愛され、愛する方法 【第四巻】

愛され、愛する方法 【第四巻】

百四十六 思わぬ助っ人

 その日の夕刻、紀代は山手線の巣鴨駅で降りると、巣鴨駅近くの駒込三丁目にある義母市川雅恵が住むマンションに向った。二月に借りて半年分の家賃を前払いしてやったが、七月に不動産屋に頼んでまた半年分の家賃を前払いしておいたから年明けまで家賃を気にせず暮らせるはずであった。
 ドアーのチャイムを何度か押してみたがどうやら留守らしい。携帯に電話をしても電源が切ってあるらしい。仕方なく、近くのカフェに入って時間を潰した。八時を過ぎて行って見たが、まだ留守だった。せっかく来たのだからと、十時過ぎにもう一度寄って見た。それで居なかったら帰るつもりだった。

 十時過ぎに行くと、窓から明かりが漏れていた。チャイムを押すと直ぐに、
「はぁーいっ!」
 と雅恵の声がした。ドアーが開いて、元気そうな雅恵の顔がのぞいた。
「あらっ、紀代ちゃん、しばらくだわね。さっ、入ってぇ」
 二月に出所した頃に比べると雅恵は綺麗になっていた。着ている物も垢抜けして感じの良い女性になっていた。
「義母さん、綺麗になったわね」
「えっ? マジで? 紀代ちゃんにそんな風に言われるとなんだか嬉しいわね。ご飯、まだでしょ? あたしはこれからだからご一緒に食べない」
「ん。丁度お腹が空いていたとこよ。ご馳走してね」
「お出かけしてたの?」
 食卓で向かい合って食事を始めると紀代が聞いた。
「あたしね、毎日暇していてもつまらないから近所のコンビニでパートをしているのよ」
「じゃ、いつもこんな時間に?」
「今日は特別かな? いつもはお昼過ぎの一時~八時がシフトよ。なので八時半には戻っているわね」
「へぇーっ、そうなんだ」
「あなたが生活費の面倒を見てくれるから、あたし少し貯金する余裕もあるし楽よ。紀代ちゃんに感謝してるよ」
 かって継母として紀代を虐め抜いた女とは様変わりしていた。

「今夜泊めてもらってもいい」
「いいわよ。大歓迎よ。久しぶりに娘を抱いて寝ようかな」
 雅恵はちょっと悪戯っぽい目をして笑った。 雅恵の言ったことは冗談ではなかった。十二時を回ってベッドに入ると、雅恵は自分の横をあけて、
「こっちにいらっしゃいよ」
 と手招きした。紀代は枕を持って雅恵の隣に潜り込んだ。紀代が潜り込むと雅恵の腕が伸びてきて紀代を抱きしめた。
「あたし、一度こうして紀代ちゃんを抱きしめてみたいと思ってたのよ」
「……」
 紀代は黙って雅恵に抱きしめられていた。実の母親ではないが、もうずっと前に忘れ去った母親の温もりが思い出されて、紀代の目が潤んだ。
「義母さん、あたしキヨリスの経営に乗り出すことにしたの」
「そう? スーパーアキモトの跡に作ったスーパー?」
「そう。今は秀子さんが社長なんですけど、最近業績が良くなくて、おまけに大震災で仙台のお店がダメになったでしょ。なので大変みたいなの」
「辰夫さんは承知なの」
 そう言ってから雅恵は辰夫と不倫の末妻の座を由紀から奪った時のことを思い出していた。
「秀子さんは賛成してないんじゃない」
 勘の良い雅恵は秀子が快く思っていないことを言い当てた。
「そうなのよ。先日臨時株主総会であたしが副社長に就任する案があっさり否決されてダメになったの」
「で、どうするつもり?」
「あたし、キヨリスを立ち上げた時の昔の仲間に声をかけて仲間作りをしようとしたのだけど、皆秀子さんが怖いらしくてお誘いに乗ってくれないのよ」
「そうねぇ、いきなり娘が乗り込んできて、それも母親に反対されてちゃ誰も振り向いてくれないわね」

 そんな話をしているうちに、二人とも眠ってしまった。翌朝、雅恵の方が先に起き出して、紀代が起こされた時には朝食の準備が終わっていた。
「夕べの話だけど、あたしが少しお手伝いしてあげようか」
「えっ、義母さんが?」
「こう見えても昔はスーパーアキモトの経理から人事までこの手の中にあったから、少しは役に立てるわよ」
 雅恵の提案は紀代が目論んだ通りだが、そのことは言わなかった。その日のお昼まで、紀代は雅恵と話をした。その結果、近々雅恵は会津若松、山形、秋田、青森、盛岡の順に夫々約一ヶ月間程度パートで入って内部の様子を調べて紀代に教えてくれることになった。
「スーパーのパートは定着率がいいけど、それでも時々辞めた人の補充で人員募集があるのよ。あたし何とか密かに潜り込むから紀代ちゃんは何も心配しなくていいわよ」
 それで住む場所と生活費だけは今まで通り紀代が面倒を見ることにした。
 スーパーアキモト時代には人事まで首を突っ込んでいたから、内部の人脈を調べるには雅恵は適任だと思われた。

 駒込のマンションはそのままにしておいて、雅恵は会津若松の町外れにあった空家を借りて、雅恵が言った通り上手い具合にキヨリス会津若松のパートとして潜り込んだ。
 雅恵からの情報は確かで将来のために人の輪を広げて行くのに役立った。雅恵が選んだ人と会う時は、紀代は相当に慎重に構えて、決してキヨリスの他の従業員に知られないようにした。
 雅恵はこの人と思われる社員に近付いてその都度色々な理由を考えて休日に県外に連れ出してくれた。紀代は出先で偶然に出会った雅恵の知り合いだと言って紹介された。会ってもキヨリスに結び付く話は一切持ち出さず、紀代はもっぱら会った者の人格の評価に焦点を絞って接した。
 紀代は矢田部に折りに触れて近況を報告した。矢田部の方は銀行筋、取引先筋の人脈作りに努力して、矢田部を入れて十名の取締役の内、三名と気脈が通じるようになったと話してくれた。

 久しぶりに紀代は以前自分の気持ちを伝えた橋本徹に電話をして、
「久しぶりにお茶しない」
 と誘った。徹はまだ独身だったから、喜んで誘いに乗ってくれた。紀代は自分が以前に描いた計画がかなり難しくなり、そんなことも伝えて徹に謝っておきたかった。

百四十七 市川雅恵の暗躍 Ⅰ

 その日紀代に誘われて、紀代が指定した待ち合わせ場所、鶴見駅前のスタバに橋本徹はいそいそと出かけた。
「徹君こっちよ」
 店に入ってキョロキョロと見回すと、奥の席で紀代が手を挙げていた。
 紀代は以前と変らない徹の従順そうな笑顔を見て気持ちが休まった。
 しばらく会わなかったので、紀代は徹に近況を聞いて見た。
「オレ、紀代さんにその内に誘われると思って、いつでも会社を辞められるように仕事とか整理をしたよ」
 そんなことを言う徹に、切り出し難かったが、いつまでも期待を持たせているのはまずいと思って、紀代は思い切って現状を打ち明けた。
「オレ、気長に待ちますから大丈夫ですよ」
 相変らず徹は真面目に応えてくれた。
「実はね、いろいろ難しい問題があってさ、あたし、まだ徹君を呼べない状況なんだ。気を持たせてごめんね」
「謝らなくてもいいですよ。オレ、紀代さんのこと信じていますから」
 そのあとは、雑談を続け、一時間ほどして徹と別れた。
 徹は以前のように紀代のアパートに行きたかったが、紀代が何も言わないのでその日は諦めた。

 徹と別れてから、紀代はアパートには戻らずに、その日の内に会津若松に向う途中市川雅恵に電話した。
「遅い時間だけど、どこかで会えない」
 電話を取ると雅恵は、
「それじゃエンジュで待ってるわよ」
 と答えた。エンジュは早朝四時まで営業している馬場町にあるバーだ。終電で会津若松に着くとタクシーを拾って、
「エンジュに」
 と告げた。ドアーを開けるとバーテンと目が合った。紀代は軽く会釈して店内を見ると、雅恵は既にビールを飲んでいた。
「思ったより早かったね」
 客は雅恵の他に四人ほど居た。

 雅恵は会津若松店に気脈の通じる仲間を五人作ったと報告した。その中の三人とは既に県外に連れ出して紀代が会ったことがある者だった。雅恵はパート仲間には近付かず、正社員で、できるだけ仕入れや経理事務、バックヤードの管理にあたっている者に重点的に接触していた。

 他人に、たとえ身近な者であったとしてもだ、何か意図を隠し持って近付かれたことを感じたら、誰だって警戒をするものだ。一度警戒されたら、どう上手く取り入っても心を開いてはもらえない。雅恵はそのことを良く知っていた。だが一方でたとえ心を開いてもらわなくとも、自分に服従させることができれば、その者から必要な情報を聞き出すことができることも知っていた。
 だから、雅恵は持って生まれた性格からほとんど本能的にこの両者を使い分けることもできた。しかも最近では自分の手足になって動いてくれる若者を三名手なずけていた。何のことはない、失業して昼間からパチンコ屋に出入りしている青年を言葉巧みに誘って、ちょっと面倒を見てやったのだ。

 どこの会社でも従業員名簿、とりわけ従業員の履歴書は関係者以外には知られないように情報の管理をしている。だから、キヨリス会津若松店従業員の詳細情報を手に入れることは難しかった。
 雅恵は事務所で主としてパソコンのデータ処理をやっている細野と言う女性をマークしていた。彼女は給与関係や人事関係のデータ処理も受け持っていたが、大事な仕事なので、社長の秀子に可愛がられている様子でなかなか近付けないでいた。退社時後を追って調べた所、細野は市内に住んでいて、市役所に勤める細野の次女であることが分った。もう三十歳半ばになるのに、まだ独身だ。

 雅恵は手なずけた鈴木と言う青年に細野が仕事で外出する時にこっそり跡をつけるように指示していた。そうしている内に、ある日、チャンスが訪れた。鈴木の仲間の多田が舗道を歩いて銀行に向っている細野の背後から自転車で通り過ぎざま引っ掛けて細野を転ばせて多田はそのまま逃げ去った。その時、多田は細野が大事そうに抱えていた紙袋をひったくっていた。転んで膝を擦り剥いて泣き面になっている細野に鈴木は駆け寄って、
「大丈夫ですか? すぐに病院に行って診てもらった方がいいですよ」
 と抱き起こして肩を貸して病院に連れて行った。診察が終わるまで、鈴木は細野を待っていた。

「ありがとうございました。お名前、聞かせてもらってもいいですか」
「僕、鈴木と言います」
「あのう、鈴木さん、あたしが転んだ時、紙袋を持っていましたが、ご存知ありません」
「えっ? 紙袋? 僕が抱き起こした時は何も持っておられませんでしたよ」
 細野は泣きそうな顔で、
「困ったなぁ、会社の大事な書類が入っていたんです。それに銀行に振り込むお金も。お金は自分で弁償すればいいのですが、書類は失くしたら困るんです」
「じゃ、転んだ場所に行ってもう一度探しましょう。僕も付き合いますよ」
「すみません」
 細野は心細くなっているところだったので、鈴木に助けてもらって紙袋を探し回った。約一時間も探し回って、結局紙袋は見付からなかった。
「警察に紛失届けを出されたらいかがですか」
 細野は困り果てた顔で、
「いいです。届けないです」
 と言った。鈴木は何か届け出てはまずいものかも知れないと思って、
「僕、また探してみますが、携帯の番号を教えてくれますか」
 と細野に言うと承知したので、お互いに携帯の番号とメールのアドを交換して別れた。
「おい、多田、お前上手くやったな」
「冗談じゃないよ。ひったくりで警察に届けられたらヤバイと結構ビビッたよ」
「それで中に何が入ってた」
「市川のオバサンがよぉ、来るまで開けずに待ってろだってさ」
 雅恵は鈴木から既に連絡をもらっていた。それで、袋は開けずに夕方雅恵の家で夕飯を食いながら報告をしてくれと指示していた。

百四十八 市川雅恵の暗躍 Ⅱ

 雅恵は鈴木、多田、それに小山の三人の若者を時々家に呼んでメシを食わせたり、小遣い銭をやったりして面倒を見ていた。若者たちは失業して街中をブラブラしていただけで、育ちが悪いわけではなく、皆素直な好青年で雅恵の言うことを良く聞いた。だから、細野を自転車でひっかけて紙袋をひったくった多田は生まれて初めての悪事の経験だったからビクビクしていたのだ。もちろん鈴木も細野に罪悪感を持っていた。雅恵は自分の息子のように可愛がったが、彼等を悪事の世界に引き込む気はなかった。

 若者三人と夕飯を終わって、お茶を飲みながら整理ダンスの引き出しから出しておいた白い綿手袋をはめて雅恵は、
「どら、かっぱらってきた袋を見せなさいよ」
 と多田から紙袋を受け取った。多田は紙袋を雅恵に差し出したが、
「多田ちゃん、この袋にはあんたの指紋がベタベタ着いているよね」
 と言うと鈴木が、
「やべぇ、僕の指紋もベタベタつけちゃったな」
 と慌てた顔をした。
「鈴木ちゃん、あんたも紙袋の中を見たって白状したな」
 と雅恵が鈴木の顔を見ると、
「すみません。バレたな」
 と素直に白状した。
「あんたたち、言っとくけど、この袋は盗品だよ。警察にでも渡ったらあんたたちは窃盗犯で即時逮捕だよ」
 それを聞いて鈴木も多田も、
「拙いことしたなぁ。オバサン、指紋消せますか?」
 と尋ねた。
「ダメだね。紙袋に着いたあんたたちの脂っこい指紋はちょっと拭いただけじゃ取れないよ」
「二人とも悪いことをしたと思っているんだろ」
「はい。一応」
「だったらこれくらいの用心はしなくちゃ。だから、中を見ちゃダメって言っておいたんだよ」
「すみません」
「中も覗いて見たんだろ?」
「はい。まぁ……」
 雅恵は彼等を叱るつもりはなかったが、物事を慎重に進めることを教えたかったのだ。

「見ちゃったなら、中に何が入ってた?」
「なんか一覧表って言うかリストと現金が十二万円入ってました。そうだ、あと、銀行口座を書いたメモも入ってました」
「現金はそのままかい?」
「はい。僕等盗ってません」
「二人の指紋がお札にもベタベタだろ?」
 雅恵は悪戯っぽい目で二人の顔を見た。
「やべぇ、素手で触っちゃった」
 二人は相当に動揺している様子だ。
「細野さんは警察に被害届けか紛失届けを出すと言ってたかい?」
「いえ、僕が勧めたんだすが、キッパリと届けませんと言ってました」
「なら、今回に限ってあんたたちの指紋は大丈夫だね」
 雅恵は二人の話を信用していた。

 メモの銀行口座の振込先を見ると、会津商店連絡協議会と書いてあった。
「この十二万円は賛助会費だね」
 雅恵はあて先からキヨリスが納めている賛助会費と断定した。
 雅恵は手袋をした手でプリントされた数枚のA4用紙の綴りを出して内容を一瞥すると急に顔色を変えた。
「あんたたち、宝物を持ってきてくれたね。今夜はお小遣いを奮発しなくちゃね」
 と言った。三人の若者はキョトンとして雅恵のにんまりとした顔を見た。先ほどから黙っていた小山が、
「そのリスト、大事なものですか」
 と聞いた。
「そうだよ。会社にとっては丸秘、つまり取り扱い注意の書類だよ」
「へぇーっ? そうなんだ」
 小山は急に興味を持った眼差しになった。人は秘密と聞いただけで、なんだか見てはいけないものをみたいと思うのだ。

「このリストを見て意味が分るかい?」
 小山は覗き込んだ。
「流動負債明細とか固定負債明細とか書いてありますね」
「そう。その通り。会社では期毎に決算をするだろ?」
「はい」
「どこかの会社のBSを見たことあるかい」
「BSって何ですか」
 小山が聞いた。他の二人も知らないようだ。「BSとはバランスシートのことだよ」
「バランスシート?」
 と鈴木が聞いた。
「鈴木ちゃん、あんた大学は経済だろ?」
「はい、一応」
「一応経済を出てるならバランスシートって言葉くらいは知ってなきゃ。あんたくびになった会社じゃどんな仕事をしていたの」
「倉庫係りでした」
「倉庫? そりゃまた大事な仕事を任されてたんだね」
 鈴木は大事な仕事と言われて納得が行かなかった。
「倉庫は大事な仕事じゃないっす。会社じゃ誰でもできる仕事だとか言われてバカにされてました」
「そりゃ、バカにした人が何も分ってないのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。棚に積まれている物、何に見えた?」
「そりゃ仕掛品とか完成品とか部品にちゃんと見えてました」
「鈴木ちゃんはまだ半人前だね」
「……」
「お金、札束に見えたら正解よ。ま、倉庫の話はあとでってことにして、バランスシートは貸借対照表のことよ」
「あ、それなら知ってます」
 と小山が答えた。
「小山ちゃんは大学は何科?」
「僕は教育学部でした」
「そう? クビになる前の仕事は?」
「総務で雑用させられてました」
「雑用でも色々あるでしょ? 例えば?」
「そうだなぁ、主な仕事は新入社員教育の事務とか」
「そう? あんたも会社じゃ大切な仕事を任されてたわけよね」
「でも、年上の先輩って言うか怖いお姐さんの下働きで僕もバカにされてました」
「へぇーっ?」
 雅恵はこの時こいつ等を鍛えなおしたら将来キヨリスで使えるなと思った。

「ところでさぁ、会社が公表しているBSを見ると、流動負債の所の短期借入金はまとめて合計金額が出ているよね」
「はい」
 三人一緒に返事をした。
「固定負債の所には長期借入金として合計金額だけでてるよね」
「今まで関心がなかったから、あまり良く覚えてないなぁ」
 今度は多田が発言した。
「そうよね、あんたたちお金に縁のない人たちだから」
 と雅恵が笑って、引き出しの中から古い決算通知書の封筒を出してそこからBSを引っ張り出して皆に見せた。
「ほら、まとめた合計額しか出てないでしょ?」
「はい」
「会社の大株主だって、普通はこんなBSしか見せてもらえないのよ。短期借入金とか長期借入金は要するに会社の借金よね。それは分るでしょ?」
「はい。分ります」
「あんたたち、借金をしたら、どこから借りて金利はいくらで、何時までに返済するとか、担保は何を差し出しているかなんてことはとても大切なことくらい分るでしょ?」
「はい、分ります」
「この表はね、そう言う明細が詳しく書いてあるのよ。これを見るとキヨリスの台所事情が良く分るわね」
「って言うことは、これってキヨリスの極秘資料ってことですか」
「そうよ。社長とか経理担当重役しか知らない情報をあたしたちは手に入れたってことね」
「それでオバサン、僕等にボーナスくれるつて言ったんですね」
「あんたたち、そう言うことには抜け目がないわね」
 と雅恵は笑った。

「こんな大事な資料をどうして細野さんが持っていたんだろ」
 と鈴木が呟いた。
「多分ね、銀行の支店長さんに直々に届けなくちゃいけない書類だったのね」
「銀行にこんな資料を出す必要があるんですか」
 と小山が質問した。
「小山ちゃん、たまにはいい質問するわね。これはね、多分キヨリスが融資を銀行さんに頼んでいるんじゃないかと思うのよ。銀行はね、今借金している内容を全部調べて、それで貸しても大丈夫か審査をするのよ。だから、この資料をどうしても提出せざるを得なかったんでしょうね」

「所で、鈴木ちゃん、今彼女居るの?」
「居ません」
「はっきり言うわね。前から居ないの」
「居ましたけど、僕、リストラされたのが原因で振られました」
「そう? 恋人がリストラされたくらいで別れちゃう女の子はダメねぇ。本当に好きだったら、鈴木ちゃんをしっかりと支えなくちゃ」
「鈴木ちゃん、細野って言う女の子についてどう思う?」
「真面目そうな感じのいい子でした」
「メアド、交換したんでしょ?」
「はい。一応」
「だったら、この際彼女にするつもりで頑張りなさいよ。あたしが応援してあげるわよ」
「そうだよ。僕たちも応援してあげるよ」
 多田も小山も賛成した。
「この資料、コピーを取ったら、細野に返してあげなさい。お金はあんたたち三人でもらっちゃっていいわよ。懐寂しいんでしょ。パチンコに使っちゃダメですよ」
 三人で山分けすると一人四万円だ。それで皆儲かったと言う顔をしていた。
 雅恵は資料の入っていた紙袋を少ししわにして、汚してから、鈴木が細野に会って直接返すように指示した。次の日にもう一度現場を探し回ったら、街路樹の根っこの草叢に捨ててあったのを見つけたが、現金は抜き取られてなかったと言えと指示した。
 それで、翌日鈴木は細野に電話をして会ってもらうことにしたのだ。

百四十九 市川雅恵の暗躍 Ⅲ

 雅恵にけしかけられて、鈴木は翌日細野にメールを送った。
「失くされた紙袋ですが、あれから僕失くした場所を中心に探しました所、街路樹の根元の草叢に似たような袋を見つけ拾って持ってます。探していた紙袋かどうか分りませんが、細野さんのご都合の良い時に会いませんか」
 送信してから鈴木は胸がドキドキした。何か後ろめたさともう一度細野に会ってみたいと言う気持ちが綯交(ないま)ぜになって複雑な気持ちだった。
 細野は、あの日親切に病院に付き添ってくれて、失くしたものを一緒に探してくれた鈴木と言う男性に何となく好感を覚えたが、自分からあの男性にもう一度会いたいなどと行動を起こす勇気はなかった。細野は、自分は男性に対していつもそうだ。ちょっといい感じだなと思う男性は今までに何人か居たが、一度だって自分の気持ちを打ち明けたことがなく、いつもすれ違ってそのままになってしまい、気が付くともう今度の誕生日で三十四歳になってしまうのだ。晩生と言うか男性に縁が薄いと言うか、兎に角今まで恋に堕ちたことは一度もなかった。それで、鈴木からメールを受け取った時、ちゃんと返事をして会わなくちゃと思ったが、またいつもの癖が出て、返事を送る勇気が出てこなかった。
「あたし、どうしよう?」
 けれども、細野は失くした大切な書類をどうしても見つけて遅くなったが銀行の支店長に届けなくちゃと言う責任感が背中を押してくれて鈴木と言う男性に返事をすることにした。
「お返事が遅くなりすみません。失くした書類は大切なものですので、お目にかかって中を確かめさせて頂きます。ご親切、ありがとうございました」
 細野から返信が届かないので、鈴木は多分会ってはもらえないだろうと半ば諦めていた。所が、夜の九時を過ぎて細野からメールが来た。
「やったぁっ!」
 鈴木は思わずガッツポーズをして小躍りしてしまった。
「会って頂けるなら、ご都合の良い日にちとか、待ち合わせ場所を教えて下さい」
 鈴木は直ぐに返信した。細野から直ぐにまたメールが来た。
「鈴木様にお任せします。そちらのご都合で決めて下さい。毎日五時半までは仕事がありますから、その後でしたら大丈夫です」
 その日は遅いので鈴木はとりあえず、
「明日またメールします。おやすみなさい」
 と返信した。鈴木は慎重にすすめろと雅恵に言われていたから、あせるな、あせるなと自分に言い聞かせた。

 細野は鈴木から返信を受け取った翌朝からずっと仕事中も鈴木からメールが来るのを楽しみにしている自分に苦笑した。最近はこんなことで気持ちが振り回されることがなかった。夕方五時半に仕事を終わって帰宅する時も何かメールが今にも来そうな気がして、携帯に注意が集中した。
「寛子、あたしの話、聞いてる?」
 並んで歩く古舘美貴(ふるだてみき)に言われて細野ははっとして古舘の顔を見た。
「寛子、今日は変、なんだか心ここにあらずって顔してるよ」
 仲良しの美貴にそんな風に言われてしまった。
「なんかあったの? 白状しなさいよ」
 その時、細野の携帯の呼び出し音が鳴った。細野が携帯を取り出すと美貴が覗き込んだ。細野はなかば本能的にくるっと向きを変えて、美貴の視線を遮った。
「あははぁ、やっぱ思った通りだ。寛子、男性からのメールでしょ」
 細野は何も言わず古舘を振り切って駆け出していた。古舘は追っては来なかった。
 50mほど走って、細野は携帯を見た。やはり鈴木からのメールだった。
「今日、これから会えませんか? イタリアンのポタジェでお待ちします。場所、分らなかったら携帯に電話を下さい」
 ポタジェは一度行ったことがあるから知っていた。細野はドキドキしてきた。

 雅恵は紀代を呼び出した。
「いい資料が手に入ったわよ。会えない」
 それで、雅恵の家で会うことにした。
「お義母さん、これってすごい資料ね」
 紀代はリストに目を通すと自分のバッグから最近の決算報告書を取り出した。
「あらぁ、決算書と短期借入金の金額が違ってるよ。えぇーと、丁度千五百万円だわね」
 紀代は更にアイテム毎にチェックした。
「分ったぁ、多分これが入ってないのよ。きっと裏金だわね」
 その話を聞いて今度は雅恵の目が輝いた。
「どれどれ? あら、確かにこれだわね。お金、何に使ったんだろ」
「お義母さん、あたしが思うに、多分秀子さんのお小遣いよ。最近彼とラブしてるでしょ? きっとそれに使っているんじゃないかな」
 千五百万円は会津信用金庫から借り入れていたものだ。担保は建物を第二抵当として差し出している。
「他の借り入れと比べると利息が高いね。どうやら会社で利息を支払っているんだわ」

 雅恵は細野と言う事務の女の子に鈴木を密かに近付けさせて、いずれ結婚をさせるつもりだと紀代に話した。
「その鈴木と言う男、信用しても大丈夫なの」
「大丈夫よ。うまく彼女を落としてくれたら、情報網としては強力よ。だから、しっかり応援して実現させたいのよ」
「彼は納得してるの?」
「もちろんよ。この結婚はあたしたちの目論見と切り離して純粋に恋愛結婚させるのがいいわね。結婚してしまえば負担にならない程度に情報を流してもらえばいいのよ。新婚後の生活費の足しに多少情報料を掴ませれば、裏切れないと思うよ。じわじわとゆっくり攻めるのがいいわね」
 こうして、雅恵と紀代は秀子を裏で少しずつ攻めることにした。近い将来裏金の件は切り札として使えると思った。

百五十 市川雅恵の暗躍 Ⅳ

「前に行ったことありますけど、忘れてしまって……」
 ポタジェで細野を待っている鈴木の携帯に細野から電話が来た。
「あ、短大は分りますよね」
「はい」
「短大のそばです」
 ややあって細野は思い出したようだ。
「あ、思い出しました。すぐに参ります」
 細野がイタリアンレストラン、ポタジェのドアーを開けると、鈴木を直ぐに見付けた。
「お待たせしました。長く待ちました?」
「いえ、さっき来たばかりです」
 細野は鈴木の前に置かれたコーヒーカップにふと目が留まった。コーヒーはとっくに飲み干した様子だったが細野は何も言わなかった。と言うよりも、来たばかりだと答えた鈴木の気遣いが嬉しかった。
「鈴木さん、何度もお手数をおかけしてすみません」
「いえ、それよりも、夕食……まだですよね」
「はい。まだです」
「じゃ、ここで夕食ご一緒しませんか」
「鈴木さんのお時間は大丈夫ですか」
 鈴木は、
「いつも暇してますから」
 と言いかけて言葉を呑み込んだ。それで、
「せっかくの機会ですから、食事に付き合ってくれたら嬉しいです」
と言い換えた。
 オーダーを聞きに来た女の子に、
「ディナーセット」
 と言いかけて、鈴木は細野を顔を見た。細野は目でOKと合図したので、
「二人同じもので」
 と付け加えた。料理が出てくる前に、
「はい、これですけど。すごく汚れていて」
 と紙袋を渡した。細野は早速中を覗きこんで、A4用紙のリストを確かめた。
「あぁよかったぁ。これです。確かにこれです。ありがとうございました。助かりました」
 と満面の笑みで鈴木にお礼を言った。
「今夜はわたしのおごりにさせて下さい」
「いいですよ。それより、僕が見付けた時は現金が抜き取られていて入っていませんでしたけど、大金だったんでしょ」
 勿論細野は鈴木が抜き盗ったなぞ想像もしていなかった。
「ええ、わたしにとっては大金ですが、十二万円です」
「えぇーっ? 十二万円も? 僕にとっても大金ですよ。残念でしたね」
「いえ、お金は弁償すればいいですから。この書類会社にとっては大切なものですので、これがちゃんと見付かったのでほんと助かりました」
 そこに料理が運ばれてきたので、二人は話題を変えて世間話をしながら食事をした。コースの中にスイーツが選べるようになっておりティラミスを頼んだのでそれが出て来た。
「ここのお店、料理も美味しいですけど、このティラミス、とても美味しいです」
 鈴木は細野がそう言ってくれて嬉しかった。
「十二万円も損されたから、今夜はやっぱ僕がおごります。この次会えたら今度は細野さんがおごって下さい」
 細野は鈴木の言うことに従った。
「じゃ、今夜はご馳走様でした」

 店を出た所で、
「駅までぶらぶら歩きませんか」
 と鈴木は誘ってみた。
 細野は素直に鈴木の横を歩いてくれた。鈴木はそれだけでもなんだか嬉しかった。
「僕、鈴木恒夫です。細野さん、下のお名前聞いてもいいですか」
「わたしの?」
「いけませんか」
「いえ、わたし細野寛子です。歌人の良寛の寛に子供の子です」
「あ、僕はりっしんべんにこう、一日一、おは夫、つねおと言います」
「ああ、恒星のこうのつねおさんですわね」
 細野は鈴木の顔を見て微笑んだ。鈴木は細野が微笑んだ時の顔がとても可愛いと思った。
 ぶらぶらと歩いたつもりが、直ぐに駅前に出てしまった。鈴木はもう少し一緒に居たかったが我慢した。
「もう、お別れですね。今夜は楽しかったです」
「わたしも」
 と細野は遠慮がちに答えた。
「またお誘いしてもいいですか」
「ええ、喜んで」
 細野はそう答えてから、すらっと自分の口からこんな言葉が出たことに内心驚いた。鈴木は嬉しそうな顔で手を差し出した。細野がそっとその手に触れると、鈴木は明らかに身体が固くなっているように感じられた。細野自身も鈴木の手に触れたとき、手から肩に電流が走ったような感覚がした。
 家に帰る途中、鈴木はずっと細野が微笑んだ時の顔を思い出していた。一方細野は戻ってきた大切な書類の入った袋をしっかり胸に抱えて家路を急いだが、道すがら鈴木の手に触れた感触を思い出していた。振り返って見ても、男性の手にあんな形で触れたのは生まれて初めてだった。

 雅恵は、鈴木が細野と仲良くなれば、キヨリスの従業員の個人情報を手に入れるのは時間の問題でいずれは上手く行くと確信していた。今はとにかく鈴木を応援してやることだ。それで、鈴木から前日のデートの報告を聞いた後、これからのデートに必要な小遣いは心配をするなと言ってやった。それを聞いて鈴木は安心したようだ。
「鈴木ちゃん、細野さんにデートの時お金を出させなかったら、失業中だってこと正直に話してもいいよ。女はね、信じようとしている男にウソをつかれるのが一番イヤなのよ。それを忘れちゃダメよ。細野さんのような女性はね、誠実な男性にしか心を開かないものよ。分ったわね」
 雅恵は鈴木に念を押した。鈴木に説教をした後で、雅恵は自分で言っておきながら、誠実とは思えない男に心を開く女なんているのかしら? なんて思いながら苦笑した。

百五十一 市川雅恵の暗躍 Ⅴ

 雅恵は鈴木恒夫と細野寛子の関係を固めれば、二人を突破口にして、キヨリス会津若松店の内部情報をつかみ、徐々に人脈の輪を広げられるものと確信していた。細野はキヨリスのオーナー、秋元秀子に可愛がられている。細野には十分に注意をして、雅恵と鈴木の関係、更に雅恵と紀代がつながっていることを絶対に知られてはならないことくらいは分かっていたが、敢えて危険を冒してもことを進めようと考えていた。
 雅恵はかって秀子の恋敵として熾烈な争いをしたから、秀子に顔を見られたら即座に秀子は雅恵を排斥するだろう。だから、パートで仕事をしいてる間でも、店内は勿論店外でも秀子と顔が会わないように気を付けていた。幸いなことに、秀子は最近店長他数名の幹部に仕事を任せっきりで店には毎月一回か二回しか顔を出さなかったので助かった。、

「鈴木ちゃん、細野さんとは上手く行きそう?」
「まだ何とも言えませんが頑張ります」
「少しは見込みがありそうなの」
「はい。デートに誘ってもいいみたいでしたから」
「そう? あんたはまだ童貞だろ?」
 鈴木は雅恵に突然聞かれてドギマギした。その様子を見て、鈴木が答えないうちに、
「そうだと思った」
 と雅恵は決め付けた。
「オバサンには敵わないなぁ」
 鈴木は顔を赤くしている。
「鈴木ちゃん、女の扱いに慣れてないだろ?」
「はい、まあ……」
「だから無理しちゃダメだよ。何回もデートを重ねる内になんとなく細野さんが鈴木ちゃんのことをどう思っているのか分かるものよ。細野さんの気持ちが分ってから手を握るなり、おでこにキスするなりするといいよ。いきなり抱きしめたり、唇にキスしちゃダメだよ」
「分ってます」
「分ってなんかいないくせに」
 と雅恵は悪戯っぽい目で鈴木を睨んだ。
「今度連休があるだろ?」
「連休?」
「バカだねぇ。あんたは失業中だから毎日連休だろ? 細野さんのことだよ」
 鈴木はまた雅恵にやられた。
「日帰りでディズニーランドにでも誘ったら? 新幹線で往復すれば日帰りでも大丈夫よ」
 そう言って雅恵は鈴木に封筒を渡した。中を見て、
「こんなにいいんですか?」
 と聞いた。
「財布の中がギリギリじゃなんかあった時困るでしょ?」
「すみません。大事に使わせてもらいます」
「彼女のハートをしっかりとつかまなかったら承知しないよ」
「はい。頑張ります」
「所で、鈴木ちゃん、あたしはね、来週から山形に行くから、そうだな、鈴木ちゃんたちに会えるのは週一くらいになると思うよ。小山ちゃんと多田ちゃんにも伝えておいてね」
「はい分りました」

 鈴木と別れると、雅恵はキヨリス山形店に潜り込む方法について思案を始めた。山形店には杉山と言う男が仲間に居ると紀代から聞いているが。雅恵は杉山に接触する気はなかった。秘密ごとは出来るだけ単独の方がバレる確率が少ないと雅恵は思っていた。だから、いくら仲間だと言われても雅恵は杉山の素性を知らないのでうかつに接触することは良くないと思った。

 その日、雅恵はキヨリス山形店に出かけた。普通の人間がスーパーに買い物に出かけると、品物と値札にばかり神経が集中して、店のバックヤードの様子に探りを入れたり、荷物の搬入口の様子を見ることはめったにない。雅恵は客としてスーパーに潜入したので、店の者に不審がられないように情報の収集に努めた。スーパーはどこでも万引き防止のために、やたらと監視カメラで店内の様子を観察しているのだ。雅恵は以前スーパーで管理の仕事をしていたから、そんなことは良く分っていた。だから、できるだけ普通に装って、決してボロを出さないようにした。
 色々調べて行く内に、山形店では閉店後外部の清掃業者に店内の清掃を外注していることが分った。夜間こっそりと観察すると、清掃は店内の売り場だけでなく、バックヤードや事務室までやっていることも分かった。

 雅恵は清掃業者が乗ってきたワンボックスカーに横に書かれた[山形ファシリティサービス]と言う文字をメモした。幸い住所も電話番号も書いてあった。
 翌日、雅恵は山形ファシリティサービスを訪ねた。住所が分っていたから直ぐに見付かった。小さな掃除屋だと思っていたが、自社ビルと思われる三階建てのビルは綺麗で整っていた。事務所は二階で一階は清掃道具、洗剤などを積みおろしする車の出し入れに使われている様子だ。
 事務所に入ると六人か七人社員が忙しそうに働いていた。受付と思われる若い女に、
「すみません、清掃員として雇って頂きたくて参りました」
 と雅恵は低姿勢で申し出た。所が女はきょとんとした顔で、
「清掃員? うちでは採用していません」
 と言った。
「欠員が出た時でもいいんですが……」
「欠員? 欠員は出ませんよ」
 と撥ね付けられた。雅恵は納得ができなかった。
「それ、どう言うことですか?」
「ですから、うちでは採用してません」
 押し問答を聞いていた若い男がやってきた。男は、
「失礼ですが、掃除婦として働きたいと言うことですか」
 と聞いた。
「はい」
「でしたら派遣会社に行って下さい。うちでは清掃員は全員派遣です。前日必要な人数を連絡しておけば、必ず集合場所に派遣が来ますので、うちの車で拾って現場に向かいます」
 雅恵は納得した。
「すみません。派遣会社はどちらでしょう」
 すると男は電話番号を書いたメモをくれた。
 事務所を出ると雅恵は、
「確かに、これじゃ欠員はでないわけだ」
 と呟いた。

百五十二 市川雅恵の暗躍 Ⅵ

 雅恵は山形ファシリティサービス社で教えてもらった電話番号に電話をしてみた。すると、テープでメッセージが流れ、
「お問い合わせ、ありがとうございました。お仕事をお探しの方は、仕事探しサイトのリンクス山形のホームページからご依頼下さい。携帯からもご利用いただけます」
 と告げた。
 雅恵がWebを調べるとリンクス山形が見付かった。何のことはない。氏名、携帯電話番号、探している仕事欄に入力して[仕事探し依頼]ボタンをクリックすると、[ありがとうございました。お仕事が見付かり次第ご連絡を差し上げます]と出た。赤字で必ずお読み下さいと→が書いてあるので、下の方も見た。そこには当サイトは派遣社員の登録は受け付けておりません。お仕事を請け負われる方々にご希望のお仕事を紹介させて頂くサイトです。ご希望のお仕事が見付かりましたら当方からご連絡を差し上げますので、全て自己責任でお仕事をお引き受け下さい。成功をお祈りします。
 と書かれていた。
 雅恵は探している仕事欄に[キヨリス山形の清掃]と入力したが、実際がどうなっているのか直ぐには理解できなかったので、とりあえず携帯に連絡が入ったら指示通り動いてみようと思った。

 その日の夕方、携帯にリンクス山形からメールが届いた。そこには、[市川雅恵様がご希望されたお仕事が見付かりました。ついては、明日十九時までに、山形駅前十字屋の裏側にお出で下さい。山形ファシリティサービスの送迎車を見つけたらお乗り下さい]と書かれていた。
「なるほど、ちやんとあの会社と話が付いているんだ」
 雅恵は感心した。
 携帯で指定された時刻に十字屋の裏の道路に行くと、前にキヨリスで見たワンボックスの車が停まっていて、雅恵が乗り込むと既に四名が乗っていた。運転手が、
「今晩は。お名前は?」
 と聞くので
「市川です」
 と言うと男は手元のリストをチェックしてから、
「社長様、どうぞ奥のお好きな席におかけ下さい」
 と言った。いきなり[社長様]と言われて不思議な気がした。ワンボックスの車のルーフには荷物台が付けられていて、そこに掃除用具、洗剤などが積まれていた。
 雅恵の後から三名が来て、十人乗りのワンボックスはほぼ満席になった。すると、運転手が、
「皆様今晩は」
 と言うと皆が口々に
「今晩は」
 と挨拶をした。
「社長様方が全員お集まり下さいましたので、改めて説明を申し上げます。毎回同じことを申上げますが、今日初めて共同経営者になられた方が二名おられますので、今日も同じ説明を致しますが、どうか気を悪くなさらずに聞いて下さい」
 と男は頭を下げた。
「今回お集まり下さった方々はキヨリス山形の店内清掃業務委託を請け負うための事業共同体でございまして、ここにおられる社長様の方々はこの共同体の共同経営者です。従いまして清掃業務は全員力を合わせて委託業務を完成されますようお願い致します。清掃用具、洗剤などは私共が共同体の下請けとして納めさせていただきます。再利用可能な用具類は全てリースとなっておりますので、経費として差し引かせていただきます。キヨリス山形様からの請負代金は当方で共同体の代理として受け取り、後ほど皆様方に分配させて頂きますが、当方で下請負させて頂いた若干の事務処理費も全て差し引かせて頂きます。何卒ご了承をお願い致します。ではお仕事、頑張って下さい」
 説明を終わると、男は車を発進させた。

 男の説明を聞いて、労働者派遣法が改まって、派遣社員の扱いが難しくなりうまいこと偽装請負を考えたものだと雅恵は思った。なんのことはない、全員を経営者にして共同経営の形にすると、雇用関係とはならず、雇用契約や社会保険の適用など全て不要になってしまうのだ。
 派遣法上、派遣社員の受け入れ条件が厳しくなり、最近偽装請負が増えているとは聞いていたが、こんな仕組みを考え出して、なんとか法の網を潜り抜けているのだ。偽装請負はもちろん違法行為だと雅恵は知っていたが、役所も人手不足で取締りが殆ど行われていないことも知っていた。
 こうして、他の六人の社長さんたちと一緒に雅恵はキヨリス山形に乗り込んだ。

 雅恵から沢山お小遣いをもらった鈴木は、細野にメールを送った。
「今週金曜日、夕方デートをしていただくお時間はありますか?」
 すると、
「金、土、日はお仕事が忙しいので、鈴木さんのご都合がよろしかったら、月曜日にお願いします」
 と返事が来た。
「なるほど、スーパーは週末にセールがあったりして忙しいんだ。花金と思ったけど、間違えたな」
 鈴木は迂闊だったことを反省した。それで、[では月曜日六時半にポタジェでお待ちします]と返事を送った。すると、直ぐに、[楽しみにしてます]と返事が来た。鈴木はなんだか嬉しくなり、来週の月曜日が待ち遠しくなった。

 月曜日の夕方、ポタジェで待っていると細野がやってきた。この前はGパン姿だったが、その日は膝上丈のスカート、上はセーターの上に白っぽい可愛らしいジャケを着ていた。パンツの時は気付かなかったが、スカートから出た脚はすらっとして綺麗だった。
 前はコースにしたが、その日はパスタとピザを注文した。二人前を取ってシェアーして食べたが、こうすると、細野が鈴木が食べる分を小皿に取ってくれて一層親密になれた気がした。細野もこの前と違ってリラックスしている様子で、鈴木は恋人とデートをしている実感がわいてきた。
「あのう、スーパーだと連休なんてないでしょ?」
「そうなの。普通のOLさんのように土日とか連休とかお休みがあればいいんですけど、うちはないのよ」
「じゃ、連休はお正月とかだけですか」
「それが、お正月も最近は二日から初売りでしょ。なので、ダメなのよ」
 鈴木は少しがっかりしたが、そんな鈴木の顔色を見て、
「予め予定とかがあればお休みはできますのよ」
 とフォローしてくれた。

「実は、僕、細野さんと東京のディズニーランドに行きたいと思っているんですが、もちろん日帰りで」
「ディズニーランドかぁ。あたし十年以上前に行っただけだな。いいわね、また行きたいな」
「僕も学生時代東京にいましたから、その時に一度行ったきりなんです」
「じゃ、ご一緒に行ってみましょうか」
 細野が積極的に答えてくれたので、鈴木は嬉しくなった。
「じゃ、細野さんのご都合の良い日に行こうよ」
「はい。スケジュールとか確かめてあとでメールします」
 鈴木は心の中で、
「やったぁ、これで決まりだ」
 と叫んでいた。
 その日も駅までぶらぶらと歩いて、駅前で別れた。

百五十三 市川雅恵の暗躍 Ⅶ

 山形ファシリティサービスの車に乗った通称社長様たち一向はキヨリス山形店の駐車場に乗り入れた。社長様たちの中にこの仕事に慣れた者が居て、自然に慣れた者が取り仕切るようになった。慣れた奴は車のルーフの上から作業衣を下ろすとめいめいに配った。作業衣には[山形清掃工事共同企業体]とロゴワッペンが縫い付けられていた。どうやらこの作業衣もリース物件となっていて、経費として差っぴかれるようだ。
 店内に入ると、先ほどから取り仕切っている男が段取りや持ち場を指定した。そしてその男の号令で、めいめい散らばって清掃作業を始めた。二時間ほど経つと、男の号令で各自手を休めて休憩となった。
 雅恵は持ち前の色気を出して、取り仕切っている男に近付いた。
「あたしは市川です。よろしくね」
「ああ、市川さんか。初めてにしては仕事の要領がいいね」
「恐れ入ります」
「この仕事はなぁ、慣れると美味しい仕事だよ。ま、これからもよろしくな」
 雅恵はその男に擦り寄って、声を落として聞いた。

「あたし、初めてなので、少し教えて下さらない」
「ああ、いいよ。不倫のテクニックでも教えて欲しいか?」
「もう、社長さんったらぁ」
 と雅恵は誘惑するような顔をした。
「実はね教えて欲しいのはここよ」
 と胸のロゴワッペンを指さした。
「おいおい、わしのハートのことか?」
「あらぁ、社長さん、悪い人ねぇ。ハートでなくて、この共同企業体のことよ」
「あはは、わしに気があるのかと思ったらそんなことか」
 男は笑った。
「この共同企業体ってここだけですか?」
「ああ、ここねぇ。うちらが入っている共同企業体の大元は清掃工事共同企業体で仙台に本拠地があってさ、中小の建設会社が集まってちゃんと国土交通省のジョイントベンチャー、JVだな。これのお墨付きをもらってるんだよ。今震災後のガレキ処理とか大々的な工事があるだろ、その仕事をあちこちの自治体からもらってるのよ。今は受注が手一杯で相当に稼いでいるらしいよ。わしらは大元の企業体の下で清掃工事の仕事を引き受けているんだがね、下に入っている企業体は、例えば石巻なら石巻清掃工事共同企業体、福島なら福島清掃工事共同企業体てな具合にその土地の名前を付けているのさ」
「じゃ、この近くですと米沢清掃工事共同企業体もありますの」
「そうそう、その通り。いっぱいあるよ」
「ファシリティサービスともつながっていますよね」
「そうだよ。金を出しているのはあっこの会社だよ」
 そんな話をしているうちに作業再開時刻になり、全員立ち上がって持ち場に散った。

 その日は雅恵の持ち場はトイレと通路だったが、いずれあの男に取り入って事務所の清掃に回してもらうように考えていた。
 作業が一通り終わると、皆集まって挨拶を済ませ用具や洗剤を片付けてから、例のワンボックスに全員乗り込んだ。
「受託代金は後ほど社長様たちのご指定口座に振込みさせて頂き、工事明細は郵送で送らせて頂きます」
 と説明があった。ここでは日雇い労働者に支払われる[日当]などと言う言葉は一切使わずに、[受託代金]と言った。ありていに言えば日雇い労務者と内容は同じだが、雇用関係を表に出さないための巧妙な仕組みを作っているのだ。自前のダンプカーを使ってガレキを運ぶダンプの運転手と似たようなものだった。

 細野が楽しみにしていた十日後はすぐにやってきた。[ディズニーランドへは十日後の火曜日、一日お休みが取れます]と鈴木にメールをしておいたのだ。
 その日、細野は朝から入念にお化粧を済ますと、会津若松駅に七時過ぎに行った。前日メールで、[七時に会津若松駅でお待ちします]と鈴木から連絡を受けていた。母には、「明日、早いから」
 と言ってあったので、
「気を付けて行ってらっしゃい」
 と言う母の言葉に押されるように家を出た。朝からお天気は良く、前日のテレビの予報では東京も天気が良いらしい。
 駅に着くと改札前に鈴木がニコニコして待っていてくれた。こんな場合、先に来て待っていてくれるのは嬉しいものだ。
「待った?」
「僕も今来たとこだよ」
「お天気、いいわね」
「ん。僕たちついてるなぁ」
 そう言って鈴木は
「はい」
 と細野に乗車券を渡した。
「自分で買いますのに」
 と細野が遠慮したが、既に買ったものなので、細野は、
「悪いわね」
 と受け取った。
 七時半の列車に乗って郡山で新幹線に乗り換えると、東京には十時半頃に着く。東京駅からJR京葉線に乗り換えると舞浜に十一時過ぎに着いた。鈴木はまごまごしては拙いので、インターネットでアクセスを事前にチェックしていたから、迷わずに行けた。
 平日なのに、ディズニーランドは割合混んでいた。
 少ししか回らないうちにお昼を過ぎた。それで、園内のレストランで昼食を済ませた。食事代は細野が払うと言い張り、鈴木は折れた。
「ごちそうさま」
 いつの間にか二人は手をつないで次に進んでいた。ワッと驚くような場面に出くわすと、細野は子供のように、
「キャーッ」
 と鈴木に抱き付いた。鈴木も無我夢中になって一緒に楽しんだ。
 まだまだ回る所があるのに、夕方になってしまった。それで、
「遅くなるから残念だけど、また来ようよ」
 と細野を促して東京駅に向った。
「夕飯だけど、丸の内で食事しない」
「わたし、一度新しくなった丸の内、歩いてみたいと思ってたんだ」
 細野は喜んだ。
 新丸ビルのレストランで食事を済ますと、七時半を過ぎていた。それで、八時過ぎの新幹線に乗って会津若松に向った。
「夜、何時に着きそう?」
「多分十一時過ぎだと思う。遅くなってごめんね」
「いいのよ。わたしたち子供じゃないからぁ」
 そう言って、細野は母に電話をしたいと言って席を外した。細野が席を立つと、鈴木は細野に恋をしてしまったと思った。ディズニーランドで、
「僕、三十二歳」
 と打ち明けた時細野は、
「わたし、ちょっとだけお姉さんかも」
 と言ったが、イヤだと言う感じはしなかった。多分、会った時から細野は自分より少し年下だと感じていたのかも知れない。鈴木は細野の歳を聞かなかったが、いずれ分ることだし、気が合うから別に気にはしなかった。
 細野が戻ってきた。
「あのう、母がね、今度わたしの家に鈴木さんを連れていらっしゃいですって」
 と微笑んだ。
「僕、照れるなぁ」
 と鈴木は答えたが、内心は嬉しかった。
「いらしてくれるわよねっ」
「ん」

百五十四 市川雅恵の暗躍 Ⅷ

 キヨリスの社長、秋元秀子は経理部長の今井秀嗣を呼んだ。秀子の旧姓は今井で秀嗣は秀子の二番目の実弟だ。
「社長、五億は無理ですよ。銀行は何と言ってますか?」
「まだ、支店長さんには会ってないわよ。あたしはね、五億くらいは出すと思ってますよ」
「そうかなぁ。青森と盛岡の二店舗以外の店も担保に差し出せって言ってくるような気がしますがねぇ」
 キヨリスはここのとこ売上が落ちて、運転資金が相当にタイトになっていたから、秀子は何としても銀行から五億の追加融資を引き出したかった。丁度その時、支店長から電話が来た。
「おたくの借入金の状況、見せてもらいましたよ」
「支店長さん、五億何とかしてもらえませんか」
「社長、一億以内でしたら私の裁量で何とかなりますがね、五億となると、本店の審査があるんで、難しいですな。山形の店は最近どうですか」
「順調ですよ」
「だったら、担保に山形も入れてもらえませんか」
「五億、ちやんと出して下さるならいいですよ」
「でしたら至急山形の負債状況の明細も追加してもらえませんか」
「じゃ、明後日にあたしがお伺いします」
 秀子は秀嗣の顔を見た。
「思った通りですよ」
 翌日、秀子は久しぶりに山形の店を覗いて見ることにした。その日は昼間、セフレの野間健人と東山温泉に出かけた。夕方は山形に行かなくてはならなかったが、ここのとこ頭の痛いことが多く、野間と愛欲に浸りたかったのだ。

 東山温泉から野間に山形まで送ってもらった。閉店後にキヨリス山形店に行くと、幸いなことにまだ事務室の灯りは点いていた。秀子は事務員でも残っていればいいなと思いながら重い足を運んだ。

 秀子が山形店にやってきた日、雅恵は仕事を取り仕切っている男に頼み込んで事務室の清掃を分担させてもらった。一通り清掃した所で休憩の号令があったが、雅恵は休憩場所には行かず、その時間に事務所のこれぞと思われるパソコンのスイッチを入れた。すると、[パスワードを入力して下さい]と画面に出た。
「パスワードかぁ」
 雅恵は一瞬ダメかと思ったが、パソコンが置いてあるデスクの周りを調べてみた。雅恵もかって事務処理をしていた頃、パスワードをついど忘れしたことがあって、引き出しの中にパスワードを書いたメモを入れていた。パソコンを扱うOLなら、そんなことをしている者は案外多いのだ。中には自分の携帯のメモ帳に書きこんでいる者もいる。雅恵はデスクの引き出しの中を探したが、それらしきメモは見当たらなかった。それで、ふと机の裏側を覗くと、そこにメモが画鋲で留めてあり、覗くと[kumiko0322]と書いてあった。
「多分、これだな」
 雅恵は独り言をいいながら、入力してみた。改行キーを叩くと、画面にメニューが現れた。
と、その時遠くで、
「社長、今晩は」
 とあの男の大きな声がした。社長と呼ばれる者は全員だが、その時の声は明らかに仲間に対するものではないと雅恵の感が働いた。雅恵は慌ててモニターの電源をオフにして、掃除機を片手に通路にしゃがみこんだ。

 雅恵は、事務所に入って来た女が秀子であることが直ぐに分った。秀子は先ほど雅恵がアクセスしようとしたパソコンのモニターの電源を入れた。すると、画面にメニューが出た。
「あらっ、しょうがないわねぇ。パソコンのスイッチが入れっぱなしになってるわ」
 そう言いながら周囲を見渡すと、デスクの影で動く者に気づいた。
「ちょっとぉ、あんた、そこで何してるの? あんた、このパソコンをいじったでしょ」
 いくら心臓の強い雅恵でも、この時は心臓が破裂するほど驚いた。雅恵は咄嗟に掃除婦になり切って、おどおどした仕草で掃除機を持った手で、
「すみません。今お掃除中です。机の上のものには手をふれてません」
 とうつむき加減で答えた。
 掃除をする時は頭に白い布をかぶって、顔は白い手ぬぐいでマスクをしていたのが幸いした。秀子は雅恵だと全く気付いていない様子だ。秀子は、
「パソコンを点けっ放しで帰っちゃって、しょうがないわねぇ」
 と言いながらキーボードを叩いて何やらデータを取り出すと、それをプリントアウトして、パソコンの電源を落としてから部屋を出て行った。掃除婦には見向きもしなかった。
 秀子が遠くに行ったのを確かめてから、雅恵は先ほどのパスワードを携帯にメモした。
「よしっ、この次には手際よくやるわね」
 と独り言を言いながら、その日は作業を終えた。

 ディズニーランドに行ってから、次の週の月曜日、細野に誘われて、鈴木は細野の家を訪ねた。初めての訪問なので、手土産を何にすればいいのか、全く見当がつかず、雅恵の携帯に電話をすると、
「そう? 上手く進んでいるようね。だったら、棒たら甘露煮の真空パックの詰め合わせをデパートで買って行きなさい」
 と教えてくれた。
「今晩は。お邪魔します」
 玄関に細野寛子と母親と思われる上品そうな婦人が笑みをたたえて出迎えてくれた。寛子の母はトキと言う名前だ。トキは今まで寛子が男友達を家に連れて来るなんてことがなかったから、その日はようやく娘に好きな男性ができたかと嬉しさと安堵の気持ちがいっぱいだった。初めて見る目の前の鈴木と言う男性は第一印象がとても良かった。スリムで背が高く、遠慮がちで礼儀正しかった。
 挨拶を終わって、食事をしながら雑談になった。トキは鈴木のことを一通り知りたかった。それで、鈴木の身辺の質問を立て続けにした。
「会津でお生まれになって、ずっと会津ですか?」
「いえ、大学時代だけ東京にいました」
「大学はどちら?」
「日大の経済です」
「経済学部だと」
「はい。水道橋です。なので、僕は小石川でワンルームを借りていました」
「ご兄弟は?」
「兄が一人居ます」
「ご自宅は?」
「西の方の会津坂下です」
「お父さまはお勤め?」
「いえ、農家ですから」
「そう? お父さまのあとはお兄さまが継がれるの?」
「はい。一応その方向です」
「お兄さまはもうご結婚なさってるの?」
「はい。まだ子供は居ませんが」
「あなたお勤めは?」
「機械を作っている会社に勤めていました」
「いましたって? 今は?」
「リストラされて失業中です」
 鈴木はハンカチを出して汗を拭った。
「そう? 将来はどうなさるおつもり?」
「今就活中です。僕はできれば市内か県内の会社に勤めたいと思っていますが、なかなか良い働き口がなくて」
 鈴木はまた汗を拭った。
「お母さん! もうこのくらいで勘弁してさしあげてぇっ」
 寛子は母の気持ちが分らないでもなかったが、初めての訪問でこんな質問攻めをして、鈴木に嫌われたらどうしようと思った。
「鈴木さん、ごめんなさいね。最後に一つだけ聞かせて下さいな」
「はい」
「娘のこと、どんな風に思っていらっしゃるの」
「感じの良い方だと思います」
「そうじゃなくて、将来のことよ」
 鈴木は観念して思い切って自分の気持ちを打ち明けてしまった方がいいと思った。
「今失業中で親の脛かじりですが、ちやんと就職したら寛子さんと結婚させて欲しいと思ってます」
 また汗を拭った。寛子はその一言が聞きたかった。母のトキはもちろん嬉しかった。農家の次男だと言うのが一番良かった。会う前は長男だったらどうしようなどと迷いがあったのだ。
「そう。では、これからは娘と結婚なさることを前提に、娘を大切にして下さいよ」
 鈴木は図らずもこれで一応親の許しがもらえたと思った。
 そこに、寛子の父親が帰宅して、顔を出した。

百五十五 市川雅恵の暗躍 Ⅸ

「娘がお付き合いさせてもらっているのは君かね」
「はい。よろしくお願いします」
 寛子の父親が部屋に入って来て、鈴木の前に座った。
「さっき、そこでちょっと耳にしたんだが、君は今失業中だそうだな」
「はい」
 鈴木はまた汗が出てきて、ハンカチを取り出して拭った。
「失業中と簡単に言うじゃないか。失業中のプータローに僕の大事な娘はやれんぞ」
 父親は厳しい顔できっぱりと言い放った。鈴木は慌てた。つい先ほどまでの楽観的な気持ちは吹っ飛んでしまった。
「必ず再就職しますから、お願いします」
 鈴木はもう一度丁寧に頭を下げた。
「ダメだ」
 すると母親のトキが、
「あなた、そんなに厳しいことをおっしゃらなくてもいいじゃない。寛子が好きになった方ですから」
 と鈴木をフォローした。
「パパ、どうしてもダメ?」
 寛子は泣きそうな顔だ。父親はしばらく鈴木の顔を見ていたが、
「前に勤めていた会社はどこかね」
 と聞いた。
「ハル・エンジニアリングです」
「工作機械を作っている会社だな?」
「はい。よくご存知ですね」
「工作機械は中国、ベトナムなどへ輸出が好調で今は景気は悪くないのと違うかね?」
「はい」
「なぜそんな会社でクビになったのか分からんねぇ。君は理工系じゃないのかね」
「いえ、僕は経済です。輸出は伸びているようですけど、辞めさせられた時の会社の説明では、円高が続いて原価の削減が急務で、事務系の社員を削減せざるを得なくなったからと言われました」
「会社じゃそんな時も優秀な社員の首は切らんものだよ。違うか?」
 鈴木は返す言葉がなかった。背中は冷や汗でびっしょりだ。
「パパ、初めて会った人にそんなこと言っちゃ失礼よ」
 寛子は抗った。

 寛子の父親はしばらく考えているようだ。部屋の中はしんと静まりかえって、自分の心臓の鼓動が聞こえるような気がした。気詰まりな雰囲気とはこのことだ。
「分った。半年以内に就職しなさい。ちゃんとした会社に就職したら許そう。言っておくがアルバイトや派遣はダメだぞ」
「分りました。頑張ります」
 寛子はこれ以上鈴木を座らせておいたのでは可哀想だと思った。
「ママ、もういいでしょ?」
 母のトキは、
「あなた、今日のところはこれくらいにして、お帰り頂いてもいいですわね?」
 と夫の顔を見た。
「そうだな。今日の約束を忘れるなよ」
 それで鈴木は解放された。玄関を出たところまでトキと寛子が見送りに出て来たが、
「ママ、あたし駅まで一緒に行ってきます」
 そう言って鈴木の後をついてきた。
「恒夫さん、ごめんね」
「僕がダメなやつだから仕方が無いよ」
「またデート、してくれるわよね?」
 寛子はこんなことで鈴木に振られたら悲しいと思った。
「寛子さんがいいって言うなら、僕は嬉しいけど」
 その後はお互いに無口になって歩いた。別れ際に、
「お互いにもっと知り合えたらいいね」
 と鈴木がぼそっと呟いた。寛子はこの先も鈴木を信頼してついて行こうと思った。

「オバサン、細野さんの両親に会ったんだけど」
「どうだった?」
「オヤジが厳しくて、半年以内に再就職できなかったら許さないっていわれてしまった」
「娘を持つ親ならそれくらいは言うわよ」
「やっぱ僕難しいかなぁ」
「バカねぇ。三十も過ぎてそんな弱気じゃ女をものにできないわよ」
 と雅恵は笑った。雅恵は近い内に鈴木を紀代に引き合わせて、就職口を頼んでみようかと思った。鈴木や小山たちには内緒だが、雅恵と青年達の活動資金は紀代が出していたのだ。
「来週会津に戻るから、みんなで美味しいものでも食べようよ」
 そう言って雅恵は電話を切った。いずれ紀代がキヨリスに復帰したらその時はキヨリスで採用する計画であったが、青年たちには一切そんな話はしていなかった。

 秀子に遭遇した日以降、雅恵は事務所の掃除中神経をピリピリさせていた。あの後三回ほど事務所の清掃当番をしている間に、雅恵はUSBメモリーに財務や人事のデータを出来るだけ沢山コピーした。宿泊場所に帰ってから、ノート(パソコン)で盗んできたデータを開いてみた。それでキヨリス山形のことをだいたい掌握した。後はパートか何かで店に潜り込んでマークした人間に近付いて人物像を確かめるだけだ。
 雅恵はキヨリス会津若松店の人事データを細野に盗ませるのは当分先になってしまうだろうと思った。

 久しぶりに、紀代のところに矢田部から連絡が来た。
「近い内に、東京でメシでも食わないか」
 もちろん紀代はOKした。
 ここのところ雅恵が着々と計画を進めてくれているが、まだ人脈作りにまで手が及んでいない。紀代はもう少し積極的に動かないとダメだろうと思う反面秘密裏にことを進める難しさも分ってきた。少なくとも一店舗で十人程度は気脈の通じる仲間が欲しかった。だが、きっかけがなければ信頼関係は生まれない。そこで紀代は郡山の士道に信用できる手下を数名貸してもらえないかと相談することにした。

百五十六 市川雅恵の暗躍 Ⅹ

 東京築地の前に行ったことがある[つきじ田村]と言う店に紀代は矢田部に連れて行ってもらった。
「紀代ちゃんとゆっくりメシを食うのは久しぶりだね」
 矢田部は久しぶりに紀代にあって嬉しそうだった。
「はい。ご無沙汰しております」
 お腹がいっぱいになったところで、紀代は雅恵が手に入れたキヨリスの借入金状況を書いたリストを矢田部に見せた。勿論コピーだ。矢田部はリストに目を通すと、
「紀代ちゃん、こんなものを良く手に入れたね。この数字は役員のわしだって知らないものだよ」
「内容に目を通して、最近の決算書の数字と突合せをしましたら、丁度千五百万円決算書の方が少ない数字になってますの」
「キヨリスの今の財務状態で千五百万円は大金だな。どれ?」
 と言って矢田部は決算書の数字と見比べた。
「なるほど、紀代ちゃんのチェックは正しいね。それで、これをどうするつもりかね」
「今は何もせず、将来何かあった時の切り札の一つにするつもりです。それから」
「まだ何かあるのかね」
 紀代はもう一枚プリントを出して見せた。
「これはキヨリス山形店の出納簿からの抜粋です」
 矢田部はそれにも目を通した。
「こんなもの、よく手に入れたなぁ」
 矢田部は感心していた。
「入手ルートは今は言えませんが、間違いのないリストです。使途不明金が六百五十万円もありまして、多分社長か特定の役員に流れているのだと思います」
 矢田部は少し考えているような顔をした。
「こんなリストが社外の部外者の紀代ちゃんの手に入ること事態、情報管理では大問題だが、今はそっとしておいて、時期を見て表にだそう。紀代ちゃん、くれぐれも身の回りの様子に注意をしていなくちゃいけないよ。ことと次第によっちゃ、何者かに殺害される危険だってあるからね」
 紀代は矢田部が真面目にこんなことを言ったのでギョとした。
「いやね、世の中はお金や権力が絡むとね、人は予想が付かない行動をするってことがあるんだよ。わしも若い頃に嫌がらせや脅しに遭ったことが何度かあるんだよ。紀代ちゃんも気を付けなさい」
 この話を聞いて、紀代は自分の身辺警備も兼ねて、士道から数人用心棒を出してもらうように頼んだが、どうやら正解のようだったと思った。

 会津若松のマンションに戻ると、紀代に士道から電話が来た。
「この前の話だがね、仙台の方は大体目処が付いたから、五人そっちに行ってもらうことにしたよ。頭は元山形県警にいた谷川と言う男だ。信頼して大丈夫だからな。後の者はそっちに行ってから自己紹介させてくれよ。話は違うがな、そのうち、紀代ちゃんの手料理を食わせてくれよ」
「士道さん、ありがとう。手料理でしたらいつでも言って下さいな」
「おう、楽しみにしてるぜ」
 電話はそれで切れた。士道はいつも無駄話をしたことがないのだ。

 翌日、谷川と言う男が子分らしき男、四人を連れて仙台の紀代のマンションにやってきた。
 紀代は事前に谷川から電話をもらっていたので、昼食の用意をして待っていた。
「どうぞ上がって下さいな」
 それで男たちはぞろぞろ上がってきた。みなむっつりとして口数が少ないが、紀代は士道や光二との付き合いが長いので気にしなかった。
「自己紹介して下さる前に、あたしの手料理ですが、お昼を召し上がって下さい」
 皆は黙々と食べたが、食べ終わると谷川が、
「いい味だ」
 と呟いた。お茶をして一服すると、
「紀代さん、ちっと来ないか?」
 とキッチンに声をかけた。紀代がテーブルに行くと、
「オレたちの自己紹介とかこれからのことを聞かせてくれ」
 と言った。

 自己紹介が始まった。
「オレは士道さんに聞いていると思うが谷川だ。よろしくな。隣のこいつは荒川次郎、荒い三本の川。歳はいいだろ?」
 と紀代を見た。
「はい。見て大体わかりますから」
 と紀代は笑った。
「荒川はアラでいいぜ。その隣は大町佐助。でかい大と町だ。大町はサスケでいいぜ」
 と言うと大町は笑って、
「紀代さんに[こらっサスケ!]なんて怒鳴られてみたいもんだな」
 と冗談を言った。それで皆が笑った。
「向い側の端のやつは及川誠だ。マー坊と呼んでくれ」
 紀代が見た所、マー坊こと及川誠が一番年少で、多分二十歳過ぎだと思われた。
「紀代さんの隣の奴は」
 と言うと、
「オレは小林平蔵って言うんだ。仲間ではコバと呼ばれているんだ。よろしくな」
 と自分で挨拶した。見た所紀代よりも二つか三つ年上で頼りになりそうだった。五人が五人とも動作に隙が無く、心身ともに鍛え抜かれている感じがした。
「最後になりますが、あたし、秋元紀代と申します。士道さんの娘みたいなものです。よろしくね」
 と自己紹介をした。[士道の娘]と言ったのが効いたのか、
「これからは姫と呼ぶぜ」
 と皆の顔を見回して谷川が決めた。紀代は姫と呼ばれることには特に抵抗はなかった。

「谷川さん、これからのことですが、しばらく山形にアジトを作って、そこで色々お願いしたいことがあります。明日山形にいらして、少し広めの賃貸マンションを二つ探して契約して下さいませんか? 費用は必要なだけあたしの方で用意します。マンションが決まりましたら、三人、三人に分かれて、あたしもご一緒させて頂きます。当面家具は必要最小限手配して下さいな」
 紀代はマンションを二つにしたのは、万一のことを考えて分散を図ったのだが、谷川は紀代の意図を即座に理解したようで、
「同じ建物ではなく、互いにあまり遠くない場所の別棟にしよう」
 と言った。
 翌日谷川から携帯に連絡が入った。
「ご希望の二軒、決まりました。敷金、礼金合わせて二百五十程度でいけそうです。家具と調度品、当面の活動費を入れて七百ほど用立てできますか?」
 と聞いてきた。紀代は、
「午後一番でお渡しします」
 と返事した。夕方、
「全部仕度が整ったよ。姫の都合の良い時来てくれや」
 と谷川から連絡が来た。やはり思った通りやることが早いと紀代は感じた。
「じゃ、今夜はどちらかのマンションでプチパーティーしましょう」
 紀代は及川に買い物に付き合ってくれと頼んで、二人でキヨリス山形店で食材や酒類を買い込んでマンションに行った。及川は今自分たちが行く方をB、もう片方をAと決めたと教えてくれた。Bには及川と小林が一緒に住むことになったと話してくれた。
 谷川、荒川、大町の3人がAだ。

 夕方遅くAに皆が集まると五人で酒盛りになった。紀代は世話役に回り、時々谷川と杯を交わした。
 五人とも仲間内では陽気でサッパリとしていた。酒盛りが終わると、明日の十時からAでミーティングをすると伝えて二人をBに帰した。
 Aのマンションには三部屋とダイニングがあり、一人一人別々の寝室にした。紀代にはBに広めの良い部屋を割り当ててくれた。
 忙しい一日が終わった。紀代は昨日、今日の出来事を当分雅恵には伏せておくことにした。
 夜中、なかなか寝付けず、ダイニングでワインを啜っていると、小林が出て来た。
「姫さん、まだ起きてたのかい」
「なんだか目が覚めてしまって」
「じゃ、少し相手をしようか」
「どうぞ」
 すると、小林もグラスを持ってきて手酌でワインを注いで飲み始めた。

百五十七 市川雅恵の暗躍 ⅩⅠ

 紀代と小林はしばらく無口でワインを飲んでいた。初対面の小林に、紀代はこれと言った話題はなかったし、元々口数の少ない小林も士道の娘だと言う隣の姫には遠慮があった。だが、小林は肢体の綺麗な紀代に片想いをしてしまったようだ。それで、一層小林は無口になっていた。そんな小林の気持ちを察することのない紀代は、しばらく飲んでいるうちに少し眠気を感じて、小林に目で会釈して部屋に引っ込んだ。残された小林はボトルが空になるまで飲み続けて、午前三時をまわったところで部屋に戻った。

 翌朝、小林はまだアルコールが抜け切っていなかったが、紀代と及川と一緒にマンションを出てAの方に向った。Aに着くと谷川達3人もテーブルでタバコをふかしていた。
「おはよぅっす!」
 小林が挨拶に続いてBから来た3人は谷川が座っているテーブルの周りに腰掛けた。
 紀代が話し始めた。
「皆さんにこちらに来て頂いた第一の目的はあたしのボディガードです。あたしに何かあれば谷川さんに責任をとってもらいます」
 そう言いながら紀代は微笑んだので皆は、
「オレたちに任せておいて下さい」
 と胸を張った。大柄の男五人に囲まれて、紀代は彼らが護ってくれれば大抵のことは大丈夫だろうと思った。
「次に、これから皆さんにお願いしたいことは」
 と言ったあとで紀代は声を潜めてこれからの策略について説明した。紀代は雅恵から手に入れた女の子の履歴書を一枚取り出して、
「この写真の子が最初のターゲットよ」
 と示した。
「可愛い子じゃないか」
 と大町と小林が写真に見入った。女の子の名前は樋川芳江(ひかわよしえ)で、生年月日から、今年で丁度三十歳になる。
「そんなことならオレたちの得意技だな。上手くやってやるよ」
 と荒川が言うと、
「おい、アラ、昔からよお、油断は大敵だと言うんだよ」
 と谷川が遮った。
「では今日の午後から早速作戦開始だわね」
 と言う紀代の言葉でミーティングはお開きになった。
「お昼ご飯、外食にしますか」
 と聞くと谷川が、
「人の集まる場所ではなるべく顔を曝さんのがオレたちのルールですぜ」
 それで、紀代が簡単な昼食の仕度にかかった。腹ごしらえが終わると、紀代と小林、谷川と大町、荒川と及川がペアになって行動することになった。
 荒川と及川がやって、紀代と小林がフォロー、谷川と大町はバックアップだ。

 その日の午後から荒川と及川、それに谷川と大町が行動を開始した。紀代と小林は連絡が入るまでは暇だ。それで、小林はマンションでテレビを見て過ごし、紀代は次の作戦地キヨリス秋田店について雅恵と情報交換をして過ごした。

 夕刻荒川から、
「追跡開始」
 と連絡が入った。紀代と小林は身支度を整えて、ターゲットを追う荒川たちの近くに急行した。
 約100m前方に荒川たちがぶらぶらと歩いていた。その先を見ると、若い男女がおしゃべりをしながら歩いていた。女が二人、男が三人だ。紀代は荒川たちは多分前方の男女をつけているのだと思った。
 谷川と大町はレンタカーに乗って、ゆっくりと荒川たちの後をつけていた。

 前方の男女はバス停で止まり、まだおしゃべりをしていた。間もなくバスが来ると、全員バスに乗り込んだ。慌てた荒川は扉が閉まりかかったバスに追いついてなんとか乗り込んだ。直ぐに荒川からメールが来た。
「山形駅行きだぞ」
 小林が谷川に電話をしようとした時、谷川がレンタカーの窓から顔を出して早く乗れと指示した。それで紀代と小林は車に乗り込むと、直ぐにバスを追った。

 山形駅で降りた五人は、樋川ともう一人の男だけ残り、後は駅の構内に入って行った。荒川と及川は樋川を尾行した。樋川と男は駅に近いラーメン屋に入った。どうやらラーメンを食べるらしい。それで、荒川と及川はラーメン屋の近くでブラブラして彼女たちが出て来るのを待った。
 谷川が突然、
「おいっ、大町、あそこのババア、確かバス停にも居たよな」
「ああ、オレも見た。何でさっきから荒川たちのそばでブラブラしてんだろ」
「用がありゃ、とっくに他へ行ってもおかしくねぇな」
「ちょいマークしとけ」
 それで二人はレンタカーの中から荒川たちの他に年配の女も監視し始めた。

百五十八 市川雅恵の暗躍 ⅩⅡ

 ラーメン屋から樋川と連れの男が出て来た。二人は山形駅東口のエスカレーターに乗って自由通路[アピカ]を通り西口に出た。山形駅の東口側は繁華街が開けているが、西口側は駅前から少し西に歩くと人通りはぐっと減り、やがて住宅街に入るのだ。荒川と及川が追っている二人はどうやら駅の西側の家に向っている様子だ。谷川と大町は荒川からの連絡で県道271号線を北に少し走ってそのまま271号を左に折れてJRの線路を潜って駅の西側に出た。ガードを潜り抜けて、直ぐに左折して線路に平行して戻ると、荒川たちを確認した。
「タニさんよぉ、あのババア、やっぱ思った通りアラさんたちを尾行してるぜ」
 大町が谷川に左側の舗道を指差した。
「ここまでつけているんじゃ、尾行にまちげぇねぇな。あのばばあ、なんでアラをつけているんだ?」
「タニさん、もしかしてあのババア、オレたちと同じターゲットを追っているのと違うか」
「だとすると、ちょい面白くなって来たなぁ」
 谷川は獲物を追う動物的な感覚が蘇ってきた。
 前方の樋川と男は尚もおしゃべりをしながらぶらぶらと西に向って歩いていた。駅から約1kmほど歩いた所で大きな交叉点に出た。通称西バイパスと呼ばれている県道51号線で、車の通行量が多い。二人は歩行者信号が緑に変るのを待って、横断歩道を突き切った。赤信号のお蔭で、荒川達と樋川たちの距離が縮まった。するとあのババアも距離を詰めて、交叉点で荒川たちに追いついた。歩行者信号が緑に変ると、樋川と男はちょっと抱き合うような仕草をして、そこで別れた。男は県道51号を北に、マクドナルドのカンバンがある方向に向った。女、樋川はそのまま直進して、ちょっと先のT字路を左に折れた。このあたりは殆ど人通りが途絶え、淋しい通りだ。それでか、女は歩調を速めて歩いていた。
 尾行をする時は、荒川達は足音を消す目的で二人ともスニーカーを履いていた。だからまだ女に尾行を感付かれている様子ではなかった。だが、荒川たちの後ろから歩いてくる年配の女のヒールのコツコツと言う音に女が振り返り、後ろから男女三人が自分と同じ方向に歩いてくるのを知った。
 それを感じてか、女、樋川の歩く早さが早くなった。女は東北電力の変電所のところのT字路を右に折れると小走りになって帰路を急いだ。

 谷川たちは県道51号を渡った所で、先の角にある商店の駐車場に車を押し込んで、そこから先は歩いて後を追った。
 樋川か荒川を尾行している女は、変電所の前のT字路を右折せずに直進した。
「あれっ? ばばあは真直ぐ行くぜ」
 谷川たちの頭の中は混乱した。だが年配の女は少し行ってから小走りで戻ってきて、曲がり角から荒川たちの行く様子を窺う素振りを見せた。
 丁度その時、図らずも谷川たちは年配の女と向かい合わせの形になってしまったが、谷川たちはそ知らぬ振りをしてそのまま直進した。谷川がちょっと振り向くと、ババアがT字路を曲がって荒川たちの方向に行くのが見えた。
 二人は小走りに年配の女を追うと、直ぐに接近した。音を立てないように歩く訓練をしていても、人が近付くと感覚的に分るものだ。本能的に気配を感ずるのだ。それで、女は振り返った。だがその時は二人の男たちが飛びかかる寸前だった。女は咄嗟に向きを変えて逃げようとしたが遅かった。女の首に大町の腕が巻きつくと、しばらくして女は次第に気が薄れ、直ぐに気を失った。一時的に脳への血液を止められて気を失ったのだ。
 大町が年配の女を落とした時には谷川は全速で商店に向い、駐車場から車を出すと大町の方に車を回した。谷川が到着した時には女は両手両足を細紐で縛られ、猿轡を噛まされていた。
 谷川と大町は女をトランクの中に転がすと、そのまま荒川たちを追った。

 何時来たのか分らなかったが、荒川たちの後ろに若い男女が小走りに歩いていた。樋川は小さな用水路のある道路を横切って直進して、さらにもう一つの道路を横切った所で荒川たちに追い付かれてしまった。
「ねえちゃん、そんなに急ぐなよ」
 女と平行して歩く及川がドスのきいた低い声で女に話しかけた。女は無視して殆ど走るように逃げたが、突然荒川に左腕を捕まれると、左手の路地に引きずり込まれた。後から小走りに来る男女の他には人影がなかった。荒川は女を脅した。
「大人しくしろよ。騒ぐとあんたここで処女を失うことになるぜ」
 樋川は年上の方の男の言葉から土地の者ではないと知り、一層怖くなって両脚が震えた。映画や小説で恐怖を感じた女が震える場面を何回も見たが、あれはドラマの上のことで、実際にはそんなことはないと思って居た。だが、その時、樋川は生まれて初めて恐怖の中で自分の身体が震えていうことをきかなくなる状態を経験させられた。声を出して助けを求めたい気持ちがあるのだが、その声も出ないのだ。
「バッグの中に財布と携帯、入ってるな?」
「……」
「答えないのかよぉ。じゃ、あんたの処女、もらうぜ」
 及川が女のGパンのチャックを下ろした。すると女が、
「入ってます。お願い乱暴はしないで」
 と震える小声で言った。女の口から少しニンニクの臭いがした。荒川が女のトートバックを引っ張ると、女はバッグにしがみ付いて、
「お財布だけにして下さい」
 と言った。
「ダメだ全部よこせ」
 その時、通りかかった男女が路地に入ってきて男が、
「おいっ!」
 と怒鳴った。振り向いた荒川は男に向って無言でハイキックを入れた。キックは歩み寄った男の左頬にヒットして男が倒れた。
「あなたぁっ! 大丈夫?」
 一緒に居た女は倒れた男を支えて起こした。男は立ち上がると、
「このやろうっ!」
 と樋川をレイプしようとしていた男の及川に飛びかかって肘打ちで応戦した。及川は肘打ちが相当効いたらしく樋川から手を離してよろけた。男は荒川目掛けて飛びかかり、荒川の頭を腕でロックするとそのまま身体を預けて荒川と同時に道路の路面に転がった。そこに立ち直った及川のキックが飛んできた。男は咄嗟に及川の足を捕らえるとそのまま引いた。及川は男にキックで伸びきった足を引っ張られてバランスを崩して荒川の上に重なって倒れこんだ。その様子を震えながら樋川と女は二人して見ていた。男が素早く立ち直って倒れた荒川と及川に蹴りを入れようとした時、
「兄貴、逃げるぜ」
 突然荒川の上に倒れている及川が荒川を起こして逃げ出した。男は追わなかった。
「あなた、お怪我はありませんか?」
 樋川に歩み寄る女は紀代だった。樋川はまだ小刻みに震えていた。男はコバこと小林平蔵だった。逃げた荒川と及川は後から来た谷川の車に乗り込んだ。
「コバさんの肘打ち、きいたぜ。まだ痛てぇよ」
 及川はぶつぶつ言った。車は年配の女をトランクに入れたまま、スピードを上げて国道51号線を南に走った。

百五十九 市川雅恵の暗躍 ⅩⅢ

 街灯の薄明かりの下で震える女を紀代はそっと抱きしめた。女は、
「彼、大丈夫ですか?」
 と心配した。紀代は女のウエスト周りの乱れを直してあげながら、
「ひょろっとしてますけど、あれでタフな人ですから、大丈夫よ」
 と答えた。
「お名前、聞かせて頂いてもよろしいですか」
 女(樋川)は見た所自分と同年代の女に親しみを覚えた。
「あたし、秋元と申します。あなたは?」
「あたし、樋川芳江と申します」
「そう? 偶然に出会いましたけれど、何かのご縁ですわね。よろしくお願いします。怖かったでしょ? ご自宅までお送りさせて下さい」
「ありがとう。あたしこそ、よろしくお願いします。あたしの家はもう少し先ですけど、よろしかったらお茶でもいかがですか?」
「はい。兎に角、お宅までお送りさせて頂きます」
 それで、三人は樋川の自宅に向って歩いた。
人は、こんな場面に遭遇すると、親切にしてくれた者を手放しで信用してしまうものだ。だが、もし、襲った者と助けた者がグルで芝居をしていたらと考えると恐ろしい。数人の男女が密かに計画して若い女を拉致し、レイプする事件は今でも大都会の繁華街では実際に起こっており、紀代はそんな事件を参考にして秘策を考え出した。狙いは的中して、十分後には紀代と小林は樋川の家の座敷に招かれて、母親にお礼を言われていた。紀代の連れの彼の友人宅がこの先の県道271号線の飯塚橋手前の飯塚住宅にあり、そこを訪ねるため裏道をぶらぶら歩いていたと小林が説明した。事前の打ち合わせもしなかったのに、紀代は小林が事前に山形駅界隈の地図をよく調べていたのに驚かされた。小林の咄嗟の言い訳を樋川の母親は信用した。
 帰り際に、樋川芳江と紀代は携帯のアドの交換を済ませていた。

 全員がマンションAに戻ったのは夜半だった。マンションに戻ると。紀代は用意しておいた夕飯を温めなおして食卓に並べた。
「あれ、これって金魚草の花か?」
 ステーキを乗せた皆の皿に二個ずつ花が添えられていた。
「サスケさん当たり!」
 紀代は大町が柄にも似合わずそんなことを言ったので、
「あらっ?」
 と思った。それで余計なことを付け加えた。
「サスケさん、これはね食用つまりエディブルフラワーの金魚草ですから、食べられるの。花壇とかに植えてあるのは観賞用ですから食べられないわよ。これの花言葉、ご存知?」
 紀代は悪戯っぽい目でサスケを見た。
「そこまでは知らねえなぁ」
「金魚草の花言葉はね、皆さんにぴったりよ。図々しいとか図太いとかでしゃばりとか」
 と紀代は笑った。
「へぇーっ? 紀代さんみたいに可愛いからさぁ、もうちと良い花言葉が付いてると思ったぜ」
 と小林が言った。

 食事が始まると大町が、
「いけねぇ、忘れてた」
 と大きな声を出した。谷川ははっとした。
「そうだ、あのババア、ほったらかしてたな」
「ババアって?」
 と紀代が聞くと。
「実はな、あんたらを尾行していた年配の女をとっ捕まえてさ、車のトランクに入れっぱなしにしてるってことよ」
 谷川が答えた。
「名前とかはもう調べられたんでしょ?」
「もちろんだ。財布と携帯を取り上げて車のダッシュボードに放り込んでおいた。免許証を見たら、名前は確か市川雅恵とか書いてあったな。優雅の雅に恵だ」
 紀代は内心驚いたが、雅恵の存在は当分彼等に伏せておきたかった。もちろん男たちの存在も雅恵に伏せておきたかった。それで、顔色を変えずに、
「いいわ、今回樋川さんの件が成功しましたから、その年配の方は密かに解放してあげて下さい」
 と指示した。
「樋川との関係を洗い出さなくてもいいんですかい?」
 と荒川が聞いた。
「今後、あたしと樋川さんが接触し始めて邪魔するようなら、面は割れてますし、住所も携帯の番号も分ってますから、改めて掃除をお願いするわね」
 と答えた。それで谷川が、
「分った」
 と答え、この話は話題から外された。

 雅恵は、振動で意識が回復した。手足は縛られているし、猿轡されているし、身動きが取れない。真っ暗な狭い空間でタイヤの騒音、エンジンの振動を考えると車のトランクに入れられていることを直ぐに知った。気を失ってから何時間経っているのかは全く分らないが、尿意を催してしまって困った。声は出せず助けを呼ぶこともできないのだ。
 気が付いてからもう三時間以上にもなると思われた。おしっこをしたくともどうしようもない。我慢に我慢をしたが、限界になって冷や汗がでた。しかしどうすることも出来ずに、ついに転がされている姿勢で放尿してしまった。恥ずかしいがどうにもならない。パンツの中に暖かい液体が広がり、やがて尿の臭いが鼻を突いた。
 放尿して一時間もたってから、外で人の声がした。するとエンジンが始動して車は発進した。三十分も走っただろうか? 急に路面が悪くなって雅恵の身体はバウンドした。腰骨を打って痛いのを我慢していると、突然トランクが開けられて、担ぎ出された。身体を持ち上げた男は、
「臭えっ!」
 と呟いたがそれ以外は無口で何も言わなかった。
 雅恵は草叢に転がされた。どうやら河原らしい。男は手足の細紐をほどくと、猿轡も外した。サングラスに大きなマスクをしているし、星明りなので顔は分らない。男は雅恵に財布と携帯を押し付けると、さっさと車に戻り、トランクを閉じると直ぐに走り去った。ナンバープレートを見たが、汚れていて数字が読めなかった。
 外に放り出されると、お漏らしした尿が冷えてお腹から下が冷えた。
 雅恵は雑草を掻き分けて土手の上の道路に出てヒッチハイクをするつもりだった。下半身が濡れているのでできれば小型のトラックが良いと思った。
 後で確かめたところ、解放された場所は最上川の河川敷だった。
 雅恵は、自分をこんな目に遭わせたのは、きっと秀子の息がかかつた手下だろうと思った。それで、今後は用心深く行動をすることにした。命を落とさなかっただけでも良しとするかと思った。

 紀代は雅恵とまさかバッティングするとは想定していなかった。同じキヨリス山形をターゲットにしていれば、またバッティングする可能性が高い。それで、二日後に雅恵に電話した。
「お義母さん、山形は詳しい情報が取れたので、今度はキヨリス秋田の方をお願いできない?」
「紀代ちゃんお一人で大丈夫?」
「ええ、大丈夫。手分けをしないとなかなか進まないから、秋田の方、お願いね」
「じゃ、明日秋田に行って、アパートを探しておくわね」
 話が上手く行った。それで、紀代は次のターゲットの攻略を検討した。雅恵は紀代に一昨日の出来事を話さなかった。紀代はそれで良いと思った。雅恵はまだ紀代の行動力や思慮深さを理解していなかったようだ。

 樋川を襲った翌日、紀代は樋川にメールを送った。
「お茶しませんか?」
「いいわ。どこで?」
 返事は直ぐに返ってきた。
「山形国際ホテル一階のグロリアスで十九時に」
「了解」
 この時を機会に、紀代は樋川とお友達になった。

百六十 市川雅恵の暗躍 ⅩⅣ

 軽部竜一(かるべりゅういち)、紀代はこの男に興味を持った。キヨリス山形店で仕入れを担当している四十一歳の男だ。小売量販店では、売上と仕入れが経営の両輪だ。この二つが噛みあって上手く回転すると、業績はぐんぐん伸びる。売上は同業他社との熾烈な価格競争の中で集客力が決め手となるのだが、スーパーでは他社と一円か二円の単価差で集客数が違ってくるから、主婦の単価を見る目の厳しさはその道の者でないと分からない。一度、あの店は高いと悪評が立てば、たちまち来客数が減ってしまうのだ。他社より安い単価を提示しても儲けを出すためには、当然のことながら、安く仕入れる力がものを言う。紀代は中学時代から量販の厳しい世界に入ったから、そんなことを良く知っていた。雅恵が持ってきた情報によると、軽部の部下に五十嵐光秀(いがらしみつひで)と言う男がいた。歳は三十六歳だ。紀代はこの二人について調査を開始した。
 先ず、地元の探偵社に頼んで軽部と五十嵐の身辺調査を依頼した。二人とも履歴書があるので、ある程度の情報はあるが、家族構成、親戚関係、素行、近隣の評判などは調べてみなくては分らない。
 やってきた探偵社の中年の男は一週間くれと言って帰って行った。

 次に、谷川達にキヨリス山形店の納入業者の中から、売上の大きい順に食品卸二社と日用雑貨卸の一社を選んで谷川たちに三社の仕入れルート、軽部たちとの取引の状況について調べてくれと頼んだ。
 一週間が過ぎた時、探偵社の男が調査資料を持ってやってきた。それぞれ各人のスナップ写真も添付されていた。
「この軽部ですが、実家は農家ですね。長男なのに家業を手伝っていないのですか?」
「ああ、その話ねぇ、近所の聞き込みをしたんですがね、高校を卒業してから三年位は家の畑仕事をやっとったようです。しかし、二十代の頃、地元の不良グループと付き合い始めて、遊びまわり家業を手伝わなくなったんですな。ところが、軽部家はキヨリス山形店の店長の遠縁になるそうでして、店長の口利きで今の仕事に就いたそうですわ。それ以来、竜一は家業を手伝わず、今は姉の婿がオヤジの手伝いをやっとります」
「ご家族は?」
「それが、こいつはまだ独身ですよ」
「不良グループとは今でも繋がってますの」
「すみません、そこまでは」
「じゃ、そこのところを追加で調べて下さい」
「五十嵐はどうですか?」
「この男はサラリーマン家庭の次男坊で、地元の国立大学を出とります」
「と言うとY大?」
「そうです。工学部出身ですな」
「優秀なんですね」
「多分。近所では子供の頃から真面目だったそうで、なんでスーパーに入ったんですかなぁ」
 探偵の男は製造業の大企業に就職できたはずだと言わんばかりだ。紀代はキヨリスを大した企業でないと決め付けているこの男にむっとしたが顔には出さなかった。
「結婚して、一歳の息子がおります」
 と男は言い添えた。
 紀代は五十嵐に一度会ってみたいと思った。

 取引関係を調べまわっている谷川たちはマンションに戻るとその日の報告をしてくれた。
「調べましたがね軽部のやつ、殆ど一人で取引をやっていて、五十嵐には倉庫係のような仕事をやらせておるようだな」
「月々相当の取引高がありますから、リベートなど金の流れをつかむのは難しいですか」
「もうちょい時間がかかりますがね、オレの昔のダチが現役で署におりますから、ちょい手伝ってもらって調べますよ」
「一番取引の多いこの卸の仕入先と販路はどうでしたか」
「まだ調べの途中ですがね、品物は山形店の他に会津、秋田にも流しておるようです。トラックにGPSの追跡端末を着けてやりましたから、奴さん達が何処に行ったかなんて手に取るように分りますよ」
 と谷川が笑った。紀代はなるほど、そんな手があったのかと感心した。

 谷川たちの調査がすすむうちに、軽部は三社からかなりの裏金をもらっていることが分ってきた。つまりキヨリスへの納入単価を少し高くして浮いた差額を山分けしているようだ。勿論、そのことが表に出れば、立派な背信行為で、告訴に値する犯罪だ。
 谷川たちは軽部が接待を受ける時に、食品卸をしている会社の車に録音装置を取り付けて、尾行中前方の軽部を乗せて走る車の中の会話をICレコーダーに録音して持ってきていた。
 谷川はICレコーダーをテーブルの上に置いて、
「こいつは今日録音した会話だ」
 と言ってレコーダーの再生スイッチを入れた。

百六十一 市川雅恵の暗躍 ⅩⅤ

 車の中やトイレなど密室的な場所では本音が出易い。だから、探偵など人の素行を調べる者たちはこんな場所で聞き込みをするのが常套だ。谷川たちはそう言うことには長けていた。
 谷川はICレコーダーのスイッチを入れた。車の走行中の雑音が混じっていたが、食品卸会社の男と軽部の会話は鮮明に聞き取れた。
「……こんまいのへなこ、かおさめんごいがしだはんまぐねぇ」
「んだべが?」
「んだばー」
「オレ聞いても何を言ってんのか、さっぱり分からねぇなぁ」
 ちょっと聞いた所で、及川が困った顔をした。谷川は地元の人間だし、紀代も会津の女だから分かるようだが、他の四人は首をかしげていた。
 それで、一通り聞いた後で谷川が会話の内容を皆に説明した。
「要するにだ、最初はこの前世話してもらった女の子は顔は可愛いんだけどよ、下の方がダメだってさ。つまりセックスしても面白くないって言ってるんだ。それで、卸の男は今回の子はお前を楽しませて満足させてくれるから大丈夫と言い訳をしてやがる。軽部のやろう、こうやって卸の会社に女の面倒まで見てもらってるってことだな」
「道理で、四十も過ぎて独身でいても不自由はないわけね」
 と紀代が口を挟んだ。
「そうだよ、世の中はな、うまいこと行ってるのよ」
 と谷川が続けた。
「どうやら、今回の取引でも奴らは二百万浮かして、百万ずつ折半でいいだろうと言ってるのよ。これは結構脅しに使えるネタだな」
「この盗聴記録、別のメモリーにコピーして保存できますか」
 と紀代が尋ねた。
「ああ、簡単だね」
 と荒川が答えた。

 二日後、紀代は株式会社最上商事主任佐藤美奈子と言う名刺を持って、キヨリス山形の事務所を訪ねた。
「恐れ入ります、五十嵐様をお願いします」
 と受付の女の子に面会を頼んだ。その日、紀代はウイッグを被り、アラフォー年代の化粧をして、靴もローヒール、いかにも訪問セールをしている女のような格好で薄い色合いのサングラスをしていた。最近お友達になった樋川と万一顔を合わせても分らないようにしたのだ。
 案の定、樋川は事務所の奥のデスクでパソコンで仕事をしていた。紀代が訪れると一斉に皆の視線が飛んできたが、樋川には気付かれなかったようだ。
「五十嵐は倉庫の方に行っております。しばらくお待ちいただけますか」
 十分ほど待たされたが、履歴書の顔写真で知っている五十嵐がやってきた。
「何でしょう?」
「私共は食品のネット通販をしております。今回仕入れの手違いで、天ぷら油と胡麻油を抱えておりまして、できればこちらで売っていただければと、出し値は御社の仕入れ値の半額で結構です」
「そう言う話でしたら、私の上司の軽部と言う者がお話しを伺いますが」
「いえ、それぞれ百ケース程度しかありませんので、五十嵐様にお願いしたいのですが」
 五十嵐は困った顔をした。
「賞味期限とかに問題はありませんか」
「それは全くありません。今日はサンプルをお持ちしましたから」
 とテーブルの上に二本乗せた。五十嵐は手に取って見て、
「これと同じ品物でしたら全く問題はありません」
 と答えた。
「五十嵐様の一存で、セールとかで捌いてはもらえません?」
「どうして私でなくてはいけませんか?」
「実は」
 と紀代は声を落とした。
「軽部様について、あまり良くない噂を耳にしたものですから」
「変なことを言わないで下さい」
 五十嵐はむっとした表情をした。紀代はおもむろにICレコーダーをテーブルの上に置いた。
「ここでは人の耳がありますから」
 と言うと、五十嵐はそれを理解して、間仕切りされた応接に案内した。そこで紀代はICレコーダーの会話の一部を五十嵐に聞かせた。五十嵐の顔色が変った。

「これ、どこで手に入れられましたか」
 五十嵐は真剣な眼差しだ。
「実は御社と取引をするに当たりまして、失礼ですが、私共でちょっとだけ調べさせていただきました。この会話が軽部様ご本人のものでしたら、軽部様とはお取引をしたくないと思いまして」
 五十嵐はしばらく考えるような顔をしていたが、
「金額がわずかですから、今回限りと言うことで、品物を直接倉庫に送り込んで下さい。経理に樋川と言う者がおりますので、品物と交換で代金をお支払いさせて頂きます」
「では、明日送り込みますので、運転手にお支払い下さい」
 それで商談は成立した。
 帰りがけに、
「五十嵐様、これを機会にもう一度だけお目にかかっていただけません?」
 と言うと五十嵐は困った顔をしたが、
「時間外に社外ででしたら、一度だけなら」
 と答えた。
「ご連絡はこちらの事務所にしてもよろしいでしょうか」
 と聞くと、五十嵐は胸ポケットからボールペンを取り出して、紀代が差し出した手帳に携帯の番号を書いてくれた。
「ご無理を聞いていただいてありがとうございました」
 紀代は深く頭を下げてその場を立ち去った。五十嵐は訪ねて来た佐藤美奈子と言う女が見た所自分と同年代か少し年上だが、綺麗な人で仕事のやり手のように感じて興味を持った。

百六十二 市川雅恵の暗躍 ⅩⅥ

「光男ちゃん、お元気?」
 五十嵐は月曜日夕方、先日突然訪ねて来た佐藤美奈子と言う婦人に誘われて、山形駅西ビル店一階にあるカフェオーマリオンで美奈子と再会した。
「息子のこと、よくご存知ですね」
 五十嵐は驚いた。
「ビジネスで人に会う時は、ある程度相手のことを下調べするのは常識ですよ」
 と美奈子は笑った。
「そうですか。佐藤さんは完璧主義ですか?」
「いえ、普通ですよ」
 美奈子はまた笑った。五十嵐はその笑顔にすっかり虜になってしまった。自分の妻も人に自慢できるほど可愛いと思っているが、仕事のことはさっぱりで今自分の前に居る素的な婦人と比べると見劣りがする。
「それはそうと、先日のお約束の品物は夕刻受け取りました。安くお譲り下さいましたので、お客様に良い値段でセールをかけられましたので、一日で売り切ってしまいました」
「あら、良かったですわね」
 五十嵐はふと美奈子の左手の薬指を見た。
「佐藤さんはご結婚されていらっしゃるんですね?」
 美奈子の薬指にはシンプルなエンゲージリングが嵌められていた。美奈子は左手をそっと上にして、黙って微笑んだ。肯定するでも否定するでもない表情だが、敢えて聞くまでもないと五十嵐は思いつつ、少しがっかりした。

「所で、先日聞かせてもらった軽部先輩の会話、あれって本当ですか」
「そうよ」
 美奈子はさらっと言ってのけた。五十嵐は以前から取引先との癒着について噂があることを知ってはいたが、あんなにリアルに聞かされては否定のしようがなかった。あの声は間違いなく普段聞きなれた先輩の声だ。
 美奈子は話題を変えた。
「五十嵐さんはY大の工学部のご出身だそうね?」
 五十嵐は目の前の女性が自分のことをどれほど知っているのか少し恐ろしくなった。
「はい。工学部です」
「ご専門は? 卒論のテーマってことでも構いませんが」
「応用生命システム工学科でした。卒論の研究テーマは人工細胞です」
「あら、最先端の技術ですわね。 iPS細胞は今世間の脚光を浴びてますでしょ?」
「はい。一番進んでいるのは京大ですが」
 五十嵐は目の前の女性の口から iPS細胞などと言う専門用語が飛び出してまた驚いた。自分の妻ならこんな風に会話は進まないのだ。
「今キヨリス山形店にお勤めですよね。将来転職を考えていらっしゃいますの」
「いえ、ずっと今の仕事を続けたいと思っています」
 その気持ちを聞かされて、美奈子は内心ほくそえんだ。
「なにか可笑しいですか?」
 五十嵐は美奈子の一瞬の表情を見逃さなかった。
「今のお仕事でご自分の希望をお持ちですか? 或いはこうすればもっと良くなるとかご自分の主張とか?」
「はい。初対面に等しい方にお話しすべきことではないですが、自分なりに考えは持っています」
 美奈子は五十嵐の質問には答えずに五十嵐の仕事への情熱について聞きたいと思った。
「例えば?」
「自分の中では二つのテーマを持っています。話が長くなってもいいですか」
「どうぞ、聞かせて頂きたいわぁ」
 美奈子の返事に力を得たように、五十嵐は話始めた。

「小売量販店では品物の単価が一番大切です。単価は仕入れ価格より安くしたのでは経営が成り立ちませんから、仕入れ値より安くできません。そんなことは当たり前で誰でも知っていることですが、倉庫を任されていますと、何時まで経っても売れずに倉庫の棚に置きっぱなしになっている商品が沢山あります。僕は商品の回転状況を従業員全員が見えるようにして情報を共有できるようにしてみたいと思っているんです。そうすれば、売り場の人たちは回転の鈍い商品をお客様の目に付き易い所に移すとか、お店全体が活動的になるような気がしてるんです。コンビニとか全国展開している大型スーパーなんかじゃ、当たり前にやっていることなんですが、うちではまだまだです」
 美奈子は目の前の男が自分が将来必要としている人材にぴったりだと思った。
「じゃもう一つは?」
「僕は応用生命システム工学を勉強してきました。やはりうちのような大型の食品店は地域の皆様の健康をお守りすると言うコンセプトを持ってもいいんじゃないかと思っているんです。今、原発事故で放射能汚染が問題になってますが、生産者や納入業者任せにしないで自分たちのお店でも積極的に安全確保に取り組まなくちゃいけないのではないかと思っています」
「五十嵐さん、とても良いお考えをお持ちですわね。上司の軽部さんともお話をなさいますの」
 五十嵐はちょっと淋しそうな顔をした。
「軽部先輩は、なんて言うか昔ながらの親分子分の考え方で、自分の考え一つで仕入れをやってます。売れないと仕入れ値を無視して特売して売ってしまったり。なので、先輩に意見は言いません。怒鳴られるのがおちですから」
 と五十嵐は笑った。
「お休み、取れることはありますの?」
「僕がですか?」
「ええ」
 五十嵐は難しそうな顔をしたが、
「予め予定をしておけば一日か二日なら休めます」
「そう? あたしがお誘いしたらお休みを取って下さいます?」
「構いませんが」
「今、お気持ちを聞いて、五十嵐さんに是非ご紹介させいいただきたい人がいますのよ。出来れば奥様と赤ちゃんもご一緒に一度東京に出ていらっしゃいません? あなたにとって決して損はしない相手ですよ」
「結婚してから、僕、忙しくて、一度も妻を旅行に連れて行ってやれないでいます。その方にお会いする時、妻や赤ん坊も一緒でも大丈夫なんですか」
「もちろんよ。旅費とか宿泊費は今回助けて下さったお礼としてあたしが持たせて頂きますわ。ご都合のよろしい日にここにご連絡ください」
 そう言って美奈子は携帯のメールアドレスを書いて渡した。
「最初の日は美味しいものを頂いて、次の日はディズニーランドかディズニーシーにいらっしゃるといいわね。赤ちゃんはお預かりする所がありますから、お二人で夕方までお楽しみになられたらいかが?」
 五十嵐はそんなことなら是非誘って下さいと言って帰って行った。

百六十三 市川雅恵の暗躍 ⅩⅦ

 雅恵から電話が来た。
「そちらはどう?」
「お陰さまで山形は人事と仕入れの情報源を押えたわ」
「そう? 良かったじゃない?」
「鈴木恒夫さんと細野寛子さんのことですが」
「頼んでおいた就職口、どこか良い所見付かった?」
「ええ、知り合いの方にお願いして、信用金庫の職員として入行させられそうなのよ」
「あらぁ、それなら文句なしよ」
「それで、一度紹介者と顔合わせをさせたいの。どうかしら?」
「紀代ちゃんも会うの?」
「仕方がないわね」
 紀代は矢田部に理由を話して鈴木のことを頼んでいたのだ。
「お義母さんはまだ矢田部さんには会わない方がいいわね」
「そうね、紀代ちゃんの足場が整ってからの方がいいわね。じゃ、鈴木ちゃんに紀代ちゃんの都合の良い日に会うように言っておくわね」
 丁度矢田部がキヨリス会津若松店に来ている日に、紀代は鈴木に連絡を取って、矢田部と顔合わせをすることにした。
 その日夕方、紀代は駅前で鈴木と待ち合わせをするとタクシーに乗り、
「桐屋 権現亭」
 と告げた。十分ほどで店に着いた。蕎麦屋だ。鈴木とは初対面だが、雅恵に聞いていた通り礼儀正しそうで大人しそうな男だった。
 鈴木は雅恵に就職の世話をしてくれる方に会えと言われて、言われるがまま紀代に会った。会ってくれるのは中年のオッサンだとばかり思って居たから駅前で待っていてもそれらしい男は見付からなかった。ところが、背後から、
「もしかして鈴木さん?」
 と声をかけられて、振り返って驚いた。すらっとして脚の綺麗な若い女性が立っていたのだ。だから、タクシーに乗ってもなんだか落ち着かなかった。
 店に入ると、
「四名様ですね?」
 と店員が確かめた。
「あら、三名のはずですが」
 と答えると、
「矢田部様から一名追加をしてくれと電話がありました」
 と答えて店員はテーブルに案内した。客席と客席の間が広くとってあり、落ち着いた雰囲気の店だった。

 しばらくすると、矢田部が一人の男を連れて入って来た。矢田部は紀代の顔を見るとにこにこして、
「待たせたかね?」
 と言って連れの男を、
「どうぞ」
 と言って隣に座らせた。紀代と鈴木は矢田部と男と向かい合わせだ。店員がお茶を持って来たところで紀代は立ち上がって、
「こちらが鈴木です。お世話になります」
 と二人に頭を下げた。鈴木は慌てて立ち上がると、紀代と一緒に頭を下げた。鈴木は完全にコチコチに緊張している様子だ。
「そうか、紀代さんの紹介の鈴木君か。わしは矢田部、お隣は君を預かってくれる信用金庫の理事長さんだよ」
 と紹介した。矢田部は理事長に向って、
「こちらの女性はね、わしが娘みたいに可愛がっている秋元紀代さんだ。彼女はなかなかの切れ者でね、M製菓の取締役をやっとるのだよ。いずれは君にも世話になるからよろしく頼むよ」
 と紀代を紹介した。鈴木は目の前の男が地元の信用金庫の理事長で、隣の女が大きなM製菓の役員だと聞いて驚いていた。そこに料理が運ばれてきた。
「鈴木君、君をこちらの理事長さんに預けるから、真面目に仕事をするんだよ」
 矢田部は諭すように鈴木に言った。
「はい。頑張ります」
 食事が終わると、
「鈴木君と言ったな」
「はい」
「明日、履歴書を持って僕を訪ねて来なさい。人事に話を通しておくから、直接理事長室に来なさい」
 と鈴木に言った。鈴木は天にも昇るほどの気持ちで、
「よろしくお願いします」
 と深々と頭を下げた。

 店を出ると紀代は矢田部に呼び止められた。それで、
「鈴木さん、一人で帰って下さらない?」
 と鈴木を帰した。矢田部は、
「理事長、この人と一緒にもう一軒」
 と言うと、理事長は了解して矢田部と車に乗った。紀代は運転手の隣に乗った。駅前のホテルのバーで三人は飲んだ。理事長は津村と言う名前で、元は東京の大手の銀行の取締役だったと言った。それで、話題はもっぱら東京丸の内界隈のグルメの話やゴルフの話に終始した。理事長は一度紀代も一緒にゴルフに付き合ってくれと誘った。もちろん紀代は、
「是非誘って下さい」
 と承諾した。矢田部が料理上手な人だと自慢をしたので、そのうち津村が持っている別荘に夫人と一緒に来て手料理をご馳走してくれと約束をさせられてしまった。

 翌日、鈴木は履歴書を携えて信用金庫の本店に出向いた。
「理事長にお会いしたいのですが?」
 と来意を告げると、受付の女性は怪訝な顔をしたが、
「ちょっとお待ちください」
 と奥に行って、戻った時には応対が一変していた。
「失礼しました。どうぞ」
 と言って女性は二階の理事長室に丁寧に鈴木を案内した。
「やぁ、来たか。さっ、そこにかけてくれたまえ」
 そう言って理事長は内線で連絡をした。間もなく人事部長が部下と共にやってきて、鈴木の履歴書を受け取ると部下の男が、
「では、明日から出勤して下さい。始業時間は九時ですが、八時半にはお出で下さい。制服その他ご連絡は朝一番でお伝えします」
 と言った。どうやら理事長の縁故者だと思って応対が丁寧だったようだ。こうして、鈴木は銀行マンとして新しい仕事のスタートを切ることになった。

 昨日面接が終わって信用金庫を出ると、鈴木は細野寛子に電話をした。
「就職、決まったよ」
「あらぁ、良かったぁ。心配してたんだからぁ」
「どこだと思う?」
「どこかの契約社員?」
「外れっ、××信用金庫の正社員」
「ウソォ、途中入社なんて考えられないよ」
「そうだよな。僕も信じられないよ。明日夕方デートできない?」
「いいわよ。お祝いにあたしがご馳走するわよ」
 それで翌日、午後八時過ぎに鈴木は信用金庫を出ると細野に電話をした。
「いつもの店で待ってる」
 細野は鈴木からの電話を待っていた。それで、連絡が来てから直ぐに例の店、ポタジェに急いだ。寛子は勿論昨夜父親と母親に鈴木の就職を報告していた。雅恵は鈴木の就職が一発で決まったことを紀代から知らされていた。雅恵はこの時、紀代の実力を改めて知らされたような気がしていた。

「紹介下さった綺麗な女性って、名前は?」
「秋元紀代って言っていたな」
「秋元紀代?」
 寛子はしばらく考えて、
「思い出したわ。その方、多分あたしの会社の大株主よ。M製菓の取締役ですって? あなたどうしてそんな方を知っていらっしゃるの?」
「僕、初対面だよ。世話になっているオバサンの紹介だよ」
「それで理事長さんに紹介下さった方は?」
「矢田部さん。なんかすごく貫禄のある人だったなぁ」
「えっ? 矢田部? 矢と田と部長の部?」
「そうだよ」
「じゃ、きっとその方うちの取締役よ。前M製菓の副社長さんだった方よ」
 寛子は不思議な縁だと驚いた。

百六十四 市川雅恵の暗躍 ⅩⅧ

 寛子の父親は、娘の恋人、鈴木恒夫が失業中だったことが気に入らなかった。いくら経済環境が厳しい世の中でも、定年間近な社員ならともかく、三十歳くらいの若い社員を簡単に解雇するとは考えられなかった。それで、多分鈴木と言う男は余程会社での勤務態度か成績が良くなかったのではないかと思ったから、ちゃんとした所に就職できないなら、娘との結婚なぞ絶対に許すものかと思っていた。たとえ就職できたとしても、地位が不安定な派遣社員や契約社員だったら許すつもりはなかった。娘が一生連れ添う相手だから、娘を想う親ならそんな気持ちは自然だ。
 それがだ、あれから一ヶ月経ったか経たない内に、娘から就職したと聞かされても信じられなかった。前に家に来た時の感じでは、簡単にウソを付くような男には見えなかったが、話がうま過ぎる。
 寛子の父親はまる一日考えた末、思い切って鈴木が入社したと言う信用金庫に電話をした。
「もしもし、鈴木恒夫と言う者の叔父にあたる者ですが、恐れ入りますが人事のご担当の方をお願いします」
 電話の向こうではなにやら相談している様子だったがしばらくして、
「お待たせ致しました。どんなご用件でしょうか?」
 と返事があった。電話に出た男は時々ある強請り、タカリかも知れないと警戒した。
「実は最近甥の鈴木恒夫と言う者がそちらに入社したと聞きまして、叔父と致しましても常々心配をしておりましたもので、間違いではないのか確かめたくて電話をしました」
「それでしたら間違いありません」
「本当ですか?」
「失礼ですが、本当に鈴木さんの叔父さまですか?」
「それは随分失礼ですね。叔父ですよ」
「そうですか。鈴木さんは当方の理事長が大手の銀行の役員をされていた時代に大変お世話になられた方からのたってのご紹介だと聞いており、幹部教育をして差し上げるように指示を受けております」
「いやぁ、そう言うことでしたら安心しました。どうぞよろしくお願い致します」
 受話器を置いた時、うっすらと額に汗をかいていた。

 娘は男嫌いと言うわけではないが、三十歳を過ぎた今まで恋人を自分の前に連れて来たことは一度も無かった。だが、先ほどの電話の内容からなかなか良い男を見つけたものだと父親は改めてこれで良かったと思った。
 そんなことがあってから、次の月曜日、父親が勤め先から帰ると、玄関に男物の靴があった。案の定、部屋に入ると鈴木が立ち上がって深々と頭を下げた。
 母親は相好を崩して、
「あなた、鈴木さんが改めてご挨拶に見えたのよ」
 と告げた。
「そんなことは分っている」
 と言いたいところだが、父親は難しい顔をして娘と鈴木の前に座った。
「お義父さん、お約束通り就職しました。改めて寛子さんとの結婚を許していただくつもりで来ました」
「……」
 父親は黙って二人の顔を見ていた。
「お父さんっ!」
 突然寛子が父親を睨むような顔をして許しを促した。
「寛子、おまえ鈴木君を好きなのか?」
「決まってるじゃありませんか」
 と母親がフォローした。
「……」
 父親は尚も黙っていた。こんな場合、一分は長く感じるものだ。目の前の鈴木は冷や汗をかいてハンカチで顔を拭った。娘の寛子は泣きそうな顔になっている。

「よしっ、寛子、結婚しろ」
 父親のこの声は寛子が一生忘れないだろう。
 鈴木が、
「ありがとうございます」
 と畳に額を擦り付けて礼をした。
「鈴木さん、寛子、良かったわねぇ」
 母親は目に涙を溜めていた。母親にしてみれば、今まで長年早く嫁いで欲しいと思っていた念願が今ようやくかなったのだ。娘よりも嬉しい気持ちだったのだろう。
 それから夕飯となったが、父親もすっかり機嫌を直して、鈴木とビールを飲み交わしていた。
「ご両親は健在だったな?」
「はい。ではなるべく早い機会に両家顔合わせをしよう。ご両親によろしくお伝えして下さい」
「はい。明日にでも早速」
 それで寛子と恒夫の結婚話はとんとん拍子に進み、結納を済ませ二ヵ月後に結婚式を挙げることになった。

「オバサン、お陰さまで細野さんとの結婚、決まりました」
 鈴木は雅恵に報告した。
「よかったわね。鈴木ちゃん、最初の話を忘れちゃ許さないわよ」
「分ってます。近い内に情報をもらいます」
「バカねぇ。あせってしくじったら今までの努力が無駄になりますよ。細野さんと本当に恋愛関係になってからか結婚後になさい」

 結婚式まであと一ヶ月と少しになった時、恒夫と寛子は一泊旅行を計画した。寛子は、もう結婚することが決まっているし、何よりも恒夫に抱かれたい気持ちが強く、一ヶ月は待ち遠しいと思って恒夫の誘いを承諾してしまった。最近は結婚式の時に既に処女を失ってしまっている女は多いと聞くが、恒夫は決してそうは思っていなかった。だが、雅恵に早く関係を持ってしまえばこっちのものだと脅かされて、具体的な行動に出たのだ。寛子は約束をしたものの、父母の許しは得られないだろうと困った。それで、母親に計画を打ち明けた。母親は恒夫に好意を持っていたし、両家の了解で結婚後は婿として同居できることになっていたから、
「お父さんに内緒だよ。母さんがうまくやってあげるから行ってらっしゃい」
 と言ってくれた。
 雅恵が車を貸してくれたから、恒夫は高速を使って京都に行くことにした。
 寛子は、多分初体験をすることになるだろうと思って、ちゃんと仕度をして出かけた。
 その日は良いお天気で、寛子は生まれて初めて彼と二人だけの一泊旅行でしかも東名、名神を走るのは初めてだったから気持ちがハイになっていた。恒夫が休みの土日に出かけたので高速は混んでいたが、二人とも渋滞は気にならなかった。一緒に居るだけで楽しかったのだ。
 思った通り、その夜は恒夫と結ばれてしまった。寛子は好きになった彼と一つにつながって幸せな気持ちにさせられていた。
 寛子と結ばれて、恒夫は自信を持った。それで、会津に戻ってから、
「キヨリス会津若松店の財務、人事のデータをこのUSBメモリーにコピーしてくれないか?」
 と頼んだ。
「構わないけど、何にお使いになるの?」
「ああ、そのことかぁ。僕の勉強だよ。金融関係に就職したから、会社の財務なんかを勉強して早く実力を付けたいんだ。そんな情報はなかなか手に入らないから協力してくれないかなぁ」
「ご自分のお勉強の範囲だけですよね」
「もちろんだよ。会社の極秘情報だってことは良く分ってるから大丈夫だよ」
 それで寛子は協力してくれることになった。翌日データをコピーしたUSBメモリーを辰夫に手渡すと、寛子は結婚式の案内状やウェディングドレスなどのことで頭が一杯になり、データを渡したことなんてすっかり忘れてしまった。

 事務所の細野が結婚すると言う情報を社長の秀子は招待状を受け取って初めて知った。
「あんなに可愛がってやってるのに、事前に相談も無くけしからんわね」
 秀子は自分に一言の相談もなく、結婚話が進んでいたことに腹を立てた。今まで、自分に懐いてくれていると思って、大事な話を隠さずに事務処理を任せてきた。それなのに、大事な話をしてくれなかったのだ。それで寛子に対する信頼が崩れてしまったように思った。
 そのため、結婚後は残業を少なくて済むようにとか適当な理由を付けて、今頼んでいる仕事を外してやろうと思った。
 こんな場合の始末の早いのが秀子のやり方だ。一週間後、寛子は財務と人事の事務処理の仕事を外されてしまった。
 その話を鈴木から聞かされた雅恵は、間一髪でデータを盗み出せたことに胸を撫で下ろした。なんたってこの目的のために、雅恵は随分鈴木に金を使ってきたのだ。万一元がとれなかったらと思うとタイミングの大切さが身に沁みた。

百六十五 市川雅恵の暗躍 ⅩⅨ

 雅恵は紀代と相談して秋田市内にマンションを借りて拠点を作った。山形と同様にキヨリス秋田店に入っている清掃業者を突き止めて、清掃作業の状況を調べた。だが、山形店と違って、事務所の清掃は社員が自主的に清掃を行っていて、清掃業者の持ち場は店内の売り場、バックヤード、それに屋外の敷地に限られていて肝心の事務所に忍び込むことは難しかった。そのことを紀代に連絡すると、
「いいわ。秋田はあたしが何とかやってみます。お義母さんは青森店の方に回って下さいません?」
 と紀代が自分でやると返事があった。雅恵は紀代独りではかなり時間をかけて潜入しなければならないだろうと思ったが、秋田は紀代に任せることにして、自分は青森に移動した。そんな時鈴木から、
「オバサンには世話になったから是非結婚式に出てくれませんか?」
 と打診があったが、
「あたしは親戚でもないし、お友達でもないから遠慮するよ」
 と断った。雅恵は恐らく結婚式に秀子が出てくるだろうと案じて断ったのだ。そんなことで万一秀子と顔でも合ったら始末が悪い。長年の怨念の間柄だからろくなことはないのだ。

 紀代は秋田店の情報を盗む手立てを谷川に相談した。
「分った。何とかしてやるよ」
 全員秋田に異動してから、谷川は秋田店の内定を開始した。拠点は雅恵が借りていたマンションをそのまま使った。
「おいっ、マー坊、お前のダチでパソコンおたくが居たな?」
「はい。仙台にススムと言うやつが居ます」
「そのススムとやらを一週間くらいこっちに呼べないか?」
「いいですよ」
 及川が友達の近野将(こんのすすむ)に電話をすると、
「来週からなら行けるよ」
 と返事が来た。
 ススムがやってくると、早速皆集まって相談をした。ススムは持って来たノートパソコンを立ち上げてキヨリス山形のホームページを開いてしばらく眺めていた。
「谷川さん、オレの考えだとそれほど難しく考えなくてもいいと思いますよ」
「どんな方法でやるんだ?」
 と及川が聞いた。
「キヨリス山形のHPに、ほら、お客様のご意見ってところがありますね」
「これか?」
「そうです」
「ここに送り先のメールアドレスがあるよね。これって事務所のパソコンで受信してるはずだから、このアドに悪戯メールを送ってやれば簡単ですよ」
「オレはトロイの木馬の方法でやるかと思ったんですがね、そんな面倒なことしなくてもいいみたいです」
「トロイの木馬って?」
 とアラさんが聞いた。
「ああ、今じゃ古典的なウィルスですよ。最近のウイルス対策ソフトはトロイの木馬なんて直ぐに見つけて削除しちゃいますから、ちと細工をしてやったのを使うんですけどね」
「ハッカーってやつだな」
 と小林が言うと、
「オレたちみたいなやつはハッカーでなくてクラッカーって言うんですよ」
 とススムは笑った。
「オレの考えだと、メールボンでやっつけるのが効果的だと思います。これだと、セキュリティーソフトが乗っていてもあまり関係ないっすから」
「メールボンは爆弾のことか?」
 と谷川が聞いた。
「そうです。バンバン落としてサーバーをパンクさせるんですよ」
「そんなこと簡単にできるのか?」
 と谷川が聞くと、
「センドメールの機能を使うと簡単です」
 とススムは答えた。
「センドメールってなんじゃ?」
 アラさんこと荒川が聞くと、
「ネット通販なんかで注文をすると直ぐに自動で確認メールを送ってきますよね。あれってセンドメールの機能を使っているんですよ。なので、大抵のサーバーに組み込まれているプログラムですよ」
「で、具体的にどうするんだ?」
「こっちから意味不明の大量のメールを送りつけてやるんです。すると直ぐにサーバーの受信容量を超えちゃって相手がアウトルックなんか開かなくてもサーバーはパンク寸前になるし、アウトルックでメールの受信をするとすっごく時間がかかって他の仕事ができなくなるし、サーバーの容量超過で他のパソコンも動かなくなっちゃうんですよ」
「ここからそんなことできるのか?」
「任せといて下さい」
 ススムはまさに水を得た金魚みたいだ。
「それでですね、こっちから大量にメールを送りつけて相手が大騒ぎになるタイミングを測って、相手に電話を入れるんです。すると大抵直ぐに対応してくれって言いますから、こっちから出かけて一晩パソコンを預かってくるんです。パソコンを預かったらこっちのものです。ハードディスクにあるデータを全部コピーしてから、パソコンを返してやれば終わりです」
 谷川は、
「グッドアイデア」
 だと喜んだ。それで、荒川と相談して、最初に電話をする時は役所的な所からにして、そこから出動依頼を出させるようにすりゃ上手く行くだろうと言うことになった。最初の電話の応対はサスケこと大町、取次ぎの電話番を紀代、パソコンの引取りをマー坊とススムにやらせることにした。
 サスケが電話する元は財団法人情報セキュリティー協会と名乗り、保守の引き受け先は株式会社情報セキュリティーサービスにして紀代が応対することにした。

 谷川はレンタカーを借りてきて、市内の印刷会社に頼んで車のボディに、[株式会社情報セキュリティーサービス]と書いたワッペンを貼り付けた。用済み後簡単に剥がせるようにした。同時にマンションの固定電話を一回線増やした。
 ススムがメールの送信を開始した。
「三十分位かかります」
 それで待っている間、コーヒーを啜った。
「よしっ!」
 ススムの合図でサスケがキヨリス秋山店の事務所に電話を入れた。
「もしもし、こちらは財団法人情報セキュリティー協会と申します。この二日か三日、私共にパソコンの具合が悪くなったとか、動かなくなったとか多数の企業から連絡が入ってまして、対応させていただいております。失礼ですが、そちら様の情報処理システムは大丈夫でしょうか?」
 すると、
「そうなんです。先ほどからパソコンが動かなくなりまして困っているんですよ。社内メールが使えなくて、急遽携帯メールで処理してますが、お客様からの情報や、データ処理がストップしてしまいまして、このままですと臨時休業を考えざるを得ない状況です」
「やはり、お宅様でも被害に遭われているんですね。どうぞ、直ぐに018- 86×-××××にご連絡下さい。私どもは国の補助金で運営しておりますので、技術料や出張費は一切頂いておりません。どうぞお気軽にお電話をして下さい。申し遅れましたが、私、担当の磯崎と申します」
 サスケが電話を切ると、
「お前さん、隠れた才能があるねぇ」
 と谷川がニヤニヤしてからかった。
 サスケが受話器を置くと直ぐに別の電話が鳴った。
「はい。こちら株式会社情報セキュリティーサービスでございます」
 紀代が応対した。
「はい、はい」
 と返事をした後、
「では午後四時でよろしいのですね。場合により一晩そちらの端末装置をお預かりさせて頂くことになりますが、よろしいでしょうか?」
「はい。かしこまりました。ではお約束のお時間に技術者を差し向けます」
 電話を終わった。
「おいおい、紀代さんもなかなかやるねぇ」
 と皆が笑って手をたたいた。

 四時きっかりに及川とススムがキヨリス秋田店に出向いた。車に貼り付けられたワッペンで誰が見ても疑われる所はなかった。
 二人は端末五台をマンションに持ち込むと、直ぐにデータのコピー作業にとりかかり、夜中に作業は終わった。ご丁寧にパスワードの一覧表まで預かってきたから、作業は滞りなく終わり、翌朝開店前に事務所に入って復旧をすませた。及川たちはちゃんと作業完了確認書まで用意して行って、先方の担当者の認印までもらって帰ってきた。
「感謝されましたよ」
 とススムはニコニコしていた。
 その夜、雅恵から連絡が入った。どうやら山形と同じ方法でUSBメモリーにデータをコピー出来たようだ。
「お義母さん、盛岡店は秋田と同じ方法でやりますから、お義母は会津に戻られて骨休みをして下さいな」

 盛岡店も及川とススムの活躍で簡単にデータを盗み出せた。全店終わると、紀代はキヨリスの情報セキュリティの軟弱さに驚いた。こんな方法を使えば、余程の大会社でもなければ簡単に重要な情報を盗み出されてしまうだろうと思った。同時に将来自分がキヨリスを引っ張ることになった時はもう少し思い切った対策を立てて改善しようと思った。

百六十六 市川雅恵の暗躍 ⅩⅩ

 雅恵の暗躍によって、キヨリスの各店舗の財務と人事の重要な情報が出揃った。紀代は及川の助けを借りて、データの整理をしてからこれぞと思う部分をプリントアウトした。紀代が調べたところ、各店舗共に幹部たちの大部分は金品の私的横領、仕入先からの収賄を度々繰り返しており、その結果業績が右肩下がりに低落していることが分った。ひどい奴は、店頭に並べられた商品を部下に命じて殆ど毎日のように自宅に持ち帰っている常習犯だ。これじゃ、万引きよりも性質(たち)が悪い。大株主としては許せないことだ。年間一万円や二万円のつまみ食いなら目を瞑ることだってできた。横領した金は帳簿には使途不明金とか適当な経費名目で引き落とされ、私的に持ち出された商品は賞味期限切れや汚れなどで廃棄される商品同様仕損金として引き落とされていた。山形店で経理を担当している樋川芳江から聞きだした話では、店長は毎朝奥様から必要品リストを手渡され、それを事務所のフロアー担当の者に渡して品物を届けさせ、持ち出した商品の合計金額を樋川に仕損金として処理させているのだと言う。
「店長の奥様はね、聞いた話では社長の姪にあたる方ですってよ」
 とも話してくれた。チリも積もれば山となる喩え通り、各店舗毎に年間数十万~数百万円にもなり、社長の秀子は突出していて年間二千万円弱に達していた。横領した金を社長の秀子に貢いでいる者は多かった。紀代は年間十万円を越えて不正を働いている者をピックアップしてリストにした。リストアップされた者はなんと五店舗合わせて二十六名にもなった。収賄に関わる行為には谷川たちの工作によって、業者との癒着現場の生々しい会話が裏付けの証拠として収録されていた。紀代はそれを書留便で矢田部に送った。

 雅恵は紀代の話を聞いて、
「全国どこの小売店やスーパーでも大なり小なり似たような不正はあるのよ。だからね、税務署はそんなところに目を光らせているのよ。個人経営の商店なんかじゃ普通に行われているそうよ。法人になっているスーパーなんかじゃ不正を黙認してくれる人脈がないと不正な私的横領は難しいわね。不正をおおっぴらに働けない場合は自分の私的な横領にも関わらず、会社がお世話になっている方への手土産とか贈り物として持ち出し、交際費や雑費、棚卸の仕損金の名目で落とさせたりしているのよ。サラリーマンってのは長い間に自分が私的横領をしているんだなんて犯罪意識が薄れている人って結構多いのよ。例えば出張先でご自分の実家に泊まったのに会社には宿泊費を平気で請求している人なんかはどの会社だって居るわよ。厳密に言えば不正だわね。実家には手ぶらじゃ行けないから宿泊費を手土産代に充てたなんて言い訳をしたりするけれど、犯罪とまでは言わないけれど、それは間違いで正直に申告をするなら宿泊費はゼロ円だわね。実家への手土産代は出張手当金や自分のお小遣いから出すべきよね」
 雅恵はそんなことを紀代に話した。
「お義母さんはスーパーアキモト時代、私的な横領なんて一切なさらなかったの」
 と聞くと雅恵は、
「あはは、あたしは悪だったわよ。見付からないように結構自由にお店の物を横流ししたり自分用で使ったりしていたわ。お化粧品なんて不自由しなかったわよ。化粧品の納入業者がお店には置けない高価な物を持ってきてくれたりしたけれど、厳密に言えば受け取ったら収賄だわね」
 これには紀代は驚いた。驚く紀代の顔を見て雅恵は笑っていた。

「スーパーアキモトの時代に、お義母さんは納入業者さんからお金に換算してどれくらい贈り物を受け取っていたの」
「過ぎた話だけど、そうねぇ、年間で百万円は下らなかったわね」
「へぇーっ? そんなに?」
「そうよ。例えば新しく納入業者として入り込みたい方からね、時価で十万円以上もするブランド物のバッグなんて頂いたわ。箱を開けたら中に封筒が入っていて、一万円札が十枚も入っていたわよ」
「そのお話しが本当だとすると、仕入れ担当の方って美味しいお仕事ね」
「そうなのよ。業者を決定したり値引き交渉の責任者はねそんなのを積み重ねると相当なものよ」
 紀代の調査では具体的に金銭を受け取った場合で、受け取ったことが明らかなケースだけ積算したのだが、雅恵の話が本当だとすると、収賄金額はもっと大きいことが想像できた。

 山形店で今は冷や飯を食わされている杉山や各店舗で左遷の憂き目に遭わされている者たち十名とはその後も紀代は月に一度程度の割合で東京で会っていた。矢田部はそんな者たちとパイプがあることを秀子側の人間に知られては拙いと思ったのか、最初だけで以後は会合に姿を見せなかった。だが、杉山たちの動きは紀代を通して報告を受けていた。

「その後、仲間作りは順調に進んでいますか?」
 紀代が聞くと杉山は、
「なかなか難しいですね」
 と答えた。
「秀子さん側の人かどうか慎重に見極めないと僕等と気脈を通じたことがバレたら相手に迷惑がかかりますから」
 と別の男が付け足した。
「山形店の五十嵐さんってご存知?」
 と杉山に尋ねると、
「ああ、倉庫をやってる人ですね。彼は僕等の仲間には入っていませんが、なかなか良い意見を持ってますよ」
 と五十嵐のことは知っていると答えた。紀代は五十嵐をディズニーシーに案内してから奥さんとも親しくなり、今も時々五十嵐と会食をしていた。
 調べたところ、秋田店の経理は阿部節子(あべせつこ)、仕入れは畠山和美(はたけやまかずみ)、青森店の経理は古館早苗(ふるだてさなえ)、仕入れは工藤謙次郎(くどうけんじろう)、盛岡店の経理は菊池太助(きくちたすけ)、仕入れは小野寺みつるだと分っていた。この中で、秋田の畠山と盛岡の菊池に紀代は興味を抱いた。大抵経理は女性で仕入れは男性なのに、秋田は女性が仕入れ担当で、盛岡は男性が経理担当だったからだ。

百六十七 青森の拠点 Ⅰ

「お義母さんに助けて頂いて、だいたい目処が立ちました。お義母さん、ほんとうにありがとう」
 紀代は雅恵に助けてもらってようやくこれからどうすればいいか自分で始末を付ける見通しが立ったと礼を言った。それで、
「会津に借りている借家を引き払って巣鴨に戻って下さいな」
 と雅恵に今も借りている巣鴨のマンションに戻るように勧めた。紀代は会津と秋田に借りているマンションを引き払い、青森に新たに部屋数の多いマンションを借りて谷川たち全員と移動することにした。秋田と青森と盛岡に気脈が通じる者を何人かキープする目的だ。
 一週間後、雅恵は会津の借家を整理して出て行った。巣鴨のマンションに戻ると紀代に無事に戻ったと連絡があった。紀代はこの先ずっと金銭面で雅恵の面倒を見ると決めていた。雅恵はそんな紀代の気持ちに感謝しつつ、あんなに虐めた紀代に今世話になっている自分の姿を省みて、人生とは分らないものだと思った。巣鴨の生活は自由奔放で快適だった。

 谷川に、
「青森市内で賃貸しのマンションを探して下さいな。大勢だから広い所が必要だわね」
 と頼んでおいた。谷川は荒川と一緒に探しに出かけたが、
「紀代さん、賃貸しじゃ、3LDK位が一番広くて物件がないなぁ」
 と連絡してきた。
「分譲ならあるの?」
「中古の分譲でもよければいいのがあります。十五階建てで丁度二つ売りに出てます。同じ棟ですがね、一戸2500万程度で買えます」
「広いの?」
「一応4LDKなんで、六人が分かれて住めば余裕ですよ」
 と答えた。
「直ぐに入居できますの?」
「売買成立後ちょい手を入れたいそうだから、一週間待てば入れますよ」
「じゃ、済まないけど、あたしの名義で二つとも押えて下さらない? あたしは明日そちらに伺います」
 谷川は分ったと言って電話を切った。

 翌日紀代は青森に向った。谷川と荒川と落ち合って、不動産屋を訪ねた。マンション不況の風が吹きまくる当節、人相の悪い二人組みの男が二戸一度に買うと言い出したので不動産屋の社長は警戒した。更に買い取るのは女だと聞かされてなるほど成金のババアが買うんだなと納得した。
 ところが、翌日店にやってきたのは垢抜けた身なりの若い女性だったので驚いた。それで多分売れっ子の女優かタレントだろうと勝手に決め付けた。
 契約は即金だったので不動産屋の社長はまた驚かされた。兎に角揉み手摩り手で現地に案内すると、エレベーターは当然のこと、トランクルームがあり、追焚機能付き都市ガス式の風呂、出入りはオートロック、ケーブルTV引き込み済み、エアコン完備、調理はIHクッキングヒーターが備え付けられたシステムキッチン、二面にバルコニーもあり、浴室乾燥機の備え付け、カウンターキッチンでモニター付インターホンもあり、宅配BOXや駐輪場も利用できるし、洗髪洗面化粧台や温水洗浄便座など設備は県内でも最高レベルだと自慢した。
「車は何台駐車できるかね」
 と荒川が聞いた。
「大事なことを忘れてました。一戸一台ですから二台は大丈夫です」
 と社長は答えた。谷川はちょっと考えてから、
「三台目は時間貸しになるのか?」
 と聞いた。社長は申し訳なさそうに頭を下げたが、
「そうだ、プラス一台、合計三台までならなんとかします」
 と言い換えた。
「よし、決まりだ。車は三台止まれるようにしてくれ」
 条件を確かめたところで、紀代はその日の内に契約をしてしまった。

 一週間後に紀代と谷川たち五人は秋田を引き払って青森に移った。紀代、小林、及川は十二階、谷川、荒川、大町は十一階に別れ落ち着いた。
 その夜、紀代は秋田店の経理担当阿部節子、仕入れ担当の畠山和美について谷川たちに内偵の開始を依頼した。紀代は秋田店が片付いたら青森店、最後に盛岡店の順で片付けて行きたいと頼んだ。

百六十八 青森の拠点 Ⅱ

 キヨリス秋田店は秋田市の中心街から約10kmほど離れた雄物川沿いの広い平地にあった。近隣の大型店は少なく、秋田店は秋田市内だけでなくて、大曲方面からも人を集め商圏は広かった。この店で経理を担当する女、阿部節子について、自宅の住所は分っていたから、谷川たちは阿部が住んでいる近所の聞き込みをしたり、店が閉まってから帰宅する時に尾行をしたりして内偵を進めた。阿部は小太りの四十歳半ばの女で、最初はレジ打ちのパートとして入社したが努力して今の仕事に這い上がったらしい。谷川たちは毎日青森と秋田を往復するのは時間的に面倒なので、紀代に相談して秋田市内に小さなアパートを借りて仮住まいをしていた。
 店の内外には万引き防止用の監視カメラが設置されている。それで、店内をぶらぶらする時には全員思い思いの格好に変装していた。日毎に変装を変えたから、監視カメラでチェックされても怪しまれる心配はなかった。
 阿部は経理担当だが、店内にちょくちょく顔を出して店員に話しかけている。その会話を盗み聞くと商品の陳列、店内の清掃不行届き、万引きしそうな客への注目、賞味期限切れの商品の撤去などまるで店長のように注意や指示を出していた。見た所店員たちにも尊敬されている様子だ。店長は高橋と言う四十二歳の男だが、外回りが多く店内を視察して回ることはあまりなかった。

 阿部節子には娘が一人おり、年老いた節子の実の父母と同居していた。亭主が居る気配がないので聞き込みをすると、十年ほど前に東京方面に出稼ぎに出かけてからずっと戻らず今は行方不明だと言う噂だった。だから阿部家の家計は節子の稼ぎでなんとかやり繰りをしているようだった。
 毎日家と職場の往復を谷川たちは根気良く見張っていた。半月ほど経った時、いつもとは違う動きがあった。尾行は大町と小林が徒歩で追い、残った三人は車で追跡した。彼らは携帯で連絡を取り合っているから連携は取れていた。
 その日、節子は帰宅方向と逆方向往きのバスに乗った。五分ほど乗るとバスを降りて、国道の舗道に立って誰かを待っている様子だ。そこに白い乗用車が近付いて、節子が乗り込むと大曲方面に走った。谷川たちは車のナンバーを写真に収めて、あまり近付かずに追った。

 節子を拾った前の車は途中右折して温泉旅館に入った。二人が車を降りるとき、男の顔が見えた。
「なんだ、あいつ店長の高橋だよ」
 と荒川が言うと、
「間違えねぇ。そうか、節子は店長とできてるんだな」
 と及川が言った。
「声がでかいぜ」
 と谷川が及川をたしなめた。彼らはデジカメで二人の様子をしっかりと撮った。その後も十日に一度程度二人は逢瀬を繰り返していた。三度の尾行で二度は温泉旅館、一度はラブホテルだった。
 店長が独身なら取り立てて騒ぐ情報ではないが、店長は女房の他に息子と娘がおり既婚者だ。だから二人は不倫をしているのだ。
 キヨリス秋田店でも店の品物を頻繁に店長に届けていたが、橋渡し役は節子で、店内から事務所に届ける者が三名いた。店長と節子がそんなことをしているせいか、三名の者もしばしば自分用として店の商品を抜き取っているのを谷川たちは確かめた。

 節子の内偵が終わると、仕入れを担当している畠山和美の行動を監視し始めた。和美は三十二歳独身で大卒だ。親元から通っており近所の評判は悪くなかった。内偵を続けたが、和美は業者との癒着が見られず、男っぽい性格で納入業者には厳しく応対している様子だった。
 しかし、谷川は和美が自分で運転する車に盗聴器とGPSセンサーをこっそり装着していた。それで、キヨリス会と言う密会が一週間に一度の間隔で密かに行われていることをつかんだ。調べていく内に、キヨリスへの納入業者が会員になっており、月々の納入額により差はあるがかなり高額の会費が集められていることが分かった。密会の場所は市内の料亭の二階と決まっていた。幹事会社が事務局となり、会費を徴収すると、毎月まとまった金額を和美に渡していることを突き止めた。問題は会社側の出席者は和美一人で恐らく店長も知らない密会であることだ。集音マイクで会合中の会話を収録してみると、大部分はたわいもない世間話であったが、何度か収録しているうちに、雑談として会費の金額や売上動向、それに値引き交渉と思われる会話もあった。会話の内容から、和美には月々数十万円が渡っているようだ。
「あの女、表向きは清廉潔白な顔をしやがって、とびきり美味い汁をすすってやがる」
 荒川が感心しながら悪態をついた。

百六十九 青森の拠点 Ⅲ

「紀代さん、阿部と畠山、どうしますか?」
 キヨリス秋田店の内偵が終わって、五人の男は青森のマンションに戻ってきた。紀代に詳細を報告してこれからどうするのか尋ねたのだ。
「そうねぇ、一度でも盗みを働いたり賄賂を受け取ったり、横領したりした人は使えないわね。信頼できないと分っていて部下として使うのはどうかと思いますよ」
 紀代はキッパリと言い放った。
「それでなくちゃ」
 と谷川が相槌を打った。
「秋田の方は如何でした?」
「一言言えば寒かったなぁ」
 と小林はボロアパートでろくな暖房が無く夜中に目が覚めたこともあったと答えた。
「少しはましなアパートにすれば良かったかしら?」
 すると谷川が、
「いえ、紀代さんの金で仕事をするのに贅沢は言えません。だが、ここはいいねぇ。高級マンション暮らしを一度やっちゃうとなぁ」
 と笑った。
 紀代はしばらく考えてから、
「事務をやっている金留美(こんるみ)と倉庫を担当している加賀谷剛(かがやつよし)、すまないけどこの二人の身辺を調べて下さらない?」
 と谷川に頼んだ。
「タニさん、調べてみてまあまあの人物でしたら、あたし接触してみたいわ。きっかけを作る方法はお任せしますから、後でご連絡を下さいな」
 紀代は自分の身分を隠してなんとか知り合いになれないか谷川に相談した。
「山形で使ったやり口が一番効果がありますがね、二人は何歳ですか?」
「金留美は二十八歳。加賀谷剛は二十七歳みたいね」
「わっかりました。やってみます」

 また秋田に戻って留美の内偵を開始した。近所の聞き込みをやったところ、東京の大学は出たものの就職に失敗して地元に戻ったようだ。家は農家で兄が二人居る。二人の兄は結婚していて、長男夫婦が親と同居、次男は分家して近くの一戸建てに住んでいることが分った。留美は嫁から見れば小姑で、しばしば早く結婚しろと脅かされいる様子だ。都会と違って、近所の聞き込みはかなり成果が得られた。東京など都会では近所の聞き込みをしても知らないと答える者が多いのだ。ひどい時にはアパートの隣に住んでいるのに何も知らない奴がいるのだ。その点、田舎の聞き込みは楽だった。
 留美は休日、と言っても毎週月曜日か水曜日に勝手に休暇を取るのだが、休日には秋田市内を友達とブラブラする他、時には弘前や仙台にまで脚を伸ばしている。連れは女友達の他にたまに男友達がいるが、どうも恋人ではないらしかった。普通の会社の平日だから、付き合ってくれる友達が少ない様子で、飲食店や美容室に通っている者たちと付き合っている様子だった。
 品行は可も無く不可もなかったが、紀代は会って見たいと答えた。それで翌週決行することになった。

 畠山の内偵中、畠山和美は一度も加賀谷と社外で付き合うことはなかった。だが、加賀谷の内偵を開始して最初の木曜日に夕方畠山と加賀谷は連れ立って市内の居酒屋に入った。その後は週に一度のペースで飲み屋に行った。
「おかしいな、畠山になにか変ったことでもあったのかなぁ?」
 谷川たちは五人とも首をかしげた。
 青森を出る前に加賀谷について、
「あら、この子弘前大学人文学部経済経営課程だわね。案外優秀な子かも知れないわね」
 と紀代が言っていたことが谷川の脳裏の隅にこびりついていた。出た大学で人を決め付けることを谷川は好きではなかったが、なぜか記憶に留まっていた。
 留美と違って加賀谷はたまの休日なのに昼間外出をしない日が多かった。だが一つだけ変った行動をした。休みの日に必ず夕方出かける所があった。パチンコだ。彼は一度に二万円以上も使って無理をすることはなかったが、いつもパチスロ X Lapanの台と決まっていた。他の台を選ぶことはなく、X Japan オンリーだった。
「面白い奴だな」
 と荒川が興味を示した。
 近所の評判を聞いて回ったが異口同音、
「あの子は真面目よ」
 だった。地元の言葉じゃ、
「あえだば、まんずまずめだば」
 とか谷川以外には何を言ってるのか分らなかったが、谷川が通訳をした。山形、秋田で聞き込みをすると相手が年寄りだと谷川が居ないと意味が通じない。中年以下の者は概ね関東弁で話をしてくれるので助かった。

 加賀谷剛は父親が中学校の教師、母親は専業主婦の家庭の一人っ子だ。剛が弘前の大学に行っている頃は家計が厳しかったようだが、今は生活に少しゆとりがあり苦労はしていない様子だった。
 剛は大学を出るとすぐにキヨリス秋田店に入社した。だから今年で入社五年目になっていた。大型小売店は商品の回転が速い。だから剛は会社に居る間は毎日が多忙だった。
「加賀谷君、たまには付き合いなさいよ」
 これが畠山の最初の誘いだった。入社以来時間外に社外で付き合うのは初めてであった。
 誘われるがままに剛は和美のあとを追った。和美はバスで秋田駅に行くと、駅前のたかの蔵と言う居酒屋に入った。
 谷川と大町がバラバラに店に入り、和美たちとは少し離れた席に座った。客はまばらで二人の会話は良く聞き取れた。

百七十 青森の拠点 Ⅳ

「どう? あなたもう五年目でしょ? 仕事、上手く行ってるの」
「畠山さん、知ってるくせに。毎日ちやんとやってますよ」
「加賀谷君、彼女いるの」
「居ません」
「ほんとに?」
「本当ですよ。平日しか休み取れないから女の子誘って遊びに行くチャンスなんかないですよ」
 加賀谷はちょっとむきになってそう答えた。
「でもさ、こんなタイプの女の子が好きってイメージくらいは持ってるでしょ」
「ん。大体こんな感じってのはありますよ」
「例えば?」
 加賀谷はちょっと俯き加減になって、
「畠山さんみたいな人好きです」
 と答えた。和美は予想もしてなかった返事に戸惑った。
「あたしって、男っぽいところあるでしょ? だから男性は寄ってこないのよ。あなた珍しいわね」
「でも……」
「でも?」
「畠山さん魅力ありますよ」
 和美は、
「どんなとこ?」
「ダメなものはダメとハッキリ言われますし、男性も女性も区別されないところかな? 会社に来る業者さんたち、時々いい女だとか言ってますよ」
 和美は正直なところ男に恋心を寄せるなんて苦手だ。だからなのかどうか自分でも良く分かっていなかったが、少しでも言い寄ってくる男たちを冷たくあしらってきた。しかし目の前の加賀谷が自分のようなタイプが好きだと告白してくれたことに珍しく戸惑い、いつものように冷たく撥ね付けてしまえなかった。和美は一瞬そんな自分に違和感を覚えた。

「加賀谷君、大学はどこだっけ?」
「弘前です」
「へぇーっ? 優秀だね」
「そんなことないですよ」
「趣味とかは?」
「特にないです」
 加賀谷はパチンコの話を伏せているようだ。
「畠山さんは?」
「あたしは東京のT女子大よ」
「じゃ、畠山さんだって優秀ですよ」
「あはは、お互いにそんな話をしてる人を他人が見たらバカに見えるわね」
 と和美は笑った。その笑顔を見て、
「僕、畠山さんが今のように笑った顔、すごく好きです」
 和美の中にむらむらといつもの癖が盛り上がってきた。
「加賀谷君、そう言うことは口に出さないものよ。気安く言うと相手に失礼よっ!」
 ピシャっと言われて加賀谷はドギマギしている様子だ。谷川と大町は二人の会話を密かにICレコーダーに収録中だったが、知らず知らず二人の会話の中に引き摺り込まれてしまっていた。

 その日の和美は正直なところ目の前でドギマギしている加賀屋を可愛いやつだと感じていた。
「うち月給安いのに今の仕事に満足?」
 和美は話題を変えた。
「満足してるかって難しい質問ですよ」
「難しいかしら?」
「難しいですよ。どんなところに満足してるかって聞かれれば答えられなくもないですけど」
「じゃ、どんなところに満足してる?」
「いろいろありますよ。会社が家に近いとか、畠山さんのような先輩がおられるとか」
「あなたよくあたしのことをズケズケ言うわね。ま、それは別として、あなたコーポレートガバナンスって言葉ご存知?」
「知ってますよ」
「へぇー? 難しい言葉知ってるのね」
「これでも一応経済・経営学科を出てますから」
「あら? それじゃ知ってて当たり前よね。うちの会社をどう思う?」
「ガバナンスがちゃんとできてるかって意味ですか?」
「ま、そう言うことね」
 谷川も大町も聞いたことはあったがちゃんとした意味は知らなかった。それで二人は顔を見合わせた。加賀谷ははっきりと、
「うちは全然ダメですね」
 と答えた。

「たとえばどんなところ?」
「うちは社長一族の同族会社でしょ」
「そうだわね」
「一般論ですけど、同族会社は一部の役員の意向で経営側の色々なことが決定されますからコーポレートガバナンスが効き難いって言われてますよね。うちもそんなとこがあって、全体的に管理がゆるいような気がしてます」
「具体的に何か知ってるでしょ」
「社内じゃ言えませんけど、棚の商品がよくなくなるんですよ。僕、倉庫やってますから何となく分かるんです。棚の商品を無断で持ち出している社員がいるとか聞いたことがあります。内部監査がちゃんとできてればそんなこと直ぐにみつかっちゃいますよね」
「加賀谷君、大人しそうでいて案外ちゃんと物事を見てるのね。さっき同族会社とおっしゃったけど、法律的には発行株数の半数以上を上位株主の三人以内で押えている会社を同族会社と言うのよ。なので例えば三十人の親戚縁者が少しずつ株を持ち合っていて合計で発行株数の半数を占めていたとしても同族会社とは言わないそうよ」
「そこまで詳しくは知らなかったな」
「新しく取締役になられた矢田部さん、ご存知よね?」
「僕、まだ直接顔を見たことがないです」
「あたしもよ。写真では見てますけど」
「矢田部さんがどうかしたんですか」
「あの方が入られてから法律上同族会社でなくなったのよ」
「へぇーっ? じゃ、うちは今は同族会社じないんですね」
「そうよ」
「でもね、同族会社同様にコーポレートガバナンスがきちっと出来てない会社だと、あたしたちだってそれなりにいいチャンスがあるのご存知?」
「いいことって?」
「例えばね、お店の商品を計画的に不正に持ち出してもなかなか発見されず、発見された時には不正をしたご本人は会社を辞めて逃げたあとだなんて」
「でもバレたら犯罪ですよね」
「告訴されればね」
「あなた車を運転なさるでしょ」
「はい」
「スピード違反、絶対にしたことがないと言える?」
 加賀谷は落ち着かない表情で、
「他人に言われちゃ困るなぁ。時々ありますよ」
「パトカーとか検問で捕まったことは?」
「四年前に一度だけ」
「あなた正直な人ねぇ」
 和美は笑った。
「警察に捕まらなかったら? 捕まらなかったら証拠がないわね。なので違反はしてませんと言えば誰も告訴できないわね」
「そうですね」
「それと同じよ。取締りがゆるいと、そんな不正を見逃されることが多くなるのよ。警察の取り締まりが厳しいとちょっとスピード違反をしてもすぐに捕まるでしょ? つまり会社の内部監査が厳しいとルール違反をしたら直ぐに見付かって、場合によっちゃ告訴されるのよ」
「じゃ、うちみたいにゆるい会社は見逃されることが多いってことですね」
「そうよ」
 和美は意味ありげに答えた。

百七十一 青森の拠点 Ⅴ

 加賀谷は、
「また誘って下さい」
 と和美に言って別れたが、週が明けても和美からは何の連絡もなかった。和美は外回りが多く、加賀谷は忙しかったから店内で顔を合わすことがなかった。仕事をしながら、加賀谷は今日こそは和美が声をかけてくれるかと待っていた。待っている一週間は長い。待っている間に加賀谷の中に和美への想いが少しずつ膨らんでいた。丁度一週間を過ぎた日に、[夜遅くても良かったら付き合わない?]とメールが届いた。加賀谷はもちろんOKと返信した。スーパーの営業時間は日用品売り場は午後九時閉店だが、食品売り場は午後十一時まで店を開けている。だから、遅くなると言うのは午後の九時や十時よりもっと遅いのだ。
 谷川たちが、
「今日はもうねぇだろう。そろそろ引き揚げるか」
 と相談していた時、和美が倉庫の方に小走りに駆けて行くのが見えた。
「おいおい、今からかよぉ。オレたち寝てる暇がねぇなぁ」
 谷川たちの尾行はいつも遅い時間になったからいい加減嫌気がさしていたのだ。

「お待たせぇっ」
 小走りにやってきた和美は加賀谷の顔を見るとにっこりと微笑んだ。加賀谷は時計を見た。午後十一時を少し回っていた。
「いこか」
 と和美が歩き始めたので加賀谷は後を追った。加賀谷は帰り仕度を済ませていた。国道に出るとタクシーを探した。空車が少なく、三台目でやっと空車を捕まえた。
「駅前の助六」
 和美がそお言うと直ぐに発車した。駅前の居酒屋は大抵午後十一時で閉店する。ラストオーダーが十時前後の店が多い。
 和美が行先を告げた助六は串焼き屋で数少ない二十四時間営業の店だった。この時間に営業をしている店が少ないせいか、店内は思ったより混んでいた。
「待った?」
 おしぼりで手を拭きながら和美は尋ねた。
「十一時まで仕事してましたから」
「そう? ならいいよ」
 二人が乗り込んだタクシーを追いかけて、和美と加賀谷が助六に入ったのを確かめてから車に及川を待たせて谷川と大町は店内に入った。少し離れた席しか空いていなかったが、二人の会話が聞けることを確かめて席に着いた。

「畠山さんはお休みとられないんですか」
「とるわよ。あたしだって人並みに」
「お休みの時は何をしてるんですか」
 和美は答えずに、
「あなたは?」
 と聞き返した。
「僕は本を読んだりぼんやり過ごしたりが多いかな」
「何処かへ遊びに行ったりしないの?」
「はい。今度畠山さん誘ったら……ダメですよね」
「いいわよ。何処かへ連れてってくれるの」
 加賀谷は断られると思っていたのに意外な返事だった。
「ドライブとかは?」
「車持ってるの?」
「父のを借ります」
「ご両親は健在?」
「はい。父はハウスで野菜を作ってます」
「もしかして加賀谷菜園?」
「ご存知だったんだすか」
「うちにも納めてもらってるでしょ」
「はい」
「だったらあたしだって知ってるわよ」
 加賀谷菜園は色々な野菜をハウス栽培している。キヨリス秋田店にも納入しているのだ。加賀谷の父親はキヨリス会には入っていなかった。和美は社員と関係が深い業者から秘密が漏れるのを懼れて入会させなかった。
「じゃ、今度お休みがとれた日に仙台の方に行ってみませんか」
「いいわね。もう震災の後片付け、大分進んでいるようね」
「そうみたいです」
 それで次に休みがとれた時、一緒にドライブをすることに決まった。

「この前の話だけど」
 と和美が切り出した。
「コーポレートガバナンスの話ですか?」
「そうよ。うちのレジもPOSを使ってるよね」
「はい」
「加賀谷君、200引く150の答えは?」
「冗談じゃないですよね?」
「バカねぇ、真面目な話よ」
「じゃ、答えは50……と違いますか」
 加賀谷は自信がなかった。
「そう。POSを導入していれば、在庫が200のものが今日150出たら、自動的に在庫残が50になるわね」
「はい」
「でも、うちじゃ200引く150が30になったり20になったりするわね」
「はい。僕は以前からおかしいなと思ってました」
「どうしてだか分るわよね」
「はい。多分誰かがPOS、つまりレジを通さないで品物を持ち出しているからじゃないですか」
「その通りよ。なのでうちはせっかくPOSを使っているのに、いつも手計算で在庫残を修正させているのよ。少し前に経理の阿部節子さんとお茶した時、修正は彼女がやってるそうなの。でもちゃんと間違いなく入力修正したはずなのに何故か時々欠品が、つまり在庫がゼロになることがあるんですって」
「それって阿部さんが知らないところでも持ち出しがあるのか万引きされたのかってことですよね」
「加賀谷君、理解が早いわね」
「そうでもないですよぉ」
 加賀谷は照れた。
「そんな時はどうしてるんですか」
「彼女は賞味期限切れとか適当な名目を付けて廃棄処分をしたことにしてるんですって」
「へぇーっ? じゃ廃棄したものを金額に換算したら凄い金額になりますよね」
「そうよ。相当の金額よ」
「それでも会社は儲かっているんですか?」
「儲かってるわよ。でもね、しわよせはあたしのところに来るのよ」
「と言うと?」
「仕入れ単価を下げてくれって店長がうるさいのよ」
「じゃ、畠山さん、大変ですね」
「店長のつまみ食いの穴埋めよ」
 と和美は笑った。

 話をしているうちに、酔いが回ったのか和美が急にテーブルに頭を乗せてうつ伏せになった。
「畠山さん、大丈夫ですか」
 和美はぐったりしている。加賀谷は困った。それでレジに行って会計を済ますと和美の腕を取って抱くようにして店の外に出た。和美のほっそりとしたウエストに手を回すと加賀谷は胸がドキドキした。
「困ったなぁ。畠山さんの住所、聞いておけばよかった」
 加賀谷は自分の家に連れて帰るのは拙いと思ってどうするか思案していた。ふと、道路を挟んで筋向いにホテルが見えた。加賀谷はぐったりした和美を抱きかかえるようにしながらホテルのロビーに入って、和美をソファーに横たえると、
「今から一部屋使えますか?」
 と聞いた。部屋はキープできた。時計は午前三時を少し回っていた。ルームキーカードを受け取ると、和美を抱きかかえながら部屋に入った。部屋に入ると、加賀谷は和美を抱きかかえてベッドに寝かせ、靴を脱がして毛布をかけた。その時、
「加賀谷君、悪いわね」
 と和美が手を伸ばした。胸元がセクシーにはだけて、加賀谷はむらむらと気持ちが昂ぶってきたが、我慢した。和美の腕をそっと毛布の中に入れると、加賀谷は備え付けのメモ用紙に一筆残して部屋を出た。
 そっと閉まった扉の方を見て和美は、
「意気地無しぃっ」
 と呟くとそのまま眠ってしまった。

 二人がホテルに入ったのを確かめると、谷川たちは引き揚げた。会話を録音したICレコーダーのメモリーカードを翌日紀代に宛てて速達書留郵便で送った。

百七十二 青森の拠点 Ⅵ

 紀代は急遽谷川たち五人を青森に呼び寄せた。
「畠山と加賀谷の会話記録、聞かせていただいたわ」
「やつら急接近したな」
 と荒川。
「オレは畠山がある意図をもって加賀谷に近付いたと見てるんだがね」
 と大町が二人のデートの様子を見て何か臭うと言った。谷川たち五人は数々の修羅場を経験したせいか、独特の嗅覚を持っていた。
「オレもそう感じたね」
 と谷川も同意した。
「それで、あたしは二人を引き離したいのよ。仕入れができる人間は代わりを何人でも揃えられますけど、倉庫の仕事を任せられる人間の代わりは得難いのよ。あの二人、このままほっとけば初心(うぶ)な加賀谷のことだから畠山とくっ付いてしまう可能性が高いわね」
 紀代が言うと、
「オレは奴等は結婚しないと思いますよ」
 と大町が反論した。
「どうしてそう思うの?」
「加賀谷は片想い、畠山は加賀谷を玩具にして多分加賀谷の童貞を奪うと思うがね、結婚話が出たら冷たく突き放してそれで終わりかな?」
 大町の意見に谷川が口を挟んだ。
「女と男の関係なんてサスケ(大町)が考えているように単純なものじゃねぇよ。オレはあの二人、ほっときゃその内くっ付いてしまうと思うぜ」
「いずれにしても、あたしは加賀谷と言う子を畠山から護っておきたいの。なにか良い方法を考えて下さらない?」
 紀代は畠山と加賀谷を引き離して欲しいと頼んだ。

「紀代さん、ちょい男っぽくて可愛い子、知り合いに居ませんかねぇ」
「加賀谷は二十七歳でしょ。なので、そうねぇ、その時は結婚なんて前提でなくても、そうなっても構わない子、二十七歳前後……」 紀代はしばらく考えていた。
「あたしは将来畠山を切り捨ててしまいたいのよ。でも加賀谷は残しておきたいのね。ですから加賀谷に心の傷をなるべく付けたくないのよ。そうねぇ、27歳かぁ」
「難しいかね」
 と谷川が心配した。
「いいわ。明日まで待って下さい」
 翌日紀代は青森から会津に戻って、かってスーパーアキモト郡山店がスポンサーになって東南アジアへの研修旅行に行った十名の仲間の中から千恵、文子、景子の三人に、
「大急ぎでご相談したいことがあるの。来てくれるわよね」
 と頼んだ。三人とも既に結婚をしていたが夕方駆けつけてくれた。ホテルのレストランで食事をしながら、紀代は昔話の後で頼みたい話を始めた。
「つまりぃ、男っぽい可愛い子でまだ独身が条件ね」
 と文子が問い質した。紀代は加賀谷剛の顔写真付きの履歴書を三枚コピーしてきていた。
「調べて見るといい子なのよ。実家は加賀谷菜園と言うハウス栽培をやっていて、キヨリスにも野菜を納めていて安定してるわね。大学は履歴書通り弘前よ。優秀な子よ」
 とプッシュした。
「それだったらあたしの親戚に居るわ」
 と景子があてがあると答えた。
「急だけど、その子に今夜会えない」
 すると、
「いいわよ」
 と携帯で連絡をしてくれた。四十分ほど経ってスタジャンを羽織り、ショートパンツから形の良い脚を出した女の子がレストランにやってきた。三十過ぎのオバサンが四人いて、彼女は一瞬驚いた顔をしたが、景子の顔を見ると駆け寄って抱きついて、
「チーは元気?」
 と挨拶代わりに聞いた。チーは景子の一人娘だ。
「元気よ。今日はこちらの方がマムちゃんに折り入って相談があるんだって」
 桐山摩夢(きりやままむ)は志村景子の親戚の子だと景子が紹介した。紀代はわざわざ来てもらった理由について説明して頼み込んだ。
「いいわよ。手伝ってあげる」
 紀代の心配は取り越し苦労、本人はけろっとした顔でOKした。マムは今年二十五歳になりますと言った。加賀谷の相手に丁度良い歳だ。
「ほんと、急ですまないけど、これからあたしと青森までいらして下さらない」
 これにはマムは驚いた。
「お仕事はしばらくお休みを取って下さいな。あたしがたっぷりと休業補償させて頂くわ」
 それで景子が紀代はキヨリスの大株主で昔一緒に仕事をした仲間だと付け加えたのでマムは納得した。
 紀代は来てくれた三人に礼を言って、直ぐに及川が運転する車で青森に向った。

「さすが紀代さんだなぁ。可愛い子を見つけてくれたな」
 マムは夜中に青森のマンションに着いた。すると何か胡散臭さそうな大男が四人も出迎えたのでたま驚いた。そこでマムは加賀谷と言う男性に上手く近付く方法を説明されて納得し、翌日男たち五人と秋田に向った。マムには小奇麗なワンルームマンションを手配してくれて、当分そこに住むことになった。
 谷川たちは早速畠山と加賀谷の行動の内偵を開始した。谷川の車にマムも同乗していた。

 水曜日、加賀谷はどうやら休暇を取ったようだ。いつもの出勤時間に家を出てこなかったからだ。案の定加賀谷は父親の車を持ち出してきて、洗車を始めた。恐らくその日畠山を誘って仙台にドライブに出かけるのだろう。一方、荒川たちは畠山の行動を見張っていた。こちらも案の定会社を休んだようだ。谷川と荒川はお互いに携帯で連絡を取り合っているから、彼等の行動は手に取るように分っていた。雰囲気でマムはいよいよ計画の決行がありそうだと悟ってなにかワクワクしていた。もちろん自分の役目も十分に理解をしているつもりだった。
 一方紀代は志村景子を誘って仙台に遊びに行っていた。

百七十三 青森の拠点 Ⅶ

 加賀谷剛はその日朝からワクワクしていた。今日は畠山を誘って仙台にドライブに行く予定だ。前日父親から車を一日借りる許しももらっていた。
 父親は普段車の手入れをしていないから室内は埃と泥だらけだ。それで、加賀谷は外側の洗車を終わると車内の清掃もやった。気が付くと二時間も経っていた。待ち合わせは秋田駅西口に十時半にしていた。十時過ぎ、加賀谷は家を出ると。秋田駅西口近くの駐車場に車を停めて、歩いて西口改札口付近で畠山を待った。既に西口近くで待っていたマムは、
「来たぞ。あいつだ。上手くやれよ」
 と谷川に背中を押されて、加賀谷に近付いた。

「もしかして加賀谷さんですか?」
 突然声をかけられて、加賀谷は声がした方に振り向いた。そこに白いレザーのスタジャンを着て、ショートパンツから形の良いすらっとした脚を出した可愛い女の子が立っていた。
「僕ですが?」
 加賀谷が怪訝な顔で答えると、
「よかったぁ、見付からなかったらどうしようかと思ったよ」
 と言って女の子は加賀谷の腕にしがみ付いた。加賀谷がちょっと引くと、
「あたし、マム。畠山さんが急用でこられなくなったから、あたしが一日加賀屋さんの彼女になってあげることになったの。ねぇ、いいでしょ? あたしとデートして下さらない」
「そお言うことだったんだ。だったらいいよ」
 加賀谷の警戒心は一気に消えてしまった。
「じゃ、早速出かけようか?」
「はい。どこに連れて行って下さるの」
「仙台方面の予定だったけど、変えてもいいよ」
「あたし、仙台がいいな」
 二人は駐車場から車を出して、千秋公園脇を通り秋田中央ICから高速道に乗った。道路は空いていて、二人は仙台を目指して高速を突っ走った。

 畠山和美は十時に家を出ると、加賀谷と待ち合わせの約束をしていた秋田駅に向った。
 秋田駅東口ロータリーでバスを降りると、西口に向って歩き始めた。途中売店で弁当を買っていると、背後から声をかけられた。
「加賀谷さんの予定が変ってツインタワーでお待ちしますと伝えてくれと頼まれました。ご案内します」
 と男が言った。
「あら? 本当に?」
「はい。ご一緒します」
 畠山は弁当とお茶を二つ買うと、声をかけてきた男と一緒に秋田では誰でも羨ましがる高層のマンションに向った。案内したのはマー坊こと及川誠だった。その日は背広ネクタイ姿だったから畠山はすっかり騙された。
 及川はマンションのエントランスに案内するとエレベーターで六階に案内した。チャイムを押すと中から男の声がした。畠山は加賀谷の声とは違うと感じて、その時急に不安になった。それで引き返そうとした時ドアーが開いて、畠山はマンションの部屋に引き摺り込まれてしまった。そこには案内してきた男とは別にもう一人年配の男が居た。アラさんこと荒川だ。
「和美、そこに座れよ」
 畠山はようやく事態を理解した。どうやら加賀谷の名前を語って拉致されたようだ。自分の名前を呼ばれたことですっかり落ち着かなくなっていた。
「あんた、キヨリス会のボスだろ? オレたちはあんたがやってることを全部お見通しだ。下手な動きをすりゃ、横領罪で警察に告訴するぜ。脱税容疑のおまけも付けてやる。大人しくしてろよ」
 和美はこんなことには慣れていなかった。だから脚に震えが来て落ち着かなかった。気持ちは、
「落ち着け、落ち着け」
 と思ってもどうにもならないのだ。
「あたし、キヨリス会なんて知りません」
 やっとそう言い返すと、
「タクマ商事の社長をここに連れて来てやろうか?」
 と脅された。和美は観念した。
「このまま黙って帰されると思うなよ」
 荒川がそう言うと和美の腕を取って隣室の寝室に連れ込んで和美をベッドに押し倒した。及川が和美が着ている物を乱暴に剥がし始めた。和美は精一杯抗ったが、大男二人に押さえつけられてパンツを剥ぎ取られ最後にインナーまで全部剥ぎ取られてしまった。遂に和美はしくしく泣き出してしまった。男たちは和美が泣いてもお構いなしに無言で和美の股を開いて荒川が勃起したものを突き刺してきた。
「痛ぁいっ」
 和美の悲鳴が部屋に広がった。
「なんだ、おまえ、いい歳してバージンかよぉ」
 和美は荒川に犯されてベッドの上で泣いていた。及川が一部始終ビデオカメラで撮影していた。
 和美が泣き終わるのを待って、
「見ろよ」
 とテレビの方に顔を向けさせた。間もなく今撮影された映像が大写しで画面に出た。荒川の顔は見えないように撮影されていたが、和美の顔、あらわな肢体、陰部まで鮮明に映されていた。
「あんた、下手な真似をしたらよぉ、こいつがネットで公開されるから覚えておけよ」
 和美はそれで解放されると思ったが甘かった。次に及川が和美に覆いかぶさって、またレイプされてしまった。
「シャワー使ってこいよ」
 剥がされた洋服を丸めて押し付けられ、和美は風呂場に行った。
「これから先よぉ、あんたが加賀谷に近付いたらこいつをばらまくぜ」
 それで和美はマンションの外に追い出された。和美の中には加賀谷に淡い恋心が芽生えていたが、こんなことがあって、その恋心は破れてしまった。

 加賀谷は突然現れたマムと言う女の子と楽しくドライブをしていた。仙台に向う途中三回SAに立ち寄って先を急いだが、仙台が随分遠いのに加賀屋は驚いた。加賀谷は高速で遠出をしたのは初めてだったので二時間くらいで着けると思っていたのが間違いだった。結局仙台に着いた時は午後四時を回っていた。
「参ったなぁ遅くなっちゃった。帰りは夜中になるけど、家の人に叱られないか」
「あたしなら大丈夫よ。電話をしておけば外泊しても叱られないよ」
「仕方がないなぁ。ごめん。僕のミスだから」
「心配しなくてもいいよ」
 マムは携帯でどこかに電話をした。加賀谷は家に連絡を入れたのだと思った。ところが、
「丁度よかった。叔母さんがこっちに来ているんだって。これから夕ご飯をご馳走してくれるってよ。剛、一緒でもいいよね」
 加賀谷は遅くなった負い目があって反対できなかった。それでOKした。
「六時にMデパートのレストラン・ランドマークで待ってるって」
「じゃそれまで仙台の市内を回ってみようか」
「いいわね。あたし、青葉城に行きたいな。いいでしょ」
「あっ、そこ僕も行ってみたかったんだ」
 青葉城址を一回りすると六時近くになってしまった。二人はMデパートのパーキングに車を入れるとエレベーターで八階に上がった。

百七十四 青森の拠点 Ⅷ

 マムこと桐山摩夢はレストランの奥の方の席で秋元紀代と話し込んでいる叔母志村景子を直ぐに見つけて、
「こっちよ」
 と加賀谷の手をとって紀代たちの席に行った。
「景子叔母さん、彼を連れて来たよ」
 マムの声に紀代と景子は立ち上がって加賀谷の方を見た。実物の加賀谷を見るのは紀代も初めてだ。景子は二人に席を勧めて、
「初めまして、あたしは志村です。こちらの方はお友達の秋元さんです」
 と加賀谷に紀代を紹介した。
「いらして直ぐですけど、ここは七時で閉店なのよ。場所を変えたいけどいい?」
 紀代がマムに聞いた。
「秋元さんにお任せでいいわ」
 マムは即座に答えて加賀谷の顔を見た。加賀谷は、
「僕は構わないよ」
 とマムに同意した。
「じゃ、出ましょう」
 四人は駅前のRホテルの地下にあるhanaと言う和食店に場所を変えた。落ち着いた雰囲気の良い店で、紀代は個室を頼んだ。Rホテルは専用の駐車場がない。それで時間貸しのパーキングに車を入れた。大きな都市の駅に近いホテルでは専用の駐車場を持たない所は案外多いのだ。
 加賀谷は予期しない展開に最初は戸惑っていたが、初対面の志村と秋元が親切に応対してくれたので、楽しい食事になった。
「あたし、東京に長く住んでますけど、東京に比べて仙台は平均してお食事が美味しいわね。東京はピンキリですから、当たり外れがありますけど、仙台じゃどこのお店に入っても失望させられたことがないわね」
 と紀代が仙台は味のレベルが高いと言った。
「そうなんですか? 僕は秋田の外に出たことが少ないから分らないなぁ」
 と加賀谷が応じた。するとマムが、
「剛、また仙台に遊びにこようよ」
 と加賀谷を誘った。加賀谷は答えに困った顔をしていたが、
「加賀谷さん、そうなさいよ。あたしたちが少しは応援してあげるわよ」
 と景子がプッシュした。

「加賀谷さん、これから秋田に帰るのは無理ね。会社の方は大丈夫なの」
 と紀代が聞くと、
「さっき会社に電話を入れてもう一日休みをもらうようにしましたから大丈夫です」
 と答えた。紀代は店のレジで電話を借りて、Rホテルのスーペリアツインルーム一室をリザーブした。
「二人とも今夜はこのホテルに泊まって、明日秋田に帰りなさい。お部屋は桐山摩夢で予約をしておいたから大丈夫よ。マムちゃん、費用はあたしが持ちますから安心してね」
 と念を押した。加賀谷は恐縮したが、
「小母さんはお金持ちだから気にしなくてもいいよ」
 となだめた。

 食事が終わって、紀代たちと別れると、加賀谷はホテルのフロントで駐車場の場所を聞いて車を入れなおした。加賀谷が車をホテルと契約している駐車場に入れなおしに出かけている間に、紀代はホテル代を精算してから景子と一緒に会津に引き揚げて行った。
「マムちゃんの彼、どう?」
 と紀代が聞くと、
「思ったよりイケメンだし、背が高いし、すごく真面目そうな感じだったから安心したわよ。上手くゴールインできたら姉も喜ぶと思うよ」
 とまんざらでもない返事をした。

 ホテルの部屋に入ると、
「スゴッ!」
 と二人同時に声を出してから、顔を見合わせて笑った。部屋は広く、アメニティも充実していた。窓から見下ろす仙台の街の夜景が素晴らしかった。二人は窓際でしばらく素的な夜景を眺めていた。ややあって、躊躇いがちな加賀谷の手がマムの肩にそっと触れた。
 マムは加賀谷がするがままに大人しくしていた。マムよりも加賀谷の胸はバクンバクンと波打ち、隣で大人しく加賀谷に寄り添うマムのほのかな香りが鼻腔を刺激して、加賀谷の頭の中は真っ白になっていた。元々の予定では年上の畠山と一緒のはずだったが、加賀谷はこの時、可愛いマムと付き合えればいいなと思った。しかし、ピンチヒッターとして一日彼女として来てくれたマムを好きになったとはとても畠山に言い出せないだろうとも思った。そんな加賀谷の気持ちを知らず、
「シャワー、先に使って?」
 と言ったマムの小さな甘えた声で我に返った。
「あっ、そうだな。僕が先でもいい?」
 加賀谷の声は上ずっていた。加賀谷は今まで女性とこんな形でデートをしたことが無かったから、ぎこちない仕草になっていた。マムはそんな初心な加賀谷を可愛い奴だと思った。
「いいよ。剛が終わったらあたしが使うから」
「じゃ、行ってくる」
 加賀谷はシャワー室に入った。

 突然ベッドの上に置いてある加賀谷の携帯が鳴った。反射的にマムは携帯を取り上げると畠山和美さんと画面に出ていた。和美のことは聞いて知っていた。それで、マムは電話を取らないで切断して、着信履歴も消去してから、携帯を元の位置に戻した。しばらくするとまた呼び出し音が鳴った。やはり畠山だ。マムはまた切断して受信拒否をセットした。その後携帯の呼び出し音は鳴らなかった。しばらくして加賀谷がシャワー室から出てきた。
「じゃ、あたしシャワーしてくる」
 マムは携帯のことには触れずにシャワー室に入った。

 マムがシャワーを終わってバスタオルを巻いて出てくると、加賀谷はテレビを見ていた。マムはそのまま加賀谷の隣に座った。加賀谷は落ち着かなかった。また心臓がバクンバクンと波打ち、見ているテレビの内容が頭に入ってこない状態になっていた。隣からマムが付けたらしいかすかな香水の香りが漂い、加賀谷はどうして良いか分からなくなって、躊躇いがちにマムのウエストに腕を回してそっと引き寄せた。それを待っていたかのようにマムの身体が加賀谷にしな垂れかかってきた。マムは心の中で、
「剛、頑張れよな」
 と思っていたが、加賀谷はそれ以上はしないで、ずっとマムのウエストを抱いたままにしてテレビを見るふりをしている様子だ。
「キスしてぇ」
「えっ?」
「ダメ?」
「僕たち知り合ったばかりだしぃ」
「もしかして和美お姐さんのこと気にしてるの?」
「ん。それもあるし」
「和美おねえさんなら大丈夫よ。あたしから話とくから」
「本当にぃ?」
「ん」
 加賀谷はどうやら畠山のことが気になっていたらしい。マムに大丈夫だと言われてようやく決心したかのようにマムのおでこにそっと唇を触れた。
「そこでなくてここよ」
 とマムが自分の唇を指さした。それで加賀谷はようやくマムの唇に自分のを触れた。マムは加賀谷にしがみ付いて加賀谷の唇を吸った。加賀谷は心臓が破裂してしまうのではないかと思った。
「あたし、剛の恋人になってあげる」
 マムがそう言うと、
「僕でもいいの?」
 と聞き返した。
「いいよ」
「女の人にこんなことをしたの初めてだから」
「あたし、剛の正直なとこ好きよ」
 マムがまた抱き付いた。今度は加賀谷がちゃんとキスをした。

「もう寝ようか?」
「ん」
 加賀谷はベッドに潜り込んだ。
「剛と一緒に寝ちゃダメ?」
「……」
 剛は黙っていた。マムはそっと加賀谷の脇に入ったが、加賀谷は何もしなかった。マムが加賀谷に抱きつくと加賀谷もそっとマムを抱いてくれた。そうしているうちに、二人とも眠りに落ちてしまった。
 マムの元彼は積極的な奴でこんな時は必ずセックスを欲しがった。だが、加賀谷は女性には慣れてないらしく、全てぎこちなかった。けれどもマムは自分が剛の初めての女だと思うとそれが嬉しかった。

「あの女、あの歳でバージンなんて珍しいな」
「けどよぉ、やってるうちに男が欲しいって感じだったな」
「先輩もそう思いました? オレもそう思ったな。先輩のあとでオレが犯した時さぁ、彼女締め付けてきたんですよ。アソコはいい女ですよ」
 荒川と及川は和美を犯したあとでこんな会話を交わしていた。

 畠山和美は加賀谷とデートをするつもりがとんでもない展開になり、初めて男を知ってしまった。その日和美は加賀谷とデートをして、加賀谷の正直な気持ちを確かめようと思っていた。加賀谷さえその気があるなら、付き合ってもいいと思っていたのだ。けれども加賀谷と接触したらダメだと脅されて、和美は多分社長の筋の嫌がらせだろうと思っていた。それにしても、デートをすっぽかされた加賀谷から何も連絡が入らないのが不思議でならなかった。それで夜二度加賀谷の携帯に電話をしたがつながらなかった。和美は多分デートをすっぽかしたので嫌われてしまったのだろうと思っていた。翌日言い訳をするつもりで、加賀谷に連絡をしてみたが、休みだと言われますます加賀谷に逢いたい気持ちになっていた。

百七十五 青森の拠点 Ⅸ

 Mホテルは宿泊客に無料で朝食サービスをしている。二人は出来たてパンを腹いっぱい食べて、十時にホテルを出た。お天気の良い日で、仙台の街を一回りしてから高速道に上がって秋田を目指した。加賀谷は思いがけず可愛い女の子と知り合ってルンルン気分でドライブをした。途中畠山から携帯に電話がくると思ったが電話はなかった。
「家まで送って行くよ」
 加賀谷はマムが住んでいるワンルームマンションまでマムを送った。
「剛、ありがとう。楽しかったよ。ちょっと寄ってコーヒーを飲んでいかない?」
 秋田に戻ると加賀谷はマムに誘われてマムのマンションに上がった。小奇麗な室内でマムが煎れてくれたコーヒーはすごく美味しいと思った。すっかりマムと仲良しになった加賀谷はキスをして別れた。
「また逢えるよね」
「ん」
 それからはマムが頻繁にメールを入れてきて、加賀谷は毎日のようにマムと逢った。マムに逢う機会が多くなり、加賀谷はマムを大切な恋人だと思うようになっていた。

「どう? 加賀谷さんと上手くいってるの」
 数日後景子から電話があった。
「ん。あたし、彼と相性がいいみたい」
「もうしちゃったの?」
「叔母さんたらぁ、そんなこと恥ずかしくて言えないよ。彼って結婚するまでは大切にしたいだって。なので結婚するまでお預けなの」
「へぇーっ? 今時真面目な人だわね」
 景子はこれなら姉に胸を張って勧められると思った。紀代にマムの話をすると、紀代も喜んだ。

 畠山和美はその後何度か加賀谷に電話をしたがつながらなかった。
「言い訳くらい聞いてくれてもいいのに」
 そうなると絶対に一度は逢いたいと思った。会社で加賀谷の職場に行くと、加賀谷は気まずそうに和美を避けているようだ。そんな彼の腕を掴むと、
「桐山さんから話を聞いていませんか」
 と加賀谷が腕をはらった。
「桐山? それって何の話?」
「おかしいな。マムが自分で畠山さんに話をしておくって言っていたけどなぁ」
 話が噛みあわなかった。
「あたし、桐山なんて人知らないよ」
「おかしいな」
 今度は加賀谷が首をかしげた。
「兎に角、一度お茶しない? デートをすっぽかして悪かったけど、理由くらい聞きなさいよ」
 和美の目じりが吊り上がった。
「その話ならもういいです」
 と加賀谷が答えると、
「あなたが良くてもあたしはこのままじゃ困るのよ」
 和美は食い下がった。加賀谷は困った顔をして、
「じゃ明日の昼休みにして下さい」
 と答えて忙しそうに倉庫の中に入って行った。和美は割り切れない気持ちでひとまず引き上げて行った。

 夜、自宅への帰り道を急いでいる和美の背後から男が近付いて来た。男っぽい和美も女だ。こんな時は自然に歩調が早くなり逃げるように小走りに歩いた。だが男は直ぐ後ろまで迫ってきた。振り返るとこの前レイプした歳の若い方の男だった。和美は背中に冷や汗が出て来た。
 突然腕を捕まれて、
「そんなに急ぐなよ」
 と声をかけられた。この前の記憶が蘇り、和美の脚はすくんで震えが来た。気持ちは声を出して助けを求めたいのだが、声が出ない。すると、
「あんた、加賀谷に会うなと言ったのに会っただろ」
 と低い声で聞かれた。
「……」
 和美は声が出なかった。
「もう一度オレと付き合えよ。大人しくしてりゃ乱暴はしねぇ」
「……」
 和美は男の言う通りに従うことにして、男が呼び止めたタクシーに乗った。
「中央卸売市場の方に行ってくれ」
 タクシーの中では男はそれ以外何も言わなかった。中央市場に近付くと、
三千刈(さんぜんがり)で下ろしてくれ」
 と言った。運転手は頷くとファッションホテルの前で止まった。ファッションホテルとはラブホのことだ。

 和美は大人しく男と一緒にホテルに入った。和美はこの手のホテルに入るのは初めてだ。最初は不安だったが、入ってみると落ち着いた雰囲気の室内でビジネスホテルよりずっと広く良い感じだった。
「へぇーっ、こんな感じなんだ」
 和美は心の中で呟いた。
 突然男は和美をひょいと抱き上げるとそっとベッドの上に下ろした。男にこんな形で抱き上げられたのも初めての経験だ。
「このままやるか? それとも先にシャワーをやるか?」
 男に聞かれて、
「シャワーは後でいいです」
 と答えていた。この前レイプされた時は気持ちが動転していたが、その夜は少し落ち着いていた。

 男は慣れた手付きでベッド脇のコントローラーで室内の明かりを薄暗くした。前とは違って丁寧に和美が着ている物を脱がすと自分も裸になって和美と一緒にベッドに入った。男は和美の感じ易い部分をゆっくりと愛撫しはじめた。和美はされるがままになっていたが、やがて自分の中で今まで経験したことがない気持ちが高まって、知らず知らず声を出していた。男の愛撫が続いて、和美が心地良さでいっぱいになったとき、男のものが自分の中に入ってきて、和美は次第に興奮させられ、いつのまにか男にしがみ付いて男の動きに合わせて自分も男を求めた。頭の中が真っ白になり、思わず大きな声を出してしまった時、男も果てたようだ。この時、和美は生まれて初めて性の歓びを感じたように思った。

 シャワーを使って元通り洋服を着けると、
「すみません、お名前を教えて下さい」
 と男に言ってみた。
「名前? 聞いてどうするんだ?」
「どこの誰かも知らないから」
「知らなくてもいいじゃないか」
 結局名前も連絡先も教えてもらえなかった。その代わりに、
「加賀谷に近付いたら許さねぇ。覚えておけよ」
 と脅された。
 呼んだタクシーが来ると、男は運転手に金を渡し、
「お釣はこの人に渡してくれ」
 と言って和美だけをタクシーで帰した。帰りのタクシーの中で今あったことを思い出して、和美はあの男を好きになったかも知れないと感じていた。翌日の昼休み和美は加賀谷に会う約束だったが、会わないことにした。加賀谷はまた和美にすっぽかされてしまった。

「兄貴、畠山を鳴かせてやったよ。思った通りいい女だったな。加賀谷に近付くなときっちり言ってやったからしばらくは大人しくしてるだろうな」
 及川は荒川に今夜のことを報告した。

百七十六 青森の拠点 Ⅹ

 運命と言う言葉を信じない者がいるが、男と女の関係は運命に翻弄されていると思われることがよくあるのだ。四年も五年も付き合っていてもなかなかゴールインできない男女がいるが、あれよあれよと関係が進んで一月も経たぬうちに結婚してしまう男女もいる。女にとって結婚は男よりずっと荷が重い。不思議なことではないが、女は彼の母親や姉妹が快く受け入れてくれないと、いくら彼を好きで愛していても結婚まで漕ぎ着けるには苦労をするが、男は彼女の父親が快く受け入れてくれれば苦労は少ないのだ。
 桐山摩夢は加賀谷の両親に会ったところ、可愛い、可愛いとべた褒めされて早く結婚しなさいと大歓迎された。加賀谷のことは事前に景子からマムの両親に情報が入っていたからマムの両親も大歓迎をした。それで、早々に両家顔合わせとなり、結納を交わして、一月も経たぬ間に挙式まで進んだ。もし、加賀谷の相手が畠山だったらどうだろう。結婚すれば四歳か五歳も年上の姉さん女房、加賀谷の両親が余程畠山に好意を寄せない限りすんなりと結婚に漕ぎ着くのは難しかっただろう。

 マムの結婚には紀代と景子が応援したから嫁入り仕度の心配も少なかった。マムの実家は農家だが加賀谷菜園のような規模ではなかった。しかし、マムは結婚後加賀谷の両親と一緒に菜園の仕事を手伝いたいと言い出したのが加賀谷家に嫁入りする決め手となったようだ。
 紀代は畠山の嫉妬、恨みの心配が残っていると予想していた。和美と加賀谷を裏で工作して引き離したので、恐らく和美の心の中にもやもやとしたものが残っていると思った。それでマムに、
「これは万一畠山から嫌がらせがあった時に黙って渡しなさい。万一のことがなかったら見てはダメですよ」
 と小さな包みを手渡した。中には和美がレイプされている時のビデオ映像を書きこんだDVDと及川とラブホで抱き合っている時に密かに録音された声が入っているICレコーダーが入っていた。男に愛撫されている時に無意識に発した声を聞かされるのは女に取っては極めて恥ずかしい。それを相手の女から手渡されたのでは心理的に相当ダメージを受けるだろう。

 紀代は加賀谷が結婚することがはっきりした時点でキヨリス秋田店での工作活動をクローズしても良いと思った。
「谷川さん、秋田の方は引き揚げて下さいな。これからキヨリス青森店の仕事に取り掛かりましょう」
「オレもそろそろいいかなと思ってたよ」
 谷川は了解した。
「及川君、ちょっと」
 と紀代は及川を見て手招きした。
「あなたと和美のこと、聞いたわよ。もしかして、あなた和美を好きになってない?」
 突然紀代に聞かれて、及川は動揺した。確かにセックスの相性は良かったから、秋田を去る前にもう一度和美とやりたい気持ちはあった。紀代は及川の表情を見逃さなかった。
「プロはプロらしく割り切らないとダメですよ」
 紀代に見透かされたのを知って及川は正直に返事した。
「分ってますが、もう一回だけ。ダメですか」
 すると荒川が、
「和美と言う女はあそこはなかなかいいぜ。マー坊の気持ち、オレは分るよ。もう一回こっきりと決めていいんじゃないですか」
 と紀代の顔を伺った。
「男はダメねぇ」
 と紀代は笑った。
「本居宣長って言う歌人の、人の情の深くかかること恋にまさるはなしって言葉がありますけど、男性と女性は身体を重ねてみるとお互いが良く分るのよね。でもプロは恋をしてしまったら骨を抜かれますよ。荒川さんのお許しを頂いたから一回だけですよ」
 と及川を睨んだ。
「おいっ、マー坊、和美に骨を抜かれるなよ」
 と谷川が笑った。及川はちょっと嬉しそうな顔をした。

 和美は夜帰宅途中、またあの男があとをつけて来ないかと、ちょっと期待をしていた。どこの馬の骨かわからない男に抱かれるのは不安はあった。だが、自分の身体の奥底であの男を欲しいと感じていた。鍛えぬいたと思われる逞しい男の身体に組み敷かれていると、それだけで気持ちが昂ぶるのだ。
 セックスには相性があると本で読んだことはあるが、加賀谷では感じないだろうフェロモンが滲み出していて、抗いようのない幸せ感を感じるのだ。
 そんなことを思い出しつつ家に向っていると、いつの間にか身体が火照っていた。
 次の日も次の日も帰り道あの男の気配を探したが、あの男は現れなかった。
 キヨリス会のことで脅されてレープされた時、もしかして社長の筋の回し者と思っていたが、その後店長から何も話はないし、謎が多い事件だ。それで和美は今度あの男に会えたら素性を探ってやると心に決めていた。見たところ自分と同年齢か少し年下だが、和美は恋人にするなら年下の男の方が自分の好みに合っていると思っていた。
 とにかく、あの男と寝ると、ほんのつかの間だが愛される歓びを感じるのだ。

 和美の期待は不意にやってきた。定例のキヨリス会を終わって、バスを待っていると、突然手を握られた。驚いて見上げるとあの男だった。男はサングラスをかけていたが、直ぐに分かった。
 キヨリス会が終わると、取引先の社長などが送っていくと声をかけてくれるのだが、和美は用心して絶対に誘いには応じなかった。男に手を握られて、和美の心は踊った。男は和美の手を引くと通りに出てタクシーを呼び止めた。
「ビューホテル」
 男は駅前のホテルに行くように指示した。この前はラブホだったが、今日は一流のホテルだ。
 ホテルに着くと男はさっさとチェックインしてエレベーターに乗り部屋に入った。和美は驚いた。居間と寝室が別だ。おそらくスウィートだろうと思った。
「メシ、まだだろ?」
「はい」
 男は電話で夕食を頼んだ。ルームサービスが来るまでの間、ソファーに座って男は和美を抱き寄せた。和美はされるがまま身体を預けると男がキスをした。和美はファーストキスだったからぎこちなく応じたが、男は手馴れた仕草で和美の唇をすった。和美はそれだけで魔術にかかったように身体中の力が抜けてしまった。キスを終わって抱き合っているとチャイムが鳴った。ボーイとメイドが二人でフルコースの料理を運んできた。
「そこのテーブルに広げてくれ」
 男はこんなことには慣れている様子で、的確に指示をした。テーブルは六人掛けで大きなものだが料理が並べられると丁度良い大きさだった。
「よしっ、腹ごしらえしよう」
 ボーイたちが退出すると、和美を抱きかかえるようにテーブルの方に誘った。料理はフルコースでワインが添えられていた。男はグラスにワインを注ぐと、ちょっとグラスを持ち上げてにっこりした。和美も合わせて微笑んだ。
 食事が終わるとフロントに下げるように指示してから、
「シャワー、先に使えよ」
 と言った。和美は素直にバスルームに入った。何だか今夜は夢を見ているような感じでシャワーを終えると、バスタオルで身体を包んで出た。すると、前のように和美をひょいと抱きかかえてベッドに横たえてくれた。男は黙ってシャワーを終えてくると、和美が潜り込んでいるベッドに入って来た。男の愛撫は前より丁寧で時間をかけて和美を誘ってくれた。男の目は恋人のように優しく、和美を包み込むような視線だ。和美は燃えた。このまま時計の針が止まっていてくれればいいと思うほど男に溺れて果てた。
「朝まで付き合えよ」
「はい」
 この言葉がどんなに嬉しくしてくれたか、和美は思わず涙を溜めてしまった。
 ぐっすり眠って、朝目が覚めると、もう一つのベッドの上にホテルの便箋に書きなぐったメモが置いてあった。
「ありがとう。もう二度と逢えることはないと思うが、良い思い出にしてくれよ。じゃな、オレは一足先に出る」
 メモを見て和美はしばらく嗚咽していた。止め処なく頬を伝わる涙は本物だった。
 結局男の素性を聞き出すことは出来なかった。

百七十七 青森の拠点 ⅩⅠ

 キヨリス青森店は青森市と弘前市の中間からやや弘前寄りの浪岡と呼ばれている地域にあった。商店の立地は交通の便、地の利によって売上成績に大きな違いが出てくる。浪岡と言う地域は東北高速道浪岡ICに近く、青森―弘前―秋田を結ぶ国道7号線、いわゆる羽州街道沿いで、五所川原と東北自動車道を結ぶ津軽自動車道沿いでもある。紀代は青森店に来る度に、父親の辰夫は良い場所を選んだと感心させられた。青森店の店長工藤章一(くどうしょういち)は四十歳少し前の若輩だが、社長の秋元秀子の信認が厚く、会津若松から離れていることもあって、店のことを殆ど任されている様子だった。財務に明るく営業成績が良い上、店全体が他の店に比べて活気があった。工藤の下に副店長の古館早苗と言う女が経理や人事全般について工藤を補佐していることも分った。仕入れは店長と同姓の工藤謙次郎と言う男が担当しており、部下の木村陸斗(きむらりくと)と言う二十歳後半の若い男と一緒に倉庫も担当している。

「谷川さん、この工藤と言う店長、優秀だわね。この人のことを少し詳しく調べて下さらない? それと副店長の古館と言う女性も一緒にお願いするわ。二人が終わったら、工藤謙次郎と木村陸斗を調べて下さいな」
 紀代はこの四人に注目していた。同時に地元の探偵に四人の親戚関係について調べるように依頼した。
 一週間ほどで四人のデータが出揃った。紀代は四人の中の誰かが秀子の親戚関係の者だと思っていたが、調べた結果全員秀子との関係がなかった。
「可笑しいな、一人位お義母さんの親戚か遠縁の者が居てよさそうなんだけどな」
 それで紀代は郡山の父、辰夫に電話で問い合わせた。
「ああ、工藤君はね、以前ノロウィルス騒ぎがあった時に知り合った役所の人の紹介でうちに来てもらったんだよ。工藤君がどうかしたのかね」
「いえ、それが分れば特に聞きたいことはないわ」
 店長以外の三人は現地採用でいずれも秀子との関わりはなかった。

 それで紀代は店長の工藤と副店長の古館の二人に会ってみることにした。店長にアポを取る理由が難しい。大株主として面会を要求すれば、本音の話が出来ないだろう。そこで、紀代はM製菓の役員として自社の新製品開発計画の参考で販売現場の生の声を聞きたいなどと適当な理由を付けて面会を頼んだ。紀代がキヨリスの創業にかかわり、今も大株主であることは青森には殆ど伝わっていないことが幸いした。紀代は早苗を同席させたいために地方の雇用事情についても知識を得たいと付け加えて、人事担当の方をと重ねて頼んだ。それで具体的な面会の日程が決まった。紀代は弘前市内の宮川にあるフランス料理店に予約を入れて、紀代の方からご招待する形にした。ニセの秘書役としてサスケこと大町に同席してもらうことにした。
 会合でさりげなく相手に対して優位に立つには自分の土俵に引き込んでしまうのが常套手段だ。それで、当日はワインについて色々話をして工藤章一と古館早苗とを煙に巻いてしまう作戦を取った。紀代は料理にも詳しい。だから凝ったフランス料理についても色々話ができる。
 弘前では名の知れたフレンチの店だ。聞いて見るとそこそこワインは揃っていると返事があった。

 食事が始まると、お互いに自己紹介をした後、
「古舘さん、美羽ちゃんがいらっしゃるのに昼間お仕事されて大変でしょ」
 と切り出した。これには古館は驚いた。どうして自分の一人娘の名前を知っているのだろう? そう思っていると続けて、
「ご主人はお役所にお勤めだそうですね。共働きでは美羽ちゃんを預けていらっしゃるの」
 旦那の仕事まで知っている様子でまた驚かされた。工藤にも二人の息子のこと、自宅は青森で単身赴任をしていることなどを聞かれて工藤も紀代の予備知識に驚かされた。人は初対面の者に自分の境遇について具体的に話をされるとそれだけでかなり引け目を感じるものだ。紀代は長年対人関係で揉まれてきたから、そんなことが身についていた。その後はワインの話や料理の話ですっかり紀代のペースで話が進み、工藤と古館は紀代の予想以上の質問に細かく答えさせられてしまった。
 午後はキヨリス青森店の店内見学に案内された。そこでも会津店や山形店、秋田店の様子を折り混ぜて色々な質問を受け、工藤は冷や汗をかいていた。工藤は自分が任されている青森店のことは良く知っているが、他の店舗の情報には全くと言ってよいほど知識がなかった。古館も同様だ。二人は流石東京の大手の菓子メーカーの役員は違うと紀代と別れる時には尊敬の目で紀代を見送った。

 谷川たちは四人についてもう少し泥臭いことを調べ続けていた。その日、荒川と及川がペアとなって、仕入れ担当の工藤謙次郎を尾行していた。尾行には必ずバックアップを付けた。バックアップはサスケこと大町とコバこと小林がペアで荒川たちを追っていた。
「おいっ、あの男、誰だろう? さっきから荒川たちを尾行してやがる」
「探偵にしちゃ動きがおおっぴらだなぁ。ちょい痛めつけてやるか」
 それで大町と小林は男に近付いて、背後から突然襲い掛かった。だが相手はなかなかの(つわもの)で動作が敏捷だった。ようやく男をねじ伏せて車に乗せようとした時、消灯した覆面パトカーが大町たちの車の前後に横付けになり、ばらばらと警官が走り出て来た。大町と小林は咄嗟に逃げようとしたが遅かった。数名の警官に取り押さえられて、
「公務執行妨害現行犯として逮捕する」
 と言われて二人とも手錠をかけられてしまった。
 警察署に連行されると、二人は別々の取調室に押し込まれて、しつこい質問攻めをされた。
「刑事さんよ、すまないけど、この人に連絡して来てもらえませんか? この人が弁護士を連れて来るまで悪いけど一言も答えませんぜ」
「弁護士? 生意気なやろうだな。お前たちの行動はこっちで何日もかけて調べが付いているんだ。ま、いいか。弁護士さんが来てからきっちりと吐いてもらうよ」
 刑事も負けていなかった。刑事が差し出した電話で、大町は谷川に連絡を入れた。
「おいおい、お前さんたちドジな人たちだなぁ。こっちで手を打つからしばらく待ってろ」
 谷川は刑事に電話を代われと言った。
「実はある人に頼まれてコンプライアンスの状況を内々調査してるんですわ。私は元山形県警に居た者で、よろしかったら山形の方から身元を説明させますが」
 ところが他県の警察を話しに出されて刑事はコチンときた。
「いや、結構です。こちらで取り調べて問題がなければ釈放しますから」
 と断った。応対した刑事はコンプライアンスと言う言葉の意味を知らなかった。これには谷川も困った。それで、状況を紀代に説明して相談した。
「分ったわ。あたしの線で上から話を通しましょう」

「ちょっと問題が起きてしまったの。矢田部さんの方から青森県警のトップの方に話を通して頂けませんかしら?」
 紀代は矢田部に助けを求めた。矢田部の大学の同級生が警察庁の上層部に何人か居たのを知っている。今は定年で退官しているが、十分なネットワークがあった。
 矢田部は翌日友人から青森県警のトップに話を通してもらった。それが効いた。翌日の午後、紀代と谷川が警察署を訪ね面会を願い出ると、刑事の態度が急に変り、
「上部から事情の説明を受けました。大変失礼をしました。今後はこちらにも事前に活動状況をお知らせ下さい。場合により、こちらでも協力させて頂きます」
 と応対して、大町と小林はその場で解放された。
 別れ際、担当した刑事が小声で、
「すみません、コンプライアンスとはどう言う意味ですか?」
 と大町と紀代の顔を見て尋ねた。
「ああ、コンプライアンスとは日本語では法令遵守と訳されてまして、社員が社内規則や国の法律に触れる不正な行為をしていないか内部統制をする意味がありますのよ。最近コーポレートガバナンスがやかましく言われていますでしょ? コーポレートガバナンスの基本は社員のコンプライアンスなんですよ」
 と紀代が微笑みながら答えた。刑事は、
「勉強になりました。ありがとうございました」
 と敬礼した。

 翌日県警の課長が部下を連れてマンションにやってきた。
「実はこちらのマンションの住民から胡散臭い男が数人出入りをしていて怖くてしょうがないので調べて欲しいと警察の方に通報がありまして、こちらに事前にご連絡を頂いておれば当方で適切な応対ができたのですが」
 と説明をした。
「こちらこそ。大変ご迷惑をおかけしました。今後はそちらへ蜜にご報告に上がらせて頂きます。企業の中で処理できる場合は刑事告訴は致しませんで内部で是正処置を取らせて頂きますが、手に余る場合は刑事告訴に踏み切る場合もございます。その節はよろしくお願い致します」
 そんな応対があってから、紀代は今後のことを考えて警察にはきっちりと話を通じておくべきだったと反省した。
 署員が引き揚げた後で、
「オレたち胡散臭いやろうだってさ」
 と皆が笑った。

百七十八 青森の拠点 ⅩⅡ

 キヨリス青森店の財務や人事の内部データは既に盗み出してあったから、紀代たちが目を付けた四人の素行調査が主な目的だった。
 警官に大町と小林が逮捕された時、荒川と及川は仕入れ担当の工藤謙次郎の尾行を続けていた。背後でバックアップの二人が警察に捕まったことは全く知らなかった。その日工藤は自分の軽自動車には乗らず、帰宅方向と逆の方向に歩いていた。
「工藤のやつ今日はどこに行くんだろう?」
 この一週間毎日のように尾行したが店から自宅に真直ぐ帰っていた。事前に調べた情報によると、工藤謙次郎は息子が一人居て妻と三人でつつましく暮らしていた。妻は専業主婦でパートなどの勤めには出ていなかった。

 約1kmほど歩くと国道7号の浪岡バイパスに出て携帯でどこかに電話をしていた。しばらくすると、工藤のところに工藤のではない別の軽自動車が近付いて停まった。工藤は直ぐに助手席に乗り込むと軽自動車は弘前方面を目指して走り出した。慌てたのは荒川たちだ。こんな時には必ずバックアップの車が来て直ぐに後を追えるのだが、その日はなぜか来なかった。タクシーを拾おうと待ったが通り過ぎるタクシーは全部客を乗せていて弘前方面に走り去った。
「くそっ」
 結局その日は尾行を諦めざるを得なかった。
 その日、マンションに戻ると荒川たちは大町と小林が逮捕されたことを谷川から聞かされた。それで翌日は様子見のため、マンションで大人しくしていると、午後荒川たちが釈放されて戻ってきた。

 翌日は仕入れと倉庫を担当している木村陸斗を捉まえてあれこれ聞き出してみようと言うことになった。
 木村は若いくせに3ナンバーの乗用車で通勤している。家はリンゴ栽培をしている農家で陸斗は末っ子だった。高校を出てキヨリスに就職したらしく、まだ二十歳だ。高校時代に遊び仲間だったクラスメイトと今もちょくちょく会って遊びまわっていた。勉強はあまり出来るようではなかったが、友達は多い。
 その日も男友達と一緒に7号線バイパスを突っ走り弘前に入ると鍛冶町に入って時間貸し駐車場に車を突っ込んだ。陸斗と友達は馴染みらしいスナックに入った。店の名前を確かめると、及川は鍛治町で陸斗が停めた駐車場近くに車を停めて、街角でぶらぶらしている若い女の子三人を言葉巧みに引っ掛けた。荒川も一緒だったが、少し距離を置いて様子を見ていた。バックアップの大町と小林も合流した。
 弘前市の鍛冶町は江戸時代鍛冶職人が多く住んでいて、この名前となったらしい。今はスナックやバーが軒を連ねた弘前一の歓楽街になっている。
 及川は女の子たちに小遣いだと言って一万円づつ渡すと、女の子を引き連れて陸斗が入ったスナックに入った。店内は薄暗いが思ったより広い。見回すと壁側の席でビールを飲んでいた。
「木村さんよぉ、ちょい一緒してもいいか」
 突然及川に声をかけられて、怪訝な顔をしたが、女の子が三人もいるので、
「いいですよ」
 と承知した。
 遊びなれている女の子たちは直ぐに陸斗たちと仲良くなって、カラオケでデュエット曲を歌ったり、結構はしゃいでいた。及川は直ぐには仕事の話をせずに一緒になって騒いだ。

 陸斗の友達が女の子の一人を口説き始めた。及川は聞かないふりをしてちゃんと会話を聞いていた。
「かっこいい男の人、なんて言う名前?」
「あたしたち、知らないよ」
「えっ? 名前知らないのか」
「ん。あたしたち援交よ」
「オレと付き合わないか」
「あの人がOKしたらいいよ」
 家庭で真面目に主婦をしている女性は、会ったばかりの女の子がこんな展開で付き合いが進むなんて有り得ないことでウソ臭い作り話だと思うだろう。だが、繁華街で援助交際をしたい女の子たちはこんな形で小遣い稼ぎをしていることは普通にあるのだ。もちろんナンパをしてくる相手の男にもよる。及川は若くて背が高く、こんなことに手馴れていて格好が良かったから、援交相手を探す女の子たちは簡単に及川の餌食になってしまうのだ。
 先ほど陸斗とデュエットして盛り上がっていた女の子が戻ってくると、及川はそっと女の子に耳打ちした。
「あいつをホテルに連れ込んだら五、本番まで行ったら十だ。あんたやれるか?」
「多分上手くやれると思う。本当に十くれるの?」
「男の約束よ。約束」
 と及川は片目をつぶった。
「分った。あたしやるよ」
「頼んだぜ。ホテルに入ったらこいつに電話でもメールでもくれよ」
 及川は女の子に自分の携帯を渡した。女の子はすぐにアドを自分の携帯にコピーした。女の子は意味ありげな顔をして及川に携帯を返した。それからと言うもの、その女の子はしきりに陸斗に甘えて、どうやらこの後付き合うことにしたらしい。残った一人の女の子は仕方がない、及川が付き合ってやることにした。
 及川は荒川にメールを送った。
「成り行き良し」

百七十九 青森の拠点 ⅩⅢ

「これで美味い物を食って、家に帰れよ」
「いやよ。オジサン、もう少しあたいと遊んでよ」
「ダメだ。いい子は大人しく帰るもんだ」
 及川は残った一人の女の子とスナックを出て女の子に別れようと一枚渡した。女の子は少しの間だだをこねたが、及川の怖い顔を見てしぶしぶ去って行った。一人になると、及川は荒川たちと合流して、陸斗と出た女の子からの電話を待った。
 間もなくして、女の子からメールが来た。
「ホテルに入ったよ。フォーチュンのボヤージュ202」
 及川は携帯でネットで見て直ぐに場所を調べた。
「行くぞっ」
 フォーチュンはクラブハウスでカップルで飲み食いができる所だ。併設のボヤージュはラブホだ。メンバーズクラブだが、登録さえすれば誰でも入れる。

 女の子はドアーの錠を開けておいてくれたから、及川は二階に上がって202号室に踏み込んだ。陸斗は女の子と抱き合っていた。突然の物音に首を捻ると、及川がニヤニヤして立っていた。
「なんだよぉっ」
「なんだよぉはねぇだろ。オレの女に手を出しやがって」
「付き合ってもいいと言ったじゃないですか」
「セックスまでOKした覚えはねぇ」
 及川はベッドカバーを引き剥がした。女の子は裸になってまるまっていた。及川は陸斗をベッドから引き摺り下ろした。
「ちょい顔を貸してもらおうか」
 陸斗は慌てて脱ぎ捨てた物を着た。及川は女の子に無言で封筒を投げ渡した。中には十枚入れてあった。渡さなくてもどうってことはないのだが、後で揉めないためだ。
 及川に引っ立てられて陸斗はホテルの外に出た。そこに大町たちが乗った車が待っていた。及川は陸斗を車に押し込むと車は直ぐに走り去った。

 ヤクザ風の大男四人が乗った車の後部座席で荒川と及川に挟まれて座らせられた陸斗は顔面蒼白で大人しく座っていた。
 十五分ほど走って弘前城のある弘前公園脇のウイークリーマンションに連れ込まれた。
「コーヒーでも飲めよ」
 小林が皆にコーヒーを持ってきて一つを陸斗に差し出した。コーヒーなんかのんびり飲んでいる雰囲気ではなかったが、陸斗は熱いコーヒーを一口すすった。女の子に手を出して落とし前を付けられるものと思ったからだ。
「あんた浪岡のキヨリスで仕入れの仕事をやってるな」
「はい」
「会社のことを聞きてぇんだが、知ってることを素直に教えてくれりゃ、痛め付けるようなこたぁねぇ。安心して素直に答えろよ」
「はい」

 木村陸斗は及川たちの脅しが効いて、細かいことを色々しゃべらされた。それで分ったことは、上司の工藤が事務の古館といい仲で、陸斗は詳しいことは知らないようだったが、仕入れ代金や数量を操作してかなりの金額をひねり出しているようだ。店長の工藤章一は古館と工藤謙次郎に実務を任せていてそのあたりは多分知らないだろうと言った。だが、店の商品はしばしば店長も自宅に持ち帰っており、賞味期限切れでもないのに賞味期限切れにして廃棄した形にして自分は棚卸の数量の調整をしょっちゅうやらされていると答えた。陸斗は具体的な数字をあげてちゃんと答えた。
 一時間ほどの尋問を終わると、
「ラブホまでタクシーで帰れ」
 と言って陸斗を解放した。帰りがけに陸斗は、
「オレが話したと言わないでもらえますか」
 と祈るような仕草で及川に頭を下げた。
「分ってるぜ。安心しな」
 それを聞いて陸斗は助かりましたと言う顔をして出て行った。
「オレたちも引き揚げようか」
 荒川は陸斗の話の状況を録音したICレコーダーの録音を確かめると皆と一緒に車に乗り込んで青森のマンションに戻った。

「これだけ分れば青森店の調べはおしまいでいいわ。明日から盛岡店の方に移りましょう」
 紀代は皆の努力を労って手料理をご馳走した。
 翌日谷川たちは盛岡店の下見に出かけて行った。紀代は今までの状況を矢田部に報告した。

百八十 青森の拠点 ⅩⅣ

 キヨリス盛岡店は盛岡市の郊外の上太田と言う所にあった。雫石川に近く、秋田街道と盛岡環状線が近くを通っていて交通の便が良い場所だ。盛岡店は青森や秋田に比べてやや規模が小さかったが、集客状況は良かった。
 東日本大震災により太平洋沿岸の東北各県は大きな被害を被ったが、幸い盛岡店は海岸線からかなり外れた内陸部にあったので、既に復旧して従来通りの営業をしていた。
 谷川たちは経理処理担当の菊池太助と仕入れ担当の小野寺みつるの二人について客を装って店内に入り仕事の状況を確かめてその日の仕事を終わった。

 谷川たちは一旦青森のマンションに引き揚げて、紀代と今後の調べ方について調整した。打ち合わせが終わったところで、
「紀代さん、青森の古館早苗と工藤謙次郎の関係を一応調べて、不倫でもしているようなら証拠を押えておいた方がいいのと違いますか」
 と珍しく荒川が提案した。
「そうねぇ、木村の供述では二人は普通以上のお付き合いがあるようね。それじゃ十日か二週間かけてもう少し調べて頂こうかしら」
 紀代の同意を得て荒川、大町、小林の三人でもう一度青森店の古館と工藤の周辺を調べることとなった。すると及川が、
「オレも行っちゃいけませんか」
 と名乗り出た。
「なんだ、一人のけ者にされた心境か?」
 と笑いながら谷川が及川をからかった。及川はバツが悪そうな顔をしているので、
「じゃ、ご一緒に行ってらっしゃい」
 と紀代が許可した。荒川たち四人は前回尾行に失敗したので、今回は車二台で出かけることにした。

 四人は木村の話を参考に、古館と工藤の両方を毎日監視した。監視始めて三日後、工藤に動きがあった。前回同様帰宅時自宅方向に向わず国道に出て誰かを待っている様子だ。工藤が店を出てから半時間ほど過ぎた時、古館は軽自動車で帰宅するはずが、その日は国道の方に出て、前方で待っている工藤を拾って弘前方面に走った。荒川たちは携帯で連絡を取り合い、二台の車で尾行をしていた。
 軽自動車は弘前市外の手前でファッションホテルに滑り込んだ。車ごと入れるホテルだ。大町は古館が工藤を拾った現場、軽自動車のナンバー、ホテルに入るところなど要所をデジカメで撮影していた。
 翌日古館と工藤の両方の軽自動車に盗聴器を取り付けた。
「これならやつらがどっちの車に乗っても会話を盗れるなぁ」

 一週間後、また古館と工藤の動きがあった。古館が店の駐車場から車を出そうとした時、及川が古館が乗り込んだ運転席の窓ガラスをトントンと叩いた。古舘が窓ガラスを下ろして、
「何ですか?」
 と怪訝な顔をした。
「すみません、前輪に変な物が付いてますよ」
 及川は心配顔で車の前を指差した。古館は、「あら、何かしら?」
 と車を降りて運転席側の前輪を覗き込んで様子を調べている。
「すみません、そっち側でなくて反対側です」
 と及川が言うと古舘は素直に左側に回りこんで前輪を覗き込んでいた。及川は昼間ガムテープで生ゴミが入った袋を貼り付けておいたのだ。
「あらぁ、こんなことをするの誰かしら」
 そう言いながら古舘はガムテープを外した。古舘が車に気を取られている間に及川は古館のトートバッグを引き寄せて、盗聴器をバッグの内側に貼り付けた。バッグを元に戻した時、古館が運転席に戻ってきた。
「教えて頂いてすみません。ありがとうございました」
「悪い悪戯をするやつがいるもんですね」
 及川はちょっと頭を下げて立ち去った。

 先日同様、古館は国道沿いで工藤を拾って弘前方面に走っていた。
 車に取り付けた盗聴器と古館のトートバッグに付けた盗聴器のお蔭で、二人の会話は尾行する荒川たちの車の中で手に取るように聴けた。
「すみません。待たせちゃって」
「どうかしたの?」
「それがね、悪戯よ。悪戯。あたしの車の前輪に誰かガムテープで生ゴミを入れたビニール袋を貼り付けたのよ」
「良く分ったね」
「それがね、通りかかりの親切な青年が教えてくれたのよ」
「店の者?」
「見ない顔だわね。多分業者さんの人かも」
「今日は大丈夫な日?」
「大丈夫よ。危険な日は避けるようにしてるじゃない」
 どうやら体調の話らしい。
「でも、必ずゴム使ってくれなきゃ嫌よ」
「分ってるよ」
 二人がこの前とは別のファッションホテルの駐車場に車を入れた。今回はドライブスルーではないようだ。大町は車から降りて工藤が古館のウエストに手を回して仲良くホテルに入る様子をバッチリデジカメで撮っていた。
 会話も聞こえるので様子はよく分る。

 ホテルの中で二人が愛し合っている様子は盗聴器から聴こえる音声で十分に分った。なかなか感度の良い盗聴器で、セックス中の音も鮮明に聞き取れた。
「及川、お前も興奮してるんじゃねえのか」
 小林がからかうと、
「コバさんのブツだって勃起してるんと違いますか」
 と及川がやり返したので一同大笑いになった。
 一時間ほどして、
「今月の上がり、少し増やしといたよ」
 と工藤が古館に囁いた。
「ありがとう。経理の方は安心していいわよ」
 古館が返事をした。これは横領の証拠になる。
「ここのとこ大体月に三十万程度だわね。これくらいなら会計士は絶対に分らないわよ」

 青森のマンションでICレコーダーに録音された盗聴した音声を再生して利き終えた紀代は、
「青森はこれくらいで十分よ。明日から盛岡をお願いね」
 と言って青森の調査を打ち切るように指示した。

百八十一 青森の拠点 ⅩⅤ

 キヨリス盛岡店店長は葛巻智(くずまきさとる)と言った。店長の下に経理担当の菊池太助と仕入れ担当の小野寺みつるがおり、小野寺の下に照井賢治(てるいけんじ)と言う青年が商品の出し入れを手伝っていた。キヨリスのどの店舗でも仕入れ担当は力をもっており、極端に言えばやりたい放題だ。青森や盛岡は本部の会津から遠く、社長の秀子の目は行き届いていなかったが、秀子への上納金だけは滞りなく貢がれていた。もちろん裏帳簿だ。この上納金さえしっかり貢いでいれば、細かいところまで口出しをされずに済んだのだ。

 紀代は盛岡でも探偵を使って、店長以下の四人の身元を調査した。その結果店長は秀子の実家、今井家の遠縁で親戚関係者だと分った。菊池は菊地ではなく、さんずい偏のいけ(池)で地元出身、小野寺も地元出身だ。二人は姻戚関係者ではなかった。探偵によると、小野寺みつるは県立大学附属の短大を出ていて、卒業後キヨリスに入社、当初は店長葛巻の下で仕入れを教えられたと言う話だった。菊池は東京の国士舘を出ており、就職難のため地元に戻ってキヨリスに入ったらしい。大学では政経学部の経済学科だったようだ。
「短期間によくお調べ下さったわね」
 紀代は探偵を労った。
「商売ですから」
 と謙遜してから探偵は声を落とし、
「葛巻は妻帯者で息子一人娘一人の四人家族、奥さんは大人しそうな人で専業主婦です。葛巻は小野寺が入社以来可愛がっているようで、小野寺は今年三十一歳になりますが、まだ独身です。噂話だと四年か五年前から葛巻と男女の関係になっておるようです。不倫をしとるようですな。よくある話ですよ」
 と言った。

「紀代さん、青森のような盗聴でいきませんか? あれなら彼等の会話をバッチリ盗れますよ」
 と谷川が盛岡でも盗聴器を使って情報収集する方法を提案した。
「そうね。リアルな情報が取れるわね」
 紀代が同意すると、谷川たちは相談して戦略を考えた。
 車の中の会話をどうやって盗聴するのか、素人じゃ分らない。だが仕掛けは簡単だ。運転中ヘッドフォンマイクを使って携帯電話で会話をしている様子は最近よく見かける。考えてみれば簡単だ。携帯電話にマイクを取り付けてそれを遠くの携帯で受信するだけだ。
 谷川たちは車に仕掛けた盗聴器はこの方法を使っていた。携帯の電波が受信できる場所ならどこでも距離に関係なく受信できるのだ。最近仕事を持つ主婦が子供が居る部屋の様子を聞くためにこの機能を使っているのと同じなのだ。まず盗聴器として使う携帯のオート着信をONにし、呼び出し音が出てバレないように無音に設定しておくのだ。もちろんバイブレーションもOFFにしておく。マイクを取り付けた携帯電話とマイクを自動車のダッシュボードの下とか見えない場所に両面粘着テープで取り付けておけばよい。これで仕掛けた携帯に別の携帯から電話をすれば、相手に悟られずに電話中車内の会話はバツチリと聞けるのだ。受信側にちょっとした装置を付け加えるとICレコーダーにも録音できるし、携帯のスピーカーで皆で遠方の会話だって聞けるのだ。

「いらっしゃーいっ。オーライ、オーライ、ストップ!」
 その様子を見て荒川たちが、
「マー坊(及川)のやつ、何をやらせてもサマになってるなぁ」
 と笑った。及川は店長の葛巻がいつも使っているガソリンスタンドにアルバイトとして潜り込んでいたのだ。葛巻は三日に一度程度の間隔でガソリンを入れにくる。荒川たちが及川の様子を見にきた日は葛巻は現れなかったが次の日の午後、やってきた。
「いらっしゃいっ。レギュラー満タンですね」
 葛巻の車を見ると及川が駆け寄って応対した。葛巻はスタンドの店の中に入ってタバコを吸っていた。その隙に、及川は車内の灰皿をを清掃するふりをして、運転席シートの後ろ側のポケットに携帯を落とし込み、集音マイクを運転シートの裏側に両面粘着テープで固定した。そんなことを夢にも思わない葛巻はガソリンを入れ終わるとスタンドを出て行った。[装着完了]及川からのメールを見て、験しに携帯で電話をしてみた。葛巻の車内の音はちゃんと伝わってきた。
「よしっ、これでヤツラの会話はバッチリ盗れるぜ」
 荒川は満足げな顔をした。

 その日の夕方、小野寺みつるは葛巻の車に乗って盛岡市街に向って出かけた。葛巻の車が飲食店前の駐車場で停まった。冷麺の美味い店で、どうやら冷麺を食べるらしい。荒川たちもその店に入った。見ると葛巻と小野寺は向かい合って話し込んでいた。大町が、葛巻に近付いて、
「あれっ、もしかしてキヨリスの葛巻さんと違いますか」
 と声をかけた。葛巻は見知らぬ男に声をかけられて誰だか思い出す顔をしていた。葛巻と小野寺が大町に気を取られている隙に、小林が椅子の背もたれに引っ掛けられている小野寺のトートバッグに盗聴器を忍ばせた。小林が立ち去るのを見て大町は、
「いやぁ、失礼しました。どうやら人違いをしたようです。すみません」
 と頭を下げた。葛巻は小野寺と一緒のところを知人に見られたくはないのだ。それで、
「そうでしたか」
 とあっさりと話を止めた。
 盗聴器はちゃんと機能していた。荒川たちは葛巻と小野寺がホテルに入ってからも二人の会話をしっかりと盗聴していた。ホテルに入る様子は大町が低照度でもフラッシュなしに使えるデジカメでしっかりと撮っていた。

 葛巻の女房は葛巻妙子と言った。妙子は毎日キヨリス盛岡店で買い物をして、レジを通らずに事務所の従業員通用口から堂々と商品を持ち出していた。だから、妙子は日常の食品や日用品をタダで用足していたから、食費や日用品の家計の支出はゼロに近かった。キヨリスでは米や下着や洋服、普段に使う殆どの日曜雑貨を扱っていたから、家具や家電以外のものには金がかからなかった。その様子も谷川たちは確かめて、妙子が持ち出す様子もデジカメで撮影していた。

 振り返って見ると、会津若松店から始めて山形、秋田、青森、盛岡と潰れてしまった仙台店を除いて全ての調べが終わった。紀代は青森のマンション二室を安値で売却して青森を引き払い、仙台にある自分のマンションとは別に青葉区に新しく中古のマンションを買って、そこに谷川たちと一緒に住むことにした。紀代の本拠地だ。
 全て当面の仕事が終わり、紀代は皆と連れ立って近くの秋保温泉のホテルに行って、コンパニオンを呼んで宴会を開いた。
「紀代さんは気が利くなぁ」
 谷川は紀代の心遣いをありがたがった。

百八十二 役員交替

 一連の調査を終わって、紀代は報告を兼ねて久しぶりに市川雅恵に会ってみたいと思った。それで雅恵に電話をしようとしている時、矢田部から電話が来た。
「どうだ? 元気か? 長い間大変な仕事をしてもらってご苦労さんだったな」
「お陰さまであたし色々勉強をさせて頂きました」
「たしか最初の頃は市川さんにご協力頂いたそうだね?」
「はい。あたしの元義母になる方です」
「元義母かぁ、紀代ちゃんは母親が三人も居て全部まだご健在だそうだから、そんなのは珍しいね。あはは今義母に元義母ってことかぁ」
「はい。雅恵さんとは昔の(わだかま)りを消して、今では良き相談相手になって頂いてます」
「いいことだよ。それでだが、少し先になるが、社内のコンプライアンスを引き締めるために、監査委員会を設置するつもりだ。そこでだ、外部者の一人として市川さんに入っていただくつもりで、一度食事でもしながら会って話をしてみたいのだがどうかね」
「はい。さっそく連絡をとってみます」
「よろしく頼むよ」
 雅恵に電話をする良い口実ができた。紀代は早速雅恵に電話を入れた。

「お義母さん、お元気?」
「元気よ。紀代ちゃんは?」
「もちろん。近々お食事でもする時間、取れない」
「そうねぇ。あたし、昔のコンビニのお仕事をまたやってるのよ。なんだか店長に好かれちゃって、今はお店一軒任されてて結構忙しいのよ」
「さすがお義母さんだわね。たいしたものよ。じゃ、時間を取るの、難しいの?」
「可愛い娘に会いたい気持ちには勝てないわよ」
 と雅恵は笑った。それで翌週の金曜日に矢田部と雅恵と三人で食事をすることに決まった。雅恵は矢田部とは初対面だったが、二人とも紀代の親代わりの意識があって、和やかに話が進んだ。監査委員就任については、雅恵は前向きに考えたいと答えた。

 矢田部と雅恵と会食してから、紀代はM製菓の仕事が多忙であっと言う間に四ヶ月以上過ぎてしまった。その月の月末、キヨリスの株主総会があった。キヨリスは二期連続赤字決算となり、表向きその責任を取る形で社長の今井秀子は代表権のない会長になり、代表取締役社長に矢田部が就任した。
 紀代は今度の株主総会で役員に就任できるかと思ったが、紀代には全く声がかからなかった。

 矢田部は社長に就任すると、各店舗の店長の入れ替え、経理と仕入れの担当者の入れ替えを着々と進めた。紀代が提出した情報で特に横領や管理不行届きの杜撰(ずさん)な行いをしていた社員は降格ばかりでなく、中には解雇された者も居た。その年、矢田部は社内にコーポレートガバナンス委員会(監査委員会)を設置して、内部社員三名、社外からの委託者二名の五名編成でスタートさせた。社内からは山形店の杉山が入っており、外部委員として市川雅恵の名前も入っていた。

 元社長の秀子は矢田部に引き継いでから矢田部が自分の情報源だった裏組織の人間を次々と引き剥がし、手も足ももぎ取られてしまって憤懣やるかたなかった。会長だと言っても代表権がなくなって、実質的には仕事がない平取締役だ。秀子は昼間から欠伸がでるほど暇だ。それで、愛人の野間健人と白昼愛欲に溺れていることが多くなった。矢田部はそれを知っていたが無視した。困ったことに、今まで秀子に集まった上納金がぴったり止まってしまった。それで、秀子は野間と遊び歩く金に困るようになっていた。
 更に驚いたことに、監査委員の一人に秀子が目の敵にしている市川雅恵の名前があったのだ。秀子は若い頃雅恵に散々な目に遭わされた。あの時の怖ろしさは今でも決して忘れられなかった。そこで、秀子はこの際恨みを晴らしてやるために、雅恵を虐めてやろうと画策したが、雅恵は月に二日か三日しか東北には来ず、普段は東京で暮らしていることが分り手を出し難かった。
 それで、そのことを野間に打ち明けて協力を頼んだ。
「あんたの知り合いでやばいことを何でも引き受けるような人いたわよね」
「いるには居るが、何か頼みたいのか」
 秀子は野間の知人に雅恵を痛め付ける仕事を頼みたいと言った。
「近いうちにあいつに相談してやるよ」
 秀子の頼みとあって野間は引き受けた。

 矢田部はコーポレートガバナンス委員会のメンバーを使って、秀子が築き上げてきた組織を一新した。これには予想以上の抵抗や嫌がらせがあったが、矢田部は大きな波風を立てぬように耐え抜いた。
 役員交替時に、新たに役員としてかねて親交の厚かった定年退職間近の信用金庫の理事長も加わった。
 紀代の落胆とは裏腹に矢田部は組織の膿を出し切って恨みが紀代に向わないようにしてから紀代に会社を引き継いでやりたかったのだ。矢田部の紀代を思う温かいささやかな思いやりだった。

百八十三 新たな希望 Ⅰ

 M製菓の新しいプロジェクトのアドバイザーとして、非常勤取締役の紀代はこの数ヶ月多忙だった。会合は鶴見の工場でなく本社で行われたから、紀代はその間都内でホテル暮らしをしていた。期末が近付くと株主総会に先立って、M製菓でも役員の交代に伴う役員会があったが、若くて実績のある紀代は非常勤取締役として再任するように話を受けていた。ようやく多忙な時期を脱して、紀代はここのとこ毎日外食続きだったので、好きな料理を自分で作ってゆっくりしたいと思った。
 振り返ってみると、借りっぱなしの鶴見のマンションにはキヨリスの調査を開始してからずっと戻っていなかった。不在の時は管理人に室内のケアを頼んであったから、戻れば直ぐに住める状態にはしてあった。
 紀代はスーパーで夕食の食材を買い集めると、久しぶりに鶴見のマンションに向った。

 藤島光二は中国の上海近郊揚子江の入り口崇明(チョンミン)から七億ドルの百ドル紙幣を太平洋上で密輸する仕事が終わると、士道からもらった多額の資金を元手にして、ケイスケ・クワタの偽名を使って、アフリカ南部ボツワナ国のジュワネンダイヤモンド鉱山に潜入、一年がかりで仲間を集め隠密に窃盗計画を実行に移した。
 ダイヤモンド原石窃盗の決行当日、韓国籍を含む十人の仲間が組になって、ダイヤモンドの原石約50kgを盗み出し、積載容量200トンの大型ダンプ一台とジープ二台で逃走した。50kgの上質の原石は時価に換算すると日本円で三百五十~四百億円にもなるのだ。逃走は警備兵により直ぐに発見されて、武装ジープ二台が追跡してきた。カラハリ砂漠の中を約50km逃走した所で警備隊に追いつかれ銃撃戦になった。大型ダンプは車輪が大きく、ジープなどにぶつかると車輪でジープをぺしゃんこに潰してしまう威力がある。それで警備兵のジープを側面から追い回し、銃撃戦を有利に導いた。光二は自分たちの仲間二人が銃弾に倒されたが、警備兵全員を射殺して逃走を続けた。大型ダンプは長距離の走行には適さない。それで警備兵を殲滅すると、二台のジープに分乗してダンプカーを乗り捨てた。
 盗み出したダイヤモンドの原石は光二が指揮するジープに載せてあったが光二が乗ったジープには韓国籍の男二人と計三人が乗り込み、もう一台のジープにはボツワナ人、ザンビア人、エジプト人など五名が乗り込んでいた。

 追手の警備兵を殲滅したとは言え、鉱山側では恐らく軍部に追跡を依頼して大々的に捜索作戦を展開してくるだろうことを光二は事前に想定していた。それで、日が沈んで星明りになっても交替でジープを運転して逃走を続けた。出来るだけ早く国境を越えて隣国のナミビアに逃げ込む必要があった。約300kmほど逃げた所で後方の五人が乗ったジープが消えていた。恐らく燃料切れで走れなくなったのだろう。だが、光二はそんなことを気にはせずに走り続けた。約350km走った所で自分たちのジープもガス欠になった。
 光二は自分が乗っているジープには燃料の軽油を予備タンクに積んできていた。慌てる韓国籍の男たちに指示して、後部座席の下から100リッター入りの予備タンクを担ぎ出させるとタンクから燃料を給油してまた走り続けた。夜が明ける頃、ガタガタ道だが道路らしきものがある所に出た。どうやらカラハリ砂漠を走りきって隣国のナミビアに入ったらしい。だが、光二は尚も休まず逃走を指示した。一直線に西に向う道路を埃を舞い上げて疾走すると、やがてやや大きな河に出た。河の畔に廃墟があり、川沿いに置かれた古びた石片に「La Olifants」 と刻まれていた。光二は地図が頭に入っていた。それでこの河がナミビアのオリファンツ河だと分った。日が高くなると暑いので廃墟の日陰は休むには丁度良い。
「ここでしばらく仮眠しよう」
 光二は休憩を指示して自分も廃墟の日陰に横たわった。

 光二がうつらうつらしている時、韓国籍の男は何やら相談をしていた。やがて二人が光二のそばに近付くと、一人が飛び出しナイフを取り出して、いきなり光二に切りつけてきた。光二は咄嗟に身体を捻った。男のナイフは砂上に突き刺さり、男はナイフを引き抜くとまた襲ってきた。男のナイフが光二の左足の太ももに突き刺さった。光二は右足で男を蹴ると、懐に忍ばせていた護身用の小型拳銃を取り出し発砲した。弾丸は至近距離だったから男の心臓を貫通し、男はその場で倒れた。それを見た別の男がジープの方に走ろうとした。光二は続けて逃げる男に向けて発砲した。
 パーンッと乾燥した音が廃墟にこだました。弾丸は逸れて男の脚に命中した。光二は立ち上がって男を追い、背中に向けて拳銃を発砲した。弾丸は命中して男はその場に倒れこんだ。光二はシャツを破いて血が滴る左足の付け根の所でしっかりと縛った。それで出血は少なくなった。光二は倒れた二人の男を、左足を引き摺りながら河べりに引き摺って行き、二人とも河の中に蹴り落とした。

 光二はジープに戻って後部座席の下に置いてあったダイヤモンドの原石を取り出すとスコップを持って、袋を担いで廃墟の脇に穴を掘って原石を入れた袋を埋めた。後で誰かが見ても見付からないように石を二つ置いて、穴を掘ったのが分らないようにしてからジープに戻った。街に出て治療を済ませてからまたこの場所に戻って原石を回収するつもりだった。
 ジープの後部座席の原石のあとに、光二は二丁のM4カービン銃を隠した。それでジープを動かして街に出るつもりであったが、左足の痛みが激しくジープのクラッチを踏み込めない。頑張って何度も試してみたが、どうしても発車できなかった。そうこうしている間に出血で脳貧血を起こし、ハンドルに捕まったまま光二の意識は薄れていった。倒れた光二の頭にジリジリと太陽の光線が突き刺さった。やがて光二は完全に意識を失ってしまった。

百八十四 新たな希望 Ⅱ

 気を失ってからどれくらい過ぎたのだろう? 光二が気を取り戻した時、病院と思われる白い壁の部屋の中の粗末なベッドに横たえられていた。光二が身体を起こそうとすると、気付いた看護婦が駆け寄ってきて、
「ノー。ノーッ」
 まだ起きてはダメだと制した。看護婦は英語を使っていた。ナミビア共和国の公用語は英語で一般には英語の他にオランダ語に近く南アフリカ一帯に広まったアフリカーンスやドイツ語、それにヘレロ語などの部族語が使われていることを光二は知っていた。長い間鉱山で働き色々な人種の仲間達と交わっている間に、光二はアフリカ南部の部族語もある程度聞き分けられるようになっていた。文法などに関係なく日常意思の疎通をするには片言でも十分だ。

 看護婦の知らせを受けて、若い医師がやってきた。医師は流暢な英語で、
「気が付かれたなら峠を越しました。命は助かりましたよ。太ももの傷ですが、止血のために脚の付け根を強く縛ってあったために左下肢の組織が死んでしまい、このまま放っておくと壊疽(えそ)で感染症が体中に広がり必ず絶命されることになります。刺されて直ぐにここに来られたなら大した怪我ではなかったのですが残念です。ずっと気を失われた状態でしたので私の一存で下肢を切断致しました。悪く思わないで下さい」
 医師は申し訳なさそうな顔をしていた。光二は驚いた。それで左足を確かめるために手で探ってみた。確かめると、医師が言うように左足の太ももから下がなかった。光二は呆然としたが切断されてしまったものは仕方がない。命を取りとめただけでも良しとするかと諦めた。
 医師は光二の驚いた顔を見て、
「あなたは強靭な身体ですから、一ヶ月も入院していれば傷口は完全に塞がり他に悪いところがないか検査を済ませれば退院できるでしょう。傷口が塞がったら退院なさいますか?」
 と尋ねた。光二が怪訝な顔をすると、
「普通に生活なさるには義足が必要です。義足を付けると約一年間程度のリハビリが必要になります。どうなさいます?」

 片足一本で松葉杖ではこの先何も出来ない。それで光二は医師に尋ねた。
「費用はどれくらいかかりますか?」
「義足は安いものから高いものまで幅があります。五千ドル以下の物は私としてはお勧めできません。最低五千ドルは必要です。出来れば一万ドル前後の物が良いのですが」
 と答えた。
「オレが乗っていたジープはまだありますか?」
 光二が聞くと、医師は看護婦を呼んで確かめさせた。少しして看護婦が戻ってきた。まだ駐車場に放置されています。
「そこまで連れて行って頂けませんか?」
 医師は困った顔をしたが、
「まだ傷口が傷みますが我慢できますか?」
 と聞き返した。
「大丈夫だ。連れてってくれ」
 医師は車椅子を用意した。看護婦二人と医師に抱き上げられてどうにか車椅子に乗せられると、看護婦がジープの所まで連れて行ってくれた。光二は片足だが両腕は使えた。それでバックシートを持ち上げて中を確かめた。M4カービン銃と銃弾は盗まれてしまっていた。光二は小さな工具箱を開けるとメガネレンチとドライバーを取り出して、地面に自分の身体を横たえてくれと看護婦に頼んだ。看護婦が二人して光二を仰向けに地面の上に寝かせると、光二はジープの下に首を突っ込んで六角ボルト二本を取り外し固定してあった小箱を外した。泥だらけの小箱の泥を拭いてくれと看護婦に頼んだ。看護婦は親切だった。タオルで泥を拭って小箱を光二に返した。光二はドライバーでネジ四本を外して箱を開いた。そこに紙に包んだドル紙幣の札束があった。看護婦二人は覗きこんで、
「ヒャーッ」
 と驚きの奇声を発した。光二は百ドル紙幣二枚を引き抜くと一枚ずつ看護婦に渡した。
「Thank you for your kindness」
 札束は十束、一束で一万ドルだから全部で十万ドルあった。

 看護婦に車椅子を押されて、光二は病室に戻った。二人の看護婦は往きと違って帰りはムチャクチャ親切に扱ってくれた。光二は医師を呼ぶと、
「一年間のリハビリの入院費はどれくらいかかりますか?」
 と聞いた。医師は、
「手術の費用も含めて二万ドルもあれば大丈夫です」
 と答えた。光二は、
「では一万ドルの義足にして、二万ドルの入院費を前払いします。恐れ入りますが手続きをお願いします。それから……」
「他に何か?」
「ここに六万ドルあります。申し訳ありませんが退院するまでこの病院で預かってもらえませんか?」
 と聞いた。
「医師は看護婦に何やら小声で伝えた」
 間もなく看護婦と一緒にでっぷりと太った事務長がやってきた。光二は名刺を受け取り確かめた。事務長は、
「お預かりしましょう。後ほど預り証をお持ちしますので預り証と引き換えに治療費の前払い金と残金を引き取ります」
 と答えて戻って行った。光二は手元に約一万ドルを現金で持った。先ほど看護婦に二百ドル渡したから正確には九千八百ドルだ。医師と看護婦が立ち去った後で、光二は盗難を警戒して札束を包帯で包んでウエストに巻き付けた。それから少し眠った。
「コウジ」
 と女の声がした。目を開くと昼間手伝ってくれた二人の看護婦が花束と果物を抱えて立っていた。どうやら改めて見舞いをしてくれているようだ。

百八十五 新たな希望 Ⅲ

 光二が入院治療を行っていた病院はナミビア共和国南部のゴチャ(Gochas)と言う町だった。小さな病院だが医師も看護婦も揃っていた。
 光二の所に英国人の義足技師がやってきて切断された左下肢のサイズを計り、二ヶ月ほどして試作品が仕上がってきた。義足は全てオーダーメイドで製作されるのだ。試作品を装着してダメ直しを行ってから、手術後三ヶ月目に義足が装着されて光二のリハビリが始まった。左足の切断された傷口は塞がり、外科手術は全治していた。最初の間は義足に馴染むのに苦労をしたが、やがて杖をつかずに歩行できるまでに回復していた。
 その間、光二は看護婦たちの間で人気が出て、光二にとっては幸せな日々が続いた。
 医師の予測通り、あれから一年が過ぎた時、光二は退院間近になり、ようやくリハビリの成果が出ていた。
 いよいよ退院する日、病院に預けておいた金を受け取り、医師や看護婦たちに見送られて光二は退院した。リハビリ中時々ジープを運転してトレーニングをしたので、クラッチが義足の左足で楽に踏み込めるようになっていた。オートクラッチの普通の乗用車なら運転に支障はない。光二はジープのエンジンルームにもう一つ小箱を隠していた。小箱の中には十万ドルが入れてあったから、その後の活動には十分過ぎる資金があった。光二は二万ドルを出してオートマチックドライブの中古のピックアップ車を買った。

 ガソリンを満タンにすると、光二はナミビア共和国の首都ウィントフックを目指して走り出した。ガソリンは他の物価に比べてメチャ高いが仕方がない。光二は国際線の航空機が発着しているウィントフックからロンドンに飛ぶつもりだったが、パスポートがないので、その前にウィントフックにある日本大使館に行ってパスポートを再発行してもらう必要があったのだ。
 道路はでこぼこで日本で言えば田舎の未舗装の農道のような感じだった。行けども行けども周囲は赤茶けた地面に荒野が広がっていた。ウィントフックまでは約400kmの道のりだ。
 行き交う車両は殆どなく、光二は出来るだけスピードを上げて、砂埃を舞い上げながら走った。程度の良い中古車を買ったのだが、走って見るとガタガタと異様な音がした。冷却水の水温は何とか安定していたから、走行には問題がなかった。

 スタンプリエト(Stampriet) の町を左折して、光二はマリエンタル(Mariental) の町を目指した。マリエンタルには幹線道路が通っているから、ウィントフックに早く着けるだろうと思っていた。スタンプリエトからマリエンタルまでは約60kmだ。光二は町で休まずにそのまま走った。
 スタンプリエトから10kmほど走った時、前方に二台のジープが見えた。
 更に近付くと、警備兵が七人カービン銃を背負って光二の車が近付くのを待っている様子だ。更に近付くと、警備兵の一人が停まれと手招きした。検問らしい。
 光二が車を停めて警備兵が誘導した一台のジープの側に行った。
「おいっ、どこまで行くんだ?」
「ウィントフックまでだ」
「何の用だ?」
「オレは日本人だ。これから本国に帰る」
 警備兵は全員光二のところにやってきて取り囲んだ。隊長格の年配の男が、
「パスポートを見せろ」
 と言った。
「失くしたからここにはねぇ。ウィントフックの日本大使館で再発行してもらうつもりだ」
「パスポートを持たないやつは通すわけにはいかねぇ」
 彼らは流暢ではないが英語で受け答えしたから光二も英語で受け答えをした。

 隊長格の男の目配せで突然警備兵の一人が光二を背後から羽交い絞めをした。そして、前に居た警備兵たちが光二を殴る蹴るを繰り返して光二は赤茶けた大地に蹲るしかなかった。
 すると、警備兵たちは光二の持ち物を調べて金目の物を全部剥ぎ取り、車も没収して、一人が光二の車に乗り込み他の警備兵はジープに分乗して走り去った。だが、しばらくしてもう一台のジープが戻ってきて、三人がかりで光二の義足を外して持ち去った。光二は去っていくジープを呆然として見ていた。
 警備兵たちが本物なのか、警備兵を装った窃盗団なのかは分らないが、光二は動物的な感で、彼らは窃盗団に間違いないと思った。
義足を盗まれて、杖もなく、光二は歩行すらできない状態で何もない荒野の道端に放り出されてしまったのだ。

百八十六 新たな希望 Ⅳ

 光二は何とか四つん這いで道路に出て、マリエンタル方面に通り過ぎる車を待った。一時間ほどして、遠方から土埃を舞い上げて近付くトラックがやってきた。光二は道路の真ん中に出ると、片足で立って手を振りトラックを停めた。運転手が怒って窓から首を出して喚いた。
「すまんがマリエンタルまで乗せてくれ」
 光二の様子をジロジロ見てから運転手は渋々、
「乗れ」
 と顎をしゃくった。
「助かった」
 光二は運転手に礼を言って助手席に乗り込んだ。強盗が出没するらしく、運転手は用心したらしい。
 一時間ほどでトラックはマリエンタルの町に入った。
「大きな病院の近くで降ろしてくれないか」
「なら、ここで降りろ」
 光二は礼を言って降りた。光二を降ろすとトラックは走り去った。近くの民家を覗いて、病院の場所を聞くと降りた所から1km先の白い建物だと知らされた。歩いて行ける状態じゃない。光二は辺りを見渡して、何か杖になる棒がないか必死に探した。探した甲斐があって、長さ1m位の棒切れを見つけた。光二はその棒を借りようとすると、家の中から出て来た男にど突かれた。光二は必死に自分が病院まで歩くのに必要だから貸してくれと頼んだ。

 ようやく棒を借りると、光二は病院に向って少しずつ歩いた。棒は一本しかない。普通なら二本の松葉杖が必要だ。だからなかなか思うように進まず、病院に着いた時には日が傾いていた。
 病院に着くと、光二は義足を着けてもらいたいと申し出た。担当した医師はゴチャの病院の医師と同じようなことを説明した。光二は包帯に包んだ一万ドルを腹に巻きつけていて、それは窃盗団に巻上げられずに手元に残っていた。それで光二は、五千ドルは出せないので三千ドルで着けてくれと言った。医師は渋い顔をして応じず、
「良い品物ではないことを承知なら」
 と言って結局五千ドルで応じてくれた。
 光二は義足の試作品が仕上がってくるまでの間、住む場所がないので病院の片隅で寝泊りをさせてもらった。
 一ヶ月もすると、試作品が仕上がってきた。見ると前の義足に比べてとても粗末な物だった。義足を着けて見て、ダメ直しが終わって、光二はリハビリは自分でやることにした。
 その日以来数ヶ月間、光二は必死に新しい粗末な義足に慣れるよう自分で訓練をした。その結果、どうにか片手に棒切れを持って歩けるようになった。
 光二は五百ドルを出して病院から松葉杖を一本買うと病院を出た。髪の毛は伸び放題、顎髭も伸び放題で最初に着ていた背広はボロボロ、下着も洗濯が出来なかったから身体中異臭が漂っていた。手元の現金は約三千ドルに減っていた。

 光二は町の洋品店を探して下着とシャツ、ズボンやジャケットを新しく買い求めた。粗末な物だが予想以上に金がかかった。シャワーを使うにはホテルに入るしかない。金は惜しいが仕方なくホテルに入ってシャワーで頭の天辺から足の爪先までシャワーで洗い流した。
 調べてみると、一週間に一本マリエンタルからウィントフックまで定期バスが出ていることが分った。光二は野宿のように廃屋らしい小屋で過ごしバスを待った。バスのチケットを買ってバスの出る日、バス停で待っていると驚いたことに長蛇の列が出来ていた。結局その日はバスに乗り込めなかった。仕方がない、また一週間過ぎてようやくバスに乗り込むことができた。
 これでようやくウィントフックまで行けると思ったのが間違いだった。カルクランド (Kalkrand)を過ぎたあたりでバスのエンジンルームから白煙が立ち昇りエンコしてしまった。オーバーヒートらしい。回復まで三日か四日かかると言われ、乗客はバスを降りてぞろぞろ歩き始めた。光二はそう長い距離は歩けない。それで故障したバスの所に留まって回復を待った。
 五日後別のバスがやってきて乗り換えることになったが、満員で乗れなかった。満員と言っても車内は寿司詰めで屋根にまで人が乗っているのだ。仕方なく光二は扉にぶら下がるようにしてバスにしがみ付いた。同じようにしがみ付いて乗った乗客の中には力尽きて落ちてしまう者もいた。光二は必死に落ちないように頑張った。次の町のレホボート(Rehoboth)のバス停に付いた時、そこで光二は力尽きてバスを降りた。

 また四日間待たされて、次のバスに何とか乗り込むと、夕方ようやくウィントフックの市街に入り、バス停でバスを降りた。ウィントフックは人口約二十三万人の首都なので日本の地方都市くらいの規模があり、大きな建物もあった。その日は安いホテルに泊まり、翌日光二は日本大使館に出向いた。
 乞食のような格好をした光二を見て、応対した大使館員の男は訝った。
「藤島さんの場合盗難で失くされたようではないので、警察に紛失届けを出して証明をもらって下さい」
 仕方なく光二は警察に出向いて紛失届けを出したが、警察では犯罪性のある不法入国ではないかと決め付けて光二を拘束しブタ箱に放り込んでしまった。光二は不法入国、不法滞在の罪で刑務所に送られ、三年間も勾留された。この間、光二は大使館員に会わせろと何度も訴えた。結局光二が流暢な日本語を使い、光二が指定した身元照会先、横浜の二宮が光二の戸籍抄本を取り寄せ大使館宛てFAX送信し、光二は日本人だと証明されたので帰国のための渡航書の発給に応じた。しかし、光二は手元にあった現金を殆ど使い果たしてしまい、帰国の航空券を買うことができなかった。それで、二宮に頼んで大使館気付で電信為替で一万ドルを送金してもらった。
 大使館で光二に応対した職員の中に伊達佐緒里(だてさおり)と言う四十歳前後の女性が居た。その女性が光二の苦労と境遇に同情して、為替を受け取りに行った日、
「よろしかったら私の自宅にお寄りになりませんか」
 と声をかけてくれた。なんたって着ている物はボロボロ、髪の毛や顎鬚は伸び放題、下着もろくに替えていなかったから見るからに哀れな男に見えたのだ。
 光二は伊達の好意に甘えて、その日伊達が住んでいるマンションを訪ねた。光二が訪ねると、佐緒里はお風呂を沸かしてくれていた。
「臭いわねぇ、さ、身体じゅう綺麗に洗って下さいな」
 久しぶりに湯船に浸かって手足を伸ばしたが、左足が切断されていることを改めて見ることになり、惨めな気持ちになった。風呂場に仕度してあったジレットのカミソリで髭を剃った。剃ったと言うりも長い髭をそぎ落としたと言った方が当たっている。光二が全身丁寧に垢を落として風呂を出ると汚れた義足が綺麗に洗って置いてあった。義足のそばのカゴに洗濯されたパンツやシャツ、パジャマ、それに背広の上下が畳んで置いてあった。
「サイズが少し小さいと思いますが、別れた夫が残して行ったものです。よろしかったら差し上げますから着て下さいな」
 光二は言われるままに着た。なんともちんちくりんでサイズが合わなかったが、不具合は丈だけで、痩せこけた光二はちゃんと着れた。
「こちらにいらして」
 と手招きされて居間に行くと、佐緒里はハサミで伸びすぎた髪の毛をほど良い長さに切り落としてくれた。
「サッパリしました。ありがとうございました」
 すると佐緒里はダイニングに案内した。
「私の手料理ですけど」
 テーブルに沢山の海苔巻きがあった。十年ぶりに食べるお米の味、お吸い物の味、光二は懐かしい味だと思った。それに、今までご馳走は色々食べてきたが、この時の美味しさは一生忘れないだろうと思った。食事と一緒に、佐緒里はビールの栓を抜いた。キリンビールだ。喉を通るビールの爽やかな心地。光二は佐緒里の気遣いに感謝した。食後、光二が居間でテレビを見ている間、佐緒里は忙しそうに後片付けしていた。片付けが終わると、佐緒里は光二を寝室に案内した。
「別れた主人が使っていたベッドです」
 光二がベッドに横たわると、佐緒里はベッドに座り光二の湿った髪の毛をドライヤーで乾かしてくれた。
「あなた、よく見るといい男ね」
 そう言いながら切断された足の切り口に傷がないか調べるように覗き込み、
「可哀想に」
 と呟いた。光二は母親か姉のような親近感を感じて、佐緒里の顔をじっと見つめていた。

百八十七 新たな希望 Ⅴ

「サッパリなさったところで、明日渡航書に必要なお写真を撮影して頂きましょう。今夜はぐっすりとお休みになって。おやすみなさい」
 佐緒里は光二の手を取って掛け布の中に入れた。佐緒里の手は温かかった。

 翌日光二が目覚めて洗面所に行くと白いタオル、歯ブラシ、櫛、ジレットのカミソリなどが丁寧に揃えてあった。キッチンから美味しそうな香りが漂ってきて、光二は久しぶりに人間の暮らしに接した。振り返って見ると、この十年間でゴチャの病院暮らしの他は落ち着いて眠れたためしがなかった。

 朝食を済ますと、佐緒里の車で大使館に向った。
「おはようございます」
 佐緒里が元気な声で大使館に入る時、佐緒里に続いて光二も入った。すると、昨日胡散臭そうに応対した大使館員の顔が驚きに変っていた。乞食同然のかっこうで大使館にやってきた目の前の男が長いぼうぼうの顎鬚を綺麗に削ぎ落とし、伸び放題に伸びきった長い髪の毛は適度の長さに切りそろえられていて、おまけに質の良いスーツ、洒落た柄のネクタイを纏い、見るからに紳士に変身していたのだ。
 頼んでおいた一万ドルの電信為替も二宮から届いていた。為替を受け取ると、光二は伊達佐緒里を呼んでもらって、
「もう一晩お世話になってもよろしいでしょうか」
 と尋ねた。佐緒里は光二のその言葉を待っていたかのように、頷いた。

 光二は為替を持って銀行に出向き、現金に換えると、写真屋に寄って顔写真を撮ってもらった。渡航書に必要な写真の仕上がりサイズはパスポートと同じだ。写真店の男はそれを良く知っていた。
 光二は写真を受け取った足で大使館に戻り、渡航書発行の申請をした。夕方渡航書が出来上がっていた。光二は渡航書を受け取ると、仕事が終わって出て来た佐緒里の車に乗せてもらって、佐緒里のマンションに帰った。
「明日、お別れかしら?」
「ああ、世話になったな」
「もう一日か二日、私の所にお泊まりできませんこと?」
 光二はその時、佐緒里の淋しそうな横顔を見た。
「じゃ、発つのを明後日にしよう」
「……」
 佐緒里は何も言わず、顔をほんのり赤らめ、俯き加減で上目で光二を見た。
「会ったばかりの方にこんなことをお願いするのは初めてですのよ」
 やや経ってから言い訳のように佐緒里は付け加えた。
「……」
 今度は光二の方が黙り込んだ。

 白いご飯、魚の煮付け、肉じゃが、里芋の煮物、味噌汁、お新香それに緑茶。夕食のテーブルに佐緒里は次々と並べた。
「食材、よく手に入ったな」
「ウィントフックで一軒だけ日本から食材を取り寄せて品揃えが多いお店がありますのよ。もちろんこしひかりも手に入りますのよ」
「魚は?」
「お魚は中国料理の食材を売っているお店で買ってますの。中華料理のお店は多いですから、中華の食材は簡単に手に入るわね」
 佐緒里は光二がテーブルの上に並べたメニューに関心を持ってくれたことが嬉しかった。
「この方、思った通りだわね。素的」
 口には出さなかったが、佐緒里は心のなかでそう呟いた。

 佐緒里の手料理は美味しかった。やはり日本食が一番自分の口に合っていると光二は思った。ロンドンのヒースロー空港で食ったバカ高い寿司、だが寿司とは名ばかりで日本の何処に行ってもあんな不味い寿司は売ってないだろうなどと思い出しながら、
「佐緒里さんの手料理、オレは多分今まで食ったメシの中じゃ一番美味いね」
 と言う光二の顔を見て、
「歯が浮くようなお世辞ね」
 と佐緒里は笑った。嫌な顔ではなかった。
「お世辞じゃねぇ。食い物の味は食った時と場合で違うとオレは感じてるんだ」
 光二の怒ったような顔を見て佐緒里は自分の心臓を光二に鷲摑みされたように驚き、一瞬息が止まった。光二は女にお世辞など言ったことがなかった。それをお世辞だと言われて本当に腹を立てていた。その光二の怒りが佐緒里の胸に突き刺さって痛かった。
 突然目にいっぱい涙を溜めて、佐緒里は泣き出した。
「ごめんなさい。あたしどうかしていました。光二さんに失礼なことを言ってしまって。あたし、どうしよう……」
 この時、佐緒里は藤島さんと言わずに光二さんと言い、私があたしに変っていた。

 肩を震わせて泣きじゃくる佐緒里をどう扱えば良いのか、光二は分らなかった。それで立ち上がって佐緒里を抱きしめてやった。
「すまん。言い過ぎた」
 光二に抱きしめられた佐緒里はしばらく大人しくしていた。泣き止んだのを感じて、光二が抱きしめた腕をほどくと、いきなり佐緒里が抱きついてきた。光二はこんな場合、どうして良いのか、また迷った。酒場で知り合った女なら突き放して、
「勘違いするなっ!」
 等と罵声を浴びせて終わりだが、今自分に抱きついている佐緒里を酒場の女のように邪険に突き放せなかった。

百八十八 新たな希望 Ⅵ

 結局光二は佐緒里の頼みを聞いてもう一日佐緒里の世話になった。佐緒里に泣かれて、しばらく光二は気まずい思いをしていたが、佐緒里が機嫌を直したので、その後は泣かせないように気を遣った。
 その夜、ベッドに寝そべって、佐緒里の別れた旦那が置いていったらしい[いつかは行きたい 一生に一度だけの旅 BEST 500 ]と言う題名の分厚い写真集を見ていた。かなりマニアックな旅行書だ。何気なくページを繰っていると[四輪バギーでナミビア砂漠へ]と言う標題の記事に目が止まった。十台のバギーがナビブ砂漠の砂丘を走り抜けている写真があった。光二は思わず、
「冗談じゃねぇ」
 と呟いていた。自分のように警備兵の追っ手を振り切ってカラハリ砂漠からナミビアへと数百キロを必死に走りぬけた経験からすれば、金持ちのお遊びなど馬鹿馬鹿しいと思った。

「あらぁ、光二さんご旅行がお好きなんですね」
 いつの間にか佐緒里が光二が寝そべっている部屋にトレーを持って入ってきた。トレーには香りの良い紅茶と手作りらしい洋菓子が乗っていた。
 佐緒里の声に驚いて振り向くと、
「どうぞ」
 と言ってトレーをベッドの上に乗せた。ティーカップは二つ乗っていた。
「ありがとう」
 光二は佐緒里と一緒にティーカップに口を付けた。佐緒里は薄手のナイトウェアを羽織っていた。
「今までどんな所へいらしたの?」
「仕事じゃあちこち行ったよ」
「観光旅行はなさらないの?」
「ああ」
「あたし、この本の」
 と言って佐緒里はページをめくった。
「あっ、あったわ」
 佐緒里が指さしたページにはトルコのターコイズ・コーストと言う題名でグレットと呼ばれる小さな帆船でトルコの西南海岸に沿ってクルーズする旅が紹介されていた。
「オレはトルコには一度も行ってねぇが、食い物は美味しいらしいね」
 と答えた。
「あたし、光二さんとこんな所旅してみたいな」
 昼間のスーツ姿、自宅でのエプロン姿を見たが、今見る佐緒里はバストが思ったよりあって、色香が漂っていた。光二は、
「こんな身体じゃ」
 と言いかけて言葉を飲み込んだ。それで、
「いつかチャンスがあったらな」
 と答えた。佐緒里は嬉しそうな顔で、
「チャンス、待ってるわよ」
 と言った。

「いよいよ明日、帰ってしまいますのよね」
「ああ」
「もう少し……ダメ? ダメよね」
 佐緒里は光二を帰したくなかった。
「ああ」
 光二が写真集を棚に戻すと、佐緒里は灯りを暗くした。静かな夜だ。二人はベッドにならんで座って、しばらく無言でいた。
 突然佐緒里が光二の口に唇を押し付けた。光二がそっと佐緒里を押しやると、
「今夜、お別れに抱いてぇ、ね、お願い」
 と小さな声で呟いた。

「すまん。もう十年もほったらかしで誰かと結婚してるかも知らねぇが、オレ、大切にしている人がいるんだ。すまん」
「日本に?」
「ああ」
 光二の予想外の言葉に、佐緒里は光二に抱き付いた手を離した。佐緒里はしばらく光二の横に座っていたがやがて、
「おやすみなさい」
 と泣き声で挨拶してからトレーを持って部屋を出て行った。

 翌日早朝、光二は身支度を済ませて佐緒里に別れを告げて外に出ようとした。
 その時、
「行かないで、お願い」
 突然光二の背後から佐緒里が抱きつき、光二を止めた。光二は、
「すまん」
 とそれだけを残し、佐緒里の手をほどいて逃げるように去って行った。
 佐緒里は小走りに通りに出て行く光二の後姿を呆然と見送っていた。
 光二はタクシーを拾うとホセア・クタコ国際空港に向った。空港に着くと、チケットを買った。ロンドンのヒースローまでは一回乗り継ぎで行ける。料金はエコノミーで約十二万円だ。片道八万円くらいの格安もあったが出発が夜になるので、十五時頃の出発便にした。それより早いのはなかったので、結局半日空港でブラブラしていた。
 十四時五十五分、搭乗を済ますと、光二はロンドン目指してナミビアを飛び立った。日本に帰っていずれ落ち着いたら必ずもう一回ナミビアに来て、廃墟の脇に隠してきたダイヤモンドの原石50kgを掘り出してやろうと思っていた。

百八十九 新たな希望 Ⅶ

 広大なアフリカ大陸の上空を、光二を乗せた南アフリカ航空の大型ジェット機はヨーロッパを目指して飛んでいた。光二は眼下に広がる荒涼とした景色を見ながら、この十年間死闘を繰り返してきた出来事を思い出していた。
「紀代は今どうしているかなぁ」
 ふと紀代の可愛い面影を思い出した時、急に睡魔に襲われていつの間にか眠ってしまった。
「もしもし、ベルトを着用して下さい」
 スチュワーデスに揺り起こされて、光二が目を覚ましたら機体は着陸体勢に入っていた。

 ロンドン郊外のヒースローで昼過ぎ出発の全日空機に乗り換えて、光二は成田に向けて飛んだ。航空機の長い旅だ。光二はずっと眠って過ごした。すっかり太陽が昇った九時過ぎに、光二は無事に成田に帰ってきた。手荷物は何もない。ウイントフックで発行してもらった渡航書を見て、係官は直ぐにゲートを通してくれた。
 成田からリムジーンバスで横浜に着いた時は午後になっていた。光二は行くあてもなく、粗末な義足を引き摺り松葉杖で身体を支えた身体は自然に鶴見に向っていた。京浜急行鶴見市場駅で電車を降りると、駅前のラーメン屋で餃子ライス定食とラーメンを注文した。十年ぶりに日本で食べる白い飯とラーメンは美味かった。

 以前紀代が住んでいたワンルームマンションには恐らく別の者が住んでいるだろうと思ったが、もし引っ越していたとしてもそこで消息の手がかりを聞けば良いのだと思って、義足を引き摺りながらマンションに辿り着いた。
 表札を見ると、[秋元紀代]となっていた。光二はその文字を見て、思わず手が伸びた。少し埃が付いた表札を手で拭いて光二は自分の胸の中に熱い物がこみ上げてくる気がした。
「まだ居たか」
 そんな事を呟いてチャイムを押したが返事がなかった。
 光二はドアーの前に座り込むと蹲った。待っていればそのうち帰って来るだろう。
 だが、夜の十二時を回っても紀代が戻ってくる気配はなかった。光二はドアーの前に蹲ってそのまま眠ってしまった。

 翌日の昼過ぎに、光二は空腹を覚えて、近くの牛丼屋で腹を満たした。髭が伸び、髪の毛もボサボサだったが床屋に行く気はなかった。コンビニでトイレを借りて週刊誌を買うと、光二はまた紀代のマンションに戻った。
 紀代が帰ってきた気配はなかったが、光二はまたドアーの前に蹲った。通路を通る隣人は胡散臭い男がいつまでも座り込んでいるのを怖がって、近隣に住む女が警察に通報した。
 間もなく警官が二人やってきて、光二に職務質問をした。光二はナミビアの大使館で発行してもらった渡航書を身分証明代わりに見せた。
「それであんたは秋元さんを待っているんだな」
「ああ」
「留守の人間をいつまでもあんな所で待ってたらご近所さんの迷惑なんだよ」
「なぜ迷惑なんだ?」
 光二の質問に警官は答えに困った。ただ人を待っているだけではダメだとは言えないのだ。それで、
「とにかく、あんたのそのかっこうが怖いと言う方がおるんだから秋元さんが帰られるまで別の所で待てないですか」
 と言った。
「オレに立ち退けとでも?」
 警官はまた困った。
「いや、善良な市民に向って理由もなく立ち退けとは言いませんが、兎に角あんたのそのかっこうが怖いと言う人がいるんだから、そこのところを分ってもらえませんか」

 押し問答の末、とうとう警官は匙を投げた。
「忙しいからあんたに何時までも関わっているわけにはいかんのです。あそこで待ってもらっていいですが、怖いと言う方がおられるので何とかして下さい」
 と念を押して光二を釈放した。
 警官に言われなくても、光二は自分の格好を見れば気持ちが悪いと思う者がいるだろうと分っていた。だが警官の言い方が癪に障ったのでわざと意地悪をしてやったのだ。
 光二はまた紀代のマンションに戻るとドアーの前に蹲った。松葉杖が突然パタンと倒れた音で光二は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 光二はコンビニで公衆電話用の電話帳を借りて世話になった二宮の電話番号を調べた。公衆電話から電話を入れると運良く二宮が出た。
「オレだ。一昨日日本に戻った。世話になったな」
「おお、無事だったか。今どこに居るんだ?」
「鶴見だ」
「へぇーっ、彼女に会えたか?」
「まだだ。出かけているらしい」
「おいっ、せっかく戻ったんだから一杯付き合えよ」
「いや、またにしておく。あんたから借りた一万ドルは必ず返すぜ」
「忘れなきゃ何時だっていいよ。百万位気にするな」
「すまんな」
「じゃな、近い内に顔を見せろよ」
 電話を済ますと光二はまた紀代のマンションに戻ってドアーの前で待った。

 M製菓の新しいプロジェクトのアドバイザーとして、非常勤取締役の紀代はこの数ヶ月多忙だったが、その日久しぶりに鶴見のマンションに戻り、住み慣れたマンションの階段をコツコツと上がって自分の部屋に向った。紀代はしばらくやってなかった料理をしようと思ってスーパーで色々な食材を買って手一杯にさげていた。頭の中は今夜作ろうとするレシピを考えることで満たされていた。
 その時、ふと前方を見ると、ドアーの前に松葉杖を抱えて蹲っている男を見つけた。
「あら、誰かしら?」
 紀代は足早にドアーに近付いた。

百九十 新たな希望 Ⅷ

 紀代はドアーの前で蹲っている男を見た。男の顔を見た瞬間、紀代は持っている荷物を落とし、夢を見ているような眼差しで男を見つめた。
「光二さん? 光二さんよね」
 ようやく言葉が喉を突いて出た。男が頷くと、紀代は光二にしがみ付くように抱きついてむせび泣いた。
「あたし、どんなに探したか分る? 光二さんのバカ」
 マンションの隣のドアーが開いて、ドアーの隙間から隣人が様子を窺った。紀代はそんなことにはお構いなく嗚咽を止めなかった。
 しばらくして、光二は紀代を抱きかかえるようにして立とうとしたが、バランスを崩して仰向けに倒れた。ズボンの左裾がまくれ上がり、粗末な義足が剥き出しになった。紀代は義足に気付かずに光二に覆いかぶさってなおも嗚咽を続けた。

 ようやく紀代が泣き静まった時、いつの間にか、数メートル離れて人垣ができていた。昨日警官が来て押し問答をしていた気味の悪い男の正体に興味を持ったのだろう。
 紀代は光二の手を取って立たせると、自分の肩を貸して部屋に招き入れた。ようやく正気を取り戻した紀代は、ドアーの外に散らばった食材を集めて部屋の中に持ち込んだ。
「お腹空かせているんでしょ? 直ぐに何か作りますから、シャワーを使って下さいな」
 そう言って光二をバスルームに連れて行った。杖なしでは歩けないのだ。紀代は以前光二が使っていた下着やパジャマを出すとバスルームの篭に入れて汚れた物を別の篭に入れて持ち出した。
 大急ぎで夕飯の仕度をすると、紀代は取って置きのボデガス・アアルトを棚から取り出した。今でも木樽で発酵させているスペイン産の辛口の赤ワインだ。

 紀代は矢田部に電話をした。
「こんな時間に珍しいね」
「はい。お願いがあるの」
「どうかしたか?」
「彼、戻ってきました」
「藤島君、無事だったのか?」
 矢田部は一瞬遺骨で戻ってきたのではないかと思った。
「はい。ただ……」
「なんだね?」
「彼、左足がないの」
 紀代は泣き声に変った。
「左足、どうかしたのかね?」
「義足なんです」
「そりゃ残念だ」
「それで、義足に詳しい良いお医者様をご紹介してほしくて」
「分った。十分ほどしたらまた電話をするよ」

 矢田部から電話が来た。
「友達の整形外科医に相談したんだがね、治療は終わっているようなら大阪の川村義肢と言う会社がいいそうだ。紹介状を書いてくれるそうだから、行って見たらどうかね」
「分りました。明日本人を連れて先生を訪ねてみます」

 光二はバスタブに湯を満たすと、久しぶりにゆっくりと湯に浸かった。頭から足先まで垢を流して、さっぱりした気分でバスルームを出た。出ると室内に美味そうな匂いが漂っていた。
「どうぞ。お腹ぺこぺこでしょ」
 光二はテーブルに目をやると、
「おっ、アアルトか」
 と言った。
「そうよ。無事にお帰りになったから、お祝い」
 その夜の夕食は紀代も光二も気分がハイになっていた。
 夕食が終わると、
「光二さん、明日あたしと一緒に大阪に行って下さらない」
「オレはかまわんがこんな身体でもいいのか」
「いいわよ」

 翌日紀代は矢田部が紹介してくれた整形外科医を訪ねて紹介状を書いてもらうと、タクシーで東京駅に行って新幹線で大阪に向った。光二は大人しく付いてきた。新大阪でタクシーに乗ると海岸沿いにある大きなホテルのエントランスに入った。紀代はとりあえず三日間ほど投宿したいと言ってチェックインを済ませた。ホテルから川村義肢に連絡を入れると、
「直ぐに技術者をホテルに伺わせます。東京の先生からご連絡は受けております」
 と返事があった。川村義肢では自宅に訪問することが多いのだと言った。
 一時間ほどして、技術者がホテルに訪ねて来た。名刺には義肢装具士と印刷されていた。技術者は光二の足の状況を確かめてから色々希望を聞いた。
「先生、松葉杖を使わなくても歩けるようになりますか」
 紀代が聞くと、技術者は怪訝な顔をした。
「今お使いの義肢は粗末な物ですが、現在では杖を使わずに普通に歩けるのが常識です。ご存知の通り最近では陸上競技で走る選手もいますよね」
 それを聞いて紀代は安心した。その後紀代は光二を連れて三回ほど大阪に出向いた。
 一ヶ月ほどして、一応完成したと連絡があって、川村義肢を訪問した。新しい義足を付けて見ると、今までとは違って光二は普通に歩いて見せてくれた。訓練は慣れているからと光二は鶴見のマンションで自分で訓練をすることにした。

 それから約半年の歳月が流れた。光二はすっかり義足に慣れて、聞いてみなければ義足を付けているとは分らない位になっていた。それで紀代は、
「明日から仙台に移りませんか」
 と光二に仙台に来てくれと頼んだ。

百九十一 新たな希望 Ⅸ

 久しぶりの仙台だ。紀代は谷川たちが住んでいるマンションに光二を連れて行った。
「生きていたか。無事で何よりだ」
「先輩、ちょい太ったんじゃないですか」
 紀代は谷川、荒川、大町、小林、及川の五人を光二に紹介したが、皆昔光二に会ったことがあって話が弾んだ。
 谷川たちは郡山の士道の仕事を手伝っていて月の半分は郡山に出かけていたが紀代が戻った時は運良く全員揃っていた。
 谷川たちは光二がボツワナの鉱山に潜入して鉱山労働者として仕事をしていた頃の話を興味深く聞いていた。
「それで50kgのダイヤの原石はまだ隠したままなのか?」
「ああ」
「50kgだと時価でどれくらいになるんだ?」
「ざっと計算して四百億位だろうな」
「ひゅーっ」
 マー坊こと及川が口笛を鳴らした。
「磨いたらもっとだろ?」
 荒川が聞くと、
「そうだなぁ、少なく見積もっても数倍だろうな」
 金の話になると話がなかなか終わらない。それで紀代は、
「そのお話しは追々ゆっくりなさったら」
 と話の腰を折った。

 皆と別れて、紀代は自分用にキープしてあるマンションに光二を連れて行った。
 紀代は早速夕飯の仕度に取り掛かった。光二が珍しくキッチンにやってきた。
「いい匂いだ」
「あちらでテレビでもご覧になってて。直ぐに仕度ができますから」
 光二は何か言いたそうだったが素直にリビングの方に戻った。
 夕食後二人でコーヒーをすすっていると矢田部から電話が来た。
「来月末に臨時株主総会を招集することにしたよ」
「何か特別な議題がありますの?」
「ん。そろそろ紀代ちゃんに経営に参加をしてもらおうと思っているんだよ」
 矢田部は今度の総会で紀代を副社長に推挙すると言った。

 翌月臨時株主総会で紀代はキヨリスの副社長就任が決定した。以前副社長に立候補した時は父親の辰夫以外は全員反対に回って却下されてしまったが、今回は満場一致で可決された。矢田部の根回しが良く、義母の秀子も不本意だが賛成票を投じたのだ。

 副社長に就任すると、紀代は仕事が多忙になった。紀代は社長の矢田部に相談して、自分用に秘書室を新設した。それで以前約束していたM製菓の生産技術部にいる橋本徹を会津若松に呼んだ。徹は紀代の誘いに快く応じて直ぐ会津に引っ越してきた。まだ独身だった。
 紀代は徹を秘書室長に就けて、自分の社用車の運転手を兼務させた。
「あなたこれを機会に結婚なさいよ」
 徹はずっと独身でいると言ったがそんなのキモイよと紀代は強く勧めた。紀代は以前桐山摩夢を紹介してくれた志村景子に相談をした。
「あなたのお知り合いで三十過ぎてまだ独身のいい子いないかしら」
「紀代、またくっ付けること考えているんでしょ」
「当たりっ」
 紀代は察しの良い景子を見て笑った。
「いいわ。探しておくよ。高いわよ」
「お礼はたっぷりするわよ」
 また紀代は笑った。景子は顔が広い。だから、多分近日中に連絡してくるだろう。

 案の定、景子から二日後に連絡が入った。景子の友達の姪でまだ三十一歳で独身だと言った。
「ちょっと可愛くて綺麗な子よ」
「親はどうなの?」
「そりゃ、出遅れだもの、いい縁があれば大賛成よ」
 それで紀代はこの子に会って見ることにした。相手の女性は米沢に住んでいるそうなので、紀代は東京第一ホテル米沢のレストランに席を予約した。その日志村景子が連れてきた子は景子が言った通りどうしてまだ独身なのかと疑うようなキュートな感じだった。紀代は大人しい徹を相手にしないのではないかと少し不安があったが、彼女は徹に会って見ても良いと答えた。徹は確か今年三十四歳になった筈だ。だから年齢は問題がない。それで一週間後相手の男性を米沢に連れてくると約束して分かれた。お見合いでは堅苦しいので会って見て良かったら東京にでも遊びに行ってらっしゃいと勧めた。彼女は承知した。名前は本間茜(ほんまあかね)だと言った。

 その日、徹は落ち着きがなかった。
「徹君、ダメよ。そんなことじゃ一生独身を続けることになるわよ」
 紀代は徹を落ち着かせるように気を配った。
 善は急げだ。紀代はその日徹を米沢のホテルに投宿させた。翌日橋本徹と本間茜は連れ立って八時半頃の新幹線に乗って東京に向かった。こんな場合東北地方に疎い徹を地元でデートさせたのでは上手く行かないと紀代は思った。それで徹が土地勘のある東京に行かせたのだ。紀代も景子も昨夜米沢に泊まって、翌朝徹と茜を見送った。
「あの二人、上手く行くかしら?」
 東京に向かう新幹線を見送った後で景子が不安そうな顔をした。

「茜さん、学校はどちらですか」
 徹が恐る恐る聞いた。
「あたし? あたしは米沢女子短よ。あなたは?」
「僕は新潟県の長岡工業高等専門学校」
「へぇーっ、新潟県? じゃ生まれたのも新潟?」
「ん。糸魚川から海沿いに上越の方に向って20kmも行った所の漁師町なんだ」
「そう? 東京じゃなかったのね」
 徹はそう言われて怖気ついてしまった。
「どうして東京だと思ったの」
「何となくね」
「お勤めはずっとキヨリス?」
「川崎に近い鶴見のM製菓」
「M製菓って、有名な製菓会社?」
「ん」
「どうしてキヨリスに入ったの」
「秋元さんがM製菓の役員をやっておられて、そのご縁で」
「あら、秋元さんそんなに偉いの?」
「出来る人だよ。今はキヨリスの副社長とM製菓の役員を兼務されているんだ」
 徹は話が紀代の方に向ったので何だか不安になってきた。
「すみません、ちょっとトイレに」
 落ち着かなくなって、徹はトイレに立った。茜はトイレ向う徹の後姿を見ていた。

百九十二 新たな希望 Ⅹ

 徹はトイレに入って鏡を見た。そこには自信をなくした何とも情けない顔が映っていた。大卒の男がゴロゴロいる時世で、田舎の高専を出ましたなんて胸を張って言えるもんじゃない。だから徹は最初から怖気づいてしまっていた。猛毒を持つ毒蛇の前で縮こまっている鼠か兎みたいな感じだ。
「僕、茜さんをがっかりさせてしまったな。今回のお見合いはダメだろうな。よしっ、どうせダメなら今回きりだと思って、茜さんと楽しくデートすりゃいいんだ」
 徹は茜さんに楽しい思い出になるように出来るだけ不愉快な思いをさせないようにして米沢に帰ったら気持ちよくお別れするようにしようと心に決めた。相手を楽しくさせるためには、先ず自分が楽しそうにニコニコしていることが大事だと思った。それに、自分は正直な性格だからウソをついてまで自分を良く見せようなんて考えないでありのままで過ごそうと思った。そう思うと今までしょぼくれていた心が引っ込んでいつもの通り楽な気持ちになれた。
 トイレを出ると、徹はニコニコした顔で、
「お待たせしてごめん」
 と頭を下げた。トイレに立った時は何とも不様な元気のない歩き方だったように思うが、戻る時にはしっかりとした足取りで席に戻れた。

「謝らなくてもいいわよ」
 徹がニコニコした顔で戻ってきたので茜も微笑んだ。
「さっき学校の話をしましたけど」
 茜はまた話を戻した。
「ん。女子短大だと男の友達って少ないんでしょ」
「そうなの、女ばかりよ。あたし子供の頃から日本の歴史が好きでね、短大も日本史科だったのよ」
「歴史かぁ。僕は理工系だから歴史は苦手だなぁ。でも茜さんの話は聞きたいな」
「歴史の話でもいいの?」
「いいよ」
「本当はね、京都とか奈良に行きたかったな。あたし、現代史でなくて、日本の古代史が好きなのよ」
「だったら東京じゃつまらなくない?」
「今回は日帰りだから仕方がないですもの」
「そうだね。京都とか奈良だと少なくとも三日とか四日かけないとあちこち回れないよね」
「その内あなたとご一緒に行ければいいな」
「ん。チャンスがあったら是非僕も行きたいな」
「あたしね、大昔朝鮮半島が百済の時代、日本だと奈良時代の前の飛鳥時代になるかな? その頃の文化とか政治に興味があるの。マニアックでつまらないでしょ?」
「そんなことはないよ。僕も勉強になるし」

「そうだ、あなたキヨリスにお勤めですよね」
「ん。入ったばかりだけど」
「キヨリスってスーパーでしょ」
「ん。スーパーマーケットだよ」
「日本のスーパー商法の元祖が誰かご存知?」
「ん。確かスーパーダイエーを創業した中内功さんだと思うけど」
「そう言う説もありますよね。でも」
「違うんですか?」
「日本史だと、実はもっと早くて江戸時代だって説があるのよ」
「へぇーっ、有名な話?」
「そうよ。今から三百年位も前の人よ」
「元禄時代とか?」
「あら、歴史苦手の橋本さん、正解よ」
「その時代の商人って誰だろう?」
「有名な人よ」
「僕、分からないなぁ。ごめん」
「知らなくても聞けば多分ご存知よ」
「教えてよ」
「いいわよ。教えてあげたら何か下さる?」
「うーん。キスしてあげるってのはまだ早いからお昼ご飯、茜さんが食べたい物をおごるよ」
「あぅーん、キスの方がいいな」
 茜はカラカラと笑った。徹も連れ笑いをしてしまった。
「じゃ、教えてあげる。その人はね、三井財閥の元祖の三井高利って人よ」
「三井高利の名前は聞いたことがあるなぁ」
「でしょ? さっきあなたがおっしゃった中内功さんもそのことをご存知だと本に書いてあったわよ」
「へぇーっ、中内さんも認めているんだ」
「教えてあげたご褒美に、お昼は日本橋でご馳走して下さらない」
「いいよ。だったらついでに日本橋あたりを歴史散歩して帰ろうか?」
「嬉しいっ! そう来なくちゃ」
 茜はニコニコしていた。

「何が食べたい?」
 徹は紀代から軍資金として沢山お小遣いをもらって来たから懐を気にすることはなかった。茜はちょっと考えてから、
「おでん」
 と答えた。徹は買い換えたばかりのスマホで検索した。
「おでん屋さん、あったよ。三井タワーに行こう」
 東京駅に十一時頃に着いた。おでん屋は十一時半開店と出ていたから、
「東京駅から日本橋までぶらぶら散歩しない?」
 と言うと茜は、
「あたしも歩きたいと思ってたんだ」
 と答えた。それで八重洲口の方に出て、中央通りを京橋の反対側、日本橋に向って歩いた。最近街の様子が綺麗になっているのを見て茜は喜んだ。
「ハイヒールじゃ疲れない?」
「大丈夫よ。あたし田舎の子だから」
 と茜は笑った。徹はこうして可愛らしい茜と散歩をしているのが夢のようだと思っていた。高島屋を過ぎて元白木屋があったCOREDO日本橋を過ぎると高速のガード下に昔からある日本橋があった。
「へぇー、欄干だけは残っているのね」
 日本橋を過ぎると三越が見えた。三越の入り口のライオン像を見て、
「こいつ、大正の初めに作られたんですってね」
 と茜が指さした。三越を過ぎると目の前に三井タワーが見えた。
 二人は三井タワーの地階にあるおでん屋に入った。開店したばかりで客がまだ少なかったが、カウンター席に二人並んで座った。屋台のおでん屋と違って値段が高そうなおでん屋だ。
「いいお店ね」
 茜はすごく喜んでいた。
 美味しいおでんを食べて、午後室町東三井ビルディングにある三井ホールを覗いて見た。イベント予定表に歌手の岡村孝子などの有名アーティストのリサイタルが並んでいて、
「あたし、あなたとまたここに来たいな」
 と茜が呟いた。徹は答えなかった。多分茜のリップサービスだろうと思っていたのだ。
 二人はCOREDO室町を覗いて、その中の日本橋案内所に立ち寄った。茜は日本橋の歴史などを興味深く見ていた。
 午後三時を過ぎて二人はタクシーで東京駅に戻り、新幹線で夕方米沢に着いた。徹はもう一泊米沢に泊まりなさいと紀代に言われていたので素直に米沢に泊まった。
 翌日会津に戻って紀代にデートの様子を報告した。
「少しは楽しかったと思うけど、多分ダメだと思います。やっぱ僕はお見合いは苦手だなぁ。紀代さんには悪いけど、しばらく大人しくしてます」
 と徹は自信ない顔で話した。

百九十三 新たな希望 ⅩⅠ

 景子は紹介した手前、徹と茜のデートの様子が気になっていた。それで紀代に電話で聞いて見た。
「景子には悪かったわね。帰ってから、彼ってすっかり落ち込んでしまって、しばらくお見合いなんかしたくないって言うのよ。特に出身校の話が出て、彼、高専しか出てないでしょ。だからすごく負い目に感じたらしいのよ。今は大卒の方が多いのに僕は高専しか出てないからなんて。でも彼が出た長岡の高専はレベルが高くて三流大学の卒業生なんかよりよっぽど優秀なのよ。彼はそれが分ってないみたいなの」
「そう? やはりダメだったのね。紀代は結婚させたいんでしょ」
「もちろんよ。あたしの秘書をやってもらってるんだけど、あたしが独身だからなんだか落ち着かなくて。つまらない誤解をされても困るしね」
「紀代の立場はあたしも分るよ。今回はダメになったようだけど、またいい子がいたら紹介するわよ」
「景子、悪いわね。今回のお礼、あなたの口座に振り込んでおいたわよ」
「そうだ、あんなに沢山頂いて、あなた構わないの」
「前に上手く行った時のお礼も一緒にしたのよ」
「悪いわね。ありがたく頂戴するわ」

 徹と茜がデートしてから三日後、茜の母、本間葵から景子に電話が来た。
「葵さん、ごめんね。またいい方がいたらご紹介しますから、橋本さんのことは忘れて下さいと茜さんに伝えて下さいね」
 景子は先に謝った。
「あのう……」
 葵は言いにくそうな口ぶりだ。
「いいのよ。世の中独身男性だって大勢いますから、根気良くお見合いをなさるように伝えて下さいな」
 景子は今回の橋本の件は無かったことにしていいと重ねて言い訳をした。
 すると葵が、
「そうじゃないのよ。茜はあれから橋本さんから何かお誘いの電話があるか待っている様子なのよ」
「あらま、どうして?」
「いえね、茜はあの日帰ってからご機嫌で鼻歌なんか歌っているのよ。それでちやんと聞いて見たら、東京へ行った時すごく楽しかったからまた会って見たいって言うの。今まで縁談のお話は何度もありましたけど、全部断ってきたから、あたし、今回もダメかなぁなんて思っていたのよ。それが今回に限ってもう一度デートしたいから景子小母さんにお話をしてですって」
「へぇーっ? そうなの?」
 景子は耳を疑った。
「橋本さんは茜のことどう思っているのかしら」
「紀代、あっ秋元さんの話だと茜さんは多分お断りなさるだろうってすっかり落ち込んでいるみたいなのよ。橋本さんのどこを気に入ったのかしらねぇ」
 景子が聞くと、
「あたしも茜に聞いてみたの。そうしたら、一緒に居て疲れないし、楽しいんだって。愚直な感じだけど正直で真面目なところに引かれたんですってよ。それに自分のことを大切にしてくれて、ハイヒールで疲れませんかなんて気遣いもしてくれたんだって。見た目はそんな感じじゃないけど自分を包み込んでくれるような包容力もあるって感じたらしいのよ」
「あらま、それが本当ならもう少しデートを続けさせてもいいかもね」
 景子は予想外の展開に驚いた。

 葵から電話があって直ぐに景子は紀代に電話をした。
「と言うわけで、橋本さん、合格みたいなのよ」
 紀代も驚いた。
「茜さんって子、見るところはちゃんと見てるわね。徹君、意外と包容力あるのよ。あたしもそこが気に入ってるの」
 それで紀代は徹に、
「茜さんに気に入られたみたいよ。近々またデートにお誘いしてみたら?」
 と伝えた。
「えっ? 僕でもいいんですか」
「好感を持たれたみたいなの。頑張りなさいよ」
「はい。じゃ今夜電話をしてみます」
「デートのためのお休みなら大目に見てあげますよ」
 その夜、徹は茜に電話をした。電話の向こうではとても喜んで、
「あたしならいつでもいいから誘って下さい」
 と答えた。茜は学校を卒業後なかなか就職が決まらず、結局母親の知り合いの洋品店のお手伝いをしてきたが、大震災後売上が激減して暇を出されてしまったから今は毎日が日曜日だと笑っていた。

 会津若松から米沢に行くには鉄道だと郡山経由で、郡山から新幹線を使っても二時間以上もかかる。交通費は片道六千円もかかるから、遠距離恋愛じゃ交通費がバカにならない。それで、紀代はトヨタから新しく出たばかりのハイブリッドの新型車アクアを買って徹に自由に使って良いと言って渡した。ガソリン1リッターで30km以上も走るエコカーで、会津若松から米沢へは国道121号線を使って喜多方市を通って行けば50km程度の距離だから一時間もすれば行けるし、往復のガソリン代は4リッターで余りが出る。だから交通費は往復でも六百円程度だからこれなら毎日でもデートができると徹は喜んだ。
 アクアを預けられた徹は翌日新車に乗って嬉々として茜に会いに行った。

百九十四 新たな希望 ⅩⅡ

 茜が三度目にお見合いをした相手は、米沢ではちょっと名の通った大きな農家の次男坊で、名前は柏倉庸輔(かしくらようすけ)だった。歳は茜より一歳若かった。この男と茜がお見合いをしたのは米沢市内のホテルのレストランで、柏倉家も本間家も両家母親が同席していた。挨拶が終わって食事となりスープが運ばれてきた時、突然庸輔が大きな声で、
「ちょっとぉっ」
 とウエイトレスを呼び付けた。
「あんたなぁ、この器を良く見てみろっ」
 庸輔はスープの器をウエイトレスの方に押しやった。
「なにか?」
 ウエイトレスが怪訝な顔で器を見た。それで再び、
「何か悪いところ、あります?」
 と首をかしげた。すると、
「こんなもん、見て分らないのかっ」
 と叱りつけて、
「良く見ろ、汚れてるだろ?」
 と畳みかけた。
「すみません、お取替え致します」
 ウエイトレスがちゃんと確かめずに皿に手をやったのがいけなかった。
「客の言ってることを確かめもせずに持って行くのか? 店長を呼べっ、店長だ」
 その後はお決まりのケースで店長とシェフが平身低頭謝って、食事代は受け取らないからと何とか丸く納めた。

 こんなことがあって、茜はデートもせずに即刻お断りをした。だが、それがいけなかつた。庸輔は茜に一目惚れをしてしまい、その後もしつこくデートに誘い、勤め先の洋品店にまで押しかけてきて茜は困った。茜はこの男の誘いを頑なに拒否した。そんなある日、洋品店の仕事が終わって帰宅する途中待ち伏せにあって、暗がりに引き摺り込まれた。
「一度くらい会ってくれよ」
「正式に親の方からお断りしましたのでお付き合いは致しません」
「どうしてもか?」
 茜は黙り込んだと言うり怖くて身体が震えて返事ができなかったのだ。
「そうかい。じゃあんたのブラジャーを預かるよ。返して欲しかったら電話をくれよ」
 と言うなり、セーターの中に手を突っ込んで茜のブラジャーを外して、
「いつまでも断るならこの次はパンティーを預かるよ。覚えておけよ」
 と言い残して茜のブラジャーを持ち去った。これには母親の葵が怒った。柏倉の母親に電話をして厳しく抗議をした。だが、柏倉の母親は、
「二人とも大人ですからね、そんなくだらない話を親に持ってこないで下さい。二人に任せておけばいいですよ」
 と一笑にふした。
 茜はそんなことがあってから、いつも帰宅するときは用心してなるべく友達と一緒にかえるようにしていつも警戒を怠らなかった。
 その後、茜が洋品店を辞めてから出歩かなくなったせいか、時々電話での嫌がらせはあるが、家まで押しかけてきて茜を連れ出すことはなかった。
 庸輔のことがあって、茜は見合いをしたがらなかったが、母親が強く勧め、庸輔と見合いをした後も茜は二人の男性と見合いをした。茜は二人とも断ってしまった。だから徹との見合いは六度目になる。

 茜は徹には柏倉庸輔のことは言わなかった。それで、徹と茜がお付き合いを始め、ここのとこ一週間に二日程度の間隔でデートをするようになった。徹も茜も楽しかった。茜は徹のお蔭で過去の暗い思い出を忘れることができた。徹は紀代が貸してくれた新車に茜を乗せてあちこちに日帰り旅行をした。茜の母親も徹に好感を持ち、この男なら安心できると三泊四日の関西旅行にもOKを出してくれた。徹は決して茜に淫らなことはしなかったから、茜も安心してデートを楽しんでくれた。それで、お互いに結婚してもよいと思うようになり、徹は茜を新潟の実家に連れて行った。徹の両親は可愛らしい女性を連れてきたので大喜びした。

 柏倉庸輔は最近茜が男と付き合い始めたのを知って腹を立てていた。徹が茜を自分の両親に引き合わせてから二回目のデートをして米沢から会津若松に帰る途中、背後から迫ってきた乗用車に意地悪されて、路肩で停止させられてしまった。徹が車を降りて、
「どうして意地悪をするんですか」
 と文句を言った。すると、
「あんたなぁ、茜と付き合ってるだろ? あれはオレの女だ。今度ちょっかいを出したらただじゃおかねぇぞ」
 と脅しにかかつた。徹は、
「茜さんとは両家が認め合って正式にお付き合いしてるんで、あなたにそんなことを言われる筋はないです」
 と言い返した。それを聞いて庸輔は徹を道路脇に引っ張り込み、殴る蹴るを繰り返し徹を傷め付けた。徹は顔に痣をつくり、鼻血を出して会津若松に戻った。
「徹くん、どうしたのその顔?」
 と紀代が聞くと徹は、
「ちょっと転んでしまって」
 と曖昧に答えた。紀代は転んだくらいじゃこんな傷は付かないと思ってすこししつこく問い質した。それで名前は分からないが茜に関係がある者の嫌がらせがあったことが分った。

 紀代は景子に電話をして、本間葵に会いたいと伝えた。翌日葵から直接紀代に電話が来て、柏倉庸輔と言う男が嫌がらせをしたことを知った。紀代は茜に電話を代わってもらった。
「実は徹君が柏原庸輔と言う方に意地悪をされて怪我をしたの。あなた柏倉さんとは今は何でもない関係なの?」
「はい。あたしも嫌がらせをされて困っているんです。徹さんのお怪我は大丈夫ですか」
「分ったわ。柏倉さんに何かあってもあなたは知らぬ存ぜぬで通せますね」
「はい。あたしには関係のない人ですから」
「分ったわ。こちらで今後あなたたちに彼が意地悪をしないように処理します。あなたは何も知らなかったことにして下さいね」
「はい。分りました」
 紀代との電話が終わって、正直なところ、茜は何か不安になってきた。

 翌日紀代は葵に柏倉の住所と電話番号を聞いた後、谷川に相談して柏倉を大人しくさせてもらいたいと頼んだ。
「柏倉の背後関係があるとこじれて後始末に手間がかかりますから、最初に背後関係や付き合い範囲を良く調べて下さいね」
 と念を押した。谷川は荒川、大町、小林を呼んで状況を説明して明日から内偵を開始しろと指示を出した。

百九十五 新たな希望 ⅩⅢ

 荒川たちは柏倉庸輔について、慎重に調査を進めた。その結果、庸輔はいわゆる金持ちの次男坊で我侭だがその筋の者との付き合いはないことが分かった。
 それでいよいよ決行することにした。谷川も報告を聞いて了解した。

 尾行を続けるうちにもある日庸輔はキャバクラで遊んだ後、店の女の子を連れ出してタクシーでラブホに入った。いわゆる店外デートだ。荒川たちは辛抱強く庸輔がラブホから出て来るのを待った。案の定、一時間と少し過ぎたところで、庸輔は女の子と出て来た。小林が庸輔に近付いた。
「ちよい、顔を貸してもらうぜ」
 小林は低い声で庸輔の腕を掴んだ。
「お前、誰だ」
 小林は無言で庸輔を引っ張って行こうとすると意外に庸輔は抵抗した。小林は庸輔の腕を捩じ上げた。
「いててぇぇ」
 庸輔が悲鳴を上げると女の子は驚いて走って逃げた。小林は車に庸輔を押し込むと荒川との間に座らせて、
「大人しくしてろ」
 と言って大町に、
「行ってくれ」
 と車を出すように言った。

 庸輔はウイークリーマンションの一室に連れ込まれた。顔つきの悪い大男が三人だ。庸輔は観念して大人しく従った。
 大町と小林が庸輔を床に転がして押え付けた。
「ちょっと聞きてぇことがあるんだ。正直に答えろよ」
「……」
 庸輔は答えずに三人を睨み返した。
「あんたなぁ、本間茜を知ってるだろ」
「そんなやつ知らないよ」
「バカ言え、お前が見合いをした後にしつこく付き纏ってるのは調べが付いているんだ。それとよぉ、最近付き合ってる男に乱暴しただろ」
 庸輔は、
「やってないよ」
 と言い返した。庸輔の脇腹に荒川の蹴りが入った。
「うううっ」
 庸輔は唸った。
「このやろう、正直に答えろ」
 また蹴りが入った。
「答えます。答えますから」
 庸輔は顔をしかめていた。余程蹴りが痛かったのだろう。
「最初から大人しく答えていりゃいいのに」
 荒川は大きな裁縫バサミを取り出して庸輔に見せた。
「これでよぉ、あんたのチンポコをちょん切ってやる。オレたちを甘く見るなよ。これでも今までに言うことを聞かねぇやろうの物をいっぱいちょん切ってやったのよ」
 そう言ってから荒川は庸輔のパンツのジッパーを引いて庸輔の陰茎をつまみ出した。
「こいつを切ったらな、おめぇは今後女の子と遊べなくなるのよ」
 そう言って荒川は庸輔の陰茎をハサミで挟んだ。庸輔は真っ青な顔になった。
「すみません。助けて下さい。今後絶対に茜には手を出しませんから」
「じゃ、おめぇがやったことは全部認めるんだな」
「はい。勘弁して下さいよ」
 荒川は庸輔の顔に自分の顔とハサミを近付けて、
「今後絶対に近付かねぇなら今回はいいだろう。だがな、もう一度変な真似をしたときにゃ、あんたのこいつはなくなってしまうぜ。分ったな」
 荒川は庸輔の陰茎を思い切り捻った。
「痛ぁいっ。勘弁して下さい。絶対に茜に手を出さないと約束します」
「オレたちの目が光ってるのを忘れるなよ」
 それで庸輔を解放してやった。

 それからは徹と茜のデートの邪魔をする者はいなくなった。平穏に戻って二週間が過ぎた時、徹と茜がファミレスで夕食を済ませて駐車場に行くと、徹のアクアのタイヤが4輪とも何者かに悪戯されてパンクしていた。タイヤは鋭利な刃物でザックリ切られていて、仕方なく徹はレッカーを頼んで修理屋でタイヤを新しい物と交換してもらった。茜は怯えた青白い顔で、
「あたし、怖いよ」
 と泣き声を出した。
 徹は紀代に米沢での悪戯を報告した。
それで荒川たちは再び庸輔をひっ捕らえて、マンションに連れ込むと、
「約束だ。アンタのチンポコを切り落としてやる」
 と前と同じようにハサミを取り出して、庸輔の陰茎をパツンと切り落とそうとした。庸輔の陰部に激痛が走って庸輔は真っ青な顔で、
「オレ、絶対にやってません。あれ以来絶対に」
 と叫んだ。荒川のハサミの手が完全に切り落とす寸前で止まった。庸輔の陰部から鮮血が流れ出ていた。荒川は陰茎の根元をきっとり縛って止血すると、
「コバ(小林)医者に連れて行け」
 と言った。小林が連れ込んだ町医者は外科医で予め荒川にたっぷり金を掴ませられていた。小林が行くとしたり顔でさっさと手術に取り掛かり、直ぐに終わった。
「一月もすればまだ立派に使えるから安心していいよ」
 医者は庸輔に説明すると当分毎日通院しろと言った。小林達はあとは医者に任せて去った。
 荒川は何度も修羅場を経験してきた。だから、相手が正直に言っているのかウソを付いているのか聞き分ける勘が働いた。あの庸輔の悲痛な叫びにはウソがないと思ってハサミの手を止めたのだ。

 荒川は紀代に連絡して茜に会わせてくれと頼んだ。当日は茜はもちろん、景子、徹も同席していた。
「茜さん、今までに見合いをした方々とその他の男性の関係を包み隠さずに話してもらえませんか」
 荒川は丁寧に茜に頼んだ。茜は少し時間を下さいと言って、メモ用紙に今までお見合いをした男性を全部書き上げた。徹の名前も書いてあった。
「男性の友達はいないの」
 荒川がメモを見て尋ねた。
「はい。あたし女子短でしたから。それと中学高校も男子とは付き合ったことがないです」
 と答えた。少し遅れて本間葵もやってきた。葵も、
「娘には過去にお付き合いさせて頂いた男性はいません」
 と答えた。荒川はメモ用紙をポケットにしまうと、皆と別れた。

 米沢から会津に戻る途中、
「紀代さん、僕なんだか茜さんとのお付き合いに自信がなくなりました」
 と自分の胸中を打ち明けた。
「茜さんはあなたのこと好きなんでしょ」
「だと思います」
「あなたも茜さんと結婚したいって気持ちはあるんでしょ」
「ありますけど」
 と徹は口を濁した。
「茜さんの不安はあなた以上よ。分ってるの」
「はい」
「だったらどうしてちゃんと護ってあげないの」
「暴力には自信がないから」
「バカねぇ。仮によ、あなたが強いやつらにやられて半殺しにされても、あなたが茜さんを護るために果敢に戦った結果なら、嬉しいものよ。女性は体を張って自分を護ろうとする男性には弱いのよ。それとね、もしもよ、茜さんの過去の交友関係に少しでも疑問を持っちゃダメよ。女はね、どんなことがあっても自分を信頼してくれる男性に弱いものよ。分った」
「何となく」
「何となくじゃダメ。女性とお付き合いする上で大切なことだから、肝に命じておきなさいよ」
「分りました」

 荒川は茜が書き出したメモにある男を庸輔と徹以外順に調べてみた。最初と二番目にお見合いした二人は既に結婚をしていて、真面目に暮らしていた。
 四番目にお見合いした男はまだ独身でパチンコにのめり込んでいて、休日は朝から晩までパチンコをしていることが多かった。パチンコ以外では時々レンタル屋でアダルトビデオを借りたりしていた。
 五番目の男は気弱そうなやつで、近所の聞き込みでは真面目で通っており、現在茜とは別の女と交際をしている様子だった。荒川は四番目の男が臭いと判断して、パチンコ屋から出て来たところを捉まえてウイークリーマンションに連れ込んで脅した。最初はのらりくらりと真面目に答えなかったが、痛め付けた末白状させた。男がはいた悪戯した内容や場所が徹の報告と一致したので間違いなくこいつが悪戯したのだと断定した。茜にお見合い後デートもせずに断られたのを根に持って、癪に障ったからやったと白状した。荒川は散々痛めつけてボロボロになったところで解放してやった。釘を刺しておいたから、多分二度と茜たちに近付かないだろうと思ったのだ。

 色々なことがあったが、徹と茜は結婚の約束まで漕ぎ付けて翌月挙式する予定になった。その後庸輔や四番目の男の嫌がらせは一切なかった。

 年度末が近付いたある日、矢田部から紀代に、
「今度の株主総会で紀代ちゃんにバトンタッチすることにしたよ」
 と話があった。紀代は副社長に就任後、矢田部に相談しながら色々な改革を断行した。そのため毎日多忙で、気が付いた時には半年が過ぎていたのだ。

百六十六 新たな希望 ⅩⅣ

 副社長に就任後、紀代は五店舗の仕入れを統合してキヨリスサプライと言う会社を立ち上げた。社長には紀代が自ら就任した。今まで仕入れは各店舗に任されていたが、贈収賄の温床になっており、店の商品の摘まみ食いの悪弊がはびこっていた。それで、各店舗の仕入れと倉庫管理を統合して悪弊を一掃した。更に一括仕入れにより仕入れ価格の低減にも成功した。紀代は右腕として山形店にいた杉山を起用した。杉山は病弱の親の世話で山形を離れることが難しかったから、山形市と天童市の間に置いた。ここなら仙台にも会津にも交通の便は良く、秋田、青森、盛岡も物流上大きな問題はなかった。問題は地元の生鮮食品の納入業者の運搬費用が新たにかかることだ。それで地元の生鮮食品の仕入れは各店舗にキヨリスサプライのブランチを置いてそこで商品管理を行うように改めた。紀代は商品の回転率に着目していつまでも売れずに棚に残る商品を減量するように努めた。少しでも売れ残りが出れば、即座に値引きセールを実施して在庫残を圧縮するようにした。
 改革を行うと一時的に現場が混乱するのはどこでも同じだ。紀代は出来るだけ各店舗に足を運んで現場の様子を確かめたが、東北全土に散らばった店舗を回るには体力的な限界がある。それで、万引き防止用に多数設置されている監視カメラの映像を定期的に動画配信するようにして、机の上で遠地のリアルな情報を自由に見られるように改めた。

 各店舗からの意見や苦情はスマホやパッドを使ってツイッター式でつぶやき情報を共有できるようにした。これなら紀代の所と各店舗の店長や店員が自由に閲覧できて、店舗間の情報も共有することができた。
 紀代はつぶやきを書き込むルールを徹底した。まず個人的に特定の者を誹謗する書き込みは厳禁した。違反した者は減給など厳しい罰を与えると通告した。だが、身分に関わらず発展的な意見は良しとした。
 社員のつぶやき情報の共有化が定着するのを見定めて、顧客からのつぶやき情報も積極的に受け入れられるシステムを構築して公開した。これによって、客が社員の応対や商品について気に入らないことがストレートに会社の幹部に伝わり、店長たちの恐ろしい情報源になった。悪いことがあると、直ぐにキヨリス全社員に伝わってしまうのだ。

 改革により情報量が肥大化してしまって、従来店舗毎に設置していたサーバーシステムはたちまちオーバーフローしてしまった。そこで紀代は思い切ってクラウドコンピューティングシステムに切り替えた。すると、今までシステムの維持運用にかかっていた経費が90%以上削減されて、会社のIT経費削減に大きな効果を得た。紀代が秘書に使っている徹はM製菓で現場設備の保守作業を担っていたために、コンピュータシステムに明るかったのが助かった。徹は意外なところで能力を発揮して、社内のIT化推進に貢献してくれた。

 更に紀代は従来から片手間に行っていた通販事業を整備して、本格的な通販事業を立ち上げた。会社の名前をキヨリスネットと定め、紀代が社長に就任した。キヨリスネットは宅配会社と提携して生鮮食品、惣菜などの宅配も開始した。これが当たった。お米や果物の収穫期、農家は多忙になる。それで夜間にネットからの注文が増加して翌日必要なものを戸別に届ける仕組みが多くの農家に受け入れられた。事業を始める前は高齢者で買い物に出かけ難い客をターゲットにしていたが、蓋を開けて見ると、一人暮らしの高齢者などからの注文は少なく、農家の嫁が夜間にネットで注文する形態が大半を占めたのだ。インターネットの利便は高齢者では活用できない様子が鮮明になったのだ。紀代はこのキヨリスネットを利用して市場調査も始めた。ネットではアンケートなども集め易い。調査結果を仕入れにフィードバックして仕入れの効率化に効果が出た。

 スーパーマーケットでは万引き、窃盗、業務妨害など揉め事が付き物だ。それで、紀代は谷川たちを郡山から引き揚げて、キヨリスセキュリティー会社を立ち上げて揉め事の始末に当たらせた。社長は藤島光二に就任してもらった。

 紀代の活躍によって、キヨリスの売上が増加に転じたばかりか、売上高利益率が大幅に改善されてきた。矢田部は紀代の活躍を見ていた。それで次期の総会でキヨリスの社長に紀代を推挙することに決めたのだった。

百九十七 新たな希望 ⅩⅤ

 定例株主総会で、紀代は念願の株式会社キヨリス代表取締役社長に就任した。振り返ってみると、最初に副社長に立候補して否決されてから足掛け四年が過ぎていた。その間、紀代の周りに色々なことがあった。最初の立候補で頼みにしていた矢田部に反対票を投じられて、矢田部の真意を知らなかった紀代は矢田部を信じられず恨んだ時期もあったが、その後矢田部の紀代に対する気持ちを知って、改めて矢田部を信ずることができたのだった。紀代の社長就任を機会に矢田部は代表権を持つ会長職に就いた。紀代の義母秀子は会長職を追いやられて、ただの大株主になってしまい、経営には殆ど口出しできなくなってしまった。秀子は社長時代に好き勝手なことをしていたし、会社の資金の私的流用、つまり横領していたことや取引業者から裏金の形で多額の収賄をしていたことを矢田部に追及されて、矢田部の思惑通りに会長職を辞任するしかなかったのだ。矢田部は、
「秋元(秀子)さん、あなたが長年続けてこられた横領については証拠がちゃんと挙がっているのですよ。これだけの額なら会社はあなたを相手取って告訴することだって出来ますよ。そうなれば新聞テレビであなたの不名誉なことが赤裸々に報道されて、お天道様が高い間は表を堂々と歩けなくなりますよ」
 矢田部の脅しに秀子は屈するしかなかったのだ。いよいよ会長職を辞任させられることが決定的になった時、秀子は矢田部を泣き落とそうと涙ながらに、
「どうか月々の収入だけは何とか頂けるようにして下さいません」
 と縋り付いた。だが矢田部は許さなかった。秀子は矢田部を恨んだ。
「覚えてらっしゃい。このままキヨリスで大きな顔ができるのはいつまでなのか」
 秀子は矢田部を引き摺り下ろす計略を考え始めていた。矢田部さえ居なければ、継子の紀代の手を捻り揚げるなんて簡単だと思っていた。

 矢田部は紀代に秀子とこんな形の修羅場を潜らせたくはなかった。もしそんなことにでもなれば、継母と娘の陰湿な大喧嘩が繰り広げられることが明白だったからだ。それで、自分の在職中に紀代にとって障害になる秀子の息がかかった幹部社員を一掃した。だから、社長職を紀代にバトンタッチした時には社内に紀代の敵は殆どいなくなっていた。

 紀代が社長に就任すると、多くの社員に大歓迎された。社長に就任すると副社長時代に進めてきた改革を一層加速させて業務内容を充実することに精力を注ぎ込んだ。
 紀代は自分が作ったキヨリスサプライ、キヨリスネット、キヨリスセキュリティーそれに会津若松、山形、秋田、青森、盛岡の五店舗の他父親が経営する郡山の店舗も入れて、それらを統括するキヨリスホールディングスを新たに作った。いわゆる持ち株会社だ。今まで店長は役員ではなかったが、紀代は店長を取締役に就任させた。キヨリスホールディングスも会長は矢田部、社長は紀代だ。

 社長になって見て、紀代は矢田部が社内を粛清する課程で敵や人の恨みを沢山作ったことを知った。このまま放っておけば矢田部が何者かに襲われる危険も出てくる。それで、キヨリスセキュリティーの社長を任せた光二に相談して、矢田部の身辺警護をするガードマンを矢田部の周囲に常駐させた。
 それ以降矢田部には二名のボディーガードが陰で付き添うようになった。ガードマンは二十四時間交替で警護に就いていた。矢田部は時々、
「わしの自由がなくなってたまらんよ」
と愚痴を溢したが紀代は取り合わなかった。

 社長業にようやく慣れてきた紀代は、久しぶりに仙台のマンションに戻った。同じマンションに光二もずっと住んでいたが、紀代は仕事や徹のキューピッド役で忙しく殆ど帰る余裕がなかったのだ。

 紀代がマンションに帰ると光二にメールで知らせてあった。だから、紀代がマンションに着くと光二が出迎えてくれた。
「珍しいな。一年ぶりかな?」
「あら、半年前に一度帰ったわよ。光二さんはいなかったけど」
「そうか。オレに会うのは一年ぶりってことだな」
 紀代は部屋着に着替えると早速手料理にとりかかった。
 光二と食卓を囲むのは本当に久しぶりだ。食事がおわってから光二に続いて紀代も風呂に入った。風呂を出ると、光二はソファーに座ってウイスキーを飲んでいた。
「あたしにも下さらない」
 光二は食器棚からウイスキーグラスを取ってくると紀代に差し出した。
「ああ美味しい。焼けるように喉を通る時って刺激あるなぁ」
 光二は黙って紀代の顔を見ていた。

 夜、光二がベッドに入ると、紀代は光二がびっこになって帰ってきてから初めて、光二のベッドにそっと自分の身体を滑り込ませた。光二は直ぐに紀代を抱きしめてくれた。
「お願い。今夜抱いてぇ。あたし光二さんの赤ちゃんが欲しいの」
「……」
 光二は黙っていた。
「聞こえた?」
 すると光二は顔をしかめて、
「すまん。オレ、ダメなんだ」
「えっ?」
「すまん。ダメだ」
 紀代はそっと光二の下腹部に手を伸ばした。光二のそこは元気なく萎えてしぼんでいた。紀代は何も言わずに光二にしがみついて眠った。男にとって、愛する女に求められて応じられないのは死刑を宣告されるよりも辛いことなのだ。紀代の可愛らしい寝顔を見ながら、光二は悔しくて辛くて、紀代に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 紀代は三十歳半ばを過ぎてしまった。近頃は四十代で出産をする女性は珍しくないが、初産なので、紀代は出来れば光二の赤ちゃんを早く産みたかった。三十代になって、紀代は自分の肌の張りが以前より少なくなり少しずつではあるが老化してきたのではないかと感じていた。紀代は産めるうちに自分の家族が欲しかったのだ。父母は再婚して、家族と言う実感はなかった。光二とは付き合う前に結婚はしないと言う約束ができていた。世間では光二と紀代のような形を内縁関係と言う。紀代は結婚なんてセレモニーとペーパーだけのことで、二人が愛し合っていて一つ屋根の下で睦まじく暮らしていれば夫婦と変りはないと思っていた。だから光二に決して結婚話をすることはなかった。もし、光二の赤ちゃんが誕生すれば、光二はきっと自分と等しく赤ちゃんも可愛がってくれるだろうと確信していた。だが、光二の物が機能しなければ赤ちゃんを望めないのだ。

 翌日から紀代は図書館や薬局に行って男性の精力増強について調べた。調べて見ると実に色々な物質があるものだと改めて感心した。
 最初[冬虫夏草]は昆虫かなんかだと思っていたが、調べて見ると冬虫夏草は[とうちゅうかそう]とか文字通り[ふゆむしなつくさ]と呼ぶそうで、特定の蛾の幼虫に寄生する菌類の一種だと分った。標高3000m以上のヒマヤラやチベット地方に生息する蛾で、夏に蛾が産卵した卵は一月ほどで幼虫になり、地面に潜るのだそうだ。幼虫に寄生した菌は土の中で増殖して、春になると幼虫の養分を吸って増え、夏になると菌糸が成長して地上に伸びて出てくるのだそうだ。これを採集して薬膳食材の形に加工して料理に混ぜたものを食べた男性は精力が付くと言われているそうだ。
 それで、紀代は漢方薬局からその薬膳食材を買って来て光二に内緒でこっそりと料理に混ぜて食べさせた。だが半月続けても光二のものは勃起しなかった。
 紀代は精力剤として昔から珍重されてきたと言われる高麗人参、マカ、ムクナ、ローヤルゼリー、カツアバ、ウコンの数十倍も効力があると言われているベンゾラム、トシカットアリ等の他、セレンや亜鉛などのサプルメントをうまく混ぜて食べさせてみた。

 マカはペルーの高原に自生する根が里芋に似た形のアブラナ科の植物で、この根っこを食べると強壮になると言われているのだ。紀代は薬局で調べてびっくりした。マカとかマカなんとかと書かれたラベルの強壮剤が沢山売られているのだ。ムクナは聞きなれない名前だが、インド地方原産のマメ科の植物で漢字では八升豆と書かれている。ムクナの種を粉にしてネズミに食わせたら食ったネズミが発情し易くなったとか色々言われていて、精力増強剤として売られているのだ。カツアバはアマゾンの媚薬と言われていて、アマゾン川流域に自生するコカノキ科の繁殖力の旺盛な植物のことだ。この植物の樹皮を煎じた茶を飲むと、性的能力が向上するそうで、ブラジルでは昔から飲用されてきたそうだ。紀代は初めてトシカットアリと言う名前を目にした時、蟻のことだと思った。調べて見ると、マレーシャで昔から広く愛用されているハーブの一種だそうで、ひょろっと伸びる木なので、[アリーさんの杖]を現地ではトシカットアリと言うのだ。こいつの根を煎じて飲んだ男はセックスをしたくなる、つまり性的欲求が強くなるのだと書かれていた。

 紀代は光二に内緒で色々試してみたが、光二のそこが勃起することはなかった。もう諦めかけていた時、景子が、
「K発酵バイオって会社が出しているシトルリンを試してみたら? あたしの旦那さま、これを飲み始めてから、あそこ元気なのよ」
 と教えてくれた。紀代は早速通販で取り寄せて見た。どうやらアミノ酸の一種らしい。アミノ酸はスポーツ飲料としても普及している。取り寄せてみると、毎日六錠も飲めと書いてある。これでは今までのように光二に内緒にしておくわけにはいかなかった。それで紀代は、
「身体にいいんですって」
 と言って光二に毎日飲んでくれと頼んだ。光二は二粒口に入れて、
「昔整腸剤で飲んだことがあるビオフェルミンみたいだなぁ。いいよ。飲んでみるよ」
 と一応了解してくれた。

 飲み始めて一ヶ月ほど経ったある夜、紀代が光二のベッドに潜り込んで光二の物を愛撫していると、その夜、初めて光二のものが勇ましく勃起した。紀代は夢ではないかと思った。景子が教えてくれたシトルリンの効果なのか、今まで色々試してきた物に効果があったのか、それは分らない。でも、兎に角光二のそれはちゃんと勃起していた。
 紀代は光二の上に跨って、そおっと腰を下ろした。すると光二のものがするっと自分の中に入って来た。その夜、紀代は燃えた。
「光二さん、あなたの赤ちゃんを頂戴」
 紀代は光二に囁いた。紀代が光二の愛撫に刺激されて登りつめた時、光二も果てた。その後は時々上手く行くようになった。紀代はその度に光二ともつれ合い愛し合った。

 社長になってから、紀代は多忙だったが、できるだけ仙台のマンションに帰って光二と共に過ごす時間を作った。キヨリスの業績は順調に回復しており、紀代は矢田部と二人三脚で次々と業務の改善に取り組んでいた。
 そんな紀代の様子を陰でこっそりと窺っている男がいた。紀代はそんな男の存在に気付かなかった。

百九十八 新たな希望 ⅩⅥ

 東北の復興需要がキヨリスの業績向上の後押しをして、紀代が社長に就任して以来業績は順調だった。ここのところ、光二との男女の営みも元に戻り、紀代の新たな希望は適えられたようだった。それで、紀代は予ねて心の中に持っていた仙台店の建て直しを具体的に進める心のゆとりができた。なんたって仙台は需要が他の都市に比べて大きい。だから仙台店の建て直しに成功すればキヨリスの業績は更に拡大すると思われた。
 キヨリス仙台店は若林区を通る常磐自動車道と県道10号線の間にあって海岸に近かったためにあの大津波で壊滅してしまったのだ。今ではガレキの撤去が終わって更地のようになっているが、紀代は同じ所に再建するつもりはなかった。調べて見ると、若葉区は広い土地を確保するのが難しかった。それで、海岸線から離れた宮城野区の外れで七北田川に近い場所に用地を確保する案を持って矢田部に相談した。
「一度現地を視察してから決めよう」
 矢田部は慎重だった。
 紀代は矢田部と一緒に建設用地の下調べをした。矢田部は集客できるかどうか交通の便を気にして同行した不動産会社の社長にあれこれ質問した末、
「ここでいいだろう」
 と首を縦に振った。

 紀代は銀行から必要な買収資金を借り受けて、約一万坪の広い用地を確保した。仙台は他の地域に比べて地価が高かった。買収費用は四十五億円程度だったので銀行から二十億円を借り入れた。残りは内部留保を取り崩して充当した。店舗の建設にも十五億円程度は必要と思われた。本来土地は借地にするのが良いのだが、生憎地主が売却しか応じなかったのだ。広い土地だから地主は七名もいた。どうやら地主が口裏を合わせて意地を張ったようだった。紀代はそれを知っていたが揉め事を少なくするために売買に応じたのだ。
 紀代は数十億円の資本を入れても開業後三年間程度で取り返す自信があった。そのためには何としても成功させる必要があった。

 仙台店の新店舗の建設が始まると、紀代は多忙になった。週のうち五日は仙台以外の店や関連会社の問題処理にあたり、仙台には週に二日足を運んだ。
 店舗の建設は順調で一月半も経つと大体仕上がってきて半月後には開業できる見通しが付いた。

 仙台店の開業までの目処が立ったので、ようやく一息入れる気持ちの余裕ができて、その夜、紀代は一人で仙台駅に近い繁華街の居酒屋に入った。会津なら景子に声をかければ話し相手に来てくれるのだが、仙台には仲良しがいなかったのだ。光二はその日は士道が部下を連れて仙台に来ているのでマンションに戻るのは深夜になるだろうと言っていたから、マンションに戻っても一人ぼっちだ。光二は士道さんたちとたまには一緒に飲まないかと言っていたので紀代は光二に合流することも頭にはあった。だが、紀代を除けば全員男だ。それで遠慮した。もし、士道と光二だけで飲むのであったなら、紀代は絶対に光二と一緒に飲むことにしただろう。

 少し酔いが回ったところで、紀代は席を立って支払いを済ませて店を出た。初夏で夜風が涼しく気持ちが良かった。
 紀代が支払いを済ませて店を出た時、紀代の後からその居酒屋に入って来た三人の男たちも急いで勘定を済ますと店を出た。三人はキョロキョロ周囲を見渡していたが、
「居たぞ、あっちだ」
 男の中の一人が紀代の後姿を指さした。男たちはほろ酔い加減でゆっくりと歩いている紀代を尾行し始めた。

百九十九 恐怖を感じる時

 女が一人で夜道を歩いている時、背後から人が歩いてくる気配を感じると怖いものだ。思わず、立ち止まって背後からやってくる者を先に行かせるか、自分の方で急いで歩いてしまったりする。そんな経験をした者は多いのではないかと思う。後の者が追いついて、並んで歩くようになったら、顔を見るのも怖いし、自分の歩く速度を落とすと相手も速度を落としてきたらもっと怖い。

 紀代は夜風が心地良く、ゆっくりと歩いていたが、やがて繁華街を通り過ぎてしまった。すると急に人影がまばらになって、背後から歩いてくる者の足音が気になった。それで、ゆっくりと歩いていた歩調を普通の歩調に変えて歩いた。だが、背後の足音はずっとついてくる。紀代は小走りでマンションのある街の方に歩いた。だが背後の者も小走りでついてくる。

 突然、紀代は振り返った。すると男が二人、驚いた様子でこちらを見ていた。紀代は背筋がぞくっとした。紀代は走り出した。すると男たちも後を追って来た。それで間違いなく自分を追ってくるのだと確信した。紀代は走った。走ったが後の男たちの足は速い。それで路地があったのでそちらに曲がって走った。男たちも曲がって追いかけてきた。紀代は全速力で走った。
 背中に冷や汗、額にも汗が滲んだ。次の曲がり角が見えてきた時、突然前方に一人の男が出てきて両手を広げて紀代を停めようとした。万事休すだ。

 紀代は咄嗟に前方の男に体当たりするつもりで突っ走った。前方の男は驚いた様子だが道を避けようとしない。仕方なく、紀代は頭から前方の男に突っ込んで体当たりをくらわした。男は怯んだ。その隙に紀代はするっと抜けて逃げようとしたが男の足が紀代の前にすぅーっと出て、紀代は男の足に躓いて道路の上に転がった。一瞬肩と背中に激痛が走った。

「姐ちゃん、頑張るねぇ」
 三人の男たちが転んだ紀代を上から眺めていた。
 紀代は黙っていた。
「ちょっと付き合ってもらおうか」
 二人の男が紀代を抱え上げた。紀代は観念した。抵抗すれば怪我をさせられるだろう。それで、男たちに大人しくついて行く覚悟をした。紀代は逃げるチャンスは必ずあると思った。

 男たちは紀代を連れてまた繁華街に入って行った。大声を出して助けを求めることはできた。だが、紀代は男たちの素性、背後を知りたかった。だから抵抗せずについて行った。繁華街に少し入ったところで、飲み屋の暖簾をくぐった。主と思われる年配の男は、
「いらっしゃい」
 と言いかけて、顎で二階に上がる階段を指した。どうやら主と予め話が付いているらしかった。男たちは何も言わずに紀代を押すようにして階段を上がった。途中男の一人が紀代の尻を掴んだ。紀代はすかさず男の手をぴしゃっと叩いた。
「おお怖っ」
 男はおどけた顔をした。

 二階の六畳間位の和室に入ると、
「あんたスーパーの社長だっでな?」
 と聞いた。紀代は黙っていた。
「返事ぐらいしろよ」
 紀代は黙っていた。
「黙秘権ってやつだな。いいよ。だまってろよ。オレたちはあんだが社長をやってられねぇ位痛め付けるっで約束だ。どうしてもらいたい? 殺しゃしねぇぜ。手足全部使えないようにしてもなぁ、頭と口がありゃ、人を使えるよな。目を潰してさ、口がきけないように舌でも潰してやろうか」
 こいつ等は相当残忍なやつだと紀代は思った。
 一番若そうな男が、
「兄貴よぉ、目を潰して舌を切っちゃう前にさ、オレ、この女とやりたいな」
「お前、何言ってんだ? こんなババアを抱きたいのか?」
「ババア? アハハ、ババアにしてはいい身体してるでねぇが」
「どうしてもやりたいなら、隣の部屋でやれよ」
「兄貴、いいのか?」
「早く済ませろよ」
 若いのは紀代の腕を取ると襖を開けて隣の部屋に紀代を連れ込んだ。

 紀代は若い頃に一度使って上手く行った手を思い出した。それで初めて口をきいた。
「あなた、あたしとやりたいんでしょ? いいわよ。やらせてあげるわよ」
 若いのは突然紀代が言った言葉に驚いた。
「意外と話分るお姐さんだな。じゃ、可愛がってやるぜ」
「やるのはいいけど、後で恨まれると困るからはっきり言うわ」
「なにをだ?」
「あたしエイズに罹ってるのよ。それに梅毒も陽性なの。多分あたしとやったらうつるはね。あたしはまだ発病してないけど、発病したら確実に死ぬわ」
「しっかりうつしてあげるから、さっ、いらっしゃいよ」
 紀代は若い男の手を取った。一瞬男はうろたえた。だが、
「いいよ。あんたみたいないい女とやれるなんてそうチャンスないからさぁ、オレ死んでもいいよ」
 紀代は参った。予想に反して目の前の男は自分を犯す気でいるようだ。
「ほんとにいいの? あたし責任取らないわよ」
「いいさ。こっちに来いよ」
 男は紀代を自分の方に引き寄せた。紀代は次の手を考える余裕がなかった。男が紀代のジャケのボタンに手をかけた時、紀代の携帯が鳴った。紀代が携帯をポケットから出して電話に出ようとすると、男が携帯を取り上げた。
「携帯、よこしなさいよ」
「ダメだ」
 男は携帯を耳にあてた。電話の向うで何か言ったようだ。男は、
「そんな女いねぇよ」
 と言って携帯を切ってしまった。
「こいつ預かるぜ」
 男は紀代の携帯を自分の尻のポケットに捩じ込んだ。

二百 忍び寄る恐怖 Ⅰ

 光二は久しぶりに仙台にやってきた士道と士道の部下たちと近況の打ち合わせをやっていた。仕事だが、彼らはいつも勝手気ままだ。服装はまちまち、打ち合わせ中酒を飲むやつがいても誰も文句を言わない。仕事さえきっちりやれば良いのだ。
 近況の情報交換が済むと、士道は部下たちに金を渡して、
「仙台の可愛い子と遊んで来い」
 と言って別れた。

「光二、たまには付き合えよ」
 士道は光二と一緒に馴染みの割烹店に入った。女将さんが、
「珍しいわね」
 と言って奥の座敷に案内した。光二は士道と二人きりになったので、
「紀代を呼んでやってもいいですか」
 と士道にことわった。
「そうだ、紀代ちゃんを忘れてたな。呼んだら来れるのか」
「朝、出かけに声をかけたら男ばかりだから遠慮すると言ってました」
「そうかい。オレと二人なら構わないんだな」
「多分来ますよ」
「じゃ呼んでくれ。オレはしばらく会ってないから顔を見たいね」
 それで光二は携帯で電話をしてみた。光二も紀代もアイフォンを使っている。電話をすると、
「もしもし」
 と男の声がした。光二は訝った。本人以外が出ることはまずないからだ。
「紀代さんの携帯だろ? 紀代さんに代わってくれ」
 すると男はぶっきらぼうに、
「そんな女いねぇよ」
 と返事した。

 光二の勘が働いた。紀代に何か起こっている。光二の勘はそう告げていた。
「士道さん、紀代に何かあったらしいです。済みませんが連れて来た連中を貸してもらえませんか」
 光二の部下はその日は会津若松に出かけていて急場には間に合わないのだ。士道は光二の顔を見て直ぐに察した。
「五人で大丈夫か。オレも行くから六人だ」
「相手が何人か分りませんがね、行って見て判断します」
「よしっ」
 士道は直ぐに電話で、
「急用だ。全員来てくれ。車は二台用意しろ。場所はいつもの割烹屋だ」
 五分も経たないうちに店の外で急ブレーキの軋む音がした。
 光二はアイフォンの iCloud 機能の中のiPhoneを探す機能をいつも使っていて、自分と紀代がどこに居るのかお互いに分るようにしていた。
 操作をすると、紀代の携帯がどこにあるのか直ぐに分かった。
「なんだこの店かぁ」
 紀代の携帯は割烹店から1kmも離れていなかった。車なら一分で行ける。

 二台の車に分乗して士道と光二は紀代の携帯があるはずの店に急行した。店にどやどやと人相の悪い男たちが七人も入ってきたので店の主は驚いた。その驚く主に士道か詰め寄ると、
「奴等は二階か?」
 と聞いた。主は、
「何の話ですか?」
 ととぼけた。士道は主を捻り上げた。
「聞いてることに答えろ」
 主は顔を紅潮させて上だと目で合図した。
「二階だ」
 最初にロープ使いのハジメと言う男が階段を駆け上がった。すると思った通りナイフ使いの男が階段の上でナイフを握って構えていた。ハジメはするっとロープを相手に向って投げた。ロープはナイフ使いの男の肩に巻きついた。ナイフでロープを切ろうとしたが遅かった。ハジメがぐいっとロープを引くと、男は階段を転がり落ちてきた。そいつをクモとハチの二人の男が取り押さえて手足を縛り上げた。もう一人の男は拳を顔の前に構えて隙を見ていた。どうやらボクサーあがりのようだ。ハジメとテツが部屋に入った。男はジャブを出して応戦した。だが、ハジメに気を取られている隙にテツが後に回りこんで手刀を相手の首に叩き込んだ。ボクサーあがりの男は膝をついた。その瞬間ハジメの膝が男の顎に入った。男は完全に失神したようだ。上がってきたクモとハチがボクサーあがりの男の手足を縛り上げた。
 光二が隣の部屋との間仕切りの襖を開けると、紀代の首に腕を回した若い男がこっちを睨んでいた。
「お前の仲間の二人とも転がってるぜ。あんた痛い目に遭いたくなきゃ、大人しく女をこっちに寄越せよ」
「ダメだ。オレになんかしたら、この女の首を折ってやる」

 光二は無理をしなかった。万一紀代の身体に何かあれば後悔するだろう。それでしばらく若い男と対峙している間に策を練った。すると、光二の耳元でヒュッと何かが飛んだ。吹き矢使いのクモが吹き矢で若い男の腕を射たのだ。細い針は見事に男の腕に刺さったがそれほど痛くはなさそうだった。
 光二はしばらく待った。するとどうだろう、男の口がパクパクし始めて、手足が痙攣し始めた。その時光二が踏み込んで男の顔に一撃を食らわせた。若い男の身体には毒が回り始めていた。だから、光二の一撃で男は紀代の首から腕を解いて、そのまま膝を折り、続いて仰向けに倒れた。口から泡を吹いている。
 士道とブーメラン使いのコマが二階に上がってきた。若い男の手足は縛り上げられていた。
「クルマのトランクに詰め込んどけ」
 士道が言うと男たちは倒した敵を担いで階段を降りて店の外に出た。通りを歩く男女が何事かと見ていたが、士道に睨まれて慌てて散った。三人の男たちはトランクに詰められた。
「紀代、大丈夫か?」
「はい。危ないとこだったわよ。ありがとう」

 三人の男をトランクに詰めた二台の車は若林区の海岸の方に走った。間もなく津波の爪跡が生々しいガレキが散乱する海岸の原っぱに出た。所々新しい建物が建てられているが、大部分はまだ復興途上でガレキが散らばった荒地だった。荒地の真ん中で車は止まるとトランクから敵の男たちを担ぎ出して地面の上に転がした。
「誰の差し金だ?」
「……」
 三人とも黙っていた。
 コマがボクサー上がりの男の脇腹に蹴りを入れた。
「ううううっ」
 男は呻いた。また蹴りを入れようとすると、
「野間って野郎だ」
 と答えた。
「そいつのとこに案内しろ」
「会津若松ですぜ」
「構わん。今から案内しろ」
 男は顔をしかめながら頷いた。
「よしっ、車を出せ」
 士道の号令で二台の車は会津若松目指して走り出した。途中、
「マンションに帰ってろ」
 と紀代は光二に言われて車を降りた。

二百一 忍び寄る恐怖 Ⅱ

 紀代を市内で下ろしてから、紀代を拉致した三人の男たちを乗せて、会津若松に向っている途中、光二は紀代の身にとんでもないことが起こったことを悔いていた。矢田部と同様に紀代にも身辺警護の要員を配置すべきだと反省していた。紀代を想う光二の無言の愛だと言ってよかった。

 鉄道だと郡山を経由するが、車だと福島から国道115号を通って斜めに走る。だから郡山は通らず少しは早いが、会津若松にはかなり遅い時間に着いた。士道はこんな場合、相手に時間の余裕を与えることを嫌った。少しでも時間の余裕を与えれば、大抵の場合仲間に通報するとか、逃げ出すとかろくなことがないのだ。だから、夜中でも男たちに紀代の拉致を指示した黒幕を捕まえて決着を付けるべきだと思っていた。光二も、士道の部下たちも日頃士道のやり方を知っていたから、誰一人余計な口出しをする者はいなかった。

 会津若松に向う途中、車のトランクを足でドンドンと蹴る音がした。運転していたハチが車を停めてトランクを開けると、一番若い男が小便をしたいからここで降ろしてくれと懇願した。
「済みません。オレ、限界です」
 男は額に汗をかいていた。ハチはもう一台の車に乗っている士道に伺いを立てた。士道は頷いた。ハチは若い男を見て、
「いいだろう。五分だけやる。さっさとやれ」
 と男の腕を引き揚げてトランクの外に出してやった。

 クモが放った吹き矢の毒はどうやら引いてきた様子だ。足を縛った紐を緩めてもらって若い男は立ち上がると、路肩に立って放尿した。その様子をロープ使いのハジメとクモが見ていた。ハジメは手にロープを持っていた。
 小便が終わると、案の定若い男はポケットをまさぐって携帯を取り出した。
 それを見てハジメのロープが飛んだ。ロープは若い男の首に巻き付いた。ハジメが力一杯ロープを牽くと、若い男は転倒した。クモが駆け寄って携帯を取り上げ、ポケットを探った。すると尻のポケットからもう一つ携帯が出て来た。紀代のiPhoneだった。
「このやろうっ」
 クモは若い男をどついて、足の紐を固く縛り上げ、手を後にして縛りなおすと、トランクの中に転がされているナイフ使いの男のポケットも探った。財布の他にもう一本の飛び出しナイフと携帯が見付かった。それを没収すると、若い男をトランクに放り込んでトランクを閉めた。クモはもう一台の車のトランクを開けてボクサー上がりの男のポケットも探った。財布と携帯が出て来たので没収した。全部で携帯は四個だ。クモは紀代の携帯だと思われるiPhoneを光二に渡した。光二は、
「間違えねぇ。紀代の携帯だ」
 と言って自分のポケットにしまった。

 会津若松市街に入ると、士道が乗った車のトランクに放り込まれているボクサー上がりの男をトランクから出して後部座席に座らせた。
「野間の所に案内しろ」
 男は素直に道案内をした。

 野間は東山温泉に近い小奇麗なマンションの一室に住んでいた。真夜中だから、多分眠っているだろう。光二はマンションに着くとチャイムを押した。ドアーの前で聞き耳を立てていると、中から女の声で、
「どなた?」
 と聞いた。光二は予め決めていた通り、
「夜中に済みません。バイク便です」
 と答えた。
「あら、こんな真夜中にバイク便ですって。何かしら」
 誰かに聞いている様子だ。すると、
「バイク便? 兎に角受け取っておけ」
 と男の声がした。女がドアーを開けて顔を出した。光二はすかさずドアーに自分の靴を突っ込んで閉められないようにして、背後に目配せした。同時に女の手をぐいっと自分の方に引いた。女は光二に抱きかかえられるような格好で光二の方に倒れた。シースルーのネグリジェ姿の艶かしい肢体が通路の電灯に照らし出された。光二は女の口を塞ぐと、ハチが素早く猿轡を噛ませた。女の手足を縛ると、五人の男が部屋の中になだれ込んだ。野間は突然の物音に半身を起こして光二たちを睨んでいた。
「野間だな」
「……」
「答えろ」
「お前等は誰だ」
 野間も負けてはいなかった。
「お前が寄越した三人のアマちゃん野郎の使いだ」
「ウソつけっ!」
「ウソじゃねぇ。三人のアマちゃん見せてやろうか」
 そこに士道が引き立ててきたボクサー上がりの男が、
「野間さん、済みません」
 と叫んだ。野間は全てを悟った。

 ハチとクモが野間に飛び掛り、野間の腕はクモに羽交い絞めされた。
「オレに聞きてぇことがあるんだろ」
「ああ。誰の差し金だ」
「オレがやらせた」
「そうかい。ちよい痛い目に遭わせりゃ正直に話しますって言ってるんだな? いいだろう。あんたがこのアマちゃんたちにやれと言った目玉を繰り抜いて舌をちょん切りゃ正直になるんだな。よし、目玉から行くか?」
 光二は野間の顎をぐいと掴んで思い切り力を入れた。
「いてて。痛てぇ」
 顎を手で摑まれてぎゅっと締められると誰だって痛い。光二はナイフ使いの男から没収した飛び出しナイフの刃をカチッと出して、野間の瞼に当てた。
「繰り抜くぜ。恨むなよ」
 冷たい刃を瞼に押し付けられて、野間は降参した。
「言うよ。言うからやめてくれ」
「言いますからやめて下さい、だろ?」
 野間は大人しくなった。
「ああ。正直に言います」
「誰だ?」
「キヨリスの元社長の秋元です」
「いくらで請け負った?」
 野間はしばらく考えてから、
「一千万です」
 と答えた。

「野間、秋元社長に電話をしろ」
「こんな夜中にですかい?」
「そうだ」
 野間は渋々秋元秀子に電話をかけた。
「あなた、何時だと思ってるの」
「三時過ぎだよ」
「こんな時間に何か用でもあるの」
 士道は、
「電話を代われ」
 と野間から受話器を取り上げた。
「秋元さんかい?」
 聞きなれない野太い声に秀子は緊張した。
「秋元ですが、どなた?」
「辰夫さんのダチの堂島ですよ」
「あら、ご無沙汰してます。こんな時間にどうなさったの」
「どうなさったのはないでしょう。あなたねぇ、人間のクズみたいな者を使って娘さんの目を繰り抜いて舌を切り落とせなんてどう言うことかね? 人間のやることじゃねぇよ」
 秀子は驚いた様子だ。
「野間に代わって下さいな」
 士道は受話器を野間に渡した。
「あんたに話があるってよ」
 野間は、
「ああ、オレが雇ったバカどもがへましあがって。そうだよ。士道さんとやらの話はほんとだよ」
 電話の向うで秀子が怒っている様子だ。野間は受話器を士道に差し出して、
「あんたに話があるそうだ」
 と言った。
「秋元さん、あんたが責任取るのかい?」
 秀子は、
「とんでもない。あたしはちょっと虐めてちょうだいと言っただけよ。最近紀代のやつ生意気だから」
「野間と雇ったクズ野郎三人の始末ですがね、秋元さんと一緒にこれから警察に行きますか?」
 士道が脅した。秀子は、
「あたしはたいしたことやってないわよ。そっちでいいように始末して下さいな。お礼はちゃんとしますから」
 と逃げた。
「本当にこっちで始末してもいいんですな」
 士道は念を押した。
「好きなようにして下さい」
 ここのとこ、野間は若い女に乗り換えて秀子に冷たくしていた。だから、秀子は腹いせに野間を痛めつけてくれと言ったのだ。
「じゃ、この話はこれで終わりだ」
 士道は野間と捕まえた三人を車のトランクに入れて、夜道を高速道を使わないで横浜に向った。

 その後、野間と男たち三人は行方不明になって、二度と会津には戻らなかった。

二百二 忍び寄る恐怖 Ⅲ

 光二から、自分を襲った男たちは継母秀子の差し金だったと電話で知らされて、紀代は衝撃を受けた。
「若い頃あんなに自分を可愛がってくれたのにどうして?」
 紀代は色々考えて見た。
「秀子は自分の息子、秀夫にキヨリスのあとを継がせたいと思っていることは知っていた。自分が社長に就任して秀夫の将来が怪しくなったと考えて自分が邪魔だから殺めようとしたのだろうか? だが秀夫はまだ大学生になったばかりだ。自分は将来秀夫が社会人としてちゃんとやれるようになったら会社を秀夫に継がせたいと心の中で思っていたのに、そんな気持ちが秀子には届いていないのかしら」
 子供の頃から、紀代は秀夫と仲良く過ごしたことはなかったが、同じ父親から血を分けた自分の弟だから心の隅にいつも秀夫が居たのは確かだ。考えれば考えるほど、紀代は今回の事件に納得がいかなかった。継母の秀子はキヨリスを私物化していたのは事実だ。紀代はそれは許せなかったが、だからと言って継母の秀子を心から憎んだことなんて一度もなかった。その継母に恨まれていたと考えるととても耐えられなかった。紀代はこの時、心置きなく愛し合える家族が欲しいと思った。自分の周囲を見ると、自分には今は光二しか家族と思えるような者はいなかった。だから紀代は光二にせがんで自分の赤ちゃんが欲しいと、ここのとこいつもそれを想っていた。だが、歳のせいか、今のことろ懐妊の兆しもなかったのだ。

 光二が士道たちと会津若松に行ってしまった夜、光二から若い男に取り上げられた紀代の携帯は取り返したこと、事件の黒幕は継母の秀子だったことを知らされ、光二はしばらく仙台には帰れないと家の電話に連絡があってから、その後光二からの連絡はぷっつり切れて連絡がこなくなった。
 光二が会津を離れて横浜に行ったことは知らされていなかった。

 紀代は翌日から気持ちを取り直して仙台店の建設に注力した。その日から、紀代の身辺警護のためにコバさんこと小林とマー坊こと及川がやってきた。二人は交代でいつも紀代のそばにぴったりと寄り添い周囲に目を光らせていた。コバさんもマー坊も気心が知れたやつたちだ。だから紀代は彼らがいつも自分のそばにいることには気にしていなかった。

 紀代は精力的に仕事をしていた。仙台店は従来のスーパーマーケットの殻を破った新しいコンセプトを追求した。東北地方は大震災後の復興の槌音高くどこに言っても復旧ではなくて、新しい街に生まれ変わろうとする復興の意欲に満ちていて、紀代のチャレンジもこの流れに沿っていた。
「スーパーではなくて、人々がそこに集まり、楽しみ、同時に人々の気持ちがつながって心を癒せる、そんな空間を求めてみよう」
 それで、紀代はスーパーのキヨリスでなくて[キヨリスタウン]つまり理想の空間をかもし出す街の姿をイメージしていた。だから、仙台店はキヨリスタウンと名付けることに決めた。
 キヨリスは単独では一万坪の敷地の中で演出するしかなかった。だが、タウンにするにはキヨリス単独でなくて、大勢の人々の協力を得て十倍、二十倍の規模にしたかった。それで紀代は足を棒にして県庁の復興担当部署に通った。
 同時に矢田部に応援してもらって、東京に本拠地を持つ大手の専門店や海外の有名ブランド店にくまなく通ってキヨリスタウンのコンセプトについて説明を繰り返した。
 更に楽しみながら新しい物創りができる子供向けの体験学習をさせている施設にも足を向けた。

 紀代は父親の辰夫が施設の中に温泉施設を作って成功したスーパーアキモト郡山店も参考にキヨリスタウンに隣接する公園の設置を提案、その中に大きな温泉施設やライブを楽しめるイベントホールを作りたいと思った。公園だから、球技やサイクリングなどのスポーツを楽しみ、近くの七北田川から水を引いてボートや水遊びも楽しめる施設にしたかった。キヨリスタウンの中や周囲には専門店を集め、アウトレットモールを作り、外側に大きな住宅街を建設する提案もした。仙台周辺に散らばる企業との間の交通の便を良くするために、新しい道路建設も提案した。

 キヨリスタウンに行けば、一日中でも二日間でも家族で楽しく終日充実した時間を過ごせる空間、住んでよし、遊んで良し、子供たちは知らず知らずに学べて、それでいてお金が僅かしかかからない、そんな空間にしたかった。
 開業したら、東北全域から観光バスで遊びにこられるようにもしたいと思った。観光バスが来るようになるには、施設に魅力がなければならない。その第一は街並みが美しくないといけないし、昔からの仙台の観光資源との融和が取れている必要があった。

 紀代の目論みは多くの人々に理解されて、有名ブランド店や大手の専門店の出店計画も日を追う毎に増えた。もちろんM製菓でも小中学校の生徒を対象にしたお菓子作り体験館を公園に隣接して出してくれることが決まった。帰りにM製菓の製品をお土産に出してくれると言う。同様に仙台名産のかまぼこメーカーでもかまぼこ作り体験館を作ってくれる約束も取り付けた。親も子供も一緒に楽しめる施設だ。いくつかの企業から同様の施設の建設に同意を取り付けた。どの企業でも自社の宣伝のために無料体験をさせ、自社製品のお土産付きだと言う。紀代はこれだけでも相当に集客できると思った。
 更に役所では公共サービスの理解を深めるための子供向け公共サービスに携わる人々の仕事体験館も作ってくれることになった。
 紀代は周辺の水の森公園、台原森林公園、与兵衛沼公園との連携も図った。仙台には権現森温泉やパワー温泉施設もある。だから、ボーリングをすれば必ず温泉源を掘り当てられるはずだと確信していた。それでボーリング業者に頼んでボーリングを実施したところ、二本目で見事に熱い湯が噴出した。鉱泉ではなくて熱い湯が湧き出る天然温泉だ。この温泉のボーリングに成功したことが紀代の自信につながった。
 紀代が一番気にしていたのはトイレだ。大勢人が集まるとトイレは極めて大切な施設に位置づけされるべきだと考えていた。男性はそれほどでもないが、女性は必要な時に近くに綺麗で安心できるトイレがあると助かるのだ。だが、トイレは独立した施設では清掃や治安の確保が難しい。それで、最近のコンビニのように、気軽にトイレを借りられるように、キヨリスタウンの中に設置する施設には誰でも気軽に入れるトイレの設置を義務付けた。もちろん清掃などの維持管理費用は施設持ちだ。だが、こうすることで人々は安心してキヨリスタウンを訪れることができ、結果的に施設にとっても良いことだと説いて回った。

 居住区域には住宅建設企業からの支援があり、新しい都市計画に沿って大きな居住地区の建設計画も軌道に乗ってきた。
 紀代は努めて商工会議所に出向いて持論のタウン建設計画について講演を行った。それで紀代はいつの間にか仙台の有名人リストに名前が載るようになっていた。

 大きな仕事を進めるには事業資金が当初計画よりずっと多く必要になった。それを賄うために、紀代は既存店五店の売上増にも力を入れた。一番急速に伸びたのはキヨリスネットによる通販だ。毎月倍々ゲームのように売上が伸びていて、社員の増強に腐心していた。

 そんな紀代の活動を陰で支えてくれたのが橋本徹だ。徹は紀代の後押しで可愛らしい茜と結婚していた。徹は茜の実家に近い米沢市内に新居を移していたが、ここのところ紀代の活動範囲が東京と東北六県に跨り多忙だったので、週に一日程度しか家に帰れなかった。だが茜との関係は上手く行っていて、最近茜が懐妊したと紀代に報告があった。

 紀代は多忙な日々が続いて、光二のことを思う暇が少なくなっていた。もちろん光二を忘れた日はないが、遠くに行ったまま帰らないことは昔からよくあったことだから不在のことを別に気にはしていなかった。
 そんなある夜、マンションの前まで戻ると、灯りが点いていた。紀代がドアーを開けると鍵が開いていて、入ると光二の笑顔が迎えてくれた。こんな時、ほんの些細なことだが、幸せを感じるものだ。

 久しぶりに光二と食べる夕食は美味しかった。
「あなた、どこにいらしたの?」
「いろいろだよ」
「もしかして海外?」
「ん。ニュージランドの近くまで行っていた」
「へぇーっ? あちらは今は寒いんでしょ」
「南の方は寒いが北の方に居たからそれほど寒くはないと言うか快適な気候だったね」
「いいな。あたしもニュージランドに行ってみたいな」
「今の紀代みたいに忙しかったら無理だな。その内時間が取れるようになったらな」
「光二さんの意地悪。あたしだって一週間くらいのお休みなら何とかなるわよ」
 光二は紀代の話を逸らせた。
「ニュージランドには温泉がいっぱいあるんだ。いいらしいよ」
「日本の温泉施設と同じなの」
「昔は違っていたらしいけど、最近は日本の温泉施設を真似た施設が沢山できているらしいよ」
「だったら入り易いわね。トルコとか東欧にも温泉施設は多いですけど、なんだか日本の温泉プールみたいだって聞いたわね」
「水着で温泉なんて面白くないなぁ」
 その日は光二は何故か饒舌だった。


 その夜、紀代は久しぶりに光二のベッドに潜り込んだ。光二は黙って紀代を愛撫すると、紀代と一つになった。久しぶりに会って、こうして抱き合うと新鮮な気持ちがした。紀代は燃えた。そして、光二とほぼ一緒に果てた。

 セックスの後で、紀代は光二に抱きしめられて幸せを感じつつまどろんでいると、コツコツと外で靴の音がして、紀代の部屋の前で止まった。ややあって、ドアーをコンコン、コンコンと叩く音がした。紀代は目が覚めて緊張した。それで低い声で、
「光二さん、起きて下さらない?」
 と光二の耳元で囁いた。

二百三 忍び寄る恐怖 Ⅳ

 光二は紀代に揺り起こされて目が覚めた。
「どうかしたか?」
「玄関の外にドアーをノックする人がいるの」
「こんな夜中にか?」
「あたしなんだか怖くて」
 ドアーをまだコンコン、コンコンと叩く音は続いていた。光二は起き上がった。だが、義足を取り外していることに気付いて、
「とりあえず紀代が見てこい。オレも直ぐに行くよ」
 紀代は恐る恐るドアーに近付いて、
「どなたですか」
 と尋ねた。返事がない。またドアーがコンコンと叩かれた。
「何か御用ですか」
 ようやく返事があった。
「秋元さんかい?」
 どうやら年配の男らしい。
「そうですが、こんな夜中に。明日にしていただけませんか?」
「あんた、昼間いないだろ? 話があるんだよ」
「どんな話ですか」
「あんたがやってるタウンの話だ」
 紀代はドアーを開けなかった。すると、
「直接あんたと話がしたいんだ。不審な者じゃないよ」
 と言う。紀代は迷った。
 そこに光二が義足を付け終わってやってきた。光二が来て、紀代はようやく心が落ち着いた。
「光二さん、どうする?」
「構わん。開けてやれ」
 紀代はおっかなびっくりそぉーっとドアーを開けた。そこに人相の悪い五十代と思われる男が二人立っていた。
「兎に角中に入ってくれ」
 光二が言うと、男たちは遠慮せずに居間に上がってきた。

 紀代はキッチンに行ってコーヒーを三つ用意した。コーヒーを淹れている間も神経は居間の方に集中していた。
「旦那さんかい?」
 ご挨拶代わりに男が聞いた。
「ああ」
「わしらは奥さんに話があってな」
「どんな話しかね」
 光二は男たちより若いが話し方は対等だ。
「おくさんがやっとるタウンの建設だが、良いことをされとります。それでわしらもお手伝いをさせてもらおうと思いましてな、一度奥さんと対で話をさせて欲しいんですわ」
「それなら工事事務所にくりゃいいだろ?」
 男たちは意味深な顔で、
「事務所じゃ他人(ひと)がおるで。わしらの話はできんのや」
「なら、いまここで話してみろ」
 男たちは横柄な光二の態度に文句は言わなかった。そこにコーヒーを三つ、紀代が持って来た。
「奥さん、綺麗でめごいなぁ。わしらは取引や工事の揉め事を丸ぁるく納める仕事をしとるんや。奥さんのご苦労を見て見んふりはできんのでな、お手伝いを買って出たいと思っとるんや。わしらと組むと仕事が楽ですよ」
 紀代が聞き返した。
「ちやんとした会社とか組織はありますか」
 この質問に男たちは困った顔をした。
「奥さん、あれだけの仕事をなさってるのに素人さんですな。わしらは敢えて組織を作らんのです。顔と口の商売ですよ」
「顔?」
「こう言っちゃなんですが、顔が広いですよ。コネ、何事もコネクションですわ。わしらは××先生、○○先生はじめ大勢の先生方と懇意にしとりまして」
 東北では有力な代議士の名前をちらつかせた。光二は、
「ははぁーん、談合屋だな」
 と気付いたが黙っていた。紀代は、
「そう言うことでしたら、あたしも顔が広いですから今のところ間に合ってますわ。今日のところはお引取り下さい」
 と答えた。男たちは立ち上がろうとしない。それで光二はわざと腕時計を見るふりをして、
「お引取り下さいと言ってるだろ?」
 と睨みをきかせた。男たちは渋々席を立つと、
「ま、困ったことがあったらここに電話してや」
 と携帯の番号を書いたメモを置いて立ち去った。

 男たちの足音が遠ざかったところで、光二は、
「やってきた奴らは談合屋だよ。世の中のダニみたいな奴だ。ほっとくとあちこちかじって痒くなったりするから、小銭を渡して適当にあしらってやればいいんだ」
 と紀代に言った。
「相場はあるの?」
「ない。相手の顔色を見て腹で決めるのさ。ちょっと様子を見よう」
 翌日、土地取引や建設工事であちこちトラブルが発生した。今まで紀代に協力的だった地主の何人かが突然、
「売らない」
 と言ってきて、取引が中断したり、工事現場の資材置き場が荒らされて、工事の納期が妖しくなったりと次々とトラブルが発生した。
 仕方なく、紀代は昨夜やってきた談合屋に電話を入れた。やってきた男たちは請負料だと言って法外な金額を紀代に要求した。紀代の足元を見て吹っかけたのだ。光二に相談すると、郡山の士道から連絡が入った。すると間もなく紀代のところに[早坂龍(はやさかりゅう)]と言う四十過ぎのいかつい顔をした男がやってきた。
「士道さんから聞いてます。わたしの方で始末しましょう。状況は後で報告します」
 と言って、男たちが残して行った携帯の番号を書いたメモを受け取って去った。
 夕刻早坂から電話があった。
「痛めつけてやりましたから、当分大人しくしてるでしょう」
 と報告した。男たちは早坂にやられたらしい。紀代は士道の指示で動いてくれたと思ったので早坂の口座番号を聞いて、少し多目に現金を振り込んでおいた。
 夜、例の男から電話が来た。
「秋元さんよぉ、あんたを甘く見過ぎたな。お陰でこっぴどくやられたよ。このお礼は必ず返させてもらうから覚えておきな」
 そう言うと電話は切れた。
 翌日、急に発生したトラブルは綺麗に治まって、今まで通り何事も円滑に進むようになっていた。荒らされた資材置き場を見に行くと、元通り綺麗に片付けられていた。

二百四 喜び

 キヨリスタウンは色々な方面の賛同者が増えて、紀代が当初考えていたよりもずっと大きな規模になった。タウン全体を管理運営する目的の母体として、非営利組織[ニュータウン復興整備事業団]を新たに立ち上げて、そこがタウン全体の事業計画から施工、管理運営を担う形になった。初年度の事業費はなんと百三十五億円の規模になり、官民から多額の投資資金が集り、国では震災後復興のモデルケースに位置づけて、インフラの整備を急いだ。最初から街作りをするので、街中の送電網などは全て地中に埋設されつつあり、電柱は殆ど地上にはなかったから、街全体がすっきりした形に作られている。

 紀代の秘書としていつも行動を共にしている橋本徹が新しく建設が進んでいる公園に隣接した多目的イベントホールを見て、
「秋元さん、こんな大きなイベントホールを作って誰が使うんですか」
 と尋ねた。
「あら、徹君らしくない質問だわね。これからの時代は一箇所に大勢の人が集まって楽しめる場所が絶対に必要になりますよ。平成二十一年度から文部科学省が推進している、中学校武道・ダンスの必修化ってご存知?」
「聞いてはいますが、詳しくは知りません」

「文部科学省の生徒への指導要領には武道として剣道や柔道、女子の場合は薙刀(なぎなた)なんかが復活するかも知れないわね。そんな日本の伝統武術を必修とすることになっているのよ。ダンスはね、[創作ダンス]、[フォークダンス]、[現代的なリズムのダンス]のどれかを必修することになるのよ。あたしはね、現代的なリズムのダンスつまりヒップホップのようなストリートダンスは子供たちが幼い頃から始めてるでしょ、そんな人たちには音響設備が整った広いステージが要るのよ。汗を流したら公園でバーベキューとか、親子でいつでも楽しめる場所があるって素的じゃない? 学校で必修になれば、大会なんかが増えるでしょ。だからそんな大会の受け皿として多目的ホールの必要性が増えるのよ」
「そう言えば、最近キッズダンス、すごく盛んになってきてるそうですね」
 徹はようやく紀代の意図が分ってきたようだ。
「音響設備が整備されているとね、プロのアーティストのライブなんかをどんどん集められるのよ。有名アーティストのライブなんかだと五千人とか一万人とかの若い方が集まるでしょ、でもそれだけじゃわざわざ秋田や青森から来てもつまらないわね。キヨリスタウンにはアウトレットモールなんかも作るから、昼間仙台観光とかショッピングを楽しんで、夜はライブなんてお洒落じゃない? タウンの中の専門店で一クラス上のグルメも楽しめるし」
「紀代さんの夢、すごいですね」
「そうなの。あたし、このお仕事にすごい喜びを感じているのよ」

「サッカーグランドも作っていますよね」
「そうよ。サッカーだけでなくて、陸上競技とか水泳競技なんかも全部キヨリスタウンでやれるようになるわよ」
「あたしはキヨリスタウンの将来像を今の青葉区よりずっとお洒落で楽しく住める地域にしたいと思っているのよ」

 そんな夢の話をしながら、紀代は徹を連れて建設中の現場を次々と視察して回った。建設は順調に進んでいた。
 キヨリスタウンのショッピングモールの建設現場を一回りして道路に出たとき、あの談合屋の男とすれ違った。男は紀代の顔を見て睨んだが、何も言わずに通り過ぎて行った。一瞬、紀代はぞっとした。男の顔に大きな痣があり、ややびっこをひいていたからだ。早坂が相当に痛めつけたのだろうと紀代は思った。徹は何も知らなかった。
 紀代が視察であちこち現場を歩き回っている間、その日は小林がやや離れて周囲の様子を見張っていた。

 一通り精力的に歩き回って、疲れた足取りで紀代はマンションに戻った。ここのとこ、仕事の過労なのか体調が勝れなかった。マンションに戻ると、いつもは夕飯の仕度にとりかかるのだが、その日は何をするのも面倒になり、コーヒーを淹れて一服すると、紀代はベッドに倒れこんだ。どれくらい時間が過ぎたのだろう? 光二に揺り起こされて目が覚めた。
「あら、今何時?」
「九時少し前だ」
「ごめんなさい。直ぐに夕飯の仕度をします」
 と言ってテーブルを見た。そこには光二が作った料理が並べられていた。紀代はすまないと思った。光二と同棲するようになって、こんなことは初めてだった。

「あたし、体調崩したのかしら」
 そう呟くと光二が、
「えっ?」
 と聞き返した。紀代は自分の体調のことを光二には何も話さず、
「わるかったわね。ありがとう」
 と言って光二と一緒に食卓についた。

二百五 歓びと悲しみと

 朝起きた時から、その日紀代は身体がだるかった。この一ヶ月、何となくこんな調子の日が続いていた。毎日多忙だったから、疲れが溜まってしまったんだろうと思っていた。
 どうしたことか、その日は何となく眠かったが、ようやく一区切りが付いて十時からキヨリスタウンの竣工式を挙げる予定だったから、ゆっくりしていられなかった。

 九時半頃会場の公園広場に行くと、既に式場が整い、吹奏音楽隊のリハーサルが行われていた。その日は紀代の警護のために谷川たちも既に会場にやってきて、不審なものがないか各部の点検を入念にやっていた。谷川が紀代の顔を確認すると、紀代のところにやってきて、いつも身辺警護をしてくれている小林と及川に一言二言注意をしていた。その日は光二も紀代と一緒に会場に来ていた。光二は紀代から少し離れた物陰でじっと紀代の動きを見ていた。

 十時近くになると、黒塗りの乗用車が次々と到着して、東北各界のお歴々が挨拶を交わしていた。彼らは紀代の姿を確認すると近付いてきて、口々に成功をお祝いする言葉をかけてから、来賓席に着席した。運良く晴天で、昇りきった太陽の光がまぶしかった。矢田部はもちろんのこと、紀代の実父秋元辰夫もやってきた。だが、紀代の義母、秋元秀子の姿はなかった。

 上空に一機、二機と次々に報道関係のヘリがやってきて、全部で五機がホバリングしていた。五機ともなると、かなりの騒音だ。
 十時きっかりに、吹奏音楽隊のマーチが鳴り響き、沢山の風船が舞い上がり、昼花火の炸裂音が轟くと開会となった。事前に新聞、テレビで報道をしたために、一般の参加者は一万人を遙かに越えていると紀代に報告が来た。
 県知事の挨拶に続いて、二番目に紀代が壇上で挨拶に立った。
 紀代は新しいコンセプトで街作りをしたキヨリスタウンの夢を皆様と共有してこれからの東北の活力に役立てたいと前置きをして、キヨリスタウンの意図するところを丁寧に説明を始めた。

 谷川たちは黒子になって、紀代の脇に控えていたが、紀代が壇上にいる間は神経を尖らせて周囲の状況に目を光らせていた。光二も紀代と一緒に会場に来ていたが、紀代から少し離れた場所から紀代と周辺の様子を見ていた。

 紀代が細かい説明を始めた時荒川が、
「タニさん、あそこ」
 と公園広場に隣接して建てられた真新しい多目的イベントホールの屋上を指差した。
 そこには遠目にもはっきり分る照準器を装着したライフルの銃口が見えた。会場の壇上まではおよそ200mあった。谷川が、
「伏せろっ!」
 と言った時には既に荒川が紀代の背後から紀代に飛びついて、紀代の肩を両腕で強く下に押した。不意を突かれた紀代は膝を折った。

 その時だ、[パツーンッ]と乾燥した音がして、音とほぼ同時に紀代の頭から鮮血が吹き出た。谷川は直ぐに近くの警察の警備隊に、
「屋上からライフルだ」
 と連絡をしたため、警備隊が慌しくイベントホールに向って駆け出していた。上空のヘリコプターの騒音で、この時ライフルの射撃音を聞いた者は殆どいなかった。荒川は救急車の出動を要請した。
 会場は騒然となった。呆然と立ちすくむ者、慌てて逃げ出す者、何があったのか野次馬根性で壇上に這い上がる者、会場警備担当のガードマンでさえ何が起きたのか分らずに混乱していた。その時、開会当初から物陰で様子を見ていた男がにんまりとした顔で、
「ざまぁ見ろ」
 と言い捨ててその場から消えた。

 けたたましいサイレンの音と共に救急車が到着した。乗ってきた二人の隊員が素早く救急車から降りて紀代の様子を確認して首を振った。即死だと判断したのだ。病死の場合、救急車が到着した時点で明らかに死亡していれば、遺体を引き取らずに救急車は帰ってしまう。だが、紀代の場合は事故死だ。犯罪性の疑いのある事故死の場合は鑑定処分許可状の取得など必要な手続きをして司法解剖をする。救急車の隊員は居合わせた警官と二言三言交わしてから担架に紀代の遺体を乗せて警察協力医がいる病院に搬送するため立ち去った。

 救急車には光二が付き添いで同乗していた。光二は数々の経験から即死だと判断していた。光二はまだ温もりが残っている紀代の手をしっかりと握り、口を一文字に閉じて紀代の顔を見ていた。

 病院に到着すると、紀代の遺体は臨床医がいる部屋に運び込まれた。そこに刑事が二人やってきて光二の顔を見ると、
「ご主人ですか?」
 と聞いた。
「婚姻届は出していませんが、事実上わたしの妻です」
 と光二は答えた。
「事故当時の状況を分る範囲で結構ですから話していただけませんか」
 光二は少し考える顔をした後、
「イベントホールの屋上から照準器付きのライフルで狙っているのを見ました」
「現場からイベントホールの屋上までは約200m離れていると報告があるんですがねぇ、普通の人間だとライフルだとはっきりは見えないもんですよ。確かに見たんですか」
「見ました」
 光二は涙一つ見せず冷静に答えた。その様子に刑事は疑いを持った。普通死亡したのが妻か恋人ならばとても冷静ではおられず、泣き喚いていたりするものだ。だが、目の前の男はいたって冷静で涙一つ見せていない。
「どうしてライフルだと分ったんですかな?」
 刑事はやや横柄な態度に変った。
「玄人ですから」
 刑事は怪訝な顔をした。その顔を見て光二は自分の名刺を差し出した。刑事は名刺を見て納得した様子だ。
「失礼しました。今日のところはこれくらいで結構です。後日何かありましたら協力して下さい」
 そう言って敬礼すると立ち去った。光二も敬礼を返した。

 紀代の予期せぬ事故のために、竣工式を続行するのは難しくなった。それで事務局から竣工式は中止するとアナウンスがあり、出席者は目の前で見た惨事の状況を口々に噂しながら帰って行った。大勢の警備担当者と警官だけがまだ現場に残っていた。地方のテレビ局が取材に来ていたが、事故当時の様子が生々しく映像に残っているのでそれを持って局に急いで戻ったようだった。恐らくニュース番組で速報されるだろうと思われた。

 谷川は秀子の姿がなかったことから、紀代を銃撃した黒幕は秀子だと思った。それで荒川と一緒に会津若松に急行した。
 谷川は秀子のマンションに着くと、秀子を外に呼び出した。お昼のニュースを見て秀子は紀代が受けた惨事の様子をよく知っていた。
「本当にあんた何も指図をしてないのか?」
「してませんよ」
「後からあんただと分ったら許さねぇぞ」
「神様がいるかどうかは知りませんけどね、今回の事件にはわたしは全然関わっていませんよ」
 谷川は秀子の目を見ていた。それで、
「アラさん、帰ろか」
 と言って荒川とその場を引き揚げた。
「アラさん、あいつは白だな」

 早坂にボコボコにやられた談合屋の男は、腸が煮えくり返るくらい紀代を恨んでいた。それで仲間と相談して東京から狙撃に腕の立つスナイパーを呼んだ。スナイパーを交えて仲間と相談して、決行日を竣工式と決めていた。スナイパーは一週間前から公園を散歩する老人に変装して会場予定地の周囲の状況、演台が設置される予定の位置などを詳しく調べていた。その結果イベントホールの屋上から狙撃するのが最も確実だと判断して、屋上からの逃走経路などを詳しく調べていた。

 竣工式の前日、工事作業員を装ってダンボール箱を屋上に運んで夜はその中に入って眠った。逃走用の大型バイクは建物の目立たない隅に置いてあった。建設工事は突貫工事だったから、外部から目に見えない場所には建築廃材やダンボール箱などが散乱していたから誰も気付く者はいなかった。スナイパーは談合屋からあの女を殺すなと指図を受けていた。
「太ももとか、下半身を狙ってくれ。絶対に殺すなよ。殺すと殺人が確定だ。サツの追い込みが厳しいで」
 それでスナイパーは上半身を狙わず、当日は紀代の太ももを狙って一発発射する予定でいた。

 当日十時を過ぎて昼花火が上がったとき、スナイパーはダンボール箱から少し首を出して周囲の状況を確かめた。広い屋上には誰も居なかった。ダンボール箱は狙撃のためライフルを置く場所の近くに置いてあったから、屋上を歩いたりする必要はなかった。スナイパーはダンボール箱の中でライフルの格納ケースを開けると、ライフルを組み立てて照準器を装着してから試しに会場に銃口を向けた。望遠の照準器に県知事の顔が大きく捉えられた。距離的に自分の実力では100%一発で仕留められると思った。知事の開会の挨拶が終わると、ターゲットの女が壇上に立って演説を始めた。スナイパーが照準器を覗いていると、その時、警護の人間らしい男が自分の方を指さすのをはっきりと捉えた。スナイパーは落ち着いていた。女の太ももに照準を合わすと、引き金を引いた。その時だ、警護の男が背後から突然女に飛びついて肩を押さえ込んでかがませた。それで太ももを狙って飛んだ弾丸は女の頭に命中してしまったのだ。スナイパーは落ち着いていた。ライフルをダンボール箱に引き込むと、箱の中で分解して丁寧にケースにしまった。

 上空にヘリがホバリングしている。それでスナイパーの男はケースを背中に背負うとダンボールを頭に載せてイベントホールの裏側に当たる隅の方に走った。ヘリで上空からカメラ撮影をしていても、ダンボール箱が風に舞って動いているくらいにしか見えないだろう。
 スナイパーの男は隅に行くと、皮手袋を嵌めて屋上から地上に真直ぐに下りている雨どいのパイプを使ってすぅーっと地上に降り立った。その直ぐ脇にダンボール箱を被せて隠してあった大型バイクに跨ると、急いで公園を抜け出た。フェンダーミラーにイベントホールに駆け込む大勢の警官の姿が映っていた。男は高速道を使わないで、県道22号線から県道35号線に折れて、七北田川を遡るように制限速度を守って走った。新芦沢橋を越えて直進して国道48号線を通って約二十五分後には県境の関山トンネルを抜けて山形県に入っていた。男は幹線道路を避けて関山から県道29号線に折れて新庄方面に向って走っていた。その頃、警察では高速道路を始め主要道路の全てに検問所を設けて県外方向に向う車を調べていた。警察では男がバイクで逃走したとはその時点では気付かなかった。それで国道48号線に検問所を設けた丁度その時、男のバイクは山形県との県境を越えてしまっていたのだ。
 結局スナイパーの男の足取りは警察で掴むことができなかった。

 紀代の遺体の司法解剖を担当した臨床医の連絡で、光二は病院を訪ねた。
「ご主人でいらっしやいますか」
「届けは出していませんが事実上の妻でした」
「そうですか。この度はご愁傷さまでした。では藤島さんにお伝えしましょう」
「何か?」
 光二は訝った。医師は気の毒そうな顔をして、
「実は秋元紀代さんはご懐妊されておられました。ご懐妊後、概ね六週目になります。残念です」
 光二は驚いた。紀代からは何も話を聞いていなかったからだ。医師は、
「毎日ご多忙のようでしたから恐らくご本人はお気付きでなかったとも考えられます。お子様はもちろんあなたのお子様ですね?」
 光二は
「当然です。わたしの子供です」
 と言い切った。光二は日頃から紀代の貞操を信じていたのだ。医師の話が終わって、光二はあんなに子供を欲しがっていた紀代を心から不憫に思い思わず熱いものが胸にこみ上げてきた。
「結局紀代のやつ、最後まで一人ぼっちだったか」
 遺体の取り扱いの手続きを済ますと、火葬をした。光二は駆けつけた士道と二人だけで紀代の遺骨を拾って小さめの骨壷に納めてもらった。矢田部に断って葬儀はしなかった。矢田部は社葬にすべきだといい張ったが、光二は折れなかった。紀代と光二の関係を知っていたから矢田部は最後に折れてくれた。

 火葬した翌日、紀代がいつも世話になっていた弁護士が光二を訪ねてきた。光二も何度か会ったことがあり、弁護士の顔は知っていた。
 挨拶が終わると、
「実は秋元紀代さんが生前遺言をお残しされていまして」
 と遺言状を光二に見せてくれた。筆跡は明らかに紀代の自筆だった。遺言状には自分が持っている株券、銀行の貸し金庫にしまってある現金、預金など全財産を光二に相続すると書かれていた。弁護士は、
「異存がないようでしたら早めに遺産相続の手続きをいたしましょう」
 と言った。光二は、
「お手数をおかけしますが、全部お任せしますのでよろしくお願いします」
 と弁護士が差し出した委任状に署名捺印をして印鑑登録証の取得など諸々の手続きをするための委任状も差し出した。弁護士は、
「では手続きが全て終わりましたらご連絡を差し上げます」
 と言って帰って行った。

 一週間ほどして光二に秀子から電話がきた。
「紀代の遺産は全部あたしが受け取りますからね」
 秀子の話し振りは一方的だった。光二は、
「その話にはオレは関係がないよ」
 とすっとぼけて電話を切った。その後秀子は遺産相続のことで色々嗅ぎまわったらしいが、紀代が世話になっている弁護士を秀子は知らなかったから光二に、
「何か聞いてません?」
 としつこく電話があった。光二は切れた。
「あんた、うるせぇんだよ。今後オレに同じことを聞いてきたら許さねぇぜ」
 と脅した。

二百六 慟哭

 紀代の遺産を受け取って見て、その額の大きさに光二は驚いた。一番大きいのはキヨリスの株券だった。光二は紀代が持っていた株式の約半分を矢田部に引き取ってもらった。新たに引き取った株券と矢田部自身の持ち株を合わせると、矢田部はキヨリスの全発行株券の半分以上を持つ筆頭株主となり、キヨリスの支配権は絶対的なものになった。
 光二は自分が社長を務めていたキヨリスセキュリティー社の後任に谷川を推薦し役員会で了承されたので、光二は社長を辞任した。
 矢田部は紀代が理事長として取り仕切っていたニュータウン復興整備事業団の理事長に橋本徹を抜擢した。徹はキヨリスタウンの計画段階から紀代と一緒に仕事をしてきたから、生前の紀代の意志を引き継がせるには適任者だと考えたのだ。この抜擢に喜んだのは景子だった。自分が紹介して徹の妻となった知人の娘茜が人も羨む理事長夫人になったからだ。徹は理事長に就任したのをきっかけに、仙台市内に新築のマンションを買って茜と一緒に引っ越した。

 キヨリスの持ち株会社キヨリスホールディングの社長だった紀代が他界してしまったので、矢田部は東京のM製菓の営業本部長だった男を引っ張ってきて、後任の社長に就けた。これで、秀子の悲願であった息子の秀夫がキヨリスの将来を背負う可能性はなくなってしまった。

 光二は紀代の遺品を整理して、住み慣れた仙台のマンションを売却して引き払い、横浜の磯子区の高台にできた高層マンションの一室を買って引っ越した。東京湾が一望できるシーサイドビューのこのマンションを気に入った。光二は新しいマンションの一室を紀代の部屋に充てて、仙台から引越し屋に頼んで運び込んだ紀代が生前使っていた身の回りの洋服やアクセなどを新しい部屋に移し変えた。紀代が着ていた物をクローゼットにしまう時、紀代が好んで使っていたフレグランスの香りがうっすらと鼻腔を刺激して、今にも紀代が
「ただいま」
 と言って帰ってくるような錯覚を覚えた。これから先、他の女と過ごすことはないだろうと光二は思った。
 光二の持ち物と言えば長い間に溜まった書籍くらいのもので、他にはたいしたものはなかったから、引っ越してから一週間は紀代の遺品の移し変えに殆どの時間を費やした。
 一週間が過ぎて落ち着くと、光二は紀代の遺骨を納めた小さな骨壷を丁寧に包装した。

 翌日、光二は紀代の遺骨を旅行バッグに入れると、成田からエア・カナダでトロントのピアソン国際空港往きに乗って飛び立った。ビジネスクラスだ。遺骨は航空機で運んでも良いのだ。動物由来の禁制品は数々あるが、人の遺骨は禁制品リストには入っていない。光二は遺骨を入れた骨壷をずっと膝の上に乗せていた。光二はピアソン国際空港で乗り継ぐとモントリオールを目指して飛んだ。ドルバル空港に着くと贅沢なホテル、[ウェスティン・モン・ロワイヤル]でリムジンバスを降りた。
 翌日モントリオールで4輪駆動の車を一週間レンタルすると、そのままルート117号に乗り入れて Labelleと言う町を目指して走った。 Labelleの標識を見て一般道に降りると、田舎道をトロトロ走って十年以上前に紀代と訪れたことがあるジュベール爺さんの家を訪ねた。ジュベールは奥さんのアンナと共にまだ元気に暮らしていた。
 ジュベール爺さんは光二が訪ねてきてとても喜んで歓迎してくれた。
「まだログハウスはあるかい?」
「ああ、いつでも使えるようにしてあるよ」
「ところで、彼女はどうしたのかね」
 光二は困った顔をした。光二は車に戻って旅行バッグから紀代の遺骨を納めた骨壷を取り出すとジュベール爺さんに見せて、
「彼女はここだ」
 と言った。骨壷の包みを見た爺さんと奥さんのアンナさんは言葉を失った。二人は顔をくしゃくしゃにして涙を流しながら代わる代わる光二を抱きしめてくれた。
「可哀想なことをしたな」
 光二はログハウスの鍵を借りると、一人でログハウスに向った。

 翌朝は天気が良かった。光二は持って来た喪服に着替えて、骨壷を持って湖畔に出た。風は無く湖は鏡のように対岸の森を映していた。周囲には誰もおらず、静かだった。
 湖畔に立つと光二は、
「うおおおぉぉぉぉっ」
 と大声で叫んだ。すると木霊(こだま)が、
「ぅぉぉぉ……」
 と返って来た。しばらく置いてまた、
「うあぁぁぁっぉぅ」
 と大声で唸った。木霊が返ってきた時、光二の頬に一筋の涙が朝日を反射して光っていた。光二の涙は恐らく母親を亡くした時以来だったかも知れない。
 光二は小さなボートを出すと、湖の真ん中の方にボートを出してエンジンを停めた。そして、骨壷の蓋を開いて白い手袋で紀代の遺骨をつまみ出すと、
「紀代、いつまでもオレと一緒だ。淋しがるなよ」
 と言いながらさらさらと遺骨を湖面に撒いた。僅かな風に乗って、紀代の灰になった遺骨は湖面に舞った。そうして、光二は最後の一つまみまで遺骨の灰を湖面に撒いてしまうと静かに合掌した。

 ボートが岸に戻った時、ジュベール爺さんと奥さんが岸辺で待っていた。光二が岸に上がると黙って交互に抱きしめてくれた。

 その夜、光二は静かなログハウスのベッドの中で、ここで初めて紀代と結ばれた時のことを思い出していた。その時、紀代はまだ処女だった。そんなことを思い出していると、若くて可愛らしかった紀代の面影が瞼の奥で甦ってきた。そんな思い出に耽っているうちにいつの間にか眠ってしまった。翌朝、窓から射し込む朝日に目が覚めた。

 紀代との思い出の地で自然散骨を済ますと、光二はジュベール老夫婦に厚く礼を言って別れ、出かけてから一週間後成田に戻ってきた。
 横浜のマンションに戻ると、光二はカナダから持ち帰ったワインを二つのグラスに注いで、
「これからも紀代と一緒だ」
 と呟いて一人でワインを飲んだ。

二百七 水平線の彼方へ 最終節

「士道兄貴、頼みたいことがあるんだが」
 光二は士道に電話をした。
「横浜の新居はどうかね」
「快適ですよ」
「で、また何の頼みだ?」
「兄貴のクルーザーを二ヶ月ほど貸してもらえませんか」
「なにか? また消す奴でもいるのか」
「そんなんじゃないですよ」
「遊びに行くにしちゃ、二ヶ月は長いね。何の用だ?」
「アフリカのナミビアに行ってこようと思って」
「おいおい、脚を一本やられて懲りてるんじゃねぇのか?」
「置いてきたものを取ってきたいんですよ」
「そんな大事なものか?」
「ダイヤの原石を50kgほど」
 士道はヒューッと口笛を鳴らした。
「すげぇなぁ。相当になるだろ?」
「ボツワナ国のジュワネンで採れた上物ですからね、時価で三百か四百は堅いと思いますよ」
「誰を連れて行くんだ? 一人じゃ行けるわけねぇしな」
 光二は横浜の五人の仲間の名前を教えた。
「そうか、いいメンバーだ。お礼はたっぷりもらうぜ」
「無事に戻ったらね」
 光二は士道が横浜のマリーナに停めている大型クルーザーを確保した。

 翌日食料や自衛用の武器弾薬を仲間と一緒に積み込んで準備を整えた。順調に行けば二ヶ月足らずで横浜に戻ってこられるはずだ。
出奔は一週間後と決めた。前後の海洋気象の状況では、もう少し遅れるかも知れない。準備が完了すると、航路を決めて海図を取り寄せ入念に検討した。東京湾を出たら小笠原列島の付近を通過してパラオのあるカロリン諸島を目指して真直ぐに南下する。赤道を通過してバンダ海を通るのだが、このあたりは島が多く、海図をしっかりと頭に叩き込んでおかないと座礁しやすいのだ。海賊の出没も多い海域だ。
 バンダ海を抜けると西に航路を向けてインド洋を南西に進むのだ。行けども行けども海ばかりだが、大嵐に見舞われると大きなクルーザーでも相当に難儀するだろう。
 マダガスカル島付近を航行してケープタウンに到着する頃には半月はかかるのだ。ケープタウンを回り込むとナミビアは近い。

 光二は食料や飲料水を補給するために寄港する場所も海図に書き込んだ。
 そんなことをして過ごしている間に、光二の心の中で次第に航海の楽しみや夢が膨らんできた。
 航空機で行くなら、行って戻ってくるのに十日もかからない。だが、ダイヤモンドの原石を50kgも運ぶには通関を避けるのは難しいし、下手をすれば通関で没収されてしまうか、さもなくば目が飛び出るようなばか高い税金を払わせられる。だから、今回は表向き観光目的でクルーザーを使うのが一番だと思った。
 光二は海賊に遭遇した時の応戦方法も検討した。仲間の一人だって失うわけにはいかないのだ。最近の海賊は高速艇を使っている奴等も多いから、そんな奴に遭遇したら時速100kmも出せるクルーザーでも逃げ切るのは難しい。武器も最近はロケットランチャーを搭載している奴がいる。それで、光二は以前フィリピンで調達した射程約1kmの小型のロケット弾とランチャーを積み込んだ。こちらもそこそこの武器は用意したが、銃撃戦になればこちらのダメージも相当大きいと思わなくちゃならないのだ。

 細かい検討を重ねてようやく落ち着いた時は、出航日が翌日に迫っていた。光二は最後の調べとして航路付近の海洋気象を調べた。小笠原あたりまでは安定した気象だったから、予定通り明日は出航できるだろう。その先は毎日天気図を検討して予測をするしかなかった。
「明日、全員大丈夫か」
「皆わくわくして首を長くしてますぜ」
「じゃ、予定通り明日の五時に出航だ。今夜は早く寝るように言っておいてくれ」
「了解」
 光二は仲間の確認を済ますと、マンションを出てJR磯子駅から桜木町に行った。駅からタクシーに乗ると、
「Iホテルへ」
 と告げた。ホテルのエントランスでタクシーを乗り捨てるとエレベーターで三十六階に上がった。まだ外は明るかったが店はやっていた。

 光二は一人でウイスキーをちびちびと飲んでいた。外が薄暗くなると、高い所から見下ろす街の明かりが次第に増えて、やがて美しい夜景に変った。

「お元気そうね。大切になさっている方に会えまして?」
 振り向くとそこにナミビアの大使館で世話になった伊達佐緒里が微笑んで立っていた。
「ああ。久しぶりだな。会えたよ」
「会えたのに、こんな素的な夜、お一人?」
「ああ」
「君はどうしてここに?」
「父が亡くなりまして、葬儀のために一時帰国しましたのよ。明後日東京を離れる予定ですの」
「それはお愁傷さま」
「お隣に来ても、よろしいかしら?」
「オレはもう帰るとこだ」
 佐緒里はバーテンに席を移りたいと言って光二の横に座った。
「あれから、あなたのことが忘れられなくて」
 佐緒里はほんのりと頬を赤らめて光二を見た。
「それはどうも。君との約束は忘れてはいないが、空手形になりそうだな。すまん、明日早いから失礼するよ」
 光二が席を立つと、佐緒里の手がすぅっと伸びて光二のジャケットの袖口を掴んだ。光二は佐緒里の手をそっと外して出口に向った。
「意地悪なやつ」
 佐緒里はそう呟いた。佐緒里はバーで光二を見つけたとき夢ではないかと思った。
「こんな偶然ってあるかしら。きっと神様が引き合わせて下さったんだわ」
 佐緒里の心はときめいた。その時、もしかして今夜光二と結ばれるかもしれないと思っていたのだ。

 港を早朝に出る船は少なくない。その日は快晴だ。光二と仲間たちは忙しそうにクルーザーの点検を済ませて太陽が昇る前に出航した。
 心地良いエンジンの音を聞きながら、光二はデッキチェアーに座って東京湾の浦賀水道の方向を見ていた。光二流の男のロマンを求めて旅立ったのだ。
 浦賀水道を抜けるとクルーザーのエンジン音が大きくなりクルーザーは速度を上げて、波を蹴って快調に進んでいた。

 光二達を乗せたクルーザーの船影は次第に太平洋を南に向って小さくなり、やがて船影は水平線の彼方に消えて行った。
 丁度その時、水平線の東に太陽が顔を出して一筋の光が海面を照らした。

  【了】

 本書はフィクションであり、登場人物その他特に断りのないものは架空である。

愛され、愛する方法 【第四巻】

 人に愛され、人を愛する話では男に愛される女、女を愛する男である場合が多いように思う。だが女に愛される男、男を愛する女の話だってある。この小説の主人公紀代は最初光二を一方的に好きになり愛したが次第に光二に愛されるようになり最後は女として幸せだったに違いない。そこには光二なりの愛し方があった。
 男女が互いに愛され愛する方法は多様だ。だから恋愛話は興味深いのだと思われる。世の中に女と男が居る限り愛され愛する方法の話が絶えることはない。

愛され、愛する方法 【第四巻】

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-04

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  1. 百四十六 思わぬ助っ人
  2. 百四十七 市川雅恵の暗躍 Ⅰ
  3. 百四十八 市川雅恵の暗躍 Ⅱ
  4. 百四十九 市川雅恵の暗躍 Ⅲ
  5. 百五十 市川雅恵の暗躍 Ⅳ
  6. 百五十一 市川雅恵の暗躍 Ⅴ
  7. 百五十二 市川雅恵の暗躍 Ⅵ
  8. 百五十三 市川雅恵の暗躍 Ⅶ
  9. 百五十四 市川雅恵の暗躍 Ⅷ
  10. 百五十五 市川雅恵の暗躍 Ⅸ
  11. 百五十六 市川雅恵の暗躍 Ⅹ
  12. 百五十七 市川雅恵の暗躍 ⅩⅠ
  13. 百五十八 市川雅恵の暗躍 ⅩⅡ
  14. 百五十九 市川雅恵の暗躍 ⅩⅢ
  15. 百六十 市川雅恵の暗躍 ⅩⅣ
  16. 百六十一 市川雅恵の暗躍 ⅩⅤ
  17. 百六十二 市川雅恵の暗躍 ⅩⅥ
  18. 百六十三 市川雅恵の暗躍 ⅩⅦ
  19. 百六十四 市川雅恵の暗躍 ⅩⅧ
  20. 百六十五 市川雅恵の暗躍 ⅩⅨ
  21. 百六十六 市川雅恵の暗躍 ⅩⅩ
  22. 百六十七 青森の拠点 Ⅰ
  23. 百六十八 青森の拠点 Ⅱ
  24. 百六十九 青森の拠点 Ⅲ
  25. 百七十 青森の拠点 Ⅳ
  26. 百七十一 青森の拠点 Ⅴ
  27. 百七十二 青森の拠点 Ⅵ
  28. 百七十三 青森の拠点 Ⅶ
  29. 百七十四 青森の拠点 Ⅷ
  30. 百七十五 青森の拠点 Ⅸ
  31. 百七十六 青森の拠点 Ⅹ
  32. 百七十七 青森の拠点 ⅩⅠ
  33. 百七十八 青森の拠点 ⅩⅡ
  34. 百七十九 青森の拠点 ⅩⅢ
  35. 百八十 青森の拠点 ⅩⅣ
  36. 百八十一 青森の拠点 ⅩⅤ
  37. 百八十二 役員交替
  38. 百八十三 新たな希望 Ⅰ
  39. 百八十四 新たな希望 Ⅱ
  40. 百八十五 新たな希望 Ⅲ
  41. 百八十六 新たな希望 Ⅳ
  42. 百八十七 新たな希望 Ⅴ
  43. 百八十八 新たな希望 Ⅵ
  44. 百八十九 新たな希望 Ⅶ
  45. 百九十 新たな希望 Ⅷ
  46. 百九十一 新たな希望 Ⅸ
  47. 百九十二 新たな希望 Ⅹ
  48. 百九十三 新たな希望 ⅩⅠ
  49. 百九十四 新たな希望 ⅩⅡ
  50. 百九十五 新たな希望 ⅩⅢ
  51. 百六十六 新たな希望 ⅩⅣ
  52. 百九十七 新たな希望 ⅩⅤ
  53. 百九十八 新たな希望 ⅩⅥ
  54. 百九十九 恐怖を感じる時
  55. 二百 忍び寄る恐怖 Ⅰ
  56. 二百一 忍び寄る恐怖 Ⅱ
  57. 二百二 忍び寄る恐怖 Ⅲ
  58. 二百三 忍び寄る恐怖 Ⅳ
  59. 二百四 喜び
  60. 二百五 歓びと悲しみと
  61. 二百六 慟哭
  62. 二百七 水平線の彼方へ 最終節