歪な薔薇①
気づいてあげられなくてごめん。
君はずっと、ずっと泣いていたのに。
突然、蝉の声が頭上から降ってきた。
僕は額の汗を拭いながら声のするほうを仰ぎ見る。
しかし姿をみつけることはできなかった。いつもそうだ。僕は蝉を探すのが下手だ。
あんなに大声で泣いて存在を主張しているのに、姿を見つけることができない。
蝉にしてみれば生物の本能で見つからないようにその身を隠しているのだろうが、しかし僕にはその鳴き声はだれかにみつけてほしい、みつけてほしいと鳴いているように聞こえる。
大声で、だれかわたしをさがして、みつけて、きづいて、と。
生あたたかい風が僕と由奈の間を通り抜ける。
電車の中は涼しくて快適だったけれど、外気のこの暑さといったらない。空気はむっと暑く僕らの周りを渦巻いている。もう夕方だというのに。
「お兄ちゃん」
由奈が僕のTシャツの裾をつまんで言った。
僕はとなりを歩く由奈に、なに?と目で尋ねる。
「もうすぐ着く?」
僕たちが向かっている相楽家は、地図ではすぐそこの筈だった。
「もうすぐだと思うよ」
由奈にはそう言ったものの、道などおぼろげにしか覚えていない。相楽家には子供のころに一度だけ、一週間だけ滞在したことがあるが、その時僕はまだ四歳だった。相楽の家について覚えているのは屋敷の外観(青い屋根にグレーの壁の、古びた一軒家で、広い裏庭には雑草が一面にはびこっていた)ぐらいだ。
相楽家には伯父と伯母と、僕より十二歳年上の暁仁兄さん、そして六歳年上の梓姉さんが住んでいる。
母さんが由奈を出産するときに、四歳だった僕は相楽家に預けられた。
母と離れたのはあれが初めてで、不安でたまらなかった僕は着いてそうそう泣き出してしまった。
そんな時優しくしてくれたのが梓姉さんだった。
彼女は僕の頭をそっと撫でると、壱星は泣き虫さんだね、と優しい声で僕に話しかけてくれた。
柔らかな笑顔を僕に向けると、カルピス飲む?と僕に尋ねた。
涙も拭わずに僕がこっくりと頷くと、彼女は台所に立ち、鮮やかな手つきで僕にカルピスを作ってくれた。
今日みたいに蒸し暑い夏の日、喉を潤すカルピスの甘さを今でも覚えている。
真っ白い袖なしのワンピースを着て、黒い長い髪をしたあの日の彼女の姿を十二年経った今でも忘れてはいない。
僕たちはいつも庭の雑草(背丈以上もあった)の中で日が暮れるまで遊んだ。
一緒にご飯を食べ、夜は一緒に眠った。彼女は毎晩絵本を読んでくれた。
その声を聞きながら僕はいつも安心して寝入るのだった。
楽しかった。幸せだった。だけど彼女の笑顔を思い出すたびに、僕の心に浮かぶこの心もとない気持ちはなんだろう?
別れはやってきた。また来年来るからね、と約束したまま、十二年の月日が経ってしまった。
伯母の話では、梓姉さんはあれから体調を崩し、臥せることが多くなってしまったという。
梓の体調がよくないから、と伯母は僕たちが遊びに行くのを拒否し続けた。
僕にはどうすることもできなかった。
首筋に汗が流れる。生あたたかい風は僕の汗を乾かさずにただ通り抜けていくだけだ。
「由奈、あの家だよ」
三軒先に懐かしい家が見えた。くすんだ青い屋根。家は十二年前と同じ姿のまま、そこに立っていた。
庭の雑草はあのままだろうか。僕の足が自然と速くなる。
「お兄ちゃん、待ってよ」
懐かしいのに、まるで初めて訪ねるような気持ちだった。
玄関を通り越し、裏庭の方へと向かう。あの庭が今どう存在するのかが見たかった。
庭の雑草は綺麗に刈り取られていた。
広々とした庭の周りを、ぐるりと薔薇の木が囲んで植えられている。
大きさからいうと、もう何年も前から植えられているようだった。
何本か小さな株もある。家を間違えてしまったのかと思うくらい、そこは十二年前の景色とはまるで違っていた。
ふと、人の気配を感じ、庭の隅に目をやる。緑の中に白いワンピースがしゃがみこんでいる。
一目見て僕はわかった。梓姉さんだ!
声をかけようとして、彼女から立ちのぼる異様な気配に口をつぐむ。
僕のいる位置からは彼女の横顔しか見えないが、深い海の底のようなその瞳はこの世のなにものをも映していないようだった。
誰をも何をも近づけまいとする空気が、彼女の周りを渦のように取り巻いていた。
そして僕は唐突に理解した。
十二年前の彼女の笑顔の中にも、今と同じ瞳の光が宿っていたことを。柔らかな微笑みの奥で、
暗い深い感情が渦巻いていたのだということを。幼すぎて気づかなかった、あの頃の彼女の闇を。
そうだ彼女が笑うたびに僕はいつも、なぜだかかなしくなったんだ。
「お兄ちゃん」
由奈が怯えた声で僕の肘をとった。僕もすぐに異変に気がついた。
梓姉さんのてのひらは薔薇の茎を握りしめていた。
そこからはぽたぽたと血液が滴り落ちている。
白いワンピースが赤く染まってゆく。すこしづつ、すこしづつ、血に染まってゆく。
赤い雫が白い生地に丸い染みを作ってゆく。薔薇の花びらが落ちるように、静かに、そっと。
彼女の目は人形のように虚ろだった。
「お兄ちゃん」
由奈の声ではっと我にかえった。
僕は急いで彼女の傍に駆け寄り、薔薇の木と木の間を抜けるようにして、錆びた鉄製の低いフェンスを乗り越えた。
ぎょっとした彼女の大きな瞳が、僕の目に飛び込んできた。
僕の方を見た瞬間に、彼女の柔らかそうな髪が、波のように揺れた。
僕は彼女の手首を掴み、それを彼女の頭の上の高さに持ち上げた。止血しなければと思い、とっさにとった行動だった。
「…誰」
梓姉さんは、下から僕を見上げ、鋭い口調で言った。
その目には警戒の色が浮かんでいる。
僕はポケットからハンカチを出すと、彼女の手のひらにそれを当て、強く圧迫した。
「壱星だよ、梓姉さん」
「いっせい…?」
僕はハンカチをずらし、傷の様子を見る。けっこう深い。すぐに血が浮き上がってくる。
「ああ…いとこが来るって、今日か…」
梓姉さんはそう言うとハンカチを僕のてのひらに押し付け、背中を向けた。
そのまままっすぐ家に入っていこうとする。彼女のてのひらからは血がぽたぽたと滴り、芝生の上に赤い染みを作る。
「止血しないと…」
追いかける僕に梓姉さんは、キッと振り向いて言う。
「かまわないわ。あんたたちもコソコソ庭なんて覗いていないで、玄関から入れば?」
僕は戸惑った。別人のようにつめたい、梓姉さんの言葉に。態度に。その瞳の、何者をもよせつけないような暗い光に。
歪な薔薇①