愛され、愛する方法 【第三巻】

愛され、愛する方法 【第三巻】

百 恋人を訪ねて Ⅰ

 社員が大勢居れば、その中には一人や二人組織に馴染めず仲間に溶け込めないやつが居るものだ。
 紀代が勤める製菓会社の総務部に居る中込陳平(ちんぺい)と言う男も組織に馴染めない男の一人だ。陳平は身長183センチ、体重85キロ、がっしりとした筋肉質の男だが、イケメンじゃない。鳥取の豊岡の出で、近大豊岡短大に進み、男じゃ珍しくこども学科に進んで卒業後社会福祉主事任用資格と保育士の資格を取って東京に出て来た。特別に子供が好きだってことはなかったのだが、成り行きでそんなコースを辿ったのだ。陳平と言う名前が受けて、どこに行っても同僚には親しまれたが、上司との折り合いが悪く、同じ職場に三ヶ月と持たず、色々な職場を転々として、最後に製菓会社の総務部に落ち着いた。相変らず上司とは折り合いが悪く、言って見れば扱い難く適当に責任のない仕事をさせられていて本人も腐っていた。

 紀代は新しいアフリカプロジェクトの人選で人事部長に呼ばれた。
「秋元君決まったかね」
「はい。学校の夏休みの間約一ヶ月間の出張予定にしまして、企画会議のメンバーから加藤絢、筑紫真理子、寺田芳江の三人にしました。本人とご両親の了解は取ってあります。加藤が中三、筑紫と寺田は二人とも高二です」
「それでだ、アフリカじゃ治安の問題もあるからね、女の子ばかりじゃ心配だ。僕の方から総務部長の了解を取って中込君も入ってもらうようにしたよ。総務じゃ雑用係りだがね、体格が良いから旅行中頼りになると思うよ。一緒に連れてってくれ」
「あたしも男性が一人か二人必要だと思っていました。助かります」
「ん。市場調査も兼ねてだ、営業部長が営業三課の森野良雄君を是非加えてくれと言ってきてるのだよ。秋元君は異存はないかね? 語学は達者らしいよ」
「語学の達者な方ならすごく助かります」
「そうすると、君も入れて全部で六名のチームになるんだな?」
「はい。男性二名、女性四名です」
「そうか、充分気を付けて行ってらっしゃい。良い結果を期待しているよ」

 ファンドを組むとなると、役員会の承認が必要で、紀代が提案したアフリカプロジェクト、略してアフプロは全役員を始め管理職全員が知ることとなった。プロジェクトリーダーの紀代は今までの新製品企画会議の実績を買われて、反対をする者は誰も居なかったらしい。
 メンバーの人選が決まると、紀代は早速全員を集めて打ち合わせ会を行った。企画会議では希望者が十一名も居て絞り込みに苦労したが、紀代は普段の仕事への取り組みを考慮に入れて、絢、真理子、芳江の三人に絞り込んだ。なので、人選に漏れた者たちの中にはかなりガッカリして落ち込んでしまった者も居た。
「用意する物は、個人用は一ヶ月の長旅になりますから、下着、歯磨きなどの日用品を揃えておいて下さい。食料は全部チームで用意します。仕事関係ではお菓子のサンプル、これは相当の分量になりますが、今回の目的に合ったお菓子を新しく作ります。他に現地の子供のアンケート用紙、筆記具なども必要量調達します。今回のプロジェクトは独立行政法人国際協同機構(JICO)の青年海外協力隊のボランティア活動の一環としてJICOの協力を取り付けてありますから、荷物は航空貨物便としてナイル川沿いにあるJICO EGYPT OFFICE に直送しますので、各自はそれぞれ用意した個人用の荷物だけ持って出かけることになります。現地に着きましたら、エジプト事務所をベースキャンプにして、荷物を必要量小分けしてキャラバン隊を編成して出発します。4輪駆動の車を三台現地調達して出すつもりです。我々のメンバーは六名ですが、現地の案内人、通訳が二~三名加わります。また治安が悪い国ではJICOの協力を得て現地の治安部隊の護衛も頼む予定です。日本と違って治安が相当に悪いと思って行きましょう」

 紀代の話を聞いてメンバーはかなり緊張している様子だった。その中で、陳平の目が輝き生き生きしていたのが紀代の印象に残った。
 会議が終わってから紀代は、
「中込君、今夜お茶に付き合いなさいよ」
 と陳平を誘った。
 鶴見駅近くの居酒屋で、紀代は陳平と話をした。
「実はね、アフリカに行ったついでにあたし、人探しをするのよ。あなた手伝ってくれるわよね」
 紀代は陳平にストレートに切り出した。思った通り陳平は快く、
「オレで良ければ」
 と了解してくれた。
「この話は個人的なものだから内緒よ」
「分ってますよ」
「お腹空いてない?」
「空いてます」
「じゃ、晩飯奢るわよ。食べたいものがあれば何でもいいよ」
 それで、紀代と陳平はとんかつ屋に移って晩飯にした。陳平は身体がでかいせいか良く食べた。

 翌日から紀代は分担を決めて準備に取り掛かった。女の子は菓子作りの手配に多忙となった。甘い物、しょっぱい物、醤油味、味噌味、スナック味、揚げ物、焼き物、などなど、甘さと辛さ、塩加減は同じ菓子でも三段階に分けたから、サンプルの種類だけでも百を越える始末だ。分量は概算で総計3トンにもなる見込みだった。菓子は目方の割りに嵩があるから、全部で大型トラック一杯分くらいになる見込みだった。
 紀代は不在中製造課長職を課長代理の水野に任せて、自分はサンプルの製造に専念した。

 出来上がってみるとサンプルは4トンを越えていた。それを業務部に掛け合って国際航空便でエジプトに発送する段階になった。紀代はJICOが絡むと税関など出荷の手続きが円滑に行くことを知った。JICOは日本を代表して海外への支援を行っているのだから当然と言えば当然だが、こんなに役人が協力をしてくれるとは思ってもみなかった。もちろん現地での受け入れにも現地の役所とのすり合わせをJICOがやってくれたから、当初思っていたよりもずっと楽に荷物を送ることができた。紀代は、
「やはり組織は大事だなぁ」
 と思った。

 出発当日、加藤絢、筑紫真理子、寺田芳江の三人の親が心配顔で羽田空港に見送りに来た。一向は羽田から関空に飛び、そこからエジプトへ向って飛び立つのだ。
 紀代は仕事の責任が重かったが、それに増して光二の行方を捜すことに心を弾ませていた。愛する恋人探しだ。
 こうして、紀代は恋人を訪ねて一万里の旅に出た。東京からカイロまで1万km以上あるから、往復だけでも五千里にもなるのだ。恋の力は凄い。

百一 恋人を訪ねて Ⅱ

 紀代はボツワナについて調べながら既にキャラバン隊の行動作戦を立てていた。
 最初はエジプト、スーダン、エチオピア、ケニアと回り、次は西部のモーリタニア、マリ、セネガル、ギニア、リベリア、コートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、最後は中部から南部のコンゴ、タンザニア、アンゴラ、ザンビア、ジンバブエ、モザンビーク、ナミビア、南アフリカ、そして紀代が一番行きたいボツワナを回る予定だ。
 アフリカは結構国の数が多い。リストから落とした国々は他にも沢山ある。

 このリストを持ってJICOの事務所から来た担当者に相談すると、一ヶ月じゃとても回りきれないとあっさり却下されてしまった。
「秋元さん、アフリカはね地図で見るよりずっと広いですよ」
「えっ? どう言うことですか」
「交通事情ですよ。なんたって一雨降ると道がなくなってしまう所がいっぱいあるんですよ。おまけに砂漠が予想以上に点在していて、砂漠を突っ切るのは危険なので迂回をさせられることも多いです」
 紀代は困った。それでカイロまで同行してくれるJICOの担当者に具体案を聞いた。すると、
「そうだなぁ、東側で三国、西側で三国、中央から南で四国、合計十ヶ国に絞って下さい。それでも多いくらいですよ」
 と助言してくれた。

 相談の結果、東部はエジプト、エチオピア、ケニア、西部はリベリア、コートジボワール、ガーナ、中央から南はコンゴ、ザンビア、ボツワナ、南アフリカの計十ヶ国にした。
 いずれも首都を中心に回るので、移動は主に航空機にして、着いた街でレンタカーを借りて近辺を回って見る旅程に変更した。それぞれの街にJICOの事務所があるので、カイロで荷物を分けて、予め航空便で発送することにした。
 一行の六人と同行してくれたJICO事務所の二名、合計八人は関空からエジプト目指して飛び立った。
 紀代はキャラバン隊のサブリーダーに営業から来た森野良雄を指名した。森野は英語の他にフランス語も少しできると言ったので心強かった。アフリカはかって植民地だった時代の文化を引き摺っていて、フランス語を話す国は案外多いのだ。現地で通訳を頼むにしても、英語だけでは心細い。
 森野は丁度三十歳だが、結婚をしていて、横浜に奥さんと息子と娘を置いてきた。森野の他は皆独身だから、森野が一番落ち着いていた。

 紀代がボールペンで書いたり消したり計画書の修正をしている間に、飛行機はカイロ国際空港に着陸態勢に入っていた。紀代は一睡もせずにエジプトに来てしまった。
 空港にはJICO事務所の担当者が出迎えてくれた。皆疲れた様子なので、紀代はその日は行動をフリーにして比較的宿泊費の安いHotel Longchampsと言う所に投宿することにした。総勢六名ともなると、高いホテルでは直ぐに予算が底を突く。
 女の子たち三人は森野にエスコートしてもらって市街見物に出した。中込陳平はと言うと関空からここまで紀代にぴったりで恋人のように何かと紀代を気遣い、紀代がホテルに残って寝たいと言うと、
「オレもホテルに居ますから、何かあったら呼んで下さい」
 と言った。紀代は寝不足だったので、その日はホテルで熟睡した。
 紀代は目覚める寸前に、光二が高い崖っぷちで足を滑らせてまっ逆さまに転落する悪い夢を見た。
「光二さん、光二さんしっかりしてぇ」
 と紀代は大声で叫ぼうとするのだが、声が出ない。しかも光二に手を差し延べようとしても身体が固まって全く動かず、もがいている間に光二が転落して、それで目が醒めたのだ。紀代は背中にびっしょり冷や汗をかいていた。

百二 恋人を訪ねて Ⅲ

 三人の娘達と森野をカイロ市街見物に出した紀代は、安全を考えて、観光客を拾ってホテルを回るワンデーツアーをプレゼントした。会社の経費では落とせないから、紀代のポケットマネーだ。
 夕方までぐっすり眠った紀代の部屋に三人の娘達がやってきて、スフィンクスやピラミッドを見た時の興奮を熱っぽく話してくれた。
「話は聞いてたけど、実物を見ると凄いね。秋元課長のお陰よ」
 ピラミッドとスフィンクスが見られるカフラー王の墓は市街から一番近く、街の中心部から15kmほど離れた郊外だからワンデーツアーでもゆっくり見物できたらしい。
 ホテルで夕食を済ますと、紀代はミーティングのため皆を集めた。JICOの職員とすり合わせをした計画を説明すると陳平が、
「JICOに協力してもらったのはもちろんいいんだけど、もっと規模がでかい組織の国連のユニセフにも協力してもらったら、子供たちと効率よく接触できるんじゃないですか」
 と提案した。加藤絢、筑紫真理子、寺田芳江の三人の娘達も陳平の意見に賛同した。営業の森野が自分もユニセフに協力をお願いしてはどうかと言おうとしたら、紀代が森野を遮った。
「あなたたち、アマちゃんだわね」
 そう言われて皆紀代の次の言葉を待った。
「あなたたち、ユニセフがどんな活動をしているのかご存知よね。アフリカには食料不足で栄養失調の子供たちが大勢居るのよ。ユニセフはね、そんな地域の子供たちに食料支援や医療支援をしているの。知ってるでしょ?」
「はい」
 と芳江が答えた。
「あななたちに聞くけれど、あたしたちはそんな子供たちに食料支援に来たの? そうじゃないわよね。あたしたちは慈善事業でこんな所に来たわけじゃないのよ。そりゃ、栄養失調で苦しんでいる子供たちの所にお菓子を一杯持って行ってあげたら感謝されるし、子供たちが取りっ子してあっと言う間に手持ちのお菓子はなくなるわね。アンケート、市場調査をそんな状態で出来る? そんな子供たちは読み書きもろくにできないのがうじゃうじゃいるのよ。出来ないでしょ? それに、そんなお金のない子供たちがあたしたちのお客様になる? ならないでしょ?」
 紀代の話を全員が唖然として聞いていた。
「あたしが言っている意味、分った?」
 紀代は皆の顔を見た。皆叱られた子供みたいに顔を下に向けて黙っていた。
「あたしの計画は富裕層狙いよ。明日から街でお金持ちの姉弟が通っている小、中、高の学校を回るのよ。アフリカは貧しい人ばかりだと思っている人がいますけど、富裕層の中のお金持ちは日本のお金持ちより凄いのよ。大邸宅に住んで、召使を十人、二十人雇って、高級車を乗り回して、奥様はヨーロッパの高級ブランド品で身を固めているような人たち、最近は資源や観光収入のお陰で富裕層が急速に増えているのよ。子供たちは贅沢な教育を受けて、高校を卒業すると欧米の大学に留学するのよ。あななたちのご家庭よりずっと裕福なのよ。そんな生徒さん達は大抵英語やフランス語の読み書きが出来るし、アンケートだってちゃんと答えてくれると思うわよ」
 ようやく皆は紀代の考えが分った。
「今から十年、二十年後を考えるとね、今はまだ比率が低い富裕層が次第に広がって中産階級の方々まであたしたちの製品の購買層のターゲットになるわね。ですから、今が市場に食い込むチャンスなのよ。あなたたち、中国や韓国に行かせて頂いたわね。中国もあたしたちより前の世代は貧乏な人が多かったけれど、今は化粧品とか高級ブランド品なんかが富裕層中心に大きなマーケットになったわね。それを忘れないで下さいな」
 紀代の話しが終わると、全員ユニセフを提案したことが間違っていたことに気付いた。営業出の森野は紀代よりも年上だが、紀代の物事の考え方に敬服していた。脱帽最敬礼だ。
「秋元課長、さすがですね。僕は営業に籍を置いてますが、恥ずかしいです」
 紀代は森野は正直な奴だと思った。こう言う人間は信頼できるのだ。

「最後に、このプロジェクトの戦略を説明するわね。これから回る学校の生徒さんたちは十年後どうなってると思う?」
「社会人でしょ?」
 と一番年下の絢が答えた。
「そうよ。女の子は裕福な家庭の奥様になったり、男の子は役所や会社のエリート間違いなしよね。ですから、将来うちのお菓子を輸出する時、子供の時から会社を知ってもらったら、輸出する時に何かと力になってくれるわよね。ですから、今回市場調査をした学校の生徒さん達とはこれからも機会を作って仲良くしていくのよ。それは絢ちゃん、真理子ちゃん、芳江ちゃんのこれからの大切なお仕事よ。分った?」
 すると真理子が、
「だったら訪問先の生徒さんたちとミーティングができるチャンスが欲しいな」
 と呟いた。紀代はすかさず、
「やっとあたしの気持ちを分って下さったわね。真理子ちゃんの言う通り、JICOの方にお願いして、学校毎に生徒さんたちと一時間程度ミーティングできるようにセットをお願いしてあるのよ」
 ようやく全員の気持ちが穏やかになった所で紀代は散会した。

百三 恋人を訪ねて Ⅳ

 エジプトの学校制度は一九九九年に改訂されて、現在は日本と同じで6・3・3・4制だ。カイロには小、中、高があるが、公立の学校には外国人が入学できない。私立には米系、英系、独系、仏系の学校があり、私立にはエジプト人も外国人も入学できる。
 エジプトは人口の約九割がイスラム教徒だから、食べ物は Halal(ハラール)認定された物でなければならない。紀代は食品関係の仕事に長く居たから、イスラム系諸国に食べ物を輸出する時に最も重要な要件であることを良く知っていた。
 ハラール認定を取得するのは容易ではない。それで、イスラム系の国で配るお菓子は既にハラール認定を取得しているものに限定して持って来た。
「ハラール認定って知ってる?」
 紀代はキャラバン隊の出発前に予備知識として皆に説明を始めた。
「聞いたことあるけど詳しくは知りません」
「そお言うと思ってパンフレットを持ってきたわ」
 それを皆に渡すと、
「ハラールと言う言葉はね、アラビア語で[合法の]とか[許可された]という意味なのよ。違法なのはハラーム(haram)、 似た言葉だから間違えないように気を付けなくちゃね。ハラールとハラームはね、イスラム教徒の人が食べたり、飲んだり、使ってもいい物を表す時に区別するために使われているのよ。あたしたちが持って来た製品がハーラルかそうでないかは袋にちゃんとアラビア語で書かれたマークが付いているか付いてないかで分るんですけど、このマークは勝手に付けると厳しく罰せられるのよ。このマークを付けても良い製品は原材料と製造工場の設備がちゃんとIFANCAと言う所の審査に通って承認されているものに限られているのよ」
「IFANCAはどこにあるんですか?」
 と真理子が聞いた。
「本部はアメリカのイリノイ州にあるのよ」
「へぇーっ? アメリカに。あたし、てっきりサウジとかにあるんだと思ったな」
「イスラム諸国ではお役所の中にハラールを担当している部署があるのよ」
「じゃ、あたしたちが持って来たお菓子、審査に合格してるの」
 と絢が聞いた。
「もちろんよ。偽物じゃないよ。うちのお菓子をイスラム教徒が多いフィリピンとかインドネシアに輸出してるでしょ? その時すごく苦労して認定をパスしたのよ。エジプトはイスラム教徒の方が多いから、このことをしっかりと覚えておいて下さいな」

 その日最初公立小学校、続いて公立中学校、最後に公立とフランス系の高校を回った。紀代は試食会の他にアラビア語、英語、フランス語で併記された会社のパンフレットとお土産用のお菓子を用意してきた。ミーティングはどこの学校でも歓迎されて、絢と真理子と芳江は子供たちと仲良くすることに努めていた。
 教師たちの評判は良かった。特にハラールマークが付いているお菓子だったのが好感を持たれたようだ。試食会では子供たちは皆、
「美味しい」
 と言ってくれた。良家の姉弟が通う学校を選んだせいか、行儀が良く、礼儀正しかった。
 最初の催しとしては成功だと紀代は思った。森野も中込陳平も張り切っていた。

 翌日紀代が次のエチオピアへの準備をしている時、アフマド・アリー・アッサイイドと言う男がホテルに訪ねて来た。紀代が応じた。
「実は昨日そちらのお菓子を娘が学校から持ち帰りまして、食べて見ましたらなかなかの味でした」
「それはどうも」
「そこでご相談ですが、私はエジプトを始め、サウジ、ヨルダン、リビア、アルジェリア一帯に食品を販売している会社をやっております。どうでしょう、御社の美味しいお菓子を私共で扱わせて頂けませんでしょうか」
 紀代は直ぐに営業出の森野を呼んで同席させた。
「あたしたち、これから一ヶ月間アフリカの各地を回ります。恐れ入りますが、お話しを決めるには営業のゼネラルマネージャーと交渉して頂く必要があります。アフマドさん、九月になりましたら、一度お嬢様を連れて日本にお出で下さいませんか? 旅費と宿泊費は私共で負担します。ご招待ってことでいかがでしょう」
 アフマドは必ず日本に行くと約束して帰って行った。
「森野さんも忙しくなるはね」
 森野は昼間も張り切っていたが、思いもしなかった引き合いの話に気分を良くしていた。

 夜ベッドに潜り込むと、紀代はまた光二の安否のことが気になりだし、なかなか寝付けずに、仕方なくロビーに出た。陳平はまだ起きていた。ホテルの中をぶらぶらしていると、紀代がロビーに行くのが見えて、紀代の方に来た。
「まだ起きていたんですか」
 陳平の声に紀代は一瞬驚いた。
「まだバーはやってると思います。ちょっと飲みませんか」
 陳平の誘いに、紀代はそれもいいかと同意してバーに行った。
「秋元さんが探している人は男性ですか?」
 少し飲んだ所で陳平が紀代の尋ね人について聞いた。
「そうよ。あたしの彼」
「どうしてアフリカに?」
 陳平は興味深々だ。紀代はあまり深入りされても困ると思った。
「あなた、彼女いらっしゃるのでしょ」
 紀代は話を陳平に振った。
「居ました」
「じゃ、今はいないってこと?」
「はい」
「どうして別れたの」
「別れると言うか正確には振られました」
「振られてから大分経つの」
「もう一年になります」
「そう? 淋しくない?」
 陳平は良くぞ聞いてくれたと言う顔で、
「淋しいです」
 と答えた。

「絢ちやんたちに手を出したら許しませんからね」
 紀代はちょっと怖い顔で陳平を睨んだ。
「オレ、紀代さんにこうして睨まれると、なんかぞくぞくして……好きだなぁ、紀代さんのそんなとこが」
 と冗談でもなく真面目な顔で答えた。
「陳平さん、もしかしてMなの」
 紀代は悪戯っぽく聞いた。
「Mなとこちょっとだけあるかも」
 陳平は口を少しゆがめて恥ずかしそうに答えた。
「あなたのごつい身体つきじゃ似合わないよ」
「紀代さんはきついなぁ」
「一度虐めてあげようか」
「ほんとですか?」
「バカねぇ。冗談よ」
 と紀代は笑った。
 そんなたわいもない話をしているうちに、紀代は眠れるかも知れないと思ってバーテンに勘定を頼んだ。
 ベッドに戻ってからも、紀代はなかなか眠れなかった。明け方また光二が死んでしまう怖い夢を見た。今度は光二がサバンナの真ん中で大きな雄ライオンに襲われて足から喰われて行く光景がリアルで紀代はまた冷や汗をかいていた。

百四 恋人を訪ねて Ⅴ

 紀代たちのキャラバン隊はエジプトで成功して気を良くして、エチオピアの首都アディス・アベバに乗り込んだ。だが、紀代はエチオピアを選んだことが失敗だったと直ぐに気付いた。
「来てしまったんだから、仕方がないわね」
 紀代は自分に言い聞かせるように呟いて、JICOの担当者がセットしてくれた学校を訪問した。
 エチオピアの学校制度は一年生~十年生まであって、一年~八年までが低学年、九年と十年が高学年となっていた。高校は十五歳~十八歳の四年制でちゃんとした公立高校があるのだが、訪問した学校はなんたって一クラス九十人で全校で七千人もの生徒が居るのだ。一年と二年は授業料免除だが、三年から年に約千円の授業料を徴収されるものだから、授業料が払えなくて辞めちゃう生徒が多いと言う。そんなガキが日本の値段の高いお菓子なんて食えるはずがないと紀代は思った。
 エチオピアと言う国は外国の銀行がないのだ。法律で認められていないらしい。要は殆どが国営で民間企業が育っていないのだ。若い者の失業率は何と七割もあるそうだから、貧しいの一言に尽きる。民間の土地の所有は認められていなくて、事業を起こそうにも融資が受けられないと言うではないか。言ってみれば役人の天国だ。
 紀代は困った。最初に訪問した学校は生徒が多すぎて試食品が足りない。それで、高学年の中から三十名ほど選んでもらってミーティングを行った。だが、殆どの生徒はその場で食べずに家に持ち帰ると言うから感想を聞くわけにも行かないのだ。
 エチオピアはキリスト教徒が多くて、エジプトと違ってイスラム教徒は三割程度だった。英語はわりと通じるのだが、現地語と混じるので現地で採用した通訳を通すことが多かった。

 紀代はミーティングを早々に切り上げて、午後はホテルで打ち合わせと反省会をやることにした。翌日は高校でも高学年、つまり三年生と四年生から三十名ほど選んでもらってミーティングをやれるようにJICOの担当者に頼んだ。
 午後、早めにホテルに戻ったキャラバン隊は集まってミーティングを行った。皆紀代と同じようにがっかりした顔をしていた。
 紀代はこのプロジェクトを立ち上げる前に読んだ分厚いアフリカ諸国の経済について書かれた参考書を持って来ていた。エチオピアは赤道に近い熱帯の国だが、地図を見ると国土の殆どが山岳地帯で、やってきた首都のアディス・アベバも標高が高く、それほど暑さを感じなかった。
「エチオピアは農業国なのはご存知よね」
「はい。地理で勉強しました」
 と芳江が答えた。
「主要農産品は何?」
「コーヒーです」
「そうよ。コーヒーだわね。でも最近切花の生産が急増しているのをご存知?」
「切花って、花瓶に活けたりするお花?」
 と絢が聞いた。
「そう。エチオピアはバラの生産が盛んで殆どオランダに輸出しているの」
「へぇーっ? 知らなかったな」
 と真理子が言った。
「ですから、オランダの会社がいくつも進出してるのよ。賃金が安いのと、気候が栽培に適していることが理由だって。ですから、労働者は貧しいわね。一握りの農園経営者のオランダ人にうちの製品を勧めても意味ないし」
「切花と言うと最近日本も輸出に力を入れてるって話し聞いたことがあるな」
 と営業出の森野が言った。
「まだ数量的には少ないそうよ。あなたバラの花、日本は年間どれくらい輸入しているかご存知?」
「二十万本とか五十万本だと聞いたことがあります」
「それって古い話しだわね。日本で年間何本位生産しているかご存知?」
「そうだなぁ、一億の人口として、一人一本、一億本位ですか?」
「統計だと五億本にもなるそうよ。日本の女性はお花が好きな方が多いから」
 すると真理子が
「あたしもバラ大好き」
 と言って皆を笑わせた。
「さっきの話しですけど、日本には年間八百万本ものバラが輸入されているそうよ」
「へぇーっ? そんなにぃ」
 と芳江が驚いて、
「もしかしてここのエチオピアから沢山輸入してるの」
 と聞いた。
「ハズレッ! バラはね、輸入の約半数がインドからなのよ。その次に多いのは韓国。この二ヶ国で約八割だわね」
「話しが脱線しちゃったけど、エチオピアでうちのお菓子を買ってもらえるようになるまでは十年、二十年先になってしまいそうね。お菓子は貧しい国じゃ贅沢品ですから、仕方がないわね」
 仕事のミーティングが終わって、紀代は一人になると、ここのとこ恋人の光二のことを想って物思いにふけることが多くなった。
 昨夜も嫌な夢を見てしまった。今夜はそんな夢見たくないなぁ。そんな風に考え込んでいると陳平が、
「夕食まで時間があるから、お茶でもしませんか」
 と声をかけてきた。それで、紀代は森野に
「ちょっと街に出ます」
 と断ってホテルを出た。アディス・アベバは治安が相当に悪いから充分注意をしてくれとJICOの担当者から言われていたので、ホテル近くのカフェに入って見た。だが、東洋人のためか、人相の悪い男たちがジロジロ見ているので、紀代は危険を感じてホテルに戻った。
「嫌な街だわね」
 陳平は何も言わなかったが同じように感じたらしい。

百五 恋人を訪ねて Ⅵ

 エチオピアで落胆させられたキャラバン隊は三番目の訪問国ケニアの首都ナイロビに飛んだ。
 飛行場から市街地に移動すると、エチオピアに比べてずっと豊かなのが分った。宿泊料が安かったので、紀代はFairview Hotelを予約したが、ホテルに着いてみると大当たり、平屋で大きくは無い建物は富豪の別荘のような感じで、内部はとても清潔だった。屋外プールまである。
 ケニアは長い間英国の植民地だったため、教育制度はきちんと出来ている様子で、裕福な家庭の姉弟は英国系の私立スクールに通っていることが分った。
 ケニアの学校制度は8・4・4制で、六歳~十四歳までは八年間プライマリースクールに通う。十五歳~十八歳までは日本の高校にあたるセカンダリースクールに通っている。
 紀代が感心したのは、小学校に上がる児童は幼稚園に通園が義務付けられており、プライマリースクールは義務教育で授業料は無料、高校は義務ではないが、二〇〇七年以降授業料が無料化されたと説明があり、
「日本よりも進んでるなぁ」
 と感じた。ケニアでは大金持ちの姉弟は欧米に留学させる家庭が殆どだと説明があつたので、市内の学校には大金持ちの姉弟は殆ど居ないらしかった。
 ケニアでは殆どの者が基督教で、イスラム教徒は数パーセントだった。だから、紀代は試食サンプルは全てハラールでないものを用意した。お土産用は一応家庭の宗教を聞いてイスラムの場合だけハラールマークの菓子を配った。

 英語が普通に通じる国で、生徒たちとのミーティングは良い感じで進めることができた。エチオピアと大違いで街中の治安はまあまあの感じだったので、紀代は二日間の学校訪問ミーティングが終わった三日目、皆にAfrica Veterans Safaris と言うワンデーツアーをプレゼントした。サハリで野生動物を見て回るツアーだ。これには皆大喜びだった。こんな所に来られるのは一生に一度あるかないかだから、ツアーから帰って来てもまだ興奮がおさまらなかった。
 紀代も皆と一緒にツアーに参加したが、ライオンを見たとたん、先日見た光二がライオンに足から食われる恐ろしい夢のことを思い出してしまった。
「紀代姐さん、お顔真っ青よ。大丈夫?」
 絢に気付かれてしまった。
 ツアーから戻って一息付いた時、フロントからグレース・ハドソンさんが面会に見えてますと連絡が来た。
 紀代がロビーに行くと、四十歳前後の美しい婦人が立って会釈した。話を聞くと、
「昨日息子が持ち帰りました御社のお菓子とパンフレットを拝見しました。私共はケニアで輸出入を手広くやっておりまして……」
 そこまで聞いて、紀代は森野を呼んで同席させた。森野も紀代も英語はできる。先方の婦人も流暢な英語だったので、会話は上手く進んだ。聞いてみると、ケニアの工芸品を輸出して、欧米から日用雑貨や食品を輸入しており、取扱高は年間十五億ドルにもなると説明した。日本円で千二百~千三百億円だからかなりの額だ。
 グレースは紀代や森野が若いので商談を持ちかけて大丈夫なのか訝る様子だったが、紀代はエジプト人と同様に日本に招待するから、是非来日してくれと頼んだ。
 グレースは夕食をご招待したいので皆さんでいらして下さいと言うので、紀代は招待を受けることにした。
 JICOの職員に送迎してもらい、夕方ハドソン邸を訪問して驚いた。日本で言えば大邸宅だ。広い芝生の庭に大きなテーブルが置いてあり、そこでディナーとなった。メイドが三名忙しそうに食器の上げ下げをしてくれて、学校で逢った息子も同席して賑やかなパーティーとなった。真理子と芳江と同年代の息子は絢も入れて女たちに囲まれて和気藹々の様子だった。
 森野と中込は婦人が相手をしてくれてご機嫌だった。紀代はハンサムなグレースの旦那と送迎してくれるJICOの職員とケニアの経済や社会について話をした。
 ナイロビも高原都市なので、気温は25度前後で快適だ。夜が更けてお開きになった所で娘達三人はグレースの息子からプレゼントをもらって気を良くして帰ってきた。
 紀代は明日はリベリアで遠いから荷物をまとめて早く寝て下さいと指示をして自分の部屋に戻った。

 トントンと扉がノックされた。鍵を開けると、森野と陳平がワインのボトルをぶら下げて立っていた。
「どうぞ」
 それで紀代と二人はワインを飲みながら雑談となった。
 どうやら陳平が気遣ってくれたらしい。昼間のサハリのこと、夕方のパーティーのことなど思い出話に花が咲いた。
「秋元課長のおかげで、めったにない経験をさせて頂きました」
 と二人とも紀代に礼を言った。確かに一生でこんな旅は二度とないだろう。
 〇時を過ぎて、二人はほろ酔い加減で帰って行った。
 二人が帰ってから、紀代は真っ白な大きなバスタブにお湯を満たしてゆっくりと浸かった。あたりは静かだ。どこか遠くから動物の鳴き声が伝わってきた。バスタブに浸かって、紀代はまた光二のことを思った。
「今頃どうしているのかなぁ」
 考えている内に淋しさが胸いっぱいになり、頬を伝って涙が零れ落ちた。

百六 恋人を訪ねて Ⅶ

 ケニアで仕事の手応えを感じた紀代は、予定通りナイロビからリベリア、コートジボワール、ガーナ諸国へキャラバン隊を移動した。この三つの国々は国境が接しているから一気に回ることにしていた。
 世界の歴史に詳しい者なら、この地域は欧米の植民地政策に翻弄されてきたことを良く知っている。真ん中のコートジボワールはその昔象牙の取引が盛んだったことから象牙海岸共和国と呼ばれていた。今では象牙海岸共和国と呼ぶことはないが、黒人奴隷の痛ましい歴史と重なる地域だ。
 長い間植民地だったためか、行ってみると電力、水、交通、通信などの社会インフラが東アフリカに比べて整備が進んでいた。
 特に通信では携帯電話が普及しているが、どの国も中国系企業の進出がすごくて、通信ばかりでなくて商業でも中国系の勢力が強くなっていたのには紀代は驚いた。こんなことは資料として持参した書物には何もかかれていなかった。
 リベリアではモンロビア、コートジボワールではアビジャン、ガーナではアクラに寄ったが、どの都市も街の商店の店頭に安い中国製品が溢れていて、商人は役人と深い関わりを持ち、中国製以外の製品の販売は難しいことも分った。こんな有様を見て、紀代は日本の外交の限界を肌で感じさせられた。

 試供品を学校で配って好みを聞くと、脂っこい方が良いと言う意見が多かった。不思議に思って調べてみると、中国製の菓子が普及していて、住民は次第に中国の味に馴らされてしまっているのが原因のようだった。かっては欧米のお菓子が幅を利かせていたらしいが、価格面で高価な欧米製の菓子は駆逐されてしまったらしい。
 紀代は自分の会社の菓子がこの地域で売れるだろうかと不安になった。第一は味だ。だが、味なら中国味に合わせれば好まれるだろう。だが、第二に価格だ。街の商店を見て歩くと日本製では原価割れをしてしまうような値段の菓子が溢れている。第三の問題だが、この地域では中国系の商人を通さないと売れないらしいことだ。発展途上国ではよくあることだが、裏社会のボスが牛耳っていて裏社会にも通じていないと思うように商売が出来ないらしいことも分った。JICOや日本の外務省の資料には書かれていないことだ。

 紀代は会津若松や郡山で商売の世界に首を突っ込んだ経験からそのことを良く理解していた。父親の辰夫が郡山でスーパーを立ち上げる時にも苦労しているのを見てきた。紀代を可愛がってくれる士道も裏社会の人間で、そんなことから父親の辰夫との縁ができたのだ。
 紀代はコートジボワールでは予算を無理してNovotel Abidjan に投宿した。一泊二食で日本円で三万と少しだ。ホテルは沢山あり安い所もあるが、今まで安いホテルに泊まってもらったから、南部アフリカへ移動する前にちょっと贅沢をさせてやろうと思ったのだ。
 南アフリカはコンゴ→南アフリカ→ザンビア→ボツワナの順に回り、ボツワナを最後にした。会社の仕事を終わってから一週間ほどもらって光二の消息を調べるためだった。この話は陳平にしか話してないが、今までの所陳平は約束を守って誰にも話をしていないのが嬉しかった。陳平は会社では鼻摘まみ的存在だと聞いて居たが、付き合って見ると良い性格も持っていると紀代は思った。

 明日はいよいよ南部アフリカに踏み入るのだと思うと紀代の心の中は不安と期待が入り混じって落ち着かなかった。
 午後時間が取れたので、紀代は水着に着替えてホテルのプールサイドでのんびりとコーヒーを啜っていた。コートジボワールの周辺地域は赤道に近い熱帯で、訪れたどの街も海岸に近く平地なので、八月の平均気温は二十四度だが、昼間は日傘なしには外を歩けないほど暑く感じた。
 紀代はコーヒーを啜りながら、ザンビアとボツワナのダイヤモンドとパラジウムの鉱山はどんな所だろうかと考えていた。ザンビアはボツワナに近いリビングストンで市場調査をすることに決めていた。リビングストンには世界でも名高いヴィクトリアの大滝がある。こんな所には一生かかっても来れるはずがない場所だからチームの女の子たちにも相当のプレゼントになるだろうと思った。もしかして、光二もそこを訪れたかも知れないと一抹の期待もあった。

百七 恋人を訪ねて Ⅷ

 紀代が率いるキャラバン隊はもう行動計画の後半になっていた。ほぼ計画通りの日程を消化して、コンゴ民主共和国の首都キンシャサに入った。地理に詳しい者なら良く知っていることだが、似た名前の国コンゴ共和国と国境を接しているが別の国だ。コンゴ民主共和国の方が面積がずっと広く、アフリカでは三番目に広い国だ。
 一向はFaden House, Kinshasa と言うホテルに落ち着いた。
「このホテル、思ったより清潔ですね」
 一番年下の絢が紀代にホテルの感想を話した。JICOの人に相談したりして予算と睨めっこでホテルを選んできたが、思ったより良くないホテルもあった。
 キンシャサは内陸の都市なので結構暑い。クーラーのきかないホテルだったら多分ホテルを替えたくなったに違いないが、このホテルは空調がしっかりしていた。
 夕食が済んでからミーティングを行った。紀代は本で覚えた知識を予備知識として皆に話しだした。
「コンゴと言う国はね、その昔ベルギーの王様の私有地だったらしいわよ。当時はコンゴ自由国だったそうよ」
「へぇーっ? こんな凄い大きな土地が王様の所有地だったの? さすがだなぁ」
 と絢は感心した。
「だから、独立運動が激しくなるまではコンゴはベルギー領。内戦が続いて、一時はザイール共和国と呼ばれていたんだけど、今はコンゴ民主共和国で落ち着いているみたい。でもね、内戦が続いて国土が疲弊して少し前までは世界でも貧しい国の上位に入っていたのよ」
 真理子と芳江は高校生なので、地理を少し知っていた。
「さっきホテルのロビーで黒人達が話をしていたけど、あれってフランス語みたいだったな」
 と芳江が言った。
「そうなの。この国は英語よりフランス語の方が通じ易いみたいだし、教育制度もベルギーの制度を見習って制定したそうよ」
 森野は仏語が少し使えるが、紀代は明日からの学校訪問に供えてフランス語が達者な通訳を雇った。

「この国はね、世界でも貧しい国の代表格だったのはつい最近までよ。所がこの数年、東南アジアをはじめ世界の発展途上国の経済成長が右肩上がりになって、沢山の地下資源が消費されるようになったのよ。コンゴと言う国は昔から世界トップクラスの鉱産資源国でね、ダイヤモンドをはじめ、ウラン、ラジウム、金、銀、亜鉛、マンガン、錫、ゲルマニウム、それに胴、コバルト、鉄鉱石、石炭まで産出するのよ。今は資源の価格が暴騰する時代だから、この国でも一部の金持ちは潤っているのよ」
 紀代は参考書の受け売りだが、皆は真面目に聞いていた。

「ダイヤモンドと言えばベルギーよね」
 と真理子が言った。
「そうよ、世界のダイヤ市場の八割をベルギーが押えているのよ。これには南アフリカやコンゴとベルギーの関係もあるのよ。アフリカでダイヤモンドの鉱脈が見付かる前はインドが主要産出国だったそうだけど、王室の私有地からダイヤが産出したなんて話だから。
 ベルギーは昔は貿易で栄えた国で、ダイヤモンドを磨く職人がベルギーのアントワープ、オランダ語だとアントウェルペン(Antwerpen)と呼ぶそうだけど、この街に集まったってことね。ユダヤ人の職人が多かったらしいわよ。今ではベルギー国営のダイヤモンド・ハイ・カウンセル(HRD)と言う所が世界のダイヤモンド市場をコントロールしているんだって。あら、本題と逸れちゃったわね。要するに、コンゴ民主共和国はこれから先は鉱物資源で次第に豊かになるって話よ」
 と紀代は笑った。

 ダイヤモンド鉱山が話題になって、紀代はパラジウムとダイヤモンドを追ってアフリカに渡った光二のことを思い出して無口になってしまった。
「秋元先輩、どうかなさったの?」
 芳江に気付かれて、紀代ははっと我に返った。
「あ、何でもないよ。ちょっと別のことを考えちゃった」
 と紀代は照れ笑いをした。

 翌日学校回りをしたついでに、キンシャサ市内のビジネス街、コンゴ川沿いのラ・ゴンベと呼ばれる所に行って見た。噂で聞いていた通り活気があり、ここからそう遠くない繁華街も賑わっていた。
 だが、コンゴは治安が安定していない。道路の信号機などは設置すると直ぐに壊されてしまうと言う始末だ。それで、街中を歩く時はJICOの担当者に同行してもらった。
 紀代は出来るだけ毎日工場長の矢田部と佐藤開発室長、それに製造部長にE―メールで一日の状況を報告していた。日本では通信速度が早くなりインターネットの使用環境が整っているが、アフリカでは大きなホテルでもアナログ回線で低速の通信しか出来ない所が多かった。だから、デジカメで撮った写真を送れたのはせいぜい三箇所位だった。低速の通信ではとても写真なぞ送れない。
 次は南アフリカだ。八月は寒いと聞いていたから、紀代は皆に衣服の点検を指示した。

百八 恋人を訪ねて Ⅸ

 キンシャサ郊外のヌジリ国際空港から南アフリカ航空に乗り、紀代たちは南アフリカの街ヨハネスバーグ(ヨハネスブルグ)に向った。南アフリカ航空はエコノミーでもサービスは悪くない。ヌジリから3000km以上の長旅だが、おしゃべりをしている内にヨハネスブルグ国際空港に向って降下し始めた。 ヨハネスブルグ国際空港は少し前まではO・R・タンボ国際空港と呼ばれていたらしいが、二〇〇六年に名前が変わった。南部アフリカ地方のハブ空港で大きな空港だ。近年サッカーのワールドカップ戦が開催されたこともあって、施設は綺麗に整備されていた。
「着いたわよ」
 紀代は皆に忘れ物がないか確かめて到着ゲートに進んだ。
「警官の格好をした偽警官の詐欺グループが居て、難ぐせを付けて不当な罰金を要求されることがあるから気を付けて下さいな」
 アフリカの国ではどこに行ってもスリや置き引き、詐欺が横行しているから油断ができないのだ。
 ヨハネスブルグのホテルはピンキリだ。一泊十万円以上もする所もある。紀代は予算と内容を見てHoliday Inn JOHANNESBURGと言うホテルに予約を入れて、空港からホテルに直行した。
 ホテルに着くといつもの通り通訳を雇ったり、学校でのミーティングの準備、打ち合わせで紀代は結構忙しい。
「この国はね、アパルトヘイト(人種隔離政策)時代には黒人は教育を受けるなんておこがましいとされて、今でも読み書きの出来ない人が大勢居るのよ。アパルトヘイトが廃止されてからは黒人も義務教育を受けられるようになって、今はヨハネスブルグあたりは子供たちの約九割が学校に通っているんだって。でも、貧富の差が大きい国ですから、あたしたちは裕福な家庭の子供たちが通う学校がターゲットだわね。治安が悪い国ですから、個人行動は厳禁よ」
「もう訪問する学校は決まったんですか?」
「初等教育は七歳から十三歳、中等教育は十四歳から十八歳、日本の高校だはね。それで、プライマリー(初等)はグレード7(七学年)、ハイスクールはグレード10で申し込んだわよ。この国は7・5・4制、最後の四年間はカレッジ(大学)だわね。学年は通しでグレード1から12まであるのよ。一学級は大体三十人程度だそうですからミーティングには丁度いいわね」

 翌日はプライマリースクール、翌々日はハイスクールでミーティングを行った。学校教育はグレード4以降は英語なので話しは良くできた。通学は治安が悪いので父母が送迎するかスクールバスで、公共の交通機関を使って通学する者は殆ど居なかった。
 持参した試食用の菓子の評価は良かった。欧米の文化が古くから持ち込まれているので、違和感はない様子だった。物価は高く、紀代は日本の菓子でも富裕層向けに商売になると思った。
 二日間の予定を無事に済ませて、紀代はその日のディナーは少し奮発してご馳走した。
「明日はザンビアのリビングストンです。お仕事は今日で終わりにして、リビングストンで有名な滝を見てからここに戻って、ヨハネスブルグ国際空港から南アフリカ航空で香港経由羽田往きに乗って帰って下さい。森野さん、恐れ入りますが女の子三人のエスコートをお願いね。あたしと陳平さんはまだ少しやることがありますから、一週間か十日後に帰国します」
 森野は女の子三人と楽しい旅を想像してにこにこして了解した。

「世界の三大滝って言える?」
 と真理子が絢と芳江の顔を見た。
「カナダのナイヤガラでしょ? それとビクトリア。えーっともう一つは何だっけ?」
「ヒント。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ」
 と真理子が笑った。
「もしかしてイグアス?」
「当たりっ」
「そうか。凄いんだろうなぁ」
「写真で見ただけだけど、凄いってよ」
 この話に紀代が割り込んだ。
「観光ヘリに乗せてあげるから、目に焼き付けて来て下さいよ」
「えぇーっ、ヘリってヘリコプターでしょ?いいんですか?」
 と芳江。
「せっかくはるばる来たんだから」
と紀代。これには女の子達は喜んだ。
「正確に言うとザンビアでなくて、ジンバブエのビクトリアフォールズの町から飛ぶのよ。十五分間で一人一万四千円」
「ひぇっ、そんなに高いの?」
「でも価値はあるわよ。あたしのおごりよ。会社の出張経費にしたらクビになっちゃうよ」
 それで皆は笑った。
 最後の予定で、紀代たちは南アフリカ航空に乗り、ヨハネスブルグ国際空港からヴィクトリアフォールズ空港に飛んだ。Victoria Falls Hotel に一泊して予定通りヘリで上空から滝を見た。女の子たち三人と森野と陳平はヘリは初めてで、皆興奮していた。
 ヴィクトリアフォールズ橋を渡るとザンビアのリヴィングストンの街だ。
 紀代は滝の見物が終わると、皆と一緒に一旦ヨハネスブルグに戻り、ホテルでご苦労さん会をやって、翌日森野と女の子三人を空港で見送った。

「陳平君、ちょっと付き合ってくれない」
 紀代はヨハネスブルグ市内にある大きい警備会社を訪ねた。そこで、十日間の契約で要人警護専門の警備員五名を借りる契約をした。
「ザンビアとボツワナを回りますのでパスポートを所持している方をお願いします」
 南アフリカは治安が悪く、ホテルやスーパーなどは全部自前で警備員を雇っている。紀代はザンビアやボツワナで借りるよりも南アフリカの方が訓練された警備員がいると思ったのだ。五名は勿論自動小銃などで武装した警備員だ。武器は相手国に入国してから調達することになるのでかなりの金がかかるが、光二を探すためなら惜しくはなかった。
 雇った警備員は白人が一名、黒人が四名でいずれもガッシリとした良い体格をしていた。陳平も背が高く体格は見劣りしないが、動作や物腰の切れが全然違っていた。紀代はこいつらは頼りになりそうだと思った。

 翌日ホテルに警備員を呼んで、紀代は自分の希望を細かく説明した。
「その計画ですと、ジープが必要ですが?」
「分ってます。空港でレンタカーを予約しましょう」
 紀代がそう答えると、
「ノー、ノー潰しても良いのをオレたちが見つけます。レンタルじゃ荒っぽいことは出来ませんよ」
 とあっさりと断られた。紀代は経験のある警備員を雇って良かったと思った。話を聞くと警備員の中の一名はルサカ、もう一名はハボローネ出身だと分った。残りの三名は南アフリカ出身だが、ヨハネスブルグではなく、ブレーニギング、ダーバン、プレトリアから来たと言った。
 紀代は身の回りの荷物を整理して、不要な物は全部ホテルに預けて、必要な物だけをバックパックに詰め込んだ。ジーンズに皮のジャケット、それに深めの帽子を(かぶ)って行くことにした。陳平にも必要なもの以外はホテルに預けろと指示した。陳平は紀代がボディーガードを五人も雇ったのに驚いたが、軽装の指示にも驚いた。

百九 恋人を訪ねて Ⅹ

 エア・ボツワナの双発プロペラ機は紀代たち七人を乗せてヨハネスブルグ国際空港を飛び立った。紀代はプロペラ機に乗るのは初めてだ。機外では大きなエンジン音が轟いていたが、機内に居ると鈍い音と振動だけでそれ程不快ではなかった。双発機はボツワナの首都ハボローネを目指していた。ヨハネスブルグからハボローネまでは300kmも離れているが、広いアフリカの都市間では近い方だ。
 紀代はぼんやりと窓から外を見ながら、ヨハネスブルグの警備会社で前金で十万ドルを支払わせられたことを思い出していた。日本円にすると、約八百万だ。屈強そうな五人の宿泊費や行動経費はもちろん別払いだから安くは無い。
 五人はちらちらと紀代の方に視線を泳がせつつお互いに低い声で話し合っていた。現地語だから何を話しているのか分らない。連れて来た陳平は紀代の隣に座っているが、無口になり紀代と同様に窓の外を見ていた。陳平は恐らく今日のような展開になるとは想像もしていなかったに違いない。

 一時間もしない内に、双発機はハボローネ近郊の大きなセレツェカーマ国際空港に着陸した。
 入国手続きを済ますと、サングラスをかけた二人の男が出迎えてくれた。五人は顔見知りらしく、お互いに抱き合って挨拶を済ますと、二人を紀代に紹介した。カーゴパンツに長靴、上は軍服のような感じだ。
「こちらはセレ、こちらはクーだ。よろしく」
 二人はお姫様に挨拶するような感じでうやうやしく、
「ミズ・アキモト、ようこそ」
 と紀代に挨拶した。英語だった。
 五人の男たちは紀代をかばう様に取り囲んで歩き出して、駐車場に停めてある軍用の大型ジープ二台に分乗した。出迎えに来た二人も乗り込んだ。二台共前に大きなウインチが付けてあり、車内には走行中に連射できる自動機関銃と銃弾が装備されていた。
 ジープは街中を走り抜けて町外れの白い建物の前で停まった。軍隊の駐屯地の事務所のような感じに見えた。中に入ると白人のトムが紀代に話しかけてきた。

 トムは手際よく黒板にボツワナの地図を書いて、五箇所に星印を付け足した。
「ミズ・キヨの彼が行ったとしたら、多分この星印のどこかだろう。ボツワナのパラジウム鉱山はロシアの資源大手ノリリスク・ニッケルの子会社のタチ・ニツケルがやってる鉱山でここのフランシスタウンの近くだ」
 とボツワナの東の国境に近い星印を指した。
「ボツワナにはダイヤモンド鉱山が五つか六つある。オラッパ鉱山は一番でかい鉱山だが、ここは工業用の質の良くないダイヤが多いから、多分彼が行ったとしたら、宝飾用の質の良いダイヤが採れるジュワネング鉱山だと思う。ここが一番臭いな。フランシスタウンの北の方にDamtshaa鉱山があるが、ここは新しく開発された所だから、可能性は薄いと思う。オラッパ鉱山に近い所にLetlhakane鉱山がある。ここもダイヤの質が悪い物が多いから可能性は薄いね。どうですか? 最初にジュワネングに行って見ますか」
 トムは言い終わると出されたコーヒーのマグカップを取り上げた。

「トムさんの言う通り最初にジュワネングを訪ねてみましょう」
「OK。このジュワネングは砂漠の中でジープでないと行けないな?」
 とトムは出迎えたセレとクーの方を見た。
「ああ、ジープでないと無理だ」
 地図を見れば分るが、ボツワナは北部は広大な沼沢のある湿地帯が広がっていて、オラッパ鉱山は湿地帯の中にある。南は広大なカラハリ砂漠が広がっていて、ボツワナの国土の大半が砂漠だと言えるほど広い。どうやらその砂漠の中をジープで突っ走ることになりそうだった。
「ジュワネングの次はフランシスタウン郊外のタチ・ニツケルに行く予定でいいですか?」
 とトムが聞いた。
「ええ、それでいいわ」
「ではジュワネングで消息がつかめなかったら、一旦ここ、ハボローネに戻って、飛行機でフランシスタウンに飛びましょう」

 打ち合わせが終わると、出迎えの二人が回してきた軍用ジープでジュワネング鉱山を目指して出発した。道は最初は快適だったが、途中から荒れてきた。シートベルトをしっかり締めて身体を固定してなかったら、走行中車の外に跳ね飛ばされてしまうくらいにジープは何度もバウンドした。ハボローネに近いと言っても200kmもある。平均50kmの時速で走っても四時間はかかる。
 出た時は昼になっていた。それで一向は街外れの小屋の前で車を停めるとそこで昼飯にした。小屋は空家らしかった。水も何もない。五人は手分けして湯を沸かし、コーヒーを煎れるとハボローネで買って来たパンにバターを塗って食べた。
 昼食が終わると、七人の中の一人だけ起きていて、あとの六人は昼寝を始めた。紀代にも眠れと言うので紀代もうつらうつら昼寝に付き合った。

 午後の三時過ぎにまたジープに乗って走り出した。道は相変らず荒れていて思うようにスピードを出せないようだ。ジュワネングまであと50km位の位置で日が暮れた。彼らはテントを持ち出して手馴れた感じでテントを二張り張った。一つにトムと陳平と紀代とクー、もう一つの方に黒人の四人とセレが入った。
 すっかり日が暮れると、星空が綺麗だった。あたりは砂漠で丈の低い潅木が所々あるだけだ。やがて肉が焦げる匂いがしてきた。どうやら晩飯を仕度しているようだ。
「晩飯が出来ました」
 黒人の一人が誘いに来た。それで皆が集まって晩飯を食べた。水がないから皿はテッシュで拭いて、汚れたテッシュは焚き火に放り込んだ。
 食事が済んで落ち着くと紀代は俄かにトイレに行きたくなった。だが、トイレなんてなく、周りには物陰もない。仕方なくトムに話すと、
「OK」
 と言って帆布を取り出し、ジープから少し離れた所に幕を張ってくれた。紀代はそこで用を足した。子供の頃、会津若松郊外の畑の中でしたことがあるが、それ以来だ。紀代が済ませて幕を出ると、
「オレも」
 と陳平が幕の中に入った。
「くせぇっ」
 と聞こえたような気がしたが、紀代は知らん顔で元のテントに戻った。

 昼寝をしなかった一人は直ぐに眠ったようだが、残りの四人は起きていた。夜が更けてくると星空が一層綺麗になった。
 その時、六人の中の一人が遠くを指さして仲間に知らせた。紀代が指された方向を見ると、ヘッドライトが次第にこちらに近付いて来た。六人は眠っている一人を起こして、夫々銃を取り出して、銃弾を詰めたカセットをセットしてジープの陰に隠れた。紀代たちも言われるままに、彼等の背後に蹲った。遠方のヘッドライトは徐々にこっちに近付いて来た。それとともに鈍いエンジン音が伝わってきた。陳平は映画で見たシーンを思い浮かべていた。

百十 恋人を訪ねて ⅩⅠ

 前方からゆっくりと近付いて来た車両は二台だ。二台の内、前を移動する車両が紀代たちの約100m前方で停止した。100mの距離は紀代が勝手に目測したもので、夜中で本当の距離は分らない。前方の一台が停止したことは確かだ。後方の車両は向きが同じでないので、停止した車両は星明りで黒いシルエットでしか確認ができないが、間もなくドアーが開くと明らかに銃を持った者が二人降りて徒歩で近付いて来た。彼らは前方の車両のヘッドライトで、こちらの様子が分かっているはずだ。
 車を降りて近付いて来た二人は紀代たちの50mほど前方で立ち止まって、こちらの様子を窺っているようだ。紀代達は全員ジープの陰に隠れているから先方からは人影が見えないはずだ。

 二人が立ち止まってから十五分くらい過ぎただろう。警戒して相手は約50m離れて立ったままだ。紀代は三十分以上にらみ合っているように感じていた。
 その時、後方の車両がゆっくり向きを変えた。ヘッドライトのビームがゆっくり草原を掃くように動いて、彼等の前方の車両を一瞬照らした。
 その時だ。紀代たちのジープの一台の陰から、セレが大きな声で叫ぶと、銃を投げ出して、両腕を頭を抱えるような格好で飛び出した。
 これには相手も驚いたらしく、さっと叢にひれ伏した。銃撃に応じる体勢を反射的に取ったのだろう。
 セレが何度か叫んだ言葉は現地語で、
「撃つなっ!」
 と言ったらしい。

「おいっマッコーだろ? オレだ。セレだ」
「本当にセレか?」
「オレは銃を持ってねぇ。調べろよ」
 それでひれ伏した男の一人が立ち上がってセレに近付いた。前方の車両のヘッドライトが動いた時、セレは相手の車両が鉱山の警備兵が使っている車両だと分ったらしい。
「本当だ。セレ、どうしてこんなとこに居るんだ?」
 この会話をトムたちも聞いていて、全員ジープの陰から飛び出した。
「なんだ、クーも一緒じゃねぇか」
 それで、セレとクーはトムたちヨハネスブルグからやってきた者を紹介した。
 トムが紀代に説明した。
「彼らはこれから行くジュワネングダイヤモンド鉱山の警備兵だ。セレの友達が居て助かった」
「こんな所で野宿しなくても、舗装された国道を通ればハボローネからなら三時間もあれば着くだろうが。何でまたこんな荒れた道のコースを来たんだ?」
「バカ言え。こんなジープで鉱山に近付こうものなら、お前等が絶対に通さんだろうが? えぇっ、通さないだろ?」
「分った。分ったよ。お前の言う通り、この車で来たら途中で追い返すだろうな」
 トムが会話の内容を紀代に通訳した。紀代は鉱山に行く道は元々荒れた道だとばかり思っていた。だが、現在では時速100kmでも走れる良く整備された道路があるらしい。
結局夜が明けてから彼らが鉱山までエスコートしてくれることになった。

 ジュワネングダイヤモンド鉱山のゲートを通過すると垢抜けた建物がいくつか建っていた。現在では観光客を受け入れて施設の案内もしているらしい。紀代は鉱山の事務所まで案内してくれたマッコーと言う男にバッグから一枚の写真を取り出して聞いた。光二の写真だ。
 マッコーはしばらく写真に見入っていたが、
「確かにこの人と似た東洋人が仲間の十人と一ヶ月位ここで働いていたよ。だが、名前はコージ・フジシマじゃねぇ。えぇーっと、確かケイスケ・クワタとか呼ばれていたな」
 それを聞いて紀代は思わず吹き出してしまった。
「ここに居た人はコージ・フジシマに間違いないと思います」
 マッコーは怪訝な顔をした。
「どうしてそう言えますか?」
「日本でケイスケ・クワタと言えば知らない人がないくらい有名なアーティストの名前です。光二はケイスケの名前を借りて偽名で働いていたのだと思います」
 これにはマッコーも、
「分り易いウソだな」
 と笑った。
「それで、この方たちはその後のこと、分かります?」
 マッコーに紀代が聞くと、マツコーの顔は俄かに暗くなり、険しい顔になった。

百十一 恋人を訪ねて ⅩⅡ

 紀代の質問に答え難くそうな顔をしたマッコーは、
「話しが話しですから、事務所でゆっくりお話ししましょう」
 そう言ってハボローネからやってきた紀代たち九人を会議室に案内した。打ち合わせにはマッコーの上司も出席した。
 広い会議室に案内されると、黒人の女性がコーヒーを持って入ってきた。美しい魅力のある顔立ちの女性だった。陳平がうっとりと彼女を見ていた。
「早速ご質問の話しに入りましょう」
 皆が出されたコーヒーを飲み始めた時、マッコーは流暢な英語で話し始めた。
「ご存知だと思いますが、ジュワネン鉱山では良質なダイヤモンドを産出することで有名です。ボツワナの宝飾用ダイヤモンド生産量は、金額ベースで言いますと世界でナンバー1で、約三十一億USドルにもなります。この数字は全世界のシェアで25%です。昔は英国のポンドで価格を表しましたが、最近は米ドルで表しています」
 皆感心顔で聞いていた。
「二位はどこ?」
 陳平が片言英語で質問した。
「世界で二番目に多い産出国はロシアですよ」
 とマッコーが答えた。警備兵のくせに物知りのようだ。
「ジュワネン鉱山では年間約2・7トン、1カラットが約0・2グラムですから、約1350万カラットもの大量のダイヤモンドを産出しています」

「さて、ケイスケ・クワタの話しになりますが」
 マッコーはここで言葉を区切り、上司の顔を見た。話しをしても良いか目で聞いたようだ。マッコーの上司はゆっくりと首を縦に振って頷いた。
「ケイスケ・クワタたちはここに鉱山労働者として採用されました。今から約一年前になります。ジュワネン鉱山では現在約二千人の者が働いていますが95%はボツワナ人の労働者です。鉱山ですから超大型の鉱山用の機械を使っていますが、経験の要る鉱山用機械、超大型のダンプトラックやパワーシャベル、選鉱用ベルトコンベアなどですが……」
 マッコーは超大型をウルトラヘビーと言い表した。
「これらの機械は主に経験のある外国人労働者に委ねております。ケイスケ・クワタは韓国籍の男を入れて総勢十一人でここにやってきました。その内一人は熱病に罹り本国に帰り、十名が働いていました。全員優秀な奴等で全ての機械を上手に運転できるので次第に要職に就けるようになりました」
 ここでマッコーはコーヒーを飲んだ。
「所がです、要職に就いて約一ヶ月後に、彼ら十名はダイヤモンドの原石約50kgを盗み出し、大型ダンプとジープ二台で突然逃走したのです。大型ダンプカーは砂漠の中でも楽に走れます。逃走に気付いた警備兵が二台のジープに分乗して追いかけましたが、追跡途中銃撃戦になったようで、警備兵全員が射殺され、遺体を確認結果奴等の方も二名撃ち殺されたようです。ダンプカーは途中で放棄されていましたが、(もぬけ)の殻でした」

「追跡した警備兵がなかなか戻らないので別の警備兵が捜索してこの惨事が分りました。それでこちらから軍隊に救援を求めて陸と空からカラハリ砂漠の広い範囲を捜索しましたが、結局行方が分らず捜索を打ち切りました。ご存知ないと思いますが、カラハリには猛獣、ライオンやハイエナなどですが、かなりの頭数生息しています。彼らがもし燃料切れで砂漠の真ん中で進めなくなれば、確実にハイエナの餌食になり生還は難しいでしょう」
「ダイヤモンドの原石50kgは二十五万カラットになります。研磨された物は1カラット1万5千ドル(日本円で120万円)程度が相場ですが、原石の相場は1カラットで約二千ドルですから、50kgですと五億ドル、そちらのお国の円に換算しますと、約四百億円になります。銃殺された二人を除く逃げ切った八人で山分けすると一人五十億円の取り分になりますね。相当の大金です」

 そこで紀代が質問した。
「結局ケイスケ・クワタは行方不明と思ってよろしいのですか?」
「はい。その通りです。彼等の運が良ければ国境を越えて南アフリカに行くか、或いはナミビア国でしょう。ご存知だと思いますが、ナミビアには広大なナミブ砂漠があり、ジープで海に出るのは不可能でしょう。考えられる事はウイントフックと言う町まで行ければそこから航空機が出ていますから逃走できるでしょう。しかし、このジュワネンから約800kmも離れていますから、燃料補給なしには行けません。我々が持っている情報は以上です」
 とマッコーは話を締めくくった。
 紀代は丁寧にお礼の挨拶をしてから、事務所を出た。

「ミズ・アキモト、これからどうなさいますか?」
「そうね、この街にはホテル、あるかしら?」
「泊まるだけならありますよ」
「では、今夜はここに泊まって、明日カラハリ砂漠を少し走って下さいな。その後、ハボローネに戻りましょう」
 それで全員ホテルとは名ばかりの宿泊施設に泊まった。
 陳平と二人同室にした。男と二人っきりには抵抗があったが、危険を考えると陳平に一緒に泊まってもらった方が良い。これには陳平は喜んだ。喜怒哀楽を顔に出すやつで、紀代はそんな男の方が信用できると思った。

百十二 恋人を訪ねて ⅩⅢ

 紀代はどの方向を見ても砂地に丈の低いブッシュが生えている延々と続く荒地の中に呆然と立ち尽くしていた。所々丈の高い潅木がある他は赤茶けた砂地か乾燥して干からびた大地が広がっている。
 早朝ジュワネンからジープ二台に分乗してカラハリ砂漠に踏み込み、既に約100kmもの道なき道を走ってきた。ヨハネスブルグから付き合ってくれているトムたち五人は、紀代の気持ちを察してか皆無口で悪路を揺られて来た。
 所々半分砂に埋まった髑髏(されこうべ)や腕や脚の骸骨が散らばっていた。紀代はジープの速度を落としてもらって、光二の遺品がないか荒地の上に視線を這わせたが、朽ちた洋服の切れ端が散らばっているだけで、車を降りて調べるほどの物は何一つなかった。人の白骨がこんなに沢山放置されているのに驚いたが、こんな所で命を終わらせてしまった人々の儚さに何か淋しい気持ちがこみ上げてきた。
 ジュワネンのマッコーは捜索隊を繰り出して探索をしたと言っていたが、実際に来て見ると、ブッシュの陰に人が倒れていたとしても相当に綿密に調べても見付からないだろうとも思った。
 ここまで来る途中、砂の中から可愛い動物が顔を出し、しばらくすると数頭の群れが砂地の上に立ち上がる光景を時々見かけた。
「あいつはミーアキャットですよ」
 最初に見つけて紀代が、
「あれっ、可愛い動物が居る」
 と言った時、黒人のガードマンの一人が教えてくれた。
「このカラハリにはあいつは沢山いますよ」

 ジープが約100km走った所で紀代はジープを降りてあたりを見回していたが、その間、七人のガードマンたちは紀代の居る周囲に猛獣が接近してこないか銃を構えて見張っていてくれた。
「トムさん、もういいわ。戻りましょう」
 ようやく捜索を諦めた紀代の顔を見て、トムは、
「本当に戻ってもいいですか?」
 と念を押した。
「これ以上は無理ね。戻って下さい」
 紀代は顔をイヤイヤと振り両手を広げて、
「エンドレス! インポシブル!」
 と言った。トムは納得したようだ。それで他の者にも、
「戻ろう」
 と声をかけた。ジープはゆっくりと方向を変えた。
 少し走った所で、トムが遠く潅木を指さした。紀代は何かあるのかと見たが何があるのか見えなかった。
「秋元さん、根元の方ですよ」
 と陳平が指さした。そこに豹のような動物が居た。
「そう、レオパードですよ。カラハリでは時々見かけます」
 レオパードはもちろん豹のことだ。紀代はジープがトラブルを起こして光二がこんな所を歩いたら、あんなのが襲ってくるのだろうと思うと恐くなった。

 ジュワネンに戻った時は午後の三時を過ぎていた。
「これからハボローネに戻ると、夕方になりますが、いいですか?」
 とセレが聞いた。
「いいわよ」
 と紀代が答えるとセレは皆に、
「ハボローネ」
 と伝えた。来た時と違って、良く整備された国道を高速で突っ走った。皆疲れたらしく、銃を抱えて居眠りをしている者が多かった。
紀代は光二を諦めるのは早いが、ジュワネンで聞かされた通り生きているのは奇跡に近いだろうと思った。同時に、
「光二、生きてあたしの所に戻って下さい」
 と祈るような気持ちで流れ去る景色を見ていた。
 ハボローネには午後七時前に着いた。皆疲れている様子だ。それで紀代はアフリカはもう最後なので付き合ってくれた男たちに良いホテルに泊まらせてやろうと思った。
「トムさん、ハボローネで良いホテルはありませんか?」
 と聞くと、
「高いですよ」
 と答えた。
「いいわ。皆で泊まりましょう」
 トムは嬉しそうな顔で、
「セレとクーも一緒でもいいですか?」
 と聞いた。
「いいわよ」
 すると、トムはセレを呼んで何やら相談した。

「ここから三十分位かかりますが、自然保護区の中に素的なホテルが何軒かあります。セレがジープで送ってくれるそうです」
 と言って来た。紀代がOKすると、また皆ジープに乗り込んで走り出した。
 着いた所はタウ・ゲーム・ロッジと言う所だった。名前の通りロッジ風だが、素晴らしい宿泊施設だ。但しチャージは一人七万円位もした。大勢だから大変だが、セレが交渉して一人五万円で良いと言った。紀代だけスゥィートルームにしてくれた。
 夜遅く着いたが、セレが交渉してちょっとしたパーティー風のディナーにしてくれた。紀代は男たち八人に囲まれて女王様扱いにされた。
 陳平は今夜は紀代と同室でないのに不満があるようだったが、久しぶりに贅沢な部屋に案内されて喜んでいた。
 夜は静かだ。時々遠くから動物の鳴き声が伝わってくる他は物音がなかった。

 紀代はしばらくシャワーで済ませていたが、久しぶりに大きなバスタブに浸かり、旅の疲れを癒した。
 バスタブに浸かり、光二があんな所でダイヤを盗み出したなんて信じられなかった。以前から何か得体の知れない仕事をしていることは想像していたが、自分の恋人が悪事を働いたなど信じたくもなかった。ジュワネンの警備兵の説明だと、成功すれば億万長者だ。だが、紀代は光二が金持ちになって欲しいとは一度も思ったことがない。お金が無くても、いつも自分のそばに居てくれなくても、電話をした時来てくれるだけで良かったのだ。

 ベッドに入ろうとすると、フロントから電話が来た。
「エステをなさいませんか? こちらのエステは素晴らしいと評判です」
 紀代はどうするか迷わずにOKした。間もなくドアーがノックされて案内の黒人の女の子がやってきた。案内されるがままについて行くと、別棟の温泉施設らしき建物に入り、スパ・トリートメント・ルームと書かれた部屋に案内された。
 心地良い時間が流れて、紀代はいつの間にか居眠りをしてしまった。
「もしもし」
 と優しく声を掛けられて、紀代は一瞬今自分が居る場所を忘れてしまった。
「あらいけない。あたし居眠りしちゃったわ」
 思わず日本語で声を出してしまった。紀代を担当したエステシャンは紀代の顔を見て微笑んでいた。
 エステが終わって部屋に戻ると、またドアーがノックされた。開けると、トムとクーが立っていた。
「バーでちょっと飲みませんか?」

百十三 恋人を訪ねて ⅩⅣ

 紀代はトムとクーに誘われて、ロッジの中にあるバーに行った。トムとクーはヤシ酒を注文した。ヤシ酒はアブラヤシの樹液を幹から取って、自然発酵させて造った酒で、欧米の酒類に慣れた者にとっては美味い酒じゃないが、南アフリカ界隈では普通にある酒で、彼らはだいたい日常的にヤシ酒を飲んでいるらしい。

「カクテルは出来るの?」
 黒人のバーテンダーに紀代が聞くと、
「はい」
 と言ってメニューを差し出した。見てびっくり、百種類以上のカクテルがびっしりリストアップされていた。紀代はざっとリストに目を通した後、
「スプモーニを」
 と注文した。クーが、
「ミズ・アキモト、験しにダームをやってみませんか?」
 と声をかけた。
「ダーム?」
「ん。ダーム。僕等が飲んでるヤシ酒はね、アフリカでは大体男が造るんですよ。ダームはね、モロコシを発酵させてから粉にして、それを水で煮て、それから麹を入れて醸造するんだけど、アフリカでは大体女が造る酒です」
 と説明した。紀代は難しい英単語は知らないものがあったが、前後の言葉をくっつけて意味を理解した。
「じゃ、少しだけ」
 とバーテンダーに言うと少しだけグラスに入れて出してくれた。正直美味しくなかったが、クーに気を遣って、
「まあまあね」
 と言った。
「ケイスケ・クワタ、生きてるかなぁ?」
 この質問にトムもクーも困った顔をしたが、意を決した表情でトムは、
「オレはダメだと思う」
 と答えた。クーも頷いた。
「好きだったんですか?」
「ええ、すごく好きでした」
「残念です」
「明日、諦めてヨハネスブルグから日本に帰ります」
「何と言えばいいか……」
 二人は申し訳なさそうな顔をしていた。

 アフリカ、特に南アフリカでは長い間の人種差別の習慣がまだ色濃く残っている。トムたちは彼等と同じ有色人種だといえ、紀代を欧米のブルジョアジーと同等に見ているらしく、バーで一緒に酒を飲めるなんて少し前まではなかったことだから、そんな気持ちで紀代には丁寧に接した。絶対服従の召使にかしずかれた経験のない者には分らないが、大切にされ、尽くしてもらうのは心地良いものだと紀代は思った。紀代たちが泊まっているタウ・ゲーム・ロッジは欧米の富裕層の顧客相手だから、紀代が連れてきた男たちを泊めるのを最初は難色を示したが、紀代のボディガードだからと説明してホテル側は納得した。
 翌朝目を覚ますと、ドアーの外に綺麗な景色が広がっていた。良く見ると、あちこちに野生動物たちが居た。このロッジのある辺りは自然保護区で野性動物や野鳥が沢山生息しているのだ。

 フロントに、
「少し散歩をしたいのですが……」
 と申し出ると、
「では案内をお付けしましょう」
 とフロントの男はどこかに電話をした。間もなくすらっとした黒人の青年がやってきて、
「お荷物は?」
 と尋ねた。紀代が荷物はないと言うと、
「どうぞ」
 と玄関先に停めてあった車に案内した。青年は紀代を乗せると車を出した。
 青年は最初は無言だったが、自然保護区の中を少し進むと、あちこちに群れている動物を指さして説明を始めた。車で近付くと随分色々な野生動物がいるのが分った。
 早朝の散歩としては大げさだが、野獣の中には獰猛なのも居て、一人で出歩くのは極めて危険だと説明してくれた。
 ホテルで朝食を済ますと、セレとクーを残して、トムたち五人と陳平と紀代はセレツェカーマ国際空港からヨハネスブルグに飛んだ。来る時に乗った双発のプロペラ機だ。ヨハネスブルグ国際空港に着いて入国手続きを済ますと、トムたちの警備会社に直行した。紀代は経費を精算して、荷物を預けてあるホテルに寄ってからまた空港に戻ると言った。
 警備会社の所長はトムたちから報告を聞いて紀代に、
「誠に残念なことです」
 と慰めた。それで、
「おいっ、トム、ミズ・アキモトを空港までお送りしてくれ」
 と命じた。
「また逢えますか?」
 トムは出国ゲートの所で紀代に聞いた。
「ええ、運が良ければ」
 紀代は、
「元気にしていて下さいね」
 と付け加えた。ほんの短い間のお付き合いだったがトムは紀代に礼儀正しく好感を持てる青年だった。陳平はトムに握手をすると、
「オレはアキモトさんよりも逢えるチャンスが多くなるかも知れない」
 と答えていた。紀代はそれを聞いて、もしかしてと思った。

 会社では今回のチーム編成で陳平は会社では鼻摘まみ的存在だと耳打ちされていたが、アフリカでは活き活きと仕事をしてくれた。それで、エジプトでJICOの職員に、
「中込陳平をこちらで現地採用できる枠はありますか?」
 と打診していたのだ。紀代が話を持ち出した相手の職員は乗り気だった。それで、
「ではそれとなく彼に気持ちを聞いてみて下さい」
 と頼んでおいた。紀代はトムに対する陳平の話し振りを聞いて、もしかして陳平は心を決めたのかも知れないと思った。
 紀代と陳平と二人だけでヨハネスブルグ国際空港を飛び立つと間もなく陳平は紀代にもたれかかり、小さないびきをかいて眠ってしまったようだ。紀代は行方不明となって、もう帰ってこないかも知れない光二との楽しかった日々を思い出して一人涙した。恋人をこんな形で失うなんて予想をしていなかったし、光二が居ないこれからをどうして過ごそうかと思うだけで気持ちが萎えた。人は希望があるから頑張れるのだ。光二に会える希望を失った紀代はこれから先、何を支えに生きようか、その答えすら見付からずに自分はこうして日本に帰るのだと思うと情けなさで胸が一杯になった。
「あたし、できる限りのことはやったわ。それでダメなんだから諦めるっかないわよね」
 自分にそう言い聞かせるのだが、虚しい思いは消えなかった。

百十四 帰国

 紀代が日本に戻って来た時は、暑い八月が過ぎて九月になっていた。帰国後の翌日、紀代は久しぶりに工場に出社した。アフリカでの様子は、先に戻った営業の森野から噂が伝わっていた。工場には従業員が大勢居るが、遠いアフリカへなんて旅行に行く者はめったに居なかったし、一ヶ月も各地を回った経験者は一人も居なかった。だから、どんな感じだったかとか、政治不安に巻き込まれなかったかとか森野は色々な質問に攻められた。
 紀代の上司の製造部長は門田弘(かどたひろし)と言う男だったが、紀代が出社した時には席には別の男が座っていた。今まで生産技術部長をやっていた男だ。紀代はアフリカから毎日のようにE―メールで門田に報告を入れて居たが席が変ったなんて話は一度も聞かされていなかった。勿論工場長の矢田部からの返事にもそんな話は一度も書いてなかった。
 仕方なく、矢田部を訪ねるつもりで工場長室に行くと、そこに門田が座っていた。
「君が帰国してから話をするつもりだったがね、今月からこっちに変ったんだ」
 門田は機嫌が良かった。
「ま、そこにかけたまえ」
 紀代が勧められたソファーに腰を下ろすと、門田は秘書に、
「コーヒー二つ」
 と命じた。

「実は君がいない間に異動があってね、前任の矢田部さんは副社長に栄転されて本社勤務になったんだ」
「そうだったんですか? では矢田部常務の後任は門田さんってことですね。おめでとうございます」
 門田は嬉しそうに
「これからもよろしく頼むよ」
 と答えた。

「実は、君のことなんだが」
 紀代は姿勢を正して、
「はい」
 と答えた。
「元君が居た新製品開発室の佐藤室長が来年定年になるんだよ」
「佐藤さん、もうそんなお歳でしたっけ?」
「そうなんだ。君はまだ若いが、僕等の歳になるとね、あっと言う間に定年がきてしまうんだよ」
「ご年配の先輩からよくそんな話を聞かされます」
「それでだ、佐藤室長の後任に秋元君が決まったんだ。帰国したばかりで残務整理や引継ぎに時間が必要だから九月の中旬に正式に異動の発令を出すことになっているからそのつもりで居てくれ」
「はい。荷が重くなります。門田さんの下でお仕事をしている間は楽でしたが」
「楽だなんて、君は良くやってくれていたよ」
 兎に角、今日の門田は機嫌がよい。
「実は君のことは矢田部さんのご指名だから、そのつもりで頑張ってくれ。矢田部さんは相当期待をしていたよ」
「はい。矢田部さんをがっかりさせないようにします」
「所で、アフリカのことは毎日君のメールを楽しく拝見させてもらったよ。君は文才もあるねぇ。簡潔で要点を外さず君の狙いや先方の様子が良く理解できたよ。で、どうなんだ? 将来アフリカでうちの製品を買ってもらえそうかね」
「最初は規模が小さく売上に貢献できませんが、腰を落ち着けてじっくりと取り組めば次第に増えると思います。今回は日本と中国と比べて国の取り組みとして力の入れようが随分違うと痛感しました。アフリカでは中国の勢力がすごく伸びてました」
「そうだろうな。この十年国のトップがころころ替わってアフリカ政策なんて全然見えてこないからなぁ」
 門田は国策の違いを良く理解しているようだった。

「兎に角、矢田部副社長を明日にでも訪ねてくれ。本社の場所は分ってるね」
「はい。そうします」
 紀代は門田に丁寧に頭を下げて工場長室を出た。
「佐藤室長の後任かぁ。あたしも部長待遇になるのかしら」
 製造部に戻る途中紀代はこれからの責任の重さを思って気持ちも重くなっていた。以前から開発室長職は部長待遇だった。

 鶴見から京浜急行に乗り、品川で山手線に乗り換えて田町で降りると、そこに紀代が勤めている製菓会社の二十四階建ての本社ビルがあった。自社ビルだ。一階には一般客向けのレストランまである。
 紀代は受付で矢田部に面会したいと申し出ると、受付の女性は電話をしてアポを取ってくれた。
「一時間ほど後にいらして下さいとのことです」
 紀代が礼を言って戻ろうとすると、
「あのぅ……」
 と受付の女性に呼び止められた。
「秋元さん、アフリカからいつ戻られたのですか?」
「あたし? 一昨日よ」
「そうなんですかぁ。お疲れ様でした。実はあたし、一生に一度でもピラミッドを見たいと思ってまして、秋元さんがあちらにいらした話をお聞きして羨ましかったなぁ」
 綺麗に化粧の行き届いた受付嬢は見かけに拠らず人懐っこい表情で紀代に話しかけてきた。こんな所まで噂が広がってるのには驚いた。
「そう? オフの時に一度鶴見の方にいらっしゃいよ。ゆっくりお話ししますよ。写真もありますし」
「ほんとにぃ? お邪魔してもいいんですか?」
「どうぞ。来られる前日にでもお電話を下さいね」
「はい。お願いします」

 近くのカフェで時間を潰して、一時間後に紀代は受付で首からぶら下げるネームカードを受け取り二十四階の副社長室に上がった。
ドアーをノックすると秘書が出てきて、
「先ほどからお待ちかねです」
 と微笑んだ。矢田部は紀代の顔を見ると相好を崩してこっちこっちと手招きをした。
「長い間遊びに出して下さいましてありがとうございました」
 紀代がそお言うと、
「おいおいっ、いくら可愛い娘だからって、遊びに出した覚えはないぞ」
 と睨む顔をした後でワハハッと笑った。矢田部は冗談が通じる男だから話しをしても疲れないのが良い。
「仕事の報告はメールで全部知ってるから、仕事以外の話を聞かせてくれ。十日ほど自分のことで跳び回ってきたんだろ」
「はい」
「で結果はどうだった? 恋人の消息はつかめたのかね」
 紀代は矢田部にだけはちゃんと正直に話をしていた。
「ご心配をおかけしましたが、全くつかめませんでした」
「どんな風に探したのかね」
「ボツワナでは宝飾用のダイヤを産出しているジュワネン鉱山に一ヶ月ほど勤めていたことまでは分りましたが、仲間と共にカラハリ砂漠に逃走したそうで鉱山側で大々的に捜索したそうでしたが、結局遺体も見付からず行方不明のままでした。あたし、ジープで往復約200km、カラハリ砂漠を探し回りましたが、無理でした。広過ぎて」
「ジープは自分で運転して?」
「まさか。警備会社に頼んで五名の警備員と共に軍用ジープで」
「そりゃ、すごいね。普通の女の子じゃそこまではとても出来ないね」
「そうだと思います」
「恋の力は凄いもんだな。若い時でなければそこまでは熱くなれないなぁ」
 矢田部は紀代の行動力に驚いたようだ。
「それで、捜索費用はどれくらいかかったのかね」
「千五百万位かかりました」
「君の金の遣い方は常識を超えているなぁ。男でもそんな遣い方はできないよ。君は金持ちだからってこともあるが、金持ちでもそんな風には使わないな」
「アフリカで儲けさせて頂いたパラジウムと銀ですから、アフリカに少し戻してあげるつもりで」
 と紀代は笑った。
「会津若松のスーパーはその後順調かね」
「そのようです。あれから山形、秋田、仙台と出店を増やし、今年は青森、盛岡にも出したようです」
「それでかぁ。先日取締役会で話題になってね、営業部長がキヨリスの当社製品の売上が最近は半端じゃないと言うんだよ」
「普通のスーパーと違って、若い子をターゲットにしてますし、お菓子を買い易く陳列してますから」
「じゃ、君の配当の受け取りも相当になってるんだろ」
「はい。手をつけていませんから、溜まる一方で。最近は年間の配当の手取りが二億を越えておりますの」
「へぇーっ、わしらサラリーマン重役じゃ考えられんなぁ」
 矢田部は羨ましそうな顔で紀代の顔を見た。

「所で、今月半ばから君を佐藤君の後任に決めたよ。聞いてるかね」
「はい。門田工場長から伺いました」
「前例のない抜擢人事だから敵も多いだろう。つまらん所でヘマをしないように気を付けるんだよ」
「はい」
「わしはね、秋元さんを自分の娘みたいに思っとるんだよ。わしは息子二人しかおらんから、若い頃から娘が欲しくてね、だから君を見ると可愛くてたまらんのだよ」
 矢田部は少し照れくさそうにそう言った。
「今は心の整理が付かんだろうが、いずれ整理が付いたら言ってくれ。君に相応しい素的な青年を紹介するよ。やはり結婚して幸せになってもらいたいね。わしの気持ち、分ったかね」
「はい。あたしにはもったいないお話しです」
「中込陳平君だが、アフリカでは少しは役に立ったかね」
「はい。毎日活き活きして良く仕事をしてくれました」
「人使いとは難しいもんだね。彼はうちで燻ってるよりももっと彼に相応しい仕事を見つけてくれるといいんだが」
「あたしの一存でJICOエジプト事務所に彼を現地採用の職員として迎えられないか話をしました」
「それで?」
「まだはっきりとはしてませんが、多分近々彼は会社を辞めてアフリカへ行くと思います。あたしとしては、当社のアフリカビジネスを彼にJICOの職員として側面から支援させてはどうかと思っております」
 矢田部はうんうんと頷いて、
「君に彼を預けたのはわしの狙い通りだったな。実は君に預けたらそんな風に動いてくれるだろうと期待しておったのだよ。うちに居ても穀潰しで彼にとっても不幸だからなぁ」
「あたしもそう思いました。アフリカでの仕事振りをお見せしたいくらいでした」
「ありがとう。彼のためにも続けて応援をしてやってくれ」
 紀代は矢田部が社員の一人一人に目を配っている様子が良く分り、矢田部は良き指導者だと改めて感服して聞いていた。

「夕食まで少し時間があるが……」
 どうやら矢田部はご馳走してくれそうな口ぶりだった。紀代は、
「実はしばらくぶりに東京に出ましたのでこれから新宿、渋谷あたりに行きたいと思ってまして……」
「そうか、じゃ次の機会に相手をしてくれ。こっちに出て来た時は連絡をしなさい」
「はい。ありがとうございます」
 紀代は矢田部に礼を言って部屋を出た。
 久しぶりに西新宿のビル街を散策し、都庁脇の新宿中央公園に入ってみた。一頃よりホームレスがうろうろしなくなったと聞いてはいたが、不景気が続き、今もなお公園の片隅にホームレスがうろうろしていた。若い女性はそんな人たちには近付きたくないものだが、紀代は自分の生い立ちから少し親近感を持っていた。彼らだって、元は中小企業の経営者だったり、大きな会社の管理職だったり色々な方面で地位のあった者たちがかなり居るのだろう。それがふとした不幸に遭って転落してしまったのだ。
 そんなことを考えながら歩いているとボロボロの背広をまとった男がすれ違った。紀代は一瞬はっとした。紀代はすれ違った男に咄嗟に声をかけた。
「もしかして島田さん? 島田さんでしょ」
 男は紀代の言葉に振り返り、ギョッとした顔つきで紀代を見た。間違えなく島田だと紀代は思った。

百十五 転落の軌跡

 紀代がすれ違った男は元会社の経理部長をやっていた島田竜一に違いない。彼との不倫騒ぎに巻き込まれて、紀代は一次降格処分を受けたから顔を忘れるはずがなかった。
 振り向いて紀代を見たホームレスの男は声を掛けられて驚いた顔をしたが、直ぐにくるっと向きを変えて逃げるように立ち去ろうとした。紀代はあとを追った。
「逃げなくてもいいでしょっ!」
 紀代が追いついたのを知って、
「ほっといてくれ」
 とぼそっと言った。これで島田竜一だったことが確認された。
「しばらくぶりですから、ちょっとお話しをしませんか?」
 と目で近くのベンチを指した。
「僕は話すことなんて何もないよ」
 紀代は島田の手をとって、ベンチの方に引っ張った。島田は観念してついてきた。

「お久しぶりです」
「……」
 紀代が改めて挨拶をしたが島田は黙っていた。
「あたし、子供の頃ホームレスみたいなことをした経験がありますし、口は堅いですから、安心して下さいな」
「……」
 尚も口を閉じて一言も話をしなかった。紀代は財布を取り出して、万札を十枚ほど島田の手に握らせた。
「同情じゃないですよ」
「……」
「やっぱ同情かな」
 紀代は更に、
「お金なんて必要な人が使わなくちゃ意味ないから」
 次々と意味不明の変なことを言って、紀代は自分でも可笑しくなって笑った。
 ややあって、ようやく島田が口を開いた。
「ずっと元気だったか」
「はい。なんとか」
「そうか。こんな姿は見せたくなかったなぁ」
 島田は恥ずかしそうな顔をした。そしてぼそっと、
「相変らず瞳の佳人だなぁ」
 と呟いた。
「あたし、島田さんはどこかに再就職されたと思ってました」
「再就職ねぇ。中年過ぎで会社をクビにされた男はどこも使ってくれないよ。食えなくなって土方仕事もやったが、身体が持たなくてね」
 島田は遠くを見るような虚ろな目で紀代を見た。
「あ、この金、もらってもいいのか」
「ええ、たまには腹いっぱい美味しいものを食べて下さいな」
「秋元さんは知らんだろうが、新宿界隈でホームレスやったら、食うことには困らないよ。弁当の売れ残りとか色々なものが沢山捨てられる世の中だからさ、腹を空かせたことは要領が分るまでの最初のうちだけだったな。今じゃ毎日腹いっぱい食べてるよ」
「へぇー? そうなんだ。あたしがホームレスみたいだった頃は田舎だったから食べる物がなくて、他所様の畑でさつまいもを掘って生で食べたり、けっこうきつかったよ」
「秋元さんがそんな苦労をしてたなんて知らなかったな」
「そりゃそうよ。会社ではそんなこと誰にも話してないから」
 紀代の話しに島田は安心したらしい。

「会社をクビにされてから、半年位かな? 新聞やテレビの記者に追っかけられてさ、あれには参ったよ」
「会社からも賠償請求されましたでしょ?」
「ああ。女房からも二人の娘からも不潔、不潔と罵られて直ぐに離婚をしたよ。家土地も慰謝料代わりにさっさと渡してしまったから、結局会社の賠償には応じられず、逃げ回るより仕方がなかったよ。口で言うよりきつかったよ」
「じゃ、奥様とかお嬢様にはその後会ってないのですか?」
「ああ。時々元気にしてるか気にはなるんだけど、もう会えるとは思ってないなぁ」
 島田の目が潤んでいた。会社の金を使い込んで豪遊していた頃の面影は全て消えて、紀代の隣には年老いていくくたびれた男が座っていた。
「会社のことは聞きたくもないが、秋元さん、あなたはまだ独身?」
「はい」
「結婚はしないの?」
「好きな人はいましたが行方不明になってしまって」
「行方不明?」
「はい」
 島田は、
「人生は思うようには行かないものだね」
 と紀代を慰めるような口ぶりで話した。

 夕方になった。紀代は、
「病気、なさらないようにね」
 と島田に手を差し延べた。島田は黙って手を出して紀代の手に軽く触れるようにしながら、
「秋元さんも」
 と呟いた。
 島田と別れて、紀代は足取り重く西新宿のビジネス街をぶらぶらと新宿駅の方に歩いた。
 山手線で品川まで出て、そこから京浜東北線で鶴見に戻った。そのまま明かりの消えたマンションに帰る気持ちにもなれず、駅から少し離れた飲み屋に入った。カウンター席だけの小さな店だった。客が少なく一人で熱燗をたのんでちびちびと酒を飲んだ。板前らしい店の主はそんな紀代をあえて見ないで、紀代の注文に、
「あいよ」
 と小声で答えるだけだった。
 そろそろ帰ろうかと思った時、引き戸が開いて男が一人入ってきた。一瞬、紀代は固まってしまった。顔こそ似てはいないが、雰囲気や体型が行方不明の光二に似ていたからだ。男は年配の主と面識があるらしく、奥の席に腰を下ろすと、
「いつものやつ」
 と言った。

百十六 気になる男

 その店は[与兵衛]とカンバンに書いてあった。飲み屋の主の名前なのか分からないが、どこにでもありそうな名前だ。
 光二を失って、加えて転落した島田の姿を見て、紀代は希望を失ってしまって、一人自棄酒を飲んでいたのだが、そろそろ帰ろうかと言う時に不意に現れた男に身体が固まってしまって、そのまま立ち上がれずに主の顔を見て空になった徳利を振った。主は黙って熱燗を紀代の前に差し出した。
 紀代は気付かれないようにちらちらと奥の男を見た。男の横顔は光二にそっくりだ。紀代は声をかけたくても勇気がなくて、それから一時間もねばった。男は相変らず黙って猪口を口に運ぶだけで、時々ぼんやりと目の前の棚を眺めているだけだ。
 ちびちびと飲んでいても紀代はもう五本も空けていた。ふと尿意を催して、
「トイレ、どちらですか?」
 と聞いた。男は振り向いてもくれなかった。主は奥を目で示した。奥の席のその奥にちょっと柱の陰になって見えなかったがトイレがあるらしい。

 紀代は男の後ろを通ってトイレの方に歩いたが、酔いが回って足元がふらついた。それで、男の後ろを通る時、故意ではないが、男の背中に手を触れてしまった。
「すみません」
 紀代は小声で挨拶をしたが、男は振り向くでもなし、何事もなかったように飲んでいた。
小のつもりが大になってしまった。考えてみると、朝から東京に出かけて矢田部と会った後西新宿を歩いて、まだ大を済ませていなかった。
 用を足して、少し気分が落ち着いて、紀代はトイレを出た。男が座っていた席は空いて、もう男は居なかった。紀代はなぜかがっかりした。
 紀代も勘定を済まして外に出て左右をキョロキョロ見回したが、男の姿はなかった。
「もう一度逢いたい」
 その男の面影がそっと紀代の虚ろになっている胸に入り込んできたように思えた。

 その日から、紀代は時々男のことを思い浮かべた。それで、週に二日か三日、会社の帰りに与兵衛に立ち寄った。
「ここにくればあの人にいつかは逢える」
 そう思いつつ紀代はせっせと与兵衛に顔を出した。席はわざと奥から三番目くらいを定席にした。もしもあの男がやってきたら、自分の隣に座ってくれるかも知れないと思ったからだ。
 一ヶ月もすると、主と顔見知りになり、紀代がカウンター席に座ると、主は黙って熱燗を出してくれるようになった。最初の日は男に合わせて飲み足したので五本も空けたが、今では二本に決めていた。二本くらいだと翌日に残らず、朝の目覚めが良かったのだ。

 もうあれから一ヶ月も経つのに男と顔を合わせることはなかった。だが、紀代は気長に待った。
 一ヵ月半ほどして、あの男が現れた。引き戸を開けてぬっと顔が見えたとき、紀代は胸がドキドキした。その日は客が少し多く、紀代の他に五人ほどカウンターに並んで座っていた。紀代の隣の席は空いていたが、男は間に二人挟んで真ん中の席に座った。
「なんだ、せっかく隣を空けておいたのにぃ。でも逢えたんだからいいかぁ」
 そんなことを心の中で呟きながら紀代は徳利二本を空けた。
「またきっと逢えるよ」
 そう心の中で思いながら紀代は勘定を済ませて店を出た。

百十七 紀代の母 Ⅰ

 紀代の実母は由紀と言った。福島県耶麻郡山都町の相川温泉で温泉旅館をやっている清水家の次女で、紀代の父辰夫とは見合い結婚をした。父の実家は今では東北では屈指のスーパーのオーナーだが、由紀が結婚した頃は生鮮食品を扱う秋元商店を細々と営んでいた。
 由紀が結婚後、辰夫は会津若松に生鮮食料品をメインとするスーパーを出店して成功したが、会社の事務をやっていた市川雅恵と言う女と関係ができて、つまり辰夫が不倫をしたのが原因で離婚をして実家に戻っていた。子供は辰仁と言う男の子と紀代と言う女の子が居たが、離婚と共に手放し、子供たちを辰夫の実家に引き渡した。
 長男の辰仁は欲のないやつで父親の家業を継がず、二転三転して、今は小学校の教師をしている。

 由紀は、市川雅恵を相手取って慰謝料五百万、夫の辰夫を相手取って慰謝料千五百万、子供二人が成人するまでの養育費三千万、合わせて五千万円を請求することにしたが、子供は秋元家で引き取ったので、慰謝料二千万円で和解した。由紀は五百万円を自分の手元に残して、残りの千五百万円を子供たちの将来のためにと秋元家に預けた。由紀への慰謝料は全て辰夫の父が肩代わりをして支払った。
 悲しみに沈んでいた由紀は、実家の旅館の常連客の須藤浩二と言う青年の誘いに応じて突然東京に出かけた。由紀は結婚前、毎年決まって数日泊まって行く須藤に恋心を抱いていたので、離婚後とあって、何のためらいもなく須藤にくっついて行ったのだ。手元の五百万円はそのまま旅行カバンの底に入れて出かけた。

 東京に出ると、須藤は何の躊躇(ためらい)も無く由紀をホテルに誘って、そこで由紀を抱いた。由紀にしてみれば、若い頃ずっと片想いをしていた男だから、須藤に抱かれて幸せを感じていた。所がだ、須藤と言う男は金にだらしない奴で、競輪、競馬で穴を開けた埋め合わせに由紀から虎の子の金をせびり、金もないくせに自分のボロアパートには帰らずホテルを渡り歩いた。そんなことをすれば、由紀が持って来た五百万なんて金は直ぐに無くなってしまう。
 金の切れ目が縁の切れ目で、須藤は横浜のホテルに泊まった時、由紀の金が底を突いたと見るや、どこかへ行方をくらまして、由紀の元へは二度と戻らなかった。
 由紀は困った。住む場所もなければメシを食う金も無い。さりとてばつが悪くて実家へも戻れない。戻ろうにも新幹線に乗る金すら残っていなかったのだ。
 仕方なく、街角でチラシをもらった携帯で十万円くらいなら借りられる高利貸から金を借りた。何とか就職口を見つけて働くまでのつなぎの気持ちで借りたのだ。仕事さえ見付かれば、十万円位は返せると思ったのだ。それで女性向けのカプセルホテルに泊まってハローワークに行って働き口を探した。泊まった所は横浜駅に近いスカイスパ横浜と言う所で女性専用で一泊四千五百円だ。だが、住所不定の中年女に世間の風は冷たく、働き口は見付からず借りた十万円、実際には利子を引かれて七万円と少しだったが、それもなくなり、また十万円を別の所から借りた。
 由紀は名前を変えて自分を[池谷(いけや)小夜子(さやこ)]と呼ぶことにした。戸籍上の名前は簡単に変えられないが、清水由紀を世の中から消してしまいたい思いで高校の同級生だった小夜子の名前を使った。
 就職口がなく、広い都会の真ん中で女が独りで暮らして行くには、残された道は風俗しかない。須藤に放り出された街は横浜だ。仕方なく小夜子は横浜の日の出町のファッションヘルスに雇ってもらって仕事を始めた。

 ようやく仕事にありついはいいが、慣れないヘルスの仕事だ。小夜子はその日の内にプライドを全て剥ぎ取られてしまった。
「こうなったら、とことんやるっかない」
 自分にそう言い聞かせては見たが、仕事が終わると体中が痛み、特に下腹部はどうにかなりそうな具合だった。
 あっと言う間に十日が経った時、携帯に知らない男から脅しが入った。高利貸の取立て屋からだった。
「あんたなぁ、利子が溜まってよぉ、どうするんだ?」
「すみません。もう少し待って下さい」
「ふざけんじゃねぇ。もっと稼ぎのええ風俗に移ってもらうぜ」
 小夜子はこの時[孤独]な自分を感じていた。

百十八 紀代の母 Ⅱ

 小夜子こと由紀が仕事が終わったのは午前〇時三十分頃だ。近頃は風営法が厳しくて〇時には閉店しなければ営業許可を取り消しされることだってあるのだ。小夜子の勤める店は規則をちゃんと守っていた。一言に風俗と言っても色々ある。小夜子の店は法律では[店舗型性風俗特殊営業]に当たるのだ。店舗型性風俗特殊営業は法律では六つに分類されている。一つ目は公衆浴場だが、普通の風呂屋と違って個室を設け、その個室の中で異性の客に接触する役務を提供する営業、つまりありていに言えばソープランドのことだ。異性と言ったって、相手は男でサービスする方は女ってことだ。まあ貞節な女性から見ればこんな所に行く男は汚らしくてどうしようもない奴だろう。二つ目は個室を設けてその個室の中で異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業だ。世の中ではこんなのをヘルスとかファッションヘルスと呼んでいる。小夜子はこのファッションヘルスの世界に足を突っ込んだのだ。法律では性交、つまり俗に言う本番は禁止されているが、なんたって個室の中だから女の気持ち次第の所もあるのだ。三つ目はもっぱら性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ女の身体を見せる興行ってことだが、世の中ではこんなのをストリップとかストリップ劇場と呼んでいる。四つ目はもっぱら異性を同伴する客が休憩したり泊まったりするために部屋を提供する営業で、部屋は個室に限ると決められている。法律で決めるとややこしいが、いわゆるラブホ、ラブホテルのことだ。五つ目は性的好奇心をそそる写真とかビデオを貸したり売ったりする店だ。法律には[性的好奇心をそそる]なんて書いてあるがポルノのことだ。六つ目は上のどれにも当たらないが似たような風俗営業をしている店だ。法律で細かく縛ってみても漏れちゃう業態があるから、六つ目の項目で全部縛っちゃおうと言うことだ。

 小夜子が帰り仕度を整えて店を出ると、二人の男が近付いて来た。
「池谷さんだろ?」
 小夜子は黙って男の前をすり抜けようとしたが遅かった。太った方の男が小夜子の腕を掴むとぐいと引き寄せた。
「あんたなぁ、ちよいオレたちと一緒に来てもらおうか」
 小夜子は脚に震えが来た。男の力は強くて振り切れそうにない。同じ店から出て来た女たちはちらっと小夜子を見たが誰も助けてはくれなかった。こんな景色はよくあることだし、変なことに関わりたくないと言うのが本音だろう。
 小夜子は二人の男に挟まれて引き摺られるように路地の奥に停めてあったベンツに押し込まれた。
「逃げようたってそうはさせねぇぞ」
 痩せた方の男が凄んだ。
 ベンツは上大岡の方に走り、大きなマンションの前で停まった。上大岡界隈はベッドタウンで大きなマンションが林立している。小夜子はそんなマンションの一つに連れ込まれた。女一人抵抗しても痛めつけられるに決まっている。なので小夜子はベンツを降りた時は観念して素直に男に従った。

 マンションの住人はでっぷりと太った中年の男だった。小夜子はその時は名前を知らなかったが、男の名前は張本轍(はりもとてつ)、若い頃は[ナイフの轍]と呼ばれて仲間の間では怖がられていた。ナイフ使いで一度獲物を狙うと外したことがないと言われた。
「おお、これが貸した金を返さない女だな」
 連れてきた男たちはピリピリしていた。
「はい。そうです」
「見たとこポッチャリして可愛いじゃねぇか? わしはな、もっとオバサンかと思ったぜ。あんたらご苦労だったな。帰ってもいいぜ」
「では失礼します」
 そう言うと二人の男はドアーの外に消えた。
「どら、こっちにこんか?」
 男が手招きをした。小夜子が少し近付くと、
「遠慮せんでええ。こっちに来い」
 小夜子が男の側に近付くと男は小夜子の腕を掴んでぐいと引き寄せ低い声で、
「身体を見せろ」
 と言った。いきなり身体を見せろと言われても小夜子はどうしたらいいのか分らずに躊躇っていた。
「裸になれと言ってんだよ」
 小夜子がもぞもぞしいてると、
「あんたなぁ、それでヘルスなんてやってんのかよぉ」
 と怖い顔をした。
「さっさと脱げ」
 小夜子がもぞもぞしていると、男は黙って小夜子の着ているものを全部剥ぎ取った。脱がせたなんてものじゃない。乱暴に剥ぎ取ったのだ。いくらヘルスの世界に入ったとは言え日が浅く、小夜子は羞恥心で縮こまって座り込んだ。男は自分のパンツを脱ぎ捨てると、小夜子の身体をひょいとテーブルの上に持ち上げて、両足首を掴んで小夜子の股を広げた。
「やめて下さい。許してぇ~」
 小夜子の口から泣き声の混ざった小さな声が出た。轍はそんな小夜子の声を無視して、自分の物を小夜子に突っ込んだ。
 轍のやりかたは乱暴だった。辱められて、終わった時には小夜子は腰が立たず、絨毯の上に這いつくばった。
「あんた、名前は?」
「池谷小夜子です」
「あんたええもんを持っとるな。わしの女にしてやる」
 こうして小夜子は轍の女にされてしまった。
 小夜子は轍が持っている小料理屋のおかみにされて、長者町から関内の方に少し入った路地裏の店に住み込みで働くことになった。
 翌日カンバンが差し替えられて[割烹小夜子]になった。

「おかみさん、逃げようたってダメですよ。オレが許しませんから」
 と板前が小夜子に釘を刺した。要はこの板前が監視役と言うわけだ。
 小夜子は元々料理好きだったから、真面目に働き客の評判も良かった。轍は一週間に一度くらいの割合で閉店間際に店にやってきて、店を閉めると二階に上がって小夜子に乱暴をした。小夜子は耐えた。そうするしかなかったからだ。轍は男として見ると魅力があり頼りがいがありそうに見えた。小夜子は、
「もうちょっと優しくしてくれて、たまには甘いささやきでもかけてくれれば本気に尽くしてあげてもいいのに」
 と思った。

百十九 紀代の母 Ⅲ

 他人に四六時中監視をされるのは嫌なものだ。男は割り切れる所があるが、女は人によりノイローゼになったりする。小夜子こと由紀の見張り役の板前は小夜子の監視に徹底していた。
 小夜子が一番嫌なのはトイレに入っている間中板前が見張っていることだ。小夜子はここのとこ落ち着いて用が足せた覚えが無い。夜中に仕事が終わって就寝すると、決まって板前が小夜子の左手を紐で縛り、紐を隣の部屋まで伸ばして小夜子が夜中にこっそりと逃げ出さないか監視をしているのだ。
 そんなことが一週間も続いて、小夜子は気持ちが参ってしまった。夜寝付こうとするが、手に縛り付けた紐が気になってなかなか眠れない。

 その夜、とうとう小夜子は板前が自分の左手に結び付けた紐をそっと外してみた。だが、紐を外したとたん、紐はするするっと縮んで隣の部屋でけたたましくブザーが鳴った。板前は飛び起きてきて小夜子の様子を見た。
「こらっ、紐を外しちゃならんと言っただろうがっ」
 板前は小夜子が轍の女だと知っているから乱暴はしないが、
「二度と許さん」
 と厳しく言って隣の部屋に消えた。夜中にトイレに行きたくなった時は板前を起こさなければならないのだ。
 十日もすると、小夜子は自由が欲しいと心から願った。出来るものなら逃げ出したいのだが、板前の目が光っていて逃げられない。

 割烹小夜子にやってくる客の大半は張本轍と縁がある者たちらしかった。それは飲みながら交わす言葉を聞いていれば小夜子にだって分る。
 半月ほど過ぎたとき、一人の男が店にやってきた。見た所小夜子より一回りも若いようだが、がっしりとした体格で無口な所が気に入って、二度目にやってきた時、小夜子は少し胸がときめいた。
 その後一週間に一度か二度男は店にやってきた。相変らず無口で必要なこと以外は話をしなかったが、小夜子が察するに、男は轍に縁がある者ではないようだった。

 一度でも男と寝た経験のある女なら、男の性欲について知識があるものだ。男の性欲は女と同様に淡白な奴から性欲の塊みたいな奴まで幅がある。一人暮らしの男の中には生きている人間の女の代わりに人形で間に合わす奴がいる。女の代わりに抱く等身大の人形をダッチワイフと呼んでいるが、シリコン素材を沢山使って本物の女の人肌と変らない感触を持つ精巧な人形もある。人形を抱いた時生身の女と同じような感触があり、顔や肢体はモデルのように綺麗だ。下腹部にはちやんと性器もあって、セックスを楽しめるのだ。もちろん人形に女性の下着や洋服を着せるのが普通だ。そんな精巧なダッチワイフをマニアの間ではラブドールと呼びダッチワイフと区別をしている。ラブドールは一体数十万円もするから安いものではないが、本物の女性と間違う位精巧なものがあり、飾って楽しむ奴もいるのだ。
 轍は週に一回くらい小夜子の所にやってきたが、小夜子をまるでダッチワイフのように扱った。自分だけ性欲を満たすとさっさと帰ってしまうのだ。小夜子は女盛りで、そんな風に扱う轍に不満を持っていた。
「同じ虐めるなら少しはこのあたしにも良い気持ちにならせてくれてもいいのに」
 轍が帰った後、小夜子の心にはいつも隙間風が吹いていた。

 例の青年が店にやってきたある日、板前がちょっと場を外した隙に、小夜子はレジの脇に置いてあるメモ用紙に走り書きをして、そっと男に差し出した。男は一瞬驚いた顔をしたが、メモにさっと目を通すとメモをポケットに仕舞いこんだ。小夜子は他の客に感付かれると困るのではらはらしていたが、どうやら他の客には気付かれなかったようだった。
 メモにどんな風に書こうかとこの二、三日考えていたので、小夜子はさらさら書けた。青年がどんな風に行動するのか全く見当は付かなかったが、兎に角矢を放ったことだけは確かだ。

百二十 紀代の母 Ⅳ

 店に来る青年にメモを渡した小夜子は男が必ず自分をこの鳥篭から救い出してくれると信じて心待ちにしていた。
 だが、今週は一度も店に現れなかった。ガラガラっと引き戸が開いて客が入って来る度に小夜子は緊張した。
 ガラガラっ。扉が開いたのではっとして目線を扉の方に移した小夜子の目に一人の大柄な女が入ってきた。初めて見る顔だ。
「いらっしやいませ」
 小夜子はいつものように声をかけた。
 女は横柄に板前に、
「何か食べさせてよ」
 と言った。小夜子がお絞りを差し出したが女は無視した。板前は適当に女の前につまみを出した。
「あんたねぇ、こんなものであたしのお腹がふくらむとでも思ってるの?」
「へぃ、すんません。今煮物を出しますから」
「この女が作ったんでしょ?」
「へぃ、一応」
「あたし、この女が作ったものなんて食べないわよ」
 他に客が二人居たがこのやりとりに気まずそうな顔をしていた。
 板前は五郎と呼ばれていた。兄弟の上から五番目の末っ子だ。分り易い名前を付けたものだ。その板前が小夜子の脇をちょっと突いて、
「轍さんの」
 と子指を立てた。女には聞こえない小声だったが、小夜子は納得して頷いた。

「ちょっとあんた、二階に上がって」
 女は険しい顔で小夜子に二階に上がれと言った。
 二階は二間しかない。仕方なく小夜子が寝泊りしている部屋に通した。女は部屋に入るといきなり小夜子を睨みつけて、
「あんたが轍をたぶらかした女ね」
 と言った。
「たぶらかしてなんかいません」
「ウソオッシャイ! 最近轍の奴あたしに冷たいと思ったらあんたね」
 (たち)の悪い女は男よりも残酷だ。嫉妬をすればなお更だ。女は店にやってきた時から腹を立てていた。

「あんたが轍をたぶらかしているもの、見せなさいよ」
 そう言うと、女は小夜子をど突いた。小夜子はよろけてしりもちをついた。
「どれ?」
 女は小夜子が着ている着物の裾を脚でめくった。小夜子は着物の時は中にショーツを着けていなかった。それを見て、
「やっぱ男にだらしない女だわねぇ」
 女は小夜子をののしると、小夜子の股に手を入れた。
「やめて下さい」
 小夜子は太ももをしめて小夜子の手が入らないように抗い、頭を下げて守ろうとした。だが、女は小夜子の髪の毛を掴むと思い切り上に引っ張り小夜子の身体を起こした。髪の毛をいきなり引っ張られて小夜子がのけぞった隙に、女は小夜子の股に手を突っ込んだ。
「痛~いっ、、、、、」

 二階で小夜子の大きな悲鳴が聞こえた。店に居た客たちは先ほど女に脅されて女将さんが二階に上がったのを知っていた。それが二階から悲鳴だ。客たちは驚いて、皆レジに代金を置いて店を出て行ってしまった。
 板前の五郎はただならぬ悲鳴を聞いて二階に駆け上がった。部屋の隅に着物の裾を乱した小夜子が蹲って泣いていた。その前に女が仁王立ちして小夜子を見下ろしていた。柄のでかい女だ。女に比べると小夜子は小さく見えた。乱れた裾からはみ出した小夜子の太ももの内側に鮮血が滲んでいた。女は長く伸ばした爪の指を先ほど小夜子の性器に突っ込み思いっきり力を入れてつねったのだ。
 女は張本轍の女房の博子(ひろこ)だ。博子は若い頃横浜のキャバレーのホステスをやっていたが、轍に見初められて結婚した。結婚して見ると、轍は助平な奴であちこちの女に手を出し、博子は轍が手を付けた女を探し出すと虐めて手を切らせた。だが、轍は性懲りも無く次々に新しい女を作った。最近は少し静かになったと思いきや、この頃また様子がおかしいので、子分を脅して口を割らせたのだ。それで早速割烹小夜子に押しかけてきた。轍との間には作らないのか出来ないのか分らないが子供が居なかった。

「ヒロママ、ここはオレの顔に免じて許してやってはくれませんか?」
「あんた、許したらあたしに何かしてくれるの?」
「……」
 五郎は答えに困った。その顔を見て、
「五郎、見返りもなしに良く頼めたわねぇ。あたしをなめるんじゃないわよ」
「……」
「あんたのテクニックであたしを満足させたら許してあげるわよ。どう?」
「ヒロママ、轍さんに悪いっす。それだけは勘弁して下さい」
「あんた、もしかしてこの女に惚れてるね? あたしの目は誤魔化せないよ」
「オレ、轍さんのものには」
「あはは、男が女に惚れるのは自由よ。じゃ、あたしの前でこの女とやって見せてくれたら許すわよ」
「それは出来ません」
「そう。あんたも薄情なやつね。いいわ、あたしはこれからとことんこの女を苛め抜いてやるから。五郎、気が変ったらあたしに言って来な」
 そう言い終わると女は階段を降りて店を出て行った。五郎は小さな薬箱を出してきて小夜子の方に押しやって、
「ちゃんと薬塗っとけよ。ばい菌入って膿んだら始末が悪いぜ」
 五郎も階段を降りて行った。

 五郎は青森県津軽半島の根元に位置する漁師町鯵ヶ沢で生まれ育ち、中学を出ると家を飛び出して東京に出た。定職に就けず、仕事を転々としている内に横浜で不良グループの仲間に入り、窃盗を働いて一年間ムショ暮らしをして出てきた時、暴力団に拾われた。五郎が組に入った頃は若頭は堂島士道と言う男だった。針本轍は士道の下で働いていた。
 だが、世の中の風が暴力団に強く当たるようになって、士道たちの暴力団は表向き解散して意欲のある者たちは普通の企業の経営者として仕事をするようになった。士道は自分の生家のある郡山に引っ込み、轍が後を引き継いで表向きは不動産取引や金融(高利貸)などをやる普通の企業に衣替えをして若い者を束ねている。

 五郎は東京に出てきてから飲食店の下働きをしていた期間に料理を覚え、今では板前として働けるようになっていた。
 そんな時、轍が小夜子と言う女を連れてきて女将にしたから面倒を見てくれと五郎に小夜子を押し付けた。五郎は世話になっている轍の命令なので、素直に小夜子の監視役もした。毎日小夜子と一緒に仕事をしている間に、五郎は小夜子の無邪気であどけない一面に気付いて少しずつ小夜子を気遣うようになっていた。だが、轍の女だと分っていたから、ずっと気持ちを押さえ込んで一度も手を出したことはなかった。
 五郎の気持ちの変化を小夜子は気付いていなかったが、その夜轍の女房の博子に対して自分のことをかばってくれて、初めて小夜子は五郎の優しい一面に気付かされたのだ。

百二十一 紀代の母 Ⅴ

 小夜子は昨夜突然やってきて、自分をひどい目に遭わせた轍の女房だと言うあの柄のでかい女が、またやってきて自分を苛めるのかと思うと震えがきた。店に出てもあの女が今にもやってきそうに思ってびくびくしていた。
 そんな小夜子の怯えを察してか、板前の五郎が、
「気にしても仕方ねぇっす」
 と慰めともとれることを言ってくれた。あのことがあってから、五郎は以前より小夜子に優しくしてくれた。とは言っても監視の目を緩めたわけではない。
 店仕舞いの時刻まであの女は現れなかった。小夜子が、
「やれやれ今日は何事も無く終わったか」
 と思っていると、ガラガラッと扉が開いて轍が入ってきた。今夜はしかめっ面で無愛想に、
「おいっ、五郎、もう店閉めるんだろ?」
 と言った。
「へぃっ、もう閉めます」
「じゃ、お前も上に上がって来い」
 そう言うと小夜子に上に上がれと目で合図した。小夜子はカウンターの上を小奇麗に拭き上げて、割烹着を外して二階に上がった。五郎も続いて上がって来た。
「小夜子のこと、博子にバレた」
「……」
 小夜子も五郎も黙っていた。
「夕べ来たんだろ?」
「はい」
「なんか言ってたか?」
「轍さんと関係を続けたらあたしを苛め抜いてやると言ってました」
「だろうな」

 轍は五郎に目を向けると、
「五郎、こいつ今日からお前の好きにしろ」
 と言った。
「へぃ」
「好きにしろたって、この女をお前にやるとは言ってねぇぞ。こいつはな、おれの会社から金を借りて、いまじゃ利子が積みあがって九百万にもなっとる。五郎がこの女が欲しけりゃ言って来い。お前なら五百万でチャラにしてやるよ。金がなきゃ、好きにしてもいいが、お前にはやらねぇ。金をきっちり返すまではオレの女だ」
 五郎は自分の全財産をはたいても五百万なんて金は出ないことが分っていた。だから、
「オレ、そんな金ねぇっすから」
 と答えた。
「じゃ、仕方ねぇ。この女が欲しくなったら金を貯めろ」
「へぃ」
「言っとくがな、利子って言うもんは毎日ドンドン増えるもんだ。来年の今頃になりゃ、こいつの借金は倍の二千万位に膨らんでるよ」
 小夜子こと由紀は轍の話を聞いて驚いた。毎日ろくな給料もくれずにここで働かされているのに、借金はドンドン増えて行くらしい。それじゃ自分は一生この轍に好き勝手にされてしまうのだ。そう思うと夢も希望も吹っ飛んで絶望だけが残った。
「分ったな。オレはしばらくここへは来ねぇ。おいっ、小夜子、これからは五郎と仲良くやってけよ」
「……」
 小夜子は返事をしなかった。すると轍の目が吊り上がり、
「小夜子っ、聞こえてんのかよぉ」
 と声を荒げた。
「聞こえてます」
「だったらうんとかすっとか言ったらどうだ」
「はい」
 言い終わると轍は階下に降りて店を出て行った。

「小夜子さん」
 五郎が始めて小夜子をさん付けで呼んだ。
「はい」
「話は聞いたよな。オレ金ねぇから身請けは出来ネェ。だからよぉ、今まで通りあんたが逃げないか見張りは続けさせてもらうぜ」
「分ってます」
 しかし、その夜は五郎は小夜子の左手に紐を縛り付けなかった。小夜子は五郎の気持ちを察して、
「今夜は逃げたりしない」
 と心の中で呟いた。
 小夜子は、夜中に早速五郎がやってきて自分の身体を求めるだろうと思って居たが、何もなく夜が明けた。隣の部屋を覗くと五郎はまだすやすやと眠っていた。
 小夜子はあの大柄の女も轍も当分来ないだろうと思った。そう思っただけで、気持ちが少し楽になった。気持ちが楽になると、不思議なもので店の仕度の仕事も捗った。五郎は今朝から急に優しくなった。いつもは無口で何か聞くまで返事もしてくれなかったが、今朝は、
「夕べちゃんと眠れたか?」
 と珍しく声をかけてくれた。小夜子は五郎が金を工面して自分を救ってくれたら、この男に尽くしてやってもいいとまで思った。どっちみちこの世界から逃げ出すなんて無理だと少しずつ分ってきたのだ。
 だが、店に来る先日メモを渡した青年のこともまだ忘れてはいなかった。ここのとこしばらく顔を出していないから、今夜あたり来るかも知れないと予感がした。

 その日は客の入りもそこそこで、小夜子は忙しかった。やっと客足が途絶えて、カウンター席がまばらになった時、あの男がやってきた。いつものように無口で、ちょっと見回してから空いている席に腰掛けた。小夜子がおしぼりを出しても無表情だった。
 男は銚子を一本空けると席を立った。小夜子がレジに向って、勘定を済ませた時、男が目で合図した。小夜子は意味が分らずに、
「毎度ありがとうございます」
 と礼を言って男を出入り口まで見送った。
 その時だ、男は不意に小夜子の着物の袖をちょっと引いた。扉の外に出ろと言っているように思えて、小夜子は男を見送るふりをして、男と一緒に店を出た。
 男は急に小夜子の手首を掴んで店の裏の露地に引っ張って行った。そこにエンジンをかけっぱなしのタクシーが停まっていた。男はタクシーに小夜子を押し込むと運転手に、
「出してくれ」
 と言った。
 タクシーが走り出した途端、急ブレーキを踏んだ。小夜子も男も前の席の背もたれに頭をぶつけるほどだった。
 タクシーの前を見ると、五郎が両手を広げて遮っていた。
「万事休す」
 小夜子は観念した。だが、横の男は直ぐにタクシーを降りると、つかつかと五郎の方に歩み寄った。
「女をもらって行くぜ」
 その時五郎は相手の男のドスの利いた低い声を確かに聞いた。だが、その直後男の強烈なパンチが鳩尾(みぞおち)にヒットして五郎は、
「うううっ」
 と唸って蹲った。
 男は五郎の身体を足で道路わきに寄せて素早くタクシーに乗り込むと、
「横浜駅」
 と次げた。

 横浜駅でタクシーを降りると、小夜子は男の後に続いて京浜東北線に乗った。電車はそこそこ混んでいた。
「尾行を撒くには電車が一番だ」
 電車が川崎を過ぎた時、男は初めて口を利いた。
 男は多摩川を渡って蒲田駅で電車を降りると東急池上線に乗り換えた。尾行されていないか後を注意している様子だった。小夜子は隙の無い男だと思った。電車は雪が谷大塚を過ぎて旗の台と言う駅を過ぎて戸越銀座と言う駅で降りた。山手線の五反田に近い。駅の周囲は賑やかで商店が沢山あった。
 男は小夜子を引っ張るようにして商店街を抜けて、駅から七分か八分さっさと歩いた。と、小奇麗なマンションの前で、
「ここだ」
 と言って立ち止まった。左右を見て不審な尾行者のないことを確かめると、さっとマンションのエントランスを潜った。セキュリティーの行き届いたマンションらしく、セキュリティーカードを持っているか、住人が許可してロックを解除しないとエントランスを潜れない仕組みになっているようだ。

 二階の角部屋のドアーを鍵で開けると、
「どうぞ」
 と小夜子を招き入れた。
「コーヒー? それともお茶?」
「コーヒーがいいかな」
 と小夜子が答えると、
「インスタントだよ」
 と言った。
「いいわ」
 しばらくするとかすかにコーヒーの香りが漂ってきた。居間のダイニングテーブルを指して、
「どうぞ」
 と言われ小夜子は腰を下ろした。一昨夜博子にやられた下腹部が少し痛んだ。
「オレは佐竹梁(さたけりょう)だ。これからはリョウと呼んでくれ。このマンションはオレのものだ。遠慮なく今日からここに住んでくれ。今日は用があるからこれで失礼するが、当分着物で外出すると目立つから洋服にしてくれ。少し適当に買い揃えておいたが、気に入った服は自分で揃えてくれ。当面の生活費はこれを使ってくれ。カードも置いていくから使ってくれ」
「オレのものって、リョウさん、このマンションのオーナーってこと?」
「そうだ」
「へぇーっ、凄いのね」
 実際小夜子は驚いた。店に来た感じではとてもそんな風には見えなかった。エレベーターが六階まであったから六階建てだろう。
「申し遅れましたけど、あたし小夜子と言います。でもこれって源氏名で、本名は清水由紀です。これからは小夜子とでも由紀とでもどちらで呼んで頂いてもいいのよ」
「あ、言い忘れたが、オレはヤクザじゃねぇ。安心してくれ」
 そう言うとリョウは外に出て行った。小夜子が見るとエントランスのキーカードとドアーの鍵もテーブルの上に置いてあった。封筒の中には封帯をした万円札が一束入っていた。 小夜子は夢じゃないかと思った。部屋の中は全て作り付けの家具でさっぱりとしていた。冷蔵庫の中にはカンビールが二本入っているだけで何もない。小夜子は急に空腹を感じた。どうにも人が住んでいた気配が感じられない。
 小夜子は寝室のクローゼットを開けて吊るされたパンツとジャケットに着替えてベッドの上にあったサングラスをかけると、マンションを出た。商店街に出ると、どの店も品揃えが豊富で買い物には便利な街だと分った。食料品や当面必要な洗面道具などを買い揃えると重い荷物を抱えてマンションに戻った。
 小夜子はキッチンに立って得意の料理に取り掛かった。まもなく部屋中に美味しい匂いが漂い、会津若松を出て初めてまともな生活をスタートさせた。

 一週間経っても、二週間経ってもリョウは姿を見せなかった。
「もうそろそろ戻るかしらん」
 と思っていると、はたしてドアーをノックする音がして、
「リョウだ」
 と声が聞こえた。小夜子はこの時飛び上がるように嬉しかった。博子に苛められた傷も治り心身ともに平和が訪れていた矢先だ。小夜子はリョウが入ってくると、無意識に抱きつき、リョウの唇にそっと自分の唇を重ねた。
「逢いたかったよ。夕食、まだですよね」
「ああ」
「よかったぁ」
 小夜子は早速夕食の仕度にとりかかり、
「待っている間、お風呂でもいかが?」
 と声をかけた。
「ああ、そうする」
 リョウが風呂から上がると、食卓にご馳走が並んでいた。
「今夜、泊まって下さらない?」
「いいのか?」
「あたし、一人だと淋しくて」
「じゃ、一晩泊めてくれ」
「あたし、リョウさんに(さら)ってもらった時からリョウさんの[物]だからぁ」
 小夜子は甘い口調でそう言った。

「小夜子」
 初めてリョウが名前を呼んでくれた。小夜子は嬉しかった。
「小夜子は料理、上手だね」
「はい。そこそこ自信があるよ」
「この街に小料理屋でも出してみないか? パートで働くよりいいだろ」
「嬉しい。お店持たせて下さるの」
「ああ。小さな店がいいだろ」
「はい」
「実は空き店舗を見つけて改装をしておいた。明日ちょっと覗いてみないか」
 マンションといい、小料理屋といい、リョウの手回しの良さに驚いた。
 その夜、小夜子はリョウを自分のベッドに誘った。リョウの丁寧で優しい愛撫に、小夜子は思い切り燃えた。歳は聞いてないが、多分三十歳を少し過ぎているのだろうと思った。
 抱かれて見ると筋肉で引き締まった身体が小夜子の上で躍動して小夜子はすっかりリョウを好きになっていた。
 こうして、三日後に小夜子は戸越銀座の商店街の片隅に小さな小料理屋をオープンした。店の名前は行方不明の娘の名前を取って[紀代]とした。

百二十二 紀代の母 Ⅵ

 佐竹梁に不意打ちされた板前の五郎は五分ほどして、ようやく身体を起こした。小夜子たちが乗ったタクシーのナンバーは覚えていた。五郎は店に戻ると直ぐに轍に電話をした。
「轍さん、ヤベェよ。店の客が小夜子さんをかっぱらって逃げた」
「おめぇ、何言ってんだよぉ。監視してたんじゃねぇのか」
「済みません。油断してたら、オレやられちゃって」
「車かなんかで逃げたのか」
「タクシー。オレナンバー覚えてるから追跡してもらえませんか」
「おめぇに言われなくてもするさ。早くナンバーを言えよ」
「相模×××ー××××です」
「分った。何かあったらまた連絡しろ」
 轍は電話を切ると直ぐにタクシー会社に電話を入れた。常日ごろ関係がある会社だ。
「今走ってたら押えてくれ」
 十五分ほどして電話があった。
「車は押えたが、客は二、三分前に横浜駅で降ろしたとよ」
「運転手、客の会話、何か聞いてねぇのか」
「それが無口なやろうで車内で一言もしゃべらなかったらしいです」
 轍は小夜子たちは逃げ切ったと思った。人出の多い横浜駅だ。一旦逃げ込まれたら尾行中でもなければ見つけることは難しい。電車もJRが京浜東北線、東海道本線、根岸線、横須賀線。私鉄は京浜急行、相模鉄道線、東京急行電鉄東横線。それに地下鉄もある。どっちに向ったのか、どの電車に乗ったのかなんて分かりっこない。
「くそったれめが。大事な貸した金も戻らんし。意地でも探したるぜ」
 轍は悪態をついた。五郎は慎重なやつだ。あいつがやられたなんて信じたくもなかった。
 小夜子の行方はその後あちこちに網を張って探したが網にかからなかった。
 時間が経つと自然に忘れ去られるものだ。二ヶ月経ち、三ヶ月経っても行方が分らず、轍の頭の中では小夜子の存在は自然に希薄になって行った。女房の博子ともめたこともあって、表向き騒ぎを大きくするわけにも行かなかったのだ。

 リョウの助けで開店した小夜子の店[紀代]は、最初は客足が少なかったが、安いことと料理が美味いことが評判になり、夕方七時を過ぎると連日満席になった。最初開店は午後五時、閉店は周囲の店に合わせて午後十時にしていたが、客から昼飯の希望が多く出て、お昼は午前十一時半から午後二時まで店を開くことにした。
 小夜子は毎日その日の献立分だけ生鮮な野菜や肉、魚介類を仕入れ、全て最初から自分で調理をした。だから味だけでなく、季節の食材が新鮮で、そんな所も評判になった。
 夕方だけ店を出していた頃は時間に余裕があったが、昼も出すようになり、毎日早朝から仕込みを始めることが多くなった。

 リョウのマンションに落ち着いた小夜子の元へは、リョウは一週間か十日に一度の割合で訪ねて来た。小夜子は自分の所に来ない日にリョウが何をやっているのかさっぱり分からなかったが、あえて詮索はしなかった。小夜子は今のままでも十分に幸せを感じていた。
 リョウと付き合い始めて半年が過ぎた頃には小夜子とリョウは相思相愛の仲になっていた。小夜子はリョウよりも一回り以上年上だったがポッチャリ形で可愛らしい感じだったので、リョウは歳の差を殆ど意識していないように見えた。小夜子はリョウに尽くした。それで、いつの間にかリョウは小夜子に溺れるようになっていた。

 振り返って見ると、小夜子は初めてリョウのマンションに匿ってもらってから、三年以上も過ぎていた。毎日小料理屋の仕事をしていたから、小夜子は忙しさに追われて月日の経つのを忘れるほどだった。生活は安定していた。小料理屋が繁盛して収入が増え、住居費がかからない分小夜子の貯金は増えてきた。それで、小夜子はリョウに部屋代の一部を払いたいと言ったが[貯めとけよ]と取り合ってくれなかった。
 小夜子は四十歳半ばを過ぎた。女としてはそろそろ健康にも気を遣わなければならない歳だ。特に最近身体がだるく医者に行くと、
「ご懐妊です」
 と言われた。自分でもこの歳になって子供ができるなんて信じられなかったが医師は、
「最近は皆様お若くなられて、四十代後半でご懐妊される方は増えてますよ」
 と笑った。
 小夜子はリョウの子供を授かったことをリョウには言わなかった。それでこっそり医師に相談して堕胎手術をしてもらった。術後の経過は良く、小夜子は何事もなかったかのようにリョウに接した。しかしこのことに懲りて、リョウと交わる時には今までより避妊に気を遣った。

 しばらくぶりにリョウが小夜子の所にやってきて、
「実はオレのことを好きな女性が居るんだ。一度会って見てくれないか」
 と切り出した。
「リョウの気持ちはどうなの? あたしくらいの歳?」
 と聞くと、
「男は女に好きだ好きだと言われ続けると、なんだか自分も好意を持つようになるんだな。オレには小夜子が居るから無理に付き合う気持ちはないよ。歳は聞いてないけどなぁ、そうだなぁ、オレより五歳くらい年下って感じだな」
「綺麗な子? それとも可愛い子?」
「そうだなぁ、綺麗な子だけど、頭の回転が速くて切れる人だから、可愛いとは言えないかもね」
「あたしが嫉妬したらリョウはどうする気?」
「嫉妬かよぉ。参ったなぁ。オレ、そんなの苦手だからなぁ」
「アハハ、冗談よ。あたしみたいなオバサンがリョウに愛されてるだけでも贅沢なんだから、リョウが本当に好きなら付き合っても文句を言わないよ。でもね、あたしリョウに捨てられたら淋しいな」

百二十三 その男・リョウ Ⅰ

 熊野古道の辺りから次第に川幅を広げて、和歌山県と三重県の県境を滔滔と流れる熊野川は熊野灘に流れ込んでいる。その熊野川の河口にある新宮市に江戸時代から続いている材木商、佐竹源造商店があった。十二代目の主、佐竹朔太郎は息子三人、娘二人の子宝に恵まれた。三人の息子の中で末の息子は名を(いさむ)と言った。勇は子供の頃上の兄二人にに鍛えられて、学校でも近所でも喧嘩に強くガキ大将だった。兄二人は学校を卒業後家業を手伝っていたが、勇も地元の高校を卒業すると直ぐに父親の仕事を手伝わされた。

 和歌山県は県内の77%が森林で、紀州みかんで有名な紀伊国屋文左衛門も一頃は江戸で材木商もやっており、紀州の木材は江戸時代から江戸の屋敷や神社仏閣に使われてきた。それで紀の国は木の国とも言われるほどであった。特に建築用の(ひのき)材は今でも生産量が全国一位だ。
 終戦後の建設ブームに乗って、佐竹源造商店は戦後も業績を伸ばしたが、良いことはいつまでも続かないと言われる通り、昭和四十年代から業績が年々下降し始めた。安い外材が大量に輸入されるようになり、割高な国産材の需要が落ちたからだ。

 父朔太郎の浮かない顔を毎日見せられていた三男の勇は家業の手伝いをやめて東京に出ると父親に申し出た。一時は反対されたが、結婚を済ませて行くなら許すと言われて、地元の娘と見合い結婚をした後故郷を飛び出した。新妻は八千代と言う名前で、子供の頃から地元で育ち結婚して直ぐに都会に出ると言われて戸惑ったが、素直に勇にくっついて都会に出た。
 勇は父親からもらった僅かな開業資金を元手に横浜で小さな不動産屋を開業した。勇は良く働いた。丁度その頃から不動産ブームが始まり、次第に大きな資金を動かせるようになり、自分の所で企画したマンションは発売後直ぐに完売するのが当たって次々とマンション建設に手を広げて、不動産バブルがはじける寸前には建設会社を下請けに使って自社開発のマンションも多く手がけられるように成長していた。
 勇が横浜に移り住んで間もなく、妻の八千代が懐妊、やがて男の子が誕生した。勇は息子に(りょう)と言う名前を付けて可愛がった。
 八千代は都会の空気にいつまでも馴染めず、特に当時は地上げ屋とも付き合いがあり荒っぽい業者が多かったから、勇に代わって客や仕事仲間を接待することが苦手だった。勇にしてみれば妻にもっと仕事に協力してもらいたいのだが、あてにならず、次第に不満が重なった。それで、リョウが中学校に上がる頃、八千代に遊んでいても暮らして行けるようにと数棟の賃貸しマンションを与えて離婚した。勇は離婚後直ぐに自分より十歳も若い社交的な女を妻に迎えた。リョウは継子になったのだ。

 今でも忘れはしない一九九一年四月、突然勇が使っている下請けの建設会社が資金繰りに行き詰まって倒産した。勇の会社では大型物件が完工せず、強気の投資をしていた勇の会社もあれよあれよと言う間もなく連鎖的に倒産してしまった。リョウがようやく中学二年生になったばかりの時だった。
 父親の勇は資金の手当てに奔走したが手遅れで、倒産後債権者が押し寄せ、全財産を投げ出しても足りなかった。それで夜逃げ同然に若い妻を連れて実家の和歌山の新宮に舞い戻った。だが、八千代と離婚して若い妻を娶った勇に地元の空気は冷たかった。仕方なく勇は妻と二人で大阪に出て、散々苦労した挙句今では小さな不動産屋を細々とやっているのだ。
 勇は離婚した妻八千代には一切応援を頼まず、離婚をしていたのが幸いして八千代の財産には債権者の手が伸びてこなかった。
 八千代は勇が倒産して夜逃げをした時、実の息子のリョウを自分の手元に置いた。それで、一人息子のリョウを可愛がった。リョウは公立高校を卒業するとK大の経済学部に進んだ。父親譲りで、身体が大きく、喧嘩も強かったが勉強も出来た。
 リョウが大学に在学中は、
「お金なんてお墓まで持って行っても意味ないから」
 と八千代はリョウに小遣いの不自由をさせなかった。
 大学を卒業すると、リョウはM銀行に入社して銀行マンとしてスタートした。

百二十四 その男・リョウ Ⅱ

 八千代は息子のリョウが銀行マンとしてスタートしたのを機会に戸越銀座にある自分のマンションに居を移した。リョウが入社したM銀行は旧財閥系の銀行で本店は神戸にあったが実務は神戸本部と東京本部に分かれていた。リョウは千代田区九段にあった東京本部に通勤を始めた。

 八千代が元夫の勇から慰謝料代わりに譲り受けたマンションは川崎市の武蔵小杉と言う駅から歩いて十分位の所にある八階建てと、戸越銀座の六階建て、横浜市上大岡にある四階建て、横浜市鶴見区の京浜急行電鉄のけいきゅうつるみ駅からそう遠くない所にある三階建てのボロアパート、横浜市港北区の綱島と言う町にある四階建てのマンション、同じく横浜市の港南台と言うJR根岸線の駅に近い六階建てのマンションの六棟だった。これだけマンションを抱えていると家賃の集金やら何やら相当に多忙に見えるが、八千代は管理会社と契約して雑務は全て任せ、月に一回程度見回りに行くくらいのもので管理は大変ではなかった。

 一流の私大、K大の経済学部を卒業したリョウは銀行では幹部候補生として教育を受け始めた。一昔前なら旧財閥系銀行の本店勤務になるには、有力なコネが必要だったし、片親に育てられた家庭環境では最初からカットされたものだが、リョウが入社する頃には次第に実力主義に変わっていた。そうは言っても同居している母親と息子が別姓ではまずいと八千代が、
「銀行の入社試験を受けるならあたしの籍に移しなさい」
 と提案し、受験前に役所の手続きを済ませていた。普段は使い慣れた佐竹姓で名乗ったが、戸籍上では母親の旧姓の〆木(しめき)となった。
 幹部候補生は入社してから、大体半年か一年で色々な仕事のセクションに(たらい)回しをされた。リョウは色々なセクションの実務を経験させられたが、融資を担当する部門の仕事に一番興味を覚えた。大銀行の本店扱いともなれば、金額が大きいし、融資に絡んで大企業の重役たちと面識ができる。それで、リョウは融資先の重役と積極的に接触できるように努めた。勿論リョウは駆け出しだから、せいぜい融資担当部長のカバン持ちだ。リョウはそれでも良いと思った。それでどうなんだと目的を聞かれると答えに困るがいずれ必ず何かの役に立つだろうと単純に考えていた。

 リョウが通勤にようやく慣れてきた頃から、実母の八千代は時々ゴホン・ゴホンと深い咳をし始めた。母は風邪だと言い張り、病院には行かず、薬局から市販の風邪薬を買って来て飲み続けていた。
 リョウは入社早々から多忙で、終電が行ってしまいタクシーで帰宅することが多かった。そんなだから母親の病状が日毎に少しずつ悪くなっていくのに気付かなかった。
 そんなある日、銀行に病院から電話が入った。どうやら救急車で運び込まれたらしい。
「息子さんでいらっしゃいますか」
「はい」
 看護師の女性は丁寧な話し方をした。
「今、お時間は大丈夫でいらっしゃいますか」
「はい。大丈夫です」
「では恐れ入りますが、なるべく早めにこちらにいらして下さい」
 看護師は東京では有名な旗の台に近いS大学病院に来るようにと言った。佐竹は銀行に理由を告げて、急いで病院に駆けつけた。電話をくれた看護師は、
「急なことですが、お母さまを診察された担当の医師のお話しを少し聞いて頂けますか」
 と聞いた。
「もちろん」
「ではこちらへどうぞ」
 案内された会議室のような部屋に入ると医師が三名待っていた。
「実は申上げ難いのですが、今日救急病棟に搬入された方、あなたのお母さんですね、このまま入院してもらって、精密な検査を受けられるようお勧めします」
「どこが悪かったのですか」
 三人の医師は表情を強張らせて、
「実は肺癌なんです。精密検査をして見ないと何とも言えませんが、おそらく手遅れだと思います」
 リョウは足元から鳥が立つとはこんな場合を言うのだろうと思った。他人の話はたまに聞くが、まさか自分の母親が、としばらく信じられないでいた。

 三日後に医師に呼ばれ検査結果の説明を受けた。
「思ったより進んでいます」
「どれくらい?」
 身内の癌を宣告された家族なら必ず尋ねる言葉だ。医師は、
「三ヶ月、長くて半年だな」
 と答えた。
 医師の予告通り、八千代は苦しんだ末、入院して四ヵ月後に他界した。リョウは独りで遺体を引き取り火葬を済ませてから和歌山の母の実家を訪ねた。
 八千代は生前可愛らしいビオラの花が大好きで、部屋に花を一杯付けたビオラの鉢がいくつも置いてあった。それで、リョウは花屋からビオラの花を一杯買い込んでそれを母の棺おけに入れてやった。せめてもの息子の親孝行だと思った。
 母方の親戚と打ち合わせをして、〆木家の菩提寺で改めて葬儀を行い埋葬した。大阪に居る父親の勇に連絡を入れると、父だけが葬儀に参列した。埋葬した墓前にもリョウはビオラの花束を飾ってやった。

 葬儀が終わると、母方の親戚から遺産相続の話しが出た。だが、八千代は生前に遺言を残していた。遺言によると、全財産を息子に譲ると書かれていた。
 それで東京に戻ると、リョウは大学時代のクラスメイトが紹介してくれた弁護士と相談して、遺産相続の手続きを済ませた。多額の相続税を納めるために、武蔵小杉にあるマンションを売却した。世の中不景気ではあったが、居住地として人気がある地域なので思ったより高く売れ、一棟を手放すだけで済んだ。
 この時から、リョウは事実上天涯孤独の身となってしまった。若くして母親を失くした一人息子の青年の悲しみは恐らく同じ経験を持たない他人には分らないだろう。だが、リョウは悲しみを心の奥深くに仕舞いこんで顔には出さなかった。

百二十五 その男・リョウ Ⅲ

 母の葬儀が終わり、遺産相続手続きを済ますと、リョウは毎日銀行へ通勤した。相変らず帰宅は夜の十二時を回り、終電がなくなってしまうことが多く、戸越銀座のマンションには寝に帰るだけの生活だ。
 今までは母が居て、リョウが帰ってくる頃には母は起きて待っていてくれることが多かった。社食で軽い夕飯は済ませて帰宅するのだが、母が作ってくれた温かい晩飯を食べ直すことが多かった。だが、今は誰も居ないガランとした所に帰るだけで、適当にベッドに潜り込むと直ぐ朝になり出勤時刻になった。
母を亡くしてからリョウは時々、
「サラリーマンを辞めちゃおうかな」
 と考えることが多くなった。母が残してくれた遺産は全て賃貸し住宅だ。家賃だけでも毎月膨大な金が入ってくる。だから会社勤めをしなくとも、贅沢をしなければ遊んで暮らせた。鉄筋コンクリートでできたマンションでも、年数が経てば改装したり建替えたりする必要があるから、リョウは家賃収入の殆どを積み立て預金に回していた。

 母が亡くなってから半年が過ぎた時、リョウは辞表を書いて会社に提出した。驚いたのは上司だ。
「君、幹部候補生はだな、真面目に仕事を続けていれば、将来最低でも部長職、頑張れば役員にだってなれるんだぞ。一身上の都合と言うが、何か特別なことでもあるのかね」
「いえ、本音は好き勝手に暮らして行きたいだけです」
「メシは食わんわけにはいかんだろ? どっちみち何処かに勤めて仕事をするんじゃないのかね」
 リョウはこれ以上上司と話す気がなかった。サラリーマンはサラリーマンの考え方が染み付いてしまっているのだ。
 結局リョウは僅かな退職金を受け取って銀行を辞めた。退職金は貸している一部屋の家賃の二ヶ月分くらいの微々たるものだった。

 退職して昼間戸越銀座のマンションの一室に居ると、母親の匂いが残っていて切ない気持ちになった。それで、元母親が住んでいた横浜の上大岡のマンションの3LDKの一室に母が生前使っていた洋服や下着、宝石類など全てを箱に詰めて移した。それで、自分も戸越銀座を引き払って上大岡に引っ越した。
 改めて母の遺産を調べて驚いた。遺産は六棟のマンションと株式会社八千代と言う会社の株券の他は大したものはなかったが、資本金二千万円の株式会社八千代はマンションの家賃を一括して管理している会社で実態がなく、会社名義の預金が何と二十億円近くもあったのだ。母は生活費以外はこのペーパーカンパニーの口座に落とし込んでいたらしい。
 他人任せにしているマンションの管理費用は全てこの会社から支払われていた。弁護士から大切な遺産ですからと額面全部合わせて二千万円の株券を相続した時にはそんなからくりを知らなかった。母が生きている頃は母はこの会社の社長だったが、相続後リョウが社長となった。社長だと言っても事務所があるわけでもなし、社員が居るわけでもない。あるのは会社の帳簿だけだ。調べてみると、帳簿も会計士事務所に任せ切りで、毎年の決算書にハンコを捺すだけだ。

 引越しして一段落すると、大学時代に友人に誘われて遊びに行ったヨットクラブに頼んで一級小型船舶操縦免許証を取得した。この免許は小型船舶なら種類は無制限に操縦できるが、日本の沿海区域の外側八十海里(約150km)より外に出て操船することは許されていない。それで、続いて六級海技士の資格も取得した。この資格があれば、遠洋航海も出来るのだ。
 免許を取得すると、リョウは株式会社八千代の名義で中古の大型クルーザーを買った。大型クルーザーはピンキリで新品だと一隻三十億円~七十億円もする。リョウは販売会社の紹介で、不景気で維持が難しくなったオーナーから五億円で中古のクルーザーを譲り受けた。
 最近は大型のキャンピングカーで全国を気儘に走り回る者が多くなったが、リョウは気象を調べて海が穏やかな日には、友達と一緒に海に出た。サラリーマンはそうそう休暇を取れないので、会社の役員をやっている奴とか、作家とか画家とかアーティストとかそんな仲間が増えた。要は金と暇のある男たちだ。

 洋上は楽しかった。遊びだから無理な航海は避けた。日本の沿岸なら遠くの島に行ったり、釣りをしたり、遠洋なら島国を訪ねて遊んだ。
 銀行に勤めていたら、若い内にこんな経験はできなかっただろう。
 航海をしない日には一日中読書をしたり、夜は飲み屋に出かけて一人で酒を飲んだ。
 たまたま横浜の桜木町に近い長者町から少し入った飲み屋で[割烹小夜子]と言う店に入った。なんでもない飲み屋だったが、突き出しや他の料理も美味しかったし、いつ来てもメニューが変っていたのが気に入って、一週間か十日に一度通い始めた。
 無口だがだらけてない板前も気に入った。女将は見た目ポッチャリとした可愛らしい感じの中年の女だが、時おり淋しそうな表情を見せる所が気になった。通う内に他の客の言葉尻から料理はどうやらこの女将が全て自分で作って出しているらしいことも分った。

百二十六 その男・リョウ Ⅳ

 上大岡は横浜では交通の便が良い所だ。京浜急行線に乗れば、みなとみらい、横浜、乗り換えなしで品川まで出られる。横浜市営地下鉄線に乗れば、乗り換えなしで直ぐに伊勢佐木・長者町駅に着く。なので上大岡に住んでいると、長者町に出るのは億劫ではなく、酒を飲むなら車で行くわけにはいかないから、電車は都合が良いのだ。
 それで、リョウはちょくちょく割烹小夜子に顔を出した。リョウは元々口数は少ないが、何度も通う内に女将がリョウの好みを覚えてくれて、席に座れば何も言わなくても好みの物を出してくれるようになった。女将はリョウの顔を見て、いつもちょっと微笑むのだが、それが可愛らしかった。見た所、自分より一回り以上年上の中年のオバサンだが、オバサンっぽくない所に好感が持てた。
 そんな女将は、何故か忙しく働いている時でも一緒に仕事をしている板前の男に気を遣っているように見えた。普通は女将の方が上で、[××お願い]などと言う時に暗に命令しているように見えるものだが、ここの女将は、
「すみませんが××をお願いします」
 と丁寧に頼むのだ。その反対に板前の方はいつもブスッとしていて、女将が頼んでいるのに黙っている時もある。板前は客から見て感じが悪いわけではないが、何か訳でもあるか、あるいは相当に職人気質の奴なんだろうとリョウは思っていた。

 所がある日、その板前がちょっと板場を外した時、それを狙っていたかのように、女将はつつつとリョウの前に来ると、一枚の折り畳んだメモを差し出して、無言で丁寧に頭を下げたのだ。リョウが何かと思ってメモを開こうとすると、女将は手で制した。リョウは女将の言いたいことを理解した。家に戻ってからゆっくり読んで下さいと言っているのだろう。それで、リョウはそのメモを素早くポケットに捩じ込んだ。酒を飲みつつ、女将が差し出したメモの内容は何だろうと気になったがリョウは我慢した。まるで旦那が居ない隙を狙って不倫の相手にメモを渡すような感じだ。

 その日は、いつもより酒の量を控えて、リョウは勘定を済ますと店を出た。レジは女将が応対したが、何も言わず帰りがけに、
「またどうぞ」
 と声をかけただけだった。リョウがポケットに手を突っ込んで歩き始めると、ポケットの中のメモ用紙がやたらと気になった。こんな場合、誰だって気になるだろう。
 それで、市営地下鉄に乗ると、リョウは早速メモ用紙を開いてみた。電車は混んでいなかったから、他人に盗み読まれることはない。
 メッセージは小さな文字だが、綺麗に丁寧に書かれていた。

 [突然変な内容のお願いをして申し訳ありません。実はあたし女将とは名ばかりで、高利貸から借りた僅かなお金を返せず、怖い男たちに捕らえられて、この店に軟禁されているのです。お気付きかも知れませんが、あたしが逃げ出さないように夜も昼も一日中板前が監視をしております。今までに何度か逃げようとしましたが、直ぐに見付かって連れ戻されてしまいました。お名前も存じ上げないお客様にこんなことをお願いできる立場ではございませんが、強そうで、真面目そうな方に見えましたので、思い切って藁をも掴む思いでお願いしてみました。どうかこんなあたしをこの生き地獄から救い出して下さい。怖い人たちに見付からない場所なら、何処へでもお供します。よろしくお願いします。小夜子]

 リョウは子供の頃、父親が付き合っていた地上げ屋とか荒っぽい男たちのことを見て育った。だから、女将のメモを読んでどう言うことかは直ぐに理解できた。だが、最悪は暴力団相手だ。相当の準備をして、手際よく処理しないと、失敗して捕まったら後が面倒だと思った。
 リョウは子供の頃から父親譲りで喧嘩に強かったし、大学時代にはジムに通って格闘技を覚えた。だから板前が一人なら必ず倒せる自信があった。店の中に仲間らしい者がいたら、その時は計画を中止して次の機会を窺えば良いのだ。
 リョウは救い出した女将をどこに匿おうかと考えた末、横浜から遠い戸越銀座のマンションが良いだろうと思った。あのマンションはセキュリティーがしっかりしていて、キーカードがないとエントランスから中に入れない。ドアーの錠前もピッキングが難しい強い構造の物が使われていたからだ。

 当日はタクシーを待たせておいて、チャンスがあれば女将を引っ張り出してタクシーで逃げるのが良いと思った。乗用車ではナンバーを覚えられたら今は情報網が確立しているから直ぐに見付かり始末が悪い。それで、最寄の駅までタクシーを飛ばして公共交通、つまり電車で逃げるのが良いと考えた。最初はJRの桜木町か関内か石川町と考えたが、電車が一本では着物姿で目立つ女将は直ぐに見付かってしまう確率が高いと思った。タクシーに乗っている時間が長いとタクシー無線で発見されてしまうリスクが高くなるが、タクシーを降りた先のことを考えると、電車の路線が多く、人出が多い横浜駅がベストだと思った。万一タクシー無線に引っ掛かって、横浜駅で待ち伏せに遭ったら、迷わず110番に通報して、パトカーが到着するまで時間稼ぎをすれば良いと考えた。万が一にも殺し合いは避けたかった。サラリーマンなら新聞沙汰を心配して110番に通報するような計画は立てないだろう。もしメディアで報道されたら、たとえ不義がなくとも、出世街道から外されてしまう。だが、今のリョウはどこの組織にも入らず、遊んで暮らしている身だ。だから怖いものはなかった。

 戸越銀座のマンションは空き部屋だったが、女将を匿うとなれば掃除くらいはしておいてやろうと戸越に出かけて掃除をした。そんなことをしている間にあれから十日も経ってしまった。
「明日、店に板前の仲間がいないようなら決行しよう」
 そう思いながら次の日の夜、横浜ナンバー以外の流しのタクシーを拾って長者町の割烹小夜子に行った。乗ったタクシーは相模ナンバーだった。予めタクシーを停めておく場所を下見しておいたので、
「三十分位ここでエンジンをかけたままで待っていてくれ」
 と運転手に金を握らせてリョウはいつものように店に入った。仲間らしい奴が居て決行できなかったら、何食わぬ顔をしてタクシーで帰ればいいだけだ。リョウは絶対にあせってことを進めようとはしないつもりでいた。

百二十七 その男・リョウ Ⅴ

 リョウは板前が不意を突かれて簡単に倒れて良かったと思った。あそこでもみ合って騒ぎにでもなれば、相当始末がやっかいだったと思うと、運が良かったと改めて安堵した。
 女将を戸越銀座のマンションに連れて入るまで、念のため追っ手を警戒していたが、何もなかつたのも幸いした。
 マンションでひとまず女将を落ち着かせると、店で見ていた時より少女っぽい面影が残っていて可愛らしかった。サングラスや当面着る洋服は予め用意をしておいたが、女物の下着はいくらなんでも恥ずかしくて買えなかった。ま、一週間ほど追っ手の様子を見て、何もなければ彼女に好きな物を買いに行かせれば良いと思った。

 女将は、
「小夜子は源氏名で本名は清水由紀です」
 と自己紹介した。聞いてみると女将は実名の由紀よりも小夜子の方が気に入っているらしいことが分かりこれからはなるべく、
「小夜子さん」
 と呼ぶことに決めた。女性に歳を聞いちゃ失礼なことくらいは分っていたから、実際に女将がいくつなのかは分らないが、見た目は七歳~十歳年上だが、実際は自分より一回りは上なのかも知れないと思った。そうすると四十歳半ばってことになる。

 リョウは女将を一人マンションに残して自分は鶴見のボロアパートでしばらく過ごすことにした。天気が良く海が静かな時はクルーザーで海に出た方がずっと楽しい。買ったクルーザーの内装はちょっとした豪邸の応接間のような贅沢な造りになっていて、オーディオはじめ家電製品も備え付けられていたからマンションよりもずっと快適だ。それで、鶴見に泊まらない時はクルーザーの中で生活していた。上大岡のマンションにも時々寄ったが、長者町に近い所では尾行に特に注意した。誰も追って来る気配はなくとも、電車を乗り換えたり、間にタクシーを挟んだりと普通に行動する倍の時間をかけて慎重に行動していた。

 一週間が過ぎても、小夜子の周りには異変がなかった。小夜子には言ってなかったが、リョウは時々戸越銀座に出かけ。マンションの周囲に変な奴がいないか警戒をしていた。
 それで、小夜子をマンションに匿ってから半月ほど過ぎてからリョウは小夜子のマンションを訪ねた。その時の小夜子の喜びようは今も忘れない。
 その夜、小夜子がベッドに誘った時、リョウは躊躇した。小夜子を大切に守ってやりたいと思っていたから、いい加減な気持ちで女と男の関係にはなりたくなかったのだ。だが、その夜、白いきらきらしたシルクのネグリジェ姿の妖艶な小夜子の誘いには抗いきれなかった。後で振り返って見ると、小夜子は決して自分を裏切らない素的な女性だった。だから、その夜小夜子と初めて結ばれたことに後悔はまったくなかった。リョウはその時童貞ではなかったが、過去に心を決めた女はおらず、学生時代にキャバレーで知り合った女の子と後腐れのない約束で一度だけセックスをしただけだ。だから、こんな形で女を抱くのは生まれて初めてと言っても良かった。

 小夜子は女に経験の浅いリョウを上手に(いざな)ってくれた。リョウは女の上で初めて頂点に登りつめ射精したが、その時小夜子も一緒に登りつめてくれたようだ。その時の歓びと言うか快感は筆舌では尽くしがたいと思った。
 この日小夜子に、
「小料理屋をやってみないか?」
 と勧め、了解を得たので、翌日から空き店舗を探し回り、丁度良い所があったので、早速不動産屋の仲介で家主と交渉して現金で買った。買うと直ぐに内装を頼んだが、前に居酒屋だったらしく、厨房周りがそのままになっていたから、改装は早かった。それで三日後に開店に漕ぎ着けた。小夜子は自分が思っていたよりもずっと早く店の準備が終わったことに驚いていた様子で、
「こんなお店が持ちたかったのよ」
 と大層喜んでくれた。
 食材や什器類、酒類などの当面の仕入れ資金はリョウが全て出してやった。
「小料理屋は[紀代]にして下さらない」
 と言うので理由を聞くと、
「若い頃離婚をして別れ別れになって、今はどうしているか分らないけど、あたしが愛した娘の名前よ」
 と答えた。リョウは直ぐに内装屋に電話をしてカンバンと暖簾を付けさせた。

 小夜子が小料理屋を出してからは、リョウは一週間か十日に一度小夜子のマンションを訪ねた。訪ねる度に小夜子に求められて身体を重ねた。
 そんなことをしている間に一年が過ぎ二年が過ぎた。だが、リョウは小夜子を救い出した時の追っ手に十分警戒をしていた。
 小夜子は母親の優しさと恋人の可愛らしさでリョウに尽くした。母親と二人暮しが長く、若くして母親を亡くしたリョウは自分では気付いていなかったが、恐らく半分、いや70%は小夜子の中の母親としての愛情に引かれていたのかも知れない。それで、小夜子を愛する間に、リョウはいつしか小夜子に溺れてしまっている自分を感じていた。だが、小夜子は、
「結婚して」
 とは一度も口にしなかったし、リョウもこのままの関係が長く続くと良いと思っていた。

 時々リョウが風呂に入っている時に、
「背中を流してあげるわ」
 と小夜子は丁寧にリョウの体を洗ってくれたりもした。小夜子は恥ずかしがるリョウの性器まで丁寧に洗ってくれた。小夜子のほっそりとした指先に刺激されて、リョウのそれは勃起した。小夜子はそんなリョウのものを口に含んで愛撫したりもした。普通の主婦が自分の亭主にそんなことまですることは珍しいかも知れないが、そうして小夜子はリョウを愛した。

 鶴見のボロアパートに泊まった時には、リョウは一人で近くの居酒屋で酒を飲んだ。
 その居酒屋で時々見かける女性とある時知り合い、たまたまその居酒屋でばったり会うと、女性はしきりにリョウに話しかけてくるようになった。見た所二五歳を過ぎている様子でリョウより六つか七つ年下のようだが、リョウと対等に話すのだ。最初は年下のくせに生意気な奴と思って居たが、話は面白く、この年代の女が経験しないようなことを経験している様子だった。
 彼女がクルーザーに乗せてもらった話をした時にはリョウは思わず自分のクルーザーに誘う所だったが、それは言わなかった。リョウは元々無口な奴で、話は女の方が一方的だった。容姿は綺麗な子で、彼が居ないのが不思議な気がしたが、失礼だと思って聞かなかった。どちらも勤め先や名前を聞かなかったので名前は知らない。リョウは自分には小夜子が居るからと深入りはせず、頃合を見てさっさと帰ってしまうようにしていた。

百二十八 その男・リョウ Ⅵ

 リョウは先に勘定を済ますと席にもどり、少し飲み足してからトイレに立った。例の女には今夜もばったり遭ったが大した話はしなかった。こんな場合、リョウが少しでも気があるような素振りを見せれば、女はたちまち自分の中に踏み込んでくるだろうと思った。少し前にしつこく聞かれて[佐竹梁だ]と名前だけ教えた。だが、それ以外の個人的な話は殆どしなかった。
 トイレを出て店の中を窺うと、まだあの女が居た。リョウは女に気付かれないようにそっと店を出た。主が、
「毎度ありぃっ」
 と言いそうだったので、唇の前に指を立てて主の言葉を制した。

 リョウは小夜子を救ったあの夜以来、常に尾行に注意をしてきた。幸いまだそれらしき男に報復をされたことはなかったが、この先十年間位は用心しないとほとぼりが醒めないだろうと思っていた。
 ふと、今夜は後をつけてくる人の気配を感じた。おそらく動物的な勘と言うやつだ。それで、いつもより角を曲がる時にさっと曲がって相手をまくつもりで歩いた。道の角に立っているカーブミラーにあの女の姿が見えた。
「なんだ、あの子かぁ」
 尾行を感じたのは間違えではなかったようだ。

 リョウは一応女の尾行を振り切ったと思ったが、見事に住いを嗅ぎ付けられてしまったようだ。女がボロアパートの部屋に入って来た時、リョウは一瞬身構えたが、入って来たのは女だけだと分るとそのまま好きにさせた。
「なんだ、随分殺風景な所に住んでるのね」
 と女は部屋の中を見回した。
「ねぇ佐竹さん、少しでいいから、あたしの方を見て下さらない?」
「……」
 リョウは返事をしなかった。女は、
「こいつと居るといつも一人芝居をしているようだな」
 と思った。
 女の感情がはちきれそうになっている様子はリョウも感じで分っていたが敢えて相手をするのを避けていた。
 すると、女は思い余ってか突然、
「佐竹さん、あたしを抱いてぇ」
 と言った。リョウは驚いた。それで思わず、「出てけっ!」
 と厳しく言った。女は、
「いやよ」
 と言い寄ってきた。リョウはそのままこの女とおかしな関係が出来てしまったら、小夜子にすまないと思った。それで、
「なら、オレが出てく」
 と言い捨ててアパートを出た。女は追いかけては来なかった。リョウは当分このアパートには来ないようにしようと思った。

 その後女がどうしているかはリョウは知らなかった。二ヶ月ほど経って、例の飲み屋に行くと、あの女とまた逢ってしまった。女はリョウの隣の席が空いていたので、主に席を移ると言ってリョウの隣に来た。小さな店だ。逃げ回るわけにも行かないから、リョウは女と隣りあわせで酒を飲み続けた。
「二階の添田さんと言う方が訪ねていらして、トイレの水が止まらないと言われたので、止水栓を直してあげましたよ」
「それはどうも。で、どうして添田さんのことが分ったんですか」
「ああ、あたしね、あなたが戻られるかも知れないと思ってあのアパートにしばらく住み着いていたのよ」
 リョウは驚いた。と同時に随分しつこい女だと思った。これじゃストーカーじゃねぇかとも思った。
「あっ、そうだ。もう一件報告をしなくちゃ」
 リョウは女の顔を見た。
「あなた借金か何かでその筋の人に追われてない?」
 リョウは話を聞いてギクッとした。
「誰か来たのか?」
「ええ。人相の悪い若い男が二人、『おいっ、佐竹、顔を出せや』って探してましたよ」
「それで?」
 リョウはその先を聞きたくなった。
「もちろん居ませんよ」
 と言ったわよ。
「どんな奴だった」
「一人は背が高く、頬に切り傷があったわね。もう一人は身長が165位でやや低め。丸顔だけど、髭を生やしていたわ」
「直ぐに帰ったのか?」
「素直に帰ると思う?」
「……」
「あたし、レイプされちゃった」
 リョウは最後の返事に戸惑いを感じた。自分のために、ひどい目に遭わせたと思うと申し訳ないと思った。
「オレのためにゴメン。何と言ってお詫びすればいいか。怪我とかはしなかったのか」
 佐竹が急に優しくなったのを女は敏感に感じた様子だった。

 リョウが困惑して、済まなそうな顔をしていると女は急に、
「アハハ」
 と笑った。隣に居た客たちがリョウたちの方を見た。
「あたし、あんな男たちに簡単にやられたりしないわよ」
 リョウはまた驚いた。
「でも、少しは乱暴をされたんだろ」
「最初はね」
「と言うと?」
「あいつら、あたしを犯そうと抱きついて来たのよ。それで、『あたし、エイズに罹ってて、おまけに梅毒にも感染してるから、男に抱いて欲しくても抱いてくれないのよ。なので、あの男たちにあたしを抱いてよ』って迫ったのよ」
 リョウはまた驚いた。この女の頭の回転の速さには感心させられる。
「昔から逃げる獲物は追いかけたくなりますけど、意表を突いて向ってくる獲物にはてこずるって言いますよね」
「そうだ。男と女の関係も同じだな」
 この時、リョウはこの女が逃げたら追っかけてみたいと思った。
「それで?」
「あの男たち、ヤベェとか言って早々に引き揚げて行ったよ」

 そんな話しがあってから、リョウは一度この女をメシにでも誘ってやろうと思った。
 こうして、佐竹梁と紀代の付き合いは始まった。リョウは紀代に心を開いたわけではなかったが、話しが面白く、綺麗な女でアクセサリー代わりに連れ歩いても疲れないのが良かった。少し親しくなると、あれこれ願いごとを持ち出す女は多いが、この女はリョウがすることを何でも受け入れたし、何もおねだりをしなかった。

 女と男は、最初のとっかかりは気まずくとも長く付き合っていると次第に気持ちが通うものだ。一年も過ぎると、リョウはこの女を友達のように思えるようになっていた。
 女は相変らずリョウのことが好きで、身体の関係は一度もないが、リョウと一緒にいる時はいつも嬉しそうにしていた。仕事は大きな会社の管理職をしているらしく、
「仕事の予定が外せなくて」
 としばしば誘いを断ることもあったが、リョウはその方が好感を持てた。いつも暇している女よりもずっといい。彼が居たとか居ないとかそんな話はしたことがなかったが、付き合ってみると今現在自分以外に心を寄せている男が居ないらしいことも分って来た。
 女をボロアパートで襲おうとした二人の男たちにはその後一度も遭遇しなかったが、リョウは多分小夜子を救い出した時に倒した板前の一味だろうと思った。他に自分を探し回る者が居る理由がなかったからだ。

百二十九 その男・リョウ Ⅶ

 張本轍は逃げられた小夜子にまだ未練を持っていた。一応自分の愛人にしていた小夜子を(さら)われて悔しくて悔しくて仕方がなかったが、轍には怖い存在の女房の博子の目が光っているから、自分が先頭に立って小夜子を探し回るわけには行かなかった。それで、手下と言っても昔と違って今は会社の社員だが、手の空いている者に調べさせていた。
 轍の命令で手下は飲み屋を中心に聞き込みに回った。五郎の話しじゃ、ちょくちょく店に来ていた男らしいので、人相が分っており、五郎の店には近付かないにしても、横浜市内のどこかの飲み屋には必ず立ち寄るだろうと思っていた。店によっては個人情報云々とか言って返事をしない店主も居た。そんな時は、店の中の椅子を二脚か三脚蹴飛ばして倒し、テーブルの一つもひっくり返して凄めば必ず店主は折れて口を割った。

「やつらを脅すのはどおってことねぇのよ。なるべく客が居る時に店の中で暴れる素振りをすりゃ、奴等は直ぐに真っ青になってべらべら話をしやがる」
 手下共はそんな脅しのやり方に慣れていた。だから、素人を相手に口を割らせるなんて朝飯前だったのだ。
 轍の手下共の精力的な聞き込みにもかかわらず、逃げた男の情報は入って来なかった。轍は報告を聞く度にイラついたが、イライラしてみてもどうしようもない。
 そんなある日、鶴見の飲み屋から耳寄りな情報を聞き出してきた奴が居た。背が高く、頬に切り傷のある菅野(すげの)と髭面の熊谷だった。熊谷は仲間にクマさんと呼ばれていた。

 菅野と熊谷は五郎から、
「相手は格闘技の経験がある奴らしいぜ」
 と聞いていたから、路上で襲い掛かって乱闘になりサツが乗り出して来ると始末が悪いから尾行をしてアジトを突き止めてから、改めて襲う作戦を立てていた。それで、根気良く飲み屋を張り込んでやっと見つけると飲み屋から尾行をした。だが、相手は尾行を警戒しているらしく、二度も三度も尾行をまかれ、やっと見つけたボロアパートに踏み込んで見たが、居たのは病気持ちの女が一人だけで、空振りに終わった。
 それで、その後ボロアパートを一ヶ月も二ヶ月も見張ってみたが、結局男は現れず失敗に終わってしまい、あきらめてボロアパートの監視を止めてしまったのだ。

 リョウは不審者の尾行に注意をしてきたが、あの女の話を聞いてから、まだまだ自分は甘いと反省して、出歩く時は今まで以上に尾行に気を付けた。
 それで、知り合った女と飲んだり食ったりする時には横浜はヤバイと思って川崎から東京寄りに飲み屋を変えてしまっていた。
 振り返って見るとあの女、名前は紀代と言うらしいが、付き合っている時はずっと尾行に用心をしてきた。だから、小夜子を救い出してからもう三年も経ったが、今まで長者町の割烹小夜子の板前の一味に襲われたことはなかった。
 だが、リョウは五郎の一味、轍の手下が横浜中心を広げて神奈川県下の飲み屋を虱潰しに探し回っていたことに気付いてはいなかった。

 ある日、とうとう菅野と熊谷はあの男を川崎の飲み屋で見つけた。それで尾行を開始した。今まで散々な目に遭わせられて来たから尾行は慎重だった。
 男が飲み屋を出ると、菅野が直ぐに横浜の仲間に連絡をして、人数を四人に増やした。
 その日、リョウは飲み屋に居る時から不審な二人の男に気付いていた。リョウは最近ポケットの中にバイクのハンドルに付いているようなバックミラーを二つ入れていた。これだと、横や後を振り向かなくてもこっそりと様子を見ることができるし、万一襲われた場合には防御のための凶器にもなるのだ。それで、勘定を済ませて店を出る時に後を用心しながらぶらぶらと歩き出した。案の定、リョウが店を出ると直ぐに奴等も店を出てきた。

 リョウは川崎市内はあちこち歩き回っているから土地勘には自信があった。尾行してくる二人を十分に引っ張っておいて、交差点に差し掛かった時、赤信号から青信号に変るタイミングを測って、青信号でスタートし始めたトラックに飛びつき、次の交差点付近で渋滞して徐行に入った時にトラックを飛び降りた。尾行してきた男たちは慌ててタクシーに乗り込むのが見えたから、飛び降りると同時に舗道脇の物陰に隠れてそのタクシーを見送り、行過ぎたのを確かめてから、細い路地をくねくね走ってもう一本の道路に出てタクシーで別の方向に走り去ったのだ。
 菅野と熊谷はその日も鮮やかに尾行をまかれてお手上げの状態だった。携帯で仲間と連絡をしたが、
「くそっ、また逃げられた」
 と応援を断った。
 リョウはその時から時々店を変えたが、不思議なことにあの二人の男はリョウが入った店を突き止めてやってきた。リョウは考えた。多分奴等の情報は店側からもらっているのだろう。それで、個人商店をやめて、チェーン展開をしていてバイトの店員が働いている店に切り替えた。するとどうだろう、奴等はリョウが店で飲んでいても来なくなったのだ。
「やっぱ、あいつ等店を脅して情報を取ってやがったんだな」

 リョウは最近時々あの女、紀代と飲むことが増えた。菅野と熊谷は、
「おいっ、見たか? ヤツは最近鶴見のボロアパートに居たあの病気持ちの女と歩いているぜ」
 と感付いていた。こうなると、菅野も熊谷も意地になってリョウを追いかけ始めた。

百三十 その男・リョウ Ⅷ

 リョウは小夜子と付き合ってみて、嫉妬深くない性格が気に入っていた。年齢差がそうさせるのか、元々の性格がそうなのかは分らないし、本当は嫉妬を感じていても小夜子の中にしまいこんで表情に出さないのか分らなかった。リョウは男でも女でも大なり小なり嫉妬心はあるのだろうと思っていた。リョウ自身はそんなことをあまり感じない方だと思っていたが、女は男と付き合っている時に男の口から女と関係がない別の女の話を持ち出されたら良い気持ちはしないだろうと言うことくらいは分っていた。

「逢う度にオレのことを好きだ好きだと言う女の子に一度会ってくれないかなぁ」
 とリョウが小夜子に切り出した時、小夜子はちょっとだけ驚いた顔をしたが、
「いいわよ。連れていらっしゃいな」
 と了解してくれた。それで、
「小夜子の都合の良い日に連れてくる」
 と言った。
 その日はリョウが女の子を連れてくる予定の日だった。小夜子は、
「夜お店の方にご案内したら」
 とリョウに店の方に来てもらってくれと言った。多分小夜子はリョウとの愛の巣に他所の女を通したくなかったのだろう。
 小夜子はリョウと結婚するには自分は歳を取りすぎていると思っていた。だから、リョウと別れるのは辛いけれど、いずれかの日にリョウの相手に相応しい女性と結婚させてやりたいと思っていた。小夜子の母性本能がそうさせるべきだと示唆しているのかも知れなかった。
 女の子を連れてくると言う日は、朝から小夜子は落ち着かない感じだった。それが証拠にいつもより一時間も早く起きていた。
「オレは先に店に行っているから、紀代さんは夜の九時過ぎに後から来てくれないか? 九時を回ると客足が少なくなるからゆっくりできると思うよ」
 と紀代に告げていた。

 もうあれから二年以上も前になるが、紀代がリョウの後をつけてきて、鶴見のボロアパートで突然、
「あたしを抱いて」
 と言った時は驚いたが、聞いてみると、紀代はその後ずっとそのボロアパートに住み着いてリョウの帰りを待っていたと白状されて、リョウは紀代は本気だと悟らされた。だが、あれから長い間付き合ってきたが、一度も自分を抱いてくれなどとは言わなかった。しかし、リョウは今でも紀代が自分のことを好いてくれていることは分っていた。
「いつまでもこんな関係で紀代を引っ張っちゃまずい」
 とリョウは思って、先日紀代と飲み屋で逢った時、
「オレ、好きな(ひと)がいるんだ」
 と紀代に言ってみた。紀代は別段驚いた顔をせずに、
「その女に会わせなさいよ」
 と言った。リョウは即答を避けて話題を変えた。
 そんなことがあって、リョウは小夜子に話をして今夜小夜子がやっている小料理屋[紀代]で紀代を小夜子に引き合わせることにしたのだ。リョウはこの時、後々のことは何も考えていなかった。
「物事はなるようにしかならんものだ」
 とリョウは先々の面倒なことを考えないようにした。

 リョウを捕らまえ損ねた轍の子分の菅野と熊谷は、病気持ちだと思っている紀代を尾行して紀代が住んでいるマンションを突き止めていた。それで、
「二人はその内また会うだろう。あの病気持ちの女を張っていれば必ず小夜子を連れ去ったあの男に会えるにちげぇねぇな」
 と毎晩紀代を監視していたのだ。
 その日はめずらしく女が早く帰宅して、一時間ほどするとマンションから出て来た。菅野と熊谷はようやくチャンス到来だと思った。

 その日午後から紀代は工場の部長会に出席していた。工場長の門田は、
「世の中の景気がボチボチ上向いてきたから、来四半期の売上を前期比15%アップを目指してくれ」
 と指示した。それで、営業本部長と新製品開発室長の紀代に風当たりが強くなり、二人は防戦に汗だくだったのだ。
「今日は会議で疲れたから早く帰らせてもらうわ」
 と周囲の者に告げて、残業をせずに早々に引き揚げた。急いで帰宅をすると、何着かのクリーニングを済ませた洋服をクローゼットから取り出すと鏡に向かって、
「これがいい? それともこっちにしようかな」
 等と独り言をぶつぶつ言いながら結局膝丈のワンピに決めて、化粧を済ますとマンションを出た。

「あの病気持ちの女はどこに行くんだろ」
 などと言いながら菅野と熊谷は紀代の後を追った。
 女はしばしば電車・バスを使っているので菅野と熊谷は車で出かけるとは思っていなかった。
「あのあまぁ、何処に行くんだろ」
 女はJR鶴見駅から京浜東北線に乗り、蒲田駅で降りた。女は駅の構内をすたすた歩いて東急池上線に乗り換えた。菅野と熊谷は少し離れた場所だが同じ車両に乗り込んで女を尾行した。
「オレらのこと、気付いてると思うか?」
 熊谷ことクマが菅野に聞いた。
「勘付いてねぇんじゃないか?」
 女はずっと電車を降りず、五反田近くの戸越銀座駅で降りた。
「あのあまぁ、随分遠くに引っ張ってきやがったな」
 二人はぶつぶつ言いながら女の後を追った。

 商店街は思ったより人出が多かった。尾行には人出が多い方がやり易い。
「兄貴、ちゃんと見えてるのか? また逃げられねぇか?」
 クマが菅野に言うと、
「おめぇみたいなチビは見えねえだろ? オレにはちゃんと見えてるぜ」
 と優越感丸出しで菅野は笑った。菅野は長身だ。だから、先を歩く紀代が良く見えていた。
 と、女は[紀代]とカンバンが出ている小料理屋の前で立ち止まると、ちょっと左右を見回してからすっと中に入った。
 菅野と熊谷はしばらく様子を見てから、そっと扉を開いて中を見た。
「ビンゴ!」
 と菅野が小声で囁いた。

 客が出て来たのとすれ違いに、菅野と熊谷は店に入った。客が四人ほど居たがかまうもんかと菅野が凄んだ。
「おいっ、佐竹さんよぉ」
 ギョッとしてリョウが声の方を振り向くと、人相の悪い男が二人立っていた。紀代は驚いた。鶴見のボロアパートにやってきた二人組みだ。
「おいっ、病気持ちの姉ちゃんよぉ、しばらくだな」
 二人はニヤニヤしている。
 小夜子はと見ると、顔が青ざめて小刻みに震えていた。
「あんたら、要件は分っている。あんたらのボスが居るんだろ? 大人しく同行するからよぉ、ボスに会わせろ」
 突然リョウが低い声で二人を睨み付けた。菅野と熊谷は咄嗟に身構えた。だが、
「お前等アホか、客の居る前でオレは手荒なことはしねぇ。どうなんだ、ボスに会わせるのか会わせねぇのかはっきり答えろよ」
 今まで素人相手にこんな風に言われた経験の無い菅野と熊谷は明らかにビビッていた。それでようやく菅野が、
「分った。一緒に来い」
 と答えた。小夜子は、
「お客様方、済みません。恐れ入りますが、お勘定にして頂けませんか?」
 と客に頼んだ。居合わせた客たちは様子が分かっていた。それで全員席を立ってレジを済ませ出て行った。
「行こうか」
 リョウは小夜子を促して二人で店を出ると菅野と熊谷に並んで歩き出した。
「ちょっと待ってよっ!」
 リョウたちが振り向くと、
「あたしも連れてって」
 と紀代が大きな声で叫んだ。
「あんたは関係ねぇから帰ってくれ」
 リョウが断ったが紀代は無視して後をついてきた。

 電車で上大岡駅に着くと白いベンツが二台停まっていた。ベンツには二人ずつ男が乗っていた。前の車の後部座席にリョウと小夜子と菅野が乗り、後ろの後部座席に紀代と熊谷が乗り込むとベンツは走り出した。走り出して直ぐに大きなマンションの前で停まった。
「降りろ」
 三人は下ろされるとマンションの一室に連れ込まれた。そこにでっぷり太った男、轍がふんぞり返っていた。見ると背後に六名、目の鋭い男たちが立っていた。
「おいっ、小夜子、しばらくだなぁ。挨拶くらいしたらどうだ。おめぇ、ちょい太ったな」
 轍が小夜子に話しかけた。小夜子は脚が震えて黙っていた。
 リョウは、
「あんたがボスか」
 と尋ねた。
「おいっ、若けぇの、もうちと丁寧に挨拶できねぇのか」
「オレはあんたがボスかと聞いてるんだ」
「そうよ。オレが(あたま)だ」
「分った。挨拶は抜きだ。いくら出せばこの人を譲ってくれるんだ?」
「おいっ、失礼な奴だなぁ。オレは譲る気はねぇ」
「あんた借金の(かた)にこの人を押えたのは分ってるんだ。そこそこの金で譲れねぇはずがなかろうが」
 轍はこの若造、なかなか腰が座った奴だと感心して改めてリョウを見た。

 しばらくして、
「分ったよ。分った。あんたに譲ったる。一億だ。精一杯値切って一億だ。明日持ってこい。それでチャラにしたる」
「一億? 計算が合わねぇのと違うか?」
「おめぇ、分ってねぇなぁ。あれから三年だ。利子が積みあがって一億でも足りねぇくらいだ」
 リョウは明日中に現金を揃えられないか頭の中で思案していた。轍は一億と言ってやれば、こんな若造には払えっこないと読んでいた。
「おいっ、若けえのっ、明日中に一億みみを揃えてここに持って来られねぇなら、この女は元々オレの女だからよぉ、こっちで好きに可愛がらせてもらうぜ」
 と轍はニヤニヤしていた。
「一ヶ月待ってくれ」
 リョウが頼むと、
「ダメだ。じゃ、この話はナシだな」
 そう言うと後を振り返り若い者に、
「小夜子を連れてけ」
 と命じた。
「所でよぉ、あんたうちの五郎をやったそうじゃねぇか。その落とし前、どうする気だ?」
「治療費くらいは出すぜ」
「バカヤロー、わしらの世界じゃあんたの腕の一本もへし折らねぇと済まねえのよ。おいっ、このヤロウもふん縛って転がしておけ。後でたっぷりと五郎に遊ばせてやるからよぉ」
 リョウはこんな大勢居たのでは戦いようがないと思った。それで、
「ボス、オレの分も金で形を付けられねぇのかよぉ」
 と言って見た。意外なことに轍は条件を出した。
「金もねぇくせによく言うなぁ。あんたがオレの仕事を手伝うって言うならよぉ、一千万で話は終わりだ。明日一千万用意しろ。そうすりゃ、あんたは明日からオレの子分にしてやるぜ」

 リョウが何かを言おうとした時後から、
「二人共ダメっ、絶対にダメっ」
 と紀代の叫ぶような声がした。それであたりが静まり返った。

百三十一 その男・リョウ Ⅸ

 紀代の叫びに近い、
「ダメッ!」
 は自分でもびっくりするほど大きかった。
 殺されそうになった時のように悲壮な感じが漂っていた。それで部屋の中に居た男たちは全員紀代を凝視した。小夜子の腕を押えて別室に引きずり出そうとしていた二人の男もその場で立ち止まっていた。
 ややあって轍が、
「おいっ、そこの綺麗な姉ちゃん、何がダメなんだ?」
 と聞いた。それで紀代は感情の昂ぶりが後退して落ち着いた。
「この人とそこの女性は二人ともあたしの大切な人なのよ」
「だからどうだって言うんだ?」
「あたし、二人とも頂きます」
「おいおいっ、一億だぜ。あんたそんな金、持ってねぇだろ?」
 轍は紀代をバカにしたような顔つきでせせら笑った。
 紀代は完全に普段のペースを取り戻していた。その日は午後から会社で男性ばかりの役員どもを相手にやりあってきた。紀代の周りの管理職は男ばかりだ。だから男が相手だと言ってもいつも口で負けたことはないのだ。

「あなたねぇ、仮にそちらの女性をあたしが一億で頂いたとしますわね。それで、あたしが訴えたらどうなります?」
「アホかぁ、わしらはなぁ、サツなんてちいとも怖くないのよ」
「そんなこと分ってますわよ。あなた、仮にあたしが一億お払いしても税金は一銭も払わないでしょ? あたしが話を持っていく所は国税庁のマルサよ。マルサはご存知ですよね。あたし、親しい方がいますが、手入れが入るときついそうですよ」
 紀代はにんまりとした顔をした。
「おいっ、可愛い顔して言ってくれるじゃねぇか」
「この方に聞いた話じゃ、元は二十万か三十万円ですってね。だったら、せいぜい百万か二百万ってとこかしら」
「わしらの世界じゃそんな数字は通用しないのよ」
 轍も負けてなかった。

「アハハ、あたし、分ってますよ。今までの話はご挨拶代わりね。そこに立っていらっしゃる田中さんと小室さん、お久しぶりです。あなた方藤島光二さんのお友達ですわね?」
 田中と小室ははっとした顔で紀代を見た。
「あたしは基本的にはあなた方の味方よ。でもこの二人は例外だわ」
 その時太った田中が轍に耳打ちした。
「えっ? 士道兄貴のか?」
 小さな声だったが、紀代にも聞こえた。田中が頷くと轍の顔色が変った。だが轍は動揺を隠して紀代に尋ねた。
「どうして例外なんだ?」
「そこの女性は、あたしを産んで下さった大切な母親、この方はあたしの恋人。ですから、あたしは退けないのよ」
 轍は、
「そう言うことか。分ったよ。確かに大切だわな」
 と言ったが先程とは話し方が変っていた。
 驚いたのはリョウだ。まさか小夜子が紀代の母親だったとは今まで全然気付かなかった。言われて見れば、小夜子の小料理屋の名前も紀代だ。だが、紀代は秋元紀代で小夜子は清水だ。苗字が違う。それで気付かなかった。小夜子はぽっちゃりした顔なのに、紀代は綺麗な顔立ちをしているしあまり似ていない。言われて見ると目の辺りや唇の感じが似ていた。

「あたしもあなたがたの世界のことは少しは分りますの。なので、ほどほどの金額でお手打ちにさせて下さいな」
 紀代の話に、
「士道さんのなにじゃ仕方がねぇな。どうだろ、あんた二千、いや千五百位は出せるか? そりゃ士道兄貴に話を持ち出されたらオレたちも困るからよぉ、兄貴には内緒にしてくれねぇか?」
「あたしは言いません。本当に千五百でお手打ちってことで構いませんの?」
「相手が悪いよ。仕方がねぇ」
「では、今日は銀行が閉まってますから、明日の十時きっかりにここでお支払い致します。封帯付きの新札でも構いませんよね」
「ああ、新札で結構だ」
「では、明日ここで。それでお願いが一つありますが、聞いて頂けます?」
「ああ、いいよ」
「ではお言葉に甘えさせて頂いて、今夜、そこの田中さんと小室さん、貸して下さいません?」
「貸してくれって?」
「お久しぶりなので、ちょっとお酒でもご一緒させて頂きたいの」
「おいっ、田中と小室、聞いたか? この綺麗な姉ちゃん、いや士道兄貴のお嬢様がよぉ、おごってくれるそうだ」
「今夜は三人共パシフィコヨコハマのインターコンチネンタルにでもお部屋を取ろうと思ってますの。田中さんと小室さん、十一時にホテルの方にいらして下さいな。レストランはその時間じゃやってませんからお部屋にお酒とお料理を用意させてお待ちします。覚えていらっしゃると思いますが、秋元紀代が泊まっているお部屋に直接いらして下さいな」

 結局ホテルまで乗って行ってくれと轍がベンツを勧めてくれた。
 十一時にドアーがノックされて、田中と小室がやってきた。
「クルーザーで遊んだ時以来だなぁ」
 小室はその時のことを良く覚えていた。紀代がキープした部屋は二十九階のスゥィートで広い。ベッドルームは別室になっている。居間の方のテーブルにご馳走が並んで部屋中良い匂いが漂っていた。
 午前二時過ぎまで三人で飲んだ。田中と小室は光二の失踪を知っていたから、一切話題には持ち出さなかった。紀代は二人の心遣いが嬉しかった。
「今夜は酒が美味かったなぁ」
 別れぎわに二人はそう言った。
 リョウと母親の小夜子は同じ階だが、少し離れたスゥィートを取った。リョウが自分名義で予約すると言ったが、紀代はあえて紀代名義で予約を入れてもらった。

 朝早く紀代はホテルを出た。ホテルは二泊取ってあるから、正確には外出だ。紀代は電車で自分のマンションまで戻り、銀行通帳を持ってM銀行の鶴見支店を訪ね、四千万円を現金で引き出した。銀、パラジウム相場で儲けた金の残りだ。紀代が銀行に行くと顔馴染みの支店長がうやうやしく出てきて応接室に通した。
「お一人でこんな金額大丈夫ですか? よろしかったらインターコンチネンタルまで社の車を使って下さい」
 支店長の申し出で紀代は銀行の黒塗りの車でホテルに戻り、リョウと小夜子を拾って上大岡の轍のマンションまで行ってもらった。

「おはようございます」
「おっ、十時五分前だな」
 轍は上機嫌だった。紀代は銀行でもらって持って来た袋から十五束をテーブルの上に載せた。
「どうぞお確かめ下さい」
 轍は田中に確認しろと命じた。
「夕べは二人ご馳走になったそうだな」
「はい。楽しかったです」
 昨夜と違って良い雰囲気だ。
「千五百、確かに」
「では一本締めで」
 一同は一本締めで取引の成立を確認した。
「他に何か?」
 紀代の顔を見て轍が聞いた。
「五郎さんへの慰謝料です」
 紀代は五束をテーブルに載せた。
「それから、昨夜お話があった、この方の」
 と言って十束を追加した。轍に支払った金は全部で三千になった。
「秋元さん、千五百は佐竹さんのも入れてだよ」
「いいのよ。これからもお世話になることだってありますもの。どうぞ納めて下さいな」
 これで、リョウも小夜子も自由の身になった。紀代は長居は禁物だと思って、早々に轍のマンションを出た。轍の所から出る時後で、
「いい女だなぁ。兄貴のなにでなかったらオレの女にしたいなぁ」
 と轍の声が聞こえた。

 リョウは何も言わなかった。今までそこらのOLだと思って付き合ってきたが、紀代の、いつもとは全く別の顔を見せられてすっかり無口になっていた。
「インターコンチへ」
 タクシーに乗り込むとそう告げて三人はホテルに向った。
「お母さん……」
 小夜子が横に座っている紀代の方を見ると、紀代の頬から涙がとめどなく流れ落ちていた。

百三十二 再会

 ホテルに戻ると紀代はリョウに、
「今夜は母と二人っきりにさせて頂けませんか?」
 と頼んだ。長い間捜し求めていると紀代がリョウに話をしたことをリョウは覚えていた。一昨夜紀代の口から小夜子が自分の実の母親だと聞かされた時はリョウは本当に驚いた。リョウは紀代の親子水入らずで過ごしたい気持ちを直ぐに理解した。それで、
「ああ、いいよ。小夜子さんときみは同じ部屋にしてくれ。オレは昨日泊まった部屋を使わせてもらうよ」
 小夜子こと清水由紀はその夜は紀代と同じ部屋に泊まることになった。
 部屋に入って、母と二人だけになってみると、何から話せば良いのか、頭の中がごちゃごちゃになってしまって、紀代はずっと黙っていた。恐らく小夜子も同じ気持ちだったのだろう。小夜子は紀代と二人ベッドに腰掛けて、紀代をしっかりと抱きしめた。
「紀代ちゃん、会いたかったよ」
 その先は嗚咽で言葉が出なかった。
 小夜子と紀代が抱き合って、二人で泣いて、もう一時間も経っただろうか、ようやく紀代は普段の気持ちが戻ってきて、母親の胸がとても温かいと感じつつ抱きしめられていた。

「お母さん」
 紀代は改めて呼んで見た。小夜子はまた涙をポロポロ流し始めた。
「あたし、大学に通うためこっちに出て来てからずっとお母さんを探してたんだ。でも全然手がかりがなくて、最近諦めかけてたのよ」
「母さんはね、紀代ちゃんがまだ福島に居るものだとばかり思ってたわ。お父さん、元気なの?」
「ん。元気」
 紀代は昨夜は自分の幼い時、義母の雅恵に虐待され続けたこと、好きになった男藤島光二の失踪とか一年あっても時間が足りない位色々なことを話したいと思っていたが、過ぎ去った悪い想い出を母に話して悲しませても良いものはなにも残らないと考え直し、明るい話だけにしようと思っていた。

「あなた、リョウくんを好きなんだってね」
「ん。大好き」
「そう? 将来のことも考えて?」
「リョウさんの気持ち、あたしまだ分らないから何とも言えないけど、リョウさんが好きになってくれたら、結婚も考えてるよ」
「リョウくんが初恋の人なの?」
「ううん、以前付き合ってた藤島光二さんって言う方が初恋の相手よ」
「別れたの?」
「失踪してもう三年近くなるかな? 多分死んじゃっただろうって噂ね」
 紀代はこれ以上光二のことを話題にはしたくなかった。
 だが小夜子は、
「藤島光二さんてどんな方?」
 と尋ねた。やはり母親だ。娘が好きになった男のことを聞きたかったのだろう。
「そうねぇ、実は佐竹リョウさんに似てるのよ」
 その一言で小夜子は理解した。紀代が光二の話題を避けたがっていることは小夜子にも分った。それで、その先は聞かなかった。

 紀代は母にも今までどうしていたのか聞いた。振り返って見ると、二十年ぶりくらいの再会になる。母には言わなかったが、義母の雅恵は殺人未遂、児童虐待の罪で服役中だが、もうそろそろ刑期を終えて出所してくる頃だ。
「お母さん、もう借金の取立てに怯えて暮らすことないよ」
「紀代ちゃんのお陰ね。ありがとう。紀代ちゃんを見捨てておいて、こんなにしてもらったらバチが当たるわ。きっと」
 それで、
「これ気持ちだけだけど、困った時使ってちょうだい」
 紀代は轍に支払った残りの金一千万円の入った袋を小夜子に渡した。小夜子はまさかそんな大金だとは知らずに受け取った。
 母親の話では、一時はお金に困って苦労をしたが、今ではリョウのマンションをただで使わせてもらっており、小料理屋もそこそこ繁盛しており生活費には困っていないことが分った。
「もう何年もリョウくんの世話になってるわ」

 話をしている内に、紀代はいつの間にかベッドの上で眠ってしまった。小夜子は娘に上掛けをかけてやり、明かりを暗くして一人でお茶を飲んだ。こんなことがあって、小夜子はとても眠れる状態ではなかった。
 ホテルには便箋と封筒が備え付けられている。小夜子はナイトスタンドの明かりで手紙を二通書き始めた。

 娘の紀代がリョウを好きだと言った時、小夜子の胸に衝撃が走った。同時に自分の不運を呪わずには居られなかった。こともあろうか、愛娘と一人の男を取り合うなんて、そんなことが自分の身に降り懸かってくるなんて、三日前までは想像すらしてなかったのだ。
 小夜子はリョウとの関係を失いたくなかったが、まさか自分が産んだ娘を押しのけてしまうなんてとても出来ないと思った。昔も今も親は子供には勝てないのだ。
 それで、リョウと紀代に宛てて別々に手紙を書いて封筒に入れた。
 一通はリョウに宛てた、もう一通は紀代に宛てた手紙だ。封筒には「リョウくんへ」と「紀代ちゃんへ」と書き付けた。
 小夜子は手紙を書き終わると、着替えてそっと部屋を出た。夜中だから電車はない。それでホテルのエントランスでタクシーを拾って[戸越銀座へ]と行く先を告げた。

 すっかり寝坊をして、隣のベッドを見た。母がまだ眠っているらしく、少し膨らんでいた。
「なんだまだ寝てるのか」
 シャワーを済ませて部屋に戻っても、母の由紀が寝ているベッドはそのままだった。何気なく、隅のテーブルを見ると二通の封書があった。一通は自分あて、もう一通はリョウあてだ。
 紀代は自分に宛てられた手紙を出してざっと目を通した。それで、はっとして母が寝ているはずのベッドを調べると、枕が押し込んであり(もぬけ)(から)だった。
 紀代は慌てた。それで直ぐにリョウの部屋に電話をして来てもらった。
 リョウ宛ての手紙には、
「紀代ちゃんと結ばれたら自分は嬉しい、これからもずっと守ってあげてくれ」
 紀代宛の手紙には、
「リョウくんはとても優しくて大人な男性だから、これから二人で幸せに生きて行きなさい」
 と言う趣旨のことが書かれていた。リョウにも紀代にも、
「自分は遠くに行くから今後絶対に探さないで頂戴」
 と書き添えてあった。

「参ったなぁ」
 リョウは頭を抱え込んでしまった。紀代はせっかく会えた母なのにまた自分の前から消えてしまったことに落胆していた。
「戸越まで付き合ってくれ」
 リョウに言われて、紀代は戸越銀座の小夜子が住んでいたマンションに行った。部屋の中は丁寧に片付けられていたが、小夜子が使っていた大部分の物はそのまま残されていた。
「小夜子さん、行っちゃったみたいだな」
 紀代は会社に連絡を入れて、
「仕事がありますので帰らせて頂きますが、母のことで何か分ったらご連絡を下さいね」
 と頼んで鶴見に向った。
 会社に行く途中、
「あたし、また独りぼっちになっちゃったな」
 紀代は心の中で呟いていた。

百三十三 悲哀

 その週は、紀代は先日の部長会で課せられた前期比15%売上アップの具体策の検討に忙殺された。数字の上では15%なぞ大したものではないが、景気がいまいちはっきりしない経済情勢の中ではかなりきつい目標だった。
 紀代が率いる新製品開発部隊ではヒット商品を生み出す以外に貢献のしようがないのだ。製造現場も大変だ。製造部門では売上アップに貢献できない代わりに、製造原価の一層の低減と経費の節約目標が課せられていた。
 紀代は開発室のメンバーとヒットしそうな製品をいくつか考え出して開発スケジュールの見直しを行い、週末になってようやく目処を立ててほっとした所だった。

 会議室から自分のデスクに戻ると、デスクの上に一通の封書が置いてあった。DMや外部からの封書は通常事務の女性が未決済の書類箱に入れておいてくれるのだが、個人的な封書だと一目で分るものだったから、おそらく事務の女性が気を利かせて目に付き易いようにとデスクの上に置いたのだろう。
 紀代は開発室長秋元紀代様と書いてある封書を手に取って裏を見て見た。裏側には戸越銀座のマンションの住所と差出人の名前、佐竹梁と書かれていた。
 紀代はリョウに自分の住いの住所は知らせてなかった。それで、多分先日会った時に渡した会社の名刺を見て会社に送りつけてきたのだろうと思った。

 中に何が書かれているのか気になったが、紀代は封書を自分のハンドバッグに落とし込み、仕事を続けた。
 会議のまとめをしている間に夜の十時を回ってしまった。
「疲れたなぁ」
 紀代は椅子に座ったまま両手を挙げて軽く深呼吸をした。
「室長、そろそろ帰りません?」
 付き合いの長い、今はすっかり古株になってしまったヨネが紀代に帰ろうと促した。大抵こんな時はヨネはちょっと一杯やってから帰ろうと言う誘いの気持ちもあることを長年の付き合いで紀代は分っていた。
 それで二人は夜道をとぼとぼと駅に向って、駅前の大衆酒場に入った。
「お疲れ様」
「ヨネも頑張るね。助かるよ」
 いつもこんな会話だ。

 ヨネは昔から人の気持ちを読んだり、裏側の話が好きだ。おしゃべりで何でも他人にバラスような嫌なタイプではないが、面と向かってブスッと刃物で心臓を突くようなことを言うことがある。そのヨネが紀代のデスクの上にあった封書のことを指摘した。紀代はギョッとなった。ヨネは勿論、会社の同僚にリョウのことは一切話していなかったからだ。
「佐竹さんって、あんたのこれでしょ? 隠さないで言いなさいよ」
 酒が少し回ると、ヨネは紀代には何でもズケズケ言う。ヨネは小指を立てて意味深な顔で催促した。
「封筒、開けてみた?」
「ヨネ、しつこいよ」
 いつもは笑って応対するのだが、今夜に限って紀代の顔は強張っていた。なんだか悪い予感がしていたからだ。
 紀代は話題を変えた。だが、ヨネはまた封書の話を持ち出した。
「もしかしてラブレター?」
「まさか。ラブレターだったら会社なんかには送って来ないわよ」
「そりゃそうね。中味、見たいなぁ」
「ダメッ、プライバシーにまで踏み込んだら許さないから」
 結局封書の中は闇の中、ヨネには見せずに家に帰ってきた。

 手足を洗って落ち着いたら十二時を回っていた。それで、ベッドに潜り込んでからリョウからの封書を開けた。
「思った通りだ。考えても仕方ないっか。もう寝よっ」
 紀代は明かりを消して目を閉じた。だが、その夜はなかなか寝付けなかった。

百三十四 忍耐

 その夜、紀代はベッドに潜り込んでから、恐る恐るリョウの手紙を開いてみた。

 紀代さんへ
 オレ、考えて見たが、やっぱオレには小夜子さんとでなくちゃダメだ。すまんけど、オレは小夜子さんを探しに旅に出る。絶対にオレを探すなよ。紀代さんはオレを諦めていい男探してくれ。サヨウナラ  梁

 紀代が予想していた通りだ。これじゃ紀代はリョウを諦めざるを得なかった。
 たとえ片想いだったとしてもだ、心の拠り所を失うのは辛いことだ。紀代の胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまった。この穴を別の男に塞いでもらうなんてことは考えられなかった。これまでのことを色々と振り返り思い出している間に夜が明けてしまった。
 紀代はシャワーを使ってもまだ眠い目をこすりながら会社に向った。

 朝から多忙な仕事に追いまわされて、また夜の十時を回ってしまった。
「おいっ、秋元、今夜も付き合えよ」
 ヨネが男っぽい口調で紀代を誘った。
「お生憎さま。今夜はあたし、そんな気分じゃないのよ」
「どんな気分か知らんけど、このヨネさまが癒してあげるよ」
 ヨネは執拗に紀代を誘った。長い付き合いだ。ヨネに気持ちを隠そうとしても既にバレているようだ。
 それで、仕方なく会社を出ると重い足を引き摺ってヨネの後に続いた。
「夕べの佐竹とか言う人からの手紙が原因だろ?」
「ヨネには敵わないよ。あんた人の心を読む術、どこで覚えたの?」
「アハハ、生まれつきよ。母親のお腹の中に居た時から母親の気持ちを読んでたよ」
 とヨネは笑った。結局ヨネに恋人を失くしたと白状させられてしまった。
「紀代は純情ねぇ。あたしなんか今までに男が何人も変ってるからさぁ、失恋なんて今じゃどおってことないよ」

 ヨネと別れて、マンションに戻ると、紀代はこの際会社を辞めて自分の過去を断ち切ってしまいたいと思った。[忍耐]と言う言葉があるが、紀代の中ではもう忍耐が限界に達していた。
 それで、田町にある本社の副社長の矢田部に面会のアポを取り、田町に出かけた。
 矢田部は相変らず優しく紀代を迎えてくれた。
「今夜、時間あるんだろ? たまには外でメシでも食おう。その時ゆっくり話を聞くよ」
 夕方まで時間が出来た。紀代は東京駅の八重洲口にある大きな本屋に行って、立ち読みをして時間をつぶした。考えてみると、沢山の本の背中を見て歩いたのは学生時代以来だ。鶴見に移ってからは仕事関係は会社の図書室で適当に間に合わすことが殆どで、料理などの趣味の本は駅前の本屋で間に合わせて来た。

 本屋でブラブラしている内に、矢田部との約束の時間が近付いていた。それで矢田部の秘書に、
「東京駅の前に居るから携帯に連絡を下さい」
 と頼んだ。間もなく矢田部から連絡があり、東京駅前で拾ってもらった。矢田部はそのまま車を築地方面に走らせた。車は、[つきじ田村]と言う店の前で停まった。

 つきじ田村は割合大きな店だった。東京メトロ日比谷線築地駅近くで客は多かった。矢田部は個室を予約したらしく車を降りると直ぐに個室に通された。店の応対ぶりから、接待かなにかで矢田部は時々利用している様子だった。

「どうだ、仕事は忙しいだろ?」
「はい。15%アップはきついです」
「だろうな。君なら出来るよ」
 そこに飲み物を聞きに来た。すると矢田部は、
「話が終わったら知らせるからお茶を出してくれ」
 と答えた。お茶が来ると矢田部は、
「メシを食う前に秋元さんの話を聞くよ」
 と微笑んだ。初めて矢田部に会った時はビジネス一辺倒な感じだったが、副社長になってから余裕が感じられる。男はこんな風に歳を取ると素的だなぁと紀代は思った。
「何か相談事があって会いに来たんだろ?」
「矢田部さんにはそんな時ばかりで申し訳ありません」
 紀代は普段のご無沙汰を謝った。

「実は、会社を辞めさせて頂こうかと考えてまして」
「おいおい、君に辞められちゃ開発室が困るんじゃないかね? 会社も困るなぁ。なんたって君は会社の業績を伸ばした社員のトップだからねぇ。この話は工場の誰かにしたのかね」
「いいえ、矢田部さんに内々の相談でまだ誰にも」
「そうか、わしは気が重い話を最初に聞かされたわけだ」
「そんなぁ、あたしみたいな小娘に」
「いや、君は出世頭だよ。その歳で部長だなんて、我が社じゃめったにないことだよ」
「どうしてもダメですか?」
 紀代は矢田部と話をしていると、つい自分の父親と話をしているような錯覚を覚えた。矢田部はそれくらい紀代を可愛がってくれているのだ。
「ま、君が辞める理由を聞かせてくれないか」
「実は東北でやっているスーパーの経営に首を突っ込みたくなりまして」
「そうか、それなら仕方が無いな。実はわしもいつかは君がそう言いだすと思っていたんだよ」

 矢田部はしばらく考える風だったが、
「君、スーパーの経営に乗り出すのはわしは止められんが会社を辞めんでくれないか」
「時間的に両股を架けるのは無理ですよ」
「いくら何でも月に二日か三日位なら何とか割けるんじゃないのかね」
「と言いますと?」
「わしはね、君がその話を切り出した時、役員会に諮って非常勤の取締役に就任してもらおうと思っていたんだよ」
「そんなぁ、あたしなんかとても務まりませんわ」
「君のご実家でやっているスーパーはうちの大口顧客でもある訳だから、客の立場で意見を言ってくれるだけでいいんだよ」
 紀代は意外な展開に驚いた。だが日本では大手の製菓会社だ。副社長の話に乗って見るのも悪くないと思った。と言うよりも、目の前の矢田部ともこれから先色々相談に乗ってもらえそうなことが良かったのだ。
 話が終わってから食事となった。矢田部は食事が終わるまで自分の娘と食事を楽しんでいるような感じで終始こにこしていた。帰りは会社の車を紀代のマンションの前まで回してくれた。

 矢田部と会って三日後に人事部長に呼び出された。
「矢田部さんから話を聞いたよ。秋元さんが今の仕事から外れられるのは会社にとっては困るのだが、来月の役員会で非常勤取締役に就任して頂く予定なので、今の開発室の後継者を近日中に提案してくれませんか」
 人事部長は肩書きが取締役人事部長だったから、先輩だ。
 こうして一ヵ月後に紀代は現職を離れたが、辞表を出す必要はなかったのだ。

 時間が楽になると、紀代は今住んでいるマンションの部屋の中の整理をした。いずれは会津若松か仙台にでも自分の住いを確保する予定で居たが、今住んでいるマンションはそのままにしておいて、東京に出て来た時に寝泊りに使うつもりでいた。心の端っこに、もしも光二が生きていたらひょっこりと帰ってくるかもしれないので、場所を今のままにしておきたい気持ちもあった。
 部屋の中の整理が終わった所で、紀代はこっそりと会津若松から順に山形、秋田、青森、盛岡、仙台と順にキヨリスの現況を調べて回ろうと住み慣れた鶴見を後にした。

百三十五 肉親の絆

 紀代は社長をやっている継母の秀子には断らずに、こっそりと会津若松から順に山形、秋田、青森、盛岡、仙台と順に大型スーパー、キヨリスの現況を調べて回ろうとその日東北新幹線に乗った。
 最初はキヨリスが初めて出店して成功した会津若松店に行くつもりだった。

 新幹線の中で窓の外を流れる景色をぼんやりと見ながら、一ヶ月ほど前に副社長の矢田部にご馳走をしてもらった時のことを思い出していた。
 あれから矢田部の根回しで紀代はすんなりと非常勤取締役に就任させてもらった。毎月一度か二度本社で開かれる取締役会に顔を出すだけだが、役員報酬は前の部長職だった時と殆ど変らないと人事部長が話をしてくれた。
 矢田部と話をしていると、いつも矢田部が自分の父親のように接してくれるので心地が良かった。紀代は娘のように甘えるようなことはしなかったが、もし、そんな風に接しても矢田部は気まずい顔をせずに愛娘のように接してくれるだろうと思えた。そんなことを思い出しながら紀代は、[肉親の絆]とは一体なんだろう? と思った。せっかく再会できたのに紀代の元からさっさと消えてしまった母、もう十年以上ご無沙汰している兄、めったに電話で話をしたことがない父の辰夫、それに最近では疎遠になってしまった継母の秀子。自分の周りの肉親のことを考えると、皆矢田部のように親しみを持って接しられる者がいないのだ。たまに会う士道の方がずっと親しみが湧くのだ。

 暖かな春にはまだ遠い二月の下旬、列車が郡山を過ぎると雪景色が多くなった。郡山を過ぎて車窓から見える安達太良山の雪景色はとても綺麗だったが、同時に紀代は寒い冬を貧乏のどん底で会津若松で過ごした少女時代を思い出していた。
 着る物をろくに与えられず、ボロをまとって食べ物を探して、夜の商店街のゴミバコを回った辛かったあの時代が次々と脳裏に蘇ってきた。

「あらいけないっ、あたし何してるんだろ」
 考えごとをしていて、紀代は郡山で新幹線を下車することをすっかり忘れていた。車内アナウンスで、
「次は福島、福島」
 と告げられたのを聞いてはっと我に返った。
「仕方ない、福島から戻るかぁ」
 紀代が独り言を言ったら隣に座っていた年配の男が紀代の顔を見て笑った。
「僕もたまに寝過ごすんだよ」
 福島駅で新幹線を東京往きに乗り換えて、郡山で降りてローカル線の会津若松往きに乗った。小さな旅行カバン一つののんきな一人旅だ。
 会津若松で駅を降りると寒さが足元から襲ってきた。
「こんなに寒かったっけ?」
 子供の頃過ごした所がこんなに寒い所だったのかと改めて思い出した。
 紀代は駅前の大きなホテルに小走りで向った。大きなホテルだが、ビジネスホテルなので料金は高くない。紀代はフロントで二泊連泊すると言って良い部屋を頼んだ。

 翌日、暖かい身支度をしてホテルから直接キヨリス会津若松店に向った。開店時間を過ぎていたが、平日のためか客足はまばらだった。紀代は店には入らずに店の裏側に回った。商品を搬入したり従業員が出入りする場所だ。何台かのトラックが荷物の出し入れ口付近に停まっていた。
 紀代はその様子を物陰からじっと見ていた。
 と、三名従業員らしき男女が出て来た。どうやらタバコを吸いに出てきたらしい。女が二人と男一人だ。
 大きな声で話をしていたから、隠れている紀代からも話はちゃんと聞けた。
「昨日の夜な、長沢さんに一杯付き合ったらさ、社長の悪口をいっぱい聞かされたよ」
「ねぇ、ねぇ、どんなこと話してたの」
 男は二人の女を前にして少し声を落として得意気に話始めた。紀代はICレコーダーのスイッチを入れた。

百三十六 風評

「秋元さん、こう言う調べは地元の同業者に頼んだらどうですか? その方が早く情報が取れると思うんですがねぇ」
 秋元紀代が東京から呼んだ大手探偵社からやってきた四十代の調査員の男は紀代に地元の探偵を使った方が良いと勧めた。
「ダメですよ。地元じゃ地縁、親戚繋がりが多くて、自分達に不利な情報を隠されでもしたら無駄金を使うようなものよ」
「確かに、それは言えますな」
「お金は少しかかってもいいですから、きっちりと調べて下さいな」
 探偵社の男はこの時紀代が良きクライアントになりそうだと察した。

 紀代は会津若松、山形、秋田、青森、盛岡のキヨリスを回った所でICレコーダーで集めたキヨリスの従業員の噂話をホテルに戻って整理をして一覧表を作り上げていた。どの地方でもキヨリスの従業員の上役に対する陰口は相当なもので、一口に言って経営上思わしくなかったのだ。それで、リストに挙がった会社の幹部の身元調査を探偵に依頼したのだ。紀代の印象では、どの店でも幹部が商品を納入している業者から裏金を受け取っているようで、その金額は無視できるものではなかったのだ。
 二月の二十日過ぎに始めたのだが、盛岡店を回り終えた時には既に三月七日になっていた。それで盛岡で滞在しているホテルに探偵を呼んだのだ。探偵には特に出入り業者から受け取っている賄賂の実態について詳しく聞き込みをするように指示した。
「店舗が分散してますからねぇ、二ヶ月くらい時間を頂けますか」
「いいですよ。しっかりと調べて下さいな」

「ところで、一つお聞きしてもいいですか」
「何か?」
「秋元様はどうして大金を掛けてこんな他人事を調べられるのですか? 秋元様にとって何か得することでもあるのですか」
 紀代は聞かれてみればもっともな話だと思った。紀代は少し考えてから話を切り出した。いつの間にか男は秋元さんでなくて秋元様と呼んでいた。
「あなたROAはご存知よね?」
「えっ? アールオーエイ? 何ですか? ポップグループの名前ですか? 聞いたことがないなぁ。BoAなら知ってますが」
「ではreturn on assetsと言い換えたら?」
「益々分りません」
「困ったわねぇ。それじゃあたしの話が分るかしら。確かに、ROAなんて普通の人には縁が遠いかもね。少しお金持ちなら常識的な言葉ですけど」
「お金に関係のある用語ですか?」
「そうよ。分り易く言うとね、ある会社が百万円のお金を使って一年間頑張って五万円稼いだとしますとね、ROAは5%ってことになるのよ。具体的に言えばトヨタ自動車のROAが大体5%くらいかしら」
「……」
 探偵社の男は目の前のちょっと綺麗な小娘が学校の教師であるかのように首を縮めて聞いていた。
「ROAは漢字で書けば総資本利益率とか総資産利益率。会社がどれくらいの資本を使っていくら稼ぎ出せたかを知る指標として使われていますのよ」
「へぇーっ? そうなんですかぁ」
「あたしはね、あなたに調べて頂く会社の大株主、筆頭株主なのよ。今、あたしこの会社の株を十万株以上持っているのよ。一株の配当金が千円だとすると、年間で幾らになるか直ぐに計算できますでしょ?」
「十万×千円……と言うと一億円?」
「そうよ」
 男は目を丸くした。
「それって世間で言う不労所得ですよね」
「あなた、人聞きの悪いことをずけずけ言うわね」
 男は失言したと照れ笑いをした。
「こうしてちゃんと仕事をしてますわ」
 と紀代も笑った。
「最近この会社のROAが下がりっぱなしなのよ。昔は20%以上ありましたよ」
「と言うことは相当儲けていたんですね」
 男はどうやら紀代の話が理解できたらしい。

 男に調査を依頼した翌日、紀代は新幹線で福島に向った。
 早いものであれから九年半が経っていた。今日は元義母だった市川雅恵が刑期を終えて出所してくるはずだった。幼い頃虐めぬかれた雅恵だが、今では紀代の心の中の恨みは消えていた。
 女性の受刑者は全国で数千人居ると言われているが、女性の受刑者を収監する刑務所、いわゆる女子刑務所は全国に七箇所しかない。紀代が向った先は福島刑務支所、通称福島女子刑務所と呼ばれている女性受刑者が収監されている所で、総工費五十四億円をかけて二00五年に完成した全国七番目の女子刑務所だった。
 福島駅で新幹線を降りると、駅前でタクシーを拾って松川沿い、南沢又と言う所にある福島刑務支所に行ってくれと頼んだ。福島駅から十五分くらい走った東北高速道脇にある。

百三十七 出所

 刑を終えて刑務所を出ることを出所と言う。紀代が向った福島刑務所は大きな刑務所だ。高さ4m近くもある厚いコンクリートの壁で仕切られた刑務所に併設されて、福島刑務支所(福島女子刑務所)があった。紀代はタクシーを降りる時、
「三十分か一時間ここで待っていて下さいませんか」
 と運転手に頼んだ。個人タクシーの運転手は温厚そうな初老の男で、
「どうぞ。お待ちします」
 と請合ってくれた。降りてはみたものの入り口が分らない。それで通りがかった子供づれの婦人に入り口はどこかと尋ねると、
「その角を曲がると分ります」
 と素っ気無く答えた。紀代は出入り口を確かめると入り口から少し離れた所に佇んで雅恵の出所を待った。

 その日、刑を終えて出所する女は三人いた。女性の刑務官が三人を前にして、注意事項や娑婆(しゃば)に出てからの心構えを手短に伝えた。
「それから、服役中の奨励金はここを出る前に経理の窓口で受け取ることを忘れないように」
 と付け加えた。服役中受刑者は刑務作業と言う名目で労働をさせられる。雅恵は洋裁作業をさせられた。毎日働かされても世間で言う時給などはなく、毎月四千円程度が奨励金として支給されるのだ。受刑者は食事の心配はないが、石鹸や生理用品などの日用品は支給されないから、売店で自分で買わなければならない。その費用は奨励金から差し引かれるので、使わなかった分だけ出所時に支払われるのだ。雅恵はそんなことは分っていたが、経理の窓口で受け取った封筒の中を見て驚いた。九年半刑務所で毎日働かされ、その結果封筒の中にはたったの二万三千七百円しか入っていなかったので、流石に愕然とした。これでは出所しても二日か三日で一文無しになってしまう。

 雅恵は刑務所の入り口から他の二人と一緒に外に出た。一人は自分と同年代の女、もう一人は二十歳代の若い女の子だった。雅恵は両手を高く挙げて深呼吸をした後周囲を見渡した。入り口前に数名出迎えに来た男女が待っていたが、雅恵が知っている顔は一人も居なかった。同年代の女は旦那か兄弟と思われる男と二人の少年に腕を取られてさっさと紀代が待たせたタクシーの方に向ったが、運転手に断られたらしく、そのまま歩いて遠ざかった。若い女の子は同年代の男女四人が出迎えていて、
「大変だったね」
 とか、
「ご苦労様」
 とか口々に言われて気分が良さそうに近くに停めてあったワンボックスの車に乗り込んで走り去った。雅恵は二人いた娘が出迎えに来ていないか尚も辺りを見回したが誰もいないことを悟ってぶらぶらと歩き始めた。正直、約十年ぶりに出所してもどこにも行くあてがなかったのだ。

「お義母(かあ)さん!」
 背後から突然声をかけられ、雅恵が振り返ると、そこにすっかり綺麗な女性になった紀代が微笑んでいた。
「もしかして紀代ちゃん?」
 雅恵は紀代が出迎えに来ているなぞ想像もしてなかった。
「はい。紀代です。すっかりご無沙汰しております」
 この()の幼い頃、散々に苛め抜いたことを雅恵は今でも鮮明に覚えていた。部屋に何日も監禁した時はトイレにも行けず、畳の上にうんこをしたことまで覚えていた。今目の前に居る小奇麗な女性が、あの紀代だったのかと思うと驚きさえ覚えた。
「お義母さん、あたし、もう何も恨んでないから」
 雅恵の躊躇する顔を見て、紀代は優しげに話しかけた。その声に、知らず知らず雅恵の頬に涙が零れ落ちた。
「出迎えてくれてありがとう」
 雅恵はそう言うのが精一杯で、後は言葉が出なかった。
「兎に角街に出て美味しいものをご馳走するわ。食べたい物ある?」
「お寿司」
 と雅恵は言ってから、
「あなた、お寿司でもいいの」
 と付け加えた。
「いいわよ。行きましょう」
 近くで待ってもらっていたタクシーに義母を乗せると、
「運転手さんどこか美味しいお寿司屋さんに連れて行って下さいな」
 と頼んだ。タクシーは走り出した。紀代は雅恵の腕に自分の腕を絡ませて、雅恵の鼓動を感じていた。

「ここは福島では割合評判がいい店だよ」
 タクシーの運転手が教えてくれた寿司屋に入ってみた。昼時を過ぎて空いていたが、良い感じの店だった。
 雅恵は久しぶりのお寿司に食が進んで良く食べてくれた。
「お義母さん、これからのことだけど、やはり会津若松に帰って暮らすの?」
 雅恵は少しの間考える風だったが、
「若松は嫌よ」
 ときっぱりした口調で否定した。
「どこか顔見知りが誰もいない街でひっそりと暮らしたいな」
 紀代は義母の気持ちを理解した。会津若松に住めば、顔見知りが居て必ず陰であれこれ言われるだろう。
「思い切って東京に出てみない?」
 雅恵は手元にある三万円足らずの現金でこの先どう暮らして行くのか不安で答えられず黙っていた。
「しばらくは、あたしが生活の面倒を見るわよ」
 紀代の言葉に雅恵の顔が明るくなった。
「悪いわね。いいの?」
 雅恵には紀代に相当の負い目があるのだ。
「いいわよ。じゃ、これから東京に行きましょう」
「えっ?」
「バカねぇ。福島に居ても仕方ないでしょ」
 紀代が笑うと雅恵もつられて笑った。

 新幹線に乗って、二時間もすると東京に着いた。紀代は山手線に乗って巣鴨で降りた。
 義母にとって暮らし易い街と言えば中流以上の住宅街よりも、物価が安く下町っぽい所が良いと思ったのだ。近くには六義園があり散歩もできる。駅を降りると直ぐに不動産屋に寄って、一人暮らしに向く手頃なマンションがないか相談した。
「できれば今日から住める所ありません?」
 応対した不動産屋のオヤジはにこにこして駅から十分ほど歩いた駒込三丁目にあるマンションに案内してくれた。小奇麗な二部屋あるマンションの二階の部屋を見て雅恵は気に入ったようだ。
「紀代ちゃん、こんな立派な所でも大丈夫なの?」
 雅恵は紀代の出費を気にしている様子だ。
「いいわよ」
 にっこり笑って紀代はオヤジに、
「ここに決めたわ」
 と伝えた。不動産屋の店に戻ると紀代は銀行に寄ってちょっと高いが礼金と敷金、それに半年分の家賃を前払いした。不動産屋のオヤジは少し驚いた顔をしたが、直ぐに契約書を作って契約に応じた。
「これ鍵です」
 紀代は雅恵に携帯電話を買って渡し、
「何かあったらこれであたしに連絡を下さいね」
 と自分の携帯の番号を登録して見せた。もう夕方になって少し寒くなってきたが、紀代は雅恵をあちこちの店を引っ張りまわし、布団や当面必要な日用品を買い、マンションに届けさせた。マンションに戻ると商店から次々と品物が届き、ダイニングのテーブルやテレビもその日の内に揃った。
「向こう半年は家賃を前払いしてありますから、後は食べることだけよね。しばらくこれでやりくりして下さいな」
 紀代は真新しいテーブルの上に現金を入れた銀行の袋を置いて、
「じゃ、あたしはこれで失礼するわ。足りない物は明日にでも買って揃えて下さいね」
 そう言って出て行こうとした。
 その時、雅恵が紀代の後ろから抱き付いてきた。振り返ると雅恵は目を潤ませて、
「紀代ちゃん、ありがとう。本当にありがとう」
 と言いながら嗚咽して震えていた。紀代はこれで長い間の義母とのわだかまりは(ほぐ)れたと思った。

百三十八 不運

 義母の雅恵と別れてから、紀代は久しぶりに鶴見のアパートに帰った。いずれ仙台あたりに新しい住いを買う予定をしていたが、製菓会社の役員会への出席の便や、行方不明になっている光二がここに戻ってくるかも知れないと言うかすかな希望があったので、鶴見のアパートは処分せずにそのままにしていた。
 アパートの郵便受けにはDMが一杯届いていて、溢れていた。そんなものは見ないので、そのままゴミ箱に投げ込んだ。
 風呂にお湯を満たすと、紀代はゆっくりと風呂に入った。東北をあちこち歩いて疲れた体を癒すためだ。湯船に浸かって、紀代はその日出所した雅恵のことを想った。考えてみれば淋しい人だ。幼い頃自分に意地悪をした義姉妹、雅恵の実の娘なのに二人とも出迎えに来なかった。母親ならどんなにか淋しい思いをしただろうと雅恵の心の内側を想像できた。紀代が出迎えに行ったのは紀代なりの理由があった。自分が大株主のキヨリスの経営を立て直すには、義母の秀子と相当シビアな関係になるだろうとは大体想像できた。その時、味方になってくれる者が必要だ。紀代は秀子に良い感情を持っていない雅恵を自分の味方に付けて雅恵を利用しようと思っていたのだ。はたしてそれが上手く行くか否かは分らないが、色々考えた末にそうしようと決めていたのだ。

 三月十一日の金曜日、紀代は午前中家事を済ませて、まだ調べが終わっていないキヨリス仙台に出かけることにしていた。それで一時過ぎに東京駅から東北新幹線に乗り、仙台に向った。乗りなれた道なので、紀代は持って来たiPadを膝の上に乗せて、製菓会社の次の役員会で説明する予定の資料作りをしていた。

 列車が郡山を過ぎたあたりで、突然急ブレーキがかかって停車した。しばらくして社内アナウンスがあり、地震のため停車したのでしばらくそのままお待ちくださいと告げた。JR東日本の地震計が作動して緊急停止をすることはよくある。iPadの画面の時計表示は14時45分を示していた。

 列車が緊急停止をしてから約一分後に極めて激しい揺れがあり、停電して車内が騒然となった。後で分ったことだが、新幹線は大きな揺れが発生する前に地震を検知して自動的に緊急停止がかかったらしい。
 車窓から見える沿線の田んぼにはまだ雪が残っていて暖房が切れると車内には寒気が押し寄せてきた。結局一日車内に閉じ込められて、無事に救出されたのだが、外に出ると交通が麻痺していて動きが取れず、結局殆どの者が最寄の宿泊施設で缶詰になってしまった。
 紀代は士道に電話を入れてみたが携帯は全く通じず、父の辰夫に電話をしてもつながらなかった。兎に角どうにもならない状況が二日も続き、どうにか山形往きのバスに乗り込み新潟を経由して東京に舞い戻った。
 もしも雅恵が福島か仙台に住みたいと言っていたら、多分今頃どうなっていたか分らない。紀代は雅恵は悪運に強い人だと思った。

 東京に戻ってから五日目にようやく士道と携帯がつながった。
「紀代ちゃん、キヨリス仙台は全滅だぜ。オレは今キヨリス仙台の近くに居るけどよ、こんな時、トラックで商品をごっそり盗みに来る奴がいてよ、そいつらの取締りをやってるのよ。辰夫さんに頼まれてさ、オレのとこの若い衆と一緒にこっちで仕事だ。それはそうと、光二からは何の連絡もねぇな。あんたとこにも連絡、入ってねぇんだろ」
「はい。あたし、まだ心配してますの。無事に帰ってくるといいんですけど」
「そうか、気を落とさず気長に待ってればその内ひょっこり現れるかも知れねぇな」
 紀代は士道の話を聞いて、もしも一時間位早くキヨリス仙台に行っていたら今頃自分はどうなっていたか分からないと思った。そう考えて見ると案外自分も悪運に強い女かも知れないと思った。

百三十九 妻と愛人

 国語辞典には[愛人]は愛する人などと書かれているが、普通に愛人と言えば、それは既婚の妻か夫と恋愛関係にある者を指す。要は不倫相手のことだ。中国では[愛人]は文字通り最愛の人、つまり妻か夫を指し、日本語の愛人は[情人]と言うらしい。
 未婚の者が愛している相手は恋人と言うが普通は愛人とは言わない。

 紀代の父、秋元辰夫は紀代の実母由紀が居るのに市川雅恵と言う女と恋愛関係になり、それが原因で離婚した。辰夫は由紀と別れて雅恵と再婚、雅恵の連れ子の二人の娘を加えて子供は長男の他に娘が三人になった。所が再婚した妻の雅恵が居るのに、今度は今井秀子と言う女と恋愛関係になり、雅恵と離婚をして、秀子と再々婚した。だから紀代は実母と義母を合わせて三人の母親がまだ生きていると言う複雑な人間関係を強いられていた。辰夫と秀子の間には息子が一人誕生、秀夫と名付けられた。
 辰夫と秀子の関係は十年間位は良好だったが、キヨリス会津若松を開店してから、キヨリスの経営を妻の秀子に任せたので、秀子は郡山にある自宅を離れて、会津若松の別宅で息子の秀夫と暮らすことになった。それがもとで、辰夫と秀子の夫婦関係は次第に疎遠になり、辰夫はまたしても郡山に愛人を持ってしまった。新しい辰夫の女は菅野早苗(かんのさなえ)と言った。早苗は辰夫より一回り若く、まだ四十前で男好きの顔立ちをしていた。

 秀子は秀子で、会津若松に愛人を作っていて、寂しい時に逢って愛し合っていた。辰夫と離婚をする気はなかったから、言って見れば秀子の[セフレ(セックスフレンド)]だ。辰夫が会津若松に来ることはめったにないし、秀子が郡山に帰ることもめったになかったから、お互いに愛人が居るなぞ知らなかったが、秀子はセックス好きの辰夫に相手が居るだろうとは想像していた。

 早苗は未婚だったから、関係が蜜になるに従って、
「奥さんと別れてぇ~」
 とか、
「結婚してくれないなら別れるからぁ~」
 とか最近は逢って抱き合う度に甘い囁きで辰夫を悩ませていた。
 セックスには相性があると言う。早苗が自分のことをどう感じているのか辰夫には本当の所は分からなかったが、辰夫にとっては早苗とつながっていると実に心地良いのだ。だから、セックスの最中に早苗に脅されると相当に効いて、ややもすると同意をしてしまいそうになるのだ。
 男はセックスをする時は下腹部に神経を集中して純粋に夢中になるのだが、早苗に脅される度に、辰夫は女は実利的な所があって不純な生き物だと思った。だが、それが分っていながら、早苗に逢うとつい夢中になってしまう自分にセックスが終わった後で腹を立ててしまったりする。辰夫と早苗の関係はそんなこんなでもう三年も続いていた。

 大地震に津波、原発問題のおまけまで付いて、世間は騒然となっていて、紀代もキヨリスの店舗の被害状況を調べている間に、あっと言う間に五月の中旬になってしまった。そんなある日、三月に頼んでおいた探偵社から一通り調査が終わったので報告に伺いたいと連絡が入った。紀代は丸の内のホテルに一室を借りて、そこで探偵社の男と会って報告を聞いた。流石大手の探偵社だけあって、テーブルの上に分厚い調査報告書が置かれた。
「中味の詳細を全部説明するとまる一日はかかります。なので、概略ご報告させて頂いて、一度秋元様が良く目を通されてからご質問に応じたいと存じますが、よろしいでしょうか」
 前に会った男とは別に部長と言う肩書きのある六十歳近くの男が同行してきた。
 説明を聞く内に、辰夫には菅野早苗と言う愛人がおり、秀子には野間健人(たけひと)と言う愛人が居ると説明されて驚かされたが、紀代は辰夫から株主総会の議決権の委任状を取り付ける時にこの情報を上手く使えそうだと思ったし、秀子を社長の座から引き摺り下ろす時の脅しにも使えそうだと思った。
 紀代は報告書を受け取って、探偵社の男達を帰した所で、日頃財産管理で世話になっている弁護士に電話を入れた。勿論キヨリスの六月末に開催される株主総会に提出する動議の内容や戦略について相談するつもりだったのだ。

百四十 梲《うだつ》が上がらない奴

 紀代が製菓会社の非常勤取締役になってからは、工場に顔を出すことは少なくなった。工場の生産技術部のメンテナンスグループに所属している橋本徹と言う男は、紀代が鶴見に来てから、時々紀代のアパートに遊びに来ていたが、ここのとこ紀代がアパートに居ないことが多くなってから、紀代に会えなくて淋しがっていた。
 そんなある日、会社で昼休みに秋元紀代から徹に電話が入った。紀代は会社では若いのに特進して役員に抜擢されていたから、器量良しの紀代は多くの独身男性社員の間では特別な存在になっていた。それで、その秋元から徹に電話があったことを取り次いだ女性が大きな声で呼び出したので、話題になった。徹が電話口に出ると、周囲の者が聞き耳を立てているのが徹にも感じられた。
「はい。橋本です」
「徹さん、元気にしてる?」
 紀代の親しみ深い言葉についなれなれしく話をしそうになって、徹は周囲を気にして気持ちを立て直した。
「はい。秋元さん、ご無沙汰しております」
 徹の心臓はバクンバクンと波打っていたが徹は何とか平静を取り戻して答えた。そんな電話口の徹の状態を紀代は察していた。
「しばらくぶりにあたしのアパートに遊びに来ない」
「はい」
「ご都合の悪い日、あります?」
「いえ、いつでも大丈夫です」
「じゃ、今夜は?」
「はい。承知しました」
 紀代は徹が[承知しました]なんて、普段自分に対して使わない答え方をしたので、思わず吹き出してしまった。徹は益々落ち着かなくなって、自分の顔が赤くなるのを感じていた。それで、
「ご用件、分りましたのでこれで失礼します」
 と言って電話を切った。額に汗が滲んでいた。
 その様子を近くで見ていた女子社員が徹をからかった。
「橋本さん、なんだか恋人に振られたような顔してるよ」
 徹は急いでトイレに行った。このままその女に捕まっているともっとやられそうな気がして逃げ出したのだ。紀代は徹より二つか三つ年上のお姐さんだ。

 会社が定時を過ぎると、徹は途中で紀代が好きそうな洋菓子を買って、いそいそと紀代のアパートに行った。
「今晩は、いらっしゃい。しばらくぶりね」
「はい」
「お昼休みの電話、いつもの徹君らしく無かったよ」
「紀代さん、意地悪しないでくれよな。オレ、嬉しくてさぁ、膝が震えたよ」
 紀代は笑った。徹もつられて照れ笑いをした。
「夕食、まだでしょ」
「ん。紀代さんがきっとご馳走してくれると思ってさ、ハラをペコペコにしてきた」
「それでいいのよ。じゃ、食事にしましょう」
 徹は紀代の手料理を美味そうにいっぱい平らげた。
「あ~ぁっ、やっと気持ちが落ち着いたな」
「コーヒー? お紅茶?」
「コーヒー」
 二人はいつものようにテレビの前のソファーに並んで座って、徹が買って来た洋菓子の箱を開けた。
「嬉しいっ! 徹君はあたしの好み忘れてないね」
「ま、当然です」

 一服終えると紀代は切り出した。
「徹君、同期の人で早い方はもう管理職でしょ?」
「ああ」
「あなた、少しは偉くなったの」
「いえ、まだ主任です」
 徹は恥ずかしそうに答えた。
「あなたのとこの上司、人を見る目がないわね」
「……」
「徹君、もう彼女できたの?」
 徹は珍しくムッとした表情で、
「居たら今夜は来なかったな。多分」
 と答えた。
「実は、徹君のお気持ちを聞いておきたくて、それで来て頂いたのよ」
「オレの気持ちですか」
「ええ」
 徹は紀代に対する気持ちかと勘違いした。それで
「今も変らないっす」
 と答えた。
「そうじゃないのよ。あたしが聞きたかったのは、このままずっと今の会社でお仕事を続けたいと思っていらっしゃるかってことよ」
「ま、一応。オレ、今の仕事、自分に合っていると思ってますから」
「そう? 例えばよ、あくまで例えばって話ですけど、あたしと一緒にお仕事なさるお気持ちはない?」
「どんな仕事ですか」
 徹は紀代と一緒に仕事をすると言われて動揺した。
「会社の秘書。ありていに言うとあたしの専属の運転手」
「今の会社のですか?」
 徹は紀代が言っていることが飲み込めなかった。
「実はね、あたしある会社の社長をしようと思っているのよ」
「へぇー、すげぇなぁ」
「それで、信頼できる運転手が欲しいの。客先や業者としょっちゅう会うでしょ、そんな時口が堅くて信頼できる人が欲しいのよ」
「……」
 突然の話に徹はどう返事をするか迷っていた。
「徹君が嫌なら無理にとは言わないわよ」
「……」
 少し間が開いて後、
「オレ、やります」
 と答えた。
「そう? ほんとに?」
「はい、オレやります」
 紀代は隣に座っている徹の頬に軽く唇を当てて、
「徹君、ありがとう」
 と囁いた。徹の身体が硬直するのが分った。
 橋本徹は見た目チャランポランに見えるが、いままで付き合ってみて相当に口が堅く、会社で紀代の私生活のことをバラされたことは一度もなかったし、紀代との関係を他人に話すこともなかったし仕事は誠実で間違いがなかった。会社には今でもオンボロの原付で通っているが、事故をやらかしたり交通違反をした話は一度も聞いてない。免許証はゴールドだった。

 六月末の株主総会で動議が無事に通過すれば、紀代は七月からキヨリスの社長だ。それで自分に専属の運転手が必要だったが、信頼が置ける男が欲しかったのだ。

百四十一 議決権

「紀代さん、僕の所に相談に来るのが遅いよ。今年の株主総会には間に合わんなぁ」
 その日、紀代が日頃世話になっている鬼頭聡一郎弁護士事務所を訪ね、社長交替について相談していた。
 一口に弁護士と言っても窃盗や殺人事件など刑事訴訟に慣れた者、不動産取引や遺産相続がらみの揉め事などの民事訴訟に強い者、会社経営に関わる諸事の始末を得意とする者など様々だ。紀代が訪ねた鬼頭弁護士は会社経営に関わる諸々の問題処理に長けていた。

「会社と言うものはね、所有と経営の分離と言う大原則があるんだよ。つまりだな、会社の株式を買い占めたからと言って簡単に経営権を取られることを許すとだな、金さえあれば簡単に会社を乗っ取れるよね」
「はい。確かに」
「それでだな、株主総会では動議を出すことは基本的に出来ないことになっているんだよ。動機と言うのは突然に出される場合が多いよね。だから会議が紛糾する場合が多いと考えられるから、株主総会では予め取締役会で決定された議案を事前に全株主に通知しておいてその議案についてのみ審議をして採決をするんだよ」
「ではあたしの場合はどうすればいいの」
「紀代さんの考えを実現するためにはだね、株主に議案が提示される前に取締役会で審議をしてもらって、議案に入れてもらう必要があるんだよ。一般的には株主には議案提案権があってね、総会の日より八週間前までに取締役会に通知をして議案に入れてもらわなくちゃならんのだよ」
 話を聞いて紀代は遅くとも二ヶ月か三ヶ月前に行動を起こす必要があったと理解した。

「いきなり代表取締役と言うのは問題が大きすぎて色々揉めるだろうと思うんだよ。それでだね、現在取締役になっているお父さまにご相談をしてだね、まず専務取締役か副社長に就任するように頼んでみたら良いな。あなたはお父さんの愛娘だから、話が通り易いと思いますよ」
「分りました。その場合、来年の定時株主総会まで待つことになりますの」
「役付き役員が新たに就任するとなれば、会社経営上の重要事項となるから取締役会で決まったら、多分臨時株主総会を招集することになるだろうね。今あなたは有名な大手製菓会社の役員でおられるから、世間的に考えても会社経営に適格者だと言うことになるから問題はないね」
「分りました。早速父に相談をしてみます」
「あなたの持ち株数とお父さまの持ち株数を合わせると議決権の過半数を越えていますからね、お義母さまとの話し合いさえ上手く行けば簡単に通ると思いますよ。お父様にご相談する時は僕も同行して意見をして差し上げましょう」

 もう何年ぶりだろう、紀代は久しぶりに父親の辰夫に会うのだと思うと少しドキドキした。
「もしもし、紀代です。ご無沙汰してます」
「紀代か、珍しいな。どうした? 何かあったのか」
「それより、郡山のお店どんな感じ?」
「ああ、地震で最初の一月は大変だったが、うちはそれほど被害が大きくなかったから一月で立ち直ったよ。客足は二割方落ちたが最近大分戻してきたな。紀代は相変らず菓子屋で頑張ってるのか?」
「そうよ。今は取締役よ」
「えっ? あのでかい菓子屋の役員に昇進したのか」
「そうよ」
「信じられんなぁ」
「これも運よね。あたし、副社長さんにすごく可愛がって頂いてるのよ」
「そうか、じゃ、忙しいだろ」
「いえ、あたし、お父さんの手伝いをしたいからって、非常勤の取締役にして頂いたから自由な時間はいっぱいあるの」
「それで、電話をしてきた所を見ると相談でもあるんじゃないのか」
「当たりッ! さすがお父さん勘がいいわね。実はキヨリスの経営に関わりたいと思って、お父さんに力を貸して頂こうと思って」
「そうか、やっとその気になってくれたか」
 辰夫は喜んでいる様子だ。
「近い内にお家に一度戻ってお話しをしたいんだけど、忙しいの」
「忙しいな」
 辰夫は今は郡山では一応実力者に入っていて、最近は店の経営を部下に任せっぱなしで、自分は政界がらみの仕事に忙しかったのだ。
「早苗さんと逢ってる暇もないくらい忙しいの」
 紀代の口から早苗と聞かされて、辰夫は一瞬ぎょっとした。
「おまえなんで早苗を知ってるんだ?」
「そりゃ、お父さんの大切な娘ですから、それくらいは」
 と紀代は笑った。辰夫は話題を戻した。
「キヨリスに乗り出してくれるなら、郡山の店も引き受けてくれると助かるんだがな」
「いいわよ。社長になってあげるわよ」
 と紀代はまた笑った。
「キヨリスのことは秀子に相談をしておくが、秀子は秀夫に後を継がせたいと思っているらしいから、それを頭に入れておいてくれ」
「じゃ、近い内に帰りますから、日にちが決まったらまた電話をするわね」
「分った」

百四十二 紀代の処遇

 紀代から電話が来た翌日、秋元辰夫は妻の秀子の携帯に電話を入れた。
「おかしいなぁ、あいつ電話に出ないことめったにないんだがなぁ」
 辰夫が仕事の要件で秀子の携帯に電話を入れると大抵直ぐに出るのだが、その日はどうしたことか何回かけても呼び出し音は鳴っているのにとらないのだ。
 天ぷらの鍋に火を点けて油が煮立った直後とか、入浴中とかトイレに入ったばかりとか、めったにかかって来ない電話が手が離せない時に限って偶然にかかってきて腹を立てた経験は大抵の主婦なら一度や二度は経験があるだろう。タイミングが悪いのだ。
 辰夫が電話をした時、その日は特に急ぎの仕事がなかったので、秀子はセフレの野間健人(のまけんと)と会津若松の武家屋敷から少し先の東山温泉にある原瀧と言う温泉宿に来ていた。まさに昼下がりの情事だ。
 野間は秀子より三つ年下だが、男の物は辰夫よりずっと立派で、秀子は特に野間の細やかな愛撫が気に入っていた。
 いつものように男には珍しい綺麗な指先で愛撫され、乳首を吸われて、太ももの内側を絶妙に刺激されて、秀子のその部分はすっかり潤んで野間のものを受け入れる準備が出来上がっていた。秀子は、
「来てぇ~」
 と言いそうになったその時、マナーモードにしておいた携帯がブルブルと振動したのだ。秀子は電源をOFFにしておかなかったことを悔やんだが、そのままほったらかしにしておいた。恐らく野間も気付いただろうが、二人ともいよいよと言う所だったから、野間も無視したようだ。所が、携帯は断続的に何度も呼び出しがかかって切れ、なかなか相手があきらめた様子じゃなかった。しかし、それでも二人とも無視して続けた。
 そんなことがあると秀子は集中が乱れて、その日は100%の満足感が得られず中途半端な気持ちで登りつめた。

 あれから一時間もして、シャワーを使った後で秀子は携帯を開いて見た。電話は辰夫からだった。秀子はすっかりご機嫌が斜めになっていた。それで、直ぐに掛け直さずそのままほったらかしにして会社に戻った。
 辰夫からの電話をいつまでもほったらかしにはできない。それで、夕方辰夫の携帯に電話をかけた。だが、電話は通じなかった。どうやらOFFになっているらしい。

 秀子が電話をした時、辰夫は早苗と夕飯を食べている最中で、その後郡山郊外の磐梯熱海温泉の守田屋と言う温泉宿に出かけた。
 辰夫は携帯の電源を切ったままにしていた。
 辰夫と電話がつながったのは翌朝だった。お互いに何をしていたのだとは聞き辛い。秀子は辰夫に根掘り葉掘り聞かれても困るから辰夫にどうして電話に出なかったのか聞かなかった。
「どう? 最近体調は大丈夫なの」
 秀子はやんわりと辰夫の体調を尋ねた。
「オレか? いつもと変らんなぁ」
「何かお話しありますでしょ?」
 辰夫は紀代のことを相談することをすっかり忘れていた。ややあって、
「そうだ、久しぶりにこっちに来んか? メシでも食ってゆっくりしたいんだがなぁ」
 秀子は[何だ、そんな要件だったのか]と安堵した。急用なら辰夫は昨日電話をした時どうして出なかったのだと問い詰めるだろう。
 秀子は予定表を見て、
「明後日なら午後は空いてるわ」
 と返事をした。それで二日後郡山の自宅に戻る約束をした。

 久しぶりに見る秀子はなんだか以前より肌に張りがあり綺麗に見えた。辰夫は一人で頑張っているせいだろうと思った。
「家であんたの手料理を食いたいと言いたい所だが、寿司でも食いに出るか?」
 と言うと秀子は一つ返事でOKした。
「実は紀代のことだがね」
「あら、紀代ちゃんの話が出るなんて久しぶりですわね」
「ああ。その内一度家に帰ってくると言ってたよ」
「あら、どうして?」
「紀代の奴、ようやく家業を手伝う気になったらしい」
「郡山のスーパー? それともキヨリス?」
「両方かな? 秀子のとこを手伝わせたいのだが、どうかね」
「そうねぇ、仙台は全滅ですから、とりあえず会津のお店の売り子にでもなって頂こうかしら? 紀代ちゃん販売の経験は若い時だけですから少しは勉強になるかしらねぇ」
 秀子の話を聞いて、辰夫は少し戸惑った。
「秀子、紀代が会津を離れてからのこと、少しは聞いているのか?」
「ええ、なんでも料理学校のアルバイトをしながら製菓会社に勤めているらしいわね。新しいお菓子の商品開発のお仕事だって聞いてましたよ」
「あいつ、それから出世したらしく、キヨリスの売り場の売り子じゃもったいないような気がするがね」
「今係長さん位になっているの?」
「いや、オレも驚いたんだがね、あの有名なM製菓の取締役になったらしいよ」
「まさかぁ、紀代ちゃんがあんな大会社の取締役? ありえないわよ」
「本当らしいよ。その話を聞いてから、オレは大学時代の友人で東京の新聞社に居るやつに調べてもらったんだが、新商品開発部長から取締役に抜擢されて、社内では売上貢献度NO・1のトップリーダーだそうで社内の評価も高いそうだよ」
 その話を聞いて秀子の心は身構えた。息子の秀夫を跡継ぎにしようと思っているのだが、秀夫はまだ高校生だから、うっかりすると紀代に椅子を盗られてしまうかもしれないと内心危惧したのだ。
「兎に角、最低専務、副社長格で迎え入れることを考えておいてくれないか? 郡山の方は一年後には社長に据える気でいるんだがね」
 その夜は郡山の自宅に泊まったが秀子の気持ちは落ち着かず、翌朝会津若松に戻る途中も秀子の気持ちは穏やかではなかった。

百四十三 臨時取締役会

 久しぶりに、紀代は郡山の実家に帰っていた。父の秋元辰夫は最近政治の世界に首を突っ込んでいて、本業のスーパーは部下に任せっぱなしにしている様子だった。そこで紀代は兼ねて考えていた話を切り出した。
「お父さん、キヨリスの持ち株を全部M製菓の矢田部副社長に譲ってくれない」
「紀代がそうして欲しいなら僕は構わないが矢田部さんは信用できる人なのか心配だな」
「あたし、矢田部さんとのお付き合い、すごく長いから、あたしを裏切るような人じゃないよ」
「分った、それじゃ矢田部さんに一度会って見るよ」

 辰夫はここのとこ選挙に打って出ることを考えていたから、政治資金として手元に金が欲しかった。それで紀代の願いを受ける裏にこの際まとまった金を作りたい意図が重なっていた。キヨリスの経営は長い間妻の秀子に任せっぱなしだったから、株式の保有など、どうでもいいと言う気持ちにもなっていた。更にここのとこ、不倫相手の早苗との付き合いで何かと金が必要でそんなことも手伝って辰夫の行動を早めた。

 その日、辰夫は紀代から聞いた矢田部の連絡先に電話を入れてアポを取った。
 翌日矢田部と打ち合わせた時間に辰夫は田町の製菓会社の本社を訪ねた。
「優秀なお嬢様をお持ちで秋元さんは幸せ者ですなぁ」
「娘は自分が成長したのは矢田部さんのお陰だと常々言っとります」
「今じゃ、こう言っちゃお父様に失礼ですが、紀代さんはわたしの愛娘みたいなものです」
 雑談を終わると、辰夫は用件を持ち出した。
「娘から聞いておられると思いますが、キヨリスの持ち株全部を矢田部さんにお引き受け頂けますかな」
「勿論です。早速ですが、そちらの条件を言って頂けますかな」
「私の持ち株は七万五千、時価ですと七億と少しになりますが、五億でお引取り願えますかな」
 矢田部は少し考える風であった。

「実は手前どもでキヨリスの最近の業績を調べさせて頂きました。先のことは分りませんが、今後の業績予想と大震災の復旧費用などを考慮しますに、来期は赤字転落になりそうですな」
 これには辰夫の方が驚いた。実を言うと最近辰夫はキヨリスの業績を十分に把握していなかったのだ。辰夫の顔色を伺うように矢田部は畳み込んできた。
「三億五千でどうですか? 赤字転落となれば、今の時価は恐らく半減するでしょう。失礼ですが、私は三億程度と踏んでおりました」
 辰夫は咄嗟に考えた。確かにこのままで行けば来期は赤字、それも大幅な損失を覚悟せねばならないだろう。そうなれば、キヨリスの株価は矢田部の言う通り、いや、もっと下落してしまうかも知れないのだ。秀子からはその対策について何も知らされていなかった。

「結構です。では三億五千で決めましょう」
 結局辰夫の持ち株七万五千株を三億五万千円で手渡すことになり、覚書を取り交わした。
相対(あいたい)取引でいいですな?」
 辰夫は矢田部の提案に同意した。
「今回は私の私財で処理しますから、取引後の名義人は私になります」
 勿論辰夫は同意した。
 矢田部の提案には理由があった。もし市場で取引をするとなると、時価になり矢田部は今後一年以内に大きな損害を被る可能性があった。損を見越して現在の時価の約半値で公開買い付けをすれば、時価は暴落し、他の株主に損害を与えかねない。世の中には時間外取引があるが、それは実質的に市場取引と変らない。だから、矢田部は相対取引を提案したのだ。相対取引は市場外取引と言うことになる。

 こうして、矢田部はキヨリスの大株主となった。筆頭株主の紀代に次いで矢田部は第二の大株主となった。秀子は三番目だ。
 数日後株券を引き渡し、辰夫の口座に約束通り三億五千万円が振り込まれた。随分安くなったが、手元の資金が膨らんで、辰夫の機嫌は良かった。

 辰夫に矢田部に持ち株全株を譲渡したと聞かされた秀子は早速矢田部と連絡を取り、臨時株主総会で取締役に就任してもらうよう頼み込んだ。矢田部が加わることでここのとこ資金繰りに苦労していた所、銀行筋に説明し易くなり追加融資を引き出し安くなると言う企みがあったのだ。
 矢田部は思いの外秀子の提案を簡単に引き受けてくれることになった。
 九月中旬、会津若松のホテルの会議場を借りて、キヨリスの臨時株主総会が開かれた。第一号議案はもちろん紀代の副社長就任、第二号議案は矢田部の取締役就任の件となっていた。

 秀子が趣旨説明をした後質問がなかったので、
「それでは第一号議案の採決を致します。賛成の方は挙手を願います」
 議長を務める秀子の声に出席者の手が挙がった。見回すと手を上げたのは辰夫と紀代だけだった。
「ありがとうございました。皆様のご意志を尊重して本件は否決とさせて頂きます」
 秀子のにんまりとした顔に合わせるかのように拍手があった。矢田部の手は挙がらなかった。紀代は予め矢田部に頼んでおいたのに矢田部が賛成してくれなかったので呆然としていた。辰夫も意外だという顔で周囲を見渡していた。
 次に矢田部の取締役就任について秀子の力の入った趣旨説明があり、質問がなかったので、
「では第二号議案の採決を致します」
 と挙手を求めると全員の手が挙がった。
「本件は満場一致で可決されました」
 そう言い終わると秀子は矢田部の方に向って軽く会釈をしてから、
「矢田部様、就任のご挨拶をお願いします」
 と挨拶を促した。

 総会が終わると秀子は予め用意してあった宴席に矢田部を案内した。矢田部の手を握る秀子の顔は有頂天だった。秀子は紀代を無視して終始矢田部と歓談していた。
 矢田部に裏切られ、紀代の心は寂しさで溢れていた。今まで父親の辰夫より信頼していた矢田部に突き放されてしまったようで、宴席を早めに立ってホテルに戻りバーで敗北感に押し潰されそうになりながら独り酒を飲んでいた。

百四十四 秘めたる意図

 思ったより早く酔いが回ってきた。紀代はそれでもまだ飲み足りない気分で空になったワイングラスに手を伸ばした。すると、す~っとボトルの先がグラスの上に差し出され、静かにワインが追加された。紀代は横を見た。目の焦点がボケていたが、直ぐににこやかで優しい矢田部の顔に気付いた。先ほどから紀代は周囲に全く関心がなかったから、矢田部が隣の席に着いたのに気付かなかったのだ。
「どぉも……」
 紀代の口からやっと出た言葉だ。矢田部は紀代の気持ちを分っていた。敢て事前に何も知らせずに賛成の挙手をしなかった時の紀代の戸惑った顔を見ていたからだ。
「紀代ちゃん、少し飲みすぎだな。今夜はこれくらいにしておいたらどうだ?」
 紀代は矢田部の言葉に反抗するようにボトルに手を伸ばした。矢田部は伸ばした紀代の手首を掴んで、
「さっ、部屋まで送って行くよ」
 と酔った紀代を抱きかかえるようにバーを出た。ルームキーカードがあったから支払いを気にする必要はなかった。
 矢田部に抱きかかえられてベッドに寝かされた時、紀代は無意識に矢田部に抱き付いた。矢田部は何も言わずに紀代の手を解くと紀代をベッドに落ち着かせて、枕元に冷たい水を置いて部屋を出た。こんな時は余計な言葉は要らないと思った。何か言えば紀代の心の傷口を広げるだけだ。

 翌朝、電話の呼び鈴で起こされた紀代は、
「これから朝食をとって、少し話をしないか」
 と矢田部の声を聞いた。紀代はまだ頭の中がボーッとしていたが、
「はい」
 と答えて受話器を下ろした。ベッド脇の時計を見ると九時を回っていた。
 身支度を整えて、階下のレストランに行くと、奥の方で矢田部が手を上げた。バイキングになっていたが、紀代はミルクと果物だけトレーに載せて矢田部の待つテーブルに向った。
「おはよう。どうだ、少しは酔いが醒めたか?」
「はい」
 紀代は恥ずかしげに矢田部の顔を見た。
 朝食が終わって、二人はホテルの近くにあるスタバに入った。香ばしいコーヒーの匂いにどうにか頭がスッキリとしてきた。

 窓際の、外が見えるカウンター席に並んで座ると、
「済まなかったな。がっかりしただろ?」
 矢田部は謝る風でもなくさらっと言ってのけた。
「はい」
 昨夜紀代は矢田部に会ったら色々言いたいことがあったが、こうして矢田部の顔を見ていると何も言えなくなっていた。それで、
「あたしってダメだなぁ」
 と思わず呟いてしまった。
「おいおいっ、紀代ちゃんらしからぬ言葉だな」
 どうやら矢田部は誤解しているようだ。

「昨日、どうして賛成しなかったか分るかね」
 矢田部はいきなり切り出した。
「……」
 紀代は勿論矢田部の意図を理解していなかった。
「今は早いんだよ。早過ぎるんだ」
「えっ?」
「昨日の総会の空気を覚えてるだろ? 秋元(辰夫)さん以外は全部紀代ちゃんの敵だよ。そんな所に飛び込んで行ったら紀代ちゃんが苦労をするのが見え見えだな。僕が意外だったのは紀代ちゃんのお義母さんも敵だったことだな」
「……」
 紀代はそんなことは始めから分っていたと言いたかったが黙っていた。
「あのね、会社でも学校でも人間社会で自分が思っている方向に物事を進めるには全体の半数以上は自分を支持してくれる人たちが必要なんだよ。勿論トップの支持があれば強引に進められなくもないがね、キヨリスでは今の状態では四面楚歌だな。そんな所に僕の可愛い紀代ちゃんを放り込むわけにはいかんのだよ」
 紀代は矢田部の心の中の思いをようやく理解した。

 矢田部と別れて二週間後、
「キヨリスに僕の大学の後輩が居ることを偶然に知ったんだ。一度一緒にメシでも食って話をしてみないか?」
 矢田部に誘われて、東京・丸の内のレストランで矢田部の後輩だと言う杉山と言う男に会った。
 杉山は小太りであまり目立たない感じであったが、何か人を引き付けるものを紀代は見て取った。
「杉山君は僕と同じT大の工学部を出てから若い頃は大手の電機メーカーに勤めていたんだが、お母さんの身体が悪くてな、いずれ田舎に帰って母の介護をしながら仕事をしたいと言ったら付き合っていた女性が田舎にはどうしても行かないと言われて別れてしまって、今でも独身なんだよ。君いくつになったかな?」
 杉山はちょっと気まずそうに紀代を見て、
「四十五になります」
 と答えた。見た目は四十過ぎだったから紀代が思ったより少し歳をくっていた。
「実家が山形でね、それで今はキヨリス山形に勤めているんだよ」
「どんなお仕事ですか?」
 紀代が聞くと、
「仕入れと店舗の管理の仕事が半々です」
 と答えた。
「それでだ、これから杉山君にキヨリスの各店舗から将来紀代ちゃんを助けてくれそうな人を十名くらい選び出してもらって、また東京に集まってもらってメシでも食いながら色々話ができるようにして行きたいんだが、どうかね?」
 矢田部は杉山と紀代の顔を伺った。
「いいですね」
 と杉山が答えた。
「よろしくお願いします」
 と紀代も答えた。

「僕はもういい歳だからな、そろそろ今の役を退いてこれからはキヨリスの経営にも少しは首を突っ込むつもりだ。銀行関係や取引先の人間関係を固めて、今の役員の半数くらいを味方に付けるようにするつもりだ。今の役員の大部分は紀代ちゃんのお義母さんの姻戚関係者だから、慎重に進めなきゃならんので、少し時間がかかると思うよ。いずれ僕が社長を引き受けるつもりだが、人脈が整ったら紀代ちゃんにバトンタッチをするつもりだから、今からそのつもりで紀代ちゃんも頑張ってくれ。いいねっ」
 思わぬ矢田部の意図を聞かされて紀代は、
「は、はいっ」
 と答えた。

「紀代ちゃんがキヨリスを立ち上げた時に仲間が大勢いただろ?」
「はい」
「その時の仲間で今でもキヨリスに勤めている人たちを集めて紀代ちゃんも改めて人間関係を作るといいよ」
「はい」
 矢田部と別れた後、杉山と紀代は同じ新幹線に乗って東北に向っていた。隣に座った杉山と、紀代は世間話をした。杉山は次男だそうだが、母親の面倒を見ているだけあって、優しい性格だった。

百四十五 裏側の組織

 矢田部三四郎が副社長をしている製菓会社は連結子会社を含めると従業員は2800名もの大世帯だ。そんな中で企業のナンバー2まで登りつめた矢田部は組織の中で上手く泳ぐ時の難しさを熟知していた。

 そう大きくもない東北の小売業キヨリスに単身乗り込むにあたり、矢田部は慎重に用心深かく行動した。事前に調べてみるとキヨリスは社長の今井秀子を頂点にして同族で組織を固めていた。だからちょっとでも不用意な行動をすれば、たちまち足元をすくわれてしまう。
 それで、後輩の杉山を紀代に引き合わせるのにわざわざ東京に呼び出したのだ。もしも地元の会津若松でそんなことをすれば、たちまち警戒されてしまうだろう。だから、杉山に十名程度人を集めて顔合わせをするのに敢えて東京に出てきてメシを食えと言ったのだ。
 だが、杉山は矢田部の意図を理解していなかった。それで、母親の介護の手前なるべく山形を離れたくなかつたから、九名ほど声をかけた同僚を山形に呼んだ。

 結果は直ぐに出た。
 杉山が誘った者たちは数日後突然の異動で皆主要業務から外されてしまったのだ。有体に言えば、左遷されて窓際に追いやられてしまったのだ。
 長い間に、キヨリスの役員を秀子の姻戚関係の者で固める過程で、秀子は社内に情報網を張り巡らせる努力をした。独裁国家に見られる秘密警察のような組織を作り上げていたのだ。この情報網がある限り、秀子は社内で自分勝手なことをしてもびくともしなかった。巧妙な人間関係で作り上げられたこの組織は[知る人ぞ知る]ものであったが、表向き実体の無いもので、部外者が見ても全く分らない。しかし、人には動物的な勘があり、会社に少し長く居る者はこの人にマークされると単なる嫌がらせや意地悪でけでなく、昇進や昇給の査定、ボーナスの査定などでひどい目に合わされることをうすうす知っている。例えば最近社長の秀子が昼間から野間とどこかへ出かけてもそのことを社内では誰も口にする者はいなかった。うっかり飲み会で飲んだ勢いで噂話をすれば、たちまち誰が何時そんな噂を流したか、直ぐに秀子の耳に届いて、弾き飛ばされてしまうのだ。

 紀代も最初は矢田部の意図を理解していなかった。それでキヨリスの立ち上げ時一緒に仕事をした仲間に声をかけて集めようとしたが、皆適当な理由を付けて断ってきた。
「秋元さんのお誘いは嬉しいんだけど、息子の体調がちょっと悪くて……ごめんね」
 皆こんな感じだ。もしも紀代が事前に趣旨を言わず、
「久しぶりに東京にでも出て気晴らししない」
 とあたかも二人で遊びに行こうと言う感じで誘ったなら案外、
「そうねぇ、行こうかな? 最近連れ出してくれる人が居なくて」
 などと快諾してくれたかも知れない。
 杉山からの連絡をもらって、紀代はそれ以降同僚の集まりに相当慎重になった。誰がどんな風にちくったかなんて裏側の組織を知らない紀代には対処の方法がなかった。
 そんなことがあって、紀代は気晴らしのため週末鶴見のアパートに帰った。
 久しぶりに戻ったのだが、清掃を管理人に頼んできたので室内は小奇麗になっていた。ソファーに座ると、紀代は光二と幸せに過ごした日々を思い出していた。
「明日は久しぶりに義母(かあ)さんの様子を見に行こうかな」
 そんなことを思いながら紀代はいつの間にかソファーに座ったまま眠り込んでしまっていた。

愛され、愛する方法 【第三巻】

愛され、愛する方法 【第三巻】

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-03

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  1. 百 恋人を訪ねて Ⅰ
  2. 百一 恋人を訪ねて Ⅱ
  3. 百二 恋人を訪ねて Ⅲ
  4. 百三 恋人を訪ねて Ⅳ
  5. 百四 恋人を訪ねて Ⅴ
  6. 百五 恋人を訪ねて Ⅵ
  7. 百六 恋人を訪ねて Ⅶ
  8. 百七 恋人を訪ねて Ⅷ
  9. 百八 恋人を訪ねて Ⅸ
  10. 百九 恋人を訪ねて Ⅹ
  11. 百十 恋人を訪ねて ⅩⅠ
  12. 百十一 恋人を訪ねて ⅩⅡ
  13. 百十二 恋人を訪ねて ⅩⅢ
  14. 百十三 恋人を訪ねて ⅩⅣ
  15. 百十四 帰国
  16. 百十五 転落の軌跡
  17. 百十六 気になる男
  18. 百十七 紀代の母 Ⅰ
  19. 百十八 紀代の母 Ⅱ
  20. 百十九 紀代の母 Ⅲ
  21. 百二十 紀代の母 Ⅳ
  22. 百二十一 紀代の母 Ⅴ
  23. 百二十二 紀代の母 Ⅵ
  24. 百二十三 その男・リョウ Ⅰ
  25. 百二十四 その男・リョウ Ⅱ
  26. 百二十五 その男・リョウ Ⅲ
  27. 百二十六 その男・リョウ Ⅳ
  28. 百二十七 その男・リョウ Ⅴ
  29. 百二十八 その男・リョウ Ⅵ
  30. 百二十九 その男・リョウ Ⅶ
  31. 百三十 その男・リョウ Ⅷ
  32. 百三十一 その男・リョウ Ⅸ
  33. 百三十二 再会
  34. 百三十三 悲哀
  35. 百三十四 忍耐
  36. 百三十五 肉親の絆
  37. 百三十六 風評
  38. 百三十七 出所
  39. 百三十八 不運
  40. 百三十九 妻と愛人
  41. 百四十 梲《うだつ》が上がらない奴
  42. 百四十一 議決権
  43. 百四十二 紀代の処遇
  44. 百四十三 臨時取締役会
  45. 百四十四 秘めたる意図
  46. 百四十五 裏側の組織