迷い家

「うちのお父さん、昔からああなの。なにかって言ったら人のことをあげつらって。でも悪い人じゃないの、本当よ。厳しいこと言うのだってその人のことを認めてるからで。だから、また来なさい、なんて言ってたでしょ」
 フォローと呼ぶには拙い月並みな台詞が聡美のおちゃらかす声で聞こえてくる。そのお蔭で現在に意識を戻すことができた。当然、俺の親父の姿はそこにない。馴染みのない家が並ぶ住宅街に五人家族の住む家が一軒、その目の前に去年買ったばかりの車の傍らで今日の別れを惜しもうとする、にやけている女が一人。
「なにが嬉しいんだよ」
 気に喰わねえ。負け戦をにやけ面で迎える恋人がどこにいるんだ。
「まだ負けじゃないわ」
「負けだよ。大敗だ。義兄さんにまで助け船を出されたのにこの体たらくだ。これで負けを認めなきゃただの阿呆じゃねえか」
 胸ポケットから煙草を取り出そうとして持っていなかったことを思い出す。聡美の親父さんは吸わない人なので、訪問前に煙草は捨てて来ていた。今ではこれすらも敗因ではなかったのかと思える。体裁を整えることに気を取られすぎたが為にあれほど冷静さを欠いてしまったのではないか。もっと気の利いた返答が出来ていたら帰路に着こうとする俺は鼻歌でも口ずさんでいたのかもしれないのだ。それが今はなんだ、頭を掻いて、溜め息を吐いて、舌打ちして、仕舞いには恋人に笑い者にされる。こんなにカッコワリィ奴がどこにいる。無力感と呼んでもまだ生易しい、男としての価値の無さを断じられているような気分だった。
「こんなこと義姉さんの前じゃ言えないけど、兄さんの助け船だなんて最初から底が割れてるわよ」
「泥舟だろうが木片だろうが背を押してもらった以上、申し訳が立たないんだよ」
「ああ、そうか。私にはお父さんだけの話なんだけど、あなたには違うわけね」
 一転、にやけ面を押し潰すように綻んだ顔が聡美を彩った。悔しいことにその解釈は間違っていない。親父さんだけではないのだ。母だって、兄だって聡美と暮らした時間が俺よりも遥かに長いのだから敬意を込めた挨拶をするのは当然のことだった。歳月というものはそれほどに重い。しかし、それでも喉元までせり上がってきた憎まれ口を大きめの溜め息でねじ伏せた。
「次は、上手くやる」
 ガキみたいに舞い上がって失敗しちまった野郎に言い聞かせる。返事の代わりに、車のヘッドライトを点灯させた。
「上手く、ねえ。お父さんに気に入られでもする?」
 立派に上手い手段じゃないか。どうしてお前はそんなつまらなさそうな顔してんだ。
「まあいいわ。ここからはあなたに任せるって決めてたから」
 聡美の手が窓越しに俺の頬を撫でる。すらりとした指は、そのまま俺の首にまで侵食してきた。求めようとも絡めとろうともしない、ただ愛でるだけの触れ合い。聡美のその手はいつも俺をひどく悶えさせる。それは俺の方から求めさせようとする彼女の愛し方だった。だが、今の俺には聡美を掻き抱くだけの劣情を催す余裕はない。そんなことは俺よりも、彼女の方がわかっているはずだった。あるいは承知の上でやっているのか。
「私を連れ出してね。待ってるから」
 唇を寄せてきた聡美が、甘い匂いを残して車から離れていく。彼女と同じ家に帰るようになる為にはまだ勝ちが足りない。最後の最後にどでかい相手が待っている。俺は為す術をなにひとつ持たなかった。仮に俺に今も親父が居たとしたなら、もう少しはやり合えたのだろうか。対抗するための手段を考えるには二十年前の記憶はあまりに薄すぎた。

 珍しく母が家にいた。顔を合わせるのはどれぐらい振りになるだろうか。もう数年前から歳を食っていないように思える女性が、連日の仕事で疲れているだろうにくたびれた様子もなく背に定規を入れていてもおかしくないほどの姿勢で食事していた。倍というのはなにも年齢に止まらず、仕事量でもそうだろうに。背中を丸めた姿を誰にも見せたりしないのだ、この人は。
「事務所を家にしたんじゃなかったのか」
「それでもここはあたしと和俊の家よ」
 二十年前の記憶、それは物心ついていたとは言えない程度にあやふやだが、彼女の配偶者がそんな名前だったことぐらいは今の俺にでもわかる。彼女がその名前を何度も口にしているから。
 夕食は俺の分まで用意されているようだった。テーブルにひっくり返して置かれていた食器を手に取り、礼を告げる。母は頷くだけだった。俺と母はその性質の多くを同じくしていた。互いに沈黙を好むものだから、食事中などは無言で過ごすことが多い。暗黙の了解でもあるその沈黙を今日破ることになったのは俺だった。
「聡美、いるだろ」
「ええ。あんたにはもったいないぐらい良い子のね」
 咎めるわけでもなく、料理を口に運びながら応えてくる。母はなにより聡美の気性を気に入っていた。
「誰を連れてきてもそう言うんだろ」
「男の子を連れてきたなら言わないかもしれないわ」
「連れてきてほしいのか?」
「連れて来たいなら構わないけど」
「やめておこう。あんたの」
 思わず口をついてでた呼称を、一息ついて言い直す。
「母さんが気に入るような男の知り合いがいないからな」
 短く相槌を打つと食事から手を放し、俺の目を見る。鋭い眼光に射抜かれて目を背けてしまう。この目に耐えられる男がかつて居たということが信じられない、それほど威圧感を持っていた。聡美の親父さんを前にしてもこうはならない。母の目は昔から俺を竦ませてはそれをどこか愉しむ風情を漂わせていた。
「決めたの?」
 即答できるはずの問い。聡美との仲や今後の生活など具体的なことについて問うているわけではなく、俺がもつ覚悟を確かめているだけなのだから。二人だけの生活の中で、幾度も母はこの問いを投げかけてきた。そしてその即答できるはずの問いに俺はただの一度も即答できた例がなかった。
 聡美の家族へ正式な挨拶に行った。襟を正し、夢を宿し。求めることはひとつ、聡美をください、と。こう言われたらこう答えよう、そんなパターンをいくつも考えていたはずの頭は、現実を前にして疑いようのない役立たず振りを見せた。準備の為の時間はあった、答える為の言葉はあった。なにが足りなかったのか、今まさにそれを問われていた。
「そう。またなのね」
 どうして責めない、呆れない。情けない野郎だと思ってるんだろう。あんたの和俊とは大違いだと。
 甘えたガキは熱水でも冷水でもないただの水をぶっ掛けられていったい何度そう言い返そうとしたか。無いはずの影を追いながら、どこまで自分をそうやって罵ったか。
 ああ情けない野郎だ。親父とは大違いだな。うるせえよ居もしない奴と比べんな。居ないはずがねえだろお前だってそれを知ってるはずだ。
 否応もなしに視界に捉えられたテーブルの端に置かれている安っぽい袋。中を見なくても、それがなんであるか知っていた。
「団子、買ってきたのか」
 すでに食事に意識を戻していた母が面倒そうに答える。
「そんな気分だったのよ」
 俺がもっとも嫌うあんこの串団子。みたらし団子やよもぎ団子もあるだろうに、どうしてわざわざこんなものを買ってくるのか。甘いものをさほど好むでもない母が。簡単なことだった。母は和俊をそのまま真似ているだけなのだ。来る日も来るも土産にあんこの串団子を買ってきて俺に嫌わせるほど食わせた親父を。二十年前と今では、その頻度がまったく違うが。
「なあ、親父はどんな奴だった?」
「アホだった」
 俺が生まれてこの方一度もしたことのない質問に母は即答した。中断されることなく食事が進む。こめかみを押さえたくなりながら、俺はもう一度尋ねた。
「他には?」
「手のつけようがないアホだったわ」
 修飾しただけじゃねえか。どんだけ阿呆なんだよ。他に言うべきことはないのかって言ったんだよ。
「良い男だったけどね」
 そんなことはとっくに知ってる。そうでなきゃあんたは俺なんかとの二人だけの生活でそんなに楽しそうなわけがないんだよ。



 これが夢でなければ良い、始まった瞬間そう思った。またかとも思った。とっとと消えろとも思った。
 夜になっていたかもしれない。あるいは雀色時と言えるかもしれない。確かめることはできない。ここには外も時計もなかった。
 帰ったぞ。
 声のない声が聞こえる。声など覚えていないに違いなかった。それでも待ち望んだものに喜び勇んで子供がひとり玄関に向かう。
 なんだよお前なんか呼んでねえんだよ沙貴ちゃんを出せ。
 まだ帰ってねえし。ヒマだから遊んでよ。
 お前バカだろヒマなら回りゃあいいんだよ。ほら見ろうおぉい気持ちわりぃなこれ。
 アホだ。
 お前に言われたくねえよお前掛け算もできないんだろ。
 できるに決まってんだろ昨日習ったんだよ。宿題もやったぜほら。
 俺に見せてどうすんだよって国語の宿題かよ算数関係ねえだろ。しかも難しいなこれ。
 ただの新聞だろ。
 バカお前そんなこと見たらわかるんだよわざわざ乗ってやっただけなんだよ。
 なんだよそれ買ってきたのか。
 これは沙貴への貢物だったんだがいないなら仕方ねえお前にも分けてやる。
 ふうんああおいしいなこれ。
 よし男はあんこを食ってなんぼだ。
 あんこってなに。
 そりゃお前とにかく甘いし頭文字を下手にいじったら危険なやつだよ。
 これ好きだな。
 そうか。そりゃ良かったな。
 次の日もそのまた次の日も待ち望んだものには小さな袋がついてきた。なにも考えずに好きだと言った子供の所為なのかどうかは未だにわからない。わかりたくもない。こんなもの覚えていたくもない。



 辞表を机に叩きつけてやりたいと思う回数が気がつけば週一から月一になっていた。今月に入ってはまだ一度もない。勤め始めてどれぐらい経つのか、ふいにそんな疑問が浮かんだが即座に面倒になって考えるのをやめた。今となってはこの仕事を辞めたときの姿が想像できないのだから何年間勤めるんだとか関係ない。定年だって想像できないのだ。唯一想像できるのは、俺が自分の葬式で忌引きを出すことぐらいだった。無期限の休みだ。働きたくても俺の身体は動かない。たとえ動いたとして、そのときの俺の身体はもう人ではないのだから働けない。
 ハンッ下らねえこと考えてんなよこのバカ。まだ死ねねえよ。今死んじまったら一生聡美にバカにされ続けるんだ。この負け犬野郎おっ立てるのは白旗だけかそれでも男かよ。うるせえまだ終わってねえ若いんだ俺はまだ立つぞいくらでも。次があるんだ次勝てばいい。で次なんてもんはどこにあるんだ。
 もう、この新人がと言われることも今はない。俺が意見を出せば一考してもらえ、ときには反映されることもある。認められたということなのだと喜ぶばかりの時期も過ぎ、その意味と責任を実感できる程度には時間が過ぎた。もはや誰も俺のことを子供だと呼ばなくなっていた。
 外回りを終え、会社に戻る。上がり作業に入る前に休憩室で一息ついていると、いつだかの異動で別れた同僚が俺を見つけるなりまっすぐ寄ってきた。
「悪い、火ないか?」
 煙草を銜えて催促するそいつに、俺はライターを差し出した。
「さんきゅ。オイルが切れててさ、今日一日、火種がなくて困ったよ」
「先輩に火を借りるだけってのも気まずいしな」
「だよな。しかも」
 周囲を窺うように辺りにさっと目を走らせ、声を潜めて続ける。
「俺んとこの休憩室、女に占拠されてんだ」
「仕方ないだろ。気まずいなら別のところに行けばいい」
「そんなことじゃないんだ。どう思うよ、煙草を山ほど吹かす女の大群」
「生憎、煙草を吸う女と職場を同じくしたことがないもんでね。なんとも言えんな」
「そんなわけないだろうが。でもまあ、その返答は利口だな。参考にしよう」
 長めに息を吸い込むと、そいつは煙草を灰皿に押し付けた。
「どうだ、今日辺り久しぶりに飲みに行かないか」
 聡美との約束があるわけではなかったので誘いに応じた。酒でも入れば陰鬱な気分がかき消せるかもしれないという願望もあった。とにかく一瞬でも長く、影に追われない場所にいたかった。
 飲みすぎだと何度目かの諌言を受けて以降どうなったのかわからない。外で一人歩いているのだから会計は無事に済んだのだろう。他に憂うことはなかった。足をどちらから踏み出したのかということが酒に溶けた脳みそをよぎったとき俺は初めて酔っていることに気づいた。足を止める。揺れに揺れる前後不覚に陥っていた。壁に寄りかかり波が過ぎ去るのを待つ。過ぎるまでの時間が暇だった。暇なときはどうすれば良かったか。
 そうだ新聞を解きゃいい。違えよ貢物を用意すんだ。ああそうだった聡美に算数ドリルを解いてもらうのか。バカかお前こんなのも解けねえのかおお難しいなこれ。そりゃお前がなんにも決められねえからだ。なにをキメるんだよ未来か寝技かトリプルアクセルか。そん中でお前にできることがひとつでもあんのか。ねえよだからこうやって道端で回ってんじゃねえか。ぐるぐうおぇぇ。回れてねえじゃねえか。うるせえな見物はそんなに面白えかよお前もあんこの串団子を毎日買って来いよ。美味く思えるのは最初の十九回だけでそれからは味がねえんだよ。あんこの串団子じゃねえもうただの団子だ。二十歳過ぎればただの団子野郎だってのか俺の聡美は団子じゃねえ計算機だ。九九を暗算しやがる只者じゃねえぞ。一が五つで合計いくつだ一パックにいくつ入ってんだ。帰ったぞああ帰ってきたのかじゃあ行かなきゃな。解けもしない問題に構ってられねえ。でどこに帰るんだ。お前は。
 平穏の中に居た。山で迷っている。進む当ても持たず果てのないゆるやかな傾斜をひたすら歩いていく。どことも知れぬ場所から鳥の声が確かに聞こえる。知らない鳥。音のある夢の中に居る。歩き歩いて唐突に視界が開けば、荘厳な佇まいの黒い門がある。手をかけて押し込んで門を開く。抵抗がない。門の先、庭一面に赤と白の花が咲き乱れている。知らない花。庭の脇を抜けていくと玄関がある。知らない玄関。玄関に手をかけると後ろから声。知っている声。
 血が吹き出すかと思えるほど腸が一瞬で煮えかえった。下らない土産を持って帰るべき家があるはずなのだ。子供が待っている家があるはずなのだ。それがどうしてこんな見も知らない場所で回ってるのか。俺には一緒に回ることしかできなかった。先に音をあげる。回るのは重労働だった。声の主は止まった後に倒れこんだ。目を回したようだ。すっかり抜かれてしまった毒気を取り戻して詰め寄る。声の主は涼しい顔で激昂を受け流した。それが余計に癪に障ることを知っているのだろう。声の主はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「ここは俺の家だ。お前の家じゃねえよ」
 ごく普通の男だった。記憶に在るままの姿だった。具合を振り払うように呻き声をあげながら立ち上がって来る。
 真正面から見る限りではそう変わらない歳であることが窺えた。背だってさほど変わらない。理解に至る度、頭の隅に穴が開く音が聞こえる。これが夢であれば良いと思った。それが逃げ場のない逃げ場であることをわかっていながら。
 男は立ち尽くす俺の脇を抜け、玄関の前に立った。すれ違う前に無意識が捉えていた男の手には小さな袋があった。安っぽいビニール袋。それを見た瞬間から俺は夢でなければ良かった夢が溶けて消えていこうとし始めていることに気づいた。誰が呼ぶことをしなかったからではない、もう子供であることができなくなったという自覚に、二十年、あるいは俺の今までの生そのものが泥舟に乗せられて出港しようとしていることを知った。止めなければならないという衝動に遭う。見送ってしまえば二度とあの夢が見れない。俺が待ち続けた時間が消える。
「一緒に回った仲だ、ただで帰すのも悪いな」
 焦燥に身を任せていた俺に、すぐ隣から声がかかる。引き戸に手をかけたまま男は足を止めていた。
「くれてやる。これもってお前の家に帰れ」
 差し出されるたビニール袋を受け取る。言葉が浮かばなかった。子供でなくなった俺は、何と答えれば良いのか知らなかった。それでもなにかを言おうとして、俺は聞かなくて良かった疑問を口走ってしまった。
「あんたは、どうしてこれを?」
 俺が身構えるより早く男は答える。
「食いたかったんだ」
 肩透かしをくらう。そんな理由で気持ち悪くなるほど食うのか、と言いたくなって、ふいに思い出した。連日連夜あんこの串団子を食べ続けた末、二人で苦しみ呻きながら怒られまくったことを。ひたすら待って待ち続けていた。しかし、子供が待ち続ける理由など、あんこの串団子を食う為で十分だと、そう思えた。それ以上に理由を求めたがる大人がどこにいるだろうか。少なくとも俺には必要なかった。
 男に礼を告げて門へと向かう。ここは俺の帰る家じゃない。ならどこだと言われてもまだわからない。とりあえずは門を出て迷って遭難して脱出劇を繰り広げて話はそれからだ。と思っていたところで後ろから呼ばれる。振り返ると、男はまだ家の中に入っていなかった。
「実はこの家、勝手に使ってるんだ。誰にも言うなよ」
 知ってるんだよそんなこと。あんたとの家を守っている人がいるんだから。



 打ったという程度では済まない痛みが真上から襲ってきた。それとは別に断続的な鋭い痛みが走っている。浅い呼吸がすぐ近くから聞こえ、聡美でもいるのか、やった後か、と思って目を開けると確かに聡美がいたが服は着ていた。乱れている様子もない。
「目、覚めた?」
 低い声音に背筋が縮みあがった。どうやら寝かされているようだったが、スーツのままのようだ。真正面から睨んでくる聡美の目から逃れるように泳がせた視界の端に入ってくる様相は俺の知る屋内とはことごとく違う。記憶を辿り、思い当たる。どうやら道端で力尽きてしまったらしい。聡美が誰かに礼を告げるような声が聞こえると、引っ張り立たされた。立つことはできたが今度はどうにも足に力が入らない。聡美にひきずられるようにして動かされ外にでる。薄暗かった。風が肌寒く感じられるのも早朝であるからだろう。おそらく、聡美の機嫌が最悪なのも同じ理由からだ。
 車の助手席に乗せられてしばらく沈黙が続いた。どこに連れて行くのか、どこに俺を帰らせるのか。当て所も意味もない言葉を追う。やがて訪れた聡美の第一声はお叱りだった。次に早朝であることの怒り。そして、聡美は言った。
「あの電話、何だったの?」
 覚えがなかった。聞くと、無言で終わった着信に折り返し電話したところで俺を保護した警察の人に場所を教えてもらったらしい。だが、正直に覚えがないなどと言ってしまおうものなら殴り飛ばされるのが目に見えていた。
「聞こうと思ったんだ」
「なにを?」
「俺は良い男か、って」
 聡美が運転中でなければ俺は殺されていたかもしれない。そのとき、まさしく魔が差す瞬間というものを目の当たりにしたのかもしれなかった。
 車の通りがまばらだった。ヘッドライトを点けている車も多い。犬と散歩する姿がある。ジャージでウォーキングに励む姿も。音の無い現実に居る。まだ起き始めて間もない町の景色を横目に眺めながら道行く人の帰り先を想像する。俺が無言のメッセージを送ったように、その意識は往路と復路の拠点を持っているに違いなかった。どこに定めた行き先へたどり着いても見失わずにいられるよう表札と土産をそれぞれ手にとって事ある毎に確認できる人とは違い、俺たちはまだそんな人を追ってのた打ち回っている最中ではあったが。俺も聡美も、まだ家の住所さえもっていないのだ。
「なあ、また近いうち、挨拶に行っていいか」
 なにも考慮しなかった。よりにもよって聡美の機嫌が直っているかでさえ。まだ夢見心地の寝ぼけが抜けきっていなかったのは間違いない。それほどに言った直後から、記憶を木片に乗せて海に流したくなったぐらいだったが、意外にも聡美は落ち着きを取り戻しているらしかった。早朝であることに損ねたものが早朝の静寂によって癒されたのかもしれない。
「別にいいけど。上手いやり方とやらは浮かんだの? まさかその袋だったり」
 目が覚めたときから肌身離さず持っているビニール袋を示された。
「いや」
 足が逸っている。少しでも早く帰らなければいけない、と。玄関が開くのを待ち続けた子供はやがて飽きて外に向けて扉を開いた。最初は遊びにでるだけのつもりだったかもしれないが、気がついてふと後ろを振り返ったとき、帰り道をすでに見失っていたことに気づいたのだ。途方に暮れた子供は自分を責めて、影を責めて立ち止まる。前にも先にも進まなければならないと思いながら、どちらに進んでも迷いが深くなることは知れていた。進退を決めることが出来ずに動けなかった。待ち続けることしかできなかった時間が過ぎ、しかし無かったはずの道が新しく出来ていることにいつか気づいた。どこに繋がっているのかわからないまま、足を踏み出す。取りあえずは土産だけを手に取って。
「お前がいないと、いつまで経っても俺は家に帰れないんだ」
 どこかで迷っている家を探す旅に出る。その為の出立を見送るとでもいうように太陽がそろそろ回ろうかと立ちあがり始めていた。こんなところにも阿呆がいたのだと気づき、思わず俺まであんこの串団子を渡してやりたい衝動に駆られた。

 了

迷い家

迷い家

関係している女性との結婚を決め、相手方の家族へと挨拶に行った青年は敗北感の中で帰路に着いた。もういない自身の父親の姿といまの自分とを重ね合わせ、苦しみ悶えながら、歩を進める。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-23

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