青の国で
薄青が風に揺れる。
果てのない草原にたたずむその女性は、不思議な歌を歌っていた。その旋律はどこか懐かしく、広がる響きが全身に沁みていく。何か歌詞はあるようだけど、聞き取れない。どんな言語なのかもわからない。何度聞いても、人間の声だとは思えなかった。
夕暮れの色が景色を染めていき、夜が近づく。それでも彼女は歌い続ける。その歌声はどこまでも悲しくて、綺麗だと思う。彼女の想いは、見つめる先の誰かに届いたのだろうか。でも僕は、その女性にこっちを見て欲しかった。僕のことを見て欲しかった。
彼女の方へ手を伸ばす。足を進めようとする。それでも体は動かない。長く伸びた草は前へ流れていくのに、僕だけが前へ進めない。一歩だって動けない。声も届かない。これは夢だとわかっている。それでも僕は、知りたかった。
「レオ、起きろよ」
呆れたような声が何度か聞こえてから、目を開ける。あの温度のない夢から覚めるのには、いつも時間がかかった。だるい体を起こして頭を掻く。
「おはよう。またあの夢か。夢の中の幻に恋してるなんて、笑えないな」
そう言いながら本当に笑わないでいてくれるユウは、優しい人だと思う。ずっと昔から一緒にいて、僕にとって大切な家族で親友でもあった。
「行こう。リサが呼んでる」
ユウがさっさと階下に降りていくのを眺めながら考える。
あれは、恋というものなのだろうか。
あの女性のことが知りたい。でも焦がれているわけではないと思う。愛しているかは、わからない。夢中だと言われれば、そうだと思う。何度も本で読んだ恋する人々も、こんな気持ちなのだろうか。一人でいろいろ考えてみても、いつもわからない。先生に聞いても、ユウに聞いても、いまいちよくわからなかった。
一人で思考に耽ったのち、僕は考えるのをやめにして、ユウの後を追った。
台所に着くと、座って朝食を食べているユウの隣に、自分の分の皿が並べてあった。
「レオ、また何日か帰れないと思うから、二人とも家のことよろしくね。あと先生にもよろしく言っといて」
流しのところで洗い物をしていたリサは、振り返りながらそう言うと、最後の皿を拭き終えて玄関に向かった。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
リサは綺麗に切り揃えた金色の髪を揺らしながら微笑むと、ドアを開けて出て行った。
椅子に座って黄身が崩れた目玉焼きをつつきながら、今日の予定を考える。今日もいつものように、家事を片付けてから先生が来て少し勉強する。買い物は昨日行ったから、食料の調達は今日はなし。毎日毎日、同じ様な生活が続く。勉強は楽しいし、穏やかな日々を過ごすのは悪くないけれど、いつまでこの生活は続くのだろう。自分は恵まれていると思うから、退屈だなんて思うのはわがままな気がした。
「ユウは、もっと遠くに行ってみたいとか、いろんなこと知りたいとか、思うことはないのか?」
横を向いて尋ねると、ユウは一瞬遅れて表情を変え、考える素振りをした。
「うーん、そうだな。知りたいことも、やってみたいこともあるな」
「そっか。そうだよな。じゃあさ、一緒にどこか遠くへ出かけてみないか?そしたらたぶん、いろんなことがわかるんだ。ここにいるだけじゃわからないことがきっといっぱいあるんだろうな」
三日に一回の市場への買い物、リサやマリーと行ったちょっとした旅行。僕が行ったことのある場所はそのくらいで、もっと行けるところはある。この国はそんなに狭くないはずだし、この国を出て違う国へも行ってみたい。
「レオが行きたいなら行けばいい。でも俺はここにいる」
無表情に戻ったユウが、僕の方を見ずに言った。
ああ、まただ。僕はまたあの感覚に襲われる。ユウは、隣の椅子に座っているのだから、手を伸ばせば届く。でも心までは届かない。ユウの本心が、わからない。ユウとは兄弟の様に育った。いつでも対等な存在で、何でも分かり合える親友だって、僕は思っている。でも実際は、そんなことはないのだろうか。時々感じる距離感は、たしかにそこにあるのに、僕は認めたくなかった。黙々と食事を進めるユウを横目で見ながら、やりきれない気持ちになる。この感情は、どこへ向けたらいいのだろう。
「ごめん。変なこと言った。また考えとくよ。とりあえず、リサが今度帰ってきたら話してみよう」
食事を終えたユウが立ち上がりながらそう言って、皿を運び始めた。
少し固めの笑顔を浮かべた顔が一瞬見えて、嫌な気分になる。いつもの性格の悪そうな笑った顔と全然違う。僕が作り笑いに気づかないとでも思っているのか、それともわかってやっているのか。僕はため息を一つついて、冷静になろうとした。
「でも今回は絶対行くから」
何回かこの話はしたことがある。その度に適当に流されたけれど、今日はなぜか、いつか叶えたい夢じゃなくて、今すぐ現実にしたかった。
ユウがこちらをゆっくり振り返る。
そして恐ろしく冷たい雰囲気を纏って言い捨てた。
「俺は止めない。好きにしたらいい」
食器を音を立てて流しへ置くと、ユウは階段を登って自分の部屋に行ってしまった。
ユウの機嫌を損ねてしまうことはよくある。そのうち元に戻るからいいのだけれど、今日はいつもより後味が悪かった。僕は食べるのを再開しながら、ユウの分も食器洗わないとなあとか考えるけど、すぐに思考は悪い方に引き戻された。
わからないことが多くて嫌になる。
ユウの本当の気持ちも、自分が何者でどうしたいのかも、あの夢のことも、誰も教えてくれない。人に聞いても、本を読んでもわからないことはある。僕はいい人たちに囲まれて、幸せだと思う。でもこれだけは、この気持ちだけは、自分で解決しないといけないのだ。いつまでも甘えてばかりではいられない。僕は覚悟を決めた。だから今日、ここを出ていく。この気持ちを、晴らすために。
♦︎♦︎♦︎
持っている中で一番大きなカバンに少しの衣類と日用品、自分の小遣いを入れて、自室を出る。ユウは隣の部屋にいると思うが、僕はそのまま外へと向かった。
まずはいつもの市場のその先まで行ってみよう。そう考えて歩き始めた時には、ちょっと2、3日出かけるだけだと思っていたんだ。
新鮮な気持ちで小さな林を抜け、様々な商店が並ぶ通りの奥へと歩いていく。僕はこれから、どこへ行くのだろう。昼間が近づき行き交う人々が増えてきた道を一人逆方向に進んでいると、微かな銀色の光が目にとまった。気になって近づいてみると、布で簡単に作られた屋根の下で、一人の女性が老人と向き合っていた。薄暗い空間で、その老人の手に握られた古い時計は鈍い金属色を放っている。彼は女性の話を聞き終わると、頷いて時計を握る手に力を込めた。すると一瞬の間を置いて、時計の針がぐるぐる回り始める。奇妙なことに、時計のそれぞれの針はばらばらの方向に動き、やがて止まったと思うと正常な時間を刻み始めた。見ていた女性の顔から緊張が抜け、老人に硬貨が数枚渡される。
こんな風に不思議な力を見ることはよくあった。街に出ればあの老人のように力を使って商売をする人を時々見かけたし、小さい頃はリサがよく見せてくれていた。先生が吹かす風で遊んだりもした。この国の人間には、魔法の力を持って生まれる者がいる。その力の強さは、生涯変わることはなく、力が失われることも決してない。その人たちの多くはリサのように、この国の王に仕え、人々のために力を使うことが決められていた。もちろん違う生き方をすることもできるが、特別に用意された教育や待遇を選ばない者はあまりいない。さっきの時計を直した老人はおそらく国の仕事を引退した者なのだろう。
「そこのおにいさん、これ落としたよ」
よく通る声に呼ばれて後ろを振り向くと、少し離れたところで褐色肌の少女が一人無邪気に笑っていた。その少女の手には僕の財布が載せられていた。
「あ、ちょっと待って」
僕がありがとう、と言う前に少女はもう一度にっこり笑うと、後ろを向いて走り出した。長く艶やかな黒髪をなびかせて、軽やかに人の波に紛れていく彼女を僕は必死に追いかけた。その時僕は不思議と怒っていなくて、なんだか静かな気分だった。そして人にぶつかりながらやっと彼女に追いついた時には、僕は知らない道の行き止まりへとたどり着いていた。
「ごめんね。でもおにいさん、あのままじゃなんだかどこか遠くへ行ってしまいそうだったから」
少女はそう言いながら僕の手に財布を握らせると、一歩下がって距離を取る。細い腕に金色の輪が光って、少女は心配そうな顔をした。
僕が何を言おうか迷っていると、
「おにいさん、もしかしてその歳で家出でもしたの? 行くとこないならわたしと一緒に来なよ。仕事を手伝って欲しいの」
僕の今の状態を見事言い当てたその少女は、やはり心配しているような優しい顔をしていた。今のところ行くあてもないし、これも何かの縁だろうと、僕は少しだけ彼女について行ってみることにした。
「わたしはサラ。あなたは?」
「僕はレオ。仕事っていうのは何をするのか聞いていいかな?」
僕たちはもう一度来た道を引き返しながら話をした。今まで誰かと出会って仲良くなるなんてあまりなかったから、自分がうまく話せているのかよくわからない。こんな時に自分の経験不足に気づかされるとは思っていなかった。二人でしばらく歩いて着いた場所は、静かな建物が並ぶ街のはずれだった。そこでサラは美しい木目の大きな扉の前で足を止め、僕は周囲の建物よりも少し高い高級そうなその宿を見上げた。サラが言うにはここに滞在して、仕事を手伝ってくれればいいらしい。なんとなく胡散臭いような話だが、僕はなぜか彼女に協力しようと思った。扉を開けて中に入っていくサラについていくと宿の中は無人で、そのまま階段を上がって部屋に案内された。
「ここがあなたの部屋。わたしは隣にいるから好きに使ってね」
そう言って歩いて行こうとするサラのことをを引き止めると、彼女は不思議そうな顔をした。
「ありがとう。それで僕は何をすればいいの?」
「そうね、あなたの仕事はわたしの秘密を守ること。簡単でしょう?大丈夫、あなたは好きなだけここにいてくれていいの。わたしはあなたのこと、結構気に入ってるから」
僕の目を見てまっすぐ言った後、サラは隣の部屋に入っていった。僕も扉を開けて自分の部屋の中に入ると、整えられて落ち着いた雰囲気の部屋だった。荷物を下ろし、机のそばのソファーに座ってみる。部屋の中をぐるりと見回して、目を閉じて部屋の空気を大きく吸い込んだ。今頃ユウは何をしているだろうか。もう機嫌は良くなっただろうか。そんなことを次々考えながら、今自分がいる特別な状況を思う。これからどうなるんだろう、無責任な自分が好奇心とほんの少しの不安でいっぱいになるのを感じていた。
♦︎♦︎♦︎
「あなたはわたし、わたしはあなた。さあ、教えて」
薔薇色の唇が月夜の色を写して弧を描く。細い指が男の顎を撫でると、裸の肩に黒髪が流れた。暗い部屋に生温かい空気が漂い、そして消えていく。少女を見つめる虚ろな瞳が閉じられると、男は寝台に沈み込んだ。
「また、だめだった」
少女はそう呟きながら窓にかかる薄い布を開け放つ。冷たい空気が室内に流れ込み、何事もなかったかのように窓は閉められた。
サラは気怠げに洗面所へ向かい、蛇口をひねった。とめどなく流れる水を見つめる。今日はいつにも増して、気分が悪かった。水が流れる音だけに集中して、忘れようとした。何を、と思ったところで、物音に気づく。レオだった。
「サラ、おはよう」
おはようと返事をして、サラは急いで高い位置で結っていた髪をほどいた。金色の輪が床に転がって、シャリンと音が鳴る。レオの顔を見ることができなかった。胸の辺りが気持ち悪い。化粧も早く落としてしまいたいと鏡が目に入って思った。
レオは金色の装飾品を持ち上げて棚の上に置くと早口で言った。
「今日はちょっとそこら辺を見てくる。何か手伝うことがあったら言って」
早く出かけたくて仕方がないような声だった。
「あまり遠くへ行っちゃだめよ」
「わかった」
短いやり取りの後、深いため息を吐く。ドアが閉まる音がして、レオが外に出て行ったことがわかった。一体自分は何をしているんだろう。なぜかあの世間知らずが心配で、気持ちが乱れる。一度落ち着いて冷静に考えないと。そう思いながらサラは、もう一度息を吐いた。
♦︎♦︎♦︎
俺は嘘つきだ。全部わかっているくせに、いつも偽りの言葉を並べて、それでいて何も繋ぎ止めることができない。でも後悔はしない。そういう運命なのだから。
レオがこの部屋のドアを開けるのは、今日二回目だ。これは毎日繰り返されることで、先生はよくできてると言ってくれるけど、レオに対する罪悪感は重くなっていくばかりだった。
苦しい。レオに全てを、言ってしまいたい。俺の知る全部のことを、受け止めてくれる人が欲しい。こんな力なんて、運命なんて、いらないのに。
この国には、ときどき力を持った人間が生まれる。魔法と呼ぶにはあまりにも理不尽で不気味な力だと俺は思う。力を使ってできることは人それぞれで、それで得をすることもあるけれどいいことばかりじゃない。俺は、ただ普通に生きていきたいだけだ。
胸の内に溜まる重いもの。それは日を重ねるほど冷たくなっていった。時間と人の記憶を少し操作する。こんな気持ちの悪い力を制御するために俺はここにいる。
レオが先生に挨拶をして席に着く。今日もまた平穏な時間が過ぎるのだろう。本を開きながらそんなことを思った。
「でも今回は絶対行くから」
何十回も見た光景がついに訪れる。ああ、この時俺はこんな気持ちだったんだな。どうして、嫌なんだろう。嫌なら引きとめればいい。それか一緒にここを出ればいい。ずっと前から知っていたことなのに、レオの顔を見ると何もできなくなった。僅かに視界が揺れて、目の前に映像が映し出される。現実の世界とは違うそれは、遠い昔なのか、未来なのか、わからないけれど、それが事実であることは間違いなかった。物心ついた時にはもう見ていた幻。忘れることができない記憶。変えてしまう力。何もかも嫌だった。ただ純粋に知りたいと思うレオが羨ましい。この運命は、始まってほしくなかった。
♦︎♦︎♦︎
風が吹いても、緑の地平線は変わらない。あの向こうにいつか行ってみたいと思う心は、風に揺れたりしなかった。
リリはいつものところまで歩くと青い花に手を伸ばす。昨日まで蕾だったはずなのに大きく開いた花は、誰かのことを呼んでいる気がした。一度空を見上げてから、幼い少女は来た道を走る。木で作られた小さな門をすり抜けて家に入ると、二階に続くはしごを登って、日の当たる本棚を眺めた。
「あの本はどこにしまったかな」右左と並ぶいくつもの本棚に目を走らせて、見つけた本を手に取ると、薄く積もった埃を息で吹き飛ばした。表紙を眺めながら日当たりのいい場所に移動して本を開く。一枚ずつページを捲りながら文字の列をなぞっていくと、別の世界に吸い込まれるような感覚がして、時間も場所も忘れることができた。
暗くて文字が読みにくいことに気が付いてリリは顔を上げる。いつの間にか日は落ちていて、残りのページも少なくなっていた。本を閉じて床に置くと階下からいい匂いがして、はしごのところでおばあちゃんが見上げているのに気付いてはっとする。
「ごめん。手伝うの忘れてた」
リリはそう言いながらはしごを降りると、おばあちゃんは気にすることもなく微笑んだ。
自分の器を出して、熱いスープを注ぐ。具がたくさん入ったスープは湯気までもが美味しい。リリは大きく吸い込んで幸せな気分になった。おばあちゃんと二人だけの暮らしにはつらいことなんてない。私には本があるしおばあちゃんがいる。いつか学校というものに行ってみたいけれど、私が大きくなったら一緒に行くとおばあちゃんが約束してくれた。何よりもこんな幸せがいつまでも続いて欲しい。今日もいつものようにそれぞれが別々に瞬く星を眺めながら眠りについた。
家の外から聞こえる低い声。私は玄関まで走って行って思いきり扉を開けた。退屈な昼下がりの訪問者を私はいつも楽しみにしていた。
「おじさん、今日も何か話して!」
びっくりして飛び退いたおじさんに飛びつくとお腹におでこをぐりぐり押し付ける。おじさんはときどき素敵な香りがした。香ばしくて美味しそうな匂い、お花の香り、石鹸の匂い。大きくてしわしわの手が私の頭を撫でて、おじさんはいろいろな話をする。少し遠い世界のことを想像するのも、おじさんの表情を見ているのも楽しかった。
野菜、果物、お肉に小麦粉、たくさんの布と毛糸、他にもいろいろおじさんは持ってきてくれた。それらのお礼を言って温かい背中を見送った後、私は食べ物が詰まった何かの動物の皮でできたリュックサックを撫でていた。ふと思い出しておばあちゃんに問う。
「お金って、どんなもの?」
前から気になっていたし今日のおじさんの話に出てきたコインについて知りたくて、リュックサックの中身を取り出して整理しているおばあちゃんに聞いてみた。
するとおばあちゃんは作業の手を止め倉庫の方に歩いて行くと、しばらくして小さな木箱を持って帰ってきた。手渡された木箱の蓋を開けるとそこにはー
「わー、きれい」
箱の中にはピカピカのコインが入れられていた。リリはコインの山から金色の一枚をつまんで裏を確かめる。そこには表と同じく人の顔が刻まれていた。箱の中のコインには人の顔、花、鳥なんかが刻まれていて同じものは一つもなかった。金属の色もそれぞれ少しずつ違うように見えた。
「こんなにきれいだったら集めたくもなるよね。これで食べ物とか物が買えるんでしょう?」
本で書かれていたことを言ってみるとおばあちゃんはやはり軽く微笑みながら私の頭を撫でた。
また別の日、複数の足音が聞こえて、どきりとした私はクッキーを取ろうとした手を止めた。ザッザッと地面を擦る音はおじさんの足音に似ているけれど今日はなんだか重くて速い気がする。おじさんとは違う声が何か一言話してからいつものおじさんの声が聞こえた。どうしたんだろう。おじさんの「友達」っていう人なのかな。私が恐る恐る扉に近づいてノブを回すと、そこにはおじさんとあと二人の男の人が立っていた。その二人はおじさんの着ている茶色い服とは違い光沢のあるシワのない服を着ていた。
初めての客人に驚いた私は部屋の中で編み物をしていたおばあちゃんを見やる。おばあちゃんは驚く風もなく毛糸と編棒を置いておじさんと二言か三言話すと、私にこう言った。
リリに会わせたい人がいるから、一緒に来て欲しいんだって。
私はおばあちゃんにくっ付いて言う。
「おばあちゃんも一緒に行くでしょ?」
おばあちゃんの顔を見上げていると後ろから声が聞こえてくる。
「おばあちゃんは後で来てくれるから、おじさんと一緒に行こう」
そう言ったおじさんがとても優しい顔をしていたから私はすっかりその気になってしまった。
茶色い皮のリュックサックにお気に入りの本三冊と食べかけのクッキーを包んで入れて蓋を閉じる。そして私が背負おうとするとおじさんの手がリュックサックを取っていった。
「さあ行こうか」
玄関を出ておじさんがそう言ったけど私はもう少しだけおばあちゃんといたかった。ここを離れて遠くに行くことはワクワクする。でもちょっとだけ怖くもあった。私が振り返るのを躊躇していると、おばあちゃんはしゃがんで私を抱きしめてくれた。あったかくて大きくて優しくて、大好きなおばあちゃんに、私はそのとき初めて「行ってきます」と言った。
家を離れて草むらの中を続く道を四人で歩く。おじさんに二人の名前を教えてもらって、私があれこれと質問している内に、あの青い花のところまで着いた。ここより先には行ったことがない。草むらの向こうは見えないし、家に帰れるかどうか不安になるからだった。そういえばおじさんはいつもどうやってここに来ているんだろう。遠くに見える緑の地平線の先まで行くのには一体どれだけの時間がかかるのか。そんなことを考えながら、おじさんと私は青い花を通り過ぎる。
「これからどこに行くの?」
「お城だよ」
私が聞くとおじさんは前を向いて答えて、その後私の手を握った。さっきから一歩一歩足を踏み出すごとにどんどん景色が変わっていっている。初めて歩く道。広がった世界。ずっと変わらないと思っていたものが変わる感覚。私は怖くなっておじさんの腕にしがみついた。おかしい。こんなに早く草むらが終わるはずない。瞬きを一回すると家のようなものと一本の木が見えた。背の低い木には緑色の実がなっていて、その木を境界にして柵が立てられている。草むらと茶色い地面が白い柵で区切られていて、そこから先は違う世界なのだと言われている気がした。昔から私は、自分が内側の世界に住んでいて、いつか外の世界を見に行くんだと、おぼろげながらにも思っていた。いつから私の世界は変わってしまったのだろう。最初から?ついさっき?私の世界が崩れていく。何もかもが信じられなくて、怖くて後ろを振り返ることができなかった。おばあちゃんに会いたい。でもここにはいたくない。あっち側かこっち側。どちらが本当の世界なの?
大丈夫だよ。そう言うようにおじさんが優しく腕を引いた。私は歩き出す。もう一つの世界を、本当のことを知りたいと思った。
人、人、人。知らない人が前後ろと行き交っている。数え切れないほどの話し声が聞こえて、一つも聞き取ることができない。おじさんの手を両手で握って、狭い道をぶつからないように歩いた。
「欲しいものがあったら買ってあげるよ」
おじさんが慰めるように言った。私はそれに応えようと両脇に構えた商人たちを眺める。まっすぐ続く道の先にお城はまだ見えなくて、まだ会えないことを知った。鼻をくすぐる柔らかい匂いも、鮮やかな色も、欲しいとは思わなかった。
そのまま返事をせずに歩いて、気が付けば広いところに出ていた。後ろにあの二人の姿がない。どこに行ったんだろう。おじさんはその二人のことを「仲間」だと言った。仕事を一緒にする仲間。だったら、お仕事に行ったのかな。それでもおじさんが変わらないから、きっと大丈夫なんだろう。私はそう思って歩き続けた。静かな方へとただ歩いて、薄い眠気を覚える。風が吹いているのにおじさんの手の温もりだけが感じられて、私は意識と感覚を手放した。
次に目が覚めると、目の前が赤く染まっていた。後ろから夕日が射して、川の水に反射する。揺れるおじさんの背中に掴まって、橋の上を歩いていた。隣にある顔が微笑んで前を向く。大きな橋の先には、暖かい赤を映す建物があった。本当の色が何色なのかはわからないけれど、とても美しくてまっすぐで、泣きたくなった。涙を堪えながらお城の門をくぐると、そこはもう建物の中で、私はおじさんと二人、廊下に立っていた。それから廊下を少し歩いて、ある部屋に案内される。そこには一人の女の人がいた。
「はじめまして。私のことはリサって呼んでね」
その人はそう言うと、私の前に手を差し出す。私がその手を握り返すと、リサは笑顔になってよろしくと言った。
リサさんとおじさんと私で夕食がのったテーブルを囲む。焼いたお肉と綺麗な野菜、まだ温かいパンはとても美味しそうだった。挨拶をしてから食器に手を伸ばして、ゆっくり一口食べてみる。しっかりした歯応えを噛み締めていると、余計にお腹が空いてきた。私はテーブルの向こう側の二人も食事を始めるのを見て話しかける。
「会わせたい人ってリサさんのこと?」
「違うよ。あともう一人、明日会えるからね」
おじさんがそう言って微笑む。その瞬間おばあちゃんの顔を思い出した。この三人でご飯を食べているとなんだか幸せの味がして、おばあちゃんとも一緒に食べたいなという気持ちが浮かんでくる。私はその後もこの部屋のことや二人のお仕事の話を聞きながら、食事を進めた。
クローゼットに入っていたピンクのパジャマを持ってリサさんについて行く。壁に灯りがともされた綺麗な廊下を進んだ先のお風呂場を使わせてもらって、また部屋に戻った。ここは私の部屋で、好きに使っていいらしい。リサさんが言ったことを思い出しながらもう一度クローゼットの扉を開くとさっきと同じように色とりどりの服がたくさんしまわれていた。そのどれもが着ていないのに私にちょうどいい大きさだとわかって、不思議な気分になる。私が服をめくったりして眺めていると、壁に掛けられた時計が鳴ってまたリサさんが扉を優しく開けて入ってきた。
リサさんは私に疲れていないか、もう寝るようにするか聞いて、私が寝ると言ったので部屋の灯りを消す準備をしてくれた。
「何かあったら言ってね。すぐに来るから」
リサさんはそう言って灯りを消して回る。明るい金色の髪に留められた、青い石が組み合わされている髪飾りが動くたびに光ってとても綺麗で、私はそればかり見つめていた。
「ありがとう。おやすみなさい」
私が言うとリサさんは私に布団をかけた後、おやすみと言って静かに扉を閉めて出て行った。
暗くなった部屋で、私は布団を出て大きな窓に近づく。そこからはガラス一枚を隔てて白い星が見えた。平たい湖に星が貯まって泳いでいる。瞬く星たちの中で、唯一光を放ち続ける青い三日月が星を掬っているみたいだった。私はさらに窓に近づいてガラスに手を置いた。すると冷たさの後に、僅かに窓が震えるのを感じる。不思議に思って耳をすますと、どこからか小さな歌が聞こえてきた。透き通った歌が窓の外に流れていて、世界に溶けていく。私は窓の外を眩しく思ったけれど、カーテンを閉めるのを止めてそのまま眠ることにした。
強い光を感じてまぶたを開くと、知らない場所にいてびっくりする。ふかふかの布団を触って、そうか、自分はおばあちゃんと離れて知らないところに来たんだと思い出した。初めての場所だというのに、昨日はとてもよく眠れた。あくびをしながら昨日のことを思い出していると、
「おはよう」
誰だかわからない声がした。一瞬リサさんかと思ったけれど違う。深い青色の服を着て長い髪を下ろしているその人は、私にこう言った。
「いきなりごめんね。あなたに早く会いたかった」
にっこり笑ったその人は、なんだかとても遠い世界の人のような、ひどく儚い存在のように思えた。
♦︎♦︎♦︎
音を感じ、光を感じ、徐々に意識が覚醒する。静かな部屋に、鳥のさえずりだけが聞こえていた。この宿はとても静かだ。何日か過ごしても、自分以外の気配はサラだけで、他の人間は窓の外にも、建物の中のどこにも感じられなかった。
寝床から抜け出し窓の外を見る。遠くの方に草むらが見えた。あっちの方はまだ行ったことがない。今日はあそこに行ってみよう。そう決めて部屋を出た。
サラの秘密を守ること。それが今僕がここにいることの条件だった。サラの秘密を、僕はまだ知らない。秘密なのだから、知らないのは当然なのかもしれないけれど、わからないものを守れというのはとても難しい気がする。階段を降りて食堂に向かうと、そこにはもう温かい食事が用意されてあった。しかし誰かがいる気配はしない。サラもまだ部屋にいる。
誰が用意したかわからない食事を食べながら、この宿のことについて考える。ここは気味が悪いほど静かで、誰もいないけれどなぜだかとても居心地が良かった。安心できて、明るくてあたたかい。もしかしてこの場所がサラの秘密なのだろうか。
この国での不思議な出来事は、大抵魔法の力によるものだった。この場所で起こることも、誰かの力によるものなのかもしれない。僕は目を閉じてリサのことを思い出した。
暗闇の中で輝く光。赤、青、緑、小さな力強い光がリサの指先から離れる。小さい頃、リサは時々寝る前に絵本を読んでくれた。ユウと一緒に熱心に聞いたのを覚えている。いくつかの明るい光で物語を語るその優しさが愛なのだと、僕にも理解することができた。少し強く僕たちを抱きしめる腕と、いつも身につけているペンダント。控えめに光るその綺麗な水のような青色が、彼女にとても似合っていた。僕たちが大きくなるにつれて、リサはあまり力を使ってみせることはなくなったけれど、僕は彼女の光がとても好きだった。
力を持っている人は、ほとんどが王に仕えていて、王が力を込めた石を持っていた。それは持つ者の力を引き出し強くする。王はその力で、この国を守っていた。この建物にも、何か力が込められているのかもしれない。サラは何か知っているのだろうか。それを知ろうとしてはいけないことは、なんとなくわかっていた。
僕は食事を終わらせて、とにかく今日の目的地へ行こうと準備をする。あちこちを探検したら、何かわかるのかも、そう考えて出発する。最近の自分は、なんだか昔に戻ったみたいで、余計なことは何も考えていなかった。
宿がある建物の群れから少し離れたところにある草むらに足を踏み入れる。草むらの終わりは見えないけれど、少し進んだら先が見えるかもしれない。そのまま背の低い草を踏んでしばらくまっすぐ進んで、ふと後ろを振り返ると、そこにはまた草むらが続いていた。おかしいと思ってまた前を向くと、全く同じ景色が続いている。僕は混乱して、草を踏み倒してできた道を走った。横を見ても、まるで別の世界に来たかのようにどこにも草以外見えなかった。走り始めてから背筋が冷たいのを感じた。
「そっちは行っちゃだめ!」
突然サラの声がして彼女が飛び込んでくる。自分の後ろに何か黒いものが見えた。ヒュンと空気を切る音がして、彼女がその黒いものを斬りつける。すると赤い曲線が黒色の上に見えた。何回か素早く短剣を振ったあと、その何かは音も無く黒い靄になって目の前に広がった。
僕が呆然としていると彼女は僕の手を掴んで走り出す。黒い靄を突っ切って、ひたすらに来た道を戻った。僕は彼女の手に握られた短剣の柄が赤く煌めくのをただ見ていることしかできなかった。
草むらにできた一本道をサラの手に引かれて駆け抜けて、やっとの事で終わりに辿り着く。僕と同じく肩で息をして立ち止まったサラは、いつの間にか短剣をどこかにしまっていた。
「助けてくれてありがとう。さっきの黒いのは何?」
僕が問うとサラはこちらを向かないまま答えた。
「あれは……」
何かを言いかけてサラは振り返ると、いつもの調子で言った。
「とにかく、あっちには行っちゃだめ。わかった?」
僕がわかったと言うとサラは深呼吸を一回して僕の手を握り直す。そしてもう片方の手を重ねながら言った。
「次の仕事に行く。あなたはわたしに、ついて来てくれる?」
僕の目を見て言ってから俯く彼女を見て、僕は空が暗いのに気付く。それから間もなく、地面にいくつものシミができて雨が僕たちを打ちつけた。急激に冷たくなっていく空気も黒いような気がした。
胸の中が空っぽで何も感じない。
この空洞に何かを詰め込みたいけれど、込み上げてくる虚しさだけは掴めなくて、空洞は深く大きくなっていくばかりだった。なぜだろう。握られた手が熱いから? さっき一瞬見えた彼女の頬が赤かったから? それとも握られた手を握り返せないからか。君は今どういう気持ちでいるの。わからないまま時間が過ぎる。時が止まったかのように感じる時間の中で、顔と手の甲に水滴が流れ落ちていく。僕はその握られた手の熱さをいつまでも覚えていた。
雨の中宿に戻った僕たちは出発の準備を始める。僕は少ない荷物をかばんに詰めて部屋を出た。すると廊下にいたサラと目が合う。長い髪をまとめ、美しく化粧を施した彼女が楽しそうに、少しいたずらっぽく笑った。窓の外はもう雨が止んでいた。
「本当に来てくれるんだ。うれしい」
そう言った彼女は玄関の方へ歩き出す。また握られた手は驚くほど冷たい。暗い空の下で見た幼さを残す素顔を僕には見えないよう隠して、サラは進もうとしているように見えた。
僕はサラに行き先を聞いていない。それでも来て欲しいと、サラは言っている気がした。
宿を出て嘘のように晴れた道を彼女に続いて歩いた。どちらかが近づかなくては手が届かない距離で、彼女に王がいる城に行くことを聞かされた。僕なんかが行っていいのかと思うけれどそこに行ってはいけないというルールはないはずだ。それに何かが絶対わかるはずだと一人考えた。その間サラは一言も言葉を発しなかった。
もう一度あの草原の所へ来て、緑の縁に沿って歩く。大きく緩やかに曲がるカーブを進みながら彼女は静かに語った。
「レオは知りたいって言っていたでしょ。世間では知られてはいけない秘密ってものがあるけど、わたしは何でもあなたの知りたいことは知ったらいいと思ってる。ここから先にあなたが知りたいことがあるのかはわからないけれどきっと何とかなるよ。何ならわたしが教えてあげてもいいし」
彼女はフフフと上機嫌に笑って歩みを進める。僕は彼女に微笑み返そうと思いながらもなぜが何も考えられなくて、弱い風が吹いている中をただひたすら歩いた。
太陽が頭上を少し過ぎた頃、僕たちは足を止めた。休まず歩き続けていたのに不思議と疲れはあまりない。それよりも僕は目の前に広がる光景に目を奪われていた。
真っ白な漆喰の壁に等間隔に並んだ青い光が見える。それは太陽に照らされ輝いて眩しかった。今までに見たどんな建物より大きいその城は、木でできた橋の先にどっしりと存在している。まるで物語の世界みたいだ。僕はそう思って建物のてっぺんから端まで見ていた。
「レオ、ここであなたとはお別れ。あなたは正面から、わたしは違うところから行くから」
にっこり笑ったサラは僕にそう告げる。僕はなぜなのか聞こうとしたけれど、その言葉はサラに遮られた。
「あなたはこの国のことも、自分のことも、わたしのことも、本当のことが知りたいんじゃないの。わたしはあなたに、教えることはできないけどそれでも、あなたが望むことを叶えたい」
彼女は僕から目を逸らして城の方を見る。
「ほら、お迎えが来た」
そう言ったサラの目線の先には、見慣れた人物が立っていた。
「レオ、来たのか」
ユウがよく通るいつもの声でそう言った。何日かぶりに見るユウは何も変わらない。彼は僕の方を見て目を細めた。ユウがなぜここにいるのだろう。そんな疑問よりも今から何かが始まりそうな、変な違和感を感じる。胸の鼓動が速くて少し居心地が悪かった。
「ユウどうしてここに……」
目の前のユウに向かって言葉を発するが、ユウは表情を変えずに後ろを向いて城の方へ歩いて行った。僕は追いかけようとしてサラが見当たらないことに気づく。そうしている間にもユウの後ろ姿は遠くなっていって、僕は橋の上を走ってユウを追いかけた。
♦︎♦︎♦︎
ハヤトは誰もいなくなった部屋で顔を上げた。今しがた背を向けて出て行った青年の気配ももうしない。壁一面に本がひしめく小さな部屋で、また一つの運命の始まりを感じていた。
「先生」と呼ばれるようになってから随分と時が過ぎた。ついさっき苦しそうな顔で語り走り去ったユウ、自分に何も言わずに出て行ってしまったレオ。二人の少年の「先生」になってほしいと頼んできたのはかつて教えていた生徒の一人だった。彼女のことはよく知っていた。才能も、努力も、何一つ申し分ない優秀な生徒だった。私が自分の役職を譲り渡した後も、彼女は何かと相談事や仕事を持ってきたりして、長いお喋りをしに来たものだ。彼女とは付き合いが長いから、だいたいのことは知っているつもりだった。苦しい時は、何でも頼ってほしかった。
だから彼女が恋に胸を痛めている時も、大事な人の子を育てると決めた時も、ただそばで見守りたかった。彼女が慕い続ける人の子。力ゆえ、運命ゆえ行き場を失った子。そして彼女の母のマリー。リサがつくった「かぞく」に自分は入れないのかと、ずっと思っていた。
「せんせい、なんでユウとレオは違うの。なんでユウだけ、こんななの」
涙を流して縋り付いてくる小さな少年を、守りたかった。傷つかないように、そっと抱きしめて、生きて行く術を教えようと、強く生きて欲しいと願った。彼女の、リサの中ではいつまでも、私は先生のままで、それでも私はこの「かぞく」と生きることを決めた。
ユウはよく泣く子どもだった。しかしレオの前では決して泣かなかった。怖い夢を見るのだと言っていたが、それも本当のところなのかはわからない。何しろ生まれ持った能力を抑えるのに必死で、彼の力の全ては私にも把握できなかったし、彼もそれを話さなかった。もちろん彼がよく言う「運命」についても、詳しく聞いたりはしなかった。二人には自分の好きなように生きて欲しいというのがリサの願いだったから、私も彼女の意思に従って、これから何をすべきかを考えた。
♦︎♦︎♦︎
走ってユウを追いかけて、白い彫刻で飾られた城門の下、僕が追いつくよりも先にユウの姿は透明になって見えなくなってしまった。僕は吸い込まれるように前に進む。金属でできた大きな城の扉は、所々磨かれて色が変わっていた。何もかも夢のように綺麗な世界で、その扉の色だけが現実につながっているように見えた。
僕が扉に手を置こうとすると、音も無くひとりでに扉が動いた。城の中が少しずつ見える。僕は上質な絨毯の上に足を踏み入れ城の中を進んだ。この城には見渡す限り、見張りの兵士は一人もいなくて、その代わりに誰かが歌っているのが聞こえてきた。少し暗い部屋を次の扉まで歩いて行くと、その声は次第にはっきり聞こえるようになった。僕が扉の前に立つと、また扉が開く。
その瞬間、何かが僕の中で暴れ出した。
胸が高鳴って目が潤む。抑えられない何かが胸の中に現れて、僕にはそれがなんだかわからないまま、体は勝手に走り出していた。
真紅の絨毯が敷かれた広間に、黄金の玉座。その前に立っていたのは、澄んだ声で歌う女性。
その女性は歌うのをやめて、僕を見る。目の前まで走って来た僕を冷静に見つめていた。
「あなたがここへ来ることはユウから聞いていました」
初めて聞く彼女の声。見たことがないぐらい深い青色の服を纏った彼女は、夢で見る女性と全く同じ。細くて長い髪も、揺れる長い袖も、顔も変わらない。僕は心臓を落ち着かせようと、大きく息を吸い込んだ。
「私はレイカ。この国の王」
レイカと名乗ったその女性は、柔らかく微笑んだ。この人は今「王」と言ったのだろうか。本当にこの国の王様なら、なぜ僕はいつもこの人の夢を見ていたのだろう。ずっと幻だと思い込んでいた人が目の前にいて、話しかけてくる。ありえないことが起こって僕は何も言えないのに、心臓も、胸の中の何かも、もう静かになっていた。
「あの、ユウはどこに……ここにいるんですか?」
「大丈夫。もうすぐ会えます」
彼女はそう言ってから後ろを向いて僕に手招きをした。そのときの瞳を僕は見た事があった。そう、あのときの、夢の中で誰かを見つめる瞳。今は僕を見ているけれど、その優しく切ない色を溶かした瞳は他の誰かを見ているようだった。
彼女が歩いて行く先、玉座の陰になった白い壁には小さな扉がはめ込まれていた。僕の身長と同じぐらいのその扉は、とても古い造りをしていた。彼女が取っ手をひねり扉を押し開けたときに、ドアノブに青い石が埋め込まれているのが見えた。
金属のような、石のような、不思議な色をしたその扉が開けられた瞬間、眩しい光が目に入る。それと同時に冷たい風が通り過ぎて行った。
さっきまでいた赤い広間よりもさらに広い真っ白な空間。その中央に、大きな桜色のものが見えた。
僕は数歩近づいて上を見上げる。とても大きな鉱石のようなものが、おそらくこの城の吹き抜けであろう天井付近までそびえ立っていた。それは中に透明な色水を湛えた水槽のようになっていて、向こう側が透けて見える。表面のでこぼこに高い所にある窓からの光が反射して、色のついた宝石みたいだった。
「レオはこの国の王がどうやって選ばれるか知っている?」
レイカは僕の隣に立ってそう言った。
「確か、魔法の力が最も強い者が選ばれる……、だったと思います」
この国に王になろうとする者はいない。なぜなら王とは、なりたいという意思でなるものではないからだ。
「そう、私は選ばれた。正しくは、竜に選ばれ契約を交わした」
「竜?」
「この国の人々を守ってくれた、知恵を司る竜。私たちは力を与えられた」
彼女はそう言うと、桜色の石に近づいて手のひらで触れた。そして手を離した瞬間、カーンと何かが割れる音がして、彼女の両手に透明な石が一つ落ちてきた。
見た目より軽そうなその石を、彼女は口元に近づけふうと息を吹きかける。すると石の中に風が起こって、薄い赤が青色に染まった。深くて底が見えないその青は、いつか本で見た海の色だった。
レイカが海を閉じ込めた石を持って巨石の後ろにまわる。僕もついて歩くと青い石が積み上げられた荷車が見えた。その青い石の山はひとつひとつ濃淡が違っていて、色味も少しずつ違う。そこにまた、彼女の手によってひとつの石が載せられた。
その光景を綺麗だと思うと同時に、僕は床の白いタイルが途中で途切れているのに気が付いた。巨大な桜色の石の底から湿り気のある地面がはみ出していて、建物の中だというのにタイルが土の上に置かれているのが見えた。
僕は微かな恐怖を感じてレイカを見る。すると彼女は僕に微笑みかけ口を開いた。
「この石は竜の力そのもの。この城はこれを守るためにあるの」
彼女の優しい落ち着いた瞳は、今度は確かに僕だけを見つめていた。
幻でも夢でもなく僕だけに注がれる視線。同じ場所にいて生きている一人の人間。ただそれだけのことがとても嬉しかった。
聞いてみたいことはたくさんある。でも目がまた熱くなって、言葉を紡ぐことができなかった。
「レイカ様。魔法局長がいらしています」
突然レイカ以外の声が聞こえ、僕は驚いて一歩後ずさった。瞬きをして声のした方を見ると、白い正装姿の男性が青い石を積んだ荷車に手を掛けていた。
レイカはわかったと返事をすると、玉座のある広間へと続く扉に向かった。
「驚かせて申し訳ありません」
男性はそう言うと、僕の目の前からフッと消えた。荷車と一緒に姿が見えなくなって、僕は後ろを振り返る。今いるこの空間には、扉は一つしかなかった。僕はレイカが開けたままにしているその扉の向こうへと走った。
再び玉座の前に出て僕が見たものはたくさんの血を流して倒れている人々だった。
レイカと白い服の男性の後ろ姿越しに見える景色は、神聖なこの場所に不釣り合いな赤黒い色をしていた。鎧を着た兵士達の呻き声に砂の匂いが混ざって胸が苦しくなる。真紅の絨毯にいくつもの赤い染みが広がっていくのが見えた。
レイカが荷車から青い石の一つを手に取り胸の前に掲げる。それからゆっくり息を吸い込み、彼女はひどく響く音を奏でた。
赤い広間全体に反響する一つの音。悲しみを引き延ばしたようなその声が、兵士達の痛みを包み込む。徐々に消えてゆく声と同時に、呻き声が聞こえなくなって、赤い染みが消えていく。そして気付いた時には鎧や巻かれた布に付いた血も、床に流れた血も、消えて無くなっていた。
兵士達が自分で体を起こし、すべて元通りになった時、レイカの持つ石が音を立てずに砕け散った。
青い粒に分かれた石が、さらに細かい粉になって、最後には一瞬煌めいて消える。跡形もなく砕けた石は、彼女の手の中に何も残さなかった。
「ごめんなさい。私が守れなかったから……」
レイカの前に一人の人が現れる。疲れを帯びた瞳でそう言ったその人は、白い鎧を身につけたリサだった。
軽く動きやすそうな防具を着たリサは、今までに一度も見たことがない表情をしていた。少し前まで大きな切り傷を負った兵士を腕に抱いていた彼女は、僕に気付かずに王に話しかけた。
それを見ていたレイカはリサの前に跪き彼女の片手を両手で握った。
「リサは悪くない。私はあなた方に感謝しています」
「……レイカありがとう」
僕からレイカの顔は見えなかったけれど、リサが笑うのを見て僕はやっと息をすることができた。
「リサ達はもう休んでください。国境のことは私がなんとかします」
リサがはいと返事をして、手を離して立ち上がったレイカを見上げた。そして後ろにいた僕に気が付くと、あまり驚いていない様子で言った。
「レオ来てたの……?」
リサからは怒りは感じられない。ただ目の前のことを見ているという感じだった。
「レオのことは私に任せて今は休んで」
そう言いながらリサと僕の間に入ったレイカは、リサと他の兵士達を広間の外へと促した。僕はそのレイカの背中を見ながら、今この場で起きたことを反芻する。
人々を傷を癒す彼女の力。砕けてなくなった石。リサが守ろうとした物。なぜ僕はここに来たのだろう。僕はこれから何をすればいいのだろう。
堂々巡りの考えをやめて周囲を見渡す。三人だけになった広間でレイカが言った。
「エメルダ、レオを客室に案内して。私はすぐに戻ります」
そう言ったレイカはそのまま城の外へと走り去ってしまった。
「ではこちらへどうぞ」
僕はエメルダさんに案内され明るい廊下を歩く。城の入り口の暗い部屋にあった見慣れない扉から廊下は続いていた。僕は城に入って来た時にはその扉には気が付かなかった。やはりこの城にも何か魔法がかけられているのだろうか。
「エメルダさん、さっきの扉は最初からあそこにあったんですか」
僕が尋ねると彼は少しだけ考えてから答えた。
「この城には少し細工がしてあって、全部の扉や通路がいつでも見えるとは限らないよ。レオ君もあまりうろうろすると道に迷ってしまうかもしれない。でも困った時は呼んでくれたら助けに行くよ」
優しく穏やかに話すエメルダさんは僕を廊下の一番奥の部屋に連れて行った。
広くて温かいその部屋には泊まるのに必要な物が全て揃っていて、夕焼けが見える大きな窓が印象的だった。
今日はここに泊まっていくようにと言われて一人で部屋で過ごす。日が沈んで暗くなると、ポツポツと壁の燭台に明かりが灯った。部屋を照らすそれは炎ではなく、本来ならろうそくがあるはずの場所に直接点の光がくっついている。僕は眩しいくらいのその光を見たことがあった。少し色が違う気がするけれど、昔見たリサの光にそっくりだった。
僕はそのまま何もせずに部屋で過ごし、何かとエメルダさんが世話してくれてあくびが出る時間になった。開けたままのカーテンを見つめていると、静かな部屋にノックの音が響く。僕が返事をしてから扉を開けて入って来たのはリサだった。
僕と一瞬目が合って、部屋に入るのを少し躊躇したリサに声をかけた。
「大丈夫? ケガしているように見えたけど」
「私は大丈夫。それよりごはんはちゃんと食べた? 今日は眠れそう?」
「うん」
心配そうに僕に近付くリサはもういつもどうりになっていた。表情に疲れは無く、鎧ではなくエメルダさんと同じ白い正装姿だった。僕は立ち上がって彼女と視線の高さを合わせた。
「ここは不思議なところだね。全然知らなかった。それとユウはどこにいるか知ってる?」
僕がそう言うとリサは何かを決断したかのように話し始めた。
「明日、もしかしたらとても辛いことがあるかもしれない。でも何があっても私はレオの味方だからね」
リサは「大丈夫」と言いながら僕を抱きしめた。
リサが何を恐れているのかはわからないけれど、僕も彼女の背を抱きしめ返した。
「ユウには必ず会えるよ。あとレオ、そろそろ寝るかと思って明かりを消しに来たんだけど」
「やっぱりあの光はリサだったんだ。これがリサの仕事なの?」
僕から離れたリサは燭台の下に向かい、後ろを向いたまま僕の質問に答えた。
「これは仕事の一部。他の仕事はまた今度教えてあげる」
言い終わってからリサは燭台に手をかざし、横に動かした。それだけで燭台で輝いていた光は消え、その代わりに彼女の髪に留められた石が一回光った。整った形の濃い青色をした髪飾りは見慣れないもので、僕はリサがいつものペンダントをしていないことに気が付いた。次の燭台に向かって振り返った彼女の首元を見ても、やはりあの透明な青い石は見当たらなかった。
大きな水滴のような形をした石は、どんな色でも吸い込んで映してしまいそうだけど、本当は僅かな濁りでさえも決して映さない。揺らがない薄い青を湛えるそのペンダントをリサはとても大切にしていた。僕たちといるときは常に身につけていて、寝る前に布で磨くのを知っている。大切な人に貰ったというあのペンダントも、やはりレイカがこの城の巨石から創ったものなのだろうか。この国の王、レイカは王冠も装飾品も持たず、ただ少し上質な衣服を着ているだけの、ただの人に見えた。
部屋の明かりを全て消し終わったリサは、最後に一本だけあったろうそくにマッチで火を点け寝台の横の棚に置いた。
「おやみなさい。また明日」
そう言い残して去ったリサに、僕はまた何も言えなかった。いや、僕は一体何を聞こうとしたのだろう。この不思議な場所でこれから起こることは誰かを幸せにするのだろうか。
僕は丸くて狭い世界を作っていた炎を吹き消した。分厚い布で遮られていない窓からも暗い世界が見える光の弱い夜。こんな世界に一人で起きているのは、みんなに仲間はずれにされているような、そんな感覚がした。
僕は布団を出て窓から地面を眺めた。案外高い位置にあるこの部屋からは城の裏側の方角がよく見渡せた。一番向こうに国境があるという平地が見えて、そこから城までの間はまばらな森が続いている。その森の中に、湖があるのが見えた。
湖のほとり、森が開いた場所に丸く石が敷き詰められていて、そこに一人の人が歩いてゆく。闇に紛れたその人は暗くてよく見えないけれど、腰まである長い髪をしているのがわかった。
その人物が石の円の中心に立った時、白い光が水路を流れるように走り、バラバラだった石が一つの石板に繋がった。控えめに光るその線は、何かの模様を描いて中央に立つ人の足元を照らす。強弱をつけて波打つ紋様は、規則正しい心臓の鼓動のようだった。
「レオ、わたしを見て」
艶やかな声に、すらりと細い影。冷たい気配に僕は振り返るまで気が付かなかった。
「サラ……? え? うわっ!」
黒い人影が勢いよく近づいてきて、僕は驚いて寝台の上に尻餅をついた。サラの長い髪が肩から垂れて僕の胸に触れる。ふわりと何かいい香りがした。
「竜の話は聞いた?」
徐々に暗がりに慣れてきた目がサラを写す。鼻が触れそうな距離で囁いたサラは小さく首を傾けた。
「竜って、王と契約をしたとかいう?」
「そう」
僕の問いに短く答えたサラは、僕の肩から下の腕に黙って手を這わす。僕の目をまっすぐ見つめた彼女の表情はまだ見えない。触れられる感覚は慣れなくて居心地が悪い気がするけれど、僕は彼女の手を振り払うことはできなかった。
「君は何を望んでいるの? こんなところに忍び込んだりして」
サラの手が止まる。僕から離れた彼女は身体を震わせて言い放った。
「……忍び込む? そうか。あなたはここの人たちに歓迎されたんでしょうね。だってあなたは……」
途中で言葉を詰まらせたサラは僕から視線をそらす。そして一度息を飲んでから言った。
「あの王は、竜を消そうとしているの」
「消す……? それは悪いことなのか?」
「……悪いことなのかどうかは、わたしにはわからない。でもあなたはわたしに協力してくれると言った。王を説得して、竜がいなくなるのを止めて欲しい」
「……それは、誰のために?」
「っ、そんなの……!」
僕はどうしてサラにそんなことを言ったのだろう。彼女が苦しむのはわかっている。それでもサラの気分を害してしまったのは、彼女が僕に何かを隠していることを隠しもしないで、何か、誰かのために生きているように見えたからだ。
まだ震えている彼女の感情が怒りなのか悲しみなのか、僕にはわからなかった。
「……あなたは、気持ち悪いと思わないの? こんな不平等な力……。ここの人たちも、お父さんも、お母さんも、みんな力に取り憑かれているの」
弱々しい声でそう言った彼女は、片手で前髪を一筋よけて下を向く。
父と母。おかあさんとおとうさん。
昔読んだいくつもの絵本に登場する同じ名前の女の人と男の人。実際にそれが名前ではなく役割だと気付いたのはいつだっただろう。人間は誰しも父親と母親がいて、その二人に育てられるのだと、その二人がいなければ自分は存在しないのだと、教えられたのはいつだっただろう。
「レオはお母さんに会いたい?」
リサがそう言ったのはユウがマリーと出かけている時だった。僕にも「その人」がいるのだろうか。いるのだとしたら、「会いたい」のだろうか。
リサもマリーも自分が母親だとは言わなかったし、ユウの前でその話もしなかった。僕はユウが家に来た時のことを覚えているし、今思えばユウは母親と父親、その人たちのことを覚えているのだろう。何も知らない僕をからかったこともある。
今目の前で僕に何かを言おうとしているサラの両親はどんな人なのだろう。サラはその人たちのことを好きじゃないのだろうか。
何も聞こえない夜の中、微かに涙の香りがした。
「わたしたちの一族は代々、竜と近いところに住んでいて、竜はわたしたちを守り、またわたしたちも竜を守っていた。竜はわたしたちに特別な力は与えなかった。でもあるとき偉大な竜は、この国に生きる人たちに等しく力を与えようとした。実際には全ての人間が力を宿すわけじゃないけど、竜は力をあの石に込めて、静かな所で眠りについた。まるで竜の存在を、なかったことにするかのように。わたしには竜がどうしたいのかはわからない。あの存在に意思があるのかも、もうわからない」
「あなたは、」と言って合わせた視線をまた逸らしたサラが続ける。
「レオも、王の石は使うと砕けるのを見たでしょう? でもね、今はもういない前の王の石は、使っても砕けないの。なぜかはわからないけれど、王が死ぬことで、無限の力は生まれる。その力を集めているのが誰なのかわかる?」
無限の力、王の死、竜のこと。そのどれもが僕には縁遠いもので、彼女が言っていることに現実味を感じない。でもこの世界には確かにその力が存在しているのだから、サラの言っていることは正しいのだろう。それじゃあ、悪いのは誰?
「竜が本当に消えてしまったら、竜の力は誰にも使えなくなる。力をもって権力を手に入れたい、誰にも迫害されず生きていきたい、他の国の力から誰かを守りたい。それがわたしの一族の願い。みんなが望む理想。だからレオにはわたしのために協力してほしい」
「君のために……?」
「そう。見返りがいるならわたしが何でもしてあげる。……そうだ、レオは嫌いな人はいる? いるならわたしが殺してあげようか」
サラの瞳が怪しく光り、口元が歪められる。
僕が固まっていると、彼女は壊れた操り人形のように笑う。
「ふふふっ、はははっ、はあ、おもしろ……」
束ねた髪を振り乱す少女は、僕の髪と頰を撫でる。
「あなたはわたしのこと、何も知らなくていいの。この先もずっと」
首筋に冷たい物が触れる。金属よりも、彼女の指先が赤く輝くのを僕は見た。
「おやすみなさい。またいつか」
♦︎♦︎♦︎
太古の昔から、音には力があった。声に気持ちを乗せ、言葉に想いを込める。誰かに伝わるようにと願い、消えていく音は記憶の奥底に刻まれる。
私の声は、空間に存在する全てのものを支配する。物も、植物も、風も雨も、人間も、人の意思、記憶でさえも。
もしあの時、彼の手を取らなかったら。
自由に恋ができたなら。
私が歌を歌わなければ。
あの子の人生は変わっていただろうか。
王権、血族、伝統。それらに何の意味があるのだろう。
それでも私は、あなたと一緒にいることができなかった。
暖かい部屋に、優しいハミングの声。
生まれて間もない赤子を抱く優しい母に、なりたかった。生まれた命も、この国も、全て守れるような強い人に。
だから私は、王であり、王として、契約を果たす。
夜の中に溶け込む、少し温かい白い光が私を包んで、異質なものが混ざる感覚がする。静かな暗い夜に、二つの鼓動が重なった。
本当にいいのですか。
投げかけられた言葉に、はいと返事をする。私は湧き上がる力の強さを感じていた。
では、契約どうりに。
儀式は明日の夜、月のない夜に。竜は言い残し私の中に沈む。弱い光が完全に消えて、暗い夜が戻る。私の意識も浮上した。
「なんであなたがおばあちゃんと一緒にいるの?」
背後から聞こえた声に振り向く。そこに立っているのは私の大切な人。自分と似た母親譲りの髪が風に揺れる。はっきりと強い視線は困惑の色をしていた。
「おばあちゃんは、後で来てくれるって、言っていたのに。なんで私に一番に会いに来てくれないの」
この国では珍しいこの髪の色は、あの人も好きだと言ってくれていた。ああ、泣かないで、私の愛しい妹。胸の痛みが私にまで伝わって来て、思考がめちゃくちゃになる。
「リリ、ごめんね。私はあなたにひどいことばかり。それでもあなたは、私の大切な妹だから」
なんとか口に出した言葉も、なんだか嫌味に聞こえてきて、私は後悔する。そう、私は王に相応しい人間なんかじゃない。でもあの時決めたことを守るには、これしかなかった。私は、あなたのために。その一心で。
リリが抱きついてくる刺激がする。竜の心が震えて私を覆い隠す。音と視界が遠くなって、私は暗闇の中に空いた穴から二人を見ていた。今だけは、二人の時間。彼女は、納得してくれるだろうか。
リリは私に抱きつきながら何度も頷いて、肩を震わせている。リリへの竜の言葉は私には聞こえない。私は、リリに嫌われてもいい。でもあなたは、おばあちゃんのことを信じていて。そう願った私は、身勝手なのだろうか。
♦︎♦︎♦︎
窓から差し込む強い光で目が覚めた。
ぼーっとした頭で昨夜のことを考える。
たしか、サラに会って……。そうだ。サラに頼まれたんだ。王を止めてほしいと。
レオは開けたままになっているカーテンを見て起き上がった。昨日布団をかぶった覚えはないから、サラがかけてくれたのだろう。そういう優しさは、彼女と一緒にいるといつも感じることができた。
寝台から降りて顔を洗い、着替えて身支度を整える。レオは朝食の時間も待たずに扉に向かった。少し胸が高鳴って、気持ちがはやぐ。今日は特別な日になるという予感があった。
次の瞬間、扉を押し開けて見えた人物に僕は無意識に飛びついていた。
腕の中に捕まえた人物は、昨日見失ってしまったユウで、一瞬固まったユウは暴れて僕から離れると後ろに下がった。
「なんだよ。びっくりした……。おはよう」
呆れた顔のユウはいつも通り朝の挨拶をする。それにまたいつも通り答えながら、ユウと城の中を見比べる。
「あれ、聞きたいこといっぱいあったのに」
「なんかわかんないけどゆっくり聞くよ」
いつもよりユウが優しい気がする。そのままスタスタ歩いて行ってしまうユウに僕はついて行った。
♦︎♦︎♦︎
レオを迎えに行く。これはもう決めたことだ。会って、話をして、覚悟を決めないと。俺は少しだけ憂鬱になりながら、聞かされた部屋の前で待つ。自分から扉を開ける勇気は俺にはなかった。
時間は急に動き出して、触れられた所から情報が流れてくる。あまりに突然のことでくらりと目眩がした。いきなり飛び出してくるなんて知らなかった。知らなかったこと、知ったこと、レオの気持ち。いろんなものが一気に溢れて余計なことを言いそうになった。危ない。もう少しなんだから、頑張らないと。
「あの時、昨日はすぐ見失ったから、ちゃんといるのか確かめようと思って」
俺の後ろについてきながらレオはそんなことを言った。
昨日? 昨日何かあっただろうか。俺は何もしてないから、誰かが見せた幻か。それとも、レオがちょっとおかしいのか。
昔からレオはかなり抜けてるところがあって、今でもあまり理解できないことがある。特に過去や未来の事実と違って、人の気持ちはよくわからなかった。
俺は未来や過去を見る。触れると頭に流れてくるもの、意識せずとも見せられるもの。その違いはよくわからないが、レオのことをあまり知ろうとは思わなかった。他の物や人みたいに、知って後悔することも、悲しんだりすることもなく、普通に、ただの友人として、兄弟として過ごしていたかった。これはリサの家に来た時に俺が勝手に決めたルールで、正常に働いた自己防衛だ。
「レオに見せたい場所があるんだ」
やはり余計なことを考えていたら目的地に到着した。歩いている間、俺は一度もレオを振り返らなかった。もっと目を見て話せばいいのに。この間まではできていただろう。
「おおー、すごいな」
こんなとこあったんだ、と言ったレオはあちこちを見回している。ここはこの城の裏庭。たくさんの植物が植えられた場所。
「エメルダのおっさんが育ててるらしいんだ」
「ユウ、やっぱりこの城のこともいろいろ知ってんだ」
レオの顔をろくに見ないまま、花で作られたアーチを潜る。淡い色の花と葉で彩られたそこは、丁寧に手入れされた静かな庭だった。
強くなった朝の光が射す白いベンチに座る。レオも黙って隣に座った。この場所からは、狭い庭全体がよく見通せた。
「ユウはいつここに来たの?」
「レオが来るちょっと前」
「なんのために?」
「それはレオこそなんのためにだよ」
話がなかなか進まない。なぜだろう。俺は急に知りたくなった。何も考えずにレオの手の甲に左手を重ねる。
そうか。色々あったんだな。
「レオが言ったんだ。こうやっとけばここにちゃんといるってわかるだろ」
「うん」
重ねた手を離さずに、話を続ける。俺が今何を知ったところで、何をしても言っても、未来は変わらない。それでも俺はただ前を見ながら、レオの話を聞いた。
♦︎♦︎♦︎
サラのこと。夢のあの人のこと。王のこと。一通り話して、僕はこちらを向いたユウの目を見た。右手が温かい。
「ユウは竜のことどう思う? 僕はどうしたらいいと思う?」
「……うーん。どうだろう。とりあえず俺も一緒に王に会いに行くよ」
わからない。理解できない。届かない。虚しさを埋める言葉。自分に欠けた感情も感覚も、今を感じる時間も、ぷつりと終わりを告げる。
「じゃあそろそろ行くか」
「行くってどこに?」
「そりゃあ会いに行くんだよ。……いや、世界を救いに、かな」
ユウはそう言って立ち上がる。離れた温もりが、もう消えた。
「何言って……」
白いベンチから立ち上がる。
振り返ったユウは、暗闇の中にいた。
どっぷりと太陽が沈んだ空。
夕方の気配もどこにもない。
鳥の声も、空腹感もいつの間にかなくなっていた。
「大丈夫。ほんとにあともう少しだから」
真剣な目をしたユウは、僕に手を差し出す。
「わからないのは悪いことじゃない。レオはそのままでいいんだ。変わっても、変わらなくても、どうせ運命は変わらない」
空気が急に冷たくなって、身震いをした。
この手を取れない。一体ユウは何を見ているんだ。
「一緒に来てほしい。俺は、レオのことは何でもわかるよ」
薄く微笑むその顔は、初めて見た。
「……わかった」
ユウの手をすり抜けて足を踏み出す。何かに導かれるように歩き出した。
♦︎♦︎♦︎
恋をした。
それは、言葉通り私の心を奪った。
「そんな不気味な国は出て、私の王妃になってくれないか」
どうしようもなく惹かれる心に彼の言葉が引っかかる。
私は言い出せなかった。大好きな歌も、大切な人たちのことも、話せないのなら。捨てなければいけないのなら。この力を、捨てることができないのなら。
私は私のために、歌を歌った。
彼から私を奪い、記憶も思い出も、想いも全て消し去って。
私が覚えている。彼への想いも、向けられた気持ちも、この子のことも。私はそちらには行けない。
私はこの力と、この国で生きる。
寂しさと怒りを失った私は、弱かった。
たくさんの人に頼ったことも、リサに泣きついたことも。後悔はしない。もう心は戻ってこない。
ある日、王が死んだ。
長い間国を守った赤の王は、竜と共に生き、生かされ、眠りについた。
残された力は、竜を守る一族に譲られた。
母と私は、驚愕することしかできなかった。
恐ろしかった。次の王になるのは、幼い妹だと告げられた時には。
まだ歩けもしない妹に、竜は今すぐ王になれと言った。この国を守り、この国のために生きろ。そう告げた竜は妹を渡すように言う。
私が代わりに。
私が代わりになることができたら、妹はそんな役目に縛られなくて済むだろうか。
私の歌の力は、今まで会ったどんな人より強いことを、私はわかっていた。
何か、自分の役割を探していたのかもしれない。
己の子すら育てられない私に、一体何ができるというのだろう。
竜は言う。
あなたはもともと王になるはずではない。
無理に力を得れば、どうなるかはわからないと。
それでも偉大な竜は、私に力を与えた。
生かしてくれた。生きる目的をくれた。
どうしようもない自分に、役割ができた。
私が王となり、妹を守る代わりに、竜の望みのために力を貸す。それが私たちが交わした契約だった。
リサに、大切なことを頼んだ。
快く任されてくれた彼女に、とても感謝している。私は昔からリサに頼ってばかりだ。苦しい時も、いつもそばにいてくれた。どんなことでもそつなくこなす彼女に、ずっと憧れていた。私はどうしてあなたみたいになれないのだろう。私は、誠実でまっすぐなあなたのことを、本当に誇りに思う。
♦︎♦︎♦︎
静かな夜だ。風は吹いていないけど、昼間の暖かさはもう残っていない。僕はそんなに長い時間、あの庭にいたのだろうか。後ろから足音が聞こえる。僕の後に続くのは、いつも通りのユウの足音だ。一定の距離を取りながら歩く彼は、怒っているのだろうか。そんなことも、もうわからない。
月さえ出ていない、暗い夜。曲がり角の城の陰に、人影を見つける。
「サラ……?」
姿を現した彼女は、複雑そうな、真剣な顔をしていた。僕の後ろを見て、呟いた。
「レオ、わたしと一緒に来て欲しい。時間がないの」
「うん、行くよ。でもユウも一緒に……」
黒い影が僕の前に出る。ユウは僕を後ろに下がらせて言った。
「あんたは、そうやってレオをそそのかして、欲しい情報は手に入れられたのか」
サラの顔がさらに曇る。城から漏れ出る光に照らされた彼女は、不機嫌な幼い少女のようだった。
「あなたこそ、レオに変なことを言うのはやめて。あなたはこのことには関係ない」
ユウのことを強く睨みつけて、サラは後ろに手をやる。それと同時に冷たい赤が光った。
「消えたいと願うことが、そんなに悪いことなのか」
構えた短剣が地面に落ちる。
サラの肩に手を置いたユウが何か悲しいものを見るかのような声で囁いた。
「あんたは、誰のために生きている?」
「わたしは、ただ、みんなのために……」
サラは恐ろしげに震えていた。膝から崩れて座り込む。肩が大きく上下して、音も無く息を吸う。
「だって、そうしないと、誰もわたしを認めてくれなかった!!どんなに上手く踊れたって、歌えたって、嘘がつけたって、みんなの役に立たなきゃ、わたしはあそこにいちゃいけなかった!こんなこともう終わらせたい。だけど、わたしにはそれができない」
彼女は短剣を握り直すこともせず、地面に手をついたまま、動かなかった。
「レオ。レオはこの国がどうやって成り立っているか知っているか 」
「成り立つ……?そんなの先生に習った通りだろ」
「それが違うとしたら、レオはどうする」
ユウが振り向いて、僕に問う。
どういうことだろう。先生が僕に嘘をついていたっていうんだろうか。それとも、僕の知らない何かが、まだあるということだろうか。
「俺たちからしたら遠い昔、この世界には人よりもっと賢くて力のある存在がいた」
ユウが物語のように話し続ける。視線は足元に向けられていた。
「竜は、この小さな国を、力の無い国を、守ろうとした。大いなる竜だ。人々に力を与え、この土地で生まれる者を守った。人々を想い、想われる。そんな簡単な関係が、ずっと続いて、やがて他国の竜が全て滅んでしまった時、気付いたんだ。この国の竜は、 自ら滅びることができなくなっていた」
なんでユウがそんなことを知っているのだろう。知りたくてたまらない。しかし僕が口を開く前に、ユウは続けた。
「政治も法律も、兵器さえ持たないこの国がどうやって成り立っていると思う? それは優しさだ。人の善意だけで、この国は成り立っている」
知っていた。人が人を治める世界のことを。他の国から入ってくる本にも、先生の話の中にも、それは登場していた。人がルールを作り、より良くなるように努める世界。
この国の権力者は王だ。他国との貿易も、王が話をつけているのだと習った。
「この国は、竜の力に頼り科学の発展を捨てた。関係が穏和なのも、他国が竜の力を恐れているからだ。でもそんな恐れ、いつまでも続かない。発展しないこの国では、科学の力に抗うことはできない。竜が消えたらどうなる? この国は、この土地と力は、きっと誰かに奪われてしまうだろう」
「だから……、わたしたちが、この国の中の悪意を、王と、竜に逆らう者を、消してきたのに……っ! なんであなたは邪魔をするの!?」
顔を上げたサラが叫ぶ。悲痛な叫びは暗い夜に消えた。
「……だからだ。こんな国、俺が終わらせてやる。終わりはいつか来るんだ。それが明日だって、俺は構わない。消えたいと願った竜を、その話を聞いたのが、あの王じゃないのか」
「ちょっと待ってよ! なんでユウがそんなこと知って……っ」
振り返ったユウは、今までに見たことがないぐらい、この場にそぐわない笑顔でニッと笑った。
「レオ、今は不安かも知れないけれど、俺が絶対になんとかして見せるから」
ユウは言い終わると、サラに向き直る。
「ええと、サラさん? あんたはレオを連れて行けば王と竜を止められると思っているみたいだけどそんなことはない」
「え……?」
サラが髪を振り乱しながら顔を上げる。
「だって、レオはあの人の……っ!」
「血の繋がりが、なんだっていうんだ!!」
彼女が言い切る前に、ユウが声を上げた。なぜが僕の心臓の音が大きく聞こえる。
「そんな関係、知らなければなんの意味もないし、そばにいようが離れていようが、愛していようが愛してなかろうが、そんなものに囚われる必要なんてない!レオをそんなことに巻き込みたくない!!」
サラの瞼が閉じられて、下を向く。僕は、ユウの邪魔をしてはいけないような気がした。
「あんたを苦しめるような家族なんか愛さなくていい。捨ててもいい。俺の言うことは聞かなくていいけどレオを巻き込むのはやめろ」
見開かれた瞳から涙が溢れる。滝のような涙を流して、彼女は深い所に沈んでしまった。
数秒の合間もなく、透き通った音が頭を殴る。強い光が夜を照らして、キーンという音が響く。
傷付いているサラに声を掛けたい。手を貸したい。彼女を見ているととても胸が痛むのに、僕はこの音の主が気になって仕方がなかった。
その時、ユウに腕を取られた。
「ごめん」
一言だけ言って、終わりに近づく。前を向いたユウに引っ張られる。誰が悪かったのだろう。この世の悪は、本当に悪なんだろうか。
♦︎♦︎♦︎
まばゆい光。大きく伸びた光の羽。蝶のように浮かぶ青い人影は、目を瞑り歌っていた。
王の眼が開かれる。表情の無い微笑みで、彼女は笑った。
翼が大きく羽ばたいて、遠くなる。歌の終わり。ああ、間に合わなかった。なぜかそう思った。
最後の音が消えてしまうよりも先に、翼の端が光の粒に変わった。消えていくそれは、白い砂のようだった。地上に降り積もることのない砂は、風に吹かれてどこかに行ってしまう。
手を伸ばす。走って追いかける。心が叫ぶ。また、届かない。指の間をすり抜けた砂が風に舞う。
ぐらぐら。足が揺れる。地鳴りと共に溢れる光と音。爆発して、白く何もかもを消し去った。
風が吹いている。世界がまた白い光に包まれる。地平線の下から滲み出た暖かい光は、割れた石版を照らしていた。
「ユウ、レイカはもういないのかな」
「どうだろう。少なくとも、もう会うことはできないかもしれない」
どこか遠くを見つめるユウに僕は聞いた。これで、何が変わったのか。僕は今、何を思っているのだろう。
しばらく朝焼けを二人で見つめていると、後ろから声が掛かる。
「二人とも!!」
走って飛びついてきたのはリサだった。
本当に良かったと言いながら二人まとめて抱きしめられて肩が痛い。僕より先にユウが痛いと言うと、僕たちを放した彼女は肩を震わせた。
「帰ろう。腹減った」
「そうだ。もうずっと食べてないや。でもその前に眠い気がする」
なんだか酷く疲れた。家に帰って、早く休みたい。
じゃあ帰ろう。落ち着くや否や泣き出してしまったリサを慰めながら、僕たちは帰路に着いた。
♦︎♦︎♦︎
「おーいレオー、起きろよー」
1度目の声で目が覚める。
「おはよう」
体を起こし言うとユウは部屋に入ってきた。
「今日は夢見なかったんだな」
そうだ。夢のあの人、レイカはもう、変わってしまって、あの時の彼女に会うことは、多分できない。
翼を伸ばしたレイカは綺麗だった。その羽は、骨も肉もない漂う光で、人だとは思えなかった。でもあの人はどこまでも人なんだ。優しくて強い人。僕なんかと違って。
「今日はレオと一緒に行きたいところがあるんだ」
僕は朝食のパンの上に乗った焦げたハムから視線を上げる。ユウがそんなことを言うのは珍しいなと思った。いつもどこかに行きたいと言うのは僕の方で、渋々着いてきてくれるのは大抵ユウの方なのに。
リサも同じ食卓を囲みながら珍しそうにしていた。
「うん。どこ行くの?」
「秘密」
ユウが悪い顔で笑いながら食事をしている。僕はこの光景にすごく安心して、昨日までのことなんかほとんど忘れかけていた。
食事が終わり、リサが片付けはやっておくと言うので、二人で家を出た。そういえば、今日は先生は来ないのだろうか。リサも仕事はないのかな。
二人で市場を眺めながら進む。歩いて歩いて、建物がまばらになった頃。
「レオは、この国が好きか?」
風が、吹いている。さわさわと草を揺らして草原を駆け抜ける。緑の森が揺れていた。
「え? ……うん。だってここにはレオもリサもいるし、明るくて優しくていいところだと思うけど」
「……そっか」
そう言ったユウが目を逸らす。
「あっ、ユウ。ここの草むらはなんかおかしいんだ。変な奴も出るし、近づかない方がいいよ」
「そうだな」
振り返ったユウは、少し怖い顔をしていた。
「レオは、なぜこの国が攻撃されるのかわかるか」
血を流す人々。誰かから向けられた敵意。暗い光景が目に浮かぶ。
なんなんだろう。さっきから質問ばかり。
「魔法の力と、あの竜が関係している……と思う」
「そうだ。人は己と違うものを恐れる。ましてや人智を超えた力なんて、認めようとしない。科学の力を振りかざして、支配しようとする。手に入れようとする。もうこんな世界、どうしたらいいんだろうな」
ユウの落ちた視線が再び上がる。
何か言わなくちゃ。ユウがどこかに行ってしまいそうな気がする。僕は必死で考えた。だけど何も思いつかない。
「だから、一緒に来てほしい。それだけでいい」
差し出された手を少しだけ迷って取った。ひんやり冷たい指が僕の手を巻き込む。
ユウが辛そうに笑って歩き出す。ぼくは手を引かれて歩く子供みたいに、ふらふらとついて行った。
♦︎♦︎♦︎
透き通った陽の中に、青く輝く白亜の城。何度目かに訪れるそこは、もうあれから何年も経ったかのような静けさだった。いや、元からここは静かな場所だけど、あの人がいない。ただそれだけのことで吹き抜ける風はなんだか冷たい。
開かれた扉にユウが進む。建物の中から溢れる光は、ずっと上に続いていた。
赤い絨毯を踏みしめる。足音が二つ、重なって頭に響いている。何もない空間は、匂いも音も存在すら曖昧になる。ふわふわした気持ちで、玉座を見つめた。座り心地は決して良くなさそうなその椅子は、もうただの岩のように、そこに落ちていた。
「レオ」
名前を呼ばれた。手招かれてまた扉を潜る。
開けた場所、透明な空間。なぜだか涙が出そうになる。透き通った涙の色。湖の色を映した水晶が僕を苛む。
どうして、僕はここに存在しているんだろう。
なぜここにユウと来てしまったんだろう。
命の尊さなんて、わからない。
振り返ったユウが微笑む。どこまでも今日はユウらしくなかった。
「ここ座れよ」
明るい光が当たる平たい岩。煉瓦でも城の壁でもない。都合の良い石に二人で腰掛ける。青い石を見上げて、ユウが口を開く。
「綺麗だよな」
意味のない言葉に耳を傾ける。嫌だ。これ以上、時が進んでほしくない。
沈黙が僕たちを引き裂いて、ここで終わってしまえばいいのに。暗くて低い所を漂う気持ちが、そう告げる。
ユウが、黙ったまま左手を持ち上げる。すると風が吹いて、白い頁がパラパラと捲れた。何もないところから現れた緑色の分厚い表紙。いや、もしかしたら触ると紙じゃないのかもしれない。本を見つめ目を細めたユウは、それを僕に差し出す。
「これを受け取ってほしい。後で読んで」
僕は受け取れなかった。強く首を振る。
「嫌だ。後でっていつのこと?」
これから起こることが良くないことなのだと、直感で理解した。僕は立ち上がって声を荒げる。違う。こんなことがしたいんじゃない。
「……わかってくれよ」
どこか遠い目をするユウは、今どこにいる? 僕から離れて行くユウを許せない。
「このままじゃ、この国はダメになる。竜の力と、記憶がこの土地にある限り、この国は普通にはなれない。外の世界のように、進歩していけない。ここで、終わらせないといけない」
ユウが何を言っているのか理解できなかった。
普通ってなんだ。そんなものにならなくてはいけないのか。この先ってなんだよ。そんな他人の未来なんて考えてどうする。
「俺にはそれができる」
立ち上がったユウは本を置いて一歩み出す。僕は咄嗟に手を掴んで引き止めた。
ユウがこっちを見ない。ピクリとも動かない。振り返ってくれると思ったのに。
「俺はこの国が嫌いだ。俺のことを捨てたあの人たちのことも」
恐る恐る手を離す。怖かった。ユウの気持ちを知るのが怖かった。「嫌い」、そう言い放たれた言葉が胸を刺す。
そのまま、ユウは行ってしまう。広間の中央、青い巨石に近づいて、手をかざす。
「だけど、レオがこの国を愛するというのなら、俺はこの国を守ろう」
青に触れる手。そこから瞬き一つで、石は黒色に染まった。
何色も映さず、染まらない、暖かい黒。
ユウの笑顔が見たいと思った。
風が吹いて、どこか遠くで鳥が鳴く。
僕を見つめたユウは、笑っていた。
「レオがいてくれてよかった」
目が熱い。ユウの顔がよく見えない。喉が詰まって、頭を何かに壊される。崩れ落ちても、この大きな気持ちから抜け出せない。強くて鮮烈な感情に飲み込まれた。
いやだ。いやだ。いやだ。
不快だ。体がおかしい。胸が苦しい。
こんな気持ちはいらないと思った。
だけど。
静かな城に、自分の嗚咽が聞こえる。
僕は何をしたかったんだろう。
何を望んでいるんだろう。
涙が止まっても、思い出せなかった。
♦︎♦︎♦︎
リサの光は消え、先生の風も吹かなくなった。
いつものように目覚め、考える。
ユウがいない。
白い広間に緑の本。それ以外には何もない。
君は石と共に忽然と見えなくなってしまった。
さっきまであった熱も消え失せて、空を切る。
誰もいない部屋。今まで使っていたのは誰だったか。
これが、君のいう運命なんだろうか。
この未来を、君は望んでいたの?
明るい声が階下から聞こえる。
リリはエメルダさんの所とこの家を行ったり来たりしていて、リサはまた国のために働いている。
リリは学校へ通い、リサは国の代表を決めこの国の決まりを作る。外の世界と同じように。
僕は変われなかった。どうすればいいかわからない。
これが君の望んだ「普通」
周りの世界と同じになること。
たとえ君がいない世界でも。
呼び鈴が鳴って外に出る。
訪ねてきた人の微笑みが僕を見た。
「久しぶり。元気だった?」
僕は適当に答えて扉を閉める。
よく晴れた暖かい日だ。
サラが金の輪を揺らす。見た目は何も変わらない、だけど。
「あたし、この国の外に行くことにしたんだ」
強い瞳。その色すら変わらない。
「もうあの村には帰らない。これからは歌も踊りも、自分と誰かのために知りたいと思ったから、いろいろ見て回ってくるね」
少し首を傾けた彼女が僕の手を握る。
「大丈夫。そんなにすぐには帰ってこないけど、生きてたらまた会えるよ。待っててくれる?」
生きてたらまた会える
そうだろうか。
「うん、わかった。待ってるよ」
サラが少し顔を引いて、意外そうな顔をする。
「なんかレオらしくないよ? あたしはいつものレオの方が好きだなあ」
「こういう時はこう言えって本に書いてあったから」
「ふーん……。でも似合ってないよ。まあいいや。じゃあまた、元気でね」
手を振って彼女が歩いて行く。それを見送っていると、一度だけ振り返って言った。
「本当は、待っていなくてもいいよ」
サラは優しい。優しいから、困らせてしまう。近くにいない方がいいんだろうか。また胸が虚しい。
「生きてたら、また会える」
死体も骨も、何も残さなかった君は、この手の中の言葉だけを残していなくなってしまった。君は本当にもう生きてはいないのだろうか。それを確かめる術は。
一編の本に記された言葉は聞いたこともない言葉で、だけど紛れもなく君の想いだった。
「恋しい」とは、「会いたい」と思うことだろうか。
それとも、「そばにいたい」と願うことだろうか。
それなら僕は、君に会いたいと思わない僕は、一体何なのだろう。
君に会わなければ、もう君を怒らせることも、不機嫌にさせることもない。
言いたい言葉も、聞きたいこともあるはずなのに、それは失われてしまった。
あの時、 溢れる光の中で。
君があまりにも満足そうに笑うから、僕は君の人生に、勝手に満足してしまったんだ。
恐ろしい。自分の感情が恐ろしかった。
こんなことを勝手に思ってしまう僕を、君は許してくれるだろうか。
許されようだなんておこがましい。君がいなくたって僕は。
それを確かめるために外に出た。
扉を開けて遠くへ向かう。
何もかもを捨てても構わない。
失ったものを探すのではなく、見に行きたい。
見つからなくてもいい答えを探しに。
♦︎♦︎♦︎
今からそう遠くない昔。
二人の王がいた。
一人は国を変え、一人は国を守った。
人々の記憶からも忘れ去られたそれは、誰かが記すことで残される。
僕は白い頁を捲った。
青の国で