「お母さん今いません」
マルチな男の行き着く先とは。
チャイムから聞こえる声に、俺は「はてな」と首を傾げた。
最近ターゲットにしている主婦の住むマンションに着き、俺はくたびれた社用車を停めた。
霞んだ黒の助手席に載せたアタッシュケースの中身を確認する。
これであなたもみるみる痩せる!超腹筋マシーン、今なら39800円のところ、今なら10名様まで3980円の大特価!!
あの芸能人も使ってる!
そんなコマーシャルで流れているそれを見下ろし、うすら笑いを浮かべる。
は、こんな下卑たもんで痩せるより、食事制限なり運動なり、努力しろよ、と思う。
腹筋しろ腹筋を。
俺は以前別の商品を届けた際玄関先に出てきた主婦の、品の良い服に覆われたでっぷりとした腹、ふくよかな顔に浮かぶ人の良さげな笑顔と柔らかい声を思い出し、所詮金持ちの遊び、ケーッと啖呵を切りたくなった。
まぁいい、ああいう金を使う人間がいるから、こちらも儲かるのだ。
俺は先月の家賃を渡す際寂しくなった財布と通帳を思い出し、生活圏の違いにため息をつきたくなったが、気を取り直して気合いの入ったスーツとネクタイを締め直し、バックミラーで髪型と口元を確認してから、よし、と出かけた。
美緒、待ってろよ。
もうすぐ結婚できる。コツコツと結婚資金を貯めて幼稚園で働く可愛い婚約者の癒される笑顔を思い出し、俺は「よし」とガッツポーズをとった。
今回売れればボーナスアップ。確実に、買うだろう。
俺は最上階角部屋南むきという豪勢を極めたその部屋を目指してエレベーターに乗った。
昼日中は、静かだ。日差しがポカポカと暖かい。
部屋の前にたどり着き、俺はピンポーンとチャイムを鳴らした。
すると、返事がない。
おかしいな、今日この時間に届けるよう注文が入っているのに、俺はそう思い、またピンポーンとチャイムを鳴らした。
しかし誰も出てこない。
俺は「今月もきっちり回収しろよ」と半ば脅すように強面の上司に囁かれたのを思い出し、ブルッと震えてから、「真崎さーん、いないんですかぁ、真崎さーん」とどんどんガチャガチャとドアを叩き始めた。
するとインターホンから、「はい、どちらさまですか」と幼女の声がする。
俺ははて?と首を傾げた。
真崎さんは正真正銘中年で、娘も息子も自立して今は都外にいる。下調べは万全だ。
俺は「すみません、真崎かなこさんはおられますか、ケーエスショッピングの者です、いつもお世話になってます」と若干不審に思いながらも答えた。
すると、「お母さん今いません」とやけにはきはきした返事があり、ガチャッと切れた。
これはいよいよ怪しい。
真崎かなこめ、まさか目覚めてしまい、親戚か姪っ子でも使って逃げる気か。
俺はマルチの名が廃る、と「真崎さーん、ご注文の品をお届けに来たんですよ、今更クーリングオフなんて出来ませんよ、真崎さーん!?」と騒いだ。
ドアノブをひねると、ガチャ、と意外にもあっさり開いた。
俺は中に踏み込み、「真崎さん、ちゃんと代金払って頂かないと弊社としても困るんですよ、真崎さん、真崎さ…」とリビングまで来た時、その光景を見て固まった。
テープでぐるぐる巻きにされ眠っている真崎かなこに、小学6年から下は保育園かと思われる子供達が十人ほど、部屋にたむろして俺を振り向いた。
ある子は「ブーブー」と言いながらミニカーで遊び、ある子達は「まぁリカちゃん、お客様がいらっしゃったわ」と人形で遊んでいた。
年上の子達が目で会話しているのがわかる。
どうする?
どうしよう。
俺は「えーっと、君たちは、なんだ?真崎さんを、どうした?」と若干ビビりながらも聞いた。
リーダーと思われる少年が口を開いた。
「僕たち、遊んでるだけだよ」
その子は片目に傷があった。左目に、縦に一線、瞼の上に。
「かなこさんが支援してくれてる養護施設の子なんだ、僕たち。かなこさんが遊びに来いって言うから、来たんだ。そしたらかなこさん寝ちゃうから、ぐるぐる巻きにして悪戯してたんだ。起きたらかなこさん、びっくりするだろうなぁ」
なぁ、みんな、と少年が声をかけると、小さな子が「ケーキ、おいしかったぁ」と無邪気に答えた。
年上の子達もわざとらしい笑顔をたたえながら「そうそう」「楽しかったよね」と笑い合った。
「でも、もう終わり。園長先生が呼んでる、帰らなきゃ」
茶髪の髪を頭の上で縛った女の子がケータイを片手に言い、途端、全員が「はーい」と声を揃えて立ち上がった。
ぞろぞろと出て行く子供らを止める理由が見つからず、俺は途方に暮れてスースーと寝息を立てる真崎かなこの品のいい寝方を見ていた。
その後彼女は目を覚まし、俺はホッとして「真崎さん、」と足を踏み出した。
真崎かなこは一瞬不思議そうな顔をし、自分の体を巻くテープと俺を代わる代わる見て、途端、「…キァアアアアーーー!!」と悲鳴をあげた。
俺を強盗と勘違いしている。
俺は「違うんです、子供、子供達が!」と説明しようとしたが受け入れられず、真崎かなこは暴れた。
すると、後ろで「カシャン」と音がし、振り返ると、若い女性と幼稚園の制服を着た子が固まっていた。
おばあちゃん、と子供が言い、女性が「誰かーーー、誰か来てー!!」と子供を引っ張りながら玄関へと走った。
俺はあわわ、と口元を手で覆い右往左往した。
後門の真崎かなこ、前門の大騒ぎ。
間も無くファンファンとパトカーが停り、俺は誤認逮捕された。
なぜ誤認とわかったかって?真崎かなこの浪費癖が暴露されたからだ。
俺は法的にも効果のある注文票を見せ、この目で見た経緯を語ると、真崎かなこは「そういえば、子供達は?なんだか知らない子たちが遊びに来て、部屋に上げてあげたんだけど」ととんでもないことを言い出し、俺と警官が唖然とする中、娘さんが「お母さん、何か盗まれてない!?」と詰め寄り、部屋を調べると多数の宝石や金が無くなっていた。
子供達が淹れてくれた紅茶を飲むと眠くなったとかで、調べると後日睡眠薬と子供の指紋が検出されたらしい。
おかあさん、と娘が泣くような声をあげ、隣ではなっちゃんのケーキ、食べられちゃったーと女の子がびいびい泣いた。その日は孫の誕生日だったらしい。
俺はこっそりと会社に電話し、まずいことになったと上司に伝えた。
上司は落ち着いた声で、「この、ボンクラが」と言った。
あれから真崎かなこには謝礼金を払われ、迷惑料として商品も買って頂き、俺は「ありがとうございます、弊社としても、人命救助に当たれて身が引き締まる思いです」と固く頭を下げた。
警察官の視線が気になったが、彼らはこちらに笑いかけ、「にしても金持ちだよな、なんだー、この子供達ってのは、ヤクザの新手か」などと首を傾げていた。
俺は見事昇級し、結婚式には真崎さんも呼び、盛大に行った。
美緒は良かったね、リョウちゃん、と涙を潤ませ、俺は「終わりよければ全て良し」とシャンパンシャワーを上司から浴びながら思った。
あれから数年経った。
俺は仕事も順調に、妻と子供を連れテーマパークに着ていた。
きゃー、と声をあげてメリーゴーランドから手を振る妻と子供に手を振り返しながら、俺はブルブルと震えるケータイに出た。
はい、と言うと、「真崎かなこ、覚えてる?」と若い男の声。
「え?」.と辺りを見回すと、「こっちだよ、奥さんの後ろの馬」と声が答えた。
はっと見ると、妻と子供が「パパー」と目の前を通り過ぎていった。その後ろに、黒い馬に乗った瞼に傷のある若い男。
途端記憶が刺激され、脳がビリビリと震えた気がした。
あれは、あの傷は。
隣に来たキュロットを履いたポニーテールの可愛いポップコーン売りの女の子が、「子供、あたし達の仲間にしたくないよね」と囁いて笑った。
気づけば周りを囲まれていた。若い少年少女、男に女。
「連絡先、真崎さんに教えてもらったんだ。あの人もういないよ」
どうする?と声が笑っている。
次に馬が一周したとき、男は笑っていた。
「ねえ?ケーエスショッピングの宮下さん」
どうする?と声が笑っている。
メリーゴーランドはまだ回る。何周も、何周も。
ねえ、どうするー?
そう声が笑っている。
俺はガクガク震える膝で、なんとか立っていた。
彼らはこうして増えていく、こうして採取していく。
ああ。
俺は声に出して、暗い絶望に耐えられず目を閉じた。
ああ、今日だ。俺はげんなりとした気持ちで会社から出た。
年は二十歳ごろだろうか。左目に傷のある若い男が、ひーふーみーと札束を数え、とんとんと整えてから「今月もありがとね、おじさん」と笑った。
俺は男の手にある札束を見て、「今月もこいつらに搾取される」と考えげんなりした。
顧客のお陰で、そこらのサラリーよりは多分に貰っているほうだが、こうも露骨だとさすがに妻も不満に思うんじゃないか。
が、そこは妻の美点、美緒はそのほんのりと相手を癒すオーラを放ちながら、何も言わずに毎朝俺に「行ってらっしゃい」と言ってくれる。
俺は本当にいい妻を持ったと思う代わり、抱えてしまった負債に頭を悩ます。
初めて彼らを連れてきたとき、俺は美緒に「ビッグダディプロジェクトっていうのがあるんだけど」とそのマルチの才能を発揮して言いくるめ、比較的顔の整った、そして絶対に悪さをせず、本物の子供のように懐いてくれるという彼らを紹介し、目を丸くした美緒は、「ふざけないで」とでもいうかと思った。
しかし美緒の不思議ちゃんともいえる面白がりな一面が発揮され、美緒は「いいじゃん、それ、私大家族って憧れてたんだよね」と意外にも乗ってきた。
俺は「うげえ」と内心思ったが、断る権利などこちらには無く、美緒を如何に納得させるかが重要なのだった。
以来この体たらく。
目の前の男、蛍は今じゃ家にも入り浸り、美緒と仲良く家事を手伝いながら談笑し、表面上では好青年を気取っているが、こうして毎月俺の給料から金を採取していく。
「じゃ、早く帰ろう」
今日はカレーだってさと、「ビッグダディ・宮下家」とグループ名のついたLINEでやり取りしながら俺を早く早く、と促した。
俺はああ、と言いながら、まるで息子のようになっている蛍を連れて、駅近くの清潔感のある公衆便所から出た。
美緒は持ち前の母性を持って、彼らを暖かく迎え入れている。
苦労して買った庭付きの一軒家で子供たちが遊びまわる様子を見てほほ笑む妻を思い出しながら、俺は足早に蛍に連れられて帰った。
帰ると、「おかえりー!」と十数名いる子供や若者の中から、「パパー」と八歳になる息子が飛びついてきた。
「おおー、光輝、重くなったなぁ」と抱き上げてやると、「私も私もー」「僕も僕もー」と次々に子供たちが飛びついてくる。
俺は本当にげんなりとした気持ちで、「よーし」とその気もないのに父性を発揮して、美緒の手前格好つけて子供らを腕にぶら下げ、ぐるぐると回って見せた。
キャーキャーと笑う子供らを尻目に、蛍が「ちょっとコンビ二行ってくる、マナ、」と同年代のリーダー格、真奈美を呼び、一緒に玄関を出ていく。
「気を付けてね」と美緒が声をかけ、「うん、早く帰るから」と明るく答える彼らは、どこへ行き誰に何を渡すのか。
俺はそれを考えると、無性に腹が立ち、無性に虚しかった。ぐるぐると回りつかれて、倒れ込んだ俺に子供たちが乗っかってくる。
「いい加減にしろ!」と怒鳴りたいのをこらえていると、美緒と数名の女子が「みんなー、ご飯だよ、席ついて!」と号令をかけた。
はーいと皆が離れていく。
俺はソファに寝転がりながら、はーあとため息をついた。
乱れたシャツとネクタイが、俺の甲斐性と情けなさを物語っている。
キャンプよろしく庭で煮られた鍋からカレー皿をはい、はい、と渡しながら、聖母のように笑う妻は本当にこの生活に疑問を持っていないのか、あるいは何か悟っているのか。
俺は美緒の不思議なほど深い愛情に癒しを覚えながら、くうと寝かけた。
パパカレー無くなるよ、と甘えっ子のヒナが俺に乗っかってきた。ぐえっと声に出す。
「こーら、パパ疲れてるんだから」と年上の穂乃果が俺からヒナをどかし、「パパごめんね、疲れてるよね」と気遣ってくれた。
俺はありがとう穂乃香、と答えながら、子供を人質に取って蛍達に対抗することも考えたが、すぐに打ち消した。
そんな度胸もないし、第一この人数に勝てる気がしない。子供とは、意外と力がある。
俺はネクタイを外し、Tシャツと短パンに着替えてから、ビッグダディよろしく「みんな、残さず食べろよー」と声を上げた。
家族を演じること、毎月金を払うこと。
それが蛍が俺に提示した要求だった。
俺は今のところ、それに従順に従っている。
罪悪感さえ捨ててしまえば大金が手に入る仕事をしている俺も、彼らと同罪と言えば同罪だった。
その弱みに付け込まれた。
俺はきゅっと唇を噛み、むりやりポジティブシンキングをして理想の父親を演じた。
大丈夫、金の元手はあるんだ。
俺は今日も売りさばいた件数を思い出しながら、カレーをガーッとかき込んだ。
雄太がそれを見て、「負けるかー」とむしゃむしゃと食べ始める。
美緒と光輝が楽しそうに笑っている。
俺達は傍から見ればどう見ても、理想の大家族だった。
いいですか奥さん、これを毎日使えば、一年で15キロは痩せられますよ、15キロ!
根気よく続けるということが大事なんです。
弊社ではその他それぞれニーズに合った新商品も多数取り揃えておりますから、興味があればまた私、宮下にご連絡ください。
あなたに合った商品を低価格で準備いたします。奥さんだけ、特別ですよ。
では、今後ともケーエスショッピング、宮下良治をよろしくお願いいたします。
失礼しましたーとその古民家の玄関を出ると、ちょうど帰ってきたご主人と出会い、焦りながらも「こんにちはー」と挨拶して、怪訝な顔で見送られた。俺は速足で通り過ぎ、車に乗り込む。
「どうかばれませんように」とあの老婆がドジを踏まないことを願う。
ブオオオオンとエンジン音を響かせながら、俺はその顧客の家を辞した。
次に向かうは、別の顧客だ。
俺は蛍が「消した」と語った真崎かなこの顔を思い出しながら、俺と奴らとどちらの刑が重いだろうかとちらり考えた。
真崎かなこは蛍が語った通り、商品の購入を止め、連絡も途絶えている。
思えば真崎かなこの一件に出会ってから俺の評価も上がり、俺は「あの人は福の神か、死神かどちらだ」と頭を悩ませ、ボンネットをドンと叩いた。
お陰で厄介な連中に目を付けられ、家にまで踏み込まれる始末。
俺は妻と息子の顔を思い出し、ぐっと気を引き締め次の顧客先へと向かった。
ありがとうございましたーと新築一戸建ての家から出た途端、「お疲れさま」と声を掛けられた。
見ると、蛍がスマホを弄りながら立っていた。
俺は「監視のつもりか」と低い声を出し、「まさか、たまたまだよ」と蛍は答えた。
それに、監視するなら別の相手がいるでしょ、と笑った。俺は何も言わず歩き出した。
「なあ」
歩きながら俺は聞いた。
「お前ら、もう大人なんだし、働こうと思えば働けるだろ、何も俺から採取しなくたってやっていけるんじゃないのか?」
蛍は甘いね、と笑い、「こんなに需要があって且つ僕らの要求を満たしてくれる相手を、そう簡単に離すと思う?」そう言ってから、「それに僕、結構あんたらのこと気に入ってるんだ、パパ」と言い、俺はぐっと言葉に詰まった。
死神ならぬ、貧乏神みたいにしつこい。
俺はもう慣れた調子で、蛍が「マナ?今何してる?俺?俺は今パパと行き会ったとこ。うん、もうすぐ帰るから、なんか買うもんあるかママに聞いといて」とスマホで軽快に話すのを聞きながら、休憩がてらコンビニに入り、缶コーヒーと餡パンを買った。蛍が棒アイスを持ってきて、「安いからいいでしょ?」とまるで父親と話すかのように気軽に言う。俺はそのアイスの安さに案外気を悪くせず、一緒に買ってやり、コンビニの外で道端に二人で座り込んだ。
俺が煙草を一服していると、蛍が「俺さあ、このコンビニで働くの、夢なんだよね」と言った。
「なんで」と聞くと、「なんか、普通に働いてる気がするから」と言い、レジの女の子をじっと見ている。
「すればいいじゃん」
俺は午前中に走り回り、疲れ切った肩をこきこき鳴らしながら、「汗かいて働くってのは、結構楽しいもんがあるぞ」と言った。
「俺だって、ブラックな会社で結構苦労してるんだぜ」
それを聞いて、蛍は「ふーん」と言って、しばらくアイスの棒を咥えていたが、立ち上がってゴミ箱に捨て、「じゃね、パパ」とひらり手を振ってまたどこかへ消えて行った。
俺はそれを見やりながら、「さあて、もうひと頑張りだ」と腰を上げた。
俺はその日も成果を上げ、ほくほくとして会社に報告し、また成績棒が上がったのを見て「っし」とガッツポーズを取った。
上司は相変わらず悪人面だが、会社内での立ち位置は前より安定している、というか既にエリート枠だ。
俺は「先輩凄いっすね」と金髪の後輩が持ち上げてくる中、でも家には小悪魔がいるんだよ、と声に出さず皮肉に笑った。
これで今月は、結構潤うかもしれない。
俺は頭を抱えている存在に贅沢をさせてやることを考えているのに気づき、すっかり汚染されたビッグダディの思考に鳥肌が立った。
違う違う、俺の息子は光輝一人だ。
すると上司が「おい」と呼び、はいと出向くと、「これ、ボーナスな。この調子で頼むぜ」と、暗に逃げたら許さない、とまた脅しをかけて俺の腹を軽く殴り、俺は「う、はい」と答えながら、心の中で震えた。
果たして俺たちの未来に、希望などあるのだろうか。
ある日蛍が皿を洗っていると、「ただいまー」と美緒が買い物から帰ってきた。
何度も車と玄関を往復して買い物袋を抱えている。
その様子を見て、蛍は半ば舐めた口調で「母親って大変だね」と言った。
すると美緒は「うん、大変で楽しい」と笑った。
は?と蛍が怪訝な顔をすると、美緒は「私ね、もう子供産めないの。だから蛍ちゃん達が家族になってくれるって聞いた時、本当に嬉しかったの。上から下まで、男の子も女の子もいるんだもの」と笑った。
うーどっこいしょ。
そう言って袋をテーブルに置く美緒に、蛍は何も言えなかった。
しばらく黙って、この母親の様子を見ていた。
その日は子供たちの内、三人の子供の誕生日だった。
昼間上司に久しぶりに脅されたことからの心理的作用だったかもしれない。
俺は義務的に、しかし無意識に普通の父親のような心境でホールケーキを三つ買い、それぞれに「なんとかちゃん、誕生日おめでとう」とチョコレートを載せてもらった。
家に帰ると「パパお帰りー」と小さな子たちの無邪気な笑い声が上がった。
俺はすっかり疲れていたが、「ああ、ただいま」と笑って答えた。
そーら、慶介、七海、浩太、誕生日だろ、肩車してやるぞー。
キャー!
そんな俺達を見て、蛍が細く目を細めた。真奈美はそれに気づき、蛍、どうしたの?と聞いた。
蛍は「・・・・何でもない」と言い、「ちょっと、出てくる」と言って家を出た。
蛍はその日から、家に帰って来なかった。
これは珍しいことで、一番力があるだろう存在を失った子供達は不安気な顔をしていた。
俺はこれはチャンスかもしれない、と思い、美緒、と妻を見た、が、そのとき。
美緒が背筋をすっと伸ばし、大きな声で言い放った。
「みんな、大丈夫。お兄ちゃんは必ず帰ってくるから」
だからそれまで、ママ達が守ってあげる。ねえ、あなた。
そう強い意志を持った目で言われ、俺は「う、うん」と頷いていた。
皆が俺を見つめてくる。まるで二十四の瞳だ。
俺は不安の中にいるだろうその瞳を励ましてやりたくなり、美緒に背中を押されるように「大丈夫、パパ達が、お前らを養ってやる」と力強く答えていた。
真奈美と穂乃果が、半ば疑問符を浮かべてこちらを見ている。
俺と美緒は「ほーら、だから晩御飯にしよう!」と皆を急かし、その日も庭で大騒ぎしながら夕飯を食べた。
皆、どこか不安げに、それでも安心したように食べ、遊び、そして疲れて眠った。
俺と美緒は、敢えて何も語らず、そっと襖を閉めた。
真奈美と穂乃香が、廊下に立っていた。何か決意したように口を開きかけた真奈美に、美緒は「だーいじょうぶ、きっと数日すれば帰ってくれるわよ」
だから安心して、今日は一緒に寝よう?
そう言って二人を二階へと連れて行った。
俺はすっかりくたびれた体と頭で、ふいーっと息を吐き、ビールをあおって、その日はソファで寝た。
闇の中へ消えていく蛍の夢を見て、待て、蛍、と俺は手を伸ばし、目覚めると嫌な汗をかいていた。
俺はその後、仕事の合間に蛍を探した。
路地裏、コンビニの前、怪しいビル群の奥。
どこにも蛍はいなかった。数日経ち、諦めかけた、その時。
ブルルルル、とスマホが震えた。見れば、どこか見覚えのある番号。
俺は「はい」と出た。すると、「お久しぶり」と、意外な声がそれに答えた。
俺は車を飛ばし、そこへ急いだ。
いつか見たマンションの前、車を路肩に停め、慌ただしく扉を閉めると、その部屋へと急いだ。
最上階角部屋南向きの、豪勢な部屋。
チャイムを鳴らすと、インターホン越しに「はい」と聞き覚えのある声が答えた。
「俺です、宮下です、真崎、さん?」
ドアが開いた。
間違うことなき真崎かなこ夫人が、ピンクのドレープの利いたワンピースを着て立っていた。
俺に向かって、「お入りください」とそのふっくらとした福のある顔で、優し気に微笑んだ。
部屋に入ると、「シーッ」と口元に指を当てて、真崎さんはベッドルームの扉を開けた。
シンプルな黒と白の色調の部屋の中で、蛍がベッドに横たわっていた。
顔も体も、包帯や絆創膏だらけで、腕は折れているのか、添え木がしてある。
「蛍!」
俺は駆け寄ろうとしたが、真崎さんに止められ、「こちらへ」とリビングへと促された。
そこでお茶を飲みながら、俺は真崎さんからすべてを聞いた。
蛍達は、元々が虐待されたり捨てられたりした子供達で、ヤクザ系列の経営する形ばかりの養護施設で、真崎さんのような高級層に取り入って金を巻き上げるやり口や、大人を上手く脅して騙し、搾取する方法を学んでいたこと、そのターゲットが俺であったということ、そして蛍は「園長先生」と手を切るべく、一人暗闇の中に入っていき、恐らく園長先生は生きていないだろうということ。そして、真崎さんから俺と同じようにとはいかないが、相変わらず搾取し続けていたこと。
「私はね、お金を使うことは、慈善事業だと思ってるバカな女だから」
真崎さんは語った。
「だから、可哀想な子供たちを、ただ気まぐれに可愛がるくらいのゆとりはあったから、世に貢献することだと思ってたのね、お金を使うことって、でも、それって違ったのね」
真崎さんは、一旦言葉を切り、ベッドルームを見た。
「あの子は私を、恨んでいたと思うわ。殺したいと思うほどに」
それでも、最後は頼ってくれた。
だから、これは、私達だけの秘密にしましょう。
真崎さんに強い目で見つめられ、俺ははい、と頷いた。
蛍、お前、闘ってたんだな。
俺はそうっと部屋を出て、いつも通り仕事をこなし、家に帰った。
俺は美緒と光輝を連れて近くのカフェに行き、これまでの経緯を話した。
すまない、と俺が頭を下げると、美緒と光輝はあっさりと「知ってたよ」と言う。
え?と俺が言うと、「だって、みんな体に傷とか火傷の後とか、いっぱいあるんだもん。それに蛍ちゃん怪しすぎだし」美緒がそう言い、ねえ?と光輝に同意を求めた。
光輝は「うん、なんか、お父さんが良いことしてるってことは知ってた」と言った。
そうだ、俺が子供達と風呂に入ったことなどいっぺんも無かったことに気づき、俺は「ヒントはそこら中にありすぎたんだ」と、改めて家族を巻き込んだ自分を情けなく思った。
「怖くなかったのか?」と聞くと、「全然?だってみんな良い子だし」そう言って美緒と光輝が笑った。
俺には二人が、輝いて見えた。この上なく、神々しいオーラをまとった二人に。俺はしばらく考えた。
前向きに検討してみるのも、良いかもしれない。
そして答えを出し、それを二人に伝えた。
二人は「いいねそれ!」とにやりと笑った。
「集合!」と子供たちに号令をかけ、皆がリビングの床に正座すると、俺は話し始めた。
「みんなもう大丈夫だ。蛍兄ちゃんを見つけた。みんながよく知ってる人に保護されてるから、安心して良い」
皆はほっとしたように顔を見合わせ、よかったーと手を叩き合った。真奈美も穂乃果も、ほっと溜息を漏らしたが、どこか不安気な様子だ。
俺は続けた。
「だが、事情があって、今は帰れない。でもこれだけは言う」
俺は息をすうっと吸い込み、言った。
「悪い奴や怖いものは、みんないなくなった。お兄ちゃんが、やっつけてくれた。もうみんなが怖い目に遭うことは二度とない、いいか、二度とだ。この意味が、分かるか?」
みんなは固唾を飲んで俺の言葉の続きを待った。
俺は美緒と光輝を抱いた。三人で顔を見合わせ、美緒が笑って言った。
「みんな、今日から、私たちは本物の家族になるのよ、いい?本物の、大家族よ!みんなは私たちの、本当の子供になるの」
一生離さないからね。そう言うと皆は、それこそもう爆発したみたいに、わっと躍り上がった。
喜びがさく裂し、泣くものも入れば、ばんざーいと抱き合う者もいた。皆美緒と俺の腕に飛び込み、わあわあと騒ぎあった。
いつもはクールな真奈美も俺の首に抱き着いて、「パパ、大好き!」とわんわんと泣いている。
穂乃果が綺麗な涙を流し、「ありがとう、ありがとう」とその場にしゃがみこんでいた。美緒がそれをそっと抱きしめた。
皆安心して泣いて、笑って、抱きしめあった。光輝がイエーイと仲間と手を叩き合い、「ビッグダディ、ばんざーい」と誰からともなく叫び始めた。
ばんざーい、ばんざーい!
俺達のその夜は、一生忘れられない夜となった。奇妙な馴れ合いや相手への警戒心も捨て去り、本当に想いあえる関係となった。
女の人ってすごいな。
俺は美緒と真崎さんの大いなる愛情を思い、感動して打ち震えた。愛情だけで、あり得なかった未来を連れてきてくれた。蛍もまた。
俺は蛍の回復を待ちわび、俺が本当の父親になったことを知ったらあいつはどんな顔をするだろう、と期待に胸を膨らませた。
光輝と交わすはずだった二十歳の酒を、あいつと先に酌み交わそう。
そしてあいつは、あのコンビニで、好きな子と一緒に毎日笑顔で「ありがとうございましたー!」と言って楽し気に働くのだ。俺とは違う、光の当たる世界で。
俺はその日を本当に楽しみにしている。皆が蛍の帰る日を待ちわびている。
美緒が「そうか、蛍ちゃんは、暗闇を照らしていけるように、蛍って名付けられたんだ」と言い、俺は「第一印象でわかるだろう」と突っ込みを入れた。
いや、そういう意味でなくて、と美緒は何か言いたげだったが、まあいいか、と笑った。
俺達家族は蛍の灯してくれた火を、消さないように頑張って生きていく。
だから蛍、早く帰ってこい。
真崎夫人はその頃、蛍の額のタオルを取り替えながら、「お父さん、お母さん」と呟くのを聞いた。
振り向いたが、彼はまだ深い眠りの中にいた。
こう言っちゃなんだが、終わりよければそれが全てだ。
俺は「ありがとうございましたー、これからも弊社をよろしくお願いいたします」と丁寧に頭を下げ、その家の玄関を出て、両手を添えてドアを閉めた。
物腰は柔らかく、且つ紳士的に。
今朝剃ったばかりの髭が伸びていないかバックミラーで確認しつつ、次へ向かう。
これが終われば、あの賑やかな戦場が待っている。
俺はスケジュールの最終確認をして、その日はぱたんと手帳を閉じた。
蛍の身元が知れてから、薄情なようだが、俺達夫婦は見舞いにすらいっていない。俺達には生活があり、うるさい子供達を連れて行くわけにもいかない。
俺は「ただいま」と玄関をくぐると、「パパおかえりー」と突進してくるヒナを受け止めるために腕を広げてかがみこんだ。
「おかえり」「おかえりー」
総勢11人の大盤振る舞い。俺は訳あって、縁もゆかりもない子供たちを引き取り、育てている。LINE名は「ビッグダディ・宮下家」。
俺は「お疲れさま」と台所に立つ美緒と穂乃果に目を止めてから、もう一人この家からいなくなった家族のことを考えた。
子供たちの中でただ一人、マナは蛍と同じ二十歳で、この家からいなくなって久しい。真崎さんに聞くとほぼ毎日、夕方ごろに訪れては、色々と未だ眠りの中にいる蛍の世話を焼いているらしい。
穂乃果と同じように定時制の高校に行くかと聞いたら、「あたし一人暮らししてファミレスで働くわ、あそこ履歴書いらないし、制服可愛いし」と言い、早々と家を決めて出て行ってしまった。
早速次の日から駅前のローリイホストで働き始めたと聞き、「ブラックじゃないのか?」と聞くと、「世の中みんな、そんなもんでしょ」とさらりと返してきた。
俺はじゃあ、黒に戻した方がいいんじゃない?と頭を指して聞くと、「店長がそのまんまでいいって、多分あたしが可愛いから」と普通に答え、俺はその気の強さに舌を巻いた。
後日様子見がてら部下を連れて一服しに行くと、「いらっしゃいませー」とマナは完全に板についた接客態度で完璧に仕事をこなし、さらりと「二名様、禁煙席にご案なーい」と意地悪をしてきて、俺と部下は慌てて煙草をしまった。
「今の子超可愛いっすね」
ぱつきんの部下がそう言い、「手、出すなよ」と言うと「なんで先輩にそんなこと言われなきゃいけないんすか」とやや鋭く睨んできたので、「娘なんだよ」と言うと、目を丸くして、「へーえ」と言って代わる代わる俺とマナを見ていた。
俺は「なんだよ」と言い、「なんでもありません」と笑ってこの業界らしく賢い返事をするそいつに、俺はんだよーと軽く蹴りを入れた。
さて、話題を我が家の子供たちのことに移したいと思う。
光輝より一つか二つ下の慶介、七海、浩太。光輝と同級生の道宏、えみりは「学校に行きたい」という意志が強く、俺と美緒は自宅と市役所を何度も往復して電話でやり取りし、学校にも「親戚の子を急に引き取ることになりまして」と嘘八百のお愛想で頭を下げ、特別学級から入学することになった。
それ以外の学、迅、穂乃果は比較的年齢も高かったため、俺達夫婦の倫理を学んでほしいという理由から、「自分の人生、自分で切り開くもの」と言い聞かせ、定時制の高校受験を受けさせることにした。
一番末っ子のヒナはまだ3歳で、いつも美緒のエプロンを握って離さない。
そしてここにストレンジャー、天性の愛嬌を持つ食いしん坊の雄太は、もちろん小学校に通わせようとしたが、「俺コロッケ屋さんのおっちゃんにスカウトされてるから」と言い、毎日その店に行っては椅子にただ座ってもぐもぐとコロッケを食べ、その愛くるしさに客がついコロッケを買ってしまうという驚くべき能力を発揮していた。
道を歩けば「雄ちゃん、これ食べてくかい?」と声がかかり、商店街の人気者だ。
お陰で安くついていいと、美緒がほくほくとして「雄太神様、様様よ」と半額のシールが付いた鶏肉400グラムを見せ、俺は「いつもすいません」と手土産を持って肉屋に挨拶に行き、ご主人が何も言わず握手を求めてきて、握ると肩を叩かれ、「しっかりな」と言われた。
俺は、「はい」とその手をしっかりと握り返した。
わかる人には、わかる。
小学校組は美緒と光輝にああだこうだと言われながら勉強を教わり、俺も金のことには汚いので少なからず算数くらいは教えられた。
丁寧な言葉遣いや礼儀を教え、変なお辞儀をすると「違うだろ」とぱしんと新聞紙で叩き、ふざけている奴の頭を掴んで「よろしくお願いします、ありがとうございました」と教え込む。
高校生組もまずは受験レベルから勉強しなくてはならず、学と迅はおろか、穂乃果ですら受験資格を得る作文を書くことに四苦八苦している。
今までまともな字すら書いたことがないらしく、皆みみずのようにのたくった字で、それでも一字一字丁寧に書くように努力している。
俺は小学館の漫画と三國無双、戦国無双をブックオフで大量に購入し、暇さえあればそれを読ませたり遊ばせたりして、自分の知る限りの雑学を教え込んだ。
穂乃果は「ゲームしたら駄目、ゲームしたら駄目」とぶつぶつ言いながら割と画面に見入り、図書館で独眼竜など俺でも引くような分厚い本を借りてきて、一心不乱に読んでいる。意外な芽が出たなと俺は思った。色んな意味で。
3月にあった受験とは名ばかりの教師と一対一の面接を終え、三人とも無難に受かった。
「こういう子たちをサポートするのが、私たちの仕事ですから」とマリオみたいな髭を蓄えた柔和な顔の先生に微笑まれ、受験結果を別室で待っていた穂乃果たちは終始笑顔だった。俺は「これからが、始まりですよ、お父さん」とここでも握手を求められ、俺は「大丈夫です、強い子たちですから」と握り返した。
皆が幸先のいいスタートを切った。小学生組は学校に居残って先生に根気よく教わり、穂乃果は「福祉の勉強がしたい」と寝る間も惜しんで勉強に励み、学はよく本を読み、一番勉強ができた。マナから何か言われたのか、求人誌をよく見ていたが、近所の古本屋で働きだした。
ちゃっと知的な眼鏡をかけ、よくレジ前に座って本を読んでいた。
「お前いいなー」と俺が言うと、何が?と無言で目を上げた。
俺が鋼の錬金術師全巻をレジに置くと、学は「うちって遅れてる」とはあっと息を吐いた。
俺は「いいじゃん、やらない善よりやる偽善」と言うと、学は「それが真理か」と真面目な顔で答え、「2700円です」と言った。
さて、皆が皆順序良く進んでいたかと言えば、そうでもない。
かつての美緒に出会う前の俺のように、恵まれた環境下にいるというのに、ぐずぐずと愚図りだす奴がいた。
迅だ。
進みたい方向って、なんだよ。俺字もまともに書けねえのに、どんな職に就けるっていうんだよ。
将来なんか見えない。それより遊びたい。同い年の奴らみたいに、俺もバイク乗ったり彼女作ったりしたい。
蛍兄ちゃんみたいに強くなりてえ。
迅は俺達が気づかないうちに道を大きく逸れて行った。その思考回路は、もやもやとして、ふにゃふにゃで、自分に自信がなくて。
迅は帰ってくるのが夜遅くになり、LINEにも応えなくなり、ただ美緒にだけ、「あのさあのさ、俺今日、河原でバーベキューすんだ!」などと嬉しそうに報告していた。
あまりに楽しそうなので、俺達は見逃していた。迅の黄色くなった頭も、いつの間にか吸い出した煙草も。
その日俺は、マナと一緒に真崎夫人の家を訪れていた。
蛍がようやく腕のギプスが外れ、後は顔に張られた大きな絆創膏のみとなった。
「この子、不良なのよ」
私の家のワイン、上手いこと言ってほいほい飲むんだから。
そう真崎さんが言い、蛍はマナに「あんたまだそんなことやってんの」と呆れらた。
いいじゃん、俺はこれで生きてくよ。そう言う蛍に、俺は「じゃあこれはお預けだな」と遅ればせながら二十歳の祝いに持って来ていた缶ビールを見せた。
「どこのコンビニで誰から買ったと思う?」
それを聞くと蛍は「嘘!無し無し!無しだから!」と言い、マナに「ったく、誰が今まで面倒見てやったと思ってんのよ」と睨まれながら、その内一本を取り出し、ロロノア・ゾロのキーホルダーを見て嬉しそうにしている。
早速スマホを弄りだすそいつに、俺は「あ、何お前、もう手出してたのか!」とスマホを取り上げようとした。
「やめてよ、返して返して!」
そう言って必死になっていた蛍だが、あっさりと俺の腕を取りベッドの上に足技を使って組み伏せてしまい、「ぐえ」と俺はスマホを奪われた。
その体制のままスマホをポチる蛍に、「汚ねえぞ!」と抵抗しながら俺は叫んだ。
「あんまり埃が立たないようにね」
真崎夫人がその様子を菩薩のように微笑んで見ている。
マナはあーあ、と言い、「ねえ、こないだ店に一緒に来てた金髪の人、今どうしてる?彼女いんの?」と聞き、「ああ?やめとけやめとけ、あんな奴、碌でもねえよ!」と俺が言うと、マナは「あん?男は甲斐性さえあればいいんだよ」と腰に手を当てて言った。
「そうそう、私の夫も、昔はそれは鳴らした口でねえ」と真崎さんが余計なことを言ってくる。
俺は結局マナに連絡先は教えず、打撲痕が無くなるまではまだ帰ってくるなと蛍を真崎さんに預けた。
マナに「お前切り替え早いな、未練ないのか?」と聞くと、マナは「そりゃ、あるに決まってんじゃん、でもしょうがないよ、人の物だもん」と返した。
俺はマナの瞳が少し赤いことに気が付いた。
「泣いてるのか?」と聞くと、「男のことでは、泣かない」とマナははっきりと答えた。
そして突如、「くっそー、泥棒猫め!」と近くに植えてあった苗からゴーヤをブチっと毟り取った。
「いやお前何してんの!?」
俺がそう言うと、マナはゴーヤに噛り付いた。
むしゃむしゃと咀嚼しながら、「女には、こんな時もある。甘いときもあれば、苦いときもある」と意味不明なことを言う。
すると「ねーちゃん、儂のゴーヤに何するんじゃー」と網戸を開いてステテコとタンクトップ姿のよぼよぼした爺さんが出てきて、怒った。
マナは「すんません、ゴーヤ美味いよ!」と相変わらずむしゃむしゃしながら叫び、爺さんが「そんなん、美味いわけねーだろ!」とよぼよぼと手を振り上げて抗議した。
俺はなんだかおっかしくて、心の中でヒイヒイ笑いながら、「すみません、すみません」と必死に堪えて謝っていた。
さて、こんな風に何もかもが快調に回り、俺達は運命について、少し調子に乗っていた。
乗りすぎていたと言ってもいい。
マナは立派に独り立ちし、蛍は彼女といい感じ、穂乃果は学校と伊達政宗への勉強に明け暮れ、小学生組は地域のサッカーチームにまとめて入り、学は一人黙々と本を読み、雄太は相変わらず肉屋の良い看板。最近厨房にも立つらしい。
さて、ここで忘れてもらっちゃ困る、最後の一人を紹介したいと思う。
それには、次のエピソードが絶対に必要だ。
迅のことである。
迅は最近ますますヤンキー化し、バイクの免許を取りに行ったり、年上の友達のCDショップや居酒屋に顔を出したりと、表向きは前向きに進んでいた。
しかし、根本的なところで、間違っていた。
今からそれを、書きたいと思う。
蛍の傷跡も綺麗に無くなり、俺達は満を持して真崎夫人の家から撤退した。
お世話になりましたと頭を慇懃に下げる俺達に、「またいつでも騙されてあげるから」と真崎夫人は優雅にほほ笑み、扉を閉めた。
泥棒猫を連れて行きたいんだけど、良いかな?
そう聞く蛍に、俺は「ああ、そんなの全然大歓迎だ」と笑った。
コンビニの前で時間を潰していると、やがて蛍が彼女を連れて出てきた。
清楚な感じの子で、ボブにカットされた髪型に柔らかではっきりとした二重瞼と背丈が低いのが可愛らしい。
女の趣味は同じらしい。
俺は「足元気を付けて、この車ぼろいから」と蛍が失礼なことを言うのを聞き流しながら、彼女がバックミラー越しに目を合わせて会釈するのを見て、うん、合格と思った。
その日は自家用ではなく社用車だった。そんなことばかり覚えている。
それから帰宅し、俺達を出迎えた皆が「蛍兄ちゃん!」と仰天していた。
ヒナが「にいちゃんおあえりー」と走り寄ってきて、彼女が「可愛いー」と蛍より先に抱き上げ、頬ずりしていた。
ヒナはびっくりしていたが、自然に「おねえちゃんすきー」と喜んでいる。
「誰?」「だれだれ?」
皆がひそひそ話し、まさか?と蛍を見て、次に口笛が飛んだ。
その日は庭でバーベキューをした。初秋の頃で、カナカナカナと虫が鳴いている。
夜になり、皆でwiiUをしながら談笑し、酒を飲んで会話を楽しんでいた。
と、そこへ。
ブォオオオオオオン、と爆音が家の真ん前で止まり、怖がってえみりと浩太が庭から家の中へ逃げてきた。
がちゃり、と玄関が開く音がし、「たぁらいまー!!」と大きな声がして、のっしのっしと迅が入ってきた。
俺はその酒臭い息に目を険しくした。
蛍やマナとは違う、ガキっぽい酔い方だ。
俺は「おかえり」と厳しい声を出し、迅は「なーにパパ、何怒ってんの?」と以前のように舐めた口調で言った。
瞬間、蛍が飛んできて「ただいまお父さんだろ?お前何調子乗ってんの」と羽交い絞めにした。
迅は「んだよ!!やめろよ!!」と大声で喚き、すると一瞬動きが止まって、蛍はくるりと宙返りをしていた。
俺達は呆気に取られた。あの蛍が。
迅はびっくりした顔で床からこちらを見ている蛍を見下ろし、けたけたと笑いながら「見てた今の!俺凄いっしょ!」と台所で固まっていた美緒によたよたと寄って行った。
すると。
パシン。
乾いた音が響いた。
美緒が迅の顔に平手打ちを食らわせたのだ。
「出て行きなさい」
あなたはもう、うちの子じゃありません。
美緒がそう決然と言い放ち、迅はぽかんとした後、みるみる真っ赤になって、「んだよ、母親じゃねーのかよ!?」と叫んで壁を殴った。
ドゴオッと音がし、柱が通っていなかったそこは見事に凹んだ。
迅は肩で息をして周りを見回していたが、蛍の彼女を見つけると、けけっと笑って、絶望を告げた。
「人殺しの癖に彼女作って、人生楽しんでみたり?ばっっかじゃねえの」
空気が凍った。言ってはならなかった一言を、迅は口にしてしまった。
蛍が「てめえ」と立ち上がりかけたのを制し、俺は迅を担ぎ上げると、喚くのも聞かず外へ連れて行き、ぺっと放り出した。
ぽかんとしている迅の目の前で、ばたんと扉を閉め、がちゃりと鍵をかけた。
窓も同様にだ。
瞬間、ワーッと迅が吠えるのを聞いた。泣き声だった。
ごめんなさいごめんなさい、お父さんごめんなさい。
思わず駆け寄りかけた美緒を抱きとめ、俺は首を横に振った。
長いこと迅は扉を叩いたり謝ったりしてそこにいたが、やがて諦めたのか、音がしなくなった。
俺は扉を開けた。
迅は小さな子供みたいに、爪を噛んで蹲っていた。
俺が「もう二度と、しないか」とゆっくりと聞くと、迅はこくりと頷いた。
俺はそれを聞いて、ぽん、とその肩を叩いた。美緒が飛んできて抱き締め、迅はまたうぇええ、と弱弱しく泣きだした。美緒はそれをしっかりと抱き締めた。しっかりと、しっかりと。
その後、蛍は彼女を送りに、外を一緒に歩いていた。
彼女が「良い家族だね」と言い、笑って蛍を見たが、蛍はどこか遠い目をしていた。
「ロロノア君?」
彼女が不思議そうに立ち止まって前に回ると、蛍は「ねえ、泥棒猫」と言った。
別れない、俺達。
彼女は目を丸くして、「嘘」と言った。なんで?
私達、ロロノア・ゾロと泥棒猫なんだよ?麦わら海賊団なんだよ?なんで?
すると、蛍は言った。
「俺、人殺してんだよ?」
左目に傷とか、ありえないでしょ、普通。
そう言って、蛍が目をそらすと、途端バチンと顔を両手で挟み込まれ、無理やり前を向かされた。
彼女の怒った顔があった。
「私だって、普通じゃない」
彼女は言った。
「私だって、親にいきなり死なれて、そのことで散々虐められて?あそこで働いてるのだって、楽しいんじゃないよ、生活のためだよ。まっとうな仕事してる人がみんな良い人だなんて限らないんだよ、努力してるんだよ、前向きに人生歩んでいこうって、負けないようにって、無理やり笑って作ってるんだよ。私だって、幸せとは限らないんだよ」
だから自分ばっかり、犠牲者だなんて思わないで。
悪者ぶらないで。
地獄に落ちる時は、一緒だよ。
そう、ナミは目を見て言った。
蛍は、ただ手を伸ばして、ナミの目に溜まった涙をその傷だらけの指でそっと拭った。
さて、その後迅は髪を黒髪に戻し、悪い連中とは手を切った。
ぼおっとしていたり、何気に求人誌を眺めたり、悪戦苦闘しているようだった。
どうしたら家にいられるか、奴なりに考えていたらしい。
しかし真っ当にするというのは奴には難しいらしく、俺の会社に弟子入りしちゃダメか、と言うので、「それだけは、辞めろ。お前百回死ぬぞ」と俺は言った。奴はビビったらしく、以降俺には相談しなかった。
学の本屋に、と言うと学が「迅ってレジとかできないでしょ、算数知らないんだから」と冷静に言い、ダーッと迅はのたうち回った。
マナのように根性もない。
迅は河原で途方に暮れていた。
万事手は尽くした、最早これまで、と迅がスマホで昔の仲間に連絡を取ろうかと考えだした、その時、神は降臨した。
「迅にいちゃーん」
振り向くと、夕日を背に、コロッケを両手に持った雄太神が立っていた。
その姿は、間違うことなく福の神であった。
雄太は土手を下りてきて、「はい」とコロッケを差し出した。
迅はほけっとしてそのアツアツのコロッケを受け取った。
白い包み紙には、「合田精肉店」と店名と電話番号が青い判で明記してあった。
その後。
迅は「いらっしゃいいらっしゃい、揚げたてコロッケが美味しいよー」とエプロンを付けて合田精肉店で働いていた。
その傍らには、雄太神がもぐもぐとコロッケを頬張り、「うまーい」と言って笑っている。
イケメンと可愛い福の神がいるお店。
そんなキャッチコピーで店は飛ぶように売れた。
親っさんは最近痛めた腰を叩きながら、「迅、もっと腹から声出せ、腹から!」と余計な口を叩き、奥さんに「あんたこそ働けないなら声ぐらい出しなさいよ、いらっしゃいませー!!」としばかれている。
「はいよー、いらっしゃいませーえ!!!」
迅も自分の道を見つけた。
俺はそれを見やりながら、やれやれとドトールで煙草を吹かした。
「先輩って、意外と苦労人なんすね」
俺から全てを聞き終えた後輩が、向かいでマナと二人、椅子に座って煙草も吸わずに俺を見ていた。
マナはこの男と来年、ジューンブライドを挙げる。
安い駅前の喫茶店でと言うのが如何にもな二人で、俺は「おめでとう、泣かしたらお前地獄の果てまで追い詰めるから、そのつもりでな」と冗談を言い、マナが「だから男のことでは泣かないって言ってんじゃん、こんなん契約結婚だよ」と笑い、後輩が「そんな、マナちゃ~ん」と泣きついた。
どいつもこいつも、幸せになりやがれ。
そんで勝手にどっかへ飛んでいけ。
俺は煙草をもみ消し、「くれぐれも、泣かすなよ」とそのネクタイを掴んでかつてないほど凄んだ。
後輩は、「は、ひゃい」と返事をした。
その頃、ようやく家に誰もいないのを見計らって、穂乃果がポテトチップスとコーラを持ってリビングにスタンバイした。
PS2を立ち上げ、オープニングが流れると、「独眼竜、推してまいるぅあ~」とキャラと声を揃え、一人ご機嫌にニコニコしている。
あの大騒動があった日も、穂乃果は二階で戦国BASARAの動画を夢中になって見ていて、階下の大騒ぎに気づいていなかった。
後日壁の痕を見て、「誰か物でもぶつけたのかな」くらいに思っていた。
ゲームは至福の時間なり。
「ただいまー」と美緒とヒナが帰ってきた。部屋に入ると、そこには消えたテレビの前で「ぐー」と寝こけたふりをする穂乃果の姿があった。
「お母さん今いません」
スッキリしました。