蝶の手紙

 一羽の蝶がやってきて、私の目の前で羽ばたき始めた。それは誰かからの手紙のようだった。蝶の羽は幾重にも重なっていて、英語の筆記体のような文字でメッセージが書かれている。おそらくはそれを翻訳しているのであろう音声がどこかから聞こえてくる。ページは次々に捲られていき、音声はいつまでもかしましく響き続けているが、私にはどちらの言葉もうまく理解することができない。
 「どうしてそんなにつまらなそうな顔をしているの」私は隣を歩く直哉に尋ねた。
 「そんなことないさ」と答えた彼の口調は、もう何も聞きたくないししゃべりたくもない、と言っているようで、私は黙ってしまった。
 私たちは左右に田んぼが広がる道をゆっくりと歩いていた。遠くに濃い緑の山並みが見え、周りを見渡しても建物ひとつ見当たらなかったが、足元の道はアスファルトで固められていた。私は裸足だったから、足音は響かなかった。そこにある音は、蝶が読み上げるメッセージだけだった。
 一言も理解できなくても、私にはそれが愛のメッセージで、私にではなく私と直哉の子供に向けられた言葉なのだとはっきりわかった。私はきっと妊娠しているのだ。
 何にも気付いていないような顔をして、直哉は私の隣を歩いている。でも、もしかしたら彼には蝶の発する言葉がわかっているのではないかしら、とふと思う。
 「気に入ってくれるのかな」直哉が呟いた。
 「え?」
 「つまり…山や、海や、蝶や、昼や、夜や、男や、女や、車や、ビルや、学校や、友達や、先生や、勉強や、詩や、音楽や、絵画や、宗教や、神や、真理や、嘘や、パンや、酒や、金や、生や、死や、君や、僕や、つまりは、そういった全部をだよ」
 「大丈夫よ」私は自分でも驚くぐらい確信をもって即答していた。それは、本当かどうかはどうでもよくて、大丈夫、と言うのが私たちの、この世界のならわしなのだ、という確信だった。私は直哉の手をそっと握りしめた。「全部とはいかないでしょうけどね」
 やがて私たちは小さな川にたどり着いた。蝶の手紙はすでにどこかへ消えていたが、河原に咲く花々には無数の蝶が群がっていた。私たちが近づくと、蝶たちは道を開けるようにふわふわと飛び立っていった。色とりどりの羽が陽光を反射してきらめいていた。
 直哉が私の手を強く握り返して「うん」と頷いた。それはさっきの私の言葉への返答のようだったが、妙に遅れた反応だったから、私は少し笑って、直哉もつられてちょっと吹き出した。
 私たちはゆっくりと川沿いを歩いた。あと二、三年もすれば、子供と一緒に三人で手をつないで歩いているのかもしれないと想像してみる。まだ見ぬその存在は私と直哉とを隔てているようにも、結び合わせているようにも思えたが、でもまあ、どっちだっていいじゃないかと、私は直哉とつないだ方の手を大きく揺すりながら歩き続けた。

蝶の手紙

蝶の手紙

一羽の蝶から、命のメッセージが届く。1,200字。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-03

CC BY
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