Gender Lost
第0話
諸君は、滅びの危機にある幻の人種、「男」の存在をご存知だろうか?
その噂は聞いたことはあっても、実体をその目で見た者は滅多にいないであろう。その姿を詳細に描こうとすると当局の検閲により削除されてしまうため、ほとんどの人は男の概形すらもおぼつかないのが実情だ。
しかし、つい百数十年ほど前までは、男はこの国の人口の約半数を占めていた。それどころか、国の支配層のほとんどが男という時代も信じられないほど長く続いたのである!!
彼らは、生物学的にいうなら人類の「オス」の役割を担っていた。当時の人類は男と女(メスに相当。現人類と遺伝的に等価)との動物的な交配によってのみ彼らの子を殖やしていたのである。
動物的…そう、まさに動物的である。
すでに狩猟採集から農耕牧畜の時代へ移行して数千年、産業革命からは数百年、IT革命からも数十年経ち、社会が高度に文明化されていたにもかかわらず、こと生殖に関してはこの原始的かつ非文明的な方式を捨てなかったというのだから、人類の歴史というのは誠に奥が深い!
ではなぜ、男は姿を消してしまったのか?
直接的な原因を上げるならば、21世紀末に実用化された人工受精技術、通称「マキノ法」こそまさしくそれであろう。
人間の遺伝子から精子状ナノマシンを合成し、本物の精子のごとく着床させるこの技術は、まさしく革命であった。女の遺伝子からも精子を作り出せるのだ―もはや、男も、精子も、必要ではなくなったのである!
急激な人口減少に苦しんでいた当時の日本国政府はこの技術に飛びついた。
すこしでも出生率を上げるため、それまで結婚の一形態として認められていなかった女性婚に男女の結婚と同等の地位を与え、この方法で子供を作ることを奨励したのである。女性同士からは、女児しか生まれない―この生物学的事実を、決して政府が見落としていたわけではない。ただ彼らは、見通しが甘かった。実際に女性同士での結婚を望む者はごく一部、多く見積もって1%弱であろうと推定していたのだ。
…現実は違った。この制度の開始からたったの数年で女性婚の数は恐るべき上昇を遂げたのだ。10年後には新婚夫婦の二組に一組は女性婚、新生児の四人に三人は女性カップルによるものとなった。
社会的需要の高まりによりマキノ法は劇的に洗練化、低コスト化が進み、その技術革新がまた女性婚を、そして彼女たちによる出産を促したのだった。
当初女性婚の主体となったのは高学歴、高所得者の独身の妙齢の女性たちであり、彼女たちの全霊をかけた投資によって高度な教育を受けた子供たちが、国の中枢そして命運を握るようになるまで、そう時間はかからなかった。
2152年、 彼女たちを支持の中心母体とするとする政治団体が衆院選で与党の座を獲得。それを境に女性婚者の権益拡大は格段に進み、男は社会の徐々にマイノリティに陥落していった。
無論、男がこの事態を看過するはずはない。男の栄光の復活を目標とする政治結社が合法非合法を問わずいくつも乱立した。これらの結社はかの悪名高き黒志団を筆頭に過激化、凶暴化し、日本は明治以後稀に見る内紛状態となったのだ。
この内紛が男の失落を決定付けた。2183年に結ばれた終戦協定により、男は女性政府の支配から自由であるという条件の下、日本国民としての義務及び権利を返上。活動範囲を特別居住区(通称"特居")に限定され、そこからの逃亡は国境侵犯並みの重罪を課されることとなった。読者の中にも、高い壁に囲まれた薄気味悪い一角を指差し「あそこには何があっても決して入ってはいけませんよ」と言われたことのある者は多いであろう。そう、あそこが特居である。
過ぎし時代の遺物、男。しかし彼らは今もなおこの特居の中で生きながらえているのである…
* * *
牧野鳴海は、「実録!日本の遺物大百科」のページをバタリと閉じた。眼鏡がだいぶずれてしまっていることに気づき、クイッともとに戻す。
「異人種、かつての栄光、そして歴史的敗者、か…」
そう呟くと、く〜、と息を鳴らし、目を爛々と輝かせた。
「浪漫だねぇ、心躍るねぇ」
第一話
「また変な本読んで夜更かしてたでしょ」
翌朝、細川妙との待ち合わせに十分ほど遅刻した鳴海は、開口一番にその原因を当てられてしまった。
「なんで分かったの!?」
「なんでって言われても…いつもそんな感じでしょ。昨日はなるちゃんの好きそうなテレビ無かったし」
「いやぁ誠に申し訳ねぇこって」
鳴海はおどけて謝ってみせた。妙の表情が緩む。
「ほら、はやく学校行くよ?」
「あ、ちょまって!」
先を急ぐ妙と、それに駆け寄る鳴海。二人のいつもの朝である。
「科学技術の急激な進歩!絶滅に追い込まれる旧世界の遺物!そして彼らが息をひそめる魔界、特居!いや〜そそるねぇ浪漫だねぇ」
鳴海が歩きながら昨日の本の受け売りを興奮気味に話すと、妙は困ったような、呆れたような表情になった。
「やっぱりなるちゃん、昔からヘンなことばかり興味持つよね…」
「え?やっぱりヘンなのかな?」
鳴海にも一応の自覚はあるようだ。
「そうだよ。UMAがどうとか埋蔵金がどうとか怪しい話ばっかり…」
ふー、ため息をつく妙。
「今回はよりによって『男』ってね…」
「だって面白いでしょ?浪漫でしょ??」
鳴海はそれが当然であるかのような口調である。これには妙も苦笑いだ。
「…そういえば子供のころは宇宙人探しを手伝わされたっけね、どこかに秘密の基地があるとか言って」
「え、何それ恥ずかしい」
「はんと恥ずかしかったよ…でもさすがのなるちゃんでも、そういうのはやっぱり恥ずかしいんだ」
妙は安堵の表情を浮かべた。鳴海は心外そうにふくれる。
「そりゃそうだよ。だってそのときの私、地球外生命体が人間に視認可能な存在だって思い込んでたんでしょ?物質的次元を超越した高度複雑思念統合体である可能性も十分あり得るのに」
「あ、うん、そうだよね。なるちゃんだもんね、そうなるよね」
妙は遠い目をする。
「どゆこと?」
不思議そうにする鳴海が可笑しくて、妙に笑みがこぼれた。
しばらくすると、清秋学園の地味で格調高い制服に身を包んだ生徒の影が散見するようになり、すぐに辺りは清秋一色となった。まわりの空気に同化するように二人の会話の内容からはオカルティックな要素は消え去り、日常的な、他愛もないものへとシフトしていった。
清秋学園は女性婚時代の早期から政界、財界に数多くの人材を輩出し、日本社会の単性化に大きく貢献した由緒正しき名門である。現在では大財閥や大物政治家、その他著名人の娘も数多く在籍しており、さながら旧時代の「お嬢様学校」の様相を呈している。
牧野鳴海も、そんな「お嬢様」の一人である。マキノ法の成功により巨額の財を成した世界的大企業マキノグループを所有する牧野一族の跡取りであり、一か月前からは東京都知事の娘となった。
学園では、彼女を牧野鳴海として見る者はいない。あくまでマキノグループの娘、都知事の娘として扱われる。彼女もそれをよく承知しているから、ほかの清秋生のまえで個人的、変人的な趣味の話をすることはない。彼女が鳴海として、牧野鳴海個人としていられるのは、幼馴染の妙と二人きりのときのみであった。
妙はそんな鳴海が哀れにも思えた。しかしそれと同時に、鳴海の中での自分の特別な立ち位置に得も言われぬ悦びを感じていた。
むろんその思いが口に出されることは無かったのだが。
* * *
放課後。
(今日もあの逆恨み政治屋娘の視線は痛かったな…知事選で誰が勝とうが私のせいじゃないっての)
もともと良くも悪くも注目されることの多かった鳴海だが、都知事選当選後は政敵やその関係者から白い目で見られることも多くなり、学校の居心地の悪さはさらに加速していた。
(たっちゃんは美術部、そして私はいつものごとくにピアノの習い事、ですか)
鳴海の足取りは重かった。どうしても、そのまま家に帰って一人でピアノレッスンを受ける気にはなれなかった。
(特居のまわりでも見ていこうかな)
不意にそんなことが頭に浮かんだ。単なる思い付きにしては上々の選択肢に思えた。幼いころから報道記者やパパラッチの目を避けて生活するのに慣れ切っていた鳴海にとって、人目や防犯カメラをかいくぐって特居近くまでたどり着くのにさほどの苦労はなかったのだ。
特居は、鈍色に光る高さ十~十五メートルほどの鉄壁に囲まれており、見るものを否応なく圧倒する。その周囲には人気は全くなく、鬱蒼とした森林が何百メートルと続いている。土地に明るくない者が見たらただの自然公園にしか見えないであろう。
昔はこの森林が妙と鳴海の秘密の遊び場であった。こぎれいで安全で、人工的な造形にまみれた街中に比べ、この薄暗い森は子供の冒険心を大いにくすぐる。冒険の末にこの巨大な鉄壁を発見したときの興奮はいまでも忘れられない。
そんな郷愁と、内部に広がっているであろう未知の世界への好奇心に駆られながら辺りを散策していた鳴海は、遠くに人の話し声を聞いた。どんどんと近づいてきている。急いで近くの茂みに隠れた。
(わざわざこんなところまで来るなんて、変わった人たちだなぁ)
茂みでひっそり耳を立てていた鳴海は、話し声の主が老婆一人であることに気付いた。電話をしている様子でもない。気になった鳴海は、茂みの裏から様子を伺った。
老婆と一緒にいたのは人間ではなく、労働用と思しきヒューマノイドであった。見たところ現在流通しているものより2世代ほど古い型番である。
ヒューマノイドはもともと、ゲリラ的テロ攻撃を繰り返す黒志団系過激派組織に対抗する目的で開発された。近接戦、奇襲戦において男女の体格の差は致命的であり、銃火器の運用や格闘戦で男を圧倒できる技術が必要とされたのである。当初は肉体を補強するバトルスーツとして設計されたが、自動制御による無人化に成功し、戦闘用のヒューマノイドへと進化したのだった。男女間内戦が比較的早く終結したのもこの技術に負うところが大きい。内戦終結後もしばらく軍事秘密とされていたヒューマノイドであったが、戦後30年に一般にもその技術が公開され、警備用、業務用、家庭用等さまざまなヒューマノイドが流通した。今やヒューマノイドのない生活など考えられないほど普及している。
一般に業務用、労働用は家庭用と異なり人語を解さない。しかしこの老婆は言葉の通じないヒューマノイドに「もたもたするんじゃないよ」などと叱咤していたのだ。
(いるんだよね、こういうおばあちゃん…あまり扱いに慣れてないんだろうな)
ヒューマノイドの後ろには軽自動車ほどの大きさの荷車がくくりつけられており、物資がこれでもかというほど山盛りに積まれている。
(これはもしかして…壁の中に補給物資を運びこもうとしているのかな?)
ちょうど鳴海の脇を通り過ぎたあたりで、老婆とヒューマノイドは休憩を始めた。
鳴海の中で、冒険心が芽生える。
(この好機、逃がさでおくべきか!)
鳴海は老婆の目を盗み、荷車の後ろのほうに乗りかかった。そして、物資の山の中にその小さな体を覆い隠したのだ。
後先のことなど、鳴海の考えの及ぶところではなかった。
第二話
正直、鳴海自身もこんなにうまく内部に侵入できるとは思っていなかった。
特居の入り口らしき門を通る時も、ろくに荷物を調べなかった。あまりに杜撰である。内戦終結直後ならばこんなことはありえなかっただろう。内戦からすでに50年近く経ち、特居境界警備の重要性もだいぶ薄れているようだ。
物資の山の隙間から外の様子をながら、鳴海は、未知の世界の光景に心踊らされていた。ヒューマノイドやオートカーのない、亀裂だらけの道路というだけでも鳴海にとって十分に新鮮だったし、ときおり目に映る築何十年ともしれない古びたあばら屋や廃ビルは彼女にとってまさに垂涎ものなのであった。
あの中に人が、旧人類が、どのように生息しているのか?今すぐにでも荷車から飛び出し調査に繰り出したい衝動が何度も彼女を襲った。
荷車がピタリと止まった。慌てて態勢を整え衝撃に耐える。
「とっととそれ脱いでシャワー浴びてきな。夕飯作っとくからね」
老婆の声が聞こえる。
(脱ぐ?シャワー?…ほかにもう一人いる??)
するとカチャ、カチャと何かを外す音が聞こえた。顔を出したい気持ちを必死で抑える。
しばらく待って辺りに人の気配がしなくなってから、鳴海は山の中からゆっくりと姿を現した。見ると、倉庫のような、工場の作業所のような部屋の片隅にヒューマノイドの残骸がきれいに置かれていた。
ヒューマノイドの残骸?
そう、ヒューマノイドの残骸だ。
まるでヒューマノイドがその場で脱皮して、皮がその場に放置されているようである。
(改造ヒューマノイド?いや、初期のアーマードスーツみたいな感じかな…どっちにしろ非合法だよね…)
しかし、アーマードスーツだとすると、一つの疑問が生じる。…一体どんな人物がこれを装着できるのだろうか?
見たところ、身長180cm程度でなければ装着は不可能であり、横幅も相当に必要なはずだ。鳴海の知る人間の中で、これをまともに着こなせそうな者はいない。果たし
てこれは本当に人間の着るものなのだろうか?
倉庫の横にはシャワー室が備え付けられており、そこから水の滴る音が直に聞こえる。特に扉などで仕切られてはいないようだ。
(今あの中に、スーツの主が…!)
鳴海は身を忍び、シャワー室へとこっそり近づいた。思い切って中をのぞく。
そこでは、鳴海のみたこともないような異形な人間が、労働の汗を洗い流していた。
身長や体格があの図体のでかいヒューマノイドと同程度であるというだけではない。全身という全身に、隆々として剛健そうな筋肉がさながら装甲のごとくに張り付いている。
そして鳴海がなによりも目を疑ったものがある。この人間の足の根元、股関節の前面に、奇妙な棒状の突起が生えていたのである。
(ま、まさかこれは、政府が極秘裏に開発した人造人間兵器…?いや、地球外生命体によるアブダクトの被害者…?)
あらぬ思案をしているうちに、この怪奇な人間とバッチリ目を合わせてしまった。
「誰だ?」
シャワー室に低音が鳴り響く。鳴海は恐怖で身がすくんだ。
「あ、いや、その、決して怪しいものではなくて…」
鳴海の言い訳に聞く耳を持たず、裸のまま隙のない動きで近寄ってくる。両手を後ろ手で組まれ、完全に身動きを封じられた。
「すみませんすみません謝りますからどうかご勘弁を〜」
「なんの騒ぎだい?」
物音を聞きつけた老婆が駆けつけてきた。しかし侵入者の姿を見るや否や、呆れた顔で、
「その子を離してやりな」
「でもこいつ…怪しいだろ明らかに」
「いいから早く離すんだよ。そして服着な」
人造人間は不服そうであったが、この老婆には逆らえないらしい。鳴海を捕らえた
手をパッと離し、その場を退散していった。
「あ、あの、すみません、ありがとうございます」
鳴海が老婆に頭をさげる。
「あんた、清秋学園の生徒だろ?」
「え…あ、はい」
鳴海はついこのときまで、自分が制服のままであることを失念していた。見ると、泥でかなり汚れている。
「私の知る限りじゃ、もっとおしとやかな学校だったはずなんだけどねぇ」
鳴海は愛想笑いを浮かべるほかなかった。
老婆は鳴海を、質素な机といすの置かれた、ダイニングらしき部屋へと連れて行った。もとは工場の休憩所かなにかだったのだろう。
「あの、あの人ですけど…」
「ああ、そうか、外の人間だったら初めてだろうねぇ」
老婆はにやついた。
「あれがね、男というやつだよ」
「えっ??あれが??」
鳴海は、今自分が特別居住区にいるという事実を思い出した。それなら男がいても全くおかしくはない。
「…遺伝子はほとんど同じのはずなのに、あんなに違うものなんですね」
鳴海のつぶやきを、老婆は豪快に笑い飛ばした。
「とって食ったりしないから安心しな」
「へぇ…あれが」
鳴海の中を占拠していた恐怖心は、次第に未知の存在への好奇心に置き換わっていった。
そうこうしているうちに、古びたジーンズとワイシャツに身を包んだ男が戻ってきた。鳴海が男の体をじっと眺め、小声でぶつぶつとつぶやく。
「これが…旧人種の末裔…なるほどなるほど…はあはあ」
「…やっぱり、こいつ怪しいだろ」
* * *
「なるほどねぇ」
鳴海はここにたどり着くまでの経緯を説明した
「壁の管理局も今となっちゃあってないようなものだからねぇ、簡単に入れちゃうんだよねぇ」
なにかと口をはさむ老婆とは対照的に、男の方は眉毛一つ動かすことなく鳴海の話を黙って聞いている。
「あんた、ここのことが知りたいかい?」
「えっ?」
無意識に男の様子を観察していた鳴海は、老婆の方を向いた。
「明日にでも、ここの案内してやろうか?明日は日曜だろ?」
「い、いいんですか、本当に!?」
鳴海の目が、いつになく輝き出す。
「ああ、よかよか」
老婆はカカカと独特の笑い声をあげた。なぜか男の表情が一層険しいものになる。
「是非、是非お願いします!是非!…あ」
鳴海は、妙と出掛ける約束をしていたことを思い出した。
「…すみません、明日は用事があって…」
「そうかい…でもここまでの道は、だいたいわかるだろう?」
「はい、まあだいたいは」
「なら、また来週、こっちにおいで」
「すみません、ありがとうございます!」
鳴海は深々と頭を下げた。
「私の名前はサエ。そんでもってこっちの辛気臭いのがコウスケだからね」
「あ、私はま…鳴海っていいます」
ここで牧野の名を口にするのは憚られた。
「ナルミ、ねぇ」
サエと名乗った老婆は意味深ににやついた。
「ま、もうおそいからねぇ。コウスケ、その子を壁のとこまで送ってやりな」
「わかった」
コウスケは表情を一切かえずに答えた。男というのは皆こんなにも機械的なのか、
それともこのコウスケとかいうのが変わっているのか。鳴海の疑問は尽きない。
この家の出入りは、工場の作業所を通して行われているらしい。老婆は作業所の、荷車の横まで見送りに来た。その横をコウスケが無言のままついてくる。
「それじゃ、また来週、来るのを楽しみにしているよ」
「すみません、何から何まで…」
「なに、気にせんでええよ。客人は大事にするものだからねぇ」
そういって老婆は鳴海の手を握り、じゃあねと言ってから、
「それと、ここに来た事は誰にも言うんじゃないよ」
「それは言いませんよ。一応、法で禁じられてますから」
その手を、コウスケは冷ややか目で見降ろしていた。何かを訴えるように。
第三話
外はすでに夕暮れに包まれていた。
鳴海は、街灯のない夕方というものがこんなにも薄暗く、気味の悪いものだとは知らなかった。特居の町の様子を観察しようにも、暗すぎてよく見えない。
黙々と先を急いでいたコウスケは急に立ち止まり、あたりに人がいないのを確認すると、鳴海の方を振り返った。
「忠告しておく。ここには、もう二度と来るな」
「えっ…なんですか急に」
コウスケの唐突すぎる忠告に鳴海は狼狽した。
「ここはあんたみたいなやつが気軽に出入りしていいところじゃない。さっさと帰って二度と戻ってくるな」
「いやでも…サエさんと約束したし…」
「だからだ。あいつを信用するな」
コウスケは声を荒げた。鳴海はますますわけがわからない。
「あいつって…自分のおばあちゃんでしょ??」
コウスケは長いため息をついた。
「あれは俺の雇い主」
「雇い主?」
「俺は幼いころにあそこに売られた。親の顔なんざもう覚えてない」
「売られたって…」
鳴海は困惑した。どう考えても、現代日本の話とは思えない。
「男ってのはここでもかなり珍しいからな。高く売れるんだ。俺は体が丈夫だから用心棒として売られた」
コウスケの口調はいたって平然である。
「ちょっと待って、特居って男のための特別居住区じゃないの?」
「昔はそうだったらしいな」
「…今は違うの?」
「今ここの住人の大半は、外からやってきた女どもだ」
「外から?」
「あんたも見たろ、あの警備のザルさ。俺が生まれるよりずっと前からそうだ」
鳴海はここに潜入したときのことを思いだした。あの分では移住も容易であろう。
「そうだけど、なんでわざわざこんなところに…」
こんなところ、という表現のマズさに気づいたのか、鳴海は慌てて口をふさぐ。コウスケは特に気にする様子もない。
「葉っぱに薬に酒…ここにいれば、外で禁じられたものは全部簡単に手に入るし、誰も咎める者はいない。…表立って生きていけないような、訳アリな連中が越してくるのも無理はない」
「はえ~」
慣れない言葉の連続で、鳴海はただ間抜けな声を上げるしかなかった。
「でもあのサエさんは悪い人には見えなかったけどなぁ」
「あいつがいい顔をするのは交渉相手か、都合のいい金ヅルに対してだけだ」
「交渉?金ヅル?」
「あいつは薬の売人でな。今日の物も、どこで誰から仕入れたものなのやら…」
「えっと、じゃあ…まさか…」
「あんたを薬漬けのお得意さんにするか、あるいは親御さんを脅迫して大金巻き上げるか、もしくはその両方か…ま、ろくなことは考えちゃいないだろうな」
鳴海は大きな生唾を飲み込んだ。
「分かったか?ここはあんたみたいな世間知らずの高枕が来るところじゃない。取返しのつかないことになる前に、ここのことは全部忘れてお前らの世界に戻れ。いいな?」
「は、はい…」
コウスケの迫力に気おされた鳴海は、ただ力なく頷くしかなかった。
* * *
何を話せばよいかわからず、コウスケのあとをついて行く。気が付けばもう日はすっかり暮れてしまっていた。
前を歩くコウスケが立ち止まる。壁にたどり着いたようだ。月の光を全身に浴びた壁は、昼間とはまた別種の異様さと威容さを放っていた。
「ここだ」
コウスケの指さす先を見あげると、そこには巨木が立ちそびえており、その頂点付近の枝から太いロープがむき出しの地面まで垂れ下がっていた。その枝を伝っていけば悠々と壁を越えていけそうだ。おそらく壁の外側にも同様のロープがぶら下がっていているのだろう。
「ほんとにザルなんだね…」
まさか壁沿いをパトロールする手間すらも惜しまれているとは…
「いいからはやく登って帰れ」
「う、うん、帰るんだけどさ」
鳴海は先ほどからずっと抱いていた疑念をぶつけた。
「なんでさっきはあんなこと教えてくれたの?」
「あんなこと?」
「ここにはもう来るな、って」
コウスケにとってこの質問は想定外だったようで、しばらく考えたのち、
「俺は出たくても出れないから、だろうな」
その目は、哀しげで、悔しげで、鳴海はまた言葉を失ってしまうのであった。
* * *
牧野邸にたどり着いたとき、もうすでに時計の針は10時を超えていた。
「探検ですか」
家庭用ヒューマノイドの応対は淡々としていた。
「場所は…『特居の森』ですかね」
「ま、まあね」
(最新のヒューマノ恐ろしや…)
「里見様には、ピアノのレッスンとお夕餉を終え現在は入浴なさっていると既に報告済みです。それでよろしいですよね?」
「あ、うん。私が言う前にやってくれて助かるよ」
「もうお風呂の準備はできておりますので、どうぞお入りください。制服は至急クリーニングいたしますね」
(最新のヒューマノ万歳!)
つい先ほどまで、ヒューマノイドはおろか電気もまともに点いてない僻地にいたことが夢のようである。
「今日はあの人、いつ帰るの?」
「今日中にはお帰りになりません」
「そ」
牧野里見―鳴海の母が家にいることは滅多にない。都知事になってからはいつの間に家に帰っているのかわからないほどである。思えばここ数日は顔すらまともに見ていない気がする。
(ま、いいんだけどね。遅く帰っても誰にも怒られないし)
コウスケは、サエが金品目的で鳴海を攫うのではないかと言っていた。しかし、もしそんな状況になったら、里見は鳴海を助けるために金を払うだろうか?
いや、一切払わない。断言できる。
犯罪者の要求に耳を貸すことは犯罪に屈服するのと同義であり、日本国首都の最高責任者たる彼女がその前例を作ることは、娘の命を奪われる以上に避けねばならない。そう考えるのが牧野里見という政治家である。
鳴海は大浴場の片隅で一人、身体に付着した泥や埃を洗い流した。
鏡に映る自分の顔が、別れ際のコウスケの見せた顔と重なる。望みを、生きる夢を放棄した顔だ。
(あなたにとっては、ここは天国なんだろうけどね…)
不意に流れた涙は、お湯で洗い流した。
第四話
「お姉ちゃん、お弁当忘れてるよ」
鳴海の特居潜入の早朝、細川蓮が職場に赴こうと細川家の玄関を抜けると、妹の妙が急いで駆けつけてきた。
「えっ、ほんと?」
「そうだよ。お姉ちゃんはしっかりしてるようで抜けてるんだから」
「ごめんごめん」
差し出された妹の手作りの弁当箱を受け取る。
「せっかくの日曜なのに、ごめんね」
「いいよ、お仕事なんだから…都知事の秘書なんて、そうそうお休みできないでしょ?」
妙は穏やかな笑顔を返した。この子の笑顔を見るたびに、仕事の疲れが一気に抜ける。
よく見ると、妙は買ったばかりのワンピースに身を包み、全身から気合の入ったオーラを漂わせていた。
「今日、さては鳴海ちゃんとお出かけかな?」
「うん!」
満面の笑みになる妙。
「妙はほんとに鳴海ちゃんが好きなんだね」
「やだなーそんなんじゃないよー…えへへ」
妙がはにかむ。妹がこんな表情になるのは、牧野鳴海の話をするぐらいなものである。おそらく、本人の前ではこんな顔にならない。
「おっと、そろそろ行かないと」
蓮が腕時計に目をやる
「うん、いってらっしゃい。大好きだよ、お姉ちゃん」
「大好きだよ、妙ちゃん」
いつもの挨拶を交わして家を出る。
(大好きだよ、か…)
このあいさつをする度に、蓮の胸はきりりと痛くなる。
* * *
「いいなぁ、お姉ちゃん…」
二人の行きつけの喫茶店「ひばり」で妙が今朝の蓮の話をすると、鳴海は感嘆の息を吐いた。
「欲しかったなぁ」
単性社会の日本において、一人っ子は稀である。たいていの家庭は二人姉妹、または四人姉妹を有する。なぜかというと、女性婚は初期からの伝統として、パートナー間の平等を暗黙の前提としてきたからだ。
女性婚において、パートナーはどちらも妊娠能力を持つ。つまり、出産のリスクは暗黙のうちの了解として両者が平等に負うこととなる。交互に年を空けて子供も産むことが多いが、二人同時に妊娠して同時期に出産するというケースも珍しくない。
無論この暗黙の了解が通用するのは、あくまで互いの立場が平等のときである。
鳴海の両親は違った。鳴海の生みの親は、牧野家の跡取りを産むためだけにその身を雇われ、役目を終えるとすぐに姿を消した。あくまで契約上の関係だったのである。だから里見は今なお独身であり、鳴海に姉妹ができることはない。
親族の数をなるべく少なくし、余計な係争や愛憎を抑えるべし…それが里見の思想であった。ただ一人の子を自らの体で産まなかったのも、その子に必要以上の愛着を持たないためである。
「まあでも、うちが特別に仲いいだけで、ふつうはもっとドライだと思うよ?ほら、うちは親がいないし…」
「…事故だっけ」
「うん、私は何にも覚えてないけどね…」
妙はうつむき加減に答えた。
沈黙。
「白桃とカスタードのジューシータルト…だと!?」
メニューに目を落としていた鳴海は、「ひばり」新作のスイーツを目ざとく発見し、突如として叫んだ。二人は一斉に目を合わせる。
「マスター!!これ二つ!!」
* * *
「特別居住区の地下空間をふくむ正確な内部地図、道路や家屋の状況、そして現住人の把握…」
牧野里美都知事は提出された書類にパラパラと目を通した。
「これほどの短期間でここまでの情報を集めてくるとは、さすがは蓮ね」
「恐れ入ります」
答えるのは里見の第一秘書、細川蓮である。
「それにしても…公安や警視庁に内密にこんなこと調べていいのでしょうか?」
「この件に関して、既存の官僚組織がどこまで信頼できるのかしらね」
「…と、いいますと?」
「…なんで特居が今日の今日まで容認されてきたか、知っているでしょう?」
里見は蓮の質問に質問で返した。
「知事の持論では、官僚が特居を秘密裏に利用してきたから、ですよね」
「そうね」
里見は人差し指を立てた。
「消極的には薬物中毒者や犯罪者集団を表の世界から隔離するための必要悪として」
続いて中指も立てる。
「積極的には、世間に公表できない政府の違法な研究の拠点として」
「前者はともかく、後者はまだ推測の段階ですがね」
蓮が補足する。
「証拠集めはこれからあなたが行うのよ、蓮」
「わかってます」
蓮の力強い返事に、里見の頬が緩む。
「証拠が集まれば、ついに計画を始動できるわね」
「…本当にやるつもりなんですか」
「当然でしょう?」
里見は興奮したように、安楽椅子から立ち上がる。
「この国はね、世界で初めて単性化に成功した先進国よ。つねに他国のロードモデルでなくちゃいけないわ。なのにあの特居…あんなものが未だに存在してるのはこの国くらいなものよ。あれはこの国の恥、この国の汚点よ」
里見の語気が荒くなる。
「この国から特居を排除する…そのための第一歩が、この首都東京の特別居住区を抹消することなの。わかる?これは東京の、日本の未来のためなのよ」
「はい、わかります」
里見の熱のこもった演説と裏腹に、蓮の返事は事務的であった。
「…その目は何かしら」
「えっ?」
「都知事に忠誠を誓う秘書の目かしら…それとも、生まれ故郷が消えるのをいまさらに憂う裏切者の目かしら」
「!!そんなことありません!!絶対に!」
蓮はいつになく声を荒げた。
「そうよねぇ。あなたは妹と幸せに暮らせれば、それで満足よね」
里見は蓮に近づき、小声で耳打ちする。
「あなたがここまで女として、姉として生きてこれたのは誰のおかげかはもちろんわかっているわよね、お兄ちゃん?」
「…はい」
蓮は蚊の鳴くほどの声で返事した。
彼女は、いや彼は、里見には逆らえない。
自分を姉として愛している、妹のためにも。
* * *
その日の晩、蓮と妙は同じ食卓に着いた。目の前には妙が昨晩から仕込みをしていたビーフシチューが芳醇な香りを放っている。
どんなに忙しくても、一週間に一度、日曜だけは必ず夕飯を共にするのが、この姉妹のルールなのだった。時刻はもうすでに10時を回っているから、夕飯というよりも夜飯である。
「今日も遅くなって、ごめんね」
蓮が謝る。
「謝らないでよ、折角のお食事がまずくなっちゃうでしょ?」
妙は本当に優しい。蓮のとっては自慢の妹だ。
「それもそうだね…妙ちゃんと鳴海ちゃんは今日、何してたの?」
鳴海のことを聞くと、この子は本当にいい笑顔を見せる。
「えっとまずね、なるちゃんが前から見たがってたホラー映画を見に行って、それから私の部活用の新しい絵筆を二人で選んで、それから二人で喫茶店でいっぱいおしゃべりしたよ。白桃タルトおいしかったなぁ…」
「楽しかった?」
「うん!…あ、でも」
妙の顔が少し曇る。
「今日のなるちゃん、時々ちょっとおかしかったような…?」
「ちょっとおかしい?」
普段の妙の話を聞いている限り、鳴海がちょっとおかしいのはいつものことのように思えるのだが。
「うん…なんていうか、ここにいるのにここにいない、というか…遠くのものを考えてる、というか…時々そんな表情になるんだよね」
「宇宙人の存在の可能性についてでも考えてたんじゃないの?」
蓮のでまかせな推論は、妙の激しい首振りによって一蹴された。
「あれは絶対そんな感じじゃなかった。間違いないよ!」
「まあ、鳴海ちゃんももう十六なんだし、色々思うところはあるんじゃないのかな?将来のこととか」
「そうなのかなぁ…?」
妙はいかにも納得いかないという顔で綺麗にスライスされたジャガイモの欠片を頬張る。
「私ももうちょっと暇だったら妙ちゃんとお出かけできるんだけどね」
蓮は話題をそらした。蓮の中ではもう鳴海の件は片がついているらしい。
「仕方ないでしょ、お仕事なんだから…その歳で第一秘書なんて、なかなかなれるものじゃないよ。それに奨学金とか、生活費とか、里見さんには色々お世話になったんだから、ちゃんと恩返ししなきゃ」
「はは…言う通りだなぁ」
蓮は頭を掻く。
「今度はまた大きな仕事を託されたからね、またしばらく家に帰れないかもしれない」
「そうなんだ…無理だけはしないでね」
「そりゃあ、妙ちゃんがいるもの、死ぬわけにはいかないよ」
妙の耳が、ピクリと動く。
「死ぬ…?」
「あ、いや、例えだよ例え」
蓮は大げさに手を振った。自分でも自分の言葉に驚きを隠せない。…弱気にでもなっているのだろうか?
「ねえ妙ちゃん…もし、もし私がいなくなっても、一人で大丈夫?」
蓮はなるべく深刻にならないよう注意しつつ聞いてみた。
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、話の流れ的に…?」
妙は、しばし沈黙した。
「私は、大丈夫かもね」
「え」
「お姉ちゃんは私無しで何日生きていけるかしら」
「…ほう、ぬかしよる」
二人は一斉に吹き出し、声を上げて笑いあった。
第五話
特居に潜入してから一週間、鳴海はまた普段通りの日常を送った。
いや、普段通りの日常を送ろうとした。
しかし、ふとした拍子にコウスケの顔が浮かんでは消えて、鳴海の日常をいやおうなく妨害するのだった。
「なるちゃん、ほんとにどうしたの?」
妙が鳴海を覗き込む。
「え、何が?」
「何が?じゃないよ、ぼっ〜として。…お腹出して寝ちゃダメだよ?」
「いや、別に風邪引いたとかじゃないんだけど…」
「じゃあ何?」
妙の目は何かを疑っているようである。
「なんていうか…」
鳴海が返答に困っていると、
「もしかして、この前の映画の…ニャルなんとか?」
「あ、そうそう!いやーあれ以来クトゥルフの邪神たちに心奪われてねぇ」
鳴海は嘘をついた。妙に嘘をつくのは初めてだ。
「やっぱり、そんなことだろうと思ってたよ…」
妙はそう言ってため息をついた。それ以上追及するつもりはないようで、鳴海は心底ほっとした。
「そうだ、今度の日曜だけど…」
妙は話題を変えた。
「何?またどっか行く?」
「いや、そうじゃなくて…絵のコンクールが近くて、休みも部活やることになったんだよね…」
妙は胸の前に手を合わせた。
「だから遊べないの。ごめんね」
「なんだ、べつにいいよそれくらい。コンクール頑張ってね」
(日曜、か…)
鳴海は、コウスケの忠告を思い出した。
(でも、ちょっとあの木の上から様子見るだけならいいかな?)
鳴海はこのとき、自分の表情が楽しげに輝いていたことに、そして、妙がその表情に抱いた不審の念に気づくことはできなかった。
* * *
日曜、昼。鳴海は先週の脱出に使用した巨木の前に赴いた。
(見るだけなら、大丈夫…だよね?)
巨木の枝から垂れ下がるロープに手をかけ、頂上まで登った。頂上からは、前回は暗くてよく見えなかった特居の内部の外観がありありと俯瞰できた。
眼下には、巨木を中心とした広場が形成されており、そのまわりには荒廃した人家のトタン屋根がさながらかつての江戸の下町のごとく密集しているのが見える。先週荷車の中から見たときは気が付かなかったが、鳴海の邸宅とは比べるまでもなく一つ一つの家は小さく、階層が存在する家は皆無である。どの家も見るも無残に荒れていて、人の住む気配のある家は十軒、いや二十軒に一つといったところだろうか。
遠くを見ると、高らかな円柱状の塔が周りの人家を見下ろすようにそびえていた。特居内の道はこの塔を中心に放射状に伸びており、この塔が特居の中心地であることがうかがえる。
よく見ようと身を乗り出すと、トタン屋根街の入り組んだ道路の中で、老婆と大男の影を確認した。鳴海を迎えに来たサエとコウスケだろうか。
鳴海は慌ててその身を巨木の葉の中に隠そうとしたその時、コウスケがこちらを向いた。
(まずい!!)
動揺した鳴海は身体のバランスを崩し、身体が思い切り枝の下にぶら下がる形となる。だが手についた緊張の汗により、枝につながった腕もスルリと抜け落ちた。
完全に空に浮き落下を始めた鳴海は、生きた心地のしないまま枝のロープに手をかけた。掌の内をロープがズリズリズリと通過していく。鳴海は必死になって、ロープを握る力を強めた。
落下が完全に止まったとき、鳴海の足はもうすでに地に着いていた。
(死ぬかと思った…)
巨木の根元で息を整えていると、人が走ってくる音が聞こえた。隠れようとするも、腰が抜けたのか足が思うように動かない。
やってきたのは、やはり、コウスケであった。
「やっぱりお前か」
コウスケの見せた反応は怒りではなく、呆れであった。
「…さては馬鹿だな」
「馬鹿で悪かったね馬鹿で」
鳴海には何の言い訳もできなかった。
「なんのために来た」
コウスケの詰問に鳴海は窮した。そういえば、なんのためにこんなところに戻ってしまったのだろう。理性的な理由が思い浮かばない。
「なんとなく…?」
鳴海の答えとはいえない答えに、コウスケはしばらく沈黙した。
「馬鹿以外にお前を表す言葉があったらいいのにな…」
「なにもそこまで言わな…」
鳴海が言い返そうとすると、コウスケは鳴海の口をふさぎ、そのまま巨木の根元の裏側のくぼみへと鳴海を押し込んだ。
(そこでじっとしてろ)
コウスケは息を殺してそう告げた後、目の前から立ち去った。遠くからもうサエの声が聞こえる。
「急に走るんじゃないよ、老体を気遣いなさいな」
「悪い、何かが落ちた気がしてな」
「何か…?」
「どうやら猫か何かだったみたいだな、どっかいっちまった」
「ほう…」
サエの声からは、コウスケへの信用はうかがえない。
「まだ来てないならもとに戻るよ。早く来な」
「ずっと思ってたんだが…なんでここじゃなくてあんな離れたところで待ち伏せするんだ?あいつに手を出さないようここの住人全員に釘までさして」
サエはフンと鼻息を立てた。
「こんな近場で待ち構えてたら怪しくて仕方がないじゃないか。お前の目ならあれぐらいの距離でもみえるだろう?」
(待ち伏せ…待ち構える…)
鳴海は息を飲んだ。どうやらサエが自分を誘拐しようとしているのは間違いがないようだ。
突如、聞きなれないブザー音が鳴り響いた。2コールで音が切れ、
「どうしたんだい」
とサエの声が聞こえる。どうやらサエは無線機か何かを持っているようだ。
「なに、そんなのいつものことだろう…え?その侵入者がかい?…わかった、いますぐ行くからね」
サエは無線を切り、
「コウスケはこの辺であの娘が来るのを待ってな。くれぐれも逃すんじゃないよ?」
コウスケにすべてを託して、どこかへと去っていった。
「…出できていいぞ」
鳴海はぷはー、と息と吐き、おずおずと顔を出した。
「サエさん、何があったんだろう?」
「さあな、お前以上に金になりそうな情報でも入ったんだろう…命拾いしたな」
「命拾いって、んな大げさな」
鳴海が軽く流すと、コウスケは鋭い視線を浴びせた。一気に気圧される鳴海。
「ごめん…今すぐ帰るね」
「待て、お前その手で帰れるのか?」
「え?」
鳴海は自分の掌を見た。粗悪なロープを強く掴んで滑り落ちたせいだろうか、擦り傷で血だらけになっている。熱さと痛さがジンジンと伝わってくる。
「いや、でもこれくらいなら…」
そう言ってロープに手をかけると、
「痛っっ!!」
掌に激痛が走る。枝に捕まったときだろうか、どうやら手の中にが何本か木のとげ刺さっているようだ。この状態で自分の体重を乗せて十メートル以上登るのは辛い。
「とりあえず、あそこで手を洗え」
コウスケは巨木広場の隅の井戸を指さした。鳴海が手を洗い終えたのを確認すると、背中に抱えた荷物袋から鼠色の薄汚いローブを取り出し、それを投げてよこした。誘拐用にあらかじめ用意してあったのだろうか。
「包帯、買いに行くぞ」
「えっと…それでこれは…?」
「外の恰好でいたら目立つだろ。ここに置いていくわけにもいかないしな」
「ああ、なるほど…」
鳴海は慌ててローブを頭からかぶった。手がじりじり痛い。
「こんな感じ?」
鳴海が体を回転させて見せると、コウスケは黙ったまま近づき、ローブのフードを握りしめて頭に思い切り被せつけた。視界が暗くなる。
「ふわっ!?」
「よし、行こう」
コウスケはそれで満足したのか、スタスタと速足で歩き出していった。
(もうすこし丁重に扱えないものかな…)
そう不満を抱きつつ、コウスケの後を小走りで着いていく鳴海だった。
第六話
しばらくして、コウスケと鳴海の一行は比較的賑わいを見せる街道へと歩を進めた。どうやらここは商店が集まった区画らしい。怪しげな、何を取り扱っているのかもよくわからない店がちらほらと見受けられる。そもそも開業してるのか閉店してるのかもよくわからない店が多い。あたりを観察しようとフードに手をかけた鳴海だったが、その手もすぐさまコウスケの大きく力強い手によって阻まれた。ここでは顔を出していけないらしい。
コウスケはそんな店のうちのひとつで足を止め、そそくさと店内へと入っていった。鳴海もそれについて行く。
店内では年老いた店主がカウンターでうたたねをしていた。口の周りから髪のように毛が伸びているというのに、肝心の頭の方の髪は薄くなっている。これが男の老体なのだろうか?
「おい起きろ」
コウスケの一言で老人はブルッと目を覚ます。
「はいはい起きてますよ」
「替えの包帯。あと消毒液も」
「もう無くなったのかい」
「いいからくれ。金ならまだある」
コウスケは懐から硬貨を取り出した。硬貨なら教科書で見たことがある。通貨価値を持たされた金属のメダルであり、少額の決済に使われることが多かったらしい。この目で実物を見るのは初めてである。鳴海は、手を伸ばしてまじまじと嘗め回すように観察したい衝動をぐっとこらえた。
「こんなことに大事な給料使っちゃっていいのかい」
「給料ね…どうせ大したものが買える額じゃねえよ」
コウスケの脇にいるフードの少女の姿を横目に見た老人は、何かを察したのか、二巻きの包帯と消毒液の小瓶を棚から取り出した。
「おい、包帯が多いぞ」
「いや何、当店では同じ商品を一週間以内に再購入した顧客には無料で一つ増量するキャンペーン中なんでさ」
「聞いたことがない」
「言ってませんから」
「…おやじ、告知されないキャンペーンに意味はないぞ」
「それもそうだ」
店主はそう言って、高笑いした。
* * *
「もう頭出していいぞ」
商店街道を抜け、背の高い雑草の生い茂る空地に入ったところで、コウスケの許可が出た。辺りに人の気配は無い。
「ふー暑い暑い」
鳴海はフードを後ろに下げた。掌で触ると痛いので、手の甲を器用に使う。
「それになんかかび臭いし…」
「文句をいうな文句を」
コウスケはそう言いつつ、雑草をかき分けていく。
「あの…手当てするんじゃ…」
「お前は後だ」
「後…?」
鳴海は先ほどのコウスケと店主との会話を思い出した。
草をかき分けたその先では、真っ赤に染まった包帯を胸部に巻いた白猫がぐったりと横たわっていた。首には、見るからに高級そうな首輪が括り付けられている。コウスケの姿を確認すると、か細い声でニャと鳴き声を上げた。胸の包帯はこれ以上ないほどに血を吸い尽くしており、交換を必要としていることは明らかだった。
コウスケははさみを取り出し、猫の包帯を切り取った。切り裂かれたような傷が露になる。とても自然にできた傷には見えない。鳴海は息を飲んだ。
コウスケは慣れた手つきであっという間に包帯を付け替えた。おそらく何度もこの作業を繰り返しているのだろう。
「この猫はな」
作業を終えたコウスケが突然に話しだした。
「解剖されかけてた」
「解剖?」
コウスケは水筒を取り出し、水飲み皿に注いだ。猫は嬉しそうに舌をつける。
「お前が来た次の次の日くらいだったか、あの巨木広場の近くの民家で金切声を聞いた。慌てて行ってみると、あの婆さんの顧客の一人がこの猫にメスを立てていた。そいつは外の世界が大嫌いで、自分より弱いものをいたぶり壊すのが大好きなやつだ…俺が止めてなきゃ今頃どうしてたか」
コウスケは猫の耳の裏をさすった。猫が甘えた声を上げる。
「…見かけによらず優しいんだね」
鳴海がつぶやくと、コウスケは妙な顔を向けた。
「お前、察しが悪いな」
「…は?」
コウスケはまた軽くため息をついた。
「俺が言いたいのはな、お前はこの猫も同然ってことだ。自分もまともに守れない弱者のくせにフラフラこんなところまで迷い込んで、迷惑ったらありゃしない」
「弱者って、そこまで言わなくても…」
「じゃあお前にあるのか、強さが。どんなやつからも自分を守れる強さが」
鳴海が押し黙っていると、コウスケは鳴海の手を取り掌をじっと眺めた。
「まずはとげを取るか」
鳴海は自分の体温が不快に上昇するのを感じた。
「い、いいよ!自分で!自分で取るから!!」
慌てて手を振りほどく。
「取れるのか、その手で」
ためしに取ってみるが、手のけがで精密な動きは難しい。
「無理すんな」
コウスケは穴の開いた硬貨とピンセットを取り出し、鳴海の手を取った。とげの埋まった場所に硬貨を押し当て、とげの頭を皮膚から出させる。そしてそれをピンセットで取り出す。コウスケはこの動作を黙々と繰り返した。なぜか、その手を振りほどく気にはなれなかった。
「さっきから思ってたんだけど」
鳴海にはこの沈黙は耐えられなかった。
「なんでそんなやたらにいろんな道具持ってるの?」
「いつ何が起こるかわからないからな、役に立ちそうなものはだいたい持ち歩いてる」
「へー…」
「何の用意もなくノコノコやってくるアホとはちがうからな」
「…ごめん」
コウスケは続けて消毒液を投与し、掌に包帯を巻いた。
「これであの麻縄くらいは掴めるだろ」
「うん、ありがとう」
「これに懲りたらもう二度とここには来るな。わかったな」
「…うん」
コウスケの声には有無を言わせぬ迫力があり、鳴海には到底逆らえるものではなかった。
* * *
同じ日、同じころ、妙は美術部部長に早退を申し出た。
部長はこれまで一度も部活を休んだことのない妙の突然の申し出に驚いたようだったが、妙の様子からただならぬ事情を察したのか、特に理由を問いただすこともなかった。
妙が向かったのは、鳴海の家である。
妙は鳴海の家のインターホンを押した。家庭用ヒューマノイドの音声システムが受け付ける。
「鳴海様のご学友の妙様でしょうか」
「はい」
「ただいま鳴海様は留守にしております」
ヒューマノイドの声は淡々としている。
「そう…じゃあ中で待ってていい?」
「申し訳ございません。鳴海様からなにも仰せつかっておりませんゆえ、たとえご学友であろうと私の独断でお招きするわけにはまいりません」
「独断で…?」
このようなとき、家庭用ヒューマノイドは外出中の持ち主、この場合は鳴海に連絡して許可を取るのが一般的である。ところが今回は連絡を取ろうともせず、家に入れることを断った。
「もしかして、今なるちゃんと連絡がとれないの?」
「はい、電波の届かないところにいらっしゃいます」
電波の届かないところ…現代の日本においてそんなところは、特別居住区の内部以外にはありえない。
「そう、ありがとうね…大した用じゃないから、来たことはなるちゃんに言わなくていいからね」
「了解しました。お気をつけてお帰りください」
妙はヒューマノイドの事務的な挨拶に一言も返事することなく、鳴海の家を立ち去った。
(特居、ね…)
第七話
鳴海の二度目の特居侵入から一ヶ月が経ったころ、大手全国紙上でとあるスクープが発表された。―東京都第八特別居住区内の施設にて、政府主導の人体研究が極秘裏に行われていたというのである。
研究の内容はというと、人の精神の仕組みを探り、その制御の方法を模索するというもので、被験体としては特居への亡命者が使用されていた。このスクープを皮切りに、次々とこの研究の秘密が白日の下に晒され、絶大なセンセーションを巻き起こしたのだった。
これらのニュースは、三つの点で国民を驚かせた。
まず、特居の住人のほとんどは男ではなく、特居外からの亡命者であり、いわば犯罪者の巣窟となっているという、ニュースの前提となる事実。壁の管理が国の管轄から都道府県や市町村へ委託されてから境界警備が格段にゆるくなり、管理局が有名無実化していたことが白昼のもとにさらされた。
二つ目は、政府の行っていた実験の残虐性である。被験者に同意を得ることはほとんどなく、身体や精神に甚大な影響を及ぼしうる人体実験をしていた。壁の外ならば言うまでもなく違法である。
そして最後に…これが一番の衝撃だったかも知れない…これら実験群の最終的な目的が、人心の効率的な制御、即ち洗脳術にあったという点である。このことから、マスコミはこの研究を「現代のMKウルトラ計画」と呼称した。
これらのセンセーションに真っ先に反応したのは、東京都知事牧野里見であった。
彼女はもともと公約として都による特居の廃止、及びその広大な土地を利用した新都市計画を掲げており、その可否を問う住民投票の準備を進めていた。上のニュースが日本中を駆け巡るまでは、各種世論調査はこの住民投票の結果を反対多数の否決と見ていたが、いまやその趨勢も逆転しようとしていた。
―それでは、住民投票の期日を予定よりも早める、ということでしょうか?
「ええ、その通り。こんなことが明らかになった以上、早急に都民の皆様の意見をまとめる必要があるもの」
―具体的には、いつ頃実施予定でしょうか?
「早くても一ヶ月、遅くても一ヶ月半後かしら。それまでの間、皆さんにはぜひあの特居がこの世に必要なのか否か、じっくり考えて頂きたいわ」
―性急すぎませんか?
「…確かに、五十年近く続いたものをなくすことに抵抗を覚える方も多いことは分かっているわ。でもね、あそこを現存させても百害あれど一利なし。私たちはもういい加減、あの過去のお荷物を切り捨てる必要があるの。私は投票のその日まで、そのことを皆さんに理解していただくよう、尽力するつもりよ」
―もし可決された場合、特居の元住人の待遇はどうなさるつもりですか?
「それについては、もうすでに特居側との交渉を開始しているわ。…心配しなくても、特居の住人たちを野に放つようなことはしないわよ」
牧野知事の顔のアップが公園の巨大モニターに映し出される。それを眺める鳴海と妙。朝の待ち合わせによく使う公園だ。
鳴海はモニターを見ながら押し黙っている。
「…なるちゃん、この前のこと、まだ気にしてる?」
妙が鳴海の顔を覗き込んだ。
「…え?」
「ほら、この前の…白沢さんのこと」
「ああ、あれか…」
* * *
四日前のことである。鳴海は清秋学園の廊下ですれ違った生徒に、カッターナイフを突きつけられたのだ。
「痛っ!」
とっさにのけぞった鳴海の右腕からほそい血液がとくとくと流れ出ていた。傷を手で覆う。
「何すんだよ!」
鳴海は体裁を忘れて叫んだ。
「ちっ」
相手の生徒は舌打ちを打つと、再度攻撃を繰り出した。呆然と立ちすくむ鳴海を尻目に、横にいた妙が仲裁に入る。周りに人だかりができるが、誰も加勢には入らない。
騒ぎを見て駆けつけた警備ヒューマノイドは生徒の手からカッターを振り落とし、組手よろしくその動きを封じた。
「お前らのせいで、お前らのせいで…」
生徒はそう呻きながら、警備ヒューマノイドに連れ去れていった。
野次馬の声が聞こえる。
「あの子…前の壁の管理局局長の子でしょ?」
「ああ、あの責任取って辞めさせられたっていう…」
「そのせいでここを退学することになったんだってね…」
「いまだにマスコミに追われたりしてるんでしょ?」
「でもなんで牧野さんに…?」
「噂よ噂。あのスクープは都知事が仕掛けたっていう噂があるの」
「えー、まさかー」
「どっちにしろ、あんまり関わりたくないなぁ」
「うん、こわいこわい」
群衆は立ちすくむ二人を残し、次々と去っていった。
* * *
「たしかにびっくりしたけどね…でも誰かから逆恨みされるのは慣れてるから」
「でもまさか、あんなことされるなんてね…傷はどんな感じ?」
妙は鳴海の腕を見た。
「んー、まあだいたいは治ったかな。カッターなんてたいして深い傷つけられないし」
鳴海は右袖をまくり、腕につけたガーゼを鳴海に見せた。
「怪我なんて昔からしょっちゅうしてるしね」
「この前も派手に転んだとかなんとかで手のひらが大変なことになってたしね」
鳴海はハハ…と力なく笑った。当然だが、特居でのことは妙には内緒のままである。
「その節はご心配をおかけしました…」
「まあ、問題は体の方じゃないからね」
妙が言うと、鳴海は不思議そうな表情をつくった。
「どゆこと?」
「あれからなるちゃん、みんなから避けられてるでしょ。それこそ腫物か汚物みたいに」
「ああ、なんだそんなことか」
鳴海の反応はあっけからんとしていた
「そんなことか、じゃないよ。無視されたり、のけ者にされたり…つらくないの?」
「まあ、そんなに仲よくもなかったし。変に擦り寄って来るよりよっぽどましだよ。それに面倒に巻き込まれそうな人にはなるだけ関わらないってのは、当然の処世術だよ」
「なるちゃん…」
鳴海は気丈そうにふるまっているが、妙にはその苦しさが痛いほどよくわかった。
「たーちゃんも、いつまでも私と一緒にいなくていいよ」
「なんでそんなこと言うの?」
妙は責めるように言った。妙にしてはめったにないことで、困惑する。
「いや、だって…たーちゃんにはたーちゃんの友達関係があるわけだし…」
妙は大げさなほどに大きくため息をついた。
「どうしたのたーちゃん?」
「私ね、ちっちゃいころ…小学生の低学年くらいかな?クラスのみんなからいじめられてたの。話しかけても無視されたり、陰でこそこそ嗤われたり、教科書やら上履きやらが池に沈められたり。親もいないし、貧乏でろくな洋服着てなかったし、私も内気で暗かったから、それも仕方ないなって、そうあきらめてた。お姉ちゃんにも絶対に言えなかった」
「知らなかった…」
意外であった。
今の妙はどちらかというと明るく朗らかで、交友関係も鳴海より格段に広い。
「なるちゃんのおかげなんだよ?」
「え?」
「いまの私があるのはなるちゃんのおかげ。あの時、独りぼっちの私に声をかけてくれたのも、隠された教科書を一緒に探してくれたのも、なんかよくわからない冒険やら探索やらに強引に誘って来たのも、ぜんぶなるちゃん」
妙は最上級の笑顔を向けた。
「覚えてないだろうね。なるちゃんにとっては、当たり前のことだから」
「うーん、二人でよく遊んだことは覚えてるけど」
「それでいいんだよ。私もあんまり思い出したくないから」
「そっか」
「うん。だけど、これだけは分かって」
妙はいつになく真剣な顔になる。
「私にとってなるちゃんは、友達とか、そういうのよりもっと大きなもので…なるちゃんから離れることは絶対にない。絶対にね」
鳴海は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに感謝の言葉が口をついた。
「ありがとう」
「ありがとうはこっちでしょ」
妙はそういうと、声を上げて笑い、鳴海もそれにつられて笑った。ひとしきり笑ったあと、鳴海は腕時計を見やった。
「もうこんな時間。はやく帰らないと」
「そっか、じゃあまた明日ね」
妙はバイバイ、と手を振った。
「うん、またね」
鳴海は手を振り、妙と逆方向に歩き始めた。…が、すぐに妙の方を振り返った。
「?? どうしたのなるちゃん?」
「いや、なんか聞こえたような気がしたんだけど…気のせいだったみたい」
「もおっ、怖いこと言わないでよ!」
妙が珍しく怒る。妙は創作物のホラーには(鳴海のせいで)耐性があるが、日常的な怪談にはめっぽう弱いのだ。
「ごめんごめん。じゃあね」
「じゃあね」
鳴海は動揺していた。
『なるちゃんは私から離れないよね?』
先ほど去り際、妙がそう呟いたような気がしてならなかったからだ。
(本当に気のせいだったのかな…?)
第八話
一か月後、鳴海は細川家の小さな食堂の食卓に腰かけ、『日曜討論』にチャンネルを合わせていた。鳴海にとって細川家は第二の実家も同然である。居心地の良さでは牧野邸よりはるかに上であろう。
「いまここで歴史的な決定が下されたことに、私は感涙を禁じえません」
住民投票当日の里見の記者会見のVTRが画面に映し出されている。
「人類は太古の昔から、男と女、性という非合理で理不尽なルールに縛られて生きてきました。我々がその呪縛から逃れる手段を手に入れてからすでに130年、それでもなお、男という前時代の幻影が、あの特居の中には渦巻いていました。…そうです、幻影です。男そのものが数を減らしても、かつて男の持っていた暴力性、犯罪性は特居の中で脈々と受け継がれていたのです。こんな無政府状態では、いつまた悪意のある者たちからの脅威にさらされるか分かったものではありません。我々はあの時代遅れの壁を取り払い、未来を切り開く必要がある…私のこの考えが都民の皆さまから支持をいただけたこと、まこと至福に存じます。あの忌まわしい区域を撤廃することは、東京にとってだけでなく、日本にとって、そして人類全体にとって大きな躍進なのです」
画面がスタジオに切り替わった。
―特居の解体作業はついに明日から、都の主導にて開始される予定だそうですね。なんでも日本政府関係者からの増援を断ったとか。
―牧野知事はやたらと事を急いでいるようですが…これは一部報道にある通り、都知事が洗脳技術を独占し、その流用を企んでいる、ということなんでしょうか?
―いや、そんなことはありえないですよ。第一、例の極秘研究は実際にはほとんど進展してなくて、洗脳の実用化は夢のまた夢という状態ですからね。独占するだけ無駄ってなもんです。それにあの施設を手に入れても今後は市民の目が厳しくなるでしょうから、研究のさらなる進展も望めませんしね。
―なるほど…では、なぜ?
―そうですね。やっぱり対抗勢力への牽制、これが一番でしょうね。あまり時間をかけるといろいろと妨害が入る可能性がありますからね。黒志団の残党もまだいないとは限らないわけですし…
―それにしても、準備が良すぎではありませんかね?まるでこうなることが計画の内だったような…
―わかりやすい陰謀論に飛びつこうとするのはマスコミの悪い癖ですね。第一…
(ま、一般的にはそうなんだろうけどね…)
鳴海は食卓の中央に盛られた草加せんべいの袋を開けた。
(あの人の場合はどうなんだか…)
「あ~、もうくつろいじゃってる!」
せんべいをほおばる鳴海に、妙が叱咤とともに近づいてきた。鳴海とともに食卓横の小さなテレビの画面を見やる妙。
「明日かぁ…里見さんもお姉ちゃんも大変だね」
しばらくの沈黙の後、鳴海はふと心に浮かんだ疑問を口にした。
「…ねえ、たーちゃん?」
「どうしたの?」
「…もともと特居に住んでいた人たちって、どうなるんだろうね?」
「…え?」
「なんでもない」
妙が答えあぐねていると、鳴海はテレビの電源を消し、妙に方向を振り返った。
「そんなことよりカードケースは見つかったの?」
「あ、それはこの通り」
妙は右手にぶらぶらとウサギ柄のファンシーなカードケースを下げた。
23世紀日本において、すべての決済は国民一人ひとりに支給される国民カードを介して行われる。いうなれば国営のキャッシュカードであり、旧世界において財布に該当するものである。
「まったく、今どき買い物しようと町まで出かけたらカードを忘れる愉快な高校生なんてたーちゃんぐらいなもんだよねぇ」
「いつもはなるちゃんの方が圧倒的に忘れ物してるのに…なんたる屈辱ッ!!言い返せないッ!」
「お姉さんの方はあんなにしっかりしてるのにねぇ」
鳴海がそうやってまた煽ると、
「おや、それはどうかな?」
妙は、今度はこれ見よがしに左手を上げた。見慣れた柄と形の弁当箱がぶら下げられている。普段妙が学校で使っているものと同じ型のようだ。
「お姉ちゃん、またお弁当忘れてるよ」
* * *
鳴海が都庁を訪れるのは初めてだ。そもそも来ようと思ったことすら無かった。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「いいよいいよ、仕事してる蓮さんも見てみたかったし」
「うーん、見れないと思うなぁ」
妙は口の下に手をやった。
「なんで?」
「前にも入ろうとしたんだけど、お姉ちゃんがいるところまでは入れさせてくれなかったんだよね…さすがにセキュリティが堅いみたい」
「え、そうなの?…あ、いやまあ当然か」
「うん、だからこれを受付に渡すくらいしかできないと思う」
「なんだつまんない」
鳴海は口を尖らせた。
「あれ、知事の娘さんじゃないかい?」
二人が受付のヒューマノイドに弁当を渡していると、横から都庁の職員らしき人に声をかけられた。
「え…あ、はい。そうですけど…」
「いつも牧野知事にはお世話になってるよ」
「は、はあ、それはどうも」
職員はにっこりと満面の笑みを浮かべた。鳴海は長年の経験から、心の底から湧いて出る笑顔と算段の下に作り出される愛想笑いとを容易に区別することができた。
「お母さんに会いに行く?」
職員はいかにも気さくそうにそんな提案をくりだした。
「いえ、私はこの子の付き添いで来ただけでして」
「付き添い?」
職員は脇で弁当を片手に二人のやり取りを眺めていた妙に目をやった。
「なるほど、細川秘書にお弁当…かな?」
「はい」
妙は素直に返事した。
「じゃあ直接渡しに行く?知事の親族とその付き添いなら私の権限だけでも入れるからね」
職員はそう言って首にぶらさげた名札のカードキーを指さした。
「いえ、悪いですよそんなこと」
「若いんだから大人に遠慮しないの」
(遠慮じゃなくて警戒だよ)
鳴海の心の声を知ってか知らずか、職員は二人の肩に手をやってほぼ強引に関係者用入り口のセキュリティゲートまで連れ出した。ゲート横のリーダーにカードキーを通し、何やら暗証番号らしきものを入力する。
「はい、あとは国民カードをあの改札にかざせばいいからね」
「は、はあ」
職員は有無も言わせず二人をゲートに通させた。
「知事と細川秘書は今最上階の執務室にいるはずよ。それ以外の階層には入れないから注意してね。あ、それと、ここから出るにも私のカードキーが必要だから、帰るときは私に電話してね。はいこれ私の番号」
職員はそう言って二人に名刺を渡し、スタスタと立ち去っていった。
「あんな気さくな人もいるんだね…」
鳴海はそんなことをつぶやく妙の呑気さに感心した。
「たーちゃん、ちょっとこっち向いて」
「え、あ、うん」
鳴海は妙の肩のあたりを探った。シールのようなものを見つけ、肩から取り外す。
「やっぱり」
「なにそれ?」
「小型のシール型カメラだね。それにこっちには盗聴器…と」
妙はあっけに取られ、言葉を失っている。
「まあ大方、あの人の弱みとか情報を知るためだろうね。娘には気を許すとでも思ったんだろうけど…何もわかってないね」
「いまさらだけど…なんかすごい世界…」
「あんまり慣れたくない世界だけどね。あ、私のも取ってくれる?」
「あ、うん」
妙は鳴海の肩を注意深くまさぐり、妙につけられていたものと同型のシール型カメラと盗聴器を取り外した。鳴海はそれを受け取ると、妙に付着されていた分とまとめて近くの観葉植物の鉢植えの土に埋め込んだ。
「まあせっかくだし、行ってみようか?執務室」
何事もなかったかのように提案する鳴海であった。
第九話
都庁、執務室。
細田蓮と牧野都知事は翌日の第八特居解体作業に関する最終確認を行っていた。
「まさかここまでうまくいくとは思わなかったわね。全部あなたのおかげだわ」
「まだ終わったわけではありません」
蓮は里見の称賛を冷静に返した。
「それもそうね」
里見は不敵な笑みを浮かべた。
「自分の故郷を裏切るのって、どんな気分なのかしら」
「別に何も思いませんよ。あそこには恨みこそあれ、懐かしさなんて微塵も感じていませんから」
「でも住人たちから情報を得るために自分の出生はちゃっかり利用したでしょう?」
「仕事のためですから」
「あなたのそういう乾いたところ、嫌いじゃないわ」
「それはまたどうも」
蓮の反応はやはり冷静である。まるでわざと感情を殺そうとしているようだ。その様子を里見は察したようだ。
「もしかして、緊張してるのかしら」
「緊張…ですか?」
蓮は下唇をかみしめた。
「緊張というより…迷いかもしれません。本当にこれが正しいのかどうか…」
「正しいとか正しくないとか言ってるようじゃ、まだまだね」
里見は安楽椅子から立ち上がった。
「私たちの仕事は一般市民の生活と人生をよりよくすること。私たちは凡夫が無知のまま幸せに暮らすために選ばれた代表者。だから私たちは私たちを選んだ民衆の代表として地獄に落ちる覚悟が必要なの」
「そうは言ってもですね」
蓮の声も無意識に大きくなる。
「あそこの住人をガスでまとめて廃人にして地下に隔離するなんて、あまりにも前近代的ですよ!」
「あそこの住人自体が前近代的だもの、妥当だわ。殺さないだけ感謝してほしいわね。…それに、男どもの野蛮な戦力を無力化するにはこれしかないわ」
「彼らを騙してまで、ですか」
「騙される方が悪い。この世界の真理ね」
蓮はまた下唇をかみしめたが、すぐに何かを察したのか、後ろを振り返った。
「どうかしたの?」
「いえ…なにかいたような気が…」
「臆病になりすぎよ。あなたらしくもない」
「すみません…」
二人は確認作業に戻った。
* * *
エレベーターで都庁の最上階に到着した鳴海と妙は、そのまま執務室と思われる部屋へと歩いて行った。鳴海は気が進まないのか、いつもよりはるかに歩む速度が遅い。
執務室の前に立ち、ノックをしようとすると、中から人の声らしき音が聞こえた。
(防音処理してないのか…そもそもここに人が来ることが想定されてないのかな)
そんなことを思った鳴海の耳に、蓮のものと思われる大声が聞こえた。妙の前ではいつも優しい蓮のこんな声を聞くのは初めてだ。ところどころ、はっきりと判別可能な単語がある。
「あそこの住人…………まとめて廃人……………隔離……」
鳴海はノックする手を止め、妙の方を向いた。妙も状況を把握したらしい。
(すぐに帰ろう)
鳴海がハンドサインで合図すると、妙も頷き、そのままエレベーターまで音を立てずに速足した。
* * *
都庁近くの自然公園まで逃げ出した鳴海と妙は二人きり、池の水面を眺めていた。都庁から出るときはむろん例の名刺の職員には連絡せず、その場にいた別の職員の力を借りた。
日はもうとっくに南を通り過ぎ、だいぶ西に傾いていた。
「なんか、嫌なこと聞いちゃったね…」
初めに沈黙を破ったのは妙であった。
「うん…」
「あの人たちを受け入れるところが、どこにもないんだろうね」
「うん…」
「お姉ちゃんも関わってるのかな?」
「うん…」
「…なるちゃん、聞いてる?」
「…え、あ、ごめん」
鳴海は池を眺めていた虚ろな目を上げた。そして何かを決心したように、妙の方を向いた。
「ごめんたーちゃん、私、もう帰っていい?」
「…帰ってどうするの?」
妙の声の調子が下がる。こんな声の妙は初めてだ。
「帰って、もう寝る」
しばしの静寂。
「なるちゃんはさ…」
妙の声からは、いつもの自分であろうとしていることがヒシヒシと伝わった。
「嘘をつくとき、声が半オクターブ上がるんだよね…この前、はじめて知ったよ」
そして、いつもの笑顔とは絶対に違う、作為的な笑いを見せた。
「こんなこと、知りたくなかったなぁ」
「嘘って…」
「嘘でしょ?」
妙はきっぱりと断定した。
「特居に行くつもりなんでしょ」
「え…なん、なんで?さっきからたーちゃん、なんかおかしいよ??」
図星であった。声が半オクターブどころか、一オクターブほど高くなっているのが分かる。
「やっぱり、そうなんだ」
妙の目は腫れかかっている。
「私、知ってるんだよ…手のひらに怪我してたあの日、特居にいたって。それを私に黙っているって」
鳴海は何も言わない。
「…なんで、特居に行きたいの?」
とぼけても無駄なことは分かり切っていた。
「なんでって…だっていくらなんでも、みんながかわいそうでしょ?詳しくは分からないけど…何かされるのは確実だし…」
「嘘の次は建前なんだね」
「建前…?」
「だってそうでしょ?あそこの人たちがどうなろうと、なるちゃんには関係ないよね?なるちゃんが危険な目にあう必要はないよね?」
妙は早口でまくしたてた。優しげな口調に、怒気が混じる。妙の変調に鳴海は動揺した。
「それはそうかもしれないけど…」
鳴海は妙に背を向けた。
「やっぱり、行かなきゃ」
立ち去ろうとする鳴海だが、妙に背中を引っ張られた。振り返ると、涙の溜まった両の目に自分の姿が映るのが見える。目を見開き動揺する自分の姿。思えば彼女が涙を見せるのはこれが初めてである。笑い泣きですら見たことがない。TVのコメディを見て大笑いする鳴海の横で、そんな鳴海を見ながら嬉しそうにほほ笑むのが妙である。「コントより私が可笑しいか、この無礼者!」などとじゃれていた頃がひどく昔のことに思える。
「私ね…」
妙は鳴海の服の裾を強く握りながら、もう片方の手で涙をぬぐった。
「私、なるちゃんが、牧野鳴海が好き」
「へ…?」
突然の言葉で事態の把握に時間がかかる。
「私も、たーちゃんのこと好きだけど…」
「違うの。なるちゃんの好きと、私の好きは、全然違う」
妙は間髪入れずに反論した。
「これは多分、恋とか、愛とか、今の人たちはみんな忘れちゃってるような、そんな病気みたいな気持ちで…その人のことが頭から離れなくて、その人のことを想うと幸せで胸がいっぱいになって、その人がどっかに行っちゃうと、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうで…とてもわがままで、とても原始的な、そんな思いなんだよ…」
妙のせりふによどみはない。言葉があふれるように口をついて出る。
「ねえお願い…行かないで…どこにも行かないで…」
妙の頬を伝う一条の涙の跡を、黄金の西日が照らし出していた。
* * *
妙はふすまの奥から敷布団を取り出し、自身のベッドの横に広げた。
「なるちゃんとお泊りって、実は結構久しぶりだよね」
「中学以来、かな」
鳴海はそう言って妙の後ろからの方からふかふかとしてかわいらしいフリルのついた掛布団を空中でババンと広げ、掛布団を覆った。
「ごめんね、こんなわがまま聞いてもらって」
「ううん、たーちゃんの言う通りだもんね…私なんかが行ったところで、結局何も変わりはしない。無駄なこと、だもんね」
「そう言うと、なんか意地悪な感じだけどね」
そう言うと妙はふすまの奥からもう一枚の敷布団を引っ張り出した。
「あれ?たーちゃんも床なの?」
「うん…なるちゃんのすぐ隣にいたいから」
口調はいつもの妙そのものの優しく穏やかなものであったが、その言葉からは彼女の決意を感じた。
「はは…さては信用されてないなあ」
「信用が無いってのとは、ちょっと違うけど…あ」
「どしたの?」
「掛布団、一つしかないや」
その夜、鳴海は全く寝付けずにいた。決して布団に慣れてないからとか、枕が変わったとか、掛布団一枚を二人で共有しているからとか、そんなことが原因ではない…はずだ。横を向くと、妙のまだあどけなさの残る寝顔が満月の光に照らされている。
『その人のことが頭から離れなくて、その人のことを想うと幸せで胸がいっぱいになって』『その人がどっかに行っちゃうと、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうで…』
夕方の妙の言葉が頭を巡る。
一緒になって頭に浮かぶ光景がある。いそいそと水を飲む手負いの迷い猫を、無表情ながらどこか優しげに見つめる男の姿だ。口が悪く、目つきも善良には程遠い男の、哀しさに満ちた表情だ。
(恋、か…)
妙が寝返りを打ち、背を向けた。掛布団を巻き取って鳴海の分の面積が減る。
(ごめんね、たーちゃん)
鳴海は妙に気づかれないよう、ゆっくりと布団から体を離し、立ち上がった。
(だけど…ありがとう。おかけで私も病気なんだって気づけたよ)
この月明かりなら迷うこともなさそうだ。
第十話
コウスケは夢を見ていた。ここ最近よく見る夢である。
こちらをじっと見つめ、観察する少女。その目は軽蔑するでもなく、哀れむわけでもなく、ただただ男の自分を観察している。好奇心、知識欲…果たして彼女の胸の内にあるのは、それだけなのだろうか。目が合うと、彼女の自然なほほ笑み。
(馬鹿馬鹿しいったらありゃしない)
コウスケは夢を見ながら、こんな夢を見る自分に悪態をついた。いわゆる明晰夢のようなもので、やめようと思えばいつでもやめられる。だがコウスケは、自らの意思でこの夢を中断する気にはなれなかった。
「コウスケさん」
夢の中の彼女が声をかけた。この夢に音が付くのは初めてだ。コウスケはこれまで、音や色のついた夢など見たことがなかった。
「コウスケさん」
もう一度呼ばれる。いい加減にしてほしい。これ以上は精神に異常をきたす。それとも、もうとっくに狂っているのか…?
「コウスケさん!」
コウスケは目を覚ました。目の前には白みはじめた日を浴びる彼女と光る眼鏡。
(今夜の夢は二重構造か…)
コウスケは目を閉じた。
「え、二度寝?」
いやにはっきりした声が聞こえ、慌てて起き上がる。
「おまっ」
大声で叫びそうになるのをすんでのところで思いとどまった。
「何しに来た?」
小声で囁くコウスケ。
「えっと…、何から話せばよいのやら…」
鳴海はもたついている。いつサエが起きてくるのかわからないのだ。早くしてほしい。
「あ、そうだ、猫」
「猫?」
「そうそうこの前の猫、あの子もだいぶ回復したんじゃないの?」
コウスケは背中を向け、ベッドとは名ばかりの固い寝台に横になった。
「猫なら死んだ」
「え?」
「あの野郎の鼻があんなに利くとは思わなかった。まあ、薬の中には感覚が異常に鋭くなるものもあるからな」
「そうなんだ…」
会話のとっかかりを失ったのか、しょぼくれ、ベッド脇の椅子に座る鳴海。
「そんなことを言いに来たのか」
「あっ、いや、そうじゃなくて」
鳴海は慌てて否定した。
「えっと、コウスケさんは、さ」
「コウスケでいい」
「あ、はい」
鳴海は仕切りなおす。
「コウスケは、さ」
「おう」
「明日、いや今日、ここが取り壊されるって知ってる?」
コウスケは言葉を失った。この女、とんでもない豆鉄砲の使い手だ。
「…やっぱり、コウスケだけ言われてないのかな」
鳴海は思案顔になった。
「この辺一帯、人っ子ひとりいないんだよね。サエさんも誰もかも」
外から夜の虫の声が微かに聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。
* * *
「これがどういうことなのか、説明していただけますか」
高校の体育館ほどの広さの密閉された空間に、細川蓮の静かな声が響きわたる。
特居の中心、旧中央管理塔から通じる地下空間の一室。ここには特居中の住人が集められていた。住民代表のサエが蓮に応じる。
「これとは、どれのことでしょうかねぇ」
「いまの、この状況です」
蓮は名簿を片手に、住人たちの群れを見渡した。何度見ても、男の姿が見受けられない。
「なぜ、男が一人もいないのですか。住人全員が集まることが交渉の条件のはずですが」
「おや?だから全員いるじゃないかい。住人は全員」
蓮は、右の握りこぶしを固く握った。ここの連中は昔から何一つ変わっちゃいない。
「なるほど、見解の相違があったみたいですね…」
「そういうことになるねぇ」
蓮は襟につけた小型トランシーバで里見を呼んだ。
「どうしますか」
「ちょっと厄介ね。…まあでも、男の方は見つけ次第抵抗勢力として処分すればいいかしら。女性は全員いるのでしょう?」
「はい、私たちの把握している住人は全員います」
「なら、計画通りにしましょう」
「了解です」
トランシーバを切る。
「なあ、レンさんよ」
サエが声をかけてきた。
「本当に、ここから出してくれるのかい?」
「ええ、大丈夫ですよ。そういう約束ですからね」
「そうだよねぇ。そのためにわざわざこの塔でやってたことやら何やらを教えてやったんだから」
「はい、ちょっと食い違いはありましたが…予定通り、皆さんの居住環境はきっちり確保してありますよ」
群衆から安堵の息が漏れる。蓮はそんな住民たちの隙を見計らってポケットに隠し持ったガスの噴出ボタンを押した。大部屋の広い床に毒ガスの層がすこしずつ堆積してゆく。まだ勘付かれてはいないようだ。
蓮は妙のことを考えていた。日曜の夜は必ず帰るという日課を破ってまでこんなことをしている。この埋め合わせは必ずすると約束したが…彼女は今、家でさみしい思いをしているのだろうか。
(いや、妙ちゃんのことだし鳴海ちゃんを家に連れ込んでよろしくやってるんだろうな)
そう思うといくらか気は楽になった。
* * *
鳴海は、外で行われた住民投票のこと、特居の解体の日程が今日から始まることを告げた。
「つまり、ほかの奴らは皆もうすでに退避していると?」
「そうなんじゃないのかな…なんでコウスケに知らされてないのかはわからないけど」
「それだが…たぶん俺だけじゃない。男は皆見放されたんだ」
「男が?」
「ああ。ここ数日、俺の知り合いの男が何人かいなくなってる。人が消えるのはよくあることだからあまり気に留めてなかったが…まあ、そういうことだろうな」
コウスケの言葉を聞いた鳴海は考え込んだあと、
「じゃあ結果的に助かったのかな」
「?何言ってるんだ??」
「いや、ほんとはこれを言いに来たんだけど…」
鳴海の口から、にわかには信じられない事実が告げられた。なんと都知事が「住人をまとめて廃人にする」という計画を立てていたのだという。まとめて、ということは住人を一か所に集めて何かしらの“処置”を施すということであり、今まさに住人達がどこかに集められているのは間違いない。そしてコウスケは結果的にその罠から逃れたのではないか、という。
「他の人たちには申し訳ないけど…手遅れになる前でよかったね」
そう言って複雑そうに笑う鳴海。
そもそもなぜこいつはこんなことを知っているのか。特居解体はともかく、廃人のことは一般に知られているとは思えない。この女は一体何者なのだろうか。よく考えると、コウスケはこの女に関してほとんど何も知らないに等しい。
いや、そんなことよりもっと気になることがある。
「お前、そんなことを言うためにここまで来たのか?」
鳴海はコウスケの疑問に心底驚いているようである。
「そんなことって…けっこうなことじゃない?」
「俺にとってはな。だがこれを伝えてお前に何の利益がある?ここに危険を冒してまで来る理由がどこにある?」
鳴海はしばらく考えたあと、何かを決心したように顔を上げた。
「…コウスケに会いたかったから、なのかな」
「…は?」
「元気な顔を見たかったから。元気な声を聞きたかったから。もう二度と会えなくなる、って思うと、居ても立ってもいられなくて…やっぱり変かな?」
鳴海の目はとても冗談を言っているようには見えなかった。
第十一話
そのガスは、政府の極秘研究の一つ、自白剤の開発の途上にほとんど偶発的に発見された。いわゆる幻覚剤というやつで、吸い込むと一瞬で脳髄まで到達し、吸引者に幻覚や恍惚感、多幸感を与える。身体への危害は一切ない。だがその効果は歴史上のどの幻覚剤よりも強く、一度吸引すると二度と精神が現実に戻ってくることはない。摂食などの生理的行動も自発的には行わなくなり、まさしく廃人状態となる。その実用性の低さから取り扱いに苦慮していた政府が地下に貯蔵していたものを蓮が掘り起こし、この計画に使用する運びとなったわけである。
里見知事がこのガスを特居住人処分の手段に選んだ理由は、まず一つにその正体の秘匿性にあった。一般的な毒ガス、銃火器その他では大量使用により足がつく可能性がある一方、存在自体が明かされていないこのガスならばその心配はない。二つ目はこのガスが分子として安定性を欠くことがあげられる。空気中の酸素と容易に反応して二酸化炭素等のごく普遍的な気体分子に分解されてしまうため、使用した証拠も残らない。この悪魔的な計画を里見の口から聞かされたとき、蓮は改めてこの政治家の末恐ろしさを実感したものである。
さて、そろそろガスの層が腹のあたりまで浸食してきたところであろう。蓮が壁に設置されたパネルに手をやると、その下から呼吸器のマスクが現れた。マスクを引き取り装着する。蓮の様子からただならぬ状況を察した住人の一部が蓮につかみかかろうとする。しかし急激な移動によって攪拌され舞い上がったガスを吸い上げた住人はすぐに正気を失い、その場に倒れこんだ。ほかの者もそれに続いて、次々と倒れ笑顔でうずくまる。彼らはみな幸せな夢を永遠に見続けるのだ。
この場にいる全員の吸引を確認した蓮は事前の打ち合わせ通り出口の方まで歩き、ドアに手をかけた。
…しかし、である。ドアが開かない。
押してダメなら引いてみる。開かない。
引いてダメなら横にずらしてみる。…やはり開かない。
蓮はその場に倒れこんだ。呼吸器のマスクに手を添える。この呼吸器に内蔵されている酸素の量では六時間が限界であろう。
* * *
幼いころの蓮にとって、小汚く人疎らな特居こそが世界であり、そこですべてが閉じていた。
成長にしたがって行動範囲が広がり、特居中を自らの庭として走り回るようになったある日、とある疑問が生じた。
あの壁の向こうに何があるのだろう?
まず母に聞いてみた。まともな返事はない。次々と新しい酒の瓶を空け、無言のままあおるのみである。
仕方がないので他の者に聞いてみた。三人ほどに母と同様の視線を浴びせられた後、四人目の老人がようやく口を開いた。
「本当の世界だよ」
「ほんとうの?」
「そう、あの向こうには、飢えもないし病もないし、人の心もここほど荒んじゃいない。この世の苦しみがからっきし消えた、まさに本当の世界だよ」
老人は独り言を言うように語りかけた。
「僕たちはほんとうじゃないの?」
「そうだよ。私たちは、偽物の世界で生きている。生かされている。本当の世界で生きることは許されてないんだよ」
「なんで許されないの?」
「…私たちは偽物だから、なんじゃないかい」
老人はそう言ったきり、何も言わなくなった。
この老人は、欲望と事実を取り違えている。蓮はそう感じた。
自分の置かれた醜悪な環境がこの世の全てであってほしくない、どこかに桃源郷が存在してほしいという、宗教的と言ってもいいような幻想を壁の向こうの未知の世界に託しているのだ。蓮にもその願望は理解できたし、そんな答えを暗に期待もしていた。だからそれ以上老人を詰問することはなかった。
結局、蓮は壁の外がどうなっているかを知ることはできなかった。分かったのは、そんなことを知っても自分たちにはどうしようもないという、元も子もない事実だけであった。
ある日、蓮の妹が生まれた。父親が同じかどうかは分からない。ただ蓮の母親から生まれた子なのだから妹と呼んでよいであろう。蓮はその子を妙と名付け、その世話を一身に背負った。母はというと妙の世話のすべてを蓮に託し、懐妊前の自堕落な生活に戻っていた。
妙はおとなしく手のかからない赤ん坊だった。泣くよりも笑うことが多く、兄の姿を見るたびに庇護欲を掻き立てるあの無邪気で本能的な笑顔を見せた。小指を押し付けると、その小さな手のどこにそんな力を秘めていたのかと問い詰めたくなるほど強く握り返す。そんな妙の一挙一動が新鮮で、狂おしかった。
妙がようやく二つの足で歩けるようになったころ、蓮が売られることになった。だいぶ高値が付いたらしい。あなたが器量よしでよかったねと母は喜んだ。売って得た金は妙の養育に充てると言った母の後ろには、見たことのない種類の酒の空瓶がいくつも転がっていた。
本当の世界。偽物の自分たち。蓮の頭にかつての老人の言葉がよぎる。
その夜、蓮は母の目を盗んで妙を持ち去り、家と称するにはあまりに乏しいあばら屋を飛び出した。行き先は巨木広場である。
本来、壁の中と外の往来は出入り門で行われるが、あそこを通るには管理局の人間に通行許可願いという名の賄賂を渡す必要がある。当時の蓮にはそんなことは不可能だったし、第一この時間では門はとっくに閉まっている。
そこで目を付けたのが、壁際の巨木広場にそびえる、壁の高さを優に超える巨木である。あの枝まで上がれば壁を超えることもできるのではないか。そう考えた蓮は、かつてそこから脱出する方法を考え、準備をしたことがあった…あの時は実践に移す勇気が出せずに頓挫してしまったが、今回は違う。
蓮は木の根元のあたりを探しだした。なにが楽しいのか、背中の妙がキャッキャッと騒いでいる。まわりの住人に聞こえはしないかとひやひやするが、境界付近の人口密度は特居のなかでも低い。気づかれる心配はないだろう。もし気づかれたとて、他人に無関心な彼らはわざわざ邪魔などしないだろう。
見つけた。前回隠したところより微妙にずれた場所に無造作に置かれている。おおかた他の子どもに見つかり、好奇心のままもてあそばれた後ここに返されたのだろう。ちゃんと箱の中にすべての付属品を返しているあたり変に律儀なやつである。箱の中からその機械を取り出す。見た感じでは動作に問題なさそうだ。
それが軍事用ヒューマノイドに付属されていた射出機構の横流し品だと知ったのは後々のことであり、当時の蓮はただのよくできたおもちゃぐらいに捉えていた。その射出機構にちょっとした改良を加えたこの銃に、同じく箱の中に収納された自作の鉤縄の縄を通して鉤の部分を銃口にセットする。
どこから撃つのがいいだろうか?…辺りを見渡し、広場近くの廃屋に目をつける。蓮は妙とともにこの廃屋に侵入し、巨木に面する窓に銃を設置した。妙を廃屋の朽ちたベッドの上にゆったりとおろし、銃の向きを整える。狙いは巨木の、壁より上に生える枝の根元である。
一度目、失敗。
二度目、ニアミス。
三度目、手応えあり。だが強度に不安が残る。
自分一人ならともかく、日に日に体重が増えている妙をおぶった状態ではいつ鉤が外れるとも知れない。相変わらず楽しそうにはしゃぐ妙をとりあえずその場に放置し、一人で巨木に向かった。
縄を伝い枝の上まで到達した蓮は、鉤を枝から引き抜き縄を手繰って枝にねじ結びを施した。もう一本、壁の外に出るための縄をぶら下げ、同様にねじ結びする。これなら大丈夫だろう…そう安堵した蓮は、ふと顔を上げた。
朝日の輝く、広大な地平線。
淡く赤い光が柔らかく照らす、区切りのない、終わりのない地上。
涙が頬をすっと流れるのを感じた。
慌てて涙を拭いて妙を置いた廃屋に戻ると、兄貴がいなくて退屈していたのか呑気に寝息を立てていた。起こさないようそっと抱き寄せ、縄を伝って木を登る。腕の筋肉はもうとっくに悲鳴を上げているが、そんなことにかまっている暇はない。なんとか無事に壁を乗り越えた蓮は、どこへともなく走り出した。
どこでもいい。ただ、妙が幸せに生きられる世界を目指して。
そして日もすっかり上がったころ、蓮は森の中であの女…牧野里見に出会った。のちに聞いた話だが、里見はこの時すでに特居で行われている研究や管理局の癒着に目をつけていて、その探りを入れていたらしい。
蓮はこの通りすがりの女性に妙を差し出した。
自分のことはどうなっても構わない。いや、自分の命を代償にしていい。だからこの子を…妙を幸せにしてやってほしい。壁の外の、『本当の世界』で生かしてやってほしい。蓮はそう彼女に訴えた。
彼女は困惑するでも、嘲笑するでもなく、こう言った。
「いいけど、今のあなたじゃ安すぎるわね」
そして蓮の顔をしげしげ覗き込み、なにかを決心したのか、すくっと立ち上がった。
「ついてきなさい、あなたを女の子にしてあげるから…命を払うのは、まだ早いわ」
* * *
「…今がその時なんですね」
蓮は襟の小型トランシーバーに問いかけた。もちろん応答はない。目の前ではガスを吸い込んだ人々が幸せそうな顔を浮かべながら倒れている。本人たちは天国、はたから見ればとんだ地獄絵図である。
蓮は目を閉じた。
(ごめんな妙ちゃん。埋め合わせ、できそうにないや)
第十二話
「やっぱりお前、馬鹿なんだな」
コウスケがやっとこひねり出したのは、そんな凡庸で内容の無い一言であった。ちがう、自分が言いたいのはこんなことではないはずだ。
「ま、そうかもね」
鳴海はただ肯定した。コウスケはそれになんと返せばいいのかわからない。
沈黙。
寝具から腰を上げたコウスケは、上着といつもの荷物袋に手をかけ、外に出ようとする。
「どこ行くの?」
「塔の方に行ってみる。人を集める場所に心当たりがあるからな」
コウスケは鳴海を全く見ずに答えた。鳴海がどんな表情なのかは分からない。
「助けるつもりなの…?」
「一生に一度くらい、あいつらに恩を着せてやりたいだけだ。それにこのままここで黙って潰されるのを待ってるだけじゃ気が収まらないからな」
「あっ、ちょっ待って」
鳴海は椅子か立ち上がった…が、
「いっ」
また椅子に倒れこんだ。振り返ると、右足ふとももの痣をさする鳴海の姿。
「どっかでやっちゃったのかな…?必死だったから気づかなった…」
そう言ってたはは、と笑う鳴海。コウスケはまた目をそらした。
「お前はそこにいな。で、誰か来たら自分は誘拐されました、助けて下さい、って言えば、まあなんとかなるだろ」
「えっ、でも…」
「でも、なんだよ」
コウスケが睨むと、今度は鳴海が目をそらす。
「いや、なんでもない…」
「賢明だな。お前がいても足手まといだ」
「う…」
悔しがる鳴海の声を尻目にコウスケはそのまま部屋を出、工場から外へ出た。
『会いたかったから。元気な顔を見たかったから。元気な声を聞きたかったから…』
頭の中に鳴海の声が響く。うるさい。耳障りだ。なぜこうも人の心をかき乱すのか。立ち止まり、来た道を振り返る。戻るわけにはいかない。そう思い、先を急ごうとした矢先である。がしゃらんと鈍い衝突音が響いた。音源は今しがた後にした工場のようだ。いそいで戻ると、鳴海が手をついて倒れていた。
「いたた…」
「…何やってんだお前」
「あ、いや、どっかぶつかっちゃって」
愛想笑いでごまかす鳴海。
「そういうことじゃなくてだな…なんで動いているのかと聞いている」
「いや、だってさ、やっぱり、何もしないんじゃこっちも気が収まらないから」
開き直ったように言う鳴海。
「本当は、外に出てコウスケがいないのを見て、それで諦めたかったんだけどね」
そう言って目を伏せた鳴海にコウスケが背中を差し出す。
「ほら、乗れ」
「えっ…」
「よく考えたらこんなところに一人にする方が危ない」
「いや、でも、荷物になるんじゃ…」
「そんな足でノロノロついてこられる方がよっぽど荷物だ」
それなら置いて行けばいいのでは?わざわざ連れていく必要はないのでは?鳴海が無言でそう問いかけている気がするが、それを確かめる勇気はない。
「う、うん、わかった」
鳴海は特に反論もせずコウスケの言うことにしたがった。
* * *
入り組んだ裏路地の建物の間から、朝の陽ざしを浴びた威容の巨塔が垣間見える。
「近づいてみるとほんとにおっきい塔だよね」
背中の鳴海が見上げる。
「今となってはただの独活の大木だがな、昔はそれなりに機能を持っていたらしい。どんな機能か詳しくは知らんが、あの塔が特居の中心だったのは間違いない」
「もしかして、いまでも緊急避難場所的な役割ある?」
「そうだな。あそこにはでっかい地下空間があって、そのうちの一室が地震の時なんかの避難先になっている。おそらくサエたちもそこにいるだろう。とりあえず塔の近くまでたどり着きたいが…」
瞬間、人工的なモーター音が響き、また消えた。複雑に入り組んだ建物の壁で反響して、一瞬だけコウスケたちのもとまで届いたのだろう。歩みを止める。
「この音、ヒューマノイドだよね。少し古いタイプの」
鳴海が耳打ちした。くすぐったい。
「集まらなかった人間を探しているんだろう。まずいな」
コウスケは苦い顔をするが、
「いや、それは違うと思うなぁ」
鳴海がコウスケの説を否定した。
「なぜそんなこと分かる」
「いやだって、あの音は安全のためにわざとつけられてるやつだよ?人探しのときは切ると思うけど。たぶん運搬とかのためなんじゃない?」
コウスケは自分の耳が熱くなっているのに気づいた。早とちりで無駄に警戒した自分が恥ずかしい。
「まあでも、近くに誰かいるだろうから、その人に見つかったら大変だよね」
コウスケの羞恥に気づいたのか鳴海は必死にフォローを入れた。
「…あれ、てことは、どっちみち隠れなきゃまずくない?」
鳴海がそんな今更なことに気づいたそのとき、背後から高圧的な大声が聞こえた。
「おい、何してる!」
ばれたか。そう思い振り返るが人の姿はない。いやよく見ると曲がり角で何やら少女の姿がちらちらと見え隠れしている。見たことのない娘だ。年は鳴海と同じくらいだろうか。右腕を死角にいる誰かに掴まれているらしく、それを振りほどこうと躍起になっている。
「あれ…?たーちゃん…??」
鳴海の一言により、コウスケは事態がよりややこしくなっていることを確信した。
第十三話
鳴海は動揺していた。
「知り合いなのか?」
「う、うん…でもなんで…」
コウスケの質問にどもる鳴海。これまで胸の奥底に押し込められていたものがぶり返される。
「考えてもしょうがない」
コウスケは鳴海を肩から降ろし、その場に落ちていた鉄パイプを手渡した。
「どっか隠れてろ」
コウスケはそう言って妙のいる方向とは逆の方向に足を踏み出した。
「え、ちょ、置いてくの?」
「んなわけあるか。すぐ戻る」
そしてコウスケはそそくさとその場を離れていってしまった。
「隠れろ、って言われてもな…」
鳴海は未だ抵抗を続ける妙を見た。目と目が合う。その時、警報音が鳴り響いた。先ほどのヒューマノイドによるものであろうか。壁に反響して幾重にも重なって聞こえる。
一瞬の虚をつかれた追っ手の手が緩んだ。それを見逃さなかった妙は即座に手を振り払い、鳴海から見て右の角に逃げ出した。追っ手は妙よりも警報の方を優先したらしく、走ってもと来た道を引き返した。
「知り合いはどうした」
「うわっ」
コウスケはいつの間にか背後に舞い戻っていた。
「あのちーちゃんだかたーちゃんだとかいうやつだよ」
「えっと…あそこの角を右に逃げたみたいだけど…それとたーちゃんね」
「よし、追うぞ」
コウスケは鳴海に背中を差し出した。背負ったまま追いかけるらしい。
「え…重くない?」
「いや、これで十分追いつける」
「は、はあ」
こいつの体力はどうなっているのだろうか…訝しみながら背中に乗る鳴海をよそに、コウスケは走りの構えをとった。
「よくつかまってろ」
鳴海はコウスケの肩を鷲掴みにした。今更ながらにコウスケの肩の硬さ、大きさを実感する。
「いくぞ」
コウスケが走り出した。
心音。
自分のものかも、彼のものかも分からない心臓の音が体で響く。このまま妙が見つからなければいい…そんな考えが頭をよぎり、自身の身勝手さに恐怖した。
なにやら見覚えのある景色が見えてきたあたりで、コウスケの走りが止まった。肩から前を見ると妙が覚悟を決めたように立ち尽くしていた。鳴海の方に視線を合わせようとはしない。鳴海も妙の目をまともに見る勇気が無かった。
コウスケは肩の鳴海を下ろした。鳴海はうつむいたままである。
「あんた、こいつを追い掛けてきたのか?」
妙がコウスケの問いかけに答える様子はない。コウスケは鳴海を見た。鳴海も無言を貫く。
コウスケは参ったように頭を掻いたが、何かに気づいたのか、すぐにその手を下した。
「いたのかよ」
コウスケの視線の先を見ると、前に消毒液や包帯を購入した店の老人がこちら眺めていた。横には見覚えのある古ぼけた店が見える。妙を追いかけるうち、いつしかの商店区画に来てしまっていたようだ。
「いやなに、朝っぱらから何をしてるのかと思っての」
老人は口ひげをいじりながら愉快そうに答えた。
「これには、その、いろいろあって…」
コウスケが説明しようとするが、老人はそれを遮った。
「ちょっと待て。その娘、怪我してるんじゃないか?」
老店主は店のドアを開け、招き入れるしぐさをした。
* * *
「よーし、これで気休め程度にはなるじゃろうて」
老店主はテープで固定した鳴海の足の患部を満足そうに眺めた。
「金はないぞ」
コウスケは間髪いれずに言った。
「どうせ今日で閉店。お代も何もないよ」
コウスケと鳴海が目を合わせる。
「もしかして…知ってたんですか?ここが壊されるって」
「年寄りを甘く見ちゃいけんよ嬢ちゃん。あいつらが何を隠してたかぐらいはお見通し、とな」
老店主はそう言うとコウスケの方を見て
「むしろお前さんは何も勘付いてなかったのか?珍しいなぁ…」
コウスケは店主の質問には答えなかった。かわりに質問で返した。
「なぜそうと分かっていて逃げなかった?あんたなら通商許可証で他の特居に逃げられたはずだろ。この店ごと」
「それぐらい勝手にさせてくれ」
「ああそうかよ」
コウスケと店主はそれっきり黙ってしまった。鳴海にはどうすればいいのかは分からない。
「…もしかして、あそこの方ですか」
沈黙を破ったのは妙であった。鳴海とコウスケが一斉に妙をみる。
妙の目の先には、一枚の写真が額縁に納められていた。すっかり風化してしまっているが、そこに写っているのは紛れもなく人の、女性の顏であった。
老店主は写真を手に取り懐かしそうに笑うと、それをポケットに忍ばせた。
「あんたら外の人たちにはアホみたいなことだろうね」
「そうですかね」
うつむきながそう言った妙の声は静かだが、確かな意思をもっていた。
「それを言ったら、ここにいる私たちはみんな理にかなっていませんよ。みんながみんな非合理です。もし自分がしたこと、その理由を他の人に話しても、返ってくるのは冷ややかな白い目だけでしょうね」
妙は顔を上げた。
「でも、だからって、それを軽んじたり、ないがしろにすることは…私にはできません」
妙の目線が鳴海に向かう。数時間ぶりに目と目が合う。
「たーちゃん…」
鳴海はただそう呟くしかなかった。
第十四話
店の中に崩落音が轟いた。コウスケは窓から外を眺めた。この方角は壁の方であろう。
「お、ついに始まったか。派手にやるもんだねえ」
店のおやじの声は余裕そのものだ。
「…おやじはここから動かないつもりなのか?」
「そうだねえ」
そう言って呑気に煙草に火をつけている。
「ああそうかよ」
コウスケはおやじから目を背け、鳴海の知り合いだという少女の方を向いた。
「ところであんた」
「妙です。細川妙」
「そうか…妙はこの先、どうするつもりだ?鳴海を連れ戻しに来たんだろうが」
またしても崩落音が遠くから鳴り響く。
「…この分じゃもう手遅れだろう」
妙はしばらく黙ったあと、意を決したように立ち上がった。
「…私も塔へ行きます。どうしても確かめたいこともありますし」
二人の様子を固唾を飲むような面持ちで眺めていた鳴海も、つられるように立ち上がる。
「私も…私も知りたい。知らないといけないと思う」
例の廃人がどうこうという話は、この細川妙という女も知っていることなのか?しかし『知らないといけない』とは…?
「なんだあんたら、塔に行くのかい」
おやじが話に入ってくる。
「ああそうだよ。女連中に会って文句の一つでも言わねえと気が済まないからな」
コウスケはあえて自分たちの知る情報を隠匿した。
「それに奴らに頼めばなんとかして外に出れるかもしれないしな…何もせずにくたばるよりマシだ」
「そうかいそうかい」
おやじは動じない。このおやじには嘘が通じたためしがない。
「お、そうだそうだ。塔に行くならあれを持っていきなされ」
おやじはそう言って店の奥に引っ込むと、右手にカードのようなものを携えて戻ってきた。
「…それは?」
「おそらく、塔の中に入るための鍵だよ」
コウスケは怪訝な顔をした。
「前にここに来た客にうちの注射器欲しさにこのカードを手放した阿呆がいてな…まあ確かに他の者と一緒に行くなら必要ないだろうが」
「そうか。…まあ、受け取っておこう」
コウスケはそう言っておやじの手からカードキーを受け取り、
「そんじゃ行くぞ」
鳴海と妙に合図を送るような体で声を上げた。
コウスケは玄関へと向かった。扉を開け、おやじの方を振り返る。おやじはたばこをゆっくりと、深く味わうように堪能している。
「…なあ」
「どうした。行かんのか?」
「いや」
コウスケはおやじから目をそらし、扉の外へ向き直した。
「これまで、ありがとな」
「お互いさまじゃて」
コウスケそれ以上振り返らなかった。
* * *
商店区画を抜け、先を急ぐ一行。
「よかったんですか、あんなので」
妙の一言は、コウスケの心に鈍く響いた。間を持たせるため背中の鳴海の位置を直す。
「しょうがないだろ。どうしようと本人の勝手だ。それに…」
コウスケは鳴海を見た。
「どっちみち塔に行ってもどうしようもないんだろ?」
鳴海は複雑な顔をして頷いた。
「…なるちゃん、この人にどこまで言った?」
鳴海はコウスケに話したことをありのまま話した。やはり妙も都知事の廃人計画とやらを知っているようだ。鳴海が話終わったあとで、コウスケはこの二人に今更な質問を投げがけた。
「あんたら、なんでこんなことを知っているんだ」
「それは…」
鳴海が渋っていると、妙が代わりに答えた。
「都知事とその第一秘書の会話を盗み聞きしたからです」
「盗み聞き?どうやって?そんな簡単にできることじゃないだろ?」
「できるんですよ。私はその秘書の妹ですし、それに…」
妙は鳴海に目配せした。許可を求めたのだろうか。
「なるちゃんは都知事の娘ですからね」
「ほー」
コウスケは反射的に返事した直後、
「えっ!?」
自分でも大きすぎると自覚できるほどの驚愕の声を上げた。
「ごめんね…言う機会がなくて」
背中の鳴海が詫びを入れる。
「いやそれはいいんだが…そんな大層な身分なのに、その…」
「身分、か…」
鳴海が消え入るようにつぶやく。これまで言わなかった理由は、おそらく機会の問題ではない。コウスケはそれを察した。
二人の沈黙をわざと破るように妙が声を上げた。
「姉は昨日の晩、どうしても仕事で帰れないと言っていました。おそらくさっき言った計画に参加するためです…だけど…」
妙の語尾が下がる。
「だけど…なんだ?」
コウスケの質問に妙はいったん首を振ったが、やはり話すべきだと判断したのか深刻そうな顔で答えた。
「さっき見たんですよ。姉の業務用ヒューマノイドを、別の人が使っているのを」
「えっ?!」
鳴海がいち早く反応した。
「本当?」
妙がコクリと頷く。
「ほら、昨日都庁で会った、あの職員の人。だからつい声上げて、その人に気づかれちゃった…おかげでなるちゃんにも見つかっちゃったけど」
「そっか…」
鳴海は神妙な顔をするが、コウスケには何のことやらわからない。
「単純に貸し出してるだけじゃないのか?」
コウスケの質問に鳴海がすかさず答えた。
「それはないよ…運搬とか業務用の大きいヒューマノは登録した本人でしか起動できないもん」
「本人の国民カードを使わないと、ね」
妙が補足した。
「よくわからんが…その国民カードとやらを盗まれたのか?」
「それもありえません。国民カードは本人の体から50センチ以上離れると使えなくなります」
「じゃあなぜ…?」
「わかりません。ただ、なんだかすごく嫌な予感が…」
妙が弱弱しくいうと、鳴海が慌てて、
「ほ、ほら、たまたま似たようなやつだっただけかもしれないし、ね?」
と励ました。
おそらく彼女が見たヒューマノイドはコウスケが見たものと同じだろう。たしかにいかにも行政府の専門機のような独特ななりはしていたが、最新のヒューマノイド事情に疎いコウスケにはそれが量産されている型なのかどうかは判別がつかなかった。
「どうしたの?」
鳴海がコウスケに聞く。
「いや、さっきそのヒューマノイドを見たことを思い出してな」
「えっ?いつのまに?」
鳴海は時々察しが悪い。
「…もしかしてあの警報はあなたの仕業だったんですか」
妙はいかにも有難迷惑といった顔になり、
「わざわざありがとうございました」
と頭を下げた。
「あ、いや、まさかパチンコ玉打ち込んだだけで壊れるとは知らなくて。最近のはもろいんだな」
「壊したんですか?」
妙は感情を殺した声で聞いた。
「…まずかったか?」
「いえ…姉のもののはずがありませんよね…」
妙は言い聞かせるようにつぶやいた。
第十五話
しばしの沈黙のあと、コウスケが口を開いた。
「そういえばいま思い出したが…あのヒューマノイド、なんだがよくわからんものを運んでたな…」
「大型の無線受電機ですね」
「えっ?」
コウスケより先に、鳴海が驚きの声を上げた。
「そんなの内戦時ならともかく、今時めったにお目にかかれるものじゃないよ?」
自分も見たかったのにずるい!とでも言いたそうな口ぶりである。
「なんなんだそれは」
「無線送電機から出された電波から電力を取り出す装置だよ。映画でしか見たことないけどまだ存在するんだね!?」
コウスケの質問に早口で答える鳴海。
「遠くから飛ばされた電気を受け取る機械ということか?」
「まあだいたいはそんな感じ」
なるほどここの特居の電力は不安定だ。塔の設備を利用するには心もとなかったのだろう。
「それが撤去されていたということは…おまえらの言う廃人計画はもうすでに終わっているのかもな」
コウスケがそういうと、二人は険しい顔のまままた何も言わなくなっていった。二人はおそらく少しは期待していたのだろう。自分たちの聞いたことが勘違いだと。
「あくまで状況証拠だ」
コウスケが励ましに言っても、二人の反応はなかった。
* * *
「静かだな」
しばらく歩いてからコウスケがつぶやいた。
「あ、ごめんね。黙り込んじゃって」
「いや、そうじゃなくてだな…ここ、妙が捕まっていたところだろ?」
鳴海は辺りを見渡し、あ、たしかに、とつぶやいた。
「俺があのヒューマノイドをぶっ壊したからてっきり応援要請されているものと思っていたが…人の気配がまるでない。もうすぐ塔に着くのにな」
「要請ができないんじゃないかな」
「どういうことだ?」
「ここにある電波塔はあの塔だけだから、電気がないと通信したくてもできないんだよ。ヒューマノイド無しで受電機を運ぶのは無理だろうし」
「…じゃあなんであの女の気配までしないんだ。正直ここをただで通れるとは思ってなかったぞ」
鳴海も妙もうなるだけで返事をしない。
「気になるな…あのヒューマノイドがいたところに戻ってみよう。あんたらはここで待っててくれ」
「あ、ちょっと!」
鳴海の静止の声を振りきり、ヒューマノイドのあった場所へと急ぐコウスケ。しかしそこには、女も、ヒューマノイドもいなかった。
「修理したのか…?」
その時である。突然の爆音が耳をつんざいた。爆風がそれに続いて迫りくる。幸いにしてその方角は鳴海たちがいる方向とは逆である。コウスケはいったん引き返すことにした。
(何がどうなってんだよ…!)
* * *
(なぜ細川のやつの妹がこんなことにいるんだよ)
塔の中の一室、通信室にて、瀬野順子は憤慨していた。いや、他人の空似かもしれない。実際よくある特徴のない顔だ。はっきりと見えたわけではない。しかし彼女が受けた報告では、ここの住人は全て隔離され、「実行」されたはずだ。なぜ住人に生き残りがいる?おまけに別の誰かにヒューマノイドもやられてしまった。確かにこのヒューマノイドは計画の後に隠滅する予定であるが、いまここで失くすわけにはいかない。
幸いだったのは、このヒューマノイドのセルフメンテナンス機能により比較的早く正常に動作するようになったことだろう。悔しいが前の持ち主の良改造のおかげである。
ヒューマノイド回復後、彼女はこれを使い塔の上層まで受電機を運び、電源へと接続した。塔全体に電力が行き渡るようになるまで受電するにはかなり時間がかかる。
(全く非効率な施設だな。さすが前時代の遺物だ)
いまこうしている間にも曲者が何をするのか分からない。無論、塔内に侵入するにはカードが必要なのでそちらの心配はないはずだが、早めに対処する必要があるのは間違いない。とりあえず都知事への報告が最優先だ。
(それにしてもこんな思わぬ形で夢が叶うとはね)
つい昨日、あの二人…牧野知事の娘と細川秘書の妹を用いた盗聴に失敗した彼女は、都庁から逃げるように去る二人の後をつけ、彼女たちの会話を盗み聞いた。
全容は分からぬが、やはりこんどの特居解体に関してなにか隠されていることがある。その直感は、かつてなく思いつめた顔で出かける細川秘書の姿を見たとき確信に変わった。彼女は前もって入手しておいた都知事のプライベート番号で直接コンタクトし、あなた方の秘密を知っています、まだ誰も知りませんがこの情報をどうするかは私次第ですね、とハッタリをかました。一世一代の賭けである。
その結果は意外なものだった
知事の執務室への入室を認められ、ペラペラと廃人計画について話されただけではない。細川の処分を頼まれたのである。細川の後任を任せるという褒賞付きで。
彼女はこれを快諾した。それこそまさに彼女の欲しかったものだからだ。
(あいつを疎ましく思っていたのは私だけじゃなかったのか…まさかここまで早く野望が叶う日が来ようとは!)
これまで微弱に点滅するだけだった通信室内の照明に確かな光が灯り、緑のランプが点灯した。通信可能の合図である。
早速、事前に伝えられていた都知事への秘匿コードを打ち込む。数秒後、都知事が通信に応じた。
「どうかしたの?」
「住人がまだ残っています。おそらく反乱分子です。一人には逃げられてしまって…ヒューマノイドも襲われました。申し訳ございません」
「人数は?」
「最低でも二人はいます。逃げられた方は女です。場所は中央塔の麓」
「わかったわ…応援を呼びましょう」
「ありがとうございます」
通信を切ろうとしたが…やはりあのことも言うべきであろう。
「あの…」
「ほかに何かあるのかしら」
「いえ…さきほど申し上げた逃げられた方の女なんですが、どうも細川女史の妹にそっくりなような気がするんです」
「そうなの?不思議なこともあるものね」
「…本当にただの空似ならいいんですが」
昨晩、廃人計画を知った所以が鳴海と妙であることを伝えたとき、都知事はいったん驚きのような、悲しみのような珍しい表情を見せた。ところがすぐにいつもの淡々とした顔に戻り『そうなの』とだけ答えた。彼女の中ではこの事実はそこまで重要なものではなかったようだ。だがしかし、もし彼女たちが特居に侵入していたとしたら?
「まあどちらにせよその反乱者たちをそのまま放ってはおけないわね。一応ヒューマノイドと一緒に外で見回りして、しばらくしたらまた連絡をちょうだい…そうね、六時半ぐらいでいいかしら」
「わかりました。では後ほど」
「さようなら」
彼女は通信を切り、ヒューマノイドとともに塔の外へと繰り出し、曲者の捜索にあたった。
腕時計が六時を過ぎたころ、ヒューマノイドから不審な音が聞こえた。
(おや、まだ完全に治ってなかったのか?)
彼女は音の発信源である操作パネル付近を覗き込んだ。
それが彼女の見た最期の光景であった。
第十六話
「また何かしたの!?」
コウスケが戻って来るや否や、鳴海が叫んだ。
「違う、今度は俺じゃない!…それにあの場所には誰も何も残っちゃいなかった」
「…ってことはまさか、あの爆発って…」
「…さっきの女が俺たちに気づいたのかもな」
固唾をのむ鳴海とコウスケ。
「でも、その割に全然狙ってこないね」
「確かに変だな…様子を見に行こう」
コウスケがまた一人で行こうとすると、鳴海が袖を引っ張った。
「待ってよ。集団で行動した方がいいでしょ?ね?」
鳴海は必死だった。置いて行かれるのがそんなに怖いのだろうか。仕方がないので鳴海、妙とともに様子を見に行くことにした。
凄惨な現場であった。崩壊し、煙を上げるヒューマノイドに、全身を黒こげにした人の形が寄りかかっている。ヒューマノイドはコウスケと妙が目撃したものと同一だと思われるが、この惨事は明らかにコウスケのパチンコ玉によるものではない。人工的な爆弾…それもだいぶ古典的なものだ。
横で妙が目を覆いながら崩れた。鳴海はコウスケの背中から降り、妙の背中をさすりに行く。
コウスケは焼死体へ近寄った。残念ながらその顔は確認できない。背中にはショルダーバッグが背負われている。中を開けると、出てきたのは呼吸器であった。
(いったい何のために…ここの空気が悪いのを警戒したのか?)
コウスケは呼吸器を自分の荷物袋にしまった。
次にカバンのサイドポケットをまさぐると、カードケースが現れた。裏に東京都庁の文字が見える。
(もしこの女が「計画」を知っていたから殺されたのだとしたら…)
コウスケは自分が相手しようとしている者の恐ろしさを知った。
他に情報は無いかとカードケースをまじまじと眺めていると、。
「名前、なんて書いてありますか」
意外にもはやく立ち直っていた妙が聞いてきた。
コウスケはカードケースから一枚のカードを取り出し、そこに記された名を読み上げた。
「瀬野順子、だな」
妙は安堵の表情を浮かべた。姉でないと分かったからだろう。
「…塔の中に、急ぎましょう。例の場所の見当はついているんですよね?」
妙の声は冷静であった。不気味さを感じたのはコウスケだけではないはずだ。
* * *
塔の入り口の横には確かに、カードキーをかざすためのパネルが備え付けられていた。少し前までは無かったものだ。今回の計画のために設置されたのだろう。薬屋のおやじから渡されたカードキーをコウスケの荷物袋から取り出した鳴海がそれをかざすと、荘厳で重々しい扉はあっさりと開いた。
塔の中は冷気と静寂に包まれていた。壁の鉄筋はむき出しになっており、かつてまっさらな白色を誇ったであろう壁紙も黒くくすんでいる。照明はついているがやはり薄暗い。
迷路のように入り組んだ通路を奥へと突き進むと、明らかに最近設置されたばかりのものと分かる場違いな鉄格子が行く手を阻んだ。前にここに来たときはここから地下に降りたのだが…やはり住民たちが集められているのはここの地下に間違いない。
鉄格子の横には例のごとくカードキー用のパネルがある。薬屋のおやじのカードで試してみるもうまくいかない。
「あ、そうだ」
鳴海は荷物袋から瀬野のカードケースを取り出すと、そこから真っ黒なカードを取り出した。それをかざすと鉄格子がゆっくり重々しく開く。
(いよいよもって核心に来た感じだな…)
もともとこの塔は、放射能汚染環境汚染等により地上での人類生存が困難になった場合に備えた地下都市設営計画に伴い、地下都市間の通信を目的として建設された。結局地下都市計画は地下に空間を作る途中で予算に問題が起こり事実上の中止となっていたが、特別居住区を設立するにあたってこの通信塔を管理塔として流用することになった。それが今の中央管理塔である。それゆえ地下には未開発の空間が広大に広がっており、さながら人工の地下洞窟と化している。
こつん。こつん。進むたび、足音が響く。
「ね、ねえ、たーちゃん」
鳴海の声が何重にも共鳴する。
「なに?」
「…蓮さん、無事だといいね」
「大丈夫だよ。私、信じてるもん。絶対に、絶対に生きてるって」
もしそうでなかったら?彼女は、そして鳴海は精神を保っていられるだろうか?
「もうすぐで着くと思うが…」
コウスケは背中の鳴海を降ろし、
「俺が先に行く」
「そんな!」
「お願いだ」
情けない声を上げる鳴海を小声で諭す。
「妙と一緒にいてやれ」
鳴海はその意図をくみ取ったのか、わかった、とだけつぶやいた。
「ちょっと待ってください!」
妙の声が響き渡る。
「あたしも行きます!お姉ちゃんに会わせてください!」
コウスケは首を振る。
「何でですか!」
「さっきのを見ただろう。あれが姉でも、お前はほんとに耐えられるのか」
「それぐらいの覚悟はできてま…」
「覚悟ってのはな」
妙が言い終わらないうちに、コウスケの怒号が響いた。
「覚悟ってのは、それ相応の経験をしたことがあるやつだけができんだよ。お前らには出来ねえよ。外の世界で、何不自由なく平和に、健やかに過ごしてきたお前らに」
鳴海が右腕のもとに左手を添えた。声を荒げたコウスケに対する無意識の防衛反応だろうか。
妙もそんなコウスケに気圧されたのか、しばらく黙った後、
「…分かりました。ここで待っています。でもお姉ちゃんを見つけたら、すぐに戻ってきてください」
「もちろんだ。それともし俺が戻ってこなかったらすぐに逃げろ、いいな」
コウスケは二人の返事を待たずその場を後にした。
* * *
そこは、部屋というより、大きな穴だったはずだ。少なくとも前に来た時はそうであった。ところが今は入り口に鉄扉が聳え立ち、さながら封印の間の貫録を見せている。横を見てもパネルのようなものは見当たらない。
(ここから入るのは無理か…?)
そう思い廊下の壁に寄りかかると、腰の当たる部分に少し違和感がある。もしやと思いその部分を親指で強く、これでもかというほど長く押し続けた。
鈍い音が聞こえた。ただし音源は目の前の鉄扉ではない。コウスケは音のした方角へと急いだ。そこには人ひとりがちょうど入れるぐらいの暗い穴がぽっかりと空いていた。隠し通路だろう。
しかしこんなあっさり見つかるものだろうか…?
(罠かもな)
しかしこれ以外に道は見つからない。諦めて入るしかなさそうだ。
そこは物置ほどの大きさの小部屋であった。照明はない。中に入ると扉はひとりでに閉じ、コウスケは暗闇に取り残された。手当たり次第に壁を探ると、何かのボタンに触れ、室内が光に包まれた。…と、同時に、何かが噴き出す音が聞こえた。コウスケはとっさに荷物袋から呼吸器を取り出し、装着した。
明りのともった小部屋の一隅を見るとドアがしつらえてあった。これまでの自動扉とは異なり、古典的でコウスケにもなじみのある手動式のドアである。また何が起こるか分からないが、ここで何もしないわけにはいかない。ドアノブに手をかけ、回す。
開かない。
当然だ。ドアノブをよく見るとロック用のつまみが横一文字になっている。これで閂が差されている状態なのだろう。コウスケはつまみを縦にし、ふたたびドアノブを回した。
開いた。
開いたが、何かがつっかえてうまく開かない。なんだろう。コウスケはドアの隙間から障害の正体をみた。
(人間…?)
誰かがドアに寄りかかっているようだ。
(寝てんのか…こいつ…!)
コウスケは力一杯に扉を開いた。扉に寄りかかっていた者は前に倒れ、かつん、という音が大部屋に響いた。見ると、コウスケが今まさにつけているのと同じ呼吸器をはめていた。
コウスケは大部屋の中に視線を移した。見覚えのある部屋だ。前に一度集会に利用した大広間に違いない。ひしめく人々の顔も見覚えのあるものばかりだ。サエの姿も見える。ただし、彼女たちの表情はコウスケの知るものとは決定的に異なっていた。床に寝転がるかつての住人たちの、不気味な笑顔、狂った笑顔。この世のものとは思いたくなかった。
第十七話
かつん。
意識の乏しくなった蓮の頭に衝突音が響き、全身に冷えた床の感触が伝わる。蓮は重い瞼を開けた。あの大部屋だ。どうやらまだ死後の世界には行っていないらしい。
蓮は靄のかかった頭をめいっぱい働かせることでようやく、自分がいま横に倒されたのだということを理解した。
蓮の視界に若い男の姿が入った。口につけているのは…呼吸器だ。なぜ持っているのだろう?
男がこちらに気付いたようだ。近づいて顔を覗き込み、
「あんた、生きてるのか」
と聞いた。生きてる、というのは精神的な意味であろう。蓮は頷いた。
「…細川妙の姉か?」
蓮は目を見張った。そんな蓮の様子から答えを察したのか、男は次の言葉を投げかけた。
「とりあえず、ここから出よう」
そして廃人と化した住人達の姿を横目にこう言った。
「このままじゃ耐えられねぇ」
蓮は目を下に向け、言葉なく頷いた。
蓮は男の肩を借りて大広間から抜け出し、隣の小部屋に移動した。そしてポケットからカードを取り出し、壁に内蔵された挿入口に差し入れた。壁から操作盤が浮かび上がる。そこから換気システムを起動させた。これでこの小部屋の中ならば呼吸器を外せるようになるだろう。しばらく待ってから蓮は呼吸器を外した。
清々しい新鮮な空気が肺に、脳に行き渡る。まさに黄泉から現世へ帰ってきたような感覚である。
男の方を見ると、未だに呼吸器から荒い呼吸音を立てながら、驚きで丸くなって目でこちらの様子を観察している。
「それ、もう外しても大丈夫ですよ」
最後に言葉を発したのはつい数時間前のはずなのに、蓮はこの行為に懐かしさを感じた。
「あ、そうか」
男は蓮に言われた通り呼吸器を外し、床に丁重においた。生真面目なやつだ。それから男は一呼吸置き、
「…俺から事情を行った方がいいだろうな」
と、これまでの大まかな経緯について説明を始めた。にわかには信じられない、信じたくない話の連続だ。だが、彼の様子から嘘をついているとはとても思えなかった。
「それで、鳴海ちゃんと妙の二人とともにここまでたどり着いた、と」
「そうなるな」
そこまで聞いて、蓮はようやくあることに気づいた。
「二人は今どこにいるんですか?」
「ここの外の廊下にいる」
まずい。この部屋に侵入されたときのセキュリティトラップは、複数犯の場合に備えて廊下側にも仕掛けられているのだ。蓮はあわてて呼吸器をつけた。
「あなたもつけてください」
男…コウスケと名乗ったその男にも呼吸器の装着を促すと、操作盤を操作して隠し小部屋の廊下側の扉を開けた。何が何だかわからないという様子であるコウスケをあとにして、蓮は二人のもとへと急いだ。
やはりそうだ。うす暗い廊下で二人仲良く倒れこんでいる。続けてやってきたコウスケはその様子をみて絶句した。
「安心してください、ただの催眠ガスです。…ただ、あまり大量に吸っていいものではありませんね」
蓮はそう言って妙の身体を担ぎ上げた。
「急いで運び出しましょう」
* * *
管理塔上層。
鳴海と妙は休憩室のベッドで寝息を立てている。ここはこの中央管理塔のなかでも抜群に見晴らしがよく、ベッドも上質なものだ。おそらく上流階級かなにかのためにしつらえられた部屋だったのだろう。
蓮は妙のあどけない寝顔を見ながら、彼女と一緒に特居から脱出したあの日のことを思い出した。あの子も随分と重くなったものだ。もしもエレベーターが動かなければこんなところまで運び込むのは難しかっただろう。
「…この塔がここまでハイテクだったとはね」
コウスケが疲労のため息とともにつぶやいた。
「つい最近まで政府の研究機関として極秘に利用されていましたからね。それに私たちも今日に備えていろいろと準備させていただきました」
「…前からあんたもここに出入りしてたのか」
「ええ…あの大部屋のセキュリティーはもっと自由に動けるようになってから強化するつもりだったんですが」
蓮は妙、鳴海、コウスケを順に見回した。
「まさかこんなに早く侵入されるとはね」
「…よく特居のやつらに見つからなかったな」
「見つかってますよ。それどころか協力させていただきました」
コウスケは何かを思い出したようにあっ、と声を上げた。
「あんたどこかで見たと思ったら…いつしか外でサエと交渉してたやつか!」
見られていたのか?しかしそのとき周りには誰もいなかったはず…蓮の不審感に気づいたのか、コウスケは付け足した。
「あの時俺はヒューマノイドの中にいたんでね」
「相変わらずなんでもありですね、ここは…」
思わず口が滑った。
「相変わらず…?」
案の定、コウスケが食いついた。
…やはり、この男には話すべきであろう。そうしなければ、妙を助ける方法はない。
蓮はコウスケに、特居から脱走したあの日のことを話した。もちろん自分が女ではなく男であることも。
「しかし見た目は女だよな…」
コウスケは蓮の体をまじまじと眺めた。
「里見さんからホルモンを投与されていました。子供の頃から」
「そうか…」
そういってじっと見つめていたが、蓮の妙な気恥ずかしさが伝わったのか、肩の荷物袋に顔を移し、蓮にとって見覚えのあるものを取り出した。改造はされているが、間違いない。あの日使った例の射出機構である。
「これ、あんたのか」
「…あなたが回収してたんですか」
「返すよ、もう使い道ないしな。パチンコ打ちに改造したのは許してくれ」
「ありがとうございます」
蓮はそれを強く握りしめ、その感触を懐かしんだ…思えば遠くまで来たものだ。ほんとうに遠くまで。
「お願いです、コウスケさん」
蓮は顔を上げ、懇願した。
「妙を、そして鳴海ちゃんを助けるのを、手伝ってください」
「助ける、か。あいつらは自分の意志でここに来たんだがな」
「そういうことではありません。二人の命がかかっているのです」
第十八話
「…どういうことだ?」
蓮は手元のパチンコ銃を膝に置き、顔を伏せて銃を見つめながら答えた。
「あの時…知事と今回の計画について話していたとき、確かに私は、誰かの気配を感じました。その時は気のせいかと無視したのですが…この特居に到着してからやはり気になりまして、事務報告がてら知事にそのことを伝えたのです。そしたら彼女はこう言いました。その件についてはすでに解決済みだから、あなたはあなたの仕事に集中しなさい、と」
「それって、まさか…」
コウスケの声が裏返る。
「そうです、彼女は知ったんです、二人があの計画を聞いていたことを。そしてコウスケさんの話と、この塔に電力が通っているという事実を総合すると…」
蓮は顔を上げ、コウスケの目を見た。
「妹がここにいること…そしておそらく、鳴海ちゃんが一緒にいることも…彼女に伝わっていると考えていいでしょう。そしてこれから彼女が何をするのか…わかりますね?」
コウスケは固唾を飲んだ。瀬野順子の無残な姿を思い出しているのだろう。
「あなたや私に殺されたことにすればいいだけのことですからね。ためらいはないことでしょう」
コウスケの顔の半分はひきつったまま、もう半分の表情が緩んだ。
「で、でもさすがに…」
「やりますよ、あの人なら」
間髪入れずに蓮は断言した。コウスケの顔はまた強張る。
「実の娘だろ…?その親友だろ…?」
「関係ありませんよ、あの人にとっては」
蓮はベッドで幸せな寝息を立てる妙と鳴海の二人を見た。コウスケもそれに続く。
「むしろ、民衆の同情を誘う餌として娘の犠牲を利用することすらあり得ますね」
「そいつ、母親なのか…本当に?」
「母親なんてものは存在しませんよ。あるのは二人の親です」
「でも親だろうが!?」
コウスケの興奮した声が轟く。肩が震えているのが分かる。
「あなたの親はどうなんですか」
蓮の一言でコウスケが我に返る。
「もしかしてですが…コウスケさんは外の世界を天国か何かだと勘違いしていませんか」
「なっ…」
コウスケは言葉に詰まった。やはりそうだ。彼もまた『本当の世界』の信者だ。
蓮は寝息を立てる鳴海の傍に詰め寄り、その右腕をまくってみせた。
「何をしてるんだ…?」
「よく見てください。ここに真新しい傷跡があるでしょう?」
コウスケが覗き込む。
「…それが何だ?」
「この傷は、彼女が級友から受けたものです。カッターナイフでくっぱりと」
鳴海の右腕をもとに戻す。コウスケは何も言わない。
「外もここと同じですよ。欲望、嫉妬、憎悪。それが当たり前の世界です。同じ人間ですから、当然ですよね。」
コウスケからの反論は無い。
「私も昔はあなたと同じふうに思っていましたけどね」
そうだ、外も中も関係ない。ただ妙と二人でいられれば、妙が笑顔でいてくれれば、それ以上の幸せは無かった。そしてこれからも。
「…しかしそうすると、どうすれば二人は助かるんだ?人質のふりをさせるのも効果がないわけだろ?」
コウスケは妙と鳴海の置かれている危機をようやく理解したようだ。
「そうですね。でもそれは、あくまで私たちと知事しか交渉の場にいない場合です」
「…というと?」
「…使うんですよ、この塔の持っていた本来の機能をね」
蓮はそう言うとやおら立ち上がった。
「そしてもうひとつ、我々には切り札があります」
* * *
コウスケは案内されたのは、広大な地下迷宮の中に厳重に隠されたなんとも不気味な一室であった。見慣れぬ機械や計器や、人が一人すっぽりと入ってしまえるような大きなガラスケースなどが整然と並ぶその研究室は、特居の居住区域や商業区域で見られるようなほの暗く薄汚れた不気味さとは異なり、無機質で機械的で、コウスケにはとてもなじみの薄い不気味さに包まれていた。そこにたどり着くまでには例の大広間などとは比べものにならないほど大量かつ複雑なセキュリティが施されており、その一つ一つが蓮の手によって開錠されるたび、コウスケは言い表しようのない興奮と不安に苛まれた。もし鳴海がこの場にいれば、自分の置かれた立場も忘れて子供のように目をらんらんと輝かせたに違いない。
「ここを作ったのは私たちではありません」
蓮の言葉でコウスケは我に返った。今は感心している場合ではない。
「中央政府が研究を極秘に行うために作ったんです。もっとも今は放置されていますがね」
「なんであんたがそこに入れるんだ?」
「…情報料は安くありませんでしたよ。でも、ここの住人は報酬の多い方につくとても素直な方々ばかりでしたから、そこまで苦労はしませんでした。…あ、これですね」
蓮はそう言って部屋の奥のガラスケースの前で立ち止まると、何やら複雑な手順でそのガラスケースを開け、中から鉄の帽子のようなものを二つ取り出した。
「それが見せたいものか?」
「ええ。これもさっき言った政府の研究の一つの成果でしてね…簡単に言うと、人の記憶を消す装置です」
「…何を言っているんだお前は」
考えるよりも先に口が出た。蓮の言葉にあまりにも現実味がなかったからだ。
「冗談ではありませんよ。もちろんすべての記憶ではなく、過去数ヶ月分くらいの記憶だけですがね…研究報告書によれば、昏睡状態にある人間ならば最低でも三ヶ月分の記憶は完全になくなるそうです。眠らせないと効果がありませんが」
「それを…二人に使うのか?」
「ええ。知事もこの装置のことを知っていますからね」
なるほど確かに奇抜な案だが、蓮のやろうとしていることはだいたい理解した。おそらく今のコウスケたちにできる最善の策はこれしかない。だがコウスケにはただ一つ、どうしても耐えられないことがあった。
「わかった。あんたのやろうとしていることにはおおむね協力するよ。だが少しだけ…少しだけでいい、俺のわがままを許してくれないか」
蓮の顔が曇る。しかし、これを譲るわけにはいかない。
第十九話
さて、どうしたものか。
東京都知事、牧野里見は珍しく決断を鈍らせていた。瀬野順子から報告を受けた例の反乱者についてである。
もしやと思い細川妙の所在を調べると、やはり行方不明である。それだけではない。牧野鳴海…彼女もまた行方をくらませている。二人が特居に侵入し、中央管理塔の近くまで到達している可能性は十分に濃厚である。
(なにもしない、できないと思っていたのに…)
あまりに想定外な事態だ。鳴海は昔から行動力が高く、それゆえ色々と手間をかけされられてきた。だが今回のこれは明らかに常軌を逸している。何が彼女を駆り立てたのだろうか。
(いや、そんなことはどうだっていいわ。問題はどうするか、よ)
答えは分かり切っている。細川妙や瀬野順子のように処分すればいいだけだ。特居の中にいるのだからいともたやすいことだ。あとは二人を手引きしているであろう者を探し出して犯人に仕立て上げればよい。ただそれだけのことだ。このまま放置しては不安材料になってしまう。
しかし、それができない。なぜだ。
娘を失うのが惜しいのか?…なに、後継ぎなどまた別の者に産ませればよい。今回は失敗作だったのだ。
ではなぜそうしない。なぜその選択を拒む。
里見は政治家として、常に大局を見据えて行動することを生きる指標としてきた。個人的な感情より公共の福祉を優先させてきた。それがあるべき姿と確信していたからだ。いまさらそれに歯向かうことが果たして許されるのだろうか。
許される…?いったい誰に許されるのだろう。自分の生き方は自分で決めてきたはずなのに。
はやく。はやくしなければ。はやく特居の解体に取り掛かっているヒューマノイドのうちの一機に極秘指令を伝えなければ。はやく!
里見が意を決しかけたそのとき、内線電話が鳴り響いた。よほどのことが無い限り内線でコンタクトするのは禁じたはずだ。乱暴に受話器を取る。
「忙しいの。あとにしてくれるかしら」
里見はなるべく感情を表に出さないように答えた。
「お忙しいところ申し訳ございません。ですが、至急テレビをつけてください。どの局でも構いません」
「なんだっていうの?」
「ご覧になればわかりますから」
里見は受話器を持ったまま備え付けのテレビの電源を付けた。
そこに映し出されていたのは、まぎれもない過ぎし日の遺物、男の姿であった。だが里見が最も目を見張ったのは男の姿ではなく、画面下部に二つ設けられた別枠に映る、二人の少女のそれであった。
そこで眠らされていたのは、間違いなく鳴海と妙だったのだ。
* * *
「初めまして、みなさん。我々はここ、東京第八特別居住区の中央管理塔より各局のみなさま、そして東京の他の特居の同志たちにこの映像を届けております。
何のために?宣言と交渉のためです。
我々は怒っているのです。外の世界の勝手な都合により自分たちの生活の場所、生きた証を壊されるのが我慢ならないのです。理不尽です。冒涜です。
そこで我々はもう一度、男を滅ぼすこの潮流に抗うために決起しました。
我らの名は新黒志団。かつて不合理な力の下に潰えた黒き魂を現代に受け継がんとするものです」
画面の男は台本を読み上げるように淡々と宣言した。電話口からは上ずった声が聞
こえる。
「…つい先ほど、帝都テレビの方から出所の分からない怪電波に放送をジャックされた、との通報がありまして。そこに映っている男がこの映像を全国民、特に東京都知事牧野里見に見せるよう要求したそうです」
「それで、あなたはなんでそんな犯罪者の要求に答えるようなことをしているのかしら…?」
自分の声もいつになく震えているのが分かる。
「しかし、もうすでにこの映像は他の各局も追随して流しだしておりますし、複数の動画共有サイト上にもリアルタイムでアップロードされておりますのでさすがにお伝えしないわけには…」
「それならそのテレビ局に今すぐ放送をやめるよう勧告を出しなさい。ネットも方もね」
「しかしこんな面白いネタをマスコミがそう簡単に手放すでしょうか…」
「いいから形だけでも注意するのよ!何度も言わせないで」
里見は受話器を取った時以上に乱暴に電話を切った
全くここの役人は無能ばかりだ。こんな時は細川蓮の損失が悔やまれる。悔しいが彼女、いや彼の秘書としての才能は本物であった。もし彼に欠点があるとすれば、特居に生まれてしまったというただこの一点につきる。なんとも惜しい話だ。
(まさか…蓮、あなたなの?)
その可能性は考えられる。たしかに管理塔から放送電波を飛ばす技術は今のところあの塔を細かに調査した蓮以外にはなしえない。しかし、それならば彼の意図が理解できない。里見に対する復讐?いや、彼ならばこんな間抜けで虚栄的な放送などさせず静かに、確実に報復を返すであろう。それに妙と蓮をわざわざ画面に映す理由も不明だ。
そして画面のこの男…彼の目からは、革命家気取り特有の自信に満ちた狂気が一切感じられない。あるのは諦観と緊張のみである。もしこの茶番が蓮のシナリオなら、なぜこの男はそれに協力するのか。
「我々はまず手始めに都知事の娘、牧野鳴海および都知事秘書の妹、細川妙をここまで拉致し、二人を催眠ガスで眠らせました。そしてこの塔を占拠し、ここに眠る財産を我らが手中に収めました。人質の頭をご覧ください」
別枠の少女二人には、頭を覆うように不気味な装置が取り付けらええている。やはりそうだ。この件には明らかに蓮が関わっている。彼がいなければ《《あれ》》を引っ張り出してくるのは不可能だ。
「この装置は塔の地下より発見されたものです。おそらく拷問器具が何かでしょう。外の世界の奴らがここにきて、我々の仲間を犠牲にして勝手に作ったものです。この二人を嬲り殺すのに、これほど恰好な道具があるでしょうか
我々の一つ目の要求は都知事との話し合いです。いまから一時間以内に彼女自身の手でこちらへ連絡してください。秘匿コードは彼女が知っているでしょう」
そう言うと男は懐から手のひらに収まる大きさの押ボタンを二つ両手に取り出した。
「もし要求に応じなければ躊躇なくこのボタンを押します。何が起こるか楽しみですね」
違う。
あの装置は使用者の4ヶ月前後の表層的な記憶を消去させるだけで、生命や身体に危害を加える類のものではない。それを蓮が知らないはずは無く、そしてこの男も承知しているはずだ。
つまりかれらの目的は脅迫ではない。あの装置を『躊躇なく』使うことが目的だ。
(…なるほど、そういうことね)
里見の頭の中で糸が一本に結ばれた。
蓮が里見の逡巡まで計算に入れていたのだろうか?いや、入れてはいなかったはずだ。冷血の指導者を想定したはずだ。だからこれは彼女にとって賭けだったのだろう。こうすれば鳴海を、そして妙を害する理由がなくなると。この模様をマスコミに流したのは里見に妙なことをさせないための保証に違いない。
里見はこの賭けに感謝した。
「細川蓮、あなたはやっぱり優秀ね」
またしても内線電話が鳴り響く。
「知事…どうなさるおつもりですか?」
「どうするって決まっているでしょう。何もしないわよ」
「何もって…それじゃ娘さんは?妙ちゃんは??」
「馬鹿ね。こんな安い脅しに屈しているようじゃ日本国首都東京の名が廃るでしょう。代わりに警視庁の人たちにでも全て任せるわ」
「しかしいたずらに刺激しない方が…」
「今回のことは私に決定権があるはずよ。余計な口出ししないでくれるかしら」
そう言い放つと相手は押し黙ったので、里見は無言で内線電話を切った。
十分後、テレビの男が外部からの通信に応じた。無論里見のものではない。
「あなたは知事ですか」
「いえ、警視庁交渉係の者です。君たちと公平にお話しするために知事からこの秘匿コードを教えていただきました」
「そうですか」
男はそう言うと片手のボタンをためらいなく押した。妙の頭の装置が蛍光を発し、不愉快な唸り声を上げる。
「君っ、何を…!」
「都知事との直接の交渉。これが我々の要求です」
交渉係は男のあmりのためらいの無さに一瞬怖気づいたようだが、また平静に会話を続けた。さすがは交渉のプロだ。
「そうなのかい…しかし知事は何があろうと君たちと交渉するつもりはないらしいよ。どうするつもりだい」
男は無言で残った方のボタンに手をかけた。
(ありがとうね。蓮ちゃん)
その瞬間、里見は苦しみから解放されたのだった。
最終話
―その後、交渉人の地道な交渉により犯人たちは塔の入り口を開放。そこから警視庁特設機動隊が強硬突入し、見事人質を救出しました。…あ、今映っている映像がそれですね。この救出劇はちょうど一年経った今でも皆さまの記憶に新しいことでしょう。
―あの装置をなんの容赦もなく使ったとき、あれは驚きましたねぇ。
―そうですよね。後になって二人が無事だと分かったときはホッと胸をなでおろしたものです。
―しかしこの事件振り返ってみますと、やはり一番の驚愕は実行犯のうちの一人が現職の都知事秘書だった、ということでしょうかね。
―戸籍と性別を偽装して十年近く潜伏してたらしいですからねぇ。
―そして自らの妹を人質として利用したわけですから、全く恐ろしい話です。
―事件から半年後に傷心癒しきれぬ細川妙さんが涙ながらの謝罪会見を開いたときは、非難よりも擁護の声が圧倒的に多かったですね。
―そうですね、まああの子は被害者ですからね。しかし現在も犯人二人に対する公判が続いているわけですが、いまだ彼らからは反省の声を聞くことはなく、その偏った過激思想を唱えるばかりで…
そこまで観たあたりで妙はチャンネルを『日曜討論』から変え、しばらくザッピングした後テレビの電源を消した。
「面白いのやってないね」
「たーちゃん…」
鳴海は何かを言おうとするが、すぐさま妙に制止された。
「そんな目で見ないでよ。確かにあの人は裏切者で、私の心も裏切られたよ。あんな奴をお姉ちゃんって呼んでた自分が恥ずかしいよ。だけどもう今の私にはどうでもいいことだよ。だって…」
妙はソファに腰かける鳴海の隣に座りこみ、彼女にほほ笑みかけた。
「だってなるちゃんとこうして一緒にいられるんだもん。それだけで、私はもう幸せだよ。私を引き取ってくれた里美さんにも感謝しないとね」
そうじゃない。そうじゃないんだよ、たーちゃん。
悪役になったのも、た―ちゃんの記憶を《《本当に》》消したのも、たーちゃんがつらい思いをしないため、お姉ちゃんがいなくなっても生きていけるようにするためなんだよ。
そんな蓮さんの思いを伝えたくても、鳴海にはそれができない。なんという歯がゆさだろう。これもすべてあの男のせいだ。
* * *
あの日、特居の中央管理塔で催眠ガスを受けた鳴海が意識を取り戻したとき、周りの景色は薄くぼやけていた。意識も明瞭ではない。なんとなく人の気配がしたが、すぐにその気配も消えてしまった。
(眼鏡、どこか行ったのかな)
脇にある机らしきものの上を手探って眼鏡を取り、目に掛ける。どうやらここはどこかの施設の一室のようだ。周りには誰もいない。額には何かの感触が強く残っている気がする。
先ほどの机を見ると、そこには見慣れない奇妙な装置が鎮座しており、そのわきに一枚の紙が置かれていた。
(手紙…?)
そこにはお世辞にもうまいとは言えない乱雑な字で、鳴海と妙が眠らされてからの成り行き、そしてコウスケと蓮がこれから行うことについてつらつらと書き連ねられていた。
『あの男、細川蓮は妹の記憶を消そうとしている。たしかにそれが一番の選択で、現状でそれ以上はないと思う。
だが、俺がこの計画を聞いたとき、真っ先に頭に浮かんだのはただ一つ。
鳴海に、お前に忘れられたくない。
ただこれだけだった。
もしこれを使えばお前は俺のことを…俺と会って、俺と話して、俺とともに歩き回った、あの何でもないような時をすべて忘れることになる。それを理解したとたん、俺はこれまで感じたことのないポッカリした何かを感じた。もしお前と会わなければこんな感覚を味わうことはなかった。
ありがとう。
そして、すまない。
俺はお前の中でずっと生き続けていたい。たとえそのせいでお前が苦しむようになるとしてもだ…いや、むしろお前を苦しめたい。
もとはといえば全ての元凶はお前なんだ。これぐらいの身勝手は許せ
…まあ、そういうわけだ。これを読んだらさっさと破り捨てて、机の上の帽子をかぶって寝たふりだ。覚醒状態ならあんたの記憶が消えることはない。
さらばだな』
* * *
「なるちゃん、どうしたの?」
気づけば妙が心配そうに顔を覗き込んでいた。よっぽどひどい顔をしていたのだろう。
「ちょっと、思い出しててね…」
「そっか」
妙はそう呟くとソファから腰を上げ、鳴海の頭を胸に抱きこんだ。そして額に彼女の唇を合わせた。
「大丈夫、大丈夫だよ、なるちゃん。これからはずっとずっと私が傍にいるから…ね?」
妙は鳴海の頭を優しくなでた。
鳴海は泣いた。
妙の胸の中でひたすらに泣き続けた。
それが誰に対する涙なのか、何に対する涙なのか。彼女にはもう分からなくなっていた。
* * *
さて、以上で鳴海たちの短い物語はすべて幕を下ろした。
これ以降の文は単なる蛇足だ。読んでもいいし読まなくても大した支障はない。
じつはこの事件から一世紀ほど経ったころ、T大学の研究チームによってある興味深い試みがなされたのである。その試みというのは、例の記憶消去装置を現代に再現させる、というものであった。
チームは極秘指定解除されたばかりの設計図や例の事件の映像を参考に見事その装置を復活させ、政府の特別な認可のもとこれを使用した実験にとりかかった。
実験の目的は、本当に記憶が完全に消去されるのかを検証するためである。というのも、現代脳科学の見地から設計図を詳しく分析した結果、この装置で記憶が《《完全に》》消さるとは限らないことが分かったからだ。
実験の結果はこの予想を裏付けた。
確かに装置を使用した直後から数週間の間、被験者たちは数ヶ月分の記憶を失っていた…いや、《《記憶の取り出し方を忘れていた》》。
だがしばらくすると彼らは次第に記憶の取り出し方を思い出していき、早いもので三ヶ月、遅くても半年経ったころには失った分の記憶を完全に回復していた、というのだ。
人類というのは誠に奥が深い!みなさんもそうは思わないだろうか?
Gender Lost