愛され、愛する方法 【第二巻】
四十一 紀代の進路
A学院大学には、紀代が希望する学部がなかった。
大学を目指す高校生の中には二通りある。一つはどこの大学でも構わないから、できるだけ有名な大学に進みたいと思っている奴だ。背伸びしても入学すれば後は何とかなるさと言う楽観主義者だ。学部は将来就職に有利な所を選ぶ。
もう一つは最初から自分がやりたいことを決めていて、大学に入ってさらに勉強をしたいと思っている奴だ。世の中は複雑だし、人生には運と不運が付いて回るから、どっちが良いとは一概に決め付けられないのだ。人によっては本当に自分に合っていることを後から知る奴だっている。だから、とりあえず最善を尽くしてより良いと思われる大学に進むことが間違いとは言えない。
紀代は料理が大好きで、将来も食の道に関わって生きて行きたいと思っていた。それで、自分の偏差値を考えてあれこれ調べた結果、皇居の千鳥が淵に近い三番町にある東都家政学院大学の中の健康栄養学科が自分の希望に一番合っていることを知って、そこを受験することにした。ここなら、今の自分の実力で余裕で入れると思った。
入試は思った通りストレートで合格した。紀代は今住んでいる世田谷の太子堂町が気に入っていた。三年間も住んでいると、他に移る気がしなかった。それで、三番町まで三軒茶屋から通うことに決めた。
紀代は大学に入学することを実家の秀子や父親には話をしなかった。父親に言えば、多分経済とかそんな進路を勧められることが分っていたからだ。以前、
「紀代は勉強して国立東北大学に進めよ」
と言われたことがあった。自分の気持ちとしては東北大に入って経済を勉強するなんて論外だったから父親には連絡をしなかったのだ。
紀代は貯めたお金と今やってる講師料とで、大学に通う学資の手当ては出来ると思っていた。だから、親に相談してあれあれ言われるよりも、自分の好き勝手を押し通すことにした。
父親の代以前は女性の収入が少なく、学校を卒業したら気の合う男を見付けて結婚して旦那の収入で暮らす者が多かった。
だが、現在の若い世代、三十歳以下の世代について言えば、二〇一〇年には女性の可処分所得額が男性の可処分所得額を抜いてしまった。ありていに言えば、女も稼ぐ世の中に変ってしまったと言うことだ。若い世代の失業率だって、女より男の方が悪いのだ。職がなくてぶらぶらしている奴は男の方が多いってことだ。料理学校の講師で稼いで大学に進もうとする紀代はこのニュースに納得できた。高校のクラスメイトを見ると紀代の他は全員親のすねかじりだが、バイト料は女の子の方が稼ぎが良かった。
その春、紀代の大学生活はスタートした。自分が大好きな方向に進むことができたから、毎日が楽しかった。大学に入ってみると、高校の時よりも時間に余裕があった。
それで、紀代は料理学校の講師を続けることができた。学校の先生には講師の仕事を内緒にしていた。だが、先生の中に料理教室の講師をしている者が居て、バレてしまった。バレたからと言って別に不都合なことはないのだが、それを聞きつけた教授にお茶に誘われて全てを白状させられてしまった。
「隠しても同じような世界で生きているんだから仕方がないわよ。全部あたしに話してお気持ちを楽になさったら」
年配の教授は言葉巧みに紀代の生活を全部吐かせてしまった。紀代は全部話をしたので、何かの時に力になってもらえるものと思って居たが、それは浅はかだった。料理教室の講師は狭い世界で、気に入らない者の足を引っ張るなんてことがあるのだ。
そのことは現実になって現れた。大学一年生の秋に、紀代はしばらくぶりに料理コンクールに出場した。大勢の参加者に勝ち抜いて、紀代は最後の五人の中に勝ち残った。
最後の課題を終わって審査となった時、審査員の中に紀代が先日お茶に付き合った教授が居た。審査員は全部で七名、審査員長をその教授が務めていた。
審査の結果、紀代ともう一人の年配の婦人が最後に残り、審査員の投票で優勝が決まる段階だった。委員長の他は三対三、委員長の一票で最優秀賞が決定する。
「秋元さんはまだ若いですから、あたしは白鳥さんに一票を入れます」
教授の最後の一票で紀代は落とされた。教授は紀代のことを若いのに生意気だと思っていたのだ。
紀代は自分のできばえを見て、このコンクールは自分が最優秀賞を取れると確信していた。だが、
「世の中とはそんな素直には行かないものよ」
と紀代に一票を投じてくれた審査員の一人から聞かされた。
翻弄と言う言葉がある。翻弄とは自分が思うがままに相手をもてあそぶと言う意味だ。紀代を教えている教授がそんな気持ちを持っていたのかも知れない。
四十二 秘密の生活
紀代が通っている東都家政学院大学健康栄養学科で調理を教えている教授は五十代になったばかりの女性で、鳥居静江と言う名前だった。先日行われた大手食品メーカー主催、日本調理師協会協賛の料理コンクールの審査委員長を務めた女性だ。太った体質で、いつも暑苦しそうにしている彼女を学生達は陰で[ブタトリ]と揶揄していた。家に帰れば公務員の旦那と一男一女の主婦だ。太っているのに食べることが好きで、話しだすと直ぐにどこそこの料理が美味しかったと食べ物の話をする。
母親の肥満体質を引き継いで、息子も娘もデブで肥満体質だ。対照的に旦那は痩せてほっそりしていた。
鳥居は噂話好きで、人のことを悪く言う癖があった。初対面の時は優しそうで、親切な女性に見えるので、多くの者が騙されてしまうのだ。紀代も初対面ですっかり騙された。鳥居は依怙贔屓が激しく、特に可愛い系やちょっと綺麗な者に辛く当たり、虐める癖もあった。大学では邪魔になる同僚には悪い噂話しを流して居づらくして排除し、教授の椅子を掴んだ。だから、顔には出さないが、大学の同僚達はいつも鳥居を警戒していた。
そんなだから、紀代は鳥居の標的になってしまった。授業中鳥居は意識的に紀代を無視したし、先生仲間には紀代から聞きだした話に尾ひれを付けて悪い噂を流した。紀代は陰険な虐めや恨みに耐える経験を重ねて来たから、鳥居の虐めなぞ気にもしていなかった。
だが、そんな先生と何年もつき合わさせられるかと思うとうんざりもした。若いイケメンの先生の講座には大勢の女子学生が集まり、教え方が厳しかったり居眠りがでるようなつまらない先生の講座には学生が集まらないのはどこでもあることだが、紀代は料理が好きでこの学校、学部を選んで入ったのに、肝心の授業がいつも鳥居では面白くなかった。
「士道さん、東京に出るんだってね」
「ああ、ちとした用があってな」
「東京に出たら忙しいのか」
「いや、たいしたこたぁねぇよ。仕事が終わったら横浜のダチのとこでちょい遊んでくる予定だ」
「もし暇があったらでいいんだが、頼みを一つ聞いてくれないか」
「内容によるぜ」
「大したことじゃないんだ。実は二人目が秀子の腹の中に出来ちゃってさ、小さい息子の世話と重なって動けないんだ。それで紀代がどうしてるか、ちょっと覗いてもらえないか」
「なんだ、そんなことか。だったら喜んで会ってやるよ。紀代は綺麗になってるだろうなぁ、中学生の時から男を引き付けるものを持ってたからなぁ」
「おいっ、紀代に手を出すなよ」
「あんた、やっぱ父親だなぁ。そんなに心配ならあんたが行きゃいいじゃないか」
「僕も色々忙しくてな、それに最近紀代のやつ、電話もして来ないんだ」
「年頃の娘さんに説教ばっかたれるからじゃねぇのか」
「ま、そんなとこだ。頼んでいいんだな」
「ああ」
久しぶりに辰夫は士道を呼び出して飲んでいた。
「引っ越したとは聞いてないから、紀代は多分まだ三軒茶屋に居るはずだ」
そう言って辰夫は士道に太子堂のマンションの住所と電話番号を書いて渡した。
「あっ、もしかして堂島のオジサマ?」
「そうだ。ちゃんと覚えてたな」
「オジサマみたいないい男、忘れるわけないでしょ」
士道が紀代のマンションのチャイムを押すと、綺麗でこざっぱりした女が顔を覗かせた。
「上がってもいいのか」
「もちろんよ。あたしの秘密の生活、覗きにいらしたんでしょ」
「紀代はすっかりいい女になったなぁ」
お世辞ではなく、士道は本当にそう思った。
「素的なオジサマから見て、あたしいい女に見える?」
士道は苦笑した。
「学校、勿論大学に行ってるんだろ」
「はい。東都家政学院大学」
「何年生だ?」
「今年二年生になったよ」
「そうかぁ、早ぇなぁ」
紀代は士道にコーヒーを出して、大学のことや料理学校の講師をしていることなどを話した。
「オジサマ、夕方まで時間あるの?」
「ああ、夜横浜に行く予定だから夕方まではフリーだな」
「じゃ、あたしの手料理食べてくれる?」
「食わせてくれるのか」
「ええ。何か食べたい物ある?」
「オレは何でもいいぜ」
「じゃお任せね」
紀代は手早く八宝菜、麻婆豆腐、餃子などを作り中華スープも作って出した。
「早ぇなぁ、もう出来たのか」
「ありあわせで悪いけど。ビール? 紹興酒なら少しあるけど」
「ビールでいいよ」
士道は最初に八宝菜を口に入れた。
「うめぇな。こりゃ、いい味だ」
「あたし、パパに食べさせたことないから、男の人じゃオジサマが初めてよ」
「ってことはまだ彼は居ないのか?」
「片想いの人は居るけど、今どこにいるのか分からないのよ」
「へぇーっ。純愛だなぁ。紀代はまだバージンなのか」
「いやらしいこと聞くわね。まだバージンよ」
そう言って紀代は顔を赤くした。
「所で、その鳥居とか言う先生なあ、紀代は居ない方がいいんだろ」
「そうねぇ、一ヶ月か二ヶ月なら我慢できるけど、二年も三年も付き合いたくない先生ね」
「オレの方でいっぺん調べて見るよ」
「調べるって?」
「ああ、人間はな、どんな奴だって弱みってものがあるのよ。その先生だってな。ま、紀代はこんな話、聞かなかったことにしとけよ」
話はそれだけだった。
紀代は士道と一緒にビールを飲んだ。飲んでいる内に士道が紀代を見る温かい眼差しに紀代は改めて士道を好きになった。食事が終わって、ビールを片手に並んでテレビを見ている時、紀代は士道に凭れかかった。士道は紀代を逞しい腕でそっと抱きしめてくれた。
四十三 せつない思い
士道の太い腕の中にくるまって、紀代は心の安らぎを感じていた。紀代の父辰夫は、紀代が小さい時から事業にかかりっきりでいつも帰りが遅く、休む日もなかったからめったに紀代をこんな風にしてくれたことはなかった。紀代は生まれて初めて男の腕に包まれた心地良さを感じながら、一方で小学校卒業の時に別れた吉村啓のことを想っていた。
「啓君にこんな風にしてもらったら……」
紀代が大学生になっても思い続けている吉村啓は、中学を卒業すると、父親の勤めの都合で、会津若松から東京に引っ越したが、直ぐに両親と共にシンガポールに引っ越していたのだ。啓は高校は現地の日本人学校に通い受験勉強をして、高校三年の時に母親と一時帰国して日本の大学を受験したが、受験をした所を全て落ちてしまった。受けた学校は京大、慶応、東大だ。どの学校も入試レベルが高い。それで、高校を卒業すると単身日本に残り、浪人生活を始めた。翌年、また同じ所を受験した。京大、慶応、東大共に経済学部を目指していた。だから、東大は文Ⅱだから、法科の文Ⅰより少し易しい。だが、結果はかろうじて京大だけ合格し他は落ちてしまった。紀代が東都家政学院大学の二年生になった時、啓は京大経済学部に入学したから京都に住むことになった。だから、紀代がいくら探しても見付かるわけがなかったのだ。
「これいいな」
紀代は士道が首から提げているティアドロップ形の幅二センチほどの小さなペンダントに触った。ゴールドのチェーンに付けられた凝った象嵌が施された素的な厚みのない平たいペンダントだった。ペンダントには蓋が付いていた。紀代が蓋に気付いて開けようとすると、
「ダメだ」
上から士道の鋭い声がして、紀代は慌てて手を引っ込めた。
このペンダントは士道が若い頃に助けた宝石商がお礼にと言って特別に誂えてくれたものだった。ペンダントはロケットになっていて、中に士道が十年前に別れた恭子の写真が入っていた。写真と言ってもカメラで撮った写真を特殊なインクで写し取り焼き付けられた物だから、手で擦ったり水に濡れてもびくともしないものだった。恭子の写真は宝石商が特別にプロのカメラマンに頼んで撮影させたものだから、綺麗に撮れていた。士道はこの写真を誰にも見せたくなかった。可愛い紀代にだって絶対に見せまいと思った。
夜、
「帰るぜ」
と士道が立ち上がった。紀代は急いで玄関に行って士道の靴を揃えた。
「あら?」
靴に小さく[BALLY] と刻印されていた。スイスのBALLY のカジュアルシューズだ。紀代はデパートで BALLY製の紳士靴を見たので覚えていた。買えば一足五万か六万もするものだ。
「何だ?」
「いえ」
紀代は何も言わなかった。
士道は無造作に靴に足を入れると、
「じゃ、な」
と言って去っていった。
「素的なオジサマ」
士道の後姿を見て、紀代は呟いた。
士道の姿が見えなくなると、紀代はまた啓のことを想った。
「啓君、今どこにいるのかなぁ……」
そして、なんとも言えないせつない思いが押し寄せて、紀代は悲しくなった。
士道は横浜の「JINN」と言うクラブに居た。横浜に住んでいる仲間が三人、士道を入れて四人で飲んでいた。士道は店の女の子を呼ばず、男どうしで話をしていた。
「おい、二宮と木下、お二人さん忙しいかね」
「忙しいと言や忙しいが、遊ぶ暇くらいはあるぜ」
「千鳥が淵の東都家政学院大学にさ、鳥居と言う教授が居るんだが、ちょい調べてもらえんか? 急ぎじゃねぇから、空いた時でいいよ」
彼らが調べると言えば、単なる身元調査じゃない。それはお互いに分っていた。
「教授と言っても叩けば埃くらいは出るだろ。男か?」
「いや、五十位のババアだ」
「なんだ、ぞっとしねぇなぁ」
「金はオレの方で持つから、そのババアから毟り取るなよ」
「分ってますって」
士道は三日間ほど横浜で遊んで、郡山に戻っていた。鳥居のことを頼んでから一ヶ月が過ぎた頃、木下から士道に電話が来た。
「あの鳥居ってババアだけどな、とんでもねぇ助平ババアだぜ」
「収穫があったようだな」
「あのババア、週一でラブホに若けぇのを銜え込んでさ、ハッハやつてるぜ。旦那と子供が居るくせに」
「それで?」
「いつも連れ込む若けぇのを捕まえて絞り上げてやったさ。そうしたら、あのババア、食材を仕入れてる業者から闇のリベートを取っててさ、百から二百らしいがね、若けぇのもその業者の紹介らしい。それでよぉ、若けぇのにビデオカメラを持たせてハッハやってるとこを撮らせたのよ。ばっちり淫らなシーンが撮れててさぁ、ババアをカフエに呼び出して脂を絞ってやったらな、封筒寄越しあがって、これで勘弁してくれだとよ。オレの勘じゃ、歳は五十位だったな。もち、オレはそんなはした金要るかぁって突っ返してやった」
「そうか、こってりと絞れそうだな」
「ああ、脅したら、あのババア、今度はオレサマに色目遣いやがって」
「一発付き合ってやったのか」
「あんなババアとじゃ金もらってもやりたくねぇぜ」
木下は笑った。
四十四 教授の不倫
「士道兄貴から頼まれたやつ、そろそろやったるか?」
「ああ。ちょいひと働きするかぁ」
二宮と木下は連れ立って東京に出た。背広スーツ姿でビジネスマン風だ。
東都家政学院大学教授、鳥居静江は事務の女性から来客を知らされた。
「先生、高級外車のセールスマンだと言う方がお二人先生を訪ねて見えてますが」
「あら、あたしに?」
「はい。鳥居先生にお目にかかりたいと言っています」
「分ったわ。じゃ、応接空いてるかしら? 空いてたら応接に通して下さいな」
しばらくして、
「先生、応接にお通ししておきました」
と事務の女性は伝えた。
「では、お茶を三つ、お願いね」
「はい」
見栄っ張りの大学教授なんて野郎は高級外車のセールスマンと言えば大抵面会OKが出るのだ。二宮も木下もそんなことを知っていた。
事務の女性に案内されて、二人は堂々と応接に入り、ソファーにドンと腰を下ろした。ややあって、案内した女性がお茶を持ってきて、続いて鳥居が入ってきた。
事務の女性が出て行くと、木下が話を切り出した。
「突然お邪魔して申し訳ありません。お時間はよろしいのですか」
「そうね、十五分位にして下さいな」
「分りました。では早速ですが、我が社は本店が横浜にございまして、外車でもワンランク上の高級車ばかり扱っております」
そう言って木下と二宮は名詞を差し出した。時々この手で近付くので名刺を作ってあった。
木下が鳥居と話をしている間、二宮は携帯の画面をチェックするような仕草で携帯を開いて、密かに鳥居の顔写真を撮った。鳥居は横目で見ていたが何も言わなかった。
結局十五分間、木下が持参したジャガー、ベンツ、シトロエン、GM、アウディ、ボルボなどのカタログについて話を聞かせた後、
「もしお買い求めになられるなら、是非私にお電話を下さい。かなり良い条件でお世話をさせて頂きます」
と締めくくって話しが終わった。
「アハハ、あのババア、すっかり引っ掛かりやがって」
「携帯でバチバチ撮ったけど、文句一つ言わなかったな」
大学を出ると、二宮と木下は腹をかかえて笑った。
夕方、二宮たちは大学の前で張り込みを始めた。三日間尾行を重ねたが、江東区枝川の自宅マンション近くのスーパーで買い物を済ますと、真直ぐに自宅に帰った。
四日目に、動きがあった。鳥居は自宅とは反対の上野方向に車を走らせた。すると、水道橋の交差点を渡った所で停車して、サラリーマン風の若い男を乗せた。そのまま尾行をすると、JR山手線沿いの根岸にあるラブホに車を入れた。二宮がカメラを持って尾行をすると、二人はさっさとラブホの部屋をキープして中に入った。二宮は勿論要所をカメラで押さえた。
一週間経つと、また鳥居は前回と同じコースを辿り、水道橋で前と同じ若いのを拾って根岸のラブホに入った。根岸界隈はラブホが林立している。
三度目の時、エッチを終えてラブホを出る鳥居の後を付けると、水道橋で男を降ろして自宅方向に走り去った。前回と同じパターンだ。二宮たちは降りた男の後を追って、本通から狭い道に入った時、木下が男を捕まえた。
「ちょい、顔を貸してくれよ」
そう言うなり木下は男をパンチで蹲らせ、車に乗せ手足を縛って浅草橋の雑居ビルのガレージに車を入れて、男を連れ出して事務室のようなガランとした空き部屋に連れ込んだ。財布の中の免許証を見ると、佐藤誠、生年月日から三十五歳だ。名刺を見ると、日本橋の商社勤めで営業部の主任となっていた。免許証から住所も分った。木下が自分の手帳を取り出して書き写した。
「おいっ、質問に答えろよ。素直にしてりゃ、無傷で水道橋に返してやるぜ」
男は思った以上に素直だった。
「セックス好きの先生でさぁ、あの年で二発もやらされる時があるんですよ」
そう言いながら、品川の食材卸の会社の社長に頼まれて週一くらいの間隔で教授の相手をしていると言った。その食材会社は鳥居教授の口添えで、以前取引をしていた会社に代わって、ここ数年東都家政学院に学生食堂用と教材用の食材を一手に納入しており、かなりの取引額になっており、闇でリベートを教授に渡していると白状した。現金は自分がエッチに誘われた時にラブホで手渡していると言った。
「相当脱税してるな」
と二宮が言うと、
「あなた方、もしかして税務署の方ですか?」
と聞いたので木下が、
「まぁそんなもんだ」
と答えた。
「おいっ、この次に鳥居とエッチする時になぁ、このビデオカメラで鳥居のよがり声とエロいシーンをだな、ちゃんと撮って来い。言われた通りやらなかったらな、あんたの不倫を奥さんと勤め先にぶちまけてやるぜ」
と脅した。男は、
「税務署でそんなもの必要なんですか」
と聞き返したので、木下が無言で睨み付けると素直に二宮が差し出した小さなビデオカメラを受け取った。奥さんと言ったのは木下のはったりだ。男がエンゲージリングを嵌めていたからそう言ったまでだが、それが当たった。
次の週、前回と同様に鳥居は男を拾ってラブホにしけ込んだ。ラブホから出て、鳥居が男を降ろして走り去ると、男は木下たちが居るはずだとキョロキョロ左右を見た。
「おいっ、こっちだ」
男は貸したビデオカメラを素直に返してよこした。二宮が映像をチェックすると鳥居が男に組み敷かれてひいひい声を出している様子がリアルに撮影されていた。素っ裸になって男と絡まっている鳥居の顔も写っていた。
「済みません、オレの方もこいつ女房に見せられると困るんですが」
「当たり前よ。あんたはもうオレたちの仲間だからさぁ、そんな悪いこたぁしないぜ。安心しな」
男は安心した顔で去って行った。
「オオバカの単純野郎だな」
去っていく男の後姿を見て二宮は笑った。
四十五 教授の涙
「先日お邪魔させて頂きました高級外車ディーラーの筑紫と申します。鳥居先生はお席にいらっしやいますか」
「只今授業に出ておりますが、もう直ぐに席に戻ると思います。このままお待ち頂けますか」
「では十分後にもう一度電話を致します」
木下は筑紫と言う偽名で名刺を作っていた。横浜のディーラーは仲間の息がかかった所で実在している。
十分後に電話を入れると、鳥居は席に戻ってきていた。
「先生、先日はお話を聞いて頂いてありがとうございました。今日は先生に耳寄りなお話を持って参りました。お話しだけでも聞いて下さいませんか」
「どうしようかしら? あなたたちが耳寄りな話しと言ってもお高い車の押し売りでしょ」
「とんでもありません。先生がお聞きになられたらきっと喜ばれるお話しです」
鳥居は迷っている様子だ。
「先生、背筋がゾクゾクするようなお得なお話ですよ」
木下こと筑紫に背中を押されるように、
「じゃ、三十分以内なら」
と鳥居はOKをした。
「先日はそちらの応接にお通し下さいましたが、手前どもにはもったいない場所で落ち着きませんでした。どうでしょう、学校のそばの通りに出た所に[胡桃割り]と言う洒落たカフェーがありますよね。先生ご存知ですよね」
「そこなら知ってます」
「では、そこでお待ち致します」
木下と二宮が待っていると、しばらくしてドアーが開いて、鳥居が入ってきた。木下は手を挙げてこっちこっちと合図した。鳥居はそそくさとやってきて、木下たちの前に壁を背に座った。やや薄暗い隅のテーブルだ。鳥居が腰掛けると、ウェートレスがやってきた。
「先生、何になさいます」
「そうねぇ、モカをお願い」
「モカを一つと僕のをお代わり」
「お忙しい所済みません」
木下が雑談を始めるとコーヒーが届いた。
木下はすっと席を立つと、鳥居の横に座った。鳥居はちょっと腰を浮かすようにして少しずれた。木下は構わず鳥居に密着して座り、自分の腿を鳥居に押し付けた。鳥居の温かい体温が木下に伝わってきたが、鳥居は木下のももを押しやるでもなく、そのままにしていた。鳥居の座った席は木下と反対側は壁だ。だから、壁と木下に挟まれたような具合だった。向かいの席には二宮が座っていた。
「耳寄りのお話とやらを早く聞かせて下さらない」
「じゃ、始めさせて頂きます。おいっ、渡辺君、あれを出してくれ」
渡辺こと二宮は先日佐藤に撮影させた映像の入ったビデオを取り出して木下に渡した。
木下は、
「秘密の映像ですから」
と言いながら、鳥居の頬に自分の顎が触れそうな感じで鳥居に寄り添って、ビデオの再生スイッチを入れた。音は小さく絞ってあるが、ちゃんと聞き取れる程度だった。
ビデオの映像と共に突然、
「あぁぁぁ、いい、そこ、そこよ、あぁぁぁ」
と声音が飛び出た。映像の中では着けていた物を全部脱ぎ捨てて素っ裸になった鳥居がベッドに横たわり、その上に佐藤がかぶさって、鳥居の足は佐藤の臀部に巻きつき、佐藤はハッハと鳥居を攻めている。
木下はそこで再生スイッチを切ると、
「もっと見たいですか」
とニヤニヤしながら鳥居の横顔を見た。
「あらぁ、ポルノ女優にしては老けてるわね。誰かしら? 随分なポルノだわね。あたし、そんな趣味はありませんわよ。失礼ねぇ」
と鳥居は木下を睨んだ。
「僕の友人にルポライターが居ましてね、この映像を是非使わせてくれってせがまれているんですよ。彼が書いた記事はわりと週刊誌に人気がありましてね、仮にですよ、もし先生が僕の立場だとして、先生なら週刊誌にいくら位で貸しますか? ルポライターが受け取った金の一部を先生にアドバイスして頂いたお礼にお支払いしたいと思っているんですが」
木下は鳥居の横顔を見た。鳥居は二宮の方を見ているのだが、額が汗ばんでいた。
「あなた、あたしにそんなことを聞いても無駄よ。どうしてあたしみたいな素人に聞くの」
木下は、ビデオの中で悶えている女が、横に居る鳥居なのに、鳥居は自分だと気付いていないのかと思うほど、鳥居はポーカーフェースだ。だが、木下は長年の勘で、鳥居は相当にあせっていると読んでいた。
「先生、だめですかぁ。困ったなぁ、せっかく先生に大金が転げ込むお話を持って来ましたけど、残念だなぁ。じゃ、だれか別の先生にでも見て頂いてアドバイスを頂くより仕方がないですね。おいっ、渡辺、こんないい話を持って来たのに、先生にあっさり断られちゃったな。仕方ないなぁ、権藤先生に当たってみようか」
権藤先生は鳥居と同じ東都家政学院大学の教授の名前だった。
「先生、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
木下はわざと鳥居のふくよかなバストに頭が摺れるようにして謝った。
と、鳥居が木下のももに自分のももを押し付けてきて、
「改めてちゃんとお詫びをしてもらいますよ」
と答えた。
「えっ?」
「あなた位の兵なら、意味がお分かりでしょ」
鳥居は色っぽい目で木下を見た。彼女は明らかに木下に誘いをかけているのだ。
「先生、済みませんでした。じゃ、これから権藤先生にアポ取って見てもらいます。じゃ、僕等はこれで失礼させてもらいます」
木下は二宮の横に席を移して、鳥居に二人揃って頭を下げた。
「待ってぇっ!」
突然鳥居が木下たちを制した。
「もう一度良く見せてもらってから、あたしがアドバイスしてあげますよ」
木下は、
「いえ、先生には断られてしまいましたから、もういいんです。別の先生に見てもらいます。おいっ、渡辺、いいだろ」
と二宮の方を見た。二宮は、
「鳥居先生がもう一度良く見てくれるそうですからその後でもいいんじゃないですか? ねぇ、筑紫先輩」
と鳥居の方を見た。
「お前がそう言うなら、鳥居先生にもう一度見て頂こうか? 先生、テレビに映して大きい画面で見てくれますか」
「いいわよ」
「じゃ、もう少しお時間を頂けますよね」
「どうぞ」
「渡辺、近くのホテルに部屋を取ってくれ」
「分っかりました」
二宮は携帯で九段下近くのGキューホテルにツインの部屋を予約した。赤坂界隈のホテルより安く、人目に付き難いことも計算に入れていた。
「じゃ、先生、ビデオとテレビをつなぎました。これから上映しますよ」
「どうぞ」
ホテルのチェックインを済ませて、三人で部屋に入ると、二宮は部屋を暗くしてビデオの再生スイッチを入れた。テレビのボリュウムは少し大きめにセットした。
先ほどカフェーで見せた画面に続いて延々と佐藤と鳥居が絡み合いセックスをしている画面が続いた。ビデオはベッドの斜め後方に隠してあるらしく、絡み合っている二人のやや後方の角度から撮影されていた。佐藤はビデオを意識して、鳥居の下半身をカメラ側に向けて、鳥居の股を大きく開いた。それで、鳥居の陰部やヘヤーまで丸映しになっている場面も出た、佐藤の膝に跨って二人とも座った姿勢でやっている場面では、鳥居の放心した顔が正面ではっきりと捉えられていた。
「佐藤もなかなかやるなぁ」
木下は心の中で呟いた。セックス中の鳥居の喘ぎ声は部屋中に響き渡っていた。
鳥居の顔がはっきりと見えた時、
「あらぁ、この女優さん、あたしに良く似てるわねぇ」
と鳥居が呟いた。
「世の中、そっくりさんが居るものですねぇ」
と二宮こと渡辺が相槌を打った。鳥居はびっしょりと冷や汗をかいているのを木下は見逃さなかった。画面の中の鳥居が絶頂に達して大きな声を出した所で画面は終わっていた。
「先生、ご覧になって如何ですか? どれくらいの金で貸すか大体の金額を教えてもらえませんか?」
「そうねぇ、あたし相場は分りませんけれど、五十万位かしら」
「えっ? 先生、それはないですよ。今は動画配信だって普通の時代ですよ。少なくとも二百万位はもらわないとつまらないですよ」
「そうなの? でしたら三百万位でどうですかと先方におっしゃってみたら?」
「筑紫先輩、じゃ、先輩の友人のライターさんに三百五十で交渉してもらえます? 百五十は僕等の取り分、二百は先生への謝礼ってことで」
「先生、謝礼は二百万でもいいですか?」
鳥居は黙り込んで考えている風だった。
「筑紫さん、この映像、あたしが買います。三百五十万で」
「えっ? 先生が?」
「そう。女優さん、あたしに良く似ているわよね」
「はい、鳥居先生ですと言われたら信じてしまう位似てますねぇ」
「ですから、こんな映像が週刊誌に載ったり、動画で配信されたら、あたしと勘違いをされる方がきっと居ますよね。あたしとしてはそれは困ります。ですから、あたしに買い取らせて下さらない」
鳥居の顔は紅潮していた。
「先生、この映像、コピーを何本か取ってあります。一本三百五十として、コピーが十本あれば、三千八百五十万になりますが、先生コピーも全部買い取られるんですか」
木下はしゃーしゃーとそう言ってのけた。
「えぇっ? そんなぁ……」
鳥居は絶句し、益々紅潮し、目に涙を溜めていた。
四十六 人の口に蓋はできぬ
「筑紫さん、お願い。一千万で何とか譲って頂けません」
鳥居は急に低姿勢になり、筑紫の前に跪いて手を合わせた。
「先生、そう言われてもなぁ。このビデオは僕の友人が手に入れたものですから、一千でOKしてくれるかどうか」
「お友達なら何とかお話しをして下さいません?」
「困ったなぁ。じゃ、友人をここに呼びますから直接頼んで見て下さい。渡辺君、山本君に電話して、ここに来れないか頼んでくれんかなぁ」
渡辺こと二宮は、
「じゃ、ちょっと出て来ます」
と言って部屋を出た。二宮は直ぐに佐藤誠に電話を入れた。
「あんたが相手をしてやった鳥居だけどな、ビデオのことであんたに電話をするか会ってくれと言うと思うよ。それでだ、鳥居が何と言おうとあんたは知らぬ存ぜぬで突っ張ってくれ。もし、あんたが盗み撮りしたなんてアホなことを言ったらだな、分ってるな。あんたの女房と会社にビデオを送りつけるからあんたは破滅だ。いいか、鳥居が何と言おうと自分は全く知らなかったと言い通せよ。分ったな」
「はい。分ってます」
二宮は鳥居が佐藤に問い合わせるのを予測して手を打った。
佐藤との電話が終わってから、ヤクザ仲間の山本こと杉浦に電話をした。例のビデオは杉浦も見て知っていた。
「俺たち三千八百五十でコピーと元の映像をまとめて売ると話をしてるんだがな、ババアは一千で全部譲ってくれと木下を拝み倒そうとしてるのよ。それでだ、あんたの持ちものだから、あんたと直接交渉してくれと言ってんのよ。悪いけどよぉ、九段下のGキューホテルの305号室に来てくれんか。それとだ、ビデオに映ってるのはババアだがな、似てるけどババアじゃねぇと言う設定で話をしてるんだ。ここんとこはまちげぇるなよ。映像がババアなら、一つ間違えると恐喝ってことになるがな、似てるけど別人の映像なら売買契約の問題で恐喝にはならんのよ。そこんとこが大事だからよ」
「分った。直ぐに行く。そうだなぁ、横浜からじゃ道路が混んでるな。一時間は見てくれ」
「じゃ、一時間後な」
「筑紫さん、山本さんに電話が繋がりました。直ぐに出るそうですが、今から一時間はかかるそうです」
それを聞いて筑紫は鳥居に、
「先生、友人が一時間後に来れるそうです。その間どうしますか」
「分ったわ。じゃ、一時間後、あたしがここに来ます」
そう言うと鳥居は部屋を出て行った。
ドアを開けて鳥居がエレベーターに乗るのを確かめてから、
「ババアが戻ってくるまでどうする? メシでも食おうか」
木下が言うと、二宮は同意した。二人はホテルを出て、近くの中華料理屋に入り、ビールを飲んで、メシを食った。
「さっきよぉ、佐藤のヤロウに電話して口止めしてやったよ。ちょい脅したら素直に聞いたぜ」
「鳥居のババア、今頃佐藤と電話でやりあってるだろうなぁ」
と木下は笑った。
二宮が予想した通り、鳥居は佐藤に電話をしてから、
「盗撮しただろう」
とラブホに電話を入れた。だが、佐藤もラブホもそんなことは全く知らないことだと突っ撥ねた。鳥居は益々不安になった。
一時間が過ぎて、鳥居は木下たち三人と話し合っていた。
「先生、こいつらはオレに勝手に三千八百五十なんて数字を出したらしいですけどね、オレは五千万はもらいたいと思ってるんですよ。この際、五千で手を打っちゃもらえませんか? モデルの女は先生にほんと良く似てますねぇ。太った身体つきまで似てますよ。これじゃこのビデオを見たやつが先生を知っていたら、モデルの女が先生だと間違いなく勘違いしますな」
「そうなのよ。あたし、こんな物が人目に曝されるのを許せないのよ。あたしと間違えてスキャンダルにされたらたまりませんものね」
鳥居は落ち着きを取り戻していた。
「山本さんとおっしゃったかしら? お願い、五千万はとても出せる金額じゃありません。何とか一千万で譲って頂けません」
すると急に山本は厳しい顔つきになった。
「黙って聞いてりゃ、先生よぉ、あんたそれで済むと思ってんのか? 金がねぇならあんたに売らないだけよ。オレの方は買い手が居るからよぉ、この映像をポルノサイトで配信すりゃ、世界中から注文が来ますぜ。メディアに売り込んでも買いますぜ。先生が買えないならもう用はねえな。おいっ、筑紫、オレは帰るぜ」
と山本こと杉浦は帰る素振りを見せた。
「待ってぇ、お願い。お金が足りない分、何でもしますから、どうか譲って下さい」
鳥居は山本に土下座して頼んだ。
「そこまで言うなら仕方ねぇ、あんたがオレが言うことを何でもするって条件で一千万で手を打ちましょ」
鳥居は、
「何でもします」
と約束をした意味を全く理解していなかった。杉浦は鳥居を横浜に連れて行って、鳥居に金持ちの旦那相手に売春をさせるつもりだったのだ。最近は熟年AVも流行っていて、杉浦は鳥居をモデルにしてAVも撮ってやろうと考えていた。遂に鳥居は抜き差しならない泥沼に踏み込んでしまった。鳥居にとって、地獄が待っているのだ。
「じゃ、先生一千万ができたら連絡を下さい。その時に元の映像とコピーを全部お渡しします。これは売買契約ですから、印鑑を忘れずに持ってきて下さい。先生が何でもしますと言う条件は付帯事項になります。それでいいですね」
「はい。お願いします」
鳥居はビデオを買い取れることに夢中になり、頭の中が真っ白になっていた。
「先生、ビデオは既に何人かの者が見てます。人の口に蓋は出来ないってことご存知ですよね。ビデオを買って頂いた後で、噂話が流れたと文句を言わないで下さいよ。僕等には関係がないことですから」
鳥居が帰って行く時に木下は釘を刺した。
四十七 一千万円払ったのに……
「先生、ビデオの代金持って来たそうだな」
「どうぞ、確認して下さい」
「なんだこりゃ?」
「銀行振り出しの横線入り小切手ですよ」
「そりゃ、分っとるがな。現金、現金でねぇと受け取れんよ」
「この小切手は現金と同じですよ」
「ばか言えっ、現金ならどこに持って行っても使えるが、この小切手じゃ直ぐに換金するには振り出した銀行の窓口に行かんと換えられんだろ」
「それはそうですけど」
「いいか、先生、直ぐ銀行に行って現金に換えて持ってきてくれ」
鳥居は一千万円用意できたと山本こと杉浦に電話をしてきた。それで、鳥居と杉浦は先ほどカフェ胡桃割りで会っていた。
鳥居はしぶしぶ銀行に行って現金に換えて持って来た。
「じゃ、この契約書に署名捺印してくれ」
百万の束が十束あるのを確かめてから、杉浦は契約書を持ち出して、鳥居に署名捺印させた。
「これで契約は終わりだ。ビデオ映像をコピーした8GBのSDカード十枚、元の映像はこのビデオカメラの内臓メモリーに入っとる。これで全部や。ビデオカメラはおまけにあげますぜ。持って行ってくれ」
「本当にこれで全部ですね?」
「当たり前だろ。ウソついてどうする。これで全部だ」
鳥居は小さなビデオカメラを見た。パナソニックでTM60と言う型番が印刷されていた。TM60はフルハイビジョンで一回の充電で三時間は撮れる代物だ。鳥居は再生スイッチを操作した。するとこの前見た厭らしい映像が出た。
「確かに受け取りました」
鳥居がそう言うと
「これで売買は完了ですな」
と杉浦が手を叩いた。
「それでだね、先生、契約が成立した所でこいつにも署名捺印をしてくれよ」
「これは何ですか」
「委任状だよ。ここに書いてある通りだよ」
「何の委任状?」
「何でも委任致しますと言う白紙の委任状さ」
「あなた、この委任状は約束してませんよ」
「ばか言えっ、こっちの売買契約の付帯事項に何でも致しますと書いて約束しただろうが」
鳥居は大学の教授だが、こんな取引には疎かった。それで、杉浦に言われるままに署名捺印をした。
「先生の印鑑は実印ですな?」
「はい」
「じゃ、これで完璧だ」
鳥居は頭の中が真っ白になっていて、契約の相手も確かめていなかった。契約の相手は㈱三興商事、代表取締役花田清兵衛となっていた。花田は昔はヤクザの若頭だった男だ。
「さてっと、先生明日の夜身体を空けておいて下さい」
「明日ですか?」
「そうだ。逃げ隠れしても無駄だよ。オレたちは人探しが得意でね、日本中のどこに隠れていても必ず炙り出すからよぉ」
鳥居は少し怖くなった。
「分りました。どこで待ち合わせますか」
「夕方六時に校門の前で待ってるよ」
翌日鳥居が授業を終わって、帰り仕度をして校門の外に出ると、白いベンツが停まっていた。鳥居を確認すると、さっとドアーが開いて、杉浦が手招きした。
鳥居が乗り込むと、ベンツは直ぐに高速に上がって横浜方面を目指して湾岸道路を走った。
「先生、今日からオレたちの仕事を手伝ってもらいますぜ。一週間に二晩だけだな。それでだ、あんたは仕事の時は鳥居静江じゃなくてよぉ、白石幸世、白い石に幸せな世の中。分ったな?」
「偽名ですか?」
「偽名じゃなくてよぉ、あんたの源氏名だよ。仕事をする時は幸世になり切ってくれ。もしもだ、知り合いに会ってもだ、鳥居さんなんて知りません。似ているかも知れませんがわたしは白石で別人ですよてな具合にすっとぼけてくれよ。分ったな」
「分ったわ」
ベンツはMM21近くの大きなホテルに停まった。杉浦に代わって、恰幅の良い一見真面目な紳士風の男にバトンタッチされた。男は、
「白石さん、今日からお仕事をお願いします。簡単に説明しますと、三興商事の接客係です。お相手は世の中で名の通った方々ばかりですから、失礼のないようにお願いします。お仕事が終わったら、東京までお送りします。お客様がエッチなことをご希望される場合がありますが、絶対に拒否なさらないようにお願いします。ではこちらへ」
紹介された紳士は稲村と名乗った。稲村は白石こと鳥居を丁寧にエスコートして、年配の男に引き合わせた。
「白石と申します。よろしくお願い致します」
「白石さんですか。今夜はゆっくりできますか?」
「はい」
鳥居は自然にこんな応答をしている自分に驚いていた。自分はもしかして、こんな仕事に合っているのかしらと思った位だ。
ホテルのバーでジャズを聴きながらその男と過ごした後、鳥居は男の部屋に連れて行かれ、結局セックスまでつき合わさせられた。だが、元々セックス好きの鳥居は男と一緒にスゥィートの贅沢な部屋で燃えた。
セックスが終わると、男は丁寧に礼を言って鳥居をドアーまで見送ってくれた。鳥居は杉浦に教えられた携帯に、
「終わりました」
と告げると、
「エントランスに車を付けておくから乗ってくれ」
と指示された。
夜中の二時、鳥居は今日一日の出来事を思い出しながら流れる外の夜景をぼんやりと見ていた。黒塗りの車は鳥居の住いの近くで停まり運転手が、
「ご苦労様」
と挨拶して走り去った。
四十八 幸せの形
「あのババア、意外と旦那衆の評判がいいんだ。分らんもんだなぁ」
「オレも評判がええと聞いてるぜ。顔はダメであのでぶっちょのどこがいいんだろ」
鳥居こと白石はあれから五人の旦那の相手をしたが皆揃って、
「良かったよ」
と感謝されたのだ。三興商事は政財界の噂話、ゴシップを掲載するいわゆる[ごろつき新聞]を企業に毎月一口三百万で買い取らせていた。企業側ではあらぬ悪い噂を流されるのは困りもので、仕方なく付き合いで会員となり一口か二口分の金を毎月支払っていた。現在五百社以上を抱えていたから、三興商事はそれだけで月々二十億近くの金を集めていた。
それで、会員になると、特典で役員が頼めば随時必要な時に接待係りの女性を回してくれるのだ。鳥居はそんな接待係りをさせられていたのだが、横の連絡は全くなく、一体何人の女性がそんな仕事に就いているのか分らなかったし、窓口は旦那への紹介役の稲村と杉浦だけで、後は送り迎えをしてくれる運転手くらいのものだ。こんなシステムだし、三興商事と旦那側は了解の上でのことだから、濡場では一切金銭の授受がなく、売春で摘発される心配もなかった。
鳥居には金は一切支払われなかった。ビデオ映像の売買で鳥居は杉浦に負い目があったし、呼ばれた夜は高級車の送り迎え付きで贅沢な雰囲気で男と遊べるので自分の金を使うことはなく、逆に客がプレゼントだと言ってアクセや化粧品を買ってくれたりするからこの仕事を負担に感じることはなかった。そればかりか、今は杉浦からの連絡を楽しみに感じていた。
旦那と会う場所はホテルだったり、高級なマンションだったり、別荘と思われる屋敷だったりした。鳥居は旦那の身分などを一切詮索するなときつく言われていたから、誘われるがままに素直に応対して余計なことをしないようにしていた。
二回目の客の旦那は八十歳に近いと思われる老人で、ちょっとやそっとの刺激ではあそこが立たなかった。それで、鳥居は何とか旦那に良い想い出を作ってやろうと頑張って、自分なりに一所懸命に愛撫を続けた。鳥居は自分も旦那に入れてもらいたい気持ちもあった。その甲斐があって、奇跡的に旦那と一つになれた。その時の旦那の嬉しそうな顔は今も忘れていない。
鳥居には経験があった。鳥居の亭主は役人で、子供が二人、まだ幼い頃に大病をして二年間入院生活をしていた。二年後に回復したのはいいが、退院した時、男の機能を失っていた。鳥居自身は若い頃からセックス好きだ。それで、精力が付く料理を色々研究して亭主に食べさせ、夜はちゃんとしてもらえるように励んだ。だが、どうにか入れてもらえるのは十回に一度ぐらいで、最近は全くダメでそれで食材会社の社長の紹介で佐藤との逢瀬を楽しむようになったのだ。
四回目の旦那はサディスティックで乱暴な男だった。旦那はホテルの部屋に誘い込むと、いきなり鳥居の衣服を引き裂いて、乳房を痛めつけ、ひどい格好、体位で男のものを乱暴に突き刺して来た。散々痛めつけられて鳥居は泣いてしまったが、それが男に火を点けてしまい、腰が立たなくなると思う位攻められて、終わった時にはとても立ち上がれず、床を這いずってシャワーを浴びに行った。そんな格好を見て、鳥居の尻を男は蹴っ飛ばした。だが、不思議なもので、鳥居はそんな乱暴な扱いを嫌だと感じていない自分に気付いた。
「もしかして、あたしドエムなのかしら」
シャワーを浴びながら鳥居は呟いていた。
男はセックスを終わると急に優しくなり、引き裂かれたブラウスやスカートの代わりにとホテルと同じ建物に入っているブティックから新しいものを買って来てくれた。
「あんた、Mだな。わしの攻めに良く我慢したな。大抵の女は驚いて泣いて逃げ出すんだ。お陰で久しぶりにわしは充実した気持ちになったよ」
男はそんな風に言ってくれた。事実鳥居も男に乱暴に攻められている間に次第に頂点に向かい、大きな歓喜の声をあげて頂点に達したが、その時同時に男も果てたのだ。
鳥居は子供の頃からデブで、ブタとかデブと陰口を叩かれた。だから、自分の顔や容姿に劣等感を持っていて、受け持ちの学生の中でも可愛い子、綺麗な子がいると憎たらしくなってつい虐めてしまうのだ。
だが、三興商事の紹介で今まで出会ったどの旦那も紳士的で、鳥居の容姿のことには一切口にしなかった。
鳥居は大学教授だ。それで文化や芸術についてもある程度広い知識を持っていた。だから、旦那に世間話として美術館や芝居の話を聞かされた時、上手く話を合わせることができた。そんな所も鳥居の評判を良くしていたのかも知れなかった。
女が幸せだと感じる場合は人それぞれだが、鳥居は今色々な旦那の相手をする仕事に幸せを感じていた。会った男たちはとても大事にしてくれる。あのサディスティックな性格の旦那だって、最後には良い形で別れた。
「あのババアにそろそろあれをやらしたろか」
「そうだな、五本位やらそう」
杉浦はAV担当の小森と言う男と熟年AV制作の打ち合わせをしていた。
「先生、こんどな、あんたにモデルをやってもらうぜ」
「モデルって何の話?」
「今度の日曜日、車を出すから、乗ってきてくれ。あんたの自宅のそばのファミレスで待ってるからよぉ。言われた通りにやれよ」
鳥居は納得してなかったが、杉浦に言われると断れなかった。
横浜の関内駅に近い住吉町の雑居ビルの地下のスタジオで、熟年AVの撮影が始まった。 鳥居はいきなり、
「素っ裸になれ」
と命じられて戸惑ったが、相手役の男優が手馴れた奴で、言われた通りにやった。淫らなシーンの連続で、一本撮影が終わると鳥居はくたくたになり、食事も喉を通らないくらいだった。ビデオカメラを陰部に向けられてアップで撮られたのにはいささか嫌気がしたが、やらされているうちに、次第に慣れて、相手役の男が言う通り実際のセックスでは有り得ない格好で演技をやらされた。
次の日曜もその次の日曜も続けて撮影があった。普通なら出演料としてある程度の金をもらえるのだろうが、鳥居の場合は全てただ働きをさせられた。
五本目を撮り終えた時には、鳥居は疲労感を感じて二日ほど寝込んでしまった。撮影中はまるで格闘技をやっているようで、鳥居は10キロ近くも痩せてしまったのだ。
週二回の夜の仕事は続いていた。十二回目に会った旦那は、鳥居が学会で良く顔を合わす医師だった。大きな病院の内科部長をしていた。稲村に紹介されたとき医師は驚いて、
「もしかして鳥居先生じゃありませんか? こんな所で奇遇だなぁ」
と驚いた。だが、
「あたし、白石と申します。先生のお知り合いの方とそんなに似てますか」
としらを通した。医師は最初は鳥居だと思って訝ったが、その内鳥居こと白石を鳥居とは別人だと理解したらしく、三興商事が持っている金沢八景にある別荘でセックスをした時には、医師は白石幸世として愛撫をした。
以前から鳥居は自分が鳥居だと分る持ち物は一切所持していなかった。持っているものと言えば、[三興商事 白石幸世]と書かれた名刺と僅かな現金、それに白石名義で作ったクレジットカードだけだった。
「クルーザーで横浜の夜景を楽しみませんか?」
医師は鳥居をクルーザーに乗せて東京湾を一回りした。波は静かだったが、鳥居は珍しく船酔いをして、ぐったりしてしまった。鳥居は太っているから重い。金沢八景に戻ると、医師は知人を呼んで別荘に鳥居をどうにか担ぎ込んだ。
鳥居がベッドで苦しそうにしている間、何もすることがなく、医師は鳥居の持ち物を見てしまった。だが、財布の中には名刺と僅かな現金、白石幸世のカードだけしかなかった。それで、医師は横たわっている女は鳥居とは別人だと信じた。
鳥居が東都家政大学で教えている間に、教師の間で、
「鳥居先生がAVに出ているそうです」
と陰で囁かれている噂を耳にした。もし本当ならスキャンダルになり、鳥居は大学には居られなくなってしまう。だから、噂をする者もあくまで陰口にとどまっていた。
だが、遂に鳥居は学部長に呼ばれて、会議室で学生が持っていたと言うAVを見せられた。
「これは先生じゃないですか?」
学部長は険しい顔で鳥居を問い質した。もちろん鳥居は全面否定した。
AVの話は、学部長は問題にしなかった。だが、運命とは悪戯なものだ。鳥居が一千万で買い取ったはずの映像写真が週刊誌に掲載され、記事の中では鳥居を特定する文言がなかつたとは言え、記事がそれとなく鳥居を示唆していたので、今度は学部長も自分の範囲に抑えていることができなくなり、遂に会議の話題にも持ち上がってしまった。
「先生、先生を疑っているわけじゃありませんが、こうなったら異動に応じて頂くか、辞表をお願いせざるを得ないですな」
学部長に迫られたが、鳥居は応じなかった。
「それを認めてしまいますと、ほんとうにあたしだと言うことを証明したような形になりますもの」
そんな騒ぎをしている時、突然大学に税務調査が入って大騒ぎになった。
鳥居が以前から食材の調達に絡んで闇のリベートを受け取っていたことが明るみに出たのだ。鳥居と食材会社の社長は贈収賄と脱税容疑で参考人として警察に呼ばれた。
鳥居はこともあろう杉浦に相談した。
「先生、人間はな、失う物、守らなきゃならんものがなければ強くなれるのよ。あんたなぁ、大学教授なんて地位にしがみついていないでよ、スパッと辞めなよ。そうすりゃよ、近所のオバサンたちに白い目で見られるかも知れんがな、警察にしょっ引かれてもどうってことはねぇんだよ」
杉浦はあっさりと言い切った。
警察に出頭する日に、鳥居は学部長に辞表つまり依願退職願いを出した。この時、鳥居は自分の家族だけは守りたいと思った。
四十九 地獄への階段
[東都家政学院大学、健康栄養学科教授鳥居静江 贈収賄、脱税容疑で逮捕]こんな見出しで新聞に載り、テレビでも報道されて、大学側は依願退職願いを受け取らず、懲戒免職とした。
依願退職なら退職金は出るが、学校側に損害を与えた容疑者となると、退職金は出ない。静江の不倫は刑事事件としては取り上げられなかったが、大学側は学校の風紀を著しく損なったとして、懲戒免職の事由に含めた。
鳥居は職を失い、公務に携わる亭主も妻の不祥事で道義的に退職せざるを得なかった。
静江は不倫ビデオの回収で一千万円を杉浦に支払ったばかりだ。自分も亭主も同時に職を失い、三千万弱残っている住宅ローンの返済が直ぐに滞ってしまった。ローンの残高の返済にマンションを手放したが五百万円も不足額が残り、預金をかき集めてどうにか処理した。
静江と家族は住む家がなくなり、仕方なく家財、調度品を処分して小さなボロアパート住いとなった。息子は米国に留学に出していたが、学費の送金が止まり、途中で帰国させるより手がなかった。娘は突然のニュースで虐めに遭い、登校拒否をする始末だ。
財産や名誉を築くには長い年月コツコツと積み重ねなければならないが、転落する時はアッと言う間に地獄に転げ落ちてしまう。
静江は警察に勾留されており、亭主は職探しに駈けずり回ったが、年配者で公務員だった男に世間は冷たく、仕事が見付からなかった。
東都家政学院大学、健康栄養学科で静江が担当していた秋元紀代は、突然鳥居教授が懲戒免職で居なくなり、気持ち的に随分助かった。後任の教授は穏やかな良い先生だったから、紀代は残りの二年間、楽しく授業を受けられるだろうと思った。
本来なら自分の先生の突然の不運に同情し、悲しむべきなのだろう。だが、紀代の心の中ではそんな気持ちは少しもなかった。
紀代は鳥居を恨んでいるほどではなかったが、毎日顔を合わすのが億劫だったし、できるものなら別の先生に師事したいと思っていたのだ。
鳥居の悪事が明るみに出た経緯は、鳥居は勿論紀代も全く知らなかった。
だが、鳥居を突き落とした陰に士道が居た。士道は警察や税務署とのパイプを持っていた。それで、木下から報告があった詳細な資料を持って警察と税務署にちくったのだ。金額は大きくなかったが、それでも過去十年間の累計で一千万円を越えていた。教職に就く立場の者として許されることではなかった。警察では士道が提出した資料を基に逮捕状を取り、取調べを行った結果起訴に踏み切った。警察で、鳥居は研究費の不足を補うために使ったものだと主張したが、大学側に全く報告されておらず、収支がはっきりしないことから個人で賄賂として着服した金だと断定された。
鳥居の事件が世の中で忘れられた頃、紀代の所にひょっこりと士道が訪ねて来た。
「どうだい? 勉強の方は順調かね」
「はい。前の先生が辞めて新しい先生に代わってから授業がすごく楽しいよ」
「紀代ちゃんは会う度に綺麗になってるなぁ」
「オジサマ、お世辞も言いすぎると嫌らしいよ」
「相変らず紀代ははっきり言うなぁ」
そんな会話が一区切りすると、
「オジサマ、またあたしの手料理食べてよ」
と誘った。
「そうよ、それを目当てに来たのさ」
と士道は笑った。
二十歳を過ぎて、紀代は女らしさが増していた。紀代の手料理で腹いっぱいになった士道は、
「ちょい寝かせてくれないか?」
そう言って床に転がって寝ようとした。士道は疲れている様子だった。
「オジサマ、ダメダメ、そんなとこじゃ風邪を引いちゃうよ。あたしのベッドで眠って」
紀代はささっとベッドの上を整えて上着を脱いだ士道に横になってもらい、ズボンと靴下を脱がせた。布団をかけると、士道は直ぐに低い寝息を立てて眠ってしまった。
台所で汚れた鍋や食器を片付け終わると、紀代はパジャマに着替えて明かりを暗くして、士道の隣に潜り込んだ。前に来た時は、太い腕でずっと抱きしめていてくれた。今夜は眠ってしまったから仕方ない。紀代はそっと士道の首に腕を差し込んで抱きつくようにして士道と一緒に眠りに落ちた。
五十 吉村啓
夜明けより少し早い五時少し前、藤堂士道はふと目が覚めた。自分の首に手を回して、すやすやと眠っている紀代が横に居た。士道ははっとなり、自分の下腹部に手を下ろして確かめた。どうやら紀代に淫らなことをした感じはなくて、ほっとした。士道は手を紀代の背中に回して撫でてみた。押し付けられたバスト、背中からヒップへの曲線、張り出して締ったヒップの形、紀代はもうすっかり女になっていた。窓から射す薄明かりに紀代を見た。乱れた長い髪の間に可愛らしい横顔が見えた。
士道は紀代の細い腕をそっと解いて、ベッドを降りた。紀代はまだ眠っているようだ。士道は静かに自分のパンツや靴下を履き、ジャケを羽織ると音を立てないように玄関の扉を開けて去って行った。
「紀代、また来るよ」
士道は心の中で呟いた。
紀代が目覚めた時は、窓から朝日が差し込んでいた。
「なんだ、帰っちゃったか」
紀代はなんとなく寂しい気がした。最近、紀代は男を意識していた。士道は父親の辰夫と同年代だから、父親のような存在ではあるが、紀代の中では士道はオジサンではなくて、年上の男だと感じていた。だから、昨夜、もしかして士道が抱いてくれるかも知れないと淡い期待が心の片隅にあったのは確かだ。自分はまだバージン、男を知らないが、士道になら、初めての自分をあげてもいいと思っていた。
簡単な朝食を済ますと、紀代はパソコンに向かった。家の中で座ってパソコンをいじる時は、iPadよりもデスクトップのパソコンの方が何となく手に馴染んだ。長い間使い慣れているからかも知れなかった。
最初にメールをチェックしたが、学校の友達から届いた二通の他は広告メールばかりだった。友達からは二つとも鳥居先生が居なくなってほっとしたと言う内容だった。二人とも紀代と同じようにずっと鳥居に冷たくされていた。そんなことがお互いに引き寄せられた原因かも知れなかった。
士道が去った後、紀代はまた吉村啓のことを思い出した。Yahoo の検索ワード入力ボックスに、紀代は[吉村啓]と入力して[検索]をクリックしてみた。あった。吉村啓*に該当する件数は7000件以上も出て来た。数学の教師かどうか分らないが、同性同名の男で子供向けの算数の本を書いている奴が居たが、自分が探している吉村とは別人らしくがっかりした。
7000件もあるが、紀代はせっせと開いてみて自分が探している啓さんではないか確かめた。2000件位まで調べ終わると、もうお昼になっていた。紀代は熱いコーヒーを煎れてきて、また調べ始めた。紀代の悪い癖で、一度こんなことを始めてしまうと、時間を忘れてとことんやってしまわないと気が済まないのだ。紀代はそんな自分に苦笑した。
「アハハ、また悪い癖が出ちゃった」
探しているうちに、一人論文を書いている吉村啓が居た。正確に言うと、一人でなくて、三人の中の一人で、吉村啓と言う活字が目に留まった。名前がローマ字でHajime Yoshimuraと出ていたから、読み方は啓さんと同じだ。論文はアクロバットの PDFファイル形式でダウンロードされた。
紀代は何だか難しいことが書いてあるが論文に目を通して見た。論文は日本語の抄訳の後は英文で書かれていた。論文はどうやら近代経済学で有名で、一九七〇年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者、故ポール・サミュエルソンの代表的な著書[経済学(An Introductory Analysis)]に対して、現代の長引く先進諸国の世界的不況と新興国の台頭をレビューして論評を加えているように読めた。紀代は経済学には疎いが、論文に目を通して見て、そんな風に感じた。
論文は日本経済学会とアメリカ経済学会(AEA) に掲載されたもので、三人は京都大学経済学部のようだった。
三人の著者の中で、一人は中国国籍、もう一人はシンガポール国籍、それに日本人の吉村啓の共著だ。
紀代は京都大学経済学部の教授、準教授の名簿を検索して調べたが、吉村の名前はなかった。もし学生だったら、自分が恋求めている啓さんに違いないと思った。
お天気の良い日を選んで、紀代は新幹線に乗って京都を目指した。学校はお休みを取った。
タクシーで京都大学に着くと、経済学部の場所を聞いた。京都大学の敷地は広い。平安神宮の北側の広い敷地に学部が点在している。経済学部は大学のほぼ中心の法学部の隣にあった。
紀代は学部の建物の出入り口の脇で、iPodを取り出してイヤホンを耳に突っ込み、Superflyのアルバムを聞きながら気長に待った。
一時間半も待っただろうか、学生がぞろぞろ出入り口から出てきた。だが、目当ての吉村啓の姿はなかった。
「あのう、つかぬことをお伺いしますが、こちらに吉村啓と言う方いらっしゃるかご存知でしょうか?」
紀代と同年代と思われる学生の一人に聞いた。
「吉村? 知らないなぁ」
すると一緒に居たもう一人が、
「確か二年生に吉村って居たよな」
と答えた。
「二年生ですか?」
二年生と言えば紀代より一つ年下だ。紀代はがっかりした。この時、紀代は吉村が浪人したなんて想像もしてなかったのだ。紀代は仕方なくその場を離れて東大路通りに出てタクシーを捉まえた。
五十一 人探し
紀代はタクシーを拾うと、
「京都駅」
と告げて、
「あっ、待ってぇ。先斗町に行って下さい」
と言い直した。
「お客はん、先斗町どすかぁ?」
「はい。変えて済みません」
「ほな、お客はん、先斗町に行かはるなら、歩かはっても近こうでっせ」
「いえ、いいんです」
タクシーの運転手は首をちょっと傾げてから車を出した。運転手の言う通り、動き出して直ぐに先斗町に着いてしまった。料金を払って、タクシーを降りて、左右をキョロキョロした。この界隈は夕方六時を過ぎてから賑やかになる。だから、殆どの店はまだ準備中だった。
紀代は仕方なく四条大橋まで下って、河原町通りをブラブラした。紀代は最初先斗町で少しお酒でも飲んでいたら、もしかして啓さんに会えるかも知れないなんて当たるも八卦、当たらずも八卦と行き当たりばったりで考えたのだ。いくら狭い京都市内と言ってもそう簡単には会えるはずがないのだ。
紀代は東京の家に戻っても誰も居ないから、お土産を買って帰ってもあげる人が居ない。けれど、土産屋を覗いていると、何となく買いたい衝動にかられた。気持ちとは不思議なものだ。
それで、どうしようか迷った挙句、和紙の千代紙が綺麗に巻いてある六角形の筒の万華鏡を一つ買った。これなら、ちょっとぼおっとしたい時、一人で覗いても楽しめる。
「今から帰っても夜遅くなっちゃうなぁ」
そう思って、デパートの中の旅行案内所に行って、
「女性一人でも安心できる宿、ありません?」
と聞いた。
「今夜一泊どすかぁ?」
「はい」
「ほな、三条のCaedeHotelがよろしおす」
そう言って応対した女性は電話で空き室の確認をしてくれた。
「シングル、朝食付きでよろしおすな」
「はい」
「一泊五千三百円でよろしおすか」
「はい」
「ほな、お気を付けて」
女性はホテルまでの略図を書いてくれた。
先ほど下ってきた先斗町をぶらぶら歩いて三条まで行けば直ぐに分かると説明してくれた。紀代は言われた通り河原町を歩いて先斗町の木屋町通りに沿ってブラブラと歩いた。ホテルは夕食なしだ。それで、どこかで食事をしょうと思った。木屋町通りから鴨川寄りにある細い道に入ると、飲食店が軒を連ねていた。どの店も敷居が高く見え、紀代のような一見の客は入り難かったが、紀代は目に留まったすし屋に入った。
まだ客はまばらで、板前と親しそうに話をしている者ばかりなので、紀代は落ち着かなかった。それを察してか、
「お気楽に、何かお好きなものを言って下さい」
と声を掛けられた。どうやら板前は京都の人ではなさそうだ。紀代は上寿司を一人前頼んだ。
「済みません、先斗町あたりで、京都大学の学生さんが良く行くお店、あります?」
突然の質問に板前は怪訝な顔をしたが、
「どなたかお探しですか?」
と紀代の心の中を見たような言い方をした。
「はい」
「そやなぁ。この辺りは同志社の学生さんが多いですね。京大の学生さんは大学近くの店に集まることが多いんじゃないですか」
結局ここに居ても会える確率は低いことが分った。
「京大までは遠いですか」
「歩いて行けますよ。鴨川に沿って上がって行けば分りますよ」
すると客の一人が、
「よろしかったら、一緒に行かはらへんか? わいの家は京大の近くやさかい」
と声をかけてくれた。
「あ、この方は悪いことするような旦那じゃおへん。安心しな」
旦那のつれが付け加えた。
紀代は旦那と一緒にぶらぶら歩きながら、幼馴染の青年がどうやら京大の経済学部に居るらしく、その人を探しに京都まで来たと打ち明けた。
「そこまで分っとるんなら、探し出せるやろ」
そう言って安心させてくれた。
京大近くの飲み屋の暖簾を潜ると
「経済学部の学生はんはどのお店が多いやろ?」
と旦那が聞いてくれた。それで、店の人に教わった店に旦那が案内してくれた。店の前で、
「ほな頑張りや」
と言って旦那は去って行った。紀代は丁寧に頭を下げてお礼を言った。
店でビールを頼むと紀代は、
「こちらは経済学部の学生さん、よくいらっしゃるのですか」
と店の主に聞いてみた。紀代はダメ元だと思って聞いた。
「お名前、分かりますやろか?」
主は親切だった。
「はい。吉村啓、拝啓のけいと書いてはじめです」
紀代が答えると奥から女将さんが顔を出して、
「吉村はん? 吉村はんは二回生の?」
と聞いた。
「あたしと同い年だと三年生ですが……」
「ああ、吉村はんは一浪やったといわはったから二回生やわ」
それで紀代は彼が浪人したなんて全く気付かなかったことを悟った。
「そうかぁ、彼は一浪しちゃったんだ。じゃ二年生の吉村さんです」
それで、旦那は明日の夕方この店で待つように伝えておくとまで言ってくれた。紀代は吉村に会えるかと思うと胸がドキドキした。
紀代は吉村への連絡を是非にと頼んで店を出て、タクシーを拾ってホテルに行った。
五十二 恋しいと思う時
京都三条のホテルで、紀代は目を覚ますと、なぜか希望に満ちた朝を迎えたような気がした。夕方までは時間がたっぷりある。それで、今日は昼間嵐山の方に行ってみようと思った。
ホテルで朝食を済ますと、紀代はチェックアウトをして、最寄の地下鉄東西線、京阪三条駅から地下鉄に乗った。二条城前駅の次の御池通駅で降りて、JR嵯峨野線の二条駅に乗り換えて、嵐山方面に向かった。嵯峨嵐山駅で降りて、ぶらぶらと歩いて渡月橋に行ってみた。観光客がぞろぞろと歩いていたが、紀代の心はここにあらず、夕方会える啓のことばかり想っていた。
嵯峨嵐山駅のそばに、紀代はトロッコ電車があるのを知った。それで、渡月橋から戻ると、チケットを買ってトロッコ電車に乗った。嵐山から保津峡沿いに終点の亀岡駅まで二十五分位かかると言われた。時間つぶしに景色を楽しむには丁度いい。観光列車だから定休日があるのに少し驚いた。電車の定休日なんて聞いたことがない。幸いなことに昨日が定休日だったらしい。
SLのような小さな機関車に引っ張られて、五両の客車はローカルな景色の中をとろとろと走った。東京に出て来てから、紀代は毎日ビルとアスファルトの中で暮らしていたから、このローカルな旅行に癒された。平日なので、少し空いていたから、ゆったりとした気持ちで、
「啓さんって顔とかが変ってしまったかなぁ?」
などと色々な想像をしながら一人旅を楽しんでいた。
終点のトロッコ亀岡駅に着くと、お昼になっていた。紀代は駅を降りると、亀岡駅から近いJR馬堀駅前通りに出て、鮨屋に入って散らし寿司を注文した。味はまあまあだった。
昼食が終わると、紀代は元来た経路でJR嵯峨野線二条駅から地下鉄に乗り換えて三条に戻った。こんなに暇な時はしばらくぶりだ。夕方までまだ時間がある。仕方なく、紀代はぶらぶらと鴨川沿いに上がり、京都大学の構内をあちこち歩いて見た。
ようやく夕方になり、昨夜の店の主が約束してくれた時刻近くになった。約束の時間が近付いてくると、紀代の胸は今夜啓さんにきっと会えると思って、また胸がドキドキしてきた。男を恋しくて、こんな気持ちになったのは初めてだと思った。期待でドキドキする反面、胸がキュッと締め付けられるようでなんとも言えない緊張感が身体中走った。
ようやく約束の時刻になった。
「ごめんください」
店に入る時、紀代は思わずそう言ってしまった。何人か既に店内で夕食を食べていた客が一斉に紀代の方を見たので、なんとも言えないきまりの悪い雰囲気になり、紀代はその場を切り抜けられなくてもじもじしていた。
「あ、昨日のお嬢はんやね」
女将が暖簾の間から顔を出して声をかけてくれたから、紀代はようやく気まずい雰囲気から抜け出すことができた。
しばらくして、主が紀代の前に出てきた。紀代は頭を下げて挨拶して、店の中に啓さんの顔がないか目で追った。だが、啓の姿はなかった。
主はそれを察してか、申し訳なさそうな顔で、
「吉村はんなぁ、生憎昨日実家へ帰ると言って京都を出て行きはったんやて。可哀想なことしたなぁ」
「実家と言うと会津若松ですか」
「吉村のぼんぼんは会津の出かいな? そんなん知らなんだなぁ」
いつの間にか女将も出てきて口を挟んだ。
すると主が、
「わいが聞いたのは、シンガポールに帰った言うとったがな」
「シンガポール? 東南アジアの?」
「そや、東南アジアのシンガポールや。うちにお出でにならはった時もな、ぼんぼんはそう言うとりましたさかい、ご両親があちらと違いますか」
主に代わって女将が答えた。
紀代はこれ以上話をしていても何も話しが進まないと思った。それで、小さな手帳を取り出すと、自分が住んでいる三軒茶屋のマンションの住所と電話番号をメモして、
「済みません。吉村さんがこちらにお戻りになられたら、必ず電話を下さるようにお伝え下さい」
とお願いをして店を出た。
帰りの新幹線の中で、紀代は腑抜けになってしまったような感じで、いつもは一文字に閉じる口をだらしなく開いてぽかんとしていた。
新幹線が品川に停まると、紀代は山手線に乗り換えて渋谷に出た。もう終電に近い。それで、そのまま新玉(新玉川線)に乗り換えて三軒茶屋に戻った。
翌日、学校の帰りに、渋谷で降りて、洋服を買おうと109とか洋服店を歩き回った。 女の子の洋服がどの店にも腐るほど置いてあるのに、自分が気に入ったものがなかなか見付からない。歩いている内にくたびれて、舗道の縁にあったベンチに腰を下ろした。
「ちょっとお話しさせて頂いてもいいですか」
突然三人組みの若い男たちに声を掛けられた。紀代が振り向くと、
「モデルさんとかに興味ないですか」
ともう一人の男が付け加えた。紀代は、
「ありません」
とつっけんどんに返事をした。
「有名プロのスカートやってんですけど、お話しだけでも聞いてもらえませんか」
「あたし、モデルとかに興味ないですから」
紀代はきっぱりと断った。だが、紀代がその場を立って駅の方に歩き始めても、三人はしつこくまとわりついて来た。紀代が知らん振りして逃れようとすると、男の一人が腕を掴んだ。
「話しだけ聞くくらいいいじゃん」
紀代が手を振り払うと、三人で取り囲んで説得を始めた。紀代が進もうとすると押し戻された。
紀代が困っている時、男たちの背後で、
「おいっ、嫌がってるだろ。離してやれよ」
そう言うなり男は三人の男を蹴散らす仕草をした。
「あんた、この子の彼?」
と男の一人が聞いた。
「ま、そんなもんだ」
後から割って入った男が睨み付けたので三人の男たちはぶつぶつ言いながら行ってしまった。
五十三 男の好意
紀代は自分を窮地から救ってくれた男を、改めて見た。三十歳を少し越えているだろうか、背が高く、筋肉質で引き締まった身体に、整った顔。その顔に何か寂しげな雰囲気を漂わせている。
紀代は助けてもらったお礼を言うつもりで、
「ありがとうございました」
と頭を下げた。男はちょっと微笑んで立ち去ろうとした。その背中に向かって紀代は、
「済みません、お名前だけでも教えて下さい」
と声をかけた。
紀代の声に男は振り向いた。
「もう二度と会わない者に名前を聞いてどうするんだ」
紀代は返答に困った。言われて見ればその通りだ。男は続けた。
「あんたなぁ、さっきの三人の男とオレがぐるかも知れないって考えてないだろ?」
「はい。そんな風には見えませんでした」
「だろうな。渋谷界隈じゃプロダクションのスカートマンになりすまして、ちょい可愛い女の子に声をかけてナンパする奴が多いんだ。奴等は三人か四人のグループでさ、二人か三人が悪者になって、女の子を無理に誘おうとするのよ。するとさ、仲間の他の奴がいかにも困ってる所を助けたふりをしてさ、女の子を信用させて、お茶とかに誘うのよ。後は言わなくても分るだろ? 女の子は奴等のグループに捕まってさ、いいように遊ばれて、つまりレイプされて回されてさ、ボロボロになった所で捨てられるのよ。あんたも用心しろよ。好意的な男ばっかじゃないぞ」
そう言い終わると、男は去って行った。
渋谷あたりでは、芸能プロダクションを語る悪い男たちに誘われて堕ちる女の子は意外に多いのだ。レイプされたとしても、警察に被害届けを出す女の子はまず居ないのをいいことにして、かなりの女の子が悪魔の餌食になっているのだ。
紀代は話しは聞いていたが、まさか自分がヤバイことになるなんて思ってもなかった。たまたま名前も教えてくれなかった真面目そうな男に救われたからいいようなものの、あの男が誘ってきた三人とつるんでいたかもしれないと想像すると怖くなった。
京都に啓を探しに出かけてから、半月が過ぎた。紀代は毎日のように、中学校を卒業した時に啓からもらった記念の携帯ストラップを見ながら、電話を待っていた。だが、来る日も来る日も虚しく過ぎ去った。
携帯ストラップは大事にしていた。年数が経つ内に紐が切れたりしたが、上手に直して今もお守りとして紀代の携帯に付けられていた。
半月少し過ぎた時、電話が来た。啓からだった。
「もしもし、本当に啓さん? 信じられない。あたし、あれからずっと啓さんに会いたくて……」
紀代の声は上ずっていた。興奮して、胸がドキドキして、思っていたことを言えずにいた。後で振り返ってみると、自分がこの時何を話したのかさえ覚えていない始末だ。
「啓さん、東京に出てこられる機会はないんですか」
「あるよ」
啓はあるとあっさり言った。
「東京にいらっしゃった時、ご連絡頂けません? あたし、啓さんに会いたくて」
「そうだなぁ、五月の下旬に学会があって、二日間東京に居るから、その時に電話をするよ」
啓は五月下旬に会う約束をしてくれた。紀代は積もる話をしたかったが、電話じゃ仕方ないと諦めた。
五月二十五日の夕方、啓から電話が来た。
「東京宝塚劇場の向いのレム日比谷に泊まっているんだ。良かったら今夜出てこないか」
「はい。行きます」
「じゃ、ホテルの近くまで来たら携帯に電話をくれないか」
啓は携帯の番号を教えてくれた。
五十四 再会
メトロ有楽町線で日比谷に出た。紀代が啓の携帯に電話を入れると直ぐに出た。
「はい、吉村です。あっ、紀代さん? 早かったね。今どこ?」
「メトロの日比谷駅です」
「そう。じゃ、近くだね。日生劇場の場所、分る?」
「はい」
「じゃ、僕も日生の前に出てる」
日生劇場の前に行くと、吉村啓は既に待っていてくれた。
「紀代に会うの、何年ぶりかなぁ。随分綺麗になったね」
紀代は恋しい人に綺麗と言われて悪い気はしなかった。もうドキドキして、紀代は落ち着かなかった。
「夕ご飯、まだだよね」
「はい。電話を頂いて直ぐに飛び出しましたから」
「何か食べたいものある? と言うか嫌いなものある?」
「大抵のものなら大丈夫です」
「じゃ、遅くまでやってる所がいいな」
啓はTOHOシネマ・シャンテの所からJRのガードを潜り抜けて、かこいやと言う炉端料理屋に入った。平日なのに意外に混んでいて奥の方のテーブルに案内されたが、煙でむんむんしていた。
「先ずは紀代さんとの奇跡的な再会をお祝いして乾杯!」
串焼きがメインだが、啓はコースを注文した。
紀代は何から話せばいいのか、頭の中が真っ白になってうまく言えず、そんな自分にいらいらしていた。
それで、携帯を取り出すと、古びたストラップを見せた。だが啓は忘れていた。
「これ思い出さない?」
「随分使い古したストラップだなぁ」
紀代はかなりショックだった。
「これ、中学を卒業した時、啓さんがくれたのよ。忘れた?」
「あっ、思い出した。へぇーっ? まだ使ってるの」
「あたしにとっては啓さんの一部みたいだから、ずっと大切に使ってたわよ」
紀代は啓にそんな風に言われて、啓に対する自分の気持ちが次第に薄れていくように感じていた。
紀代は話題を変えて、会津若松や郡山での色々な経験をぽつりぽつりと話した。断片的な話しが多く、啓はそれほど興味をそそられている様子ではなかった。
「啓さんはあれからどうなさってたの」
「僕は紀代さんと別れてから、高校に上がる時に東京に一週間居て、直ぐに両親と一緒にシンガポールに移ったんだ。だから高校はシンガポール。それで、日本の大学の受験で帰国したんだけど、レベルが高くて、一浪しちゃった。紀代さんはストレートだから、僕の方が一年後輩だな」
そう言って啓は笑った。
「あたしが通っている大学と京大じゃ格が違いますもの」
紀代はフォローしたつもりだ。
紀代はもっと啓と話をしたかったが、十一時を回った所でお開きにして別れた。別れ際に、
「京都のお住いに遊びに行ってもいいですか」
と聞くと、
「いいよ。都合の良い時に連絡をしてよ」
と言って、住所や電話番号を教えてくれた。
啓と別れてから、メトロに乗って暗闇の窓の外をぼんやりと見つめている間、紀代は啓が小学校と中学校の時に会った時とは随分変ったなぁと感じていた。紀代が当時のことを話すと、
「紀代さん、虐められていたみたいだから可哀想だなと思ってた」
と答えた。つまり、紀代の気持ちとは違って、彼は紀代に同情する気持ちで付き合ってくれたのかもしれなかったような気がした。
六月になって、紀代は啓に遊びに行くと連絡した。
「僕のとこはワンルームで狭いから、お泊りは無理だよ」
啓はそんな風に言った。
京都に着くと、啓が住んでいるマンションは直ぐに見付かった。ドアーをノックすると、
「開いてるよ」
と中から返事が聞こえた。ドアーノブを回すと、錠は開いていた。
「お邪魔します」
紀代は啓がお泊りは無理だと言った訳が直ぐに分った。
「鍵をかけないで無用心じゃないの」
「ああ、盗られて困る物ないし、居る時は大抵開けっ放しだよ」
マンションの中は足の踏み場もないくらい、本が乱雑に置いてあり、ベッドの枕元まで本が積み重ねてあった。紀代が住んでいるマンションとは大違いだ。コーヒーを飲んでから、紀代は得意な手作りの料理を啓に食べさせたいと思って
「夕食、あたしの手料理じゃだめ?」
と聞いてみた。
「紀代さんは子供の頃から料理が上手だったよね。もちろんご馳走してよ」
冷蔵庫の中を覗くと、男の一人住まいにしては食材が揃っていた。それで、紀代は簡単な手料理を作って出した。
「美味しい。相変らず美味しいなぁ」
啓はお世辞ではなく本当に美味そうに食べてくれた。
「ちょっと、オトイレ、借りてもいいですか」
「あっどうぞ」
トイレはユニットバスで風呂と一緒だった。
用を済ますと、紀代は洗面所で手を洗った。
ふと目の前の小棚を見ると、マグカップに入れたブルーの歯ブラシの横に並べて、ハートマークの模様がある可愛らしいマグカップに赤い歯ブラシが入れてあった。紀代は見たくないものを見てしまったような気がして、かなり動揺した。
紀代は啓のマンションを出ると、前に泊まった三条のホテルに一泊して、翌朝東京に向かった。
五十五 乙女のいじらしさ
小学校の時から大学の三年生になるまで、ずっと一途に思い続けてきた吉村啓に女が居たなんて、紀代は信じたくなかった。中学校を卒業した時にわざわざ買ってくれた携帯のストラップ、あの時の啓の目は紀代に好意を持っていると明らかに語っていた。紀代は兎に角、今でもそう思いたかった。
使い古した携帯ストラップをずっと大切にしてきた紀代の気持ちが、そう簡単に啓を諦めさせなかった。[いじらしさ]と言う言葉は、啓を想ってずっと大切に持ち続けてきた気持ちが痛々しく、可哀想に思われて、今の紀代にぴったりな言葉のように思えた。
考えてみると、あの赤い可愛らしい歯ブラシを見ただけで、啓に女が居ると断定した自分が間違っているのかも知れないとも思えた。あの歯ブラシは、たまに母親がシンガポールからやってきた時とか、啓に姉か妹が居れば、家族が使ったものかも知れないとも思えた。
紀代の一途さが、紀代をもう一度京都に向わせた。紀代は、もう一度自分の目で確かめて、啓に問い質してから自分の気持ちを整理しても遅くはないと思った。
気候が急に暑くなった六月の末、紀代は京都に向う新幹線の中に居た。いつもは楽しいはずの旅行なのに、紀代はあのことばかり考えを巡らせていたから、ちっとも楽しくなかった。
六月中旬に京都に向った時は、憧れの啓に会えると言う嬉しさで新幹線の中でも心がうきうきとしていた。それに比べると、あれからまだ半月も経っていないのに、心の中には木枯らしが吹いていた。
日曜日だったから、啓はマンションに居ると紀代は思っていた。だから、お昼前に京都駅に着いたが、そのままタクシーに乗って、啓のマンションまで行った。
啓の部屋は二階だ。階段を上がる時、紀代の胸にまたドキドキ感が戻ってきた。
紀代は啓のマンションのドアーの前で深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
紀代がドアーの取っ手を回すと、鍵は開いていた。前に来た時、盗られて困るものがないから、中に居る時は大抵ドアーの鍵を開けっ放しにしていると言っていた。なので、紀代は啓が中に居ると確信できた。
思い切って、ドアーを開けると、
「こんにちは」
と明るい大きな声で言った。
その直後、下を見ると、ヒールの高い靴がちゃんと揃えもせずに、脱ぎ捨てられていた。
紀代の声に驚いた啓が慌てた様子でシャツも着ないでパンツだけの姿で顔を見せた。
「なんだ、断りもしないで突然来たのか」
啓の顔は今までに紀代に見せたことがない怒ったような顔だった。
奥から、
「誰かお出でやした?」
と甘ったるい女の声がした。ワンルームだから、玄関から奥まで見える。啓が立ちはだかる隙間から、奥のベッドの上で半身を起こし、バストを毛布で覆い、髪を乱した若い女の顔が見えた。
紀代は無言で踵を返し、逃げるように階段を下り、地上に降りた。最後の段で足を捻って激しい痛みを感じたが、我慢して通りまで足を引き摺って出た。
タクシーを拾うと、
「京都駅」
と告げた。タクシーが走り出した。
タクシーの中で、携帯を取り出して、大切にしてきたストラップを引き千切ろうとした。だが、こんな時、ストラップの紐がなかなか切れない。紀代は力任せにストラップを引っ張った。だが紐は切れない。
「もうっ!」
無意識に発した紀代の声に運転手が驚いて振り向いた。
五十六 怒りの鎮め方
京都駅でタクシーを降りると、紀代は何回も啓にもらった携帯のストラップを力任せに引き千切ろうとした。だが、一度丁寧に直したせいか、やってもやっても引き千切れない。こんな時は丁寧に結び目を解いて外したのでは意味がないし、怒りが治まらない。最悪はハサミでパツンと切るしかないのだが、紀代はどうしても引き千切って捨ててしまいたかった。自分の家に帰ってゴミ箱に捨てるのはノーだ。二度と目に触れることがない遠くに捨てたかった。川とか海なら最高だが、二度と来ないどこかの空き地の叢にでも投げ捨てたかった。
何度試みても切れない。啓が紀代と離れ離れになりたくないと言っているようだ。それでも紀代はストラップを見るのも厭らしかった。結局駅の構内では切れず、新幹線に乗ってしまった。
冷静になって考えれば、中学の時に会っただけで、その後音信不通だったのだから、男が高校を卒業して大学に行くまでに他の女を好きになっても何ら不自然なことはないのだ。だが、今まで一途に想い続けてきた紀代にとっては、紀代の他に女が居て既に身体の関係まであると知ってはショックが大きすぎた。自分ではとても受け止められない位大きなショックだ。
東京駅に着いて、中央線で新宿に出た。地上に上がると、駅の構内を出た所に喫煙所があって、大勢人が立って煙草を吸っていた。紀代は喫煙はしないが、自然に足が喫煙所に向った。
「すみません、ライターを貸して頂けません」
紀代は少し背の高い男を見付けると背後から声をかけた。男が振り向いた。
「あのう、このストラップを外したいんですが、切れなくて、ライターで焼いて切るんです」
男は黙ってジッポを差し出して、カチンと音を立てて火を点けてくれた。
紀代は男が差し出してくれたライターの火に携帯のストラップの紐をかざした。紐は簡単に焼き切れて、ストラップが外れた。紀代はそれを少し先にあった大きな灰受けの中に放り込んで捨てた。
その時、紀代の肩をポンと叩く者が居た。紀代は灰受けに捨ててはいけないものを捨てたのを咎められたのだと思って、肩を叩いた男の脇をすり抜けて逃げようとした。だが、男の手が紀代の腕を掴んだ。先ほど火を借りた男だ。
紀代は慌てた。てっきり男に咎められるものと思って、
「拾えばいいんでしょ? 別のゴミ箱に捨てますから」
と言い訳をした。だが男は、
「オレの顔を良く見ろ。忘れたのか」
と予想もしないことを言った。
「あっ、あの時の……」
「そうよ。二度と会わんと思ったがな」
男は紛れもなく渋谷でナンパされそうになった時に助けてくれた奴だった。紀代の驚いた顔を見て、
「やっと思い出したようだな」
と男は笑った。紀代は男の顔を改めて見た。
「大切に使っていたらしいストラップを捨てるなんて、訳がありそうだな」
男は優しい眼差しで紀代を見下ろしていた。この時、紀代はこの男に何でも受け止めてくれそうな暖かみを感じて、今の自分の心境を聞いてもらいたいと言う衝動にかられた。
「あのストラップ……」
紀代が話し始めると、男は紀代の次の言葉を制した。
「そんな話オレに話しても意味ないだろ? そう言う問題は自分で解決をするものだよ。じゃな」
男はそう言うとさつさと立ち去って行った。紀代は男の後姿が見えなくなるまで見つめていた。紀代はなぜかこの男に惹かれた。
五十七 恋が破れて
紀代は三軒茶屋の十五席ほどのカウンター席しかない小さな居酒屋に入った。客はカウンターの奥に男女が一組だけで、店内は静かだった。紀代は普段はビールを飲むことが多いのだが、その日はなぜか日本酒を熱燗で頼んだ。
啓を想いながらずっと過ごしてきた長い年月を振り返って、また虚しさがこみ上げて、知らず知らずに目に涙が溜まってきた。そんな紀代の目の前に、すぅ~っと板前の手が伸びてきて、突き出しが差し出された。板前は無言だった。多分、紀代の気持ちを察したのだろう。そっとしておいてくれた。こんな時は余計な口を差し挟まれない方がいいのだ。板前はそれを分っているようでもあった。
どこからか、小さな音で演歌の調べが流れていた。
……
♪ずっとあなたが好きでした こころから 抱きしめて ずっとあなたがそばにいた 涙まで 抱き寄せて
……
坂本冬美のラヴ・バラード、[ずっとあなたが好きでした]だ。
最近はSuperflyのアルバムを聞くことが多かったが、今夜は珍しくしんみりと演歌を聞けた。
ふと目を上げると、板前と目が合った。板前は何か食べたい物はありますかと聞いている目だった。紀代は、
「太刀魚で何か……」
と言うと、
「夏野菜との揚げ煮、美味しいですよ」
板前は初めて口をきいた。紀代は、
「それを」
と目で答えた。
紀代のような心境の時は、言葉は少ない方がいい。しばらくして、板前は太刀魚の料理に添えて、玉子でとじた粥を添えて出してくれた。粥はとても美味しく、くちゃくちゃと噛む気もしない紀代の気持ちを察しての板前の気遣いが嬉しかった。
少し酔いが回った所で、紀代は立ち上がって板前に、
「ご馳走様でした」
と頭を下げた。
レジには板前が出てきた。勘定を済ますと、板前は小さな声で、
「元気出せよな」
と囁いた。客へのお世辞ではない真心のこもった言葉に感じられた。板前は四十歳前位の中年の男だったが、紀代を包み込むように優しい目で送り出してくれた。
「またこのお店に来よう」
店を出てから紀代は思わず呟いた。
失恋をした女は、命を投げ出してしまう者が居れば、自棄酒に溺れる者も居る。泣いて泣きまくって呆けてしまう者も居る。紀代はそのいずれでもなかった。
紀代は京都から東京に戻った日以降、大学の勉強と料理教室の仕事に専念した。学業や仕事に没頭することで、あの惨めな別れを忘れようとした。
夜一人で居て寂しくなった時は男が欲しいと思うことはあっても、新たな恋人を作る勇気はなかった。
そんなことをしている内に新しい年を迎え、四月には四年生になった。四年生になると、俄かに就活で周囲が騒がしくなった。長引く不況で、求人数が少なく、人気の企業には募集定員の二十倍もの学生が押しかけるなんて珍しくなかった。
紀代は相談できる親が居なかったから、進路は独りで考えた。郡山の父に相談すれば家業のスーパーを継げと言うに決まっている。だが、紀代は秀子の気持ちを殆ど動物的な勘で分っていたから、敢えて父親の辰夫の勧めに従わなかったのだ。
喜多方と郡山にあるスーパーアキモトも会津若松にあるキヨリスもその後業績は順調で紀代が高校三年生になった時、東京証券取引所の二部に上場を果たした。その知らせは義母の秀子から紀代に伝えられていたが、紀代は興味はなかった。紀代の名前を取って名付けたキヨリスは、[子供が父母、祖父母の手を引いて来店する]と言うコンセプトが当たって、幅広い年代層に受け入れられて、総合量販店として業績を伸ばしていた。
キヨリスの上場時の発行株数は十万株、紀代の持分は三万株もあり、筆頭株主になっていたが、株主総会に紀代が顔を出すことはなかった。義母の秀子が社長をしていたからだ。秀子の持分は一万株だったが、議決は秀子に一任していた。
開業後業績が安定してから、キヨリスは配当を開始した。株式上場後も配当を継続し、上場初年度は一株当り千円の配当があり、現在では千八百円に増配されていた。
紀代が大学に入学した年に配当があり、10%(所得税7%、住民税3%)の税金を差し引いた二千七百万円が紀代の口座に振り込まれた。大学二年生の時、軽減税率が廃止されて、税金は20%(所得税15%、住民税5%)となったが、一株当りの配当金が千五百円に増配されたため、三千六百万円もの配当金が振り込まれてきた。昨年は更に増配があり、紀代の口座には四千三百二十万円もの大金が振り込まれていた。紀代は高校入学の時以来、秀子から毎月送られてくる学資に手を付けずにやってきたから、こちらも既に千三百万円以上も溜まっていた。つまり紀代の預金残高は一億円を越えていたのだ。だが、紀代はそんな金には手を付けずに自分が料理教室で稼いだ講師料で生活をやり繰りしていた。その講師料も最近では大分多くなり、お洒落をする方にも回せた。紀代は講師料の方は毎年確定申告をしていたが、配当の方は源泉分離手続きをしていたからほったらかしにしていた。毎月秀子が送ってくる学資は申告をしていなかった。
紀代はクラスメイトに歩調を合わせて就活を始めた。やはり食の仕事を選びたかったから、主に食品会社を回って歩いた。
紀代は現在毎月稼いでいる講師料よりも就職後の給与は多くもらいたいと思って居たが、それは甘かった。最近の紀代は毎月二十万円以上稼いでいた。だから、初任給二十万円以上の企業を目標にしたが、驚いたことに食品関係でそんなに高い初任給を支払う会社はめったになかつたのだ。最初紀代は驚くと共になんだか就職するのを馬鹿馬鹿しく思った。キヨリスの配当に手を付ければ就職しなくても贅沢な暮らしができるのだが、紀代はそんなことは考えたことがなかった。
夏が来る前にどこかの企業に内定を出してもらわないと、就職が相当に厳しくなると先生から学生達に話しがあり、クラスメイトは皆勉強をそっちのけにして、毎日のように会社訪問をしている様子だった。紀代はなぜかあせりはなかったが、友達の雰囲気から、どこかの会社から内定をもらわないと独り取り残されてしまうような気がしていた。
色々探している内に、横浜の鶴見川沿いにある大きな製菓会社の初任給が二十一万円だと分り、そこに応募をしてみることにした。応募は前年の十二月に受付が始まっていたことを知って驚いたが、紀代は粘りに粘って応募者の中に入れてもらった。最初から躓いてしまったので、紀代は半分無理だとも思っていた。
試験は予想した以上に厳しくて、応募者の多さにも驚いたが、紀代は負けるものかと頑張った。ペーパーテストの成績はそこそこで、それだけでは落ちてしまっただろう。だが、紀代は面接で、健康を考えた料理作り、今までに取った数々の賞の実績など具体的なことに付いて話をさせてもらった。幸いなことに選考委員の中に紀代を知っている者が居た。
その男はデザートの菓子作りコンクールの審査員をやっていた。そのコンクールでも、紀代は野菜を上手に取り入れて作った菓子を披露して最優秀賞を取っていた。だから、入社試験の選考員の男は紀代のことを鮮明に記憶していたのだ。
頑張った甲斐があって、ある日、紀代の所に製菓会社から一通の封書が届いた。開けて見てびつくり、殆ど諦めていたのに[内定させて頂きました]と言う活字があった。間違っていないか、二度も読み返したほどだ。
普通なら、親兄弟に知らせてお祝いの言葉の一つももらう所だが、紀代にはそれを伝える相手が居なかった。唯一、大学の料理の先生がとても喜んでくれて、お祝いに夕食をご馳走してくれた。
五十八 卒業、そして就職
若い年頃の一年間は長くても、過ぎ去ってしまうと早いものだ。紀代は大学を卒業すると、大手の製菓会社に就職した。初任給が平均以上で、大きな会社とあって、クラスメイトの何人からも羨ましがられた。紀代は少し有頂天になったが、それもつかの間、会社に入ると新入社員で下っ端だ。三ヶ月間の新人教育を終了すると、研究開発部門の新製品開発室に配属された。製菓会社だから、新しい職場の三分の二は女子社員だ。開発室に同期で配属された者は紀代と塚田早苗と言う女性の二人だった。メンバーは室長も入れて総勢二十四名、そこそこの人員が揃っていた。
入社に当り、紀代は住み慣れた三軒茶屋のマンションを引き払って、神奈川県のJR鶴見駅から一駅先の京浜急行鶴見市場駅近くに、ワンルームマンションを借りて移り住んだ。紀代はマンションくらい買える資金を持っていたが、自分の力でやり繰りできる範囲の家賃で済む所にした。京急鶴見駅まで一駅京浜急行に乗って、そこから歩いてJR鶴見駅前から会社往きのバスに乗り通勤することにした。
配属されると早速新入社員歓迎会をやってくれた。一次会は普通の歓迎会だったが、二次会は女性ばかりで、紀代と早苗を入れて十四名が残った。リーダー格の鈴木君子と言うアラフォーの先輩が取り仕切っていて、皆をカラオケに連れて行った。当然のこと、何曲も歌わされて、ビール、日本酒、ワイン、ウイスキーをちゃんぽんで飲まされ、いい加減に酔わされた所で鈴木が、
「では儀式をやりましょう」
と高らかに宣言した。隣に居た一年先輩の辻ヨネと言う子が、
「あたし達も去年やられたのよ。一度っきりだからさ、我慢、我慢」
と耳元で囁いた。
鈴木の号令で、先輩達はテーブルの上をさっと片付けた。そして、紀代と早苗は片付けられて綺麗になったテーブルの上に立たされた。
「では始めっ!」
鈴木の命令で先輩達に上から順に着ている物を全部剥がされ、脱がされ、遂にショーツだけにされてしまった。紀代と早苗は、
「許して下さい」
と抵抗したが、抵抗すればするほど皆は面白がってドンドン脱がせた。
紀代と早苗は、いくら相手が女ばかりでも恥ずかしくてすっかり酔いが醒めてしまう位だ。鈴木が、
「仕上げっ!」
と叫ぶと、どっと先輩たちの手が伸びてきて、あっと言う間に紀代と早苗のショーツまで脱がされて、二人とも素っ裸にされてしまった。また鈴木が、
「洗礼っ!」
と叫ぶと、二人とも壜を振って泡立てたビールを頭からぶっ掛けられた。
「キャーッ!」
遂に早苗が悲鳴を上げた。だが、悲鳴を上げると面白がってどんどんビールをぶっかけられた。
髪の毛も、陰毛もビールをかけられてびしょびしょだ。
「おいっ、秋元と塚田、これからは先輩に礼を尽くさないとまた虐めるぞ。今日のことを忘れるな」
鈴木が二人を睨みつけてどなった。
洗礼はこれで終わりかと思ったが、まだ続いた。先輩たちは二人の乳房を掴むわ、脚を広げて辱めをするわ、二人ともまさに俎板の上の鯉のように好き勝手に弄り回された。それでとうとう早苗が泣き出した。
そこでようやく鈴木の、
「洗礼終了」
の号令が出た。紀代は子供の頃、虐めに虐められて育ったからこんなことには冷静だった。子供の頃のように口を一文字に閉じて鈴木をキッと睨んだ。
それがいけなかった。紀代が睨み付けた途端に、鈴木の平手が紀代の頬を引っ叩いた。
「なめんなよっ」
鈴木は睨み返して来た。
紀代は負けてなかった。
「いい年をして、洗礼とかなんとか言って、新人をこんな目に遭わせて、あんた頭がおかしいんじゃないの?」
とやり返した。やり込められた鈴木は激情した様子で、握りこぶしを振り上げた。
「やるならやりなさいよ。出る所に出て話しをしますよ」
紀代は負けてなかった。
周りに居た先輩達は恐らくこんな場面は初めてなのだろう。それでカラオケルームの中はしーんと静まり返った。鈴木は魔女のような形相で紀代を睨みつけていた。なんたって、紀代と早苗は素っ裸でびしょ濡れだ。それに早苗は目を真っ赤にしてまだ泣いている。まるで小説か映画のシーンのような感じだった。
その時、
「二人とも大人なんだから、この辺で止めときなよ」
と間に入った女が居た。紀代が声の方を見ると、辻ヨネだった。
そのことがあってから、ヨネと紀代は仲良しになった。それに、先輩達の中には鈴木の[洗礼]に批判的な者が何人も居た。普段鈴木が怖くて自分では言い出せなかったことを新入社員の秋元紀代が言ってくれたので、職場で鈴木が紀代に意地悪をしても、皆が温かくフォローをしてくれて、辛抱強い紀代は同僚から一目置かれるようになった。先輩達にトイレで顔を合わすと大抵、
「大変だけど、我慢も大事よ」
とか言って励まされた。鈴木が居ない時のトイレは鈴木の悪口で花が咲くことが多かったのだ。
そんなことがあって、一年が過ぎて、また新入社員が入って来た。紀代はあっと言う間に先輩になった。
その年の新人歓迎会の二次会には鈴木は来なかった。それで、皆で楽しく歌を歌ってお開きになった。
四月の下旬に紀代は、
「工場長の部屋に来るように」
と室長から伝えられた。紀代は一瞬自分に何か落ち度でもあったのかと心配しながら工場長室に向った。工場長は常務取締役だ。大きな工場のトップだから雲の上の存在で、下っ端社員が直接話をできるようなことは稀だったようだ。だから、同行した室長も明らかに緊張していた。紀代より室長の方がビビッていた。
五十九 予期せぬこと
新製品開発室の室長は佐藤健一と言う名前だった。理系の男に多い神経質そうな男で、政治などとは程遠い技術一本ですと身体に書いてあるような奴だ。
工場長室に紀代と一緒に入ると、佐藤はおしっこをちびるんじゃないかと思うくらい緊張をしていた。工場長は矢田部三四郎と言う名で、会長、社長に次ぐ社内のナンバー3で、東大工学部応用化学科を卒業して直ぐに入社した生え抜きの社員で今は常務取締役だ。順調に行けば次期社長になる人物だった。佐藤も東大出で、常務は大先輩だ。
「おう、佐藤君、急に呼んで済まなかったな。さ、そこに座ってくれ。今茶をもらおう。日本茶? コーヒー? それともティーがいいかね」
常務は紀代の顔を見て聞いた。
「紅茶をお願いします」
常務は佐藤の希望を聞かずに秘書を呼んで、
「ティーを三つ頼むよ」
と命じた。
「秋元紀代さんかな?」
「はい。秋元でございます」
紀代は大学時代から料理教室の講師をしていたから、こんな場面には慣れていたし、口のききかたも新入社員とは思えないくらい落ち着いていた。
「今日秋元さんに来てもらったのは、ちょっと聞きたいことがあったからだよ」
紀代は上司の鈴木にちくられたのではないかと身構えた。だが、矢田部はにこにこして話を始めた。
「実は先日東京本社の役員会で営業本部長から報告があってね、全国の販売店の成績を調査した報告があったんだよ。その時話題になったのが、南東北地区でうちの製品の売上ナンバー1が、会津若松にあるスーパー、あれはなんて言ったかな、そうだキヨリスと言うスーパーだったな。その店が凄いと言うのだよ。同系列のスーパーアキモトの売上と合わせると、全国チェーンの大型スーパーを抜いてダントツだと言うんだな」
紀代はキヨリスの話が出て驚いた。
矢田部は話を続けた。
「それで、僕はね、キヨリスについてちょっと調べさせてもらったんだ。上場企業だから、調べるたって簡単だよ。会社四季報にだってかなりの情報が開示されてるがね、全国会社要覧を見ればもっと詳しく出ているんだよ。それで、偶然だがね、僕がキヨリスを調べている時に人事部長が別の話で相談に来たんだ。それでついでにキヨリスのことを話すと、キヨリスの筆頭株主の秋元紀代と同性同名の新入社員が去年うちに入社したと言うのだよ。なんでも新入社員の募集を締め切ってから、しつこく受験をさせてくれと粘ったそうで、それで人事部長は良く記憶しておったんだ。秋元さんは随分粘ったそうだね。それでそんなにうちに入りたいなら一人位追加して受けさせてみろと指示をしたそうなんだ。そうしたらうちの厳しい試験を突破して見事に合格したものだから、部長は相当に印象に残ったようだよ」
そう言い終わると矢田部は紅茶に手を伸ばした。
室長の佐藤はそんなことは聞かされていなかった。部下の鈴木からいつも生意気だとか悪い話ばかりを聞かされていたので人事部長がちゃんと覚えているなんて聞かされて驚いた。
「それでだな、人事部長が秋元さんのことをちゃんと調べてくれたんだ。あなたは確か小学校は会津若松で中学と高校は郡山だね」
矢田部は紀代の顔を見た。
「はい。中学は間違いありませんが高校は東京のA学園でした」
「そうか、すると、もしかしてキヨリスの筆頭株主は秋元さん、あなたのことかな?」
「はい。そうでございます」
常務も室長も明らかに驚いた様子だった。「そうか、やはりあなただったか」
矢田部は紀代のことを[きみ]とか[あんた]と呼ばず[あなた]と呼んだ。
「失礼なことを聞くが、あなたのキヨリスの持分は確か30%もあったね」
「はい。その通りでございます」
「そんな大株主なのになぜ会社経営をなさらんでうちの新入社員になられたのかね?」
「キヨリスは義母が社長をしております。母の持分は10%ですが、議決権はいつも義母を指定して委任をしており、経営は母に任せておりますの」
「そうか、立ち入ったことを聞いて済まなかった」
「所で、キヨリスの業績は右肩あがりだね?」
「はい。お陰さまで」
「配当を調べてみるとなかなかの高配当じゃないか。するとあなたの年収は僕よりずっと多いな」
「常務さまのことは何も存じませんので」
と紀代は返事を避けた。
「いや、ざっと計算しても、僕より多いんだ。僕の場合は役員報酬と言うか給与所得みたいなもので、源泉で税金をごっそり持って行かれるんだが、秋元さんの場合は源泉分離をしておれば20%で済んでいるんだろ」
「はい。分離の申請をしてほったらかしております」
「へぇーっ、驚いたねぇ。うちの新入社員でそんな方がおられるなんて信じられんよ」
これには室長の佐藤も驚いた。
「それで、もう二つ三つ聞くが、なぜうちに入ろうと希望されたのかね」
「あ、笑われるかも知れませんが、初任給を二十万円以上払って下さる会社を探しまして、たまたまこちらの会社が目に留まっただけです」
さすがに紀代は照れ笑いをした。
「あなたには驚かされてばかりだな。何故二十万円以上にしたのかな」
「わたくし、高校の時からお料理教室の講師を勤めさせて頂いておりまして、大学を卒業する時には手取りで月々平均三十万円くらい頂いてました。ですから、できればそれより多いといいなと思いまして」
「不思議な人だね。普通は新たに就職なんてしないで、そまのの講師を続けるものだが」
「そう言う選択肢も確かにございました。先生として大学に残ることも」
「キヨリスは何故うちの製品の売上が多いと思いますか?」
紀代は突然にキヨリスのことを聞かれて戸惑った。
「良くは分りませんが、実はキヨリスのキヨはわたくしの名前を取って付けた名前で、正式には「キヨリス・アイヅ」と申します。中学生の時に、わたくしがこの会社を立ち上げる時、父が経営するスーパーアキモトでクラスメイトを集めて企画会議を立ち上げました。今の中学生や高校生は携帯とインターネット、特にツイッターのおかげで、商品知識や人気商品についてとても詳しいです。それで、皆でキヨリスのコンセプトや品揃え、店舗の運営方法を考えました」
すると矢田部が感心した顔で、
「ほうっ? 中学生かぁ」
と言った。紀代は続けた。
「今ある他のスーパーマーケットは親とか祖父母にくっついてスーパーに行く子が多いので、店内を歩いて見ると分りますが、子供たちが少ないです。小学校の高学年から高校生までの間は親や祖父母と一緒にお買い物するのが恥ずかしいって気持ちがあります。それで、わたくしたちは親にくっついて行くと言うコンセプトを変えまして、子供に手を引かれてスーパーに行くように考えました。つまり、商品の選択、店内の内装、雰囲気などを中高生中心として、商品は中高生向けに加えて親のアラフォー世代と祖父母の世代へと幅広く揃えて、陳列棚の真ん中の良い場所は中高生をターゲットに、上半分は親、下の方は祖父母向けに陳列をさせました。ですから、今までのスーパーですと、食品は食品、衣料品は衣料品と分かれていますが、キヨリスでは親も祖父母も中高生も同じ場所で品物を手に取れるように致しました。具体的には棚の真ん中にはうちの製品のような美味しそうなお菓子が置いてあり、上は母親の化粧品、下はおばあちゃん用の靴下とか」
「それでうちの菓子が良く売れるわけだ」
「そうなんです。品物選びは自分で、お財布は母とか祖父母。普通子供が自分が欲しいものを買ってもらうには、親の欲しいものとは別の場所に行かなきゃならないことが多いですけれど、そうすると、親は面倒なのも手伝って『今度にしなさい』なんて言います。でも同じ場所か、近くにあれば、そんな風には言えませんよね」
そう言って紀代は笑った。
「なるほど、親としちゃ痛いとこを突かれたなぁ。自分の化粧品をカゴに入れておいて、子供のお菓子を入れないって訳にはいかんのだな」
矢田部も感心して笑った。
「ですから、キヨリスに行って頂ければ分りますが、他のスーパーに比べて子供たちの来店数が凄く多いです。それに若い母親は子供を預けてゆっくりお買い物をできますように無料の託児所もあります。スーパーは夜の九時まで開いており、年中無休ですから、朝から子供を預けて、夜、お買い物を済ませてから子供さんを引き取られる若い母親も多いです。無料の託児所ですからすごく助かるみたいです。託児所の脇には子供用品、おもちゃ、ベビーフーズ、もちろんお菓子も揃っていますから、お子様を引き取る時に子供のものを買って下さるお客様もすごく多いです。無料で預かってくれるので、お礼の気持ちも入れて買って下さるみたいです」
「なるほど、業績がいいわけだ。本当にそんなとこまで中学生が考えたのかね」
「はい。父がやりたいようにやれって言ってくれましたから」
常務も室長も感心して聞いていた。
「佐藤君、秋元さんの話を聞いたかね。実に素晴らしい。どうだ、うちにも直ぐに中高生を集めて新商品の企画会議を立ち上げてくれないか? 君さえ良かったら、秋元さんを座長にしてはどうかね」
「常務、分りました。人事部長とも相談をします」
「あっ、忘れておった。佐藤君、君の所の鈴木君だが、来月一杯で退社するそうだな」
「はい。聞いております」
「彼女は僕の遠縁の娘さんだが、お母さんの具合が相当に悪いそうで、看病に専念したいそうだ」
「そうでしたか。わたくしには家事の都合とだけしか言っていませんでした」
「そうか、仕事の引継ぎをよろしく頼むよ。君には大分無理を言って預かってもらったが、感謝しているよ」
紀代はその話を聞いて、鈴木はそんな存在だったのかと知った。常務の縁故だったのだ。
「秋元さん、鈴木君が君のことでメモを直接僕に渡してね」
紀代は一瞬胸がキュンとなり緊張した。多分生意気だとか仕事のことでちくられたのだろうと思った。矢田部は続けた。
「鈴木君のメモだと、佐藤君、彼女は秋元と言う新入二年目の女性が居るが、秋元さんはなかなかの才能があるから、秋元さんが才能を発揮できるように環境を整えてやり、実績が出たら特別に取り立ててやってもらえないかと言っておるのだよ」
それで、矢田部は紀代の方を見て、
「君は良き先輩を失くしてしまうが、これからもよろしく頼むよ」
と言った。紀代は唖然として返す言葉がなかった。人とは分らないものだと心の中で思った。
六十 別れ
新しい出会いは、新しい別れの始まりとは言い古された言葉だが、一年と少しつき合わさせられた紀代の上司の鈴木君子が退職をすることになった。君子の退職の理由については、図らずも工場長から既に聞かされて知っていたが、紀代はそのことを同僚の誰にも話さなかった。
朝会の席で、佐藤室長から退職されると発表があった時、驚く者が多かったが、室員の半分は、
「やれやれ」
と言う安堵の表情を隠さなかった。紀代は工場長の矢田部から話を聞かされてから、鈴木君子への気持ちに変化が生まれていた。それで、室長の話があった時、機会があれば、一度鈴木君子と本音で話をしてみたいと思った。
君子は早くに父親を亡くし、母一人娘一人でつつましく暮らして来た。母親には兄が一人居り、結婚をしていたが、兄の奥さんの妹の旦那が、大きな製菓会社の役員をしていた。その男は矢田部三四郎などと言う覚え易い名前だから、君子は直ぐに名前を覚えた。だが、君子が矢田部に会ったのは、親戚の結婚式の時一回切りで面識に乏しかった。
君子の父親は亡くなった時はまだ若かったから財産を残さず、君子の母は葬儀が終わってからは娘の君子を育てながらパートや内職をやって食い繋いで来たので、子供の時から君子は貧乏しか知らずに育った。
君子の母は、君子をせめて短大までは出してやろうと頑張り、そのお陰で君子は短大を卒業することができた。短大は英文科だった。
短大を卒業させてもらったのはいいのだが、折からの不況続きでなかなか就職口が決まらず、結局母は遠縁の矢田部に何とかしてくれとすがった。
矢田部は仕方なく、自分が可愛がっている後輩の佐藤健一に面倒を見てくれと押し付けた。佐藤は英文科出の君子を持て余したが、さりとて仕事をさせないわけには行かないので、個人的に仕事を教えた。
佐藤の努力の甲斐があって、君子がようやく仕事に慣れた頃、君子の母は腰を痛めて仕事が出来なくなり、母に代わって君子が家計を支えることになった。悪いことは重なるもので、腰痛に悩まされている母に喘息が襲い掛かった。咳を始めると止まらず、いつも胸を押さえて苦しそうにしていた。
最初のうちは買い物や簡単な家事はやってくれたのだが、次第に胸の病が悪化して、寝込むことが多くなり、さすがの君子にも負担になってきた。
そこで、君子は母親を入院させた。母親思いの君子にとっては、母を入院させるまでには自分の中で葛藤があった。自分がもっと時間を作って、できれば家の中で一緒に暮らして行きたい気持ちと、現実として、精神的、体力的な負担に耐えられない気持ちとが君子を悩ませた。
入院させてみて、確かに精神的、体力的に随分楽になった。だが、あっと言う間に三ヶ月を過ぎた時、行く手に大きな壁があるのを知った。
「鈴木さん、お母さまの病状は今よりも良くなることは現在の治療や医術では難しいです。私としては、このままずっと病院でお預かりしているのが良いと思っているのですが、ご存知の通り国の医療政策が変りまして、お母さまのようなケースは社会的入院と見做されて、百八十日ルール、つまりですな、入退院を繰り返した場合でも通算百八十日を越えると病院では預かれなくなり、退院して頂かなきゃならんのです。もちろん、百八十日を越えても入院を続けられる例外はあります。例えば人工呼吸を続けなきゃならんような患者さんなど相当の重病に限られるのです」
母親の担当医は申し訳なさそうに君子の顔を見た。
「先生、では今後どうすればよろしいんでしょう? 何か良い知恵がありましたらお聞かせ願えませんか」
すると医師は、
「老人介護の窓口にご相談なさったら何か良い方法があると思います」
とアドバイスしてくれた。君子はテレビで介護、介護と連日報道があるので、老人介護と言う言葉は知っていたが、自分の母親の要介護認定申請すらしていなかったのだ。
それで、市役所に行って相談をすると、要介護認定申請をするように言われて直ぐに申請をした。一週間が過ぎて、市から来たと言う調査員が母親の様子を見に来た。その後市の指定医師の意見書が出て、母親の介護に必要な時間の査定が行われた。どうやらこれを一次判定と言うらしいことが分った。更に、介護認定審査会で審査されて、申請書を出してから二ヶ月も経って、市から通知を受け取った。君子は初めて母親の公的な審査結果を見ることとなった。書面には[要介護1]と審査結果が書かれていた。君子は役所からもらった資料を既に隅々まで読んでいた。それで、要介護には1から5までの段階があり、説明書を読んだ範囲では[要介護3]位だろうと思っていたので、役所の認定は随分厳しいものだと思った。だが、要介護者に認定されてからは、君子が仕事をしている間に、少しだがヘルパーの訪問を頼めたので、気持ち的にはほんの少し楽になった。
君子は短大時代に合コンで知り合った彼が居た。だが、結婚話が持ち上がった時に彼の親に片親の相手はダメだと猛反対されて、結局別れてしまった。君子は母親の要介護の通知を見て、こんな時結婚していて旦那が居ればどんなにか気持ちが楽になっただろうと思った。母親の容態は見た所次第に悪化して、君子は昼間会社で落ち着いて仕事が出来なくなり、結局依願退職願いを出して退職した。収入がなければ食べて行けない。それで、夜の仕事をしようと決心したのだ。
「済みませんが、一時間くらいお時間を頂けませんでしょうか」
君子の送別会が終わった時、紀代は思い切って君子にそう言った。君子は怪訝な顔をしたが、
「一時間以内とお約束して下さるならいいわよ」
と承諾してくれた。それで、二人は皆と別れて、居酒屋に行った。紀代は君子の気持ちを良く理解していなくて申し訳なかったと謝り、これからもたまにご自宅にお邪魔しても構わないかと言った。そんな紀代からの頼みを聞いてから、君子はぽつりぽつりと自分のことを紀代に話してくれた。紀代は君子がそんな苦労をしていたのをちっとも知らず、それに、自分の母親は居ないも同然なのに会社を辞めてまで面倒を見ようとする母親が居る君子が羨ましいと思った。反面親の介護と言う大変な仕事をしなくてよい自分は考えてみると[恵まれている]と言ってもいいのではないかとも思った。
六十一 企画会議
紀代は人事部長と開発室長に相談して、工場長特命の新製品企画会議を立ち上げるに当たって、市内の中学校、高等学校に趣旨説明書とメンバー募集要項を送ってもらい、メンバーの募集から始めた。
所がだ、募集をかけてみると、
「面白そう」
「やってみたいな」
と言う中高生が多数応募して、選考が大変になった。募集メンバーの定員は女子十五名、男子五名、毎週土曜、日曜に三時間の会議を行い、謝礼は月額二万四千円、時給千円の計算だ。締切日までに三千五百人もの応募者が居て、この中から二十名を選び出すのはなかなか難しい。近頃の子供たちは生意気に、[企画会議]などと聞くとそれだけで参加をしてみたくなるのだ。人事部長も驚いて、採用試験事務に明るい部員を二名出してくれた。男は二十七歳になる丸山薫、女は千葉美佐子、二十四歳だった。紀代は二十三歳になったから紀代よりも一期先輩だ。
「これだけ大勢だとペーパーテストでもやって絞り込まないとヤバイよ」
丸山は会社の社員を募集する仕事に慣れていたから、
「絞込みはオレに任せろよ」
と言った。千葉も、
「そうよ、とにかく一定レベル以下の子は最初に篩にかけて落としちゃわなくちゃ大変よ」
と丸山に同調した。
「ダメです!」
紀代は二人の話を聞いてきっぱりと否定した。
「丸山さん、ペーパーテストとおっしゃいますが、どんな問題を出すの?」
すると、
「そりゃ決まってるよ。英数国の簡単な問題だよ。近頃は大学生だって、小学校で教えているような漢字が書けず、簡単な分数の掛け算を間違えたりするんだ。字もろくにかけない子は採用しても役に立たないよ」
紀代は具体的に話を聞いて唖然とした。
「丸山さん、『あなたはチャットをどれくらいやりますか?』なんて言う質問はないの」
「えっ? オレはチャットやってないから分からないけど、大事な質問なの」
「すると、千葉が、最近の中高生はチャットやってる子多いよ」
と紀代をフォローした。
「丸山さん、何かのアイデアを自分で考えて提案するなんてことにしたら、たいした収穫はないわね」
と紀代が言うと、
「どうして? 頭のいい子なら凄いアイデアを出してくれるんじゃないの」
と答えた。
「丸山さんの言う頭の良い子ってどんな子?」
「試験の成績を見れば分るよ。そうだなぁ、大学の教養課程で教えている問題なんかでもちゃんと回答できる子だな」
「参ったなぁ。丸山さんと話しが永遠に噛み合わないよ」
紀代は最初から匙を投げたくなったが、我慢した。
「新しい製品とか、売れ筋の製品を考えるって、一人の力で考えたものは即戦力と言うか直ぐに実績を出すのが難しいのよ」
「どうして?」
「そりゃ、まぐれで大当たりをすることはあるわよ。でも、まぐれを期待したらリスクが大き過ぎるわね。一番いいのは一人で十人分百人分の情報を集めて議論をできる子よ」
「そんなことできるのか」
「チャットとかツイッターよ。丸山さんもツイッターはやってらっしゃるでしょ?」
丸山は風向きが悪くなったと感じた。実は丸山はパソコンがそれほど得意でなかった。
「中学生でも頭のいい子はね、チャットとかツイッターを使って仲間に声をかけて、自分が考えたアイデアを皆に批評してもらったり、意見をもらって自分のアイデアを良くしたりするのよ。人気がある子は友達をいっぱい持ってるから、友達の友達、またその友達と輪を広げて一週間もあれば一万件以上のつぶやきから自分の欲しいデータを集めるわね。でも、そんな子に限って、字は書けないわ、計算は苦手なんて子結構多いわよ。丸山さんのテストじゃ最初に捨てられちゃう子だわね」
紀代はそう言って笑った。
「二十人が夫々毎週千件のデータを分析して持ち寄れば毎週二万人からの意見を元に企画会議で議論できるってわけよね」
と千葉がフォローした。
「そおいうこと。各人一万件なら毎週二十万人からのデータを元にってことよ」
紀代は丸山を見て笑った。
丸山はすっかり自信を無くしたようだ。だが、紀代は丸山をどうしたら上手に自分の世界に引きずり込んでやれるだろうと考えていた。
紀代は三人の会話をちゃんとICレコーダーに録音していた。キヨリス立ち上げの時にもそれをやったから経験済みだ。
紀代は工場長、人事部長、それに佐藤室長に三人の打ち合わせの様子を録音したICレコーダーを再生して聞かせた。
矢田部は、
「おいっ君、聞いたかね。ツイッターはうちの営業部でもやってるが、人事部も考え方を見直す必要があるんじゃないかね」
人事部長はせいぜい携帯のメール、それも奥さんとの間の帰るメール位で知識としてはツイッターを知っているが自分で書き込んだ経験もなかった。
「佐藤室長と人事部長さんにお願いがあるのですが」
「ああ、どんな願いだ?」
「企画会議の座長はやらせて頂きますが、製造現場に異動して頂けません?」
「秋元さん、本当に出たいのか」
「はい」
「驚いたなぁ。普通は現場から開発に行きたいと言う奴は多くても現場に行きたい奴は少ないんだよ。どうして出たいんだ?」
「現場を知っていると新製品の立ち上げを早く出来ますし、現場にお友達ができますから」
「秋元さん、そんなにあせらなくてもいいよ」
佐藤が口出しした。
「いえ、わたくしはあせっていませんが、会社は新製品を早く市場に出したいとあせってもいいんじゃないかと思いまして」
工場長と人事部長は返す言葉がなかった。
それで、翌月から紀代は製造部に異動が決まった。
「ありゃ、確かに才能と経営センスがあるなぁ。鈴木君がメモしてきた通りだな」
紀代の報告が終わってから、矢田部は呟いた。
六十二 現場の仕事
企画会議のメンバー選考は丸山が紀代の意見に折れて、
一、インターネットへの一日平均のアクセス時間、ツイッター、ブログ、チャットなどの活用状況、ネット上の友達数
二、特別課題として食べてみたい菓子の絵を描いて説明を入れる
三、趣味、将来への夢を具体的に説明する
の三項目について記名式のアンケートにより絞込みが行われることになった。
紀代は回収したアンケート用紙三千五百枚を一枚一枚千葉美佐子と二人でチェックした。その結果三百三十五名が残った。つまりアンケートの結果約十分の一に絞り込まれた。紀代は一日五十名平均で応募者一人一人と面談した。それで一週間かかったが、どうにか二十名の合格者を決めることができた。
紀代は落選した生徒たち全員に何故ダメだったかを説明した資料に自社の新製品のお菓子を付けて送った。今回選ばれなかったことに腹を立てずにこの際会社のお菓子のファンになって下さいと書き加えた。
第一回目の会議は顔合わせと雑談としたが、学校の制服ではなく、普段着で来るように指示した。それで、会議に集めてみると型破りな服装の子が半分も居た。世の中ではどうしようもなくて、近所でも鼻摘まみになっていると思われる子も居た。
「秋元さん、あんなのが入っていても大丈夫ですか」
丸山と千葉が心配そうな顔をした。だが紀代は平然と、
「結果を見てから判断なさったら? 昔から人は見かけによらないものって言いますよね」
と言い放った。
会議を始めてみると、そのどうしようもないと思われた子たちも紀代が期待した通りなかなか良いアイデアを出してくれるし、ネットでの反応なども的確に捉えていた。一番良かったのは、服装が乱れている子たちの方が仲間と上手くやってくれることだった。多分家ではダメだダメだとけちょんけちょんにやられているのに、この会議では紀代が一人前の男性や女性として平等に扱ったので、それが彼や彼女達の気持ちを奮い立てたのだろう。人は誰でも、[どうしてもあなたの力が必要だから]とはっきり言われると悪い気はしないものだと紀代は信じていたのだ。
紀代は製造現場に異動になってからは、できるだけ先輩たちを立てて、現場の苦労を分ろうと努力した。開発室で新製品の案が固まると、今までは製造部門と打ち合わせをして、製造上ネックになる所は修正して妥協案を作って最終案として役員会にかけるのだ。だが、紀代は企画会議と打ち合わせを平行して進めたので案が固まった時には既に製造部門とのすり合わせを済ませていた。それで、三ヶ月もすると、新製品の試作品が上がって来た。初めて見る自分達の作品を前にして、企画会議のメンバーの中高生の目は輝いていた。もちろん試食会もやった。
半年後、目標の十点の新製品が発売となった。発売に先立って営業部門が中心となりキャンペーンを行うのだが、紀代は企画会議のメンバーを総動員してネット上で大々的にキャンペーンを行った。そのためか、発売当初は品切れが続出して営業部門を驚かせた。紀代はキヨリスの立ち上げで、インターネットでの口コミ効果の凄さを既に経験していたのだ。消極的にホームページに掲載する企業はどこにでもあるが、積極的にネットワークを駆使してチャットやツイッターで噂を広げるやり方は紀代が勤める製菓会社では初めての試みだったのだ。通常新製品の発売には無料で試食品を配るのだが、発売当初品薄になり、定価より高くても買いたい子供たちが殺到、行列を作った。これには営業本部長が唸った。
紀代の所に営業本部長が部下を連れてやってきた。
「君、驚いたねぇ。インターネットの宣伝効果がこんなに凄いのを知らなかったよ」
そこで紀代は誤解のないようにと説明をした。
「どこの会社でも広告会社とかに依頼してネットでのキャンペーンはやってます。でも、うちのやりかたとどこが違うかお分かりですか?」
「何? 特別な裏の手でもあるのかね」
「いいえ。違う所は一つだけです」
「ほう? 一つだけ違う?」
「はい。噂を広げた大元は新製品を自分達の手で開発した子供たちです。子供たちは自分の口で自分達が苦労して開発した自負心と誇りを持ってお菓子の噂を流すので、人から頼まれたり下請けで宣伝するのとは迫力が全然違いますのよ。子供たちが流す噂は最初に学校に広まり、欲しい人がお店に買いに行くと品切れで手に入りません。そうするとますます欲しくなり、既に食べた人は自慢するでしょ? そんな場面を作り上げるのです。ですから行列ができてもおかしくはありませんよね。今の中高生は携帯のメールとかであっと言う間に噂を広げますから、学校中で食べたい人がいっぱい出ちゃいます。でも品切れで買えない、手に入らない」
と紀代が笑った。
「自負心と誇りかぁ」
本部長はまた唸った。
企画会議の初めての新製品の好評で矢田部は気を良くして企画会議のメンバーに特別にボーナスを払いたいと言った。紀代はキヨリスのことを思い出して、お金でボーナスを払う代わりに、企画会議のメンバー全員に中国、韓国に旅行させてやって欲しいと申し出た。
「いずれは輸出もしますよね」
「ん。会社としては当然だ」
「ですが、味が同じでなくて、中国や韓国の子供たちに合う味の製品にした方がいいですよね」
「そりゃそうだ」
「ですから、子供たちにあちらの子供たちと試食会をやらせて、意見をもらったり、友達を作ってネット上の仲間を作らせたいのです」
結局紀代の意見が採用されて、全員修学旅行のプレゼントをもらうことになった。
紀代は製造現場では流れ作業の中で他の作業員と全く同じ仕事をさせてもらった。製造ラインには予想したより人が少なくて、殆ど自動化されていたから、主に機械の調子を見たり、自動的にはねられた不具合品のチェックなどの作業をした。
ラインでは忙しく走り回る男たちが目に付いた。彼らは生産技術部の部員で、主にラインがストップしないように機械の保守を担当しているのだ。紀代が監視している装置が包装紙を噛んでストップした時直ぐに飛んできた男が居た。ストップしている間はやることがないから、紀代は男が作業をする様子を見ていた。原因が分かって、機械が元通り動き始めると、男は紀代の顔を見て親指を立ててにっこりした。紀代はその男に好感を覚えた。
何度か保守に来たその男の胸の名札を見ると、[生産技術部メンテナンスグループ 橋本徹]と書いてあった。
「あなた橋本君って言うのね」
「はい」
男はちょっと恥ずかしそうに紀代の顔を見た。
「いつもお世話になってるから、たまにはお茶しない」
紀代が誘うと、
「オレでもいいんですか」
と返事した。
「バカねぇ、お茶するだけよ。変なことを考えないで」
すると、
「いいですよ」
と言って、胸ポケットから手帳を出して、
「これ携帯の」
と手帳を破いて紙切れを紀代に渡すと逃げるように帰って行った。
「可愛いやつ」
と紀代は笑って紙切れをポケットに捩じ込んだ。
六十三 女からデートに誘われて
今は女も強くなって女の方から男に、
「デートしようよ」
なんて誘うこともあるが、一般的にはデートは男が誘うことに相場が決まっている。デートに誘って欲しい女も自分から誘わずに相手の男が誘うように仕向けるのが上手いやり方だろう。
だが、紀代はそんなことにはおかまいなしに橋本徹に、
「たまにはお茶しない?」
と誘った。徹の方が紀代より二歳年下で、紀代は大人っぽかったのに比べて徹は子供子供していたから、弟を労ってやろう位の気持ちだった。もっとも、紀代だって、自分が好きで恋仲になりたいと思っている男に対しては違った接し方をしただろう。
紀代に声をかけられて、携帯の番号を書いたメモを紀代に渡した徹はその日は落ち着かなかった。家に帰っても紀代から電話が来るんじゃないかとそればかり気にしていた。
電話なんて待っているとなかなか来ないものだ。徹は相当にじれて、携帯を枕元に置いてテレビを見ているうちに、結局いつの間にか眠ってしまった。
朝起きて携帯を見ると着信があった。徹は、
「くそっ、こんな時にマナーモードを解除してなかったな。僕ってダメだなぁ」
と後悔した。どうやら徹が眠ってしまってから紀代から着信があったようだ。
「朝から済みません。夕べ電話をもらったみたいですが、眠くなって寝ちゃったみたいです」
徹は紀代に電話で謝った。
「あたしも悪かったわね。もう少し早く電話をすれば良かったわね。どう? 今夜は忙しいの」
「いえ、大丈夫です。秋元さんのご都合に合わせます」
紀代は多分徹はそう答えるだろうと思って返事をしたのだ。それで、仕事が終わってから川崎駅で待ち合わせしようと言うことになった。鶴見駅では会社の同僚がうようよしているから、後であらぬ噂を立てられても困ると思ったからだ。
携帯があるから、大きな駅で待ち合わせても行き違いやはぐれる心配はない。徹は紀代を見付けるとにこにこしてやってきた。徹は女としては綺麗系でちょっとした魅力のある紀代と肩を並べて歩くなんて誇らしかった。
紀代は前に寄ったことがある川崎駅前の[千の庭]と言う居酒屋に案内した。この店は女どうしの飲み会も良くやっている、どちらかと言えば女性に人気のある店だった。二人から個室を頼めるからレジで、
「個室空いてません?」
と聞くと、
「空いてます、どうぞ」
と案内された。
紀代が気を利かせて個室にしてくれたので、徹は嬉しかった。なんたって今夜は紀代のおごりだ。
「秋元さん、この店、時々来るんですか」
「今日で二回目。徹君、飲めるんでしょ」
「僕、あまり強くないです。でも飲みます」
紀代はメニューを見て適当に何品かを注文して、
「ビール、生、先に持ってきて」
と店員に頼んだ。ビールは直ぐに届いた。
「今夜は徹君に感謝の気持ちを込めて……乾杯っ!」
徹の顔が少し赤らんだ頃、徹は自分のことを話し始めた。紀代は聞き役に回って徹の話を聞いた。
「新潟県の糸魚川、知ってるよね」
「行ったことはないけど、名前は知ってるわよ」
「僕、糸魚川市能生の生れなんだ」
「確か、長野の白馬をずっと海の方に行くと糸魚川でしょ」
「僕が生れたのは糸魚川市と言っても糸魚川の近くでなくて、昔は西頚城郡能生町で糸魚川から海沿いに上越の方に向って20kmも行った所の漁師町なんだ」
「そう? 冬は寒い所でしょ?」
「ん。すごく寒かったな。中学は市内の能生中で、僕の家は貧乏だったから、中学を出てから長岡工業高等専門学校に行かせてもらったんだ」
「高専って高校と短大をつなげたみたいな五年制でしたよね」
「ん。最初の三年は高校みたいな授業だけど、普通の高校と違う所は三年間の間も技術的な授業もあるんだ」
「徹君はどんな勉強をしたの」
「僕は電子機械システム工学ってのを専攻した」
「それで卒業後今の会社に入ったの」
「ん。高専卒は給料は短大扱いだから安いけど、就職率はいいんだ」
「ご両親はお元気なの」
「ん。今でも能生で元気にしてる。学費は奨学金もらって足しにしたから、今は返済中。結構きついんだ」
「どれくらい?」
「親元を離れてアパート借りてたから、毎月八万円借りてた。五年間だから、全部で四百八十万円。卒業してから月々二万円返してるから厳しいよ。二十年間もかかって返すんだから気が遠くなるなぁ」
徹は苦笑いした。
「利子は安いの?」
「無利子だからさ、借りた分だけ返せばいいんだ」
紀代は徹の懐具合を頭の中で計算した。初任給は手取りで十五万弱だから、生活保護世帯並の生活だ。
「大変だね」
「ん」
紀代は自分も苦労してきたが、徹の現実を聞かされて、下には下が居るものだと思った。大学時代に奨学金を借りて、会社で部長になっても返済をしない者が居ると言うのに、徹はちゃんと頑張って返済しているらしく、紀代は真面目で実直な徹の素顔を見たような気がした。
話をしているうちに、徹は突然酔いが回ったらしく話しがぴたりと止まり、テーブルに顔をくっ付けてダウンしてしまった。紀代は会計を済ますと、
「徹君、しっかりしなよぉ」
と何とか起こして店員に手伝ってもらって店の外に出た。電車で帰るのは無理だ。酔っ払った徹から何とか住所を聞き出すとタクシーを拾った。
徹は小柄だったが、女の手には男は重い。徹のアパートの前でタクシーを降りるとえんやこらと徹を引き摺るようにしてどうにかドアーまで辿り着いた。紀代は徹のポケットの中を探して鍵を見付けるとドアーを開けた。部屋の明かりを点けると、中はがらんとして、洋服が部屋の隅に積み重ねてある他は旧い小さなテレビとビデオデッキを除いて何もなかった。洗濯はどうやら外の共同使用の洗濯機でやるらしい。トイレの他はバスもなく、小さなレンジと流しがあった。徹の部屋は思ったより片付いていて、壁に箒がぶら下げてあった。掃除機はなく、どうやら昔のように箒で掃除をしているらしい。紀代は押入れを開けた。上段には専門書や漫画がうず高く積み上げられていて、下段に薄っぺらな敷布団、掛け布団、それに毛布と枕があった。
紀代はそれを引っ張り出すと布団の脇に工具箱みたいな箱があった。紀代は引っ張り出した布団を延べると、ぐったりしている徹の上着を剥ぎ取り、徹をを横に寝かせて、靴下を脱がせて毛布と掛け布団をかけてやった。
冷蔵庫はなく、流しの下のダンボール箱に野菜と玉子が少し置いてあるだけだった。会社で仕事をしている徹は貧しい生活をしているなんて全然顔には出さなかったから、紀代は徹がこんなに苦労しているのを見て、なんだか目頭が熱くなっていた。
「よしっ、徹のやつ、これからは少しは可愛がってやるか」
紀代は一人呟きながらそっとドアを閉じると自分のアパートの方に歩き出した。
六十四 友達? 恋人? 保護者?
女性の立場では、お友達と恋人との間にははっきりとした気持ちの違いを持っているのが普通だ。だが、これも付き合っている相手によって流動的だ。お友達だと紹介されて、そう思っていたら次に会った時には、
「あたしの旦那様です」
なんて紹介されて驚かされることだってあるのだ。兎に角、女と男の仲は神秘的で微妙だ。女性は恋人なのに彼のことを、
「あたしの保護者です」
なんて言うことだってある。結婚をすれば被扶養家族になるんだから、保護者と言えなくもないが、恋人と言うのと微妙に関係の違いを表しているようにも取れる。
紀代は橋本徹の生活の様子を知り、実直で真面目な性格も知った。それで、初めてのデートで徹が泥酔して以来、弟のように何かと面倒を見た。会社の中の女たちの間では噂話に尾鰭が付いたりするから、紀代は社内では全くと言って良いほど徹と友達だと言うことが知られないように努め、二人の距離感覚を崩さなかった。徹もそれを良く理解しており、会社の中ではすれ違っても普通に挨拶を交わす程度だった。
一年が過ぎて、徹は一万円でポンコツ寸前の原付バイク(原動機付き自転車)を買って来て自分で整備して走り回れるようになった。原付は一年間の税金が千円、自賠責保険料は三年間で一万五百八十円だから、徹の苦しい生活でも何とかやりくりが出来た。燃費は1リットルで30キロ近くも走るから近くを走り回ってもガソリン代は負担にはならなかった。車検の必要がないので、自分で整備して走れるならそれで良かった。徹は原付を買うと、早速鶴見川沿いの道や近くの公園など色々な所にでかけた。休みの日には、玉川を渡って都内のあちこちにも足を伸ばした。
二人乗りが出来るならたまには紀代と一緒に出かけたいのだが、50ccの原付は二人乗りは禁止だから、出かける時はいつも独りだった。自分が住んでいる安アパートから、ガソリン1リットル、百四十円も払えば浅草まで行けるのだから、電車賃に比べればずっと安いのだ。だから、今までと違って休日が楽しくなった。
ここのとこ、紀代が自分に良くしてくれるので徹の気持ちは充実していた。金曜日の夜は大抵どこかのレストランに誘ってくれて腹いっぱい食べさせてくれる。紀代に誘われて街を歩く時、手はつないでくれなかったが、紀代と肩を並べて歩くのが好きだった。
それで、回数を重ねるうちに、徹はすっかり紀代に片想いをしていた。紀代は徹が自分のことを友達とか弟でなく恋人として好いていることには気付いていたが、紀代はその気がなかった。紀代の心の中には新宿で携帯ストラップを切るのにジッポの火を貸してくれたあの男がいつしかどっかりと居座っていたのだ。
お天気が良い日に、徹は原付で行ったことがある三つ池公園に紀代を誘った。紀代たちが住んでいる所から歩いても遠くはない所だが、大きな池の周囲に林があり、春には桜の名勝となっている綺麗な公園だった。紀代は徹のためにお弁当を作って持って行った。
一人分にしては多すぎる量の弁当を徹は、
「美味しい」
を連発して全部たいらげた。そのせいか、昼食が終わって、林の木漏れ日の中で寝そべっているうちに、徹は眠ってしまった。
「チュッ!」
とほっぺたにチューをされて徹は目を覚ました。眠っている徹の横顔が可愛かったので、紀代がついチューをしたのだ。だが、徹は紀代の気持ちを誤解して、顔を赤らめて恥ずかしそうな表情をして紀代から目を逸らせた。
その様子を見て、
「バカねぇ、徹の寝顔が可愛かったからちょっと悪戯しただけよ」
と紀代は笑った。
「おい、随分探したぜ、いつ引っ越したんだ?」
その日突然士道が訪ねて来た。
「おじさまの連絡先聞いてなかったから。あたし、会社勤めを始めた時に三軒茶屋を引き払って引っ越したの」
「そうか、秀子さんに聞いてここを教えてもらったんだ」
「ごめんね。今度連絡先を教えて下さらない」
「ダメだ」
「どうして?」
「女の子は寂しい時、用もないのに電話してくるだろ?」
「そう言う事多いわね」
「オレはそう言うのって苦手と言うか嫌いだ」
紀代はそんな士道のドライな性格が好きなのかとその時気付いたような気がした。
「オジサマ、忙しいんでしょ」
「まぁな」
「今夜泊まって行けない?」
「いいよ。紀代はいいのか」
「またあたしの手料理を食べて行って下さらない」
「そりゃ、嬉しいね」
「オジサマ、どんなお仕事で忙しいの?」
「金策」
と言って士道は笑った。その笑顔にどこか必死なものを感じて、
「大変なの?」
と聞いてみた。金策とは色々考えて必要な金を工面することだ。
「生活には困らんが、ちょっとした金を集めにゃならんのさ」
「十億円とか?」
紀代はあてずっぽうに言ってみた。
「それぐらいなら苦労は要らんよ。数百億だ」
紀代はそれ以上は聞けなかった。何か聞いてはいけない背景がありそうに思えたからだ。
「所で、紀代ちゃんはまだ彼が居ないのか」
部屋の中を見ると男の臭いがしなかったのだろう。紀代は徹を自分の住いに上げたことはなかった。
「ん。まだ居ないよ」
「遊び相手が欲しい年頃だろ?」
「ええ、でも気が合わない男とは付き合いたくないもん」
「そりゃそうだ」
「オジサマならいいけど」
「バカ、冗談は休み休みだぜ。オレは紀代ちゃんが好きだが恋人にはしねぇ」
「年が違い過ぎるから?」
「年は関係ねぇ。オレの中では愛娘だよ」
そう言って士道は微笑んだ。紀代は士道になら自分のバージンを開けさせてもいいと思っていた。
「そうだ、明日の日曜日、時間あるのか?」
「空けられるよ」
「じゃ、クルージングに付き合えよ。紀代が好きになりそうな奴も来るぜ」
「どこから?」
「横浜のハーバーから新島あたりまで行くつもりだ」
それで翌日紀代は士道にくっ付いて行く約束をした。
六十五 不思議な出会い
紀代が朝目を覚ますと、士道は新聞を読んでいた。
「おっ、姫、お目覚めかな?」
士道は珍しくおどけた声をかけた。
「おはようございます。オジサマ、早いですね」
紀代は身支度を整えるとキッチンで簡単な朝食を用意した。その間、士道はどこかと電話をしていた。
朝食が終わって、ゆっくりお茶をすすっていると、チャイムが鳴った。
「あら、朝からどなたかしら?」
紀代が首をかしげると、
「多分オレが呼んだ奴だ」
と士道も立って来た。
「頭、おはようございます」
ドアーを開けると、ゴルフ焼けだろうか、顔が真っ黒に日焼けした青年が立っていた。
「中村も一緒か?」
「はい」
「紹介しよう。こいつは柳沢だ。こっちはオレの愛娘の紀代さんだ」
「頭、こんなに綺麗なお嬢様が居たんですか?」
「冗談だ。郡山のダチの娘さんだよ」
と士道は笑った。今朝はご機嫌の様子だ。
「紀代ちゃん、仕度をしてくれ」
「あっ、もうしてあります」
紀代は赤いセーターに真っ白なパンツを履いて、白いキャップと化粧道具と着替えを入れた小さな白いバッグを持って来た。
「よしっ、行くぞ」
外に出ると白い大きなベンツが停まっていた。どうやら運転する男が中村らしい。
助手席に柳沢、後部座席に紀代と士道が乗ると、ベンツは直ぐに走り出した。ベンツは大黒埠頭の方向に走り、生麦から高速5号に乗った。直ぐに大黒ジャンクションをぐるぐると回り、横浜ベイブリッジを過ぎるとそのまま湾岸高速道路を走って、本牧埠頭から磯子を通り過ぎて杉田で高速を降りた。しばらく国道を走って鳥浜町の交差点を左折すると、やがて横浜ベイサイドマリーナの駐車場に入った。
「頭、着きました」
「早かったな」
四人は受付を済ますとオーナーブリッジ(桟橋)に向って歩いた。そこに全長50フィート(約15m)の大型クルーザーがあり、既に先に来た男たちが黙々と準備作業をしていた。
「具合はどうだ」
と男の一人に声をかけると、男は無言でVサインを返した。準備している男は三人居た。
「おいっ、姫を紹介するから集まってくれ」
士道の声に作業中の男たちが手を休めてやってきた。どうやら女は紀代一人らしい。
「こちら、郡山のダチの娘さんの紀代さんだ。クルージングは初めてらしいからよろしく頼む」
それで、士道は三人を紀代に紹介始めた。
「この太った奴は田中だ。横浜に住んでる。小柄な奴は小室だ。名前まで小せい」
と士道が笑うと、
「冗談じゃねぇっす。これでも1m68ですよ」
とむきになった。
「こいつも横浜育ちだ」
三人目は煙草をくわえて海の方を見ていた。「おいっ、藤島っ、ちょい顔を貸してくれ」
士道が声をかけると男が士道と紀代の方を振り向いた。
「あっ」
三人目の男藤島と紀代が同時に驚いて声をあげた。
三人目の男は紀代が新宿でライターの火を借りた奴だったのだ。紀代の胸は割れるように波打った。偶然とは不思議なものだ。
「なんだ、お前達顔見知りか」
紀代が、
「は、はいっ」
と返事した。自分でも声がどこから出ているのか疑うほど、紀代の声はかすれ、声色が一オクターブ上がっているほどだった。男は、
「奇遇だな」
と呟いた。
「紀代、大丈夫か?」
士道が紀代に声をかけた。
「はい、大丈夫です。偶然だったから、驚いてしまって……」
「だろうな。オレも紀代のあんな顔と声は初めてだぜ」
と士道は笑った。三人目の男藤島は、
「改めてよろしくな」
と紀代に手を差し延べた。紀代はつられて男の手に触れた。藤島は軽く握手をしてくれたが、紀代は手の指先から全身に電流が走ったように感じていた。
準備が整ったらしく、クルーザーは静かに海に浮かべられた。白い大きなクルーザーだった。紀代がクルーザーの綺麗な姿に見とれていると、
「キャプテンはオレだ。オレはこいつのオーナーだよ」
と士道が紀代をさっと抱きかかえてクルーザーに乗せてくれた。士道に抱きかかえられた時、紀代はゾクッとした。
「あたし、今日はなんだか気持ちがおかしいかも」
紀代は心の中でそう思った。なんたって大好きな士道に生まれて初めてだっこしてもらったのだ。士道の逞しい腕に抱きかかえられている間、全身が痺れるような気分だった。 それに、ずっと片想いをしていた藤島さん、名前を聞いても教えてくれなかったくせに、今日は握手までしてくれたのだ。
クルーザーの中に入って、紀代はまた驚いた。兎に角高級な別荘の居間のように、贅沢な調度品が並んでいて、とても船の中とは思えない位なのだ。
「上に上がってみませんか? 景色がいいですよ」
声をかけたのは藤島だ。紀代は差し出された藤島の手を取ると、藤島はひょいと紀代を上に引き揚げてくれた。そこはこじんまりとした楽園のような空間で、360度周囲が見渡せた。
「紀代さんは紀代さんと呼んでもいいですか? 名字は?」
「あたし秋元と申します。季節の秋に元々の元です」
「じゃ、秋元さんと呼びましょうか」
「いえ、紀代と呼んで下さい」
藤島は紀代には丁寧な言葉遣いをした。前に会った時のように普通に話しかけてくれればいいのにと紀代は内心思った。
クルーザーは鈍いエンジン音と共にゆっくりとハーバーを出て、東京湾に出ると速度を少し上げた。快晴で海は静かで揺れは少なかった。
藤島はしばらく紀代のそばに座って、紀代と一緒に海を見ていた。右手の岸に何隻もの大きな軍用艦が係留されているのを紀代か見ているのに気付いて藤島は、
「あそこは米国ネイビィの横須賀基地ですよ」
と説明した。
やがて三浦半島の観音崎を過ぎると外海に出た。今までと違って急に船の揺れが大きくなり、クルーザーの速度が上がった。
見渡す限り前方は海だ。クルーザーは船尾に白波を立てて軽快に走っていた。
「今、どれ位のスピードが出てるんですか」
「ほぼ60キロだな。このクルーザーは100キロだって出せるんだけど、揺れが激しくなるからこれくらいのスピードが一番快適だね。こいつはオートマチックだから、GPSでセットしておくと、操船するやつは何もすることがないんだ」
と言って藤島は笑った。
「今は自動車のハンドルと同じようなのが付いていて、ハーバーで細かい操船をしたり、海が荒れている時以外は舵取りは殆どやらなくても船は一定の速度で目的点に向って走ってくれるんだよ」
と付け加えた。
「ちょっと聞いてもいいですか」
「ああ、いいよ」
「藤島さん、お名前はなんておっしゃるの」
紀代は一歩踏み込んだつもりだ。
「僕の名前? 僕は光二、光に数字の二だ」
「こうじさん?」
「そうだよ」
「あたしも光二さんと呼んでもいいかしら?」
「ああ。いいよ。オレも紀代さんと呼ぶよ」
紀代は藤島に一歩近付いた気がした。
前方に大きな島が見えてきた。
「あれが大島だよ」
と藤島が説明した時下から、
「おい、藤島の兄貴、そろそろお昼のおかずだってよ」
と藤島を呼んだ。
「ちょっとお昼のおかずを獲るから下に行くよ」
そう言って藤島は下りて行った。
大島の近海で釣りをやるらしいことがその後になって分かった。柳沢は操舵係りらしく、ハンドルのそばに居た。他の中村、藤島、田中、小室の四人が間もなく釣り糸を垂らした。船は殆ど停船した感じになっていた。
「今日は引きがいいなぁ」
そう言っていると、大きい魚が次々と釣り上げられた。紀代も下に降りて釣りの様子を見た。イサキだった。紀代は料理が得意だから、見て直ぐに分かった。釣り上げられたイサキはデッキの上で跳ねていた。
「おさしみにしてもいいんですか」
紀代は士道に聞いた。
「ああ、紀代ちゃんおろせるのか」
「ええ、一応」
「じゃ、やってくれ。この人数じゃ四匹か五匹捌いたら丁度いいね」
それで、紀代はキッチンにイサキをぶら下げて行って生きてるやつを次々に刺身におろした。キッチンには一通りの調理用具やガスコンロなどが揃っていた。もちろん什器も揃っていた。
紀代は手馴れた包丁捌きで刺身にすると、頭を捨てないで味噌汁も作った。
ご飯は炊飯器で既に炊きあがっていた。見ると生わさびまでちゃんと用意してあった。
六十六 電話
クルーザーが横浜ベイサイドマリーナに戻ってきたのは、夕闇が迫る少し前で、水面が紅色の残光を反射してファンタジックな雰囲気の中を音も立てずにゆっくりと桟橋に近付いていた。
紀代は真っ白な大きなクルーザーに乗船して、大島沖で刺身を腹いっぱい食べてから、利島、新島、式根島まで行って、式根島とその先の神津島の間を回って戻ってきたのが夢のように思えた。素的な船の上で、以前から会いたくて仕方がなかった藤島と親しくなれてこの上なく幸せな気持ちに包まれていた。
「時間よ止まれ」
と言いたいくらいだった。
「光二さん、携帯の番号を教えて下さいません?」
紀代の願いに光二は少し困った顔をした。
「携帯はやめとけ。用があればここに電話をしてくれ」
光二はポケットからティッシュを取り出して、電話番号045―×××―371×を書き付けて紀代に渡した。
「携帯に電話をされると紀代さんに迷惑をかけるかも知れんからな」
「あら、どうして?」
紀代は理由が分らなかった。
「オレが住んでいる世界じゃ悪い奴も居るからな、万一だけど、紀代さんのアドが悪用されちゃ責任取れねぇからだよ」
紀代は納得させられた。
乗船した七人はクルーザーから下船すると、荷物を片付けて、めいめい勝手な方向に帰って行った。紀代はベンツに乗せてもらったが、JR根岸線の新杉田駅で下ろされた。
「紀代ちゃん、悪いがここから電車で帰ってくれ」
士道はそう言うと子分の中村と柳沢と共に国道を遠ざかって行った。
電車に乗ってからも、紀代は今日の出来事の余韻に包まれていた。藤島からもらったティッシュを電話番号が内側になるように丁寧に畳み直して、念のため手帳にも書き写してバッグにしまった。
鶴見のマンションに戻ると、潮風でバサバサになった髪の毛をシャンプーで綺麗に洗ってから湯船に浸かった。湯船にゆっくりと浸かっていると、昼間の藤島との出会いが思い出されて、
「今度はいつ会えるだろう」
と次のことまで考えていた。
風呂から上がると、夕食の仕度が面倒になり、冷蔵庫から冷えた缶ビールとサラミソーセージを取り出してテレビの前に座り込んだ。最初の一口が喉を通ると思わず、
「美味しいっ」
と独り言を言った。
テレビのドラマを見ていると、電話機の留守電着信を示すランプが点滅しているのに気付いた。
「どこからだろう」
丁度その時CMに変ったので、紀代は立ち上がって電話機の再生ボタンを押した。
「吉村、吉村啓です。ご無沙汰しています。よろしかったらご都合の良い時に会って頂けませんでしょうか? お返事をお待ちしております」
留守電のメッセージを聞き終わると、紀代はむかついた。せっかく今日は幸せな気分に浸っていたのに、あいつの留守電で気分が壊れてしまったからだ。
「あんな奴の顔、見たくもないよ」
紀代は独り言を言いながらテレビの前に戻った。
吉村啓は旧財閥系の大手銀行に就職が決まり、京都大学を卒業すると、東京に引っ越した。就職難の時代だが、京大経済卒なので、希望の銀行の内定が直ぐに決まったのだ。大学時代に付き合っていた女の子は梅園絹江と言う可愛い甘えん坊の女の子で、啓は甘えん坊の所が好きだった。
それで、大学卒業間近になった時、絹江とお付き合いさせて欲しいと正式に申し込んだ。だが絹江の母親から、
「お断りします」
とキッパリとした断りの電話があった。母親は理由を言わなかった。
「兎に角ダメです。お引取り下さい」
の一点張りだった。絹江に、
「どうしてだ?」
と聞くと、
「おばあちゃんが猛反対したの。ごめんね。あたしは啓さん好きやけど、ダメだって」
啓は納得できずに、絹江に問い質した。
すると予期しない話しが返ってきた。梅園家は由緒ある旧華族羽林家の家格で、閑院家の家系になる。絹江は閑院家の末裔だ。それで祖母が、
「士族ならまだしも、華族の娘が平民の家に嫁ぐなぞとんでもない」
と猛反対したらしいことが分った。戦後廃止された明治時代の貴族階級が、年寄りの意識の中にはまだ色濃く残っているのだ。
この話を聞いて、啓はあきらめた。啓の家は農家だ。だから旧戸籍制度では平民だったのだ。確かに、明治時代だったら許される話しではない。(フィクションなので、絹江は実在する梅園家とは何ら関係はない)
銀行に就職して、ようやく仕事に慣れてきた時、上司が啓の所に○《まる》秘と書かれたリストを持って来た。
「このリストは○秘扱いだから取り扱いに気を付けてくれ。これは個人名義の普通預金口座で金額が大きい人から順に一覧にしたものだ、大切な個人情報だと言うことは分るな?」
「はい。充分に気を付けます」
「それでだ、残高が一億円以上で動きのない者を調べてくれ」
「調べて資産運用を勧めるのですか」
「さすが京大出だな。良い質問だ。その人の仕事や人柄を調べ上げて、その人に合った財テクを勧めるんだよ。銀行としてもだ、最低定期預金にでもしてもらわないと資金運用できないからな」
それで、啓はリストを入念に調べ始めた。
「金はある所にあると言われているけれど、一億以上でも随分多いんだなぁ」
啓は人数の多さに目を見張った。
リストを調べていく内に、[秋元紀代]と言う口座に目が止まった。普通預金口座の残高が二億円以上もあり、ここのとこ年々数千万円が振り込まれているのに、今まで一度も引き出した形跡がなかったからだ。
調べていく内に、啓は驚いた。口座の名義人は紛れもなく京都に自分を訪ねてやってきた幼馴染の紀代だったからだ。
「へぇーっ、最初からこんなことが分っていたらもう少し優しくしてやったのに」
啓は後悔していた。
「よし、紀代に会ってみよう」
それで啓は携帯に電話をしたがつながらなかったので、固定電話に電話を入れた。だが何度かけても留守だった。
紀代は啓からもらった携帯ストラップを藤島のライターで焼ききって捨てた後、携帯の電話番号を変更していたのだ。だから、啓が電話をしても現在使われておりませんメッセージが出たのだ。
六十七 拒絶
お天気の良い休日、紀代は朝から洗濯をしていた。洗濯機をセットしたら、窓を開け放って掃除をしようと思っていた。
洗濯は汚れ物を洗濯機に放り込んでおけば、ブザーが鳴るまではほったらかしでよい。汚れ物は全部一緒にせず、上の物、下の物、シーツなどを分けて洗濯機を何度も回す。最初にブラウスなどを入れてセットした時、チャイムが鳴った。
「朝から誰だろう? もしかして徹かな?」
そう思いながらドアーを開けた。
そこに吉村啓が立っていた。
「おはようございます。ご無沙汰してます」
啓は気持ちが悪いくらい丁寧に頭を下げた。
啓を見た途端、紀代はかっとなった。
「帰って下さいっ!」
紀代は大きな声ではっきりと拒絶した。啓は覚悟をしていたらしく驚いた様子ではない。それが紀代をむかむかさせた。
「あんたの顔なんか二度と見たくないわよ。帰って」
そう言うとドアーを力一杯バタンと閉めた。
「話しだけでも聞いてくれないかなぁ」
ドアーの外でまだ粘っている。
「あたしの気持ちも知らないで、なんだってここまで来たんだろ」
と呟きながら、むかつく紀代は洗面器に水を満たして、ドアーを開けた。啓はまだ立っていた。
「帰れっ!」
紀代は怒鳴って洗面器の水をぶっかけた。
これには啓も予想してなかったらしい。水をかけられた背広をパンパンとはたいて、とぼとぼ帰って行った。その後姿が遠ざかるのを確かめて、紀代はドアーを閉めて部屋に入った。
その日は一日中むかついていらいらしていた。せっかくの休日なのにメチャクチャだ。あれから啓から電話が何度かあったが、紀代は電話を取らなかった。
次の休日、紀代が買い物にでかけようとしていた時、チャイムがなった。時々休日にデリバリーピザのチラシを持った青年とか、保険屋のオバサンが訪ねてきたりする。紀代はそんな訪問者だと思ってドアーを開けるなり、
「今お出かけする所ですから」
と言いかけて訪問者を見て言葉を呑み込んだ。
恰幅の良い年配の紳士と若い者が二人居て、紀代の顔を見ると三人共丁寧に頭を下げた。
「○○銀行の鶴見支店長です。お出かけするご様子ですので改めてお邪魔させて頂きます」
そう言うと、
「これはお土産のつもりで買ってきたものです。今日はお話できませんが、ご挨拶代わりにお受取下さい」
とこの辺りでは有名な洋菓子店の包みを差し出した。紀代が給料の振込みや電気代の引き落としなどをしてもらっている銀行の支店長だ。紀代も丁寧に、
「生憎いま出かける所ですので、後日にお願いします。失礼します」
と挨拶をした。洋菓子は受け取った。
次の土曜日に、
「明日伺ってもよろしいでしょうか」
とこの前の支店長から電話があり、紀代は了解した。
昼食が終わり、後片付けを済ませてテレビを見ながらコーヒーをすすっていると、チャイムが鳴った。約束の時間ピッタリに先日の支店長が訪ねてきた。
ドアーを開けるとこの前に来た二人の部下ともう一人青年が居た。啓だった。啓の顔を見た途端、紀代はむかむかしてきた。紀代が急におぞましい化け物を見たような血の気が失せた顔付きになったので支店長は驚いて、
「何か?」
と尋ねた。
「そちらの方は支店長さんの所におられる方ですか?」
支店長が振り返ると気まずい顔をした吉村啓を見て、
「あの吉村ですか?」
と聞き返した。
「はい。あの方です。先日ここへは来ないようにお願いしましたが、お話を聞いておられませんか」
すると、
「いえ、彼は東京本社の者でして、そのようなお話は聞いておりません」
と答えた。
「恐れ入りますが、あの方は今後絶対にこちらに来られないようにして頂けません? せっかくですが、今日は何も話したくありませんので、皆様お帰りになって下さい。もしどうしてもまたあの方がこちらに来るようでしたら、そちらの口座を解約して他行に移させて頂きます」
そう言い終わると紀代はドアーを閉めてしまった。
窓から外の様子を窺うと、四人揃って引き揚げて行ったようだ。
この日の出来事は銀行の鶴見支店内で話題になり、支店長は本社にも連絡をした。そのために、本社の管理職会議でも取り上げられて、吉村啓は上司に呼びつけられた。
「君ぃっ、鶴見支店長はかんかんに怒っていたぞ。個人の私的なことを聞いても仕方ないが、来月四国の支店に異動が決定したよ。荷物をまとめて月初めに四国に行ってくれ」
要は飛ばされたのだ。銀行は信用第一の仕事だ。大金を預金している大口の顧客に毛嫌いされたのでは致し方がない。
「四国でも問題を起こしたら、君はクビだ。覚悟をしておけよ」
上司は厳しかった。
月が明けて、啓は同僚の白い目に送られて単身四国徳島の阿南支店に飛ばされた。啓は完全に出世コースから外されて、田舎の小さな支店勤務になったのだ。
啓は紀代の仕打ちに我慢ならなかった。
「覚えてろ。この恨みは絶対にいつか晴らしてやるからな」
四国に移ると啓は一人毒付いていた。
六十八 青春の喜び
思い出したくもない啓のことがあって、この二、三日紀代はむしゃくしゃしていた。
「何かあったんでしょう?」
会社では一年先輩で仲良しの辻ヨネが紀代の気持ちを見透かしたように聞いた。
「ん。ちょっとね」
「ちょっとなんて顔じゃないよ」
紀代はトイレに行って鏡で自分の顔を見た。ヨネもついてきた。
「でしょ?」
「言われて見ればひどい顔だなぁ」
紀代はヨネと顔を合わせて二人で笑った。
「ほら、やっと明るくなったわよ」
こんな時は親友はいいものだ。
会社が終わって独りになると、紀代はなんだか寂しくなった。それで、ティッシュに書いてくれた光二の電話番号を押した。だが、留守の様子で十回も呼び鈴が鳴っているのに光二は出なかった。
「ダメかぁ」
そうすると一層寂しくなるから変なものだ。
以前士道に、
「電話番号を教えて下さい」
と言ったら、
「女は寂しい時に電話をかけてくるから嫌いだ」
と教えてくれなかった。確かに、そう言われてみると、会って甘えたい気持ちで光二に電話をかけたんだから、士道の言う通りかも知れないと思った。
そんなことを考えながら、テレビのドラマやニュースを見ている内に夜の十二時頃になってしまった。
「よし、もう一度かけてみようかな」
紀代は独り言を言いながら、また光二の番号をプッシュした。
呼び鈴が五回鳴った時、受話器が取られた。なんだか紀代は胸がドキドキした。
「はい。藤島です」
電話の向うで低い野太い声がした。
「やったぁ」
紀代は思わず呟いた。
「もしもし、藤島ですが」
もう一度そう聞こえた時、紀代は慌てた。
「もしもし、紀代です。秋元紀代です」
すると、
「アハハ、声を聞いて直ぐに分かったよ」
と嬉しい返事が戻ってきた。
「今何時だ?」
藤島は時計を見ている様子だ。ややあって、
「十二時だな。オレに会いたくて電話をして来たんだろ」
藤島のやつに先回りされてしまった。
「は、はい。そうです」
紀代はつられてそう返事をしてしまってから自分の気持ちを読まれているようで後悔した。もしかして、士道のようにそう言うのが嫌いな人かも知れなかったからだ。
「どうだ? まだ電車あるだろ? 横浜まで出て来いよ」
京浜東北線鶴見駅の終電は夜中の一時ジャスト桜木町止まりなのを知っていた。それで、
「はい、余裕です」
と答えた。
「じゃ、横浜駅東口を出るとポルタ地下街に下りる階段の先に中華の崎陽軒があって、その先にヨコハマプラザホテルがあるから、崎陽軒とホテルの間の道路で待っててくれ。オレは白っぽいスポーツカーだ」
案ずるより生むが易しとはこんなことを言うのだろうと紀代は思った。
急いで化粧を済ますと、紀代はJR鶴見駅までタクシーに乗って鶴見から横浜に向った。紀代が住んでいる最寄り駅は京浜急行鶴見市場だが、終電は行った後だった。
横浜駅に着くと、言われたとおり東口を出て崎陽軒の裏手に出ると、光二は既に待っていてくれた。
「オレも今着いたとこだ。乗ってくれ」
と言われて乗ったスポーツカーはBMWの白いハードトップ、ツーシーターだった。赤い皮のバケットシートに紀代のお尻がすっぽり納まって心地良かった。
「晩飯、付き合ってくれ」
光二はそう言うと桜木町まで車を走らせた。もう一時過ぎなのに車は多い。
桜木町から少し離れた道路わきのコインパーキングに車を停めると、APOLLO companyと言うワインバーのような洒落た店に入った。店は空いていた。
「ここは年中無休で三時までやってるから」
と言って、レバーペーストのつまみ、ムール貝の白ワイン蒸し、それにピザを頼んだ。ビールとワインは相当揃っているようで、
「紀代はビールかワイン、どっちだ? オレは車だからノンアルコールだ」
と聞いた。
「あたしもノンアルコールでいいわ」
「分った。後で飲み直そう」
どうやら紀代はこの後もあるんだと思った。
腹ごしらえが終わると、
「明日午前中会社サボれるか」
と聞いた。紀代は明日は企画会議の予定が入っていた。だが、たまにはサボってやるかと咄嗟に判断して、
「はい。サボります」
と答えた。
光二はどこかに電話を入れた。どうやらホテルらしい。電話が終わると勘定を済ませて店を出て車を出した。
「明日の朝まで付き合ってくれ」
光二はそう言うと、横浜ベイシェラトンホテル&タワーズのエントランスに車を着けた。ベルボーイにキーを預けると、さっさとチェックインを済ませて、二十七階の部屋に入った。
「よしっ、飲み直そう」
そう言うとルームサービスに頼んで夜食とワインを持って来させた。紀代は今夜もしかしてバージンを失うかも知れないと思った。
六十九 もつれやすい恋
「当ホテルのルームサービスは二十四時まででございます。申し訳ございません」
と言うフロントの断りの返事に、光二が無理を言って持ってこさせたオードブルはまあまあの味だった。二人がワインを二本空けた時は四時近くになっていた。光二はシャワーを使ってくると言ってバスルームに入った。紀代はほのかに明るくなってきた窓の外をぼんやりと眺めていた。
「どうだ、紀代さんもシャワーしてこないか?」
振り向くとバスタオルを腰に巻いただけの光二が立っていた。腕や胸に筋肉が盛り上がった光二の肉体があった。左肩から胸にかけて、大きな古傷が見えた。紀代は素直に、
「はい」
と言って光二の脇をすり抜けてバスルームに入った。
紀代がバスタオルを胸に巻きつけて出た時、光二はベッドの上にひっくりかえっていた。紀代はバスタオルの下には何も着けていなかった。
「こっちに来ないか? 一緒に寝よう」
光二の誘いに紀代は素直に従って、光二の隣に横になった。光二は自分のバスタオルを無造作に取り去ると上掛けを引き揚げて紀代にもかけてくれた。室内の明かりを消しても窓のカーテン越しに薄明かりが差し込んでいた。
光二の手が紀代の上に伸びてきて、紀代のバスタオルをはがしてベッドの下に落とした。二人とも全裸になった。
紀代はなぜか身体が小刻みに震えていた。
すると光二が、
「初めてか?」
と聞いた。
「はい」
かすれた小さな声で紀代が答えると、光二は無言で紀代を抱きしめてくれた。男の腕にこうして抱きしめられるのは生まれて初めてだった。
「優しくして下さい」
紀代が光二の胸元で呟いた。光二は黙っていた。
光二は紀代の期待に沿わず、ずっと静かに紀代を抱きしめていた。紀代はとても温かいと感じていた。温かいと言うか、強い男に守られて安らぎを感じている自分があった。紀代は次第に気持ちが昂ぶって、この先どうにでもなれ、何をされても構わないと言うか、そうして欲しいと体中が叫んでいるように思えて、自分も光二にしがみ付くように抱き付いた。
「来てぇ」
紀代の掠れた小さな声に、光二はちょっと頷いたようだった。
「やっぱやめとく、このままにしてろ」
光二の野太い声が耳元で響いた。
「いやぁ、あたしのバージン、奪ってぇ」
紀代は自分でも信じられないような言葉が喉から飛び出して、言ってしまってから恥ずかしさでいっぱいになっていた。紀代は思い切り光二を抱きしめた。けれども光二は動いてくれなかった。
「あたしのこと、嫌い?」
「いや、好きだよ」
光二は紀代のおでこにチュッと口を付けた。
「紀代さん、可愛いよ」
紀代はそれならなぜ光二が先に進んでくれないのか不思議に思った。紀代は男に抱かれた経験がなかったから、こんな時、自分がどうすればよいのかさえ分らなかった。ただ、紀代の本能が光二を求めていた。
「紀代さんはオレの士道先輩の友達の娘さんだよな。オレは紀代さんを汚す資格はねぇんだ。紀代さんは好きだぜ。ずっとこのままでいいよ」
紀代はいつの間にか眠ってしまったらしい。ふと目が醒めて、ベッドの脇の時計を見ると九時を過ぎていた。光二は紀代を抱きしめたまま、まだすやすやと眠っていた。紀代は光二を起こさないように気を付けながら、光二の腕をほどいて、そっとベッドから滑り降りて、バスルームからショーツだけ取ってきて着け、ガウンを羽織ると小声で会社の佐藤室長に電話を入れた。
「すみません。朝起きたら少し具合が悪くて、今日一日休ませて頂けませんでしょうか? 十時からの会議は素子さんにお願いして下さい」
と頼んだ。入江素子は紀代の片腕で、可愛らしい顔をしているが頭の回転が良く、芯の強いしっかりした子だった。佐藤はめったに休んだことがない紀代が休むと連絡してきたので心配した。それで、
「大丈夫ですか? 誰かお見舞いに行かせましょう」
と言ってくれた。それをなんとか制して、室長の了解を取った。
「アハハ、病気でダウンしたかぁ」
背後で突然光二の笑い声がした。
「あっ、起こしてしまってごめんなさい」
「いや、いいんだ。オレも午後から仕事だ」
と光二は起きてバスルームに行きながら、
「ルームサービスの朝食付きで頼んであるからフロントに電話を入れておいてくれ」
と紀代に頼んだ。
光二は紀代をマンションまで送ってくれた。紀代は、
「どうしても上がって下さい」
と無理に光二に上がってもらって、熱いコーヒーを煎れた。
「美味いコーヒーだなぁ。これからもたまにはご馳走してくれ」
光二はコーヒーを飲み終わると去って行った。
夕方、辻ヨネがケーキを持って見舞いにやってきた。
「なんだ元気そうじゃん。見舞いに来て損したなぁ。もしかして男?」
ヨネは相変らず冗談を言いながら、部屋中クンクンと鼻で臭いをかぐ仕草をした。
「おかしいなぁ、男の匂い、全然しないなぁ」
紀代は苦笑した。
七十 君ありて幸せ
その後、藤島光二は十日に一回程度の間隔で、紀代をデートに誘ってくれた。最初の時のように夜中に出て来ないかと言うこともあれば、十二時ごろ昼飯に付き合ってくれないかと言うこともあった。いずれにしても誘いは突然だった。だが、紀代は断らずに素直に光二の誘いに合わせた。
最近は紀代の休日に合わせてくれるようになり、光二のスポーツカーでドライブに連れて行ってくれるようになった。今まで行った場所は、日光、榛名山、箱根、伊豆の四ヶ所だ。
紀代は光二と一緒なら予定は何でも良かった。光二はあれ以来決してセックスを求めることはなく、ホテルに泊まってもずっと抱いてもらっている内に眠りに落ちてしまうパターンだ。紀代は他の男と付き合った経験がないから、どの男と付き合ってもそんなものかと思っていた。
そんなこんなで三ヶ月が過ぎた。紀代は会社では製造部の係長に昇進し、仕事は新商品開発の企画会議と掛け持ちだから、ウィークデーはむちゃくちゃ多忙になっていた。
明日、明後日は土日の休日で、紀代は洗濯や部屋の掃除、それに余力があれば部屋のプチ模様替えをしたいと思っていたが、金曜日の夜中に光二から電話が来た。
「どうだ、明日、明後日身体を空けられないか?」
紀代が誘いを断ったことは一度もないのに、光二は紀代が付き合うのが当然などと言うそぶりは見せずに、いつも都合を聞いてくれるのが嬉しかった。
男は女と親しくなるにつれて、次第にずうずうしくなるものだが、光二にはそれがなかった。光二は物事をさっさと自分が思っている通りに進める所があったが、紀代は優柔不断な奴よりもよっぽど良いと思っていた。物事の進め方は最初に会った時と今とで何も変っていなかったし、紀代を呼ぶ時今でも[紀代さん]と呼んでくれる。つまり、デートを重ねてもやることなすことが殆ど変らないのが良かった。同僚から付き合っている男の話を聞かされると、多くの者は長く付き合っていると最初に会った時とかなり違ってくると言うのだ。ひどいのになると、最初は優しかったのに、今じゃ鬼みたいだとか、最初に会った時は身だしなみがきちっとしていたのに、今じゃ一緒に歩くのも恥ずかしい位だと言うのだ。光二には今の所そんなことは何もなかった。
光二のことで紀代が不足を感じているのは未だにバージンを奪ってくれない所だった。紀代は最初にはっきりと印籠を渡されていたから、二人とも全裸になってベッドの中で抱きしめられている時にあらためて自分の中に入れてくれなどとは言わなかったし、光二もそんなそぶりはなかった。それで、紀代はもしかして光二の身体に何かまずいことでもあるのかと疑問に思ってこの前会った時に聞いてみた。単刀直入に聞くわけにはいかないから、それとなく女関係を聞いてみた。
「ねぇ、光二さん、あたしの他に女の人がいらっしゃるの」
光二は困った顔をした。
「どうして」
「あたし、光二さんにあたしとは別の女の人がいらしても我慢しなければと思って」
「どうして」
「どうしてって、あたしは光二さんのことを何も知らないであたしの方から会って下さいと言ったから、あたしより前からお付き合いされている人に光二さんを諦めて下さいなんて言えないもの」
「そう言う意味か。付き合っていると言うか呼び出せば来る女は何人も居るよ。でも紀代さんは別だな」
「やっぱり彼女居たんですね。別に居ても不思議じゃないですけど」
「彼女って言葉の意味だけど、将来結婚とかを約束している女は一人も居ないよ」
「お付き合いされている方、それで文句をおっしゃらないの」
「どうなんだろ、皆オレのキャラを知ってるから最初から諦めてるんじゃないの」
光二は珍しく紀代の質問にきちっと答えた。
「じゃ、お茶とかお食事をしてさようならされていらっしゃるの」
「アハハ、紀代さんはお行儀がいいからなぁ」
突然光二は笑った。
「僕のとこに誘いをかけてくる女はお茶とか食事でなくて、セックスだよ。つまり抱いてくれって。だからオレの方が付き合ってやってるんだ。勿論オレから誘うことだってあるけど、会えば男と女の阿吽の呼吸だな」
光二は照れ笑いをした。紀代は自分の顔が赤くなってしまったように感じていた。それを察してか、
「紀代さん、誤解するなよ。オレは自分から女に好きだと言ったのは紀代さんだけだよ。セックスしたりする友達は居るけどな、相手がオレを好きだと言ってもオレの方からは好きだと言ったことはねぇんだ」
「じゃ、あたしは特別なの?」
「そうだよ。紀代さんはオレには特別の人だよ」
紀代は自分の疑問は解けたと思った。だが、光二の話を聞いて、喜んで良いのかどうか良く分らなかった。
ただ、光二と一緒に居て言えることは、[君ありて幸せ]の一言ではないかとも思った。
光二は、
「パスポート持ってるか」
と聞いた。
「はい。中学生の時にとりましたが、まだあれから十年は経ってないので大丈夫です」
「じゃ、明日は朝早く迎えに行くから仕度を済ませておいてくれ」
「何時頃いらっしゃるの」
「六時」
「分りました」
光二は六時きっかりに迎えに来た。紀代は仕度を済ませて待っていたから、
「おはようございます」
と挨拶をして直ぐに光二の車に乗った。
「紀代さん、パスポートを見せてくれ」
「はい」
紀代はパスポートを光二に渡した。光二は有効期限の日付を確かめると、黙って紀代に戻した。まだ一年近く残っていた。韓国ではパスポートの有効期間が滞在日数に加えて三ヶ月以上ないと入国時トラブルとなるのだ。
朝の高速道は空いていた。光二は羽田空港の駐車場に車を入れると、紀代を連れてソウル往きのゲートに行った。
「ここを八時半に飛ぶ。インチョンに十一時ごろ着くからソウルで一泊して遊ぼう」
紀代はパスポートと言われたから海外は予想をしていたが目的地は知らされていなかった。紀代は光二にくっついていれば安心だと思っていたから、光二のする通りに従った。
普段なら洗濯を終わって干し終わった頃なのに、自分が光二と一緒にインチョン空港に立っているなんて信じられなかった。
入国手続きを済ませてゲートを出ると、黒っぽい背広でビシッと決めた韓国人と思われる男が二人光二たちを出迎えた。
七十一 ソウル(Seoul) Ⅰ
藤島光二を出迎えた黒スーツの二人は、仁川国際空港の到着ロビーを出た所に停めてある黒塗りのストレッチ・リムジン(stretch limousine)に案内した。普通の人間ならこんなのに乗れと言われるとビビるものだが、光二は経験があるらしく、平然と後部座席に乗り込んだ。紀代は光二に促されて乗ったのは良いが、初めてなので落ち着かなかった。
リムジンは音もなく走り出した。運転席は完全に仕切られていて客席からは見えない。車窓から見ると、連絡橋(高速道)を渡ってソウルに向っているようだった。
「イ会長は元気かね」
「はい。元気です。藤島さんが来るんで楽しみにしているようです」
男の一人が、
「藤島さんはいつもので」
とカクテルを作ってテーブルに出した。
「そちらのお嬢さまは何かご希望がありますか」
と聞くので紀代は咄嗟に、
「ジントニックをお願いします」
と返事をした。すると藤島が手空きの方を指して、
「こちらはパク・ジフンさん、カクテルを作ってくれてるのがソン・キジョンさんだ」
と紀代に紹介した。二人とも日本語が達者で、
「ヨロシク」
と答えた。
「彼女はオレのダチで秋元紀代さんだ」
と紀代を紹介した。
リムジンはソウル市街に入って、大きなホテルの前で停まった。
「紀代さん、オレは夕方まで仕事だ。すまんけど、夜まで遊んでてくれ」
そう言うと一旦リムジンを降りて、待ち合わせていた青年を紹介した。
「こちらはキム・ジヒョクさんだ。夜まで紀代の相手をしてくれるから、何でも頼んでくれ。金の心配は一切要らんから好きなだけ二人で遊んでくれ。京都の同志社を出てるから京都弁だが日本語は上手い。おいっ、ジヒョク、頼んだぞ」
光二はジヒョクが光二の子分のような口のききかたをした。
「まかしといてや」
とジヒョクは胸を叩いた。ジヒョクは韓国ドラマの推奴に出ているオ・ジホに感じが似たやつで、超イケメンではないが、いい男だった。一緒に乗っていたパク・ジフンがジヒョクに、
「大切な兄貴の彼女だからよ、トラブルがないように丁重に案内しろよ」
と念を押した。
光二は紀代をジヒョクに預けると、再びリムジンに乗り込み走り去った。
リムジンはソウルの市街を抜けると、京畿道から忠清北道に向けて高速道を走っていた。
「打ち合わせの準備は出来てるのか」
と光二がジフンに聞くと、
「バッチリです」
と答えた。
「金の出所、聞いてるか」
更に光二が聞くと、
「会長の旧いダチで上海のワンさんらしいですぜ」
と答えた。
「こっちに運ぶのか?」
と聞くと、
「まさか」
と笑った。もちろん大金の移動の話しだ。
高速を約150km走り、一時間半ほどで清州の市街に入った。イ会長の屋敷は清州の住宅街の中の広い敷地の中にあった。大きな門を抜けると、リムジンは玄関前に滑り込んだ。
玄関には執事とメイドが整列して光二を出迎えてくれた。ジフンとキジョンと光二の三人は、大きな応接間に通されて、しばらくするとでっぷり太ったイ会長が現れた。
「光二君、待ってたぞ」
「士道君は元気かね」
「はい、元気にやってます」
「彼は忙しいだろうが、暇を作ってワシのとこへも足を運んでくれと言っておいてくれ」
「分りました」
世間話が終わると、仕事の話になった。
「金は上海のワンさんに頼んで七億揃えた。これくらいの額になると日本でも簡単には集められんだろぅ」
イ会長は自信ありげに話した。七億とは七億ドルのことだ。日本円に換算すると約六百億円程度になる。
「問題は運び方だな」
イ会長も心配しているようだ。
「そちらで良い案はありますか」
「ないこともないが、今から相談だ。そのために来てもらったんだよ」
「一億だとどれぐらいの量になりますか」
「百の百枚束の厚みが1センチとしてだ、それが一万個だぜ」
光二は唸った。
「七億で七万個かぁ。すげぇや」
ジフンも唸った。
「問題はだ。全部大丈夫かなぁ?」
「それはワシが保証するぜ。百は十枚あれば九枚は偽ってのが世間相場だ。ワンさんは今十億手元にあるそうだが、集めるのに十年もかかつたそうだ。元々流通が少ない上に偽が多いから相当の苦労をしたそうだ。何でも全部高性能の検査機を通して洗ってあるそうだよ」
「計算をすると」
先ほどから話を聞いていたキジョンが絵を描いて説明した。
「百束積み重ねると100センチ(1m)束の幅が8センチ、高さが15センチとすると、百束十列並べて1m×0・8mだから、それを十段積み重ねて150センチだな。これで100×10×10だから一億ですね」
そうだ。そのどでかい箱が七個だ。半分に分けると75センチだから、十四個になるが、これなら何とか運べますか?」
と光二に話を振った。光二は考えている風だった。なにしろ量が多い。五千万位までなら経験があったが、七億は初めてだったからだ。
「今お国の¥:$レートはいくらかね?」
「85円を行ったり来たりです」
「じゃ、七億であんたの国の金にすると、五百九十五億円だな」
「そうなります」
「士道の旦那は六百億欲しいと言っておったが、足りない分くらい何とでもなるだろ?」
「もちろんです」
今では電子的に決済をすれば簡単だが、そうすると当然のこと、日本と相手国双方の金融監督官庁から調査が入る。だから、一切当局から腹を探られることはない闇に現金を動かすのが手間はかかるが一番良いのだ。
「それでだ、十四個の箱をどうして手渡しするかだな」
イ会長の問いに光二が答えた。
「オレたちの方は船で受け取るのが慣れていていいです。ワンさんの方は当局をまいて持ち出せますかねぇ」
「そりゃ大丈夫だが、大きな船は目立つからダメだな。漁船を高速艇に改造したやつは時々使ってるからいいだろう」
「では、海上の受け渡しで行きましょう」
「だいたい方向は決まったな。それじゃ、具体的な話しに入ろう」
そこにメイドがやってきて、
「遅くなりましたが昼食の仕度が整いました」 と告げた。
「遅くなったが昼飯にしよう」
一同は食堂に移動した。
七十二 ソウル(Seoul) Ⅱ
「一隻の漁船が、さんまの大群を発見したとしよう。一緒に漁に出た仲間に情報を知らせる時、どうするか知ってますか」
昼飯が終わって、イ会長を囲んで具体的な話しに入った。先ず光二が話し始めた。
「そりゃ無線であそこだと知らせてやりゃ、簡単だろ」
とイ会長が笑った。
「会長、海の上ですよ。位置を正確に教えてやらんと。それに同じ漁場に他の奴等が居たら、そいつ等には聞こえんように情報を送らんといけませんよ」
「光二、あんた頭がええな」
「会長、そんな目的のいい装置があるんですよ。データ通信と音声通信が出来て、GPS情報が暗号化されてオンエアされますからね、近頃の漁船はそいつを積んでるやつが結構いますよ」
「どこで出しとるんや」
「韓国のメーカーでも作ってますが、日本じゃ西宮にある古野電気が専門ですね。古野は年商八百億も上げとりますから半端な会社じゃないです。具体的にはこの会社のDSB送受信機がピッタリですな」
「ほう、問題は使い方だな」
ジフンが口を挟んだ。
「札を入れた箱の重量はどれくらいだ?」
光二が聞くと、
「日本の万札千枚、つまり帯封十束で約1キロですから、100ドル紙幣が百万枚で一億、帯封で一万束ですから約1トンです」
「そいつが海水に浮くか浮かんかが問題だな。おい、キジョン、計算できるか?」
「さっきやってみました。午前中の計算で、一億の体積が1m×0・8m×1・5mですから、1・2リュウべ(㎥)。ですから水にすると1・2トンですね」
「ほう? 水に浮く計算かね」
とイ会長が確かめた。
「はい。浮く計算になります」
すると光二が、
「オレも浮くんじゃないかと思ったがね、浮くなら浮きを別に用意しなくて良いから助かるなぁ。間違えて海に落したら沈んでしまったなんてことになったらえらいことですからな」
「あんた一度に七億も受け渡しするのか?」
「どうでしょう。リスクがでかいですから七回くらいに分けてやりますか」
「わしもそれがええと思っとる」
「一億を二十個に分けて、一箱50kgの目方なら扱い易いやろ?」
とジフン。
「海の上ですからねぇ、大人二人で50kgはいいとこですね」
それで大体の受け渡し方法は決まった。
「それじゃ、こまいことはワンさんとこのタイチュと言う男が居るから、そいつとあんたの方で詰めてくれや。慌てる乞食はもらいが少ねぇ言うからな、日程は余裕を持って、海が荒れてない日を選んでくれ」
「ワンさんの所の船はどの辺りから出ますかねぇ?」
「上海から遠くはねぇ。大体揚子江の入り口の崇明辺りから出しとる。だが、目の前は東シナ海だ。ここらは中国海軍がうようよしとる。特にだ、あんたのお国と揉めとる南西諸島、尖閣諸島あたりじゃ中国海軍の他にあんたとこの巡視船がうろうろしとるやろ。そんなとこで受け渡しをしたらえらいこっちゃ。ずっと先の太平洋、あんたの国の沖ノ島の沖合い、大東島との中間あたりがええのと違うか」
さすがイ会長は慎重だ。
「上海から1500kmも沖ですよ」
「そんなこと分っとる。平均時速50kmで走って三十時間はかかるやろ。大金を闇で引き受けるんやからそれぐらい汗をかいてもらわんとな」
打ち合わせが終わると四時を回っていた。
「あんた女連れだそうだな」
「はい。オレが可愛がってる子を連れてきました」
「それはええ。カモフラージュになるな。女連れの観光旅行、これが一番や」
「これからソウルですね」
ジフンが言うと、
「光二さんよ、女の子を連れて戻って来なされ。今夜はワシのとこに泊まってくれんか」
光二は断る理由はないので、
「それじゃ、女をこっちに来させます」
と答えた。
丁度その頃、紀代とキム・ジヒョクは景福宮を見終わって、これから晩飯にしようとしていた。景福宮は李氏朝鮮王朝が栄えた頃の王宮で、韓国の歴史ドラマに度々登場する。その昔、開城から遷都してこの王宮を建立した背景は韓国の歴史ドラマ[龍の涙]に詳しく出てくるなどジヒョクは紀代に分り易く説明をした。僅か半日の付き合いだが、紀代はジヒョクが気に入り、ジヒョクが日本に来た時は会おうとまで約束していた。
ジフンからの急な連絡で、紀代とジヒョクは予定を取りやめて清州のイ会長の屋敷を目指して高速を走った。
「六時頃には清州に着きます」
二人は音楽を聞きながらドライブを楽しんだ。韓国の男性は概して女性に親切だ。それに比べて、女性の中には気性が荒い女が居て、観光であちこち案内されている途中、人前で彼女に蹴飛ばされている男を何人も見た。最初にそんな場面を見た時、紀代は驚いたが、
「韓国じゃ普通ですよ」
とジヒョクが言ったのでまた驚かされた。
イ会長の屋敷に着くと、光二がにこにこして紀代を出迎えた。玄関を入ると、イ会長も出て来て、
「よく来たね。さ、今夜はとびきりのご馳走をするからゆっくりして、一晩ここに泊まりなさい」
と言った。紀代は会長の屋敷の立派なことに驚いた。清州は古くは百済の軍事的な要所として栄えた町で、今も歴史的な観光スポットが沢山ある。
七十三 ソウル(Seoul) Ⅲ
紀代とジヒョクが食堂に案内された。会長、会長夫人、光二、ジフン、キジョン、それに執事のホ・ユシンさんが揃って、夕食となった。料理は日本の韓国料理店でも普通にあるメニューで、ご飯、スープ、チゲ、チム、キムチ二種類、醤類三種類、ジョン、フェ(刺身)、チョリム、クイ、ナムル、それに忠清道の郷土料理ジェムルクッス(カルグクスみたいなやつ)と生菜とチャーバン(干物)などそれぞれ大きなお膳に乗っていた。九人も揃ったからすごい量だ。いわゆる七楪飯床(チ・チヨプパンサン)だから、会長は光二と紀代を賓客としてもてなしてくれているようだった。紀代は見ただけでとても全部は食べられないと思った。お酒が入って、乾杯を済ますと、紀代は食事に手を付けた。
「美味しいっ」
紀代は料理には自信を持っているが、その舌で味わってみて、思わず声を出してしまった。会長夫人が紀代の顔を見て微笑み、
「よかったわね」
と小さな声で言った。紀代は全部箸を付けてみたいと思ったが、なにしろジェムルクッスだけでもお昼を済ませられるような量だから躊躇をしていた。その様子をイ会長が気付いて、
「紀代さんには量が多過ぎるわなぁ。残しても構わんから色々味見をするとええよ」
とフォローしてくれた。
「光二、お連れさんの紀代さんはええ女だなぁ。別嬪さんだよ」
酒が回ってくると会長は上機嫌で紀代を持ち上げた。紀代は顔が赤くなるのを感じていた。夫人と自分以外は全部男だ。それもなかなかの良い男が揃っているのだ。だから、皆の視線が集まると穴があったら入りたい思いだった。
食事が終わって客間に移って雑談となった。話の内容は紀代が知らないことが多く、特に仲間同士で使う暗号のような単語は全く意味が分らなかった。
紀代が浮いてしまっているのに気付いたジヒョクが紀代の横に来て、紀代の相手をしてくれた。ジヒョクは話題の多いやつで、話をしていても飽きさせない。
雑談が終わると会長が紀代に、
「夜は物騒やで、外には絶対に出ないでくれや」
と注意した。後で光二に聞いた所、仕事で対立する組織がごくまれに襲撃をしてくることがあるのだと言う。紀代はイ会長がどんな仕事をしていて、こんな贅沢な暮らしができるのか分らなかったが、その話を聞いて、なんとなくイメージがつかめた。
紀代がトイレに立って戻ってくると、光二とジヒョクが立ち話をしていた。
「藤島さん、オレ紀代さんと付き合ってもいいですか」
光二はややむっとした顔で、
「付き合うとはどう言う意味だ」
と問い質した。
「いえ、恋人とかでなくて、友達としてです」
「ならいい。紀代に手を出したらどうなるか分ってるな」
「藤島さんの女だから、いけねぇことは絶対にしません」
「分った。付き合えよ」
どうやらジヒョクは紀代との間を光二に話をして一応許しを得たようだった。ジヒョクは紀代が戻ったのに気付くと、紀代の顔を見て親指を立ててニッと笑った。
光二と紀代は執事のユシンに寝室に案内された。もちろん光二と紀代は同じ部屋だ。
部屋に入ると窓から月明かりが射し込んでいた。外は意外に明るい様子だ。紀代はわざと明かりを点けずに部屋に入ると窓際に近付き、そっとカーテンを開いて外を見た。
月明かりが庭木に反射して幻想的な景色だった。
目が馴れて来ると、庭に二つか三つ何かが動き回っている。良く見ると、ドーベルマンらしき大型犬が広い庭の中を行ったり来たりしていた。ドーベルマンは獰猛な犬だと聞いていた。なので恐らく不審者が庭に入ると襲われるのだろうと思った。
さらに目が馴れて来ると、暗闇に二人一組で男が潜んでいるのが見えた。数えて見ると、見えただけでも五組、十人は居るようだ。ドーベルマンが脇を走り抜けても鳴き声ひとつ発しないので、おそらくイ会長家の警護人たちだろうと思った。彼らは一人も紀代たちの前に顔を出すことはなかったし、家の中で話し声も聞こえなかった。彼等を見ている内に紀代は背筋に冷や汗が出るような気がした。
「お庭に人が居たよ」
夜光二と一緒にいつものように二人とも全裸になってベッドに入ってから、紀代は光二に話した。
「ああ、夜間は毎日警備をしてるんだよ」
「そんなにしないとダメなの」
「財産狙いならそんなにしなくてもいいんだけどね、会長の命を狙う奴が居るんだ」
「何かあたし怖いな」
「バカ、おれたちは関係ねぇ人間だから怖がることはないよ」
夜中に一回だけドーベルマンが吠えた。紀代は驚いて身体を起こしてしまった。光二が気付くと、紀代をしっかり抱きしめて、
「怖がることはねぇよ」
となだめてくれた。紀代は光二にしっかり抱きついて眠った。
後で光二に聞いた話では、警護人たちはサイレンサー(消音機)付きのオートマチックガンを持っているから庭で発砲しても部屋の中からは何も聞こえないそうだ。イ会長はソウルでは警護が難しいので田舎に住んでいるのだと言った。会長は清州市の実力者で警察を動かすくらいの力をもっているのだとも言った。
朝食を済ますと、イ会長のストレッチ・リムジンでソウルに送ってくれることになり、光二と紀代が乗り込むと、後から昨日ジヒョクが乗ってきた車をジヒョクが運転してリムジンの後からついてきた。
ソウルに着くと、ウエスティンチョースンホテル・ソウルにリムジンを着けて、
「プールがあるから、泳がないか」
と聞かれた。
「はい。でも水着持ってないから」
「なんだ、そんな心配か」
結局水着を買ってもらって三人で一時間ほど泳いだ。ホテルは昨夜一泊部屋を取っていて、急に予定が変ったが、紀代の荷物は部屋に置いたままになっていた。
「ジヒョク、エステサロンのいいとこに案内しろよ」
「橋を渡って江南でもいいですか?」
「任せる」
それで着替えを済ますと三人でホテルからリムジンに乗って、高級サロン・ピータートーマスロスに行った。
「紀代さん、洋服買いたいんだろ」
「時間があれば」
「じゃ、エステは二時間で済まそう」
サロンでは三人がリムジンで乗りつけたので超上客として接待してくれた。ジヒョクが予約を入れた時、予約一杯で少し強引にやったらしいが、リムジンで乗り付けた客なので、愛想が良かった。
エステでスッキリしてから、南大門市場に行き、光二とジヒョクは紀代の買い物に付き合った。思ったより良いデザインの物が沢山あったので、紀代は持てないくらい買い込んだが、ジヒョクが全部持ってくれた。紀代は生まれて初めてお姫様になった気分を味わった。
ジヒョクはソウルに残り、ホテルで荷物を整理すると、光二と紀代はリムジンで仁川国際空港から最終便に乗り、羽田に戻ってきた。 たった一泊の旅行なのに、紀代は一週間も行っていたような疲れを感じていた。
七十四 土産話
「紀代、土日居なかったでしょ?」
「ん。留守してた」
「お泊り?」
「ん」
「電話してもつながらないから、あたし、心配して紀代のマンションまで行ったのよ」
「ごめん。ヨネに話をしてる暇なくて」
紀代が会社に出ると、辻ヨネがトイレに誘って、色々聞かれてしまった。ヨネは仲良しだが、何度も彼を取り替えて、元彼、元々彼、その前は元々彼の前のやつなどと言うほどの子だから、話題は男の話しに決まっている。
「お泊り?」
と聞かれて、
「ん」
と返事したから彼女は当然のように、
「それでどうだった?」
と感想を聞くのだ。口は堅い子だから紀代は安心して話ができた。
それで紀代は、
「彼とソウルに遊びに行ってきたよ」
と白状した。
「ソウルかぁ、いいなぁ。あたしも一度は行ってみたい所だよ。それでどうだった?」
「良かったよ」
「良かったよじゃわかんないよ。ちゃんと答えなさいよ」
「あたしの彼、いつも突然デートに誘うのよ。今回だって、金曜日の夜、突然電話をしてきて、パスポート持ってるか? ですもの」
「でも、紀代は素直に彼の言う通りにしてるんでしょ?」
「ん。嫌われたくないから」
「アハハ、男にとっちゃ、紀代のような従順な女、都合がいいわね」
「ヨネはそんな風に言うけど、あたしの彼はそんな感じじゃないよ」
「どんな感じ?」
「そうねぇ、いつ会っても初めて会った時のような感じ」
「新鮮な気持ちになれるの?」
「そう。いつも新鮮な気持ちにさせてくれる」
「話しだけでなくてさぁ、一度あたしに紹介しなさいよ」
「難しいかもね。いつも突然お誘いが来て、直ぐに来れるか? でしょ。なので、ヨネを誘ってる余裕がないのよ」
「それでソウルは一泊?」
「そう」
「一泊じゃもったいないじゃん」
「でも内容的になんだか一週間も行ってたような気がしたよ」
「へぇーっ? それでソウルの街を二人で歩いたの?」
「いいえ」
「なんか、紀代の話し見えなくなったな」
「ソウルでずっと彼と一緒じゃなかったの?」
「ん。空港に着いたら、イケメンで強そうな韓国人の男性が二人お迎えに出てくれてて、それで直ぐにリムジンに乗ったのよ」
「リムジンって空港から市街までの直行バスでしょ」
「そうじゃなくて、ストレッチリムジンと言うそうだけど、ベンツを二台くらいつなげたような、犬で言うとダックスフンド犬のように胴長の高級車よ」
「へぇーっ? あのリムジン。なんかすごくない?」
「凄かったよ。乗ったら直ぐにイケメンの男性が、『カクテルは何になさいますか』ですもの。あたしなんだか落ち着かなかったな。そんなVIPみたいなの初めてだから」
ヨネの目付きが変ってその先を聞きたいらしかったが、仕事をサボってトイレで長話はできないから、
「夜飲みに行かない?」
と誘った。もちろんヨネはOKだ。結局、ヨネに買って来たお土産があるし紀代のマンションで飲むことになった。
生産現場の仕事はラインの仕事だから、終業時刻になると一斉に仕事が終わる。一人や二人では残業をしようにもラインが動かない。なので、残業をする時も全員一斉に残業となる。月曜のその日は運良く定時で仕事が終わった。紀代は係長だから、いつもは皆が帰った後にデスクワークをするのだが、ソウルでの旅行疲れが残っていたのでその日は定時で仕事を打ち切った。だが、そんな時に限って課長から呼び出しがあった。紀代はヨネに一時間か二時間遅くなるかも知れないと連絡を入れてから課長の所に行った。
「帰り仕度じゃないか。今話をする時間はあるのか」
「はい。大丈夫です」
課長は無骨な感じの男だが意外に思いやりと気遣いのできる男だった。
「急な話だが、人事部から話しがあってね」
紀代は自分がヘマなことでもしたのかと一瞬身構えた。
「はい。何か?」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。実は秋元さんを企画室に戻してくれと言うんだよ」
「現場はあたしが志望しましたのですが?」
「それは分ってる。君のような出来る子は僕も手放したくないんだがね、話しが話しなので、諦めることにした」
「では現場から追い出されるんですか」
「追い出すなんて人聞きがわるいよ。秋元さんを新製品開発室の室長代理に昇格させたいと言うのだよ」
紀代は驚いた。
「あのう、開発室には先輩が大勢いらっしゃいますから、あたし、困りますわ」
「そうだな。確かに秋元さんより先輩が多いね。でも会社で決まったことだから戻ってくれないか? 室長代理だが、待遇は課長だよ。サラリーマンなら普通は喜ぶものだよ。秋元さんも素直に喜ぶといいよ。来月から管理職だからな」
紀代はこの課長が好きだった。だが今回は仕方がない。
「ご配慮ありがとうございます」
と頭を下げて課長の部屋を出た。
ヨネと一緒にマンションに戻ると、先ず手早く酒のつまみ兼夕食を仕度して、ヨネに旅行で体験した話を始めた。
「あっ、忘れないうちに、これヨネさんの洋服。南大門市場で買ったんだけど、とにかくすごい所ね。探すといい物がいっぱいあるのよ。近くの明洞もいいわね」
ヨネも南大門市場や東大門市場は話として知っていた。
「あたし、ソウルに行ったら先ず東大門市場に行きたいと思ってたのよ」
「それで、その後どうなったの」
「どこまで話したっけ?」
「リムジンでソウルに行く途中までよ」
「そうそう、ホテルに着いたら、韓国人のいい男を紹介してくれて彼ったら、『オレ、ちょっと用があるから』なんて言ってあたしをその男に預けてさっさとどこかに行っちゃったのよ」
「へぇーっ? ねぇねぇ、その紹介してくれたイケメンの男、紀代は当然彼とラブしたんでしょ」
「まさか。ヨネは直ぐにそっち方面に話を持って行くわね」
と紀代は笑った。
「じゃどんなことして遊んだの」
「観光案内してくれた」
「紀代は清いなぁ」
今度はヨネが笑った。
「その彼、近い内に日本に遊びに来るんだって。それでデートの約束をしたよ」
「じゃ、デートの時、絶対にあたしも誘いなさいよ。誘わなかったら許さないからぁ」
「ダメダメ、ヨネに彼を取られちゃうよ」
紀代は冗談を言った。
二人は真夜中まで話しこんで結局ヨネは紀代の所に泊まった。
七十五 迷い
来月から室長代理に昇進すると言うのに、何故か紀代の気持ちは浮かなかった。昇進をしても、部下になる課員たちは紀代が入社して新人として配属された時の先輩たちが大勢居るから気が重いし、昇進したからと言って喜んでくれる家族は居ないし、士道や光二が喜んでくれるとも思えなかった。それに管理職になれば、今まで気にもしていなかった個人的な素行にまで周囲の目が厳しくなる。自分と士道と光二との関係だって余計な詮索をされたくなかった。生産管理部の橋本徹だって、今までのように気安く付き合ってくれるかどうか分らない。確かに収入は増える。普通のサラリーマンならそれだけでも嬉しいのだが、紀代はお金には困っておらず、つつましく暮らしていれば今の月給でも毎月わずかだが貯蓄に回す余裕があった。
来月異動があるまで半月ほどしかない。紀代はその間に自分なりに心構えを整えておきたかった。昇進の理由を今の上司の課長ははっきり言ってくれなかったが、おそらく紀代が座長を務める新製品企画会議が考え出した新しいお菓子がどれも大成功で今や新製品開発室から発表された製品群の売上額を追い越してしまう勢いで会社への寄与度が評価されたのだろうと思っていた。紀代にとっては中高生を相手にやりたい放題の企画会議は楽しかったから、これからも続けさせて欲しいと思っていた。子供たちも成長したし、片腕の入江素子も近頃では紀代の代役が務まるほどに成長してくれた。だから、最近の企画会議はいつも充実しており、メンバー全員がヤリガイを感じて仕事をしていた。
出る釘は打たれる。いつも楽しくやっている新製品企画会議をやっかむ奴もいた。子供子供した中高生の活躍が面白くない管理職が居たし、最近時々嫌がらせや妨害などがあった。嫌がらせは陰湿で、企画会議が考えたヒット商品について、インターネットでとんでもない書き込みをする奴が居るのだ。だが、紀代の企画会議のメンバーはネットに相当詳しい奴が居て、書き込みをしたIPアドレスを見つけてどこのパソコンから書き込みされたか簡単に見つけ出してしまう。それで、ある時、市内のネットカフェで待ち伏せして現場を押さえたこともあった。捕らえて見るとお前かと言う言葉通り紀代が勤めている会社の社員だった。
妨害は他にも、新製品の試作を依頼した製造部の社員が、予め仕様に書いた材料と違う材料にこっそり入れ替えて企画会議のメンバーが考えた味と全然違うものが届いたりすることもあった。
紀代はなぜ同じ会社に勤めている社員なのにそんな意地悪をするのか理解に苦しんだ。
それで、紀代は妨害した製造部の社員をこっそりお茶に誘って理由を聞き出すと、
「自分は病弱な母親を抱えていて夕方できるだけ早く帰宅しなければならないのに、企画会議が出した製品が売れるものだから残業続きで困るから」
などと言う。その男はこんなことも言った。
「小さなお子さんが居て共働きをしている女性は残業があると子供を引き取る時間に間に合わず、夫婦喧嘩にまでなってしまった人が何人も居ますよ」
「そう、大変だわね」
「係長、そんなに簡単に言わないで下さい。ベビーシッター、今どれくらいお金がかかるか知ってますか?」
「さぁ、詳しくは知らないわ」
「でしょうね。一時間三千円以上が相場ですよ。普通は二時間単位で二時間残業したって残業料じゃとても足りないんですよ」
「そんなにぃ?」
「ですから度々残業があると、ご主人がそんな状態なら会社なんか辞めちゃえって怒って喧嘩になるんですよ。ようやく入れた保育園だって諦められないし」
紀代は世帯を持った経験はないが、男の言うことにも同情できたから、複雑な思いがした。母親思いのその男に罰を与えるなんてとても考えられなかった。
翌日、紀代は子供を保育園や幼稚園に預けて仕事に来ている社員が何人くらいか早速調べてみた。その結果製造部部員約四百名中百人以上も該当者が居ることが分った。そこで、課長に話をした上、工場長に直接手紙を書いた。手紙は、残業があるからと言って従業員を増やすのは得策ではないので、事務部門から製造部の残業時に応援を出すべきだ。製造部のラインの仕事はそれほど熟練を要しない部署が多いので、短期間の教育訓練で充分行ける。訓練は自分がやってもよい。縦組織では処理できない問題なので、組織を横断的に見てトップダウンで指示を出すのが良い。結果として子育て中の社員の生活環境の改善ができ、事務部門と現場の連携、助け合いによって全社員の一体感の醸成に役立つ。紀代は家庭に特別な事情のある社員の実情を訴えた後にまあこんな内容で工場長の協力をお願いした。紀代が座長を務める企画会議のメンバーにもアルバイトとして十名程度応援させると付け加えた。
紀代の提案は良かったのだが、波紋が広がった。先ず常日ごろ現場を下に見ていた事務部門の社員の一部が反発、部長会、幹部会議でも異論が続出した。事務部門だって残業続きの者が多いと言うのだ。だが、工場長の一喝で紀代の提案が押し通された。
どこから聞き出したのか分らないが、発信元が秋元紀代だと言う噂が広がって、社内の風当たりは強かった。だが、他部署から実際に応援者が来て、残業のある時でも定時で退社できるようになった製造部の社員からは感謝されて、紀代は存在感を増した。紀代は応援に来てくれた者たちを丁重に扱い、現場との連帯感の醸成に尽力していた。
紀代が疲れた足を引き摺って帰宅をすると、珍しく士道がドアーの前で煙草をふかしていた。
「忙しいのか? 遅いじゃねぇか」
「ちょっと忙しいのよ。さっ、入って下さいな」
紀代は士道の顔を見ると疲れが吹っ飛んでしまった。早速夕ご飯の仕度をすると、久しぶりに士道と晩飯を一緒に食べた。
「紀代、光二と付き合ってるんだってな」
「はい。あたし光二さんを好きになっちゃった。ダメ?」
士道は少し複雑な顔をした。
「ダメではないが、結婚は難しいぞ」
「どうして?」
「オレと似たような仕事をしているからだよ。紀代には正直勧めたくないなぁ」
紀代は一歩踏み込んで聞いてみた。
「光二さん、あたしのこと好きになってくれたみたいだけど、今まで一度もセックスしてくれないんだ。オジサマみたいに」
それを聞くと士道は頷いた。
「だろうな。彼は紀代のことを思って避けてるんだよ」
「あたし、男運良くないなぁ。オジサマも光二さんもあたしを抱いてくれないもん」
「そうだ。運が悪いのさ。まだバージン捨ててないのか?」
「ええ」
紀代は光二と会った時とか、士道と今夜のような話を始めると、最近女性のその部分が濡れてくるのを感じていた。男に抱かれて一つになってみたい、最近紀代はそんなことで悩んでいた。
「光二を諦めて他に紀代に相応しい男を見つけて付き合ったらどうだ」
士道はそんなことを言ったが、紀代は光二を諦められるか自信がなく迷っていた。
士道が酔いが回って、紀代のベッドに寝転がった時、韓国で知り合ったジヒョクから電話が来た。
「明日か明後日日本に遊びに行きたいですが、ご都合如何でしょう」
ジヒョクは丁寧な口のききかただった。
「そうね、あたし忙しいから明後日の日曜日ならいいわよ」
「じゃ、日曜日に羽田に着いたら電話をします」
紀代はヨネに電話を入れた。
「次の日曜日空いてる?」
「あたし、今彼なしの生活だから、休日はガラガラよ」
と笑った。
「じゃ、空けといて。この前話したイケメンのジヒョクさんが遊びにくるから」
紀代は土曜日は休日出勤を予定していたが、士道が来たので明日は午後から出社しようと思った。
酔いが醒めた所で士道はシャワーを使って、紀代が用意したパジャマに着替えた。
「紀代ちゃん、今夜もオレと一緒に寝ようや」
明かりを消すと、紀代は士道の脇に潜り込んだ。士道が優しく抱きしめてくれると、なぜか涙が溢れてきた。そうしている内に紀代は眠ってしまった。
七十六 不覚
ジヒョクは京都の同志社を卒業したと言ってた。日本に何年も住んでいたのだから羽田に迎えに行く必要はなかったが、一応紀代の客人だから、紀代は辻ヨネを誘って散歩ついでの感覚で羽田に出迎えに行ってやった。
ジヒョクは白っぽい背広にサングラスをかけてビシッとした出で立ちで到着ゲートから出て来た。超イケメンではないが、そこそこ格好が良かった。紀代の顔を見付けると、サングラスを外して丁寧に挨拶をした。先ほどから一言も発しないヨネはと見るとジヒョクを見てぽかんとしていた。
「ジヒョク疲れてない? こちら、あたしの友達の辻ヨネさん」
紀代がヨネを紹介しているのに、ヨネはまだジヒョクを見てぽかんとしていて、
「ねぇ、ヨネったら、この方がジヒョクさんよ」
と言うとヨネは驚いた顔で、
「あっ、あ、あたし辻です」
と返事をした。後で聞いた所では、ジヒョクは自分にピッタリのタイプで、顔を見たら固まってしまったんだと言う。だから会って初めて声を出した時はかんでしまってちゃんと話が出来なかったらしい。ヨネは、
「前から金縛りに遭うなんて話は聞いていたけれど、あの時あたし初めて金縛りを経験したみたい」
と言って照れ笑いをした。
「オレ、疲れてないから、これから鎌倉に案内をしてよ」
早速ジヒョクが鎌倉に行きたいと言ったので、リムジンバスで横浜に出ると、湘南横須賀線に乗って北鎌倉で降りて、建長寺に登った。休日だと言うのに境内は意外に空いていた。
「ここが建立されたのは十三世紀の半ばだって。ジヒョクさんの国では太祖王建が百済と新羅を統一して高麗になって今は北朝鮮の領土だけど開城が都だったのよね。何代か高麗王朝が続いて衰退してきた時期に、この建長寺が出来たのよ。あの時代は中国の元王朝にあなたの国は随分虐められたそうね」
「紀代さん、良く知ってるね」
「だって、この前あたしが韓国に行った時、ソウルにある昔の王宮景福宮を案内して下さった時、ジヒョクさんが教えてくれたじゃない」
「そうだっけか」
ジヒョクは照れ笑いをした。
「加藤清正が朝鮮を攻めた時って」
ヨネが口を挟んだ。
「あれはもっと時代が後よね」
と紀代。
「そう、清正が朝鮮半島を荒らしまわった時代は豊臣秀吉の時代だから中国は明朝末期、韓国は李氏朝鮮王朝の時代で都は漢陽つまり今のソウルだよ。清正に攻められて王様は王宮を捨てて逃げ出すし、清正の軍隊は男は皆殺し、女は捕まえてよってたかってレイプしたらしく、今でも日本人は野蛮だと思ってる人は多いよ」
とジヒョクが説明した。
「日本で教えている歴史とは大分違うわね」
とヨネが言うと、
「勝者の歴史と敗者の歴史は全然違うことが多いですね」
とジヒョクが答えた。
お昼は日本蕎麦を食べたいと言うので、北鎌倉駅に近い日本蕎麦屋で昼食にした。
食事が終わった時に紀代の携帯が鳴った。光二からだった。いつものように、
「横浜に出て来れるか?」
だ。
「今北鎌倉です。一時間以内に行けます」
それで紀代はジヒョクとヨネに、
「急用ができてしまって、済まないけど、ヨネ、ジヒョクさんと遊んであげて下さらない?」
とヨネに後を頼んだ。紀代はヨネやジヒョクを連れて光二に会いたくはなかったのだ。だが、ヨネはジヒョクを独り占めできるものだから、かえって喜んだ。
北鎌倉から鎌倉に出て、八幡宮を回ってからジヒョクとヨネは東京に戻った。ヨネはすっかりジヒョクの恋人気取りで付き合った。
ジヒョクは六本木界隈の事情に詳しくて、六本木ではヨネはジヒョクにエスコートされて遊びまわった。
二人でディナーを済ますと、
「オレは今夜六本木のホテルに泊まるから」
とヨネが付き合ってくれたことに礼を言った。しかし、ヨネはジヒョクと離れず、結局ホテルまで付いて行った。
その夜、ヨネはジヒョクに抱かれて至福の一時を過ごした。ジヒョクはヨネに優しかったし、愛撫が上手だったので、久しぶりにヨネは燃えた。
帰り際に、
「あたしの恋人になって下さい」
とまで言った。それで、ジヒョクとヨネの遠距離恋愛が始まった。紀代はそんな展開になったことを何も知らなかった。ジヒョクをヨネに預けたのは紀代にとって不覚だったかも知れない。
「しばらく日本を留守にするから」
光二は留守にする前に紀代と一夜を過ごしたいと言った。
横浜みなとみらいにあるホテルで、紀代は朝まで光二と一緒に過ごした。もちろんいつものように全裸で抱き合っただけで、男と女の関係にはならなかった。でも、最近は紀代はそれでいいと思うようになっていた。
次の月の第一月曜日に会社の定例幹部会議が開かれ、その席で新任の管理職として新製品開発室、室長代理に昇格した紀代が紹介された。女性の管理職は紀代を入れて三人、紅一点ではないが、紀代は目立たないように努めた。目立たないようにしていても、一番年が若く、見た目綺麗な紀代は目立っていた。そんな紀代に目を付けた者が居た。経理部長の島田だった。勿論、新任の管理職ではなくて、経理部長は落としてみたい女として見ていた。
七十七 不倫のきっかけ
新任管理職の秋元を絶対に落としてやるぞ。早速経理部長の島田は行動に出た。
紀代は室長代理になってからは、室長の佐藤健一の補佐は当たり前として、できるだけ先輩達に低姿勢で接していた。デスクに呼びつけるなんてとんでもない。紀代は何か頼みたいことがあると、自分の方から席を立って頼みに行くようにした。会社では上司が部下に何かを頼めば、それは指示、命令であるが、紀代は命令するような仕草は一切しなかった。命令しても頼み込んでも結果は同じだ。仕事中上司に低姿勢で頼みごとをされると、これは命令でなくて頼まれたんだと勘違いするバカが居るが、そんなことはないのだ。紀代はうまく頼んで人を自分の思っているように動かす不思議な力を持っていた。それを工場長の矢田部三四郎はずっと前から見抜いていた。
そんな紀代の努力で、今までの所は先輩たちから上司虐めをされることはなかった。しかし、そのせいで、紀代はめちゃくちゃ多忙になった。多忙な時に限って電話が多いのだ。
その日、紀代のデスクとは別の部下の所に紀代あての電話が来た。紀代はいらついてつい、
「すみませんが、要件だけ聞いておいて下さらない?」
と頼んだ。だが、
「室長代理、経理部長が直々に話をしたいそうです」
と。紀代は仕方なく電話口に出た。
「部長、大変申し訳ありませんが、お急ぎでなかったら後にして頂けませんでしょうか」
紀代はきっぱり断った。だが、
「そうか、後でいいが企画会議の伝票でおかしい所があるんで、説明に来てくれんか?」
紀代は伝票には自分で全部目を通していたから、恐らく何かの間違いか勘違いだろうと思ったが、相手は部長だ。仕方なく、
「では後ほどお伺いさせて頂きます」
と答えた。
終業間際に、紀代は昼間経理部長から呼び出しがあったのを思い出して、小走りに経理部に行った。島田は紀代の顔を見ると、わざと難しい顔をして、別室の小部屋に入れと目で指示した。紀代は素直に小さな会議室に入った。
「伝票で何か?」
部長は手に紙切れを持って居たが伝票ではない。それで、
「あたし、企画会議の伝票は全部自分でチェックしており、予算との照合もきっちりとしておりますが?」
と不審な顔をした。しかし、島田の次の言葉には紀代は耳を疑った。
「あんたの所の伝票は何も問題はないよ。あんたに来てもらう口実だ。騙してすまん。これ、この通りだ」
島田は深々と紀代に頭を下げた。
「実はね、なかなか手に入らない音楽会のチケットが二枚あるんだが」
と手に持っているチケットを見せた。
「どうだろう、わしに付き合ってくれんかね?」
「そんなぁ、あたしが行く理由がございません。奥様かお嬢様とご一緒なさって下さい」
そう言うと紀代は席を立ちかけた。紀代は心の中で、この忙しいのにこんなことでウソまでついて自分を呼び出す男の神経が分らないと思っていた。
「秋元さん、ちょっと待ってくれ。実は自分の家族や知り合いを当たってみたんだが全部都合が付かんと断られてね、もう一度頼むが一緒に行ってくれんかなぁ」
紀代は切れた。
「私をお誘い下さるなら、そんな回りくどいことをなさらなくても、ストレートに付き合えとおっしゃって頂ければお茶でもお食事でもご一緒しますよ。そう言う回りくどいやり方は感心できません」
島田は唖然とした表情で紀代の顔を見て、
「参ったなぁ、一本取られたなぁ」
と照れ笑いをした。島田は紀代がまさかこんなに自分の下心を見透かしたような話をするとは予想してなかったのだ。
「さすが、矢田部さんが推薦するだけはあるなぁ」
今度は感心している。紀代はその顔を見ておかしくなった。
「島田さん、付き合って上げますよ」
紀代が笑うと、
「そうか、頼む」
と島田は本音でそう言うと紀代に頭を深々と下げた。
島田部長がくれたチケットは何と! [福島雅治]のホテルでのディナーショーのチケットだった。部長が言う通りなかなか手に入らないのは確かだ。チケットをゲットしようとすれば、一枚十万円~十五万円で流通しているのだ。元々の価格が一万五千円か一万六千円だから、数倍だ。
誘われた当日、島田はお洒落をしてやってきた。会社で見るよりずっと良い男だ。紀代の年より二十歳位上のはずだが、今夜はどう見ても四十前の男に見えた。ライブは楽しかった。紀代は島田のことを気にせずに楽しんだが、そんな紀代を島田は気に入ったらしい。
ディナーショーが終わると、
「ちょっと上のバーで飲みなおさないか」
と誘った。紀代は断る理由はないので付き合った。だが、その後がいけなかつた。島田はちゃんと部屋をキープしていて、やや強引に紀代を部屋に誘ったのだ。光二はしばらく不在だと言っていた。だから紀代にはSOSの切り札がなかった。
七十八 偽り
「ちょっと酔いを醒ましてから返りなさい」
経理部長の島田は、
「ここじゃなんだから、部屋で少し休みましょう」
と紀代を誘った。部屋は勿論ホテルの部屋だ。島田は勘定を済ますと、ルームキー代わりのキーカードを手に持ってヒラヒラさせながら、少し酔いが回って顔をほんのりと赤らめた紀代のウエストに手をかけてバーを出た。
「部長、あたし、これ位の酔いなら全然平気ですから、帰らせてもらいます」
紀代は島田の下心が見え見えなので、やんわりと断った。だが、島田は紀代のウエストに回した手を気持ち引き寄せてエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中で紀代は思い切って言って見た。
「部長、あたしに変なことをなさったら工場長に言いつけますよ」
これに島田は反応した。
「秋元さんは怖い女だなぁ。絶対に変なことはしないと約束するよ」
紀代は一応島田を信じてやろうと思って、部屋に入った。島田は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップ二つに注いだ。
「酔い醒ましに飲みなさい」
紀代はコップを受け取ると一気に飲み干した。
「島田さんは奥様いらっしゃいますよね」
「ああ、正確に言うと居たかな」
「とおっしゃいますと離婚とかですか」
「いや、三年前に病気で失くしたんだ」
「長い間看病なさったんですか」
「実は胃癌で、気付いた時は手遅れで体中転移をしていて、入院してから半年だった」
島田は思い出したように目を天井に向けて悲しげな顔をした。
「そうだったんですかぁ。大変でしたね。何も知りませんで済みません」
「他人にはめったに話をしないから知らなくて当たり前だよ」
「お子様は?」
「ああ、娘が二人だ。まだ上が高校生、下が中学生だ」
「可愛いんでしょ」
「そりゃ可愛いよ」
「再婚とかは考えていらっしゃらないのですか」
「娘たちが承知してくれるかどうか。女の子は難しいよ」
紀代はそんな話を聞いて、島田はこれで結構寂しい所があるのかなぁと漠然と思った。でなければ自分を無理に誘ってこんな話をするわけはないとも思った。
「なにか余計なことを聞いてしまって、済みませんでした。あたし、そろそろ帰らせてもらいます。今夜はご馳走様でした」
島田はもう少しこのまま一緒に居て話し相手になってくれと言ったが紀代ははっきりと断って部屋を出た。
紀代が部屋を出ると島田は、
「何事もあせると失敗するからな、彼女はじわじわと絞めて行くか」
と独り言を言いながら、カンビールのプルトップを開けた。
翌日の夕方、紀代は探偵事務所に立ち寄った。
「済みません、少し調べて欲しいのですが」
「何か?」
応対した探偵は四十歳位の中年の男だった。
「男の方の家族や住いについて調べて頂きたいのですが」
「素行調査も必要ですか? 何か手がかりはありますか」
と探偵は聞いた。
「いえ、素行調査は必要がありません」
「ではここに分っていることを書いて下さい」
紀代は差し出されたメモ用紙に会社名と役職を書いて、氏名:島田竜一と書いた。
「これだけで住所とか分らなくても大丈夫ですか」
「あはは、住所が分らないから調べて欲しいんでしょ? 大きな会社ですから、簡単に分りますよ。家族関係などは実際に現場に行って調べます」
「どれくらいかかります?」
「費用? それとも期間?」
「両方です」
「費用は実費が出てから計算して請求します。なぁに、大した金はかかりません。期間は一週間から十日見て下さい」
それで紀代は調査を頼んで家に帰った。
五日後探偵から電話が来た。
「良かったら事務所にいらっしゃいませんか? 八時まで店を開けておきます」
紀代は夕方立ち寄った。
「奥様もいらっしゃるのですか?」
「ああ、なかなかの活動家で町の婦人会や学校のPTAの役員などをされていて、近所ではやりての女性だと評判でした。一応顔写真も家族全員揃えておきました」
調査報告書と請求書を受け取って紀代は探偵事務所を出た。
「男は信用できないなぁ」
帰り道、紀代は独り言を呟いた。
七十九 再びお誘い
紀代が探偵に頼んだ島田の身辺調査は、どうやら探偵が金がらみの信用調査と思ったらしく、家族構成の他に、資産内容についても詳しく書かれていた。個人情報に何かとうるさい世情にしては短期間に随分細かい数字を調べ出したことに紀代は驚いた。紀代が頼んだ探偵が内偵のため島田の家の近くに行った時、別の探偵らしき人相の悪い男が家の周囲を嗅ぎ回って居たが、紀代が頼んだ探偵はそのことに気付かなかったようだ。
今住んでいる家屋は島田名義で、横浜の港北区に敷地面積六十五坪、家屋の建坪は四十八坪の二階屋を持っていた。もちろん住所や電話番号も出ているから、行って見ればどんな所かなんていつでも分かる。
島田は銀行から住宅ローンを借りて家を手に入れたらしく、五千万円借りて、ローン残高がまだ三千万と少し残っている。預金は八百万円もあるが、意外に思ったのは有価証券が五百万と少なかったことだ。
島田の年収も出ていた。昨年の年収が千九百万円、紀代は世間相場を知らないが、大手の会社の経理部長はこんなものかと思った。以前矢田部工場長が、
「自分の年収は秋元さんより少ないよ」
と言っていたが、島田の年収を知って、案外そんなものかとも思った。
紀代は島田のお小遣いを想像してみた。二人の娘は月謝が高い私立に通わせ、上の子はピアノ、下の子はバレーの稽古をやらせているから、子供たちにかなり金を使っているのではないかと思った。調査資料には奥さんの恵子さんはかなり派手好きで、お出かけが多い様子だから、金もかかるだろう。住宅ローンの返済を考えると、島田の毎月の小遣いはせいぜい十万円程度ではないかと思った。それなのに、先日は高いライブチケット、バーでの飲み直し、一泊二万五千円もするようなホテルの部屋、どう見ても背伸びをしているとしか思えなかった。小遣いの十万は普通のサラリーマンとしては贅沢な方ではないかとも思ったが、それにしても派手過ぎるのだ。
紀代が島田のことを大分詳しく知った後で、仕事中に島田からまたお誘いの電話が来た。
「この前は済まなかった。どうだ、今日は回りくどいやりかたを止めた。またディナーに付き合ってくれないか」
前回紀代が意見を言ったので、島田はストレートに晩飯に付き合ってくれと言ってきた。紀代は手帳を見た。その夜は特に予定がなかったし、光二は当分音信不通だ。それで、
「いいですよ」
と答えた。
「ありがとう。じゃ、定時後にまた連絡を入れるよ」
電話の向うで喜んでいる島田の顔が見えるようだ。
終業時刻を少し過ぎて、紀代の所に島田から電話が来た。
「すまんが、川崎の駅前で待っていてくれ」
と詳しい待ち合わせ場所を指示してきた。
「はい、分りました。これから向かいます」
紀代はそう返事をして、帰りの身支度に着替え、トイレで化粧のチェックを済ますと川崎駅に向った。
言われた場所で待っていると、黒塗りの乗用車が近付いて来た。紀代は会社の社用車だと直ぐに分った。運転手の顔を覚えていたのだ。
車が紀代の前に滑り込んで来ると、窓ガラスがすぅーと下りて、ニコニコした島田の顔が[乗れ]と合図をした。紀代は後部座席にふんぞり返っている島田の隣に乗り込んだ。紀代を乗せると車は直ぐに高速に乗り、東京方面に向って走った。島田は紀代の手を握ってきたが、紀代は黙って島田がするがままにさせていた。
東京タワーの綺麗なライトアップが見えてしばらくすると車は高速を降りた。すると、運転手がバックミラーを見て、
「部長、なんだか会社を出てからずっと後をつけてくる車がありますね」
と言った。
「何か偶然じゃないのかね?」
島田は心当たりがない様子だ。
車はそのまま一般道を走り、麻布のちょっと洒落たレストランの前で停まった。
「ご苦労さん。帰りはタクシーで帰るから、君は帰っていいよ」
そう運転手に言って島田はレストランのドアーを開けて中に紀代を誘った。麻布十番にあるシプレと言うフレンチの店だった。
「この店は美味しいワインが揃っていてね」
島田は上機嫌だ。
島田が言った通り、なかなか美味しい料理を出す店だった。
先ほど社用車をつけてきた車は少し手前で停まり、中から男が一人降りて、島田と紀代が店に入る様子をカメラに収めていたが、島田は全く気付いていなかった。
食事が終わって店を出ると、案の定、島田は紀代をホテルに誘った。紀代はご馳走をしてもらった手前、仕方なく島田と一緒にホテルに向った。
後をつけてきた男は二人がホテルに入る所もカメラに収め、立ち去った。
ホテルに入るとこの前と同様に、
「ちょっと酔い醒ましをしよう」
と言ってコップに水を入れて差し出した。
「ありがとうございます」
紀代は素直に受け取り飲もうとして、ちょっと躊躇った。
「あのぅ、もう時間も遅いですから、あたし、これで失礼をさせて頂きます」
だが、島田は紀代の手を掴むと引き寄せていきなり抱きすくめた。
「年寄りを悲しませちゃいけないよ」
島田は思ったより腕が強かった。紀代が、
「部長、いけません」
ともがいても容易には腕からすり抜けられない。すると、
「秋元さん、工場長に話しても構わないよ。僕は本気だ」
と言うではないか。紀代は切り札の一つを失った。
紀代を島田がベッドに押し倒して、スカートの裾から手を入れて来た時、紀代は思い切って言った。
「恵子さんに言い付けますよっ!」
突然に紀代の口から出た言葉を信じられないと言う顔で島田は紀代から離れて怒った顔になった。
「隙のない子だなぁ」
紀代は自分のハンドバッグを掴むと逃げるように部屋を飛び出して、エレベーターホールに向って走った。島田は後を追いかけては来なかった。
家に戻ると、着替えを済ませて落ち着いた所で、紀代は矢田部に宛ててメールを書いた。管理職になると、社外秘で管理職全員のメールアドレスリストが手渡され、紀代は自宅の机の引き出しにしまっていた。
メールの内容は、工場長さん、こんばんは。近況をご報告します……と書き出し、最初に簡略に企画会議のことを報告し、それに続けて、前回と今回の島田とのデートについてありのままに報告をした。自分としては不本意だが人間関係を考えて誘いに応じたと書いた。最後に社用車を私的な目的に使ったことに触れ、あたしが経営者なら絶対に許しませんと書いてしめくくった。
翌日矢田部は紀代からのメールに目を通すと、その場でメールを削除した。
八十 懲戒免職・降格処分
紀代が勤める製菓会社常務取締役工場長矢田部三四郎は財務担当役員加藤と先ほどからひそひそと密談をしていた。
「おいっ、君はこの処分で了解だな」
「工場長、今回ばかりは仕方がありません。殺してやりたい気分ですよ」
「まぁ、そんな過激なことを言うもんじゃないよ」
「よしっ、島田を呼んでくれ」
取締役の加藤は電話で島田を呼び出した。
「ちょっと工場長室に来てくれ」
呼ばれた島田は何も知らず上機嫌だった。今期は秋元が率いる企画会議の新製品にヒット商品が続出して、業績は好調だったから、多分業績の上方修正の話しだろうと思っていた。
島田が工場長室に入ると、常務と上司の加藤が苦りきった顔で待っていた。島田の顔を見ると加藤は、
「君、そこに座れっ!」
と厳しい声で指示した。島田は呆気にとられていた。
テーブルの上に写真がドサッと投げ出された。
「島田、良く写真を見て説明しろっ」
加藤は殆ど怒鳴っていた。それを、
「まあ、怒ってもしょうがないだろ、落ち着いて島田の話を聞いてやれ」
と矢田部が制した。
島田は、
「何ですか、この写真?」
とすっとぼけた。それで矢田部が切れた。
「何だ、その言い方は。君のことはちゃんと調べが付いているんだ。真面目に加藤君に説明してくれ」
そう言って矢田部は厚さ1センチもあるA4のプリントを出した。
「写真の女性に覚えがあるな?」
島田はやっと何を聞かれているのか悟ったようだ。
「はい。うちの女性社員です」
「バカもんっ、そんなことは聞いてない。あんたとの関係を聞いているんだ」
島田はぽつりぽつり不倫をした女子社員との関係を話した。
「総務一名、営業二名、技術一名、それにだ新製品開発室長代理の秋元さんを入れて全部で五人もの大事な女子社員に手を出したんだな?」
加藤が詰め寄った。
「はい。つい魔がさしまして」
「こらっ、どこまで人をバカにした言い草をするつもりだ? 魔がさしただと? 一人なら分るが五人もだぞ。計画的にやったんだろ?」
「見解の相違です」
「下らん。お前と話しているとこっちまでおかしくなる」
加藤はなかば匙を投げた。
「随分派手に遊び回っていたそうだな? 君の月給でよくもそんな豪遊ができたな? 金はどうしてるんだ?」
「家内の金を使い込みました」
「君が預かっているこの会社の金を着服したんじゃないのかね」
今度は矢田部が聞いた。
「一切してません」
島田は否定した。
「じゃ、この資料について説明できるかね? このリストは君が経理部長になってから過去五年間の使途不明金だよ。全部合わせると二千七百八十万円にもなっているんだ。そこでだ、金の流れをだ、技術部長の手を借りて、パスワードは君しか使えない入出金のプログラムに入ってもらってだ、資金の流れを精査してもらったら、使途不明金と同額の金が特定の会社の口座に送金されているんだよ。それでだ、外部の調査機関を使ってその会社を調べたらだ、幽霊会社だったよ。君、それを説明できるかね」
「さぁ?」
「もう一度言うが、このプログラムに入れる権限のある者は社内じゃ君だけなんだぞ」
「覚えがありません」
「ではこの映像を見てくれ」
矢田部はリモコンで天井に格納されているスクリーンを降ろした。そこにビデオの映像を映し出した。映像には夜人気のない経理部の部屋で島田がパソコンを操作している場面が映し出された。画像には日付が入っており、パソコンの画面の拡大映像にはパソコンの画面のクロックと3秒違いで出ていた。しかも島田が入力した数字の拡大画面が出た。
「この日、この数字の金額がだ、その幽霊会社に振り込まれているんだよ。君が送金操作をしてるんだよ。これでもシラを切るつもりかね? 他にも何件も数字が一致する映像があるんだ」
島田は観念した。突然椅子から降りて、床に頭をこすり付けて
「私がやりました。済みませんでした」
と土下座した。
「おいっ、島田、認めるんだな」
島田は小さな声で、
「はい」
と答えた。加藤は、
「悪いが、今ここでの会話とやりとりは全部ICレコーダーとビデオに撮らせてもらったよ」
そこで矢田部が再び話しだした。
「島田君、君は今日この時点で懲戒免職だ。人事部長が来るから手続きを済ませて私物をまとめて出て行ってくれ。百万、二百万ならクビにまでしないでも良かったが、この金額じゃ株主に説明が付かんのだよ。本社の社長にも了解をとってある。ついでに言うが、加藤君も今度の役員会で役員を解任だ。わしも責任上月給を半年間三割カットだ。あんたのお陰でとんでもないとばっちりを受けたよ。
会社は君を損害賠償で告訴するが、今日警察に自首してくれ。横領罪は警察にお願いするつもりだ。もし君が自首しなければ明日会社で通報をするからそのつもりでいてくれ。用は済んだ。部屋から出て行ってくれ」
島田は聞き終わると元気なく部屋を出て行った。
「加藤君、島田が手を付けた女子社員だがね、依願退職者が三名、一名は残りたいそうだから明日異動をするように指示してある。秋元さんは不倫をしたわけじゃないから気の毒だが、名前が出てしまった以上今のポストは辞めてもらわざるを得ないな。元の製造部の係長に降格、異動するように言ってある。彼女はこのままじゃもったいない気がするから、いずれ時期を見て今のポストに戻してやるつもりだよ」
紀代は翌日島田の不祥事の話を室長の佐藤から聞かされた。
「矢田部さんは君を買っているがね、今回ばかりは今のままじゃ済まないんだよ。秋元さんが被害者なのは僕が一番良く知っているんだ。すまんが、半年か一年製造部に戻ってくれ。それから企画会議の座長は外すなと矢田部さんから指示を受けているから、今まで通り座長をやってくれ」
翌日島田の横領事件が新聞、テレビで報道され、会社中大騒ぎになった。しかも誰からか情報が漏れて、被害に遭った女子社員のことも一部の新聞に記事が出ていた。
紀代が製造部に戻って喜んだ男が居た。生産技術部メンテナンスグループの橋本徹だった。
八十一 窓際族
触らぬ神に祟りなし。
紀代は以前仕事をしていた製造部に係長の資格で戻された。紀代は当然のこと、以前と同じ仕事に就けるものと思って、張り切って出社した。だが、甘かった。上司だった製造部の課長は朝紀代が、
「おはようございます。今日からこちらに戻りました。よろしくお願いします」
と挨拶しているのに、
「ん」
とそっぽを向いて返事をした。紀代の机は……ない。あたりを見回してもない。以前は事務作業用に係長には机があった。だが、ないのだ。紀代がまごまごしていると、
「机はないよ。そのへんで適当にやってくれ」
と課長が言った。
「信じられない」
紀代は心の中で呟いた。仕方がない、立ち仕事のラインに行った。元居た職場とは言え、普通は皆を集めて、改めて紹介するものだ。だがそれもなかった。
ラインに行って、明るい声で挨拶をした。だが、誰も無言だ。目が合うと逸らせてしまう。これには紀代は参った。人間関係で、特に職場では無視されて、コミュニケーションが断絶してしまうのは拷問に等しい。虐めだ。紀代が製造部に異動になったことは社内の通達で皆知っているはずなのに、よそ者を見る視線が紀代を刺した。
紀代は子供の頃に嫌と言うほど児童虐待を受けた。普通の女の子なら、職場の仲間全員に無視されたら、それだけでノイローゼになってしまうだろう。けれど、紀代は動じなかった。仕事がないなら仕方がない。紀代は企画室で開発したヒット商品の製造現場を見て歩いた。すると、
「邪魔っ!」
と誰か男の作業員が背後から怒鳴った。紀代は振り向いてそいつの顔を見てニッと笑って返してやった。男は紀代の態度に怯んで、きまりが悪そうにラインの仕事を続けた。
現場から戻ると、紙と鉛筆を持って職場の窓際の隅っこに立って、紙を壁に当てて、新しい製品のアイデアを思いつくがままに書き込んだ。紀代は窓際族になってしまった。机も椅子もないから立っているしかないのだ。ラインにだって、疲れた時に腰を下ろす椅子は置いてある。だが、紀代はライン作業者用の椅子に座るほどずうずうしくは出来なかった。
仕事がないと言うことが、こんなに時間が経つのが長いものかと紀代は初めて経験した。忙しくしていると、あっと言う間に昼になり、昼飯を済ますと、あっと言うまに終業時刻になる。だが、一日何も仕事がないと時間の進みがものすごくゆっくりなのだ。もうお昼かと思って時計を見ると十一時過ぎだった。
紀代を無視する仕事仲間は一週間を過ぎても無視を続けた。女たちには元経理部長と不倫をしていたと思われていて、紀代を見た女たちは汚らわしい者を見る目つきで顔を逸らすのだ。
紀代の気持ちを分ってくれたのは仲良しの辻ヨネだ。彼女は度々紀代のマンションを訪ねてきて慰めてくれた。
「ヨネさん、彼とは上手く行ってるの」
その話をすると、ヨネの顔が曇った。
「その顔、別れた顔だわね?」
「分る?」
「分るよ。顔中に寂しさが満ちてるよ」
「あたし、彼がなかなか日本に来てくれないから、ソウルまで行ったのよ」
「へぇーっ? ソウルまで? それで会ってくれたの」
「どうにか会うだけはね」
「それで?」
「ヨネに興味がなくなったから別れろだって」
「ヨネの身体を奪っておいて、ひどい奴だね」
「彼ね、紀代となら付き合うってよ」
「そりゃ、もっとひどい仕打ちだわね」
「それでどうしたの」
「別れた。もう顔も見たくない」
「そうよ。気持ちを切り替えなくちゃ」
「彼の仕事、何やってるか知ってる?」
ヨネが聞いた。
「あたし、聞いてない」
「彼ね、普段はソウルのホストクラブで仕事をしているんだって。大金持ちの奥様相手だってよ」
「何となく分るなぁ。彼の手、男にしては綺麗過ぎたよ」
「あたし、それを聞いて、彼に遊ばれちゃったと思った」
「そうだね、ヨネはお金持ちじゃないからね」
「紀代だって貧乏なのになんで紀代ならって言ったのか、あたしの謎だなぁ」
「多分あたしには光二さんが付いてるからよ」
「光二さんてそんなに凄いの?」
「彼は全然光二さんに頭が上がらないみたいだったよ」
「ふーん?」
紀代は光二のことを話題にして、急に光二に会いたくなった。職場で虐められているし、何か心の支えが欲しかった。
八十二 ブラックマネー
紀代が会社で左遷され、虐待とも思える仕打ちに耐えていた頃、藤島光二は仲間と共に太平洋上に居た。
総額七億ドル、円換算をすると約五百五十億円もの現金を七回に分けて洋上で受け渡しをする仕事だ。
一億ドルともなると、100ドル紙幣でも相当の重量になるのだ。それで、海上に漂う荷物を引き揚げるために、ウインチや吊り上げ用の滑車付きポストをクルーザーに予め装着してきた。
受け渡し場所は大東諸島と沖ノ島の中間あたりで、目視では島影が殆ど見えず、360度大海原だ。受け渡し場所は海流が早く、万一クルーザーから転落するとあっと言う間に流されるから、皆命綱を胴に巻きつけていた
この日は四回目の受け渡しだ。既に三億ドルの現金は無事に受け取っていた。いちいち横浜まで往復するには日程がかかりすぎる。それで、100kmほど離れた場所にやや大きな漁船を停泊させていて、食料や燃料の補給をそこからやっていた。
太平洋上で小さな船での受け渡しだから、中国や日本、韓国の巡視艇に見付かる心配はなかった。
中国の上海近郊揚子江の入り口、崇明から出た高速船に改造されている漁船はやや大きめで、七億ドルを一度に全部積み込み、出航後、奄美大島近海で停泊しており、連絡のあった日時に受け渡し現場に船を移した。とは言っても、奄美大島から受け渡し場所までは約600kmも離れているから、十時間以上もかかるのだ。
受け渡しで一番気を遣うのは気象、とりわけ天気と風の様子だ。台風や熱帯低気圧が接近している時はもちろん受け渡しができない。その日は晴天で風も穏やかだった。もちろん翌日と翌々日の気象も安定していることが条件だ。
中国側の漁船は決して光二たちのクルーザーには接近しない。高度な秘話システムが組み込まれた無線で相互の位置を確認し、漁船が荷物を洋上に降ろす。二十個に小分けされた箱は海水に浮くが、念のため浮きが付けてあり、二十個は鎖で繋がれ、その上に魚網をかぶせてばらばらにならないようにしてある。 さらに荷物の先頭と最後には防水したDSB送受信機が装着されていた。一台でもいいのだが、万一故障をした時のバックアップで二台使っていた。クルーザーから1キロ以上離れた場所で荷物を降ろし終わると、DSB送受信機の機能テストを行って、海流の方向を確かめて船につないだロープを切断する。海流はもちろんクルーザの方向に流れている。
中国側の漁船から無線で[完了(Finished)]と連絡が入ると、光二はクルーザーを全速力で荷物を目指して走らせた。時々刻々GPS位置情報が荷物から送られてくるので、見落とすことはない。光二達が荷物の追跡に入った時には漁船は全速力で荷物から遠ざかり、双眼鏡で見ると殆ど点になっていた。
何が起こるか分らない。それで、荷物の引き上げ作業は手早く行った。あと、もう四個を引き揚げて完了と言う時、双眼鏡の中にこちらに向かってくる船舶があるのに気付いた。
「おいっ、急いでくれ」
荷物が最後の一個になった時、船の形ははっきりと確認できた。
「やべぇ、中国の巡視艇だぞ。急げっ」
ようやく荷物を全部引き揚げると、クルーザーは全速力で逃げた。巡視艇は早くても時速60キロ位だが、クルーザーは100キロ近くの速度で逃げたので、見る見る船影は小さくなって行った。万一巡視艇に見付かって停船命令を出されたら始末が悪い。光二は額に冷や汗をかいていた。同時に中国側の漁船にも無線で状況を通報した。それで漁船は奄美大島へは戻らず、台湾沖のパタン諸島を目指して航行した。光二は母船の方にも連絡を入れた。それで、別々に航路を取って横浜に一旦引き揚げることになった。彼らは用心深く行動をする決まりにしていたのだ。いくら巡視艇より逃げ足が速いからと言って油断はできない。彼らは状況によりヘリや航空機を出動することだって出来るのだ。時速500キロで飛ぶヘリにはクルーザーの速度なんて敵わないのだ。
光二が乗っているクルーザーは母船より二日早く横浜に戻ってきた。ハーバーで荷物の処理をして倉庫に運び終わると、母船が戻るまで二日間ほど空きが出た。久しぶりにバーで一人酒を飲んでいると、光二は無性に紀代の肌が恋しくなった。
「紀代、しばらくだな。元気か? 今から横浜に出て来れないか」
久しぶりに光二からの電話を受け取って、紀代の心は弾んだ。
八十三 今夜こそは……
「車で拾ってやりゃいいんだが、オレは飲んでるから、すまんが電車で直接来てよ」
「はい。直ぐに出ます」
紀代は光二からの久しぶりの電話に心が躍った。
「場所は?」
「関内を降りたら、海に向って四つ目の信号を左に曲がってくれ」
「すみません、メモします」
紀代は手帳とボールペンを取り出した。
「交差点を曲がった道は太田町通りだ」
「はい」
「真直ぐに桜木町の方向に、そうだなぁ300m位歩いてくれ」
「はい」
「左手に三井生命ビルが見えるから、その手前の細い道を右に、つまり海側に向かって20mほど歩くと、第8須賀ビルってのがあるから、その地下だ」
「お店の名前は?」
「カサブランカって言う名前のバーだ」
「分りました」
紀代は携帯を切ると、直ぐにマンションを出た。八時を回っていたが電車はかなり混んでいた。
バーは直ぐに分かった。CASABLANCAと英文で書かれた看板が出ていた。ドアーを開けると、そこに大人な雰囲気が広がっていた。カウンターに十五席くらいしかないこじんまりとした店だった。カウンターの奥で、光二はバーテンと話しこんでいた。光二の他はカップルが一組だけだ。
紀代の顔を認めると、光二は隣に座れと手招きをした。
「直ぐに分かったか?」
「いえ、ちょっとキョロキョロしたわよ」
紀代は笑った。
「何がいい?」
「光二さんのお勧めでいいわ」
光二はバーテンに目配せした。
しばらくすると、紀代の前に赤い妖艶な色彩のカクテルがすぅーっと出された。
「ジャックローズです。どうぞ」
バーテンの優しい目があった。
紀代がグラスを引き寄せると、かすかにフルーツの香りがした。弱くなく、強くなく、心地良い香りだ。
「夕食は済んだんだろ」
「もちろん。光二さんは?」
「これが夕食代わりだ」
光二はカクテルグラスをちょっとだけ持ち上げて微笑んだ。紀代は料理好きで鼻がいい。光二のグラスからかすかにライムの香りが漂ってきた。多分ギムレットだろう。紀代は勝手にそう思った。
ジャックローズが美味しかったので、おかわりをした。二杯飲み終わった時、
「ホテルに行こうか?」
光二が珍しく誘った。いつもは黙ってついていくとホテルの部屋だったりするのだ。もう長く付き合っているから別に誘いの言葉は要らなかったのだが、何故か今夜は光二が誘った。
通りに出てタクシーを拾うと、みなとみらいの大きなホテルのエントランスで降りた。紀代はここには光二と何度も来ている。
「海が見える部屋にしてくれ」
光二はそう頼んだ。
「ハーバースゥィートでも?」
「ああ、それでいい」
キーカードを受け取ると、二人は二十二階に上がった。綺麗な部屋だった。紀代は今夜こそ、光二にバージンを奪われたいと思った。
「このホテルのルームサービスは二十四時間だ。ワインでも飲むか?」
「あたし、おなかが空いちゃった」
光二は、
「イタリアン? エスニカン? それともウェスタン?」
と笑いながら聞いた。
「エスニカンにしようかな?」
紀代は別にエスニカンを食べたいわけでもなかったが、流れでつい口にした。
「分った。ナシゴレンにしよう。オレはピッツァサポリートにしておこう」
光二は飲み物と一緒に持ってきてくれと頼んだ。
大きなホテルだけあって、きっちりとした形で食べ物が運ばれてきた。二人は横浜の夜景を楽しみながら無口になつて飲み、食べた。
腹ごしらえが済むと、紀代が先にシャワーを使った。紀代がバスルームから出た時は光二はまだワインを飲んでいた。
「お先に……」
「ん」
光二は立ち上がった。紀代はベッドに先に潜り込んで光二を待っていた。
「どうしたら光二さん、抱いてくれるかなぁ」
紀代はそんなことを考えていたがこれと言った妙案はなかった。
光二がベッドに入ると、目で紀代に隣に来いと誘った。いつもだとこのまま二人は全裸で抱き合って朝を迎えるのだ。今まで一度だってセックスをしたことはない。
「光二さん」
「ん?」
「今夜、あたし光二さんにバージンを奪われたいな」
「それはダメだって言っただろ?」
紀代は甘える声で、
「どうしてもダメ? あたし、光二さんとじゃなきゃ嫌なんだ」
光二は困った顔をした。
光二はベッドから起き上がると、ガウンを羽織り、ベッドルームを出てリビングに行った。紀代も起きた。それでバスルームの前を通ってリビングルームに入ると、光二が電話をしていた。
「士道さん、夜中にすみません」
「こんな時間に珍しいな。何か急用でも?」
「紀代さんのことですが」
「どうかしたのか?」
「今ホテルですが、彼女も一緒です。彼女とはまだやってませんが、今夜どうしてもと言われまして、オレ、困ってるんですよ」
「お前ならうまくなだめられるだろ?」
「ま、それは出来ますが、今夜は紀代さんがいつもと違ってどうしてもと言うもんで、オレ義理は守りたいですから」
「紀代ちゃん、そこに居るのか」
「はい」
「じゃ、ちょっと代われ」
光二は、
「士道さんだ」
と言って受話器を紀代に渡した。
「紀代ちゃんか?」
「はい。ご無沙汰してます」
「ずっと元気だったか」
「はい」
「いきなり変なことを聞くが」
「はい」
「まだバージン守ってるのか」
紀代はそんな話題になって顔が赤くなる思いだった。それで返事に困っていると、
「今夜光二に抱かれたいのか」
と聞かれた。
「はい」
「光二に代われ」
「はい」
紀代は光二に受話器を返した。
「光二、抱いてやれ。だがな、今夜じゃねぇ」
「いいんですか?」
「オレの話しを聞いて、彼女に言ってやれ」
「はい」
「女は成り行きで簡単にバージンを捨てる奴が結構居るがな、オレはもうちょい厳粛なもんだと思ってるんだよ」
「はい」
「ラブホでバージン捨てるなんて論外だが、そこらのホテルで飲んだついでにってのもいけねぇ。紀代ちゃんを抱いてやるならな、彼女が一生の思い出になる場所に連れて行け。いいな」
「はい」
「それにあんたは紀代ちゃんと結婚は考えるなよ」
「それは分ってます」
「じゃ、もう一度紀代ちゃんに代われ」
光二は黙って紀代に受話器を差し出した。
「紀代ちゃん、悪いが光二とは結婚を考えるなよ」
「はい。前に言われましたから」
「抱いてもらうのはいいが、結婚までは許さんぞ。それでもいいのか」
「はい」
「なら、抱いてもらえ。だがな、今夜じゃねぇ。光二に言ってあるから光二の話しを聞いてくれ。いいな?」
「はい」
電話は切れた。
「士道さんからOKが出たよ。女がバージンを失うのは一生に一度だけだよな。だから士道さんはそこのとこを大切にしろって言うんだ」
「すみません」
「今の仕事が終わったらな、オレがいい所に連れて行ってやる。それまで我慢しろ。できるか?」
「はい。我慢して、楽しみに待ってます」
「オレの頭の中じゃ、ニュージランドとかスペインとかカナダとか、自然の中で二人っきりになれるいい所に旅行して、紀代の一生の想い出を作ってやるよ。それまで待ってくれ。今夜はいつもの通りだ。いいな?」
「はい」
結局、光二と紀代は何もしないで朝までベッドの中で抱き合って眠った。光二に初めて抱いてやってもいいと言われて、紀代は幸せな気持ちで光二と過ごせた。光二も士道も紀代を大切にしてくれていることが心に沁みた。
八十四 いつどこでロストバージン?
楽しいこと、嬉しいことは長くは続かないが、辛いこと、苦しいことだって、そうは長くは続かないものだと紀代は思っていた。しかし、室長代理を降ろされて、製造部の現場に戻された紀代への、仲間たちの冷たい目、無視、課長の冷遇、窓際族は異動になって二ヶ月も過ぎたのに、まだ続いていた。
気の弱い女の子なら人知れず泣いたり、いっそうのこと退社してしまおうかと思うだろう。だが、幼少の頃に義母に虐め抜かれた紀代は逆境に強かった。いや、強くなっていたのだ。毎日針の蓆に座らされているようだったが、紀代は努めて明るく周囲の人たちに接していた。無視されてもだ。
そんなある日、紀代よりもずっと年上の三十代半ばの作業員の女性が、お昼休みに紀代の所にやってきて、
「秋元さん、お久しぶりです。以前は大変お世話になりました。お陰さまで主人とも子供のことで喧嘩をせずにすむようにになって、今は家庭の中がすごく明るくなりました」
と親しみを込めた口調で頭を下げた。
「お子様、おいくつですか?」
紀代は何の話か思い出せず、聞き返すのも失礼なので子供の歳を聞いてみた。
「あたし、結婚が遅かったから、まだ上の子が四歳、下のが二歳なんですの」
紀代はようやく思い出した。以前残業をすると子供を保育園から引き取る時刻に遅れて、ベビーシッターに頼むのだけど、残業料よりお金がかかり大変だと言う話で、子育てや家庭に事情がある人にはなるべく残業をしなくても良いように全社に支援の運動を起こしたのだった。
「そう? まだまだ大変だわね。今も事務部門から残業のある日には応援が来てますね」
「はい。あの時、秋元さんの頑張りがなかったら、あたしとっくに退社してたかもです」
女性は当時を思い出した様子で目頭をハンカチで押さえた。
「それでなんですが、あっ、今お時間は大丈夫ですか?」
「はい。お昼休みの間だけなら」
「よかったぁ。実は秋元さんのお陰で助かった方が今でも五十人くらい居るんです。それで、製造に戻られてからまだ歓迎会もしてあげてないようなので、あたし達だけでもと思って、歓迎会を計画しましたのよ。その日お時間頂けますよね」
「ええ、あたしまだ独身ですから、皆様のご都合で決めて下さって結構です」
紀代に声をかけてくれた女性を入れて三人が幹事になって、土曜日の夕方に鶴見駅近くの居酒屋で歓迎会をしてくれた。幹事の話しだと五十三名全員が出席してくれたと言うではないか。土曜日を選んだのは子供の面倒を旦那がやってくれている者が多く、数名は子供連れで出席してくれていた。紀代は今までだって嬉しいことが色々あったが、その日の歓迎会は紀代にとって一生の思い出になるだろうと思った。紀代が製造現場に戻されてから、普段皆から冷たくあしらわれているのを見て皆心を痛めていたのだと言う。
少しアルコールが入って、皆が打ち解けて話を始めた時、紀代は皆に話題を投げかけてみた。
「あたしまだバージンなんですけど、皆様はお子様がいらっしゃるのでをロストバージンなさってますよね。バージンを失った瞬間って人それぞれ違うと思いますが、アルコールも回ってきたようですし、無礼講ってことで、それから今夜このお店を出たら後日誰がどんな話をしたとかは一切無しにするってお約束で、どんな時に失ったとか話題になさいません?」
紀代の話しに困った顔をする者も居たが、大方話に乗ってきた。
突然誰かが、
「バージンって失うものじゃなくて、奪われるものよ」
と言ったので皆が爆笑して一気に座が盛り上がった。それで紀代が出した話題を幹事三人が引き取ってくれて、幹事が質問を始めた。
「皆さん、お一人ずつどんな時にロストバージンなさったか話して下さらない? 順番は、そうだな一番テーブルの端からどうぞ」
指名されたトップバッターは先ほど[奪われるもの]だと茶化した女性だった。その女性は待ってましたとばかり立ち上がって自分の初体験を話し始めた。
八十五 不倫未遂
「その前に秋元さんに質問があるんだけど」
と三番目のテーブルの中ほどに座っていた女性が手をあげた。幹事が、
「どうぞ」
と言うと彼女は立ち上がって紀代に聞いた。
「あなた島田部長と不倫なさったんでしょ? 不倫をしておいて、あたしまだバージンですってなんか可笑しくない?」
何人かはそうよ、そうよと頷いていた。
紀代は答えた。
「あたし、島田部長に誘われて、お断りできずに社外で会いました。でも、最初のお誘いの時は手に入り難いチケットがあるからって、あたし、奥様かお嬢様とどうぞと言いましたけど、方々当たって全部都合が悪いので、今回だけはとか言われて」
「映画のチケット?」
「いいえ、福島雅治さんのディナーショーのチケットでした」
そこまで話すと、
「すごぉーい」
とか、
「あたしも誘われたかった」
とかざわめいた。(実在する歌手の福山雅治氏は今までディナーショーをやった実績はない。本書はフィクションで架空の福島だ)
「それでディナーが終わってからホテルに誘われましたけど、お友達と約束があると言って逃げましたの」
「へぇーっ、よく逃げられたわね」
「その時、島田さんは奥さんを三年前に亡くされて今は独身だと言ってました。でも、あたしお付き合いしている方がおりますし、先々何かあると困りますから一応探偵社にお願いして調べてもらいました。そうしたら、ちゃんとピンピンした奥様がいらっしゃって、島田さん、あたしにウソをついたんです」
「探偵に頼んで幾ら取られたの?」
興味がありそうな女性が訊いた。
「あたしの場合は十万円お支払いしました」
すると、
「高~いっ」
と言う声があちこちから出た。集まった女性は子育て中の女性ばかりだ。十万円は大金だ。誰かが、
「女をたらしこむ男がよく使う手よ」
と言ったら、
「男なんて外で何してるか分らないものよ」
などと言う女性も居た。
「お誘い、お断りできなかったの?」
幹事の女性が聞いた。
「職場には上下とか横の人間関係がありますし、島田さんの場合は経理部長さんでしたから、断りずらくて」
すると別の女性が、
「そうよ、会社の目上の方から無理にお誘いを受けたら、人間関係を考えると断り難いわよね」
とフォローしてくれた。
「男性の中には上下関係を利用して迫る人がいますが、あれってセクハラよね。パワハラとも言うのかしら」
また別の女性が言った。紀代は続けた。
「それで、二度目にお誘いを受けた時は西麻布のフレンチレストランに連れて行かれて、食事の後その日も強引にホテルに誘われまして」
「それでどうなったの?」
いよいよ不倫の瞬間の話が出ると皆は期待している様子だ。
「前と違って、ホテルに入るといきなりあたしをベッドに押し倒して、押さえつけられて。男性の力は強いですから、あたし、もがいても逃げられなくて」
「それでどうなったの?」
別の女性が聞いた。
「その時、あたし咄嗟に思いつきました。上に被さってきた島田さんに、『恵子さんに言いつけますよっ』と言いました。あたしには三年前に死んだとウソを言ってたものですから、怖い奥様の名前を言われて、島田さんは慌てました。その隙にハンドバッグを持って必死にエレベーターホールに逃げて、そのまま家に帰りましたの」
「三度目は?」
誰かが聞いた。
「すみません、島田さんとはその二回だけです」
すると、これからトップバッターでロストバージンの話をする予定の女性が、
「なんだ、それじゃ不倫未遂じゃん」
と言ったのでまた爆笑になった。どうやら紀代は島田と不倫関係にあったと噂が流れていたらしい。
幹事の女性が、
「秋元さん、そうだったの? ここにおられる方々は全員今まで秋元さんが島田部長と不倫していたと思っていたのよ。誤解しててごめんなさいね」
と謝った。それで最初に質問をした女性は、
「納得」
と言って座った。
女性の間では余程親しくしてなかったら、[ロストバージン]を話題にすることは少ない。だが、気持ちとしては他人の初体験に興味はある。
最初に自分のロストバージンについて話す予定の女性が質問した。
「あたし、奪われたのは中三の時よ。十代で奪われた人、挙手!」
と言った。そうしたら七人が手を挙げた。「二十代で奪われた人、挙手!」
殆どの女性の手が挙がった。
「あのね、三十代までバージンだったからって恥ずかしくはないわよ。正直に行きましょう。はい、三十代の人、挙手!」
すると十名もの女性の手が挙がった。その中に、紀代に歓迎会のお誘いに来た幹事の女性も入っていた。彼女は、
「意外と多いじゃん」
と言って驚いた顔をした。
「レイプされて奪われた人いないの? あたしは高校生に河原でやられちゃったのよ。レイプされて奪われた人、挙手!」
すると彼女の他にもう一人手が挙がった。
「なんだ二人かぁ」
言い方ががっかりしたと言う感じだつたので笑い声が起こった。すると、
「男性が童貞を捨てるのもロストバージンですよね」
と声が上がった。
「そうよ。男は童貞を失くすってことよね」
別の女性が、
「男も女と同じような感じかしら?」
と言った。すると彼女が、
「男は二十代が多いみたいだわよ。最近キャバクラ嬢ってアラフォーなのに三十代前半ですなんて人多いらしいわよ。薄暗い室内だから多少年増でも分らないんですって。それで、アラフォーのキャバクラ嬢、若い男性のお客さんが付くと、ちょっと悪戯したくなって、自分の中に入れちゃう人結構居るんだってよ。それで、男性にはキャバクラで童貞を奪われた奴、多いって話よ」
「旦那様に聞いてみなくちゃ」
と誰かが言うと、
「夫婦喧嘩になっても知らないからぁ」
と別の女性が茶化した。話を聞いて、
「男の人ってイヤらしいわね」
と言う女性が多かった。
全員次々に自分の初体験を話した。その結果、三十を過ぎてから結婚をした女性の多くはハネムーンで奪われたと言った。10代で奪われた女性では歳を偽って彼とラブホに行って奪われた者が二人居たし、二十代では元彼とか酔った弾みにとか色々で約三分の一はハネムーンで奪われたと告白した。
話題が話題だけに盛り上がったが幹事が時間ですとタイムストップをかけてようやくお開きになった。最後に紀代が挨拶をして、
「これからも仲良くして下さい」
と締めくくった。
歓迎会が終わって次の週から、職場で紀代を見る目が全員優しくなっていた。どうやら出席者が他の人たちにも話してくれたようだった。水曜日に、
「秋元君、ちょっと」
と課長に呼ばれた。
「島田部長との話し、聞いたよ。誤解をしてて悪かった」
課長は頭を下げて、以前部下だった頃の優しい顔に戻っていた。
「君の机と椅子、それを使ってくれ」
机の上に橙色っぽいカランコエの花を挿したコップが置いてあった。紀代はカランコエの花言葉が確か[あなたを守る]だったことを思い出した。誰かがそれを知っていて活けてくれたのなら嬉しいのにと思った。
「秋元さん、今夜マンションに行ってもいいですか?」
終業時間間際に生産技術部メンテナンスグループの橋本徹が紀代の所にやってきて囁いた。
「いいわよ」
徹は主任に昇格していた。
徹が来るのは久しぶりだ。今夜はご馳走を作って食わせてやりたいと思った。
八十六 秘めたる恋
紀代が夕飯の仕度をしていると、チャイムが鳴った。
「徹さん?」
「はい。来ちゃいました」
「どうぞ」
徹が部屋に入ると美味しそうな匂いが漂ってきた。
「秋元さん、呼んでくれてありがとう」
「呼んでないわよ。あなたが来たいって言ったんでしょ?」
「ま、そうですけど。相変らずきついなぁ」
「直ぐ出来上がるから、そこに座って待ってて下さいな」
徹は椅子に腰を下ろすと、
「ついこの前まで、オレも秋元さんが島田部長と不倫してたと思ってた。不倫なんてしてなかったんだってね?」
「当たり前でしょ。あたし、あんなオジサン趣味じゃないから」
「そりゃ分ってますけど、みんながそんな噂をしているもんだから、オレまさかとは思ったんだよなぁ」
「ははぁーん、徹さん、ここのとこあたしの所に寄り付かないから、遠慮してたんでしょ?」
「ん。そう言うとこもあったな。島田さんとラブしてたら、オレなんか入れないからなぁ」
どうやら徹は不倫の噂が間違いだと誰かから聞いて、それで早速紀代に甘えてきたらしい。
徹は言葉には出したことがなかったが、何度も紀代と付き合って、今では密かに紀代に心を寄せていたのだ。それなのに、会社の経理部長と付き合っていると噂が流れて、相当ダメージを受けていた。
紀代はスープや和風の煮込みの他に、徹が大好きなステーキを出してやった。牛は大分高かったが国産牛の霜降りのでかいやつだ。
徹は美味そうにたいらげると、
「もうちょっと一緒に居てもいいですか?」
と遠慮がちに言った。
「いいわよ」
紀代は徹のことを弟みたいに思っていた。
食事が終わって、ソファーに移り、徹が持って来たレンタルの Blu-rayディスクを二人で見ながらコーヒーをすすった。徹は紀代の隣に座り、甘えたように紀代に寄り添って見ていた。そんな徹は身体が固くなり無口になっていた。
Blu-ray ディスクは二枚持って来た。一枚はアメリカ映画の[ラスト・ソング]、もう一枚はイタリア映画で[三十日の不倫]だった。
ラスト・ソングは清純なラブストーリーだが、30日の不倫は大人向けの官能的なやつだった。
ラスト・ソングを見終わった時、十時を過ぎていた。徹は遠慮して、30日の不倫は持ち帰るつもりで、
「今夜はご馳走様でした」
と頭を下げて立ち上がった。
「徹さん、原付でいらしたんでしょ」
「はい。最近は出る時は原付ばっかです」
「最初に買ったポンコツ、まだ使ってるの」
「はい。自分で分解整備できますから、外観はボロボロですけど、走りはいいです」
「じゃ、もう一本見ても帰りの足の心配はないわね」
徹の顔が明るくなった。
「いいんですか?」
「遅くなるのは構わないわよ。もう一本も見たかったんでしょ」
「はい。一応」
「じゃ、セットして」
「はい」
イタリア映画らしく、最初の画面は女と男がもつれ合って激しくセックスをしているシーンだった。紀代が目を覆いたくなるような場面だ。ドラマの内容はそこらにある不倫映画と同じようなものだった。
見ている内に、徹がもぞもぞ始めた。
「オレ、秋元さんと……」
徹の声はかすれて、最後まで言葉にできなかったようだ。紀代は徹が何を言いたいのか分っていた。紀代は意地悪してやろうと思った。
「徹さん、まだ童貞?」
いきなり紀代に聞かれて徹の頭の中は真っ白になってしまった。口はパクパクしているが言葉が出ないのだ。
「はっきり答えなさいよ」
「……オレ、一度だけソープでやりました」
「あなた正直ねぇ。でも、ダメよ。あたしは童貞の人としかしないの」
徹は困った顔をして、
「ダメかぁ。したかったのになぁ」
と泣きそうな声で答えた。
紀代は徹がどっちでも良かった。
「まだ童貞です」
と答えたら、
「あたし、童貞の男の人とはしないの」
と言ってやるつもりだったからだ。どっちにしても、紀代は自分のバージンを徹には奪われたくなかった。
二本見終わって、
「今夜は楽しかったよ」
と徹に言ってやった。徹は大人しく帰って行った。徹は控え目なやつで良かったと紀代は思った。
徹が帰って、後片付けを済ませた時携帯が鳴った。光二からだった。国際電話だった。
「今フィリピンに居るんだ。台風の発生状況によるがな、九月の中旬には帰れそうだ。また後で電話するよ」
それで電話は切れた。
八十七 傷つけないで
紀代は光二からの連絡を毎日心待ちにしていた。
人の噂も七十五日、紀代の良くない噂は職場の仲間達から次第に忘れ去られ、そろそろ半年が経った今ではもう紀代の不倫について噂をする者はいなくなった。紀代ばかりでなくて、島田部長の噂も社内から忘れ去られたようだ。だが、紀代は今でも何かの折りに、島田は会社をクビになってからどうしているだろうなどと思ったりするのだ。
先日は工場長の矢田部三四郎に呼ばれて、新製品企画会議の様子を聞かれた後、
「どうだ? そろそろ新製品開発室に戻してやりたいのだが、秋元さんは戻りたい気持ちはあるのかね」
と訊かれた。
「あたしはどちらでも構いません。工場長にお任せします」
と答えると、
「君は最近職場ですっかり頼りにされているようだね。この前製造部長が当分君を現場に置かせてくれと言うておったな」
矢田部は機嫌が良かった。
紀代は光二からの連絡を気にする毎日だったが、工場長に呼ばれた二日後に製造部の課長代理に昇格した。女性が製造部の管理職を努めるのは会社始まって以来初めてとあって社内で話題になった。だが、紀代はまた目立たないように苦労をすることとなった。なんたって製造部に美人課長誕生などと囃すやつが居たからだ。
待ちに待った光二からの電話に紀代の心は弾んだ。
「連絡が遅くなったが、九月の十日頃には横浜に戻れそうだ。九月十五日から一週間休暇を取れないか」
紀代は困った。管理職に就任早々一週間も休みをくれなんてずうずうしくて言えないと思った。
迷った末、直属上司の課長と製造部長に、
「幼い頃から親しい友人が入院してまして、余命何日とか言われまして、大変言い辛いのですが、一週間お休みを頂けませんでしょうか」
ウソも方便だ。紀代はめったにウソはつかなかったが、今回ばかりは大嘘をついてしまった。製造部長は人情派だったのが幸いして、渋る課長をなだめてくれてOKが出た。
紀代は光二が来たら直ぐに出かけられる仕度を済ませて、九月十五日を待った。
九月十五日になった。光二は夜中に電話をしてくる場合も多々あったから、ソファーに座ってコーヒーをすすりながらテレビを見て光二を待った。
窓のカーテン越しに差し込む朝日が目に当たって、紀代ははっとして目を覚ました。ソファーにもたれ、テレビを見ている間に眠ってしまったらしい。携帯を見たが光二から電話が着信した跡はなかった。結局お昼までソファーに座ったままで居たが、光二からは何も連絡がなかった。
毎日、来る日も来る日も紀代は自宅に閉じこもって光二からの連絡を待った。だが一度も連絡が来なくて、遂に九月二十二日になった。紀代は念のため二十三日秋分の日の翌日まで休みをもらっていた。秋分の日が休日だから次の日の二十四日まで休ませてもらったのだ。
光二は今まで約束をすっぽかしたことは一度もなかった。だから、約束をしていて一週間も連絡が来ないことが不安になった。それで、思い余って士道に電話をした。
「光二さんと旅行に出る約束でご連絡をもらっていたのですが、何の連絡もなくて、何だかあたし、心配で電話をしました」
電話の向うで躊躇うかのように少し間が開いた。
「紀代ちゃん、すまん。オレから連絡を入れるべきだったな。オレの話を聞いても気持ちをしっかり持てよ」
そう言われただけで、紀代は悪い予感がして、足元が妖しくなった。身体も震えがきた。
「実はな、光二はフィリピン沖で船から落ちて行方不明なんだ。嵐に巻き込まれた時の事故だからよぉ、最悪死んじゃったかも知れんなぁ。まだ遺体が見付かったわけじゃねぇから生きてる可能性もあるが、一緒に居たやつらの話じゃ恐らくはダメかも知れん。紀代ちゃん、おいっ、聞いてんのか」
途中から紀代は床にへたり込んで声が出なくなっていた。
「おいっ、紀代ちゃん、しっかりしろよ」
士道の声は紀代の聴覚から次第に遠ざかり、紀代は気絶して倒れてしまっていた。
光二たちが乗り込んだクルーザーは最後の一億ドル(約八十億円)の受け渡しをするために、フィリッピンと台湾の中間にあるバタン諸島とバブヤン諸島沖合いに向っていた。そこで今までと同じ方法で受け渡しが行われる予定だった。台風や熱帯低気圧の発達がなく、海は静かで都合が良かった。以前は西南諸島の太平洋側の沖合いで受け渡しをしていたが、東シナ海と南シナ海、取分け東シナ海は資源の領有権がらみで東南アジア諸国の緊張が高まり、中国の巡視艇の監視が極度に厳しくなつており、加えて日本の巡視艇の監視も厳しくなっており、四回目の受け渡しの時は中国の監視艇に追いかけられそうになったため、五回目から場所を変更したのだ。
光二達のクルーザーが受け渡し場所に向っている時、母船から[海賊に襲撃され応戦中]と連絡が入った。母船はバブヤン諸島から少し離れた場所に停泊していたのだが、インドネシアからフィリピンには大小の島が沢山点在しており、その島々を拠点に外国籍の船を襲うイスラム系の海賊が横行しており、恐らく彼等の中の船が母船を襲ったらしい。
母船には五回目と六回目に受け取った二億ドルを積んでいるのだ。だから海賊に盗られたらえらいことだ。
光二はクルー全員に防弾チョッキを着用させて、母船の方に向った。クルーザーの船底には自動小銃の他に、RPG―7形ロケット・ランチャーとロケット弾、それにライフルを改造してセミオートマチック暗視スコープ付きの武器も隠し持っていた。光二は全員にセミオートマチックのライフルを持たせた。着弾距離は1km以上ある。海賊はRPG―7を常備しており、被弾するとクルーザーなど木っ端微塵にされてしまうし、海賊は通常自動小銃を装備している。彼等の自動小銃の有効着弾距離は約500m以内で、RPG―7も改造型でせいぜい700mだから、こっちは暗闇でも楽に応戦できるライフルにしたのだ。近付いて撃ち合いになれば、場数を踏んでいる海賊には敵わない。
一方、母船はRPG―7よりもずっと高性能で射程の長い組み立て式のロケットランチャーを数基装備していた。光二達が母船に近付くと海賊船は離れた場所から散発的に攻撃をしていた。恐らく母船からロケット弾を一発お見舞いして彼らが近付けないように牽制したのだろうと光二は読んだ。
背後からライフルで遠距離攻撃を受け、海賊の中の二人くらいが船から転落するのが暗視スコープで確認できた。それで光二達は海賊に近付かずに攻撃を続けた。連戦してきた海賊は相手方の武器、装備を見分けることに慣れている。だから、光二達に襲撃されて、最初に二隻居た一隻が襲撃を諦めて遠くに去って行って、続いて二隻目もあきらめて立ち去った。
それを母船と確認し合うと、光二はまた太平洋沖合いに向って全速力で向った。海賊たちは中国船籍の船は襲わない。それには訳があった。中国の華僑が長い年月をかけて海賊集団との間に太いパイプを作り上げて来たからだ。海賊は中国は自分達の敵ではないと思い込むようになっていたのだ。だから、光二達と一億ドルを受け渡しする漁船を改造した高速艇は海賊には決して襲われることはなかった。
随分遅れたが、打ち合わせ通り中国漁船は一億ドルを海に浮かべて立ち去った。海に投げ込まれた荷物を追って光二達のクルーザーは全速力で近付き、荷物を引き揚げた。
引き揚げたら、母船に荷物を積み替え、光二達は空のクルーザーで帰国をする予定になっていた。だが、熱帯低気圧の接近で母船は既に台湾沖に移動したと連絡が入った。光二達は熱帯低気圧を迂回するつもりで沖合いに出た。だが向う方向にもう一つ低気圧が発達していた。この海域は六月頃から熱低が次々と発達するのだ。特に八月、九月は油断をしていると直ぐにでかく発達する。
海が急に荒れてきた。波高に白波が立ち始めて、空にはどす黒い雲が発達していた。光二達のクルーザーは全速力で熱低を迂回するつもりで走っていたが、波高やうねりが大きくなると、うねりと直角に舳先を向けないと転覆する恐れがあり、速度が落ちて嵐に巻き込まれた。クルーザーは大きく揺れ、荷物の一個が海に落ちた。
「おいっ、クルーザーはそのまま走らせてくれ。オレが海に降りて荷物にロープをかけるから、ウインチで引き揚げてくれ」
光二が怒鳴る声はどうにか聞き取れた。光二は命綱を確認すると海に下りて、波に揉まれている荷物にロープをかけた。
「引き揚げろっ」
デッキに出ていたやつらも命がけだ。波をかぶってずぶ濡れになって必死に荷物を引き揚げた。黒い雲に覆われ、既に夜になっていたから、周囲が良く見えない。デッキに居た者たちは荷物を引き揚げるとしっかり固定することに専念していた。海に下りた光二は命綱を引いて、普通は容易にデッキに這い上がれるのだ。だから光二のことに気を遣う者はいなかった。
一時間も格闘した末ようやく嵐の外に逃れた。不思議なもので、嵐の外に出ると大きなうねりはあるが風が止みあたりが静かになった。
突然クルーの一人柳沢が、
「おいっ、光二兄貴はどこだっ!」
と叫んだ。
「やべぇ、居ねぇぞ」
中村が慌てた。柳沢が船尾に行くと、光二が着けていたと思われる命綱がぷっつり切れていた。
クルー達は真っ青になったが今から戻っても発見することは難しいし、なんたって嵐の中を潜り抜けたので燃料に余裕が少なく、とても戻って捜索する余裕はない。そんな無茶をすれば全員大海原を漂流するはめになる可能性が大きかった。まして荷物が荷物だけにSOSを発することも出来ないのだ。柳沢は、
「人にはそれぞれ運命ってものがあるよな。兄貴の運が強ければ生きて戻ってくるし、運が弱かったら今頃溺れて死んでしまってるぜ。諦めて日本に帰ろう」
皆に言ったつもりが自分に言い聞かせているようにも思えた。
日本の近海に入って、柳沢は士道に光二が行方不明になったと無線で報告を入れた。
八十八 漂流
今まで一度だって切れたことがない命綱が、なんで簡単に切れてしまったのか、光二は解せなかった。光二は嵐の中で懸命に荷物にロープをかけていたので、自分の体とクルーザーをつないでいる命綱が切れてしまったことに全く気付かなかった。荷物にロープがけが終わって、
「引き揚げろ!」
と指示を出した時、手を荷物から離して命綱を握った。普通は命綱を手繰り寄せてクルーザーのデッキによじ登るのだ。
所が、その時に限って手繰り寄せた命綱が何の抵抗もなく引き寄せられ、全速力で嵐から逃れようとしているクルーザーはあっと言う間もなく、光二からはるか遠くに行ってしまった。光二は命綱が切れていることに気付いたがもう間に合わない。嵐で波とうねりが高く、直ぐにクルーザーの船影は光二の視界から消えた。
こんな時は慌てて泳いでも仕方が無い。太平洋の真ん中から泳いで岸に辿り着けるなんてことは不可能だ。光二は体力を消耗しないようになるべく身体を動かさずに浮いていることに専念した。熱帯低気圧は長い間同じ場所に留まっていることは少なく、何時間か我慢をしていれば、やがて過ぎ去ってしまうのだ。
光二は丈夫なゴム製のウェットスーツを着た上にしっかりとしたライフジャケットを身に付けていた。亜熱帯の海なので海水温度は高く、風も温かだったから体が冷えることはない。ライフジャケットのお陰で、何もしなくとも海面に浮かんでいることができた。嵐は明け方まで猛威を振るっていたが、明け方東の空が明るくなってきた時に過ぎ去り、大きなうねりが残っていたが、風は止み、海は静かになった。
そうして光二の漂流が始まった。午前中は周囲に何も見えない海の上に浮かんでいて気持ちが良かったが、昼頃になると、空が晴れ上がって太陽の光線がジリジリと光二の顔を焼きつけて、腕で顔を覆わずには居られないほどだった。
近くに船が来れば救援を求めるのだが、その日は一艘の船も近くを通らなかった。夕方まで遥か遠くを二隻の船が通過して行ったが、救援を求めるには遠すぎた。
昨日から何も食べていない。光二は異常な空腹感に見舞われていた。海水は飲むことができない。
あたりを船が通らないか見ている内に、ライフジャケットのポケットに非常用のチョコレートが入っているのを思い出した。ポケットのファスナーを開けて中を確かめると板チョコが出て来た。
光二は生まれてこのかた、チョコレートがこんなに美味いのを初めて経験した。後のことを考えて三分の一だけ口に入れたが、兎に角美味い。
チョコレートを探る時に胸ポケットにジッポと煙草、それに発炎筒が二本入っていることも確かめた。発炎筒は救難用に使うためだ。普段はこんなもの役に立つことがあるのかと思って居たが、遭難してみるとありがたみが分った。
海面を照らす夕日が沈んであたりが薄暗くなって来た時、1kmほど離れた所を中型の輸送船と思われる船が現れた。一日中待っても一隻も近くを通らなかったので、光二はラストチャンスだと思った。もし、この機会を逃せば、おそらく脱水症状に見舞われて生き延びることは難しいだろうと思った。
光二はポケットから発炎筒を一本取り出して防水キャップを外すと、ジッポで点火しようとした。だが、夕方から少し強くなった風でなかなか点かない。何度も何度も点火を試みている内にようやく点火に成功した。キラキラと激しい光線と共に煙が海面を漂った。
光二は腕を空に向ってできるだけ高く挙げて、ゆっくりと発炎筒を回した。
「気が付いてくれよ、頼む、気付いてくれ」
光二は祈る気持ちで発炎筒を回した。
夕闇はやがて暗黒になった。発炎筒の光は強いから海上では1km離れていても気付くはずだ。だが船の舳先がこちらに向かう気配はなかった。
「頼む、気付いてくれ」
最初の発炎筒は燃え尽きてしまった。光二は急いで二本目に点火した。船はと見ると、既に光二の横を通って遠ざかる気配だ。光二は絶望感を覚えたが、尚も諦めずに発炎筒をできるだけ高くかざした。
その時だ、遠ざかる船がゆっくりと旋回を始めた。やがて船は見る見る光二の方に近付いてきて、ボートが下ろされるのが見えた。やがてボートが近付いてきて、
「人間だ。人だ」
と言う声が確かに聞こえた。言葉はマレー語だったが、光二はマレー半島に長期滞在していた時に片言覚えたので、確かにマレー語で人間[orang(オラン)]だと言うのが聞こえた。
光二の記憶はそこまでだった。長い間の疲れと空腹で意識が遠のき、気を失ってしまった。
気付いた時は船底の小部屋に横たえられていた。誰もいなかった。小さな裸電球がぼんやりと周囲を照らしていた。
しばらくすると、髭むじゃの年配の男と若い船員が入ってきた。
「気が付いたかね」
流暢な英語だった。光二が起き上がると、
「英語は分るか」
と訊かれた。光二はYESと答えた。年配の男は船長だった。光二の話を聞いた上、
「我々は米国のサンフランシスコベイを目指して航行中だ。悪いが米国まで付き合ってくれ」
と言った。
「もしお前さんが嫌なら太平洋の真ん中で降りてもらってもいいぜ」
と船長は方目をつぶって冗談を言った。光二は、
「結構だが燃料満タンの軽ジェット機を用意してくれ。それがダメならオレはあんたたちに付き合うぜ」
と笑った。船長は冗談が通じる男だ。光二に握手して、
「日本に電話をするならオレの部屋に来てくれ」
と誘った。
光二はビニールにくるんで携帯をライフジャケットのポケットに入れていた。それで士道の電話番号は直ぐに分かった。船長の部屋で衛星通信で士道に国際電話をかけた。
「生きていたか。しぶといやつだな」
「大金を触らせてもらわない内は簡単には死ねませんよ」
と笑った。そして、
「オレ一銭も金がねぇんだ。士道さん、船長に一万ドルばかり貸してくれるように言ってもらえませんか? 士道さんからオレの身元をコンファームしてもらえんことには信用されませんから」
と付け加えた。
「船長に代われ」
送受信機の送話器を船長に渡すとしばらく士道と話をしていたが、
「分った」
と言って通信を終了した。
「ミスター フジシマ、貴君のボスと話が付いたよ。今から君は我々の客人だ」
船長はにこにこして引き出しからドル紙幣の札束を出して光二に寄越した。二万ドルあった。光二が礼を言うと、
「この金はシスコまで貸しとく。シスコに着いたら電信為替が届いていることになってるんだ」
とにんまりした顔で言った。
「電信為替はあんた宛だ。受け取って換金したら三万返してもらう約束だ」
と笑った。どうやら士道は光二の保護フィーとして一万を支払う約束をしてくれたらしい。
その時から船長室の隣の良い部屋に入れてもらった。船員たちの態度が変り、光二を客人としてもてなしてくれた。船員は全部で三十人居た。光二は今借りた金の中から三千ドルを引き抜いて、一人に百ドルづつ配って助けてもらった礼を言った。
八十九 一生に一度だから
紀代が気絶して倒れてから何時間経っただろう? チャイムが鳴って、紀代ははっと気が付いた。目の前が朦朧として頭の中で光二との想い出の走馬灯がまだぐるぐる回っていた。尚もチャイムが鳴り続けて、ようやく我に返ってドアーを開けた。そこに以前クルーザーに一緒に乗っていた柳沢が立っていた。
「おい、秋元さんだろ? 大丈夫か」
「柳沢さんでしょ? どうしてここへ」
「それはねぇだろ? 士道兄貴から様子がおかしいから行って見て来いと言われて飛んできたんだぜ」
紀代はようやく士道から光二が死んだかもしれないと電話をもらって、ショックで気を失っていたことに気付いた。電話機は外れたままになっていた。
「藤島さん、お亡くなりになったの」
紀代はもう涙ぐんでいた。
「まだ死んだかどうかは分らんよ。それより、そこらでちょっと酒でも飲まないか」
それで、紀代は急いで仕度して柳沢と一緒に駅前まで出て大衆居酒屋に入った。そこで光二がクルーザーにつないだ命綱が切れて行方不明だと当時の嵐の様子を聞かされた。紀代は光二がフィリピンから電話をくれたので、そっち方面に行っていたのは知っていた。
柳沢に慰められて、紀代はようやく気持ちが落ち着いてきた。その様子を見て、
「もう大丈夫だな。無理するなよ」
と言って柳沢は帰って行った。
男が女にウソをつくことの方が多いと思われているが、女だって大ウソ、小ウソを結構つくものだと紀代は思った。紀代は最近でこそめったにウソをつかなくなったが、子供の頃、虐められていた頃はしょっちゅうウソをついていた。女が二十歳を過ぎて、それまでに一度もウソをついたことがない者なんてめったにいないだろうとも思った。紀代は休暇明けに会社に出ると、早速友人を見舞いに行ったが亡くなって葬式が済むまで居たと部長と課長に報告して、
「長い間休んですみませんでした」
と挨拶した。亡くなったなんて言った友達は最近ご無沙汰しているが多分今もピンピンしているだろう。席に戻る途中、紀代はそんなことを想像して、
「友達を殺してしまったあたし、大ウソつきだなぁ」
と一人で自分のやっていることにあきれ返っていた。
週明けから仕事はメッチャ多忙になった。どうやら課長が新任課長代理の紀代をしごいてやろうとしているんじゃないかと思うほどこれでもか、これでもかと次々に仕事を言いつけて来た。
朝から生産会議に出席している途中に、事務の女性から紀代にメモが届いた。見ると、[藤堂様からお電話です。至急お話ししたいことがあるそうで電話はつながったままになっています]と書かれていた。紀代は隣の課長にメモを見せて会釈して席を立った。
最初[藤堂]が誰なのか思い出せなかった。誰だろう? と思いながら受話器を取ると、
「紀代ちゃんか? 士道だ」
と言って来た。それで士道の苗字が藤堂だと思い出した。士道は会社に電話をしてくることは今までに一度だってない。だから紀代は、
「光二が死んだよ」
と言われると思った。だが士道は、
「おいっ、聞こえているか? 生きてたよ」
と言った。
人生、悲しみのどん底から一気に歓びの絶頂に行くなんてことはめったにない。紀代はそのめったにないことを経験させられた。
「ほんとですか? 生きていらしたんですか」
紀代の声は上ずっていた。周囲の部下たちが何事だろうと一斉に紀代の方を見ていた。
「それで、今どちらにいらっしゃるの? どこの病院かしら」
「それがなぁ、しぶといやつでピンピンしてるんだ。今はサンフランシスコに居るはずだ」
「えっ? 西海岸のサンフランシスコですか」
「そうだ。多分今夜あたり彼からあんたに電話があるだろう。兎に角、大丈夫だからな」
「教えて下さってありがとう」
周囲の部下たちは紀代の電話の受け答えに皆耳を立てていた。紀代が電話を終わると皆それぞれ何も聞いてなかったよなんて顔をしていた。その様子を見て紀代は独り笑いをしてしまった。紀代は思わず笑いが出るほどに気持ちが明るくなっていた。
夜、光二から電話が来た。
「すまん。本当にすまん」
「士道さんと柳沢さんから全部聞いてます。無事でいらして、あたし嬉しくて……」
なんだか自然に目が潤んできた。
「それでだ、急だけど、直ぐにロスに飛んで来ないか? 仕事があるだろうから出来るだけ早くって意味だよ」
「はい。明日上司と相談して直ぐにそちらへ向かいます」
恋をすると周りが見えなくなると言うが、紀代はこの時、また長期休暇を願い出て会社をクビになっても構わないと思った。
光二はこれから自分もロサンジェルスの知人宅に行くと言って、住所、電話番号を伝えて来た。
「こっちに来る時、柳沢からオレの財布を預かって持ってきてくれ。紀代は十日間休みを取ってくれ。無理なのは承知だ。いいか、絶対に来いよ」
「はい、絶対に行きます」
翌日製造部長と課長の渋い顔と戦って、ようやく十日間の休暇の許可をもらった。
「帰って来たら今年の休暇はゼロだよ」
と課長に釘を刺された。
休暇の許可をもらったその日の内にネツトで航空券の予約を入れて、次の日紀代は柳沢から光二の財布を預かって、成田に向った。
九十 ロスへ
ポンポンと肩を叩かれて気が付くとスチュワーデスが、
「ベルトを着用して下さい」
と微笑んだ顔で注意した。飛行機は着陸態勢に入っていた。うつらうつらしていたつもりが、いつの間にかぐっすりと眠っていたらしい。窓から外を見ると、眼下に地上の風景があった。ロスに着いたらしい。午後四時に成田を発ってロスに着いたのは午前八時半を回っていた。
ロサンゼルス国際空港は広い。ターミナルが八つあって、紀代が乗ったデルタ航空機はターミナル5に着いた。入国手続きを済ませてゲートを出ると光二が手を挙げて、
「こっちだ」
と合図した。
「疲れたか?」
「それほどでもないわ」
「そうか。このままターミナル2に移動だ」
「市内には出ないの」
「ああ、エア・カナダでモントリオールに行こう」
「モントリオールってカナダの?」
「ああ」
光二はちゃんとチケットを取っておいてくれた。
「オレの財布、持ってきてくれたか」
「あっ、忘れたぁっ」
紀代は冗談のつもりで忘れたと答えた。それを聞いて光二の顔色が変った。
「おいおいっ、マジかよぉっ」
紀代は、
「ヤバイ」
と思った。それで、
「ごめん。ちゃんと持ってきました」
と光二の財布を差し出した。
「こいつ、脅かしたな」
光二は受け取ると中を確かめた。
「こいつがないと不便で仕方ねぇんだ」
光二は財布に話しかけているようにそう言った。クレジットカードを改めて作ると日数がかかるのでそれが必要だったのだ。
飛行機で移動すると早い。ロスからモントリオールまで相当の距離があるが、ドルバル空港には午後に着いた。
「バスで市内まで行こう」
紀代の荷物は多くはなかったが、全部光二が持ってくれた。[ウェスティン・モン・ロワイヤル]でリムジンバスを降りた。贅沢なホテルだった。
「シャワーを使ってさっぱりしたら、メシでも食おう。モントリオールは何を食っても美味いぞ。なんかリクエストあるか」
「ケベック料理ってこのあたりの郷土料理ですわね」
「ああ、そうだ」
「あたし、本場のケベック料理が食べたいな」
紀代は料理にかけてはかなり知識が広いのを光二は知っていた。
ホテルからタクシーに乗ると、Fourquet Fourchette と光二が行く先を指示した。
タクシーは市街を抜けて郊外を少し走り、光二が言ったレストランに着いた。時代がかった風情のレストランだったが、料理は美味しかった。
「カナダは西側のこの辺りはフランス語圏でね、やたらフランス語なんだ。オレは片言しかダメだが、紀代はどうなんだ」
「あたしはダメよ。メルシーとボンジュールしか喋れないのよ。でも、料理のメニューなら少しは分るかも」
と紀代は笑った。確かに、メニューは英語とフランス語が併記してあったが、紀代はフランス語の方を見て大体の料理の内容を説明してくれた。これには光二は驚いた。海外を旅行して料理の名前を聞かれても今までに自分がイメージした料理が出てきたためしがなかったのだ。
「明日は紀代一人ですまないが、ケベックシティーまでの日帰りワンデーツアーをしてくれ。市内ツアーが良ければそれでもいいよ。オレはちょっと仕度があるからな」
それで、紀代はケベックシティーまでのツアーにした。早朝バスがホテルまで回ってきて拾ってくれた。
光二はレンタカーの手配や行く先のロッジの予約、持って行く物の取り揃えなどで一日中忙しかった。
モントリオールに着いてから三日目の朝、光二はトヨタのランドクルーザーを借りてホテルのエントランスに回して来た。荷物を積み込むと、二人はロレンシャン高原を目指して走り出した。
カナダのセントローレンス河に沿った道は日本ではメープル街道と呼ばれていて、紅葉の美しい場所だ。
モントリオール市街を抜けて、光二はルート15ハイウェイに入って北を目指して走った。ルート117号と平行して走るハイウェイだ。郊外を抜けると少し早いが紅葉が始まっていた。St Jovite と言う町には二時間ほどで着くのだが、この辺りは大小の湖沼が点在していて、景色が実に美しい。それで、光二は途中サン・タデルで一般道に下りて、周辺をドライブして景色を楽しませてくれた。
「お話しは聞いていたけれど、こんな景色、言葉じゃ説明ができないわね」
紀代は日本では見られない雄大な景色に見とれていた。
少し戻って、サン・サバール・デ・モンと言う町で少し休憩をした。思ったより賑やかな町で、冬季にはスキー客で混雑するらしく、レストランも沢山あった。
「少し早いけど、昼メシを食うか」
朝はホテルで簡単に済ませてきたから食べられそうだった。
景色を眺めながら食べる昼食は美味しかった。腹ごしらえが終わると、光二は紀代を散歩に誘った。小さな湖の湖畔を、二人は無口になって、ゆっくりと散策した。紀代はこうして光二と一緒に居ると、言葉は要らないと思った。
車に戻ると、光二はまた117号を走った。やがてSt Jovite と言う町に着いたが、光二はそのまま車を走らせた。St Jovite から先はすれ違う車が少なくなり、その代わりに凄い自然の風景が広がっていた。
やがてLabelle と書かれた標識の所で光二は車を一般道に入れた。紅葉した落ち葉、時々見え隠れする湖沼、そんな道路をスピードを落としてトロトロと走った。間もなく別荘地らしき地域に入ると、光二は一軒の家を訪ねた。
中から太った年配のオヤジが出て来た。
「よくここが分ったな。さ、ちょっと一腹してくれ」
そう言うとオヤジは家の中に二人を招きいれた。
香ばしいコーヒーの香りがして、奥さんと思われる女性がトレイにコーヒーとお菓子を載せて出て来た。
「こちらが奥さんだよ」
光二は紀代に紹介した。
「昨日手入れをしておいたよ。自由に、好きなように使ってくれ。家内がお昼にベッドメイクに行くが後は勝手に使ってくれ」
どうやらオヤジは光二と親しいらしい。
光二は礼を言って、ランドクルーザを走らせ、湖の畔にある一軒のロッジの前で車を停めた。
「着いたぞ」
光二はオヤジから預かったキーで扉を開けて紀代を招き入れた。天井が高く、大きなガラス窓の向うにキラキラ光る水面と黄金色に紅葉した森が広がっていた。
「熊が出ることがあるから、外に出る時は必ずオレに声をかけてくれ」
光二はそう言うと車からモントリオールで買い揃えた道具や食材を運び込んだ。
九十一 隠れ家
モントリオールで買い込んだ食材を生ものは冷蔵庫に入れて整理が終わった。
「ちょっと散歩をしようか」
光二が誘ってくれた。人気の無い大きな湖の畔を、紀代は光二の腕に自分の腕を絡ませて、光二と一緒に散歩した。時々魚が跳ねて、波紋を作った。ゆらゆらと揺れる湖面に対岸の紅葉が映って、絵葉書のような景色だ。紀代は大好きな光二とこうして散歩をするのがもう二度と来ないかも知れないなどと思うと、何だか孤独な思いが心を満たした。それで一層光二の腕にしがみ付く力が強くなった。
「どうした?」
「ううん、なんでもないよ」
紀代を見下ろす光二の瞳は優しかった。昔から、幸せは長続きしないものだと紀代は思って居たが、できることならこの先光二と一緒にいつまでもこうして居たいと思った。
ロッジに戻ると光二は、
「晩飯を二人で作らないか」
と言った。光二にしては珍しい。もちろん紀代は望む所だ。
「いいわよ」
それで二人はキッチンに並んで夕食の仕度に取り掛かった。
光二は冷蔵庫から牛肉を取り出した。日本のスーパーで売っているようなスライスをしたチマチマとしたものでなくて、大きな塊だ。それを光二は俎板の上にどんと置いて、大きな包丁で小さな塊に切って、オヤジから借りてきた圧力鍋に放り込んだ。
「そんなに沢山、二人じゃ食べきれないよ」
紀代が驚いた顔をすると、
「いいんだ。余ったやつはオヤジにおすそ分けするんだ」
と笑った。湯が煮立って十分もすると、光二は火を消した。
「余熱で柔らかくするんだよな」
と紀代の同意を得るような言い方をした。
「そうよ。これってシチューとかカレーとか色々使えるから残りを全部あげちゃわないで、少しあたしたちの分も取っておきましょう」
紀代はこうして光二と並んでキッチンに立つなんて嬉しくて仕方がなかった。
「明日は釣りをやって鱒でも使おう」
光二は明日のことも考えているような言い方をした。
「うさぎ、食ったことあるか?」
「兎? あたし食べたことないな」
「もしかして、オヤジがぶら下げて来るかも。この辺りじゃ、うさぎとか鴨とか獲って来て食べるんだ」
紀代はそんなワイルドなことは苦手だった。それを察してか、
「オレが食えるようにしてやるから大丈夫だよ」
と笑った。
冷蔵庫には肉の他にチーズや牛乳、ソーセージ、ハム、それに香辛料など色々な食材が押し込んであり、籠には野菜が一杯入れてあった。
夕食はとても二人では食べられない位沢山おかずが出来てしまった。光二はでかいパンと缶入りのバターを食卓に並べた。
「食べようか」
「はい。いただきます」
光二と向かい合わせに座った大きな食卓で、光二は紀代が食べているのを見ていた。それに気付いて、
「あらぁ、そんなに見ないで」
と言うと、
「こうして見ると紀代は可愛いし綺麗だな」
なんて答えた。紀代はちょっと恥ずかしかった。
食事が終わって、二人はソファーに移動してコーヒーをすすった。
「あとでオヤジのとこに行くから、アルコールは戻ってからにしよう。こんなとこに警察は来ないから心配はないが、万一ハンドル操作が狂って事故っちゃ話しにならんからなぁ」
光二は笑いながらそんなことを言った。
「あのオヤジさん、光二さんのお知り合いでしょ」
「そうだよ。昔世話になったんだ」
「いつ頃?」
「数年前だな。当時オレはヒットマンにしつこく追われてたんだ。ほんとしつこい奴で……」
「ヒツトマンさんって名前なの」
それには光二が爆笑した。
「アハハ、ヒットマンは殺し屋のことだよ。紀代風に言えば殺し屋さんだな」
光二はコーヒーを一口飲んだ。
「その時、士道兄貴が助けてくれてさ、あのオヤジを紹介してくれたんだ。当時はケベックシティーに住んでいたんだけど、そうだ、あのオヤジはジュベールさんって名前なんだ。オヤジがオレを匿ってくれてさ、二ヶ月ばかりオヤジの世話になってたんだ」
「士道さんと親しいの」
「ああ。ジュベールさんは若い頃、シカゴに住んでいてギャングの手下だったらしいんだ。今は完全に足を洗って真面目に暮らしているからやばくはないよ。昔士道兄貴が仕事関係で付き合ってたって話しだな」
「それで殺し屋はどうなったの」
「事故で死んじゃった。本当はジュベールさんのとこにずっと居るつもりだったけど、士道さんが帰って来いって連絡をくれたんだ」
紀代は光二が普段士道を兄貴のように敬っているのだが今夜話を聞いて関係が分った。
「士道さんて、光二さんの命の恩人?」
「そうだ。もし士道さんが手を貸してくれなかったら、オレ、多分死んでたな。だからよ、一生かけて恩返しをするつもりだ」
「フィリピンからの電話、お仕事でいらしたんでしょ」
「ああ。もちろん仕事だ。おいっ、仕事の話は聞くなよ。聞いてもオレは答えないぜ」
「あたし、分ってるから何も聞かないよ」
「話しが飛ぶけどよ、紀代は領海って知ってるか」
「領海って、その国の領土の一部の領海のこと?」
「そうだ。国際的な海洋法で十二海里までは領海にできるように決まっているんだ。一海里は約1・8kmだからさ、大体陸地から20km離れた所までは領海だ。排他的経済水域って聞いたことあるだろ?」
「陸地から二百海里ってこと?」
「そうだ。それを越えると公海だと国連海洋法条約で決められてるんだ。排他的経済水域は陸地から約370kmだから相当の距離だね」
「そんなに? 東京から名古屋位の距離でしょ」
「そう説明されると分かり易いよね。それでさ、公海を船で航行してる時にさ、どんぶらことでかい桃が流れて来てさ、それを拾ったら誰のものになるかなぁ」
「そりゃ拾った人のものでしょ?」
「違うんだ。船主のものになるんだよ。だからさ、前に乗せてあげたクルーザーだったらさ、仮にオレが拾っても、船主は士道さんだからその桃は士道さんのものになるんだ」
「へぇーっ? そうなんだ」
「けどさ、その桃はオレが落とした桃だってどっかの国のやつが名乗り出たら?」
「返すんでしょ?」
「当たりっ!」
「警察には届けなくてもいいの?」
「公海はどこの国にも属さないから、日本の法律も及ばないんだよ。だからさ、日本の国では遺失物は警察に届けることになってるけどよ、公海上で拾ったものは届ける必要はないのさ」
「へぇーっ? そうなんだ」
「もしもよ、紀代が何だか知らんが箱が流れてきて公海上でその箱を拾って中を開けたら宝石がいっぱい出てきたら?」
「持ち主が名乗り出なかったらあたしがもらっちゃってもいいのよね」
「そうだ。ただし船長には内緒にしとかんとな。うっかり話したら船長に取られてしまうよ」
と光二は笑っていた。
「でもさ、公海上で拾うのでなくて、別の船から何かをもらったらどうする?」
「もらったんだから自分のものになるのよね」
「特定の人からもらったらね、届けなくちゃダメだよ」
「どうして?」
「それを許したら公海上の密貿易が全部OKになっちゃうからだよ」
「微妙ね」
「そうだ。微妙だ」
光二はまた笑った。
「そろそろさっきの肉、オヤジに届けてやるか?」
「あたしも一緒に行く」
九十二 初体験
「今晩は」
光二と紀代はジュベールオヤジの家を訪ねた。
「多分来るだろうと思ったよ」
圧力鍋で柔らかく煮た牛肉のブロックを、紀代は自分達が食べる分を取り分けて、残りを鍋に入れたまま運んできた。オヤジと女将さんのアンナさんは大層喜んでくれた。他にも紀代が調理した和風の煮込みも持って来た。
「おい、光二、聞こうと思ってたんだが、こちらの女性はあんたのエプーズ(フランス語で奥さんのこと)かね?」
「ウイ、ムッシュ」
光二は面倒な説明を避けて肯定した。
「そりゃ良かった。綺麗な娘さんだ。あんたに似合ってるぜ」
「名前は?」
オヤジは紀代を見た。
「キヨと申します」
「マダム・キヨかぁ。良い名前だ」
オヤジと奥さんのアンナさんは二人して歓迎してくれた。
「これは紀代が作った日本料理だ。お口に合うかどうか」
紀代が作った煮込みをアンナが一口食べて、
「美味しい」
と微笑んで紀代の手を握った。
「あんたは料理上手ね。光二に美味しいものをいっぱい作ってあげるといいよ」
一時間ほど歓談をして、光二は帰り仕度をした。
「またいつでも気軽に訪ねて来いよ」
「はい。三日ほどロッジをお借りします」
光二は丁寧に挨拶をしてジュベールの家を出た。
ランドクルーザーのヘッドライトに照らされて、前方に光る物があった。
「多分鹿だろう」
車を進めると二頭の大きな鹿が茂みに駆け込んだ。
ロッジに着くと、二人は手早く荷物を降ろして中に入った。オヤジが、
「明日食べろ」
と言ってくれた鹿肉の塩漬けも中に入れて冷蔵庫にしまった。
シャワーを使ってから、紀代は日本から持って来たシルクのネグリジェに着替えた。
「二階が寝室だ」
光二に言われて、光二がシャワーを使っている間に二階に上がってみた。広い部屋に大きなベッドが二つ並んでいた。紀代は天井灯を消して、大きなナイトスタンドだけ点けて、ベッドの一つに潜り込んだ。アンナおばさんがメイクしてくれたらしく、洗濯のきいた真っ白なシーツが心地良かった。窓からレースのカーテン越しに遠くの星明りが見えた。
と、と、と、と足音がして、光二が上がってきた。
「いい部屋だな」
と独り言を言うと、
「紀代、今度の旅行は新婚旅行みたいなものだ。こっちに来ないか」
と紀代を誘った。紀代はナイトスタンドを消して、光二のベッドに移った。静かだ。本当に静かな夜だ。先ほど見えた窓越しの星明りが一層綺麗になった。光二の横に潜り込むと、光二の身体はまだシャワーの温もりが残っていた。
「今夜、紀代のバージン、卒業させてやるよ。いいのか」
「はい」
紀代はもう身体が火照っていた。
光二はゆっくりと紀代を愛撫し始めた。今まで時々二人とも全裸になって抱き合って夜を過ごしたが、セックスをしたことは一度もなかった。だが、今夜こそ、光二に抱かれるのだと思うと、期待と不安が交錯して、紀代は知らず知らず身体が小刻みに震えた。
光二が首筋から下腹部へと愛撫を続けている間に、紀代は我を忘れて、愛されていることに陶酔していた。乳房を揉まれ、乳首を吸われて、光二の愛撫に紀代の身体と心は次第に昂ぶって、我慢できなくなってきた。
「光二さん、お願い。もう我慢できないよぉ」
紀代の掠れた声を聞いて、光二のものがゆっくりと紀代の中に入ってきた。ずっと、ずっと紀代が夢見てきた光二との初めての営みだ。
光二が紀代の中に入って来る時に、一瞬チクッとしたが、その後はなんでもなかった。
「ずっとこのまま抱かれていたい」
紀代はやっとの思いでそう言うと光二の逞しい肢体に抱き付いた。光二は紀代が頼んだ通り、ずっと静かに紀代を抱きしめていてくれた。時々紀代の下腹部の奥深くで、光二のものが動くのを感じて、紀代は光二と一つになれた歓びに酔っていた。
大分時間が過ぎて、光二がゆっくりと離れた。
窓から差し込む光で目が覚めた時、隣に居た光二が居なくなっていた。紀代はぐっすり眠っていたらしく、光二がベッドから出て行ったのに気付かなかった。紀代が起き上がると、シーツにほんの少しだが鮮血が滲んでいた。紀代はどうしたらいいのか考えていると、光二が寝室に上がってきた。紀代が気にしているものを見て、
「あっ、そんなの気にしなくてもいいよ」
と言った。けれども紀代は恥ずかしくて、どうしようかと迷っていた。光二は気付いて、シーツをさっと取り去ると、階下に降りて、漂白剤を入れた洗面器に入れて、しばらく置いてから揉み洗いをしてシミを取ってくれた。 そんな気遣いを光二がしたのは初めてだ。
紀代は簡単に朝食の仕度を終わると、光二と向き合って食べた。
「紀代、今日から紀代と呼び捨てにするぞ」
「はい」
「紀代は今日からオレの女だ。結婚はできねぇが可愛がってやるよ」
「はい」
そんな風に言われて、紀代は恥ずかしくて光二の顔をまともに見られなかった。
紀代はその時から、光二との新しい恋が始まったと思った。
九十三 愛の歓び
ロッジに宿泊して翌日、ジュベールおじさんが野ウサギの耳を掴んでぶら下げて持って来た。もちろん食べるためだ。カナダのケベック州は野生動物の宝庫と言われる通り野生動物が多い。乱獲は禁止されており、特に野生動物保護区で動物を捕獲することは禁じられているが、地元の住民は保護区域以外の場所で、ルールを守って猟を行い、獲物は食卓に上る。
兎は見た目可愛いから、紀代のような若い女性が料理をするのは酷だ。それで、ジュベールと光二が殺して皮を剥ぎ、内臓を取り出して肉として食えるようにした。屋外で作業をしたため、血の臭いをかぎとって狼が近くまでやってきて、様子を窺っていた。紀代は狼だと知らず、
「あら、あんな所に犬がいるわ」
と光二に教えた。紀代が指さす方をジュベールが見て、
「あれはルー(Loup=雄の狼のこと) だよ。少し分け前をやるか」
そう言うと内臓や料理屑を持って狼の近くの切り株の上に置いて戻ってきた。
紀代が見ていると狼は二匹やってきて、切り株の上の肉塊を咥えて森の中に消えた。
光二とジュベールはロッジの前で焚き火をして、棒に串刺しにした兎の肉を焼いた。しばらくすると、香ばしい焼肉の匂いが漂ってきた。
「紀代も一緒に食わないか」
光二に誘われて、紀代も光二達と一緒に焚き火を囲んで兎を食べた。初めて口にした兎の肉を、紀代は美味しいと思った。
夕食はジュベールおじさんからもらった鹿の塩漬け肉をバーベキュー風に焼いて食べた。紀代は昼に食べた兎よりも鹿肉の方が美味しいと思った。
「夕食が終わったら、今夜はのんびりしよう。明日一日ここに泊まって、明後日はモントリオールからカルガリーまで飛ぼう。そこからバンフまで行って泊まろう」
光二は今度の旅行は仕事を忘れて楽しんでいる様子だった。
光二はカナダの地図を広げて、今自分達が居る場所、カルガリーやバンクーバーの場所を説明してくれた。モントリオールからカルガリーまでは3000km以上も離れている。紀代は話は聞いていたがカナダは随分広い国だと改めて知った。
「カルガリーはアルバータ州でね、牛肉が美味い所だ。あっちに行ったらでかいステーキを食おう」
光二はカナダに来て食べることばかり気にしている様子だった。今まで付き合っていて、それほど食いしん坊だとは思っていなかったが、食べることに結構詳しいことが分った。
夜寝室に行くと、光二はまた紀代を愛撫して抱いてくれた。初体験を済ませたせいか、二人は何のこだわりも無く交わった。その夜は、光二はコンドームを付けてしてくれた。思い出すと最初の日、付けてくれていたのかどうか紀代は全く記憶していなかった。
初体験の時は無我夢中でセックスを楽しむなんて余裕はなかったが、二日目の夜は、光二にしてもらってとても気持ちが良かった。
光二の動きが次第に激しくなった時、紀代は頭の中が真っ白になり大きな声をあげて頂点に登りつめた。その時光二も、
「うっ」
と言って果てたようだった。
紀代は今まで小説や映画でセックスのことを知ってはいたが、こんな感じになるのかと初めてセックスの心地良さを経験したと思った。
ロッジに泊まって三日目の夜も光二は紀代を愛撫してくれた。紀代は二日目より大胆になり光二を激しく求め、狂おしい程の快感に包まれた。光二は女性との経験が相当あるらしいことは聞いていたが、そのせいか、紀代を上手に快感に導いてくれた。それでその夜、紀代は女の喜びを知ったと思った。
四日目の朝、荷物を整理してランドクルーザーに積み込むと、ジュベールおじさんの所によって挨拶を済ませて、もと来た道をモントリオール目指して戻った。来た時よりも紅葉が一層進んで、道すがら綺麗な紅葉を楽しめた。
モントリオールに着くと荷物を整理して、レンタカーを返してからカルガリー行きの飛行機に乗って、夕方カルガリーに着いた。
九十四 あなたと同じ気持ち
カルガリーの空港で、光二はレンタカーを借りてきた。二人は荷物を車に積み込むと、市内のシェラトン・スイーツ・カルガリー・オー・クレアの駐車場に車を入れた。
「このホテルは部屋が全部スイーツらしいよ。スイーツを一部屋予約を入れようとしたら、当ホテルは全室スイーツですなんて言いやがった」
「じゃ、チャージ、高いんでしょ」
「ん。ここらのホテルとしちゃ、高いね」
と光二は笑った。カルガリーの町は観光の町らしく街並みが綺麗で、ホテルの近くに大きな公園もあった。
「夕方散歩しようか」
「あたしも、今同じことを考えてた」
「アハハ、ここじゃ散歩をするとか、飯を食うとか、そんなとこに決まってるからなぁ」
光二はまた笑った。
ふかふかの大きなベッド、ホテルにはプールもあった。光二に誘われて、二人でプールで少し泳いでから着替えて外に出た。コートを羽織ってきたのに外は結構寒かった。やはりカナダは秋の夕刻になると気温が下がるようだ。
翌日、朝食を済ますとレンタカーでバンフと言う町を目指して走った。最初のうちは平坦な道路で、車が少なく快適なドライブを楽しんだ。広い平地の遥か遠くに山が見えた。
カルガリーから西に100km近く走ると、山岳地帯に入った。針葉樹林の先に雪を頂いた高い山が連なっていた。車もずっと少なくなり、時々大きなキャンピングカーとすれ違った。
「この辺りはロッキー山脈の山麓だよ」
「景色が雄大な感じがするわね」
「ああ。一度は紀代にロッキー山脈を見せたいと思ったんだ」
間もなく森の中に大きな建物が見えてきた。
「バンフ(Bunff) の町に着いたようだな」
「あの建物、お城?」
「昔はお城だったらしいよ。今はザ・フェアモント・バンフ・スプリングスと言うホテルになってるんだ。僕等も今夜はあそこに泊まる予定だ」
「へぇーっ、素的!」
チェックインを済ますと、街をぶらぶらと散歩した。冬季観光で賑わう所らしく、ロッジやお洒落なレストランなどがあり、街路はとても清潔で綺麗だった。
「今ここまで来た道をずっと進んで山の峠越えをすると、この道は太平洋に面した港町のバンクーバーまで行けるんだが、バンクーバーまでは700km近くあるから、そうだなぁ、東京から神戸の先まで走るほどの距離だからさ、車じゃ厳しいね。明日はカルガリーに戻って、飛行機でバンクーバーに飛ぼう」
「あたし、よくわかんないから、全部光二さんにお任せよ」
「ああ、分ってる。ちゃんとオレについて来いよ」
ホテルは広く設備も整っていた。紀代はこんな山奥で、昔お城がここにあったなんて信じ難かった。室内の調度品や雰囲気も今まで泊まったホテルと違って、重厚な感じがした。ホテルにはスパ(温泉)もあった。レストランはいくつかあり、ゴルフ帰りの客が多かった。カナダはどこに行っても食事が美味しい。紀代はホテルのレストランで腹いっぱい夕食を食べた。
「明日はバンクーバーに泊まって、明後日帰国だ。今夜は大人しく寝よう」
光二は紀代が思っているのと同じ気持ちで居てくれるのが嬉しかった。
思い返して見ると、光二からいきなりロスに飛んで来いと言われて、期待と不安を抱えてはるばる海外へ出たが、こんな素的な旅をさせてくれるなんて予想をしてなかった。光二は新婚旅行みたいなものだと紀代に言っていたが、紀代は一生の想い出になるだろうと思った。こんなに良くしてくれる光二と、この先結婚することができないのが悔しかった。
九十五 紀代の情熱
紀代と光二はカナダのバンクーバーを経由して成田に戻ってきた。成田に着くと二人とも無口だったが、カナダ旅行の間にすっかり絆で結ばれて、お互いに何も話をせずとも気持ちが分るようになっていた。往きとちがって、紀代は恋人気分で光二の腕に自分の腕を絡めて歩いた。光二もそれを嫌ではないようだった。
紀代は会社の上司や同僚に米国に渡った証拠に土産物を買ったが、まさかカナダの土産では言い訳が面倒なのでバンクーバーの免税店で免税店ならどこにでも売っているありふれた土産物を選んだ。
旅行から戻って会社に出ると製造部長に、
「秋元さんの机はないよ」
とからかわれた。紀代は持ち前の人付き合いの良さで、三日も経つと元通り多忙な仕事に戻り、課員にてきぱきと指示を出すなど一人前の管理職らしさを発揮していた。
紀代が会社の仕事や光二との付き合いに夢中になっている間に、大株主になっている会津若松のキヨリス・アイヅは仙台市内に姉妹店を出店し、続いて秋田市内にも出店の計画が進んでいた。紀代はキヨリスの経営は義母の秀子に任せっぱなしにしていたが、その後増資を重ね、紀代の持ち株は当初の三万株から今では十万株に増えていた。業績は順調で一株当たり二千円の配当金の紀代の取り分は毎年二億円にも膨らんでいた。
銀行の勧めで、紀代は一年前に銀行に預けっぱなしになっている普通預金を引き出して、貴金属を購入した。銀行からは金への投資を勧められたが、紀代は自分なりに調べて、銀とパラジウムに投資をしていた。それが当たった。世の中では金の相場が上がった、上がったと囃しているが、年間の値上がり率は30%位のものだ。だが、銀とパラジウムはこの一年間で相場が80%も値上がりして、紀代が投資した二億円は今では三億六千万にも膨れ上がっていた。パラジウムなんて聞いたことがない者が多いが、貴金属ではレアな割りに、自動車用触媒、電子・電気材料用、歯科用など産業用の用途が多く、産出国はロシアが突出していて、次いで南アフリカの二箇所に片寄っており、おまけにロシアの産出量が激減したとかで、歯医者が銀歯を使いにくくなるなど相場が上がるばかりの状態になっているのだ。紀代の相場観に驚いたのは銀行の担当者で、紀代は銀行の大口顧客として一目を置かれるようになっていた。
だが、紀代は会社ではそんなことを一度だって口にしたことはなく、自分の月給の範囲でつつましく生活をしていた。勿論士道や光二も紀代が大金持ちだなんて全く知らなかった。唯一、紀代が勤める会社の工場長、矢田部三四郎だけが銀行筋からの話を聞いて紀代のことを知っていた。
女でも男でも気持ちの通う恋人が出来ると心身ともに充実するものだ。カナダから帰ってから、紀代は時々光二に呼ばれて、その都度愛し合っていた。最近では光二はどうやら以前のように他の女と交わったりしていない様子で、そのことも紀代を安心させた。その安心感からか、紀代は会社での仕事にも力が入り、課長代理に就任当時は陰で悪口も言われている様子だったが、今では自他共に許す存在になっていた。
毎日多忙な日が続いていたが、直属上司の製造課長が部長代理に昇格したのを機会に、紀代は課長代理の代理が取れて、製造課長に昇進した。
「良いことも悪いことも長続きしないものだ」
とは紀代の人生訓みたいなものだが、そんなある日から光二からの誘いが途切れて、この三ヶ月間何の音沙汰もない日が続いていた。紀代は仕事が多忙だったこともあり、最初の間は気にもしていなかったが、三ヶ月も過ぎると何だか不安になってきた。そんな日々が続いて、光二からの連絡が途絶えて半年が過ぎた頃、紀代は二十七歳の誕生日を迎えた。
本来なら光二にお祝いをしてもらいたかったのだが、紀代は一人淋しく居酒屋で一杯やってお祝いに代えた。少し飲みすぎて足元が妖しくなり紀代は酔い覚ましと思って夜の街中をふらふら歩いてマンションに向っていた。
それがいけなかった。紀代のそんな姿は男から見れば隙だらけなのだ。すれ違った二人組の男に呼び止められた。
「姐ちゃん、いい気持ちらしいな。ちゅいオレたちに付き合わねぇか」
紀代は言い寄ってきた男の一人の腕を振り払って、
「ほっといて」
と言い返した。男たちはしつこかった。紀代の腕を掴むと抱きついて唇を押し付けてきた。紀代は咄嗟に男の足の甲を踏んづけて逃げようとしたが、もう一人が紀代を捉まえて無理やり引っ張った。紀代はもがいたが男の力には敵わない。おまけに酔っていたから力が普段のように入らない。
男ともみ合っている間に、紀代は疲れてきて抵抗できずに泣き出した。普通ならそれで退いてしまう所だが、男たちは引き下がらずに、紀代をビルの壁に押し付けてスカートをまくりあげた。運悪く、その日はジーパンでなくてレギンスの上にスカートを履いた格好をしていたのだ。
「やめて下さい。やめてぇーっ!」
遂に紀代は悲鳴を上げた。だが、男はやめなかった。紀代のウエストに下から手を入れて悪戯を始めた。紀代はもがいた。だが遂に男の手が紀代の下腹部をまさぐり始めた。紀代は男の手を掴んで外そうとしたが、そうすると益々乱暴になるのだ。
絶体絶命、このままでは男たちにビル陰でレイプされてしまう。紀代の酔いは次第に醒めて来た。
九十六 痴漢
男と交わった経験がある女なら、セックスは未知の世界ではなく、考えようによってはどうってことはないなどと開き直ることだってできる。だから、目の前に居る男にレイプされそうになっている紀代は酔いが次第に醒めてくると、恐怖感が遠のき、冷静になってきた。
「あんた、あたしとやりたいんだろ?」
今さっきまで泣いていた目の前の女が、突然男にこんな風に言葉を発したから、驚いたのは男の方だ。その驚いた顔を見て、紀代はたたみ掛けた。
「やるならさぁ、こんな寒い路上でなくてさ、立派なホテルにでも連れて行けよ。甲斐性のない野郎だなぁ」
男が怯んだと見るや、紀代は男を押しのけてビル陰から道路に飛び出した。紀代は自分でも信じられないくらいのばか力で押しのけたから男は押さえつけていた腕を外されてしまった。
「誰か助けてぇーッ! 痴漢です。痴漢!」
紀代は出るだけの大声で叫んだ。その大声に驚いて、通りを歩く男女が振り返った。その突然の紀代の行動に、紀代をレイプしようとした二人の男は一瞬唖然として対応に戸惑ってその場で立ち尽くしていた。
「どうかしましたか?」
親切そうな男が立ち止まって紀代の顔を見た。
「すみません、あの人たち、痴漢です。助けて下さい」
そう言いながら紀代は携帯で110番に電話をした。
五分ほどして、巡視中だったらしい警官が二人紀代の方に小走りでやってきた。
「痴漢に遭われたのはあなたですか」
「はい」
紀代は振り向いて、遠ざかる紀代をレイプしようとした二人の男を指さした。警官は直ぐに走り出して、間もなく男を捕まえた。まさか、女が警官を呼ぶなんて予想をしてなかったらしく、二人は簡単に御用となってしまった。
「兎に角、警察まで同行してもらうよ」
そう言っている間にパトカーが到着して、二人はパトカーに押し込まれて逮捕されてしまった。紀代は声をかけてくれた通りすがりの男に会釈をしてから、警官と一緒に警察に向った。
紀代に痴漢をやった二人の男は別室で取調べを受けていた。
「ガイシャはお前達の中のどっちかがパンティの中に手を突っ込んだと言ってるんだが、間違いねぇのか」
「……」
「おいっ、聞こえんのか? どっちがやったんだ」
男の片方が小さな声で、
「オレです」
と答えた。
「ガイシャと面識はねぇんだろ」
男は頷いた。
「全く、バカなことをしたな。あの女性が訴えを取り下げなかったら、おめぇらは現行犯だ。強制わいせつ罪で起訴ってことになるんだ。大体二年か三年の実刑になるんだぞ」
それを聞いて二人は青ざめた顔になった。
「そんなにぃ?」
「そうよ。今までの判例じゃそんなとこだ」
紀代は自分に痴漢を働いた男たちの勤め先を聞いた。
「何か心当たりでも?」
と警官は聞いた。
「あたしの勤め先の下請けさんの方ですわ」
「つかぬことを伺いますが」
「何か?」
「あの二人は手前共が見ても許せませんが、訴えを取り下げず起訴ってことになさいますか? 起訴になると裁判ってことになり、大勢の前で恥ずかしい話をなさらなければならなくなる場合もありますが」
「それは構いませんが、判決が出ますと実刑になりますよね」
「当然です」
「どれくらいの?」
「裁判が終わって見ませんと何とも言えませんが、過去の判例では二年~三年間臭いメシを食ってもらうことになりそうです」
「あたしは恥ずかしい思いをさせられましたから、それ位罰して頂かないと納得できませんが」
「だったら起訴の手続きに行っていいですか」
「それが……」
「何か拙いことでも?」
「はい。あの方たち、あたしの勤め先の下請けさんの社員ですわね。あたしとしては自分の受けた恥辱は許せませんが、会社の取引に支障があっては困りますの」
警官は紀代が言っている意味を理解したらしい。
「では、こうしてはいかがですか? つまり彼等の会社の社長さんに連絡を入れてこちらに来て頂いて陳謝させて、その代わりに訴えを取り下げてはどうですか? 窃盗とかなら手前共も必ず起訴しますが、痴漢は被害者のそちらさまにも嫌な思いをさせてしまうケースが多いので」
結局男たちの勤め先の社長に出向いてもらうことになった。
「この度は私共の社員がとんだご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。ここは一つ私の顔を立ててお許し願えませんでしょうか」
社長は丁寧にお辞儀をした。
「社長さんがそこまでおっしゃって、あの二人の男性が今後二度と痴漢をなさらないと約束して頂けるなら許しますが」
と紀代が答えると、警官が手錠をかけられた二人を連れてきた。社長は、
「このやろう、お前等オレに大恥をかかせやがって。お前等が今後絶対に痴漢をしないと約束するなら、こちらさんが今回に限って許してくれるそうだ。お前等、どうなんだ」
二人は口を揃えて、
「済みませんでした」
と頭を下げた。警官が、
「本来はおまえたちの親御さんを呼ぶんだけどな、地方から出て来ているそうだから社長さんにお願いしたんだ。深く反省しろよ」
二人は神妙な顔つきで、
「はい」
と答えた。
社長は紀代に名刺を差し出した。
「今後何かあれば、私が責任を持ちます」
名刺には株式会社古田鉄工所代表取締役社長古田満と印刷されていた。紀代は直ぐにこの会社が分った。生産技術部が管理している製造ラインの機械装置を納めている企業の中の一社だ。
紀代が自分の名刺を社長に差し出すと、社長の顔色が変わった。
「とんだご迷惑をおかけしました。これこの通りです。どうか会社ではご内聞にお願いします」
そう言い終わると突然コンクリートの床に跪き、額を床に付けて土下座して、
「おいっ、こちらさんは親会社の製造課長様だ、お前等も謝れっ」
と二人にも土下座させた。見ていた警官は驚いた。同席した三人の警官たちは世の中分らんことがあるものだと言うような顔でその様子を見ていた。警官が怪訝な顔をするのも無理は無い。社長が土下座して謝っている相手は社長の娘くらいの年齢の若い女性でその女性が親会社の製造課長だと言うではないか。それまでは普通の事務か何かのOLだとばかり思っていたのだ。とても数十名の部下を引っ張っている製造課長とは思えなかったからだ。
翌日何もなかった顔で出社した紀代に、
「課長、古田さんとおっしゃる方が面会したいと見えてますが、どうなさいます」
と事務の女性が取り次いだ。
「そう? では応接を取って、そちらにお通ししておいて下さいな」
事務の女性は頷いて引き下がった。机の上の書類の決裁を済ませて、紀代は応接室に向った。
九十七 痴漢の代償
古田鉄工所社長古田満は洋菓子屋に寄ってショートケーキを十個包ませると、その足で社員が痴漢をやってしまった製菓会社の課長秋元を訪ねた。自分の会社にとっては、製菓会社は生命線だ。取引に支障でも生ずれば大変なことになる。そんなことを考えつつ会社を訪ねると、受付の女性が取り次いでくれて、来客用の応接室に通された。
応接室に案内されて、古田は驚いた。実に立派な部屋で、大きなテーブルにふかふかの贅沢なソファーが置かれていた。
「どうぞ、しばらくお待ち下さい。課長は直ぐにお見えになられると思います」
案内した女性は、
「ティーかコーヒー、どちらがよろしいですか?」
と聞いた。
「いえ、どうぞお構いなく」
女性の困った顔を見て、
「じゃ、コーヒーをホットでお願いします」
と答えた。古田は長い間この会社に機械装置を納入してきたが、いつもは購買の窓口で、業者用の打ち合わせ室に通されていたので、こんな立派な応接室に通されたのは初めてだった。
コーヒーをすすっていると、ドアーをノックして、
「大変お待たせしました」
と紀代が入ってきた。昨夜は気が動転していて秋元課長の顔をちゃんと見ていなかったが、今日こうして見ると瞳の美しい素的な女性だ。古田はふと、
「こんな綺麗な魅力的な女性が自分の倅の嫁に来てくれたらなぁ」
などと要らぬことが脳裏をよぎった。
「あのう、何か?」
紀代に言われて古田ははっと我に返った。
「昨夜はうちの社員がとんでもないことをしでかしまして、何とお詫びをすれば良いか、一晩眠れませんでした」
と古田は紀代に改めて詫びた。
「夕べのことはどうぞお気になさらないで結構です。古田社長のお顔に免じてお許ししましたから、これからはあのことをお忘れになって下さい」
古田はこの女性はさすが人の扱いが上手いと感じた。普通なら自分の名前を聞いて、もう少し邪険に扱われても文句を言えないのだ。なのに、こんな立派な応接に通して、自分をきちんと客人として応対してくれているのだ。それだけでも古田はどんなにか気持ちが楽になったことか。
「早速ですが、今日は夕べのお詫びにと改めてお伺いしました。お時間は大丈夫ですか」
「少しの時間なら」
「実は、あんなひどいことをして、慰謝料なんて失礼な話ですが、私共としては他にお詫びのしようがありませんので」
古田は買って来た菓子折りの上に封筒を乗せてうやうやしく紀代に差し出した。
「気持ちだけですが、おさめて頂ければ」
紀代は菓子折りを受け取ると封筒の中をちょっと覗いた。
「せっかくですが、これは受け取れません。どうぞお持ち帰り下さい」
「少なすぎますか」
「いえ、社長様のお気持ちだけで充分です。長い間不景気が続き会社の方も大変でしょ? どうか別のことに有効にお使い下さいな」
もちろん古田は紀代が大金持ちだなぞ知る由もない。
「実は、こんなお話しをして良いかどうか、わたしも痴漢なぞ初めてのことですから、世間ではどうなのかを学生時代の友人に弁護士になった奴がおりまして、彼に話をしてみました。すると、彼が言うには電車の中で女性のお尻を触ったとか、カメラでスカートの中を盗み撮りしたなんて場合は迷惑防止条例違反となるそうで、慰謝料は大体二十万円止まりなんだそうです。うちの社員がやったような下着に手を入れたとか、乳房を揉んだとか、無理にキスをしたなんて場合は強制わいせつ罪になるそうで、その場合には慰謝料の相場が十万~五十万円だと言うんですよ。わたしらが感じている額より随分安いと思いましたが、世間相場はそんなものだそうです。それで、失礼ですが、この中に五十万円を入れさせて頂いたんです」
ここまで話すと、古田は冷や汗か、顔をハンカチで汗を拭った。
「勿論警察に起訴されれば別に罰金刑が課せられるらしいです」
と付け加えた。
するとどうだろう、紀代の口から古田が驚くような言葉が出た。
「古田社長、あたしはそんなこと知ってますよ」
「えっ? ご存知なんですか? と言うと以前にも痴漢を受けたご経験でも」
「まだ幼い頃にね、あたしこう見えても結構苦労人ですから」
と紀代が笑った。これには古田は驚いた。道理で警察でも落ち着いていた。
紀代がそんな話をしたので、古田は肩の荷が少し下りた気持ちになった。それで世間話を持ち出した。
「杜の会はご存知ですか」
「うちの下請けさんの寄り合いの名前ですわね」
「はい。良くご存知で。実は今年は私どもが幹事なんですよ。前回の会合で最近の製菓の業績が話題になりまして、最近製菓が発売する新製品は全部ヒットしてますね、その原因が秋元課長が座長をなさっている新製品企画会議の提案が優れているとかで、下請けの社長連中の間では秋元様の評価は凄く高いんです。それで、こんな時にお願いすべきではないのですが、杜の会では近々是非秋元様にお出で願って講演をお願いするつもりでおりました。秋元様のお陰様でここのとこ製菓の業績が右肩上がりでして、杜の会の会員企業はどこもご注文を沢山頂いて潤っております。会員の中には秋元様の方に足を向けて寝れないなどと言う者がいるほどなんです」
紀代は古田の話しに悪い気持ちはしなかった。杜の会は会社に対して強い発言力を持っており、会社の幹部は皆杜の会に気を遣っているのを紀代は知っていた。
紀代はちらっと腕時計を見た。古田はそれに直ぐに気付いた。
「とんだお時間をとらせてしまいまして、今回のことはどうぞ会社には内緒にして下さい。長い話ですみません。講演のこと、よろしくお願いします」
それで、紀代は今日古田と会った理由ができたと思った。
「講演依頼をしに来た」
と言えば誰も詮索する者はいない。紀代は丁寧に古田に礼を言って一緒に応接室を出た。
別れ際、古田がまた眩しそうに紀代の顔を見た。
九十八 恵まれない恋
光二からの連絡が途絶えて、もう半年も過ぎていた。紀代は毎日毎晩、恋しい光二からの電話を待っていたが、連絡はなかった。
恋をして、大好きな彼からの連絡が付かなくなった経験を持つ女性なら、あの切ない気持ちを理解できるだろう。紀代の心の中では、逢いたい気持ちと、安否を心配する気持ちと、万一の時はどうしようと言う気持ちが葛藤となって渦巻いていた。こんな時は良いことだけを考えて悪いことは考えないようにしようと心に決めてみても、それが何度も崩れて悪い方に悪い方に考えてしまうのだ。
光二は今までにも仕事で遠方にでかけて、しばらく何の連絡も取れないことが時々あった。だから、最初のうちは、多分仕事で連絡できないのだろうと軽く考えていた。だが、途絶えてから三ヶ月も過ぎた頃から、次第に不安になってきたし、光二に抱かれたいと思う性欲を押さえ込むのにも苦労をした。眠れない夜ベッドに潜り込んでから光二と交わったときのあの幸福感を思い出すと自然に下腹部のそこが潤んできて悶々とした気持ちで明け方を向かえたことだってあるのだ。
そんな時、ひょっこりと士道が紀代のマンションにやってきた。なんでも数百億を注ぎ込んだM&A(merger and acquisition、つまり会社の合併と株の買占めをやること)が首尾良く成功したとかでご機嫌で大きなうなぎの蒲焼を土産に持ってやってきたのだ。士道が土産などを持って来たのは初めてだ。
「どうだ、元気だったか」
「はい。一応」
「酒は何がある?」
「ビール、ウイスキー、焼酎、日本酒、ワイン、一応全部あります」
「じゃ、日本酒を熱燗にしてくれ」
「はい。飛騨の鬼ころしでもいいですか」
「ああ、辛口のやつだな」
「はい。士道さんを殺しちゃおうかな」
紀代は冗談を言った。鬼みたいな強い男でも酔い潰すと言われている酒だ。
士道は一人で飲み始めた。
「あたしにもちょっとだけ」
紀代は士道におちょこを差し出した。
「珍しいな」
そう言いながら士道は紀代の可愛らしい手にあるちょこに半分ほど注いだ。
「紀代ちゃんと飲む酒もいいもんだな」
今夜は士道はかなりご機嫌らしい。今までにこんなことを面と向かって言ってくれたためしがなかった。それからはしばらく二人で無言で酒を飲んだ。
酔いが回ると、士道は紀代のベッドに仰向けに寝て、しばらくすると寝息をたてていた。紀代は光二のことを口にしなかった。何度も喉まで声が上がってきたが、怖くて口にできなかったのだ。
紀代は士道に上掛けをかけてやると、自分もパジャマに着替えて士道のとなりに潜り込み、士道に抱きついて眠った。ここのとこ眠れない夜が続いていたが、今夜はアルコールと士道の身体の温もりでぐっすりと眠ることができた。
翌朝、朝ご飯を仕度すると、士道はシャワーを済ませてから食卓にやってきた。
「相変らず紀代ちゃんが出してくれる食い物は美味いなぁ」
そんなことを言いながら出した物を全部たいらげてくれた。
朝食が終わってお茶をすすりながら、
「光二から最近連絡あるか?」
と聞いた。紀代は心臓が喉から飛び出すほどの気持ちでその声を聞いた。
「もう半年以上ないです」
「やはりそうか。あいつ、フィリピンに仕事で出したんだが行方不明なんだ。半年も連絡がないなら、多分死んでしまったのかもしれんなぁ。紀代ちゃんには可哀想なことをしたが、フィリピンに行って探しても無駄だろうなぁ」
紀代はその話を聞き終わらないうちに、脳の血液が途絶えて食卓の前に倒れこんでしまった。
九十九 恋の悩み
「気が付いたか?」
紀代が気絶して倒れ、意識が戻った時、士道の心配顔が覗き込んだ。紀代はベッドに寝かされていた。士道は気絶した紀代を抱きかかえてベッドに運んだらしい。士道が行ってしまわないで紀代のそばにずっと居てくれたのが嬉しかった。
「お前、そんなに光二が好きなのか」
士道に聞かれ紀代は、
「はい。すごく好きです」
と素直に答えた。
「あれから光二に可愛がられていたらしいな。」
「はい。光二さん、あたしにとても良くしてくれてます。あたし光二さんなしじゃ、生きている目的が無くなります」
「ふーん、光二のやつ紀代ちゃんにそこまで思われてるのかぁ」
士道はなかばあきれ返ったような顔で感心して紀代の顔を見ていた。
「分った。フィリピンに居るダチに連絡して、光二が失踪した詳しい理由を聞いてやろう」
「士道さん。お願い。あたしどんなことをしても探して欲しいです」
士道は、
「このまま半日ほど寝てれば元通りに回復するからよぉ、心配は要らんよ。光二のことはまた連絡する」
そう言って士道は帰って行った。
目の前で人が気絶して倒れたら、普通の者なら気が動転して救急車を呼ぶだろう。だが、士道は場慣れしていて、その場の状態から寝かせておけば一時間もすれば意識が戻るだろうと考えて慌てなかった。それが良かったのだろう。士道が出て行ってから一時間もすると、紀代は空腹を感じてキッチンの篭からパンを持ってきて牛乳でパンをお腹に流し込む程に回復した。
士道は郡山に戻ると早速マニラに住んでいるアメリカ系のフィリピン人のジョン・ブラウンに電話を入れた。
「ちょっと人を探してもらいたいんだが」
ジョンは快く引き受けてくれた。
三日ほど経って、ジョンから士道に電話が入った。
「コウジ・フジシマのことだが」
「何か分ったか」
「ああ、奴はフィリピンには居ねぇ」
「と言うと?」
「あんたの取引先のやろうはとっくに日本に帰ったと言うんだがね、調べてみると三ヶ月前にこっちのマルテスと言う男とパラジウムビジネスでアフリカに行くと言っていたらしい。それでほうぼう聞き込みをやった結果、マルテスと確かにアフリカに渡ったことが分ったよ。パラジウムと言えば南アかジンバブエだがね、最近ロシアの資源大手企業のノリリスク・ニッケルがよぉ、子会社のタチ・ニッケルにボツワナのフランシスタウン近くのニッケル鉱山でパラジウムを掘らせているらしいんだ。それで、コウジとマルテスはフランシスタウンに行ったらしいんだ。ボツワナはな、砂漠が多い国でよぉ、おまけに世界で一番貧しい国だからよぉ、言ってみればヤバイ所よ。オレはそこで何かアクシデントがあったんだと思うな。それに鉱山と言えば私設の警備兵が居るからよぉ、ロシアのノリリスクの後ろ盾でもなきゃ、殺られても可笑しくはないぜ」
「色々調べてくれてありがとうよ。今度たっぷり礼をするからな」
士道は光二が士道の指示でフィリピンに出かける時、ダイヤモンドがどうのこうのと言っていたのを思い出した。ボツワナには世界でも最大級のダイヤモンド鉱山もあるのだ。
士道はジョンから来た話の内容を紀代に分り易く説明した。
「と言うわけで、光二の失踪は闇の中だな。死んだと思って、気持ちを整理しろ」
士道はあっさりと光二のことを諦めよと言ってきた。
紀代は納得できなかった。アフリカ、特にボツワナのことについて書かれた本を二冊買って来て、紀代はボツワナ周辺の地理や歴史の勉強を始めた。
「会社、思い切って辞めちゃってアフリカに行こうかな」
紀代は独り言を言った。色々考えた末、紀代は工場長の矢田部三四郎に、
「新製品企画会議のメンバーから二人か三人選び出して、アフリカへ視察旅行に行かせて下さい」
と申し出た。新製品開発室長の佐藤も同席していた。
「何でまたアフリカなのかね」
矢田部は突拍子も無い紀代の申し出に怪訝な顔で質問した。
「最近、東南アジアと言えば聞こえがいいですよね。経済成長が著しくて、人々の購買力が右肩上がりですもの」
「そうだね、確かに東南アジアを持ち出せば企画は通り易いな」
「ですが、工場長、この先十年、二十年を考えますと資源で潤っているアフリカも近い将来大きなマーケットになると思いますわ」
「そうだ。その通りだ」
「当社のお菓子を考えますと、今は中国と東南アジア諸国向けの輸出、増えてますよね。でも、最近は同業者間の競争も激しいようですよ。それに比べてアフリカは今の所無風です。今から現地の子供たちに好まれるお菓子をこつこつと準備してはどうでしょう?」
矢田部と佐藤は紀代に押し切られた。
「若い秋元君には敵わんなぁ」
と矢田部は苦笑した。
こうして、アフリカへの視察旅行が具体化した。紀代は密かに光二の消息調べもするつもりだった。元々会社を辞めずにアフリカに長期間行かせてもらうために頭を捻って出した提案だから、紀代の説得には熱が入っていた。
「所で、旅行の予算だが、どれ位考えているのかね」
矢田部は肝心なことに切り込んできた。
「工場長、銀とパラジウムの相場動向、ご存知ですか?」
「おいおい、何を言い出すかと思えば今度は貴金属の話しかね」
と矢田部は笑った。
「実は、一年ほど前に銀行さんのお勧めで金に投資をする話がありましたが、あたしは金はみもう随分値上がりして面白くないから、銀とパラジウムに投資をしてみたのです」
「ほう? 秋元さんの予想は的中したのかね」
「はい。八割以上値上がりして、先日全部売却して利益を確定しました」
「どれくらいの儲けかね」
「一億六千万、税金、経費を差し引いて一億ほど増えました」
これには矢田部も佐藤も驚いた顔をした。
「実は僕も銀行に進められて金を買ったんだが、儲けはせいぜい5%、これならリート(REIT=不動産投資信託)の方がよほど面白かったな。銀行はいい加減な奴が多いね」
と矢田部は苦笑した。
「それで、儲けのなかから半分の五千万ほどを今回の視察に使いたいのですが。会社の経費には出来ませんから、あたしの考えでは会社でファンドを組んで頂いて、そのファンドを利用して市場調査をするってのは如何でしょう? もちろんファンドは全額あたしが買い取ります。それでしたら堂々と会社のプロジェクトとして出張させていただけますわね? 償還はアフリカでの輸出販売実績が出始めましたら、その中から少しずつお返し下されば会社に損はありませんですわね」
これには矢田部はまた驚かされた。
「秋元君、君は製造課長で置いておくのはもったいないなぁ。うちの課長連中の中で君のような提案ができるやつは先ず居ないよ」
佐藤も感心して聞いていた。
愛され、愛する方法 【第二巻】