霊ぶ短編

長鳴き


 くだんというものがいる。伝承の通りである。
畜産に携わるものには密かにその対処が伝えられている。
くだんの兆候が出れば、われわれが呼ばれる。
そしてそのくだんを、持ち帰るのである。
くだんがすぐに死んでしまうのは、言葉を発するからである。
だから、血の乾かぬうちにすぐ轡を噛ませるのだ。
そうすればくだんは死なない。

 畜舎がある。ここには雄のくだんが飼われている。
ほとんど寝ているばかりであるが、一歩ここへ入れば。
大きな牛の体に似合わない小さな、ゆがんだ人の顔の、
不釣合いな小さな目が、一斉に私を見るのだ。
いつものように私は轡の隙間から粥を一頭一頭流し込んでやる。
人と牛の間の、不気味な顔がごくごくとそれを飲むのである。

 年を経たくだんは髪とひげが伸び、地面に着かんばかりになる。
こうなるとついに轡を解かれる日も近い。
ここにはそういうものを求める客が訪れる。
荷車に載せられたくだんが祭殿に運ばれる。
執官が取り囲み、いよいよ轡を解く。
ぼそぼそとくだんはそれを語り、うなだれる。
もう目は濁っている。くだんは死んだのだ。
望みのものは得られたのかは分からないが、
客はそれをまとめた書を受け取るのだ。

くだんを大きく育てるのは、一息を長くするためなのだ。
小さなくだんでは、多くを語ることができないからだ。

 そして、雌のくだんがいる。
ほとんどのくだんが雄であるが、極まれに雌が出る。
雌は大層大切に育てられる。
毎日櫛で髪を梳き、
物語を読んで聞かせ、
体を洗ってやるのだと。
そして、雌のくだんは決して顔を他に見せないようにする。
きつく留めた頭巾から白布を垂らして顔を隠す。
決して顔をみてはならないそうだ。
でも、私は、どうしてもそれを見たかったのだ。
だから、鍵をくすねてしまった、忍び込んでしまった。

 座敷の上には、純白の牛が伏していた。
私が近寄ると首をわずかに動かしたのだ。
そぉ、と白布を持ち上げる。
濡れたまつげと白い肌、柔らかな口元と頬に食い込む轡があった。
美しいおんなの顔を見ていた。

 もう、そこで、私は分からなくなってしまった。
一緒に行こう、遠くへいこう、きっと大丈夫だ、平気なんだと。
我を忘れたのである。
敷地を出て、人気のない裏の林から逃げようと思った。
くだんはゆっくりとついてきた。
ああ、ふたりでいける、よかった、よかったと、そう思った。

 どのくらい時間が経ったかはもう分からない。
ほとんど時間は経っていなかったのかもしれない。
杉の梢の星は消えかけていたようにも思う。
そして、
よたよたと、路をくだんが踏み外したのだ。
大きな体がずうと滑るのを止めるのは難しかった。
土まみれになって、私もどこかをひどく打った。
息が切れて、汗と泥で目や口が汚れた。

 そこで、私はゆるゆるとくだんの轡を解いたのである。
おんなの顔はにっこり笑って、こう言ったのである。


「 お ろ か も の 」


そのあとのことは、おぼえていない。









くじら塚

 


 深更、昏い浜砂に、海へ舟を曳く影がある。
まるで猪牙舟のようなちっぽけなものである。
半裸の男は茫と黒い海端を視ている。
濃い髭と隆々とした骨肉、日に灼け、疵だらけの体躯が
貝の殻をぎうと踏み付ける。
ぞぞう、と浪が啼いている。
目指す沖は、凄まじい嵐が待っている。


 男の舟には、一本の巨大な劔が積まれている。
この日のために拵えたつるぎである。
穂先まで含め六尺を超えるほどの長さ、
よく研がれた刃は重さ二貫、渡りは三尺に及ばんとし、
水面の薄ら明かりを吸って、ぎょろりと照る。
それと荒縄だけが底に転がっている。
銛も小包丁も灯りも、他にはなにも持ってこなかった。

男は、くじらを獲るのである。

くじらを獲るためには、大勢の漁師が要る。
晴れた日に山見からのろしでくじらを報らせる。
勢子船と網船とが直ぐに沖へ出る。
大網で追い込み、劔で何度も突くのである。
溺れたくじらが網のほうへざぶうとよろめく。
血と油に塗れた海に羽指が飛び込み、くじらの鼻に手形包丁をぐうと射れこむ。
そうして船たちがやぁ、やぁ、と浜まで持ち帰る。

独りではくじらは獲れない。
だが、男は真暗な海へ小船を浮かべ、櫂を握った。
浪が、うねりが、叫びを上げて木片を追い返さんとする。
白い黒い猛りがぎょうぎょうと船底を殴った。

ごうごう、どおどおと拒む海面を、
男は顔色を変えず漕ぐ。
雨が、船縁をびちびちと叩く。
風が、男をぎょっと吹き付け体を突き倒す、
浪が、腕を伸ばして櫂をもぎ取らんとする。

いよいよ天地が不明瞭になる。
巨大なあくまが舟を握り締め、
風呂場で遊ぶ幼児の玩具のように潮に放り投げる。
てらてらと濡れた縁を太い指がぎぎ、と掴む。

男は立たねばならなかった。
男は、くじらを獲らなければならなかった。

男の連れ添った妻と、この間ようやっと歩き始めた幼い娘と、

もう一人前になろうとしている二人の立派な息子と、

子供の頃からずっと負けず嫌いで、それでも追いかけてきた弟と、

あの野太い声で笑う、皆から愛され、頼りにされた網元と、

獲れた日も獲れぬ日も、いつもひょうきんに踊る仲間たちと、

その大切な家族たちと、その住処をうばった、

あのくじらを殺すのだと、息の根を止めるのだと。



そして男は、腰に荒縄を巻き、舟に確と結びつけ、
狂う渦の中に肢体を放り投げた。

激しい泡沫と刻薄な寒さが突き刺さる。
確りと劔を握り締める。
黒々とした闇を男の赤い眼が睨む。

嵐の真中で、くじらは男を待っていたのである。

見渡す限りの漆塗りのようなどす黒いの皮のなかに
冷たく小さな目の玉が煌々としている。
深遠の底がぐうと持ち上がる。
恐るべき影が吼える。
途方もなく大きな尾鰭が薙ぐと、潮水の巨壁が男を吹き飛ばした。
苦しみと泡の中から身を立て直し、劔を力の限り握り締めた。
男の血と汗が潮に解ける。

満身の力を込め、くじらに劔を放った。
穂先が皮にずぬと入る。
まだ足りない。
縄を引いてもう一度撃つ。
何度も何度も刃を入れる。
そしてぶびゅう、と血が噴出した。
くじらは よよお、うおよよ と吼えた。

それでもまだ足りない。
何回も何十回も何百回も、握り締めた柄を
くじらの体に突き立てた。
皮が裂けて、油がどろりと抜ける。
黒い水が赤く染まる。
はらわたが出る。
黄色いぬらぬらとした臓腑が飛び出る。
砕け散ったくじらの肉がそこ等じゅうに舞っている。
どぶどぶと赤黒い肝臓がはみ出した。
生白い膜が破れた。膨大な銀色の魚の破片が溶け出す。
くじらは、何千人もの人々が焼け死ぬような怖ろしい叫び声をあげた。
だが、男の手は止まない。



何度も何度もくじらを撃った。
何度も何度も撃ったのである。
男は勝ち誇った顔をしているようだった。
そうしていると、くじらの骨が見えた。
もうあたりは血で一杯になり、切り刻まれた真っ黒いくじらの皮が
べろべろと漂っていた。

だがそこで、くじらは、にやりと笑ったのである。

男は激昂したのであろうか。
おもむろに劔の穂先を折り取り、手に握り締めると
男がかつて羽指の頃にしていたように、くじらの顔に飛びついた。
怒り狂った腕は、何千回もくじらを抉り取った。
髄汁が溢れ出し、硬い鋼のような頭骨を一体何度殴っただろうか。

くじらの肉は剥げ落ち、血もすべて流れだした。
莫大な腸と心臓と肝臓と油液と、
黒いひもと赤いぬめりと白い塊が崩れ溶けた。

最後に白い骨だけになったくじらは、体を震わせてがらがらと大きく嗤った。


「おい、くやしいか、くやしいか」

「ああ、悔しい、これは御前に殺された仲間や家族の仇だ」

「おれをころしてなんとする、おまえはいきてなんとする」

「御前を殺す事だけが俺の生きがいだ、御前が死ねば後はどうでもよい」

「ははは、ではころすがよい、きがすむまで」



いよいよくじらの嗤い声は大きく、海を割るほどになった。

そうして日が昇る頃であろうか、
男と、男の船と、男の劔は海の底に沈んでいった。



誰もいない浜に大きな大きな、男の骸が流れ着いた。
誰もいない浜であったから、誰も弔うものは無かった。










江月

わたくしは、嗚呼、わたくしは。


彼の人のかおり、彼の人のにおい、
彼の人の手触り、彼の人の温もりが、


其れが、忘れられないのです。
どうしても、どうしても忘れられないのです。

わたくしの手に、指に、身体に、舌に、
じっとりと彼の人の汗を思い出すのです。


彼の人は、ほんとうにわたくしを愛してくださいました。

其の御心は、一切、何の所為でもなかったのです。
只々、此のわたくしだけを、想うて下さったのです。


それでも。
こんな姿に為なっても尚、彼あの人を、
本当にわたくし自身が愛していたのか、其れが判らないのです。


私は、ひたすらに彼の人のことを忘れられないだけ、なのではないかと。
その記憶に縋っておるだけなのかと。

わたくしはちっとも彼の人の事を、想ってなど遣れなかったのだと。

そうです、そうなのです。
そうですから、そうなのでしたから。
彼の人の腕の中でも、そう思っていたのです。


囁かれても、問いかけられても、
微笑まれても、口吸われても。
こんなにわたくしを愛してくれる御方を、
一体如何やって、彼の人を思っているのかが判らぬのです。


堪らなく怖ろしかったのです。
その愛を、彼の人を失う時より、もうそれを確かめることができなくなる、
彼の人の傍で、彼の人を何時いつか本当に愛する術を永遠に失ったことの方が。
怖ろしくて、怖ろしくて、悲しくて。

虚しかったのです。


わたくしは、泣きました。
憎かったのです。
この身に、彼の人への愛さえ知ることのできぬ己が、
此れ程までに、彼の人を忘れぬことができぬのが憎かった、辛かった。


…忘れたかったから、それが答えに成るのでしょうか。


月明かりの下で、


ざやざやと蠢く枯草と露葉の向う、

黒々と濡れた土と石と砂と泥の向う、

ぶずぶずと崩れる朽木の蓋の向う、

ぐにゃりと這い出るあの凄まじい臭気の向う、



艶を失った毛髪。ひび割れた爪。
淀んだ黒い汁。弛んだ灰緑の肌。 
口元に乾いた涎。漏れ出た屎尿。


死出虫と百足と竈馬と蛞蝓と蜚蠊と、
蛆と蛆と蛆と蛆と蛆と蠅と蠅と蠅と蠅と。


唯、
唯々忘れたい、其その一心なのです。


手に、指に、身体に、舌に、
そのかおり、そのにおい、
その手触り、その温もりを。

全身に浴びたかったのです。


何度も吐きました。
何度も逃げ出したくなりました。
何度も恐くなりました。



でも、
彼の人の記憶と二人きりのほうが、
わたくしには怖ろしかったのです。

真暗な桶おけの中で、
誰とも知れぬぐずぐずに腐った骸と戯れているときだけが、
わたくしを、わたくしを苛む記憶から遠ざけてくれたのです。

わたくしは…

誰を愛していたのでしょうか。

何かを愛せたのでしょうか。



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廃寺の庫裏に棲みついている老女が在った。
壁も天井も崩れ、荒れ果てた座敷の上に
土塊のように蹲る老婆が居たのだ。

その様は異様で、死人から剥ぎ取った体毛で編まれた
着物を纏い、大小の白骨がその周りに散らばっていた。

最早表情の判別も出来ぬ程に伸びきった垢塗れの白髪の隙間から
茶色い歯と鉤のように丸まった爪を見せて、この様に語ったのだ。

その女を愛した男が死に、幾年、幾十年、幾百年を経たのであろうか。

忘れる日まで、思い出す日まで、
化野を彷徨う姿が消えることは、屹度きっとないのだろう。



廃寺の庫裏に棲む、
嘗て、愛された女が話した事である。









霊ぶ短編

霊ぶ短編

くだんがすぐに死んでしまうのは、言葉を発するからである。 だから、血の乾かぬうちにすぐ轡を噛ませるのだ。

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更新日
登録日
2016-09-02

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  1. 長鳴き
  2. くじら塚
  3. 江月