吸血鬼、初詣に行く

 隣の棺桶で眠りについていた少女がいきなり半身を起こした。
「フユキくん、今日は正月よ。初詣に行こう!」
 少女の棺桶よりも一回り大きな棺桶で横になっていた青年、フユキに、少女コトヤマは期待に満ちた目を向ける。
 寝惚けた脳みそでコトヤマが言った言葉の意味を考えながら、青年はのっそりと体を起こした。
 髪を短く刈りあげ、いかつい雰囲気をまとったその青年は、少女の言葉の意味を理解した瞬間、顔を引きつらせた。
「そんな事したら死ぬじゃないすか……」
「え?」
 呆れ顔で言うフユキに、コトヤマは間の抜けた表情で応えた。何を言っているのか分からないといった顔つきだ。
「だって、俺達、吸血鬼だろ? 初詣に行くって事は神社に行くって事だよな? 神社と言えば、神仏に縁のある物の宝庫じゃないすか。吸血鬼の弱点が至る所にある場所でしょう? つーか、そもそも神社の敷地自体が聖域なんだから近寄れねえだろ!」
 フユキは身振り手振りを交えながら、神社の危険性を説明する。しかし、コトヤマは分数が理解できない子供のように、きょとんとした顔で黙っている。
 彼女の方がフユキよりも早く吸血鬼になった。吸血鬼として遥かに長く生きている。神社の危険性はフユキよりも熟知しているはずだ。それなのに何故、こんな顔をしているのか。フユキは苛立ちながら説明を続ける。
「あのねぇ、想像を働かせてください。十字架だけが吸血鬼の弱点じゃないって教えてくれたのはあんただ。神社なんかに行ったら体が弱っちまいます。死にはしないまでも、身動き取れなくなることは確実だ。身動き取れなくなって倒れちまったらどうなります? 周りにうじゃうじゃいる人間どもが何事かと寄ってきますよね? 俺達の体に触ってくるかもしれない。俺達の体は冷たいよな? 一発で人間じゃないと分かるよな? そしたらどうなる? 吸血鬼だって気づかれるかもしれない。あんたが一番恐れていることだろ?」
「心配いらないわフユキくん。あんた勘違いしてる」
 少女はにっこりと得意げな笑みを見せた。フユキは眉根を寄せ、怪訝な目をコトヤマに向ける。
「実はね、私達が今から行くところは普通の神社じゃないの。吸血鬼でも大丈夫な神社なの。体には何の影響もないから安心なのよ」
 自慢げに言うコトヤマに対して、フユキは不機嫌そうな表情を崩さない。
 そんな都合のいい神社が存在するなんて信じられない。だいたい、そんな神社があるならあると何故さっさと言わないのか。初詣の危険性について深刻に語っていた自分が馬鹿みたいではないか。
「ていうか、普通の神社に行こうなんて私が提案するわけないじゃん。危険すぎるわよ。フユキくんってば、何考えてんのよ」
 そんなフユキの心中など気付きもせずに、彼女はおかしそうに噴出しながらこんな事を言う。
 フユキは顔をしかめて小さく舌打ちした。文句を言いたくなったが、コトヤマの目が初詣への期待と興奮に輝いていたのでやめた。
 この状態のコトヤマには何を言っても無駄だ。言ったとしても受け流されるか、無視されるかのどちらかだろう。マイペースというか、会話が噛み合わないというか、コミュニケーション下手なところが彼女にはある。
 だから、文句は腹の底に押し込め、一番気になる事を聞くことにした。
「そんな都合のいい神社、あるんすか?」
「あるわ。近くの山の中にね。5年前かしら。あんたがまだ人間だった頃に見つけたの。その神社を見つけてから、私、毎年その神社に初詣に行ってるのよ」
「毎年行ってるなら、どうして今日になって突然、初詣に行こうと言い出すんだよ」
「もっと前々から言っておけってこと?」
 フユキは渋い顔で頷いた。夜起きて、いきなり訳の分からない提案をされるこちらの身にもなれと思った。
「そりゃもちろんサプライズよ。フユキくんをびっくりさせたかったってわけ」
 胸を張って自慢げに言い放つコトヤマに、フユキはがっくりと肩を落とす。
「で……、どんな神社なんです? その神社、なんで俺達でも平気なんだよ」
「それは行ってからのお楽しみ!」
 そう言って、コトヤマは半身を起こした姿勢のまま、両手で棺桶の底をトンと突いた。力を入れているようには全く見えないのに、少女の体は元の姿勢を維持したままふわりと持ち上がり、棺桶のそばに見事に着地する。吸血鬼の怪力のなせる技だ。
「初詣は私にとって一年に一回の楽しみ。だからとっても楽しみなのよ!」
 飛び跳ねて喜ぶ。そんなコトヤマをフユキは白々とした目で見つめていた。
「あんたなんでそんなに冷めてんの?」
 すかさず、コトヤマはフユキに獣のような鋭い視線を送り、フユキはたじろいだ。無邪気な少女のように見えても、コトヤマはフユキよりも遥かに多くの人間を殺してきた吸血鬼なのだ。
「別に……、冷めてはいないっすよ。ただ、どんな神社なのかさっぱり想像がつかなくて、あんたみたいに興奮のしようがないってだけです」
「ふーん。そう。でもさあ、ワクワクしない? 吸血鬼でも平気で行けちゃう神社なのよ?」
「だから、想像できないって言ってるだろ。……人の話聞いてんのか?」
「私は『想像してみたらワクワクしない?』って言ってるの。想像を働かせなさいよ」
「別にワクワクはしないけど……」
「その神社に行けば、吸血鬼の私達でも、人間みたいに初詣ができちゃうのよ? ワクワクするでしょ? するよね?」
 何故か、すがるようにコトヤマは言ってきた。同意して欲しそうに、フユキの目を見つめている。
 面倒なのでコトヤマに共感してやろうかとフユキは少しだけ迷ったが、嘘を吐いてまでコトヤマに合わせることも癪なので、正直に言う事にした。
「別に、初詣に興味があるわけでもないしな。申し訳ないけど、ワクワクはしないっすね」
 フユキの言葉を聞いた途端、コトヤマの目に影が差し、明らかに表情が暗くなった。先ほどの目の輝きと興奮は見る影もない。
「そう……、それは残念ね……」
 晴れた夏の日、突然夕立に見舞われるように、コトヤマの機嫌ががらりと変化する事はよくある。だから、もう慣れている。いちいち気にしていたら切りが無い。
 悲しげに目を伏せているコトヤマに、フユキは言った。
「まあ、とにかく連れてってくださいよ。初詣には興味は湧かないけど、『吸血鬼でも行ける神社』には興味あります。そんな神社があるなんて信じられねーから」
「そうね……。じゃあ、夜の吸血を済ましたら、すぐに出発しましょうか」
 コトヤマはそう言って、吸血用の人間を捕らえている部屋へと向かった。表情は暗いままだ。
 フユキはコトヤマの落ち込んだ背中を眺めながら舌打ちをした。情緒不安定なコトヤマのこと、どうせ、十分後には元の機嫌に戻っている。
 コトヤマが部屋を出た後、フユキも棺桶の底を両手で突いた。座ったままの姿勢で跳躍して棺桶から飛び出し、吸血用の人間を監禁してある部屋へと向かった。



 フユキとコトヤマは、とある地方都市の外れにある民家に潜伏していた。
 二階建ての住居で、元々は身寄りのない惚けた老人が一人で住んでいた場所だ。
 元の住人はすでにフユキとコトヤマに吸血されて死んでおり、死体も丁寧に処理され、誰にも見つかる事のない場所に埋められている。
 コトヤマがこの民家に潜伏する事を決めた理由は二つある。一つは、自分達以外の吸血鬼が街にいないか調査する拠点として、丁度良い位置にあった事。もう一つは、住人が人間関係の希薄な独居老人だった事だ。
 人間関係が希薄な人間ほど、吸血して殺しても騒ぎにはなりにくいので、独居老人やホームレス、一人暮らしをしているニートなどは、吸血鬼にとって格好の獲物になる。ある日突然いなくなったとしても、気にかける人間が少ない人間ほど、吸血鬼の餌食になり易いと言える。
 もしも人間関係豊かな人間を殺してしまうと、どれだけ静かに消したとしても、どこかで必ず騒ぎが起こる。その人間が消えた事について、誰かが必ず不審に思い、噂をする。噂と噂が結びつき、憶測が憶測を加速させ、やがては事態をもみ消す事すら困難な騒ぎになる。その結果、いつかどこで誰かが犯人の正体に気付いてしまうかもしれない。
 人間関係の希薄な人間なら、殺してもそういった事態にはなりにくい。だから、吸血のターゲットは慎重に選ぶべきなのだ。
 コトヤマは、吸血鬼が存在するという事実が人間達に広まる事を異様に恐れている。
 吸血鬼は十字架はもちろん、神社のお守りや御札にも弱く、それらを見せられるだけで卒倒し、動けなくなる。コトヤマ曰く、吸血鬼の実在が常識化してしまえば、人間達は皆、十字架やお守りなどで武装するようになり、吸血用の人間を誘拐することすら困難になるという。
 十字架を向けられ、動けなくなった吸血鬼をそのまま見逃してくれるような人間はいない、とコトヤマは断言する。体を調べられ、吸血鬼という正体を見抜かれるに違いない。正体を見抜かれたら最後、間違いなく、何かしらの報復を受けることになる。何せ、吸血鬼は人間から吸血することでしか生きていけない、人間の天敵なのだから。仲良く共存という生温い結末はあり得ないのだ。
 「私達の最大の武器は怪力でも吸血による暗示でもないわ。『吸血鬼なんて存在しない』という常識こそが最強の武器なの。常識が私達を守ってくれているの。だから、人間達に吸血鬼がいると思わせちゃダメ!」と、コトヤマはよく口を酸っぱくして言う。
 フユキはコトヤマが言う理屈を頭では理解できていたが、心の奥底ではピンときていない。
 いったいどれだけの人間が吸血鬼の存在に気付くと、吸血鬼の実在が常識化するのか、イメージがつかないからだ。もしも少数の人間に気づかれたとしても、そこまで大きな影響はないように思う。『吸血鬼なんていない』という常識が崩れ、『吸血鬼がいる』という常識が成立する世界など、想像がつかない。
 ただ、かといって、コトヤマの言う事に反抗する気は微塵もない。
 フユキは3か月前、交通事故に遭って死にかけていた時、コトヤマの血を流しこまれて吸血鬼になった。対して、コトヤマが吸血鬼になったのは、もう30年も前のことだ。
 フユキが吸血鬼として生まれ変わった夜からずっと、コトヤマはフユキの先生として、様々なことを教えてくれた。
 情緒不安定な性格を疎ましく思う事もあるが、自分の命を救い、導いてくれたコトヤマに、フユキは恩を感じ、信頼している。コトヤマの言う事を聞いていれば、安全に生きていけるだろうという安心感があった。


「フユキくん。400mlしか飲んじゃダメよ? いっぱい飲んだらすぐに死んじゃって、次から次へといっぱい人間を捕まえないといけなくなるわ」
 体温のないフユキの冷たい口内に流れ込む温かな血液。その血液が鉄のような味と共に喉を通過すると、体中に温かさが広がっていく。体の奥底から、活力と純粋な力が湧き出てくるのを感じる。
 カーテンを閉め切った和室の真ん中に、やつれ果てた男が横になっている。つい二日前まで、街の中心にある公園で生活していたホームレスだ。フユキはその男のそばで膝をつき、首筋に牙を突き立て、血をすすっている。
 ホームレスが何の抵抗も見せない理由は、抵抗するだけの体力がないというだけではない。二日前、コトヤマに初めて吸血された後、『抵抗するな』という暗示をかけられたからだ。吸血鬼にかけられた暗示を、人間は絶対に破る事はできない。
「フユキくん。いっぱい飲んだらぶん殴るからね?」
 チェックのパジャマ姿のまま、フユキのそばに立っているコトヤマは、固く握りしめた拳をフユキに見せ、警告した。
 しかし、フユキはコトヤマの警告をあまり気にしたようではなく、一心不乱に血をすすっていた。コトヤマの言葉が聞こえなくなるほど、吸血に夢中になっていた。
 3ヶ月前の夜、フユキは初めて血を飲んだ。吸血する直前までは、生きるためとはいえ人間を殺してもいいのかという葛藤に悩まされていた。人間の生活に二度と戻れないことに対する嘆きもあった。
 しかし、そんな葛藤も嘆きも、吸血という行為を繰り返すにつれて薄れていった。
 フユキはあまりの美味さに身を震わせた。何度味わっても飽きない吸血の素晴らしさ。この味を知ったからには、もう人間には戻れない。
「フユキくん!」
 コトヤマは叫び、鬼の形相でフユキを睨んだ。フユキは夢から覚めたようにびくりと体を震わせ、反射的に男の首筋から口を離した。
 コトヤマの顔をそっと窺う。明らかに怒っている。獣のような眼光と、恐るべき怪力で握り締められた拳に圧倒され、フユキはたじろいだ。
 コトヤマは30年前、12歳の秋に吸血鬼になった。だから彼女の体は今も12歳のままで、17歳で大柄なフユキよりも遥かに小柄だ。スポーツが似合いそうな短い髪に、幼い顔立ち、そしてチェックのパジャマ。どこから見てもただの子供にしか見えない。
 しかし、フユキはそんなコトヤマの怒りに震えている。長生きすればするほど吸血鬼はその怪力を増していく。30年間吸血鬼として生きたコトヤマは、3か月のフユキよりも遥かに格上なのだ。
「あんた、また400ml以上飲んだんじゃないでしょうね?」
「の、飲んでねーよ……」
「ホントかしら。嘘はいつかばれるものよ? 今、白状したら半殺しで勘弁してあげるわ。後で嘘だと分かった時は――――」
 コトヤマは固く握り締めた拳をフユキに見せつける。
「四分の三殺しよ」
 フユキは唾を飲み込む。
 コトヤマの鉄拳制裁はこれまでに何度か味わった事がある。殴られるというより、爆破されるような感じだった。殴られた場所で爆弾が破裂したような、猛烈な痛みが走ったのだ。
 実際、コトヤマに殴られると肉が弾け飛び、骨が木っ端微塵に粉砕される。傷自体は吸血すれば治るのだが、あの痛みだけは忘れられない。コトヤマを怒らせるのは絶対にまずい。
「の、飲んでないって言ってるだろ! 嘘なんかついてねーよ!」
 400ml以上は飲んでいないはずだ。恐らく。フユキは自分に言い聞かせる。
 コトヤマは不機嫌そうに鼻を鳴らし、拳を下げた。その瞬間、フユキの緊張の糸は切れ、大きく息を吐いた。
 ホームレスの首筋にコトヤマの牙が刺さる。コトヤマは溢れてきた血を大事そうにゆっくりと飲んだ。フユキのような高揚感は感じておらず、淡々としている。
「それじゃ、初詣に行きましょうか」
「……コトヤマさんは、血が好きじゃないのか?」
 コトヤマの淡々とした吸血を見て、ふと感じた疑問をもらす。コトヤマは不機嫌そうな目をフユキに向ける。
「私だってあんたみたいに吸血に夢中になった時期はある。でも、いくら美味しくても、その内飽きるわ」
 フユキは意外に思った。これほど美味いのに飽きるなんて、信じられない。
「あんただって今が花よ。あと半年も経てば、血を飲んでも何も感じなくなる。もう半年経てば、毎日同じ味の飲み物を飲む事に、うんざりしてくるはずよ」
「マジかよ……」
 呆然とした様子でフユキが言ったその時、ホームレスは小さく呻き、絶命した。
 二人の吸血鬼は唖然とする。
 正しく400mlずつ吸血していたのであれば、ホームレスの命は明日の吸血まで保つはずだった。ホームレスの死は、フユキとコトヤマのどちらかが、400ml以上吸血したことを示している。
 コトヤマは怒りを込めた目で、フユキの青ざめた顔を睨んだ。
「ご、ごめん――――」
 コトヤマの拳が生む一瞬の風切り音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、フユキの四肢ははじけ飛んだ。


 元旦の深夜、人通りの少ない通りを二人の吸血鬼が歩いていた。
 初詣が楽しみなのか、軽い足取りで歩くコトヤマは、スポーツジャージを身にまとい、野球帽をかぶっている。短い髪も相まって、少女と言うより少年にしか見えない。
 女と見抜かれるような服装で夜道を歩くと、人間の男にからまれることがある。だから、コトヤマはあえて男と思わせるような服装を心がけている。人間との接触はなるべく避けなければならないため。人間に吸血鬼の存在を気づかせないようにするため、だ。
 彼女の後ろをとぼとぼと歩くフユキもスポーツジャージを着ている。そのジャージはコトヤマと揃いのものなので、二人は兄弟のように見える。フユキの体は大きく、顔つきもなかなかいかついので、夜道を歩く二人には、コトヤマが意図した通り、声のかけにくい雰囲気が見事に出来上がっている。
 フユキは右腕に包帯を巻いていて、その包帯には血がにじんでいた。コトヤマの鉄拳制裁を受けた後、予備として用意していた吸血用の人間から少ししか吸血させて貰えなかった。だから、傷が治りきっていないのだ。
 もう少し吸血すれば傷は完全に塞がるのだが、罰として明日の夜まで吸血を禁止すると、コトヤマに言われてしまった。
 右腕がずきずきと痛む度に、フユキは顔をしかめた。
「フユキくん、どんどん吸血鬼らしくなっていくわね……」
 前を歩くコトヤマが苦々しい口調で言った。フユキが吸血しすぎたことを遠回しに責めているのだ。
「吸血鬼らしくなる事がなんか悪いことなのかよ……。結構なことじゃねーか。どの道、人間には戻れないわけだし……」
「初詣、本当に楽しみじゃないの? 吸血鬼なのに初詣に行けること、夢みたいだと思わない?」
 唐突に話題が初詣へと変わった。
 二人は吸血鬼でも初詣できるという神社に向かっている。コトヤマの話によると、郊外の山の中にその神社はあるらしい。
「夢みたいだとは思う」
「それって楽しみってこと?」
 コトヤマが振り返って期待するように言った。
「いや、楽しみというわけでは……。夢みたいな話で信じられないという意味だよ」
「そう……」
 しゅんとなり、前を向き直る。
 コトヤマの機嫌をとるために、嘘でも楽しみと言った方が良かったのだろうか。しかし、フユキとしては初詣なんて本当にどうでもいいのだ。
 いや、むしろ、初詣という人間臭い行事に対して嫌悪感すら感じる。折角、吸血鬼になったのに、何故、人間の真似事をしなくてはならないのか。フユキには理解できない。
「コトヤマさんは楽しみなんすか? 初詣」
「楽しみよ。凄くね」
「どうして好きなんです? 人間だった頃から好きだったんですか?」
「そんな事ないわ。人間だった頃は別に、好きでも嫌いでもなかった。特に気に留めた事もなかった。初詣が好きになったのは、吸血鬼になって、吸血鬼でも平気な神社を見つけてからよ」
「それは、どうしてなんです?」
「どうしてって……本当に分からないの……?」
 顔をうつむかせるコトヤマ。
 コトヤマが黙っているので、フユキも黙っていた。しばらくの間、お互い無言で街の通りを歩いた。
 やがて、通りの両脇に立っている民家が疎らになったかと思うと、前方にこんもりとした山が見えてきた。吸血鬼でも平気な神社は、近くの山の中にあるとコトヤマは言った。前方に見える山がその山なのだろう。
 山の茂みの中に入る前、コトヤマはフユキの目を見て、すがるように言った。
「私が初詣を楽しみに思う理由……、本当に分からない?」
 分からないという言葉が口をついて出そうになったが、深刻なコトヤマの目に威圧された。フユキは咄嗟に「分からない」という言葉を飲み込み、こちらをじっと見てくるコトヤマの目を見つめ返した。
 コトヤマが初詣を楽しみに思う理由、思い当たるものがないわけではない。本当は「分からない」わけではない。
 フユキとコトヤマでは吸血鬼として生きてきた過去が違う。
 コトヤマの過去は、彼女から何度か聞いた事がある。コトヤマの壮絶な過去を考えると、初詣を楽しみに思う気持ちを察する事は出来る。しかし、その気持ちはフユキにはどうしても共感できない類のものだ。
 初詣なんて人間臭い行事だ。そんなものを今更好きになるなんて、俺には理解できない。
 だから、コトヤマの問いかけに対して、「分かる」と口にするのはなんとなく躊躇ってしまう。
 フユキはじっくりと考え、言った。
「分かりません」
「そう……」
 コトヤマはフユキの目から視線を切り、茂みの中に入っていった。
 山の茂みの中は、木々が邪魔で足元が不安定だ。にもかかわらず、二人の足取りはむしろ軽くなった。人間の目を気にする必要がなくなったため、本来の身体能力で走る事が出来るからだ。
 フユキはコトヤマの背中を追いかけながら、彼女の過去に思いをはせた。


 コトヤマは30年前、正真正銘12歳だった頃の夏休みに、何の前触れもなく吸血鬼になった。
 家族旅行の帰り、夜も遅い時間、コトヤマとその家族が乗った車がガードレールのない危険な峠道を走っていた頃、父親がハンドルを誤り、車は崖下へと落下した。
 その事故で家族は全員死んだが、コトヤマだけは何故か無傷だった。
 失神から目が覚めると、コトヤマは崖下で姿勢良く横になっていて、隣には自分がついさっきまで乗っていた車が大破していた。車の中を覗くと、家族が無残に死んでいたという。
 幸せいっぱいの家族旅行から一転、目の前に広がる地獄のような光景に、コトヤマは何が起こったのかさっぱり分からず、泣き叫ぶ事しかできなったそうだ。
 ところが、そのまま泣き続けて朝を迎えた時、事態は一変した。朝日を浴びた瞬間、コトヤマの体が炎に包まれたのだ。
 心底驚いて、必死に暴れまわって炎を消し、近くにあった大きな岩に身を隠した。太陽の光を避けるためだ。
 異変は立て続けに起こる。コトヤマは猛烈な喉の渇きに襲われた。
 大破した車から臭ってくる血の匂いが、コトヤマの大好物だったウナギの匂いのように思えた。家族の死体から血をすすりたいと思ってしまう自分に心の底から怖気を感じて、コトヤマは喉の渇きを必死に耐えた。
 脳内で様々な疑問が鉄砲水のように駆け巡ったが、何の答えも出ない。ただ、自分が人間ではない化け物になってしまった事だけは確信できた。
 太陽が沈むと同時に、コトヤマは岩の陰から飛び出し、山の中へと分け入っていった。家族の死体から逃げる為だ。このままではいつか必ず、大好きだった家族の血を飲んでしまう事になる。山の中を無闇に歩くと、すぐに遭難する事は知っていたが、家族から吸血することだけは絶対に嫌だったそうだ。
 それから山の中を三日ほどさ迷い歩いた後、どことも知れぬ山村に辿り着いたコトヤマは、深夜の村を巡回する警官に呼び止められた。
 コトヤマの喉の渇きはすでに限界を超えていて、意識も朦朧としていた。
 ふらふらと倒れそうになったコトヤマを、警官は慌てて抱きかかえた。コトヤマは、警官の首筋に血管が浮き出ているのを見た。
 気付いたら、喉の渇きは収まり、意識も鮮明になっていた。その代わり、足元では警官が死んでいた。
 コトヤマの口元から血が滴り落ちて、コトヤマはすぐに気付いた。自分が警官を吸血し、殺してしまったのだと。
 焦燥、混乱、後悔、罪悪感……。様々な気持ちがない交ぜになった結果、コトヤマは訳の分からない悲鳴をあげ、その場から逃げたという。
 最初の吸血相手が警官だった事は、ある意味で幸運だったとコトヤマは話してくれた事がある。
 法の番人である警官を殺したことで、幼いコトヤマでも、罪の重さをはっきりと自覚する事が出来たからだ。もしも捕まったらきっと死刑になる、とコトヤマは幼心に恐怖した。
 警官を殺してからも、喉は相変わらず毎日のように渇いたので、コトヤマは吸血を繰り返し、罪を重ねていった。
 殺しが悪い事だとは分かっていた。だが、吸血しないと生きていけないのだから仕方がない。もしも人間に捕まったら、お終いだ。許される訳がない。恐ろしい“仕返し”が待っている。自分は殺人なしでは生きていけない吸血鬼。自分にとって人間は食料であり、敵。
 最初の吸血をしてから一週間も経たない内に、コトヤマは自分の運命を悟る事が出来た。早めに悟る事が出来て、本当にラッキーだったとコトヤマは話してくれた。

 最初の殺人を犯した後は、放浪の毎日だったらしい。
 当てのない旅を続けながら、たった一人で試行錯誤を繰り返し、コトヤマは吸血鬼の生き方を身に付けていった。
 暗示のかけ方を誤って、吸血用として捕まえていた人間に逃げられた事もあった。偶然、寺の僧侶と眼が合ってしまい、人間達の目の前で体が硬直してしまった事もあった。吸血のターゲットに選んだ人間がお守りを持っていて、その人間の目の前で倒れてしまい、冷たい体に触られて正体がばれかけた事もあった。
 実際に正体がばれてしまったこともあったそうだ。気づいてしまった人間を乱暴に皆殺しにし、車よりもずっと速いスピードで夜を駆け、行方をくらました。
 家族が死に、天涯孤独となったコトヤマには、フユキにとってのコトヤマのような吸血鬼の先生はいなかった。12歳の少女が、たった一人で30年も放浪し、独力で生きる力を身に着けた。恐ろしく孤独で、たまらなく惨めな旅だった事だろう。
 自分で吸血鬼を作れないものかと、方法を調べて何度も試したが、手順が間違っているのか、それとも確率の問題なのか、決して成功する事はなかったそうだ。
 作るのが無理なら探せばいいと、コトヤマは30年かけて世界を彷徨ったが、その旅に実りはなく、吸血鬼はどこにもいなかった。
 吸血鬼の仲間が欲しい。どうしても欲しい。コトヤマは30年の旅の間、吸血鬼の仲間が出来る未来を何度も夢見た。そして、何度も現実に打ちのめされた。
 だから、フユキが吸血鬼として生まれ変わった夜、フユキが初めて目にしたものはコトヤマの泣き顔だった。
 その夜、フユキは高校の部活帰りに交通事故に遭った。死にかけていたところをコトヤマに見つかり、血を流し込まれた。血を流し込むと吸血鬼になるかどうかは何度も試し、何度も失敗してきた。だから、コトヤマはそれほど期待せずにフユキに血を流し込んだのだが、何の偶然か、フユキは吸血鬼として甦った。
 フユキにとって、コトヤマは命の恩人であり、吸血鬼の先生だ。
 コトヤマにとって、フユキは孤独を埋めてくれる初めての仲間だ。
 甦ったフユキの前で、30年の放浪の間、溜め続けてきたかと思うような大粒の涙を流しながら、コトヤマは「ごめんなさい」と呟き、フユキの胸に飛び込んだ。「ごめんなさいごめんなさい」と何度も繰り返しながら、コトヤマはフユキの胸の中でむせび泣いた。


 夜の山中、フユキはコトヤマの背中を追いかける。
 吸血鬼になった夜、コトヤマが何度も言った「ごめんなさい」という言葉。フユキは今でも、その言葉を思い出す。
 フユキはコトヤマに命を救われた。それだけではなく、コトヤマはフユキに強靭な肉体と、人間を自由自在に操る力を授けてくれた。そして何より、人間としての価値観を破壊するほど美味な血の味を教えてくれた。
 フユキはコトヤマに心から感謝している。彼女は吸血鬼のことなら何でも知っているし、何でも教えてくれる。情緒不安定ですぐに落ち込むという面倒な性格を疎ましく思うこともあるが、その分、機嫌が直るのも早いし、機嫌がいい時のコトヤマは気さくで無邪気で、一緒にいて楽しかった。
 それに、30年もの孤独を想像すれば、難儀な性格になる事もある意味仕方がないと、納得できた。
 コトヤマに「ごめんなさい」と言われる筋合いは、どこにもない。それなのに何故、コトヤマは「ごめんなさい」と言ったのだろうか。
 コトヤマはたまに理解できないことを言う。初詣を楽しみに思う事も、理解できないものの一つだ。
 フユキには分からない。吸血することが大好きで、人間生活への未練などとうに消え去ったフユキには、コトヤマの気持ちはどうしても理解できない。
 いや、理解したくないと言った方が正確か……。
 本当は、ごめんなさいと言った理由も、初詣を楽しみに思う理由も分かっている。しかし、フユキはその気持ちを理解したくはないのだ。どうしても共感できない。拒絶したくなる。
 恐らく、コトヤマにはまだ、人間生活への未練が残っているのだろう。
 初詣を楽しみに思う理由は、人間だった頃の思い出を再現できるからだ。フユキに言った「ごめんなさい」という言葉の意味は、「吸血鬼にしてごめんなさい」だ。
 コトヤマと違い、吸血鬼になれて心から嬉しいと思っているフユキには、コトヤマの気持ちに共感する事などできなかった。


「もうすぐ神社につく。ここから先は歩いていくわね」
 前を走っていたコトヤマが止まり、振り返って言った。
「そろそろどんな神社なのか教えて貰えないすか?」
 そう言うと、コトヤマはきょとんとした顔を見せた。
「そうね……。どんなところに行くのか分からないままじゃ、流石にフユキくんも不安よね」
 夜の山の中を、少女と青年が並んで歩く。
「話は案外単純なものよ。今から行く神社は、要するに、新興宗教の神社なの。その新興宗教はもう何年も前に瓦解していて、信者だってもう一人もいなくなってるわ。教祖ですら、行方が知れない状態になってる」
 コトヤマは、初詣への期待を抑えきれないのか、顔を綻ばせながら話す。
「その新興宗教の教祖はね、宗教を使って金儲けをしようとする悪人だったの。神社を建てるまでは、信者を洗脳して、お金を上手に搾取して、順風満帆だったそうよ。騙されていた人達にとっては、全然順風満帆じゃないけどねぇ……」
「神社を建ててからは?」
 しみじみと言うコトヤマに、フユキは続きを促した。
「山奥に、信仰の拠点となる神社を建てた後、段々とやり方がえげつなくなって、露骨にお金を搾取するようになったの。念願の神社を建てて気が緩んだのかしらね。その結果、信者の洗脳は解けていったわ。そして、ある日とうとう、信者から訴訟を起こされたそうなの。教祖は大敗。巻き上げてきたお金を信者達に返済し、財産の殆ど全てを失ったけど、それでもなお、全額返済する事はできなかったみたい。しばらくの間、教祖は神社で生活していたそうだけど、いつの間にかいなくなったそうよ」
「夜逃げか?」
 フユキの言葉に、コトヤマは頷いた。
「多分、そういう事ね。借金を踏み倒したんだわ」
 コトヤマが目の前の茂みをかき分けると、二人は雑草が生い茂った、舗装されていない道に出た。車がぎりぎり一台通れるかどうかという、細い道だ。
 コトヤマはその道を見て、目をぱちくりさせた。
「この道の先に神社があるんすか?」
「うん。そう。……そうなんだけど、変ね。去年よりも道が綺麗だわ」
 フユキは首をかしげる。目の前に伸びている道は荒れ果てていて、目を覆う有様だ。
「どこら辺が綺麗なんだよ」
「去年はもっと雑草が生い茂っていたのよ。道だと気づけないくらい」
 コトヤマは屈んで地面を注意深く観察する。
「道に車の轍が残ってる。結構新しいわ、これ」
「誰か人が来たのか」
「そうみたいね」
 コトヤマは道の真ん中に突っ立って、少しの間、黙って何やら考えていたが、
「いい感じの廃墟だから、廃墟マニアがかぎつけたのかもしれないわね」
 と言うと、意気揚々に道を歩み始めた。
「やだなぁ。私だけの隠れ家みたいに思ってたのに……」
 と言いつつ、その顔は晴れやかで、足取りも軽い。初詣の瞬間がいよいよ迫ってきているので、高揚しているのだろう。
 何が楽しいのやら……、とフユキは心の中で毒づいた。
「それでねフユキくん、教祖も信者も消えて、神社だけが残ったわけなの」
 一瞬何のことかと思ってしまったが、どうやら先ほどの話の続きらしい。
「でも、その神社には奉るべき神様なんていないし、信仰する人間もいないわ。当然よね、その神社でかつて奉っていたのは、教祖そのものだったんだから。宗教が瓦解し、教祖が夜逃げした今、その神社には奉るべき神はいなくなったし、参拝する信者も一人もいない」
 コトヤマはフユキに顔を向け、にっこりとした笑顔を見せた。
「私達が向かっている神社は、空っぽの神社なのよ」
 フユキはコトヤマの笑顔から視線を切り、前方を向いた。
「神もいないし、信仰する人間もいない神社か。そんなもん、神社と呼んでいいものなのか?」
「呼べないかもね。だからこそ、私達でも参拝することができる」
 コトヤマはにやりと口角を上げた。
「フユキくん。よく覚えておきなさい。原理は分からないけど、私達の体は人間の信仰心を恐れるようにできているわ。十字架を見て怯えるのも、お守りを見て体が固まってしまうのも、その背後にある信仰心を恐れているからなのよ。裏を返せば、いくら宗教っぽいものでも、人間の信仰心が宿っていなければ、恐れずに普通に接することができるの」
「信仰心っすか……」
 抽象的でよく分からない。
「例えば、観光地のお土産コーナーとかに、やたらと派手な十字架のキーホルダーが売られていたりするでしょ? ドクロマークとかが入ってる奴。誰が買うのかよく分からないアレよ」
「あるな。あれはセーフなんすか?」
「セーフよ。あれはオモチャだからね。それともあんたは、あれに祈りを捧げているキリスト教徒を見たことある?」
 フユキは沈黙した。そもそも十字架に祈りを捧げるキリスト教徒自体見たことがない。
「私達が今向かっている神社もああいうキーホルダーと同じようなものよ。その証拠に……、フユキくん、目の前に曲がり角が見えるでしょう?」
 コトヤマは前方を指さした。崖の側面に沿って道が曲がっている。
「あの角を曲がれば、神社は目の前よ。直線距離で50メートルも離れていないわ。そんな近いところに神社があるのに、全然、怖くないでしょ?」
 確かに何も感じない。普通の神社であれば、100メートルも近寄れば、肌が粟立ち、恐ろしくて動けなくなる。
「なるほどねぇ。珍しい場所もあるもんだ」
「実際、相当珍しいケースだと思うわ。30年間あちこち放浪してきたけど、私達でも平気な神社なんて、ここ以外見たことないもの」
 コトヤマはニコニコしながら言った。嬉しくて嬉しくてたまらないのか、声が大きくなってきた。
「この神社を見つけたことは、私が吸血鬼になってから嬉しかったこと、ベスト2位に入るわ」
「1位は何なんすか?」
「そりゃもちろん、フユキくんが吸血鬼になった事よ!」
 堂々と言われて、フユキは少しだけ照れたが、コトヤマは全く気にした風でもない。
「フユキくん、神社で何をお願いするか、考えてる?」
「えっ? ……いや、特に」
「ダメよ! 折角初詣するんだから考えておかないと!」
「あんたはもうなんか考えてるんすか?」
「もちろん!」
 コトヤマは胸を張って言った。
「吸血鬼の仲間に会えますように! 私を吸血鬼にした犯人を見つけられますように! いつか人間に――――」
 そこまで言って、コトヤマは唐突に咳払いした。
「ま、そんなところよ」
 何故かどや顔のコトヤマだったが、フユキは顔をしかめた。
「テンション上がってきた! 私、神社に一番乗りするわ! フユキくんもテンション上げてついてきなさい!」
 フユキの様子に気づかないのか、コトヤマは元気に走り出した。すぐに道の角を曲がり、見えなくなった。
 フユキはその場で立ち止まり、深くため息を吐いた。
 コトヤマが最後に言いかけた願い事が何なのか、フユキには見当がついている。
 「いつか人間に戻れますように」とコトヤマは言いかけたのだ。だから、フユキは顔をしかめた。
 どれだけ願っても人間には戻れない、人間の価値観は早く捨てろと、コトヤマに何度も何度も言われてきた。
 コトヤマがフユキに言ってきた言葉は、むしろ自分自身に言いきかせていたのかもしれない。コトヤマは腹の奥底では、人間に戻りたいと願っている。
 その時、夜の静寂を切り裂くような悲鳴が響いた。
 フユキは心底驚いて、びくりと体を震わせたが、すぐに神社に向けて駆けだした。
 今のはコトヤマの悲鳴だ。神社で何かあったのだ。
「コトヤマさんっ!」
 全力で走り、すぐに道の角を曲がった。
 フユキは目の前に広がる意外な光景に、目を見開いた。
 角を曲がった先には、ところどころに雑草が生えた、平らな更地が広がっているだけだった。神社などどこにもない。
 その更地の真ん中で、コトヤマは膝をつき、天を仰いで泣き叫んでいた。
 フユキは呆然とした顔で泣き叫ぶコトヤマを凝視していたが、ある事に気付き、はっとした。
 神社へと続く道が去年よりも綺麗だとコトヤマは言った。道に残った車の轍が新しいとも言った。
 あの轍は、コトヤマが推測したような廃墟マニアの車が通った跡ではない。
 あの轍は恐らく、神社を解体するためにやってきた車の轍だ。ここにあった神社は、つい最近、解体されたのだ。
 コトヤマの泣き叫ぶ声が耳に響く。コトヤマも解体されたことに気づいたのだろう。だから、絶望して泣いている。
 人間だった頃の思い出を再現できる唯一の場所。コトヤマの秘密の場所は、もう存在しない。
 フユキはコトヤマを見つめて、唇を噛んだ。何か声をかけてやらなければいけない。だが、なんて声をかけていいか分からない。
 初詣なんてフユキにはどうでもいい。泣き叫ぶコトヤマの心情も、理解は出来るが共感は出来ない。
 仮に「残念だったな」とコトヤマに言っても、「いつかまた似たような神社が見つかる」と言っても、それは感情の篭らない空虚な慰めにしかならない。そんな言葉など、コトヤマには届かない。
 吸血鬼としての適性という点で、フユキとコトヤマには絶望的なほどの差がある。フユキは吸血鬼になって僅か3か月で、人間としての自分を捨てることができた。しかし、コトヤマは吸血鬼になって30年、未だに人間を捨てきれない。人間だった頃の思い出に苦しめられている。
 自分はコトヤマと違って元々吸血鬼に向いていたのだ。フユキとコトヤマでは立場が違う。コトヤマの気持ちに共感できないし、立場も違う以上、かけてやれる言葉なんてない。
 押し黙るフユキとは裏腹に、コトヤマの涙は止まらない。絶望に染まった瞳から溢れ出した涙は頬を伝い、神社が建っていた形跡すら残っていない平らな地面にぽろぽろと落ちた。
 フユキは涙にぬれた地面を見て、拳を固く握りしめた。
 いや……違う、と思った。
 自分が吸血鬼に早く馴染めたのは、吸血鬼の適性があったからではない。血の味があまりに美味かっただけではない。そんなことよりももっと大きな理由がある。
 コトヤマがいたからこそ、早く馴染めたのだ。コトヤマが吸血鬼の仲間としていつも傍にいてくれたからだ。コトヤマが自分を導いてくれたから。人間生活を離れる孤独を、コトヤマが埋めてくれたからだ。
 だからこそ、フユキは吸血鬼として生きていく事に孤独や不満を感じなかった。コトヤマがいたからこそ、人間への未練をすぐに捨てることができたのだ。
 対して、コトヤマはいつもどんな時もたった一人で生きてきた。フユキとは全く違う世界を生きてきた。
 コトヤマにとって吸血鬼として生きる事は、地獄で生きる事と同義だ。楽しかった人間生活を懐かしく思うのは当たり前の事。人間だった頃の思い出、初詣を再現することができる神社を大切に思うのも、当たり前の事だ。
 フユキは決心したように大きく息を吐いた。コトヤマにかける言葉が見つかった。
 打ちひしがれたコトヤマ向けて、フユキはゆっくりと歩いていった。コトヤマは近づくフユキに気づき、涙にぬれた目を向けた。コトヤマの肩に、フユキはそっと手を置く。
「いくら泣いても気持ちは晴れない。俺達吸血鬼の涙には、精神を落ち着かせる効果はない」
 そう言ったフユキの目を、コトヤマは見つめた。
「ぱーっと吸血でもして、気分を切り替えませんか?」
 なるべく優しい声を出すように、フユキは努めた。
 コトヤマはしばらく黙っていたが、やがて、小さく呟くように言った。
「確かに……、一晩中ヤケ飲みしたい気分だわ……」
「この街に住む人間にとっては、正月早々、厄日ってことになるな」
「そうね……」
 小さくこぼすように、コトヤマは笑った。
 フユキがコトヤマにとって、良き吸血鬼仲間であればあるほど、コトヤマは人間への未練を早く捨て去ることができるだろう。人間時代の楽しかった思い出を、早く忘れる事が出来るはずだ。
 今度は俺が孤独を埋める番だ。いつか必ず、コトヤマさんに「吸血鬼になれて良かった」と思わせてやる。コトヤマさんが、俺にそう思わせてくれたように。
 涙に濡れたコトヤマの小さな微笑みを見つめながら、フユキは決意した。

吸血鬼、初詣に行く

吸血鬼、初詣に行く

  • 小説
  • 短編
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  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-04

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