとなんら変わる様子もなくウノの体毛を刈りはじめ、いつものように取りとめのない話しをした。やはり犬つながりの関係なので、話しは自然と例の犬の事件におよんだ。
リリさんは言った。
「犬もいい迷惑よね。これまでは大体において仲良く暮らして来たのに、人間の側の規範が変わったからって都合よくお払い箱、いや、もっとむごい目に合わされるなんて。そして犬もバカよね。これまでと同じように信頼してなつこうとするから、簡単に捕まって殺されちゃうんだよ。……このトリミング台だって、使いようによっては死刑台にもなるのに」
わたしは、リリさんに自分のあらぬ妄想を言い当てられたような気がして、曖昧に返事をした。
「おばあちゃんからマヤへの手紙」
おばあちゃんへ、どこからか手紙が届いた。
おばあちゃんは、その手紙を受け取ってからしばらくして寝たきりになり、二ヶ月経った。もう強いお薬を処方することもできず、手の施しようがないそうだ。看護師さんやわたしの呼びかけにもほとんど返事をすることがなくなった。おばあちゃんは、まだ元気な時から延命措置を希望していなくて、その事は文書にして担当のお医者さんに渡してあった。わたしは差し迫るその時を感じて一人震え、ただどうしようもなくおばあちゃんの手を握りながら、その顔をぼんやりとながめていた。
そうしていたある日、担当のお医者さんが病室に静かに入って来て、わたしに声をかけた。
「良枝さんから手紙を預かりました。残念ですが、良枝さんは今夜が山場だと思ってください」
お医者さんは、わたしにそう言って、二通の手紙を渡した。
わたしは、数ヶ月前におばあちゃんと紅葉を見ていた場所まで歩いて行き、同じベンチに座った。それから、すっかり葉を落とした樹々と、そこに舞い落ちてうっすらとかかる粉雪をどれだけながめただろうか……。
ゆっくりと、丁寧に手紙を開いた。
最初に開いた手紙には、おばあちゃんが亡くなった後のお葬式の手配とか、わたしが一人で生活していくために必要なことが書かれていた。おばあちゃんは施設に入る前もそうだったけど、わたしの生活の細かいところまで色々と考えて、不自由のないように取り計らってくれていた。今後は、この手紙に書かれていることを守って暮らして行けばよいのだということが分かったので、手紙をもと通り丁寧に折りたたみ、コートのポケットにしまった。
そして、二通目の手紙を開いた。
二通目の手紙は、その書き出しから、明らかに一通目の手紙と趣の違う内容だった。
「マヤへ
おばあちゃんから、あなたに手紙を書くのも、これが最後になると思います。まず、おばあちゃんは、あなたに謝らなければなりません。それは、あなたのお父さんとお母さんが不幸な事故で亡くなったのは、おばあちゃんのせいかもしれないからです。
おばあちゃんは、あの当時、あなたに誰か好きな人でもできたんじゃないかと、お母さんに電話で相談していました。そしてどうやら、やっぱりそうらしいと、お父さんとお母さんが帰国する二週間位前に電話で話しをしました。そうしたら、どうもお父さんが心穏やかでなくなってしまったらしく、異国の地でうわの空になったり、急に怒り出してみたり、お母さんを問いつめてみたり、それは大変だったそうです。そばにいなかったから、余計に心配だったのでしょう。ただ、おばあちゃんとお母さんは、あなたを信じて、本人が何か言って来るまでは、様子を見ながら知らぬふりをしていましょう、と話していました。
そして、帰国して当日のあの事故です。
普段、あまり車の運転をしないお父さんでしたが、その分いつもゆっくりと安全運転でしたよね。あれは、飛び出してきた自転車を避けようとして、ガードレールに衝突した事故でしたが、やはり随分とスピードを出していたとも聞きました。お父さんはよほど急いで家に帰り、あなたの顔を見たかったのでしょう。
起こってしまったことに対して、おばあちゃんはあなたに謝るすべもありませんが、この話しを空の上のどこにも持っていくことができないので、最後に謝らせてください。
ごめんね、マヤ。
そして、どうぞ幸せになってください。
追伸、あなたに沢山の本を貸してくれた彼は、お元気ですか。
普段あまり本を読まなかったあなたが、何か難しそうな本に向かっているのを見て、微笑ましく思っていました。ご縁がなかったのであればしようがないけれど、いつでもおばあちゃんは、あなたとあなたが出会う人の幸せを心から願っています。
おばあちゃんより」
わたしの心は、この手紙により、完全に行き場を失ってしまった。
わたしの大好きなおばあちゃん、お父さん、お母さん、わたしの家族は皆、わたしのことを思ってくれていた。そして、大好きな彼……。
それはなにも変わらなかった。
誰も悪くない、そんな人は誰一人としていない。……ただ、皆わたしのもとからいなくなってしまう。最後に残るのは、この事実だけだ。そして、もう一つの事実として、わたしは自分の心の闇、わたしだけが知り秘密にしてきた私的な事件を告白する相手が、もう誰もいなくなってしまうということだ。この心の痛みはわたしを確実にむしばんできたし、これからもむしばみ続けて行くだろう。わたしは、最後の救いの手を失いつつあって、そして事件は、わたしの心をゆっくりとした死へと追いやるのだ。
そしておばあちゃんは、今年はじめて本格的に雪が降り積もったその夜、天国へ召された。
静かな死で、その顔も穏やかだった。
わたしは最後の家族が亡くなり、灰となって、わたしから離れて行くのをぼんやりと見ていた。
言葉とわたしの気持は、どうしてこんなにも隔たってしまうのだろう、あぁ……わたしは悲しいんだ、これが悲しいということなんだ。すべての支えを失ったわたしは、寄りかかることではじめて感じられる気持ちを、きちんと感じられずにいた。わたしがおばあちゃんのお骨と共に火葬場から戻ると、バリケンネルに入れていたハルとウノは、わたしを出迎えてくれた。
……ありがとう。ハルとウノも確かにわたしのかけがえのない家族なんだ、そうだよね。
「彼女達が掲げる旗」
「わたし達には、二人の主がいる。
二人の主は、もともと一つの魂であったけど、運命は二人を遠くへ引き離した。
そして、一人の主はまだ戻って来ない。
きっと、帰る道に迷っているのだ。
もう一人の主は、かたわれを長い間ずっと待ち続けているのに。
わたし達は、いつも優しさに満ちた主のかたわらにあり、喜びや哀しみ、楽しみ、そんな沢山の感情を共にして来た。
さあ、今こそ主を助ける時が来たのだ。
わたし達は、勇気の旗を掲げて定められた道を行こう。
主を悲しみの淵へ落としてはいけない。
わたし達は、もう一人の主を迎えに行こう。
その主は、再び魂を一つにするために、きっと必ず帰路についているはずだから。
希望をもとう。
ただ、この希望の結末が、わたし達をどこへ運んで行くかは、聞かされていない。
それは、悲しい結末であるかもしれないし、惨めな結末であるかもしれない。
でも希望をもとう。
わたし達は、二人の主をただ信じよう。
主達は、わたし達の結末に、名前をつけてくれるはずだ。
さあ、迷いや恐れを捨てて、ただ行こう。
ハル&ウノ」
テレビでは、悲惨なニュースが続いた。
もう何年も続く不況や、政府が極端に小さくなった影響で、巷には失業者があふれ、交番からお巡りさんが消え、それに伴って各地でテロや暴動が頻発し、デモが行われ、窃盗、殺人、レイプなどの犯罪件数は、政府でその件数を正確に把握することができないほどに増加し、そして日常的に起こっていた。このような治安の悪化は止まらず、止まる気配すらなかった。さらに東北と東海地方で起こった大型地震も、人々のモラルの崩壊に拍車をかけた。
世界は、もう終わってしまうのだろうか。
多分、皆がそう思い、ますます気持ちを荒ませていただろう、そんなある夜に事件は起こった。
おばあちゃんの四十九日も終わり、しばらく経ったその日、ハルはまた体調を崩していて、ウノと一緒にバリケンネルに寝かせていた。ハルにお薬を飲ませなきゃと思いながら、わたしはうたた寝をしてしまったのだろう、突然、ハルが何かに憑かれたように吠えたので、わたしはハッとして目を覚ました。
うたた寝から目覚めたばかりの朦朧(もうろう)とした意識の中で、そんな事を滅多にしないハルがわたしの頬を舐め、それから玄関のドアの向こうへ消えていくのを見た。
ハルは、玄関のドアを、まるでそんな物が目の前に存在しないかのように、いとも簡単に通り抜けて行った。それは勿論わたしの目の錯覚だと思い、ハルとウノを一緒に入れたバリケンネルを見たら、ウノだけが網目のドアの向こうに立ち、こちらを見ていた。確かにドアは閉まっていて、バリケンネルの内側からは開けることができないはずだし、現にウノはバリケンネルの中にいた。
ただ、今はどうしてハルが部屋の外に出られたのかについて、あれこれ考えている時間はなかった。
この時間に外に出たら無事ではすまないかもしれない。
わたしは急いで外着に着替え、ウノをバリケンネルから出して首輪をはめ、散歩用のリードをつけた。
「ウノ、分かっていると思うけど、ハルがいなくなったの。この時間に、外に出ると、とても危ないの。ウノも一緒にハルを捜して、ねっ!」
わたしの言葉がウノにきちんと伝わったか知る由もないが、ウノは「ワンッ! 」と吠えて、わたしに先立って歩き出した。わたし達は、やはりきちんとカギをかけてあった玄関のドアを開け、外へ出た。……
わたしはどこをどう捜せばよいか分からず、ただ足早に歩いていると、ウノがハルの匂いを嗅ぎとったのか、左へ右へとわたしを導き、わたしはそれにつき従った。十分くらい、歩いただろうか。
突然、大きな声が聞こえた。
「犬だ、犬が出たぞ! 」
「捕まえろ! 」
「追い込んで、殺せ! 」
わたしは、方々から聞こえる声に身の毛がよだつのを感じて、足がすくみ、思わず立ち止まってしまった。ウノは立ち止まったわたしをじっと見ていた。だめ……ここで立ち止まってはいけない、わたしはわたしの大切なものを守るんだ。わたしは、リードを引っ張るウノに従い、少しずつ歩調を速め、ハルに向かって進んでいった。
しばらく走ると呼吸が乱れ、いつしかリードを手放してしまった。ウノは遠くを走り、時々振り向いては、わたしを導いた。次第に暴徒の声が近くに聞こえ、皮肉にもハルのいる場所を教えてくれた。
その時だ。
まるで……とんでもなく大きなガラスの水差しが、突然割れて粉々に砕け散るように、ハルの絶叫はどこかからやって来て、辺り一帯を覆い尽くし、しばらくその余韻が雲でまだらな色をした夜を埋め尽くした。
その余韻ははっきりと、彼女の命の終わりを告げた。
ウノは、止まった。……
そして、また走り出し、右折した。その先は確か空地で、わたしはもつれる足で追いかけると、ウノが再び立ち止まっていて、ただ一点を見つめ、あらん限りの叫びを尽くして何かに向かって吠えていた。わたしは息を整えながら、ウノの吠える方向を目で追った。
「悲劇の後に福音はあるか」
わたしは、たった三十メートルほど離れた先で行われていることを、すぐには正確に理解できなかった。理解するのを心が拒否していた。
その空地の一角に続々と暴徒が集まり、煌々(こうこう)とした火のもとで、もうすでに死んでしまっているはずのハルをさらに棒で殴り、蹴り飛ばし、ブロックの壁にぶつけて……、何かの遊びに夢中になるように寄ってたかって、わたしのかけがえのない命を踏みにじっていた。
ウノは声の限りに吠え続けた。
わたしはとっさに、唸り、そして吠え続けるウノの口を押さえようとした。
ウノはそれより速く、暴徒の群れに向かって走り、ハルの亡骸を高々と持ち上げては振り回し、息絶えた肉の細い首と後足をつかんで今まさに引きちぎらんとする男に突進し、身体ごと男の腹に飛び込んだ。男は前のめりに屈み込み、ハルをドサリと落とした。ウノはハルに寄り添い、そこで大きく遠吠えした。きっとその遠吠えは、ウノの大きな悲しみと怒りを含み、そして誰かに助けを求めて、どこまでも遠くへ木霊したはずだ。
「あなた方は、わたし達になんの恨みがあるのか。なぜ、こんな事をするのか。もう止めてくれないか。わたし達はずっと仲良くやって来たではないか。賢明なる人はどこへ行ったのだ」
皮肉にも、そんな悲痛な叫びは暴徒達をさらなる狂気へと誘い、暴徒達は凶器を手にウノに迫った。
一人、また一人とウノを手にかけようと狙いを定め、凶器を振りおろしていった。
暴徒達の中にはあの……あの……リリさんの姿もあった。
ウノはそれを巧みにかわしていたけど、ハルから遠く離れることを頑なに拒絶していたので、このままではいつ暴徒達の凶器に倒れてもおかしくなかった。
わたしは気がつけば、声を限りに叫んでいた。
わたしの自分でも信じられないくらいの大きな声に、暴徒はその動きを止めた。
そして……、わたしに向かい振り返った彼らのおぞましい顔は……、わたしを震わせ、その場から一歩も動けなくしてしまった。
彼らの目は、もう正常な人間のものではなかった。
それは何かにとり憑かれたような、操られているような、群衆が発する狂気に抗うこともできずに自ら進んで取り込まれてしまったような、そんな熱狂した多数が内と外に境界を引き、外に対しては一片の容赦もない、そんな目と振る舞いをしていた。
「女だ」
「女だよ」
ウノに襲いかかっていた男達の一部は、わたしに興味を移し、ゆっくりと近づいて来た。わたしは正気を振りしぼって周囲を見回し、何か武器になりそうなものを探した。
暴徒達は、もうそこまで近づいて来ていた。
わたしには為す術もなかった。でも、それでも、ハルとウノを置いてここから逃げるのだけは嫌だ。もう目の前に迫った暴徒達に、わたしは固く目を瞑(つぶ)るしかなかった。
わたしは、強い力で両腕をつかまれた。そして、わたしの右腕をつかむ暴徒が言った。
「お前があいつを殺せ。そうしたら許してやる」
わたしの左腕をつかんでいたのは、リリさんだった。リリさんは、わたしに顔を寄せて、囁くように言った。
「たった一人罵(ののし)られ、弄(なぶ)られ、棄てられる黒ヒツジになりたいの? わたしもあなたを、そうはしたくないのよ」
そして複数の暴徒が、わたしをウノの前に引きずり出して、鉄の棒を無理やり手に握らせた。
わたしはウノを見た。
ウノは倒れたハルのかたわらであきらかな傷を負い、フラフラしながら、それでも必死に立ち続けてハルを守ろうとしていた。
「やれ」
「やれよ」
「やるんだ」
「やらないと殺すぞ」
「たかが犬のために死にたいか? 」
わたしは、わたしを取り囲む全方位から罵声を浴び、背後にいた暴徒の一人に蹴りつけられて前のめりに倒れた。……怖い、なぜこんな事が起こっているのだろう。わたしが一体なにをしたっていうの? わたしは手をつき、起き上がろうとした目線の先にウノがいて、わたしをいつものようにジッと見ていた。
……ウノ、ごめんね。わたし怖い。心が底冷えするほど怖いの。許して……。
わたしは、よろめきながら立ちあがり、鉄の棒を振り上げ、ウノに向かって歩き出した。暴徒達の狂気の歓声は、ますます熱を帯びて、彼らを運んで行った。
ウノは、動かなかった。
……そしてわたしは、わたしは……この狂気に抗(あらが)う力もないから、あなた達を守ってあげることもできない。
ハルはなぶり殺されてしまった。
ウノ、身体が痛いでしょうに……。
でもあなたの傷を治してあげることもできない。
……わたしは、あなた達と一緒に死んで行くことしかできない。
……ごめんね。ただ、せめて……最後の時まで一緒にいようよ。
そして、わたしは狂気に向かって思い切り棒を投げつけ、ウノを抱き、ハルを抱きしめた。
一瞬、沈黙が走った。
その後、ゆっくりと、とてもゆっくりと動き出した暴徒達はわたしをハルとウノから引き剥がし、わたしは少し離れた場所へと引きずられ、放り出された。それぞれを別々に処理しようと思ったのだろう。
わたしは、ハルとウノと共に死んで行くこともできないのだ……。
わたしを形づくる心や命のたがが完全に外れかけた、その時だ。
風が吹いた。
わたしは、不意にわたしの視界に現れ、わたしに覆いかぶさろうとする男に頭を強く殴られて地面に倒れ込んだ。そして……パチン、スイッチオフ。すべての光が奪われ、暗闇が私を包んだ。
Y20X2 君の瞳の中の『 』 〔第一部〕「言葉が現れる時」
「インスピレーション」
言葉を現わすためには、とても大きなエネルギーが必要だ。
時には具体的な、また時には漠然とした何か、サムシングに対して向けられるエネルギーが臨界にまで達すると、言葉は現れる。
ただ、世界はマヤに言葉を現わさなかった。
彼女の待ち続けた哲学者も彼女の前にその姿を現わすことができず、彼女や彼女の飼い犬であるハルとウノを直接、救うことができなかった。
言葉を現わすはずだった哲学者とその彼を支える世界のエネルギーが、まだ十分ではなかったのだ。
彼女の物語は、冒頭で示したある幸福な結末から軌道が大きく逸れてしまった。
軌道は、修正されなければならない。ただし、まったく同じ現実はもう戻らない、新たな現実を注意ぶかく構成しなおすしかない。……それでも、命を賭して主に仕えたほんの小さく健気な犬達、ハルとウノの物語は時間と空間を超えたこのパラレルワールドに届けられた。たとえばそれは、インスピレーションという形で、誰かを導くことになったのだ。
「陪審員のみなさん。この世の中では親友さえあなたを裏切り、敵となることがある。愛情こめて育てた息子や娘も、深い親の恩をすっかり忘れてしまうかもしれない。あなたが心から信頼している、もっとも身近な愛する人もその忠節を翻すかもしれない。富はいつか失われるかもしれない。もっとも必要とするときにあなたの手にあるとはかぎらない。名声はたったひとつの思慮に欠けた行為によって、瞬時に地に堕ちてしまうこともある。成功に輝いているときにはひざまずいて敬ってくれた者が、失敗の暗雲があなたの頭上を翳らせた途端に豹変し、悪意の石つぶてを投げつけるかもしれない。こんな利己的な世の中で、けっして裏切らない、恩知らずでも不誠実でもない、絶対不変の唯一の友はあなたの犬だ。
あなたの犬は富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも、つねにあなたを助ける。冷たい風が吹きつけ、雪が激しく降るときも、主人のそばなら冷たい土の上で眠るだろう。与えるべき食物が何ひとつなくても、手を差しのべればキスしてくれ、世間の荒波に揉まれた傷や痛手を優しく舐めてくれるだろう。犬は貧しい民の眠りを、まるで王子の眠りのごとく守ってくれる。
友がひとりの残らずあなたを見捨て立ち去っても、犬は見捨てはしない。富を失い、名誉が地に墜ちても、犬はあたかも日々天空を旅する太陽のごとく、変わることなくあなたを愛する。たとえ運命の力で友も住む家もない地の果てへ追いやられても、忠実な犬はともにあること以外何も望まず、あなたを危険から守り、敵と戦う。すべての終わりがきて、死があなたを抱き取り、骸が冷たい土の下に葬られるとき、人々が立ち去った墓の傍らには、前足の間に頭を垂れた気高い犬がいる。その目は悲しみに曇りながらも、油断なくあたりを見まわし、死者に対してさえも忠実さと真実に満ちている。」
ジョージ・グレアム・ベストによるスピーチ
「新たな旅のはじまり」
言葉はその真偽がどうであれ、時代を、そして世界を反映して現れるものだ。
僕がハルとトランクルームを脱出してからすぐに、管理人は住人のうち選ばれた何人かを管理人の部屋に集めて、こう告げた。
「犬と共にトランクルームから逃げ出したあの住人を捕まえるのです。皆さんも目の当たりにしたでしょう、彼は公然とトランクルームの「規範」を破り、外れていった。彼は危険人物です。彼は多分、あの犬と№2012から外へと続く道をたどったのでしょう。皆さんは彼を追いかけ、捕まえるのです。そして必ず私のもとに連れて来てください。彼には、すべての住人の前で審判を受けてもらわなくてはなりません。それでは、ただちにこの仕事に取りかかってください」
管理人の部屋へ集まった住人は、肯いて部屋から出ていった。管理人は出ていく住人を無表情に見送ってから、これまでに何度も繰り返し読み返し、諳(そら)んじた言葉をとても小さな声で唱え始めた。
「少数の人間が人類の大多数を支配したり意のままに動かしたりしたいと考えるときには、ある重要な仕組みが必要となる。操作しようとする相手が個人でも家族でも、民族、町、国家、大陸、あるいは惑星全体であろうとも、同じことだ。
まず必要なのは、正と邪、可能と不可能、正気と狂気、善と悪とを分ける「規範」を定めることである。ほとんどの人間は、少なくとも数千年にわたって人類に広く染みこんだ「群れに従う」という群衆心理のため、疑いもせずそれに従うだろう。次に与えられた「規範」に逆らう者にきわめて惨めな生活を送らせる必要がある。最も効果的なのは、他人と異なることを事実上、罪悪と感じさせることである。そうすれば与えられた「真実」と違うものの見方や考え方、生き方をする者は、ヒツジの群れに迷い込んだ一頭の黒ヒツジのように目立ってしまう。すでにその規範を現実として受け入れるよう条件づけされた無知で傲慢な群れは、異なる生き方をする人間を笑いものにしたり非難したりする。この圧力が彼らを同調させるとともに、群れから離れようとする者への警告となる。日本のことわざに「出る杭は打たれる」という言葉があるとおりだ。
これにより、少数支配に必須の、大衆による自己管理と協調に必要な状況が整う。選ばれた「黒いヒツジ」は、その他の「ヒツジ大衆」にとって牧羊犬のような存在となる。逃亡しようとした囚人を周りの囚人たちが押しとどめようとするのに似ている。囚人たちはなぜそんな、とても正気とは思えないことをするのだろうか? だが人間は、自分が何の疑問もなく従っている規範に他のすべての人間を従わせようとして、日々、まさにこれと同じことを互いに行っている。これは心理的なファシズムにほかならず、あらゆる家庭、あらゆる場所に思想警察の工作員が配されているようなものだ。この工作員たちは非常によく条件づけされていて、自分たちが無償の意識操作者であるという意識すら持っていない。「我が子にとって正しいことをやっているだけ」だと彼らは言う。しかし、そうではない。彼らは支配者にとって「正しい」ことを信じ、また、自分がさも物事をわかっているかのように思いこむようプログラムされているのだ。」
デーヴィット・アイク著 安江絹江訳「竜であり蛇であるわれらが神々」
僕らの物語は、結局まだ始まったばかりであり、それは新たな物語へと続いていく。