歪な薔薇②

気づいてあげられなくてごめん。
君はずっと、ずっと泣いていたのに。

玄関の呼び鈴を押したが誰も出てこなかった。
ノブに手をかけると、きいと音を立てて扉は開いた。
「すいません、天谷ですが」
僕が遠慮がちに中に声を掛けると、奥で人の動く気配があった。梓姉さんだろうか。
 
居間の扉を開けて出てきたのは和子伯母さんだった。
会うのは十二年ぶりだったが、派手な少しきつめの顔立ちと、ゆるくパーマをかけた胸まであるたっぷりした髪の毛は、幼い頃の印象のままだった。
しかし伯母さんはこんなに小さな人だったかと内心驚く。
化粧っけのないその顔は、やつれているようにも見える。髪はぱさぱさでつやがなく、目は真っ赤に充血していた。

「いらっしゃい」
伯母さんは、微笑みながらそう言った。
いや微笑み、というのは間違いか。
唇だけを歪んだように吊り上げ、その二つの目はちっとも笑ってなどいなかった。

そして、伯母さんは酒臭かった。
強い匂いを放つ酒は、まるで伯母の毛穴のひとつひとつから発散されているようだった。
その強い匂いにもたじろいだが、こんな、日のあるうちから酒を呑んでいるのか、ということのほうが僕をひどく驚かせた。
母さんは何も言ってなかった。おそらく知らないのだろう。十二年も会っていなかったのだから。

由奈が僕の手をぎゅっと握った。
その手は汗ばんでいる。由奈も僕と同じく不安になったのだろう。
僕は平常心を装い、大丈夫だというふうにその手を握り返した。

僕たちは居間に通された。
居間は脱いだ服やゴミでひどく散らかっていた。
ソファには雑誌や洗濯物が散乱し、テーブルの上には食べた後の食器が置きっぱなしになっている。

「どこかそのへんに座って」
と言う伯母の言葉に僕たちは困ってしまった。
それでもなんとかソファの上の物を脇によけ、僕たちは座る。

伯母さんは僕らの向かいの床にぺたりと座ると、テーブルの上においてあるウイスキーを、グラスにたぷたぷとついだ。
それをなめるようにして呑みながら、
「狭い家で不便だろうけど、我慢してちょうだい」
と言う。

僕と由奈がはい、と返事すると伯母さんは杏子の具合はどう、と僕に尋ねた。
杏子とは僕と由奈の母のことだ。
「まだ初期の段階とのことで、手術で腫瘍を取り去ってしまえば、まず心配ないとのことです。再発は怖いですけど…」
 
母親が乳がんに冒されているとわかったのは、つい最近のことだ。
初期と言われても怖いものは怖い。
自分の大事な家族の命が危険にさらされているのだ。
母の病気がわかってから、僕は今まで、なんて無意味に毎日を過ごしてきたのだろうと悔やんだ。
大事な人は「あたりまえに」傍にいてくれるわけじゃないんだ。

「あらそう、がんは怖いわねぇ」
自分の妹のことだというのに、伯母はさして興味もないというふうにそう言った。
僕の目も見ずに、酒を呑みながら。
「母が退院するまでの間、お世話になります。よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、隣の由奈も慌てて頭を下げた。

「いいのよ。困った時はお互い様よね」
 
そういって伯母は鮮やかに微笑んだ。
僕は、どうして大人は笑顔で嘘をつくのだろうと暗い気持ちになる。
僕が何も知らない子供だと思っているのだろうか。
今回の滞在は、もめにもめた結果だと僕は知っている。

あの十二年前の夏以来、伯母は僕たちがこの家に近づくのを拒んだ。
理由は梓姉さんの体調が悪いからとのことだったが、本当にそれだけだったのだろうか。
今回も伯母さんはこの家で僕たちを預かるのを拒否し、母の再三の願いにも応じなかったようだ。
父も母もはっきりとは言わなかったが。困りかねた父が伯父さんに話を通し、伯母さんもしぶしぶ承知したという形だった。
それを知っているから、伯母さんの取り繕った態度に、何かすっきりとしない感情が湧きあがる。
 
窓は開いているが、風は入ってこない。
クーラーをつけていないこの部屋は、蒸し風呂のように暑い。
外のほうがまだ気持ちがいい。
Tシャツの背中はじっとりと汗ばんでいる。

「そういえば、梓姉さんは?」
梓姉さんは、和室の縁側から中に入っていった。
和室はこの居間と廊下ひとつ離れている。
「梓?あの子はめったに部屋から出てこないわよ」
伯母さんは不機嫌そうに言う。さも嫌な言葉を口にするというように、梓姉さんの名前を呼んだ。
僕はなぜだろうと不思議に思う。

「さっき庭で姿を見かけたのですが、怪我をしているようなので、手当てしたほうが…」
血は止まっただろうか。僕は急に心配になった。
「怪我?」
と、伯母さんは僕に聞き返す。
「薔薇の棘で、手を…切ってしまったようで」

自分で棘を握っていたとは言わないほうがいいような気がしたので、言わなかった。
「ふうん。あの子の部屋は二階に上がって左よ。行っても無駄だと思うけど」
伯母の持つグラスの中のウイスキーが、たぷん、と揺れた。
この部屋は汚く、酒の匂いが充満している。

救急箱を探すのに十五分かかった。
あちこち探し回り、結局それは居間の棚の中にあったのだが、そこにたどり着くまでには、ゴミやダンボールや脱ぎ散らかした服などをどけなければならなかった。
由奈に救急箱を持たせ、僕は水を張った洗面器を持って、ふたりで階段を上がった。

「お兄ちゃん、私たちいつまでここに住むの?」
後ろをついてくる由奈の声は寂しげで不安そうだ。
まだ小四の由奈には色々なことが不安でたまらないのだろう。
母さんの病気のことだって、きっと僕以上に心配なんだろう。

「母さんの手術が終わって退院したらちゃんと帰るよ。心配しないで」
由奈は黙って頷いた。
階段を上りきると暗いひんやりとした廊下が左右にのびていた。
伯母さんの言っていたとおり左の扉へ向かう。
廊下はとてもしずかだ。僕は床に洗面器を置くと、扉をノックした。

「梓姉さん?」
返事はない。もういちどノックする。
すると「…何か用」と、部屋の中から不機嫌そうな声が返ってきた。
「怪我の手当てをした方がいいと思って」
僕がそう言うと扉がガチャリと開いて、梓姉さんが姿を現した。
「必要ないわ」

梓姉さんは腕組みをして開いた扉に寄りかかる。
改めて見るその美しさに僕は息を飲む。
青白く見えるほどに、透きとおった白い肌。
長いつややかな黒い髪。
面立ちは整っていて、すっと通った美しい鼻に意思的な眉毛が印象的だ。
しかし僕の胸を打ったのはそれらではなく、きついのだがどこか寂しげに見えるその瞳だった。

梓姉さんは服を着替えていた。
おそらく血がついたからだろう。黒いシンプルな形のワンピースを着ている。
怪我したほうの手には白いハンカチが無造作に巻かれていた。

「傷は洗った?」
「洗ってないよ、そんなの」
「化膿したら大変だから、僕に手当てさせて。けっこう上手なんだよ」
小さいころから家族の怪我の手当ては僕の役目だった。母が手当ての方法を教えてくれたのだ。

「しつこいな!」
梓姉さんが突然大きな声を出した。
後ろにいる由奈がびくっと後ずさりしたのがわかった。
梓姉さんはすごい速さで僕の前に立ちふさがると僕のシャツの襟の部分をぐっと掴んだ。
あまりの恐ろしい形相に僕は声も出せなかった。

「いいって言ってるだろ」
その目は本気で僕のことを拒否していた。
僕の脳裏に十年前の梓姉さんの笑顔が甦る。
砂糖菓子のように、ふわりと優しく、そして儚い微笑み。
目の前の暗い目を事実として認識したくなかった。

信じたくなかった。目の前にいるのは本当に梓姉さんなのか。
僕の顔を見て姉さんは唇を歪めて笑った。
「あたしが恐い?」
次の瞬間梓姉さんは僕の肩を思いきり突き飛ばした。
僕はよろめき壁に手をついた。

「あたしにかまうな!」
そう吐き捨てるように言うと梓姉さんはばたんと扉を閉め、部屋に入ってしまった。
僕と由奈は取り残されてしまった。
薄暗く、湿った、どこか陰気なその廊下に。

歪な薔薇②

歪な薔薇②

昼間から酒を飲む伯母。 壱星を全身で拒否する梓。 いったい相楽家の十二年間に何があったのか?

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-03

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